宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  追 加 3  Back   Next 
二祖・寺尾孫之丞信正、三祖・柴任三左衛門美矩に続き、こんどは四祖・吉田太郎右衛門実連〔さねつら〕の事跡を記す。立花峯均は、この吉田実連から一流相伝した五代目である。吉田実連とは長期にわたる師弟関係があり、そのため記事も多く具体的である。
 以下は、四祖・吉田太郎右衛門実連の記事読解である。他の史料、吉田家伝録なども参照しつつ、丹治峯均筆記の記事を読む。むろん、武蔵門流研究史において、吉田実連の研究はこれまで存在しなかった。それゆえこのページは、吉田実連研究のまさに嚆矢となるものである。
 またこの武蔵サイトの[サイト篇]姫路のページで、播州における吉田実連の事蹟紹介が、すでに平成十六年以来公表されている。それも合わせて参照されたい。前ページと同じく、二祖・寺尾孫之丞、三祖・柴任美矩については、下記の名をクリックすれば、当該ページへスキップできる。



 
  追加3 四祖吉田太郎右衛門實連
一 同四祖、吉田太郎右衛門實連ハ、直方ノ産也。[壯名忠左衛門ト号ス](1)
 寛永十五年二月廿二日、肥州原ノ城ニ於テ、親太郎右衛門戰死ス。實連此時孕也(2)。市正高政公ヨリ、實連姉ニ婿養子被仰付、貳百石之家督相續セリ。吉田五太夫祖父也。親太郎右衛門ハ、直方ニテ足輕頭ヲ勤ム。其後、實連長ナリ、後ノ市正之勝公ノ御時、御近習ヲ相勤。(3)
 實連十八歳ノ時、於東府柴任美矩ニ會シ、師弟ノ約諾アリ。[美矩未浪人ノ内也] 三度目出會ノ時、美矩申サク、「吾兵法ハ、師弟ノ縁サヘ無断絶バ、夫ヘ相傳可致」ト也。
 其後、柴任此御家ヘ相勤トイヘ共、福岡直方隔ル故、度々ノ参會成難シ。殊ニ其比、之勝公御側ニ、牧平兵衛ト云者出頭シテ、直方ノ諸士福岡ニ出ル事ヲ制ス。漸一年ニ一兩度ナラデハ、師弟打合テノ稽古ハ無リシト也。
 愚父重種、實連ガ兵法、其器ニ當レル事ヲ聞テ、光之公ヘ申上、福岡ヘ被召出、御小姓ニ被召仕。無程、新知二百石被下之、御目附トナレリ。其節ハ柴任御國ヲ退出セリ。
 實連、長崎ノ御目付久々勤之、其後、一倍ノ御加恩ニテ、江戸御留守居被仰付、東府ヘ參掛、明石ヘ立寄、柴任出會、一流相傳アリ。是延寶八年庚申四月廿二日也。兼テノ目利ニ違ハズ、一流成就セシ事、美矩後迄モ自賛セラレシト*也。
 重種ヨリ、打太刀ノ為、田原六之進、皆田藤助ヲ差添遣ス。實連ハ直ニ東府ヘ相越シ、打太刀兩人ハ明石ヨリ罷下ル。實連兵法一式、重種ガ高恩ノ由、平日物語ナリ。
 師ヘ隨仕無之、偏ニ獨歩也。二十六年ノ功ヲ積ンデ成就セリ。(4)

 小兵ナレ共骨大〔フト〕ク、力量人ニ越ヘ、壯ンナル時ハ、米二俵ヲ左右ノ足ニアシダノ如クハキテ、二刀ノ表ヲ自由ニ使ヘリ。腕押ハ、其比角力ノ内ニテ大力ト云レシ荒獅子新五右衛門、重種ガ角力・十五夜團兵衛等モ、實連ニハ不及。
 牧彌五兵衛ハ、直方ノ士タリ。大兵力量アル由、重種聞及、光之公達御聴、福岡ヘ被召呼、御側陸士*ニ召ツカハル。ハテ、御供回リ小勢、就中御乘物先ヘハ纔四人被召連事故、萬一狼籍者等有之時ノ為、力量アル士ヲ被為撰、召連ラレ可然旨、光之公綱政公ヘ、重種兼々申上、尤ノ由、御兩公御許容アリシ也。
 彌五兵衛モ右ノ思召ニテ、福岡ヘ召出サル。實連門弟タルノ由被聞召、人品御覧ノ為、旁於御前兵法御覧ナサル。
 其前、實連所ヘ入來セリ。傳来ノ薙刀ニ、青銅一貫文掛、石突ヲ片手ニテ摑ンデ、彌五兵衛三度ヲコセリ。實連ハ十六度迄ヲコス。
 如此ノ大力ノ上ニ*、兵法至極ノ器用、數年ノ工夫鍛練、寔ニ武州公ノ再誕共謂ツベシ。正直正路ニテ一筋ナル生質ナリ。愚父重種ニ對シ、心指ノ一事モ有リシカド、此書ニハ漏シヌ。(5)

 實連、江戸在勤ノ内、伊勢守長清公[其比ハ未ダ二ノ*御部屋ニテ被成御坐。櫻田御屋敷隅ノ御部屋タリ]、兵法御覧被成。打太刀ハ花房源内[實連婿]、皆田藤助[御陸士]、右兩人罷出ル。
 表等御覧ノ上、實連ガ試闘ハ御遠慮被成、源内、藤助ニ試闘可致由仰事アリ。實連、申上ルハ、「兩人共ニ未熟ナリ。若御近習衆怪我有之テハ、如何ナリ。自分ニ仕リ御覧ニ備可申」ト御請申、數本試闘仕ル。
 御傍ノ面々、タレカレ立替リ/\打之。長清公、「二刀ハ當ラヌ者也」ト被仰。實連御請ニ、「二刀ニハ限リ不申」由ヲ申上。小太刀ニテ致シ、其後ハ無刀ニテ數本致ストイヘ共、一本モ不當、長清公、御セキ被成、御座ヲ立セラレ*、「ヤレ打候ヘ」ト御聲ヲ掛ラレシカド、一人トシテ打當テタル人ナシ。
 長清公ハ、柳生流ヲ專御稽古被成。御打太刀ノ面々ハ不被差出、小暗キ所ニ被召置シトカヤ。實連申上ルハ、「夫ヘ居ラルヽ衆中、誰ニテモ御打セナサレ候ヘ」ト申上シヲ、御師範分ノ衆、又ハ御打太刀ノ面々ニ對シ申タル様ニ思召、其後ハ當流ヲ御心ヨクハ不被思召ト也。
 然レ共、流義ヲヨキト御思慮アリシニヤ、直方ヲ御領知被成後年ニ至テハ、早川瀬兵衛[實連甥]、其外二刀一流ノ面々、折々御覧被成シ也。(6)

 又或時、御國自分ノ宅ニテ、小河半藏ト試闘アリ。半藏ハ無二流ノ二刀也。常ニモ實連所ヘ入來ス。
 實連家頼ニ何ノ藤兵衛ト云者アリ。半藏ト試闘ス。半藏二刀ノ時ハ勝。藤兵衛モ二刀ニナレバ勝。
 實連ガ云ク、「何レモ二刀ニテハ勝、一刀ニテハ負ル。二刀一刀差別ナキ物也。自分ニ可致」トテ、小太刀ニテ立合ル。半藏ハ二刀也。數本ノ内、一本モ不當。半藏、甚セキテ強ク打所ヲ、小太刀ニテ入込、身ニテ*當ル。座敷ノ壁ヲ打貫、半藏倒ル。
 其比迄ハ、予、未稽古セズ。此試闘ヲ見ズトイヘ共、打貫タル壁ハ、後迄モ押ハメ繕ヒテ有シ故、見シ也。
 ケ様ノ事、マヽ有シカド、書載ベキ程ノ事ニテモナク、モラシヌ。
 半藏ハ、無二流免許ノ人也。(7)

 實連、兵法ハ右ニ云ガ如シ。能筆、能畫、細工モ能セリ。墨繪ノ竹、東坡ガ跡ヲヽエリ。狩野友元、平日ノ友ニテ、東坡翁ト稱セリ。印石ニ朱印判ヲ彫刻スル事ヲ能セリ。綱政公御繪ノ朱印判、數多仰付ラル。御部屋住以来、御懇情ニテ毎々於御前、竹ノ繪、御書セ被成、御稱美アリ。(8)

 致仕ノ節モ、御次ニテ被仰渡、父子御前ヘ召テ御懇ノ御意有テ、先暫クハ剃髪ヲモ不仕、其儘ニテ罷有ベキ由ヲ被仰聞、予、則披露セリ。其後薙髪シテ利翁ト號ス。致仕後モ數度被為召、其度々、予、是ヲ奉リツケリ。老君光之公モ、利翁生涯御懇也。
 寶永六年己丑十一月三日、七十二歳、病テ家ニ卒ス。一空齋白室利翁居士ト号ス。聖福禅寺ニ葬ル。柴任門人數百人之内、一流傳授、利翁一人也。
 息忠左衛門、家督相續、不幸ニシテ利翁ニ先立、廿一歳ニテ、宝永元年甲申十一月七日卒ス。黒田八右衛門弟、白國兵右衛門、婿養子ニ被仰付、家督相續セリ。女子二人アリ。一人ハ花房源内離別後、他ヘ不嫁シテ家ニアリシヲ、兵右衛門ニ娶ス。二女ハ奥山茂右衛門ニ嫁ス。利翁妻ハ、大村六郎ガ叔母ナリ。(9)
一 同四祖、吉田太郎右衛門実連は、(筑前国鞍手郡)直方の産である。[壮年時、名は忠左衛門と号す]
 寛永十五年(1638)二月二十二日、肥前原城(島原役)において親の太郎右衛門が戦死した。実連はこの時胎内であった。(そのため、黒田)市正〔いちのかみ〕高政公〔東蓮寺初代藩主〕より、実連の姉に婿養子を仰せつけられ、(姉聟が)二百石の家督を相続した。吉田五太夫*の祖父である。(実連の)親・太郎右衛門は、直方で足軽頭を勤めた。その後、実連が成人して、後の市正(黒田)之勝公の時、御近習を勤めた。
 実連十八歳の時、東府〔江戸〕で柴任美矩と会い、師弟の約諾があった[美矩がまだ浪人中のことである]。三度目に会ったとき、(柴任)美矩が言うには、「我が兵法は、師弟の縁さえ断絶しなければ、お前に相伝しよう」ということであった。
 その後、柴任がこの御家〔黒田家〕ヘ勤仕するようになったが、とはいえ、福岡と直方とは距離があるから、頻繁な参会はできない。ことにその頃、之勝公の側には牧平兵衛という者がいて、出世して権力をふるい、直方の諸士が福岡に出る事を制限していた。(そのため)師弟打合う稽古は、一年に一回か二回がやっとのことで、それ以上はできなかったのである。
 私の父(立花)重種は、実連の兵法が、その器に相当する事を聞いて、(黒田)光之公ヘ申上げ、(光之公は実連を)福岡ヘ召し出され、御小姓に召仕われた。ほどなく、さらに新知二百石を下され、御目附となった。ところがその時は、柴任が御国〔筑前〕を退出してしまっていたのである。
 実連は、長崎の御目付を長く勤め、その後一倍の加増があって、江戸御留守居〔江戸詰勤務〕を仰せつけられた。東府〔江戸〕へ参る途中、明石ヘ立寄り、柴任に会い、一流相伝があった。これは、延宝八年(1680)四月二十二日のことである。かねてからの目利きに違わず、(実連が)一流成就したことを、美矩は後々までも(我が眼に狂いはなかったと)自賛されたということである。
 (この相伝のとき、峯均父立花)重種から、(実連の)打太刀のため、田原六之進と皆田藤助を差添えて(明石へ)派遣した。実連は(相伝後)直ちに東府ヘ行き、打太刀の両人は明石から(福岡へ)戻った。実連の兵法はすべて重種の高恩によるとは、(実連が)いつも語っていたことである。
 師(柴任美矩)へ隨仕することがなかったので、(実連の兵法は)ひとえに独歩である。二十六年の功を積んで(一流を)成就したのである。

 (実連は)小兵ではあったが骨太く、力量は人にまさり、壮んなる時は、米二俵を左右の足に足駄のようにして履いて、二刀の表〔基本型〕を自由に使った。腕押し〔腕相撲〕は、そのころ相撲取りのなかでも大力と云われた荒獅子新五右衛門、重種(お抱え)の力士・十五夜団兵衛〔じゅうごや・だんべえ〕なども、実連には及ばなかった。
 牧弥五兵衛は、直方の武士であった。大兵で力量ある由、(峯均父)重種が聞き及んで、光之公のお耳に達し、福岡ヘ召し出されて御側陸士〔側近の歩兵〕に召しつかわれた。(光之公の)供回りはたいてい小人数で、なかでも乗物先へはわずか四人だけ召連れられるということなので、「万一狼籍者などがある時のため、大力の武士を選抜されて召連れられるがよろしい」と、光之公・綱政公へ、重種がかねがね申し上げて、それはよいことだと、両公のご許容があったのである。
 弥五兵衛も、こうした思し召しで、福岡へ召し出された。(弥五兵衛が)実連の門弟だということをお聞きになり、人品御覧のためもあって、御前で(弥五兵衛の)兵法を御覧なされた。
 それより前のこと、(弥五兵衛が)実連の所へやって来た。伝来の薙刀に青銅一貫文を懸け、石突を片手でつかんで、三回起した。(ところが)実連は十六回も起したのである。
 (実連は)このような大力の上、兵法に究極の才能があり、多年の工夫鍛錬、まことに武州公の再誕ともいうべきであった。(実連は)正直で、曲がったことの嫌いな、真っ直ぐな性格である。私の父重種に対し、心指〔報謝〕の一件もあったけれど、この書にはその事は記さない。

 実連が江戸在勤中、(黒田)伊勢守長清公[その頃はまだ二の御部屋におられた。桜田御屋敷隅の御部屋である]、(実連の)兵法をご覧になられた。打太刀は、花房源内[実連の婿]、皆田藤助[御陸士]、この両人が出てつとめた。
 表〔型〕などご覧なさった上で、実連の試合は遠慮なされ、源内と藤助に(近習の者らと)試合せよとの仰せがあった。(そこで)実連が申し上げるに、「両人ともに未熟ございます。もし御近習衆に怪我があってはと心配です。自分がやってご覧にいれましょう」と、(自分が試合を)引き受けて、数本試合をなされた。
 近習の面々、誰彼と入れ替わり立ち替り打つ。長清公は、「二刀は当たらぬものだな」と仰せられる。実連はそれにこたえて、「二刀には限りません」と申上げる。(実連は)小太刀で行い、またその後は無刀で数本立合ったが、それでも一本も当たらなかった。長清公は、興奮なさって御座をお立ちになり、「やれ、打て」と声をかけられたけれど、一人として打ち当てる人はなかった。
 長清公は、もっぱら柳生流を稽古なされていた。(しかし柳生流の)打太刀の面々は出場させず、小暗き所に召し置かれたとか。実連が申し上げるに、「そこへ居られる方々、だれでもお打たせなされ」。そう申し上げたのが、(長清公の)師範役の衆または打太刀の面々に対して申したように思われて、その後は、当流〔二刀一流〕を心よく思われなくなったとのことである。
 しかしながら、(我々の)流義をよいとご思慮あったのか、直方を領知なさった後年になって、早川瀬兵衛(実連の甥、実寛)、そのほか二刀一流の面々を、折々(召出され、兵法を)御覧になられたのである。

 またある時、(実連は)御国〔筑前〕の自分の家で、小河半蔵と試合をした。半蔵は無二流の二刀である。(半蔵は)いつも実連の所へやって来ていた。
 実連の家来に何の藤兵衛〔姓を略す〕という者があり、半蔵と試合をした。半蔵は二刀の時は勝った。藤兵衛も二刀になれば勝つ。
 実連が云う、「どちらも二刀では勝つ。一刀では負ける。(だが本来は)二刀一刀、差別なきものである。私を相手にやってみろ」と、小太刀で立合われた。半蔵は二刀である。数本の内、一本も当たらず。半蔵がひどく焦って強打するところを、(実連が)小太刀で入込み、体当たりした。座敷の壁をぶち貫き、半蔵は倒れた。
 そのころまでは、私はまだ(幼くて兵法の)稽古はしていなかった。この試合を見なかったとはいえ、打抜かれた壁は、(板を)押し嵌め修繕して、後までも残っていたので、(私はそれを)見たことがある。
 このようなことは、時々あったけれど、書き載せるべきほどの事でもないので、書き漏らした。
 半蔵は、無二流免許の人である。

 実連の兵法は、以上に言うとおりである。(実連は)能筆、能画で、細工も上手であった。(実連の)墨絵の竹は、東坡〔蘇東坡〕の跡を追ったものである。狩野友元は日頃の友人で、(実連を)東坡翁と称賛した。(実連は)印石に朱印判を彫刻するのが巧みであった。綱政公は御絵の朱印判を(実連に)数多く仰せつけられた。(綱政公が)部屋住みの頃から親しくなされ、いつも御前で(実連に)竹の絵をお書せになり、ご称美された。

 (実連の)致仕のおりも、御次〔次の間〕で仰せ渡され、父子とも御前へ召して懇ろなお言葉があって、(実連は)まずしばらくは剃髪はせず、そのままにしておくように、と仰せ聞かされた。それを聞いて、私はすぐに(人に)披露したものだ。(実連は)その後薙髪〔剃髪〕して利翁と号した。致仕後も何回もお召しになり、その度ごとに、私はこれを奉仕したものである。老君光之公も、利翁には生涯懇意になされた。
 (吉田実連は)宝永六年(1709)十一月三日、七十二歳、病んで自宅で亡くなった。一空齋白室利翁居士と号す。聖福禅寺に葬る。柴任門人数百人の内、一流伝授は利翁一人である。
 息子の忠左衛門が家督を相続したが、不幸にして利翁(実連)に先立ち、二十一歳で、宝永元年(1704)十一月七日に亡くなった。黒田八右衛門弟の白国兵右衛門が、婿養子に仰せつけられ、家督を相続した。(実連には)女子二人あり。一人は花房源内離別後、他家へ嫁がずに家にいたのを、兵右衛門に娶らせたのである。二女は奥山茂右衛門へ嫁した。利翁の妻は、大村六郎の叔母である。

  【評 注】
 
 (1)吉田太郎右衛門實連
 吉田太郎右衛門実連は、直方の産である、という。直方というのは、筑前国鞍手郡直方(現・福岡県直方市)のことだが、こういう書き方は、立花峯均のエクリチュールのポジションを示す。
 他国の者には直方といってもピンと来ないケースもあろうが、峯均は筑前の人だから、直方と云ってしまえば、それで十分なのである。本書の読者も筑前黒田家中の人が想定されている。語りの環境はいわば局地的で、筑前ローカルである。この条件を勘定に入れて、記事を読む必要がある。
 さて、吉田実連は直方の産である、という一文には、当然記述の背景があって、ここではその背景が省略されている。それゆえ、吉田実連は直方の産である、という一文の背後にあるものを引っ張り出さねばならない。ようするに、吉田実連は直方の産であると記す、『峯均筆記』の暗黙の条件と背景はどういうものなのか、ということである。
 吉田実連は筑前直方で生まれた。どうして、直方なのか。まず云えば、直方には福岡黒田家の分家があった。これは、黒田長政(1568〜1623)の遺言で新設された分家領である。長政は京都で亡くなったが、そのとき小河内蔵允と栗山大膳が遺言を聞かされ、一巻の書を託された。
 すなわち、長政は嫡男・忠之(1602〜54)に家督相続させるのだが、同時に、三男の長興(1610〜65)に五万石を分知して夜須郡秋月に分家を立てさせ、四男の高政(1612〜39)には四万石を分知して鞍手郡東蓮寺に分家を興させた。ようするに、この九万石の分知が黒田家存続の担保、長政は忠之を信用していなかったらしい。これが元和九年(1623)のこと。
 黒田家の所領を分けて支藩を興すのだから、家臣もそれに附属させて配置することになる。鞍手郡東蓮寺へ行く高政に付けられたのが、吉田七左衛門重成(1571〜1638)である。重成はそれまで二千石取りだったが、このとき鞍手郡に所換えで知行倍増されて四千石、四万石の高政に輔佐として附属された家老であった。本宅は福岡においたままの赴任である。父の長利は隠居していたが、この年亡くなった。
 このとき、同じく高政に附属され福岡から東蓮寺へ赴任した黒田家家臣に、吉田太郎右衛門利貞(1595〜1638)という武士がいた。吉田七左衛門重成の親族(従弟)で、采地二百石の鉄砲頭(銃頭)であった。この人が、我々の吉田実連の父親である。
 さて、吉田実連、生年は寛永十五年(1638)である。このとき、父の太郎右衛門利貞は東蓮寺から、島原戦役に出陣している最中、実連は留守中に生まれたのである。もちろん、父の利貞がすでに福岡から鞍手郡へ移った後だから、実連が直方産だという『丹治峯均筆記』の記事は、ほぼ正しい。
 このように「ほぼ」正しいというのには、理由がある。一つは、当時、「東蓮寺」とは云っても、「直方」という地名はまだなかった。それに、実連の父の住所は、東蓮寺(直方)の外にあった。
 『吉田家伝録』によれば、吉田七左衛門重成は鞍手郡中山村に居住した。太郎右衛門利貞の住所は、西隣の新北〔にぎた〕村、現在の福岡県鞍手郡鞍手町新北がそれである。東蓮寺(直方)からは北西に二里ばかり離れている。したがって、厳密に言えば、吉田実連の産地は東蓮寺だという『吉田家伝録』の記事でもなく、ましてや『丹治峯均筆記』のいう直方ではなく、利貞の住んだ鞍手郡新北村としなければなるまい。それゆえ、実連の産地を現在の直方に比定するのは、妥当とはいえない。それがここでのチェックポイントである。
 東蓮寺は直方の前名であり、三代領主長寛(のち綱政)の時に「直方」と改めたのであった。『丹治峯均筆記』が「直方」と記すのはそのためである。『吉田家伝録』の方は正確に当時の地名「東蓮寺」を用いている。
 直方黒田家のその後をみれば、当主・長寛は、兄綱之の廃嫡により本家の後嗣となり、名も綱政と改めた。無主となる直方領は本家に戻した。このため直方藩は一時廃止されるも、綱政弟の長清を領主として、こんどは領知五万石で再興された。享保五年(1720)長清が死ぬと、直方領は廃され、本家の黒田家の領分に併合された。というのも、長清の子・継高は、福岡城主五代・宣政の養子となって本家を嗣ぎ、また一方、長清に他に嗣子なく、黒田家は直方分領を廃止したのである。秋月黒田家の方は、長興以後連綿として存続したが、この直方黒田家はまことに本家存続の保険として機能したのである。





九州関係地図・直方



*【黒田家略系図】

○┬官兵衛孝高―長政┬忠之 福岡
 |        |
 ├兵庫助利高   ├長興 秋月
 |        |
 ├修理亮利則   └高政 東蓮寺
 |
 └図書助直之






東蓮寺(直方)と新北村



*【黒田家略系図・続】

官兵衛孝高―┐
 ┌―――――┘
 └長政┬忠之―┬光之―┐
    |   |   |
    ├長興 └之勝 |
    | 秋月  東蓮寺
    └高政     |
     東蓮寺    |
 ┌――――――――――┘
 ├綱之 廃嫡
 |
 |初東蓮寺
 ├長寛―┬吉之
 |後綱政└宣政=継高―重成
 |        ↑
 └長清―――――継高
   直方

 ところで、吉田実連の父・太郎右衛門利貞は、黒田高政に附属されて福岡から東蓮寺(直方)へ移ってきたのだが、そもそもこの筑前吉田家一統の出自とはいかなるものなのか。
 上にチラリと名を出したが、吉田七左衛門の父親は、六郎太夫長利(1547〜1623)、かの吉田壱岐として有名な黒田二十四騎の一人である。実連の祖父・六郎左衛門利昌は六郎太夫の弟である。つまり吉田壱岐長利は、実連の父親・利貞には伯父であり、実連にとっては、大伯父にあたる人である。
 それゆえ、黒田家中の多くの人々と同様、吉田一族も本国は播磨で、黒田勢の九州移転とともに、播磨から九州へやってきた人々である。黒田二十四騎の吉田六郎太夫長利やその子重成と同じく、その弟六郎左衛門利昌は播磨生れである。ただし、実連の父・利貞は文禄四年(1595)生れだから、黒田家が播磨から九州豊前へ来て後の生れで、それゆえ中津産であろう。
 宮本武蔵は生国播磨、『播磨鑑』によれば揖東郡宮本村の産であるが、では、吉田長利・利昌ら兄弟は播磨のどこで生まれたのか。あるいは、彼らの父はいかなる人か。つまり、吉田実連のルーツ、先祖はいかなる人であるのか。
 これについては黒田家譜他史料はあるが、吉田壱岐長利子孫の吉田治年による『吉田家伝録』(享保十八年)が最も調査考証が行き届いている。それゆえ、しばらくそれに依拠して話を進めてみよう。
 長利や利昌の父は、八代六郎左衛門道慶である。この「八代」は、肥後の例のように「やつしろ」と読むのでなく、「やしろ」と読む。道慶は入道後の法号であるが、俗名も道慶〔みちよし〕と称したらしい。八代道慶は、播州姫路城の北、飾東郡八代村に采地をもちそこを本拠としていた。したがって、吉田家のルーツは、播磨国飾東郡八代村と特定しうる。当地は現在、姫路市八代に地名を残す。
 八代六郎左衛門道慶まで行き着いたところで、道慶以前はどうかというに、当初は九州末孫には先祖のことは不明であった。十八世紀前期の享保年中に、子孫である吉田治年・栄年〔まさとし〕父子が、探査に乗り出した。ちなみに、治年(1659〜1739)は五千石の黒田家中老、子の栄年(1685〜1761)は同じく中老で、五千石に二千石回復されて都合七千石。享保十一年(1726)、栄年の調査依頼を受けた、姫路の心光寺の僧侶・郭誉が、「播陽ノ旧記」を抜書きして吉田栄年に送付した。
 その新情報によれば、八代内蔵允道重が八代村に采地を有し、その弟・八代藤三郎道嵩〔みちたけ〕が、置塩下町に居住し、八代村に二百貫の采地を有した。道嵩の子が八代六郎左衛門道慶で、小寺氏に附従して、天正年中八代村萱原というところに居を構え、八代村に采地四百貫。――こうして、道慶の先も、子孫に知れた。八代氏の姓名は飾東郡八代村に由来するのである。
 ところで、心光寺郭誉提供の史料断片をみるに、いささか不明な部分もあるが、順次検討してみよう。まずは、八代内蔵允道重がさしあたりの吉田家始祖なのだが、この人は白国氏を妻にしたらしい。八代と白国は近い。近隣土豪同士の縁組であるようだが、内蔵允道重は、勢力のある白国氏の、その聟になって出世した、八代村に領地を得た、ということかもしれない。
 内蔵允道重が姫路城主に附従したという、その姫路城主とは、年代からして、小寺氏のことであろう。小寺氏は、古くから赤松家の家老の家で、当時は、政隆・則職の時代である。戦国の世のならいとて、下克上の最中、属臣らが勢力を伸張する一方で、播磨・備前・美作三国守護職である置塩城の赤松宗家は弱体化した。とりわけ備前の浦上氏の抬頭顕著で、双方の間で合戦が生じた。そればかりか、播磨の内部でも、龍野赤松氏、宍粟郡の宇野氏、三木別所氏、それにこの飾東郡の小寺氏が、相互に合戦と野合を繰り返し、渾沌とした戦国期内乱の様相を呈していた。
 そのような中で、内蔵允道重が、姫路城の小寺氏に属し、すぐ北の八代村に領地を得たというのは、ありうる状況である。ただし、道重が拠ったという「餝東郡出水構」なる構居の場所は不明である。
 道重の弟に藤三郎道嵩という人があり、最初、重門という名であったが、姓名判断(帰納)してみると良くないので、主人小寺氏から道嵩と命名されたという話。となると、この弟も小寺氏に属していたことになる。小寺氏はいちおう赤松家臣であるから、赤松>小寺>八代と、小寺氏に属す八代氏は、赤松氏の陪臣ということになる。
 道嵩は兄と同じく、八代村に采地二百貫。貫というのは、石高以前の中世的尺度で、地域時代によって異なるが、このケースでは一貫=一石という換算らしいから、要するに、後世の二百石ほどの知行取りであったということである。
 ところが、置塩下町に居を構える、という記事をみれば、これは赤松宗家の置塩の城下に屋敷があったということで、すると道嵩は、赤松直臣になったもののようである。しかしながら、小寺氏から証人(人質)に出された可能性もあるので、置塩下町に居を構えたというだけでは、赤松直臣になったとも云えない。母石原民部女、名藤波とある部分については不詳。
 そして、藤三郎道嵩の子が、八代六郎左衛門道慶である。これも小寺氏に附従したとあって、八代萱原構居ということで、構居の場所が知れる。この武蔵サイトで毎度引用されている播磨の地元史料『播磨鑑』によれば、「柴崎山構居」という見出しがあって、その下に、八代の構居は萱原の地也、国衙庄、と註記があり、領主は八代六郎左衛門道慶とし、さらに、この城は大永の頃からあり、道慶は天正の頃で、古書に構とあり、というのは八代構と云ったことを指す。千貫ほどの領地で、黒田の幕下なり、と記す。
 ここで、柴崎山構居=八代萱原構居と知れる。また『播磨鑑』によれば、大永二年(1522)八月、姫路執人・八代構の八代六郎左衛門道慶が大歳神社で、「國中ノ祈祷」をしたという。これは旱魃か何かで臨時の清祓を行ったということか。この大歳神社は、八代山南麓に現存している(現・姫路市八代宮前町)。
 さらに云えば、『播磨鑑』のこの記事において、八代道慶は「姫路執人」とある。これは小寺家の、姫路城代家老というよりも、姫路代官という程度の意味である。そして「八代構の八代六郎左衛門道慶」とするように、その根拠地構居は八代構である。
 ただし、『播磨鑑』の採取した記録によっても知れるように、八代道慶は大永年間と天正年間の両度登場する。こうなると、地元でも十八世紀には道慶の事蹟が混乱していたと知れる。九州吉田氏末孫の得た史料でも、このあたりは不明である。道慶は半世紀以上も現役であったか、もしくは同一人ではなく、少なくとも父子二代襲名したとみなすほかない。しかしながら、ここにある「千貫ほどの領地で、黒田の幕下なり」というのは八代道慶のことではなく、つまりは、彼の息子の吉田壱岐長利のことであろう。年齢を照合するに、たとえば、秀吉播磨制圧の最中の天正六年、長利は三十二歳であり、すでに歴戦の勇士であった。
 ともあれ、『播磨鑑』に八代道慶は「姫路執人」とあるように、享禄四年(1532)から姫路城を預かった。その後、小寺則職が目代となり、次に永禄七年(1564)には小寺則職の嫡子・職隆がこの城を預かった。さらに小寺職隆の猶子(養子)官兵衛孝隆がこれを継いだ。
 ここから知れるのは、要するに、小寺則職の以前、姫路城主は、八代道慶だったということである。ただし、これもあまり慥かな話ではない。それに第一、吉田壱岐長利の父であるのに、九州吉田氏末孫には、八代道慶の墓所も歿年月日も、そして戒名すらもついに不明なのである。
 それでも、吉田氏末孫にとって確かな遺跡が一つだけあった。それは、八代村にある大歳神社である。吉田治年はすでに引退していたから、当主は栄年。彼は、享保十年暮に江戸参府の帰途、姫路に立ち寄り、八代村へ行って産土〔うぶすな〕神を聞き合わせたのである。
 吉田長利が八代村で生まれたなら、その産土神は、吉田氏の氏神である。栄年が村の古老に尋ねると、この地の大歳大明神であると教えられた。かくして、これを氏神として九州へ勧進することにした。享保十一年夏、その立山(拝領の山地)の表糟屋郡柳ガ原の地に、大歳神を勧進したのである。
 筑前吉田氏本家、当主の栄年の采地七千石のうち、表糟屋郡は久原村と蒲田村、現在の福岡県糟屋郡久山町久原から福岡市東区蒲田にわたる地域である。そして、「表糟屋郡柳ガ原」とあるのは、現在の福岡県糟屋郡久山町久原、その奥の犬鳴山の南に柳原という所がある。これが大歳神勧進の地であろう。
 八代道慶の伝説情報は、だいたいこのあたりで尽きる。そこで、その子・長利の世代の話に移る。



姫路周辺黒田二十四騎出生地



八代山と姫山(姫路城)


*【吉田家伝録】
一 心光寺ヨリ十二月十日ノ報書ニ相添へ来ル伝記並ニ覚書写
 八代氏事
 一 八代内蔵允道重
  餝東郡出水構。八代邑之内采地
  白国彦四郎聟。姫路城主ニ附従
 一 八代藤三郎道嵩 道重弟
  始(ハ)重門。帰納不好而、
  小寺氏ヨリ道嵩ト改
  八代邑内二百貫采地
  母石原民部女、名藤波
  置塩下町居構
 一 八代六郎左衛門道慶 道嵩子
  小寺氏ニ附従
  八代萱原構居、天正年中
  家ノ紋藤、裏紋井桁。八代村ノ内
  四百貫采地
















*【播磨鑑】
《柴崎山構居 [八代ノ構居ハ萱原の地也。国衙庄] 領主ハ八代六郎左衛門道慶。[此城ハ大永比ヨリ有。道慶ハ天正ノ比ナリ。古書ニ構トアリ。千貫計ノ領。黒田ノ幕下也]》(飾東郡)
《大永二年八月、姫路執人八代構ノ八代六郎左衛門道慶、領中大歳ノ社ニテ國中ノ祈祷有リ》(附録)



*【吉田家伝録】
《又大略記並ニ知年・増年ノ聞書ニ、道慶没去ノ年月日及遺体ヲ葬ル寺号見ヘズ。吾是ヲ深ク憂ト云ヘドモ、世遠ク人亡テ今尋問ベキ便ヲ得ズ。子孫幾代ヲ歴ルト云フトモ、播州ニ往テ旧跡巡見セバ、八代邑近辺ノ寺院ニ入テ永禄・元亀・天正年中ノ過去帳ヲ考見シ、若シ道慶ノ戒名有ラバ、則是ニ因テ其墓有ル所ヲ尋ヌベシ》




大歳神社 姫路市八代宮前町


*【吉田家伝録】
《翌十年乙巳ノ歳十二月、栄年武府ヨリ筑前ニ帰ルノ時、摂州兵庫ニ到リ船ヨリ下リ、陸路播州室津ニ通行ス。十二月二十五日、姫路福中町ニ止宿シ、明日同所ヲ出テ、八代村ニ立寄リ、老農ニ八代村及生土神ヲ問フ。答ヘテ、北八代村、南八代村両所ニ分テリ。(中略)両八代村ノ生土神ハ大歳大明神ト称ス。此社北八代村ノ北山ノ麓ニ在ツテ、北八代村ヨリ一町計りヲ隔ツ。祭礼ハ年々九月十五日ナリト語レリ》
《長利ノ生土神、大略記及知年・増年ノ聞書ニ見ヘズト云ヘドモ、前ニ記ス如ク、八代村ノ生土神大歳大明神ナレバ、長利ノ生土神モ大歳大明神タルコト疑無シ。故ニ享保十一年丙午ノ歳六月十五日、栄年ガ立山、表糟屋郡柳ガ原ニ大歳大明神ヲ勧進ス



表糟屋郡柳ガ原
 八代道慶の息子たち、それが黒田二十四騎の一人である吉田壱岐六郎太夫長利の兄弟といっても、『吉田家伝録』によれば、あまりはっきりとはわからないらしい。
 二男・与三太夫、三男・六郎右衛門は、「実名知レズ、母知レズ」である。四男・九右衛門利直になると、母知れずだが実名は利直と知れる。子孫があったからである。第六子の五男・六郎左衛門も同様で母知れずだが、実名は利昌である。この人が吉田実連の祖父である。
 利昌の息子たちのうち、長男の五兵衛利高は、母知レズで、法名宗由利高、吉田長利の息子・重成の与力となって、島原役のおりにも重成に従行した。利高の妻は熊谷外記の孫女。外記は豊後安岐城主・熊谷内蔵丞直陣〔なおつら〕の叔父。外記は伊勢国に住んだ。外記の孫女は、はじめ利高の弟・太右衛門の妻となり一男子を産んだが、太右衛門が死んだので、兄の利高に再嫁した。この子孫は残った。
 利昌の二男・太右衛門は、上記のごとく熊谷外記の孫女と結婚して息子まであったが、早く死んだ。この息子は牢人して、その後出家して宗有と号した。宗有は池田善兵衛という者を養子して、その善兵衛の子はまた僧となって密音と号し、記者の当時、裏糟屋郡立花口村梅岳寺養孝院に住したという。
 利昌の三男が、太郎右衛門利貞。この人が、吉田実連の父である。母知レズだが、事蹟はわかっている。はじめ黒田長政に仕えて采地二百石。のち、黒田高政に附属され、東蓮寺に赴任した。禄高は同じで、鞍手郡新北〔にぎた〕村に住す、というあたりまでは、すでにみた通りである。
 『峯均筆記』の後出記事に、実連の父親・太郎右衛門は、直方で足軽頭を勤めた、とあるが、『吉田家伝録』によれば、銃頭(鉄砲隊長)である。『峯均筆記』のいう足軽頭も意味はほぼ同じだが、『吉田家伝録』の方は、たとえば槍ではなく鉄砲の足軽部隊を率いた指揮官だとわかるだけ、情報は明確である。
 この利貞に妹がいて、この人がだれの妻になったか不明だが、のち紀州にいた利昌の一族の何某に招かれて和歌山に往み、年老いて落髪して、妙休と称した。妙休は能書ゆえ、和歌山で安藤帯刀の女の筆師となった。妙休の孫・吉田七斎も安藤帯刀に仕えた。七斎の子孫は今も安藤帯刀に仕えているかどうか、記者は不明だという。
 利貞の末弟に、六郎左衛門という人があり、この人は黒田長興について秋月へ行ったらしい。島原役のさいに従軍しており、子孫は秋月で続いたもようである。
 以上、吉田実連に関連する人々を、略系図に示せば右掲のごとくとなるものと思われる。  Go Back

福岡市美術館像
吉田壱岐長利像


*【吉田家略系図】

○┌八代内蔵允道重
 |
 └八代藤三郎道嵩―六郎左衛門道慶┐
 ┌―――――――――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬与次
 |      |
 ├与三太夫  ├重成┬知年―増年┐
 |      |  |┌――――┘
 ├六郎右衛門 └利成|└治年―栄年
 |         |
 ├九右衛門利直   └利安―利重
 |
 ├女
 |
 └六郎左衛門利昌
 ┌―――――――┘
 ├五兵衛利高―五大夫貞成―利明
 |
 ├太右衛門
 |
 ├太郎右衛門利貞実連
 |
 ├女 妙休
 |
 └六郎左衛門

 
 (2)親太郎右衛門戰死ス。實連此時孕也
 島原の乱当時のことである。『峯均筆記』によれば、寛永十五年(1638)二月二十二日、原城において父親の太郎右衛門が戦死した。実連はこのときまだ母の胎内であった、という話である。
 これを『吉田家伝録』と照合するに、まず利貞は、寛永十四年の冬、銃卒を率いて肥前原城の戦陣へ先発した。翌年正月元旦の城攻め――このとき上使・板倉内膳正重昌が戦死した――に勇進力戦して負傷、主君の高政はこれを感称して冑を利貞に与えた。二月二十一日の夜襲の時もまた奮戦した。このとき鳥銃の弾が当り、翌二十二日死す、とある(巻之四)。
 ここで「鳥銃」とあるのは、文字面から狩猟用鉄砲と誤解する向きもあるが、これは「種子島」以前から環東シナ海世界で普及していた火縄銃。これを原城の切支丹一揆軍が大量に入手して保持していた。
 この二月二十一日の夜襲のとき、家老の吉田知年(長利の孫で、重成の子)は、同じ東蓮寺から銃頭(鉄砲隊長)として派遣されていた吉田太郎右衛門利貞の番所にいて、話をしていたところ、夜襲があった。城方一揆衆数千人が突如攻撃に出たのである。
 数万人が籠城して数ヶ月に及び、すでに食糧が払底、一揆勢は城内から攻め出て襲撃したのである。興味深いことに、商人たちが食糧や武器弾薬を売る街区が出来ていた。戦陣の真中で商人たちは商売をしていたのである。一揆勢決死隊は、大江口から出て、先端にいた黒田勢を撃破して、この戦争ビジネス街区に深く進攻した。襲撃部隊は、食糧や武器弾薬を売る商人街区を掠奪し放火したので、包囲軍の物理的物質的損害は大きかった。
 ことに黒田家中では、万石家老の黒田(岡田)監物父子が戦死するなど死傷者が多数出た。このとき吉田太郎右衛門利貞は、柵で防戦する部隊にあったようだが、そこで銃撃戦により重傷を負い、翌日死亡したということである。一緒にいた吉田知年の方は、まんまと一番首を挙げた(巻之九)。戦場での生死の分れ目は、紙一重であったようだ。
 ところで、『峯均筆記』によれば、実連はこの時胎内であった、という話である。しかるに、『吉田家伝録』によれば、――吉田太郎右衛門利貞は、前日の重傷がたたり、寛永十五年二月二十二日死亡。利貞の二男吉田太郎右衛門実連、とあるが、実連には姉(一女)があり、『吉田家伝録』のばあい「二男」は、第二子で男子の意味、次男ということではない。その吉田太郎右衛門実連、同年二月十七日、東蓮寺に生る、とあって、『峯均筆記』とは話が違っている。
 つまり、『峯均筆記』は、父が戦死したとき実連はまだ胎内にあったとするのだが、『吉田家伝録』は、二月十七日生れ、すなわち父の戦死に先立つ五日前に生まれた、とするのである。
 こうしてみれば、父が戦死したとき実連はまだ胎内にあったという話は、ある意味でドラマチックで面白い話の仕立てで、むろん明らかに誤伝である。口碑伝説は話を面白くする性癖があるものである。『峯均筆記』は、吉田実連の直弟子・立花峯均が書いたものだが、そんなポジションの『峯均筆記』ですら、こういう伝説発生がある。
 このことは、『峯均筆記』の聞書が、案外アテにならないことを示す。直話を聞いたからといって、そのまま鵜呑みにすると、誤謬感染することになる。たとえ師匠と弟子の間でも、『峯均筆記』を読むには、それなりの傍証が必要なのである。  Go Back





原城包囲軍布陣と
2月21日夜襲コース



*【吉田家伝録】
《(利貞は)寛永十四年丁丑ノ歳ノ冬、肥前原ノ城ニ使者トシテ往、翌年戊寅ノ歳正月朔日ノ城攻ニ勇進力戦シテ疵ヲ被、高政君是ヲ感ジ玉ヒ冑ヲ賜フ。二月二十一日夜討ノ時モ亦奮戦ス。此時鳥銃中〔アタリ〕、翌二十二日死ス。歳四十四。屍ヲ新北村ノ寺ニ葬リ、石心善梁〔セキシンゼンリヤウ〕ト称ス。此寺破滅シテ、今ハ寺号モ知レズ。利貞ノ妻ハ肘島〔ヒヂシマ〕利左衛門ガ女ナリ。利左衛門ハ野口左助一成ノ与力ナリ。肘島ガ子孫断絶ス》
《吉田太郎右衛門利貞、寛永十五年戊寅ノ歳二月二十二日原ノ城ニ戦死ス。利貞ノ二男吉田太郎右衛門実連、同年二月十七日東蓮寺ニ生ル》

 
 (3)實連姉ニ婿養子被仰付、貳百石ノ家督相續セリ
 有馬陳、島原戦役で、実連の父・利貞が戦死してしまった。ところが、嫡男の実連はまだ生まれたばかり、しかし戦功あって戦死した吉田利貞の家を潰すわけにはいかない。そこで、主君黒田高政から、実連の姉に婿養子を仰せつけられ、姉聟が二百石の家督を相続した、というのが『峯均筆記』の話である。
 これを再び『吉田家伝録』と照合してみるに、たしかに、黒田高政は、父・利貞の遺禄を実連の姉に与え、のち吉田五大夫貞成に嫁して、利貞の家を相続せしめたとある。ただし姉といっても、彼女は当時七歳である。しかし特別な配慮で、利貞の家は存続できたのである。
 姉聟というのは、五兵衛利高(利貞の長兄)の長男・五大夫貞成(1624〜65)である。死んだ利貞には甥、つまり実連には従兄にあたる人である。五大夫は叔父・太郎右衛門利貞の家を嗣いで、太郎右衛門を襲名して、太郎右衛門貞成と称した。
 『峯均筆記』に、貞成は「五大夫」の祖父だという。この五大夫は、立花峯均当時の当代五大夫である。つまり、貞成は実連の姉との間で五大夫利明(1638〜98)を生し、そして、利明の息子が五大夫利数(1688〜1723)である。この利数が、『峯均筆記』にいうところの「五大夫」である。立花峯均のような世代だと、吉田五大夫は、実連の姉の孫なのである。
 ちなみに、このとき実連の姉に婿養子させて家を存続せしめた黒田高政(1612〜1639)は、先述の通り、黒田長政の四男で、黒田本家から分知四万石を受けて、東蓮寺初代領主となった人である。『峯均筆記』に、市正高政公とあるが、この「市正」は職名で「いちのかみ」と読む。しかし高政の職名、正しくは、「東市正」〔とうのいちのかみ〕である。『峯均筆記』はこれを略記したのである。
 ここで『峯均筆記』は、実連が成人して、「後の市正」黒田之勝の時、御近習を勤めた、とする。黒田之勝(1634〜63)は、福岡の黒田本家・忠之の二男である。本家の二男を分家の当主とするという方式である。ここにいう「後の市正」とは、先代に市正高政がいたからである。ただし之勝は、東市正ではなく、市正である。
 さて『吉田家伝録』によれば、吉田太郎右衛門家の存続に関して、この黒田高政の措置では、実連が十五歳になったら、姉婿に回ったその家禄を実連に譲るべしとの命であった。しかし、実連は十三歳のとき、二代目藩主の黒田之勝に召出されて近仕し、十七歳にして元服して、六人扶持二十石を与えられた。つまり、父の遺禄とは別に、実連は自力で給料を得たのである。そんな事情があったわけで、『峯均筆記』の記事だけではわからないことが、『吉田家伝録』では知れる。
 実連二十六歳のとき、黒田之勝死去。その後、福岡の黒田本家に召出され、黒田光之(1628〜1707)から新知二百石を与えられ、馬廻組。それから間もなく、扈従(小姓)そして目附と出世した。当初の二百石も加増を受け、長崎目付を命じられたとき百石加増、江戸留守居を命じられまた百石と禄を加えられ、都合四百石の知行取りとなった。
 長崎目付や江戸留守居などは、藩の外交渉外が仕事である。吉田実連はその方面で才能があり、取立てられたのであろう。なお、黒田家の長崎勤番は、寛永十八年家光の時代、ポルトガル船来航を排除する措置をしたとき以来のもので、筑前の黒田忠之は肥前の鍋島勝茂と隔年交替で長崎番をするようになったという経緯がある。
 『吉田家伝録』の記者は吉田治年(1659〜1739)、彼はここで、「私ニ云」としてコメントを入れている。
 すなわち、実連は十五歳になれば亡父の家禄を受け継ぐべしと、先君(高政)が措置されていたが、実連はこれに「泥〔ナヅ〕マズ」、――つまり、人生のそんな所与条件に頼り甘えることなく、若年のころから勤めを励み、年を追って出世し加増され、自らその身を立て、父の禄高の倍の家禄を得た。そんな実連に、治年は「孝ノ大ヒナルモノナリ」と、称賛おくあたわずというところ。
 記者の吉田治年は、吉田本家の当主で、黒田家家老の一人であり、治年の父・増年(1638〜1702)が実連と同い年、吉田氏嫡流と末葉の相違はあるが、治年は実連をよく知っており、ようするに、実連は偉い人だったと、系譜中に特記しているのである。  Go Back




*【吉田家伝録】
《吉田太郎右衛門利貞、寛永十五年戊寅ノ歳二月二十二日原ノ城ニ戦死ス。利貞ノ二男吉田太郎右衛門実連、同年二月十七日東蓮寺ニ生ル。故ニ利貞ノ遺禄ヲ実連ノ姉ニ賜ヒ、後吉田五大夫貞成ニ嫁シテ、利貞ノ家ヲ継ガシメラレ、実連十五歳ニ至ルノ時、其家禄ヲ実連ニ譲ルベシト命ジラル。然レドモ実連十三歳ニシテ之勝君ニ近仕シ、十七歳ニシテ元服シ、六人扶持二十石賜フ》


*【吉田実連関係系図】

○┌八代内蔵允道重
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 └八代藤三郎道嵩―六郎左衛門道慶┐
 ┌―――――――――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬与次
 |      |
 ├与三太夫  ├重成┬知年―増年┐
 |      |  |┌――――┘
 ├六郎右衛門 └利成|└治年―栄年
 |         |
 ├九右衛門利直   └利安―利重
 |
 ├女
 |
 └六郎左衛門利昌
 ┌―――――――┘
 ├五兵衛利高―五大夫貞成
 |        |
 |        ├利明―利数→
 |        |
 ├太右衛門   ┌女 実連姉
 |       |
 ├太郎右衛門利貞実連
 |
 ├女 妙休
 |
 └六郎左衛門


*【吉田家伝録】
《然レドモ実連十三歳ニシテ之勝君ニ近仕シ、十七歳ニシテ元服シ、六人扶持二十石賜フ。二十六歳ニシテ、之勝君卒シ玉フ。其ノ後福岡ニ召出サレ、光之君新知二百石賜ヒ、馬廻組ニ加ヘラレ、幾〔イクバク〕ナラズシテ、扈従〔コシヤウ〕又目附命ジラル。長崎目付命ジラルヽノ時百石、江戸留守居命ジラルヽノ時百石禄ヲ加ヘラレ、都合四百石賜フト見ユ。私ニ云、実連十五歳ニシテ亡父ノ家禄ヲ受継グベキヨシ、先君命ジ置ルヽト云ヘドモ、実連是ニ泥〔ナヅ〕マズ、若年ヨリ勤ヲ励、年々ニ官禄ニ進ミ、自カラ其身ヲ立テ、父ノ禄ニ倍スルコト、孝ノ大ヒナルモノナリ》


九州大学蔵
吉田家伝録
 
 (4)柴任美矩ニ會シ、師弟ノ約諾アリ
 ここは、吉田実連が柴任美矩の門弟となり、長年の功を積んでついに兵法成就に至った経緯を語る。
 まず、吉田実連が柴任美矩に相会したのは、いつ、どこで、なのか。これは、『峯均筆記』にしかない固有記事で、実連十八歳の時、東府〔江戸〕で柴任美矩と会い、師弟の約諾があった、という。実連は寛永十五年(1638)の島原役最中の出生、十八歳の時というと、明暦元年(1655)のことである。
 前にみたごとく、『吉田家伝録』によれば、実連は十三歳のとき、二代目東蓮寺藩主の黒田之勝に召出されて近仕し、十七歳で元服して六人扶持二十石を与えられたとある。主君近仕であるから、このとき黒田之勝の東府参勤に従って、筑前から江戸へ行っていたものであろう。
 柴任美矩の方は、承応二年(1653)に寺尾孫之丞から一流相伝、『峯均筆記』によれば、その後肥後を離れ、豊前小倉へ行き島村十左衛門と会って、江戸へ行ったことになっている。『峯均筆記』は、柴任美矩と吉田実連の師弟約諾に関連して、美矩がまだ浪人中のことであると割註を入れている。柴任はその後福岡の黒田家へ召し出されるのだが、それ以前のことである。
 柴任美矩の生年は確かでないが、寛永六年(1629)生れとすれば、明暦元年(1655)は柴任二十七歳である。これに対し弟子になった吉田実連は十八歳の若者。
 しかし、吉田実連がどういう縁で柴任美矩の弟子になったか、そのことは『峯均筆記』では不明である。柴任美矩は肥後細川家中の人だが、致仕して寺尾孫之丞に隨仕、武蔵流兵法を学び、一流相伝して後、江戸へ出た。一方、吉田実連は筑前の、東蓮寺黒田家中の若者である。直接には関係がない者同士である。
 十八歳の意気旺盛な若者である吉田実連は、江戸へ出たのを幸い、だれか兵法の師はないかと自分で探したのかもしれない。そのときちょうど、柴任美矩が兵法師範として旗本や陪臣に多数弟子あるのを聞いて、柴任美矩と会って門人となった、というところか。
 とすれば、両者の相遇は偶然ということになるが、あるいはまた、江戸屋敷留守居のだれかから紹介されたのかも知れない。こういう肝腎な情報が『峯均筆記』には欠けている。立花峯均は、聞いたが忘れた、ということかもしれない。
 さて、江戸でこのとき吉田実連は柴任美矩と何回も会って稽古していたようで、『峯均筆記』によれば、三度目に会ったとき、柴任美矩が言うには、「我が兵法は、師弟の縁さえ断絶しなければ、お前に相伝しよう」ということであった。
 柴任は、この若者の器量を見込んで、そう云ったのであろうし、これから修行期間は長いぞ、九州と江戸では遠いし師弟の縁を持続できるかな、という話でもあったのだろう。師匠の柴任は、そういう修行条件の困難を見通していたが、吉田実連はそれでも柴任を師として従うことを誓ったようである。それから、たぶん江戸出府の折ごとに、何回か柴任と会って稽古する機会もあったろう。ただし『峯均筆記』にはその記事はないところを見ると、東府行のチャンスもあまりなかったかもしれない。
 ところが、吉田実連が柴任美矩の弟子になって五年後、師匠の柴任が筑前福岡の黒田家に勤仕するようになった。これは前にみた通り、『峯均筆記』によれば、豊前小倉の島村十左衛門から、立花峯均の父・重種へ話があり、福岡の黒田家で柴任を召抱えようという話になり、重種が万事斡旋役を引き受けたということである。
 このとき実連は二十三歳である。師匠の柴任美矩が同じ筑前へやってきたのだから、吉田実連には幸運なことで、事態は好転した。とはいえ、吉田実連も仕官の身である。同国内とはいえ福岡と直方とは距離があるから、頻繁な参会はできない。ことにその頃、吉田実連の主人・黒田之勝の君側には牧平兵衛(これは不詳)という者がいて権力をふるい、直方の諸士が福岡へ出る事を制限していた。それゆえ、師弟打合う稽古は、一年に一回か二回がやっとのことで、それ以上はできなかった、というのである。吉田実連の兵法修行には、なかなか困難が多い。
 そこで、またまた、立花峯均の父・重種の登場活躍である。『峯均筆記』によれば、立花重種は、吉田実連に兵法の才能があるのを聞いて、黒田光之ヘ召出されるよう薦めた。そして実連は福岡ヘ召出され、小姓になった。側近の警護役である。ほどなく、さらに新知二百石を下され、御目附となった、という。
 このあたりを『吉田家伝録』で確認してみると、吉田実連は福岡に召出され、黒田光之から新知二百石を与えられて馬廻組に加えられ、それから間もなく、扈従(小姓)さらにまた目附を命じられたとある。したがって、吉田実連は新知二百石を与えられ、まず馬廻組に加えられた。その後間もなく、扈従(小姓)に引き立てられ、その後さらに目附役人として出世したというわけである。つまり『峯均筆記』の記事とは前後食い違いがある。
 吉田実連は東蓮寺にいて、柴任美矩は福岡、一年のうち一度か二度、実連が福岡へ通って指導を受けたとあるから、柴任が福岡へ来てまだ数年は、東蓮寺から通いの弟子だったようだ。それで、いつ吉田実連が福岡に召出されたか、実連が師匠の柴任美矩とともに黒田光之側近の御小姓組に属した時期があるのかどうか、不明である。上述のように『峯均筆記』によれば、柴任美矩は三百石で御小姓組。重種をはじめ家人たちは大勢門弟になり、日々柴任がやって来て稽古があった。そのほか、諸士・陪臣にわたって数多くが門人であったと記すのみである。
 ところが、吉田実連が福岡に召出されて間もなくか、柴任美矩は主人・黒田光之と反りが合わず、致仕して筑前を立ち退いてしまうのである。かくして、再び吉田実連は師匠と離れ離れになってしまう。
 『峯均筆記』によれば、筑前を立ち退いた柴任は江戸へ出たが、その後、大和郡山の本多内記(政勝)に仕えた。柴任美矩の大和郡山時代はかなり長い。
 その間、吉田実連は長崎の御目付を長く勤め、その後一倍の加増があって、江戸御留守居〔江戸詰勤務〕を仰せつけられた。福岡黒田家中で着実に出世していたのである。長崎目付や江戸留守居役など実連の役目については、『吉田家伝録』で確認できる。前述のように、長崎目付になったとき百石加増、江戸留守居になったときまた百石加禄、都合四百石になった。『峯均筆記』に「一倍の加増」とあるのは厳密にいえば正確ではないが、おおむね誤りではない。
 『吉田家伝録』の編者・吉田治年が誉め讃えていたように、実連は親族中出色の人であった。親の遺禄をアテにせず自身の力で出世した人である。それは、二天流始祖の武蔵は言うまでもないが、二祖寺尾孫之丞や三祖柴任美矩のような生き方とは違う。吉田実連は、老いて隠居するまで一度も禄を離れることはなく、福岡黒田家の有能な外交官僚として勤仕していた。








国立歴史民俗博物館蔵
江戸図屏風 部分








東京都立中央図書館蔵
黒田家江戸屋敷の位置
武州豊嶋郡江戸庄図






黒田家江戸上屋敷 外桜田霞ヶ関










*【吉田家伝録】
《其ノ後福岡ニ召出サレ、光之君新知二百石賜ヒ、馬廻組ニ加ヘラレ、幾〔イクバク〕ナラズシテ、扈従〔コシヤウ〕又目附命ジラル》






吉田実連関係地図




*【吉田家伝録】
《長崎目付命ジラルヽノ時百石、江戸留守居命ジラルヽノ時百石禄ヲ加ヘラレ、都合四百石賜フト見ユ》

 そして、吉田実連四十三歳のとき、柴任美矩から一流相伝があった。当時、柴任美矩は播州明石に住んでいた。すでにみたように、吉田実連は、江戸御留守居を命じられて江戸へ行く途中、明石に立寄って、延宝八年(1680)四月二十二日に柴任から一流相伝されたのである。柴任は延宝七年(1679年)本多政利が播州明石へ転封するのに従って、明石へ移ったのであろうから、そのとき柴任は明石に居たのである。
 この相伝については、前々から段取りしてあったとみえて、『峯均筆記』によれば、立花峯均の父・重種から、実連の打太刀のため、田原六之進と皆田藤助の二人を添えて明石へ派遣したという。この二人は不詳だが、実連弟子の黒田家士で、おそらく立花重種の息のかかった者らであろう。吉田実連は師匠柴任の相伝審査を受ける。そのために打太刀をつとめる者が必要で、立花重種は、わざわざ彼らを明石へ随行させたのである。
 吉田実連はこの二人を相手に、柴任の目の前で、腕前を実演して見せたのであろう。かくして、柴任からの相伝が済んで一流成就した吉田実連は、役目のため江戸へ向かう。田原六之進と皆田藤助の二人は、吉田実連と明石で別れて福岡へもどる。
 立花重種は最後まで吉田実連の世話を焼いて、まことに面倒見のよい親父である。『峯均筆記』によれば、実連は、自分の兵法はすべて立花重種の高恩によるものだと、いつも語っていたという。それは事実であろう。言い換えれば、柴任美矩の福岡招聘も、吉田実連を東蓮寺から福岡へ引き上げたのも、立花重種の尽力による。とすれば、筑前二天流成立の最大の支援者は、この立花重種である。
 ところで、我々も最初気づかず、『吉田家伝録』を通読してはじめて判ったことだが、実は、立花家と吉田の本家とは、立花重種の代に親戚関係が出来ていた。
 つまり、この当時吉田本家の当主は、吉田実連と同年生れの吉田増年(1638〜1702)なのだが、その妹ろくが大組頭野村勘右衛門為貞に嫁し、彼女の生んだ女子が立花家へ縁づいた。彼女は次女たけで、立花重種の二男・五郎左衛門重根の妻となった。五郎左衛門重根は、要するに例の立花実山(1655〜1708)、すなわち峯均の次兄である。
 ところが、野村勘右衛門為貞の姉妹に、立花重種の弟(家老の勘左衛門増弘)に嫁した女性がいた。増弘の前妻である。それとさらに、吉田増年自身の娘ふくが、立花勘左衛門増弘の三男・只之進重矩に嫁した。これは貞享三年のことだから、もう少し後の話である。
 ともあれ、立花重種は、吉田氏本家当主増年の姪や娘を、立花家の嫁に迎えていたのである。そういうわけで、立花重種は吉田家とは、野村家をブリッジにした親戚関係があり、吉田実連の世話を焼く理由もあったのである。





明石城址







*【吉田立花関係系図】

○八代六郎左衛門道慶┐
 ┌――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬重成┬知年┐
 |      |  |  |
 |      └利成└利安|
 |┌―――――――――――┘
 |├増年┬治年―栄年
 ||  |
 ||  └女 立花只之進重矩妻
 ||
 || 野村勘右衛門正貞┐
 || ┌―――――――┘
 || ├女 立花勘左衛門増弘妻
 || |
 || └勘右衛門為貞
 ||  |
 ||  ├―女 立花実根妻
 ||  |
 |└女 ろく
 |
 └六郎左衛門利昌―利貞―実連

 吉田実連が江戸で柴任に入門してから、すでに数十年がたっていた。師弟契約が実連十八歳のときだったから、一流成就まで足かけ二十六年かかったことになる。いま、柴任美矩から吉田実連への相伝次第を、吉田家本五輪書各巻奥書で跡付けてみると、以下のようになる。宛先名と当時年齢も併記しておく。
(水之巻) 明暦二年(1656)閏四月十日  忠左衛門 (実連十九歳)
(地之巻) 万治三年(1660)五月朔日   忠左衛門 (二十三歳)
(火之巻) 寛文九年(1669)四月十七日  忠左衛門 (三十二歳)
(風之巻)    (火之巻に同じ)
(空之巻) 延宝八年(1680)四月二十二日 太郎右衛門(四十三歳)
 これによってみるに、相伝の次第は、五輪書各巻を順次交付するというかたちのようである。しかし、地之巻が水之巻より後だというのが興味深い。それは、水之巻の内容を読めば、なるほどと思われるであろう。
 

九州大学蔵
吉田家本地之巻奥書
柴任から吉田忠左衛門へ
万治三年五月朔日

九州大学蔵
同 左 水之巻奥書
柴任から吉田忠左衛門へ
明暦二年閏四月十日

九州大学蔵
吉田家本五輪書火之巻奥書
柴任から吉田忠左衛門へ
寛文九年四月十七日

 宛先は、空之巻以外は「吉田忠左衛門」で、空之巻のみ「吉田太郎右衛門」である。太郎右衛門は父の名を襲名したものである。
 上述のように、実連の父・太郎右衛門利貞が島原戦役で死亡したとき、実連は産まれたばかりの嬰児、それで姉に聟養子して家督を嗣がせた。この姉聟・吉田五大夫貞成(1624〜65)は実連には従兄にあたる人で、彼が太郎右衛門を襲名したのである。そのため実連は元服して忠左衛門という別名を名のった。その後、姉聟の貞成は寛文五年に死亡。貞成の息子・利明(実連の甥)は、父祖の名跡・五大夫を襲名。そこで実連が、父の名跡・太郎右衛門を襲名することになった、というのが一連の経緯であろう。
 したがって、吉田家本五輪書のうち、火之巻・風之巻の寛文九年奥書に、まだ吉田忠左衛門殿と記されているので、寛文九年段階では太郎右衛門の名跡問題はまだ決着がついていなかった、とみるべきであろう。
 実連の忠左衛門名は、『吉田家伝録』に《初名忠左衛門》とあるのに相応する。『峯均筆記』も、吉田実連記事の最初に、《壯名忠左衛門ト号ス》と割註を入れている。ただし、立花峯均がこのように書いたのは、他ならぬ五輪書各巻奥書の日付を参照してのことであろう。
 さて順を追って検べてみると、水之巻奥書は明暦二年(1656)閏四月十日、吉田実連十九歳である。これは参勤交代に従って、吉田実連が前年から江戸に来ており、柴任に入門して稽古、九州へ帰るさいに、水之巻を相伝されたということであろう。
 水之巻より後になった地之巻は万治三年(1660)五月朔日、実連二十三歳である。この万治三年は、柴任美矩が福岡黒田家へ仕官した年である。前出の本庄家別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写によれば、万治三年八月二十一日付である。相伝場所は福岡の可能性があるが、五輪書地の巻相伝の日付は同年五月朔日。となると、相伝場所は福岡とも限らない。柴任は、明暦三年正月の大火で焼け出されて、江戸にはいないはずだから、豊前小倉、あるいは筑前東蓮寺、という可能性もある。
 火之巻と風之巻の日付は同年同日で、寛文九年(1669)四月十七日、実連三十二歳である。このとき、柴任美矩はすでに黒田家を致仕して、大和郡山の本多家に仕えていた時分であろう。寛文九年には、本多政勝はまだ健在である。したがってむろん、柴任が本多政勝の子・出雲守政利に配属される以前である。それゆえ寛文九年の相伝は、大和郡山でのこと、これも吉田実連江戸勤番の徒次、大和郡山の柴任宅へ立ち寄って、審査を受けたということのようである。
 そして最後の空之巻奥書が、延宝八年(1680)四月二十二日、実連四十三歳、これによって相伝完遂一流成就となったが、場所はむろん、上記のように播州明石である。
 この吉田実連のケースは、師(柴任美矩)へ隨仕することがなく、相伝を受けるという形態である。すでにこの世代では、仕官の身の上で、兵法伝授もこういう形へ変化していたのかもしれない。二十六年という長期の功を積んで一流成就したのであるが、しかしこれを実連が役目多忙で片手間の修行だった、あるいは実連の兵法凡庸なるがゆえ、と見るのは誤りである。
 むしろ逆に、『峯均筆記』が述べるが如く、師匠に隨仕しなかった吉田実連の兵法修行は、ひとえに独歩である。これはまさに実連の非凡を示すもので、師匠の柴任美矩も、これと見込んだ故に、半端なことでは相伝を許さなかったものとみえる。無師独行は武蔵のプロセスだったが、本来武蔵流は独行の道である。そういう意味で、実連の修行二十六年というのは、興味深い事実である。

 なお、ここで『吉田家伝録』に吉田実連に関連して武蔵記事のあることを銘記しておくべきであろう。『吉田家伝録』の成立は享保十八年、起稿したのは同七年である。記者の吉田治年(1659〜1739)は黒田家中老で、上述のように吉田実連を見知っていた人だが、立花峯均(1671〜1745)よりも一回り上の世代である。つまり、より古い情報を得ていた人物である。『吉田家伝録』の宮本武蔵に関する記事は、諸史料のうち早期のものであることは言うまでもない。
 『吉田家伝録』の記事はこうである。――実連は、柴任三左衛門美矩を師として、宮本武蔵玄信の二刀の術を習練した。武蔵は播州に生れ、中年になって豊前小倉に下り、浪客となって在留した。後に肥後熊本へ行き、細川越中守忠利の扶助を得て、同所に歿した、云々。――これはほぼ正しい記述である。武蔵は播州産だということが明記されているのも、注目にあたいする。
 さて、吉田治年の云うには、――武蔵は剣術の名が世に高かった。肥後に致って、細川の家士・寺尾孫之丞信正にその術を伝え、寺尾はまた柴任に伝えた。柴任は、肥後から筑前へ来た。黒田光之は柴任に采地を与え、扈従(小姓)を命じた。吉田実連は、柴任によって剣術を精しく伝授され、しかも自ら修練の功を積んで、師祖・武蔵玄信の正しい術を会得した。柴任は、のち故あって黒田家の仕えを致〔かえ〕し、播州明石浦に幽居し、剃髪して道隨と号した、云々。――これもほぼ正しい記述である。この吉田家譜のような類の文書にはほとんど関係あるまじき、寺尾孫之丞信正や柴任のことも、きちんと記されている。そういう脱線ぶりが興味深い。
 吉田治年は、さらに続けて――私は、もとより剣術の名を忌む。けれども、実連は吉田壱岐長利の末葉で親戚の人だったので、時々実連を屋敷に招いて、その術を習った。いま、過ぎし昔を思い出して、ここに、実連の勤功および剣術の伝来を略記するばかりである、と。
 この、《予もとより剣術の名を忌む》というセンテンスを見て、吉田治年は剣術が嫌いだったと早とちりする粗忽者があるようだが、それは間違いである。治年が忌むのは「剣術」ではなく「剣術の名」である。ようするに、剣術の名を忌むというのは、剣術の名声を憚る、という意味である。
 とすれば、謙遜してはいるが、治年の剣術もおそらく相当の腕前だったのであり、武蔵流兵法四代の吉田実連から直接指導を受けるほどだった。『吉田家伝録』執筆当時、吉田実連は二十年ほど前に死んでおり、実連から剣術指南を受けた昔を懐かしく憶い出して、ついつい治年の筆が、ここで走ってしまった、というわけである。
 のちに寛政四年(1792)、治年子孫の吉田経年に立花増昆が一流相伝したおりの跋文が、吉田家本五輪書空之巻に付録されている。それによれば、柴任美矩が吉田実連へ与えた兵法書五巻(五輪書)は、実連死後、吉田治年が預かって保管していたという記事がある。とすれば、『吉田家伝録』執筆当時、現存吉田家本五輪書はこの治年のもとにあったのである。
 余談になったが、この吉田治年が『吉田家伝録』を書き遺してくれたおかげで、我々の吉田実連探求も大いに進捗したのだから、それを思えば、ここに治年遺徳記念として、以上を補記しておくのも赦されるであろう。  Go Back


九州大学蔵
同 上 風之巻奥書
柴任から吉田忠左衛門へ
寛文九年四月十七日





吉田実連関係地図




九州大学蔵
吉田家本五輪書空之巻奥書
(柴任自筆書)
柴任から吉田太郎右衛門へ
延宝八年四月二十二日









*【吉田家伝録】
《又実連、柴任三左衛門美矩ヲ師トシテ、宮本武蔵玄信ノ二刀ノ術ヲ習練ス。武蔵ハ播州ニ生レ、中比豊前小倉ニ下リ、浪客トナツテ在留シ、後肥後熊本ニ行、細川越中ノ守忠利ノ扶助ヲ得テ、同所ニ没。武蔵劔術ノ名世ニ高シ。肥後ニ致ツテ、細川ノ家士寺尾孫之丞信正ニ其ノ術ヲ伝へ、寺尾又柴任ニ伝フ。柴任肥後ヨリ筑前ニ来ル。光之君采地ヲ賜ヒ、扈従命ジラル。実連、柴任ニ因テ劔術ヲ精ク伝授シ、且自カラ修練ノ功ヲ積デ、師祖武蔵玄信ノ正術ヲ覚悟ス。柴任、後故有ツテ仕ヘヲ致シ、播州明石ノ浦ニ幽居シ、薙髪シテ道隨ト号ス。予、素、劔術ノ名ヲ忌ト云ヘドモ、実連ハ長利ノ末葉ナリシ故、時々実連ヲ招テ其ノ術ヲ習ヘリ。今、過シ昔ヲ思ヒ出テ、此ニ実連ノ勤功及劔術ノ伝来ヲ略記セル而已》





*【立花増昆跋文】
《二天一流の兵書地水火風空五巻ハ、新免玄信居士により寺尾孫之丞信正、柴任美矩に傳り、美矩より吉田太郎右衛門實連に与へし書五巻、貴家の高祖父式部治年丈所持ありて、代々傳ふといへとも、只筐底に埋れぬ。しかるに、貴子執心ありて、同氏弥兵衛種貫か門に入、執行なかは種貫卒しぬ。されと其志を失ハす、今以てかの教を護り、猶白水典左衛門重能を招き、しはしば練り鍛へり。明年東武旅行に臨ミ、家に傳ふる書一箱を携来り、ふかき心ざしの旨趣聞へけれハ、予人がましといへど、種貫卒し、林成章ハ病に臥せり、仍てこの奥儀を傳へんことを約し、筆を執て実連か同氏巌翁峯均につたへし空の意、同随翁増壽、同宗隠種貫、某々の空意を左に書寫しつらねて、正統の傳を授け、その奥に予か意を跋し侍る也。
 寛政四子年冬  立花増昆(印)》

 
 (5)小兵ナレ共骨大ク、力量人ニ越ヘ
 ここから以下は、吉田実連の逸話が列記されていて、いわば『峯均筆記』の独壇場である。
 まずは、吉田実連が小兵ではあったが骨大〔ふと〕く、大力であったこと。こんな話は、立花峯均ならではの話である。吉田実連が小男だったということから、我々はここまでの『峯均筆記』の記述から、奇妙な符号に気づかされる。つまり、歴代諸祖の身長の対比である。
   大祖 新免武蔵守玄信   大 男
   二祖 寺尾孫之丞信正   小 兵
   三祖 柴任三左衛門美矩  大 男
   四祖 吉田太郎右衛門実連 小 兵
 『峯均筆記』によれば、武蔵は身の丈六尺の、当時としては巨人。二祖寺尾は、小兵ながら力量ありという。三祖柴任は、勝レタル大男で、容儀弁舌肩を並べる者がいない恰好だとある。そして四祖吉田実連は、小兵ではあるが骨太く、力量は人を越える、とある。いま、戯れにこの四人を並べてみると、以下の如くかもしれない。ちょうど順に身長は凸凹である。


左から四祖吉田実連・三祖柴任美矩・二祖寺尾孫之丞、そして大祖・武蔵

 小兵ながら力量は人を越えとある吉田実連が、どれほどの怪力の主だったか、それを『峯均筆記』が記している。すなわち、――壮年の頃は、米二俵を左右の足に足駄のようにして履いて、二刀の表〔基本技〕を自由に使った。これは信じがたいとんでもない話であるが、立花峯均は冗談で書いているのではない。しかし、生真面目な吉田実連に、こういう面もあったすれば面白い、という話である。
 また、吉田実連は、相撲の力士と腕押しで力比べをした。腕押しというのは、要するに今日云うところの腕相撲である。当時、相撲取りの内でも大力と云われた荒獅子新五右衛門、立花峯均の父・重種お抱えの力士・十五夜団兵衛〔じゅうごや・だんべえ〕などが吉田実連と腕相撲したが、実連には敵わなかったという。ただし、まだこの頃は勧進相撲の時代で、プロの力士が出てくるのは百年先のことである。
 そこで、牧弥五兵衛の話になる。牧弥五兵衛は直方(東蓮寺)の武士であったというから、吉田実連と同輩である。弥五兵衛は大兵で怪力という噂を聞き及んで、これも立花重種が主君・黒田光之に話して、東蓮寺から福岡へ召出し、側近の警固役に加えた。
 というのも、黒田光之は大勢を供に連れ歩くのを嫌ったのか、たいてい供は小人数で、なかでも乗物先へはわずか四人だけ召連れるというようなことだったので、重種が「万一狼籍者などがある時のため、大力の武士を選抜されて召連れられるがよろしい」と、光之と綱政の二人にかねがね云っていた。それで両君が、それはよいことだと、重種の意見を容れて、牧弥五兵衛は福岡へ召し出されたのである。そのとき、弥五兵衛は実連の門弟だということを殿様が聞いて、面接も兼ねて御前で弥五兵衛の兵法を披露した。これは立花峯均が、自分の父親重種から聞いた話であろう。
 『峯均筆記』の話があちこち前後するが、牧弥五兵衛が福岡へ召し出される前のこと、弥五兵衛が実連の所へやって来たという。弥五兵衛は実連の弟子だから稽古でもするのかと思うと、力比べをすることになったらしい。そこで、『峯均筆記』に何度か出てくる「伝来の薙刀」がここでも登場。この「伝来の薙刀」は、武蔵愛用の薙刀として柴任美矩から吉田実連に伝わったもののようである。
 さて競技は、この薙刀に青銅一貫文を懸け、石突(薙刀の柄の末端)を片手につかんで、何回起せるか、というゲーム。青銅一貫文は銅貨(銭)千文、実際にどれだけの重量があったか不明だが、直接手で持っても重い。それを薙刀の先にぶら下げて、というのだから、この「伝来の薙刀」も粗末に扱われたものである。
 それで、牧弥五兵衛は三回も起した。ところが、吉田実連は十六回も起したというのである。大兵怪力のゆえに福岡へ召し出された牧弥五兵衛よりも強力だった。並外れた筋力があったということである。寺尾孫之丞のケースでは、小兵ながら力量ありと語るが、ここまでは言わない。
 これを語っておいて、『峯均筆記』は、吉田実連はこのような大力の上に、兵法至極の器用、つまり兵法にこの上ない才能があった。しかも多年の工夫鍛錬の功あって、まことに「武州公の再誕」とも云うべきであった、という。最大級の讃辞である。
 さらに、吉田実連は正直で、曲がったことの嫌いな、真っ直ぐな性格であるという。これは、記者の立花峯均が、吉田実連を直接知っていて、そう言うのである。
 吉田実連は、立花峯均の父・重種に目を掛けられたようである。そういう恩義があって、実連は立花重種に、何か恩を返し感謝を表すようなこともしたらしいが、『峯均筆記』がこの書には書かないと記すから、それがどんなことか分からない。
 ともあれ、このあたりは自身の吉田実連体験や、父重種から聞いたことなど、『峯均筆記』の独壇場である。少なくとも、吉田実連がこんな怪力の主だったことは、『吉田家伝録』では知りようがないのである。  Go Back




















*【丹治峯均筆記】
(太祖武州)《身ノ長六尺程、骨フトク、力量人ニ越ヱ、十三歳、有馬喜兵衛ト初試闘ノ時、健ナル者ノ十六七歳程ニ見ヘシトカヤ》
(二祖・寺尾孫之丞)《小兵ナガラ。力量アリシ、トイヘリ》
(三祖・柴任三左衛門)《勝レタル大男ニテ、容儀弁舌双ビナキ恰好也》









元禄15年
大坂堀江開発勧進相撲図









薙刀の石突 弁慶人形
 
 (6)伊勢守長清公
 伊勢守長清は、筑前直方藩主だった黒田長清(1667〜1720)。ここでは、長清と吉田実連の因縁を語る。
 すでに述べたように、吉田実連は筑前鞍手郡東蓮寺近辺の生れ。父利貞が黒田高政に附従して東蓮寺へ配属されたからである。高政死後、東蓮寺領は、光之の弟・之勝(1634〜1663)が相続し、之勝歿後は光之の息子・長寛(1659〜1711・のち綱政)が相続した。長寛の代に地名を「直方」と改めたが、延宝五年(1677)、福岡の本家では長兄・綱之(1655〜1708)が廃嫡となり、長寛が嫡子として福岡へ戻った。このとき、直方領四万石は本家へ還付、直方藩はいったん消滅した。
 しかし、元禄元年(1688)光之が隠居して家督を綱政(長寛)へ譲ると、それと同時に、綱政の弟・長清が改めて直方領主となったのである。つまり、末弟の長清だから、本来は部屋住みで終る可能性もあったが、幸運なことに大名になれたということである。ただし、直方分領は長清一代で終る。長清の息子・継高が、福岡の本家を嗣ぐことになるからである。
 正保四年(1647)黒田光之は、豊前小倉城主・小笠原忠真(忠政)の女・市松姫(宝光院)を妻に迎えた。綱之・綱政・長清はいづれも彼女の産んだ男子である。したがって、彼らは黒田忠之の孫であると同時に、小笠原忠真(忠政)の外孫ということになる。
 吉田実連は、江戸留守居を命じられ江戸に住むことがあった。その江戸在勤中、長清に実連の兵法を御覧に供した、というのが『峯均筆記』のここでの話。伊勢守長清はそのころはまだ部屋住みで、二の御部屋にいた、桜田御屋敷隅の御部屋である、という割註がある。
 「桜田御屋敷」というのは桜田外霞ヶ関の上屋敷のことである。その敷地は現在の外務省である。黒田家は大大名なので、江戸屋敷は壮大なもので、部屋住みの長清の住居は、御部屋といっても、小藩の江戸屋敷全体ほどの規模があった。長清は江戸生れの江戸育ち、末弟だから江戸藩邸で部屋住みであった。「二の御部屋」というのは、嫡男ではない男子あるいは分家用の部屋であろうから、福岡本家と桜田屋敷で同居していたらしい。
 ともあれ、すると、吉田実連が江戸在勤中、長清に実連の兵法を見せ、云々という、この一件の時期はいつか。
 実連は延宝八年(1680)江戸勤番に赴く途中、播州明石でに柴任美矩から一流相伝されて、その足で江戸へ向かっている。他方、黒田長清の従五位下伊勢守叙任は貞享元年(1684)十八歳のとき、直方領主となるのは元禄元年(1688)二十二歳である。とすれば、これは長清が直方へ入部する以前で、元服して官位叙任された後のことのようである。長清はまだ十代であったかもしれない。
 さて、吉田実連は兵法の腕前を、若き黒田長清に披露することになった。長清は江戸生れの江戸育ち、『峯均筆記』に、長清はもっぱら柳生流を稽古とあるのは、これは当然。柳生宗矩以来の、江戸柳生の新陰流である。長清は、近習の家来衆にも習わせ、師範役らをおいて江戸屋敷内で稽古していた。
 長清は柳生新陰流を信奉していた様子だから、天下無双とかいう、かの宮本武蔵四代、吉田実連がどれほどのものか、見てやろう、というわけである。実連もそれを承知の上、ということであっただろう。
 そこで、まず武蔵流の表(基本型)を披露した。実連の門弟二人が出て打太刀をつとめた。この弟子二人のうち、皆田藤助は、前に播州明石で柴任から実連へ一流相伝のあったとき、打太刀役で立花重種から派遣された一人である。ここに御陸士〔かち〕とあるのは、歩兵隊所属のことで、身分は高くはない。
 もう一人の花房源内は、『峯均筆記』の割註に実連の婿だとある。後にみることになるが、『吉田家伝録』によれば、実連の妻は大村六郎左衛門武次の女で、彼女は二女と一男子を産んだ。そのうち長女が最初結婚したのが、花房伝左衛門入道道山の長男・花房三郎左衛門。これが「実連の婿」だという花房源内であろう。
 実連の長女は、花房三郎左衛門(源内)との間で一男を産み、これが当代花房伝左衛門。ところが夫婦は離婚して、長女は父・実連の家へ出戻った。後に彼女は、婿養子をとって吉田兵右衛門利重と再婚、一女子を産んで死んだ、女子もまた早世す、とある。このことは後に触れる。
 ここに、《三郎左衛門早ク死ス》とあるように、婿の花房源内も離婚後若くして死んだということだが、とにかく吉田実連は、門弟で娘婿の花房源内を連れて江戸勤番へ出たらしい。長清の御前で武蔵二刀流の型を披露した。
 型の披露が終ったあと、長清は仕合を命じた。つまり、柳生新陰流を学んだ長清の近習たちに、吉田実連の門弟・花房源内と皆田藤助の二人を試合させて、武蔵流兵法がどの程度のものか、実見してみようというわけである。
 これに対し吉田実連は、待ったをかける。理由は、花房源内と皆田藤助の両人は兵法未熟なので、相手になる長清の近習衆に怪我でもさせたら大変、だから自分が相手をしてご覧にいれる、というのである。しかし、両人は兵法未熟なので、近習衆に怪我でもさせたら大変、というのは、自分の門弟が勝つに決まっている、と言っているのも同然である。
 それで、吉田実連先生直々の試合である。長清の側近の面々、入れ替わり立ち替り出て、実連と立ち合うが、打っても外されてまったく当らない。長清、「二刀は当たらぬものだな」。二刀だから打ちを外せて当らないのだろう、というわけである。
 実連応えて、「二刀には限り申さず」。今度は、小太刀で相手をする。それでもやはり当らない。とうとう、無刀で相手をすることになった。長清は興奮して立ち上がり、近習衆に「やれ、打て」と声援を送った。しかし、結局一人として打ち当てた人はなかった。
     二刀 → 小太刀 → 無刀
 この「無刀」は、今日では剣豪小説の影響か、柳生流の専売特許のごとく誤解する者もあるが、それは誤りである。また、ここでの吉田実連の無刀は、柳生新陰流への揶揄なのでもない。さらに、武蔵の究極の心境は無刀だ、平和主義だとかいう吉川英治の譫言もある。
 しかしながら、武蔵流兵法は、剣術に限らず、総合的な戦闘術である。「二刀には限り申さず」という実連の言葉の通り、二刀ばかりではなく、五尺の大木刀や薙刀も用いれば小太刀も使う。十手・捕手術もあり、また格闘術としての体術もある。したがって、この実連のばあい、無刀といえば、体術のそれである。武器をもった相手の懐に入込んで、武器を奪い、ねじ伏せるのである。
 かくして吉田実連は、本来多様な武蔵流兵法の手わざを披露してみせたのである。長清の近習衆ではまったく相手にならない。長清は、柳生新陰流の師範役や、稽古で打太刀をさせる面々を温存していた。その連中は表には出さず、陰で待機させていた。
 そこで吉田実連は、「そこへ居られる方々、だれでもお打たせなされ」と言った。それが、長清の心証を害した。つまり、師範役の衆または打太刀の面々を挑発しまた貶す物言いであるかのように、長清に受け取られたのか、その後は当流、つまり吉田実連の武蔵流を、長清は心よく思われなくなった、という話である。
 そんなことがあったが、吉田実連の流義は勝れていると長清は思ったのか、直方を領知した後年になって、吉田実連の門弟、二刀一流の面々を、折々召して兵法を見学した、――というのがこの話のオチである。
 ここに、実連甥・早川瀬兵衛そのほか二刀一流の面々、とある。流儀名を「二刀一流」記す事例だが、これは五輪書に記載のある名称であり、とくに異とはしない。
 実連甥という註のある早川瀬兵衛は、『吉田家伝録』によれば、前に出た実連の姉の子である。実連の姉に婿養子して太郎右衛門家を嗣がせた。夫は従兄の五大夫貞成である。夫婦の長男が五大夫利明、二男が平助利治、三男がこの早川瀬兵衛実寛〔さねひろ〕である。実寛が早川氏を名のるのは、東蓮寺で早川与左衛門昌行の養子となったからである。
 三男実寛は早川家の養子に入り、能勢木工大夫頼実の妹を妻にした。寛文十二年(1672)養父早川与左衛門の遺禄百石を受継ぎ、東蓮寺藩主黒田長寛・長清に仕え、鎗奉行・町奉行など段々に出世した。享保六年(1721)六十六歳の時隠退して、吉田卓翁と号す。『吉田家伝録』では、吉田栄年が吉田家の古事を聞きに行ったりして、一族中の物知りである。吉田卓翁から得た知識情報として、しばしばその名が登場する。『吉田家伝録』では、リアルタイムの人であるから没年は不記。ただ早川瀬兵衛の生年は、隠居の年の年齢から逆算して、明暦二年(1656)である。
 その歿年については、大塚藤郷の『世記』(藤郷秘函)に記事あって、これを享保十八年(1733)卒とする。したがって、生没年は、明暦二年(1656)〜享保十八年(1733)で、享年七十八歳ということである。立花峯均より、十五歳年長の人である。
 早川瀬兵衛は東蓮寺黒田家の家臣で、黒田長寛(のち綱政)の代から仕えた。長寛が福岡の本家を嗣ぐと、弟の長清が直方(東蓮寺から改名)領を相続した。早川瀬兵衛三十三歳の折である。以来瀬兵衛は長清に長く仕えた。
 『世記』によれば、瀬兵衛は、大男で美鬚、全身毛むくじゃらである。世俗的な事には無頓着で、家産の有無を知らず、寡言にして酒を愛し、大酒を飲んでも、あまり醉わず、その性質は靜黙、坐ったままよく居眠りをしていたとある。外見は怖そうだが愛すべき人柄、ということだろう。瀬兵衛のこの酒の話は、丹羽信英も『兵法列世伝』に書いている。
 早川瀬兵衛は、兵法を叔父の吉田実連に学んた。数十年の功を積んで、宝永五年九月、その道統を相続した。年はすでに四十一歳であった。この年六月、立花峯均が遠島流刑になり、吉田実連は道統の断絶を憂慮して、甥の早川実寛に一流相伝したようである。早川瀬兵衛の方にも門弟は多かった。この結果、立花峯均が大蛇島から帰還すると、筑前二天流は立花系と早川系の二派並立という事態になったのである。
 『峯均筆記』によれば、吉田実連の甥であるこの早川瀬兵衛は、武蔵末流として術を長清に披露したとある。立花峯均はあまり何も書いていないが、吉田実連同門ながら、早川瀬兵衛との間には、いささか齟齬確執があった。立花系と早川系の両派対立の種は、すでに、この兵法五代の両者の間にあった。  Go Back




*【黒田家略系図】

官兵衛孝高―┐
 ┌―――――┘
 └長政┬忠之―┬光之―┐
    |   |   |
    ├長興 └之勝 |
    | 秋月  東蓮寺
    └高政     |
     東蓮寺    |
 ┌――――――――――┘
 ├綱之 廃嫡
 |
 |初東蓮寺
 ├長寛―┬吉之
 |後綱政└宣政=継高―重成
 |        ↑
 └長清―――――継高
   直方





東京都立中央図書館蔵
黒田家江戸屋敷の位置
武州豊嶋郡江戸庄図
















*【吉田家伝録】
《太郎右衛門実連ノ一女
母ハ大村氏ノ女ナリ。始メ花房伝左衛門入道道山ノ長子・花房三郎左衛門ノ妻トナリ、一男子ヲ産。是則当花房伝左衛門ナリ。三郎左衛門ノ妻離別シテ父ノ家ニ帰リ、三郎左衛門早ク死ス。故ニ後当吉田兵右衛門利重ニ再嫁シ、一女子ヲ産デ死シ、女子モ亦早世ス 》


*【吉田実連関係系図】

○八代六郎左衛門道慶┐
 ┌――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬重成┬知年―増年┐
 |      |  |┌――――┘
 |      └利成|└治年―栄年
 |         |
 |         └利安―利重
 |
 └六郎左衛門利昌┬五兵衛利高―貞成
         |
         └太郎右衛門利貞
 ┌―――――――――――――――┘
 ├女 婿養子吉田五大夫貞成
 |
 └実連┬女 初花房三郎左衛門妻
    |  後再婚吉田兵右衛門利重
    |
    ├女 奥山茂右衛門妻
    |
    └忠左衛門実勝 早世







芳徳寺蔵
柳生但馬守宗矩座像










*【吉田家伝録】
《貞成ノ三男早川瀬兵衛実寛  母同ジ。東蓮寺ニ於テ早川与左衛門昌行ノ養子トナル。(中略)昌行、之勝君・長寛君ニ仕へ、寛文十二年壬子ノ歳十二月二十七日死ス。実寛養父ノ禄ヲ受継ギ、長寛君・長清君ニ仕へ、鎗奉行・町奉行段々命ジラル。享保六年辛丑ノ歳八月十七日隠退シテ、吉田卓翁ト号ス。時ニ六十六歳。実寛ノ妻ハ当能勢木工大夫頼実ノ妹ナリ》

*【吉田実連関係系図】

○八代六郎左衛門道慶┐
 ┌――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬与次
 |      |
 |      ├重成┬知年―増年┐
 |      |  |┌――――┘
 |      └利成|└治年―栄年
 |         |
 └六郎左衛門利昌┐ └利安―利重
 ┌―――――――┘
 ├五兵衛利高―五大夫貞成
 |        |
 |        ├―┬利明―利数
 |        | |
 └太郎右衛門利貞┬女 ├利治
         |  |
         └実連└実寛
              ↓
   早川与左衛門昌行=瀬兵衛実寛


*【世記】
享保十八年癸丑四月十九日、傷寒ヲ病テ家ニ卒ス。聖福寺ノ内圓覺寺ニ葬ル》
《實連師ノ甥、兵法ヲ實連師ニ學ブ。數十年ノ功積ンデ、寶永五年九月七日、其統ヲ續グ。年四十餘歳。門弟頗ル多シ。長ケ偉大ニシテ美鬚ナリ。偏身手足不毛ハナシ。家ニ居テ家産ノ有無ヲ不知、寡言ニシテ愛酒。大飲スレ共、能ク不醉。性質靜黙、坐シテ能ク睡ル。而シテ内文明也。外柔順、其沌ニ近シ。門人輩集リ、稽古ヲ見ルニモ不倦。亦タ上等ノ人ノ拙キ業ヲシ、ヒシゲナドアレバ、是非ヲ言外ニセズシテ、面色兀然シテ、不常手ノ毛逆立、膚惡寒アルモノヽ如シ。又、下等ノ人ノ能キ仕合アルヲ見テハ、感色益然リ。平常ニテハ、和柔ニシ笑ミタル如シ》
 
 (7)半藏ハ無二流ノ二刀也
 無二流の小河半蔵との試合のことである。新免無二の弟子は、『峯均筆記』には、前に青木條右衛門の記事があり、無二流に対するネガティヴな感情の所在をみたのだが、ここでもそれは共通しているようである。
 小河半蔵という人物のことは不明である。ただ、『峯均筆記』が何の注記もなく名を出しているところからすれば、立花峯均周辺にとって自明の人物のようで、おそらく彼は筑前小河氏の一族であろう。立花家や吉田家が小河氏と姻戚関係にあったことは、前に小河露心の記事に関連して述べた。
 筑前に関係する新免無二については、『峯均筆記』には無二が、黒田官兵衛の弟・兵庫助利高の与力だったという記事がある。また他の事例では、たとえば黒田二十四騎の菅六之助正利(1567〜1625)が無二に剣術を学んだという伝説もある(菅氏家譜)。あるいは、立花峯均の兄・重根が関与した海路記『江海風帆草』には、宮本武蔵という者、父は、名を筑前國宮本無二之助という者の子で、筑前の産なり、という伝説記事まである。そういう具合に、十八世紀初頭までには、新免無二・武蔵父子を筑前と強力に膠着させる伝説が生じていたのである。
 これは、播磨にいた新免無二が黒田勢に参加したという事実を反映したものであるが、そういう伝説の物質化は、また慶長年中黒田家分限帳の記事を生産した当のもので、そこには、「武州師父」新免無二は百石取りで、播州人と記載されている。黒田家分限帳の無二の記事は慶長年中に書かれたものではなく、後世の無二流と武蔵流の流末伝説の影響下に書かれたものであろう。
 ともあれ、新免無二がその播州時代から黒田勢に関与したのは、前後の状況から慥かだが、また無二流の影響は爾後長く存続したようである。それゆえ、『峯均筆記』の小河半蔵の記事は、吉田実連や立花峯均と同時代に、筑前で無二流が存在し、その流儀が行われていた、という証言として読むことができる。
 ところで無二流そのものの存続は、筑前には限らなかったとみえる。たとえば近松茂矩(1697〜1778)の『昔咄』には、尾張の無二流の存在を示す記事が見られる。松井〔しょうせい〕流の松井清兵衛については、《兵法ハ無二流なり》とある。
 同書にはまた、柳生連也斎厳包(1625〜1694)と同時代の、福留三郎右衛門の記事がある。柳生厳包は、尾張柳生流始祖・柳生兵庫助利厳(1579〜1650)の三男である。福留は柳生流兵法の達人だったが、後に山田左近の門人・彦坂愚入の弟子になって、「新免無二流の二刀」を学んだとある。
 しかも面白いことに、そのため福留は柳生家と不和になったという。無二流の二刀を修行した後に、柳生連也斎と仕合をしたが、ことごとく連也が勝って、福留三郎右衛門は打ち出すこともできなかった。されども、色々のことがあって「不和なり」という。福留には柳生連也斎の他に勝つ者がなかった。そこで遂に一家を立て、「円明流」と称して兵法指南という。
 このように福留三郎右衛門は、柳生流から無二流へ転向したケースである。無二流の福留が円明流を称したという興味深い記事もあるが、ここではあえて看過しておく。
 さて、『昔咄』には、尾張の無二流の所在を示すとともに、「新免無二流の二刀」という表現がある。これは、『峯均筆記』の、小河半蔵は「無二流の二刀」である、という記事に照応するものである。
 そうなると、「ちょっと待ってくれ。二刀流は、宮本武蔵独自の剣法ではないのか」という声が聞こえそうだが、それは俗説に汚染された偏見にすぎない。
 たしかに小倉碑文(北九州市小倉北区赤坂)に、――父・新免は無二と号し、十手の家をなした。武蔵はその家業を受け、朝な夕な研鑚し考え抜いた結果、彼が明白に知ったのは、十手の有利性は一刀のそれに倍すること、それも、はなはだ大きな差があるということである。とはいえ、十手は常用の武器ではない。これに対し二本の刀は、腰廻りの常備の道具である。とすれば、二刀をもって十手の真理とするとしても、その長所に違背することはない。ゆえに、十手を改めて、二刀の家としたのである、云々という記事がある。
 この解説によれば、無二は十手、武蔵は無二流十手の家を受け継いで、無二の十手術を工夫し、ついに二刀流を発明した、という筋書である。武蔵の二刀流の原型は、無二の十手術だということは確かである。しかし、無二流十手術が二刀流とは全く違うと思うのは、小倉碑文を読み損ねた結果の錯覚である。そもそも十手は左手、右手には太刀をもつ。十手術は本来二刀流なのである。小倉碑文の記事は、左手の十手を小太刀へ替えて用いた、というほどの意味である。
 上にみたように、吉田実連は二刀でも、小太刀でも、また無刀でも術をよくした。また、従来注目されず看過されるところだが、小倉碑文には、武蔵が剣を飛ばす名人として称賛されてもいる。これなど、まさに武蔵流兵法の現実形態であろう。武蔵の兵法は二刀に限らず、多種多様な武器と兵法を含んでいる。それは実戦が日常的だった戦国の兵法である。武蔵は、そのような総合的な戦闘術としての無二流を継承したのである。
 それゆえ、本来、無二流と武蔵流の差異境界は曖昧である。したがって、無二流の二刀というのは、それじたい異とするに当らない。尾張の『昔咄』に「新免無二流の二刀」という記事があるのも当然である。二刀流は宮本武蔵の専売特許だと思うのは、武蔵が虚構の英雄になったおそらく江戸後期以来の偏向したイメージである。

 さて、吉田実連は小河半蔵と試合をしたことがある、という『峯均筆記』の話であった。半蔵は無二流の二刀である。半蔵は実連と親しかったのか、いつも実連の屋敷へやって来ていたという。これは筑前福岡時代、中年になった実連の屋敷でのことであろう。
 まず、吉田実連家来の藤兵衛が半蔵と試合をした。実連は知行四百石だから、家来は何人もいただろう。家来に「何の藤兵衛」という者があり、と立花峯均は藤兵衛の姓を失念しているが、はじめから知らなかったのかもしれない。
 結果は五分と五分である。つまり、半蔵が二刀の時は半蔵が勝った。藤兵衛も二刀になれば半蔵に勝った。ということは、二刀対一刀で対戦したのであり、腕が互角なら、二刀の方が有利だという当然の結果らしい。
 そこで、吉田実連先生の登場である。先生曰く、「どちらも二刀では勝つ。一刀では負ける。しかし二刀と一刀、本来差別なきものである」。ただし、二刀と一刀、本来差別なきものである、というのは、達人のみが措定しうる、常識を超えたテーゼである。凡庸な腕前なら、やはり二刀の方が有利なのである。
 先生、小太刀を手にして、「おれを相手にやってみろ」。半蔵は二刀である。しかし、立合いの結果は、数本やっても半蔵は一本もとれない。さらに、半蔵がひどく焦って強打するところを、実連が小太刀で入込み、体当りをブチかました。先にみたように小兵ながら怪力の実連である。これはたまらない、半蔵の身体はぶっ飛んで、座敷の壁をぶち貫いた。半蔵は倒れた、失神したのであろう。体当りをブチかますのは、五輪書にあるごとく、これも武蔵流兵法である。
 だが、立花峯均は、その現場を見ていない。そのころまでは、自分はまだ兵法稽古をしていなかった、という。立花峯均が吉田実連に入門するのは、元禄四年(1691)二十一歳のときである。少し遅い。しかし、この、私はまだ稽古をしていなかった、というのは、つまり、まだ幼くて兵法稽古の年齢ではなかったの意味であろう。とすれば、これは、峯均が児童のころで、入門時よりも十年以上前のことであろう。
 それゆえ、立花峯均が実見したのは、この試合の「遺跡」である。このとき打抜かれた壁は、板を押し嵌め修繕して、後のちまでも残っていた曰くつきの遺跡だったのである。
 吉田実連がどんなに強かったか、立花峯均はいろいろ逸話を知っているようだが、ここで書き載せるべきほどの事でもないので、書き漏らした、という。とすれば、半蔵は、無二流免許の人である、と最後に強調しているのは、どういうことか。
 つまり、これは『峯均筆記』の特記事項であって、吉田実連が無二流二刀の小河半蔵を打ち負かした、つまり、無二流に対して武蔵流がいかに勝れているか、ということを語り伝えたいのである。これも、『峯均筆記』に特有の強い党派性が現れたケースである。  Go Back








*【丹治峯均筆記】
《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族、父ハ宮本無二ト号ス。邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也。無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ無二免許ノ弟子也》

*【江海風帆草】
《爰に又宮本武藏といふもの、父名筑前國宮本無二之助といふものゝ子にて、筑前の産なり》








*【昔 咄】
松井清兵衛 《清兵衛幼少より刀・槍・馬をこのみて、諸流を学習し、八条流・大坪流・人見流の免許を得ぬ。就中八条流〔馬術〕ハ、舎人より唯授一人を得たり。(中略)兵法ハ無二流なり。鎗も諸流を遣ひし。後に、馬・兵法・鎗共に、自己に一流を仕出し、松井〔セウセイ〕流と称しぬ》(第七巻)
福留三郎右衛門 《柳生流の兵法をよく遣ひ、新御番に被召出ぬ。鎗・長刀・居合・組討・棒等の業芸みな以て其奥秘まで習ひ、又軍学をし、其比世間にある所の流義悉く学び、士戦奇法といふ書を編集せり。若き時ハ儒を好み、中年より禅に参しぬ。詩文をよくせり。後に山田左近が門人彦坂愚入[始八兵衛]が弟子になりて、新免無二流の二刀を習ひぬ。ゆへに柳生家と不和也。二刀習練の後に、連也と仕合せしに、悉皆連也かちて、三郎右衛門切り出す事もならざりし。然れ共色々の事ありて、不和なり。殊に連也が外に三郎右衛門に勝つ者なかりし故、ついに一家をたて、円明流と称して指南せり。今にてハ佐々太岡右衛門・杉山甚大夫が教へる兵法のみ、三郎右衛門が流なり》(第七巻)


*【小倉碑文】
《父・新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼〔あらたか〕に知れり、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきと 。然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為すも、其の徳違ふこと無し。故に、十手を改めて二刀の家と爲す



鉄人流絵目録 實手取



 
 (8)能筆、能畫、細工モ能セリ
 吉田実連は、長崎番や江戸留守居など官僚として功ある人であるとともに、武蔵伝来の二刀一流四祖で兵法の名人であった。ところが、もうひとつ、実連には別の才能があった。それが、書画細工を能くしたことである。
 武蔵も、現存書画作品をみれば、文武両道の達人であったことが知れる。吉田実連も、そういうアーティストの面をもっていたのである。これは、二祖寺尾孫之丞や三祖柴任美矩には、決してなかった実連の特質である。
 ここまでストレートに『峯均筆記』の吉田実連記事を読んできて、最初、有能な官吏だと紹介されたかと思うと、次には小兵ながらとんでもない怪力の主だと知らされ、また、兵法において抜群の腕前の武士だとも披露されたのであるが、こんどは、書画細工の方面のアートの才能を紹介されるのである。こうしてみると、生真面目な実連は反面、多芸の人で、意外性のあるなかなか興味深い人物である。
 吉田実連の絵画方面の具体的な話として、『峯均筆記』が記すのは、実連の墨絵の竹は、蘇東坡の跡を追ったものであること。つまり、蘇東坡風の竹を描いた墨画で、画家実連は知られていたごとくである。残念ながら、画家実連の作品は現存していない。
 申すまでもなく、蘇東坡(蘇軾 1036〜1101)は北宋の代表的文人である。「唐宋八大家」の一人に数えられる詩人。つまり、韓愈・柳宗元・欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曽鞏・王安石という中に名を列ねられる。また、詩のみならず散文も秀逸、さらに書や画にも優品がある。絵画方面では、いわゆる「宋四家」の名があり、すなわち、蘇軾・黄庭堅・蔡襄・米芾と並称される人である。蘇東坡に画論あり、当時の新しい美学の提唱者でもあった。








故宮博物院蔵
蘇東坡 新歳展慶帖
中国美術館蔵
蘇東坡 竹石図巻

蘇東坡 黄州寒食詩
北京故宮博物院蔵
蘇東坡 古木竹石図手巻

 官僚としての蘇東坡は多難であった。王安石の新法派が実権を掌握すると、反対派の蘇東坡は朝政誹謗の筆禍事件で黄州に流罪となる。彼の詩文の代表作はこの時期に書かれた。東坡に小家を建てて住し、東坡居士と号した。その後、皇帝の代が替り旧法派が復権すると、蘇東坡も中央に復帰して、やがて宰相をつとめ国家の要職を歴任した。
 ところが、そのままでは済まないのが人生の転変、再び新法派が勢力を盛り返すと、蘇東坡は再び流刑の身。旧体制の重鎮として、今度は思い切り遠方へ流された。流刑地は恵州、さらに帝国版図南端の海南島である。
 東坡海外の詩と呼ばれるものは、この時期のものである。これで蘇東坡の余生は海南島の僻地と決まったかにみえたが、また皇帝交代して新旧法両派が和解となり、蘇東坡も赦免されて帰還、だが領地のある常州まで帰り着いたものの、同地で歿。享年六十六歳であった。
 こうしてみると、吉田実連の画風に関連してのこととは言え、『峯均筆記』にわざわざ蘇東坡の名が出るのも、立花峯均が自身流刑になったことのある身だから、ここに何事か立ち騒ぐものがあるはずであろう。
 実連の墨絵の竹が蘇東坡流というのは、弟子・米芾との問答で有名な「胸中成竹」論もあって、蘇東坡と言えば、墨竹の画と連想されるほどだったこともある。ただし、それのみならず、実連がいわば竹のような人だったからである。
 蘇東坡の『墨君堂記』に、竹を讃して、「風雪凌氏A以觀其操、崖石犖確、以致其節。得志、遂茂而不驕。不得志、瘁瘠而不辱。群居不倚、獨立不懼」とある。志を得れば、遂に茂って驕らず。志を得ざれば、瘁瘠して辱じず。群居して倚らず、独立して懼れず――けだし、この竹のような存在こそ、蘇東坡であり、また吉田実連であった。
 吉田実連の日ごろの友人であったと、『峯均筆記』に云う狩野友元は、実連を「東坡翁」と呼んだという。これは、実連が東坡流の墨竹画を得意としたというだけではなく、まさに生き方が東坡流だったからである。
 ちなみに、ここで名が出た狩野友元(?〜1732)は尾形守房(守辰)、福岡黒田家の御用絵師である。狩野探幽(1602〜74)の門人で、狩野姓を許され、法橋位に登り、狩野友元〔ゆうげん〕と称した。当時筑前を代表する画家の一人である。したがって立花峯均周辺では有名人であって、『峯均筆記』には何の註記もなく、狩野友元と直に名を出しているわけである。
 ところで吉田実連は、書画のほかに細工を能くしたということだが、その細工は印判彫刻である。刻は書のサブジャンル、書画に刻、というと文人の手わざである。それにしても、相撲の力士をも負かす強力の吉田実連が、こういう細かい細工をする図、というのも面白い場面ではある。
福岡市博物館蔵
黒田綱政像

黒田綱政 鶺鴒図
 上記の狩野友元との交遊もあり、主君の黒田綱政の周辺に芸術サロンが形成され、吉田実連はそのメンバーであったようである。それに黒田綱政は文武両道の嗜みとかで、自分でも絵画を描いたらしい。綱政は狩野探幽の末弟・永真安信(1614〜85)とその弟子・狩野昌運(1632〜1702)に絵を学んだ。安信没後狩野家を後見し、かつは幕府御用絵師となっていた狩野昌運を、福岡へ呼んで御用絵師として召抱えたのは綱政であった。綱政の作品には、「沖ノ島図」「蕪図」「鶺鴒図」などが現存している(福岡市博物館蔵)。
 綱政はそれで自分の絵の朱印判を、刻に秀でた実連に数多く注文した。綱政が部屋住みのころ以来、実連と親しくして、いつも御前で竹の絵を描かせ称美したという。
 黒田綱政(1659〜1711)が部屋住みのころから親しくしていたという。綱政の部屋住みというが、これはいつ頃か。綱政は再三述べたように、光之の三男で、叔父の之勝死後、幼少五歳にして東蓮寺藩主となった。部屋住みどころではないのである。この頃は長寛と称した。ところが、延宝五年(1677)兄綱之が廃嫡となって、長寛は福岡本家の嫡子となって、名も綱政と改めた。このときから綱政の部屋住み時代が始まるのである。『吉田家伝録』には、外桜田霞ヶ関の江戸上屋敷の上の段に、綱政のための居館(新御部屋)が新築完成し、延宝六年三月十四日に綱政はそこへ移った、という記事がある。
 そうして、父光之が隠居して家督相続、福岡城主となったのが元禄元年(1688)、だから綱政の部屋住み時代は、延宝五年〜元禄元年(1677〜1688)の足かけ十二年である。ただし部屋住みの嫡子・綱政は福岡に居たのではなく、江戸にいた。吉田実連が綱政と親しくなったのには、実連が江戸留守居役で、同じく黒田家江戸屋敷に住んでいた、という事情もあろう。
 吉田実連の画業も、狩野安信やその弟子・狩野昌運に学ぶところがあっただろう。また狩野友元(尾形守房)も同じ頃、江戸で狩野探幽の門人となって学んでいたのである。かくして、江戸屋敷の綱政の芸術サロンは、綱政が家督相続すると、そっくりそのまま福岡へ持ち越された。しかも狩野昌運までついてきたというわけである。
 なお、ついでながら、注意したいのは、吉田家本五輪書にある柴任美矩の印判である。これが吉田実連の刻印だとすれば面白いのであるが、しかし決め手は今のところない。他に実連の作品が出ればよいのだが、それは今後の発掘に期待することにしたい。  Go Back

吉田家本五輪書巻末 柴任割印

蘇東坡像
宋拓西樓蘇帖 蘇軾之二









*【墨君堂記】
《自植物而言之、四時之變亦大矣、而君獨不顧。雖微與可、天下其孰不賢之。然與可獨能得君之深、而知君之所以賢。雍容談笑、揮灑奮迅而盡君之コ。稚壯枯老之容。披折偃仰之勢。風雪凌肢ネ觀其操。崖石犖确以致其節。得志、遂茂而不驕;不得志、瘁瘠而不辱。群居不倚、獨立不懼》(蘇軾文集巻十一)




狩野友元(守辰) 剡渓訪載図


黒田綱政 沖ノ島図








*【黒田家略系図】

官兵衛孝高―┐
 ┌―――――┘
 └長政┬忠之―┬光之―┐
    |   |   |
    ├長興 └之勝 |
    | 秋月  東蓮寺
    └高政     |
     東蓮寺    |
 ┌――――――――――┘
 ├綱之 廃嫡
 |
 |初東蓮寺
 ├長寛―┬吉之
 |後綱政└宣政=継高―重政
 |        ↑
 └長清―――――継高
   直方





吉田家本五輪書火の巻 柴任印
 
 (9)柴任門人數百人ノ内、一流傳授、利翁一人也
 ここは、吉田実連の晩年と死去、そして子孫の話である。
 まず、吉田実連が致仕引退するときの話。武士が引退するとき、家督相続の承認手続きがある。それで、実連父子も御前へ召し出された。場所は、御次というから次の間、つまり主君居間の隣の部屋で親しく面接があったということである。
 吉田実連父子というと、後出のように、実連には遅く生した男子が一人あり、『吉田家伝録』によれば、幼名は六太郎。このとき御目見えして、家督を嗣いで忠左衛門実勝と称した。忠左衛門は吉田実連も壮年時まで名のった名である。
 問題は、実連致仕の時期はいつか、ということだが、『峯均筆記』にも『吉田家伝録』にもその記事はない。『峯均筆記』によれば、嫡子・忠左衛門実勝は宝永元年(1704)二十一歳で死亡しているとあるから、生年は貞享元年(1584)。実勝が十六歳で家督相続したとすれば、元禄十二年(1699)あたりが、実連致仕の年である。年齢は六十二歳ということになる。ただし、これも仮定の話であるが。
 『峯均筆記』のここでの記事は、吉田実連が、黒田家主君からいかに大切に扱われたか、ということを強調している。
 つまり、実連の致仕隠居は認めるが、剃髪して出家するのはしばらく待て、という綱政からの要求である。これが意味するところは、実連にはまだまだ在俗武士として働いてもらおう、という意向なのである。これが格別の意向だったので、立花峯均はそれを聞いて、則ち披露せり、つまりこの披露は、峯均がうれしくなって、人に言いふらしたということである。この場に立花峯均は同席していたのかもしれない。
 その後、出家を許され、吉田実連は「利翁」〔りおう〕と号した。ところが、『吉田家伝録』によれば、実連の初名は忠左衛門利翁〔としはる〕だという。年老いて隠退し、初めの実名をもって法名とし、利翁と号す、とある。『吉田家伝録』は、そのようにわざわざ書いているのだが、――しかし、利翁〔としはる〕が初めの実名というには、少し難がありそうである。
 吉田家本五輪書は、柴任美矩から吉田実連への地水火風諸巻相伝にあたって、宛名の通例のごとく「吉田忠左衛門殿」としており、諱まではわからない。空之巻相伝証文は「太郎右衛門實連」である。
 しかるに近年、越後の関係者の協力を得て越後二天流伝書を発掘したのであるが、その五輪書写本の内には、吉田実連について、「利重」という諱を記録するものがある。つまり越後系諸本の水之巻奥書によれば、明暦二年(1656)閏四月十日に、柴任は吉田実連に伝授し、つぎに吉田実連は元禄四年(1691)七月二十六日に立花峯均へ伝授したのだが、その時の名が、「吉田太郎右衛門利重」である。
 この水之巻の柴任の諱「秀正」は吉田家本と一致する。吉田実連の方は吉田家本では「吉田忠左衛門殿」という宛名だが、越後系諸本では、元禄四年のことだから「太郎右衛門」となっている。そういう相違があるが、ここに関して注意すべきは、越後系写本に「利重」という諱が見えることである。
 越後系諸本は、丹羽信英がもたらした立花峯均の系統である。おそらくは、水之巻の伝系部分にこの「利重」という諱があったのであろう。実連の祖父は利昌、父は利貞。したがって、実連のはじめの諱が「利」字を継ぐ「利重」だというのはありうることである。
 そこで、問題は上掲の『吉田家伝録』の記事である。それによれば、実連の初名は忠左衛門利翁〔としはる〕だという。年老いて隠退し、初めの実名をもって法名とし、利翁と号す、とあるのだが、これは吉田治年の記憶違いであろう。
 この「利翁」が隠居後の道号だったことは、筑前二天流早川系の兵法伝書の相伝証文でも確認できる。筑前二天流では、その道号や斎号に、五輪書の語句を取り込む慣行があった。たとえば、立花峯均は「巌翁」である。この「巌」は、五輪書の「巖の身」に典拠がある。その弟子、立花増寿は、「直通」斎、後に隨翁と称した。「直通」は周知の通り五輪書の語句である。早川系の月成実久は、「束放」と号し、大塚重寧は「秋猴」斎と称した。「束放」は五輪書の「束を放つ」により、「秋猴」は「秋猴の身」から採ったものである。
 そうしてみると、吉田実連の号「利翁」の「利」は、五輪書に頻出する「利」字であろう。つまり、兵法の利、利方、武具の利、打合いの利、我心より見出したる利にして、云々とあって、枚挙にいとまがない。実連が「利翁」を号したとすれば、それは五輪書にある「利」を典拠としたものである。
 つまり、吉田治年は、実連の初名は忠左衛門「利翁」だとするのだが、実際は忠左衛門「利重」だった可能性がある。おそらく吉田治年は「利重」名を忘れて、「利翁」と思い違えたものだろう。後になって話が混線して、初めの実名をもって法名とし利翁と号す、という解説にまで増殖したものと思われる。だが、ここは、『吉田家伝録』にはそう書いていると、注意を喚起しておくに留める。
 黒田綱政からは、江戸以来の親密な関係もあって、引退後も実連は何回も召し出された。書画や兵法の尽きせぬ話題で主従は懇談したものであろう。『峯均筆記』には、予(立花峯均)は、吉田実連が召出されるたびごとに、いつも奉りついたという。つまり、実連の世話係をつとめたということである。
 以上に加えて『峯均筆記』には、老君光之公も、利翁には一生親切になされた、と記す。黒田光之(1628〜1707)は、吉田実連を東蓮寺から福岡の本家へ引き上げた人である。以来、実連に目をかけ、出世加増させてきた。光之は、元禄元年(1688)に綱政に家督を譲って引退した後も二十年ほど存命であり、宝永四年歿。それゆえ、利翁には一生親切になされた、と記すのである。





福岡城内絵図










*【吉田家伝録】
《初名忠左衛門利翁〔トシハル〕。十三歳ニシテ始メテ之勝君二仕へ、扶持ヲ賜フ。之勝君卒去シ玉ヒシ後、光之君福岡ニ召出サレ、采地二百石賜フ。其後段々禄ヲ加ヘテ四百石賜フ。年老隠退シ、初メノ実名ヲ以テ法名トシテ利翁ト号ス》



近藤家本水之巻奥書伝系


      新免武藏守玄信 在判
正保二年五月十二日
      寺尾孫之丞信正 在判
承應二年十月二日
      柴任三左衛門秀正 在判
明暦二年閏四月十日
     吉田太郎右衛門利重 在判
元禄四年七月廿六日
      立花專太夫峯均 在判
        法名 廓巖翁



九州大学蔵
吉田家伝禄 吉田実連記事
 吉田実連は、宝永六年(1709)十一月三日、七十二歳、病いで家で亡くなったという。一空齋白室利翁居士が法号。聖福禅寺に葬る、とあるのは博多の安国山聖福寺(現・福岡市博多区御供所町)である。二度渡宋した日本禅の創始者・栄西の開基になる古い禅寺である。
 ところで、『吉田家伝録』をみると、宝永六年十一月三日と記事は同じだが、「歳七十三」とひとつ数が多い。吉田実連の生年は寛永十五年だから、これは『峯均筆記』の記事が正しい。
 さて、柴任門人数百人の内、一流伝授は利翁一人である、と。これは、『峯均筆記』が強調するいつものスタイルである。武蔵から一流相伝は、寺尾孫之丞ただ一人、寺尾から一流相伝は、柴任美矩ただ一人、そして柴任から一流相伝は、吉田実連ただ一人なのである。
 後にみるように、この吉田実連から一流相伝したのは、立花峯均ただ一人である。したがって、武蔵から単線のリニアな伝系が、いわば正系は我らのみと排他的に主張されるわけである。このことは前に何度か見たとおりであり、『峯均筆記』記述スタンスの特徴の一つである。
 しかしながら、吉田実連から一流相伝したのは、立花峯均ただ一人であるとすれば、そこに思わぬ事件が起こった。この唯一相伝者は、宝永五年(1707)六月、流刑に処せられたのである。このとき筑前二天流は、峯均の流刑によって、発生早々に道統絶滅の危機を迎えたのである。
 これに対し、同年秋、吉田実連は甥の早川実寛を相伝者に立て、一流存続の担保とした。これにより、吉田実連相伝者は、立花峯均と早川実寛の二人となった。実連の死はその翌年であるから、実連は爾後の措置をしたうえで死んだのである。

 吉田実連の家は、息子の忠左衛門が家督を相続したが、不幸にして利翁(実連)に先立ち、二十一歳の若さで、宝永元年(1704)十一月七日に死亡したという。これも『吉田家伝録』をみると、二十二歳にして病死す、とあって、息子の忠左衛門実勝のケースも享年が一つ多い。これは、『吉田家伝録』の記録の間違いであろう。『峯均筆記』の方を正しいとみておく。
 家督相続した息子の忠左衛門が先に死んでしまったので、実連は再度家督相続し直さねばならなくなった。残るは、しかし女子しかいない。そこで、黒田八右衛門弟の白国兵右衛門が、婿養子に仰せつけられ、家督を相続した。前述のように、実連には女子二人あり、長女は花房源内離別後、他へ嫁がずに家にいたのを、兵右衛門に娶らせたのである。
 『峯均筆記』によれば、二女は奥山茂右衛門へ嫁した。『吉田家伝録』によれば、実連二女が嫁した茂右衛門は、当奥山治右衛門の養父で、この治右衛門、実は斎藤木工之助の末子なり、とある。とすれば、実連二女には家督する男子がいなかったようである。
 『峯均筆記』には、利翁(実連)の妻は、大村六郎の叔母であるとする。大村六郎は立花峯均の当代で、周知の人物らしく、それゆえ注記なしに名を出している。『吉田家伝録』によれば、吉田実連の妻は、大村六郎左衛門武次の娘だとあり、武次の子・大村九左衛門武貞、その子・当大村六郎武雅なりとある。したがって、『峯均筆記』のいう大村六郎は、大村六郎武雅のことで、なるほど、彼の叔母が、つまり彼の父・九左衛門武貞の妹が、実連の妻だというわけであり、『峯均筆記』と『吉田家伝録』の記事が符合するのである。

 さて、ここで問題は実連の子孫である。『峯均筆記』によれば、実連の長女は花房源内と離別後、他へ嫁がずに家にいたのを、兵右衛門に娶らせたという。これだけでは、情報不足である。
 ここを『吉田家伝録』で確認すれば、長女はまず花房三郎左衛門に嫁した。この花房三郎左衛門が『峯均筆記』いうところの花房源内。離別後、吉田兵右衛門利重に再嫁す、とある。『峯均筆記』がいう黒田八右衛門弟の白国兵右衛門とは、この吉田兵右衛門利重である。
 婿養子の兵右衛門については『吉田家伝録』の方が情報が詳しく、黒田八右衛門義生〔よしなり〕の二男とし、白国作之進という初名も記す。そして、兵右衛門の実父・黒田八右衛門についても、黒田官兵衛の弟・兵庫助利高の曾孫であることを記す。つまり、兵庫助利高→伯耆政成→兵庫政一→八右衛門義生という次第である。政一の代には兵庫助利高の遺禄の影もなくなっていたが、それでも三百石の家督で家系は続いたらしい。兵右衛門に長兄があり、黒田八右衛門利尚。当代はその嫡子・八右衛門利道である。
 婿養子の兵右衛門利重は、『吉田家伝録』の記事では、早世した吉田忠左衛門の養子という形である。しかし吉田家へ養子に入るまえに、白国姓を名のっていたことからすれば、二男なので最初黒田家から白国家へ養子に入ったものらしい。白国〔しらくに〕というのは播州姫路近郊の氏姓で、吉田家先祖八代氏と婚姻関係にあった。白国氏も黒田勢九州移転にともなって、子孫が当地に居たのであろう。
 かくして、吉田実連死後、子孫はどうなったか。『峯均筆記』には記されていないが、兵右衛門の家禄は三百石。実連の息子・忠左衛門までは四百石だったから、百石減知である。しかしそれよりも、兵右衛門と再婚した実連の長女は、一女子を産んで死に、その女子もまた早世。兵右衛門は野村勘右衛門武貞の養女(武貞の弟・京都大文字屋五兵衛知貞の女)を後妻にした。
 この野村勘右衛門家というのは、前に出てきたことがある。
 つまり、立花峯均の父・重種の代に、立花家と吉田の本家に親戚関係が出来ていたことに関連して、野村家との姻戚関係を示したことがある。野村勘右衛門正貞の娘の一人は、立花重種の弟、つまり家老の立花勘左衛門増弘の前妻である。野村勘右衛門正貞の嫡子・為貞には、吉田知年の娘ろくが嫁し、彼女の生んだ女子のうち次女のたけは、立花重種の二男・五郎左衛門重根(立花実山)の妻。それとさらに、知年の孫娘、つまり増年の娘ふくが、貞享3年、立花勘左衛門増弘の三男・只之進重矩に嫁した。
 そういうわけで、立花重種は吉田家とは姻戚による因縁があり、吉田実連の世話を焼く理由もあったのだが、ともあれ、野村家をブリッジにして、立花家と吉田の本家とは親戚関係にあったのである。
 吉田実連の養子兵右衛門の後妻になった野村氏のことは、一応みておく必要があろう。吉田実連の子孫は彼女によって生まれるからである。『吉田家伝録』によれば、享保八年(1723)に吉田栄年が、野村勘右衛門朋貞に野村氏の系伝を問合わせたとある。
 野村氏の先は近江佐々木氏に出る。野村肥後守長貞は秀吉に仕え、領地一万六千余石。その嫡子・野村勘右衛門直貞の代に、黒田長政の招きにより筑前に来たり、采地五千六百石、中老職。直貞の嫡子・勘左衛門利貞、利貞の妻は黒田兵庫助利高の娘。したがって、ここで吉田兵右衛門利重とつながる。兵右衛門は黒田兵庫助利高の子孫だからである。
 野村勘左衛門利貞の嫡子・野村勘右衛門正貞は黒田兵庫助利高の娘を母とする。知行千五百石、代官頭・馬廻頭・目附頭・足軽大頭を勤めた。この正貞の娘が、立花勘左衛門増弘に嫁したことは上述の通り。正貞の嫡子が、野村勘右衛門為貞、知行千三百石、のち大組頭。号卜外。この為貞に吉田知年の娘が嫁し、その産んだ長女が立花重根(実山)の妻になったことも前に述べた。
 ちなみに云えば、この野村勘右衛門為貞の隠居所に、娘聟の立花重根が、卍山道白を開山として、一寺を建立した。それが博多の東林寺である。
 そして、為貞の嫡子が野村勘右衛門武貞で、家督相続。二男が大文字屋五兵衛知貞。京都の呉服商・大文字屋五兵衛の婿養子になった。武貞の長男は野村金右衛門恒貞、しかし早世した。そこで、武貞は、京都の弟・大文字屋五兵衛知貞の長男を養子にした。これが、当代の野村勘右衛門朋貞である。大文字屋は三男の平兵衛が継いだ。
 ところで、吉田実連の家督を継いだ吉田兵右衛門利重が、後妻に迎えたのは、野村勘右衛門武貞の養女ということだったが、彼女は武貞の弟・京都大文字屋五兵衛知貞の娘で、これを武貞が養女にして、吉田兵右衛門利重の後妻に入れたのである。実は、彼女の姉も、先に武貞の養女になっていたが早世した。それで、再度妹が筑前へ下って武貞の養女になり、吉田兵右衛門利重の妻になったという次第である。
 こうして関係を要約してみれば、吉田実連と立花峯均とは姻戚関係によってリンクする。すなわち、立花峯均のサイドからみれば、兄嫁、つまり立花重根の妻が、吉田本家の増年の姪、つまり吉田治年の従姉だというほかに、彼女は野村勘右衛門為貞の娘であり、彼女の姪が、吉田実連の家督を継いだ兵右衛門利重の後妻になった、という因縁なのである。
 なお、云えば、『吉田家伝録』では実連の末は知れない。というのも、『吉田家伝録』記述時点では、吉田兵右衛門利重が当代であって、その子孫の記述がないのである。
 最後に一つ、『吉田家伝録』に、吉田甚之丞という不思議な人物の記事があることを紹介しておく。吉田実連の父・太郎右衛門利昌が、肥前有馬陣で原城に戦死したとき、実連は生まれたばかりのまだ嬰児、それで実連姉に婿養子、吉田五大夫貞成に家督させたことは前にみた。貞成の二男に利治あり、これは実連の甥にあたる。利治の二女が嫁したのが吉田甚之丞である。
 吉田甚之丞は実連の甥利治の娘の夫である。しかし彼女は一女子を産んで、甚之丞と離別した。その後、福岡町の商人に再嫁したが早世した。吉田甚之丞は、黒田綱政に近仕し、六人扶持二十石。そして「君命によって、吉田太郎右衛門実連入道利翁の子と称す」とある。
 綱政は上記の通り、芸術サロンのこともあって吉田実連に親しくしていた。甚之丞が実連入道利翁の子と称すとあるをみれば、これは実連晩年のことで、実連の息子実勝が早世したので、おそらく、甚之丞を実連甥の娘の聟にして、実連の養子に、という綱政の命があったのだろう。
 そうして、実際にそうなって、甚之丞は利翁(実連)の子と称したのである。ところが、甚之丞は、
   《幾ナラズシテ、扶持ヲ放サレ、逐電ス》
 要するに、扶持を召放され、つまり禄を召し上げられて、逐電してしまったのである。何か不始末でもあったのか、それはわからない。そうして、甚之丞逐電のことがあって、「実連養子・甚之丞」は記録からも消えてしまった、ということらしい。
 実連の家は、出戻った長女が、白国作之進=吉田兵右衛門利重を聟にして家督相続、これで一件落着。と思いきや、この長女が死んでしまった。吉田兵右衛門は、野村勘左衛門為貞の孫娘を後妻にして、実連の末は続くことになった。
 ともあれ、吉田実連は、嫡子実勝に家督させたら早世、綱政君命で甚之丞を養嗣子にしたら甚之丞逐電と、家督相続はなかなか思うようには行かなかったらしい。しかし、長女に聟養子させた吉田兵右衛門、これは黒田官兵衛の弟・兵庫助利高の子孫で、結局、彼が吉田実連の家の後継者になったのである。  Go Back



聖福寺山門





*【丹治峯均筆記】
《ハカラズモ、寶永五年戊子六月三日、事ニツミセラレテ、大蛇嶌ニ謫居ス。コレ、業因ノ皈スル所カ。嘆テモ尚アマリアリ。此マヽニテ嶌ノ奴ト成果ント思シニ》






*【吉田家伝録】
《(吉田実連は)宝永六年己丑ノ歳十一月三日福岡ニ死ス。歳七十三。聖福寺ニ葬ル》
《三男吉田忠左衛門実勝  母同ジ。幼名六太郎。父ノ禄四百石賜フ。二十二歳ニシテ病死ス》


*【吉田家伝録】
《実連ノ二女  母同ジ。奥山茂右衛門ノ妻トナル。茂右衛門ハ、当奥山治右衛門ノ養父ナリ。治右衛門、実ハ斎藤木工之助ノ末子ナリ》
《実連ノ妻ハ、大村六郎左衛門武次ノ女ナリ。武次ノ子・大村九左衛門武貞、其子・当大村六郎武雅ナリ》








*【吉田家伝録】
《太郎右衛門実連ノ一女  母ハ大村氏ノ女ナリ。始メ花房伝左衛門入道道山ノ長子・花房三郎左衛門ノ妻トナリ、一男子ヲ産。是則当花房伝左衛門ナリ。三郎左衛門ノ妻離別シテ父ノ家ニ帰リ、三郎左衛門早ク死ス。故ニ後当吉田兵右衛門利重ニ再嫁シ、一女子ヲ産デ死シ、女子モ亦早世ス》
《忠左衛門実勝ノ養子当吉田兵右衛門利重  始メ白国作之進、実ハ黒田八右衛門義生〔ヨシナリ〕ノ二男ナリ[私二云、孝高君ノ御弟黒田兵庫ノ助利高主ノ嫡子、黒田伯耆政成、其長子黒田兵庫政一、其嫡子黒田八右衛門義生、其嫡子黒田八右衛門利尚、是利重ノ兄ナリ。利尚ノ嫡子当黒田八右衛門利道ナリト彼家ノ伝記ニ見ユ]。兵右衛門利重、養父ノ家ヲ継、禄三百石。利重ノ前妻ハ、実連ノ女、後妻ハ野村勘右衛門武貞ノ養女、実ハ武貞ノ弟京都大文字屋五兵衛知貞ノ女ナリ。武貞ハ当野村勘右衛門朋貞ノ養父ナリ》



*【吉田立花関係系図】

○八代六郎左衛門道慶┐
 ┌――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬重成┬知年┐
 |      |  |  |
 |      └利成└利安|
 |┌―――――――――――┘
 |├増年┬治年―栄年
 ||  |
 ||  └女 立花只之進重矩妻
 ||
 || 野村勘右衛門正貞┐
 || ┌―――――――┘
 || ├女 立花勘左衛門増弘妻
 || |
 || └勘右衛門為貞
 ||  |
 ||  ├―女 立花実根妻
 ||  |
 |└女 ろく
 |
 └六郎左衛門利昌―利貞―実連



*【吉田兵右衛門関係系図】

○┌黒田官兵衛孝高―長政―忠之┐
 |             |
 └黒田兵庫助利高┐┌――――┘
 ┌―――――――┘└光之―綱政
 ├伯耆政成―兵庫政一┐
 |┌――――――――┘
 |└八右衛門義生┬利尚―利道
 |       |
 └女      └白国作之進
  |        吉田兵右衛門
  |
  |吉田実連 初花房源内妻
  |    |  後吉田兵右衛門妻
  |    |
  |    ├女 奥山茂右衛門妻
  |    |
  |    └忠左衛門実勝 早世
  |
  ├野村勘右衛門正貞┐
  |        |
 野村勘左衛門利貞  |
  ┌――――――――┘
  ├女 立花勘左衛門増弘妻
  |
  └為貞┬武貞┬恒貞 早世
     |  |
     |  ├朋貞 知貞長男
     |  |
     |  └養女 知貞女
     |   吉田兵右衛門後妻
     |
     ├女 立花実根妻 峯均兄嫁
     |
     |    ┌朋貞 武貞養子
     |    |
     └知貞――┼ 武貞養女
      大文字屋|
          └平兵衛 家督









*【吉田家伝録】
《利治ノ二女、初メ吉田甚之丞ノ妻トナリ、一女子ヲ産デ離別ス。故ニ福岡町ノ商・当深屋与三左衛門ニ再嫁シテ早ク死ス。吉田甚之丞ハ、綱政君ニ近仕シ、六人扶持二十石賜ヒ、且君命ニ依テ、吉田太郎右衛門実連入道利翁ノ子ト称スト云ヘドモ、幾ナラズシテ扶持ヲ放サレ逐電ス》


*【吉田甚之丞関係系図】

○八代六郎左衛門道慶┐
 ┌――――――――┘
 ├六郎太夫長利―重成―知年┐
 |   ┌――――――――┘
 |   └増年―治年―栄年
 |
 └六郎左衛門利昌
 ┌―――――――┘
 ├利高―貞成┌利明―利数
 |   | |
 |   ├―┼利治┬利貫
 |   | |  |
 └利貞┬女 └実寛└女
    |      |
    └実連┬女  吉田甚之丞
       |
       ├女
       |
       └実勝 早世
        




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