宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  7  Back   Next 

 
  14 庖丁人を懲らしめる
一 或時、小笠原信濃守殿ニテ、朋友共打寄、武州ノ兵法ヲ批判ス。(1)
 庖丁人ニ少シ腕力ノアル男、進出テ云様、「武州ニモセヨ、鬼ニモセヨ、ダマシ討ニスルナラバ、打ヌ事ハ有マジ」ト申ス。朋友共、「ダマシ討ニモ成間敷」ト爭フ。「然ラバ、今宵ニモ入來アラル*ベシ。賭物ニシテ可討」ト約セリ。
 其夜、武州參上セラル。彼庖丁人、暗キ所ニ隠レ居テ、武州ノ通ラルヽヲ待ツ。何心モナク過ラルヽヲヤリスゴシ、聲ヲカケテ、木刀ヲ以テヒシト打。武州、ウシロ様ニ身ヲ以テ當リ、左*ノ手ニ持タル刀ノ鐺〔コジリ〕ニテ、胸板ヲシタヽカニ突ル。彼男アヲノケニ倒レ、起ントスル所ヲ、刀ヲ抜テ、ムネ打ニ右ノ肘〔カイナ〕ヲ四ツ五ツ、シタヽカニ打テ、刀ヲ鞘ニヲサメ、サラヌ躰ニテ次ノ間ニ通リ居ラル。其跡ニテ大勢立寄、「氣付ヨ、薬ヨ」ト騒グ。
 信州ノ御前ヘモ聞ヘテ、次ノ間ヘ出玉ヒ、武州ヲ御覧ジテ、「武州、何事ニヤ」ト被仰。武州、御答ニ、「何者カ、御前近ク物騒シキ仕形故、警〔イマシメ〕置候。ヨモヤ働キ申間敷」ト被申。(2)
 其後、様々ト加療治トイヘ共、右ノ腕骨折テ、包丁ヲモ取事不叶、終ニ暇賜リシトカヤ。(3)

一 ある時、小笠原信濃守殿〔長次〕のところで、朋友どもが寄り合って、武州の兵法を評判していた。
 庖丁人でいささか腕力のある男が進み出て云うには、「武州であろうと、鬼であろうと、だまし討ちにすれば、打てぬことはあるまい」。朋友どもは、「だまし討ちでも成功するまい」と反論する。「しからば、今宵にも(武州が御殿に)やって来られるだろうから、打てるかどうか、賭けをしよう」と約束した。
 その夜、武州が(城内に)参上された。かの庖丁人は、暗い所に隠れていて、武州が通られるのを待った。(武州が)何も思わず通り過ぎられるのを、やり過ごし、声を掛けて、木刀でヒシと打った。武州は後向きに体当りをして、左の手に持った刀の鐺〔こじり〕で、(庖丁人の)胸板をしたたかに突かれた。かの男は仰向けに倒れ、起きようとするところを、(武州は)刀を抜いて、むね打(みね打ち)に右の腕を四回五回したたかに打って、刀を鞘に納め、何もなかったように次の間に入り、そこに(座って)居られる。その現場では大勢が集まって、「気付けよ、薬よ」と騒いでいる。
 (この騒ぎが)信州〔信濃守〕の御前にも伝わり、次の間へ出て来られて、武州をご覧になって、「武州、何事なのだ」と仰せられた。武州は答えて、「何者か、御前近く物騒な行いをしましたので、懲らしめておきました。よもや、もう悪戯はいたしますまい」と申された。
 その後、(庖丁人には)さまざま療治を加えたけれど、右の腕の骨が折れて、包丁を取る事ができず、とうとう暇を出されたそうな。

  【評 注】
 
 (1)朋友共打寄、武州ノ兵法ヲ批判ス
 小笠原信濃守家中の者たちが、武蔵の兵法について批判していた、という話の発端である。
 この「批判」は、今日の日常語ではネガティヴな意味に傾いているが、もとは必ずしもそうではない。これは「評判」という語と同じく、あれこれあげつらって優劣善悪を論じることである。「朋友ども」とあるように、小笠原信濃守家中で、ある友人グループが、武蔵の兵法を論じ合った、ということである。これは女たちの井戸端会議のようなもので、TVもインターネットもない時代である、男たちもことあるごとに集って、あれやこれやの話題に議論の花を咲かせたのである。
 ところで、どうして武蔵は「小笠原信濃守」なる大名と関係があるのか。『峯均筆記』には前に島原一揆の段で、武蔵が小笠原信濃守長次の後見をしたという逸話があった。この「小笠原信濃守」のことについては、そちらに述べてあるので参照されたい。
 小笠原長次(1615〜66)は、当時豊前中津城主である。武蔵は、長次とは彼が幼少の頃から知っている間柄である。この一段の背景は、武蔵が小倉から中津へ遊びに行ったということであろう。
 もうひとつ言えば、豊前中津というのも、武蔵に縁が深いと思われる土地である。というのも、武蔵が生まれた頃、故郷は小寺(黒田)官兵衛の領地で、その後官兵衛が秀吉の下で出世し、九州豊前に領地を与えられ、中津城を構築する前後、多くの播州人が当地へ移住した。そのとき、幼児の武蔵も豊前へ連れて行かれ、そこで養育された可能性がある、ということは既に述べたとおりである。
 もしそうだとすれば、中津は武蔵が幼少時育った土地であり、また、本書『峯均筆記』の記事にあるように、関ヶ原役のおり、武蔵が黒田如水麾下の部隊で従軍したという伝説があったとすれば、これまた、重ねて因縁のある土地である。
 それゆえ、以上のことからすれば、小笠原長次が中津城主となっていたのだから、武蔵が中津に滞在することもあっただろう。小倉ばかりではなく、中津に滞在用の宿所あるいは屋敷を与えられていたかもしれない。そういう状況を背景に、この一段を読む必要がある。  Go Back





小笠原秀政┬忠脩─長次 豊前中津
     |
     ├忠政 豊前小倉
     |
     ├忠知 豊後杵築
     |
     └重直 ─┐
          ↓
 松平重勝─重忠=重直 豊前龍王

小笠原氏略系図



小笠原氏所領配置図
 
 (2)庖丁人ニ少シ腕力ノアル男、進出テ云様
 武蔵が包丁人を懲らしめたというこの逸話は、武蔵評伝が必ず取り上げるもので、また山本周五郎の短編「よじょう」その他、小説の題材にもなっていて、有名なものであろう。
 ここで「包丁人」というのは、厨房台所の料理人である。包丁人という以上、御殿で出す料理を作る役目で、料理の職人として勤仕していたものらしい。
 今日のイメージでは、包丁人は板前さんという感じで、武芸とは無縁の庶民のように思えるのだが、当時は必ずしもそうではない。農民をはじめ工人・商人であれ、武芸を嗜み武装していた時代から、そう遠くはない。さらに、こういう包丁人のような職人は刃物を扱うのが仕事で、渡り職人のケースが多く、そういう廻国の旅の生活なかでは、荒くれもすれば、自衛のための武芸も必要であった。ここで、「包丁人に少し腕力のある男がいて」というのは、力もあれば武芸の心得もある、しかも刃傷沙汰にも場数を踏んで喧嘩に自信のある男伊達、というところがそのイメージであろう。
 みんなが「武蔵先生は名人、鬼のように強いぞ、凄いぞ」とか言うのを聞いて、むらむらとこの男の反撥心が生じる。そんなに強いと言っても、剣術試合のことだ。喧嘩ならどうだか。武蔵だろうと鬼だろうと、不意にだまし討ちにすれば、やっつけることはできないことはない。そう言うと、朋友どもは、だまし討ちでも成功するまいと反論する。それでとうとう、「打てるかどうか、賭けをしよう」という約束になった。
 武蔵が御殿に参上してきた。それで、かの包丁人の男は暗所に隠れていて、不意打ちにしようと、武蔵が通るのを待った。武蔵が通り過ぎるのを、やり過ごし、声を掛けて、背後から木刀でひしと打ち込んだ。これでだまし討ちは成功のはずだった。
 ところが、である。武蔵は後向きに体当りをしてきて、左手に持った刀の鐺〔こじり〕で、男の胸板をしたたかに突いた。鐺というのは、刀の鞘の尻の部分である。廊下を通る武蔵は左手に太刀をもっていた。写本にはこれを左の手とするものもあれば、右の手とするものがある。だが、これは作法からして左の手とするのが正しい。左手に持ったその刀の尻を上げて、それで男の胸板を強く突いたのである。
 かの男は仰向けに倒れた。男が起き上がろうとすると、武蔵は刀を抜いた。あわや斬るかと思うと、棟打ちに打った。むね打というのは所謂みね打ち、刀の刄ではなく棟・峯の方で打ち据えることである。武蔵は、男の右の腕を四回五回したたかに打って、刀を鞘に納めた。武蔵は刀を抜いたが、狼藉者を切り捨てなかったのである。
 そうして武蔵は、何もなかったように次の間に入り、そこに座って居る。次の間というのは控の間、武蔵はそこで殿様が出てくるのを待っている。現場では大勢が集まって、「気付けよ、薬よ」と騒いでいる。気付け薬が必要らしいから、狼藉者は失神していたのであろう。
 この騒ぎが信濃守(長次)の御前にも伝わり、長次が次の間へ出て来て、武蔵が座っているのを見つけて、「武州、何事なのだ」と問う。武蔵が包丁人を打ち据えたという話が伝わっていたのであろう。武蔵は答えて、「何者か、御前近く物騒な行いをしましたので、懲らしめておきました。よもや、もう悪戯はいたしますまい」と応える――。
 このあたり、武蔵の達人伝説として話がよくまとまっている。武蔵は背後から不意打ちを食ったが、前方へ飛んでかわすのではなく、逆に後向きに動いて刀の鐺で突いたという。初動反応は、かわすことではなく、すでに攻撃であり、この場面だけでもう達人の行動である。ここが一場の焦点である。
 それに、こういう乱暴を仕掛けられたら、通例は斬って捨てる。これは「正当防衛」という現代的観念とは別の話で、当時なら、不意に襲撃されたら、武士に限らずだれでも相手を殺害して差し支えないのである。ところが武蔵がそうしなかったのは、御前近いという遠慮もあり、また相手の道具が真剣ではなく木刀だという配慮もあろう。
 だから、武蔵が斬り捨てなかったのは懲しめ以外のものではないし、そうしたのもわかる。わかるが、わかり易くて、少々物足りない。説話としては、武蔵が狼藉者を打ち殺した、という話の方がリアリティがあるだろう。殿様の小笠原長次も、幼少の頃から世話になっている武蔵のこと、狼藉を仕掛けた包丁人を武蔵に殺されたからといって、文句を言うわけはない。
 同じ『峯均筆記』に後で、武蔵が若党を殺した話が出てくる。これは、若党が無礼をはたらいたので、ただ一打ちに頭を打ち碎いた、という話である。いまの包丁人を懲らしめた話を、これと同じ筋立てにすれば、話はこうなる。――包丁人の狼藉に対し、武蔵は右手に持った刀の鐺で胸板をしたたかに、突いた。男が倒れる。倒れた男が起き上がろうとするところを、相手の木刀を奪って、一打ちに頭を粉砕する。しかし、あら不思議、男の頭部からは一滴の血も流れなかった――。ようするに、兵法説話としてはこちらの方がかっこうがつく。  Go Back





中津城








武蔵拵刀装 鐺(こじり)



















*【丹治峯均筆記】
《或時、召仕ノ若黨ニ用事ヲ申付ラレシニ、言葉ヲカヘス。武州ノ玉フハ、「我等ニ向テ左様ナル儀ハ申サヌモノゾ」トテ、シタヽカニ呵リ玉フ。夫ニモコリズニ、亦詞ヲカヘシ、甚慮外ヲ申ス。其時、武州五尺杖ヲ取直シ、只一打ニ頭ベヲ打砕カル。「ウン」トバカリヲ一声ニテ、四足ヲノベテ息絶タリ。髪ノ毛アツク月代ノビタル男ニテ、カウベ砕ケレ共、血流出ル様ニハナカリシトカヤ》

 
 (3)右ノ腕骨折レテ、包丁ヲモ取事不叶
 これは後日談で、その後、武蔵に狼藉を働いた男には、さまざま療治を加えたけれど、右の腕骨が折れて、包丁を取ることができず、とうとう暇を出されたとか、という話である。
 武蔵に右腕を骨折させられ、包丁人が包丁を取ることができなくなって、馘首され失業した。殿様の小笠原長次にしても、幼少の頃から知っている武蔵である、包丁人は前後を考えず不用意なことをしてしまったわけで、名人に不用意な狼藉を仕掛けて報いを受けた、因果応報であるというわけである。
 『峯均筆記』はこれについて特に何のコメントもしていない。それというのも、不意打ちをうけた武蔵が、とっさに刀の鐺で後ろ向きに相手の胸板を突いて倒した、というところで、この名人譚は見せ場が尽きているからである。あとは蛇足である。かりに教訓がありうるとしたら、今日でも言うことだが、武道家は全身油断なき凶器である、不用意に背後から近づいてはならない、たとえ戯れでも背後から襲ってはならない、無事にはすまない、大怪我をするぞ、ということ以上のものではない。
 我々の注釈もここで終ってよいのだが、ところが困ったことに、この有名な逸話については、さまざま論評が多いのは周知のことで、それについて言及しておかねば読者が納得しない。
 『峯均筆記』では、この逸話は武蔵の武威名人ぶりを示す以外に他意はない。武蔵に腕を折られて失業した包丁人が哀れだ、という意味合いは、ここには少しもない。そのことに注意すべきである。
 しかるに、今日のイメージでは、包丁人の腕を折って失業せしめた武蔵は、情容赦がない、冷酷無慈悲だという感想が出ている。なにも、腕が折れて包丁を持てなくなるまでの打撃を与えることはなかろう。武蔵も名人なら、懲らしめるにしても、そこは、手加減してやればよいだろうに、というわけである。
 たとえば、直木三十五の説では、武蔵が鐺で突き倒したのさえ烈しすぎるし、手を叩き折るなど、乱暴で、大人気の無いことである。それに対し、『峯均筆記』の文脈は、常に油断なき武蔵、ということにある。話の筋道がまったくズレている。直木三十五が気づかなかったのは、乱暴で大人気の無いことをする武蔵とは、直木自身の頭の中に描かれたイメージにすぎないことである。『峯均筆記』がそんな武蔵像を描くはずがないのである。原典にないモチーフを勝手にイメージしてしまうのは、妄想というものである。
 こういう妄想からする武蔵像が出てくるのに対し、それは現代の見方でイメージしているだけで、当時の行動慣習を無視するから、そう見えてしまうのだ、と却下はできる。たしかに、前述の如く、当時なら武蔵を襲撃した男は斬り捨てられて当然で、そのことについてだれも異を立てなかっただろう。包丁人はバカなことをした、というに止まる。
 しかし、そうは言っても納得しないのが、現代人の道徳イデオロギーとでもいうべきもので、自身の妄想に気づかず、いや、武蔵は、情容赦がない、冷酷無慈悲だと、話は堂々巡りするだけである。時代小説は書けても、行動規範の歴史性という肝腎の真理を知らない、という徒輩が多すぎるのである。もっとも、時代小説とは現代人に読ませるために書かれるのだから、歴史性を欠くのもいたし方はないのだが。
 偶像破壊を試みる論説ではなく武蔵に加担する武蔵評伝にしても、その多くが、武蔵は情容赦がない、冷酷無慈悲だと槍玉に挙げる論評と、道徳イデオロギーにおいて軌を一にしている。武蔵評伝は一般に、武蔵の行動から何か教訓話を引き出さないとすまないような強迫観念に駆られており、口当たりのよい稀薄な武蔵像を大量生産してきた。そういう武蔵評伝にかぎって、この包丁人の逸話に言及しても、ぶざまに腰が引けてしまっている。それらが共有する道徳観は、おおむね、近世中期に発生した武士道のイデオロギーに汚染されているわけで、そもそも、そんなスタンスから武蔵の言動を評定できるはずがないのである。
 したがって、『峯均筆記』が拾ったこの逸話は、いわば武蔵を論ずる者どもの頭の程度を判別する審問官のようなステイタスをもっている。これをどう扱えるかによって、武蔵理解のレベルも知れるのである。
 ところが、我々にとって、それよりも肝腎の問題がある。この逸話の信憑性についてはどうか、何か確証があるのか、となるとはなはだ恠しいのである。
 説話の舞台は、小笠原信濃守のところで、とあるから、中津でのことだろう。時期はいつのことか知れないが、『峯均筆記』の諸説話の順序からすると、武蔵が肥後に移る前となって、これもはなはだ漠然とした話である。
 また、武蔵を不意打ちにして逆に懲らしめられたという男が包丁人だというのも、何か理由のあることである。武蔵が一介の包丁人を懲らしめたという点に関するかぎり、これは武蔵流兵法末孫にとって、いわば何の意義もない説話である。たとえば、同じ筑前二天流でも早川系には、この逸話に関し言い伝えがなかった。むしろ大塚藤實などは、《按ニ、於如説ハ先師卒爾タル輕行トセン。難信》(藤郷秘函 巻之二)と評している。
 そこで、もうひとつ想定しうるのは、「武蔵を試みて失敗する」という一般的な説話素の存在で、これは他の伝記にもみられるところである。たとえば、『武公伝』に次のような逸話がある――。
 あるとき肥後の太守(細川光尚か)が近習の者に、何とかして武蔵を困らせてやりたいが、何かよい方法を考えろ、という。皆が相談して、武蔵は殿様にお話しするとき、敷居に手をついて話をするから、両側から不意に襖を閉めて、武蔵の首を挟んでやろう、ということになった。ところが、それをやってみると、武蔵は驚く気色もなく泰然として話を続けている。どうしたのかと思って見ると、武蔵は扇を敷居に置いてそこに手をついていた。これでは、扇子が邪魔して武蔵の首は挟めない。武蔵を困らせる悪戯は失敗し、太守は大いに武蔵を賛嘆した。どんなときでも、武蔵に油断はない。「小ヲ以テ大ヲシルベシ」である、云々。
 実は、悪戯を敷居に置いた扇子で却けるというこの場面は、武蔵に限らず、他の剣豪にもよくある類型化したパターンの伝説要素である。『武公伝』の逸話では、「武蔵を試みて失敗する」という説話素に、これが応用されたにすぎない。実話とみるには、あまりにも話が類型的である。
 これに対し、『峯均筆記』の包丁人狼藉の話では、同じく「武蔵を試みて失敗する」という説話素が、独特な展開をみせている。すなわち、小笠原長次家中の武士が、武蔵を試みて失敗するのではなく、それを包丁人の役割にしていることだ。これがもし長次の家臣なら木刀で不意討ちにするようなこんな不用意な挑戦はしないから、話にリアリティがない。それゆえ、「武蔵を試して失敗する」のは包丁人という設定になる、という説話論的変換である。ここで包丁人というわけは、刃物を扱う職人ということで、武士と包丁人の共通点をブリッジにした換喩的なズラしである。
 これは、たぶん、中津城内から流出した伝説ではなく、「武蔵を試みて失敗する」という説話素が民間市中から城内に入って舞台を得た伝説である。したがって、これをとくに実話と見る理由はないのである。
 『峯均筆記』の特徴は、兵法の教訓とは程遠い伝説も構わず拾っていることだが、一方、兵法者との対戦記事が稀なのに対し、こういう日常の民間伝説に類するものを採録しているのである。兵法伝書にしては目立つこの一種の「不均衡」は、『峯均筆記』の独特な傾向を示すもので、いわば物語が筆者峯均自身の資質関心のありかを露呈していて、興味深いところである。  Go Back

























*【直木三十五】
《小笠原家にいた時分、というから、武蔵が五十をすぎてからのことであるが、この齢になっても、武蔵には、この辛辣さが、残っていた。それは――小笠原の厨房人が、武蔵とて、不意討ちをかけたなら、打てぬことはあるまいと、暗い廊下で打ってかかった。すると、武蔵は、刀の鐺でこの男の胸をついた。男が倒れると、刀で男の手を打ったので、男の手が折れてしまった。武蔵ほどの人物なら、鐺でつき倒すのさえ、烈しすぎる。躱〔さ〕けておいて、馬鹿とでも叱ればすむことである。それを、刀の鐺で倒れるまで、強く突いた上に、手を叩き折るなど、乱暴で、大人気の無いことである》(「上泉信綱と宮本武蔵」文藝春秋 昭和7年11月号)




























*【武公伝】
《時々御前被召御話申上ラル時ニ、太守樣近習ノ者ヘ仰附ラルヽハ、「何卒シテ武藏ヘ迷惑サセ度思フ。謀フベシト難ジ、方便ヲ以テスベシ」ト。武藏御咄申上時ハ、御次ノ敷井〔敷居〕ニ手ツキ居ラルヽ也。是ヲ知テ、首ヲ狭ムベシト評定シテ、來ルヲ待。少焉出仕ス。咄半バナラントスル比ヲイ、襖ヲハタトセクニ、少モ驚ク色氣ナク、泰然トシテ御咄申上ル。アヤシミテ見玉フニ、敷井ノ溝ニ扇ヲ入ヲク故、其アワイ一尺二寸スキマアリ。依首ニサワル事ナシ。公、大歎美シ玉フ。暫時モ由断ノ体ナク、小ヲ以テ大ヲシルベシ》

 
  15 将軍家師範・柳生但馬守
一 武州兵法、將軍家達上聞、可被召出御沙汰アリトイヘ共、柳生但馬守殿、御師範トシテ常住御前ニ侍席セラル(1)。武州、柳生ガ下ニ立ン事ヲ忌テ、「若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪剃ズ、爪トラズ、法外ノ有様也。御免ヲ奉蒙度」旨達テ御斷申上ラル。兵法御覧ノ御沙汰モ有之トイヘ共、「柳生ヲ御尊敬被成カラハ、我兵法備台覧トモ無益*」トテ、是モ御斷被申上。但州モ曽テ吹擧ナカリシ*トカヤ。(2)
 武州ガ繪ヲ御覧被成度由ニテ、御屏風ノ繪ヲ被仰付。武蔵野ニ月ノ出タル所ヲ、御屏風一盃ニ書テ差上ラレシト云リ。(3)

一 武州の兵法が、将軍家の上聞に達し、召出されるであろうとの御沙汰があったが、柳生但馬守殿〔宗矩〕が、(将軍家)御師範として常に御前に侍席されている。武州は、柳生の下に立つ事を嫌って、「若年より仕官の願望なく、髪も剃らず爪も切らず、法外の姿である。御免を蒙りたい」との旨を伝えて、お断りを申上げられた。兵法御覧の御沙汰もあったけれど、「柳生をご尊敬なされているからには、我が兵法を台覧(将軍御覧)に供しても無駄だ」と、これもお断り申上げられた。但州〔但馬守〕も、一度も(武州を)推挙しなかったとか。
 (結局、将軍が)武州の絵をご覧なされたいとの由で、屏風の絵を仰せ付けられた。(武州は)武蔵野に月の出たところを、屏風いっぱいに描いて献上されたという。

  【評 注】
 
 (1)柳生但馬守殿、御師範トシテ常住御前ニ侍席セラル
 ここは、武蔵が将軍家師範うんぬんの話で、今日世に武蔵の「猟官運動」の逸話として語られるところである。馬鹿げた話であるが、そんなネタを蔓延らせる原因がこの記事にあるかどうか――それを問題にしよう。
 『峯均筆記』によれば、武蔵の兵法が将軍家の上聞に達し、召し出されるであろうとの御沙汰があった、という。武蔵の兵法が有名になり、将軍の耳に入って、武蔵召出しという段取りになったというわけである。
 ところが、柳生但馬守が、将軍家師範として常に御前に侍席している。つまり将軍側近としてある。それで――、というわけだが、ここは話を中座して、まず、その柳生但馬守のことに触れておく必要があろう。
 柳生但馬守は宗矩(1571〜1646)のことで、大和国柳生庄の地侍・柳生宗厳(1527?〜1606)の五男である。父の石舟斎宗厳のことは、諸書にわかったようなことを書いているが、実は不明な部分が多い。柳生宗厳は、永禄八年(1565)に新陰流の上泉伊勢守秀綱に印可を受けたことになっており、柳生新陰流という根拠もそれにある。しかし上泉秀綱は伝説の人であり、上泉秀綱と柳生宗厳との遭遇について『武功雜話』などにある話も、後世の説話の域を出ない。
 また、柳生家は代々大和国柳生を本拠としていた、ということになっているが、戦国期の実態でさえ不明である。宗厳の代には、松永久秀麾下にあったようだが、松永滅亡により今度は筒井順慶麾下に入った。ところが天正十三年(1585)、秀吉が筒井氏を伊賀へ移封すると、柳生宗厳はわずかな領地も没収されたようである。これが、伝説では、松田織部之助という者が柳生家の隠田を密告したためだということになっているが、実際は柳生宗厳が状況の変転に付いて行けず、失領したということらしい。
 柳生宗矩は天正十八年(1590)の小田原役が戦績の最初。このとき二十歳の宗矩は、細川幽斎二男・興元の麾下で参戦したという。それも、細川家の与力としてではなく、一介の牢人として陣場借りで参戦したということらしいが、そのあたりは漠として不明である。大和住人なら大納言秀長に属するのが当然だろうが、柳生を失領して大和を退転していたとすれば、宗矩の細川麾下というのも解せないこともない。宗矩の兄たちもそれぞれ主取りをして、一家離散状態である。
 世上有名な、文禄三年(1594)の事跡がある。それは柳生石舟斎宗厳が、京で家康に召出され、五男宗矩と孫の兵介(利厳)を連れて伺候したという一件である。伝説では、このとき家康は柳生父子の演武に感じ、石舟斎に誓詞を出して弟子になったということで、その入門誓詞まである。あるいは、このとき石舟斎は自身が老齢ゆえ、五男宗矩を指南役として差し出したともいう。ところが、このとき宗矩が家康に召抱えられたという確証がない。前年の文禄二年、一刀流の神子上典膳(小野忠明)が二百石で剣術指南役に召抱えられているようだが、宗矩が召抱えられるのは、慶長五年(1600)の関ヶ原役の功によってである。
 関ヶ原役のとき、四男宗章は小早川秀秋麾下にあった。つまり反徳川の西軍である。かたや、五男宗矩は牢人を集めて、東軍に馳せ参じた。兄弟を敵味方両軍に配し、俗に言う二股をかけるのは戦国の習いで、勝敗どちらに転んでも家はサバイバルさせるという方法である。だから、関ヶ原役のおり柳生家が家康についた、と単純には言えない。
 ところが、小早川秀秋は周知の通り関ヶ原で東軍に寝返って、その結果、備中備前美作三国を得た。これで四男宗章も勝ち組になったが、戦後まもない慶長7年、秀秋が急死して小早川家は無嗣改易、宗章は牢人してしまう。その後米子の中村家に仕えたが、慶長八年(九年ともいう)御家騒動で討死してしまったという波乱の始末。
 しかし、五男宗矩の方は関ヶ原で戦功あり、まず千石、次いで加増されて計二千石を与えられ、しかも柳生に所領を回復した。宗矩は三十歳になっていた。ついで翌慶長六年、徳川秀忠の兵法師範になり、宗矩は三千石に加増された。これで、柳生家の方向は決まったと言える。
 宗矩の長兄・厳勝の長男・久三郎は、浅野幸長に仕えたが、朝鮮蔚山で戦死した。石舟斎は厳勝の二男兵介(利厳)を温存して、一子相伝の印可を与えて兵法嫡流としていたが、慶長八年、加藤清正の要請に応じ、二十六歳の兵介を肥後の加藤家に五百石で仕官させた。しかし兵介は肥後でトラブルがあり加藤家を致仕して、以後廻国修行。のちに兵介は兵庫助利厳と称し、尾張徳川義直に五百石で仕えた。この利厳の系統が尾張柳生となる。
 さて、その後の柳生宗矩のことだが、あまり事跡は明確ではない。宗矩四十四、五歳、慶長末の大坂役には冬夏の陣、いづれも家康の旗本として従軍したようだが、とりたてて戦功はなかったようで、戦後の加増もない。ただ、この頃すでに宗矩の江戸柳生は、将軍側近として大名統制のために陰で動く公安警察・諜報組織としての役割を得たものらしい。
 ただそれだけでは、三千石の旗本にとどまる。柳生宗矩の出世はこれからである。つまり、三代将軍家光の時代にめざましく抬頭するのである。
 すでに元和七年(1621)柳生宗矩は世子家光の兵法師範となっていたが、元和九年秀忠が隠居し、家光は二十歳で将軍となった。柳生宗矩は寛永六年(1629)家光に印可を授けているが、これはすでに儀礼的なものらしい。宗矩はこの年五十九歳、従五位下但馬守に叙任されている。いわゆる「柳生但馬守」はこれ以後の名で、それ以前は柳生又右衛門である。寛永六年以前にもかかわらず、宗矩をはじめから「柳生但馬守」と記して憚らない小説があるが、それは誤りである。
 これに対し、将軍側近とはいえ表の役職があったわけではない。しかし、宗矩六十二歳の寛永九年(1632)、新設の惣目付(のちの大目付)に就任。『教令類纂』の惣目付条々には、柳生但馬は第三位署名であるが、事前に三千石加増されて計六千石知行になったうえの就任、つまり同時に惣目付になった他の三人が四千石どまりだから、これは筆頭惣目付格である。年齢キャリアからしても妥当なところである。
 ところで前年、家光は、駿河大納言徳川忠長(1606〜1633)を甲府に蟄居させ、この年父秀忠が死ぬと、忠長を改易処分にした。弟の粛清である。忠長は、翌年自害した。加えてこの年五月、清正以来の外様の雄・肥後加藤家を諸事無作法であるとして改易、加藤忠広(1601〜1653)に堪忍分一万石を与えて出羽庄内に追放した。この発端は、将軍家光日光参詣を狙い年寄土井利勝が駿河大納言忠長と挙兵するという密書発覚で、この陰謀事件には陰で仕組んだ者があったのである。徳川忠長粛清と加藤家改易は、家光専制体制を確立するための強権的断行である。
 おそらく柳生宗矩の惣目付は、彼が従来裏でやっていたことを表に出しただけで、実際は諸家が言うほど新規なものではない。宗矩はわずか四年ほどで惣目付をやめるから、これは家光の権力確立に功のあった宗矩の名誉職就任ということだったろう。柳生但馬守といえば、長期にわたり大目付役にあったというイメージが一般にあるが、これも誤りである。
 かくして、宗矩六十六歳の寛永十三年(1636)、四千石加増されて一万石に。これで大名に列する知行高になった。このように大名にまで登ったのは晩年である。しかし「大名にまで登った剣客」という世間の言い回しは間違いで、宗矩は兵法師範として大名になったのではないし、なれるものでもない。将軍旗本としての長年の功績、とりわけ幕藩体制確立に寄与した、少なくとも二十年の警察諜報活動がその功績の内容である。晩年さらに加増を受けて、宗矩所領は最終的に一万二千五百石に達し、死後従四位下を贈られた。一介の浪人から旗本になり、大名にまで出世した典型例である。
 ここで、話を戻すことにする。――『峯均筆記』によれば、武蔵の兵法が将軍家の上聞に達し、召し出されるであろうとの御沙汰があった、という。武蔵の兵法が有名になり、将軍の耳に入って、武蔵召出しという手はずになったというわけである。この召出しはたんに召喚ということでははなく、出仕させること、召抱えることである。
 そのように武蔵召抱えの話があったが、柳生但馬守が将軍家師範として常に側近にある。それで話の展開は、武蔵の入る余地はない、ということのようである。
 これがいつの話か、またそもそも事実かどうか不明である。柳生但馬守殿というから寛永後期とすれば、将軍は三代目の家光であるが、『峯均筆記』がそう厳密に「但馬守」としたわけではなさそうだから、寛永後期ともできない。ただし『峯均筆記』の記事配列の順からすると、島原役よりも後の位置にある。そこからして、これは寛永十五年以後の話だということになる。そのころ武蔵が京大坂だけでなく江戸に行った様子もあるから、寛永十六年あたりの話という推測は可能である。しかし、それでもやはり、これがいつの話か、またそもそも事実かどうか不明である。
 周知のごとく『渡辺幸庵対話』に、柳生但馬守にくらべると《碁にて云ハ井目も武蔵強し》――段違いに武蔵の方が強い、などという話がある。『渡辺幸庵対話』は『峯均筆記』より二十年ほど前のものだが、もうその頃には、宮本武蔵と柳生但馬守を比較するような傾向が生まれていたのである。
 宮本武蔵への将軍家師範の話、そして柳生但馬守――となると、今日でも時代小説の好餌である。では、『峯均筆記』は、これをどんな逸話で物語るのか。  Go Back





柳生宗矩坐像 芳徳寺


*【柳生氏略系図】

○柳生宗厳┐石舟斎
 ┌───┘
 ├厳勝┬久三郎
 |  |
 ├久斎└利厳┬利方 →尾張柳生
 |     |
 ├徳斎   └厳包 連也斎
 |
 ├宗章 五郎右衛門
 |
 └宗矩┬三厳 十兵衛
    |
    ├友矩 刑部少輔
    |
    ├宗冬 飛騨守江戸柳生
    |
    └列堂 義仙 芳徳寺





徳川家康 新陰流誓紙
柳生宗厳宛 文禄3年




一刀石




柳生陣屋跡




徳川家光 新陰流誓紙
柳生又右衛門宛 寛永6年




*【教令類纂】
   条 々
一、諸大名御旗本え万事被仰出御法度之趣、相背輩於有之者、承届可申上事
一、対公儀、諸人不覚悟成者於有之者、承届可申上事。附、諸事御奉公たての儀并不作法もの、承届可申上事
一、年寄中其外御用人井諸役人代官以下に至迄、御奉公たて仕者、又御うしろくらき者於有之者、承届可申上事
一、御軍役嗜之わけ、承届可申上事
一、諸奉公人大小によらず身上不成もの之様子、承届可申上事
一、民まつり草臥候儀なと、承届可申上事
一、不依何事諸人迷惑仕候儀於有之者、承届可申上事
 寛永九年申十二月十八日
                秋山修理
                水野河内
                柳生但馬
                井上筑後






金山寺蔵
徳川家光像



*【渡辺幸庵対話】
《予ハ柳生但馬守宗矩弟子にて、免許印可も取なり。竹村武蔵といふ者あり、自己に剣術を練磨して、名人也。但馬にくらべ候てハ、碁にて云ハ井目も武蔵強し。細川越中守忠興に客分にて、四拾人扶持合力有也》〔宝永六年九月十日対話〕

 
 (2)武州、柳生ガ下ニ立ン事ヲ忌テ
 ここは、武蔵が将軍家兵法師範役を断わったという話である。ようするに、かりに将軍家兵法師範になっても、柳生宗矩の風下に立つことになる。武蔵は柳生の下に立つのを嫌った、というのが理由である。
 他人の風下に立つことを嫌うというのは、必ずしも不遜ということではない。戦国の武士なら誰でもそうだった。しかし、それに加えて、ここで思い起こすのは、『太平記』の記事である。
 小倉碑文が、武蔵を「播чp産、赤松末葉」と記して以来、後世武蔵は何かと赤松氏と関連付けて語られるようになった。『峯均筆記』も《新免武藏守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族》と記すのは前に見た通りなのだが、この赤松氏始祖は赤松則村、法号「円心」、云うところの赤松円心である。『太平記』は、近世初期に太平記読みが流行して、その記事がたいていの人間の耳に入り頭に入っていたのである。赤松円心について、《元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ…》とあって、この『太平記』の記事が、『峯均筆記』の伝説運搬者たちの念頭にあったものと思われる。いわば《人の下風に立ん事を思はざりければ…》の赤松円心にことよせて、この《武州、柳生ガ下ニ立ン事ヲ忌テ》というフレーズがある。看過できないのは、この暗黙の参照関係である。
 『峯均筆記』の武蔵像は、一言でいえば「不羈」ということである。不羈とは、束縛されないことである。一般には、才能があまりにも突出していて、常規では律しがたい、というような意味合いである。何ものに束縛されない自由、常規では律しがたい行動。そういう不羈なる武蔵というのが『峯均筆記』に通底一貫するイメージである。ここでも、武蔵は将軍家師範という極上のおいしい話さえ断わってしまうという、痛快な不羈ぶりをみせる。
 武蔵、「若年より仕官の願望なく、髪も剃らず爪も切らず、法外の姿である。御免を蒙りたい」との旨を伝えて、断りを申上げた。将軍が武蔵の兵法をご覧なさるという御沙汰もあったけれど、「将軍が柳生を尊敬されているからには、我が兵法を台覧に供しても無駄だ」と、これも断った。
 台覧というのは、御覧に同じく、身分の高い人が見物することである。ここでは将軍が見物するのをいう。将軍は柳生但馬守を尊敬しているから、というこの「尊敬」は、ここでは信奉に同じ。但馬守の柳生流に心酔している将軍に、自分の兵法を見せてもしようがない。武蔵は自分の兵法を将軍に見せるのさえ断わった、という話である。
 この『峯均筆記』の伝説は、兵法者なら誰もするまいことを武蔵にさせている。その点で、これは一種の痛快伝説なのである。痛快ばかりではリアリティがないから、引き合いに柳生但馬守が出されている。柳生但馬守は、ここでは武蔵の不羈とは対極的な属性のエレメントなのである。
   《但州モ曽而吹擧ナキトカヤ》
 この「とかや」の一文がよく生きている。武蔵は将軍師範役を断ったし、柳生但馬守も、一度も武蔵を推挙しなかった、そうな。――ようするに、柳生但馬守も武蔵を競合相手と見ていた、ということを言いたいのである。
 こうしてみるかぎりにおいて、この逸話は、武蔵が将軍家師範を断わり、兵法台覧さえ断わった、という説話素を有する痛快伝説に、宮本武蔵と柳生但馬守の対極性、そして両者のライバル関係という味付けがなされている。言ってみれば、事実関係とは別に、武蔵伝説はすでにここまで達しているということである。しかしながら、今日の時代小説の想像力は、フィクションだと見栄を切ろうと、実はこの域を決して越えていないのである。
 しかも戦後、武蔵は将軍家師範を狙った猟官運動にやっきとなったとかいう設定の、武蔵評伝や武蔵小説が後を絶たない。しかるに、江戸中期の武蔵伝記諸書にはそんな記事はどこにもない。あるとすれば、この『峯均筆記』のような、《「若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラズ、爪トラズ、法外ノ有様也。御免ヲ奉蒙度」旨達テ御斷申上ラル》という蒙御免伝説のみである。
 ところが、若年より仕官の願望などもたないはずの武蔵が、今日では笑止なことに、まったく話は逆で、将軍家師範になりたくてどうしようもない出世欲の塊である。笑ってしまうほかないのだが、小説家どもの頭の中で何をどう間違ったか、まったく正反対の話になっているのである。
 しかし、考えてみれば、この反転運動も興味深い現象である。今日の売文業者の根拠を欠いた妄想でさえ、欲望をめぐる現代状況を反映したものであるとすれば、武蔵周辺現象研究においては、それなりに社会心理学的分析のテーマになりうるというものではある。  Go Back








*【太平記】
《播磨国の住人、村上天皇弟七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて、弓矢取りて無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ…》(巻之六)



宝林寺円心館蔵
赤松円心坐像
 
 (3)武蔵野ニ月ノ出タル所ヲ、御屏風一盃ニ書テ
 将軍が兵法師範として召抱えようとすれば、武蔵はそれを断わり、また、武蔵の兵法だけでも見たいと言えば、それも断わる。それで、将軍は、武蔵の絵を見たい、屏風絵を描かせろ、ということになった。
 武蔵も、兵法のことなら拘りがあって、突っ張る理由もあるが、絵画となると、そういうわけもなく、そこで、絵を献上することになった。その絵は、屏風いっぱいに、武蔵野に月の出たところを描いたものだと、これまた具体的な絵柄まで語られている。
 武蔵野は、今日では地形断片がわずかに点在しているのみとなったが、宮本武蔵当時の寛永年間でも、四谷見付から西は草原と雑木林が果てしなく起伏連続する原野であった。この「武蔵野に月の出たところ」というのは、想像してみるに、『万葉集』にある東歌が有名で、
  《武蔵野は月の入るべき山もなし 草よりいでて草にこそ入れ》
とある、この歌を画題にして描いたものであろう。武蔵野は見渡すかぎり薄の原野で、視界を遮る山もなく、月は草原から出て草原に沈んでゆく。茫漠たる平原の水平線から東の空に出たばかりの月がまだ薄や秋草にからんでいる、そんな画趣情景の風韻渺茫たる水墨画、というあたりが我々が想像するところの武蔵作武蔵野図屏風絵である。
 しかるに、武蔵野図となれば、これはかなりよく描かれたもので、十七世紀初期慶長期に復古的な大和絵の画題として流行した。薄原に月をからませた絵柄が一般的である。別掲図の武蔵野図屏風は大胆な構図で月を配しており、こうした武蔵野図があまた作成されたようである。また、薄原に月のからんだ絵柄は、茶碗の絵付にも多く採用され、そして刀鍔にも武蔵野図の例が少なくない。このように武蔵野図となれば、だれでも知っているほどポピュラーなもので、そうした画題の一般通有性を前提にして、この一節は読まねばならない。
根津美術館蔵
野々村仁清作 色絵武蔵野図茶碗

鉄地木瓜形武蔵野図
 将軍に献上されたという武蔵の絵は、もちろん残っていない。『峯均筆記』は、これを後にだれかが見たとか、これがたとえばいついつの江戸の大火で消亡したとかいう後日逸話も記していない。したがって、これは「武蔵は絵を将軍家に献上した」という純粋な伝説なのである。
 後で出てくるが『峯均筆記』によれば、武蔵直筆の兵書(今日いう五輪書の原本とは限らない)は、のちに公儀に召上げられ、御城(江戸城)天守に収蔵されたのだが、火災で焼失してしまったという。とすれば、『峯均筆記』の伝説では、江戸の将軍家は、武蔵在世中に武蔵野に月の屏風絵を、そして武蔵死後には五輪書原本を、それぞれ収蔵したことになる。
 さて、この『峯均筆記』の説話では、武蔵は将軍家兵法師範として召抱えられることも、自身の兵法を台覧に供することも断わったが、絵画だけは描いて献上した、ということである。ここに、『峯均筆記』の世界に特有の諧謔に包んだ寓話性がある。すなわち――結局、将軍にふさわしいのは、兵法ではなく美なのだ。あるいは軍事ではなく平和なのだ、というメッセージである。
 『峯均筆記』の方はかようなものだが、しかるに一方、同じ筑前系伝記『兵法先師伝記』の話は、かなり変形されて内容が違っている。つまり、こういう話の筋である――。
 武蔵の兵法が天下に有名になって、公儀へもその噂が達し、将軍家光の師範にしようということで、江戸へ召出された。しかし、柳生但馬守宗矩が申上げるには、「武蔵と申す者は、兵法は上手ですが、異相なる者ですから、将軍家の御師範たるべき者にあらず」という意見。それが通って、武蔵の将軍家師範の沙汰が中止になった。されど、武蔵をわざわざ召出したのに、何事もなくして帰すわけにはいかないとか老中協議があったのだろう、武蔵が絵を能くすると将軍の上聞に達しているからとのことで、武蔵は江戸城に召され、屏風に墨絵の富士山を描いた。その絵は尋常ではなく、(狩野家)絵所でも賞美したので、今も将軍家の御道具となって残っているということである。将軍からはこの絵の仰付けがあっただけで、兵法の沙汰も無かったので、武蔵は江戸を去って、また諸国を廻った、云々。
 両者の内容の相違点を整理すれば、以下のようになろう。



石川県立美術館蔵
武蔵野図屏風
作者不詳 江戸初期


石川県立美術館蔵
同上図部分
月が薄原に沈む構図




島根県立美術館蔵
武蔵野図屏風
作者不詳 江戸中期




*【丹治峯均筆記】
《武州自筆ノ兵書、何等ノワケニテ公儀ヘ被召上候哉。御城ヱ上リ、御天守ニ納ル。焼失ノ時、此書ニ不限、数多之珍宝珍器、焦土トナレリトカヤ。可惜可悲》






*【兵法先師伝記】
《先師ノ兵法、天下ニ顯レ、公儀ヘモ上達シ、家光公ノ御師範タルベシトテ、江戸へ被召シ事アリシニ、柳生但馬守宗矩申上ラレケルハ、武藏ト申者ハ、兵法ノ上手ニ候得共、異相ナル者ニテ、将軍家ノ御師範タルベキ者ニアラズトノ事ナリシカバ、其沙汰止ミケル。然共、態々被召タルニ、何事ナクテモ濟ガタクヤ御詮議有ケン、武藏繪ヲ能スルトノ事、達上聞候由ニテ、御城へ被召、御屏風ニ繪ヲ被仰付ケル。先師奉得其旨、一双の御屏風ニ墨繪ノ富士山ヲ画レシニ、其繪不尋常、繪所ニテモ甚賞美シケル故、今ニ御道具トナリテ有トゾ。此繪ヲ被仰付、兵法ノ御沙汰モナカリシカバ、御暇申上テ又諸國ヲ廻ラレケル》
  丹治峯均筆記 兵法先師伝記
将軍の名 記載なし(「将軍家」のみ) 「家光公」と特定記載
武蔵の召出し 武蔵は召出しを断わる 武蔵は江戸へ召出される
兵法台覧 武蔵は無益なりと断わる 武蔵には兵法の御沙汰なし
柳生但馬守 一度も武蔵を推挙しなかった 「異相なる者にて将軍家の御師範
たるべき者に非ず」と反対
絵画献上の経緯 武蔵は召出しも兵法台覧も断わったが
絵の制作献上には応じる
わざわざ召出してそのまま帰すわけ
にはいかないと武蔵に絵を描かせる
画 題 武蔵野に月の出たところ 墨絵の富士山
絵のその後 記述なし 将軍家の道具になって現存

 こうしてみると、両者のスタンスの違いは明らかである。順に追って見てみよう。
 『峯均筆記』には将軍の名を記載しないが、『兵法先師伝記』では「家光公」と特定している。この具体化は後世のディテール増殖のしるしである。
 次に、『峯均筆記』では、武蔵は将軍家兵法師範として召抱えられることも、自身の兵法を台覧に供することも断わったとするが、『兵法先師伝記』では、武蔵は召出しに応じたことになっている。
 さらに『峯均筆記』では、柳生但馬守の存在は、武蔵が将軍家兵法師範として召抱えられることも、自身の兵法を台覧に供することも断わった理由であるが、柳生但馬守自身はとくに積極的な役割を演じていない。ところが『兵法先師伝記』では、柳生但馬守は、「武蔵は兵法は上手だが、異相の者だから、将軍家の御師範たるべき者に非ず」と反対したという。武蔵が将軍家兵法師範になることに異を唱えたというのだから、説話内容はかなり発展している。
 武蔵の異相云々の話は、『峯均筆記』では、後出のように、それが筑前黒田家での話である。武蔵の異相という説話素が、『兵法先師伝記』では江戸の将軍家兵法師範の話へと移設されているのである。『兵法先師伝記』は『峯均筆記』の内容を知っていたはずだが、必ずしも忠実ではない。むしろ伝説変化が多い。『兵法先師伝記』の段階では、将軍家兵法師範になることも、自身の兵法を台覧に供することも断わったという点に不遜を感じて、柳生但馬守が反対したため武蔵は将軍家兵法師範になることができなかった、という方向に伝説が変異したものらしい。
 また、『峯均筆記』では、武蔵は将軍家兵法師範になることも、自身の兵法を台覧に供することも断わったが、絵画制作の要請だけは受諾して、屏風絵を描いて献上した、ということである。『兵法先師伝記』では、まったく逆に、わざわざ武蔵を召出して何もなしに帰らせるわけにはいかない、そこで、画の上手である武蔵に絵を描かせた、という筋書になっている。絵を描くことになる経緯の方向は正反対である。
 これに加えて、『峯均筆記』では、武蔵の屏風絵の画題は「武蔵野に月の出たところ」とあって武蔵野図を示唆するものだが、『兵法先師伝記』では、「墨絵の富士山」としている。この「墨絵の富士山」では画題がまったく異なるようだが、武蔵野図には富士山が描かれるのはよくあることなので、それ自体は誤りとは言えない。ただし、伝説過程で武蔵野図の画題が抜け落ちて、「富士山」だけが話に残ったもののようである。伝説の濾過過程では、しばしば肝腎なテーマを置き去りにするものである。
 そして、『峯均筆記』では、武蔵の屏風絵のその後について記事は何もないが、『兵法先師伝記』では、武蔵の絵が(狩野家)絵所で称賛され、「今に御道具となりて有りしとぞ」と、将軍家の道具になっていたらしい、と語る。伝説はリアリティの保証人として証拠物の現存を示唆するものである。
 ともあれ、『峯均筆記』と後代の『兵法先師伝記』、この両者の伝説内容にはかなりの相違が生じているのを確認しうる。『峯均筆記』の伝説は、武蔵が自分から将軍家師範を断わり、兵法台覧さえ断わった、というところにポイントがある。武蔵の不羈を語るからである。これに対し『兵法先師伝記』では、武蔵は将軍家兵法師範への召出しに応じたが、柳生但馬守という邪魔が入って、挫折したという筋書きへ変化している。つまり、痛快伝説が残念伝説に変質したのである。
 このあたりをもう少し分析してみる。結果は両方とも、武蔵は将軍家兵法師範にならなかったという点では同じだが、一方は蒙御免説話であり、他方は挫折譚である。しかしどちらも解釈説話たることは明らかである。
    (事 実) 武蔵は将軍家兵法師範になったことはない。
    (解釈0) 武蔵は将軍家兵法師範にならなかった。
    (解釈1) 武蔵は将軍家兵法師範になるのを断わった。
    (解釈2) 武蔵は将軍家兵法師範になれなかった。
 解釈説話は、この解釈0から解釈1への方位をとるか、解釈0から解釈2への方位をとるか、によって、内容は蒙御免譚かあるいは逆の挫折譚に変る。後者は『兵法先師伝記』のケースで、柳生宗矩を「妨害者」に仕立てたものであるが、ここには、武蔵は将軍家兵法師範に(なれたのに)なれなかった、という残念の含みがある。両者の相違は、武蔵には仕官の望みがあったか、なかったか、ということである。古型の『峯均筆記』では、武蔵は最初から仕官を望まない者である。
 伝説の起点から時間がたてば、説話内容は大いに変質するものである。以上のように読んでみれば明らかな如く、今日の武蔵「猟官運動」説の起源は、『峯均筆記』にあるのではなく、後代の『兵法先師伝記』の記事にある。とすれば、諸君は『峯均筆記』を典拠として、「猟官運動」にやっきになる武蔵という、現在支配的な妄説を一刀両断しうる。しかし、『峯均筆記』の蒙御免譚にしても、「武蔵は兵法師範になったことはない」という事実の解釈説話にすぎないのである。  Go Back




江戸城天守 復元イメージ



*【丹治峯均筆記】
《武州ハ異相ナル者ニテ、若キ人ノ師匠ニハ成ガタシ。其上、仕官ノ望ミ無之者ト聞。無用ニ可致》









サントリー美術館蔵

サントリー美術館蔵
武蔵野図屏風
作者不詳 江戸前期

 
  16 黒田家か細川家か
一 武州、老年ニ至リ、命終ノ所ヲ可極ト被存立。古郷ト云、武勇ト云、黒田ノ御家カ、又ハ、兵法数寄ニテアル間、細川ノ家カニ可致トテ、先筑前ニ被下。(1)
 忠之公被聞召附、或時表ヘ御出之節、御家老中、其外列座之面々ヘ被仰ハ、「兵法天下無雙、新免武藏ト云者、博多ヘ下着ス。三千石ニテ召抱、左京殿[光之公ノ御事也]師匠ニ可致」ト御意被成。何レモ思掛無事故、御受申ス人モナシ。
 其後、又二三日過、表ヘ御出被成、「先日ノ武州ハ異相ナル者ニテ、若キ人ノ師匠ニハ成難シ。其上、仕官ノ望無之者ト聞。無用ニ可致」ト御獨言ニ被仰シトカヤ。(2)
 其後、肥後ニ至ル。越中守殿、甚悦喜ニテ、「何分ニモ望ニ任セラルベキ」ト也(3)。武州御答ニ、「曽テ仕官ノ望ナキ段ハ、異ナル形*ニテモ御察可被成。肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ參ルマジ。御知行ハモトヨリノ事、御米ニテモ極リテ被下ニ*不及。兵法ニ直段ツキテ惡シ。鷹ヲ使ヒ候様ニ被仰付候得」ト也。
 越中殿、御許容アリテ、臺所邊ノ入用ハ、鹽田濱之允取賄ヒ、其身ハ曽テ不存。
 鷹ヲ手ニシテ折々野ヘ被出、雨天ニテモ聢々、尻モカラゲズ、衣服ノ濡ルヽヲモ無厭、徘徊セラレシト也。(4)
一 武州は、老年になって、命終の場所を決めようと思い立たれた。故郷といい、武勇といい、黒田の御家か、それとも、兵法数寄(好き)という点では細川の家か、どちらかにしようと、まず筑前へ下られた。
 (黒田)忠之公が、これをお聞きになって、ある時、表〔公務の場〕へお出でましの節、ご家老中、そのほか列座の面々へ仰せられるには、「兵法天下無双、新免武蔵という者が、博多へ来ておる。三千石で召抱え、左京殿[光之公のことである]の師匠にいたそう」と言い出された。誰も思いがけないことゆえ、受け答えする人もなかった。
 その後、また二三日過ぎて、表ヘお出になられ、「先日の武州は、異相なる者で、稚い子の師匠にはなりがたい。その上、仕官を望んでいない者と聞く。(武州召抱えの件は)無かったことにしよう」と、独り言に仰せらたそうな。
 その後、(武州は)肥後へ行った。越中守殿〔細川忠利〕は、大いに悦喜して、「どんなことでも望み通りにしよう」とのことである。武州はお答えして、「まったく仕官の願望なきことは、(私の)異常な姿にもお察しなされたことでしょう。肥後で命を終るつもりでやって来ました。もう何方へも参りますまい。御知行はもとよりのこと、御米でも決して下さるには及びません。兵法に値段がついてはいけません。(ただ、私が)鷹を使えますよう仰せ付けください(それだけで十分です)」とのことである。
 越中殿は(武州の言分を)ご許容あって、生活の費用は塩田浜之允が取り賄い、(武州)自身は一切関知しなかった。
 鷹を手にして、ときどき野へ出られた。雨天でもその通りで(構わず野へ出られ)尻もからげず、衣服が濡れるのもいとわず、(野を)徘徊されたとのことである。

  【評 注】
 
 (1)老年ニ至リ、命終ノ處ヲ可極ト被存立
 武蔵は、老年になって、命終の場所を決めようと思い立ったという。命終の場所とは死に場所である。その死に場所が、養子伊織の宮本家のある豊前小倉でないところが、筑前系伝説のスタンスを示している。
 さて、『峯均筆記』の死に場所探し伝説をみてみよう。――武蔵は、命終の場所を決めようと思い立った。そこで、武蔵には選択肢が二つあった。ひとつは筑前黒田家で、もう一つは肥後の細川家。つまり、この話の基本構造は二者択一説話になっている。たんに死に場所なら、黒田家も細川家も関係なかろうに、かの宮本武蔵がやってきて、死に場所にするなどと言えば、領主の殿様も放っておかないので、黒田家か、細川家か、という話になるわけである。
 ここで、肥後の細川が、ただの「細川家」なのに、筑前黒田家は「黒田の御家」と記す。これは何故かといえば、筑前黒田家が立花峯均の主家だからである。我らの黒田家、という意味合いもある。とにかく、『峯均筆記』では、筑前黒田家は武蔵の命終の場所の候補なのである。むろん、これは筑前系伝説の我田引水である。その黒田家について、
   《古郷ト云、武勇ト云、黒田ノ御家カ》
とある。つまり、「故郷といい、武勇といい、黒田の御家か」ということで、武蔵が自分にふさわしい死に場所として黒田家を選ぶ理由は、「故郷」と「武勇」のふたつあるというわけだ。だが、黒田二十四騎など伝説的な事跡もあって、黒田家の武勇の方はわかるとしても、「古郷」(故郷)の方は少し解説が必要であろう。黒田家に関してなぜ「古郷」という言葉が出るのか。
 もちろん、武蔵の故郷は筑前ではない。武蔵は生国播磨である。『峯均筆記』も、冒頭に《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産》と明記している。では、筑前の黒田家が、なぜ武蔵の故郷と関係があるのか。
 ここでだれしも想起するのは、大名家としての黒田家の創業者が黒田官兵衛(1546〜1604)であり、官兵衛は播州の産だということである。したがって、黒田官兵衛を実質的な始祖とする黒田家は、そもそも故郷は播州なのである。黒田家中の中枢をなす重臣たちの多くが播州出身であり、また黒田武士団の少なからぬ部分が播磨を故郷としたのであった。
 そういうわけで、「古郷ト云」の語に含まれているのは、黒田家と武蔵は、ともに播州を故郷とする、出身地を同じくするという縁がある、ということである。
 ただし、『峯均筆記』の記者の認識は、そこまでであろうし、従来の武蔵伝記研究においても、ここでいう「古郷」が播磨のことだとする以上のことはない。だが、もう少しこの話は敷衍できる。
 武蔵産地を播磨国揖東郡宮本村と特定した、我々の研究プロジェクトで、明らかになったことが一つある。それは研究の副産物なのだったが、武蔵が生まれた天正十二年頃、武蔵産地の領主は小寺(黒田)官兵衛であったという事実である。官兵衛が秀吉から一万石を与えられて初めて大名になったのは、播磨国揖東郡においてである。天正八年の秀吉による官兵衛宛行状(黒田家文書)中に、「岩見庄内弐千七百石」とある。この岩見庄内に、かの宮本村が含まれるのである。
 したがって、黒田家の大名家としての出発地と、武蔵の出生地とは、場所を同じくするのである。「故郷といい、武勇といい、黒田の御家か」という文言は、『峯均筆記』の記事だとしても、それを超えての事実関係があると言うべきである。
 さて、筑前の黒田家の方はそういうことで、次に肥後の細川家の方はどうかというに、こちらは、兵法数寄〔すき〕という点では細川の家か、というわけである。この兵法数寄は、黒田家の武勇の伝統とは違って、当主細川忠利の個人的属性である。兵法数寄というのは、兵法の嗜みがあるという以上に、兵法修行に熱心だということである。これは、前に見たように、『峯均筆記』には、細川忠利が、《其頃ノ諺ニ、「公方様カ、柳生殿カ、越中殿カ」ト申程ノ兵法者也》と記すのと呼応する記述である。
 かくして、「あれか、これか」の二者択一説話のパターンが成立したところで、話が起動する。武蔵は、まず筑前へ下った。武蔵がどこから「下った」のかは不明だが、ここでは前後の逸話状況をみて、豊前小倉から、ということにしておこう。  Go Back
















九州豊前筑前と播州姫路




姫路周辺黒田二十四騎出生地



*【黒田官兵衛知行宛行状】 天正8年
揖東郡以福井庄内六千弐百石、岩見庄内弐千七百石、伊勢村上下千百石、都合壱万石、相副小帳進之置候条、無相違可有御知行候。御忠節次第弥可申談候。恐々謹言
  天正八        羽藤
   九月朔日       秀吉(花押)
    黒田官兵衛尉殿

 
 (2)忠之公被聞召附、或時表ヘ御出之節
 この「忠之公」は、筑前福岡城主・黒田忠之(1602〜54)のことである。忠之は、黒田官兵衛の孫で、長政(1568〜1623)の子である。元和九年(1623)家督相続して福岡城主。黒田家嫡流で、官兵衛からすれば三代目、しかしながら、いわゆる「黒田騒動」などあって、伝説ではあまり明君とはいえない大名だったらしい。長政は嫡子忠之の器量に不安を感じて、自身亡き後長興に秋月領を、高政に東蓮寺領をそれぞれ配分するよう遺言して、いわば黒田家存続のための「保険」をかけたのである。
 それはともかく、武蔵が死に場所を求めて、まず黒田領の筑前へ行った、という『峯均筆記』の設定だから、このとき黒田忠之は三十代後半という年齢である。忠之は、武蔵が来ていると聞いて、ある時、表(公務の場)へ出座のおり、家老はじめ重臣の面々列座の場で、「兵法天下無双、新免武蔵という者が、博多へ来ておる。武蔵を三千石で召抱えて、左京殿の師匠にしよう」と言い出した。
 すこし微妙なディテールに関わることだが、ここで忠之の科白によれば、武蔵が来ているのは、福岡ではなく博多である。福岡と博多は那珂川をはさんで対岸にある二つの町で、福岡が武家の町であるのに対し、博多は町人の町であり商業地区である。そうしてみると、『峯均筆記』が地元の人間の作ゆえ、ここで福岡ではなく博多という名を出しているのにも、何か暗黙の前提があるようである。ところが、この黒田家の逸話に関連して、小河権太夫に言及する小説や評伝が従来少なくない。むろんそれはここでは無関係なことである。ここで『峯均筆記』がちらりと出した「博多」のことに注目すべきであろう。書かれていることを看過し、書かれていないことに気が行ってしまう、という傾向にも困ったものである。
 さて、「左京殿」というのは、割注に「光之公ノ御事ナリ」とあるように、黒田忠之の嫡子・光之(1628〜1707)のことである。光之が左京大夫だったから、「左京殿」なのだが、光之が従四位左京大夫に任ぜられたのは、寛永二十年(1643)のことだから、この一件が武蔵が肥後へ行く前だとすれば、勘定が合わない。光之は幼名搥万、まだ元服前の子どもであり、初名の吉兵衛長之でもない。当然無位無官であるから「左京殿」というのは当たらない。しかし、後世の黒田家中では、光之は右衛門佐の前は左京大夫で、幼少から「左京殿」ということになっていたものらしい。ただし伝説のことだから、そのあたりはとやかく言うことはない。
 殿様の黒田忠之が、「武蔵を三千石で召抱えて、息子の師範にしよう」と、突然言い出したので、列座の面々、呆気にとられて、だれも応答する者がなかった、ということである。忠之にしてみれば、嫡子がもうすぐ元服なので、兵法師範にかの宮本武蔵を、と考えたという設定であろう。
 ところが、その後数日たって、忠之は表(公務の場)へ出座したとき、先日の前言を翻した。武蔵召抱えの件は無かったことにしよう、というのである。その前言撤回の形式が、武家の間主体的(intersubjective)な習俗作法の観点からして興味深い。
 つまり、忠之はこの日、「独言」の形式で前言を撤回した、とするのである。独り言だから、だれもこれに応答しなくてよい。先日の前言も、重臣たちはそれに応答していないから、遡って言えば、これも忠之の独り言である。表の座での公式の議題にはなっていない。かくして、表の公式の場での忠之の発言は、遡及的に取消されるのである。
   《無用ニ可致ト御独言ニ被仰シトカヤ》
 かくして、主君の粗忽な言動は、遡及的に抹消され、無かったことになる。本来、武士に二言なし、であるが、事は間主体的な場でのことだから、このように処理して、恥をかかせないという方法もあった。『峯均筆記』の伝説は、こういう武家の関係作法を、さりげなく織り込んでいるところが面白いのである。
 ところで、黒田忠之の「独言」では、武蔵を召抱えようという前言を、なぜ撤回したのかという理由が、二つ述べられている。一つは、武蔵が「異相なる者」で、稚い子の師匠には不適切だという点。もう一つは、武蔵にはもともと仕官の願望がないから、召抱えようとしても無駄だという点である。
 第二点の方からいえば、武蔵が筑前福岡へ来て死に場所を求めているわけで、黒田忠之はそれは幸いと、召抱えようとしたが、武蔵にはもともと仕官の願望がないから、勧誘しても無駄だとわかった、というにすぎない。
 これに対し、前者の第1点の方は、武蔵の教師としての適格性の問題である。武蔵が「異相なる者」で、稚い子の師匠には不適切だという判断が示されている。これはどういうことであろうか。
 前に見たとおり『峯均筆記』には、《一生髪ヲケヅラズ、爪トラズ、浴セズ》という、だれでも引用する有名な文言があって、これが武蔵異相のことだとみえる。また、前出の将軍家兵法師範を断わったという一件では、《若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラズ、爪トラズ、法外ノ有様也》とあるので、この「法外の有様」が異相ということらしい。
 こうしてみると、『峯均筆記』が強調する武蔵の異相というのは、常軌では律しがたい武蔵の生き方、というイメージに関連するようである。武蔵の異相や法外な有様というのは、秩序内に回収されないアウトサイダー、無頼者の表徴である。
 こういう無頼不羈な人物が、稚い大名嫡子の教師として不適切だという判断は、世間一般の常識的なもので、いわば秩序内思考である。戦国末の黒田家創業時には、そんな判断はありえなかった。初祖黒田如水や二祖長政は偉かったが、三代目になると、武勇で鳴らした家もこの通り。『峯均筆記』に揶揄やアイロニーがないわけではない。
 とはいえ、実際に、黒田忠之と武蔵の間にこういう一件があったかどうか、それは伝説のことで真偽のほどは知れない。むしろ言えば、武蔵が肥後を死に場所に択んだという伝説に対する、筑前系武蔵兵法流末の反応が、この説話を構成せしめたようである。
 つまりは、武蔵にとって死に場所は、「故郷といい、武勇といい」わが黒田家しかないはずなのに、なぜ、肥後の細川だったのか?――それは、あの三代目が、つまらないことで武蔵招聘を撤回したからだ、という解釈が発明されたのである。
 伝説は事実を事後的に解釈し、また理由を設けるものである。決して明君ではなかったという黒田忠之には、後世の家中でそんな伝説を立てられる理由もあった。祖父が軍略の天才で、父が歴戦の勇将として知られた人なら、凡庸でなくとも三代目は必然的に損な役回りを負うのである。
 黒田忠之が武蔵を三千石で召抱えようとしたというこの話は、二者択一説話のパターンにあまりにもうまく嵌りすぎている。筑前において、武蔵の命終地がなぜ細川の肥後だったのかを解説する説話が、こうした二者択一形式の説話パターンを取り込んだのである。
 これがフィクション以外の何ものでもないのは、まさにこの説話の中で、忠之が独言して、「なかったことにしよう」と云ったその言に、いわゆるメタレベルでの「フィクションの真実」が語られている。その通り、この話はなかったことにするのが、ようするに正しい読みなのである。
 『峯均筆記』は黒田家中の作だが、全体に事実関係が稀薄である。武蔵が生国播磨ということで、実際には黒田家中の人々とかなり縁があったはずなのに、そんな人的関係を具体的に語る伝説がない。あるとすれば、前に見た大伯父小河露心の記事しかない。
 このことは、『峯均筆記』の記事が黒田家中固有の伝説情報を媒介にしておらず、筑前二天流サークル周辺の伝説情報しかなかったことを意味する。その意味で、武蔵伝記と云うには、はなはだ頼りないものであるが、それでも、肥後系伝記よりは幾分かマシな部分がある、というのが武蔵伝記諸書の実態である。  Go Back



*【黒田家略系図】

○┬官兵衛孝高―長政┬忠之 福岡
 |        |
 ├兵庫助利高   ├長興 秋月
 |        |
 ├修理亮利則   └高政 東蓮寺
 |
 └図書助直之





文化九年写古地図・九州大学蔵三奈木黒田家文書
福岡と博多



福岡市博物館蔵
黒田忠之画像






福岡城址






*【丹治峯均筆記】
《武пA一生髪ケヅラズ、爪トラズ、浴セズ。老年ニ至テ、在宿ノ節ハ無刀ニテ、五尺杖ヲ平生携トイヘリ。夏日ニハ、手拭ヲシメシテ身ヲ拭ハレリ。「吾、仕官ノ望ナシ。タトヘバ、手桶一ツノ湯ニテハ身ノ垢ハ洗ベシ。心裡ノ垢ヲスヽグニイトマナシ」トノ玉フ。壮年之時ハ髪帯ノ辺迄タレ、老年ニ及テハ肩ノ辺迄下リタリトカヤ》
《「若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラズ、爪トラズ、法外ノ有様也。御免ヲ奉蒙度」旨、達而御断申上ラル》

 
 (3)其後、肥後ニ至ル。越中守殿、甚悦喜ニテ
 二者択一説話は、後段に入る。最初筑前黒田家に行った武蔵は、そこを去って、肥後へ行く。すると、越中守はたいそう喜んで歓迎したという。
 この「越中守殿」は、前述の如く肥後熊本城主・細川忠利(1586〜1641)のことである。藤孝(幽斎)、忠興(三斎)を祖父と父にもつから、忠利も三代目である。ただ、この三代目は筑前の三代目とちがって、すこし出来はよかったようである。
 細川家は、『峯均筆記』にこれまで何度も登場したが、ここで改めてまとめておきたい。
 忠利の祖父・藤孝(1534〜1610)は京都生れ、足利幕府末期に将軍の身近にあった武将で、しかも文芸に長じた文人学者である。芸能百般をよくしたという。文武両道のモデルのような存在である。多くの畿内武将が滅び去る中で、幕府滅亡から信長の覇権への変転を泳ぎきった。
 父の忠興(1563〜1645)も京都生れ、若年の頃から勇猛で知られ、信長の小姓として側近にあった。その縁で信長から明智光秀の女・玉を配偶されたが、周知の本能寺の変で、光秀が信長を殺すと、藤孝・忠興父子は一転窮地に立った。しかし藤孝は直ちに剃髪して号幽斎、この窮地を幸運にも切り抜け、むしろ忠興は秀吉の信任を得て、丹後の所領に加増を受け十一万石、羽柴姓を許され、歴戦の勇将大名として地歩を築いていった。
 同時に忠興は、利休の高弟として知られる茶人であった。その茶は保守的古典的なもので、革新的な古田織部の茶とよく比較されるところであるが、利休の茶の道は、細川忠興が受け継いだともいう者もある。ようするに、忠興という人物には、勇猛果敢な武将で激情の人という動の側面と、そして利休七哲の一人という芸術家の閑雅な静の側面が、分裂したまま同居しているのが魅力となっている。
 祖父の幽斎といい、父の忠興といい、忠利にとっては偉すぎる親たちだった。とくに京育ちの生粋の文化人で、武勇だけではなく文化の面で、覇権者に一目おかせる人物であった。細川家が生き残ったのは、藤孝・忠興の二代を通じて、他の大名にはない文化教養があったからである。関ヶ原役のおり、藤孝・忠興の父子とも東軍につき、戦後、忠興は九州豊前に四十万石を得た。
 忠興の妻は明智光秀の女・玉(1563〜1600)、いわゆる細川ガラシアである。彼女は関ヶ原役の際、大坂玉造屋敷にあって西軍に攻められて死亡したが、死ぬまで切支丹であり、彼女の盛大な葬儀は耶蘇教式であった。イエズス会のフロイスの報告書簡には、「日本人の中で最も暴虐な武将」と記された忠興は、ガラシアとの間に六子をもうけた。
 忠興の長男は細川忠隆(1580〜1646)で、嫡子として従四位侍従にもなっていたが、忠興は関ヶ原戦後、忠隆を廃嫡した。というのも、忠隆の妻・千世(前田利家女)が、ガラシャ死亡のとき逃亡したのを激怒し、千世を前田利長のもとへ送り返せと要求したが、同意しない忠隆を廃嫡したのである。忠隆は剃髪して休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で暮らした。祖父幽斎が京にあって面倒をみたらしい。忠隆の系統は細川内膳家として存続した。
 次男の興秋(1583〜1615)は、大坂陣で豊臣方に与し、敗戦後、父忠興の命で自害した。そもそも細川家の人質として江戸には弟・忠利がいたが、慶長十年(1605)代って興秋が人質に出ることになった。しかし興秋は、途中の京都で建仁寺に入り、出家してしまう。忠興は激怒したが、そのまま許し、三男忠利が細川家の後嗣と決まった。大坂陣のとき、興秋は大坂城に入り、豊臣方で参戦、忠興は興秋を勘当した。興秋は道明寺や天王寺での激戦で奮闘したが、大坂落城となって落ちのび、家老松井家の菩提寺・東林寺に入った。しかし捕らえられて、忠興は興秋を切腹させたのである。
 忠利は三男である。兄がいて、本来は家督相続できないはずだが、細川の人質として江戸に住み、家康・秀忠の愛顧を得た。意を解した忠興が、後嗣に興秋ではなく忠利を択んだらしい。それを二男興秋の出家や大坂籠城と関係づけるのは、さして根拠はない。とにかく、この三代目は、兄弟運命波乱の末、細川家を嗣いだのである。それに、父忠興は隠居して三斎宗立、中津を居城としたが、隠居とはいえ、三万七千石の無役知行を温存し、頑固親父としてなお健在であった。
 現在、忠興と忠利の往復書簡が二千通近く殘っている(永青文庫蔵・『大日本近世史料 細川家史料』所収)。当時の通信事情を考えると、この頻度は稀なことである。これを見るに、この父子は、豊前小倉や肥後熊本と、江戸あるいは京都に分かれて居ることが多く、また江戸参勤などあって頻繁に移動しているから、こうした手紙をやり取りする必要があった。内容は、政治情勢や他大名の動向から茶道具の話まで、多岐にわたる。元和六年(1620)忠興は隠居してのちも、相変わらず忠利に細かい指示を与えている。
 となると忠利は、いつまでも父親に頭が上がらなかった息子かといえば、そうでもない。寛永三年(1626)の領内飢饉のおり、忠利は救荒資金調達のために、思い切ったことをやった。すなわち、茶人三斎がどうしても欲しくて手に入れて宝物にしていた、中山茶入(安国寺肩衝)があった。それを忠利が、千八百金で売却したのである。これに対し、三斎は残念だったろうが、息子忠利の処置を誉めている。このころには、三斎も息子忠利に一目置くようになったのであろう。
 さて、寛永九年(1632)、肥後加藤家改易のスキャンダラスな事件があって、細川家は肥後熊本へ移封となる。三十年以上いた豊前を離れたのである。細川忠利が立退いた豊前小倉城には、小笠原忠政が後任に入った。このとき、武蔵も伊織と共に、播州明石から小倉へ来たのである。
 ちなみにいえば、細川忠利の室は、小笠原忠政の妹・千代姫、いったん徳川秀忠の養女にして、細川家に輿入れしたのである。忠利は、宮本家の主人・小笠原忠政とは、義理の兄弟にあたるわけで、外様・親藩の相違はあるが、互いに親密な大名同士であった。  Go Back








南禅寺天授庵蔵
細川幽斎像

MIHO MUSEUM蔵
細川三斎像


*【細川氏系図】

 ○藤孝─┬忠興───┐
   幽斎三斎   │
     ├興元─興昌│
     ├幸隆 妙庵
     └孝之 休斎
 ┌─────────┘
 ├忠隆 休無 廃嫡 →内膳家
 ├興秋 勘当自害
 ├忠利─光尚┬綱利─宣紀→
 │     └利重→新田藩
 ├立孝─行孝→宇土藩
 ├興孝
 └寄之 長岡興長養子
         │
 松井氏     │
  康之┬興之  ↓
    ├興長=寄之 八代城主
    └政之


永青文庫蔵
細川忠利像


永青文庫蔵
内記(細川忠利)宛忠興書状
忠利が送ってきた利休の茶杓なる
物を忠興が鑑定して偽物と返事
 
 (4)兵法ニ直段ツキテ惡シ
 肥後の細川家は領有石高五十四万石である。豊前から転封の話があったとき三斎は、長門周防か、筑前の方が分がよいと思ったが、結局肥後になった。ただ肥後太守、国持大名とはいうが、実際には肥後全体が細川領なのではない。肥後南部に人吉城主相良家二万二千石があるからである。また、五十四万石というが、これには豊後鶴崎二万石はじめ他国の飛び地も含んでいる。したがって、厳密に言えば、肥後五十四万石という表現には留保が必要だが、普通一般のこの表現に従っておく。
 さて『峯均筆記』の伝説記事に話をもどす。武蔵が肥後へ行くと、越中守〔細川忠利〕は、大いに喜んで歓迎し、「どんなことでも望み通りにしよう」と云う。どんな条件でも飲もう、ということである。
 これに対し武蔵の答えは、「まったく仕官の願望なきことは、私の異常な姿(異相)にもお察しなされたことでしょう」と、まず仕官の希望はないという言明である。『峯均筆記』はまたまた、武蔵の異相と、仕官の意志なきことを結び付けている。きちんとした身なりをしていないのは、仕官の意志なきことの表示だという。これは『峯均筆記』の常套手段であり、反復されるテーマである。『峯均筆記』はよほどこの主題を偏愛しているとみえる。
 ついで武蔵は「肥後で命を終るべしと思ってやって来ました。もう、どこへも行きません」とのことで、肥後を命終の場所、死に場所とした、という表明である。これは、『峯均筆記』のこの一段の主題が、武蔵の死に場所探しということになっているから、説話の整合性はついている。ただし、後に述べるように、これは事実関係とは異なるレベルでの説話である。
 そうして、例の有名な科白がこれに続く。《御知行ハモトヨリノ事、御米ニテモ極リテ被下不及。兵法ニ直段ツキテ悪シ》――「御知行はもとよりのこと、御米でも決して下さるには及びません。兵法に値段がつくようで、よくありません」。
 ここでいう「御知行」「御米」というのは、それぞれ給与なのだが、支給物の形態が異なる。「御知行」は家臣に与える領地のことで、たとえば何百石、何千石の知行というと、それだけの生産高の采地である。これに対し「御米」というのは、殿様の直轄領からあがる蔵入米で、米何百石という現物(現米)で支給されるものである。したがって、ここで武蔵は、領地も米も両方ともいらない、と断わったことになる。その理由が、
    《兵法ニ直段ツキテ悪シ》
 知行地であれ現米であれ、兵法を値段をつけて評価するようで、具合が悪い、それはよくない、という理屈である。兵法のこの無償性は、むろん世俗的価値では換算できないという、脱俗のポジションにほかならず、『峯均筆記』はそれをここで強調している。
 ただし、これも、武蔵が《兵法ニ直段ツキテ悪シ》と言ったかどうか、それには何の根拠もない、伝説である。説話論的構成としてみれば、これは、一つには、筑前の黒田忠之が三千石という値段をつけたという前段の逸話と一体のもので、二者択一説話として、ここで構造的対称性を顕在化させている。
 もう一つは、細川忠利が示した「どんな条件でものもう」という《anything》の、いわば無条件の無限性に対し、武蔵の回答は、兵法の無償性を理由とする《nothing》、つまり領地も蔵米もいらないというゼロ回答である。いわば、無条件の無限に対する答えは「無」以外にはありえないのである。
 そのように、何もいらないと答えた上で、つまり「無」を希望すると回答としたうえで、いわば但し書きが附く。――ただ、私が鷹を使えますようお取り計らいください。それだけで十分です。
 越中殿、細川忠利は、武蔵の要望を受諾した。まず、領地も米もいらないと云う武蔵に対し、台所辺の入用、つまり生活費は、武蔵門弟の塩田濱之允が差配し、武蔵自身は家計のことは一切関知しない、というかたちにした。また、武蔵に放鷹を許した。それで、武蔵は鷹を手にして、ときどき野へ出た。雨天でも構わず野へ出て、尻もかかげず、衣服の裾が濡れるのも厭わず、野を徘徊したとのことである、云々。
 武蔵が雨天でもいとわず、放鷹の遊びに野を徘徊した――というのは、なかなか痛切な詩情ある光景で、それも、武蔵の物狂いを強調する『峯均筆記』の伝説の特徴である。
 これに対し、これまで奇怪な論が横行してきた。それは、この放鷹を、大がかりな鷹狩と誤読した結果生じた妄論である。
 曰く、鷹狩はだれにでも許されるものではない、それは家老ら重臣にのみ許される遊びだから、武蔵は重臣並の待遇を受けたのだ、とか、あるいは、武蔵は鷹狩許可の要望に事寄せて、重臣並の格付けを求めたのだろうという、下世話な見方をする者が跡を絶たない。まさに書き手の恥しい心の動きが露呈されており、見苦しい光景である。
 それらは、《兵法ニ直段ツキテ悪シ》という『峯均筆記』の脱俗のモチーフを裏切る、つまらない世俗的関心からする品下る話である。しかも、『峯均筆記』の記述がここで表出する痛切な詩的情景にふさわしくない。
 この放鷹の風狂は、「無」の要望とのみ均衡する振舞いである。伝説が語るところに詩も思想もある。作家であれ研究者であれ、放鷹の世俗的価値に注目して阿呆なことを書く前に、なぜここで伝説は放鷹のことを語っているのか、そのことに想到すべきである。





細川領と武蔵九州関係地








熊本県立図書館蔵
肥後国熊本城廻普請仕度所絵図
寛永9年 忠利入城時











放 鷹
 『峯均筆記』のこの段の読解のポイントはそれにつきるが、一方、その形式ではなく伝説内容に立ち入れば、実際に武蔵が肥後熊本で受けた待遇はどんなものだったか、と問うことが出来よう。従来、武蔵の「禄高」は「三百俵十七人扶持」などという、あやしい説が流通してきたから、それも合わせて検証してみよう。
 これに関しては、武蔵への支給内容を記した細川藩奉書が永青文庫に残っていて、いわば公式記録で確認できる。それによれば、
    寛永十七年八月十三日  七人扶持・合力米十八石
    寛永十七年十二月五日  八木(米)三百石
    寛永十八年九月二十六日  米三百石
    寛永十九年十一月八日  米三百石 堪忍分之御合力米
とあって、最初の寛永十七年八月十三日の「七人扶持・合力米十八石」は当座の費用、同年暮十二月五日の「八木(米)三百石」で、武蔵への支給額が決まったようである。以後毎年、米三百石の支給があった。忠利卒後光尚に代が替わっても、同じ待遇である。
 これは蔵米からの支出で、米三百石の手取。知行高だと、四分免として七百五十石に相当し、三分半なら八百五十七石という計算になる。尾張柳生家が「知行」五百石だから、武蔵の「米」三百石という待遇はかなり異例の高額支給である。しかも、一般の合力米ではなく、「堪忍分之御合力米」だと云って渡せという指示もあって、これは無役の客分という待遇であり、内容は客として滞在する生活費支給の扱いである。尾張柳生家の始祖・柳生兵庫助利厳に対する隠居料が三百石、とすれば、細川家に仕え功績があったことのない武蔵に三百石とは、破格の厚遇である。
 繰返せば、これはむろん家臣として召抱えたということではない。あくまでも、客分で肥後に来ている武蔵に、滞在費を支給するというかたちである。細川忠利は、武蔵に支給するについても、それはどういう名目での給与なのか、武蔵への説明には細心の注意を払っているようである(寛永十七年八月十三日奉書)。というのも、武蔵が「そんな趣旨のものなら、受け取れない」と、返上するおそれがあったからである。
 武蔵には養子伊織がいて、豊前小倉の小笠原家で老職、知行四千石である。伊織は、親の武蔵には相当の隠居料を支給していたはずで、もちろん武蔵は、肥後で細川家から何の給与がなくとも、生活に困るわけではない。しかし、武蔵が城下に来てしばらく滞在するとなると、細川家にしても何の構いもしない、というわけにはいかない。それで、よく来てくれたと、滞在費を支給するというかたちである。
 だいたい忠利は、家臣の新規採用には厳しい人で、たとえば寛永十三年(1936)、柳生宗矩の高弟・梅原九兵衛を三百石で召抱える話が出たおり、息子の光尚が、その三百石にさらに上積みしようとしたところ、忠利は、「柳生への面子でそうするなら、やめろ」と叱っている。「そんなわけもわからぬ家に成り下がっては、情けない、梅原が納得しないのなら、追い返してしまえ」という次第である(八月十日光尚宛忠利書状)。そんな忠利だから、客分武蔵へのこの支給は異例のことであっただろう。
 公式記録の奉書は、武蔵への米三百石支給を記すが、これを肥後系武蔵伝記と突き合せてみると、『武公伝』には「月俸十七口現米三百石」とあって、米三百石以外に「月俸十七口」がある。また『武公伝』をうけた『二天記』には、「十七人扶持ニ現米三百石」とある。いづれにしても、肥後系武蔵伝記の周囲では、十七人扶持三百石という言い伝えがあったらしい。しかしながら、細川藩奉書では「十七人扶持」の方は確認できない。
 また肥後系伝記では、座席による武蔵の格付けまで記し、『武公伝』では「人持着座ノ格ナリ」とあり、『二天記』には「大組頭ノ格合ナリ」とある。『武公伝』のいう「人持」とは人数持ちという意味で、部隊の長、つまり備頭のことである。『二天記』はそれをうけて解釈し、「大組頭ノ格合ナリ」としたものらしい。大組頭だとすれば家老に次ぐレベルのポジションであり、細川家のような大藩のケースでは、知行数千石相当である。肥後系伝記では、武蔵への給与は十七人扶持三百石だが、扱いは数千石相当の大組頭並みであった、という伝説なのである。
 むろんそんな話が、細川藩奉書はじめ公式記録にあるわけでもなく、武蔵を大きく見せようという肥後の武蔵兵法流末の動機によるものである。『峯均筆記』のいう《兵法ニ直段ツキテ悪シ》は、格付けをしたくなるこんな心性にも向けられているはずである。
 この数千石相当の大組頭格というのが、後世の伝説では、「格」という文字がいつのまにか消えて、武蔵は細川家で三千石を与えられた、という話に発展してしまう。三千石は三百石の一字違いだが、数は一桁違う。幕末の荻角兵衛『新免武蔵論』(嘉永四年)に、問答形式で、「御客分にして御備頭同列の御取扱にて、御擬作三千石被為下置」のは待遇が重すぎやしないか、という問いを設けているところをみると、すでにこの頃では、肥後で武蔵は三千石を給付された、という伝説が定着していたらしい。
 しかし、荻角兵衛の『新免武蔵論』以前に、十八世紀後期には武蔵の三千石という伝説が発生していたようである。筑前系の『兵法先師伝記』には、すでに、武蔵は三千石の賂領を与えられた、あるいは、武蔵の財用無制限という話が記載されている。
 しかし、『兵法先師伝記』の記事は、黒田忠之が武蔵を三千石で召抱えようとしたという『峯均筆記』の伝説を、誤って伝えたにすぎない。ただ、『兵法先師伝記』は、肥後系伝説を反映しているから、同じ時期に、筑前ではなく肥後に、武蔵の三千石という伝説が発生していたことは推測しうる。これは武蔵流兵法末孫の間ではなく、演劇で宮本武蔵が有名になっていた市中巷間の伝説であろう。
 昭和になっても伝説の顫動があった。これまで武蔵評伝や武蔵小説でしばしば見受けられたのは、直木三十五のように「三百俵十七人扶持」とする文言である。これが『二天記』の「十七人扶持ニ現米三百石」という記事から出たらしいことは明らかであるが、「三百石」を「三百俵」と誤認してしまったのである。つまり「三百俵」というのは、三百石は知行高だと誤解したもので、これだと米百二十石程度にしかならない。ところが、『二天記』には「現米三百石」とあって、これは米三百石で、知行高三百石とは記していない。
 直木は、武蔵が細川家に仕えたとか、禄高が三百俵十七人扶持だとか、それが「事実」だとして書いているが、だいいち武蔵は、細川家に「仕えた」わけではないし、禄高というような知行領地を受けたこともない。杜撰な記述である。こういう謬説は近代に入って生じたもので、文字に書かれたものでもかよう読み誤るのは、暗黙の無意識的解釈が割り込むからである。むろん、いまや訂正の必要がある通説である。
 ただし、直木三十五の誤謬はまだ愛嬌があるというものだが、武蔵はやっきになって仕官先を求め猟官運動をした、自分を三千石で高く売りつけようとした、などという悪質なガセネタが、戦後、主として小説によって流布された。その代表格は司馬遼太郎の武蔵小説であろう。(これについては、本サイト[坐談武蔵]第二回で俎上にあげているので、それを参照)。
 ようするに、『峯均筆記』には、武蔵が仕官する気は毛頭なく、また《兵法ニ直段ツキテ悪シ》と語ったとあるのに、それとは正反対の武蔵像が捏造され、広範囲に滲透してしまったのである。それらは何の根拠もない妄説である。
 小説家どもが撒き散らす妄説は、戦前も戦後も悪しき支配力を行使してきた。今日では、「吉川武蔵」の影響力はやや翳りをみせているが、「司馬武蔵」の影響力はますます大きくなって、小説に限らず武蔵論まで司馬遼太郎の口真似をして「武蔵」を書く例が多い。「吉川武蔵」を標的に偶像破壊するしか意味のない、無益な武蔵小説が量産され、また、その種の小説のイメージに汚染された、二次的産物としか言いようのない武蔵評伝がきわめて多数繁殖した。そのようにして、この数十年、きわめて始末に悪い状況であった。もはや「司馬武蔵」の虚像を粉砕する時が来ているのである。
 そのためには、武蔵伝記が何を書いているか、それをきちんと押えておくことだ。この『峯均筆記』の一段は、武蔵が命終の地、死に場所を求めた、筑前ではなく肥後を択んだという話である。これは、肥後細川家に仕官を求めに行ったのではなく、あくまでも死に場所探しがテーマである。それを取り違えて妄想をふくらせ、埒もない作話に耽るという症状が、戦後感冒のように流行した。
 また周知の如く、武蔵論にしばしば引用されて有名になってしまった、武蔵の坂崎内膳宛口上書というものがある。これは、肥後系伝記『武公伝』と『二天記』に引用されているもので、むろん原本は存在しない。内容は、細川忠利が家臣岩間六兵衛を通じて武蔵に身上を尋ねさせたのに対し、武蔵が書状で答えたというものである。
 この坂崎内膳宛口上書は偽書とすべき文書だが、それは『武公伝』『二天記』の読解のさいに詳説されるから、史料批判と内容分析に関してはそれに譲るとして、ここでは、この口上書でさえ、武蔵の細川家仕官のためのものではない、ということに注意すべきである。すなわち、
   《武公御國ニ逗留ノコト》(武公伝)
   《武藏肥後ニ逗留有ヘキコトニツキ》(二天記)
とあって、仕官ではなく、「逗留」の件だというのである。ところが、何を錯覚したものか、多くの者が、これを武蔵が仕官を求めて提出した身上書だと誤解してしまったのである。ようするに、書いてないことを読んでしまうのは妄想と言うほかあるまいが、妄想者にはその妄想たることの自覚はない。いわば病識がない。そうして読者が無数の武蔵評伝にそれを見るように、この「書かれていないこと」が、さも書かれているがごとく語られ、今日に至っているのである。
 改めて言えば、武蔵が肥後へ行ったのは、仕官のために行ったのでもなければ、招聘されて行ったのでもない。しかしまた、『峯均筆記』のように、死に場所を求めて肥後へ行ったとするのも、もとより根拠のない話である。
 それゆえ、ここが第二の重要なポイントである。たしかに武蔵は肥後熊本で死んだのは事実だが、武蔵が命終の場所を肥後と決めたという証拠はどこにもない。武蔵は肥後で逗留滞在中、思いがけなく死病発症して客死した、事実はそれだけである。あくまでも武蔵は「客」として熊本に滞在していたのである。
 武蔵まさか自分が肥後で死ぬとは思っていなかっただろうし、もちろん、そこを死に場所にしよう、などとは思ってもいなかっただろう。客分としての逗留滞在だから、場合によっては、いつでも肥後を立退く気でいたであろう。『峯均筆記』のように、武蔵が肥後を命終の場所に決めたとするのは、武蔵は肥後熊本で死んだという事実に対する解釈説話である。つまり、
    (事実)「武蔵は肥後で死んだ」
    (解釈)「武蔵は肥後を死に場所に選んだ」
 これはいわば、結果をもって原因を措定する逆立した思考である。武蔵が肥後で死んだのは、肥後を死に場所に選んだからだ、という因果関係の顛倒である。今日でも、『峯均筆記』と同様の解釈を演じている武蔵評伝が大半という有様だが、それらは我知らず解釈説話に陥っているのである。そういう無自覚な踏み外しは、むろん論評以前である。
 ここで、我々の所見を定式化しておけば、
   (1)武蔵は仕官のために肥後へ行った、のではない。
   (2)武蔵は肥後を死に場所に選んだ、のではない。
 最後に『峯均筆記』の記事にもどれば、ここで注意を惹く人名がある。例の「塩田浜之允」の名である。『峯均筆記』によれば、武蔵はそれまでにも何度も肥後へ来ているらしく、塩田の家に滞在したともいう。この塩田については、既述の通りである。この塩田浜之允は、肥後系伝記では細川家の棒捕手指南役、塩田浜之助である。
 『峯均筆記』の伝説では、この塩田浜之允が何度も登場する。まるで塩田以外に肥後の武蔵関係者を知らないが如くであり、この塩田が、肥後で晩年の武蔵の世話もしたことになっている。『兵法先師伝記』でも、塩田が、武蔵の所領三千石の支配人になったように記しているが、このように塩田浜之允を格別親密な存在にする記事は、筑前系伝説の特徴である。
 肥後系伝記ではそんな話はない。これは後出の当該箇処で改めて述べることにしよう。  Go Back




*【細川藩奉書】
(寛永十七年八月十三日)
《一 宮本武蔵ニ七人扶持・合力米拾八石遣候、寛永十七年八月六日より永可相渡者也
    寛永拾七年八月十二日御印
       奉行中
右ノ御印、佐渡守殿より阿部主殿を以被仰請、持せ被下候、右之御印を武蔵に見せ不申、御扶持方御合力米ノ渡様迄を、能合点仕やうニ被仕候へと被仰出旨、主殿所より佐渡殿へ奉書を相渡候を、佐州より被仰聞候也》

(寛永十七年十二月五日)
《一 宮本武蔵ニ八木三百石遣候間、佐渡さしづ次第ニ可相渡候、以上
    寛永拾七年十二月五日御印
       奉行中       》

(寛永十八年九月二十六日)
《宮本武蔵ニ米三百石遣候間、可相渡者也
    寛永拾八年九月廿六日御印
       奉行中       》

(寛永十九年十一月八日)
《宮本武蔵ニ御米三百石、岡平兵衛ニ三百五拾俵、岡金衛門ニ弐百俵、毎年被為拝領候、当年も可被為拝領哉、奉得御諚候、已上
  十一月八日   御奉行中
    竹内七郎衛門殿
    蒔崎喜八郎殿
 宮本武蔵ニ米三百石遣候間、可相渡者也
    寛永拾九年十一月八日御印
       奉行中
宮本武蔵ニハ、御米被遣候時、御合力米と不申、唯堪忍分之御合力米として被遣候由、可申渡旨、奉七郎衛門》




*【武公伝】
《忠利公ヨリ月俸十七口現米三百石ヲ賜、蓋シ遊客タルヲ以テ、諸士ノ列ニ不配[人持着座ノ格ナリ]、居宅ハ熊本千葉城ノ高キ所也》

*【二天記】
《忠利公ヨリ十七人扶持ニ現米三百石賜リ、御客分ニテ、座席ハ大組頭ノ格合ナリ。居宅ハ熊本千葉城ト云所ニ屋舖アリ》











*【新免武蔵論】
《或問曰、「新免武蔵は名高き兵法者にて御坐候へども、御客分にして御備頭同列の御取扱にて、御擬作三千石被為下置と申は、中々重き御取扱にて御坐候哉」。角曰、「武蔵は世の兵法者にては無御坐候。当時第一等の聰明の士にて、即ち妙恵沢奄か別面に為出者にて御坐候。夫故妙解公の御明鑑、其器量を被重候て、内々御政道の御相談相手に被為召置者にて、中々他の芸能の士の御取扱にては無御坐候」》

*【兵法先師伝記】
《肥後國熊本城主細川越中守忠利侯、先師ノ兵法ヲ信ジ給ヒ、召シテ客トシ給フ。先師肥後ニ行テ、忠利侯ニ兵法ヲ説ル。忠利侯ヨリ先師ヘ三千石ノ賂領ヲ定置給フ。塩田濱之亟ト云士ニ仰セテ支配サセラル》
《細川侯ニテ常ニ篤キ御取扱ニテ、或ハ能ヲ御催有、又鷹狩ヲ催サセラレ、様々ノ御饗應有シトゾ。財用ノ事に於テハ、其限ヲ究メラレズ、皆塩田濱之亟是ヲ司ケル》


*【直木三十五】
《武蔵は、熊本の細川家に仕えたが、この時の禄高が三百俵十七人扶持である。この事実に対して、武蔵を日本一の剣客だと見ている人は、どう解釈しているか聞いてみたいのである》(「上泉信綱と宮本武蔵」文藝春秋 昭和7年11月号)




*【司馬遼太郎】
《同時に俗欲もつくなった。
 すでに武蔵は名を得た。この名声にふさわしい地位をかれは得たくなった。かれの兵法は齢三十をさかいに一進境を遂げたが、かれのそういう面の、つまり俗世間への野心はむしろ無我夢中だったその自己試練期よりもはるかにはげしくなったようにおもわれる。
 かれは仕官を欲した
 この点かれは、かれ以前の兵法諸流の流祖とは多少ちがっていた。》
《武蔵の後半生は、いわば緩慢な悲劇であったといえるだろう。
 かれは、自分にふさわしい地位を得ようとした。それが、彼にとって業になった。幕府に官禄を得ようということがこの業にあくせくするかれの最初の猟官運動であったが、しかしこのことは不幸にも不調におわった。
 ――とても、三千石などは。
 と、幕府の要人たちは、みなくびを横にふるのである。徳川家に軍功も文功もない一介の牢人がいきなり三千石をもとめようとするのは、ほとんど狂したというにちかい。》(『宮本武蔵』)




*【武公伝】
武公御國ニ逗留ノコト、岩間六兵衛[御聞番役御城使トモ云。今御留守居ト云]ヲ以テ御尋アリ。則御側衆坂崎内膳殿マデ口上書ヲ以テ言上在。
我等身上之事、岩間六兵衛ヲ以テ御尋ニ附、口上ニ而者申上ガタク候間、書附懸御目候
一 我等事、只今迄奉公人ト申テ居候所ハ、一家中モ無之候。年罷寄、其上近年病者ニ成候得者、身上何之望モ無御座候。若逗留致候樣被仰附候ハヾ、自然御出馬之時、相應之武具ヲモ持セ參、乘替之一疋モ牽セ參リ候樣ニ有之候得者、能ク御座候。妻子トテモ無之、老躰ニ相成候ヘバ、居宅家財等之事ナド思ヒモヨラズ候。
一 若年ヨリ軍場ニ出候事以上六度ニテ、其内四度ハ其場ニ於ヰテ拙者ヨリ先ヲ駈候者一人モ無之候。其段ハアマネク何レモ存知之事ニテ、尤モ証拠有之候。乍然此儀与以全ク身上ヲ申立テ致シ候ニテハ無之候。
一 武具之持樣、軍陣ニ於ヰテ夫々ニ應ジ便利成事。
一 時ニヨリ國之治樣之事。
右者、若年ヨリ心ニカケ、數年致鍛錬候間、於御尋可申上候。以上
  寛永十七年二月    宮本武藏判
    坂崎内膳殿 》








熊本城天守

 
  17 無礼な若党の頭を粉砕する
一 或時、召仕ノ若黨ニ用事ヲ申付ラレシニ、言葉ヲ返ス。武州ノ玉フハ、「我等ニ向テ左様ナル儀ハ申サヌモノゾ」トテ、シタヽカニ呵リ玉フ。夫ニモ懲ズニ、又詞ヲカヘシ、甚慮外ヲ申ス。
 其時、武州五尺杖ヲ取直シ、只一打ニ頭〔カウベ〕ヲ打碎カル。「ウン」トバカリヲ一聲ニテ、四足ヲ延テ息絶タリ。
 髪ノ毛厚ク月代ノビタル男ニテ、頭砕ケレ共、血流出ル様ニハナカリシトカヤ。(1)

一 ある時、(武州が)召使の若党に用事を申し付られたところ、(無礼な)言葉を返す。武州が言われる、「おれに向って、そんなことは申さぬものだぞ」と、強くお叱りになった。それにも懲りずに、また言い返し、甚だ無礼なことを言う。
 そのとき、武州は五尺杖を取りなおし、ただ一打ちに(若党の)頭を打ち砕かれた。「うん」とだけ一声、(若党は)手足を大の字にして息絶えた。
 髪の毛分厚く月代の伸びた男であったが、頭が砕けたのに、血が流れ出たようすはなかったそうな。

  【評 注】
 
 (1)武州五尺杖ヲ取直シ、只一打ニ頭ヲ打砕カル
 これは武蔵が無礼な若党の頭を叩き潰したという話で、前出の包丁人と同系列の説話である。兵法者との対戦の伝説がほとんどなく、こういう一種の民間伝承を収録しているところが、『峯均筆記』独特のスタンスを示していて興味深い。
 さて、この話を読んでみよう。ある時、武蔵が召使いの若党に用事を申しつけたという。若党というのは、中間・小物と同じく武家奉公人だが、それらと違って一応は武士である。ふつう家来ともいう召使である。また若党といっても、若者とはかぎらない。中年老年の若党もいたのである。
 近世の武家では、使用人を在所の農村から年季奉公で雇ったが、渡り奉公しているうちに城下に居ついた連中もあり、彼らには独特の侠気があって、気の荒い者もいたようである。この伝説でも、《髪ノ毛厚ク月代ノビタル男ニテ》とあるから、若党特有の伊達なファッションがイメージされている。
 武蔵が用事を命じたところ、召使の若党は「言葉を返す」。これは「はい」と返答をしたということではなく、反抗的な言葉を返したということである。従順ではないというよりも、ここでは、主人に対する無礼な言動に出た、ということである。
 そこで武蔵が、「おれに向って、そんなことは申さぬものだぞ」と、強く叱った。ところが若党は、それにも懲りずに、また言い返し、はなはだ無礼なことを言った。どうして若党が武蔵に対し、そんな言動に及んだか、近代の小説ならその事情を語りたくなるところだろうが、『峯均筆記』はそんなことには関心がない。
 叱っても若党が無礼な言動をやめないので、武蔵は持っていた五尺杖を取りなおし、ただ一打ちに若党の頭を打ち砕いた。あっという間のことである。若党は「うん」とだけ一声、手足を大の字にして息絶えた。ここで四肢と言わずに「四足」と書いているところが注意される。そして、若党の髪の毛は分厚く、月代の伸びた男であり――と『峯均筆記』の伝説は見てきたような具体的特徴を語り――頭が砕けたけれど、血の流れ出たようすはなかったそうな、という。
 ここでも『峯均筆記』の伝説に特徴的な「五尺杖」という道具が出てくることに一応注意を向けてよかろう。武蔵の五尺杖は通常の棒杖ではなく、五尺木刀ともいう。『峯均筆記』の前出記事によれば、それは、刄の部分は鉄で補強し、後・先・中にも胴がね〔鉄輪〕を巻いたもの。刀剣よりはるかに強烈な道具である。
 さて武蔵は、これで若党ぼ頭を粉砕したという。これも、前出の包丁人を懲らしめた話と同じく、現代の読みの読解力が試される説話である。
 まず一番単純な反応は、武蔵という奴は兵法名人なのに、いくら無礼な言動をしたからといって、こんな無防備な若党を叩き殺すとはけしからん、残酷無情な男だ、というあたりであろう。
 もちろんそれは、現代人の観念がそういう反応を起すのであって、『峯均筆記』当時の行動規範からすれば、無礼な言動の若党を叩き殺すのは当然であって、何の問題もない。
 ようするに、いわゆる「無礼打ち」というやつがある。まともな武士なら、理由なく人を殺しはしない。しかし、無礼なことを仕掛けられたら、武士は相手を殺さねばならない。これは、武士は身分が上だから殺してもよい、ということではない。ただ、相手が町人だろうと武士だろうと、辱められてそのままにしては、武士の一分が立たないから、相手を殺すのである。たとえば、忠臣蔵の論理はそれである。無礼打ちにしても、上下ある身分の社会的規範というよりも、《dignity》に関わる個人的な行動倫理なのである。
 このケースでは、武蔵は聖人でも菩薩でもなく、歴史的定在としての一個の武士である。『峯均筆記』のスタンスからすれば、無礼な若党を叩き殺すのは当然であって、しかも、ただそれだけのことである。だから、若党を叩き殺した行為には、善悪の論評は何もない。
 ありそうな反応のもうひとつは、包丁人を懲らしめたという前の話と同じく、武蔵は超人的に強いのに、なにもそこまでする必要がなかろう、再度口で注意するなり、押さえつけて殴るなり、あるいは頭を打つのを寸止めにして脅かしたり、何なりと別の方法があったろう、殺す必要はあるまい、と。ようするにそんな、少しは現実的な意見である。
 そういう意見に傾く現代人の視界に入っていないのは、どうして『峯均筆記』にこの伝説が収録されているか、ということである。もしこの話が、武蔵が無礼な若党を少し痛めつけただけで、叩き殺さなかったというものであれば、そんな話は『峯均筆記』に収録されなかっただろう。また「なにも殺すことはあるまい」と、『峯均筆記』が多少なりとも武蔵の行動に批判的なスタンスをとるものであれば、そのばあいも、この話は我々の目に触れることはなかっただろう。つまり、『峯均筆記』の関心がどこにあって、この逸話が収録されたのか、それを看取できなければ、この説話を読んだことにはならないのである。
 では、『峯均筆記』の関心は、この話のどこに差し向けられているのか。それは、言うまでもなく、最後の部分である。つまり、――若党の頭は粉砕されたのに、血の流れ出たようすはなかったそうな、というところ。
 『峯均筆記』が特筆すべきだとするのは、この場面である。ふつう、頭を粉砕すれば流血は避けられまい。しかるに、武蔵が頭を粉砕したのに、流血の様子はなかった、という不可思議である。若党の髪の毛は分厚く、血が外へ流れ出たように見えなかったのかもしれないと、『峯均筆記』は解釈しているようだが、それにしても、頭を粉砕したのに、流血の様子はなかった、という不可思議に、単純に驚嘆するのである。
 これを補足して言えば、流血がなかったのは裂傷がほとんどなかったということである。どういう打ち方をしたのか、頭骨は粉砕されたのに、流血は見えなかった、というわけである。そんなことができる武蔵の腕前に、ナイーヴに驚いているのが、『峯均筆記』の伝説主体である。
 この若党を叩き殺したという伝説の説話素は、それゆえ、「頭を粉砕しても、血が流れ出たようすはなかった。名人武蔵はすごい」ということである。本来はどんな状況にも応用がきく名人伝説である。しかも、大道芸でもありそうな芸術である。
 したがって、この説話素は、筑前二天流門下というよりも、巷間に伝わったものらしい。実際に武蔵がこれを演じたのかどうか、それは不明である。またそれが、この伝説のように相手が無礼な若党だったかどうか、それも知れない。『峯均筆記』の記述順序からすれば、これは肥後移住後の武蔵晩年の出来事だという設定らしいが、これも、肥後系武蔵伝記には見当たらない逸話である。申すまでもなかろうが、『峯均筆記』の著者の目線が、巷間通俗伝説にも亘っていたというケースである。  Go Back











若 党








武蔵の五尺杖


























フィアネス・ゲージの頭蓋骨



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