宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  5  Back   Next 

 
  09 島原一揆
一 寛永十四年ヨリ翌十五年ニ至テ、肥州原ノ城ニ賊徒楯籠リ、西國ノ諸將、人数ヲ引テ嶋原ニ至、原ノ城ヲ責ラル。(1)
 武州、其時ハ小笠原右近将監殿御頼ニテ、御同姓信濃守殿、御若輩故、後見トシテ出陣セラル。(2)
 始終、鎧ハ着シ玉ハズ、純子ノ廣袖ノ胴着ヲ着シ、脇指ヲ二腰サシ、五尺杖ヲツキ、信州ノ馬ノ側ラニ居ラル。城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ來ル石ヲ、「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏ラレシト也。(3)
一 寛永十四年(1637)から翌十五年(1638)にかけて、肥前国原城に賊徒がたて籠り、西国の諸将らは軍勢を率いて島原に行き、原城を攻めた。
 武州は、その時は小笠原右近将監殿〔忠政〕のご依頼で、同姓(小笠原)信濃守殿〔長次〕がまだご若輩のため、その後見として出陣された。
 (戦場では)はじめから終りまで、鎧は装着されず、緞子の広袖の胴着を着て、脇指を二腰〔ふり〕差し、五尺杖をついて、信州〔信濃守〕の馬の傍らに居られた。城攻めの時、賊徒が投石した。馬前に飛んで来る石を、「石がきます」と言葉をかけ、五尺杖で突き戻し、落城に及んでは、例の薙刀で多数を薙ぎ伏せられたとのことである。

  【評 注】
 
 (1)肥州原ノ城ニ賊徒楯籠リ
 寛永十四年から翌十五年にかけて、肥前国原城に賊徒がたて籠り、とあるのは、いわゆる天草島原の乱(1637〜1638)のことである。周知の如く、このとき、天草諸島と島原半島を舞台にして切支丹一揆の大規模な反乱が生じた。
 もともと島原半島と天草諸島には切支丹が多かった。大村純忠(1533〜87)、有馬晴信(1567〜1612)、小西行長(1555〜1600)ら切支丹大名の領地であったからだ。ことに、大村有馬両氏は、豊後の大友宗麟(1530〜1587)とともに熱心な切支丹大名であり、天正十年(1582)イエズス会の巡察師ヴァリニャーノの提言により、ローマ教皇への使節を出発させた。これがいわゆる天正遣欧少年使節、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチーニュら十三〜四歳の少年たちであった。切支丹大名の領地では、社僧を追放し寺社を破却するなどして、いわば切支丹王国の様相であった。
 上方で切支丹大名として最も指導的立場にあったのは、高山右近(1552〜1615)である。小西行長の他、蒲生氏郷(1556〜1595)や小寺(黒田)官兵衛(1546〜1604)らも右近の影響で切支丹信仰者になった。すでに天正十五年(1587)には秀吉の伴天連追放令が出ていたが、これは有名無実で、その後も切支丹信者は増加し続けた。関ヶ原役後のあたりには三十万人という数字もある。
 慶長末の大坂陣前後から徳川幕府の禁教により切支丹大名という存在は消滅したが、むしろ切支丹信仰はアンダーグラウンドで強固な草の根を張ることになった。言い換えれば、島原の乱の当時、ことに天草島原地方は布教改宗があって半世紀、信者の世代は三代目になろうとするほどで、自治的社会組織と切支丹信仰組織は重なっていた。この点、かつての一向一揆と似た局面もある。
 この切支丹一揆の直接的原因は、この地域を支配する領主の苛斂誅求であろうが、切支丹弾圧によって表向き「転び」、改宗した者らが、天草四郎という「天使」の出現を機に、切支丹に「たち返り」、たち上ったのである。
 この事件の結末は、数万に及ぶ一揆衆の皆殺し、女子供も残らず皆殺しにしたのであった。これをみるに、幕藩体制はこの「異物」としての切支丹宗門と決着をつけたと言える。システムの統合と純粋化は、不寛容な支配を帰結する。弾圧は、特定領主一箇の偶発的問題ではなく、システムの根幹に関わるイデオロギー闘争であり、外国文化の支配を排除するナショナリズムの勃興があった。
 そのうえ海外貿易を独占した幕府に親近したのが、オランダ・イギリスの新教国で、彼らがスペイン・ポルトガルという旧教国の植民地支配の罪禍を告発し、これも切支丹宗徒殲滅の口実になった。国際環境は、旧教国が衰退し、新教国がアジア交易の覇権を確立する時代である。そのような時期に生じたのが、この切支丹一揆である。オランダ艦船は、包囲軍に味方して、切支丹一揆衆、キリスト教徒がたて籠もる原城めがけて砲撃さえしたのであった。したがって、これは、対キリスト教戦なのではない。日本における百年近い切支丹文化の落日の光景である。
 宮本武蔵の親たちの世代は、切支丹文化に魂を奪われた世代である。それが真摯な信仰であれ、あるいはファッションとしての西欧文化であれ、とにかく一度は骨の隨まで切支丹文化に染まった。それゆえ武蔵の世代は、物心がつくと周囲には切支丹文化があった、はては幼児洗礼を受けていた、という世代である。しかも慶長前期の青年期まで、そういう国際的雰囲気が強かった。そのような時代精神の中で育ったのが、武蔵の世代である。
 この世代が、親たちの世代のインターナショナルな時代精神に反発して、いわば日本回帰を遂げるというのも、ある意味では知の地平における歴史過程である。これは、幕藩体制確立期の切支丹禁制という政策とは別の話であって、時代精神の遷移なのである。青年たちが新しい知と認識を求めたとき、親たちの世代の切支丹思想はすでに古臭く感じられた、というまでである。
 ただし、物心がつくと周囲には切支丹文化があった武蔵の世代には、この島原の乱の鎮圧に参加するには、むろん複雑な心情があったに違いない。そういう意味で、この事件は我々の武蔵論において焦点のひとつとなっているが、それは別に武蔵思想論において論究されるから、ここでは言わない。  Go Back




京大付属図書館蔵
天正遣欧少年使節肖像
1586年 アウグスブルク刊




原城址 長崎県南高来郡南有馬町


永青文庫蔵
原城を砲撃する唐船
有馬城攻図 部分

天草島原一揆関係地図
柳川古文書館蔵
嶋原御陣図

原城攻諸大名布陣図
 
 (2)御同姓信濃守殿、御若輩故、後見トシテ出陣
 天草島原の乱において、領主側は最初百姓土民の一揆とみて、甘く見ていたふしがあるが、意外にも一揆衆は強く、初期の鎮圧部隊は諸戦に敗北した。ことに十二月に原城に籠城した一揆衆の抵抗は強固で、西国諸大名五万をもってしても攻め落とすことは出来なかった。寛永十五年元旦の城攻めでは、上使板倉重昌が戦死してしまい、これも攻略に失敗した。数日後着陣した後任上使・松平信綱と戸田氏鉄は、方針を転換して包囲仕寄の長期戦へ切り替え、西国九州の諸大名に大規模な動員をかけた。籠城者数万に対して、十数万の軍隊をもって包囲し兵糧攻めにして攻落すのである。
 その原城攻め、いわゆる有馬陣に、豊前小倉の小笠原忠政が六千人を動員して参戦、他に小笠原家関係では、中津の小笠原長次が三千二百人、豊後竜王の松平重直(忠政実弟)が千二百人、以上、一万人以上の人数を原城攻防戦に投入した。そして、豊後杵築の小笠原忠知(忠政実弟)も兵を率いて島原城守備を受け持った。
 『峯均筆記』は、このとき武蔵は小笠原忠政の依頼をうけて、御同姓信濃守殿、つまり忠政の甥・小笠原信濃守長次〔ながつぐ〕の後見として出陣したという。それは、長次がまだ若輩だったからだという話である。
 武蔵は、播州明石で、小笠原忠政の小姓・田原貞次を養子にして、明石宮本家を創始した。それもあって小笠原家とはとくに縁が深く、また寛永九年(1632)小笠原忠政の豊前小倉転封に際しては、九州へ移住している。宮本家は明石から小倉へ移ったのである。
 小笠原長次(1615〜1666)は、小笠原秀政の長男・ 忠脩の子。祖父と父が大阪夏の陣で戦死した後、小笠原家を嗣いだ叔父の忠政に養育された。明石の小笠原家と姫路の本多家は姻戚関係にあり、大坂陣のあと両家は同時期に播磨へ移封され、龍野は本多忠政二男の政朝が入部した。寛永三年(1626)姫路の本多忠政の嫡子・忠刻が死去するにおよんで、龍野城の政朝は本多家嫡子として姫路城へ移り、その龍野に、長次が十二歳で六万石を与えられた。兄の遺児・長次に小笠原の家督を譲ろうとしていた忠政だが、これで甥の大名としての立身ができたのである。寛永九年の小笠原家豊前移封にあたっては、長次は豊前中津八万石を与えられ、豊前豊後の小笠原家領地の一部を形成するのである。
 島原の役の原城攻めのとき、この長次はすでに二十四歳、当時としては必ずしも若輩とは言えない。武蔵養子の伊織にしても、小倉宮本家系図によれば慶長十七年(1612)生れ、当時二十七歳である。年齢は三歳しか違わないのである。若輩云々の話は、筑前系伝説流通過程において出た文言であろう。しかし、その若輩云々の話は別にして、叔父の小笠原忠政が、武蔵に甥の後見を頼んだ、ということは、ありうる話である。
 前述のように、大坂の役のとき、武蔵は水野日向守勝成の部隊にいたらしい。そこで、勝成の嫡子・美作守(勝俊)に附いたようだが、これは若君の護衛であろうし、また若君に戦功を立てさせる役目を負うわけである。水野勝俊(1598〜1655)は当時十八歳である。勝俊は後世大坂の陣で大いに戦功あったと言われるから、そのとき武蔵もそれなりに働いたのであろう。
 有馬陣、島原の役は、大坂の役以来の本格的な戦陣である。小笠原忠政が、過去にそんな実績(?)のある武蔵を、二十四歳の長次に後見に付けて、戦功を挙げさせようとした、というわけである。かつて明石時代、小笠原忠政に養育された長次を、武蔵は幼児の頃から知っていたはずだし、少年長次が龍野城主になってみれば、武蔵の生地・揖東郡宮本村も龍野領、何かと縁の深い人物なのである。
 すでに五十代半ばの武蔵にすれば、小倉宮本家は伊織が当主で、自分は隠居の自由な身である。忠政から頼まれもしただろうし、また長次自身が頼んだでもあろう、とにかく長次を助けて戦功を挙げさせてやろう、ということになったようである。
 とすれば、『峯均筆記』のこの記事は信憑性はあると言えるだろう。これを傍証するものとして、近年小笠原文庫から発掘された史料がある。この文書には中津小笠原家有馬陣軍立の旗本一番に「宮本武蔵」の名が記載されている。武蔵の手勢は十九人である。この史料については作成事情などを含めて我々はまだ資料分析を行っていないが、とりあえず、『峯均筆記』の記事を傍証する資料として挙げておきたい。
 これに関する武蔵伝記を見るに、小倉碑文では、関ヶ原役と大坂の役の記述はあるが、島原の役の記述はない。それに応じて、肥後系伝記を見るに、『武公伝』には島原の乱の記載はない。これは単に小倉碑文に情報がないからである。これに対して『二天記』には、いろいろ具体的な記述があって、肥後における後世の伝説成長の跡を見ることができる。
 すなわち、まず、武蔵が小笠原長次の後見についたという話はない。その代りに、武蔵養子の伊織について、武蔵が召連れていた伊織という者が軍功があったので、小笠原家に召抱えられた、それとともに伊織は忠政の命で武蔵の養子になった、などという誤伝を記載しているのである。これは『二天記』が、武蔵養子の宮本伊織について正確な情報をほとんど持ち合わせていなかったことを示す。
 伊織については、かの「泥鰌伊織」のような珍説が『武公伝』の段階から肥後にはあったわけで、また島原役のような比較的後期の事跡についても、かような有様であるから、武蔵が肥後に来る以前の事跡については、肥後には正確な伝承はなかったのである。したがって、むろん、このあたりの事跡に関するかぎり、筑前系の『峯均筆記』の情報の方が正しいと言わねばならない。
 ただし、小倉宮本家伝書でも、武蔵が長次の後見についたという記事はない。この点、一般には、武蔵は小笠原隊で島原役に従軍したという伝承のみあって、具体的な情報はなかったものと思われる。
 長次麾下の中津部隊にしても、大きくは小笠原隊一万余人の一部であって、忠政の本隊と離れて布陣したのではない。そこで、武蔵は伊織らとともに戦場へ行ったが、現場の軍議で小笠原忠政の要請があって、自由な身の武蔵は長次の傍についた、ということかもしれない。このケースでは、武蔵は中津から出陣したのではなく、小倉から戦場へ出向き、そして、忠政の本隊の脇に布陣した長次の後見についた、ということになる。  Go Back



福岡県吉富町 吉富フォーユー会館蔵
小笠原長次坐像


*【小笠原氏略系図】

小笠原秀政┬忠脩─長次 豊前中津
     |
     ├忠政 豊前小倉
     |
     ├忠知 豊後杵築
     |
     └重直 ─┐
          ↓
 松平重勝―重忠=重直 豊前龍王




九州関係地図


小笠原文庫蔵
中津小笠原家有馬陣軍立


*【小倉碑文】
《豊臣太閤公の嬖臣・石田治部少輔謀叛の時、或は攝州大坂に於て秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名、縦ひ海の口、渓の舌有るとも、寧んぞ説き盡くさんや。簡略して之を記さず》(原文漢文)

*【二天記】
《同十四年、肥前島原城ニ切支丹一揆楯籠ル。忠眞公出陣、武藏相従フ。五十六(四)歳ナリ。歸陣以後忠眞公麾下ノ諸士ノ軍功ヲ吟味アリシ時、武藏召連シ伊織ト云フモノ、抜群ノ功有リ、因テ召抱ヘラル。其ノ後祿二千石ニテ家老職トナル。且ツ忠眞公ノ命ニテ、武藏養子トナリテ、奉仕ス。武藏ハ客分ノ由ナリ》

 
 (3)始終、鎧ハ着玉ハズ…五尺杖ヲツキ
 ここは武蔵の出陣の様子を語る。まず第一は、武蔵は戦場で、初めから終りまで、鎧は装着しなかった、という話である。いわゆる「素肌」でいたわけである。
 戦場での素肌については、たとえば、筑前福岡城主・黒田忠之が、有馬陣のとき鎧を装着せず進撃しようとしたところ、黒田睡鴎に誡められたという話を、『常山紀談』が拾っている。この睡鴎は、黒田美作守一成(1571〜1656)の号、播磨で官兵衛の養子になり長政と一緒に育った。黒田二十四騎の一人、黒田三左衛門である。すでに六十八歳の老人で物師として知られ、三代目の忠之もその諫言を聞き入れざるをえない黒田家重鎮である。
 ようするに、黒田忠之は戦場でテンションが上がって、無謀にも素肌で出撃しようとしたのを、黒田睡鴎に誡められたというわけだが、戦場で素肌でいることは無謀な振舞いとみなされたという事例である。
 『峯均筆記』の伝承は、こんな常軌を逸した異様な振舞いを偏愛していたようで、前に武蔵若年のころの戦場逸話として、その無謀な行動ぶりを記しているが、ここでも武蔵は戦場で素肌という、異様な振舞いをしたということで、特記しているのである。
 そのうえ、緞子の広袖の胴着を着て、脇指を二腰〔ふり〕差し、五尺杖をついて、信州〔信濃守〕の馬の傍らについていた、という姿である。緞子の広袖の胴着に、脇指を二腰差し、というのは、これも異様である。いかにも見てきたような話だが、実際に武蔵がこんな装いで戦場に出たか、というと、それは分からない。とにかく、この逸話は『峯均筆記』の好み、異様への偏愛が出たところである。
 もっとも、二月二十七日の戦闘開始は、実は一日早かった。というのも、二十八日に城攻めと決まっていたのだが、鍋島勢が抜け駆けをして、前日に不意に戦闘開始となった。そのため、他家の武士には、甲冑も装着しないで飛び出した者も少なくなかった。そういう話が武蔵において尾ひれがついて、『峯均筆記』のような伝説内容となったようである。
 ちなみに、武蔵がこの「島原」一揆に、江戸の遊郭「吉原」の揚屋から出立したという伝説もある。雲井という局の女郎に、二刀の達人宮本武蔵が馴染んで、折々通っていた。島原へ出陣というので雲井に暇乞にやって来て、揚屋で発足の用意をした。武蔵は自分の旗指物を作ってくれと、女郎の雲井に頼み、また彼女の紅鹿子の小袖を裏に付けた黒繻子の陣羽織を着たそうな、という話である。江戸から九州まで遠かろうに、武蔵は江戸の遊郭から馬に乗って勇ましく「出陣」した、というわけである。
 周知のように、これは、『峯均筆記』とほぼ同時期の『異本洞房語園』(享保五年)に記す逸話だが、《寛永十五年の春中、肥前の島原一揆起り、西国御大名仰付られ発向の砌、宮本氏も黒田家の幕下へ見廻り(軍監)として彼地へ赴くとて》とあって、いい加減な話であるが、もとよりこれは、
 
    島原一揆    (島原遊郭)    島原一揆
   ―――――― × ―――――― = ――――――
   (島原遊郭)    吉原遊郭     吉原遊郭
 
つまり、「島原」という語に掛けた語呂合わせから生じたもので、江戸の武蔵伝説と言うべきものである。隠し言葉は京の「島原遊郭」であり、女郎の名「雲井」〔くもゐ〕は音読みで「うんせい」、これは「うんせん」(雲仙)の駄洒落シフトである。要するに、ワードプレイから生じた説話である。
 江戸の吉原遊郭が京の島原遊郭を隠し言葉にもつというのも、おもしろい操作である。島原遊郭ができたのは、島原乱後の寛永十八年(1641)。それまでは、京の遊郭は別の場所、つまり六条三筋町にあったのを、同じ六条の一kmほど離れた西郊に移した。
 島原というのは地名ではない。その名称由来について、遊郭移転騒動を島原の乱に譬えたというのは今日の俗説で、この新しい遊郭を島原と呼ぶようになったのは、当初、出入り口が一つしかなかったためである。この出入り口が一つしかなく袋の鼠なのを、島原一揆の原城にたとえて、「島原」とシャレてみたというわけである。
 したがって、『異本洞房語園』のワードプレイにある隠し言葉の「島原遊郭」は、島原一揆以前には存在しない。武蔵が江戸の吉原遊郭から出陣したという同書の記事を孫引きする武蔵関係書が少なくないが、それは江戸における後世の武蔵伝説である。
 ともあれ、武蔵の戦場での扮装の記事は、それが具体的であればあるほど、伝説口碑の重層過程を通過したものと見てよい。『峯均筆記』が記す、武蔵の鎧を装着しないその服装(緞子の広袖の胴着に、脇指を二腰)についても同様で、筑前における武蔵伝説である。城攻めのときに武蔵はどう働いたか、どのようにして長次に戦功を立てさせたか、という具体的な話がここにはない以上、扮装の逸話は後世発生の伝説である。
 ところで武蔵の道具は、五尺杖。宮本武蔵はいつも二刀流だというのは通俗的イメージで、武蔵にはこの五尺棒の杖術もありうる。前述の巌流島の一件のように、小倉碑文には武蔵の道具は「吾は木戟を提げて此の秘を顕はさん」とあり、『江海風帆草』では筋金で補強した五尺棒が、武蔵の道具として出てくる。実際の戦闘の武器としては、こんな五尺杖の方が有用であったかもしれない。
 武蔵は長次の傍らにあって、この五尺杖で投石を突き戻したという。伝説形成の順序としては、投石を突き戻すためにこの五尺杖がある。言い換えれば、武蔵は投石を突き戻したという説話素が、ここでその場を得ているのである。
 もう一つの説話素は、薙刀で数人薙ぎ伏せた、という話で、これは「例の薙刀で」とあるように、筑前二天流伝承の薙刀にまつわる伝説である。一流伝承の薙刀がどう使われたか、という話なのである。
 『峯均筆記』のこの部分を読んでみれば、いかにも戦場の記述情報が貧困である。言い換えれば、五尺杖と例の薙刀に関する伝説しかない。上述のごとく、城攻めのときに武蔵はどう働いたか、どのようにして長次に戦功を立てさせたか、という具体的な話がここにはない。
 長次は役後、杵築城主小笠原忠知とともに、豊後日田・玖珠・速見郡の幕府領六万石を預けられ、実質的加増を受けているのだから、それなりの戦功があったはずだが、そのために武蔵がどんな働きをしたか、その記述がない。あるのは五尺杖と「例の薙刀」に関する伝説のみである。それゆえ、『峯均筆記』のこの部分は、先の武蔵の扮装記事と同じく、後世の伝説なのである。



*【常山紀談】
《黒田忠之天草丸を攻むる時、本田但馬厳しく防ぎ支へて、先陣攻入り得ざりしかば、忠之素肌にて進まれけるを、黒田睡鴎、「物具侍むにたらぬとは申せども、大軍を下知し給ふ身の甲を著ざれば、うろたへたりと人の嘲り候べし」といひければ、忠之物具取つて肩にかけ、冑をば著ず手拭にて鉢巻し走り出で…》



緞子の広袖の胴着を着て、脇指を
二腰差し、五尺杖をついて



*【異本洞房語園】
《寛永十五年の春中、肥前の島原一揆起り、西国御大名仰付られ発向の砌、宮本氏も黒田家の幕下へ見廻りとして彼地へ赴くとて、雲井に暇乞のため甚三郎が許へ来り、揚屋にて発足の用意をしたり。武蔵が指物は箆を二本打違へたり。雲井を頼み縮緬にて袋をぬはせ、箆に掛青き筋純子の裁付、又雲井が紅鹿子の小袖を裏に付けたる黒繻子の陣羽織を着たるよし。太夫格子の遊女ども、武蔵坊とやらんいふ人の出立を見んと、中の町に群集したり。寛濶なる時代、宮本は聊かもおくれたる気色もあらで、夫々に餞別の時宜を述べ、大門の外より迎馬に飛のり勇み進んて打立けるといふ》





旧島原遊郭大門 慶応3年
京都市下京区西新屋敷










*【江海風帆草】
《武藏其日の装束は、繻子のヂハンをコハゼかけにして着し、五尺の棒に筋金をあて持、宗入より先に島に渡りて、腰かけて宗入を待居りけり》





 武蔵の島原役参戦については、周知の史料がある。有馬直純宛の武蔵自筆書簡である。日付はないが「即刻」とあって、文面内容からしても戦場の現場で認められたものらしい。
 ここには有名な武蔵負傷記事があって、投石を受けて脚が立たないほどになった、という武蔵の文言がある。もちろんこれは、投石が当たるほどの前線に武蔵がいたということである。
 この投石について、そんな原始的な攻撃に負傷するとは、兵法名人武蔵も大したことはないと、例の如く偶像破壊傾向の尻馬に乗った評言もかつてあったが、これは戦場のことを知らないのである。城の攻防において投石は、戦国時代はむろん、当時でも有力な攻撃法であった。ことに投石器という機械があって、かなり強力な武器であった。
 ところが『峯均筆記』には、この負傷記事はなく、武蔵が五尺杖で投石を突き戻したとする。これは、おそらく武蔵が投石で負傷したという説話素が変異して、五尺杖で投石を突き戻したという逆の内容に変ってしまったのであろう。伝説はこういう反転(inversion)をしばしばやってのける。そうした正反対になった説話を『峯均筆記』は採取しているわけである。
 原城攻めの布陣では、鍋島や細川や黒田の部隊のように前陣にはなく、小笠原隊は後陣にあった。しかし城乗りのおりには、前陣・後陣の差別なく部隊が突入するのである。武蔵が投石で負傷したというのも、長次に戦功を挙げさせるため彼の側近にいて、最前線に出ていたということであろう。
 それで、この武蔵書状のことである。宛先の「有左衛門佐」とは有馬直純(1586〜1641)で、彼は切支丹大名・有馬晴信の息子であった。直純は武蔵とほぼ同じ世代で、幼児洗礼を受けていた人である。慶長十五年(1610)二十五歳のとき、本多忠政の女で、改易になった堀忠俊と離別した国姫(1595〜1649)を、家康から養女にして配偶され、これが一種の踏絵で、先妻を捨てる恰好になった。慶長十七年(1612)父の晴信は、岡本大八事件という奇怪な一件で失脚し死罪となったが、直純は遺領を安堵される。しかし直純では切支丹弾圧が不徹底とされたか、慶長十九年(1614)に日向延岡城へ転封となる。ただし、このとき減封ではなく、四万石から五万三千石へ加増である。
 ともあれ、島原役では、直純は父祖旧領有馬の切支丹一揆鎮圧に動員されたというわけで、他の諸大名とはことさら違う条件にあった。有馬旧臣もこの一揆に多く参加していたであろう。つまり直純は、無理にでもここで戦功を挙げなければならなかったのである。
 この有馬直純と武蔵の縁は、たぶん、大阪陣後姫路城主となった本多忠政が結節点であろう。有馬直純は本多忠政の女を娶ったのであるから、同じく本多忠政の女を室にした小笠原忠政とは、両人の妻が姉妹という義兄弟である。本多・小笠原の縁に有馬直純も連なるのである。そこで直純は、武蔵とはほぼ同世代でもあり、旧知の関係であったのだろう。
 武蔵の書簡を見るに、これは返事の手紙である。つまり有馬直純から先に武蔵へ書状があり、それに対する返信がこの書簡である。おそらく直純からの手紙には、「せがれ伊織」の戦功を称える文言があったのだろう、武蔵は冒頭それについて記している。
 これに応対するかのように、武蔵からは《御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候》とあって、これは有馬父子の本丸への先登を称賛する文言である。こうして武蔵と有馬直純とは互に讃辞を送り合っているわけである。
 有馬父子は、直純とその嫡子・康純(1613〜92)である。康純は当時二十六歳、武蔵養子の伊織と同じような年齢である。つまり、武蔵父子は有馬父子と似たような世代の組み合わせなのである。彼らが旧知のこともあって、こうして親密な書信を交わしているのだが、むろんこの微笑ましい交信の蔭には、籠城方数万の大量殺戮がなされていたわけで、およそ、おぞましい光景があったのを忘れてはいけない。
 すでに述べたように、戦場の原城は有馬家の旧居城とあって、戦場は有馬家には因縁の土地である。無理にでもここで戦功を挙げなければならなかったというのは、そこである。
 ともあれ、投石に当たって負傷したというのだから、武蔵は総攻撃の前線に居たことになる。武蔵自身としてはそうする必要も義理もないが、小笠原長次の後見をつとめたとすれば、長次に戦功を立てさせる役目があって、長次とともに修羅場に突入したわけである。
 小笠原忠政が二月二十八日に、堀市正(利重)宛に出した書状がある。それによれば、小笠原忠政と長次の軍勢は、前日二十七日午後、突撃を開始し、本丸へ直接乗り入った。鍋島勢らが侵入した二ノ丸経由ではなく、まっすぐ本丸を目指したのである。高い岸(崖)だったが、とあるのを見ると、石垣を登ったらしい。
 そして、長次(信濃)の部隊が先駆けして、小笠原家の幟五本を立てたという。したがって、小笠原勢の中でも一番に本丸へ上ったのは長次の部隊である。その旗本にいた武蔵は、武蔵は先駆けして、配下の兵とともに本丸に上ったようだ。有馬直純宛武蔵書状にあるように、そこで、先登していた有馬の家来と賞詞を言い交わしたのである。
 したがって、この有馬直純宛武蔵書状には「即刻」とあって、日付はないが、それを二月二十七日と特定できるのである。従来、武蔵研究では、これを特定した研究はないが、我々の研究においてはじめて、これを二月二十七日と特定しえたのである。
 『峯均筆記』には、そのあたりの情報はない。投石に当たって負傷したという話もない。逆に、五尺杖で投石を突き返した、という話なのである。したがって、『峯均筆記』の記事は直接情報ではなく、後世形成の伝説、五尺杖と「例の薙刀」に関する伝説でしかない。
 他方、肥後系伝記の『武公伝』には島原役の記事がないことは既述のごとくであるが、『二天記』には、それが発生している。つまり、《島原賊徒征伐ノ時ハ、我始終忠眞公ノ御側ニ陪シテ、自ラ手ヲ不下、攻撃ノ籌策ヲ談ズ》と、武蔵が語ったという話である。参謀として終始小笠原忠政の君側にあった、というわけだが、これは以下の尾ひれがついた説話である。
 つまり、武蔵晩年肥後にいたころ、ある者が武蔵を誹謗した。巌流島決闘のとき勝ってそのまま武蔵は逃げた、その後も小次郎の弟子らを恐れて細川家に近づかなかった。あるいは、島原役のとき、何の戦功もなかった。幸い門弟の伊織に軍功があって、小笠原家で登庸された。武蔵はこれにもたれかかっていただけだ、笑うべしと。
 武蔵の面前で、こんな無礼な誹謗をして嘲ける者があったとは思えないが、『二天記』によれば、とにかくそういうことなのである。
 巌流島決闘の話の方はここでは省略するが、この非難に対し武蔵は、自分は参謀として終始小笠原忠政の君側にあって、作戦を練っていたのだから、戦闘の現場に出ていないのは当然だ。《明カニ幕下ノ諸士ノ見ル處ナリ。何ゾ區々ノ小功ヲ貪ランヤ》と反論したので、相手はうろたえて去った。――これは明らかに武蔵の直話を装った講談咄であり、肥後で発生した痛快伝説である。
 肥後では口碑伝説が重層して、こういう説話が発生したのであろう。これを見るに、おそらく、近代の武蔵批判と似たような現象が後世の肥後にあり、巌流島決闘に関して、あるいは島原役に関して、武蔵は大した奴じゃない、という非難がましい批評があったのに対処して、『二天記』段階で、それを説話の中の問答に取り込んで、武蔵に逆襲させているのである。問答の内容をみれば、それ自体が後世の伝説に依拠したものであり、もちろんこれは武蔵直話の体裁に仕立て直した説話である。『二天記』の逸話には、一見して虚構だとわかるこういう事後的加工が多い。
 ともあれ、『峯均筆記』に話を戻せば、島原戦役で武蔵が小笠原長次に後見としてついた、という一件が検証に値する記事であり、この点に関するかぎり、肥後系伝記に対しアドヴァンテージがある。ただし、それ以外の記事は後世の伝説である。
 ところで、面白いのは丹羽信英の『兵法先師伝記』である。こちらは『峯均筆記』を参照した(記憶がある)ところの筑前系伝記なのだが、そこにも島原の乱の記事がある。
 それをみると、なんと武蔵は、島原役のさい肥後の細川忠利に従軍したことになっている。しかも、客分で三千石。忠利が武蔵に、「嫡子与五郎が初陣なので、面倒をみてやってくれ」と頼んだので、武蔵はその旨を受けて軍立した、という。『峯均筆記』に、小笠原忠利が武蔵に、甥の長次の後見を頼んだという話が、そっくり肥後細川家の話へ置換されているわけである。これは誤伝成長の典型例である。
 『兵法先師伝記』には、宮本伊織の記事などのように肥後系伝説の混入もある。だが、島原役の一件では、ご当地の肥後でさえこんな話はない。むろん肥後では、武蔵が肥後へ来て細川家の客分になった時期がわかっているからである。
 『兵法先師伝記』の「嫡子与五郎」「肥後守光隆」というのは、細川光尚(1619〜49)のことを言いたいらしいが、与五郎というのは、細川忠興の二男・細川興秋(1583〜1615)、忠利の兄である。『兵法先師伝記』は天明二年(1782)の書で、『二天記』とほぼ同時期の書であり、後世の著述ゆえ『兵法先師伝記』にはしばしばこうした誤認記事がみられる。
 しかし、『峯均筆記』よりも具体的な情報もある。それは「例の薙刀」が、筑前の武蔵流末に伝承された経路である。『兵法先師伝記』によれば、これは筑前二天流三代柴任美矩が持ち伝えたものが五代立花峯均へ伝わり、峯均から甥の立花増寿へ伝えられた。それで、七代の丹羽信英が、師匠の立花増寿のもとでそれを実見したことがある。その「例の薙刀」は《刃の長さ二尺五寸、柄大にして赤金作りなり》という。
 これは、『峯均筆記』の「例の薙刀」記事を補完する記録である。  Go Back



吉川英治記念館蔵
有馬直純宛宮本武蔵書状

*【有馬直純宛武蔵書状】
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶奉存候。拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。猶重而可得尊意候。恐惶謹言
    即刻       玄信(花押)





狩野文庫蔵
肥前國島原仕寄之圖





原城本丸攻口図





*【堀市正宛小笠原忠政書状】
《一筆令啓上候。昨廿七日之八ツ時分、鍋島仕寄出丸より二ノ丸へ火矢をいかけ、二ノ丸三ノ丸焼立、本丸へ乘取、吉利支丹連うちころし申候。我等信濃備ハ、高キ岸ニて候へ共、本丸へ直ニ乘入、のぼり五本、信濃者先かけ、首数も多仕候間、可御心安候。両人共一段と無事ニ罷在候間、御氣遣被成間敷候。以來人々可申ためと存知、横目馬場三郎左、榊原飛騨ニ、我等先手之言葉を合申候。両人之可被存候間、其元ニて取沙汰のため申入候。恐惶謹言》(二月廿八日付)








*【二天記】
《「…扨又、島原ノ軍中ニ何ノ功ナシ、幸ニ門弟伊織ガ軍功有テ、登庸セラルルヲ以テ、是ニ凭リタルナリ。以テ可笑」。武藏笑曰、「…又島原ノ軍中功ナシト。我壯年ヨリ軍場ニ出ル事、凡ソ六度ナリ。其ノ内四度ハ先登ス。則感状證據アリ、世ノ知ル處ナリ。島原賊徒征伐ノ時ハ、我始終忠眞公ノ御側ニ陪シテ、自ラ手ヲ不下、攻撃ノ籌策ヲ談ズ。明カニ幕下ノ諸士ノ見ル處ナリ。何ゾ區々ノ小功ヲ貪ランヤ」ト云ヘリ。誹ル者尊巡トシテ去ル》




















*【兵法先師伝記】
《肥後國熊本城主細川越中守忠利侯、先師ノ兵法ヲ信ジ給ヒ、召シテ客トシ給フ。先師肥後ニ行テ、忠利侯ニ兵法ヲ説ル。忠利侯ヨリ先師ヘ三千石ノ賂領ヲ定置給フ。塩田濱之亟ト云士ニ仰セテ支配サセラル。此間ニ嶋原ノ役發ル[寛永十五年也]。此時忠利公御頼ニテ、御嫡子与五郎[後号肥後守光隆侯]、初陣ナレバ、御取申サレヨトノ御事故、先師其旨ヲ受テ軍立セラレ、城乗ノ日、先師先ニ立テ國嗣ヲ後ニ立セ参ラセ、具足ノ上帯ニ取付テ御登リアレト、鉄炮ハゲシキヲ少モ厭ハズ城ヘ乗リ、能敵ヲ選テ与五郎主ヘ討セ参ラセ、夫ヨリ先師ハ長刀ヲ持、敵數十人打取レケル。[此時先師ノ持レシ長刀、柴任美矩持傳テ立花峯均ヘ譲ラレシヲ、峯均、予ガ師立花増壽ヘ譲ラレ、今ニ重器トセラル。予本ヨリ常ニ是ヲ見タリ。此長刀刃長サ二尺五寸、柄大ニシテ皆赤金作ナリ]》

 
  10 武蔵の風体と人物/小河権太夫
一 武州、一生髪ヲ*ケヅラズ、爪トラズ、浴セズ。老年ニ至テ、在宿ノ節ハ無刀ニテ、五尺杖ヲ平生携ヘリ*ト云リ。夏日ニハ、手拭ヲ濕シテ身ヲ拭ハレタリ。「吾、仕官ノ望ナシ。縱バ、手桶一ツノ湯ニテハ身ノ垢ハ洗ベシ。心裡ノ垢ヲスヽグニ暇ナシ」トノ玉フ。壯年ノ時ハ髪帯ノ邊マデ垂レ、老年ニ及テハ肩ノ邊マデ下リタリトカヤ。(1)
 繻子ノ小袖ニ紅裏ヲツケ、足ノ甲ニ垂ル程長キヲ着シ、繻子純子又ハ紙子等ノ胴肩衣ヲ着シ(2)、刀脇指ハ木柄ニテ、赤金〔アカヾネ]拵ナリ。「物好事ハ、アカヾ子ナラデハ、思様ニ無之」ト、平生被申ト也。
 五尺杖ハ、刃ノ方ニ銕〔テツ〕ヲ延ベテフセ、跡先中ニモ胴金アリテ、長キ腕貫ノ緒ヲ*ツケリ。枕木刀ノ腕貫ハ指ニカヽル様ニ短シ。刀脇指ニモ腕貫ヲ付度時ハ、小ヨリヲシテ糸ノ巻目ニ聢ト繰リ付、指ニ懸ル様ニシタルガ能トノ玉フト云リ。(3)
 身ノ長六尺程、骨フトク、力量人ニ越タリ*。十三歳、有馬喜兵衛ト初テ試闘ノ時、健ナル者ノ十六七歳程ニ見ヘシトカヤ。(4)
 能筆、能畫、細工モ勝レリ(5)
 一生福力有テ、金銀ニ乏シカラズ。歴々ノ浪人、武州ニ隨仕ノ者、數多アリ。暇ヲ申シ他所へ出ル時ハ、「人ハ金銀ナクテハ何方ヘ行テモ落着難キモノ也。其用意アリヤ」トテ、金銀ヲアタフ。平日居ラルヽ所ノ天井ノ廻リ縁ニ、木綿ノ嚢ニ入テ金銀ヲカケ置、「何番目ノ嚢ヲ」ト指圖シテ、矢筈竹ニテ嚢ヲオロサセ、與ヘラレシト云リ。(6)

 木刀ヲ取テハ、中段ニテモ上段下段ニテモ、心ニ任セテツカヒ、隨仕ノ面々ニ不限、誰ニテモ相手ニナシ、日々試闘ヲモ致サレシトカヤ。
 予祖母ハ、小河勘左衛門ガ女ニテ、小河權太夫トハ兄弟ナリ。權太夫、忠之公ノ蒙御勘氣、諸國ヲ廻リシ者也。壯年ノ時、武州ヘ隨仕セリ。權太夫、老年、露心ト号ス。
 露心、常々物語ニ、「我等杯、若カリシ時ハ、命ヲ捨ル事、屑トモセズ。武州ト立合、打太刀ヲ致、「己、一太刀可打」ト思儲ケ、木刀ヲツ取立向フ。武州、二刀ヲ取、大太刀ヲ杖ニツキ、肩ヲクハツトクツロゲラルヽト、肝ニコタヘ、蹈掛タル足ヲ一足ハ必引タリ。是、露心ニ不限、何レトテモ同然タリ*。武州ガ事ハ、咄シタリトモ、中々合点行マジ」ト語レリ。(7)

一 武州は一生、髪を櫛けずらず(梳かず)、爪を切らず、入浴しなかった。老年に至って、在宿の時は、無刀で、五尺杖を平生携えていたという。夏の日には、手拭を湿して身を拭われた。「おれには仕官したいという願望がない。たとえば、手桶一つの湯でも身体の垢は洗えるが、心の内の垢を滌ぐのにいとまがないからだ」と言われた。壮年の時は、髪が帯の辺りまで垂れ、老年に及んでは肩の辺りまで下っていたとか。
 (衣服は)繻子の小袖に紅裏〔もみうら〕のついた、足の甲に垂れるほど長い小袖を着て、繻子・純子(緞子)または紙子*等の胴肩衣〔どうかたぎぬ〕を着し、刀と脇指は木柄で、銅〔あかがね〕拵えである。「物好事〔細工物〕は、あかがね〔銅〕でなくては、思うようにできない」と、平生申されたそうである。
 五尺杖は、刃の方に鉄を延べて補強し、後・先・中にも胴がね(鉄輪)があって、長い腕貫〔うでぬき〕の緒が付いていた。(他方で)枕木刀の腕貫は指にかかる程度で、短い(緒であった)。刀や脇差にも腕貫を付けたい時は、紙縒で糸の巻目にしっかりとくくりつけ、指にかかるようにした方がよいぞ、と(武州が)言われたという。
 身長は六尺〔1.82m〕ほどあり、骨太く、力量は超人的だった。十三歳、有馬喜兵衛との初めての試闘の時、壮健な男子の十六、七歳ほどに見えた、とかいう。
 能筆・能画で、細工にもすぐれていた。
 一生福力があって、金銭に困ったことはなかった。歴々の(名のある)浪人で、武州に隨仕する者が数多くあった。(彼らが武州に)暇を申し他所へ出立する時は、(武州は)「人は金が無くてはどこヘ行っても落ちつけないものだ。その用意はあるのか」といって、金銀を与えた。日常居られる所の天井の廻縁に、木綿の袋に金銀を入れて吊るしておいて、「何番目の袋を」と指図して、矢筈竹で袋を下ろさせ、〔金銀の入った袋を〕与えられたという。

 木刀を取っては、中段でも上段・下段でも、思うままに使い、隨仕の面々に限らず、誰であっても相手になり、日々試合もなさったとか。
 私の祖母は小河勘左衛門の娘で、小河権太夫とは兄弟姉妹だった。権太夫は、(黒田)忠之公の勘気を蒙り、諸国を遍歴した者である。壮年の時、武州へ隨仕した。権太夫は、老年「露心」と号した。
 露心が常々物語するに、「おれなど、若かった時は、命を捨てることなど、何とも思わなかった。武州と立合い、打太刀をつとめた(とき)、「おのれ、一太刀打ってやろう」という気になって、木刀をおっ取り立向った。武州は二刀を取り、大太刀を杖について、肩をくわっと広く寛げられる。すると、(それだけで)おれは怖気づいて、踏み込もうとする足を一足は必ず引いたものだ。これはおれに限らず、だれでも同じだった。武州のことは、話してもなかなか合点がいくまいが」と語った。

  【評 註】
 
 (1)一生髪ヲケヅラズ、爪トラズ、浴セズ
 この条は、武蔵の身なりや道具、人物やその強さなどについて、いくつかの逸話口碑をランダムに列記している。これは筑前系の武蔵像伝承である。「といへり」「とかや」という口碑である。筆者は思い出すままに記したようで、話題はあちこち、とりとめもなく飛んでいる。
 (頭髪と爪) 武蔵は、一生髪を櫛けずらず、つまり髪を梳かなかった、また爪も切らなかったという。壮年の時は髪が帯の辺りまで垂れ、老年に及んでは肩の辺りまで下っていたとか。くしゃくしゃ頭で、髪も爪も伸び放題、というところか。
 (入浴拭身) 武蔵は、浴みをしなかった。これは湯に入浴しなかったということである。夏の日には、汗をかくから、手拭を湿して身を拭った。「おれには仕官したいという願望がない。たとえば、手桶一つの湯でも身体の垢は洗える。心裡の垢を滌ぐのに暇がないからだ」と言った。
 (無刀で五尺杖) 老年に至って、在宿の時、つまり城下に滞在する時は、無刀で、五尺杖を平生携えていたという、という話。
 ここでは以上の記事があるが、順に見ておこう。まず、「一生髪ケヅラズ、爪トラズ、浴セズ」とあって、武蔵は尋常の生活ではなかったことが強調されている。『葉隠』にあるごとく化粧するほどではなくとも、ふつう武士は、身なり風体に気を使うようになっていくが、それに対し、武蔵はまったくそんなことには頓着しない者として強調されている。
 しかしこれは、本来仏僧をはじめ一所不住の修行者の生活である。習俗として奇異なことではない。風呂に入らないのは、手桶一つの湯でも身体の垢は洗えるからだ。修行者の生活としては当然のことである。
 しかし、身の垢を洗わないのは、心裡の垢を滌ぐのに暇がないからだ、という『峯均筆記』の説諭は、出来すぎた話である。修行者生活を強調するのはよいが、これでは講談の教訓話と同じで、おそらく武蔵末流の講話の中で生じた説話である。
 また、修行者生活を強調するあまり、「おれには仕官したいという望みがない」と武蔵に言わせてしまっている。仕官をすると身を清潔にしなくてはならない、おれには仕官したいという望みがないから、その必要もない、というところなのだが、これも、同じような仕儀で、「一生髪ケヅラズ、爪トラズ、浴セズ」という武蔵の振舞いを解りやすくする後世の解説説話である。
 これは、武蔵が一生修行者のライフスタイルを貫徹したという伝説が、視覚的イメージとなって可視化したものである。こういう武蔵伝説が流布していたとみえて、それを本当に絵にしてしまった武蔵流末の武蔵像は、どれもかなりひどいご面相になっているのが、おもしろい。ただし、武蔵が修行者生活を貫徹したとしても、実際に、「一生髪ケヅラズ、爪トラズ、浴セズ」であったかどうか不明である。この点は注意を喚起しておきたい。
 周知の如く、『渡辺幸庵対話』に武蔵記事があって、類似の話がある。同書は杉木三之丞義隣著で、渡辺幸庵という老人から聴取した話の聞書という体裁である。
 これによれば、武蔵は、武芸は言うに及ばず、詩歌・茶の湯・碁将棋、すべて諸芸の達人だった。しかるに何よりの瑕疵があった。武蔵は洗足や行水を嫌い、一生沐浴する事がなかった。外へ裸足で出て、汚れても、足を拭かせるだけ。それゆえ、衣類が汚れるので、その汚れを隠すために、表裏両面とも天鵞絨(ビロード)の衣服を着ていた。お偉方に対してもそのように身なりを構わないので、武蔵はあまりお偉方には近づかなかった。――という話である。
 渡辺幸庵からの聴取は宝永六〜七年(1709〜10)というから、その当時、こういう武蔵伝説の元素がすでに江戸にはあったのだろう。『渡辺幸庵対話』のこの逸話は、たぶんこうした筑前系の伝説を取り込んだものであろう。黒田家中の吉田実連や立花峯均は、しばしば江戸へ出府しているから、筑前の伝説話を当地でやっていたかもしれない。それが流れて『渡辺幸庵対話』に入ったようである。
 後出記事のように『峯均筆記』には、武蔵の日常衣服として、「繻子ノ小袖ニ紅裏ヲツケ」とあって、これが『渡辺幸庵対話』では、「天鵞絨両面の衣服」の衣服に変化しているだけではなく、武蔵が汚れを隠すために両面ビロードの衣服を着た、という説明になっている。これは説話上の解釈であり、『峯均筆記』よりも発展した伝説形態である。
 ともあれ、こうした逸話が流布して、「不潔な武蔵」というイメージを強調する事例が、現代の武蔵小説や評伝にも多いのだが、どれもこれも伝説を鵜呑みにした凡庸な認識にとどまっている。むろん、『渡辺幸庵対話』と『峯均筆記』の二つの文献にあるから、これは武蔵の実像にちがいないなどという杜撰な話は論外である。そんなことで済むなら、武蔵伝記研究に苦労はない。
 要するに説話論的展開のプロセスは、一生修行者生活を貫いたという武蔵伝説が、口碑としての展開過程で誇張された視覚的イメージに結実して、『峯均筆記』のような「一生髪ヲケヅラズ、爪トラズ、浴セズ」という説話になったということである。それゆえ、くりかえせば、武蔵が一生修行者生活を貫徹したとしても、実際に、「一生髪ヲケヅラズ、爪トラズ、浴セズ」であったかどうか、それは史実を争うほどの争点ではない。
 なお、ここに、武蔵が無刀で、常は五尺杖を持っていたという記述があるが、それに関しては、後出記事に関連して述べるであろう。  Go Back






島田美術館蔵

熊本県立美術館蔵

牧堂文庫蔵



*【渡辺幸庵対話】
《武蔵事ハ、武芸ハ不及申、詩歌茶の湯碁将棋、都て諸芸に達す。然るに第一の疵あり。洗足行水を嫌ひて、一生沐浴する事なし。外へはだしにて出、よごれ候へば、是を拭せ置也。夫故、衣類よごれ申故、其色目を隠す為に、天鵞絨両面の衣服を着。夫故、歴々に踈して不近付》(宝永6年9月10日対話)




熊本県立美術館蔵


 
 (2)繻子ノ小袖ニ紅裏ヲツケ、足ノ甲ニ垂ル程長キヲ着シ
 武蔵の服装である。小袖と上着の胴衣の組み合わせ。これはそれ自体とくに変ったものではない。右掲は肥後の島田美術館所蔵の有名な武蔵肖像だが、これも小袖と胴着のアレンジである。しかし、『峯均筆記』の服装記事は、それにとどまらない。いささか異様である。
 小袖は繻子だという。繻子は絹織物。織物の表面に縦糸あるいは横糸だけを浮かせ、表面はなめらかで光沢がある。日本では天正年間、京の織工が中国の製法にならって製作しはじめたらしいから、これは比較的新しい織物である。いまは帯地に用いることが多いが、武蔵当時は小袖に用いたらしい。いわゆる唐織の小袖である。
 この繻子の小袖は、紅裏〔もみうら〕のついたものだという。紅染の裏を付けた小袖は時服にも例があるけれど、日常の服ではない。これが足の甲に垂れるほど長い小袖だという。繻子に刺繍があったかどうか知れないが、これはぞろりとして、慶長期の若衆でも着そうな、なかなか伊達な衣装である。
 胴肩衣は、繻子・純子〔緞子〕または紙子等であったという。繻子は上記の絹織物だが、緞子は練糸で織った地が厚い光沢のある絹織物、「金襴緞子」というあの緞子である。紙子は紙製の衣服で、粗衣と思われがちだが、これは軍装である。古くは仏僧が着た物だったが、戦国時代には武将達が野外の陣中で防寒用に着たところから、意匠も派手になったようだ。
 こうしてみると、『峯均筆記』が記す武蔵衣装は、やはり武士の日常ファッションとして尋常のものではない。しかも質素なものではなく、豪勢なものである。後世倹約令が出ると、禁じられる類いの豪奢なものである。
 武蔵のイメージは「一生髪ケヅラズ、爪トラズ、浴セズ」だが、その一方でこんな豪奢なファッションである。この武蔵像には、分裂性の傾向、《schizophrenic》なところがある。つまり、禁欲的な修行者生活と、それとは正反対の豪勢な衣服。異様なのは、豪勢な衣服ではなく、統合不可能な、こうした禁欲と豪奢のイメージの分裂した姿である。これも、『峯均筆記』の他の箇処と同じく、武蔵の異様異相ぶりを強調する伝説の一つであろう。
 ようするに、このポイントを読み取れた読解は従来存在しなかったのだから、改めて強調しておけば、立花峯均が描く「異様」の武蔵像は、通俗作家たちお気に入りの風呂に入らぬ不潔な武蔵というところにはなく、禁欲と豪奢の、かようにも分裂した統合不可能なイメージにある。この肝腎なポイントを読み外してきた読解は、立花峯均好みの異様の美学を知らないに等しいのである。  Go Back


島田美術館蔵
宮本武蔵像 島田美術館蔵
 
 (3)刀脇指ハ木柄ニテ、赤金拵ナリ
 武蔵の道具、武器の話である。いづれにしても話は晩年の武蔵のことだろうから、決闘勝負に明け暮れた二十代までのことではない。
 まず刀・脇指、つまり刀剣は木柄で、赤金〔銅〕拵えである、という。これは刀剣の拵えのことで、むろん木柄というのは、柄(つか)が木製で、刀装は赤銅製とのことである。柄が木製だとはいえ、白木柄であるはずもなく、鮫(エイ)や牛の皮を巻いたのだろうが、その話はない。問題は赤銅拵えの方で、「あかがね」はここでは銅や亜鉛などの合金だろうし、はばきをはじめ鐔(つば)や、柄の縁(ふち)と頭(かしら)、鞘の鐺(こじり)などの刀装パーツは、赤銅製だというのである。
 そこで、武蔵談として、「物好事〔細工〕は、あかがね〔銅〕でなくては、思うようにできない」と、平生言ったということである、と伝説を記録する。銅は細工に勝手がよいとのことで、これは当たり前で、とくに特記すべきことではないが、武蔵が刀装パーツ作製にあたって赤銅を好んだという、武蔵好みに関する話なのである。武蔵は器用だったので、工芸作品もあることは知られている通りである。
 我々の現代、宮本武蔵はやはり人気で、「武蔵拵」の模造刀も商品化されて販売されているほどである。たしかに姿のよい刀装である。しかし刀装パーツは赤銅ではない。武蔵拵の模造は松井文庫所蔵のもの(溜塗鞘打刀拵)が知られている。金工は江戸時代後期の神吉楽寿で、鐔や縁頭や鐺などは鉄地の金象嵌なのである。この武蔵拵の仕様を見れば、武蔵が刀装に赤銅を好んだという話とは違うから、肥後の伝説は伝説としておいてよいのである。


武蔵拵模造刀

松井文庫蔵
溜塗鞘打刀拵 松井文庫蔵






縁・鍔・はばき



 次に道具は、刀剣ではなく、「五尺杖」である。五尺の杖〔じょう〕というから、武蔵道統には杖術もあったということである。ただし、本書『峯均筆記』だと「五尺杖」というが、筑前二天流では、のちに「五尺木刀」というようになった。というのも、我々が近年越後で発掘した現物だと、形状はだだの杖ではなく、木刀でもある。
 我々の調査研究以前には、『峯均筆記』に「五尺杖」とあっても、具体的にそれがどのようなものか、解明した研究はなかった。それが近年の越後調査で現物を発掘をして、ようやく「五尺杖」の何たるかが判ったのである。その一例を示せば、以下のような道具である。
個人蔵
五尺木刀
 とにかく、長大な道具である。「杖」というからには、この「木刀」には石突が付いている。持って歩くとき、杖のごとくついて歩くからである。ところが、断面は刄と棟の別があるから、これはたしかに木刀である。だから杖と木刀のあいの子のような道具が、五尺木刀、本書にいう五尺杖なのである。その具体的なことについては、本書「追加」の二祖寺尾信正の記事に関連して述べるであろう。それを参照されたい。
 ところで、本書によれば、武蔵所用の五尺杖は、刃の方――つまり握る柄ではなく打撃する方は、そこに「銕(鉄)ヲ延べテフセ」とある。この「ふせる」は伏せるではなく、補強するの意である。日葡辞書に「キルモノヲfusuru(フスル)」とあるのと同義である。つまり、鉄筋をを伸ばして補強したということである。そしてさらに、後・先・中の三箇所にも胴金(鉄輪)があって、要するに単なる棒杖ではなく、鉄筋補強した筋金入りの五尺杖なのである。これは刀剣を折りひしぐ強烈な武器である。
 『峯均筆記』の後出「追加」にある寺尾孫之丞の記事に、「武州公は五尺杖を片手で自由に扱われたので、特別にこれという業はなかった」という話を載せている。ようするに五尺杖は常人では片手で扱えないのである。武蔵は大力なので、五尺杖を片手で自由に扱ったという話である。
 これは武蔵流杖術の道具ともいうべきで、こういうものが筑前の武蔵流末に伝わっていたものらしい。上に見たとおり、《老年ニ至テ、在宿ノ節ハ無刀ニテ、五尺杖ヲ平生携ヱリト云リ》とあって、老年の武蔵は、登城しない在宿のときは刀を差さず、こんな五尺杖を持ち歩いていた、という伝説なのである。
 これも、武士の尋常の姿ではなく、異様といえば異様である。つまり天下泰平になって、武士に剣のフェティシズムが生じるのだが、武蔵はそういう趨勢に対し、あえて剣を差さないという反時代的な人間だったのである。
 しかし、晩年の武蔵は無刀だったという『峯均筆記』のこの記述を見て、武蔵は「剣を捨てた」のだ、平和主義者になったのだ、と早とちりしないこと。それは観念的な吉川武蔵の亜流、そのイデオロギーの焼き直しである。武蔵が無刀だったというのは、実戦から乖離した武士階級における剣のフェティシズムという鼻もちならぬ趨勢に、異義ありとの身振りに他ならない。とにかく、『峯均筆記』はそんな不羈異様な武蔵像を偏愛している。
 この五尺杖には、長い腕貫〔うでぬき〕の緒が付いていた。腕貫緒は武器が手を離れないようにする紐。柄の先端に取り付けて、緒を手首を通しておく。それがかなり長いものだったという話である。とすれば、武蔵の筋金入りの五尺杖には投擲の技もあったようである。
 以上は武蔵の五尺杖の装具の記述である。他方、五尺杖ではなく、枕木刀の方は、腕貫は指にかかる程度で短い。寝るとき枕辺に置く刀を「枕刀」というし、「枕槍」もある。つまりは護身用である。ただし、この枕木刀というのは短い小太刀で、長さ二尺程の木刀である。この腕貫は短いという。
 そして、刀や脇差にも腕貫を付けたい時、どうするか。「刀や脇差にも腕貫を付けたい時は、紙縒りをして柄の巻糸の巻目にしっかりとくくり付けて、指にかかるようにするのがよい」という武蔵の教えがあったということである。刀や脇差にも腕貫を付けたというあたりが、興味深いところである。
 なお、本書写本のうち三宅長春軒本では、ここに大幅な脱文がある。《カヽル様ニシタルガヨシ》とあるだけで、それでも「こんなふうにした方がよいぞ」と単独に読めないことはないが、異本を校合すれば、明らかにここに脱文ありと知れる。ゆえに、テクストを補正し、刀や脇差にも腕貫を付けたい時、どうするか、という話だとしておく。  Go Back

五尺木刀断面図


*【丹治峯均筆記】
《五尺杖ノ仕道、信正鍛錬也。武州公ハ片手ニテ自由セラシユヱ、別段ニワザハナシ。信正ニ至リ、片手ニテハ振ガタキユヘ、仕道ヲ付ラレシト也》





武蔵提五尺木刀像
 
 (4)身ノ長六尺程、骨フトク、力量人ニ越タリ
 武蔵の体格である。身長は六尺〔1.82m〕ほどあり、骨太く、力量は超人的であった。十三歳で有馬喜兵衛と最初の試闘をした時、すでに壮健な男子の十六〜七歳ほどに見えたとかいう、という言い伝えである。
 武蔵の身長については、六尺ほどあったというが、これはどうか。黒田二十四騎の菅六之助などは、「正利は身の長六尺二寸あり。力群に勝れたり」(菅氏世譜)とあり、身の丈六尺は豪傑伝記には珍しくはないかもしれないが、それでも当時としては巨大な体躯である。
 以前、本サイトの五輪書読解において、武蔵肖像から身長を割り出す試みがなされている。それをここに再録すれば、計測資料は上掲島田美術館所蔵武蔵像で、この像の身長(t)は頭部寸法(h)の約七倍である。いま、頭部寸法(h)=八寸五分(25.7cm)だとすれば、身丈(t)=五尺九寸五分(180cm)となる。
 ただし右の画像では、下段の構えの武蔵の体はやや腰をおとしている。とすれば、もう少し割増する必要があろう。したがって、この図を計測資料とする限りにおいて、武蔵の身長はやはり六尺はありそうである。
 ここで計測資料にされた武蔵像は十七世紀後期のもののようで、十八世紀前期の『峯均筆記』の述作よりは早い。『峯均筆記』の「身ノ長六尺程」という記事は口碑だが、おおむね比較的早期の武蔵イメージを伝えているとみてよい。
 武蔵の身長は六尺。今日の日本人男性では珍しくない身長だが、これは、当時としては巨大な体躯である。人々の間に混じって並べば頭ひとつ抜け出しているだろう。そうして、『峯均筆記』によれば、骨太く、力量は非凡とういうから、体型は骨太筋肉質で大力のレスラー型であろう。
 さて、五輪書の記述によれば、武蔵最初の決闘は十三歳の時、有馬喜兵衛との対戦だが、『峯均筆記』によれば、そのとき武蔵は、健康者の十六、七歳程に見えた、とかいう、といった伝説を記している。しかし、十三歳の武蔵を見知っている者は、『峯均筆記』の周辺には居そうにないから、これは武蔵が大男だったという話から来た説話上の解釈であろう。もちろんこれは、十六、七歳程に見えたでも、二十歳くらいに見えたでも、どのようにでもなる恣意的な話である。
 ただし、少なくとも立花峯均には、武蔵最初の決闘は十三歳の時、有馬喜兵衛との対戦、ということが解っているから、そのとき十三歳の少年はどうだったか、という関心が向けられているわけである。そうして当時成人の年頃が十六、七歳だったので、少年だが成人男性にみえたというほどの意味で、「十六、七歳程に見えた」というやや穏当な記事に、何となく納まっただけのことである。
 なお、周知の如く、椿椿山画という少年武蔵像(島田美術館蔵)があるが、これはいかにも豪傑風少年の漫画的肖像である。この少年は熊のように毛深い。類似の武蔵像は他にも数点あるが、それは壮年の豪傑の肖像である。ただ、そのプロポーションが、見ようによっては童形である。そこで、十三歳時少年武蔵像なる画は、おそらくこれを見たもので、豪傑武蔵の少年期とはかくあるべしと錯覚されたイメージである。  Go Back









武蔵の身長計測図



個人蔵
元祖宮本辨之助肖像
 
 (5)能筆、能畫、細工モ勝レリ
 武蔵のアート、芸術は剣術のみにあらず。能筆、能画、書も画も能くしたし、工芸の細工も上手だった、という話である。これは武蔵流末に限らず、一般に言うところであった。
 小倉碑文には、武蔵は、「礼(礼法)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(書道)・数(算術)・文(詩文)に通ぜざるものはなかった。いわんや、小芸、巧業、ほとんど何でもできた」とある。これは顕彰碑のステロタイプな修辞的表現であるが、ただし武蔵には、そう言わしめるものがあったようだ。武蔵は士大夫に必須の十能・七芸に通じていた、それだけではなく、和歌連歌、絵画工芸、能舞い謡い、茶の湯、建築作庭、なんでも能くやれた、というわけである。いわば、文武両道の見本みたいな存在だった。
 これに対し、『峯均筆記』の、《能筆、能畫、細工モ勝レリ》という短い一文は、茶の湯に通じた立花峯均にしては、簡潔すぎる評言だが、それだけに彼が語っても記さなかったものの豊饒多様性はうかがえる。筑前二天流立花峯均の孫弟子に、丹羽信英という者があり、この丹羽が『兵法先師伝記』に記しているのは、もっと具体的な話である。
 ここでは武蔵の画と書に言及している。画はだいたいが墨画で、丹羽信英が見たのは、達磨図、唐犬と烏の画、あるいは雉子の画ということだが、今日の我々には詳細不明である。それよりも面白いのは、武蔵の画が江戸で出まわっていたらしいことである。丹羽は、今も江戸で見あたることがあると言い、我が徒よ、東武(江戸)に行く機会があったら、心に掛けて求むべきなりという。江戸には武蔵作品が出回っているから、江戸に行ったら、気をつけて探してみろ、というわけだ。
 じっさい、丹羽信英の父・桐山丹英が江戸で見つけて入手したらしい。桐山丹英は立花峯均の弟子である。その桐山が、武蔵の印(二天印か)を隠して狩野家の絵師に見せた。一見して、「これは先祖狩野光信が描いた絵でしょう」と言った。しかし、よくよく見て、「いや、そうではありません。これは、噂に聞く宮本武蔵という人の絵でしょう。まことに名画ですが、狩野家では習わないところがあります」と言ったので、開いて印を見せると、ますます感心して、「大切に秘蔵なされよ」と言ったという。これは丹羽信英が十三歳のとき、父(桐山丹英)がそう語ったという話である。狩野家では習わないところ、つまり狩野流ではない手法があるということで、絵も武蔵流なのである。
 桐山丹英は武蔵の画を江戸で入手したのだが、『兵法先師伝記』によれば、立花峯均相伝の弟子の一人・立花増時(勇勝)が武蔵の書を所有していたという。詩文は《春風桃李花開日 秋露梧桐葉落時》だから、これは白居易「長恨歌」である。むろん死せる楊貴妃を恋慕する詩だが、日本人はこの詩の風体を幽玄という美的表現のモデルにした。ところが面白いことに、《是兵法の初め終りなり》と行文字にて書かれたりとあって、筑前武蔵流末では、これが兵法境地の公案のごとくである。
 ただし長恨歌の《春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時》という一節は、中世禅家文化では一般的な話頭で、その影響から兵法諸流にはこれを取り込んだ例は少なくない。したがって、これはとくに武蔵流に限ったことではない。また《是兵法の初め終りなり》とは、およそ通俗的なコメントで、武蔵が記したとも思えないが、その手のものが巷間出回っていて、武蔵作品ということで、それを収集した者があったのだろう。
 肥後系の伝記も見ておくと、『武公伝』には、肥後八代に伝わった武蔵作品リストがある。肥後は武蔵作品が比較的よく残った地方である。このうち今日まで残ったものもあるが、逸失してしまったものも多い。我々は武蔵作品の一部しか知らないのである。
 ともあれ、文武両道は武士の嗜み。宮本武蔵は剣豪で、そのうえ書画細工に巧みであった、とは事典風な解説にある話だが、こういう文武両道は武士の理念モデルであったし、また太平の世の寛永文化の頃になっては、現にそういう文化教養人たる武士は少なからず存在した。武蔵に限ったことではない。
 しかし武蔵のケースでは、現存武蔵絵画作品などを見るかぎりでは、国の重文になっているものも含めてきわめてすぐれたものがある。これを指して「素人離れ」しているなどと、半可通の評言を記して恥じない者もある。
 こういう者は、たとえば雪舟を指して、素人離れしていると言うのだろうか。そうは云わないところを見ると、どうやら雪舟を職業画家のように勘違いしているのである。ところが、雪舟は職業画家ではなく臨済の禅僧である。学問の方では、日本人では早期の朱子学者である。雪舟も、絵師を職業としたのではなく、当時の禅僧が書画を能くしたという以上のことではない。
 そうだからといって、雪舟の絵画を素人離れしていると云う阿呆はいない。すると、雪舟に関して、素人離れしているという評言自体が誤りであることに気づかれるであろう。
 武蔵のケースも、それと同様で、素人離れしているという評言は該当しない。狩野派絵師や海北友松・長谷川等伯のような画家とは違っていて、文武両道の武士として書画も能くしたということである。ただ、それがおそるべき作品を生んだのは、墨画というジャンルが現代アートにも通じる自由な世界だったからである。このかぎりにおいて、墨画がアーティスト武蔵を生んだのである。
 これに関連することだが、武蔵の絵画について、素人にしては上手すぎる、武蔵絵画というのは他の専門画家の作だろう、という間抜けな「鑑定」も昔からあった。これも上述のような、職業画家という近代の固定観念に拘束されたところから生じた認識で、ようするに、人間は一芸に秀でることだけ許された存在で、多芸達人などはありえない、という根拠なき先入観を表白しているにすぎない。
 ようするに、武蔵のような無師にして多芸という存在は、現代のようなエキスパート=専門家主義の蛸壺からは、認知しがたいようである。そういう意味で、武蔵の存在様式は、現代人の狭隘な認識を足元から崩壊せしめる効果をもつであろう。ただし、当の武蔵は単に文武両道を実践していたにすぎないのである。この落差をきちんと認識できるのが、歴史的センスというものである。
 いづれにしても諸芸に通じたという武蔵は、本来器用な上に凝り性で、何でもできるようになるまでやめない、というところがあった人のようである。  Go Back




*【小倉碑文】
禮樂射御書数文に通ぜざる無し。況や小藝巧業、殆ど為す無くして為さざる者無きか。蓋し大丈夫の一躰なり》






*【兵法先師伝記】
《先師常ニ繪ヲ好ンデ画ケル。墨画多シ。達摩ヲ書レシモ有、或ハ唐犬ヲ烏ノナブル処ヲ画、或ハ、岡ニ雉子一羽居タル圖有リ。大方墨繪ナリ。今モ江戸ニテ見當ル事有リ。我徒東武ニ行バ、心ニカケテ可求事ナリ。印ハカメマルノ形、中ニ古文字ニテ名乗アリ。繪大方古ビテ、繪所ニテモ印ヲ隠シテミスレバ、家ノ画ト見違事有トゾ。岡ニ野雞ノ画、予ガ父桐山丹英江戸ニテ幸ニ求得テ、秘蔵ノ余リ印ヲ隠シテ狩野家ニミセシニ、一見シテ、是ハ先祖光信ガ画ニテヤト云レシガ、能々見テ、否、左様ニテハナク候。コレハ承リ及タル宮本武蔵ト申人ノ繪ニ候ナン。誠ニ名画ニ候得共、習ナキ処御座候ト云シカバ、印ヲ披テミセケルニゾ、弥感心シテ、隨分御秘蔵披成ヨト云シ由、予ガ十三歳ノ比、父ノ語リシヲ今ニ覺ヘタリ。又、毛筆モ拔群ナリキ。本国立花権右衛門増時所持スルハ、春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時。是兵法ノ初メ終リナリ、ト行文字ニ書レタリ。實ニ兵書ニ書レシ如ク、萬ヅニ於テ我師匠ナシトハ、萬事ニ付、思ヒ知ラルヽ事ナリ》












*【武公伝】
一 武公書画餘多アリ
   戰氣[直大文字。豐田家傳]
一 寒流帯月澄如鏡[草文字掛物也。
   内家有リ]
一 野馬[掛物]。左ハ立駐リ、右ハ奔
   破スル像
   是ハ二刀ノ左右ニ比シテ書タモウ也
一 岩上鵜并自誓書軸
   是ハ豐田家ニ傳ハル
一 參幅對。中ハ達磨、左右ハ芦鳬
   是ハ二刀ニ比シ画タマエリ
   寄之公ノ秘蔵ニテ、今八代
   御城ニ有
一 枯木鴉[松井土岐殿所持]
一 枯木鴫[佐藤九左衛門所持ナリ]
一 柳ニ鷺[中川権太夫所持ナリ]
一 芦二ツ連レ鳬[岡部加太夫所持]
此外數多在、爰ニ略ス


久保惣美術館蔵
重文 枯木鳴鵙図 部分
 
 (6)一生福力有テ、金銀ニ乏シカラズ
 これは武蔵の福徳を語るところである。福力というのは、リッチで威勢のあることだが、この「一生福力有テ、金銀ニ乏シカラズ」とある部分は、上記の武蔵の服装の豪奢や、その多芸な芸能生活にも連関、リンクする記述内容である。
 武蔵にはもって生まれたライフスタイルがあり、『峯均筆記』の武蔵伝説でも、おおむね上級武士としての生活である。小倉の家老宮本伊織は知行四千石で、この養父には隠居料として三百石ばかり配給していたという説もあるが、それは確かではないとしても、稀代の芸能者武蔵には、他にスポンサーがさまざまいたはずである。
 それで、武蔵の生活コストである。上級武士としての生活の他にも、費用は、隨仕する弟子たちを食わせることである。隨仕というのは、弟子となって仕えるだけではなく、生活を共にするわけで、武蔵は寄食者を抱えていたのである。「歴々の浪人」というから、名のある相当な武士たちである。彼らを寄食させるとなると、それなりのコストもかかる。
 その歴々の浪人らが、武蔵の許を去って他所へ出る時は、武蔵は餞別を与えた。「人は金が無くてはどこヘ行っても落ちつけないものだ。その用意はあるのか」といって、金銀をくれてやる。まことに面倒見の良い親切な武蔵である。その場面がまた面白い。
 武蔵の日常居間の天井の廻縁には、金銀の入った木綿の袋が吊るしてある。天井の廻縁〔まわりぶち〕というのは、壁上端と天井の取り合いのところにある部材である。現代の和風建築でも同様だが、部屋の壁上端にぐるりと廻っている。それが廻縁。その廻縁に金銀の入った布袋がいくつも吊るしてある。
 そうして廻縁に吊るしてあると、手が届かないから、長い竹竿みたいな道具でもないと取れない。防犯上もけっこうなことである。ただし現代住宅のように天井が低いとそうはいかない。手を伸ばせば届いてしまうから。それゆえ、ここはかなり高い天井でなければならない。廻縁というから、武蔵の居間には天井があることになる。しかし近世住宅史からすると、当時の武蔵が天井のある部屋を居間にしていたという確証はないが。
 ともあれ、それで武蔵は、だれかに「何番目の袋を取ってくれ」と指図して、矢筈竹で袋を下ろさせる。「矢筈竹」というのは、竹の端を両側から削って、矢筈のように二つの角のある恰好にしたもの。物を引っ掛けるのによい。室内で矢筈竹というと、ふつうは床の間の軸を懸けたり外したりするのに使う。そうなると、右図のような竹の先端に二股金具をとりつけたものができて、床の間の専用道具になる。武蔵はその矢筈竹で金銀の入った袋を取らせて、餞別に与えたというわけだ。
 こういう説話のディテールは、珍しい話だから残ったと言える。鍵のかかる蔵や戸棚に金銀を隠しておくのではなく、居間の廻縁にいくつも金の袋をぶら下げている。誰もこんなことはしないと思うから、口碑で伝わったのである。この逸話のテーマは、もちろん、福力があって金銭に頓着しない大らかな武蔵という像である。
 しかし、いわばポオの「盗まれた手紙」のように、そこにあるのはわかっていても、だれも手が出せない状況、というのが、ここの説話のポイントであり、面白さである。これも口碑の重層を潜り抜けてきた説話であろう。
 話の出処は、この後に出てくる小河露心かもしれない。露心は武蔵に隨仕した人物である。  Go Back
















古民家座敷の廻縁





矢筈竹
 
 (7)武州ガ事ハ、咄シタリトモ中々合点行マジ
 武蔵の強さは、話してもなかなか信じられまいが、という話。これは小河露心が語ったということ。
 まず、話は、武蔵は木刀を取っては、中段でも上段・下段でも、思うままに自由自在に使ったこと。また、隨仕の面々に限らず、武蔵と立ち合いたいという者には、誰であっても相手にした。《日々試闘ヲモ致サレシトカヤ》とあるから、自流内稽古だけではなく、日常しばしば他流の者とも試合もした、ということらしい。
 もちろんこれは「試闘」であって、五輪書に記す《六十餘度迄勝負を爲すといへ共、一度も其利を失はず》という「勝負」ではない。《其程歳十三より廿八九迄の事なり》とあるように、武蔵は二十代までのことである。だから三十歳以後は、この六十余戦無敗の「勝負」ではなく、「試合」をしていたのである。
 武蔵は日常的に他流の者とも試合もしていた、ということは、前掲の塩田浜之丞宅で、細川忠利側近の三人を迎えて、試合に応じた、という逸話とも共通するところである。『峯均筆記』の口碑に関するかぎり、武蔵は気軽に他流の者とも試合もした、ということらしい。
 そこで、話は小河露心のことになる。この小河露心のことは、武蔵小説や武蔵評伝に必ず出てくるのだが、今までまともな小河露心が登場したことはない。すべていい加減な話ばかりで、目に余る事態である。そこで、以下少しこの露心なる人物について、整理しておく。
 『峯均筆記』の筆者・立花峯均にとって、小河露心は祖母の兄、つまり大伯父にあたる。立花峯均の祖父は、彌兵衛増重、そこへ小河勘左衛門の娘が嫁した。小河勘左衛門の長男が小河権太夫で、老いてのち露心と号したという。
 小河氏は、多くの黒田家家臣と同様、播磨の出である。小河は「おごう」とよむ。戦国末期、播磨中部に勢力のあった小寺氏の家老をつとめた。それが小河三河守良信(良利)である。小寺氏は信長に叛旗を翻し負け組となって退転した。しかし敗北した小寺麾下の御着侍の多くが黒田官兵衛に組織されたように、小河兄弟も黒田官兵衛に仕えるようになった。とくに弟の伝右衛門信章(1554〜93)は黒田家中で戦功あり、黒田家が豊前に入部するや五千石を得て、兄良信も客分で千数百石を与えられた。弟の信章は黒田二十四騎の一人である。信章は朝鮮の役へ出陣、帰国せずに死んだらしい。
 しかし、この信章の家系は黒田家重臣となって存続した。黒田二十四騎の桐山丹波丹斎(1554〜1625)に再嫁した女性があり、彼女は播磨の阿保〔あぼ〕常久の妻であった。その実家が小河氏で、彼女の連れ子の之直が、後に小河信章の家を嗣いだのである。この小河内蔵允之直(1575〜1639)の代に知行一万二三千石。長政が死にあたって後事を託したのは、栗山大膳利章、黒田美作一成、小河内蔵允の三家老である。のちに黒田忠之と栗山大膳の対立からいわゆる黒田騒動が起きるが、そのとき小河之直が間に立って動いたのは周知の通りである。
 小河露心、権太夫の方は、兄の小河三河守良信(良利)の系統である。良信の子の久太夫良実は、黒田長政に仕えて、知行千三百七十石。この良実が朝鮮で戦死したとき、嗣子が少年だったので、家禄はその弟勘左衛門が受け継いだ。ここに出てくる小河勘左衛門である。
 小河勘左衛門は、黒田二十四騎の小河伝右衛門信章を叔父にもつ人で、勘左衛門の娘となると、立花家としても黒田家中の名門から嫁をとったわけである。立花彌兵衛増重は四百石であったが、後にその子・重種が出世して万石家老になる。峯均はその重種の四男である。
 小河勘左衛門の嫡男が権太夫で、跡目を継ぐ。二男が團右衛門である。立花峯均の祖母からすると、実家の兄が小河権太夫露心である。小河氏家系によれば、露心は幼少より長政に仕え、父勘左衛門分とは別に、別禄を賜った。ところが、勘左衛門死後、故あって本知は召上げとなり、露心は自分の知行にて勤むとある。つまり、父勘左衛門の知行は千五百七十石、これが本知で、それが召上げられ、露心は家督相続しても、自分が得ていた別禄のみであったということである。
 そのうち、露心は主君忠之の勘気を蒙り、筑前を立ち退いた。つまり主君とうまく行かず、追放されて浪人の身となったのである。ここで露心家は、一家離散、嫡男の正春(後号休心)は秋月の吉田氏を頼って行った。秋月の吉田家は複数あるので、どの吉田か不明だが、その吉田の推挙で新知五百石を得た。他方、露心は他の子供等を連れて筑前を去り、豊後杵築(現・大分県杵築市)へ行き、小笠原忠知にありついてその家中にあった。
 この小笠原忠知は、小倉の小笠原忠政(忠真)の弟である。寛永九年(1632)、兄小笠原忠政の豊前移封とともに、その弟たちも豊前豊後に封ぜられ大名となった。したがって、露心の黒田家退去は寛永九年以後のことでなければならない。
 ここで小笠原家が絡むところを見ると、このあたりで武蔵との関係が生じたのかもしれない。むろん武蔵も小倉へ移ってきた後のことである。『峯均筆記』に、壮年の時、武州に隨仕した、とある。たしかに、黒田家退去後であれば、露心はすでに壮年である。
 杵築に落ち着いたはずの露心だが、福岡の黒田忠之から小笠原家へ奉公構いがあって、そこにも居られず、豊後杵築を去って、以後、諸国を流浪した。
 『峯均筆記』にはない記事だが、『兵法先師伝記』によれば、江戸で露心は武蔵と会ったらしい。もしこれが事実だとすれば、武蔵が江戸に行ったのが明らかな、島原乱以後のことであろう。露心は諸国を流浪して、当時、江戸にいたらしい。そこへ武蔵がやってきたのを知り、旅宿を訪ねて、以後、武蔵の江戸滞在中、行動をともにしたらしい。
 これは丹羽信英が、露心の曾孫の小河武兵衛から聞いた話である。ただし、露心権太夫を小河久太夫と錯覚しているあたりが難点であるが。
 ともあれ、小河氏家系の記事に話をもどせば、武蔵死後のことになるが、承応三年(1654)黒田忠之が死んで、奉公構いをする者がいなくなったためか、露心は再び、小笠原家を頼って行った。しかしその時は、すでに小笠原忠知は、三河国吉田(現・愛知県豊橋市今橋町)へ転封していたから、露心はこの三河に住んだ。後妻、桜井佐助の女とあるが、桜井佐助は小笠原家中の人である。
 ところで、露心は三河吉田に骨を埋めたかというと、そうではない。小河氏家系によれば、三男武兵衛正武の記事に、武兵衛は父に従って三河吉田に居たが、光之の代に、「父母兄弟共に」筑前へ来り、とあるから、結局、露心の一家は福岡へ帰ってきたのである。そして武兵衛は知行二百石を得て、さらに後に二百石加増されて、都合四百石知行の家禄となしえた。
 かくして、小河露心は老年になって、福岡へ戻ったようなのだが、『峯均筆記』には、武蔵の直弟子だったその露心が語った武蔵の逸話が記録されている。
 露心は常々物語するに、――とある以下は露心談話である。「おれなど、若かった時は命を捨てる事など屁とも思わなかった。武州と立合い、打太刀をやったことがある。「おのれ、一太刀打ってやろう」という気になって、木刀をおっ取り立向った。武州は二刀を取り、しかし、大太刀を杖についている。中段・下段どころか、構えてもいない。それで、武州が肩をくわっと広くひろげる。すると、おれは怖気づいて、踏み込もうとする足を一足は必ず引いたものだ。これはおれに限らず、だれでも同じだった。武州の事は、話してもなかなか信じられまいが」と語った。
 これは露心から聞いた話のようである。《武州ガ事ハ咄シタリトモ中々合点ユクマジ、ト語レリ》とある「と語れり」がポイントである。本書の用例にみえる「と語るといへり」とか「と語りしとかや」ではないのである。これは立花峯均が老年の露心から直接聞いたということであろう。
 しかし、峯均の生年が、寛文十一年(1671)ということであれば、その想定にもやや無理がある。それが、峯均十歳の頃だとしても、露心は相当長命だったとしなければならない。武蔵が死んだ時、露心が仮に五十歳あたりだとしても、峯均が話を聞ける頃には九十近いであろう。露心の歿年行年は不明だから何とも云えないが、このあたり、直話か伝聞か、当面未決事項である。  Go Back





*【丹治峯均筆記】
《濱之允ガ門前ニテ、三人*目ト目ヲ見合ハセ、「偖々、臆シタル事カナ。名人ニ位ヲトラレ、兵法所望ノ事、曽テ*不申出。不及是非事共、罷帰、主君ヘ可申上様モナシ。イカヾ可致」ト云フ。一人ガ云、「兎角ノ問答ニ不及。立戻リ、其趣ヲ可申」トテ、門前ヨリ立歸リ、又濱之允ヲ呼出シ、「武州ヘ、只今ハ初テ御目ニ掛リ候故、兵法御所望不申。御相手ニ罷成度旨、申達候ヘ」ト也。鹽田其旨趣ヲ相達ス。武州早速出ラレ、「御遠慮ニ不及儀、早々御立合候ヘ」ト申テ、常ノ木刀二刀ニテ出合ル。板縁ノワレタル所ニ大太刀ノ先ヲ差入レ、ヒラ/\ト太刀ヲ左右ニ押タハメ、待居玉フ。三人ノ内、就中巧者ノ人、庭ヘヲリ立…》



*【小河氏略系図】

小河吉右衛門良泰┐
┌─――――――┘
三河守良信┬久太夫良実┬良則
|     |     |
|     └勘左衛門┐└政良
|      ┌─――┘
|      ├権太夫 露心
|      |
|      ├ 峯均祖母
|      |
|      └団右衛門

伝右衛門信章=内蔵允之直―┐
|         ↑   |
└女 ―之直 前夫阿保常久子 |
 |     ┌─―――――┘
桐山丹波信行 ├縫殿助常章
       |
       ├団八兵衛正家
       |
       ├伊織 右京
       |
       ├喜三郎
       |
       ├専太夫直方
       |
       ├女 吉田知年妻
       |
       ├月瀬宅兵衛直定
       |
       └女 黒田一任妻


*【小河氏家系】
《権太夫 初名長助、剃髪して露心と云。前妻ハ岡村氏女也。後妻ハ櫻井佐助女。露心幼少より長政公、忠之公に仕へ、事別禄を賜り、勘左衛門死後ニ、故有而、本知ハ被召上、露心自分の知行にて勤ム。忠之公の蒙御勘気を、筑前ヲ立退、豊後國ニ行、小笠原壱岐守家中に有りしを、忠之公より御隙有りて、彼地を退出、諸國を流浪し、 忠之公御逝去之後、又小笠原の家中に便り、三щg田に篭居ス。[櫻井佐助ハ越前仲納言秀康公ニ仕へ、後小笠原家ニ有而、三щg田ニ住ス]》



小笠原家九州関係地図

*【兵法先師伝記】
《先師、江戸ニ居ラレシ間ニ、筑前ノ士小河久太夫(中略)、隠居シテ露心ト号シ、江戸ニ來リ居リシガ、先師ヲ慕ヒテ旅邸ニ往キ、隨身シ兵法ヲ習フ。後ニハ一所ニ宿シテ、露心ガ家來角左ヱ門ヲ以テ專ラ先師ニ仕ヘシム》



三河吉田城址

*【小河氏家系】
《武兵衛正武 隠居而、文外。妻、長濱四郎左衛門女。武兵衛は父に従ヒ、三щg田に在しを、光之公の御代に、父母兄弟共に筑前江来り、知行弐百石賜ル。後に弐百石御加恩有而、都合四百石知行ス》

 
  11 高木右馬允
一 寛永ノ比、毛利家ノ士ニ高木右馬允ト云多力ノ者アリ。叡聞ニ達シ、禁庭ニ召シテ、力量叡覧有シニ、重目百五十貫目ヲ持ツ。大竹ヲ出サレシニ、本ヨリ末〔ウラ〕ニ*カケ、ヒシ/\ト是ヲヒシグ。小竹ヲ出サレシニ、ヒシグ事不能。歸宿ノ上、今少シハ重目ヲ持ツベキニ無念ノ由ニテ、二百貫持ツ。小竹ヲ指ニテツマミヒシグ。叡覧ノ時ハ手ノ裡ニ握シ故、ヒシゲザリシトカヤ。如此ノ多力ナリ。(1)
 或時、武州ト参會、物語ノ内ニ、武州ノ云ハレシ、「我*兵法ヲ以テ勝負セバ、指一ツニテ突倒スベシ」トアリ。右馬允、是ヲ聞テ、「我等ノ力量ハ聞及ビ玉フベシ。如何ニ達人タリ共、指ニテ突倒シ玉ハン事、希代ノ事也。サラバ、勝負セン」トテ、雙方立合フ。
 武州、大太刀ヲ逆手ニ持、右馬允ガ打所ヲ入込テ、面ヲ強クヒシグ。ヒシガレテ身ノヽル所ヲ、身ヲカケテ、大指ヲ以テ胸ヲバグツト突テ、アヲノケニ突倒ス。右馬允恐怖シ、見物ノ面々肝膾ヲ作ル。(2)
一 寛永のころ、毛利家*の家士に高木右馬允という大力の者があった。(天皇の)叡聞に達し、禁庭〔宮中〕に召して、力量を叡覧あったところ、重目〔銭〕百五十貫目を持ち上げた。大竹を出されたところ、それを根元から先端まで、ひしひしと引き裂いた。(しかし)小竹を出されると、これは引き裂くことができなかった。宿に帰ってから、もう少し重目を持てたのに無念だといって、二百貫を持ち上げた。また小竹を指でつまんで引き裂いた。叡覧の時は、手のひらに握っていたので、引き裂けなかったのだとか。かくの如くの大力であった。
 ある時、(高木右馬允が)武州に会いに来た。話をする内に、武州が云われるに、「おれの兵法をもって勝負すれば、(そなたを)指一本で突き倒せるよ」と(いう発言が)あった。右馬允はこれを聞いて、「私の力量は聞及んでおられるでしょう。いかに達人であっても、指で突倒されるとは、おかしなことを言われる。さらば、勝負をしよう」と、双方立合うことになった。
 武州は、大太刀を逆手に持ち、右馬允が打ってくるところを、入込んで、顔面を強く拉〔ひし〕ぐ。拉がれて身体の仰け反るところを、身体を被せるようにして、大指(親指)で胸をぐっと突いいで、仰向けに突き倒した。右馬允は恐怖し、見物の面々は度肝を抜かれた。

  【評 注】
 
 (1)高木右馬允
 寛永のころ、毛利家の家臣に高木右馬允という大力の者があった、という話である。宮中で力量を叡覧あったほどの怪力の者ならすぐにでもわかるはずだが、しかし、「毛利家の高木右馬允」ということでは、この高木が何者か、不明である。
 そこで、一つ考えられるのは、この「毛利家」が、おそらく「森家」の誤りではないかということ。「もり」と「もうり」は語音が近く、混同例は少なくない。それなら、高木右馬允と類似した名の、「高木右馬助重貞」という強力の者が美作津山城主・森忠政家中にある。
 高木右馬助重貞なら、森中将忠政(1570〜1634)の四天王の一人。身の丈6尺の巨体で、鬚が頬から胸毛まで境目がない毛深い豪傑である。森忠政に仕えて五百石。
 津山の森忠政の家臣だった高木右馬助については、その怪力逸話がのこっている。門の梁に手を掛けて宙吊りになり、脚で馬の胴を挟んでぶら下げた。銭を指でつまんで柱に押しつけると貫通してしまった。指先で鹿の角をへし折った。あるいは、金槌で打ちこんでも入らない、目釘穴よりも太い目釘竹、それを指で押しこむと、裏まで通ってしまった、等々。
 竹内流の伝承では、森家の高木右馬助は、六尺八寸(206cm)という巨体。竹内流三代目加賀介久吉(1603〜1671)は身長四尺八寸(145cm)、巨大な高木右馬助はこの小兵の竹内久吉に負けて門弟となったという。竹内流小具足腰廻は、初代竹内中務大夫久盛(1503〜95)が美作垪和郷三之宮に参籠中、異人から教えを受けて発明したという伝説の、小太刀を使う組討の術。そこからさらに体術である破手術(投技・関節技・絞技・当身術・活殺法等)へ展開した。高木右馬助はのちに、無刀で相手を制する体術、高木流柔術を編み出し、楊心流とも称した。
 高木流柔術にあっては、馬之助(馬之輔)重貞ではなく、彼の父・高木折右衛門を流祖とする説もある。しかしその高木流の伝承では、高木折右衛門は寛永二年の生れ、流派を嗣いだ馬之輔は明暦二年生れで享保元年歿(1656〜1716)。これでは津山の森忠政の家臣という話と勘定が合わない。あるいは、竹内常陸介久勝(1566〜1663)に教えを受けたとか、三代目加賀介久吉に負けて弟子になったとか、すると、さらに勘定が合わない。しかし後世有名な武術家でも、諸流派の伝承は、だいたいこんな茫漠としたものである。
 高木右馬助は「森中将秘蔵にて」(武野燭談)というほどの寵臣だったが、致仕して浪人してしまったらしい。美作の右馬助伝説では、森忠政は嫡子・忠広の教育を高木右馬助に任せた。忠広は森家嫡子だから江戸住、かねがね不品行あり、それを心配した森忠政は江戸藩邸の一室に忠広を押込め、監禁した。そして高木右馬助に息子を叩き直してくれと依頼したのだが、この教育係の矯正は過酷で、忠広は高木の「教育」がもとで死んでしまったのである。
 これが寛永十年(1633)のこと。主家の嫡子を死なせてしまったのだから、高木右馬助は森家に留まることはできない。浪人して諸国を流浪した。美作の伝説では、高木が森家を去った原因をそのような失敗に帰しているが、事実どうだったかはわからない。さらに美作の伝説では、浪人して諸国流浪の高木右馬助は、相変わらず怪力ぶりを発揮していて、老母と妻と息子の三人を乗せた乗物二挺と、具足櫃と葛籠を棒にぶら下げて、それを担いで旅をしていたという。
 そして美作の伝説では、他の伝説のように高木右馬助が紀州徳川家に仕官したとはせず、高木は放浪の末、播州姫路城主・本多甲斐守政朝に仕えて余生を送ったという。本多政朝は、姫路城主本多忠政の二男、父の死後、寛永八年(1631)から姫路城主。政朝は寛永十五年(1638)に没して、姫路城主だったのは七年ほど。それゆえ、美作伝説のいう「政朝に仕えて余生を送った」というのは少し無理があろうが、高木右馬助の森家致仕が寛永十年(1633)あたりだとすれば、高木の姫路本多家出仕は、時期は合う。かくして、宮本武蔵との伝説上の接点は播州姫路にあるのだが、武蔵は寛永九年ころ、播州を離れて豊前小倉へ移っている。
 さて、『峯均筆記』の記事では、森家が毛利家、高木右馬助は高木右馬允になっている。既述のように、肥後では塩田浜之助とあるが、『峯均筆記』では塩田浜之允(丞)になるのと同様、とみておこう。つまり、「助」が「允/丞」へ変成する傾向が、本書にはあるわけである。
 『峯均筆記』は、高木の怪力を宮中で天覧に供した話を語る。力量を叡覧あったところ、重目百五十貫目を持上げた。この重目を「ちょうもく」と読んで、鳥目、つまり穴のあいた銭貨である。銭一貫は千文という勘定である。では、この「重目・百五十貫目」がどれくらいの重量になるか。
   一貫目 = 米一斗十五kgの四分の一 = 三・七五kg
と決めたのは、近代になってからの度量衡制定。そうすると、ここで一貫目=三・七五kgと単純に決めるわけにはいかない。昔の一貫目は今でいう一貫とは違うから、実際の重量はよくわからぬが、銭千文とすれば、それでも三kgやそこらはあっただろう。
 となると、ここで高木が持ち上げたという百五十貫目は、四百五十kgとなる。現代の重量挙げ世界記録でもジャークで二百六十kgと、三百kgまで行かない。だからこの百五十貫目というのは尋常ではない。というか、非現実的な数字と読めないことはないが、ここは素直に伝説を楽しむ方がよい。
 さらに高木は大竹を出されたところ、それを根元から先端まで、ひしひしと引き裂いた。しかし、小竹を出されると、これは引き裂くことができなかった。宿に帰ってから、もう少し重目を持てたのに無念だといって、何と二百貫を持上げた。また叡覧の時引き裂けなかった小竹を指でつまんで引き裂いた。叡覧の時は、手のひらに握っていたので、引き裂けなかったのだとか。かくの如くの大力であった。――という話である。
 しかし、この宮中天覧は他の高木伝説に見ない逸話である。そもそも、宮中天覧は竹内流の伝説にある。すなわち、二代竹内常陸介久勝(1566〜1663)は上京して、西山に道場を開いた。三年目の元和六年(1620)の春、術を後水尾天皇に天覧に供して「日下捕手開山」の称号を賜った。竹内の縄は紫の絹縄を用いるが、それは、その時に関白近衛公から紫の冠緒を授与されたのに始まるという。してみると、『峯均筆記』にある高木の宮中天覧の一件は、どうも竹内久勝の後水尾天皇天覧との伝説混同のようである。
 ともあれ、高木右馬助=高木馬之助は怪力で有名で、後世の説話では英雄に列する武術家である。伝説は多岐に分枝してそれぞれ矛盾している。『峯均筆記』の成立までに、この有名な怪力の格闘家と宮本武蔵との試合、という絵になる場面が出来ていたものらしい。  Go Back











森忠政銅像 津山城址





高木右馬助助関係地図





高木馬之輔 武稽百人一首





高木馬之助
歌川国芳画 嘉永三年
英雄の常として美男である
 
 (2)指一ツニテ突倒スベシ
 話は、先にプレゼンテーションで、二百貫を持ち上げるという、人間業とは思えない超強力の高木右馬允をハイライトしたうえで、さて、ここで武蔵と遭遇させる。
 この説話は一般向け武蔵本でも不可欠の話題になっていて、周知のものである。しかし高木右馬允は、たいていの武蔵評伝が誤解しているような、単なるバカの大力なのではない。この逸話には、高木は想像を絶する怪力の持主であるのみならず、体術、柔術、つまり格闘術の名人だという説話背景がある。これは本当におそろしい相手なのである。それを忘れると、この説話の興趣は半減である。
 ある時、高木右馬允が武蔵に会いに来た。二人が話をする内に、武蔵が言うに、「おれの兵法をもって勝負すれば、そなたを指一つで突き倒せるよ」と。武蔵は高木を相手に、とんでもないことを言い出した、という設定である。右馬允はこれを聞いては、たまらない。「私の力量は聞き及んでおられるでしょう。いかに達人であっても、指で突倒されるとは、おかしなことを言われる。さらば、勝負しよう」と言う。そこで、二人が試合することになった。
 そこから勝負のはじまり。ここは、対戦の記述を一通りきちんと読んでおくことにする。
 まず、武蔵は大太刀を逆手に持ち、右馬允が打ってくるところを…、とあるが、この「右馬允ガ打」つというのは、武術史の情報知識があると、かえってイメージしにくい。高木流は体術なので、ここは右馬允が太刀で「打ってくる」のではなく、「つかみかかってくる」とあった方が、妥当であろう。しかし破手術には当て身をはじめ拳法もあるようだから、「打つ」は、拳で打つ、ということかもしれない。どちらにしても『峯均筆記』では、話はよくわからない。
 それで、右馬允が打ち込んでくるところを、武蔵は入込んで、つまり懐に飛び込んで、右馬允の顔面を強く「ひしぐ」。拉ぐ、つまり、顔を強くつかんで押し潰すようにしたということ。《ヒシガレテ身ノヽル》は、武蔵に顔を拉がれて、右馬允の身体がのけ反る、という場面。そこを、武蔵は《身ヲカケテ》、つまり、身体をかぶせるようにして、大指(親指)で右馬允の胸をぐっと突いた。すると右馬允は、まさに指一本で、仰向けに突き倒されてしまったのである。右馬允は恐怖し、見物の面々は、《肝膾ヲ作ル》、肝が膾〔なます〕を作る、つまり肝が潰れるというよりも、もっと激烈な、肝が細切れにされるような、異常な恐ろしい思いをした、という話。
 これは、武蔵が大太刀を逆手に持ち、とあるように、太刀の勝負ではない。結果も、武蔵が剣術で相手を打倒した、ということではない。武蔵はここで、相手のお株を奪うように、体術で相手をし、しかも格闘術の名人・高木を指一本で突き倒したのである。それが何よりの驚愕だった、というわけだ。
 このように『峯均筆記』の説話がある。これには、厳密に言えば、あれやこれや難色も文句もあろう。だが、ここで説話に真実があるとすれば、武蔵の兵法は剣術に限定されるのではない、ということだ。五輪書の武蔵においてさえ、兵法とは大も小もある戦闘術のことである。
 宮本武蔵=剣術名人というイメージに偏向してしまっているのは現代の錯覚だが、それは近世の演劇にはじまり、近代の小説や映画の産物にすぎないのである。それに対し、『峯均筆記』のこの伝説記事は、そんな錯覚に染まらない武蔵の原型に近いと言えるだろう。
 『兵法先師伝記』にも同様の記事がある。この部分は『峯均筆記』によるものだろう。しかし、こちらは紀州の功臣とあって、『峯均筆記』にはない情報を記載する。しかし、大坂陣の時の逸話を同時に記すから、紀州の功臣とは浅野長晟の家臣ということだろう。作州の森忠政家臣とする他の伝説とは話がかなり違う。それに話の内容は、『峯均筆記』に先に出た松平出雲守の兵法者の様子との混同もある。しかも、高木が武蔵の弟子になったという尾ひれまでついている。これも他の伝説には見えない話で、武蔵流末の新興伝説であろう。  Go Back





*【兵法先師伝記】
《先師、夫ヨリ諸國ヲメグリテ、兵法ヲ修行セラル。イツノ比ニヤ有ケン、紀сm功臣・高木右馬之允ト云人有。強力ニシテ、大坂陳ノ時、紀ъノ先手崩レカヽリシヲ、此右馬之允只一人蹈止ツテ、キソヒ來タル敵兵ヲ大身鎗ニ突貫キ、敵陳ニ投付シ勢ヒニテ、崩レシ味方ヲ立直シ、敵ヲ城中ヘ追入シハ、高木一人ノ功ナリトゾ。此人、先師ニ會セシニ、先師ニ對シ、力量アレバ何モ入ラヌナドヽ誇ラレシヲ、先師笑テ、貴殿ノ如キハ、我等指一ツニテ突倒スベシト云レシカバ、右馬之允怒テ、左アラバ、其手ギハヲ見ント、右馬允八角ノ棒ヲ持テ庭ニ下ケレバ、先師ハ常ノ木刀ヲ以テ立合ハル。右馬之允、棒ヲフリアゲ打カケラレシヲ、先師入込テ面ヲ指レシニ、右馬之允棒ヲ持ナガラ後ヘタヂ/\トシサルヲ、先師右ノ大指ニテ右馬之允ガ胸ヲ突レケレバ、忽アヲノケニ倒レケル。此人性直成人ナリケルガ、大ニ感ジテ門人ニナラレシトゾ。此右馬之允、其後東海道通路ノ時、伊勢路ニテ、盗賊馬ニ付テ路錢ヲ乞。右馬之允、立場ニテ錢ヲ可遣。付來レト、処ヲ見合セテ、傍ニ材木ノ積カサ子タル処ニテ馬ヨリ下リ、其材木ヲ撰取テ、忽八人ヲ一同ニ打倒サル。或ハ死シ、或ハ大ニ疵ヲ蒙リ、生タルハ逃失ケルトゾ。高木ガ強力世ニ知ラルヽ処ナリ。然共、先師ノ兵威ト拍子ニ敵シ難キ事如此。今末流タリ共、此意ニ通ズル時ハ、則如此事不成事ナシ。偏ニ逝去不絶ノ兵法鍛錬スベキ事ナリ》



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