江戸期の宮本武蔵伝記は幾つか現存しているが、一連の武蔵伝記群の中でも本書は最早期の武蔵伝記である。
本書武蔵伝記末尾に、《兵法五代之門人、丹治峯均入道廓巌翁五十七歳、享保十二龍次丁未年夏五月十九日、於潜龍窟中執豪記之》とあるところから、これは武蔵流兵法第五代、廓巌翁丹治峯均〔たんぢ・ほうきん〕による享保十二年(1727)の述作ということになる。したがって、現在までのところ武蔵単独伝記としては最早期のものである。
本書は筑前における二天流の伝書であるが、他に武蔵伝記として、肥後系の武蔵伝記がある。そのうち周知のものは『武公伝』と『二天記』である。『武公伝』は豊田正剛の草稿をもとに息子の正脩(橋津八水)が書いたもので、その成立を宝暦五年(1755)とするのが今日通例だが、実はそれには問題がある。他方、『二天記』は正脩の子・豊田景英による作であり、安永五年(1776)の序文をもつから、『丹治峯均筆記』よりも半世紀後の文書である。
このように現在までのところ、江戸時代の武蔵伝記でまとまった形態のものは、本書『丹治峯均筆記』のような筑前系伝記と、『武公伝』『二天記』のような肥後系伝記がある。このうち『武公伝』の原型をなした聞書の記録者・豊田正剛(橋津卜川)は、正脩の父であり、本書の著者と同じ世代の人であり、そのことからして、伝説伝聞のポジションとしては同時期であると判断しうる。つまり武蔵が死んで八十年ほどたった同じ時期に、同じ九州の肥後と筑前で二つの伝記発生が存在したのである。
さて、我々がいま読み解こうとするこの武蔵伝記文書を、「丹治峯均筆記」というタイトルで呼ぶのは、たんに、上記「廓巌翁丹治峯均」が筆記したものということで、通称に過ぎない。武蔵伝記冒頭タイトルに拠ってみれば、正しくは「兵法大祖武州玄信公傳來」という題名の文書である。それゆえ、この題名で呼ばれるべき文書なのである。
しかしながら実は、本書は「追加」と「自記」という付録部分を含む。本書の著者によれば、この一冊(本書)は先師の来由(伝来)を記して、後年誤りなからしめんことを、二人の甥、立花勇勝と種章が求めたので、これを書いた。(本書の)追加に、寺尾・柴任・吉田、三師の経歴を書き、最後に自分の事を記す、ということなのである。
つまり、著者の相伝弟子たる二人の甥の求めに応じて本書は書かれた、という本書の成立事情を述べるとともに、その附録文書として「追加」と「自記」も本書に書いたことを記している。
ようするに、本書のテクスト内容は、以下の三部構成である。
・「兵法大祖武州玄信公伝来」 … 宮本武蔵の伝記
・「追加」 … 二天流二祖・三祖・四祖の列伝
・「自記」 … 同上第五代・著者立花峯均の自伝
ゆえに、本書は武蔵伝記のみにあらず、という文書である。このうち、「追加」は、二祖・三祖・四祖の兵法系譜だから、「兵法大祖武州玄信公伝来追加」の略記とみなしうる。「自記」は、兵法当代である立花峯均の自身の記事であるから、追加の追加である。本篇たる武蔵伝記と執筆時期は同時ではなく、後年の増補だとしても、「追加」と「自記」を含めた全体が、「此一冊」なる文書なのである。
そもそもタイトルにある「伝来」とは、相伝系譜のことである。しかるに、このケースでは、相伝された言い伝え、伝説のことである。「兵法大祖武州玄信公伝来」という表題は、当流元祖・武蔵に関する言い伝えの意味である。上述のごとく、武蔵伝記末尾に、《兵法五代之門人、丹治峯均入道廓巌翁五十七歳、享保十二龍次丁未年夏五月十九日、於潜龍窟中執豪記之》とあって、いったん文書としては完結している。したがって、「兵法大祖武州玄信公伝来」という表題をもつ文書の内容は、相伝系譜ではなく、武蔵の伝記のみである。これを本篇として、「追加」と「自記」の二文書が追補されているという体裁で、この追加文書を含めて相伝系譜の形式をなす。
というわけで、武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」が、本書の本体をなして大半を占めるものの、二祖以下の相伝系譜を含む以上、本書を「兵法大祖武州玄信公伝来」と呼んでしまうのは――誤りとはしないが――正しいとは言えない。むしろ、この筑前における武蔵流兵法が、本書中で「二天流」と称されていることからして、これは「筑前二天流伝記集」とでも呼ぶべきものである。
このように五代立花峯均までの伝記を含むということでは、もともとこの三文書を総称する題名はなかったのだが、筑前二天流では、これを総称して「二天流伝記」と呼ぶこともあった。
たとえば筑前二天流でも早川系の大塚藤郷などは、この文書の弁疑において、「二天流伝記」という題名を記している(藤郷秘函 初稿安永七年)。つまり、立花巌翁(峯均)が「二天流伝記」という名の書物を書きあらわしたというわけである。これを見るに、十八世紀後期の筑前では「二天流伝記」という名で写本が流通していたことが知れる。
しかるに、これは立花門下から流出した後に付いた名であり、もとより仮題通称と云うべきものである。ご当地の筑前福岡でさえ、定まった名称はなかったから、こういう題名が付くようになったのである。
他方では、本体の武蔵伝記にしても、「兵法大祖武州玄信公伝来」の名が呼ぶのに長すぎて不便だったようで、たとえば、筑前では、二天流兵法七代の丹羽信英(本書の著者・立花峯均の孫弟子)などは『兵法先師伝記』(天明二年・1782)の奥書に、これを「兵法五代立花峯均著すところの先師傳記あり」(原文漢文)と記している。「兵法大祖武州玄信公伝来」ではなく「先師伝記」と略して呼ぶわけである。
あるいは、後には「武州玄信伝来」という略称例もあり、また我々が参照した三宅長春軒本には、その表紙外題に「武州伝来記」とあり、また内題には「武州伝記」とある。
この三宅長春軒本は、筑前二天流の事情に不案内な者が写したものらしく、その兵法語彙を誤記している。このように肝心の兵法語彙も知らぬようでは、書写者は門外漢だと判明するわけだが、そのような門外流出後の写本が、「武州伝来記」や「武州伝記」といった題名を任意に付しているのである。
ようするに、後世の人間は「兵法大祖武州玄信公伝来」という題名が長すぎて不便を感じていたようで、あれこれ略称を記しているわけである。しかしながら、そもそも、著者立花峯均自身が付した題名ではない以上、「先師伝記」、「武州玄信伝来」「武州伝来記」「武州伝記」等々、後人が勝手に略記命名したタイトルを、採用するわけにはいかない。書名の略記は、どれも不適切かつ無用である。
しかも、本体の武蔵伝記に加えて、五代立花峯均までの兵法列伝を含む文書だとすると、上述の筑前二天流内部の事例のように「二天流伝記」と呼ぶのが適切である。そこで、我々内部でも、この名を借ろうという案もないではなかったが、とはいえ、「二天流伝記」も当時の通称であって、しかも今日では周知のものとは云えぬ呼称である。筑前二天流で使用事例があるといって、今日になってそれを蘇生させるのも、ゴリ押しの観があって見苦しい。
それゆえ、タイトルの示差的(differential)な社会的機能性を勘案して、単に混乱を防ぐためという理由だけで、我々は「丹治峯均筆記」という通称を今なお(不本意ながらも)延命させているというわけである。つまり、「丹治峯均が記した文書」という意味で、明治末以来たまたまこれを「丹治峯均筆記」という通称で呼ぶようになってしまっていて、それで、我々もそれに倣っているにすぎない。それ以外にとくに意味はない。
だがこれも、武蔵が遺した五巻の兵書を、今日の我々が「五輪書」という通称で呼んでしまっているのと、同じ成り行きである。「五輪書」というのは武蔵が命名した書名ではない。しかしながら、こうした、後世いつのまにか出来てしまった通称によって呼ぶのも、ある意味で武蔵流なのである。
江戸時代までは、この武蔵の五巻の兵法教本は、「五巻の書」「兵書五巻」とか、あるいは「地水火風空の五巻」「兵法得道書」とか、さまざまな名前で呼ばれていた。「五輪書」「五倫書」という名もあった。そうして、この武蔵の著作が「五輪書」と云って通用する一般的通称になったのは、明治以後である。
立花峯均が書いた本書にしても、上記のように本来これと決まった題名はなかった。それを「丹治峯均筆記」と呼ぶようになったのは、明治末である。「五輪書」という通称が普通化するのと、時期は大差ない。したがって、今日、我々が、武蔵の五巻の兵法書に「五輪書」という通称を使うとすれば、立花峯均が記した本書もまた、「丹治峯均筆記」でも、まあよかろう。という具合で、ものは考えようである。
というわけで、「丹治峯均筆記」という名を我々も継承するわけだが、この「丹治」が本書筆記者・立花峯均の本つ氏名〔うじな〕であるにしても、それもわざわざ書名に入れる必要もないとすれば、ここは、「峯均筆記」とでもこれを略して呼称の簡便を計りたいとは思うのである。それゆえ、一応我々の研究プロジェクトに限ってのことではあるが、本書を「峯均筆記」と略称しているというわけある。
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三宅長春軒本 冒頭 「兵法大祖武州玄信公傳來」題
*【丹治峯均筆記】自記 《此一冊、先師ノ來由ヲ記シテ、後年誤ナカラシメン事ヲ、両甥乞之。依之書之。追加ニ、寺尾、柴任、吉田三師ノ成立ヲ書シ、後〔シリヘ〕ニ自ラノ事ヲ書ス》

藤郷藤実 藤郷秘函巻之一 「二天流傳記」題
*【藤郷秘函】 《永其章子の問ひ來れるハ、(中略)めづらかなる書を懐にし來て、予に授けつるの志の厚を謝し開見つれバ、書顕するに、二天流傳記と名付からしぬ、立花巌翁氏の著述の書なり。即我家に傳えし二天流の始祖新免玄信の一世中の言行事迹よりして、吉田実連の事に及ぶまで、いとねもころにも細やかに連綿と書つらね置れしが、かしこくも又めでたけれ》(自序)
*【兵法先師伝記】 《兵法五代立花峯均所著有先師傳記。小子、出國日不携之。今也恨忘其事実焉。如此則日々可失其事跡矣。故記其一二事而、以便于後生而已也》

三宅長春軒本表紙外題 「武州傳來記」

三宅長春軒本内扉題 「武州傳記」
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