宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  追 加 1  Back   Next 
以上、「大祖」武蔵の物語に続き、こんどは「追加」である。「追加」は、二祖・寺尾孫之丞信正、三祖・柴任三左衛門美矩、四祖・吉田太郎右衛門実連の事跡を記し、筑前二天流の来歴を明らかにする。ここで興味深いのは、立花峯均が相伝した二天流系譜が、他に類例を見ないほどかなり具体的に記述されていることである。これは近世武術史研究からしても貴重な史料である。
 以下は、まず、武蔵の直弟子・寺尾孫之丞信正の記事である。三祖・柴任三左衛門美矩、四祖・吉田太郎右衛門実連については、下記の名をクリックすれば、当該ページへスキップできる。



 
  追加1 二祖寺尾孫之允信正
   追 加 (1)

一 二天流兵法二祖、寺尾孫之允信正ハ、(父ハ*)細川家ノ家臣タリトイヘ共、其身ハ一生仕官セズ、熊本ノ城下近邑ニ引籠リ、耕シテ生涯ヲ送リ、福力アツテ米銭ニ乏シカラズト云リ。武州公数百人ノ門人ヨリ撰出シ傳授アリシ人也。法名夢世ト號ス。小兵ナガラ力量有シト云リ。寺尾ノ本家、今尚細川ノ家臣タリ。(2)
 五尺杖ノ仕道、信正鍛錬也。武州公ハ片手ニテ自由セラシ故、別段ニ業ハナシ。信正ニ至リ、片手ニテハ振難キ故、仕道ヲ付ラレシト也。隅ニ蟠リタル敵、又ハ取籠者等ニ別而利アリ。是皆中段スミノカ子ヨリ事發レリ。(3)

   追 加

一 二天流兵法二祖、寺尾孫之允信正は、(父は)細川家の家臣であるとはいえ、自身は一生仕官せず、熊本の城下に近い村に引きこもり、(田畑を)耕して生涯を送り、福力あって米銭に不足しなかったという。武州公が数百人の門人の中から撰び出し、伝授のあった人である。法名は夢世〔むせい〕と号す。小兵ながら力量ありという。寺尾の本家は今なお細川の家臣である。
 五尺杖の仕道(操法)は、(寺尾)信正が練り上げたものである。武州公は(五尺杖を)片手で自由に扱われたので、特別にこれという技法はなかった。信正に至って、片手では振りがたいので仕道(操法)を確立されたとのことである。隅に逃げ込んで抵抗する敵、または籠城者らに、とくに有効である。これはすべて、中段の墨矩〔すみかね〕から発したことである。

  【評 注】
 
 (1)追 加
 この部分は、二祖・寺尾孫之丞信正、三祖・柴任三左衛門美矩、四祖・吉田太郎右衛門実連の三人の記事を記す。本書の本体、武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」に対し、二祖から四祖までを追加して記録する、という意味であろう。それゆえ、「兵法大祖武州玄信公伝来・追加」ということなのである。
 しかしこの「追加」というタイトルの、愛想のなさを言う者もあろうが、実は立花峯均、この「追加」という題名を別の書にも使用しているのである。
 峯均の兄・立花実山による茶書『南方録』のことは他ページにも触れているが、立花実山の『南方録』は七巻であり、立花峯均による寧拙本『南方録』は九巻構成である。これは、第八巻「秘伝」と第九巻「追加」が増補されているためである。
 立花実山は『南方録』を編纂するにあたり、上記七巻本をまとめて後、さらに草稿を用意していた。極意九箇条を摘録した「秘伝」の巻と、七巻に書きもらした条々を集めて「追加」の巻としたものである。実山は――まるで武蔵のように――これを浄書することなく、宝永五年(1708)に死んだ。この「秘伝」と「追加」の二巻は、弟の寧拙(立花峯均)が正徳五年(1724)に浄書したものであるという。ただし、実山の自筆原稿はなく、この2巻は寧拙が書いた可能性もある。
 ともあれ、『南方録』第九巻の題名が、「追加」なのである。それをみれば、この「兵法大祖武州玄信公伝来」の「追加」というタイトルも、なにやら意味ありげにみえないこともない。
 さて、この「追加」であるが、もとより武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」に比較すれば、二祖から四祖までの記事はかなり分量が少ない。それは「大祖」武蔵の偉大さに見合ったものだというよりも、期待される本書読者の関心の向け方への姿勢である。「大祖武州玄信公」武蔵とはどんな人だったのか、それを流末の人々に語りのこすという意味あいが大きかったのである。
 しかしながら、記事分量が少ないとはいえ、三祖・四祖となると、筆者・立花峯均が直接謦咳に接した師匠である。本書でなければ語りえないような情報を多く含んでいる。ただ、問題は、二祖・寺尾孫之丞信正についての情報の案外少ないことである。これも、筆者・立花峯均が直かに接したことがない人物なので、いたし方ないことであるが、筆者が柴任美矩から得た情報はかようにも少ないか、と改めて思わざるをえない。
 以下、二祖から四祖まで、この「追加」記事を読むのだが、適宜他の資料とも照合しつつ、『峯均筆記』の記事内容の評価あるいは訂正を試みることにしたい。  Go Back




*【筑前二天流系譜】
  大祖 新免武蔵守玄信
    二祖 寺尾孫之亟信正
    三祖 柴任三左衛門美矩
    四祖 吉田太郎右衛門實連
    五代 立花專太夫峯均



*【南方録 各巻構成】
    第一巻 覚 書
    第二巻  会
    第三巻  棚
    第四巻 書 院
    第五巻 台 子
    第六巻 墨 引
    第七巻 滅 後
    ―――――――
    第八巻 秘 伝
    第九巻 追 加

 
 (2)二天流兵法二祖、寺尾孫之允信正
 寺尾孫之丞信正の事蹟記事である。寺尾孫之丞は、武蔵の直弟子、したがって武蔵を大祖とすれば、この流派の二祖にあたるという位置づけである。
 流派名称は、ここでは「二天流」と記している。これが、「二天一流」ではないことに注意したい。この二天流は、武蔵が「二天」と号したことによる。ようするに、武蔵流だから二天流なのである。筑前では、主として「二天流」と称したようである。
 ここに名の出ている寺尾孫之丞信正(1613〜72)は、五輪書に「孫之丞」「孫丞」とあって、通り名は「孫之丞」だが、ここでは「孫之允」と書く。本書異本には「孫之丞」とあるから、とくに「孫之允」とすべき理由はない。ただし、「信正」なる諱は、筑前系伝承によるもので、他に「勝信」とする肥後の例がある。
 この寺尾孫之丞は、武蔵の五巻兵書、いわゆる五輪書の各巻奥付にある宛先が、この人、寺尾孫之丞である。現存五輪書写本によるかぎり、たいてい宛先は寺尾孫之丞である。このことから、寺尾孫之丞は五輪書の唯一相伝者だったらしいと知れるのだが、我々の五輪書読解の論攷にあるように、これは相伝ではなく、遺贈だった。これに対し、肥後系伝記では、孫之丞(夢世)の弟・求馬助の子孫が連綿として続いて武蔵の兵法を伝えていることを強調する。このあたりのことは、すでに述べたから繰返さない。
 さて、寺尾孫之丞について、『峯均筆記』は、細川家の家臣であるとはいえ、自身は一生仕官せず、と記す。細川家家臣であるのに、自身は一生仕官せず、というのは矛盾した表現だが、これは、生家は細川家家臣であるにもかかわらず、孫之丞自身は一生仕官しなかった、という意味である。そこで、我々のテクストでは、脱字の可能性ありとして、「(父ハ)」と補正している。つまり、父は細川家の家臣であったが、孫之丞自身は一生仕官せず、ということである。
 『武公伝』等肥後系武蔵伝記には、寺尾孫之丞が一生仕官せずという情報はない。この点に関するかぎり、『峯均筆記』にアドヴァンテージがある。
 また、寺尾孫之丞が小兵ながら力量あり、という伝聞を記し、孫之丞の具体的なイメージを伝えるのも、他にはない情報である。当時は現代より一般に背が低いので、小兵というと、身長五尺未満というところであろう。武蔵が当時としては巨大な体躯の人なので、この師弟の対照的なイメージは面白い。
 ところが、寺尾孫之丞の弟・求馬助信行はどうかというに、求馬助は小兵ではなかったらしい。野田一渓(1734〜1802)が寺尾求馬助と夢で相会し、問答数刻。野田一渓は夢中でみた求馬助の像を描いた。後に一渓と同門の人が、太田泉露(左平次)に、求馬助の容貌を尋ねた。それは太田泉露も知らないが、泉露の妻の祖父・寺尾佐助から聞いた話がある。寺尾佐助は求馬助長男である。
 太田泉露が聞いたその寺尾佐助の話では、父求馬助は、自分(佐助)のように短小ではなかった。身長は五〜六尺の半ば、骨節巨大である。太っても痩せてもなく、眉は濃く、顔は四角で平ら、つまり鼻は低い。まあ、そんな特徴を佐助は語ったらしい。求馬助が、五尺五寸(166cm)ほどだとすれば、当時としてはやや大柄の方で、骨太の体格である。兄の孫之丞も、骨太で顔が四角いというあたりは似ていたかもしれない。身長は兄の方がだいぶ小さかったのである。
 これとはまた別に、求馬助系統の兵法末流には、孫之丞が耳に不具あり仕官しなかったという伝説がある。野田一渓によれば、耳の垂れが少し欠けていたというから、耳に異形があったという話のようである。
 ところが、十八世紀後期のこの野田一渓の記事(先師道統次第系図)から、寺尾孫之丞が聾者であったと錯覚する粗忽な者がかつてあったが、それは誤りである。孫之丞の不具は耳の形状の異常だ、という以上のことは野田一渓の記事にはない。
   《耳ノタリ少シカケタルユヘ、不具トシテ、浪人セリ》
 けれども、耳に不具あり孫之丞は仕官しなかったというのは、『峯均筆記』にはみえない記事であり、これは肥後で後世発生した伝説であろう。異形が一種の不具になって仕官の障碍になるというのは、十八世紀の発想である。十七世紀半ばまではそんな不具観念はない。むしろ武士は、契約だといってはわざと自傷することもあった。
 寺尾孫之丞が仕官しなかったという「事実」から、このようにその「原因」を探してしまうのが、説話論的運動の特徴である。寺尾が仕官しなかった原因は推測や解釈から生じたもので、彼の耳に異形の不具があった、という話もそれ自体は伝説の域にある。したがって、寺尾孫之丞不具説は、彼を不遇の人とする感傷的イメージを結ぶ傾向にあるが、それも小説ならば面白かろうが、武蔵研究においては却下すべき憶測である。
 しかしながら他方、『峯均筆記』の寺尾孫之丞の記事は、ごくあっさりしたもので、十分なものではない。三祖・柴任美矩や四祖・吉田実連の記事と分量を比較してみれば、二祖たるこの重要人物について記すところが余りにも少ない。
 こういうところをみれば、立花峯均は、武蔵に関してはもちろん、寺尾孫之丞についても、柴任美矩から大したことは聞いていないようで、それが『峯均筆記』を期待して読む者を落胆せしめるところである。












九州大学蔵
吉田家本五輪書








寺尾孫之丞と師武州



 それでは、寺尾孫之丞の出自・係累はいかなるものか。ところが、このあたりの研究は、従来ほとんど皆無である。それゆえ、『峯均筆記』の記事を補足するために、ここで現在の知見の範囲でひとまずのところを整理し提示し、後学の研究を促したい。
 寺尾氏系譜は、孫之丞の曽祖父・寺尾孫四郎あたりからしかはっきりしないが、「寺尾家系」にみえる寺尾家の伝承によれば、その先は以下のごとくである。
 すなわち、寺尾氏は、新田義貞の弟・新田義助の子、新田義則の末孫である。義則は、上野国新田郡徳川を領知し、徳川義則と名乗った。義則弟・徳川義重は、同郡の内、寺尾庄を領知し、寺尾義重と名を改めた。――つまり、このあたりは徳川将軍家と先祖が共通するところである。
 さて、義則と義重は、新田義貞一乱のとき、武州川越入間川合戦に、北條方に討れて戦死した。義重の妻は瀬良田冶郎の娘で、この腹に寺尾孫四郎が生れた。孫四郎の母は、上州碓氷郡に身をかくしていたが、その後甲斐国「山城郡」高野庄の百姓等の妻となった。孫四郎もこの在所で成長した。成人の後、寺尾氏を名乗り、山城高野庄を切取り、一万町を領知し、寺尾孫四郎と名乗った。
 孫四郎の子、孫十郎(孫重郎)、その子・孫冶(次)郎まで、代々高野城に居城した。末孫寺尾孫十郎の子・寺尾孫四郎は、十六歳のとき、甲斐(武田)信玄に属し、十八歳のとき、駿州志田郡大井川西坂合戦で名を顕し、高野城を預り、一万町を知行し、名を改め「寺尾豊前」と称した。――ただし、甲斐に「山城郡」があったとは聞かぬことであり、その高野城も不詳である。
 信玄死去の後、寺尾一家は高野城で討死した。寺尾豊前は、高野城を下城し、中国備前国澤田庄に居住した。――これは武田氏滅亡の折のことか。しかし、どういうわけか、寺尾豊前は討死もせず、備前国に姿を現しているのである。このあたりの寺尾豊前一代のギャップは修復不可能である。
 ところで、寺尾豊前は、「備前中納言先祖・左衛門元吉」に属し、澤田庄一万石を知行し、澤田の城を預った。名を改め、こんどは「寺尾越前」と称した。――この「備前中納言先祖・左衛門元吉」は不明である。備前中納言先祖というから宇喜多氏の先祖ということだが、武田氏滅亡後のことだとすれば、宇喜多氏は直家の代である。
 寺尾越前の妻は、嶋中右衛門の娘で、この腹に、寺尾孫四郎が生れた。成人の後、「備前中納言」に仕えた。孫四郎の妻は湯淺九郎の娘で、寺尾孫四郎の子は五人である、云々。
 上記の備前国沢田庄は、上道郡沢田村(現・岡山市沢田)に地名が残る。場所は旭川支流の百間川流域で、岡山城からは旭川を隔てた東の地域である。ここにある操山の北尾根に明禅寺城という宇喜多直家の城があった。
 また「寺尾家系」の系図によれば、寺尾越前は、「宇喜多中納言」に頼まれ沢田庄を預かったという。この「宇喜多中納言」を「備前国主宇喜多中納言直家」とも記しているから、これは宇喜多直家(1529〜81)を指しているようである。宇喜多直家は、浦上氏の家臣だったが、下克上して主家を滅亡させ、備前美作を手中にした戦国武将である。また孫四郎の子も孫四郎を称し、これも宇喜多直家に仕えた。武功多く直家の感状が今も残っていると、系図は記す。
 しかしながら、系図が「宇喜多中納言直家」と記すのは、言うまでもなく明白な誤りである。「宇喜多中納言」は直家ではなく、彼の息子・宇喜多秀家(1573〜1655)である。
 秀家は豊臣秀吉の愛顧を蒙り、出世して五十七万石の大大名、しかも官職も中納言まで登った。関ヶ原役には西軍の主力となって敗退、薩摩島津家へ逃れたが、三年後自首して八丈島へ配流。流刑およそ半世紀、明暦元年(1655)八丈島で歿、という数奇な運命をたどった人物である。
 してみると、時代時期を勘案すれば、孫之丞の曽祖父から祖父、父の代まで、宇喜多直家・秀家二代に属したとみるのが、いちおう妥当であろう。しかし、それも、系図の記事を前提にしてのことで、さして確かなことではない。
 系図記事についてもう一つ不審なことは、祖父・孫四郎の弟、つまり孫之丞には大叔父にあたる人物に、たとえば孫左衛門勝重は生国肥後、与三左衛門勝尚は生国備後とあって、諸国を流転した形跡があるからである。関ヶ原役の後、宇喜多家滅亡して、寺尾家は牢人したもののようで、祖父ともども一家は備前を退転して、諸国に離散したらしい。
 孫之丞の父親・寺尾佐助は、宇喜田滅亡後、豊前へ流れて、慶長七年(1602)に細川家に召抱えられた。当時、細川忠興は丹後から豊前へ転封となったから、このとき、寺尾佐助は備前から豊前小倉へ来たものらしい。
 実際、寺尾佐助の祖父や父である孫四郎にしても、実名(諱)は系図には不明とある。法名、命日の記載もない。後世子孫の作成にかかる系図とはいえ、まことに心もとない資料である。
 そこで、寺尾系図に「宇喜田中納言」の名が再三出てくるので、我々は備前側の資料に当たってみた。これら寺尾家先祖の記録が備前側に何かないかと。そうして、宇喜田秀家の家臣知行帳を見るに、寺尾姓を名のる者十数人の記載があった。
 このうち百石以上で知行高の大きい順で拾えば、
寺尾久五     千 石
寺尾作左衛門 七百三十石
寺尾孫四郎    四百石
寺尾藤左衛門 二百三十石
寺尾清吉     百 石
   (宇喜田中納言秀家卿家士知行帳)
 かくして、肥後の「寺尾家系」と共通する名は、この作左衛門と孫四郎である。また、百石以下の者の名の中には「寺尾家系」と共通する名はない。
 系図では、作左衛門は孫四郎の息子である。しかるに、作左衛門に七百三十石、孫四郎に四百石とあるのは、如何。双方資料を勘案すれば、作左衛門は寺尾家を相続していたが、隠居の父孫四郎はなお別禄を給されていたと思われるが、これは推測以上のことではない。
 ここで注目されるのは、寺尾佐助の兄・作左衛門である。宇喜田家士知行帳によれば、作左衛門は、宇喜田家中で七百三十石の知行給人であった。宇喜田滅亡により、浪人したと思われるが、肥後の「寺尾家系」には、本多美濃守(忠政)に仕え領知五百石、物頭役、というから、出仕時期は不明であるとしても、浪人した後、本多家に仕えたのである。
 作左衛門は播州姫路に居たようである。作左衛門は寛永三年(1626)六月死去とある。この当時、本多忠政は姫路城主である。この寛永三年六月というのは、つまり武蔵の養子・三木之助が、本多忠刻に殉死したひと月後のことである。寺尾作左衛門は、孫之丞の伯父にあたる。武蔵と同じ時期に播州姫路に居たのだから、何か知遇もありえたと推測しうる人物である。
 この作左衛門の件は、従来武蔵研究において指摘されたことがなかった点であり、ここで後学の注意を喚起しておきたい。なお、本多家中で寺尾家がその後どうなったか、不明だが、大和郡山時代の本多家分限帳(内記政勝公御家中分限帳)の中に、知行三百石の寺尾四郎右衛門なる名がみえる。あるいはこれが寺尾作左衛門子孫かと思われるが、他に傍証がないのが現状である。ただ、同じ分限帳に、「柴住三郎左衛門」という、寺尾孫之丞弟子の柴任三左衛門に対応する名があることから、ある時期、寺尾孫之丞弟子の柴任が、寺尾孫之丞の伯父の孫とが、本多家中で仕えていた、ということになり、これはこれで興味深い因縁である。


*【寺尾氏略系図】

○寺尾孫四郎義重…孫四郎 越前 ┐
 ┌─────────────┘
 ├孫四郎 宇喜田秀家仕 ──┐
 |            |
 ├甚之允 加藤清正仕    │
 |            |
 ├孫左衛門勝重 生国肥後  │
 |            |
 ├玄利勝正        │
 |            |
 └与三左衛門勝尚 生国備後
 ┌────────────┘
 ├作左衛門 本多忠政仕
 |
 ├佐助 勝永 ───────┐
 │ 慶長7年細川忠利仕   │
 |            |
 ├七兵衛         │
 |            |
 └市郎左衛門       │
 ┌────────────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之丞 信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助 藤兵衛 信行




寺尾氏関係地図





明禅寺城址 岡山市沢田




岡山城 岡山市丸の内




寺尾孫四郎/作左衛門
宇喜田秀家家士知行帳



*【寺尾家系】
《某 作左衛門。本田美濃守頼、領知五百石知行、物頭。後寛永三年六月廿二日死去》



姫路城 姫路市本町
 さて、孫之丞の父・寺尾佐助は、慶長七年(1602)に細川家に仕官して豊前小倉へ来た。孫之丞が生まれる前から寺尾佐助家は小倉に住んでいたのである。慶長十八年(1613)生れの二男・孫之丞も、小倉生れの小倉育ちであろう。
 寺尾孫之丞は少なくとも二十歳まで小倉にいた。というのも、その年、寛永九年(1632)細川家肥後転封で、寺尾一家は肥後へ移住したからである。すると、孫之丞もそのとき肥後へ行ったとみなしてよかろうが、実はそれは確かではない。というのも、寺尾孫之丞は細川家に仕官した形跡がなく、上記の如く『峯均筆記』も、孫之丞は一生仕官しなかったと記す。
 寺尾孫之丞は、生まれ育った小倉で、仕官せず牢人のまま居ついていた可能性がある。そして若き寺尾孫之丞を、小倉に居留させたものこそ、宮本武蔵という兵法者の存在であった、という推測も可能である。
 というのも、『峯均筆記』に、寺尾孫之丞が長年武蔵の弟子だったという記事があるからである。その云うところの寺尾孫之丞の「多年の功」に照応するのは、自分が生まれ育った小倉で、孫之丞が武蔵に師事したということである。言い換えれば、武蔵の小倉時代、すでに寺尾孫之丞は武蔵の弟子だった。――これが我々の推測におけるポイントであることは、前述の通りである。現在段階での寺尾孫之丞に関する我々のポイントを繰返せば、
   (1)寺尾孫之丞は小倉生れの小倉育ち
   (2)若年の頃から自身は仕官せず
   (3)故郷の小倉で武蔵に師事した
   (4)武蔵肥後移住のとき、二十八歳の孫之丞も肥後へ移った
という四点である。したがって、寺尾孫之丞を武蔵肥後時代以来の弟子とみなすのは誤りである。この「多年の功」という条件からすればありえないことである。近年の武蔵本には、寺尾孫之丞を武蔵晩年の弟子と憶断し、しかも細川藩士と誤解した解説書が主流をなしていた。しかし、それは誤りである。
 武蔵は晩年肥後熊本に逗留滞在し、やがて同地で客死する。武蔵の死の直前、寺尾孫之丞は、五巻之書(五輪書)を伝授された。この書巻は草案のままで清書されず孫之丞に与えられたもので、武蔵の遺書とも言うべきものである。
 『峯均筆記』はこの段で、寺尾孫之丞は、武蔵が数百人の門人の中から撰び出し、伝授のあった人である、という。前出の箇処には、寺尾孫之丞信正一人だけが当流を相伝した、とあった。これが、武蔵兵法流末における正統性を争う排他的言説であることは言うまでもない。
 『峯均筆記』は、寺尾孫之丞信正一人だけが当流を相伝したというが、肥後系伝記では、孫之丞(夢世)の弟・寺尾求馬助の子孫が続いて、武蔵流兵法を相伝していることを強調する。『武公伝』では、《夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳》、つまり夢世(孫之丞)は一代限りで、武蔵の兵術を子孫に伝えなかったとする。しかし、後述のように、この記事には疑義がある。
 肥後では寺尾求馬助〔もとめのすけ〕信行の系統が主流として残った。志方半兵衛之経『兵法二天一流相伝記』(寛保二年・1742)の伝説では、「門弟多き中に此道を伝ふる事、信行一人に限る」と武蔵がいつも言っていたという話である。これだと、寺尾求馬助信行の系統が正統だということで、それをかように主張するのである。それに対し、『峯均筆記』は、寺尾孫之丞ただ一人が当流を相伝したという。逆に、寺尾求馬助系統の隆盛を記すどころか、求馬助の名もなく、肥後における武蔵流存続のなきがごとくである。
 ともあれ、『峯均筆記』は、寺尾孫之丞は一生仕官せず、熊本の城下に近い村に引きこもり、田畑を耕して生涯を送り、福力あって米銭に不足しなかったという、との伝説を記す。寺尾孫之丞は仕官しなかったが、門弟からの束脩等収入があって、生活には困らなかったというわけだろう。寺尾孫之丞門弟の柴任美矩は、寺尾孫之丞に七年隨仕したというから、これは柴任美矩の話であろう。柴任自身が接した寺尾孫之丞の生活とみてよい。
 寺尾孫之丞は、宇土郡松山の墓誌によれば寛文十二年(1672)歿、享年六十歳。武蔵死後、二十七年は生きていた。系図には、「某」として孫之丞の諱の記載もないし、以下のようなおよそ簡単な記事があるのみである。
  《寺尾孫之允。後夢世。牢人。宇土郡松山手永ニ居住》
 これにより、孫之丞の居住地が「宇土郡松山手永」とわかる。この「手永」というのは統治単位のことで、今日の「地区」の意であり、それじたいは地名ではない。細川家は、豊前時代から領国経営において手永という名の村組・村落グループを組織した。手永には大小があるが、各手永には10箇村ほどをまとめ、惣庄屋をおいた。
 いうところの「宇土郡松山手永」は、現在の宇土市松山町、熊本城下から3里はある。そうしてみると、《熊本ノ城下近邑ニ引籠リ》と『峯均筆記』のいう、熊本城下近くの村ではなさそうである。この二つの居住地は別と見た方がよかろう。
 もし『峯均筆記』の記事が柴任美矩からの伝聞だとすれば、柴任が肥後を去ってのち、孫之丞は「城下近邑」を離れ、宇土郡松山へ移り住んだのであろう。つまり孫之丞最晩年の居住地が宇土郡松山であり、それゆえ、彼の墓碑もそこにあったわけである。
 近年、寺尾孫之丞の墓碑が地元の作家によって再発見され、二つに割れていた碑が接合再建された。孫之丞の没年・享年がこれでわかるのだが、この墓碑の背面には、秀吉の辞世とほぼ同じ辞世歌が記されてあった。
 秀吉の辞世は人口に膾炙したもので、《露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢》というものだが、寺尾孫之丞墓碑の歌は、《露とをきつゆときえにし》とあって、これでは「露と落ち」を「露と置き」と改竄した戯れ歌のようで、ちと具合が悪い。孫之丞が「夢世」と号したことから、建碑した門弟がこれを背面に記したものか、あまりセンスのよくない行為ではある。
 またこの墓所の確認によって、新たな問題も出てきた。従来、『武公伝』記事によって、孫之丞は一代かぎりで子孫は断絶したように思われていたが、この墓地には十基ばかり古い墓石が建っている。ようするに、孫之丞には子孫がなかったのではなく、実際には孫之丞は、甥を養子にして、その家系は以後も続いていたのである。この点は、この[武蔵伝記集]シリーズの『武公伝』読解研究において解明があろう。
 『峯均筆記』に、《其身ハ一生仕官セズ、熊本ノ城下近邑ニ引籠リ、耕シテ生涯ヲ送リ、福力アツテ米銭ニ乏シカラズト云リ》とある寺尾孫之丞の人生には、武蔵の生き方の影響もあろうと思われる。しかし、この興味深い重要人物については、肥後側の史料が不足していて、まだ十分な研究がなされていないのである。

 なお、改めて言えば、孫之丞の父は寺尾佐助、御鉄炮五十挺頭で、禄高千五十石、さらに留守居番頭を勤め、承応元年病死。つまり、寺尾の家は豊前時代以来、鉄砲衆、つまり鉄砲の足軽部隊を率いた指揮官であった。
 寺尾佐助の息子たち、寺尾孫之丞の兄弟には、長兄に寺尾喜内(九郎左衛門勝正)がいる。九郎左衛門は父の家を相続し、御鉄炮頭衆、禄高千五十石(真源院様御代御侍名附)。元禄から宝永期には鉄炮五十挺頭から番頭に進んでいる。『峯均筆記』に、寺尾の本家は今なお細川の家臣であるという、「寺尾の本家」とは、この九郎左衛門の系統であろう。
 また、系図記事によれば、九郎左衛門の室は、都甲太兵衛の娘だという。都甲は、御鉄炮頭衆、三百石(真源院様御代御侍名附)。島原役では、その武功、陳中専一の勲功、原城本丸二番乗、とあって、豪勇で知られた人である。都甲太兵衛については、『武公伝』に、道家角左衛門の聞いた話として、武蔵が、「おれは大勢の人を知っているが、都甲太兵衛ほど鋭気ある人を見たことはない。事にのぞんで決して気を奪われない人だよ」と云ったという話がある。森鴎外に短編「都甲太兵衛」があるが、こちらは伝説錯綜して史実から遠い。ともあれ、寺尾孫之丞の兄嫁は、都甲太兵衛の娘なのである。
 寺尾孫之丞の弟に、求馬助信行(1621〜88)がいる。三男である。「求馬」は「元馬」とも当て字されているから、「もとめ」とよむ。従来武蔵本に、求馬助を「くめのすけ」「くまのすけ」「きゅうめのすけ」とする例があるが、それは誤りである。
 求馬助の公的なキャリアでは、寛永十年(1633)、十三歳で忠利の児小姓に召出され、同十三年(十六歳)新知二百石。同十五年(十八歳)有馬陣で武功あり褒賞をうける。寛文七年(四十七歳)御鉄炮二十挺頭、同十一年(五十二歳)百石加増。延宝七年(五十九歳)、同三十挺頭、云々(續肥後先哲偉蹟巻一)。したがって求馬助の公的任務は、長兄・九郎左衛門と同様、これもやはり鉄砲衆らしい。
 正保二年(1645)の武蔵死去のとき、求馬助は二十五歳。長岡監物宛伊織書状によれば、前年の正保元年、発病した武蔵に付け置かれ看護にあたったようである。もちろん、兄の孫之丞も側にいたはずだが、こちらは一生仕官せずの牢人で、細川家とは公式には無関係だから、伊織書状にその名は出ないのである。
 求馬助は嫡子・佐助、孫・助左衛門と続く、三百石の寺尾家子孫を残した。求馬助系統の寺尾家墓所は現在も残っている(熊本市島崎、及び宇城市三角町大字中村)。熊本の墓所には武蔵の墓があるという伝説が生じ、「西の武蔵塚」と呼ばれるが、それは求馬助の伝系が主流となった結果の産物である。
 すでに何度か話に出たことだが、肥後系武蔵流では求馬助系統が本流になっている。求馬助は息子の中から幾人か兵法師範を出している。すなわち、三男の寺尾藤次玄高(1650〜1731)、新免姓を襲った四男の弁助信盛(1666〜1701)、六男の郷右衛門勝行(1673〜1747)らを通じて武蔵流兵法諸派を後世に伝えた。
 寺尾藤次の系統は、その子・志方半兵衛之経が叔父新免弁助に学び、そこから志方半七之郷→新免弁之助玄直→志方弥左衛門之唯と相承し、寺尾派山尾派を形成。新免弁助の系統は、複数あって、寺尾求馬助長男・佐助信形の子、助左衛門(愚一)が、新免弁助に学んで、ここから太田左平次(泉露)→野田一渓種信と相承し、野田派を形成。あるいは、新免弁助に学んだ村上平内正雄から村上派を生じ、これがさらに村上平内正勝の系統と村上八郎右衛門正之の系統とに分岐する。さきの野田一渓は村上八郎右衛門にも学び、村上派から野田派が派生する。六男寺尾郷右衛門の系統は、吉田如雪正弘→山東彦左衛門清秀→山東半兵衛清明と相承し、山東派を形成する。
 すなわち、武蔵死後も肥後の武蔵流兵法は存続し、盛衰はあったものの、十八世紀中後期に及んだのであるが、それらはいづれも寺尾求馬助の息子たちから派生したものである。それゆえ、武蔵の正統正系は求馬助にありとする伝説には、そうした状況が背景にあるとみなすべきである。
 これに対し筑前の系統は、『峯均筆記』の著者、筑前系五代・立花峯均のころ、肥後は寺尾求馬助の息子たちとその弟子たちの世代である。それより何より、筑前の系統は、五代目立花峯均に至るまでが偶然の、いわば幸運の連鎖であり、実態をみれば綱渡りの連鎖なのである。
 とくに立花峯均のばあい、自身が流刑になったこともあって、師匠の吉田実連は、甥の早川実寛に相伝し、筑前二天流を存続させようとした。これにより、筑前に異系たる早川系が生まれるのだが、立花峯均は自身の伝系を確実に残さねばという意識があって、享保七年にまず三人の相伝者を設けたとみえる。
 しかしそれでも、やはり十八世紀を通じての武蔵末流の勢力差は大きい。立花峯均が本書で、寺尾孫之丞信正一人だけが当流を相伝したと、繰り返し記したのは、そうした前未来時制の予感があったと思われる。
 なお、本書解題のページに上掲したものであるが、武蔵晩年肥後から発生した武蔵流兵法の系統図を、参考までに以下に再録しておく。  Go Back



小倉城址 北九州市小倉北区




熊本城址 熊本市本丸



*【丹治峯均筆記】
《武州、門人数百人ノ内、肥後之住人、寺尾孫之允信正一人、多年ノ功ヲ積テ當流相傳セリ》

*【武公伝】
夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳。筑後殿・山名十左衛門殿・浦上十兵衛・柴任三左衛門ナド皆夢世ノ高弟也。求馬子孫ハ于今連綿アリ。子息五人ノ内、弁介兵術勝タル名ノ由。夫レ継テハ加賀介技ヨリヨカリシト也》

*【兵法二天一流相伝記】
《武蔵平日語て曰、「我六十余州廻国して望の者に伝ふと雖も、未信行の様なる弟子を得ず。空しく我道を失し事歎き思ふ所に、幸達人を得る事、是我道の天理に叶ふ故と悦び、一流の奥儀少も不残伝授し畢。門弟多き中に此道を伝ふる事、信行一人に限る」》









寺尾孫之丞関係地図






再建された寺尾孫之丞墓碑
熊本県宇土市松山町
















*【寺尾氏略系図・続】

寺尾佐助 勝永 ────┐
 ┌──────────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之丞信正 勝信 夢世──┐
 |┌───────────┘
 |└左五左衛門 勝秀(養子)→
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛─┐
 ┌───────────┘
 ├佐助 信形 貞享5年跡目
 |
 ├新助 信景
 |
 ├藤次 兵法師範 ―之経
 │        志方半兵衛→
 |
 ├弁助 信盛 後改新免 兵法師範
 |
 ├加賀助 勝明
 |
 └郷右衛門 勝行 兵法師範



*【武公伝】
《武公直弟・道家角左右衛門曰、或トキ武公ノ打話ニ、「俺大勢ノ人ヲシルニ、都甲太兵衛ホド鋭氣アル人ヲ見ズ。莅事〔事ニノゾミテ〕氣ヲ奪ハルマジキ人也」トアリ》





*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候》(5月29日付)






寺尾家墓所 求馬助信行系統
西の武蔵塚 熊本市島崎

新免武蔵守玄信 ―┐
 ┌――――――――┘
 ├寺尾孫之丞信正┬浦上十兵衛   ┌多田源左衛門祐久―→多田円明流
 │       │        │
 │       ├柴任三左衛門美矩┴吉田太郎右衛門実連┐筑前二天流
 │       │         ┌――――――――┘
 │       │         │立花系
 │       ├山本源左衛門勝秀 ├立花専太夫峯均┬立花権右衛門勇勝       ┌立花平左衛門増昆
 │       │         │       │               │
 │       ├井上角兵衛正紹  │       ├立花弥兵衛増寿┬立花弥兵衛種貫┴立花弥兵衛種純→立花派
 │       │         │       │       │
 │       ├中山平右衛門正勝 │       └桐山作兵衛丹英└丹羽五兵衛信英―→越後二天流
 │       │         │早川系                        渡部六右衛門信行
 │       ├槇嶋甚介     └早川瀬兵衛実寛―月成八郎左衛門実久┬月成彦之進実誠  赤見俊平有久他
 │       │                           │
 │       └提次兵衛永衛―橋津彦兵衛正脩             └大塚作太夫重寧―大塚初平藤郷→大塚派
 │
 └寺尾求馬助信行┬寺尾藤次玄高志方半兵衛之経―志方半七之郷―新免弁之助玄直―志方弥左衛門之唯→寺尾派・山尾派
         │      │
         ├新免弁助信盛┼村上平内正雄┬村上平内正勝┬村上平内正則→村上派正勝系
         │      │      │      │
         │      │      │      └長尾権五郎徒山―高田十兵衛→長尾派
         │      │      │
         ├寺尾加賀助 │      └村上八郎右衛門正之┬村上大右衛門正保―村上貞助→村上派正之系
         │      │                U
         │      └寺尾助左衛門――太田左平次泉露―野田一渓種信―野田三郎兵衛種勝→野田派
         │
         ├寺尾郷右衛門勝行―吉田如雪正弘―山東彦左衛門清秀―山東半兵衛清明―山東新十郎清武→山東派
         │
         └道家平蔵宗成―豊田又四郎正剛

 
 (3)五尺杖ノ仕道、信正鍛錬也
 ここで五尺杖の話になる。この五尺杖については、本書主部の武蔵伝記では何度も話題になっていた。『峯均筆記』がかくまで繰り返し述べるところをみれば、武蔵流杖術/棒術というものを強調する必要があったのである。
 武蔵流の杖術/棒術といえば、一般には意外なものかもしれない。しかしそれは剣豪宮本武蔵という時代小説のイメージに汚染された先入観があるからで、実際の武蔵は広く兵法を修学したのであり、武蔵同世代の兵法者と同じく、彼の兵法は剣にのみかぎったことではない。
 さらに云えば、小倉碑文にある新免無二の「十手の家」という文言には注意が必要である。十手術の周辺には小具足・小太刀、二刀術、体術(格闘術)、それに杖術and/or棒術が存在する。前出の無二弟子という青木條右衛門の記事には、《八角ニ削リタル大木刀ニ紅ノ腕貫ツケタル》とあるのは、いわゆる木刀ではなく、杖術/棒術の道具である。
 十手は捕手術に関係する道具だが、杖術/棒術も捕手術に関係する。捕手術は、殺傷というより、制圧を目的とする術である。格闘術である体術は、武器をもった相手を無刀の素手で制圧する。杖あるいは棒を用いる捕手術では、杖あるいは棒で相手の四肢をからめて、ねじ伏せるのである。
 肥後系伝記『武公伝』等に登場する塩田浜之助は、武蔵の弟子であり、棒捕手または捕手棒の師範だという話である。棒捕手というのは棒を用いる捕手術のことで、これも棒で相手の四肢をからめ、制圧する術である。
 すでに見たように、『峯均筆記』の塩田は「浜之丞」という名だが、これは塩田浜之助と同一人物で塩田松斎とみてよい。『峯均筆記』の逸話では、武蔵が塩田の手錠をねじ切るという怪力達人ぶりをみせる。手錠が出てくるように、塩田は捕手術に関係している。
 それで問題は、杖術/棒術に関して、『峯均筆記』と肥後系伝記との間のスタンスの相違があることである。肥後系伝記では、武蔵流杖術/棒術というものを認めない。武蔵が五尺杖を持ち歩いていたなどという記事もない。《二天一流ニ捕手棒ナド在ト云ハ、鹽田濱之助ガ餘流ナリ》、つまり当流で棒術などというのは塩田浜之助に帰すべきもので、武蔵から発したのではないと、これは大層否定的である。肥後の二天一流は唯剣主義に特化してしまったものらしく、総合的な戦闘術としての本来の武蔵流兵法から遠ざかった形態のものとみえる。
 ところが、『峯均筆記』では、武蔵は刀剣よりも五尺杖をもって登場する場面の方が多い。だいいち、例の巌流島決闘では、武蔵の道具は、櫂に二寸釘を一面に打ちつけた猛烈にアグレッシヴな四尺の木刀で、これが青木條右衛門製という説も掲載する。同じ筑前系の『江海風帆草』では、鉄筋補強した五尺棒なのである。しかも、もともと小倉碑文には、このときの武蔵の道具は「木戟」とある。これはいわゆる木刀ではなく長い棒のことで、五尺棒のようなものがイメージされている。
 となると、これまでの「二刀流・剣の武蔵」という先入観は偏見として捨ててかからねばならない。武蔵は武芸百般何でもコナした兵法者で、中でも杖/棒という道具は得意の武器であったようである。しかも、それを片手で自在に操ったという。
 その話は『峯均筆記』がここで語るところであり、武蔵は五尺杖を片手で自由に扱ったので、《別段ニワザハナシ》、特別にこれという業はなかった、という話である。ここでワザというのは技法のことで、武蔵の杖術は天性自然のもので、とくに意識的に技法化する必要がなかった、と言いたいらしい。要するに、武蔵の五尺杖は、技法を超越しているというわけである。そうして、『峯均筆記』の伝聞によれば、武蔵の五尺杖を技法化したのが、寺尾孫之丞なのである。
 このあたりの部分については、まだ読めた者がいない。もとより『峯均筆記』の読解と呼べるほどのものは従来存在せず、我々のこの作業が最初である。したがって、先例のないのは致し方ないのだが、ここで我々の所見を提示して、後学の注意と探求を喚起することにしたい。
 さて、寺尾孫之丞が武蔵の五尺杖を技法化する必要があったのは、武蔵のように片手で五尺杖を自在に扱えないから、というのがここでの話である。そうしてみると、《小兵ナガラ、力量アリシ》とされる、大力の寺尾孫之丞でも片手で扱えないとなれば、尋常の者では五尺杖は扱えないことになる。
 惟うにこれは、五尺杖が長さも重量も武蔵の規格であって、余人には合わないということであろう。夢想流杖術では長四尺二寸である。それより八寸長いのを、武蔵は片手で自在に操ったわけで、寺尾孫之丞ならこれを両手で扱うほかないのである。
 そこで、寺尾孫之丞の仕道の付け方、すなわち操作法の方向は、五尺杖を両手で扱う技法の確立、ということであったと推測しうる。そうなると、これは六尺棒より短いから、その短いゆえの利点がある。つまり、
   《隅ニ蟠リタル敵、又ハ取籠者等ニ別而利アリ》
というわけで、道具が短いから、狭い場所で相手を制圧するに有利である。かくして、常人からすれば長大すぎて難点がある武蔵の五尺杖を、いわば短かくて利点のあるものに価値転換したのが、小兵の寺尾孫之丞だった、というところが面白いのである。
   《是皆中段スミノカ子ヨリ事發レリ》
 この「中段スミノカ子」は、中段の墨矩(すみかね)ということ。「墨矩」という用語は、もともと大工のもので、柱梁など材木に墨入れする作業であるが、基矩・基準というほどの意で一般にも使用されていて、武蔵も五輪書で時おりこの語彙を使っている。『峯均筆記』の著者・立花峯均は、五輪書を伝授され、また書写して弟子たちに伝授した者である。むろん教授にさいし兵法講話に五輪書を引用していたはずだから、そこで五輪書の語彙である「墨矩」という言葉がここで出るのである。
 ようするに、これはすべて中段の墨矩(すみかね)から発したことだという話だが、いうならば寺尾孫之丞による五尺杖の技法は、中段の構えを基本にして発生派生した、ということのようである。『峯均筆記』の記者にはこのあたり具体的なイメージがあるようすで、自明当然のこととして説明の省略がある。
 文中「取篭リ者」ともあるように、やはりここでも杖は捕手術なのである。上述のように、武蔵流杖術/棒術に関して、『峯均筆記』と肥後系伝記との間にはスタンスの相違がある。肥後系伝記では、二天一流に捕手棒などあると云うのは、塩田浜之助の余流だ、つまり武蔵流棒術というのは塩田浜之助に帰すべきもので、武蔵から発したのではないと、まったく否定的である。これに対し、『峯均筆記』では、武蔵が五尺杖をもってあちこちに登場するし、武蔵の五尺杖がいかなるものであったか、具体的な記述まである。
 しかも決定的な相違点は、五尺杖の技法を確立したのは寺尾孫之丞だ、という『峯均筆記』の説である。このあたり、立花峯均が柴任美矩から直接聞いた話かもしれないが、ここでは、とくにそういう記述はない。武蔵の棒杖術は、青木條右衛門、塩田浜之助、そして寺尾孫之丞とそれぞれ継承されたことはたしかだが、青木條右衛門と塩田浜之助(浜之允)については、『峯均筆記』にかろうじてその痕跡断片があるにすぎない。武蔵門流研究における大きな空白領域であった。








*【小倉碑文】
《父新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼に知れり、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきと 。然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為すも、其の徳違ふこと無し。故に、十手を改めて二刀の家と爲す》

*【武公伝】
《鹽田濱之助ハ三斎公ヨリ五人扶持二十五石賜リ、捕手ノ師ナリ。武〔公〕ヲ一打撃テ見度願ニ附ナル程、相手ニナルベシトテ立合ケレドモ、濱之助一向木刀打出事カナワズ。捕手モ、武公座シタモウ一間ヨリ内ニ、足ヲ踏入タラバ武公ノ負タルベシトアリケレバ、濱之助大ニ怒テ業ヲナセドモ、一間ヨリ内ニ一寸モ入事ナラズ。濱之助、太甚感称シテ、武公ノ門弟トナレリ。捕手モ上手ナリシ故ニ、武公ノ弟子ニモ慣ハセラレシト也。寺尾求馬ノ男合太兵衛[初、縫殿助、後、合太兵衛]健ナル故、求馬ヨリ教ヱラレシト也。二天一流ニ捕手棒ナド在ト云ハ、鹽田濱之助ガ餘流ナリ

*【丹治峯均筆記】
《辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ著シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ著シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リ手ゴロノ木ヲ、握リノ所ハ皮ヲヽシ削リテモテリ》

*【江海風帆草】
《武藏其日の装束ハ、繻子のぢはんをこはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄[スチガ子・ルビ]を打て持之

*【小倉碑文】
《爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ》






二刀対五尺杖




*【五輪書】
《大將は大工の頭領として、天下の規矩をわきまへ其國の規矩を知る事、頭領の道なり。大工の頭領は、堂塔伽藍の墨金を覺え、宮殿樓閣の差圖を知り、人々をつかひ、家を取建ること、大工の頭領も武家の頭領も其義同じことなり》
《大工の業、手にかけてよく仕覺へ、墨金をよく知れば、後は頭領となる物なり》(地之巻)








*【丹治峯均筆記】
《老年ニ至テ、在宿ノ節ハ無刀ニテ、五尺杖ヲ平生携トイヘリ》
五尺杖ハ、刃ノ方ニ銕ヲノベテフセ、跡先中ニモ胴カ子アリテ、長キ腕貫ノ緒付ケリ。枕木刀ノ腕貫ハ指ニカヽル様ニ短シ》


 しかるに、近年、この「五尺杖」に関して研究上、大きな発見があった。その最新の成果について、ここで増補して述べておきたい。
 二〇〇八年のことだが、我々は地元関係者の協力をうけて、史料調査のため越後へ入った。というのも、立花峯均の孫弟子にあたる丹羽信英が、筑前二天流の道統を越後へもたらしていたからである。いわば筑前二天流の派生門流であるが、これが越後で明治まで存続していたのである。
 この越後二天流については、別に研究成果が詳述されるから、それに譲るとして、ここでは『峯均筆記』にいうところの「五尺杖」に関することである。
 実は、その「五尺杖」に対応する伝書が越後に現存しているのであった。我々が実見した伝書は、「五尺木刀伝来之巻」とあって、越後で多数発掘したがどれも同じ内容である。ということは、丹羽信英が筑前福岡からもたらした二天流兵法に、「五尺木刀」の術があったのである。
 それはまぎれもなく、『峯均筆記』にいうところの「五尺杖」なのであった。杖術と木刀術では違うように思われるが、福岡では丹羽信英と同世代の大塚藤郷も「五尺木刀」という名を用いているから、この術は、筑前二天流において立花系だけではなく早川系においても伝承があったと思われる。あるいは、口伝を写した越後の伝書(二刀流口訣条々覚書)には、「五尺棒刀」の呼称もある。こちらは、「棒刀」の名を用いている。『峯均筆記』には、武蔵の五尺杖は、刃の方に銕〔くろがね・鉄〕を伸ばして補強し、後・先・中にも胴がね〔胴金〕があって、長い腕貫〔うでぬき〕の緒が付いていた、とある。そうしてみると、武蔵の五尺杖には、「刄」があるというのだから、これは通常の棒杖術のような道具ではなく、やはり木刀なのである。しかも、その刄の部分は鉄板をかぶせて補強したものらしいのである。杖、棒、呼称はいづれにしても、これが五尺というから、木刀としては長大な道具である。
 さて、『峯均筆記』によれば、五尺杖の仕道(操法)は、(寺尾孫之丞)信正が練り上げたものである。武州公、武蔵はこれを片手で自由に扱われたので、特別にこれという技法はなかった。信正に至って、片手では振りがたいので仕道(操法)を確立されたとのことである、云々。
 では、越後二天流の伝書「五尺木刀伝来之巻」には、これをどう記述しているか。その一本を以下に示す。









丹羽信英関係地図



*【丹治峯均筆記】
五尺杖ハ、刃ノ方ニ銕ヲノベテフセ、跡先中ニモ胴カ子アリテ、長キ腕貫ノ緒付ケリ》
個人蔵
五尺木刀伝来之巻
 これを読むに、以下のような内容である。
 ――兵法二天一流において、敵と勝負を決するに、諸個人の才能にかかわらず、時に応じて、才能がなくても、負けることはない。とはいえ、自分に才能があるばあいは、なおまた鋭気を発して、大いに利のあることである。いま(我々が)用いている五尺木刀は、先師玄信(武蔵)が作らせなさったものである。(先師武蔵は)これを普通の木刀のごとく、片手で自由に扱われたが、その仕方(操法)をお決めにならなかった。そこで、二代寺尾(孫之丞)信正は、後年、この木刀を自由に振れる人が稀なのを思いやって、今の仕方を決められたのである。およそ、この五尺の木刀を執って、敵に向うに、心も身も巌〔いわお〕のごとくになって、敵を思うままに制圧すること、これが兵法の大事であり、天下無双の術、勝つことは毛頭疑いなきところである。この道について、(私は)いまだその真意に至らずといえども、(貴殿が)道に志が深切なるを知っているので、この術を相伝せしむるものである。なお慎しんで、師意に違背することなく、朝に練、夕に鍛えて、直通の位に至ることが肝要である。よって記して、これを伝える――。
 ここに記すように、先師武蔵は、五尺木刀を普通の木刀のごとく、片手で自由自在に振ったが、その仕方(操法)をとくに定めなかった。そこで、二代寺尾孫之丞が、この木刀を自由に振れる人が稀なのを思いやって、今の仕方を定めた。――ということは、前に見たごとく、立花峯均が『峯均筆記』に記しているのと同じ由来伝承である。
 それもそのはずで、立花峯均の孫弟子・丹羽信英が、越後へもたらした兵法門流伝書であるからだ。筑前では、この「五尺木刀伝来之巻」に相当する伝書は、未発掘である。そういう意味で、この伝書の発見は重要な局面展開であった。
 越後では、二刀術とは別にこの長大な木刀術が伝承されたのである。では、かように「五尺木刀伝来之巻」なる伝書が少なからず現存するところからすると、越後にはその五尺木刀の現物も存在するのではないか。――いわば研究者としての欲は際限がないのである。
 しかし、越後の関係者に尋ねても、その五尺木刀の現物の所在は誰も知らない。そのため我々も半ばそれを諦めかけた。ところが、まったく偶然にそれを発見できたのである。
 越後のある旧家を訪問し、そこで五尺木刀のことを話に出して、そんな長い木刀を見たことはないかと、ご当主に聞いたところ、「それなら、そこにある」と示された背後の長押に、鎗とともに五尺木刀が架けられていたのだった。
 早速、それを手にしてみると、たしかに五尺はある長大な木刀であった。


*【五尺木刀伝来之巻】
《兵法二天一流におゐて、敵と勝負を決するに、其器にかゝはらず、時に應じてハ、器を得ずとも、負べき事にあらず。然とも、又我得たるものを持時は、尚又鋭氣發して、大に益有事也。今用る五尺木刀ハ、先師玄信乃作らしめられし處にして、則是を常の木刀のごく、片手にて自由を得られし所、仕方を極めらるゝ事なかりしかとも、二代寺尾信正、後年此木刀を自由に振る人稀なるべきをはかりて、今の仕方を極めらし也。凡此木刀を執て、敵に向ふに、心も身も巖のごとくになりて、敵を自由にとりひしぐ事、是兵法の大事にして、天下無双の術、勝事毛頭疑なき処也。是道いまだ其真意に至らずといへども、道に志深切なるを知る處に、此術を相傳せしむる者也。猶慎んで、師意にたがふ事なく、朝に練夕に鍛ふて、直通の位にいたらん事、肝要也。仍而記して是を傳ふ》
個人蔵
五尺木刀(中)、上は二刀木刀(三尺・二尺)、下は枕木刀(二尺)
 上掲写真は、五尺木刀を間にして、上は二刀木刀である。二刀は長短、長さは三尺と二尺である。五尺となるといかに長大なものか、それが知れよう。下は枕木刀で、二尺である。
 こうして見ると、武蔵が五輪書(地之巻)で、我が流派は、長い刀でも勝ち、短い刀でも勝つ。だから、太刀の長さは定めない。長短どちらでも勝つ事を得るのが、我が流派のやり方である、と述べているのだが、その「長い刀でも勝ち短い刀でも勝つ」という言葉の意味は、上掲写真によって知れるであろう。
 すなわち、上の二本は、二刀術の通常の木刀。そして、下の五尺木刀と枕木刀は、《長きにても勝、短にても勝》というその長短二通りの道具である。ことに武蔵が「長きにても勝つ」という場合の、長い道具とはまさに、この五尺木刀のごとく長大なものであった。それが越後の五尺木刀の発掘によって、はじめて具体的に知れたのである。
 ところで、越後の五尺木刀は、上掲のものが発見第一号であったが、その後、やはり当地の旧家で数本発掘された。いささか形状に差異があるものの、基本的には同型である。このうち、腕貫穴があり、石突のあるものが、本書『峯均筆記』にいう「五尺杖」であろう。石突があるという点では、鎗や長刀と同じであるが、この木刀は長大であるから、地に突いて歩いたのである。それゆえ、「五尺杖」と立花峯均が呼ぶのも異とはしないのである。
 本書の著者・立花峯均の孫弟子がもたらした兵法道統ゆえに、越後ではかような五尺木刀の現物まで伝わっていたのであるが、では、本国筑前でそれが現存するかというと、それは未発掘である。現存するか否かも不明である。もし立花峯均が用いたとすれば、それはいかなる「五尺杖」であろうか。
 越後での五尺木刀発掘が一通り終った後、これも偶然に教えられて、我々は立花峯均所用の五尺木刀と遭遇することになった。



*【五輪書】
《此一流におゐて、長きにても勝、短にても勝故によつて、太刀の寸を定めず。何れにても勝事を得るこゝろ、一流の道也》(地之巻)


武蔵の五尺木刀
春風館道場蔵


立花峯均所用五尺木刀
 これは、やはり長さ五尺の木刀であった。反りがあって木刀の形状である。また越後の五尺木刀と同じく、腕貫穴と石突がある。
 武蔵道統らしく、木刀銘に「地水火風空」と五蘊(五輪)の文字を記す。裏面には「兵法天下無雙 新免武蔵守玄信 五代之弟子 立花四郎丹墀眞人峯均入道郭巌翁」とあって、まさに立花峯均の名である。わざわざ余人がこうした名を彫った木刀を調製することはありえないとすれば、とりあえずこれを立花峯均所用の五尺木刀とみなしておく。
 この五尺木刀は、現在、尾張名古屋の春風館道場で所蔵されている。なぜ、これが尾張にあるかというと、戦後、昭和三十年ころ、九州の立花家から譲り受けたものということである。聞けば、木刀銘の立花峯均について何者かご存じなく保有されていたのであるが、平成二十一年暮に拝見に伺ったおり、我々の研究に基づく知見を披露しておいた。
 譲渡されたというその立花家について具体的なことはもはや知れないが、おそらく立花峯均の兵法正統を嗣いだ、甥の立花弥兵衛増寿子孫であろう。福岡にあったものが、何と尾張に現存するとは、まことに奇縁である。ともかく、立花峯均所用の五尺木刀が残ったということが重要である。
 これを見るに、木刀の刄と棟が逆である。通例、木刀反りの外縁部が刄、内縁部が棟、である。越後の五尺木刀にみられるように、形状はともに甲丸・山形であるが、刄棟の形状が逆になっている。その点、不審が残るところであるが、これが立花峯均所用の五尺木刀だとすれば、立花峯均という人物の何か独特な思想のあったところであろうかと思われるのである。

 以上のように、本書『峯均筆記』のいう「五尺杖」は、我々の研究調査ではじめてその対応物が現存していることが確認されたという次第である。これまで武蔵研究において、本書『峯均筆記』は知られていたが、その内容は読まれていないに等しい状態であった。その一例はこの「五尺杖」である。それがどのようなものか、今になってようやく判明したというわけである。
 さて、武蔵の長大な道具、五尺木刀を知りえたとして、注意すべきは、それを語る『峯均筆記』のスタンスの相違である。寺尾孫之丞が五巻之書を相伝された武蔵高弟であることは、肥後系兵法流末でも否定できないようすだが、武蔵流杖術/棒術には否定的である。『峯均筆記』がここで、五尺杖の技法確立を孫之丞に帰するとすれば、それは肥後のそういう傾向=偏向を見知っていて、いわば武蔵流杖術の言挙げをしているのではないか、と思われる。それゆえ、これも、かなりバイアスのかかった伝説とみておくべきである。
 以上のように、武蔵流杖術/棒術という一点に関して、筑前系と肥後系の伝記を対照させれば、両者の方向は正反対であり、まさに相違が際立っている。これは「ポスト武蔵」研究において看過できないポイントであろう。しかるに、こうした我々の指摘が未聞のものであるとすれば、肥後系伝記しか知らないという偏向した環境を、これまでの武蔵研究が出なかったからである。
 ともあれ、寺尾孫之丞関係の研究は端緒についたばかり、以上の諸事項は、後学の研究を触発=挑発するために、我々の所見における当面のポイントを提示しておいたのである。  Go Back





*【筑前二天流立花派伝系図】

○新免武蔵守玄信―寺尾信正―┐
┌―――――――――――――┘
└柴任美矩―吉田実連―立花峯均
┌――――――――――――――┘
├立花勇勝 増時 流水

立花種章 増寿 ┬立花種貫――┐
|       |      |
├桐山丹英   ├丹羽信英  |
|       |      |
└中山伊右衛門 └林七郎右衛門|
┌――――――――――――――┘
└立花種純―立花種名……→種美




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