宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  2  Back   Next 

 
  04 巌流島の決闘
一 辨之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事(1)。巖流ハ流義ノ稱号也(2)。津田小次郎ト云(3)、長府ノ者也トカヤ(4)。其比辨之助ハ津ノ國邊ニアリ。隨仕ノ輩モアリシ*トカヤ。(5)
 小次郎、無二ニ試闘ヲ望ム。無二、達而斷ニ及ブ。是、巖流ニ仕込劔ノ木刀アリ、コレニ怖レテ無二辭退ニ及ブ由、專ラ沙汰アリ。辨之助傳聞、「不及是非事也。罷下、可決勝負」トテ、長門ヘ下ル。(6)
 小次郎ハ國人、辨之助ハ旅人故、何トゾ小次郎手前ヨリ試闘ヲ望ム様ニ致度、小次郎ガ門弟ノ前ヲモ不憚、「小次郎ト試闘セバ、寔ニ蛙ノ頭ヲヒシグ様ニ、只一ヒシギニ可致」ト申サル。小次郎、是ヲ傳聞イテ、「若輩ナル辨之助ガ過言千萬、其分ニテハ措難シ」トテ、試闘ヲ望ム。辨之助一應ハ斷ヲ申ス。小次郎強テ望ム故、「サラバ、可任望」トテ、下ノ關ニテ勝負ヲ決セントス。然レ共、所ノ者ユルサズ。依之、「カノ嶋ヘ可渡」ト約諾シ、長門ト豊前ノ堺、舟嶋ヘ押渡ル。(7)
 辨之助ハ小次郎ヨリ先ニ渡海セリ。比ハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ着シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ着シ(8)、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木條右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リタル*手ゴロノ木ヲ、握ノ所ハ皮ヲ押削リテ持リ。舟嶋ノ濱辺ノ*岩ニ腰掛、小太刀ヲ膝ノ上ニ横タヘ、舟ノ櫂ハ右ノ方ニ*、横ニ捨テヽ持、サシウツムキテ*小次郎ヲ待居ラル。(9)
 徃來ノ舟、碇ヲヽロシ、貴トナク賤トナク、見物群集ス。豊州門司ノ城主何某[細川越中守殿家臣失姓名]、辨之助入魂ノ者ユヘ、家頼大勢召連、大身ノ鎗ヲ持セ、挟箱ニ腰ヲカケ、濱辺ニ居テ見物ス。(10)
 小次郎ハ小舟ニ乘、家頼一人、水主一人ニテ漕渡ル。是モカルサンヲ着シ、仕込劔ノ木刀ヲ杖ニツキテ立テリ。舟嶋ヲ見掛、シリヘヲ顧テ家頼ニ何事カ申聞セ*、彼ノ仕込劔ヲ取直シ、四ツ五ツ打振テ海底ニ抛チ*、刀ヲ鞘共ニ拔出シ、スル/\ト抜放チ、鞘ヲ切折テ海ヘ抛捨、刀ヲ引キソバメテ、舟ノツクヲ待ツ。是ハ、縱ヒ辨之助ニ打勝タリトモ、大身ノ鎗ヲモタセタル士、其分ニテハ遁ス間敷ト心ニ掛リケルニヤ。(11)
 既ニ礒近クナルト、舷ヲ蹈テ飛ビ揚ル。飛ビ損ジテ両膝ヲツク。見物ノ群集一同ニ笑フ。小次郎、刀ヲ引キソバメ、城主何某ガ前ニ行キ、「イカナル人ナレバ此所ニハ居ラルヽゾ」ト咎ム。何某ガ云、「我等ハ辨之助ト親キ者也。今日其方トノ勝負ヲ見物ノ為渡海ス。曽テ其方ニ搆ナキ者ナリ。血ニ酔タルカ、狼狽者」トテ、散々ニ惡口ス。夫マデモ辨之助ハ、岩ニ腰カケ、サシウツムキテ居ラレシガ、問答ノ内ニ立アガリ、櫂ヲ以テ白沙二ツ三ツ左右ヘ打拂ヒ、「如何ニ*小次郎。辨之助ハ是ニアルゾ*」ト、言葉ヲカケラル。(12)
 小次郎、トツテ返シ*、二尺七寸ノ青江ノ刀ヲ左右ニカケ、水車ニ打振リ、面モフラズ切掛ル。巖流ガ秘傳ノ太刀ニ、水車ニ振事ヲ專トス。仕込劔モ水車ニ振テ、敵アヒ當ル度ニ至テ劔ヲフリ出、手裡劔ノ如ク飛バシ、附入リテ木刀ニテ打ツクル事ト云リ。(13)
 辨之助モ舟ノ櫂ヲ右脇ノ位ニ搆、相掛リニカヽリ、双方當ル度ニテ*、辨之助、櫂ヲ下ヨリ振上テ打込ミ、小次郎モ刀ヲ水車ヨリ直ニ切込、互ニ當ル。然レ共、小次郎ガ刀、手ノ裡マハリテ、平ヲ以テ辨之助ガ左ノ平首ヲウツ。辨之助ガ木刀ハ、小次郎ガ頭ニアタリ、タジ/\ト二三間シサリテ、尻居ニドウト臥ス。辨之助、二ノ目ヲ打ント立ヨル所ヲ、小次郎フツト起アガリ、両膝ヲツキナガラ、横ニ拂フ。辨之助ガヽルサンノ前ヲハラリト切放テ、カルサン前ニ*垂ル。辨之助、二ノ目ヲ又シタヽカニ打ツ。大力ノ*然モ舟ノ櫂ノシタヽカナルヲ以テ、同ジツボヲ二ツ迄打タル故、頭碎ケテヒレ臥セリ。(14)
 辨之助ハカルサンノボタンヲ外シ、カルサンヲカナグリ捨テ、尻ヲツミマヒテ*高クカヽゲ、小次郎ガ刀ヲモ取リ、舟ノ柱ニ打マタガリテ漕戻ル。ハジメカルサンヲ切ラセタル事ハ、諸人見及故、高クカヽゲ、平首ニアタリタルハ、ハゲシキ*場ユヘ見届ケタル者ナシ。太刀ガ平打ナガラ、シタヽカニ打タルニヨリ、血モ少ハ流レシヲ、下着ノ襟ヲ出シ、疵ヲ隠サレタリトカヤ。(15)
 偖、見物ノ貴賤、小次郎ガ死骸ニ近ヅキ見ルニ、ハヤ息モ絶々ナリ。見物ノ内ヨリ、「辨之助ハ早立退クガ、小次郎モハヤ是迄カ」ト、詞ヲカケシニ、両眼ヲクハツト見ヒラキ、フツト立揚リ、「水一ツクレヨ、ヤル事デハナキ」ト、一聲サケンデ前ヘカツパト轉レテ、息絶タリ。古今ノ英雄ト謂ツベシ。可惜可憐。(16)
 是、下ノ關邊ニテ語傳ル所也。夫ヨリシテ、舟嶋ヲ巖流嶋ト呼ブ。小次郎ガ帯スル所ノ刀、今尚、宮本伊織ガ家ニ有リトカヤ。(17)

一 弁之助十九歳、巌流との試合の事。「巌流」とは流義の称号である。(対戦相手の名は)津田小次郎といい、長府の者であるそうな。そのころ、弁之助は摂津国のあたりにいた。隨仕の輩もあったそうな。
 (そもそも事の起こりは)小次郎が(武蔵父の)無二に試合を望んだ。無二はどうしても試合を承諾せず拒んだ。そのわけは、巌流に仕込剣の木刀があり、これに怖れて無二は辞退に及んだのだと、もっぱらの噂があった。弁之助はこれを伝え聞いて「これは仕方がない。おれが行って勝負を決しよう」と、長門へ下った。
 小次郎は(地元長門の)国人、弁之助は(他所者の)旅人であるから、どうしても小次郎の方から試合を望んだ恰好にしたい。そこで、小次郎の門弟の面前をも憚らず、「おれが小次郎と試合したら、まさに蛙の頭を押し潰すように、たった一撃で粉砕してやるぞ」と言われた。小次郎はこれを伝え聞いて、「若輩なる弁之助が過言千万、そのままにしてはおけない」と、(小次郎の方から)試合を求めた。弁之助は一応は断りを申す。小次郎が強いて望むゆえ、「さらば、お望みに任せよう」と、下関で勝負を決しようとした。ところが、土地の者が許さない。このため、「あの島へ行って試合しよう」と約諾して、長門と豊前の境にある舟嶋ヘ押し渡った。
 弁之助は小次郎より先に海を渡った。頃は十月のことで、下には小袖を着し、上に袷を着て、カルサン*を穿き、舟の櫂を長さ四尺に切り、刃の方に二寸釘を隙間なく打ち込み、握りの所に鋸目を入れて、これを持った[これは青木条右衛門製作と云い伝える]。小太刀には、皮のついたままの手ごろの木の、握りの所だけ皮を削り取ったものを持った。(弁之助は)舟嶋の浜辺岩に腰掛け、小太刀を膝の上に横にし、舟の櫂(大太刀)は右の方に、横に捨てて*持った恰好で、うつむいて小次郎を待って居られた。
 (海上)往来の舟は碇を下ろし、貴となく賎となく、見物が群集した。豊州門司の城主何某[細川越中守殿家臣、姓名は失念]は、弁之助と昵懇の者であったから、家来を大勢召連れ、大身の槍を持たせ、(自身は)挟箱に腰をかけ、浜辺に居て見物する。
 小次郎は小舟に乗り、家来一人、水主〔漕ぎ手〕一人で、漕ぎ渡る。これも、カルサンを著し、仕込剣の木刀を杖について立っていた。舟島が見えると、後を振り返って家来に何事か申し聞かせ、かの仕込剣を取直して四、五回打振って海底に抛り投げ、刀を鞘ともに抜き出し、するすると抜き放って、鞘を切り折って海へ抛り捨て、刀を脇に引き寄せて、舟の着くのを待った。これは、たとえ(小次郎が)弁之助に打ち勝ったとしても、大身の槍*をもたせたあの武士たちがいる、となると、おれを逃がすはずがない、と予感したからであろうか。
 すでに磯が近くなると、(小次郎は)舟の舷を踏んで飛び上がった。しかし飛び損ねて両膝をついた。見物の群集は一同に笑った。小次郎は、刀を脇に引き寄せ、城主何某の前に行き、「あなたは何者です。なぜここに居られるのか」と咎めた。何某が云う、「おれは弁之助と親しい者である。今日その方との勝負を見物のため渡海した。その方をどうこうしようというつもりはまったくない。血に酔うたのか、うろたえ者」と、散々に罵った。弁之助はそれまで、岩に腰かけ、うつむいておられたが、この問答の間に立上り、櫂で白砂を二三回左右へ打ち払い、「どうした、小次郎。弁之助はここにおるぞ」と言葉をかけられた。
 小次郎は(弁之助の方へ)とって返し、二尺七寸(82cm)の青江の刀を、左右に向け「水車(の形)」に打ち振り、顔も動かさず切りかかった。巌流の秘伝の太刀に、水車に振る事を第一とする。仕込剣も水車に振って、敵合当たるほどに近づくと剣を振り出し、手裡剣の如く飛ばし、つけ入っては木刀で打ちつける事という。
 弁之助も舟の櫂を「右脇の位」に搆え、激しく攻撃し合い、双方当たる度に、弁之助は櫂を下から振り上げて打込み、小次郎も刀を水車からまっすぐに切込み、どちらも当った。されども小次郎の刀は、手の内が回転して、平(刃の側面)で弁之助の左の平首(首側面)を打つ。弁之助の木刀は、小次郎の頭部に当たり、(小次郎は)たじたじと二、三間(4〜5m)後退して、尻からどうと倒れた。弁之助が、二の目〔第二撃〕を打たんと立寄るところを、小次郎、ふっと起きあがり、両膝をついたまま(刀を)横に払う。弁之助のカルサンの前部をハラリと切り放って、カルサンが前に垂れた。弁之助は、二の目をまた強打した。(弁之助は)大力で、しかも舟の櫂で作った頑丈な木刀で、同じツボを二度も打ったので、頭は砕けて、(小次郎は)前のめりに倒れ伏した。
 弁之助はカルサンのボタンを外し、カルサンをかなぐり捨て、(袷の)尻をつまんで(裾を)まくり、(カルサンを)高くかかげ、(勝者として)小次郎の刀も取り、舟の(帆)柱に打ち跨って(舟は)漕ぎ戻る。はじめ(小次郎に)カルサンを切らせた事は、諸人が目撃したことゆえ、(それを)高くかかげて(見せた)のであり、(小次郎の刀が)平首に当たったのは、はげしい(一瞬の)場面のことゆえ、それを見届けた者はなかった。(小次郎が)太刀の平打ちながら、強烈に打ったので血も少しは流れたのを、(弁之助は)下着の襟を出して疵を隠されたとか。
 さて、見物のだれもかれも、小次郎の死骸に近づいて見るに、もはや息も絶え絶えである。見物の中から、「弁之助はもう行ってしまうぞ。小次郎よ、もはやこれまでか」と言葉をかけると、両眼をかっと見開き、ふっと立上り、「水を一杯くれよ。(弁之助を)逃がすものか」と、一声叫んで前へかっぱと倒れて息絶えた。(小次郎は)古今の英雄と云うべきである。惜むべし、憐むべし。
 ――以上は、下関あたりで語り伝えるところである。これ以来、舟島を巌流島と呼ぶ。小次郎が帯びた刀は、今なお宮本伊織の家にあるそうな。

  【評 注】
 
 (1)辨之助十九歳、巖流トノ試闘
 この段は有名な巌流島の決闘である。具体的な説話材料が多いこともあって、長い一条になっている。なかでも、他の武蔵伝記にはない内容がみられ、筑前系の伝説が語られている。
 すでに気づかれているように、まず注意される点は、「弁之助十九歳」とあるところ。つまり、巌流島決闘は、武蔵が十九歳のときだとするのである。
 同じ筑前系の記録『江海風帆草』は海事関係紀行文書で、巌流島伝説を収録する。宝永元年(1704)の立花重根序文によれば、その成立は元禄以前、それゆえ『峯均筆記』に数十年先行する文書である。この『江海風帆草』では、武蔵はさらに一つ若くて、十八歳である。『江海風帆草』も『峯均筆記』も地元下関あたりの伝説を採取したというから、その伝説ソースの地域では、武蔵は十代ということになっていたのである。
 ところが、読者の頭にあるように、今日では一般に流布しているのは、武蔵二十九歳の時とする説であって、これは『武公伝』『二天記』の肥後系伝説によるものである。すなわち、慶長十七年(1612)、武蔵二十九歳のとき、京都から下って九州小倉の長岡佐渡興長の屋敷にやって来て、云々…というわけである。
 申すまでもないことだが、現在流布している支配的な説だとはいえ、武蔵二十九歳説に確かな根拠があるわけではない。それはたまたま、明治以後、『二天記』の信奉者の勢力が大きくなってしまった結果であるにすぎない。それが逆に、もし『峯均筆記』が流布していたなら、武蔵十九歳説が支配的になっていただろう。一般に信じられている説とは、そのようにある種の知と勢力の結合の歴史的産物に他ならない。それゆえ、このように肥後系伝記では武蔵が二十九歳、そしてかたや『峯均筆記』のように武蔵十九歳というように、異伝形成があったことは銘記しておくべきである。
 なお、ご覧の通り本書では、巌流島決闘は武蔵は十九歳の時で、京都での吉岡一門より前のイヴェントである。この点、小倉碑文の記述順序とは異なる。
 ただ、小倉碑文にある巌流島の記事の「ここに兵術の達人あり」という書き出しは、明らかに年代を追って出た文ではない。武蔵が何歳のときというのでもないし、直前は、新免無二の事蹟に遡った記事である。このあたりから記述の順序は年代順になっていない、と見ることもできる。
 そうなると、小倉碑文の記述順序をもとに巌流島決闘が吉岡一門との対戦よりも後だとは言えない。巌流島決闘の年代的位置づけは明らかではない。それが、巌流島決闘はいつ行なわれたか、という問題に関する我々の留保の要件であり、このことは、ここで改めて強調しておきたい。
 ただし『峯均筆記』は、武蔵の「十九歳」を確言するから、おそらく地元長門の伝説にあった十九歳という情報を優先させているわけである。『峯均筆記』より数十年前の『江海風帆草』には「十八歳」とあるから、伝説祖形では十八歳だったかもしれない。  Go Back






*【江海風帆草】
《武藏一代兵法鍛錬不等閑、名人のほまれ有けり。巌流嶋の仕合ハ、いまだ十八歳の時にて、兵法も未熟、ひとへに血氣の所作、心に不叶事どもなりと、武藏後年に申けるとかや》



*【武公伝】
《武公、從都來[慶長十七年壬子二十九歳]、故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰》

*【二天記】
《于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]。長岡佐渡興長主ノ第ニ至ル》






巌流島 武蔵小次郎決闘像
 
 (2)巖流ハ流義ノ稱号也
 この冒頭部分で、さらに別の重要記事もみられる。すなわち、まずは、いわゆる「巌流」とは人名ではなく流義の称号であるとするところである。
 これは明らかに『江海風帆草』を踏襲した記事である。すなわち、『江海風帆草』には、――この島(巌流島)は、兵法遣いの名によってそう呼ぶというのは誤りである。流儀の名によるのである。巌流とは兵法の流儀である――と、明確に記しているからである。『江海風帆草』『峯均筆記』という筑前系伝説では、巌流=流派名説であるだけではなく、巌流=人名説を俗説として却けるのである。
 これに対し、肥後系伝記では、こう記す。――《因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號》(武公伝)。《依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ、自ラ一流ヲ建テ、岩流ト號ス》(二天記)。しかし、この文に限ってみると、岩流という号は必ずしも明確ではない。この「岩流と號す」は、
   「自ら剣の一流を立て、(それを)岩流と号す」
   「自ら剣の一流を立て、(自身を)岩流と号す」
と、どちらともとれそうである。しかし肥後系伝記の他の文では、どうかというと、武蔵の対戦相手を「岩流」「岩流小次郎」と呼んでいる。そういう文脈からすれば、これは流派名ではなく、人名の扱いである。したがって、《自ラ一流ヲ建テ、岩流ト號ス》という部分を指して、肥後系伝記も岩流を流派名だと述べている、とするのは誤りである。
 肥後系伝記は、岩流を流派名だと述べていないから、その点で『峯均筆記』のような筑前系の伝説とは違っている。『江海風帆草』にならって『峯均筆記』の方は、《巌流は流義の称号なり》とわざわざ記す。世間一般では武蔵の対戦相手は巌流の名で通っているが、実は「巌流」は流派名だよ、という訂正文なのである。
 では、本当に巌流は流派名なのか、となると、確かにそうだとは言えない。たとえば、武蔵死後九年の建碑にかかる小倉碑文では、《爰に兵術の達人有り、名は岩流》と明記してある。小倉碑文の段階では、小次郎という名もない。「岩流」という名を記すのみである。しかも「岩流」は人名としての扱いである。もし岩流が流派名なら、小倉碑文はそのように記し、この兵術達人の名を別に記録したであろう。
 『峯均筆記』と同時代の剣術書では、『本朝武藝小傳』(正徳四年・1714)は、《巌流、宮本武蔵と仕相の事》として記事中「巌流」を人名として扱っているし、とりわけ渡船の船頭に「あんた知らんのか。今日は巌流という兵法遣いが舟島で宮本武蔵と仕合するんだ」と云われて、「おれがその巌流なんだが」と答えるという、面白い問答を記している。また同時期の『武将感状記(砕玉話)』(正徳六年・1716)には、《岸流と云ふ剣術者、下の関に待て、武蔵にしあひをせんと云ひ遣す》とあって、これも「岸流」が人名である。ここでも、小次郎名が出るでもなく、小倉碑文と同様に「巌流」は人名である。『江海風帆草』と『峯均筆記』が訂正を求めるのは、こういう世間の大勢があったからである。
 『江海風帆草』と『峯均筆記』は筑前系の伝説である。しかしこの巌流島決闘の伝説は、地元長門の伝説祖形をかなり保存している。こういうところからすれば、この巌流=流派名説は、地元伝説のようにうけとれないこともないが、そういうわけでもない。すると、どうして巌流は流派名だという説が生じたのか。それには理由がある。
 実は、「岩流」という流派が実在したのである。ところが、その岩流という流派は、小次郎とは無関係である。すなわち、岩流は文禄ごろの人・伊藤左近裕久を始祖とする。伊藤は修行工夫して、自ら流派を岩流と名づけた。丹後の京極高次の家臣・多田善右衛門(一至斎有閑)から鳥取の香河信濃重信へ相伝、以後鳥取藩に伝承した。多田善右衛門は武蔵と同時代人。各地の神社にのこる奉納絵馬をみると、岩流は鳥取だけではなく、中国地方一帯に広く伝播していた痕跡がある。
 佐々木巌流の「巌流」とは人名ではなく流派名だ、とする説が後世生まれたのは、西国に多かったこの岩流との混同があったものらしい。むろん、岩流は小次郎の発明になるものではなく、また岩流の系統には小次郎に相当する名はない。少なくとも小倉碑文の段階では、まだそんな混同はみられない。
 後世のものでは『撃劍叢談』が、この混同の仕上げを行なっている。「岸流」流と云うべきを略して岸流だと呼んだのだろう、という推測がそれである。こういう説が十九世紀までに流布していたようであるが、上述のように筑前ローカルの武蔵伝説では、それより百年前にすでに混同が生じていたことを示している。
 なお、この件につき、いちおう附記しておくべきことがある。『峯均筆記』は武蔵伝記の最後に武蔵の戦傷を語って、《冨來ニテノ鎗疵、又ハ巖流ヨリ外ニハ疵付ケシモノナシトイヘリ》と述べる。つまり、かの津田小次郎という名を挙げ、「巌流」とは流儀の名だと、強調しておきながら、ここでは、つい小次郎を「巌流」と呼んでしまっている。とすれば、『江海風帆草』の説を継承しながら、『峯均筆記』の巌流=流派名説もさして一貫したものではなかったようである。  Go Back


*【江海風帆草】
《此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巌流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし》


*【武公伝】
《小次郎、常ニ參尺ヲ以、勢源ニ對テ、粗〔ほぼ〕技能アリ。因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落〔かけおち〕シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號。其方術實ニ藍ヨリモ青シ》
*【二天記】
《於斯勢源ガ肉弟・治部右衛門ト勝負ヲ決シテ、之ニ打勝ツ。依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ、自ラ一流ヲ建テ、岩流ト號ス。其法術尤モ奇ナリ》

*【武公伝】
《興長主、即武公ニ言テ、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ巌流ト會セン事ヲ諭》
*【二天記】
《興長主武藏ニ曰、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ、岩流小次郎卜仕合致スベキ由ヲ諭ス》







*【本朝武芸小伝】
《中村守和曰、巌流、宮本武藏と仕相の事、昔日老翁の物語を聞しは、既に其の期日に及て、貴賤見物のため舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至りて乗船す。巌流、渡守に告て曰、「今日の渡海甚し。いかなる事か在る」。渡守曰、「君不知や。今日は巌流と云兵法遣、宮本武藏と舟島にて仕相あり。此故に見物せんとて、未明より渡海ひきもきらず」と云。巌流が曰、「吾其の巌流也」。(中略)既にして舟船島につく。巌流舟より飛下り武藏を待。武藏も又爰に來りて、終に刺撃に及ぶ。巌流精力を勵し、電光のごとく稻妻のごとく術をふるふといへども、不幸にして命を舟島にとゞむと也》

*【武将感状記】
《宮本武藏は二刀を好む。細川越中守忠利に仕へて、京師より豊前の小倉に赴く時、岸流と云ふ剣術者下の関に待て、武蔵にしあひをせんと云ひ遣す》



*【撃劍叢談】
《岸流は右に云宮本武藏と仕合ひせる岸流が流也、岸流流と云べきを略して呼びならはせる成べし。今以て西國に此流多し。諸國にも往々其名を聞けり。此流に一心一刀と云ふ事有り。是は大太刀を真向におがみ打ちする様に構て、つかつかと進み、敵の鼻先を目付にして矢庭に平地まで打込む也。打なりにかがみ居て、上より打処をかつぎ上げて勝つ也。因州鳥取に小谷新右衛門といふ者も此流の師たり》


*【丹治峯均筆記】
《武州、一生數十度ノ試闘、其外、豊後陣、難波ノ合戰、原城ノ城責、彼是手疵ヲ被リ玉ハズ。冨來ニテノ鎗疵、又ハ巖流ヨリ外ニハ疵付ケシモノナシトイヘリ》

 
 (3)津田小次郎
 巖流は流派名、するとこの人物の名は何か。そこで、本書はそれを「津田小次郎」だという伝説を記録する。ここで注目されるのは、「津田」と「小次郎」という二つの情報である。ここで出た「津田」という姓は、本書『峯均筆記』以前には見えない。
 興味深いことに、筑前系の『江海風帆草』には、まったく別の氏名を記す。すなわち、「上田宗入」という名である。同じソースから得たにしては、これは違いすぎる。『江海風帆草』は『峯均筆記』よりも数十年以前の早期の記録である。したがって、はじめは「上田宗入」であったのが、数十年ほどの間に、何らかの作因があって伝説変異が生じ、「津田小次郎」へ変ったものらしい。
 筑前系伝説では、このように「上田宗入」「津田小次郎」という具体的な氏名を得ているところから、おそらく世間が言う「巌流」は、西国で盛んなあの巌流(岩流)と称する流派の名だろう、という伝説展開になったもようである。
 他方、肥後系の伝記では『武公伝』に、《巖流小次良》と記すのみで、巌流の姓に関する記事はない。したがって、筑前系の『江海風帆草』や『峯均筆記』が「上田」や「津田」という姓の伝承を収録したが、肥後系伝記では巌流の姓に関する情報がなかったのである。
 もう一つの「小次郎」という名については、『峯均筆記』はこの肥後系伝記と共通している。したがって、武蔵伝記に関していえば、「小次郎」という名は比較的早くから伝承に存在したとみてよい。たとえば、肥後系の『沼田家記』に《小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候》とあるように、ここでも姓はないが「小次郎」という名はある。いづれにしても肥後系伝説では、小次郎の姓に関する情報はなかったものらしい。
 しかるに上述のように、『江海風帆草』は「上田宗入」というまったく別の氏と名を記録するから、こちらは、『峯均筆記』と肥後系伝説が共通する「小次郎」よりも古いパターンである。それゆえ、小倉碑文の岩流は、あるいは宗入という号をもつ者――これは茶人めいた号であるが――であったかもしれない。
 さて、『江海風帆草』は別にして、『峯均筆記』は小次郎の姓を「津田」とする。今日一般に流通しているのは、武蔵の対戦相手の名は「佐々木小次郎」という説である。ところが、それにしても容易に確認できることは、筑前系・肥後系ともに、小次郎には「佐々木」という姓はない。それでは、この佐々木姓はいつごろ登場したのか。
 これについては、『二天記』(安永五年・1776)に、《岩流ハ佐々木小次郎ト云。此時十八歳ノ由ナリ》とある。小次郎の年齢も十八歳と若年である。ただし、これは本文ではなく注記であり、また他人の説の伝聞である。こういう異説もあるという恰好で、注記に拾っているのである。
 それゆえ、佐々木小次郎という名は『二天記』に書かれている、とするのは、厳密に言えば正しくない。これは、繰返して云えば、『二天記』の注記に拾われた異説である。『二天記』の説ではない。
 佐々木姓の他例を当たれば、ひとつは『古老茶話』のいう《佐々木眼柳といふ劒術者》である。『古老茶話』は成立年不詳文献だが、一応これが延享年間(1740年代)だとすれば、佐々木姓の出現としては『二天記』注記よりも早期のものである。
 しかしながら、ここで念頭におくべきは、同時期に歌舞伎など演劇界で「佐々木巌流」の名が登場したことである。したがって、『古老茶話』の佐々木姓については、そういう演劇からの影響を考慮する必要がある。つまり、巌流の実名が佐々木姓であり、そこから演劇で登場人物名「佐々木」巖流を採ったと見るのは、あきらかに錯誤である。
 それというのも、むしろ演劇が実在人物をモデルにしたときは、戯作上、姓を替えるのが常套手段である。武蔵物の舞台名は「宮本無三四」だが、それ以前は、元文二年(1737)大坂上演の歌舞伎「姉小劒妹管鎗敵討巌流島」(藤本斗文作)のように「月本武蔵之助」である。しかも、同作品(敵討巌流島)で巌流の名は「佐々木巌流」である。演劇化においてモデルの姓を替えるのが常套手段というやり口を見れば、そこに「佐々木巌流」の名が出る以上、モデルの巌流は佐々木姓ではなかったことだけは、少なくともたしかなのである。この点は従来指摘されたことのないポイントであり、ここで強調しておくべきであろう。
 巌流の実名における姓は、あるいは、知られていなかったかもしれない。だが、演劇がその不在の姓の穴を「佐々木」で埋めたところから、「佐々木巌流」の名が流布したのである。巌流の佐々木姓はもともと演劇での創作であり、その影響を受けて、上方以外でもいつのまにか巌流は「佐々木」だということになった。その結果、たとえば尾張の『古老茶話』のような遠隔地文献で現れ、のちに九州の武蔵伝記『二天記』の注記に入り込んできたのである。同じ肥後系伝記でも、少なくとも『武公伝』には登場しないのが佐々木姓である。

  岩 流 小次郎名 佐々木姓
 小 倉 碑 文 岩 流 ―― ――
 本朝武芸小伝 巖 流 ―― ――
 武将感状記 岸 流 ―― ――
 江海風帆草 ―― 上田宗入 上田宗入
 沼 田 家 記 ―― 小次郎 ――
 丹治峯均筆記 ―― 津田小次郎 津田小次郎
 武 公 伝 ―― 巌流小次良 ――
 (演劇台本) ―― ―― 佐々木巌流
 古 老 茶 話 ―― ―― 佐々木眼柳
 西 遊 雑 記 ―― ―― 佐々木岩龍
 二 天 記 ―― 岩流小次郎 佐々木小次郎

 経緯を整理してみれば、以下のような諸段階が想定しうる。――(1)岩流(巌流)の名だけが知られていた段階…小倉碑文・武芸小伝・武将感状記。(2)岩流(巌流)が人名ではなく流派名だとして「小次郎」名を見出す段階…沼田家記・丹治峯均筆記・武公伝。(3)演劇で佐々木姓を創作し「佐々木巌流」が流布した段階…古老茶話・西遊雑記。(4)小次郎+佐々木=佐々木小次郎となった段階…二天記注記。
 このばあい、「小次郎」名は、おそらく関門海峡周辺の伝説として生じたものであり、また北九州ローカルの伝承である。これに対し「佐々木」姓は、前述のように上方から演劇を通じて全国に普及したものである。「小次郎」名は、伝説過程における自然発生的なものだが、「佐々木」姓は、演劇界の創作による所産である。
 以上のように、「佐々木」姓が演劇界における創作だとすれば、『江海風帆草』や『峯均筆記』が記録した「上田」や「津田」という姓の情報は、看過すべきものではない。今日では、「佐々木小次郎」以外の姓名はなきがごとき状態であるが、実は「佐々木」姓が流布する以前の早期の武蔵伝説では、「上田」や「津田」という姓があったのである。
 付け加えて云えば、巌流の佐々木姓に関して、近江の佐々木氏説が出たことがある。だが、これは巌流に佐々木姓を授与したのは歌舞伎作者である以上、それは虚構のうえに実証の城を構築する錯誤である。同様にして、ここ二十年ばかりの新説に、小次郎を豊前の佐々木氏とする説があるが、これも巌流の佐々木姓そのものが創作である以上、砂上楼閣の憶説である。いづれにしても、小次郎に佐々木姓を与えたのは何者か、ということを知れば、そのような珍説は、本来成り立たないのである。
 それよりも、筑前系伝説に出てくる「上田」「津田」という姓の情報を洗い直した方がよかろう。これについては、地元研究者の奮起を促す次第である。  Go Back






*【江海風帆草】
《此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巌流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし》






*【武公伝】
巌流小次良ハ劔客冨田勢源ガ家人ニテ、天資豪宕壯健無比》



*【沼田家記】
《延元様門司に被成御座候時、或年宮本武藏、玄信豊前へ罷越、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候》









*【二天記】
《岩流ハ佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ。英雄豪傑ノ人ナリトテ、武藏モ是ヲ惜ミシトナリ》






*【古老茶話】
《武藏、小笠原領地豊前の小倉にして、佐々木眼柳といふ劒術者、海上一嶋に渡るとて同船したる時、船中より仕合の事申出し、武藏はかいを持ながら岸にあがる》





*【敵討巌流島の役名と配役】
  佐々木巌流  (藤川)半三郎
  月本武藏之助  (坂東)彦三郎















武稽百人一首
武稽百人一首 佐々木巖流
 
 (4)長府ノ者也トカヤ
 津田小次郎は長府の者だそうな、という話である。長府は長門国、関門海峡の東にある町、現在は山口県下関市長府である。もし巌流島決闘が、『峯均筆記』のごとく武蔵十九歳のときだというのなら、時は慶長七年(1602)で、毛利秀元が長府櫛崎城へ入城した頃ということになる。
 ここで、小次郎がこの長府の者だという伝説が示されているところが注目される。つまり武蔵はどのみちこの地方にとって「異人」であるのだが、これに対し本書は、小次郎が地元の人間であることを強調するのである。
 ところが、周知の如く肥後系伝記では、小次郎は越前の人という話である。どういう経緯でこんな異伝が生じたのか、それは確かではない。ただ、肥後系伝説は『武公伝』と『二天記』の間でも活発に動いていることに注意しておくべきである。
 つまり、『武公伝』と『二天記』では話が違うのである。小次郎を越前出身とするのは、『二天記』の方であり、『武公伝』はそんなことは書いていない。『武公伝』は、《巌流小次良ハ劔客冨田勢源ガ家人ニテ、天資豪宕壯健無比》と書いて、小次郎が富田勢源の「家人」だったとするわけだが、この富田勢源が《一書ニ云、冨田勢源、仮名五郎左衛門、越前國宇坂庄浄教寺村之産也》とするのは、杲らかに『武芸小伝』から得た知識である。ところが、『二天記』はここから言わば踏み外して、小次郎を越前浄教寺村生れにしてしまう。冒頭から《岩流小次郎ト云剣客アリ。越前宇坂ノ庄浄教寺村ノ産ナリ》と書いてしまうのである。
 これは粗忽な踏み外しで、小次郎も勢源と同じく越前浄教寺村の産であるはずだ、という憶測から、『武公伝』を書き換えてしまったのである。このように『二天記』は『武公伝』から逸脱してしまうが、口碑伝説ならともかく、文字に書かれた伝記であってさえも、半世紀ほどの間にこれほど変化してしまうことに注意されたい。
 ともあれ、小次郎が越前国浄教寺村の産だという説は、自然発生的な口碑伝承の変化ではなく、まさに『二天記』の作為である。これが今なお「佐々木小次郎」の出自問題として問題にされるところであるが、そもそも発端は『武公伝』が、小次郎を富田勢源の「家人」としたことにある。この情報がどこから沸いて出たか不明だが、『武公伝』が『武芸小伝』を参照しているところからすれば、おおよその見当はつく。
 というのも、綿谷雪がかつて指摘したように、「つだ(津田)」が「とだ(富田)」へ転訛したという音韻論的変化が考えられる。口碑伝播のうちにこうした音韻変形があって、肥後に伝わったら「つだ」は「とだ」に変化していたらしい。『武芸小伝』を愛読していた肥後の武蔵流末の間で、この「とだ」は富田勢源の「富田」ではないか、ということになり、小次郎は富田勢源の家人にされてしまった。あとは、『武芸小伝』から得た知識であれこれ話のディテールが形成され、勢源の小太刀の稽古をしているうちに強くなって、云々という説話が出来上がった――という次第。
 しかも伝説はじっとしていないので、それに加えて、小次郎は越前浄教寺村の産だという説が、『二天記』の踏み外しから生じた。これら富田勢源の弟子云々という説については、長門の地元伝説ではまったく見当たらない。これは肥後で発生した伝説にすぎず、おそらく『武芸小伝』愛読者のサークルから生じた憶説である。
 これに対し、本書『峯均筆記』は、そんな富田勢源の弟子云々という話は一切なく、小次郎を長府の者とする。また、先行する『江海風帆草』の方はもっと具体的な話で、岩見の礒に一年間結跏趺坐して、波の打つのを観じ、兵法の工夫して巌流という一流を仕立てた、と記す。富田勢源の弟子どころか、磯辺に一年間結跏趺坐して一流を発明したのである。この「岩見の礒」は、我々の比定では、石見国の名勝、岩見畳ケ浦(現・島根県浜田市)。むろん越前とは無関係である。
 また『江海風帆草』には《此時上田宗入は巌流の兵法指南し、長門国に居住し》とある。ここでは「上田宗入」は長門国住人で、そこで巌流の兵法を教えていたという話なのである。ようするに、『江海風帆草』や『峯均筆記』が拾った地元下関周辺の伝説では、小次郎は長門国の住人で、越前国とも富田勢源ともまったく何の関係もない人間なのである。
 もとより、周知の如く、近年この「越前国宇坂庄浄教寺村」およびその周辺に、「佐々木小次郎」ゆかりの地ということで記念施設が開設されている。この点につき我々の所見を求める声があるので、ここでそれを申せば、――そもそも「佐々木小次郎」名がフィクションであり、また越前国宇坂庄浄教寺村の産という『二天記』の説に何の根拠もない以上、それらは無駄な事業、いわば税金の浪費である。しかし、これが小次郎小説にしか拠りどころがないとしても、それはそれで、小説の舞台として迎合しうることではある。つまりそれは、たとえば、光源氏流謫の地を示す記念碑が須磨寺に存在するのと同じことだから。  Go Back



巌流島周辺地図

*【武公伝】
《巌流小次良ハ劔客冨田勢源ガ家人ニテ、天資豪宕壯健無比。
一書ニ云、冨田勢源、仮名五郎左衛門、越前國宇坂庄浄教寺村之産也》
《小次郎、常ニ參尺ヲ以、勢源ニ對テ、粗技能アリ。因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號》

*【二天記】
《岩流小次郎ト云剣客アリ。越前宇坂ノ庄浄教寺村ノ産ナリ。天資豪宕、壯健タグヒナシ。同国ノ住冨田勢源ガ家人ニ成リ、幼少ヨリ稽古ヲ見覺エ、長ズルニ及テ勢源ガ打太刀ヲ勉ム》
《岩流ハ佐々木小次郎ト云。此時十八歳ノ由ナリ。英雄豪傑ノ人ナリトテ、武藏モ是ヲ惜ミシトナリ》








*【江海風帆草】
《此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巖流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし。此者、岩見の礒に一ヶ年結跏趺坐して、波の打を観じ、兵法の工夫して、巖流と云一流を仕立たるよし》
《武藏年長(たけ)、兵法爲執行諸國を徘徊シ、豊前小倉に下り、細川越中守忠興の城下に居す。此時中國にてハ、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住シ》



「岩見の礒」比定地;岩見畳ケ浦
 
 (5)弁之助ハ津ノ國邊ニアリ
 そのころ――巌流島決闘直前――弁之助は摂津国のあたりにいた。隨仕の輩もあったそうな、という話である。
 「津の国」は摂津国だが、摂津といっても広いわけで、摂津のどこかは不明である。『江海風帆草』には、巌流島決闘の後、武蔵は上方へ行き、兵庫に住んだとあるから、『峯均筆記』の筆者は当時の武蔵の拠点を摂津兵庫と解したのかもしれない。『峯均筆記』では後にまた、「造酒之助」を拾って養子にする逸話で、西宮や尼崎街道の名も出る。いづれにしても、摂津は播磨の隣国であり、いくつか町もある。そのあたりであろう、というわけである。
 しかるに、肥後系の武蔵伝記では、武蔵は京都から豊前小倉へやって来ることになっている。どうしてこちらが京都から来るのか、確かな話ではないが、『武芸小伝』のような文献に依存して武蔵伝を書く肥後系伝記のことだから、これにも何か典拠がありそうである。
 それで想起されるのは、『武将感状記(砕玉話)』(正徳六年・1716)である。そこには、武蔵が細川越中守忠利に仕えて、京都から豊前の小倉へ赴く時、岸流という剣術者が、下関に待ちうけて、武蔵に仕合しようと挑戦してきた、とある。『武将感状記(砕玉話)』は当時ポピュラーな読物だったから、「武蔵が京都から小倉へ来た」という肥後系伝記のプロットのソースは、あんがいこの『武将感状記(砕玉話)』の不正確な記事だったかもしれない。
 肥後系伝記はオリジナルな情報を欠いているので、『武芸小伝』の引用もそうだが、他の書物から知識を得て書いているふしが各処にある。そうした二次的な情報を有する肥後系武蔵伝記を、オリジナルの情報をもつ資料とみなすのは、大きな間違いである。
 『峯均筆記』は、肥後系伝記とは違って、武蔵は摂津国から長門下関へやってきたという。ところが同じ筑前系の『江海風帆草』では、どこからという話はなく、諸国徘徊して豊前小倉へやってきて、その城下に居住したとある。地元長門の伝説祖形は、たぶんこれであろう。なにしろ、地元長門の伝説では武蔵は敵方であり、海峡対岸の豊前に拠点を得ているのである。これに対し、小次郎たる上田宗入は、「こちら側」、長門の住人である。
 肥後系伝記では、諸国を経回して豊前小倉に落ち着くのは、小次郎の方である。肥後系伝記は、このプロットで地元長門の伝説祖形の構図を反転している。肥後系伝説が、巌流島伝説を我田引水して、さまざまな構図反転をなしていることは、以下の諸場面でも確認しうるであろう。
 加えて、『峯均筆記』がさりげなく、隨仕の輩もあったそうな、と記している点は、武士ないし兵法者の民俗として注目すべきである。近代の武蔵小説が書いているように武蔵は一人で生活していたのではなく、従者というべき隨仕の者がいた。彼らは武蔵の弟子であるとともに、身の回りの世話をする。諸方廻国の旅であっても、こういう隨仕の者を連れ歩いていたのである。
 この時代以前から、それこそ何十人という弟子集団と一緒に旅をする兵法者がいた。中には派手な身なりで一座を組んだ興行師みたいな連中もあった。『峯均筆記』の武蔵は十九歳で、それでも隨仕の徒輩がいた、という。つまり、この記述から、武蔵は十九歳でもう一かどの兵法者であったということになると解されそうだが、ここは必ずしもそういう兵法者流の生活とみるまでもない。ある程度の武士ならば、隨仕の徒輩を伴っているのが普通だったのである。  Go Back


*【江海風帆草】
《武藏ハ其後上方におもむき、兵庫に弐年あまり居住す。夫より明石小笠原右近将監の家に有着て住す》




*【武公伝】
《(小次郎は)武者修業ヲシテ諸國ヲ經囘、豐前國ニ到ル。太守細川忠興公、其術ヲ称美シタマイ、暫ク小倉ニ駐ル。武公、從都來[慶長十七年壬子二十九歳]故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰…》

*【二天記】
《(小次郎は)諸國ヲ經囘シテ、名高キ兵法者ニ會シ、数度ノ勝負ヲ決スルニ、勝利不失。斯テ豐前小倉ニ至ル。太守細川三齋翁忠興公聞シ召テ、小次郎ヲ停メ置キ玉ヒテ、門弟出來テ指南アリ。于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]》

*【武将感状記】
《宮本武藏ハ二刀ヲ好ム。細川越中守忠利ニ仕テ、京師ヨリ豊前ノ小倉ニ赴ク時、岸流ト云劔術者、下関ニ待テ、武藏ニシアヒヲセント云遣ス。武藏心得ヌトテ…》

*【江海風帆草】
《武藏年長(たけ)、兵法爲執行諸國を徘徊シ、豊前小倉に下り、細川越中守忠興の城下に居す。此時中國にてハ、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住シ》

 
 (6)小次郎、無二ニ試闘ヲ望ム
 ここは、なぜ両者は巌流島で決闘をするに至ったのか、という因縁話である。それが何と、小次郎は武蔵の父・無二に試合を挑んだ、という話なのである。これは、小倉碑文の対吉岡戦記事の一種の後日談、もしくはパロディとして機能しているのが面白いところである。
 すなわち『峯均筆記』によれば、小次郎は武蔵の父・無二に挑戦した。ところが、無二はどうしても試合を承諾せず拒んだ。そのわけは、巌流に仕込剣の木刀があり、これに怖れて無二は辞退した。そういう、もっぱらの噂があったので、武蔵はこれを伝え聞いて、「これは仕方がない。おれが行って勝負を決しよう」と、長門へ下った、という話なのである。
 ここでいう「仕込剣の木刀」は、振ると短い刀が飛び出す仕掛けの仕込杖のことであろう。『峯均筆記』の後の部分に、――巌流の秘伝の太刀に、水車に振る事を第一とする。仕込剣も水車に振って、敵合い当たる度に、激しく剣を振り出し、手裡剣の如く飛ばし、つけ入っては木刀で打ちつけるという解説を入れている。
 しかし、『江海風帆草』には、「仕込剣の木刀」などという話はない。三尺一寸の青江の刀を差し、木刀を手に持ち、とあるだけで、この木刀が「仕込剣の木刀」であるという記述はない。これは『江海風帆草』以後数十年の間に、筑前で伝説変態による増幅があったということだろう。
 しかし云うべきは、『峯均筆記』の無二の扱いである。『峯均筆記』は、無二に対し、あまりよい扱いをしない。武蔵伝記冒頭の、息子弁之助を家から追い出す無二の記事も同じスタンスであるが、ここでは、無二が小次郎の仕込剣を恐れて試合を避けた、それで、その噂を伝え聞いた息子の武蔵が「では、おれが」とやって来るという話。ようするに、『峯均筆記』の記事では、無二はあまり大したことがない兵法者なのである。
 これに対し、同じ筑前系伝説でも『江海風帆草』の話は違う。武蔵は豊前小倉に来たって居住、そして上田宗入は長門住人、というところまでは既述のごとし、そしてまず、宗入が武蔵の兵法を誹謗した、そのうえ《父無二と宗入、兵法の遺恨もありければ》とある。
 とすれば、宗入が武蔵の兵法を誹謗したという点は別にして、無二と宗入の二人の間にあった「兵法の遺恨」とは何か。しかしそれについて語られているわけではない。だいたい決闘仕合というものは、勝っても負けても恨みっこなし、とするのが約束である。にもかかわらず、《父無二と宗入、兵法の遺恨もありければ》という『江海風帆草』の伝説が仄めかしているのは、かつて無二が宗入に負けた、ということである。
 これは、おそらく地元長門の伝説であっただろう。つまり、父無二が宗入に負けたのを、武蔵は遺恨に思い、いわば不当にも遺恨があって宗入に挑戦した、という武蔵に対するネガティヴな色づけである。そういう伝説内容が意味を稀釈されて、《父無二と宗入、兵法の遺恨もありければ》という表現で『江海風帆草』に記述されたのである。
 これに対し、『峯均筆記』の伝説では、無二は小次郎との対戦を避けた、不甲斐ない父という像を構成する。つまり、伝説祖形では、兵法の遺恨は、武蔵を非難するネガティヴな意味だったが、『峯均筆記』では、小次郎から逃げたと、無二を貶める方向=意味へ改組されている。
 なにゆえ、ここまで無二に対する扱いがひどいのか。これは無二が遺したという無二流兵法、なかでも二刀術に対する対抗意識がかなり強いようである。しかしそれにとどまらず、武蔵を偉大な元祖と仰ぐ気持ちが強すぎて、その父親への敬意はどこへやら、逆に無二を矮小化し貶める傾向がある。『峯均筆記』では、無二の弟子・青木條右衛門もさんざんな仕打ちを受けている。
 かくして「英雄の父親」の常道として、無二は、まさに《impotent father》(不能なる父親)の役割を担わされる。というわけで、小次郎の挑戦を受けて立つのではなく、彼との対決から逃げる無二という《impotent father》の姿が強調される。そこで、「偉大な息子」たる武蔵が、「しようがないなあ。では、おれがやってやるか」と、わざわざ摂津から下ってくる。これが巌流島決闘のそもそもの発端であるというわけである。
 もう一つ筑前系の伝説例を挙げれば、立花峯均の孫弟子にあたる丹羽信英の『兵法先師伝記』の記事である。それによれば、――津田小次郎が豊前へ徘徊してきて、無二之助と試闘した。ある時は小次郎が勝ち、ある時は無二之助が勝って、だいたい勝負互角だった。それを、武蔵がもどかしく思ったのか、自ら試闘を望んだとある。
 こちらは、勝負互角だったというのだから、つまり、小次郎と無二之助が勝負して決着がつかなかったのを、息子の武蔵が登場して決着をつけた、という筋書をみると、意味づけは稀薄になっているが、それでもやはり、『峯均筆記』が敷設した《impotent father》の路線は踏襲されているのである。
 『峯均筆記』の記事に話をもどせば、無二は小次郎との対戦を避けたというのだが、無二が小次郎と対戦しなかった、ということだけは事実である。実際、すでに述べたように、無二は天正年間に死んでいるから、亡霊でもない限り小次郎とは対戦できないわけである。言い換えれば、「自分が死んだのも知らない」父親、亡霊としての無二がこの説話の中で、再三復活するのである。これは、無二が慶長以後まで延命し、絶えずあちこちの「史料」に顔を見せるのも、同様なシーンである。しかも今日の武蔵評伝の中で、ますます無二の亡霊は徘徊するようになっているのである。
 ところで、肥後系の武蔵伝記では、このあたりはどうなっているか。肥後系武蔵伝記には、親子二代の因縁試合、無二がらみの因縁譚はない。あるとすれば、細川家家老・長岡興長がかつて無二の門弟だった、という怪しげな話であり、そういう縁があって武蔵が、小次郎に挑戦させてくれ、と長岡興長に頼むのである。『武公伝』を種本にした『二天記』でも基本的に同様の話である。
 つまり、肥後系伝記二書では、小次郎は豊前太守・細川忠興(三斎)の称美を受け、小倉に住んで兵法指南をして門弟もある。そこへやって来た武蔵が、(興長と無二の縁をつてに)「剣術奇絶」という噂の小次郎に挑戦させてくれ、と頼むのである。
 肥後系伝記では、細川忠興や長岡興長が登場するが、これは巌流島決闘という有名な事件を、豊前小倉側へ我田引水した結果生じた話である。肥後系の巌流島伝説は、筑前系と比較すれば、かなり新規設定が多い。むろん、こんな細川家がらみの設定は『峯均筆記』にはない。  Go Back










*【丹治峯均筆記】
《巖流ガ秘傳ノ太刀ニ、水車ニ振事ヲ專トス。仕込劔モ水車ニ振テ、敵間アタル度ニ、至ツテ劔ヲフリ出、手裡劔ノ如ク飛バシ、附入リテ木刀ニテ打ツクル事トイヘリ》


*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳〔胴着〕の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる》







*【江海風帆草】
《武藏年長(たけ)、兵法爲執行諸國を徘徊シ、豊前小倉に下り、細川越中守忠興の城下に居す。此時中國にてハ、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住シ、武藏が兵法をさミす。武蔵ハ、父無二と宗入、兵法の遺恨も有ければ、ことにやすからず思ひ、仕合を互に望ミ、両方此嶋に出合べきよし云合す》





















*【兵法先師伝記】
《此時兵法ノ名誉世ニ廣キ津田小次郎ト云人アリ。此流義ハ巌流ト号ス。此比豊前國ヘ徘徊セシガ、無二之助ト知ル人ニテ、折々互ノ試闘アルニ、或時ハ小次郎勝、或時ハ無二之助勝レテ、勝負大方牛角ナリシヲ、先師モドカシク思ワレケン、小次郎ニ自ラ試闘ヲ望レケル》


*【武公伝】
《(小次郎は)武者修業ヲシテ諸國ヲ經囘、豐前國ニ到ル。太守細川忠興公、其術ヲ称美シタマイ、暫ク小倉ニ駐ル。武公、從都〔都より〕來[慶長十七年壬子二十九歳]。故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰[興長嘗〔て〕武公ノ父無二ノ門弟ナリ]、「曾テ聞、小次郎劔術奇絶ナリト。庶幾我手技ヲ比ン事、申出ハ、家父無二ガ故アリ、因テ憑ミ奉者也。謹デ願フ、(聴)達セラレン事ヲ」ト。興長主應諾シテ、武公ヲ私第ニ留メ、即沙汰ニ及》

*【二天記】
《(小次郎は)諸國ヲ經囘シテ、名高キ兵法者ニ會シ、数度ノ勝負ヲ決スルニ、勝利不失。斯テ豐前小倉ニ至ル。太守細川三齋翁忠興公聞シ召テ、小次郎ヲ停メ置キ玉ヒテ、門弟出來テ指南アリ。于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]。長岡佐渡興長主ノ第ニ至ル。興長主ハ其父無二之助ノ門人也。其ノ故ニ因テ來ルナリト。曾テ興長主ニ請テ曰、「岩流小次郎、今此ノ地ニ留リヌ。其術奇ナリト承ル。希クバ吾手技ヲ比ベンコトヲ。公ハ無二ガ故縁有リテ、憑ミ奉ル者也」ト謹テ願フ。興長主應諾アリテ、武藏ヲ留テ、忠興公御聴ニ達シ》

 
 (7)小次郎ハ國人、弁之助ハ旅人
 ここは巌流島決闘に至る直前の経緯である。小次郎は地元長門の国人、弁之助は他所者の旅人、つまり異人(stranger)である。『峯均筆記』では、先に長府の者だという話が出たが、一貫して小次郎は長門の人間である。この点、諸国を経巡って豊前小倉にやって来た小次郎、という肥後系伝記の設定とは異なっている。また、この段の舞台が、小倉ではなく下関で進行しているところも、違うのである。
 さて、小次郎は地元の人間、武蔵は他所者の旅人、という構図が強調されている。そこで武蔵は、どうしても小次郎の方から試合を望んだ恰好にしなければならない、というわけである。注意すべきは、この地元伝説では、あくまでも善玉は小次郎で、悪玉は武蔵なのである。すなわち、『峯均筆記』の前にあった伝説祖形は、他所者の武蔵が小次郎に対し無礼な言動に及び、それに怒った小次郎が、決闘しようと言い出した、とするものであろう。
 『峯均筆記』によれば、武蔵は、どのようにして小次郎に挑戦させたか。小次郎の門弟の面前をも憚らず、「おれが小次郎と試合したら、まさに蛙の頭を押し潰すように、たった一撃で粉砕してやるぞ」と云ったので、小次郎はこれを伝え聞いて、「若輩なる弁之助が過言千万、そのままにしてはおけない」と、小次郎の方から試合を要求した、というわけである。
 ここでは小次郎の方が年長で、武蔵はやはり十九歳の若者で、「若輩なる弁之助」という言い方にそれが反映されている。しかし、年長の小次郎の方から若輩なる武蔵に挑戦するというのは、もちろん無理のある設定だが、その無理は、伝説祖形に、他所者の武蔵が小次郎に対し無礼な言動に及び、それに怒った小次郎が、決闘しようと言い出した、という話があったのを、そのまま保存したからである。
 それで、いったん武蔵は一応は断りを申す。――これは、儀礼的辞退ということだが、説話分析からすれば、これは無二の回避行動の反復でありパロディである。しかし、小次郎が強いて望むゆえ、「さらば、お望みに任せよう」と、なったというわけで、まんまと小次郎は武蔵の計略にひっかかった。
 こういう騙しは民話伝説の常套手段である。敵役はどんなに強くても、どこか馬鹿で抜けているということである。したがって、この説話素の局面では、すでに長門の伝説祖形を離れ、筑前での伝説変成があったということである。
 というのも、『江海風帆草』では、――宗入は、武蔵の兵法をけなした。武蔵は、父無二之助と宗入との間で兵法の遺恨もあったので、これはそのままにはしておけないと思い、宗入と仕合することを望み、両者は、この島で決闘することを約束した。――とあって、話がかなり違うからである。武蔵は、宗入から兵法をけなされ、そのうえ、父と宗入との間で兵法の遺恨もあったから、武蔵の方から、勝負を挑んだ。すでに、『江海風帆草』の段階でこういう話になっていたのが、『峯均筆記』ではさらに伝説内容が変異しているということである。
 それで、下関で勝負を決しようとなった。繰り返せば、『峯均筆記』版巌流島対決の舞台は、あくまでも長門側なのである。これは『江海風帆草』でも同じ。ところが、地元の者が決闘を許さない。そんな物騒なことは迷惑だから、どこか別の場所でやってくれ、ということ。このため、「あの島へ渡って勝負しよう」と約諾して、長門と豊前の境にある舟嶋ヘ渡った。
 この境界に位置する島というのが、まさに「無縁」の場所である。これは京の吉岡一門との決闘で、たとえば蓮台野などという地名が出るのと同じく、どこにも属さない公界・無縁のスポットが、こんな決闘仕合の場所になっていたのである。
 もうひとつ、ここで注意すべきは、反復という説話論的構造である。つまり、小次郎は最初、無二に対し挑戦した。そして今、再び無二の代理(substitute)としての武蔵に挑戦することになったのである。しかし本当は、武蔵が小次郎に挑戦することを隠蔽する計略によって、小次郎は挑戦させられたのであり、いわば小次郎は武蔵の行動を代理してしまう。そうしてこの説話論的反復のシーンに、無二(の亡霊)が《impotent father》として呼び出されている、というのは既述の通り。亡霊は説話論的反復のための基本装置である。
 ところで、『峯均筆記』ではこれが決闘直前の話なのだが、ご存知のように、肥後系伝記ではまったく話が違っている。つまり、まず舞台は九州側の豊前小倉である。
 肥後系伝記では、小次郎は細川三斎お気に入りの兵法者で、小倉で教え門弟も多数いる。これに対し武蔵は、地元小倉には無縁の者で、わずかに父無二の縁で家老の長岡興長にコネがあって、小次郎と仕合させてもらう、という頼りない立場。ところが、ここから巌流島決闘に至るまで一つエピソードが挿入されているのだが、それがかなり長い逸話なのである。
 つまり、武蔵は小次郎との仕合を承認してしてもらい、場所日時も決まり、小次郎は三斎の舟で、武蔵は興長の舟で行く、ということまで決まったのだが、武蔵はその夜忽然として姿を消す。そこで、武蔵は小次郎の強さに恐怖して敵前逃亡したのではないか、という噂も出るほどで、間に立った長岡興長も困り果てる、という次第。
 しかしこの設定も、『峯均筆記』と照合すればわかることだが、無二が小次郎との対戦を避けた、逃げたという説話素の変形なのである。言い換えれば、二つの異なるヴァージョンの伝説は、横断してみれば、対岸での出来事を主語を替えて反復する。
    「無二が小次郎から逃げた」
    「武蔵が小次郎から逃げた」
 ようするに、「無二が小次郎から逃げた」は「武蔵が小次郎から逃げた」という形態で両者は説話素を共有している。ということは、「武蔵が小次郎から逃げた」という説話原型が長門側伝説にあり、それが抑圧されて、かように変形をこうむっているのである。その変形の結果は、むろん『峯均筆記』と肥後系伝記では異なっているため、異説を生じている。
 そうして肥後系伝記によれば、長岡興長の、「武蔵は逃げたのではない。逃げるつもりなら、もうとっくに逃げているはずだ。武蔵はきっと下関に行ったに違いない」という推測の通り、下関へ舞い戻っていたのである。
 ここでついでに、以上の説話の分岐を整理してみれば、

  峯均筆記 肥後系伝記
小次郎 長門 国人 豊前 小倉
武 蔵 旅人 異人 長門 下関
前段舞台 長門 下関 豊前 小倉

 ここでも、『峯均筆記』と肥後系伝記の対照性は明らかである。小次郎は「長門」ではなく「豊前小倉」におり、武蔵が「長門」に場所を占めるのである。対岸をなすこの対立ポジションの反転もまた、二つの異なるヴァージョンの伝説を横断する説話論的差異なのである。
 武蔵は小倉から長岡興長の舟に乗って出ることになっていたのに、なぜ下関へ渡って単独行動するのか。その理由は、小次郎が殿様の舟で行く、とすれば武蔵が小次郎に勝つと、殿様の立場がないし、それより家老興長の立場が悪くなろう、といういささか物語が出すぎた成り行きである。むろん説話は肥後でかなり発展したというまでで、「武蔵が小次郎から逃げた」という説話素がここまで変形拡張されたということである。
 ところで、肥後系伝記のうち先行する『武公伝』の方は、武蔵が下関に渡って単独行動するという理由の弁明を、興長の使いに対し口頭でするのに対し、後行の『二天記』の方は、興長への武蔵書簡を提示する。
 つまり、『武公伝』にはなかった武蔵の手紙が何処かから沸いて出たものらしく、『二天記』はそれを日付入で収録するのである。この日付によって、巌流島決闘の日まで特定されるのであるが、もちろん『武公伝』にはなかった武蔵の手紙が出てくるというのも奇怪なことで、伝説流通段階でどこかから沸いて出たのである。
 かくして、武蔵は逃げずに下関から巌流島へ行くという段取りになったが、その後も肥後系伝記は、翌朝になっても延々遅滞して、武蔵の遅刻を述べる。要するに『峯均筆記』の、
   「武蔵は小次郎を計略ではめる」
という説話素が、ここでも反復されるわけだ。武蔵の計略は『峯均筆記』では、小次郎に挑戦させるように仕向けることだが、肥後系伝記では、決闘に遅刻し小次郎を厭というほど待たせることである。一方対照的に、「武蔵は小次郎を計略ではめる」という説話素をすでに完了している『峯均筆記』は、武蔵が小次郎を待たせるどころか、まったく逆に、武蔵の方が先に到着してしまう話になっている。こうして見れば、かなり対照的な説話内容を有するこれら二つのヴァージョンは、基本的に説話素を共有し、構造的相同性を有するのである。  Go Back











巌流島周辺地図











*【江海風帆草】
《此時中國にてハ、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住シ、武藏が兵法をさミす。武蔵ハ、父無二と宗入、兵法の遺恨も有ければ、ことにやすからず思ひ、仕合を互に望ミ、両方此嶋に出合べきよし云合す》
















*【武公伝】
《武公、從都〔都より〕來[慶長十七年壬子二十九歳]。故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰[興長嘗〔て〕武公ノ父無二ノ門弟ナリ]、「曾テ聞、小次郎劔術奇絶ナリト。庶幾我手技ヲ比ン事、申出ハ、家父無二ガ故アリ、因テ憑ミ奉者也。謹デ願フ、(聴)達セラレン事ヲ」ト。興長主應諾シテ、武公ヲ私第ニ留メ、即沙汰ニ及、終ニ忠興公ニ達シ、其日ヲ極テ、於小倉之絶島[向島ト號、又曰舟島。今亦曰巌流嶋。豐前ト長門之際。小倉ヨリ舟行一里、下關亦同里數ナリ]勝負ヲ決セシム。前日府中ニ令トシテ贔屓及ビ遊観ヲ禁止ス。其號令最モ嚴重ナリ。興長主、即武公ニ言テ、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ巌流ト會セン事ヲ諭〔つげ〕、且ツ小次郎ハ御舟、武公ハ興長ノ舟ニテ可遣ト也。武公喜色面ニ見〔現〕レ、願望相達セン事ヲ謝ス。然ニ、夜來武公頓ニ去テ蹤ナシ。遍ク府中ヲ尋求ルモ、不見。皆曰、「彼レ此間逗留ノ中、巌流ガ慓捷超絶ナル事ヲ聞テ、恐懼シ逃タリ」ト。興長主モ如何ントモ無仕方、茫然トシ臍ヲ噛ニ至ル。稍ク夜半ニ至リ、家士ニ命シテ曰、「ツラツラ按ズルニ、彼レ若恐テ逃(る)ナラバ、何ゾ今日ヲ待ン。何ソ心持在ラン。彼サキニ下關ニ着テ翌日爰ニ來シハ、多分下關ニ到テ夫ヨリ向島ニ往ン事必セリ」ト、急ニ飛脚ヲ馳ス。果シテ下關ニ在[問屋小林太郎右衛門]》

*【二天記】
《于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]。長岡佐渡興長主ノ第ニ至ル。興長主ハ其父無二之助ノ門人也。其ノ故ニ因テ來ルナリト。曾テ興長主ニ請テ曰、「岩流小次郎、今此ノ地ニ留リヌ。其術奇ナリト承ル。希クバ吾手技ヲ比ベンコトヲ。公ハ無二ガ故縁有リテ、憑ミ奉ル者也」ト謹テ願フ。興長主應諾アリテ、武藏ヲ留テ、忠興公御聴ニ達シ、其ノ日ヲ定メ、小倉ノ絶島ニ於テ、勝負ヲ決セシム。[向島ト云、又舟島トモ云、今又岩流島ト云。豐前ト長門ノ境、小倉ヨリ舟行一里、長門下ノ關ヨリモ同里数ナリ] 扨テ前日府中ニ觸有テ、此度双方勝負ノ贔屓及遊覧ヲ禁止アリ。興長主武藏ニ曰、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ、岩流小次郎卜仕合致スベキ由ヲ諭ス。小次郎ハ忠興公ノ船ニテ差越サルベシ、武藏ハ興長船ニテ致度也ト。武蔵、喜色面ニ顕レ、願望達セシコトヲ謝ス。然ルニ其夜武藏去テ迹ナシ。遍ク府中ヲ尋レドモ、行衛不知。皆云ク、「渠レ此間逗留ノ内、小次郎ガ技術妙術ナレコトヲ聞及、臆シテ逃タリ」ト云フ。興長主モ如何トモ爲カタク、茫然トシテ臍を噛ニ至ル。稍有テ興長主家士ニ命ジテ、「我ツラツラ是ヲ按ズルニ、渠レ懼レテ逃ルナラバ、何ゾ今日ヲ待タン。察スルニ渠心持有ルコトナラン。先ノ日下ノ關ニ着テ、翌日爰ニ來レリ。定メテ下ノ關ニ至リ、夫レヨリ向島ニ往カンコト必セリ。急ギ飛脚ヲ立ベシ」トナリ。則チ飛脚下ノ關ニ至リ見レバ、果シテ問屋小林太郎左衛門ト云者ノ所ニ有リ》

 
 (8)辨之助ハ小次郎ヨリ先ニ渡海セリ
 肥後系伝記、とりわけ『二天記』から明治の顕彰会本を媒介にして生じた今日の通説では、武蔵は遅刻して小次郎を待たせたことになっているが、本書『峯均筆記』では、武蔵が小次郎に対し先着したとする。
 肥後系伝記によれば、武蔵は二時間以上の遅刻と話は具体的だが、この具体性に信憑性があるわけでもない。ただし、すでに何度か指摘しているように、この二つのヴァージョンの武蔵伝記では、さまざまな説話素において対照的であり、ここでも、
   「武蔵の方が早く到着して、小次郎を待った」
   「武蔵が遅刻して、小次郎が待たされた」
という正反対の話になるのである。しかし、これはどちらが正しいか、などと問うのは、愚の骨頂である。おそらく、小次郎に心情的に加担する地元長門の伝説では、武蔵は自堕落で寝過ごし、しかも勝負に臆してグズグズしていた。それでも約束だから仕方ないので、しぶしぶ決闘に臨んだ、という話だったろう。その話の痕跡が、あえて遅刻する武蔵、という形態で、肥後系伝説に残ったというわけである。
 肥後系伝説では、武蔵の遅滞行動は、そのネガティヴな意味が換骨奪胎されて、それは武蔵の一計だ、というポジティヴな意味内容に転化する。ようするに、『峯均筆記』の、「武蔵は小次郎を計略ではめる」という説話素が、ここで姿を変えて反復されている。
 ところが、さらに続いて同じく対照的な話は、この決闘が行なわれた季節である。『峯均筆記』は「十月」とするのに対し、肥後系の伝記では『武公伝』は何月という記事を欠くが、『二天記』ではこれを「四月」とする。つまり時期は半年のずれがあり、『峯均筆記』は出来事を、十月つまり初冬のこととするのに対し、『二天記』によればこれが初夏のことなのである。
        初 冬 × 初 夏
 これも構造的対照性に極めて忠実な正反対の設定であって、説話論的にみれば興味深い。ただ、念のため注意しておけば、正しいのはどちらか、などと問わないことだ。そもそも、決闘時期は、『峯均筆記』が武蔵十九歳、肥後系伝記が武蔵二十九歳と、十年の差異がある。史実を知りたいというナイーヴな希求は、全く逆のシーンを数々生んだこの巌流島伝説の派生運動に翻弄されるだけであろう。
 さてここで、武蔵の衣装に話題が移る。武蔵の衣装は、旧暦十月、初冬の肌寒い季節のこととて、下には小袖を着し上に袷を着て、という恰好である。小袖の上に袷を重ね着していたということになる。袷を着込んでいるから冬の衣装である。季節の衣装合せとしては、肥後系伝記の初夏よりは、『峯均筆記』の初冬の方が妥当である。
 ところで、『江海風帆草』では、武蔵その日の装束は――、という調子である。つまり、ここで注意したいのは、『平家物語』の口説に、「木曽殿、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧着て」とあるのと似て、語り物の様子が伺えることである。言い換えれば、『江海風帆草』の記事の背景には、すでに語り物になっていた巌流島決闘譚があったということ、そして『江海風帆草』はそれを採取しているのである。
 さて、『江海風帆草』には、「繻子のぢはんをこはぜがけにして着ていた」とある。「ぢはん」というのは襦袢。周知のように、これは和装用語で現代にまで残っている下着・肌着の類だが、もとはポルトガル語(gibao)からきている。それを「こはぜ(小鉤・鞐)がけ」にして着ているという。これは南蛮風のファッションである。慶長当時の武士は派手な南蛮ファッションが好みだった。そういう状況だから、武蔵の南蛮ファッションは当然ありうるし、『江海風帆草』の「繻子のぢはんをこはぜがけにして着ていた」という武蔵の扮装は異とするに当らない。
 次に、武蔵が下半身に穿いていたのは「カルサン」である。これは、「軽衫」という当て字をしているが、もとはポルトガル語であり、カルサンは乗馬ズボンに似たものである。南蛮屏風にこのカルサン姿のポルトガル人などが描かれているのを見ればわかる。これが取り入れられて、近世初期以来、旅装や作業着として広く用いられるようになったのである。また、これに似た立附〔たっつけ〕というのは、立附袴。裾部を紐で膝下でくくりつけ下部が脚絆という組み合わせにしたもので、これも袴の一種である。「カルサン」と区別なしに使われることがある。
 かくして『峯均筆記』では、武蔵の衣装は小袖に袷の重ね着、下はカルサンである。これに対し肥後系伝記では、襷や鉢巻という『峯均筆記』にない小物が登場するが、それよりも注目されるのは、『武公伝』が云うように、このカルサン着用説を否定していることである。その代わりに出てくる語が「裳」なのである。裳は本来、腰に巻きつけるスカート状のもので、それを武蔵が着用したというのである。それで、戦闘に及ぶとき、「裳を高くかかげ」という古典的な表現になる。しかしこれは一種の雅語表現で、袴のことを裳と記したにすぎない。ようするに武蔵は袴を着用していたということである。これは慶長期の決闘ファッションとは思えない。
 もう一つ、肥後系伝記で注目されるのは、『武公伝』によれば、武蔵が舟で渡海のとき綿襖で身を覆い、伏せていたという、とうてい夏とは思えぬ記事である。『二天記』ではただの「綿入」にしてしまって、意味が希薄になっているが、これはたんに身体を冷やさぬウインドブレーカーにしたということではなく、いわば神話的所作なのである。つまり、天孫降臨の際の真床襲衾の故事がここに反響しているのである。武蔵はあたかも幼児として降臨する神の如く、渡海してくる異人という恰好である。
 武蔵の衣装について筑前系と肥後系の伝記の差異は対照的だが、小次郎の衣装となると、その対照ぶりは極端である。『峯均筆記』は小次郎の衣装についてカルサン着用しか記さないが、肥後系伝記は、猩々緋袖無羽織・(染皮)立附・草鞋と記述は具体化する。
 小次郎の衣装は、殿様の舟で来たという設定に合わせて、少しゴージャスにしてある。小次郎の袖無羽織も『峯均筆記』にはない記事であるが、袖無羽織とはたんに袖がない羽織というものではなく、戦陣で具足の上に着用した胴服であり、戦場ファッションである。具足羽織とも云い、多くは袖無であったので袖無羽織という。
 小次郎のこのファッションは、むしろ『江海風帆草』の記事にやや近い。つまり、八徳の下に筒丸の具足を着用というから、この「八徳」は具足羽織と互換性がある語である。ただし、『江海風帆草』の記事では、若々しい武蔵の南蛮ファッションに対し、対戦相手の方はおよそ古典的な、具足に八徳を羽織るという扮装にさせているわけだ。
 肥後系伝記では、小次郎の袖無羽織の色が猩々緋であるという。もちろんこの猩々緋には能「猩々」への参照があり、そこでは猩々は赤ずくめの装束であるが、猩々の顔は酒に酔って赤いという含意があり、さらに、猩々を捕らえてその血を取って染めた色を猩々緋と呼ぶとの伝承の反響もある。したがって、ここで登場する猩々緋という色には、単に派手だという以上に、おぞましい不吉な何かがある。いわば小次郎の衣装は、決闘の前にすでに血の色なのである。猩々緋とは威嚇する色である。
 もちろん、のちの筑前系伝記『先師兵法伝記』では、衣装の緋色が強調されているのは、武蔵の方である。《緋むくの下着に上に黒羽二重の衣裳に皮のカルサンを着し、緋純子の胴肩衣に上帯して》という、派手なものである。申すまでもなく、こんな話は『峯均筆記』の時代にはない。『先師兵法伝記』は『二天記』と同時代の十八世紀後期の武蔵伝記である。
 しかしながら、肥後系の『武公伝』の記事で問題なのは、小次郎の猩々緋の羽織について、《或云、立孝公ヨリ拝領也ト》という注記をされていることである。従来看過されて指摘されたことがない点だが、これは妙な話である。
 細川立孝(1615〜1645)はその生年からすれば、肥後系伝説の語るごとく巌流島決闘が、かりに慶長十七年(1612)の出来事だったとしても、そのとき彼はまだ生まれていない。生まれていない者から、羽織を拝領することはできないから、これは後世肥後で発生した誤伝だと知れる。肥後系伝記は、このようにしばしば馬脚を露呈するので、ある意味で読んで面白いテクストなのである。  Go Back



*【武公伝】
《扨翌朝ニナリ、日高ル迄武公鼾睡シ不起。亭主太郎右衛門、早辰ノ刻ニ及由告ル處ニ、小倉ヨリ又飛脚到來、時刻延引之段追々告來ル事頻シ數ニ及ビヌ。武公漸ク起テ朝飯ヲ喰、太郎右衛門ニ乞テ艪ヲ以テ木刀ヲ削リ出、梢人ハ即太郎右衛門ガ家奴也。漸巳ノ刻ニ及コロヲイ、舟嶋ニ到リ》

*【二天記】
《扨翌朝ニナリ、日高クナル迄武藏寝テ不起。亭主太郎左衛門ハ無心元思ヒ、辰ノ刻ニ及ベリト起シ告ル處ニ、飛脚小倉ヨリ來リ、般渡ノ由ヲ武藏ニ告ル。武藏無程參リ申可由返答シ、手水シ飯ヲ仕舞ヒ、亭主ニ請テ櫂ヲ以テ木刀ヲ大キニ削ル。其内飛脚又來リ、早々可渡申急告ル。武藏ハ絹ノ袷ヲ着テ、手拭ヲ帯ニハサミ、其ノ上ニ綿入ヲ着テ、小船ニ乗テ出ル。舟人ハ太郎左衛門ガ家奴也。(中略)漸ク巳ノ刻過ギニ武藏向島ニ至リ》















*【平家物語】
《木曽殿、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧着て、五枚甲の緒を締め、いか物作りの太刀を佩き》(巻之九)

*【江海風帆草】
《武藏、其日の装束ハ、繻子のぢはんを、こはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之》



南蛮屏風 神戸市立博物館蔵
南蛮屏風のカルサン


*【武公伝】
《棹ヲ停テ淺汀ヲ渉ル事數十歩、武公帯ニ挿ム所ノ手巾ヲ以テ一重ノ鉢巻ニシ、袷衣ヲ着[武公皮ノ立附ヲ着ト云ハ非ナルカ。定員云、或人白皮ノ袴ヲ着ト云、岩流ガ時ニ皮ノハカマヲ切ト云々]、舟中ニテ紙線ヲ作テ襷トシ、其上ニ綿襖ヲ襲テ舟中ニ伏ス。(中略)襲所ノ綿襖ヲ脱、短刀ヲ差、裳ヲ高ク褰テ脛ヲ見〔現〕シ、木刀ヲ堤ゲ跣デ淺汀ヲ渉リ來リ》

*【二天記】
《武藏ハ絹ノ袷ヲ着テ、手拭ヲ帯ニハサミ、其ノ上ニ綿入ヲ着テ、小船ニ乗テ出ル。(中略)船中ニテ紙線ヲシテヲカケ、右ノ綿入ヲ覆テ伏ス。(中略)島ノ洲崎ニ船ヲ滞メテ、覆ヒタル處ノ綿入ヲ脱ギ、刀ハ船ニ置キ短刀ヲ差テ裳ヲ高クカヽゲ、彼木刀ヲ提ケ、素足ニテ船ヨリ下リ、淺汀ヲ渉ルコト数十歩、行々帯ニハサム手拭ニテ一重ノ鉢巻ス》


*【武公伝】
《小次郎ハ猩々緋ノ袖無羽織[或云、立孝公ヨリ拝領也ト]ニ立附ヲ着、草鞋ヲ履》
*【二天記】
《小次郎ハ猩々緋ノ袖ナシ羽織ニ、染革ノ立附ヲ着シ、ワラジヲ履ミ》

*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる》

猩々緋


*【兵法先師伝記】
《其日ニ至レバ、先師櫓ノ木ヲカタク削リノケ、櫓ノ刃ヲ以テ木刀ノ刃トシ、柄ノ所ヲ持ヨキ様ニ削リナシ、柄七寸、刃二尺五寸ニ拵ヘ、常ノ木刀ノ小太刀ヲ左ニ持、装束ハ、緋ムクノ下着ニ上ニ黒羽二重ノ衣裳ニ皮ノカルサンヲ着シ、緋純子ノ胴肩衣ニ上帯シテ大小ヲ指、小舟ニ乗リテ嶋ニ渡ラル》

 
 (9)舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ
 巌流島決闘で使用された武器道具の話である。『峯均筆記』は、かなり具体的に武蔵の道具を記している。つまり、舟の櫂を長さ四尺(120cm)に切って作ったもので、それだけではなく、刃の方に二寸釘を隙間なくぎっしり打ち込み、握りの所に(滑り留めに)鋸目を入れたものだという。もう一つは、小太刀で、これは皮のついたままの手ごろの木の、握りの所だけ皮を削り取ったものである。つまり、『峯均筆記』では、武蔵は大小二つの木刀を用意したという話である。肥後系伝記でも武蔵の道具は木刀で、これを舟の艪または櫂で作ったとする点も同じである。
 小倉碑文によれば、岩流が「真剣で雌雄を決しようではないか」と云い、武蔵がこれに対し、「そなたは白刃〔真剣〕を揮って、その妙を尽くせ、おれは木戟を提げてこの秘を見せよう」と答えた。両人は堅く契約を結んだ。そして舟嶋で両雄相会し、岩流は三尺の白刄、命を顧みず術を尽くしたという。ここには、武蔵は木戟(長い棒杖)を用いたことだけが記されている。舟の櫂や艪で木刀を作ったという説話素はまだ出現していない。
 そこで、武蔵が巌流を倒した木刀が、櫂あるいは艪で作ったものだという説話素の由来は、まさにこの伝説の場所、つまり海岸部という地域性を反映していると考える必要がある。
 すなわち、櫂が海辺の民の戦闘武器として使用されたという伝統的事実がある。水主集団の戦闘には彼らがいつも手にしている櫂が武器になる。武蔵が巌流を倒した木刀が説話論的レベルで流通するには、それが物神化されるという条件が不可欠なのだが、そこには地域生活と縁の深い道具との関連性が織り込まれるのである。
 これは、武蔵が巌流を倒したその木戟が物神化されるという事情からくるものであって、そのように物神化された木戟が、たんに木製ではなく、説話論的レベルでは、その素材が地域に縁の深い製品であらねばならぬかのようである。
 かくして、『峯均筆記』と肥後系伝記に共通するこの「舟の櫂(艪)で木刀を作った」という説話素は、おそらく早期に海岸部民間伝承として出現したものである。それを武蔵伝記が取り込んだのである。
 しかし、肥後系伝記では大して進展はないが、『峯均筆記』の方はかなり説話素が加工されている。つまり、その木刀は、ただの木刀ではなく、刃の方に二寸釘を隙間なく打ち込んだものというから、これはかなり凶暴な武器なのである。二寸釘を隙間なく密に打ち込めるとなると、この木刀はかなり太いものであろう。かなり重そうだが、膂力のある者なら使える道具である。
 『峯均筆記』は 割注に、これは弟子の青木条右衛門の製品だとの言い伝えを記録する。青木は無二の弟子だった者で、『峯均筆記』では後出の一節に武蔵に叱責される役で登場する。それはともあれ、これが青木作だとしても、話に矛盾はない。武蔵は隨仕の弟子を連れ歩いていたから、このとき櫂を貰い受けて青木に作らせたということになる。とすれば、この道具は武蔵が作ったのではない。
 これらは肥後系伝記にはない記事だから、これも筑前系伝説の一つであろう。肥後系と分岐した後、出てきた伝説である。『武芸小伝』は、武蔵が巌流島へ渡る舟上で櫂を削って作ったとか、怪しげな説を語っているが、もとはまったくちがう話だったのである。肥後系伝記は『武芸小伝』を参照して書いているから、その記事はいわば伝説口碑でさえない代物である。
 筑前系の伝説を記す『江海風帆草』にも《五尺の棒に筋金を打て持之》と類似の記事がある。鉄筋補強した棒/杖である。小倉碑文の「木戟」というのは、むしろこの鉄筋補強した五尺棒/五尺杖という系統の道具である。
 もう一つ、『峯均筆記』は、武蔵は小太刀も用意していたという。武蔵は木刀でさえ、大小二刀の道具立てである。小太刀は二刀で用いることもあれば、小太刀単独でも使う。したがって、この大小ふたつの木刀は、必ずしも二刀流のそれとはみなせない。
 武蔵の木戟に対し、小次郎は真剣、というのは小倉碑文以来の通り相場である。それで、小次郎の道具はというと、『峯均筆記』では、後出のように「二尺七寸の青江」という太刀である。
 それで、武蔵は小次郎の到着を待っている。浜辺の岩に腰掛け、小太刀を膝の上に置き、舟の櫂(大太刀)は右の方、横に「捨てて」持っている。この「捨てる」というのは、手から離すのではなく、横に投げ出した恰好で手に持っているということである。そうして武蔵は、その恰好でじっとうつむいて待っている
 「武蔵はうつむいて、小次郎を待っている」――このあたりは物語のディテールがよく出来ている。話にこういうヴィジュアルな喚起力があるのは、この説話が口碑伝承の複層をくぐってきたからである。しかしむろん、肥後系伝記では話が逆で、小次郎が待ちつかれるほど、武蔵は遅刻するのである。  Go Back





*【武公伝】
《武公漸ク起テ朝飯ヲ喰、太郎右衛門ニ乞テ艪ヲ以テ木刀ヲ削リ出》

*【二天記】
《亭主ニ請テ櫂ヲ以テ木刀ヲ大キニ削ル》

*【小倉碑文】
《岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し》



源平和船競争おしぐらんご
艪で漕ぐ

坂越浦 櫂伝馬
櫂で漕ぐ



*【本朝武藝小傳】
《或人の説に、武蔵巌流と仕相を約して舟島に赴く時、武蔵は棹のをれを船人に乞ひて、脇指を抜きて持つべき所をほそめ、船よりあがりて是を以て勝負をなす。巌流は物干ざほと名付けし三尺余の大刀を以て勝負をしたりと》


*【江海風帆草】
《武藏其日の装束ハ、繻子のぢはんを、こはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之、宗入よりさきに嶋にわたりて、岩にこしかけて宗入をまつ》






*【武公伝】
《小次郎太(だ)マチツカレ、欠シ伸シスルニ及》
*【二天記】
《(小次郎は)甚タ待ツカレ》

 
 (10)見物群集ス
 ここで、決闘現場周辺の話へ移る。『峯均筆記』によれば、この舟島で決闘があるというので、海上を往来する舟は碇を下ろし、貴となく賎となく見物が群集した、とする。下関で決闘するのを断られたので、舟島でやることになったが、案の定、見物が海上に群集してたいそうな騒ぎになっている、というところであろう。
 この『峯均筆記』の記事に対し、肥後系の伝記ではまるで話が違う。そもそも、肥後系の伝記では、小倉細川家の厳しい管理統制の下で、決闘が行なわれたことになっており、この二人への贔屓つまり加担も、遊覧つまり見物も、厳禁したとする。筑前系と肥後系の伝説は、このように話が違うのである。
 もちろん、小倉側が禁止令を出しても、下関から見物に押し寄せるだろう、といった話ではない。決闘の環境設定がはじめから違っているのである。『峯均筆記』では、舞台は下関であって、小倉も細川家もこの決闘に何の関係もないのである。
 だいたい、下関の目の前の小島でなされる決闘を、豊前の小倉藩が管理統制するわけがない。そんなことをすれば、長門の毛利家は黙っているはずがない。こんな初歩的な環境設定の誤りさえも、従来の巌流島伝説の読みは看過してきたのである。
 肥後系伝記では、巌流島伝説の我田引水がひどいので、巌流島が、「小倉の絶島」(向島と号す)という表現になってしまっている。つまり肥後系伝記のイメージでは、巌流島は、小倉の沖にある島なのである。小倉から舟行一里、下関からも同距離、とは話は数字だけ具体的だが、そんな位置に島は実在しない。かくして巌流島そのものが、豊前小倉へ引き寄せられ、いわば空想の島になってしまったのである。
 ところで、『峯均筆記』に話をもどせば、「豊州門司の城主何某」がここで登場する。門司城は古い城で、関門海峡の東端にあって、海峡を扼する重要な位置にある。豊前が細川領になって門司城は家老沼田氏が預かる城となった。
 『峯均筆記』では、「豊州門司の城主何某」が、弁之助と昵懇の者であったから、家来を大勢召連れて舟島へやってきているのである。大身の槍を持たせ、(自身は)挟箱に腰をかけ、浜辺に居て見物する、という話である。大身の槍とは、だいたい槍穂が長さ一尺以上のものをいう。二尺あるいは三尺という太刀に匹敵するものもあった。『峯均筆記』のここの記述は、門司城主何某が「家頼大勢召連レ、大身ノ槍ヲ持セ」であり、この連中はたんに見物ではなく、軍隊が出動してきているという話なのである。これが武蔵の応援団というわけである。
 今日一般に流布した巌流島伝説に洗脳されている頭では、「話がちがう」ということになろう。応援団がいるのは小次郎の方じゃないか、と。しかし、それは本来あやしい肥後系伝記から発した話なので、そういう環境設定には何の根拠もないと云っておこう。
 これに対し、武蔵に門司城主の応援団がいるという『峯均筆記』の話は古型をとどめている。それというのも、地元長門の伝説があって、小次郎に心情的に加担するところから、決闘の環境条件は、
     小次郎は不利 × 武蔵は有利
という設定になっていた。小次郎が孤立無援なのに対し、武蔵には豊前側の応援団がいるという対照的な構図である。武蔵に応援団がいる(しかも対岸豊前側の門司城主)とするのは、そんな小次郎に加担する長門下関あたりの伝説である。『峯均筆記』はそれを踏襲しているのである。
 『峯均筆記』はこの城主が、細川越中守殿家臣だが、姓名を失念したと書いているが、当時豊前は細川領、その門司城代は沼田延元であろうが、もちろん『峯均筆記』が採録した伝説にとっては、そんなことはどうでもよいことである。武蔵には豊前側の応援団がいるのに対し、長門方の小次郎は孤立無援、という対照的な構図があればよいのである。
 さて門司城主何某の一団は武装集団であり、しかも武蔵の応援団である。こうなると、興味深いのは、やはり肥後系伝説との相違である。肥後系伝記では、小次郎の方は、殿様の御座舟でやってくるし、決闘場所は小倉藩が厳重に管理している。ところが、『峯均筆記』では、武蔵の方が門司城の武装集団を応援団にしているし、小次郎の連れの家来は一人だけなのである。  Go Back





*【武公伝】
《前日府中ニ令トシテ贔屓及ビ遊観ヲ禁止ス。其號令最モ嚴重ナリ》
*【二天記】
《前日府中ニ觸有テ、此度双方勝負ノ贔屓及遊覧ヲ禁止アリ。(中略)島ニハ檢使警固ノ者ヲ差シ渡サル。其ノ號令嚴重ナリ》


*【武公伝】
《興長主應諾シテ、武公ヲ私第ニ留メ、即沙汰ニ及。御家老中御寄合、兩日及、終ニ忠興公ニ達シ、其日ヲ極テ、於小倉之絶島[向島ト號、又曰舟島。今亦曰巌流嶋。豐前ト長門之際。小倉ヨリ舟行一里、下關亦同里數ナリ]勝負ヲ決セシム》
*【二天記】
《興長主應諾アリテ、武藏ヲ留テ、忠興公御聴ニ達シ、其ノ日ヲ定メ、小倉ノ絶島ニ於テ、勝負ヲ決セシム。[向島ト云、又舟島トモ云、今又岩流島ト云。豐前ト長門ノ境、小倉ヨリ舟行一里、長門下ノ關ヨリモ同里数ナリ]》




巌流島(舟島)の位置
 
 (11)鞘ヲ切折テ海ヘ抛捨
 小次郎は小舟に乗ってやってくる。連れは家来一人だけで、他には水主〔漕ぎ手〕一人がいるだけある。以下、小次郎に注目した記述である。
 小次郎の衣装は武蔵と同じく、これもカルサンを着用している。記述はそれを記すのみ。肥後系伝記のような派手な衣装ではなさそうである。
 小次郎は舟で、仕込剣の木刀を杖について立っていた。仕込剣の記事は以前にあった。無二が恐れて仕合を避けたという、あの仕込剣である。
 舟島の間近に来ると、小次郎は後を振り返って連れの家来に何ごとか言い聞かせた。その様子は見えるが、どんなことを小次郎が言ったか聞こえない、つまりこれは見物衆の視線である。
 すると小次郎は、彼の仕込剣を取直して、四五回打振って、それを海底へ抛り投げた。これは最強の武器であるはずなのだが、意外にも小次郎はそれを海へ投げ捨てたのである。何か考えがあってのことだろう。しかし、こんどは、太刀を鞘とともに抽き出し、するすると刀を抜き放つ。そして、鞘を切り折って海へ抛り捨てたのである。そうして小次郎は、抜き身の刀を脇に引き寄せて、浜へ着くのを待っている。
 小次郎が仕込剣を捨て、また太刀の鞘を捨てたという説話素には、筑前系の伝説を記した『江海風帆草』にも類似の記事がある。こちらは、宗入が、青江の刀を抜き、刀の鞘を二つに切って海に捨て、木刀(例の仕込剣)も海に抛った、という話である。『峯均筆記』以前に、すでにこんな伝説採取があったのである。
 『峯均筆記』にある伝説解説の曰く、これは、たとえ小次郎が武蔵に打ち勝ったとしても、大身の槍をもたせたあの武士たちは、そのままにしておれを逃がすはずがない、勝っても負けても命はない、そう思い込んだからであろうか。――死んでしまえば、太刀を戻す鞘は必要はない。
 『武芸小伝』に類似の話があって、中村守和という人の話を引いて、小次郎の死の覚悟を記す。それを見るに、まず小次郎はこの『峯均筆記』の記事と同じく、単独で島へ渡ったようである。決闘見物のため大勢が舟島へ渡ろうとして混雑している。小次郎もその混雑の中で、乗船した。「えらく混んでいるな。何かあるのか」と小次郎が船頭に尋ねる。「あんた、知らないのかい。今日は巌流という兵法つかいが宮本武蔵と舟島で仕合する。だから、それを見物しようと、未明から人が引きも切らずという有様だ」。小次郎も自分の試合の人気を知らないとは、抜けたものであるが、ここで説話は小次郎の無垢性を強調しているわけだ。
 小次郎、「おれが、その巌流なんだけど」。驚いた船頭は言う、「あなたが巌流ならば、この舟をよそへ着けましょう。早く他国へ行ってしまいなさい。あなたの術が神の如くであっても、宮本の仲間がものすごく沢山います。決して命はないでしょう」と。つまり、舟島へ行くのは自殺的行為だ、止めたほうがいいという忠告である。巌流が言うには、「おまえの言うように、今日の試合、おれは生きのこりたいとは思っていない。そうであっても堅く試合の契約をしたのだ。たとえ自分が死ぬとしても、契約に違反することは勇士のしないことだ。おれは必ず舟島で死ぬだろう。おまえ、おれの魂を祭って水を注いでくれよ。賎夫とはいえ、おまえの志に感じた」と、懐中から鼻紙袋を取り出して渡し守に与えた。船頭はその豪勇に感動し涙を流した――というような話である。後世の古川古松軒『西遊雜記』にも、赤間関(下関)あたりの伝説という類話がある。
 ここで『峯均筆記』の話と共通するのは、圧倒的に不利な環境条件で、それにもかかわらず決闘に臨むという小次郎の自殺的行為であり、またその悲劇的身ぶりである。
 『峯均筆記』に小次郎が仕込剣を海中に投げ捨て、そして太刀の鞘も切り折って捨てたとあるのは、まさに自滅的行為を決意した悲劇のヒーローとしての身ぶりである。この場面は、本来長門側の伝説にあった説話素であり、それが『峯均筆記』の記事に拾われたのである。
 これに対し、およそバカげているのは、肥後系の武蔵伝記『武公伝』『二天記』の記事である。肥後系伝記でも同じく、小次郎は太刀の鞘を捨てる。ところが、それを見た武蔵が、笑って云う、「小次郎負けたり。勝つのなら、どうして鞘を捨てるかよ」。この挑発に小次郎は怒って、すぐさま戦闘開始、――という展開になる。
 これでは、小次郎は何の考えもなしに鞘を捨てた間抜けである。肥後系伝記は、小次郎が鞘を捨てたというその行為の悲劇的な意味を、すっかり換骨奪胎して、笑うべきものにしてしまった。まさに、肥後系伝記においていかに説話構造が変形するか、という見本がこれである。しかし本来は、小次郎が勝っても負けても命はないと覚悟して、決闘に臨んだ、という悲劇的場面が原型なのである。
 肥後系伝記は、説話祖形にあった「鞘を切り折って海に捨てる」という明確な行為をあいまいにした。たんに「鞘を捨てる」である。そうなら、鞘を捨てたことにとくに意味はない。長剣の鞘は戦うのに邪魔になる。だから小次郎はそれを捨てた。勝って、その鞘を拾って、刀を納めれば済むことである。肥後系伝記の意味づけは、もともと作為的なのである。
 肥後系伝記に依拠した巌流島決闘物語が、これまでいかに支配的だったか、それを想い起こせばよい。そして、「小次郎負けたり。勝つのなら、どうして鞘を捨てるかよ」という武蔵の科白をめぐって、なんと数多くのタワ言が累積されてきたことか。それもこれも、変形されつくした後世の説話に依拠した議論だった。説話原型は、それとはまったく逆だった。それを改めて語るにも、現今のごとき武蔵論の状況では徒労に近い。  Go Back




巌流島決闘地 対岸は門司


*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳〔胴着〕の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる。武藏が先にわたりたるを見て、何とかおもひけん、かの青江の刀をぬき、刀のさやを二に切て海にすて、木刀をも海になげ入、舟よりあがり、直に立合て戦ふ》

*【本朝武藝小傳】
《中村守和曰はく、巌流、宮本武蔵と仕相の事、昔日老翁の物語を聞きしは、既に其の期日に及びて、貴賎見物のため、舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至りて乗船す。巌流、渡守に告げて曰はく、「今日の渡海甚し。いかなる事か在る」。渡守曰はく、「君知らずや。今日は巌流と云ふ兵法遣、宮本武蔵と舟島にて仕相あり。此の故に見物せむとて、未明より渡海ひきもきらず」と云ふ。巌流が曰はく、「吾其の巌流なり」。渡守驚きさゝやいて曰はく、「君巌流たらば、此の船を他方につくべし。早く他州に去り給ふべし。君の術神のごとしといふとも、宮本が党甚だ多し。決して命を保つことあたはじ」。巌流曰はく、「汝が云ふごとく、今日の仕相、吾生きむことを欲せず。然りといへども、堅く仕相の事を約し、縦ひ死すとも約をたがふる事は勇士のせざる処なり。吾必ず船島に死すべし。汝わが魂を祭りて水をそゝぐべし。賎夫といへども其の志を感ず」とて、懐中より鼻紙袋を取出して渡守に与ふ。渡守涙を流して其の豪勇を感ず》

*【西遊雑記】
《岩龍、武藏の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時、浦のものとも岩龍をとゝめ、「武蔵の助、門人を数多引具し先達て渡れり。大勢に手なしといふ事有り、一人にて叶ふまじ。今日はひらに御無用なり」といふ。岩龍が曰、「士は言さはまず。かたく約せしなれば、今日渡らざるは士の耻るところ也。若し大ぜいにて我を討は、耻辱はかれにぞあるべけれ」といふて、おして島に渡る》



*【武公伝】
《(小次郎は)三尺ノ霜刃ヲ拔テ、鞘ヲ水中ニ投ゲ、水際ニ立テ武公ガ近クヲ迎フ。其時、武公水中ニ踏留テ笑テ曰、「小次郎負タリ。勝バ何ゾ其鞘ヲ捨ン」ト》
*【二天記】
《小次郎霜刀拔テ、鞘ヲ水中ニ投ジ、水際ニ立テ武藏ガ近ヅクヲ迎フ。時ニ武藏水中ニ踏留マリ、ニツコト笑テ云ク、「小次郎負タリ。勝バ何ゾ其鞘ヲ捨ン」》

 
 (12)見物ノ群集一同ニ笑フ
 すでに見たごとく、小次郎の連れは家来一人だけで、他には水主一人がいるだけ、それで小舟に乗って到着である。磯が近くなると、小次郎は(恰好よく)舟の舷を踏んで飛んだ。しかし飛び損ねて両膝をついた。そのぶざまに、見物の群集は一同に笑った。――この場面では、小次郎は嘲笑され愚弄される対象である。
 小次郎は例の門司城主何某の前に行き、「あなたはどういう人であって、ここに居られるのか」、つまり、どういう権利があってここに居るのか、と咎めた。貴殿は何故ここにいるのか、理由を言え、というわけだ。
 これはある意味で当然だろう。この男が率いる武装集団は明らかに武蔵の応援団である。何某が云う、「おれは弁之助と親しい者である。今日そなたとの勝負を見物のため渡海した。おまえをどうこうしようという気はまったくない。血に酔うたのか、狼狽〔うろたえ〕者」と、散々に罵った。
 これは小次郎に対する愚弄説話である。しかし重要なことは、門司城主何某に抗議して、逆に罵倒される、というこの場面は、死を覚悟して決闘の場に突入するという小次郎の自殺的=自滅的行為の悲劇性を、あっさり破壊してしまうことだ。それゆえ、それだけオリジナルの伝説から離反し、また意味を塗り替えている。
 小次郎は見物の群集に笑いものにされる。なぶりものにされる。これは、逆に言えば、小次郎は孤立無援だという意味が、拡張シフトされてのことである。つまり、小次郎には味方がいない、武蔵の方には強力な応援団がいる。その応援団が小次郎を笑いものにし、なぶりものにするのである。言い換えれば、小次郎の役割はまさにスケープゴートのそれである。
 小次郎贔屓の説話原型は、自殺的行為を回避しないスケープゴートとしての小次郎を措定したが、『峯均筆記』の記事を見るに、明白にその意味が変色している。小次郎に対する笑いや愚弄は、悲劇的背景が脱色されて、笑いや愚弄の場面へシフトしているのである。
 小次郎は悲劇の主人公から愚弄される存在へ反転する。『峯均筆記』は、「武蔵が先に到着した」「小次郎が罵倒される」「小次郎が笑いものにされる」という説話素の悲劇的背景を脱色する。一方、肥後系伝記は、小次郎と武蔵のポジションを入れ替えてしまう。すなわち、応援団を背景にして、すでに勝ち誇った武蔵が待つところへ突進するという、小次郎の自滅的=自殺的な行為を、武蔵の行動に帰属せしめてしまう。その結果、もともと小次郎のものであった悲劇的ポジションは、武蔵サイドへシフトすることによって、その悲劇性が完全に払拭され抹消されてしまっている。
 『峯均筆記』は、肥後系伝記とは違って、小次郎に一通り間抜けなことをさせて、それからついに武蔵登場ということにする。それまで、岩に腰かけ、うつむいていたが、この問答の間に立上り、櫂で白砂を二三回左右へ打ち払い、「どうした、小次郎。弁之助はここにおるぞ」と言葉をかけた。場面外にいた武蔵が突然登場してくる。この場面展開はよくできており、説話として熟成され、十分コナれていると云うべきである。  Go Back



巌流島現況マップ













錦絵 敵討巌流島
 
 (13)二尺七寸ノ青江ノ刀ヲ左右ニカケ、水車ニ打振リ
 武蔵が声をかけたので、小次郎は武蔵の方へ取って返す。いよいよ決闘の開始で、まず小次郎が切りかかる。と、ここは説話の手順として、小次郎の戦法解説が入る。
 まず、小次郎の道具である青江の刀。青江は申すまでもなく、平安期以来の有名な刀剣産地、ただし備前ではなく備中、現在なら岡山県倉敷市内である。鎌倉期には貞次、恒次、次家らを輩出した。ただ、小次郎の青江は伝説なので、小次郎は名刀を使用したという以上の意味はない。
 青江の名は、すでに『江海風帆草』で出ている。つまり、同じ筑前系の『峯均筆記』と『江海風帆草』は基本は同じ伝説を収録しているのである。これに対し肥後系伝記には青江の文字はない。その代わりに『二天記』では、《三尺餘ノ太刀ヲ帯ス[備前長光ノ由]》と、割注にわざわざ「備前長光」の名を出す。
 長光は鎌倉期の人、備前長船の刀工である。長光は多数が現存し国宝・重文も少なくない。室町期以来の大名物であり、これは青江以上に有名な名刀の名を出しているということである。
 『峯均筆記』では、この青江が二尺七寸〔82cm〕という寸法である。しかも他がたとえば小倉碑文のように「三尺の白刃」というように概数を示して長大な刀のイメージがあるのに対し、これはいかにも測ったような記事である。後出のように、『峯均筆記』はこの刀が小倉の宮本伊織の家に伝わっているという記事を記すから、とすれば小倉宮本家に「あのときの刀」がこれだとして現にあったものが二尺七寸だったのかもしれない。
 ところで、同じ筑前系伝説の『江海風帆草』では、青江は青江だが、寸法は三尺一寸〔95cm〕と長い。つまり、こちらは小倉碑文の「三尺の白刃」の路線だが、『二天記』の三尺余という記事と呼応するところがある。したがって、小次郎の長大な剣という説話素は筑前系伝説にもあったのである。
 そこで『峯均筆記』がいう二尺七寸という寸法のことである。これでは大して長くないから、刃渡りがその寸法だという話もあるが、『峯均筆記』の伝説が「青江」で「二尺七寸」という具体的な内容をもつのに対し、他は三尺という大まかな数字であるから、これは現実には異伝として記録されるべきものである。小次郎の太刀はそう大して長くはなかった。現代では背中に太刀を背負った小次郎のスタイルが流布しているが、本当はそれほどのものではない。
 以下に、諸資料の道具の相違を一覧表にしてみる。



倉敷刀剣美術館蔵
青江太刀 銘貞次(南北朝期)
寸法:二尺三寸四分



*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳〔胴着〕の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる。武藏が先にわたりたるを見て、何とかおもひけん、かの青江の刀をぬき、刀のさやを二に切て海にすて、木刀をも海になげ入、舟よりあがり、直に立合て戦ふ》

  小倉碑文 江海風帆草 丹治峯均筆記 武公伝 二天記
武蔵の道具 木戟/木刄 鉄筋補強の五尺棒 櫂の四尺木刀釘打付
木皮付き小太刀
艪の木刀 櫂の木刀
岩流の道具 三尺の白刄 三尺一寸の青江
木 刀
二尺七寸の青江
仕込剣木刀
三尺の霜刃 三尺余の太刀
(備前長光の由)

 さて、小次郎の技は「水車」である。水車〔みずぐるま〕は、イメージとしては、大太刀を威勢よくブンブン回転させるようだが、必ずしもそういうものではない。長刀のケースもそうだが、水車は返し技に意味がある。つまり太刀を前方から後へ振り返す。このとき相手の脛や胴を切る。水車は切り返し技だから、たいていの巌流島の記事は、武蔵の下半身の着衣が切られたことになっている。
 『峯均筆記』ではこれにとどまらず、巌流の秘伝の太刀は、水車に振る事を第一とする。仕込剣も水車に振って、敵合当たる度に、激しく剣を振り出し、手裡剣の如く飛ばし、つけ入っては木刀で打ちつける――という記事がある。
 かくして、ここで例の仕込剣が出てくる。これで、仕込剣がどう使われるか、わかる。つまり、仕込剣は遠近両用の武器なのである。剣が飛び出す仕掛けだから、間合いが遠くてもこれが振り出す剣で攻撃できる。それは手裏剣のように飛び出す。その仕込剣の振り出しのとき、水車の技を使う。仕込剣は不意に飛び出すから効果があるのであって、ブンブン振り回すものではない。間合いが詰まると、仕込剣は木刀として機能する。
 しかしまた一方で、肥後系伝記では、小次郎の第一撃は武蔵の眉間を襲う。これは上段から一気に太刀を振り下ろすものであろうし、これも水車云々の説話素からすると、まったく別系統の剣法であり、まずありえない行動である。したがって、『峯均筆記』と肥後系伝記では、小次郎の剣法それ自体が違うということは、念頭においていたほうがよい。肥後系伝記は、オリジナルの伝説からすでに遠いのである。  Go Back

*【武公伝】
《小次郎倍〔ますます〕怒テ、武公近ヅクト齊ク、先其眉間ヲ打。武公ガ鉢巻ノ締目〔ムスビメ〕切レテ割落ツ》
*【二天記】
《小次郎u憤テ、武藏ガ相近ヅクト齊ク、刀ヲ眞甲ニ振上、武藏ガ眉間ヲ打ツ

 
 (14)頭碎ケテヒレ臥セリ
 小次郎が仕懸けて、武蔵も応戦する。以下の記述はいかにも観てきたような仕合実況であるが、ここは一通り読まねばならない。
 武蔵も舟の櫂を右脇の位に搆え、激しく攻撃し合い、双方当たる度に、武蔵は櫂を下から振り上げて打込み、小次郎も刀を水車からまっすぐに切込む――というのが攻撃の応酬である。この部分、我々の参照したテクスト(三宅長春軒本)には、
 《弁之助モ舟之櫂ヲ右脇ノ位ニ搆ヱ、相カヽリニカヽリ、双方アタル度ニ、弁之助、櫂ヲ下ヨリ振上テ打込ミ、小次郎モ刀ヲ水車ヨリ直ニ切込ム》
とあるところ、異本(島田美術館蔵)には《双方アタル度ニ突ク》とある校異を指摘すべきだろう。この「突ク」という文字は我々のヴァージョンにはない。ただし、この「双方アタル度ニ突ク」の方が妥当ともみえない。冗語のようにも思える文字である。したがって、ここは我々の参照底本通りに《双方アタル度ニ》としておく。
 さてこの場面で、武蔵は右脇に木刀を構えて、ということは、これはどうも五輪書水之巻にいう「右脇の構え」のようである。右の脇に横に構えて、相手が打ち懸かるのに応じて、我が太刀を右下の横から筋かいに上段に振上げ、そして上からドカッと切るのである。
 小次郎も刀を水車からまっすぐに切込む。すると、互に相手に当たった。ところが、どうしたものか、小次郎の刀は、手のうちが回転してしまって、刃ではなく平(ひら・刃の側面)で、武蔵の左の平首(首側面)を打つ。これに対し、武蔵の木刀は小次郎の頭部に当たった。小次郎は、タジタジと二、三間〔4〜5m〕後退して、尻からどうと倒れた――。
 ここまでで、勝負あったというところである。小次郎の剣は武蔵の首をすっ飛ばすはずが、まさに手元が狂って平打ちしてしまった。これと同時に上段からブチ込んだ武蔵の木刀が、小次郎の頭をヒットしたのである。打撃は同時。だが、武蔵の攻め勝ちである。
 小次郎が尻もちをついて倒れたので、すぐさま武蔵が二の目(第二撃)を打とうと近寄る瞬間、小次郎はふっと起きあがり、両膝をついたまま刀を横に払う。しかし小次郎が間合いをわずかに把握できなかったらしく、太刀は武蔵の胴を切断せず、ただ武蔵のカルサン(短袴)の前の部分をハラリと切り放って、カルサンが前に垂れた。
 武蔵の二の目(第二撃)は強打である。足立たず低い位置にある小次郎の頭を、武蔵の大力で、しかも舟の櫂で作った、それこそ獰猛な木刀(釘がびっしり打込んである)で、同じツボを二度まで打ったので、頭は砕けて、小次郎はひれ臥すように前に倒れた――。
 以上、かなり具体的な状況記述である。たぶん『峯均筆記』の記事がいちばん詳しいだろう。しかし内容が具体的あればあるほど、伝説派生の距離の大きさを内包している。
 まず小倉碑文は最初期の武蔵伝記で、これは記事がもっともシンプルである。後世のもののような講談咄になっていない。
 『江海風帆草』(異本)と『武将感状記』は、武蔵を飛び上がらせている。つまり、武蔵は相手が横に払う太刀をかわして飛び上がったことになる。しかしこれは、武蔵の立付あるいは皮袴が切られた、という説話素に刺激されての発展形である。『江海風帆草』一本では「のびあがり」である。
 飛ぶことは、居付いたり無防備になるから飛び上がることはありえない。これは第一打で倒された小次郎が、膝をついたまま太刀を横に払った、という『峯均筆記』の方が一応尤もらしい。

  峯均筆記 江海風帆草 武将感状記
小次郎第一撃 武蔵の首 平打ち 武蔵の裾を払う 拝み打ちに斬る
武蔵第一撃 頭部打撃 頭部打撃 頭部 かわされて肩
小次郎第二撃 膝をついたまま
横に払う
―― 踏込んで横に払う
武蔵飛躍 ―― 飛びあがる
(第一撃)
飛びあがる
(第二撃)
着衣切除部分 カルサンの前部
(第二撃)
立付の前腰
(第一撃)
皮袴の裾三寸
ばかり(第二撃)
武蔵第二撃 小次郎頭部粉砕 頭部打撃
即時に打殺す
頭部粉砕
即座に死す

 これで見ると明らかなように、『江海風帆草』では小次郎の打ちは一回しかない。武蔵の打ちが二回であるのは他と同じである。ともあれ、『江海風帆草』と『武将感状記』が『峯均筆記』の記事と共通するのは、宗入もしくは岸流の頭部への致死的打撃、そして横に払った太刀で武蔵の立付あるいは皮袴が切られたことである。この二点は基本的な説話素であったらしい。ただ両者に比すれば、『峯均筆記』の内容はかなり完備され「充実」してしまっている。
 では、肥後系伝記ではどうか。以下、相違点を列記してみる。
 (1) 『武公伝』『二天記』の肥後系の伝説では、戦闘の最初から違っている。まず小次郎の第一打は武蔵の眉間を打つ。すると、武蔵の鉢巻がハラリと切れて落ちる。このあたりまるで講談調だが、これは明らかに、武蔵のカルサン(立付)が切られて前に垂れたという説話素の変形である。むろん肥後系伝説以外には見当たらない場面である。むしろこのシーンは、のちに触れるように、『武芸小伝』の対吉岡戦がソースのようである。
 (2) このとき武蔵の第一撃は小次郎の頭を打つ。武蔵も小次郎も同時に相手の頭を攻撃したことになる。頭を打撃され倒れた小次郎が横に払い、武蔵の袷の裾を三寸ばかり切り落とす。これは『峯均筆記』と共通する説話素であるが、切られたのはカルサンではなく、袷の裾である。というのも、そもそも肥後系伝説では、武蔵はカルサンや立付など短袴の類は着していなかったから、袷の裾をたくしあげているという恰好である。立付(染革立附)を穿いているのは小次郎の方である。
 (3) もうひとつの相違は、『峯均筆記』など筑前系伝説では、小次郎にとって致命的な、武蔵の第二撃は、頭部への再度の打撃であるが、これに対し肥後系の伝説では、脇下の横骨を打折る打撃である。これで小次郎は気絶するが、しばらくして、武蔵が小次郎の口鼻に手を当て、死活を確認したという。ただし、このディテールは意図的な曖昧化で、小次郎が絶命したか否かは不明である。また、肥後系伝説では、頭を粉砕したなどという露骨な表現が回避されただけでなく、脇下の横骨を打折り悶絶させたとする方へ変形されたのである。
 以上を整理すれば、次の表のようになろう。

  峯均筆記 武公伝・二天記
小次郎第一撃 武蔵の首 平打ち 武蔵の眉間 鉢巻はらり
武蔵第一撃 小次郎の頭部 小次郎の頭部
小次郎第二撃 膝をついたまま横に払う 倒れたまま横に払う
着衣切除部分 カルサンの前部 たくしあげた袷の裾
武蔵第二撃 小次郎頭部粉砕 小次郎脇腹あばら骨折

 ここで改めて確認しておくべきことは、『峯均筆記』と肥後系伝記が示すのは、双方ともかなり成長した伝説であり、しかも大きく違う内容をもつに至っていることである。
 このばあい、『峯均筆記』がいくらか保全した伝説祖形は、肥後系伝説ではまったく変形されていることである。つまり基本的な説話素としての、小次郎の頭部への致死的打撃、そして横に払った太刀で武蔵の立付あるいは皮袴が切られたこと、この二つの説話素は肥後系伝説ではまったく改竄されて、原型をとどめない有様である。これは、他の部分も同様だが、後年肥後で伝説が活発に成長した結果である。
 しかし、肥後系伝記の決闘場面を見るに、これはまったく別の系統の説話素が入っているようにみえる。そこで、類似のものを当れば、『武芸小伝』の対吉岡戦記事がある。これによれば、――吉岡が大木刀で武蔵を打つ、武蔵の鉢巻が切れて落ちた。武蔵は身を沈めて横に払う、武蔵の木刀は吉岡の皮袴を切る。吉岡は武蔵の鉢巻を切って落し、武蔵は吉岡の袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすと云々。
 肥後系伝記の作者は、『武芸小伝』を読む環境にあるから、おそらく肥後系伝記のソースは、これではないかと当りをつけることができる。吉岡は武蔵の鉢巻を切って落し、武蔵は吉岡の袴を切る、この説話素を取り込んで、二つとも小次郎の業態にすれば、筑前系伝記の決闘場面の半分が再構成できるのである。
 これは偶然とも思われないので、『武公伝』段階までに、すでに『武芸小伝』の対吉岡戦記事の説話素が、巌流島決闘シーンに組み込まれていたのである。このような作為操作があったとすれば、肥後系伝記の記事が、他とまるで違っているのも当然である。ようするに、肥後系伝記はオリジナルの伝説情報を欠くがゆえに、他の書物から説話素を仕込んでいるのである。  Go Back






*【五輪書】
《第五の次第、太刀の構へ、我右の脇に横に構へて、敵打かゝる所の位を受け、我が太刀下の横より筋かひに上段に振上げ、上より直に切るべし》(水之巻)




無三四巌流と雌雄を決する図
繪本二嶋英勇記



*【小倉碑文】
《岩流三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏木刄の一撃を以て之を殺す。電光猶遅し》

*【江海風帆草】
《宗入、むさしがすそをはらふ、武藏のびあがりて、棒にて宗入が頭を一打に打倒す。此時、宗入が刀のきつさき、武藏が立付の前腰をはらひて、はかまのまへ武蔵が膝に下がる。武藏立所をうごかず、宗入又立あがらんとするを、又同ジく頭を打て、即時に打殺す》
(異本)《宗入、武藏が裾をなぐり払ひければ、武藏飛びあがりて、彼棒にて宗入が頭を打つて打倒す》

*【武将感状記】
《武藏二刀を組てかかれば、岸流拝打に斬る處をうけはづして其頭を打つに、岸流身をふりて左の肩に中る。其勢にふみ込みて横に拂ふ。武藏足を縮て飛あがれば皮袴の裾三寸ばかり切て落たり。武藏全力を出して之を打つに、頭微塵に砕て即座に死す》





東京都立中央図書館蔵
宮本無三四佐々木岸柳仕合之図












*【武公伝】
《小次郎倍〔ますます〕怒テ、武公近ヅクト齊ク、先其眉間ヲ打。武公ガ、鉢巻ノ締目切レテ割落ツ。同(く)武公所打ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リテ、立所ニ僵テ、武公木刀ヲ堤テ暫ク立、亦振上テ打タントス。小次郎臥ナガラ打払フ。武公ガ褰〔かかげ〕タル袷衣ノ裾ノ膝ノ上ニ垂タル所ヲ、參寸許剪リ落ス。同(く)武公ガ木刀、小次良ガ脇下ノ横骨ヲ打折テ、即チ氣絶ス》

*【二天記】
《小次郎u憤テ、武藏ガ相近ヅクト齊ク、刀ヲ眞甲ニ振上、武藏ガ眉間ヲ打ツ。武藏同ク撃處ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リ立所ニ仆ル。初メ小次郎ガ打シ太刀ノ切先、武藏ガ鉢巻ノ結目ニアタリテヤ、手拭分リ落ツ。武藏木刀提ゲテ少ク立チ、又振上テ撃タントス。小次郎伏ナガラ横ニ払フ。武藏ガ袷ノ膝ノ上ニ垂レタルヲ、三寸許リ切サキヌ。武藏ガ撃處ノ木刀、小次郎ガ脇腹横骨ヲ撃折テ、即チ氣絶ス。口鼻ヨリ血流レ出ヅ》




映画「宮本武蔵 巌流島の決斗」
内田吐夢監督 1965年・東映
武蔵:中村錦之助/小次郎:高倉健
肥後系伝説による顕彰会本に依拠した
吉川英治「宮本武蔵」の映画化



*【本朝武藝小傳】
《此時吉岡はいまだ前髪有て二十にたらず。武藏より先達て、弟子一人召つれ仕合の場に來たり。大木刀を杖につきて武藏を待。武藏は竹輿にて來たり、少しまへかど(前角)にて竹輿よりおり、袋に入たる二刀を出して袋にて拭ひ、左右に携へて出る。吉岡大木刀を以て武藏を打。武藏是を受るといへ共、鉢巻きれて落たり。武藏しづんで拂、木刀にて吉岡がきたる皮ばかまをきる。吉岡は武藏が鉢巻を切て落し、武藏は吉岡が袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすと也》

 
 (15)カルサンヲカナグリ捨テ
 小次郎を倒した後、武蔵はいかなる行動に出たか。ここは巌流島秘話ともいうべき内容の伝説である。
 武蔵はまず、カルサン(短袴)のボタンを外し、カルサンを脱ぎ捨てたという。これが面白い話である。というのも、まずは「ボタン」という語が原文に出てくる。「カルサン」がポルトガル語なら、この「ボタン」もポルトガル語なのである。『峯均筆記』が記す「カルサンのボタン」は、外来語そのままの用語である。カルサンを脱ぐにはボタンを外さなければならない。着脱がボタンに関わるとは、カルサンが立附袴とは違っていた時代のことである。
 小次郎を倒した武蔵が、一番にやったことはカルサンを脱ぐことだった。では、なぜ、武蔵はカルサンを脱いだのか。カルサンを脱ぐとは、ズボンを脱ぐようなもので、どうして、武蔵はそんな奇怪な行動に出たのか?
 むろん、それには理由がある。この決闘で小次郎が武蔵に与えた損傷はいかに、を示すためである。小次郎の太刀は武蔵が穿いていたカルサンを切った。しかし、それこの通り、小次郎の太刀はそれ以上の損傷を武蔵に与えることはできなかった。それを、袷の尻をつまんで裾をからげて、下半身を露出して明示したというわけである。
 そこで、『峯均筆記』が次に語るのは伝説特有の秘話である。つまり、――はげしい一瞬の場面だったので、だれも見届けるなどできなかったのだが、実は、小次郎の太刀は平打ちながら、出血するほど武蔵の首を打っていた。武蔵は下着の襟を出してその負傷を隠した、――という秘話である。
 いわば、明示の機能は隠蔽である、という逆説がここにある。武蔵は自身の首の出血を見せないよう、尻をまくって衆人の視線を下半身の方へ逸らせたとすれば、武蔵の明示行為は、反面、隠蔽として機能する。
 しかし、こうした「だれも知らないはずの秘話」は、伝説の語りの中で人の耳をそば立たせる効果を生むというのは、周知の如く語り物の伝統の中で用いられる常套手段である。実は公然の秘密であって、知らないものがないという種類の逸話なのである。
 ただし、この秘話は、『峯均筆記』の著者が後で明らかにしているように、下関のあたりで語り伝えられた口碑である。つまり小次郎に加担する長門側の伝説である。小次郎は武蔵に敗れたが、もう少しのところで武蔵の首が飛ぶところだった。武蔵はかろうじて勝ったにすぎない、と強調したのである。
 こういう秘話は事実に対する伝説のポジションを示す。つまり、小次郎が武蔵に負けたという事実に対する、一種のプロテストであり、あるいはまた、「負けたけれど、決して負けなかった」という《Verleugnung》(否認)の身振りである。祖形となった伝説では、小次郎は長門の国人、地元の人間であった。これが異人・宮本武蔵に対し善戦したことは、何よりも強調すべきポイントである。
 ところで、すでに見たように『武公伝』『二天記』という肥後系伝記では、武蔵の首から出血していたというそんな説話素はない。その代わりに、これは『武芸小伝』からの仕込んだ外挿説話のようだが、武蔵の頭部を打った小次郎の太刀は、武蔵の鉢巻を切り落とした、という変形ぶりを示す。
 これも、すんでのところで武蔵は危なかったというわけだが、少し文脈がちがう。つまり、小次郎は強かった、しかし武蔵はそれ以上に強かった、という話なので、これは小次郎ではなく武蔵を称揚する方に重心がある。言い換えれば、『峯均筆記』が地元小次郎伝説の残響を濃厚に残しているのに対し、肥後系伝記では、そういう口碑伝説とは無関係なところで作話されている。

 ここでもう一つ、この部分の記事について問題になるのは、勝った武蔵が決闘の場を離れる場面で、
  《小次郎ガ刀ヲモ取リ、舟ノ柱ニ打マタガリテ漕戻ル》
とあるところであろう。舟の柱というのは帆柱である。しかしそこから、武蔵の舟は帆船だったのか、けれど帆柱に「うち跨り」とは何ともよくわからないイメージだ、という感想を聞く。つまり、ここは読解の難所になっている。
 だが要するに、これは肝心な点を考慮すればよい。すなわち、当時の舟は帆柱を倒すことができた、というのがポイント。風があれば帆柱を立て、風がないときは帆柱を倒して漕ぐ。それが日本の舟である。舟の原理が基本的には舟は漕いで動かすということにあり、帆は補助的なものである。
 しかしここでもう一点、たしかに帆柱は倒せるし、それに跨ることもできるが、どうしてこうしたディテールが出てくるか、というところに説話論的観点から注目しうるのである。すなわち、説話の無意識的操作としてここに現出しているのは、まさにファリックな隠喩としてのシーンと云うべく、それは要するに、この「倒された帆柱」が男根の隠喩だからである。
 武蔵は、すでにカルサンを脱いでいる。カルサンを脱ぐという行為にしても、一見瑣末な偶然のディテールのようにみえるが、じつは説話論的一貫性がある。それは、この帆柱に武蔵が跨るという光景に強調されており、カルサンを脱いだ武蔵の股座にあるその男根と、もう一つの隠喩としての男根(倒された帆柱)の擦り合わせこそが、そこに行なわれているファリックな行為の本質である。この二本の男根の運動とは何よりも男色のそれである。
 かくして、もう一つのディテール、すなわち「武蔵が小次郎の太刀を取って行った」という説話素が、にわかに看過すべからざるものとなる。言うまでもないことだが、勝者が敗者から太刀を獲得するとは、スサノヲ=ヤマタノヲロチ神話に限らず、かなり普遍的な神話素である。この場面でも、やはりその神話的行為反復されているのである。
 もとより、武蔵が小次郎の太刀を取って行ったというのは、事実ではあるまい。しかし、この伝説の場面では、それが神話的レベルまで達するがゆえに、武蔵が小次郎の太刀を取って行ったという説話素として語られているのである。太刀獲得神話のファリックなシーンは、ここでは極めて濃厚な男色関係の隠喩によって明示されている点が注目される。
 『峯均筆記』が採取した巌流島伝説の骨格は伝説祖形に近い。このように、説話論的一貫性を有しているということの意味は、この場面が構造性を有するということであり、言い換えれば、そこに示された「小次郎の太刀を取った」「舟の柱に跨る」というシーンの、一見取りとめもない偶発的瑣末性こそが、このファリックな神話的場面の本体である。ここでは、あたかも夢解釈のような分析手法が要求されるところである。  Go Back



南蛮屏風 神戸市立博物館蔵
南蛮屏風のカルサン
ボタンがついていた









彦島上空から巌流島を臨む




*【武公伝】
《小次郎倍〔ますます〕怒テ、武公近ヅクト齊ク、先其眉間ヲ打。武公ガ鉢巻ノ締目切レテ割落ツ。同(く)武公所打ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リテ、立所ニ僵テ》

*【二天記】
《小次郎u憤テ、武藏ガ相近ヅクト齊ク、刀ヲ眞甲ニ振上、武藏ガ眉間ヲ打ツ。武藏同ク撃處ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リ立所ニ仆ル。初メ小次郎ガ打シ太刀ノ切先、武藏ガ鉢巻ノ結目ニアタリテヤ、手拭分リ落ツ》






帆柱を立てた帆かけ舟



帆柱を倒した舟
 
 (16)一聲サケンデ前ヘカツパト轉レテ息絶タリ
 勝った武蔵は決闘現場を去った。見物衆らは小次郎の死骸に近づいて、様子を窺う。しかしどうしたことか、小次郎の「死骸」には、まだ息があった。死骸に息があるのは変だ、と思う人もあろうが、しかし、ここはまさに死骸の行動、つまり《living dead》の行動が語られているのである。
 小次郎の死骸にまだ息がある。見物のだれかが「弁之助はもう行ってしまうぞ。小次郎よ、おまえももはやこれまでか」と声をかける。(長春軒本では「小治郎」とあるが、他の箇処と照合すれば、これは「小次郎」とすべきである)。
 すると小次郎は、両眼をかっと見開き、ふっと立上り、「水を一杯くれよ。(弁之助を)逃がすものか」と、一声叫んで前へかっぱと転んで、絶命したというのである。『峯均筆記』のこの記事の原型は、『江海風帆草』の、
    《死せる宗入、又立ちあがり》
という鮮烈な喚起力を有する語句を含む一節であろう。『峯均筆記』は表現がかなり薄まっているが、『江海風帆草』の方は《死せる宗入、又立ちあがり》と語ることによって、伝説祖形により近い。
 しかし、このシーンを小次郎の勝負への執念と読んでしまうのは、いかにも現代風の浅知恵であろう。ここはやはり、小次郎の死骸が《living dead》として動いた、発声した、という不可思議をそのまま受け入れるのが伝説の読み方である。映画手法にはよくある手口だが、もはや死んだと思われた対象が、突如として立ち上がる劇的なシーン、現代にまで反復される怪物的な存在の運動である。
 この一段の小次郎の死骸の動きとは、怪物はその二度目の死を死なねばならない、という意味である。それゆえ、小次郎の「死骸」という文字は無視してはならないのである。小次郎は二度死ぬ。
 では、小次郎はなぜもう一度死ぬのか。一度目は身体的なフィジカルな死として、二度目は間主体的(inter-subjective)な社会的な死として。したがって、小次郎は見物の群集の眼前で死んでみせなければならなかったわけだ。
 しかもそれが、見物の群集に囃し立てられて、つまり「罵倒される小次郎」は死骸となっても起き上がり、しかしやはり倒れて、こんどは本当に死んでしまう、というプロセスを踏むのである。この《living dead》が起き上がるという点では、上記でみたところの「罵倒される小次郎」との首尾一貫性を有するわけで、本来はスケープゴートの役割を演じている場面である。
 これが伝説の祖形に近いものを保存したものであろうとは、これまた肥後系伝記とつき合わせてみればわかる。
 つまり『武公伝』や『二天記』が記すのは、小次郎を倒した武蔵が木刀を捨て、手で小次郎の口鼻を覆い、息の絶えたのを確認するという所作である。したがって、小次郎の死を確認するのは、見物の群集の囃し立て(「武蔵は行ってしまうぞ、小次郎もはやこれまでか」)ではなく、武蔵の役割に転換されている。しかも小次郎の死を確認した武蔵は、検使に向かって一礼をして去るという礼儀正しさを示す、という凡庸な事実性を模倣するという仕儀である。
 肥後系伝記の説話は、まさに伝説祖形から遠い形態に転化してしまっているのである。むろん上述のように、小次郎=死骸が起き上がるという根本的な場面もなければ、武蔵が島を去るにあたって、小次郎の剣を取って行ったとか、カルサンを脱いだ股座に帆柱に跨ったという肝心のディテールも抹消している。
 その代わりに、『武公伝』は興味深い話を記載している。つまり武蔵が舟に飛び乗るとき、その割注に、《或云、鎗或ハ半弓以射トアリ。定員聞書ニ、荒垣ノ上ヲ飛、舟中乘ル。然所箭不中ト也》と記すのである。
 これは武蔵が決闘現場から去ろうとするとき、武蔵を鎗で突いたり、あるいは半弓を射掛ける攻撃があった、ということである。武蔵は荒垣(決闘現場を結界した垣)を飛び越えて逃げたから当たらなかったという。これは、殿様お気に入りの兵法者を殺した武蔵に対する、細川家臣の攻撃だということになる。これは細川家中に小次郎の弟子たちがいたという伏線の現出である。
 肥後系伝説は、上述のように小次郎のポジションを武蔵のそれにすり替えているから、応援団がいるのは武蔵の方ではなく、小次郎の方である。とすれば、勝った武蔵が決闘現場から急いで逃亡しなければならないし、《或云》という一説によれば、たんに急いで逃げただけでなく、武蔵は攻撃を受けたという話である。
 さすがにこれは穏やかな話ではなかったとみえて、『二天記』はここで検閲を入れて抹消している。しかし、この武蔵に対する攻撃のあったことを抹消したため、『二天記』ではそれに続く話が意味不明になっている。つまり、なぜ、後に武蔵が小倉へ来て、細川家家臣の何某と試合させてくれと、長岡興長に頼んだか、不明なのである。
 この一件は、家老会議で許可されなかったので、武蔵は下関に戻ったという話のオチになっているが、『二天記』は検閲編集によって意味不明の部分を生み出してしまう。武蔵が試合を望んだその原因が抹消されているわけである。『武公伝』の方は、武蔵に仕掛けられた攻撃を記録することで、この部分の意味を保存している。『二天記』は『武公伝』に対し忠実ではないが、この部分もその一例である。
 しかしながら、他方、この「武蔵が試合後攻撃を受けた」という肥後系の説話素に注目すれば、伝説が未だ固定せざる時点での分岐派生であったことが知れる。肥後系伝説のもう一つの異伝は『沼田家記』のそれであって、武蔵はそこでは門司城代の沼田延元のもとへ逃げ込んで庇護された、ということになっている。
 つまり『沼田家記』によれば、――当初の契約では、武蔵・小次郎双方とも、弟子は一人も連れてこない約束だった。ところが武蔵側には弟子たちが来ており、武蔵が小次郎を倒した後、小次郎が蘇生したが、武蔵の弟子たちが寄ってたかって小次郎を打ち殺した。
 そこで、このことが小倉へ伝わり、小次郎の弟子たちが一味同心して、是非とも武蔵を討ち果たそうと、大勢して舟島へ押し寄せた。このため武蔵は門司へ避難して、沼田延元の門司城内に庇護されたので、命が助かった。その後、延元は武蔵を豊後へ護送して、「無二斎」という者へ身柄を渡したそうだ。――これが『沼田家記』の伝説内容である。
 明らかにこの『沼田家記』の伝説記事は、同じ肥後系伝説でも『武公伝』とはかなり違う。そもそも『沼田家記』では、『武公伝』の長岡興長の話はまったく出ない。その代わりに武蔵の庇護者として、沼田家先祖の延元が活躍するわけである。したがって、肥後系伝説それぞれの我田引水ぶりには改めて注意しておいてよい。
 それに加えて、『沼田家記』では、試合後小次郎を武蔵の弟子たちが打ち殺すのだが、『武公伝』では、試合後襲撃されるのは武蔵の方である。この点でも、両者の伝説は対照的である。言い換えれば、本来は応援団がいるのは武蔵の方だから、『沼田家記』の方が伝説祖形に近く、『武公伝』の武蔵が襲撃されたという話は、例の武蔵と小次郎のすり替えである。
 ただし、『沼田家記』でも、小次郎の弟子たちは小倉にいたというから、両者には共通したところもある。どちらも小次郎の拠点を小倉とするところは同じで、これが肥後系伝説の特徴である。これはすでにみたように、筑前系伝説とは異なる。『峯均筆記』は、小次郎を長門国人で長府住人とするし、あくまでも小次郎の舞台は下関なのである。
 ところが、『峯均筆記』が『沼田家記』と共有する説話素がひとつあって、それが門司城代の存在である。『峯均筆記』はその名は失念したと記すが、これはまず沼田延元のことであろう。すると、武蔵の庇護者は、『武公伝』の言うような長岡興長ではなく、沼田延元が正しい、と結論づけることができるか。しかし、そうは単純に決められるものではない。
 ここで話を整理してみよう。










*【江海風帆草】
《武蔵ハ、小舟に乗て、小倉の地江帰る。武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、弁之助[此時迄武藏が名を弁之助と云なり]只今立のくぞ」と云ひければ、死せる宗入、又立あがり、海上をミて、「弁之助いづくへ行ぞ」と、一聲よバゝりて忽死す》




関門海峡 手前が巌流島


*【武公伝】
《武公ガ木刀、小次良ガ脇下ノ横骨ヲ打折テ、即チ氣絶ス。少焉〔しばらくあつて〕武公木刀ヲ捨、手ヲ以テ小次郎ガ口鼻ヲ蓋テ、死活ヲ窺フコト左許〔さばかり〕、然後、遥ニ檢使ノ方ニ向テ一禮シ、起テ木刀ヲ把、舟ニ[或云、鎗或ハ半弓以射トアリ。定員聞書ニ、荒垣ノ上ヲ飛、舟中乘ル。然所箭不中ト也]飛乘、自倶棹差テ帰帆ス。后〔のち〕武公小倉ニ來、興長主ノ第ニ到テ、勝負ヲ願フ。又御家老中御寄合ニテ、御觸ノ事又不達トシテ、下關ニ囘り、勝テ後、興長主ニ書ヲ奉セシ事等ハ、田中左太夫語ル[左太夫幼年ノ時ノコト也ト云]》

*【二天記】
《武藏ガ撃處ノ木刀、小次郎ガ脇腹横骨ヲ撃折テ、即チ氣絶ス。口鼻ヨリ血流レ出ヅ。暫ク有テ武藏木刀ヲ捨テ、手ヲ小次郎ガ口鼻ニ覆ヒ、顔ヲヨセテ死活ヲ窺フ事稍暫也。而シテ后、遙ニ檢使ニ向テ一禮シ、起テ木刀ヲ把リ、本ノ船ニ行、飛乗、自ラモトモニ棹サシテ行事速カ也。下ノ關ニ歸リ、興長主ニ書ヲ呈シテ禮謝ス。其ノ後小倉ニ至リ、興長主ニ、忠興公ノ士何某ト勝負ヲナサムコトヲ願フ。老役會議シ、此ノ事願不達シテ、又下ノ關ニ歸ヌトナリ》









巌流島から門司城を望む


*【沼田家記】
《一、延元様門司に被成御座候時、或年宮本武藏玄信豊前へ罷越、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候。双方の弟子ども兵法の勝劣を申立、武藏小次郎兵法之仕相仕候に相究、豊前と長門之間ひく島[後に巌流島と云ふ]に出合、双方共に弟子一人も不參筈に相定、試合を仕候処、小次郎被打殺候。小次郎は如兼弟子一人も不参候。武藏弟子共参り隠れ居申候。其後に小次郎蘇生致候得共、彼弟子共参合、後にて打殺申候。此段小倉へ相聞へ、小次郎弟子ども致一味、「是非とも武藏を打果」と、大勢彼島へ参申候。依之武藏難遁門司に遁来、延元様を偏に奉願候に付、御請合被成、則城中へ被召置候に付、武藏無恙運を開申候。其後武藏を豊後へ被送遣候。石井三之丞と申馬乗に、鉄砲之共ども御附被成、道を致警護、無別条豊後へ送届、武藏(を)無二斎と申者に相渡申候由に御座候》



  峯均筆記 沼田家記 武 公 伝
小次郎の場所 長門長府 豊前小倉 豊前小倉
武蔵の場所 異 人 豊前小倉 長門下関
武蔵関係者 門司城代何某 沼田延元 長岡興長
決闘環境 武蔵有利・小次郎不利 武蔵有利・小次郎不利 武蔵不利・小次郎有利
試 合 後 見物貴賎が小次郎に
声をかける
武蔵の弟子が小次郎を
打ち殺す
武蔵が(小次郎弟子に)
鑓・半弓で攻撃される
後 日 談 な し 門司城に庇護された武蔵が
豊後へ護送される
小倉へ来た武蔵が
試合を申し入れるが却下

 これによって見れば、『沼田家記』のポジションがわかる。つまり『峯均筆記』と『武公伝』を媒介する中間的位相にある。すなわち、『沼田家記』の伝説は『峯均筆記』と共有する部分は伝説祖形に比較的近い。その伝説祖形は上述のように、敗者小次郎に加担するものであって、『沼田家記』の伝説ではそれがかなり保全されている。
 さらにいえば、小次郎に加担する長門の地元伝説では、言うまでもなく「小次郎は負けたが、負けなかった」という否認のポジションがある。そういう否認が『沼田家記』の伝説では大きく膨らんで、武蔵の打撃は小次郎を殺すに至らなかった、小次郎が死んだのは武蔵の弟子が小次郎を打ち殺したからだ、という伝説形成にいたっているのである。この説話素を修飾するのが、武蔵小次郎両者契約では弟子は一人も連れて行かないことになっていたが、武蔵側はそれを破って、武蔵の弟子どもが現場に隠れていた、という環境設定である。
 これは、十八世紀中期の古川古松軒『西遊雑記』に記す赤間関の伝説、すなわち、武蔵が門人多数を連れて先に渡っていたとか、その門人が四人加わって小次郎を討ち果たしたとかいう話と共通するところである。したがって、こうした武蔵が門人らと一緒になって小次郎を打ち殺したという伝説は、そのまま後々まで存続していたのである。
 しかしまた、『沼田家記』固有の伝説展開もある。武蔵が門司城に逃げ込み、沼田延元に庇護され、さらに豊後まで護送されたという説話展開は、伝説成長過程からすれば、かなり進んだものであり、のちに肥後で生じた伝説であろう。
 『峯均筆記』の説話素、つまり武蔵の応援団としての門司城代とその武装集団の、決闘現場へのプレゼンスというシーンは、決闘環境が「有利な武蔵/不利な小次郎」という対立構図であり、それを『峯均筆記』と『沼田家記』が共有するのに対し、『武公伝』はこれを反転して「武蔵不利/小次郎有利」としたものである。言い換えれば、武蔵への明らかな加担はこの肥後八代系の伝説にのみ特徴的なのであり、これは伝説としては新しい様相を示す。
 これに対し『峯均筆記』の伝説では、同じく決闘環境が「有利な武蔵/不利な小次郎」という対立構図にあるものの、ここではすでに小次郎は罵倒される対象である。「不利な小次郎」の意味が加担からする設定からシフトして、反対の意味合いへ転化している。
 他方、『沼田家記』が先祖の延元の活躍を記せるのは、もともと長門の地元伝説に、対岸の門司城に武蔵の応援者がいた、という環境設定があったからである。そうして、小次郎は不利にもかかわらず善戦したという共感的スタンスを構成した。『沼田家記』が取り込んだのはそういう対岸性の対立的構図の伝説である。
 ただし念のため言っておけば、小次郎に心情的に加担する長門の地元伝説では、武蔵の応援団である門司城主は「敵役」である。本来の伝説では敵役なのに、それを我田引水して、意味をすっかり反転してしまったのが『沼田家記』の記事である。
 ところで、この『沼田家記』の記事を史実と錯覚する、という嗚滸な傾向が近年生じているが、以上の分析結果からすれば、それは誤りである。これも巌流島伝説の一つであり、そうした伝説のうち古型を一部保全しつつ、場面の意味を交換し、しかも後世肥後での尾鰭がついたのが『沼田家記』の伝説内容なのである。
 そもそも、巌流島を彦島(ひく島)と取り違えるような認識しかないのが、『沼田家記』の記者のポジションである。小倉時代にオリジナル原稿ができていれば、そんな初歩的な間違いは生じない。『沼田家記』の武蔵記事は後世肥後での補筆たること明白である。
 『峯均筆記』は、小次郎は古今の英雄と云うべきである、惜むべし、憐むべし、と記す。しかしこれは、『峯均筆記』の地の文ではない。まだ伝説の引用部分である。それは、次に、この話は下関辺りで語り伝えると述べるところで、『峯均筆記』の記述がやってくるのをみればわかる。  Go Back










*【西遊雑記】
《赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに板本に記せしとは大に異なり。岩龍、武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時、浦のものども岩龍をとゞめ、「武蔵の助、門人を数多引具し先達て渡れり。大勢に手なしといふ事有り、一人にて叶ふまじ。今日はひらに御無用なり」といふ。岩龍が曰、「士は言さはまず。かたく約せしなれば、今日渡らさるは、士の耻るところ也。若し大ぜいにて我を討ば、耻辱はかれにぞあるべけれ」といふて、おして島に渡る。はたして門人の士四人與力して、終に岩龍討る。初(め)止めし浦人、岩龍が義心にかんじ墳墓を築しより、かくは稱することゝなれり。虚實は知らざれども、土人の物語のまゝを記して後の考へとす。或人また、宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せり、と云》







巌流島周辺地図
 
 (17)夫ヨリシテ、舟嶋ヲ巌流嶋ト呼ブ
 以上は、下関辺りで語り伝えるところである。このことから、舟嶋を巌流嶋と呼ぶ。――ここから『峯均筆記』の地の文である。そうして、小次郎がもっていた刀は、今なお宮本伊織の家にあるとか、という現在形の噂話を書き付けて、この段は終る。宮本伊織の家にある小次郎の刀とは、伝説につきものの証拠の品、リアルなものの小片である。
 立花峯均は、武蔵が小次郎から取った刀が、小倉の宮本家にあるのを、確認したかというと、そうではない。これはあくまでも伝聞なのである。言い換えれば、この巌流島伝説にしても、立花峯均がナイーヴに信じていたというよりも、伝説は伝説のままに伝えるというスタンスである。
 福岡と江戸との往還の折、立花峯均はこの小島の側を何度も通ったであろう。この小島は後にもっとも有名な武蔵記念地へと昇進していくのであるが、少なくともこの島が「武蔵島」ではなく「巌流島」と呼ばれる以上、地元では話は違っていた。伝説をみれば地元の心情が加担したのは、武蔵ではなく小次郎だったのである。
 この状況は、むろん歌舞伎浄瑠璃など演劇で、武蔵物が出てくる以前のことである。初期の演劇では、まず「佐々木巌流」という名の悪役が登場し、これに対し武蔵をモデルにする役は、敵討を助ける善玉である。ついで演劇上での展開は、武蔵自身を敵討の主体とし、親の仇「佐々木巌流」を討つという筋書きへ転換され、そこで武蔵物演劇は定型を得るに至る。
 上述の如くすでに若干言及したところであるが、これを再論すれば、歌舞伎台本現存史料ではこの「佐々木巌流」の初出は、元文二年(1737)の夏、大坂で上演された「姉小剣妹管鎗敵討巌流島」である。ここでは宮本武蔵に対応するのは「月本武蔵之助」という役名である。これに少し立ち入って、その役名の名づけ方を確認してみよう。
 歌舞伎浄瑠璃など演劇では、現実の事件をモデルにすることが少なくない。そのばあい、モデルとなる人物が実名で登場することはない。必ずモデルの名を変えるが、そのシフトも容易にモデルがそれと分かるようなやり方である。周知のように、歌舞伎や浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」では、モデルの大石内蔵助は「大星由良助」である。
 このような実名のシフトによって役名を創作することは、上記の巌流島物歌舞伎「姉小剣妹管鎗敵討巌流島」でも行なわれている。分かりやすいのは、「月本武蔵之助」という役名で、これはだれでもそれとわかる。大石内蔵助が「大星由良助」になるのと同様の操作である。
 他には、小倉城主が「本田主税」となっているが、これは細川越中守を憚っただけではなく、本田=本多家がとくに播州姫路で武蔵と縁があったという事実を、ここへ反映させている。この播州姫路という隠し味は、佐々木巌流の就職斡旋にちらり登場する「小寺」という姓によっても反復されている。こうした操作には一貫性があるわけである。
 ところで、問題は「佐々木巌流」という役名である。以上確認した役名操作のことからすれば、「佐々木巌流」という名は、モデルとなった者の実名ではない、ということだけは少なくとも明らかである。「宮本」武蔵が「月本」武蔵之助へシフトしたように、ここは「?」巌流が「佐々木」巌流へシフトされたのである。

モデル名 役  名
大石内蔵助 大星由良助
宮本武蔵 月本武蔵之助
( ? )巌流 佐々木巌流

 「佐々木」姓は実名を避けた役名である。このマトリックスによって明らかなように、「大石」が「大星」になり、「宮本」が「月本」になる。それで、いま我々は役名「佐々木」を得ている。とすれば、モデルとなった巌流の姓は「佐々木」ではない――これは論理的な結論である。
 もとより、モデルとなった巌流の姓が何であったか、現在のところ我々は知ることができない。ゆえに「?」巌流としておくほかないのだが、おそらく「佐々木」と語韻が近似している姓である可能性がある。これはシニフィアン・レベルにおける置換であるが、また、細川→本田のようなシニフィエ・レベルにおける置換による姓もあろう。その候補はいくつかあるが、その探索は読者の楽しみためにとっておきたい。
 さて、上述のごとく「姉小剣妹管鎗敵討巌流島」は元文二年(1737)の夏、大坂で上演された。その「佐々木巌流」という名については、これが現存史料の範囲での初出であるから、他に先行作品があったかもしれない。したがって遅くとも、この頃までには「佐々木巌流」は誕生していたと言える。この後、武蔵物が人気を博するとともに、巌流の佐々木姓は広く知られるようになり、いつのまにか武蔵の決闘相手は「佐々木」以外に考えられなくなったのである。
 かくして巌流の佐々木姓は今日でも当然とされ、しかもそれにとどまらず、「佐々木」小次郎の出自に関して、埒もない愚説妄説の類が量産されているという次第である。ところが、もともとこの「佐々木」は、一七三〇年代に巌流島物歌舞伎で創作された姓名なのである。
 『峯均筆記』は享保年間の成立で、名は「津田小次郎」とある。しかし同じく筑前系史料の『江海風帆草』はこれより数十年古い十七世紀後期の文書で、そこでは「上田宗入」、まったく違う名である。あるいは『沼田家記』も同じく「小次郎」名。これと同じ肥後系の伝記『武公伝』では「巌流小次良」とある。「小次郎」名は『峯均筆記』が肥後系伝説と共有するから、比較的早期の誕生であり、おそらく、下関辺りで「小次郎」という名が伝えられていたのである。
 このように、一七二〇年代までの武蔵伝記の範囲では、「小次郎」名はあっても、「佐々木」姓はない。それも当然で、「佐々木」姓は一七三〇年代に巌流島物歌舞伎で創作された姓なのである。この巌流島物歌舞伎の出現以前以後を例示するのが、肥後系伝記の『武公伝』と『二天記』の相違である。『武公伝』にはないが、『二天記』が注記で拾った異説で、はじめて「佐々木」小次郎が出現する。これは、十八世紀後期までに十分流布していた巌流島演劇の「佐々木」姓がこの武蔵伝記へ採取されたのである。
 ここに固有武蔵伝説と上方での創作歌舞伎の影響とが結合する。しかしながら、有名なのは演劇や読本の「佐々木巌流」であって、そのまま明治末まで来てしまう。ところが、明治末に武蔵の「実像」を探求するという実証主義の物真似が生じ、宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』が登場するに至る。そこには「佐々木小次郎」が考証抜きで登場するが、それが我々の知る「佐々木小次郎」のデビューだった。ところが、不用意なこの名が、何と広く信じられるようになったのである。
 かくして注意すべきは、「佐々木小次郎」は明治末に発掘された姓名であり、いわば近代の発見にかかる名である、ということである。こうしてみれば、最初、小倉碑文に「岩流」とその名が記されて以来、二世紀半、その岩流は思いがけない名を得たと言うべきである。
 それ以後の展開は周知の通りで、かの宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』が信奉され続け、昭和の戦争期にいたって吉川英治の小説『宮本武蔵』がこれを種本にして「佐々木小次郎」を具体化し、以来、巌流島決闘における武蔵の対戦相手は、「佐々木小次郎」以外になきがごとくである。
 ともあれ、ここで最低確認しておきたいことは、『峯均筆記』や『武公伝』など初期の武蔵伝記には、「小次郎」名はあっても「佐々木」姓はないということ。むしろ「佐々木小次郎」という名は近代の発見物なのである。それゆえ、小説書きの連中に物申すのだが、諸君らは無知もいい加減にして、「佐々木」小次郎は速やかに廃止すべし、ということである。  Go Back




巌流島 佐々木巌流之碑
明治四三年(1910)建立
ただし伝説にある墓ではない





*【姉小剣妹管鎗敵討巌流島】
   佐々木巌流  (藤川)半三郎
   月本武蔵之助 (坂東)彦三郎
(四ツ目 佐々木巌流が武蔵之助に対面し弟子にしてくれと頼込む場面)
〔武蔵〕ハア。ついどお目にかゝつた義もござらぬ。なれぱお近付で有ふよふもなし。最前の働、由緒有ルお方と少し床しう存ますル。先どなたでござりますルぞ。
〔巌流〕私義は佐々木巌流と申者でござる。
〔武蔵〕フム。承り及びました伊与の城主三好式部太輔様の御家人、佐々木巌流殿でござるなア。
〔巌流〕面目もない御対面申ますル。
〔武蔵〕ハテなア。
〔巌流〕子細御ざつて馬淵角右衛門と申朋友、剣術の意趣によつて討て立退ましてござる。所に角右衛門男子一人リもござらぬ。親の敵といふて付狙ふ者一人りもござらぬ。武士の義によつて角右衛門を殺し、やみやみと腹切て相果ルも、近頃云甲斐なふ存じ、今日の只今迄、かやうの浪人の身となり罷暮しまする所に、当小倉の御城主本田主税様より私を召抱たいと、小寺政右衛門殿の御挨拶なれ共、御家中には月本武蔵之助殿と申剣術の達人、其元の御座被成るゝに、私推して御奉公に出まするは何とやらしう存て、夫故お願ひ申ますル。何とぞ其元の弟子になされて下され。弟子に成ますれぱ、心よふ御奉公いたすと申ものでござる。此義を申上ふため、御乗物止めましてござる。
〔武蔵〕はれやれ。佐々木巌流殿でござるよなア。最前の働、唯人ならぬと見ましてござるが、流石の巌流殿、天晴驚入ました。先達て意趣の仔細は存ぜね共、人を殺め国を立退、此小倉の町に忍ばつしやるといふ義を承り及んだ。折も有らば御参会仕り、何とぞ兵法軍術の御相談も仕らふと兼ては存おりましてござる。これや、よい折からの御対面申て、手前も大慶に存ますル。しかし、そなたを手前の弟子なんどゝは思ひもよらぬ義でござる。正真の鳥ない里の蝙蝠とやらで、及ばぬ芸も家中の指南ではござらぬ。兵法の相談相手に罷成まする。なれや其元、殿へ出さつしやりて御ざらうならば、いよいよ家中の励み共成ル。すれやまさか、殿のお役に立ッと申ものでござる。ともゞもお役には立まいが、お取次申さふ。私に御遠慮なふ、何とぞ殿に御奉公なされて下され。是武蔵之助めが別てそなたへのお頼でござりまする。
〔巌流〕是は是は結構な御挨拶で痛入ますル。其元の御弟子にさへなされ下されませうならぱ、成程御奉公相勤ませう。
〔武蔵〕イヤイヤ。弟子と申義は、幾重にも御用捨被成下されませう。
〔巌流〕いや、どう御ざりませうとも。
〔武蔵〕自他とも其義は御許されませう。
〔巌流〕しからばお弟子には成まいなア。
〔武蔵〕巌流殿ほどの人を武蔵之助が弟子と申ては、他の聞へ、人が笑ひますル。(下略)








*【二天記】
《岩流ハ佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ。英雄豪傑ノ人ナリトテ、武藏モ是ヲ惜ミシトナリ》(注記)


*【顕彰会本宮本武蔵】
《そもそも佐々木小次郎とは、いかなる人ぞといふに、越前國宇坂の庄浄ヘ寺村の産にして、天資豪宕、壮健無比ときこえしものなるが、同地の富田勢源といふ剣客の家人なり》



彦島から巌流島を望む

以上、『峯均筆記』の巌流島決闘記事を一通り読んでみた。論点は基本的に重複するが、本サイト[坐談・宮本武蔵]第七回「伝説としての巌流島決闘」で詳細な検討と分析がなされているので、より包括的な論議を知りたい方には、それを一読されることをすすめる。

 「伝説としての巌流島決闘」 → 
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