宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  3  Back   Next 

 
  05 吉岡一門との対戦
一 武州二十一歳ノ春、上京セラル(1)。其奥意ハ、其比、兵法天下第一吉岡ト云者アリ。吉岡ガ免状ヲ不持シテハ、武者修行トシテ回國スル事叶ハズ。武州ヲモヘラク、「禁裏公方ヨリノ被仰付ナラバ、縱ヒ吉岡下手ニモセヨ、彼ガ一筆ヲ申請ベシ。自分トシテ左様ノ非法可致様ナシ。先吉岡ヲ打ヒシギ、心安ク回國スベシ」トテ、京ヘ登リ試闘ヲ望マル。(2)
 吉岡清十郎、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。武州、其日ニ至リ病臥、起居不安ノ由ニテ、斷ニ及ブ。清十郎、頻ニ可致勝負旨、數度使ヲ走ラシム。
 武州竹輿ニ乘リ、大夜着ヲ着シ、場所ヘ至ラル。清十郎出迎、「病氣何分ノ事ニヤ」ト乘物ヲノゾク所ヲ、戸ヲ押明ケ、フツト*出テ、枕木刀ヲ以テ只一打ニ打倒シ、息絶ス*。門生等、戸板ニ助ケ乘セテ持歸リ、藥ヲ與ヱ漸ク復ス。遂ニ兵術棄テ薙髪ス。(3)
 又、吉岡傳七郎、洛外ニ出テ決雌雄。傳七郎、五尺餘ノ木刀ヲ携ヘテ立向フ。武州、其機ニ臨ンデ彼ガ木刀ヲ奪取、打倒サル。立所ニ命終ル。(4)
 吉岡ガ門人等、冤ヲ含ンデ密ニ相議シテ曰、「兵術ヲ以テハ敵シ難シ。大勢取圍ンデ打果スベシ」トテ、吉岡又七郎、事ヲ兵術ニヨセ、洛外下リ松ノ邊ニテ會ス。門人等數百人、鎗薙刀弓箭ヲ取テ出向フ。
 武州ノ味方モ門人十餘輩アリ。中ニモ十七八歳ノ若者、一番ニ進ム。武州、跡ヨリ声ヲカケテ、「加様ノ場ニテタルメバ命ヲ墜スモノゾ。少モタルムナ」トテ、後ヨリ帯ヲ取テ、真先ニ推立進マル。彼者矢ニ當テ疵ヲ被ル。
 武州、門人等ニ曰、「何レモ心閑カニ立退キ候ヘ。我等一人蹈留リ、大勢ヲ追拂ヒ、跡ヨリ可追付」トテ、門人ヲ先ダテ、多敵ノ位ニテ打拂々々退カル。或三十、或五十、七十、八十、乃至百人ニ餘リ、彼方此方ニテ取圍ンデ、打テ掛ルヲ、追拂ヒ退ルヽトイヘ共、猶行先數百人打圍ム。武州、寺ヘ入リ、寺傳ニ*退テ跡ヲ失ス。與力同心、追々驅來リ、漸ニ*取シヅム。(5)
 夫ヨリシテ、吉岡ガ家、泯絶セリ。元祖吉岡兼方ヨリ代々京師*將軍家之師範タリ。日本第一兵法者ト號ス。公方義昭公ノ御時、武州ガ父無二ヲ召テ、吉岡ト勝負ヲ見玉フ。三度ノ内、無二、二度勝事ヲ得タリ。夫ヨリ無二ヲ日下*無雙兵法者タルノ號ヲ賜フ。武州、相續キテ吉岡ガ嗣三人迄打隨ヘ、門人数百人ヲ追拂ヒ玉フ。兵法天下無雙ト号スルモ宜ナル哉。(6)
一 武州二十一歳の春、上京された。そのわけというのは、その頃、兵法天下第一吉岡という者があり、吉岡の免状を持たずしては武者修行者として廻国することができなかった。武州が思うに、「禁裏〔朝廷〕公方〔将軍〕からのご指示であれば、たとえ吉岡が(自分より)下手であっても、その一筆を申し受けよう。(ところがそうではないから)自分にはそんな曲がったことはできない。(だから)まず先に吉岡をつぶして、それから心安く廻国しよう」と、京へのぼり(吉岡に)試合を望まれたのである。
 吉岡清十郎が、洛外蓮台野で(武州と)勝負を決することになった。武州は当日になって、病臥して起居安からずという理由で、(試合を)断わるに及んだ。(しかし)清十郎は勝負すべしと、しきりに(勝負を催促する)使いを何回も(武州のもとへ)走らせた。
 武州は、竹輿に乗り大夜着*を着込んで、約束の場所へ到着された。清十郎が出迎えて、「病気はどんな具合か」と乗物を覗き込んだところを、(武州は)戸を押し明け、ふっと(外へ)出て、枕木刀でただ一撃で打ち倒し、(清十郎は)気絶した。門生等は(清十郎を)介助して戸板に乗せて連れ帰り、薬を与え、ようやく回復した。(清十郎は)結局兵術を棄て、薙髪(剃髪出家)してしまった。
 また、吉岡伝七郎が、洛外に出て(武州と)雌雄を決した。伝七郎は五尺〔1.5m〕余の木刀を携えて、立向った。武州は、その機に臨んで彼の木刀を奪い取り、打ち倒された。(伝七郎は)たちどころに絶命した。
 吉岡の門人らは怨みを抱いて、ひそかに謀議して云う、「兵術をもってしては(武州には)かなわない。大勢で取り囲んで打ち果そう」と。吉岡又七郎は、兵術〔演習〕に事よせ、洛外下り松のあたりに(門人を)集めた。門人ら数百人が、鎗・薙刀・弓矢をもって出動した。
 武州の味方も門人十余人がいた。中でも十七八歳の若者が一番に進む。武州は後から声をかけ、「こんな場で弛む〔たじろぐ〕と命を落とすものだぞ。少しも弛むな」といって、後から帯をつかんで真先に推し立て進まれた。(ところが)かの若者が矢に当たって負傷した。
 (そこで)武州は、門人らに曰く、「全員おちついて立退きなさい。おれは一人踏み留まり、大勢を追払って、後から追いつくから」と、門人を先立たせ、「多敵の位」で(敵を)打払い打払い退却される。あるいは三十人、あるいは五十人、(そして)七十、八十、ないし百人以上が、彼方此方で(武州を)取囲んで、打ってかかるのを、追払い退かれるけれども、なお行先に数百人もいて包囲する。武州は寺ヘ逃げ込み、寺伝いに退いて行方をくらました。(京都所司代の)与力同心らが追々駆けつけて、ようやく(騒ぎを)鎮静させた。
 このことがあって、吉岡の家は断絶した。元祖吉岡兼方以来代々、京師の将軍家の師範であった。「日本第一兵法者」と号した。公方〔将軍〕義昭公の時、武州の父・無二を召して、吉岡との勝負をご覧になった。三度の内、無二が二度勝ちを得た。そのため、無二に「日下無双兵法者」という称号を賜わった。武州は(無二に)続いて吉岡の嗣を三人も打ち負かし、門人数百人を追払われた。(武州が)「兵法天下無双」と号するのも、当然であるか。

  【評 注】
 
 (1)二十一歳ノ春、上京
 この段は、今日では巌流島決闘と並んで有名な、京都の吉岡一門との対戦譚である。しかし有名になっているからといって、本来の武蔵伝記には確実な話はほとんどない。以下、順次みてみよう。
 ここで「武州」とある。前段の巌流島決闘までは「弁之助」だったが、以後は「武州」と呼ぶのである。「武州」というのは新免武蔵守玄信の「武蔵守」に対応する名称。書簡の用例では、武蔵自身や伊織のような身内は「武蔵」と云うが、他人は武蔵を「武州」と呼ぶ。武蔵自身や伊織のような身内は「武州」とは云わず呼ばず。「武州」と「武蔵」には、そんな用法上の相違があることは念頭におかれたし。
 この段から武蔵を「武州」と呼ぶのだが、とすれば、このときまでに『峯均筆記』のいわゆる「童名」を捨てて、新免無二の家名を嗣いで新免武蔵守玄信と名のるようになっていた、という背景設定のようである。
     十九歳 (弁之助) 巌流島で小次郎を倒す
     二十一歳 (武州) 上京して吉岡一門と対戦
 すでにみたように、巌流島決闘を武蔵二十九歳のときとするのは、肥後系伝記によるもので、十八世紀前期の段階では、上京して吉岡一門と対戦する以前のこととする説が、筑前系伝説にはあったのである。
 武蔵が二十一歳のとき、上京したことは、五輪書地之巻冒頭の自序部分に記してある。小倉碑文には、二十一歳という記載はないが、同様の記事がある。したがって、筆者が五輪書を参照したとすれば、この点はとくに問題はない。
 しかしながら問題は、二十一歳の「春」とするところである。五輪書には、この「春」という記事はない。この情報はどこからきたものであろうか。
 これを肥後系伝記にあたってみると、『武公伝』では、「同九年[甲辰]、廿一歳ニテ都ニ上リ」とあって、二十一歳上京のことを記しており、武蔵二十一歳が慶長何年にあたるか暦を調べて、同九年[甲辰]とするわけである。慶長九年という情報があったのではない。
 他方、『二天記』では、同じく「同九年」とするのは『武公伝』と同じだが、干支がまちがっている。これは『武公伝』の方が正しいのである。『二天記』は『武公伝』に忠実ではないが、承継記事にもかような誤謬をもたらしている。この点、諸君の注意を喚起するところである。
 しかるに、興味深いことに、『二天記』は『峯均筆記』と同じように、「春」という記載をしている。『武公伝』にない記事が『二天記』に登場するわけだから、肥後系伝記の展開経路からすると、これは『二天記』が途中で仕入れた話である。すると、『二天記』はどこからその情報を得たのか。
 改めて言えば、すでに『峯均筆記』に「春」の文字がある以上、筑前の伝説では武蔵二十一歳の「春」上京という話はあったかもしれない。『二天記』はこれより半世紀のちの著述だから、筑前系伝承の影響があったとみえないこともない。
 しかしながら、『峯均筆記』がこの「春」という情報をどこから仕入れたか、不明なのである。おそらくは筑前二天流の口碑だったのであろうと推測しうるが、それが不明である以上、必ずしも武蔵の二十一歳上京の季節が春だったと特定しうる史料とはならない。少なくとも、二十一歳上京の季節が春だったという口碑が、筑前系の伝説に存在した、という事実しか証言していない。
 なるほど、『峯均筆記』以後の筑前系伝記をみるに、立花峯均の孫弟子・丹羽信英の『兵法先師伝記』には、二十一歳とのみあって、「春」という文字はない。また同じく筑前二天流早川系の大塚藤郷にしても、伝記『世記』に、二十一歳とのみ記して、「春」とは書かない。
 かくして、『峯均筆記』の二十一歳の「春」という記事は、後の世代の伝記にはない、まさに筑前系伝記のなかでも孤立例である。とすれば、これは立花峯均の筆が思わずすべったとも考えられる。
 それゆえ、『峯均筆記』のこの記事をもって、武蔵の二十一歳上京のおりの季節が春というのが史実だとはなしえない。また、筑前の『峯均筆記』と肥後の『二天記』のどちらにも、二十一歳の「春」とあるからといって、武蔵が上京した季節は「春」だと見なすわけにはいかないのである。この点、賢明な留保のスタンスをとることが必要であろう。  Go Back







吉田家本
五輪書 地之巻


*【五輪書】
二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、數度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし》

*【小倉碑文】
《後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ》



*【武公伝】
《同九年[甲辰]、廿一歳ニテ都ニ上リ天下兵法者[吉岡父子參人]ニアイ、數度ノ勝負ヲ決ストイエドモ、勝利ヲ得ズト云フナシ》

*【二天記】
《同九年辛丑春、二十一歳ノ時都ニ上リ、天下ノ兵法者吉岡庄左衛門ガ嫡子清十郎ト、洛外蓮臺野ニ於テ雌雄ヲ決ス》





*【兵法先師伝記】
《先師廿一歳ニシテ都ニ上リ、諸流ノ兵法者ト試闘アリケル由、兵書ニモ記シ置レ、雜書等ニモ記セシ事モアレ共、慥ニ語リ傳ヘシ事ナケレバ、今此傳記ニ書付ベキ事ナシ。誠ニ遺恨ナル事ナラズヤ》

*【世記】
《慶長八癸卯年[(後訂正)「九、甲辰ナルベシ」]武州師二十一歳、都ニ登リ、天下ノ兵法者吉岡清十郎ト、蓮臺野ニ於テ仕合アリ》
 
 (2)兵法天下第一吉岡
 京の兵法の家・吉岡一門に関しては、武蔵関連史料では小倉碑文及び『武芸小伝』以外にさして情報はない。だが、『峯均筆記』は、武蔵が吉岡一門と対戦するにいたった、その理由を述べる。かなり説話の虚構性が濃厚である。
 どうして武蔵が上京して吉岡と対戦するつもりになったのか。吉岡一門は「兵法天下第一」を名のっていた。――小倉碑文には、《扶桑第一兵術者の号有り》とあって、称号が違っているが、まあ、そこまではよい。
 次に『峯均筆記』は、当時、吉岡の免状を持たずしては、武者修行で廻国することができなかった、という。つまり廻国武者修行の免許発行権を、京都の吉岡が独占していた、という話である。これが事実なら興味深いところであるが、むろんそんな事実はない。
 第一、足利幕府はすでに滅亡しているのである。吉岡の道場はあっても、兵法所という機関はない。慶長九年の段階で吉岡一門が廻国修行免許権をもっていた、などというこうした話の設定は、小倉碑文が、吉岡を、「吉岡代々、公方の師範爲り。扶桑第一兵術者の号有り」とするところから、尾ひれがついて出てきたものであろう。
 さて、ここでの物語は、廻国修行するには吉岡の免許が必要な状況だから、武蔵が考えるに、朝廷や公方から吉岡の免許権が公認されているのなら、しかたがない、たとえ吉岡が自分より下手であっても、膝を屈してその免許を申請しよう。ところが実際はそうではないから、自分にはそんな道理に合わないことはできない。吉岡が廻国修行を妨げる障害物になるのなら、まず先に吉岡を粉砕して、それから心安く回国しよう、というわけで、上京して吉岡に挑戦した――これがここでの話である。
 五輪書に二十一歳のとき「都へ上った」とあるから、そこで、それまで播磨あたりにいた武蔵が、どうして京都へ行ったか、武蔵伝記においてこれが興味深いところなのであろう。それで、こんな話が出来上がってしまったのだが、申すまでもなく、これはすでに十分ドラマ仕立ての設定で小説と変わりない。もとより説話論的に云えば、不当な障害を克服するヒーロー、もっと言えば旧秩序を粉砕する英雄の役割を、主人公たる武蔵が負うというわけで、説話として発展した形態がここに認められる。
 肥後系の伝記『武公伝』『二天記』の方は、五輪書や小倉碑文以上の情報をもたなかったとみえて、吉岡を粉砕する理由なんぞという話はない。したがって、この部分は、筑前系伝説に固有の説話である。『峯均筆記』の傾向は、巌流島伝説のケースでもそうだが、とにかく仕合に至る因縁を語りたがるところにある。  Go Back






*【小倉碑文】
《吉岡代々、公方の師範爲り。扶桑第一兵術者の号有り》


*【本朝武芸小伝】
《吉岡者平安城人也。達刀術、爲室町家師範、謂兵法所。或曰、祇園藤次者、得刀術之妙。吉岡就之、相續其技術也。或曰、吉岡者鬼一法眼流而京八流之末也。京八流者鬼一門人鞍馬僧八人矣。謂之京八流也云々。吉岡與宮本爲勝負。共達人而未分其勝負也





吉岡憲法 武稽百人一首
 
 (3)吉岡清十郎
 吉岡一門との対戦は、三度にわたるが、その最初は吉岡清十郎との対戦である。
 武蔵の挑戦を受けて、吉岡清十郎が、洛外蓮台野で勝負を決することになった。武蔵は清十郎を打倒し、負けた清十郎は薙髪して出家してしまうという話――これは小倉碑文の記事による。
 基本的な説話の出所は、小倉碑文なのだが、例によって『峯均筆記』独特の話も盛り込んでいる。つまり、武蔵は仕合当日になって病気になり、体調が思わしくないという理由で、仕合を断わった。この話も他の武蔵伝記にはみられないところである。
 武蔵は病気を理由に仕合を断わる。しかし清十郎は、勝負すべしと、しきりに仕合を催促する使いを何回も武蔵のもとへ走らせた。このあたりも、巌流島伝説と類似の説話論的構成が確認される。武蔵は小次郎との対戦でも、仕合を先方から要求されるように仕向けるというのが、『峯均筆記』の話であった。
 武蔵は清十郎との勝負を避けた。しかし清十郎が強いて仕合を望むので、これに応じたかっこうである。武蔵は、病気で起居安からずという体で竹輿(駕籠)に乗り、大夜着を着込んで、決闘場所まで行く。これは、同じ筑前系伝記の『兵法先師伝記』もこの説話を踏襲している。すなわち、武蔵は風邪で試合を断わったが、吉岡が再三勝負を要求するので、引駄に乗って布団にくるまれて、決闘現場へ赴いたというわけである。
 この「大夜着」は当時のいわゆる「布団」で、掻巻みたいなものである。肥後系伝記『武公伝』の巌流島記事にみえるところの、綿襖の類であろう。つまり、『峯均筆記』では吉岡清十郎との対戦で出てくる「大夜着」が、『武公伝』では巌流島へ向かう場面で「綿襖」として出てくるわけである。もっとも、巌流島決闘では舟が乗物だが、ここでは武蔵は竹輿に乗ってやってくる。このあたりは共通する説話素として、注意を要するポイントである。
 というのも、すでに指摘したように、天孫降臨神話の瓊瓊杵尊が真床襲衾にくるまって降臨するという神話素がここも反響している。「大夜着」や「綿衾」、これに対応する「竹輿」や「小舟」という乗物など、その神話的アイテムに留意すべきである。
 さて、現場でのこと――武蔵がやってきたのを、清十郎が出迎えて、「病気はどんな具合だね」と乗物を覗き込む。すると、武蔵は竹輿の戸を押し明け、ふっと外へ出て、いきなり枕木刀でただ一撃で打ち倒した。清十郎は気絶してしまう。門生等は清十郎を介助して戸板に乗せて連れ帰り、薬を与え、ようやく回復した。清十郎は結局兵術を棄て、剃髪して出家してしまった…。
 武蔵はこのように、不意打ちで清十郎を倒したというのである。このあたりの話は具体的だが、こんな話は肥後系伝記にはみえない。代わりに、清十郎は真剣、武蔵は木刀などという焦点がずれた話が出ている。この説話素は、小倉碑文の巌流島決闘記事にあり、その焼直しである。
 ちなみに、他の史料もあわせて、両者の道具説を一覧すれば、以下の如くである。

  吉岡清十郎 宮本武蔵
小倉碑文 ―― 木 刄
峯均筆記 ―― 枕木刀
兵法先師伝記 ―― 小木刀
武 公 伝 真 剣 木 刀
二 天 記 真 剣 木 刀
本朝武芸小伝 大木刀 二 刀
古老茶話 木 刀 竹 刀

 『古老茶話』の、武蔵は竹刀などという間抜けな話は別にしても、『武芸小伝』が、清十郎に大木刀を持たせ、武蔵には二刀ないしは一刀、つまり太刀をもたせている点が注目される。これは、武蔵伝記の構図とは逆である。
 つまり、武蔵伝記では、木刀は武蔵の道具である。とくに肥後系伝記では、清十郎は真剣、武蔵は木刀とするのである。『武芸小伝』を参照した肥後系伝記が、あえてその逆を示しているのが興味深い。
 おそらく『武芸小伝』が拾った伝説では、小倉碑文に清十郎の次に武蔵の相手になったという伝七郎の道具との混同があったのであろう。さすがに九州の伝記だけあって、肥後系伝記は小倉碑文の武蔵は木刄という記述を無視できなかった、そして『武芸小伝』の記述は逆だという意味で、清十郎は真剣、武蔵は木刀と、わざわざ記すのである。
 しかし、小倉碑文には清十郎の道具に関する記事はない。それゆえ、肥後系伝記の清十郎は真剣という記述は、一種の逸脱行為なのである。いづれにしても肥後系伝記には、大して材料とすべき口碑はなかったらしい。
 ところで興味深いのは、上記の如く『峯均筆記』によれば、武蔵が病気を理由に仕合を断わり、清十郎が再三試合を要求してきたので、武蔵は竹輿に乗って決闘場所まで出かけた、そうして、病気はどうだと覗き込む清十郎を、枕木刀で不意打ちに打ち倒した、という話がある。枕木刀は、小太刀で、竹輿のような乗物でも携帯できる。竹輿と枕木刀は整合性をもつアイテムである。
 『峯均筆記』では、武蔵は竹輿に乗って現れ、小太刀で吉岡を不意打ちにした。これは変態のはげしい『兵法先師伝記』でも基本的に同じ説話素がある。さて、この伝説はどうみるべきであろうか。
 明らかにこれも、巌流島決闘譚においてと同様、京都の地元伝説の残響がある。すなわち、それは武蔵ではなく清十郎に心情的に加担した伝説で、武蔵は病気と称して仕合を避けようとして断わった、あるいは、臆して仕合を躊躇した、のみならず吉岡から再三要求されて仕方なしに現場へ赴くや、竹輿に乗って出る擬装をし、油断した清十郎を不意打ちにして倒した――といった内容であったはずである。
 こういう京都の伝説を想定しうるのは、他の史料に類似断片を見出すからである。たとえば、武蔵が病気を理由に仕合を断わったが、吉岡の催促でようやく仕合に臨んだという前半の説話に類似するのは、『古老茶話』の話である。
 つまり、『古老茶話』の話では、京の北野七本松で武蔵は吉岡兼房と仕合したという。これは秀吉が北野大茶会を興行したあたりである。『雍州府志』によれば、この北野七本松は「下り松」とも呼ばれたらしい。北野天満宮東南脇で、現在の一条七本松あたりになる。『古老茶話』の「北野七本松」は、小倉碑文にある「蓮台野」を忘れて、「洛外下り松」の方に混同してしまったということだろう。
 『古老茶話』によれば、両者は仕合の刻限は朝五つ時(午前八時頃)と約束した。兼房は早朝から起て約束の刻限に北野に到る。ところが武蔵は遅参、昼時になってしまった。武蔵が遅いので吉岡が使いを遣ったところ、武蔵はまだ寝ている。使者が「急いでおいでください」と催促すると、武蔵は「心得た」と返事したが、まだ寝ている。武蔵の従者が「どうされました」というと、「勝つ方法を考えているが、いまだに気が満たない。おっつけ出るよ」といって、袴・肩衣で――つまり、あまり戦闘意欲のなさそうな服装で――仕合現場の北野に至る。吉岡は「待ちかねたぞ」。武蔵、「病気で体調が思わしくなくて遅参した」とこたえ、そして戦闘開始――という次第。
 この『古老茶話』の話では、《吉岡に気を屈せさせるとての延引也》と批評があって、要するに、吉岡を待たせて戦気を殺がせる作戦だという話である。これは巌流島決闘における肥後系武蔵伝記の語るところと軌を一にする説話素である。すると、肥後系伝記の巌流島伝説は、京都の伝説から説話素を借用した可能性もある。
 しかし、そのことよりも、『古老茶話』の話では武蔵はわざと遅刻したことになっているが、地元京都の伝説祖形では、武蔵は病気と称して仕合を避けようとして断わった、あるいは、臆して仕合を躊躇した、という説話内容であったはずである。その点、内容はかなり稀釈されているが、『峯均筆記』の記事の方が伝説祖形に近い。
 もう一つ類似の記事をもつ史料は、『武芸小伝』である。ただし、こちらは武蔵が竹輿に乗って現場に現れたとあるだけであって、事前の遅参逸話は欠落している。したがって、どうして武蔵が竹輿なんぞに乗ってやってきたか、意味不明なのである。しかも、『武芸小伝』の記事では、武蔵は吉岡を不意打ちにするのではなく、少し前の角で竹輿から下り、袋に入れた二刀を出して、袋で拭い、左右に携えて出る――というように、尋常の立合いなのである。
 したがって、『武芸小伝』よりも『峯均筆記』の記事の方が伝説祖形を保全していると言える。既述の『古老茶話』も合わせていえば、『峯均筆記』の対吉岡戦伝説は、類似記事をもつ『武芸小伝』や『古老茶話』よりも、地元京都の伝説祖形を保全している。

  峯均筆記 武芸小伝 古老茶話
対戦相手 吉岡清十郎 吉 岡 吉岡兼房
仕合場所 洛外蓮台野 ―― 北野七本松
遅参記事 あり なし あり
遅参伝説 当日病臥、起居
不安、勝負を断る
―― 「不快にて遅参」
武蔵の計略
吉岡催促 勝負を催促する
使いを何回も送る
―― 昼時になっても来ない
ので、使いを遣り催促
武蔵登場姿 竹輿に乗り
大夜着を著す
竹輿に乗って 袴・肩衣
不意打伝説 竹輿の戸を押開き
不意に出て打つ
―― ――
勝負結果 武蔵の勝ち 引分け? 相打ち?
立合状況 不意に枕木刀の
一撃で打ち倒し、
清十郎は気絶
吉岡は武蔵の鉢巻
を切落し、武蔵は
吉岡の皮袴を切る
吉岡左の小鬢を打
たれ、武蔵は左の
肩の後を打たれる

 こうしてまとめてみると、『峯均筆記』はむろん武蔵の勝ちとするが、他は違っている。『武芸小伝』では、吉岡は武蔵の鉢巻を切り落し、武蔵は吉岡の皮袴を切ったとあるが、それだけではカタはつかないはずなのに、勝負の結果の話はない。要するに、その代わりに、武蔵と吉岡の双方相手の額に打ち込んで、相打ち=引分けというふうな別の伝説も拾っているから、吉岡は武蔵の鉢巻を切り落し、武蔵は吉岡の皮袴を切ったというこちらの方も、引分け説であろう。
 もう一つの『古老茶話』の方は、武蔵は吉岡左の小鬢を打ち、吉岡は武蔵の左の肩の後を打ったとあって、これも相打ち=引分けということのようである。『武芸小伝』や『古老茶話』の勝負結果は、おそらく地元京都の伝説によるもので、吉岡贔屓の筋からは、「吉岡は負けなかった」、ということを強調して、こういう相打ちという結果になるのである。ただし実際の勝負は、むろん、この程度で引分け、終了になるものではない。
 これに対し、『峯均筆記』は小倉碑文に準拠して、武蔵の勝ちを語るのだが、上述のように、武蔵遅参や不意打ち説話の部分は、『武芸小伝』や『古老茶話』よりも、京都の伝説祖形の痕跡を伝えているところである。とくに、清十郎が出迎えて、「病気はどんな具合か」と乗物を覗き込んだところを、戸を押し開き、武蔵が不意に出て――というところなどは、他にはない場面である。このように、京都側の伝説祖形の痕跡が、武蔵側の『峯均筆記』に最もよく残っているというのも、口碑伝承研究において興味深いことである。
 『峯均筆記』が面白いのは、九州ローカルの武蔵流末内部での伝承だけではなく、まさにこうした地元京都の口碑を拾っているからである。このように、『峯均筆記』が地元京都の伝説を取り込めるというのは、著者立花峯均が、京都の事情に明るい立花実山を兄にもつ人だった、という環境条件を考慮する必要があろう。
 余談になるが、蓮台野に近い鷹が峰には、卍山道白(1635〜1715)が住んだ曹洞宗の寺院・源光庵がある。立花実山は卍山に親縁し、源光庵に卍山を訪ねたことがあるし、立花峯均は、この卍山が筑前に来たとき、道号を授けられたのである。
 『峯均筆記』の記事は地元京都の口碑を拾っているようすだが、ただし、その場合でも、地元の吉岡贔屓の口碑そのままではなく、いささかバイアスを緩和するなり、意味を換骨奪胎するなりして、場面を中立化しようとしている。
 この吉岡の場面も同じく、武蔵は病気を装ったのではなく、ほんとうに病気で、吉岡の無理強いに応じて対戦し、体調不良にもかかわらず勝利した、というようにとれる記述をしている。これが筆者の個人的作為か、それとも筑前二天流サークル内でできあがっていた説話なのか、それは不明であるとしても。
 この清十郎との対戦について若干まだ話を残すが、それはさらに二度の吉岡一門との対戦を見た上でのことにしよう。  Go Back




*【小倉碑文】
《扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ》





*【兵法先師伝記】
《上方ニ吉岡兼房ト云兵法者アリ。是ハ根元紺屋ナリシガ、兵法ヲ好テ、一流ヲ立、名ヲ発セシ者ナリケル。先師、兼房ニ試闘ヲ望マレケレバ、兼房モウケ對ヘテ、其日ニナレバ、先師、「風邪ニテ行事成難キ」ト云越レケル。兼房シキリニ使ヲヤリテ、是非ニ來レヨト云送ル。既ニ二度迄辞セラレシニ、三度目ニハ、乗物ニ乗リテ成共來レヨト、無理ニ云越ケル故、其時先師引駄ニ乗、蒲團ニマトワレテ行レシニ、兼房待兼シニヤ、引駄ノ戸ヲ外ヨリアケテ、如何様ノ樣子ニヤト問処ヲ、先師用意アリケン、飛下リ様ニ小太刀ヲ以兼房ガ頭ヲシタヽカニ打、ツヾケ様ニ忽チ打殺サル》

*【武公伝】
《舟中ニテ紙線ヲ作テ襷トシ、其上ニ綿襖ヲ襲テ舟中ニ伏ス





*【武公伝】
《初吉岡兼法ガ嫡嗣清十良ト、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。吉岡ハ眞劔也。武公木刀ヲ以一〔ひとた〕ビ撃之。吉岡斃テ息絶フ。豫メ一撃ノ約アルニ依テ命根ヲ輔弼ス。彼門生等板ノ上ニ助乘テ家ニ歸、藥治浴湯シテ本復ス。遂ニ兵法ヲ棄テ薙髪シ畢ヌ》

*【二天記】
《天下ノ兵法者吉岡庄左衛門ガ嫡子清十郎ト、洛外蓮臺野ニ於テ雌雄ヲ決ス。清十郎ハ眞劔、武藏ハ木刀テ以テ撃之、清十郎忽斃レ息絶ル。渠カ門弟等板上ニ助ケ乘セテ、家ニ歸リテ薬治シ本復ス。其後兵法ヲ棄テ剃髪ス》

*【本朝武芸小伝】
《又一説有。此時吉岡はいまだ前髪有て二十にたらず。武藏より先達て、弟子一人召つれ仕合の場に來たり。大木刀を杖につきて武藏を待。武藏は竹輿にて來たり、少しまへかど(前角)にて竹輿よりおり、袋に入たる二刀を出して袋にて拭ひ、左右に携へて出る

*【古老茶話】
吉岡木刀、武蔵竹刀あいうち、吉岡はちまきの内左の小びん、武蔵左のかたぎぬかたのうしろの所也》












蓮台野現況 京都市北区紫野







*【古老茶話】
京北野七本松に於て武蔵、吉岡兼房と仕合、其刻限双方朝五時と約束す。兼房はやく起て刻限に北野に到る。武蔵遅参、昼時に及ぶ。使を遣し候処、武蔵平臥也。「急出られ候へ」と申、「心得候」とて、まだねてゐる。従者「いかに」といふに、「かちを考ふるに、いまだ気不満。おしつけ出ん」とて、はかまかたきぬにて北野に至る。吉岡、「まちかねたる」と也。武蔵、「不快にて遅参」とこたへ仕合、吉岡木刀、武蔵竹刀あいうち、吉岡はちまきの内左の小びん、武蔵左のかたぎぬかたのうしろの所也。是武蔵了簡、吉岡に気を屈せさせるとての延引也













*【本朝武芸小伝】
《又一説有。此時吉岡はいまだ前髪有て二十にたらず。武藏より先達て、弟子一人召つれ仕合の場に來たり。大木刀を杖につきて武藏を待。武藏は竹輿にて來たり、少しまへかど(前角)にて竹輿よりおり、袋に入たる二刀を出して袋にて拭ひ、左右に携へて出る。吉岡大木刀を以て武藏を打。武藏是を受るといへ共、鉢巻きれて落たり。武藏しづんで拂、木刀にて吉岡がきたる皮ばかまをきる。吉岡は武藏が鉢巻を切て落し、武藏は吉岡が袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすと也。又或説には、武藏は二刀遺ひたれ共、仕合の時はいつも一刀にて、二刀を用ず。吉岡と仕相の時も一刀なりと。想ふに正僞決しがたし。語り傳へは誤る事多しといへ共、聞にまかせて聊か記しぬ》
《武藏吉岡と仕相の事、武藏は柿手拭にて鉢巻す。吉岡は白手拭にて鉢巻したり。吉岡が太刀武藏がひたいに當る。武藏が太刀も又吉岡がひたひにあたるに、吉岡は白手拭故血はやくみえ、武藏は柿てのごひ故しばらくして血見ゆるとなり》



本朝武芸小伝
京大谷村文庫蔵














鷹峯山宝樹林源光庵
京都市北区鷹峯北鷹峯町
 
 (4)吉岡傳七郎
 ここは、吉岡清十郎を倒した後、吉岡伝七郎との対戦を語る。この記事は、小倉碑文そのままであり、碑文の内容以上の情報はない。
 つまり、吉岡伝七郎が、洛外に出て武蔵と雌雄を決した。伝七郎は五尺余の木刀を携えて、立向った。武州は、その機に臨んで彼の木刀を奪い取り、打ち倒した。伝七郎はたちどころに絶命した。――文面はまったくそのままである。
 この点は肥後系伝記も同じで、小倉碑文以外の情報ソースも口碑もなく、同じ文面である。ただし、肥後系伝記が「弟」伝七郎とするのは、小倉碑文にはない記事である。また、『峯均筆記』にも伝七郎が弟だという話はない。
 肥後系伝記が「弟」伝七郎とするのは、どこかに根拠があってのことではなく、小倉碑文に清十郎が「嗣清十郎」とあるのを見て書いた、『武公伝』筆者の解釈である。つまり、清十郎が嫡男なら、その次に出てきた伝七郎は、その弟であろう、と推測しているのである。そして『二天記』は、祖父のアイディアをそのまま引き写しただけのようである。
 吉岡との対戦を明記した最初の史料・小倉碑文に関するかぎり、清十郎と伝七郎の兄弟関係は認められない。同じ吉岡姓であり、その一族の者としか知れない。ここは注意を喚起しておくべき点である。
 伝七郎との対戦について、武蔵諸伝には小倉碑文以上の口碑等材料はとくになかったものらしい。ただ『峯均筆記』には、清十郎との対戦では上記のように地元京都の伝説痕跡とおぼしき記事内容があるのが特徴である。とすれば、『峯均筆記』に伝七郎との対戦について別途情報がない以上、おそらく京都の伝説口碑は、第2の対吉岡戦、つまり伝七郎との対戦を、すでに忘却していたのである。吉岡伝七郎との対戦は、小倉碑文が記録して、それでかろうじて残存したのである。
 しかるに、吉岡側の史料はないのかというと、周知の如く、福住道祐源嘉による『吉岡伝』という一書があって、そこには宮本武蔵と「吉岡兄弟」の対戦が記されている。
 ところが『吉岡伝』では、武蔵伝記とは話が違いすぎるほど全く違っている。ここでは、武蔵と対戦したという吉岡兄弟は、兄は源左衛門直綱、弟は又市直重といい、「憲法兄弟」と呼ばれる。吉岡憲法の家の兄弟だからである。
 そうすると、吉岡憲法兄弟は、源左衛門直綱、又市直重という名であって、清十郎や伝七郎ではない。ただし、源左衛門や又市はフォーマルな名称であって、清十郎や伝七郎といった通称と両立しないこともない。つまり、一応かなりの留保を付してなら、清十郎のフォーマルな名は源左衛門直綱であり、伝七郎のフォーマルな名は又市直重だとみなすことができる。そこで、かりにここで、
      兄・源左衛門直綱 = 清十郎
      弟・又市直重 = 伝七郎
という対応関係を仮定しておくとして、『吉岡伝』では話はいかになるか。
 宮本武蔵は、無敵流と号し、北越奥羽で有名な者であり、越前少將松平忠直の家士で、二刀を使う名人。忠直は武蔵を師とし日々習熟し、武蔵は常に側にあった。忠直が聚楽第にいたある日、武蔵に問う、「吉岡兄弟は何度も仕合に勝って名高い。兵法の骨髄を得た者というべきだな。吉岡がもしそなたと対戦するとすれば、どうか」。武蔵は謹んで言う、「たとえあの兄弟が一度に立ち向ってきても、私の一刀にはかないません」。忠直は大いに悦び、これを(京都所司代)板倉伊賀守勝重に報らせた。板倉勝重はすぐに吉岡兄弟を召して云う、「宮本氏がおまえたちと勝負を決したいとの望みがあるそうだ。速やかに決断して、よろしく(忠直の)高覧に備えよ」。兄弟はうやうやしくその命を受諾した。
 さて、武蔵・吉岡対戦。試合の現場はどこか、何の記事もないが、とにかく、よろしく(忠直の)高覧に備えよ、と吉岡に指示あれば、忠直が居るというかの聚楽第である。兄の直綱が先に出て、勝負する。両方互いに心力を尽し、戦うこと暫時、遂に武蔵は眉間を撃たれ、大量に出血した。直綱が退いて後、皆が口々に言う、「直綱の勝ちだ」。ところが他の者らは言う、「相撃ちだ」。直綱は怒って云う、「それでは、もう一度やって勝負を明白にしよう」。すると武蔵は言う、「直綱とはすでに勝負は終った。次は(弟の)直重と対戦させてもらいたい」。
 そこで仕合の日を定め、後日の対戦を待つことになった。ところが武蔵は忽然と姿を消して去り、どこに居るのか知れなくなった。そこで、世間はあげて皆云う、「直重は座ったまま勝ちを得た」と。
 これが『吉岡伝』の記事である。ここでは吉岡直綱が武蔵の眉間を打って出血させ、明らかに勝ったようにみえるが、「相打ちだ」と異論が出るという奇妙な展開。そのうえ、武蔵は直綱との再試合ではなく、弟の直重との勝負を望むというわけで、もうひとつよく分からない話の成り行きである。そして加えて、武蔵が敵前逃亡したという話。
 これが地元京都の伝説にあったのか不明だが、いづれにしても吉岡に加担するポジションで語られている。しかし問題はそれではなく、この『吉岡伝』の宮本武蔵は、無敵流と号し北陸奥羽方面で有名な兵法者で、松平忠直の家臣だったとするあたりである。
 松平忠直(1595〜1650)は結城秀康の長男、徳川家康の孫である。父の秀康は徳川秀忠の兄で、越前北ノ庄(のち福井)六十七万石。忠直は慶長十一年(1606)元服、翌慶長十二年、父・秀康が没し家督相続。
 さて言うまでもないが、武蔵が京都へ上って吉岡と対戦するのは、武蔵二十一歳のときだから、慶長九年(1604)。登場人物のうち、板倉勝重の所司代在任期間は、慶長六年〜元和五年(1601〜19)で、こちらは年代は合うが、松平忠直は年代が合わないのである。このとき忠直は十歳で、家督相続どころか、元服もしていない。聚楽第にしても、関白秀次が謀反の疑いによって高野山に移されたのが文禄四年(1595)七月、聚楽第は翌八月には破却された。つまり忠直の生まれた年にすでに聚楽第は消滅したはずである。
 おそらく、京都における武蔵吉岡対戦の口碑伝説とは別に、時を経て『吉岡伝』の記事のような内容の変異体が出現したものであろう。本書は貞享元年(1684)の作で、武蔵諸伝よりも先行するが、忠直や武蔵の記事はおそろしく不正確で、すでに史実から遠い。しかも、上述の他の諸史料の記事と重合するところがほとんどなく、これは地元京都の口碑伝説に取材したというよりも、一種の吉岡由来記として創作されたもののようである。

 それゆえ、我々が留意しなければならないのは、『吉岡伝』のこの「宮本武蔵」がいかなる説話論的レベルで語られているか、ということである。
 言い換えれば、従来、武蔵研究では、『吉岡伝』の「宮本武蔵」はそれだけ単独で抜き出して引用され言及されてきたが、それでは、『吉岡伝』の「宮本武蔵」の説話論的レベルを把握できない。ようするに、『吉岡伝』が記すところの吉岡兄弟と対戦した他の兵法者の記事と並べて内容分析する必要がある。そうでなければ、そもそも『吉岡伝』の「宮本武蔵」の何たるかを把握できないのである。
 『吉岡伝』によれば、吉岡兄弟と対戦した兵法者は、《無敵流と號し、北越奥羽に鳴る》宮本武蔵の他に、《朝山三徳は天流と號し西筑九國に鳴る。鹿島林齋は新當流と稱し、關東八州に鳴る》とあって、「朝山三徳」と「鹿島林斎」の名が知れるが、これが何者か不明である。
 天流を号したということからすれば、「朝山三徳」は斎藤伝鬼坊がモデルかもしれないし、そうなると、「鹿島林斎」は新当流を称したとするから、これは塚原卜伝がモデルというところであろうか。だが、モデルからかけ離れた超歴史的設定であり、両者はようするにフィクションの中の人物である。とすれば、『吉岡伝』の「宮本武蔵」もまた虚構の人物で、そのリアリティは「朝山三徳」や「鹿島林斎」と同列だと位置づけておくべきである。
 『吉岡伝』によれば、「朝山三徳」は西国九州の、「鹿島林斎」は関東の、「宮本武蔵」は北国の、それぞれ代表、チャンピオンらしい。この三人が次々に上京して、吉岡兄弟と対戦して、そして負けるのである。
 「朝山三徳」と「鹿島林斎」はどちらも巨大猛烈な豪傑だが、弟の直重が対戦して、三徳は頭を粉砕され即死、林斎も頭を粉砕され重傷、数日後死亡。そして「宮本武蔵」には、上述のように兄の直綱が対戦、頭部打撃で武蔵を出血させたが、勝負は不分明、後日弟の直重と対戦することになったが、武蔵は敵前逃亡。――というわけで、『吉岡伝』によれば、吉岡兄弟は天下の強豪をことごとく打倒したという次第。
 ただし、「朝山三徳」と「鹿島林斎」の試合は、『吉岡伝』では勝負の結果も明確なら、試合の年月日も場所も明らかである。ところが、モデルと同名の「宮本武蔵」との試合となると、結果は曖昧で、しかも前二例と違って、試合の年月日も場所も不明である。それに記述スタイルも異なる。「宮本武蔵」の話は「朝山三徳」と「鹿島林斎」のケースとは違って、何か躊躇があったのか、不完全な説話になっている。これはどうやら、「宮本武蔵」という実在の人物の名を借りたためらしい。
 この『吉岡伝』の「宮本武蔵」が面白いのは、《無敵流と號し、北越奥羽に鳴る》北国の兵法者で、しかも越前少将家臣という設定である。これは「佐々木小次郎」を越前産とする小説の類と変らないフィクションで、あるいはこの「宮本武蔵」、肥後系武蔵伝記などに委ねれば、あわや越前産にもなりかねないところである。
 しかしまた、『吉岡伝』の「宮本武蔵」が武蔵と関係ありそうなのは、二刀の達人という点のみで、それ以外は武蔵とは無関係の要素ばかりである。とくに《無敵流と號し、北越奥羽に鳴る》というのはおよそ武蔵とは縁遠い話で、それだけに、この線で武蔵とは別のモデルを探索してみることができる。
 まず、「無敵流」と称する流派はいかに、と云えば、これは実在した。そればかりか、無敵流は近世いくつもあった。そのうち、『吉岡伝』の記事に比較的近い属性を有するのは、北陸の進藤雲斎(1605〜51)である。綿谷雪他編『武芸流派大事典』の孫引きになるが、無敵流の祖・進藤雲斎は富田越後に学び、また疋田文五郎にも学んだとあるらしい。となると、無敵流は富田勢源の系統である。
 ただし、進藤雲斎が富田越後から印可を得たのは、寛永六年(1629)と遅い(この説には富田越後守重政(1554〜1625)の没年と合わない難点があるが)。その上、没年享年からすれば、進藤雲斎の生年は慶長十年(1605)で、武蔵が吉岡と対戦した翌年に雲斎は生まれている。したがって、世代的に進藤雲斎は候補となりえないが、『吉岡伝』の作者が北国の無敵流というアイディアを得る材料になったであろう。
 そこからさらに一歩進めば、『吉岡伝』の無敵流の達人・宮本武蔵のモデルは、実は、富田勢源だろう、という見当がつく。むろん史実とは別のレベルでの、「朝山三徳(斎藤伝鬼坊)」や「鹿島林斎(塚原卜伝)」の空想的ケースと構造的相同性をもつ説話論的レベルでの話で、無敵流、松平忠直の越前北ノ庄という要素が暗示するのは、そんなところである。
 要約すれば、『吉岡伝』の「宮本武蔵」のモデルは、名は宮本武蔵だが、その本体は富田勢源なのである。言い換えれば、宮本武蔵と富田勢源の超歴史的ハイブリッドが、『吉岡伝』の「宮本武蔵」である。ようするに『吉岡伝』の記事について、「宮本武蔵」単独ではなく、「朝山三徳」や「鹿島林齋」と同じ土俵において内容を分析すれば、それが結論となるだろう。

  朝山三徳 鹿島林斎 宮本武蔵
根拠地 西国九州 関東八州 北国 北越奥羽
流派名 天 流 新当流 無敵流
モデル? 斉藤伝鬼坊 塚原卜伝 富田勢源
(宮本武蔵)
吉岡側 直 重 直 重 直 綱
試合結果 頭部粉砕
即 死
頭部重傷
数日後死亡
勝負不分明
後日敵前逃亡
試合日 慶長九年
八月十五日
慶長十年
六月二十六日
――
試合場所 東山八坂 今宮下り松 ――

 かくして『吉岡伝』の吉岡兄弟の記事によれば、西国の「天流の朝山三徳」(斎藤伝鬼坊)、関東の「新当流の鹿島林斎」(塚原卜伝)、そして第三に、北国の「無敵流の宮本武蔵」(富田勢源+宮本武蔵)をことごとく打破った、それこそ時代世代を超越した、天下一の兵法者なのである。
 ともあれ、このような説話論的レベルの『吉岡伝』の記事をもって、京都における武蔵吉岡対戦という事蹟に対する傍証も反証もできない。武蔵諸伝と『吉岡伝』を対照して史実を考証するというのが、そもそも方法論的錯誤なのである。  Go Back


*【小倉碑文】
《而後、吉岡伝七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す》

*【武公伝】
《然後弟傳七郎亦洛外ニ出テ雌雄ヲ決ス。傳七郎五尺餘ノ木刀ヲ袖ニシ來。武公頓ニ彼ノ木刀ヲ奪テ撃之、立處ニ僵死》

*【二天記】
《其後弟傳七郎ト洛外ニ出デ勝負ヲ決ス。傳七郎ハ豪兵ニテ五尺餘ノ木刀テ持チ來ル。武藏頓ニ其木刀テ奪テ、一打ニ撃之。立所ニ斃レ死ス》



名古屋市蓬左文庫
吉岡伝

*【吉岡伝】
《于茲洛陽有吉岡兄弟、得兵法者流之名、而古今未曾有之妙術也。兄源左衛門直綱、弟又市直重也。謂憲法兄弟
《是故劔客甚多、爲師ヘ弟子者不可勝計。本邦諸人推之以爲妙術者、只可四五人。所謂朝山三徳者號天流、鳴西筑九國。鹿島林齋者稱新當流、鳴關東八州。宮本武藏者號無敵流、鳴北越奥羽者也》
《亦復宮本武藏者、越前少將忠直君之家士而、弄二刀之良手也。忠直君師之、日日習熟、不離左右。忠直君在聚樂第日、問武藏曰、「吉岡數回之名譽、可謂得兵法之骨髄者也。若対汝如何」。武藏、謹言曰、「直饒彼兄弟一時競來、亦不較不肖之一刀」。忠直君大悦、報之板倉伊賀守勝重。勝重即召兄弟云、「宮本氏、與汝有欲決勝負之望。速分是非、宜備高覧」。兄弟敬受其命。於是直綱先出、兩方相支、互竭心力、暫移時剋、武藏遂被撃眉間、血出最甚。直綱却後、皆言、「直綱之勝也」。他言、「相撃也」。直綱怒云、「然則明白一決」。武藏言、「與直綱已決了。所願與直重宜相撃」。於是定日、重相待之。武藏忽晦迹去、不知所之。是以挙世皆云、「直重坐得勝矣」》




板倉勝重


松平忠直







*【吉岡伝】
三徳身長六尺餘、手フ七尺許大棒[八角容條金]、輕易揺之出、其状恰如夜叉~。即便相支、互盡手段、未決雌雄、直重忽開於陽、翻身廻後、一足飛躍、果撃三徳之頂上。妙手之一撃、三徳之頭忽碎、即倒死。實慶長九年甲辰八月十五日、東山八坂之支合、是也。于時直重廿四歳事、達四方、名播一天》
林齋身長六尺五寸、膂力軮人、頭禿髪逆、其鬚垂胸、瞳圓徹内、口大至耳、面色赧々、然殆類二王。其所携大棒也、七尺有餘、棒頭容一尺五寸眞劔、棒梢二尺之外、納鐵大疣。輕易提之、十字街頭廻車輪來。(中略)直重頓易手欺之、縮身作撃。林齋之勢。於戯哀哉、林齋運命已竭、忽欲反棒。直重得氣、一途飛翔、乍撃林齋之頭。頭碎血迸、如瀑。林齋目眩、提棒吽々、漫廻數遍、奄々氣絶。弟子相集、進藥、眞氣少蘓。雖然瘡痏甚疼、經二三日、遂死去也。是亦同十年乙巳六月二十六日、今宮下松之攻撃也》


武者修行巡録伝
斎藤伝鬼坊

*【武芸流派大事典】
《無敵流(剣・柔)
 祖は能登良川の人、進藤雲斎好一。一に新藤ともあり。また加賀金沢の人ともいう。富田越後に学び、寛永六年印可を得、また疋田文五郎にも学んだ。江戸に出て、本郷三丁目に道場をひらく。慶安四年八月七日死す。四十七歳。門人関根弥次郎義虎は無敵流を伝え、戸田内記昌信は戸田流を伝えた(『皇国武術英名録』『日本武道流祖伝』)》


武稽百人一首
富田五郎左衛門勢源



塚原卜伝像 茨城県鹿嶋市宮下

 
 (5)吉岡ガ門人等、冤ヲ含ンデ密ニ相議シテ
 吉岡清十郎と伝七郎の二人を相次いで倒したあと、武蔵は吉岡の門人多数を相手に闘うことになった。今日では一乗寺下り松の決闘として有名になっている事蹟である。
 ただし、小倉碑文の記事にみるごとく、さらにまた『峯均筆記』でも場所は「洛外下リ松ノ辺」とあるのみであって、肥後系伝記のように一乗寺村と特定する材料はない。我々の所見では、肥後系伝記の「一乗寺村」にはあまり根拠はない。しかも場所が離れすぎているという難点もある。
 京都には「洛外下り松」に相当するものは複数あって、どれとは特定できないが、北野神社近辺の一条下り松(七本松)を別の有力候補地として挙げることができる。肥後系の伝説は京都に詳しくない。この「一条」下り松が、肥後系伝記では「一乗寺村」に化けたというのが、見透しやすい口碑伝承の筋道であろう。
 ところで、『峯均筆記』のこの部分の記事は、小倉碑文の記事を基本的に踏襲したものであるが、碑文にはない記事もある。
 つまり、吉岡一門は鎗・薙刀・弓矢をもって数百人も集合した。それに対し武蔵の味方も門人十余人がいたという。小倉碑文には。《竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け》云々とあって、武蔵の門人らがいたことを窺わせるが、それが「門人十余人」となると、『峯均筆記』で出た話である。
 もう一つは、かなり具体的なディテールをもつエピソードで、――門人中でも一番に進む十七、八歳の若者があった。武州は後から声をかけて、「こんな場で弛む〔たじろぐ〕と命を落とすものだぞ。少しも弛むな」といって、後から帯を把って真先に推し立て進む。ところが、かの者は吉岡側の矢に当たって負傷してしまった――という、この部分である。
 これは、武蔵が門人たちに退去を促して現場を去らしめた、という小倉碑文の記事を踏襲した話が後続するから、後に挿入されたエピソードである。つまり、小倉碑文にあるところの、「おまえたちは関係ない人間だ。速やかにここを退け」と門人らに言ったという武蔵の退去命令が、なぜ出てくるのか、という解釈説話なのである。
 この点を、『峯均筆記』の伝説では、武蔵は自分の門人らと共に数百人の吉岡一門と闘おうとしたが、矢に射られて負傷者が出た。そこで、武蔵は門人らを撤退させて自分一人で闘うことにした、という話の筋道を設けたのである。
 そうして『峯均筆記』では、武蔵は門人らに、みんな落着いて立退け、といって撤退させた。しかしながら、(1)「多敵の位」で打払いつつ退却した、(2)武蔵は寺ヘ避難し寺伝いに逃げて跡をくらました、(3)与力同心が追々駆け来たってようやく騒ぎを沈静させた、云々の記事は、小倉碑文にはないもので、伝説の増補改訂である。
 むろん、「与力同心」などは後世の用語である。また、寺へ逃げ込んだというのは、寺が公界の地だという背景があってのことで、寺伝いに逃げると、追っ手も手が出せない。寺伝いに逃げたという、この話の具体性は、むしろかえって伝説流通過程の産物のようにみえる。
 ところで、この段で出てくる固有名「吉岡又七郎」は、清十郎、伝七郎に続く「第三の吉岡」なのだが、小倉碑文にはこの又七郎が、清十郎、伝七郎とどんな関係にある人物なのか、記していない。『峯均筆記』はこれを踏襲して、《吉岡又七郎、事ヲ兵術ニヨセ、洛外下リ松ノ辺ニテ會ス》とするのみである。
 しかるに肥後系伝記は、伝七郎のケースと同じく続柄を記し、又七郎を清十郎の子とする。だが、もとよりこれは、いかなる情報源を由来するのか出所不明の恠説であり、同様に伝説流通過程での副産物のようである。
 今日、伝七郎を清十郎の弟とし、又七郎を清十郎の子とする説が一般化しているが、それは『二天記』の記事に拠った明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の所説の影響である。しかし、それが最初に出てくるのは『武公伝』の記事であって、この肥後系伝説はもともと恠しいのである。
 おそらくこれは、『武芸小伝』に「其子吉岡又三郎」という文言のあることから、それをみた『武公伝』の作者が、小倉碑文の「又七郎」も吉岡の息子だろうと解釈したものらしい。とすれば、これは『武公伝』による憶説であって、元を糺せば、この説には何の根拠もないのである。この点は諸君に注意を喚起しておく。
 あるいはまた、この決闘に加わった吉岡門弟の人数にしても、『武公伝』には小倉碑文を踏襲して「数百人」とあるのに対し、『二天記』には「数十人」と記す。これは『武公伝』という先例がある以上、奇妙な改竄なのだが、編者は「数百人」では非現実的だと思ったのか、どうか、とにかく数字を一桁減らす変更をやってしまったのである。
 それからもう一つ、肥後系伝記には、この下り松決闘に関して別様の伝説を示す。これが巷間有名になっている場面を含むので、いちおう見ておくことにしよう。




京都吉岡関係地図

*【小倉碑文】
《吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法なり》(原文漢文)

















*【武公伝】
《因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ辺ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之。武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル》

*【二天記】
《依テ吉岡門弟恨ミヲ含ミテ、清十郎ガ子又七郎ト組シ、數十人兵仗弓箭ヲ携へ、下リ松ニ會ス。武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル》


【武公伝】
道家平蔵宗成[武公ノ眞弟寺尾求馬ノ弟子也。綱利公ノ士家嚴ノ師]ノ父、角左衛門[後ニ徹水ト云]ハ武公ノ眞弟也。角左衛門曰、武公徒然ノ打話ニ云、事ニ莅テ心ヲ不變事、實ニ難シ。我先年吉岡又七郎ト、洛外下リ松[一乘寺村藪ニアリ]ニ會シテ勝負ヲ決セント約ス。我門弟等皆云、「又七郎、公ヲ以テ父叔ノ仇也トス。定テ清十良以來之門弟大勢ヲ率ヒ來リ、挾撃テ冤ヲ報ゼントスル事、必セリ。公ハ是就死地者也、誠ニ危矣。請フ願クハ各相從テ拒之」。武公云、「不然。我生等數輩ヲ率ヒ出テ、戰闘ニ及ブ時ハ、則チ是徒黨ヲ結ンデ戰ヲ催スナリ。惟公義ノ固ク禁止スル所ノ號令ナリ。不可有不慎也。若一人モ慕來ル者アラバ、却テ我ヲ罪科ニ陥ルニ非ヤ。憶ニ渠レガ戰術何ゾ懼ニ足ン。嚮ニ彼ガ父清十良及叔傳七郎ニ會スルヤ、我其期ニ後レ凝滞シテ勝之。這囲ハ可反之」ト、鶏鳴ニ獨歩シテ洛ヲ出。路ニ八幡ノ社前ヲ経、憶「我幸ニ不圖トシテ神前ニ來レリ。當祈勝利」ト、及詣社壇、恭テ鰐口ノ紐ヲ執テ將ニ打鳴サントス。忽チ思フ、「我常ニ佛~ヲモ不信仰、而今此難ヲ憚テ頻ニ敬祷ス。神夫受ヤ、吁怯矣」。即チ其ノ紐ヲ措テ、孜々トシテ下壇、慙愧汗流レテ踵ニ至ル。直ニ駆テ到下松。夜未曙、寂々トシ松陰ニ佇ム。少焉テ、又七郎門弟數十人ヲ將ヒ提燈、來リ行々言フ。「定テ知ンヌ、彼レ又遅々トシテ約ヲ脱セン」ト。時ニ我忽爾トシテ起テ迎ヒ、「武藏待得タリ」ト高声ニ呼フ。又七郎駭テ、刀ヲ眞シグラニ切ル。我又七良ガ斬處ヲ下ヨリ中リ上ルニ、又七良ヒルミナガラ切附ルヲ、乘替ツテ一撃ニ斬弑ス[刀ハ大原ノ眞守三尺餘ノ大刀也]。門徒等スカサズ拔連テ切テカヽル。或ハ半弓ヲ以射矢、一筋ワガ袖ニトマル。我進ンデ追崩スニ、狼狽シ縱横ニ走散ス。竟ニ全勝ヲ得タリ。彼ノ~前ノコトヲ思ニ、所謂莅事不變心コト實ニ難シトナリ。
武公自誓ノ書ノ中ニ、~佛ハ尊シ~佛ヲ不憑ト在リ。武公打話ハ、寛永十七八年ヨリ正保一二年コトナルベシ。
【二天記】
武藏或時打話ニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト實ニ難シ。我先年、吉岡又七郎ト洛外一乗寺村藪ノ郷下リ松ト云フ處に會シ、勝負テ決センコトヲ約ス。然ルニ、我門弟來リ告テ云、「又七郎ハ、公ヲ父叔父ノ仇トス。清十郎以來ノ門弟大勢ヲ引率シ、公ヲ差シ挟ミ、討テ仇ヲ報ゼント企ル由ヲ聞キヌ。是公死地ニ着也。誠ニ危キ所也。願バ我々モ相從テ倶ニ拒之」。武藏云、「各數輩ヲ引出テ戦闘ニ及ブ時ハ、是徒黨ヲ結ンデ戦ヲ催スナリ。是公義ノ固ク禁止スル處ナリ。愼マズンバ有ルベカラズ。若一人モ從ヒ來ル者アラバ、却テ我ヲ罪ニ陷ルヽニアラズヤ。思フニ渠ガ賊術、奈何ゾ懼ルヽニ足ン」ト云テ、門弟ヲ返ス。「先年、渠ガ父清十郎及叔父傳七郎ト會セシ時ハ、我期ニ後レ凝滞シテ勝之。這囘ハ、是ニ引替へ我先達テ行ベシ」ト、鶏鳴ヨリ獨歩シ洛ヲ出ル。路ニ八幡ノ社アリ。因テ思フ、「我幸ニ~前ニ來レリ。正ニ勝利ヲ祈ルベシ」ト。社壇ニ至テ、愼ンデ鰐口ノ紐ヲ把テ、將ニ打鳴ラサントス。忽チ思フ、「我常ニ~佛ヲ信仰セズ、今此難ヲ憚テ敬祷ストテ、~夫レ受ムヤ。吁誤レリ」ト。即チ其紐ヲ措テ、孜々トシテ壇ヲ下ル。慙愧汗流レテ踵ニ至ル。直チニ馳テ下リ松ニ至ル。夜未明、寂々トシテ松陰ニ彳ム。暫ク有テ、又七郎數十人ヲ引率シ、燈ヲ提テ來リ云、「定メテ武藏又遅々シテ、期ニ後レンコト、必セリ」トテ、松根ニ近ヅク時、武藏、「待得タリ」ト高聲ニ呼テ、大勢ノ中ニ切リ入ル。又七郎駭キ、同拔合ントスル處ヲ、又七郎ヲ眞二ツニ斬殺シ、徒黨ノ者共、周章切懸ル。或ハ鎗ヲ以テ突キ懸リ、半弓ニテ射ル。其ノ内矢一筋我袖ニ留ルノミニテ、幸ニ疵ヲ蒙ラズ。我前後左右ノ者ドモヲ斬崩シ、追立レバ、大勢崩タル息踏留ル者モ無ク、狼狽シ、竟ニ我全勝ヲ得タリ。退テ彼ノ~前ノ事ヲ思フニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト、難シ」ト云リ。
武藏自誓ノ書ノ中ニ、佛~ハ尊シ佛~ヲ不頼トアリ。猶奥ニ出ス。此ノ時帯セシ刀、三尺餘。大原眞守ノ作。今澤村家ニ傳レリ。

 これは武蔵が肥後時代に語った話だという設定である。これを語り伝えたのは、『武公伝』では武蔵の弟子・道家角左衛門だとしているが、『二天記』にはその名を削除している。
 ここには、話の主題として、「事にのぞんで心を変えないことは難しい」ということが、テーマとして記されているから、教訓譚として伝承されたものらしい。ようするに話は、決闘直前に武蔵は八幡社の前を行きかかり、その武勇の神に勝利を祈願しようとしたが、思いとどまって神への祈願をやめた、という例の場面である。
 この逸話は、今日ではどの武蔵評伝でも当然のごとく取り上げるので、有名になってしまっているが、ようするに、そんな話を武蔵は語ったのか、どうか、となると、はなはだ心もとないのである。とくに、話がディテールにわたり具体的であるのは、巌流島決闘のケースと同じで、口碑伝説流通過程における説話拡張と思われる。
 たとえば、武蔵の門弟らが皆いう、「又七郎は、先生を父の仇、叔父の仇としています。きっと大勢で挾撃して恨みを報じようとするでしょう。まことに危険です。我々が先生と共に戦いましょう」と。しかし、これだと、決闘勝負の意味が失われている。決闘は喧嘩ではない。負けても恨みを残さないと約束して行なう。したがって、決闘は復讐敵討の連鎖をあらかじめ切断している。ところが、この話だと、敵討復讐という位置づけである。これがまず、ありえない点である。おそらくは、小倉碑文の「吉岡門生、寃を含み密語して云々」という文言から発展したものであろうが、もともと子が親たちの敵を討つなどという文脈ではないのに、ここでは話が復讐譚に流れてしまっている。
 さらに、武蔵は門弟等が加勢しようというのに対し、「それはいけない。私の門弟らが参加して戦闘に及べば、これは、徒党を組んで戦さを起すことになる。これは公義が固く禁止する行為だ。そんなことをするのは慎まねばならない。もし一人でも私について来る者があれば、むしろそれは私を罪科に陥れることになるぞ」と云って制止する。
 これもはなはだ奇妙なことで、徒党禁止という、大坂陣後の武家諸法度の発想が持ち込まれている。《惟公義ノ固ク禁止スル所ノ號令ナリ。不可有不慎也》とは、秩序内の言説で、いわば十八世紀の思考である。これも後世の説話化の特徴である。
 肥後系伝記のこの段は、小倉碑文にあるところの、「おまえたちは関係ない人間だ。速やかにここを退け」と門人らに言ったという武蔵の退去命令が、なぜ出てくるのか、という解釈なのである。その点、『峯均筆記』と同じことを演じているが、説話の思考環境は、『峯均筆記』よりも新しい。それに、武蔵の言い分は演劇の登場人物が語りそうな通俗的な科白なのである。
 それ以下の逸話も同じことで、神に勝利祈願をしようとして思いとどまった、とか、又七郎を斬り殺すシーンとか、話が具体的であればあるほど、話は伝説の成長過程をみせる。とくにこの段が、武蔵の一人称で物語ったようにしたところが、口承伝説の特徴である。
 さらに『二天記』の段階では、道家角左衛門が武蔵から聞いたという『武公伝』の設定を恠しいと思ったものか、話のソースを消去し匿名化して、ただ《武藏或時打話ニ》としている。
 こうした肥後系の伝説に対して、『峯均筆記』の方は、いま少しリアリティがあるというものである。もし肥後で、実際に武蔵がこうしたことを語ったと知られていれば、熊本育ちの柴任美矩経由の『峯均筆記』が、それを記録しないわけがない。したがって、少なくとも柴任が居た時代の熊本には、こんな伝説はまだ発生していなかったのである。
 こうしてみれば、『武公伝』が道家角左衛門が武蔵から聞いた話として記録したこの逸話も、はなはだ恠しいのである。京都での吉岡一門との対戦については、『峯均筆記』は、武蔵が吉岡又七郎を斬殺したという話も記さない。武蔵は吉岡門弟数百人に包囲されて、ただ必死に切り抜けて逃走した、というのが『峯均筆記』の記事である。
 あるいはまた、吉岡又七郎が清十郎の子だという話も『峯均筆記』にはない。昭和に入って問題にされるようになった、児童の又七郎を武蔵が無慈悲に斬殺したという「行為」も、もとより肥後系伝記に発する空想の閾を出ない。『武公伝』が参照した『武芸小伝』には、吉岡(清十郎)は「いまだ前髪有て二十にたらず」という伝説を記す。これは敗者を美化・若年化するもので、地元京都のローカルな伝説かもしれない。しかし前髪だと未婚であり、むろん子はいないわけだ。
 武蔵諸伝を照合してみれば、吉岡又七郎が清十郎の子だかどうか不明なのだから、又七郎が児童だったとするのは、根拠薄弱なエピソードと言わねばなるまい。小説家たちが好んで題材にしたがるこの「児童惨殺」シーンは、ようするに空想の所産なのである。
 ましてや、いたいけな少年を真っ先に殺した武蔵は、勝つためには手段を選ばぬ残忍冷酷な人間だった、――などという人物像を語りたがる、今日の杜撰な想像力には、呆れて物も言えない。そんな現代の物書きは、《想ふに正僞決しがたし。語り傳へは誤る事多しといへ共、聞にまかせて聊か記しぬ》という『武芸小伝』のスタンスを見習って、野放図な自身の空想を重々反省すべきである。  Go Back



武蔵ゆかりの(?)八大神社




一乗寺下り松周辺マップ




一乗寺下り松













*【本朝武芸小伝】
《又一説有。此時吉岡はいまだ前髪有て二十にたらず。武藏より先達て、弟子一人召つれ仕合の場に來たり。大木刀を杖につきて武藏を待。武藏は竹輿にて來たり、少しまへかど(前角)にて竹輿よりおり、袋に入たる二刀を出して袋にて拭ひ、左右に携へて出る。吉岡大木刀を以て武藏を打。武藏是を受るといへ共、鉢巻きれて落たり。武藏しづんで拂、木刀にて吉岡がきたる皮ばかまをきる。吉岡は武藏が鉢巻を切て落し、武藏は吉岡が袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすと也。又或説には、武藏は二刀遺ひたれ共、仕合の時はいつも一刀にて、二刀を用ず。吉岡と仕相の時も一刀なりと。想ふに正僞決しがたし。語り傳へは誤る事多しといへ共、聞にまかせて聊か記しぬ

 
 (6)夫ヨリシテ、吉岡ガ家、泯絶セリ
 ここは、小倉の武蔵碑の記事に依って書いたと思われるところである。しかし、あまり正確な話ではない。
 ひとつは、吉岡や新免無二の称号である。小倉碑文によれば、吉岡は「扶桑第一兵法術者」とあって、本書に記すごとき「日本第一兵法者」ではない。また、無二が吉岡に勝って賜ったという称号にしても、小倉碑文では「日下無双兵法術者」であるが、本書では「日下無双兵法者」として、吉岡の称号同様、「術」字の欠落がある。また写本の中には、三宅長春軒本のように、これを「日本無双兵法者」と記して、「日下」を「日本」と誤記するものもある。
 それはともかく、ここの記事は、吉岡清十郎と伝七郎、そして又七郎という一門の嗣が武蔵に倒されたので、兵法の家・吉岡は断絶した。――これは後で検討してみよう。
 つづく部分は、新免無二の話であるが、これは小倉碑文の記事の閾を出ない。ただ一つ異なるのは、小倉碑文では《吉岡代々、公方の師範爲り》と、たんに「吉岡」とするのに対し、『峯均筆記』では《元祖吉岡兼方ヨリ代々京師將軍家之師範タリ》と「吉岡兼方」の名を出していることである。兼方・憲法・建法・兼房等いづれでもよいが、「けんぽう」の名は、十八世紀前期には知られるようになっていたのである。
 また肥後系の武蔵伝記を見るに、小倉碑文の「新免無二」を、「新免無二ノ介信綱」(武公伝)、「新免無二之介信綱」(二天記)としているから、『武公伝』の段階から、新免無二は「無二ノ介」という名や「信綱」という諱を与えられている。また、相手の吉岡についても、「吉岡庄左衛門兼法」としており、名は『峯均筆記』よりも具体的である。しかし、「新免無二ノ介信綱」であれ「吉岡庄左衛門兼法」であれ、小倉碑文にはない記名である。「吉岡庄左衛門」名は『吉岡伝』にもみえない。これは肥後系伝説流通過程において発生した名であろう。
 それは、新免無二の兵法を「当理流」とするのも同軌であって、「当理流」の名は肥後で出た伝書によるものらしい。この真贋については、ここでは云わない。
 そのことよりも奇妙なのは、『武公伝』にはない新しい内容を『二天記』が盛り込んでいる部分である。つまり、《新免無二之介劍術ヲ修シ得テ、自ラ新免ト改ム、又吉岡ト勝負ヲ決シテ日下無双ノ號ヲ賜フ、此ノ時ヨリ新免ト改ムトモ云ヘト、未詳》と記すところである。
 ようするに、肥後系伝説の『二天記』段階では、新免の氏姓由来がわかなくなってしまっている。無二がなぜ「新免」という姓を名のったのか不明であり、そこで、こういう珍解釈が生じたものらしい。伝説というものは、自ら思考するものである。その結果、解釈が諸説を生産してしまうのである。

 肥後系伝記を見ると、慶長十九年(1614)六月の方広寺大仏殿竣工を祝う禁中能興行の一件が出てくる。これは小倉碑文や『峯均筆記』にはないもので、明らかに『武芸小伝』を参照して書かれた記事である。
 しかし『武公伝』は、何を勘違いしたものか、《兼法(吉岡庄左衛門)ハ其后年ヲ歴テ禁庭御能興行ノ時、同士ト争闘シ刃下ニ八人ヲ斬弑シ》と記し、新免無二と対戦した吉岡兼法が、まるでほぼ半世紀後の慶長十九年に再登場したかのごとくである。『武芸小伝』を参照したが、うろ覚えであったので、こんな話になったものであろう。
 それに対し、『二天記』はさすがにその誤謬を放置できず、《或説ニ曰、慶長十九年六月禁庭ニテ御能興行有シ時》と記して、これが慶長十九年の事件としている。しかし、この「吉岡」がだれなのか、というところまで話は行かない。
 そうすると、ここで「その後の吉岡」に関する伝説を、改めてみておく必要があろう。小倉碑文では、武蔵との3度の対戦の結果、吉岡兵法家は滅んだことになっているが、果たしてそれはどうか。
 『武芸小伝』の吉岡記事は、吉岡は武蔵と勝負したが、両方とも達人だったので、勝敗は明らかでなかった、ようするに引き分けだった、という話で、おそらく京都の伝説を伝えている。またさらに、武蔵と対戦した吉岡の子に「又三郎」という者があり、これが吉岡の流儀を嗣いで、名声があったという。
 ここの記述の流れを読めば、武蔵と対戦した吉岡の子・又三郎が、禁中で騒ぎを起したようである。その時、吉岡一族も多くその場にいたが、あえて騒がず、皆手を束ねて動かなかった。当然一族の者に加勢するところを、手を出さなかったのである。この「謹慎」により、吉岡一族にはお咎めなし、ということになったという話である。
 ところで、肝腎のポイントは、小倉碑文以下武蔵諸伝では、武蔵が吉岡清十郎を打倒して再起不能にし、伝七郎を打ち殺し、又七郎が率いる数百人という吉岡一門を蹴散らした、それによって兵法の家・吉岡一門は滅びた、とあるのに対し、諸書には異説のあることである。
 『武芸小伝』によれば、吉岡は武蔵と対戦した後も、存続している。吉岡の子・又三郎が跡を継いで名声があったというから、兵法の家=吉岡はしばらくは「泯絶」していないわけである。また、『武芸小伝』が収録した「駿府政事録」という文書は林羅山によるものらしいが、慶長十九年の禁中騒動の一件について、《右之狼籍者は建法と云ふ剣術者にて、京之町人也》とある。「吉岡建法」を名のる剣術者だったわけである。吉岡建法(憲法)=又三郎だとすれば、吉岡は少なくともこの慶長十九年まで「泯絶」していないのであろう。
 しかるに『吉岡伝』になると、話の展開が異なっている。まず、禁中で騒ぎを起したのは、武蔵と対戦した吉岡兄弟の従弟・清次郎重堅である。『武芸小伝』では、武蔵と対戦した吉岡の子・又三郎である。伝説の分岐はすでにここにある。
 しかし、諸書がこの事件を、慶長十九年のこととするのに対し、『吉岡伝』のみ慶長十八年とするが、方広寺大仏殿竣工を祝う禁中能興行だとするかぎりにおいて、これは明らかな誤伝だと知れる。
 さらにその後の展開で、東照大神君=徳川家康を登場させるあたりから、話はいよいよ眉唾になってくる。『吉岡伝』では、武蔵と対戦した吉岡直綱と弟の直重の兄弟は、もちろん生きており、大坂陣で豊臣方に与して大坂城に籠城する。大坂城が陥ると、兄弟は京に帰って西洞院に居住した。ここで明人李三官が黒色を染める方法を吉岡に伝えた。それで、染色を家業とし、眷属を扶助して、永く富家となった。世人これを「憲法染」と称し「吉岡染」と呼んだ、云々。
 これは小説家向きの話題だが、むろん武蔵研究においてはそのままでは採用できない。ただ、京都は豊臣贔屓の土地なので、吉岡は大坂城へ籠城したという話にならねばならないので、『吉岡伝』では、吉岡兄弟は大坂陣で豊臣方について負け組になり、その後染物屋に転じて、大いに富家になったふうな記述になるわけで、ここでは、兵法の家・吉岡は家康に兵法指南を禁じられたが、慶長末の大坂陣までは存続したことになる。
 さらに、『武芸小伝』が収録している「雍州府志」という文書は、貞亨元年(1684)黒川道祐撰述の書物であるが、《西洞院四条の吉岡氏、始めて黒茶色を染む。故に吉岡染と謂ふ。倭俗に毎事如法に之を行ふを憲法と称す。斯の染家吉岡祖、毎事此くの如し。故に世に憲法染と称す》とあって、名称由来を記す。これによれば、吉岡染物屋は西洞院四条にあったらしい。「染家吉岡祖」つまり吉岡憲法について、《此の人剣術を得、是を吉岡流と称し、而して今に行はる也》とあって、十七世紀後期にも吉岡流は行なわれていたことになる。
 再び吉岡禁中狼藉事件に話をもどせば、これは慶長十九年というわけだから、吉岡武蔵対戦の直後ではなく、十年後である。その間にはかなり年月がある。吉岡一門が十年後には、又三郎を当主にして兵法家として存続していたとすれば、その間に、武蔵に敗れていったん吉岡兵法家は「泯絶」したが、吉岡の子・又三郎を擁立して兵法家を再興した、というプロセスがあったと解せないことはない。単純に、小倉碑文の吉岡泯絶記事を誤伝とするわけにはいかないのである。
 ようするに、兵法の家・吉岡に関する説はさまざまで、一定しないが、武蔵に敗れた後、兵法の吉岡一門が「泯絶」したとするのは、小倉碑文以下の武蔵諸伝の系統のみである。それだけではなく武蔵伝説の流通過程で、さまざま尾鰭がついていったらしいと知れる。
 小倉碑文の《吉岡兵法家泯絶》記事から尾鰭の拡大したものが、肥後系伝記の、道家角左衛門に由来するという伝聞記事であろう。すでに見たように、武蔵は吉岡兄弟を倒し、その上「清十郎の子」又七郎まで斬殺し、吉岡一門を蹴散らし「全勝を得た」、つまり完勝した、という説話がそれである。小倉碑文の《吉岡兵法家泯絶》の文字は、「清十郎の子」又七郎を武蔵が殺したという話になって具体的な内容を獲得している。ところが、小倉碑文はむろんのこと、『峯均筆記』にも、「清十郎の子」又七郎を斬殺したという記事がない以上、これは肥後で後世形成された伝説である。

 地元贔屓ということもあって、京都周辺の吉岡伝説では、吉岡は武蔵に負けなかった、勝負はつかなかった、相打ちだった、という話である。負けたけれど負けなかったとするのは、敗者に心情的に加担する伝説の定型であるのは、先に巌流島の伝説でも見た通りである。ことにこの吉岡家のケースでは、吉岡染・憲法染として有名になった家であったから、兵法者・吉岡憲法の名が後世に残ったものらしい。
 このばあい、吉岡兵法家が同時に染物屋であった、という点がユニークなところであるのだが、染物屋が兵法指南をはじめたのか、それとも逆に、兵法の家が(武芸を断念して)染物屋に転じたのか、それについては、すでに十七世紀後期には伝説が分岐してしまっている。
 すでにみたところでは、「駿府政事録」に、慶長十九年の禁裏御能のさいに騒動を起した者について、《右之狼籍者云建法剣術者、京之町人也》とあって、「建法」という剣術者だが、これも染物屋という話ではない。京の町衆というに過ぎない。「駿府政事録」が林羅山撰だとすれば、羅山は京都の人である、京の町衆のこともよく知って書いているはずである。つまり、この慶長十九年の時点では吉岡「建法」は、京の町人で、すでに武士ではないことしかわからない。そしてこの「建法」という剣術者が、染物屋の吉岡家といかなる関係にあるのかも不明である。
 皮肉なことに、吉岡兵法家に関する記事の初出は、武蔵が吉岡一門を打倒し絶滅させたという小倉碑文の記事である。そこには、吉岡兵法家が染物屋であったという話はない。
 とすれば、ひとつ考えられることがある。それは、吉岡兵法家は本来染物屋ではなかったが、後年吉岡一門の余流に吉岡染で大いに成功した家が出たとき、自分らの先祖は、足利将軍指南役だったあの吉岡憲法だ、と言い出したというのが、ようするにその淵源であろう、ということである。貞享元年(1684)の『吉岡伝』は、兵法家吉岡ではなく染物屋吉岡家の由来を語るために書かれた物語である。それを間違ってはいけない。
 染物屋が兵法指南をはじめたのか、それとも逆に、兵法の家が(武芸を断念して)染物屋に転じたのか、これに関する伝説が十七世紀後期に分岐しているところをみれば、吉岡兵法家は本来染物屋ではないようだ。21歳の武蔵が吉岡一門と対戦した当時、京都の吉岡一門は兵法の家として大いに隆盛であったらしい。というのも、関ヶ原役の後で大坂・江戸の二重権力状態、再戦必至の流動的な状況であり、武士に限らず、猫も杓子も武術を習うという物騒な時勢だったのである。
 十八世紀後期の『常山紀談』には、「吉岡建法といふ染物屋」とあって、吉岡と染物業はすでに不可分のようである。十八世紀中に吉岡建法=染物屋という話は定着したようである。ただし、同書記事は、『吉岡伝』のように吉岡建法が主役なのではなく、吉岡の狼藉に対し、これに立ち向かって成敗した太田忠兵衛という者の武勇伝である。太田忠兵衛は京都所司代・板倉伊賀守勝重の家臣のようで、板倉からこれで討てと薙刀を授けられたが、吉岡の剣術に剣をもって対戦する。しかしここでの主題は、倒れた吉岡を太田がそのまま討たずに、吉岡をわざわざ立ち上がらせて斬り殺したのは、なぜか、ということで、そこに話の焦点がある教訓譚である。
 すでに見たように『吉岡伝』には、吉岡兄弟の従弟・清次郎重堅をその人物としており、また、『武芸小伝』の本文記事は、慶長十九年の禁裏御能のさいに騒動を起したのは、武蔵と対戦した吉岡の子・又三郎とするのだが、これはどちらも後世の伝説である。
 『吉岡伝』には、直綱・直重の吉岡兄弟の老後まで記し、彼らがともに出家して大徳寺の円鑑国師に参学して円満に生涯を終ったとする。ここでいう円鑑国師とは、大徳寺百十一世の春屋宗園(1529〜1611)のことで、永禄十二年大徳寺出世開堂。沢庵宗彭などの師匠筋にあたり、津田宗及・今井宗久・千利休らと親交があった人物。したがって、武蔵と対戦したとする吉岡直綱の「老後」、この春屋宗園に参学したというのは、世代的に合わない。吉岡直綱がたとえ武蔵よりも十歳年長だったとしても、その「老後」は、元和から寛永のころであろう。春屋宗園は長命だったが、慶長十六年に歿している。吉岡兄弟が大坂城に籠城する前に死んでいるのである。
 ようするに、『吉岡伝』の記事は随所でボロが出る話なのである。武蔵研究において『吉岡伝』に依拠する能わず、とするのは、こうしたことによる。
 むろん、吉岡直綱・直重兄弟が対戦したという「朝山三徳」や「鹿島林斎」そして「宮本武蔵」が、まったく架空の人物たちであるところからすれば、吉岡直綱・直重兄弟の実在性は希薄である。とすれば、小倉碑文の記す「吉岡清十郎」「吉岡伝七郎」が、『吉岡伝』の「吉岡源左衛門直綱」「吉岡又市直重」に対応する人物なのかどうかも、その判断には留保を入れておくべきである。両系列の固有名を安易に同一視できないのである。したがって、この武蔵吉岡対戦を小説化する作家たちが、わけ識り顔に、わざわざ「吉岡源左衛門直綱」「吉岡又市直重」と名を記して、清十郎・伝七郎の役を演じさせるのも、不用意な混乱混同とはいえ、やはり見苦しい仕儀である。
 ともあれ、諸書に亘って検証するかぎりにおいて、吉岡一門の記事には確かな信憑性のあるものがないのは、以上の通りである。そこで、小倉碑文の記事が、吉岡一門のことを直接記す最初の史料であることを、改めて想起しなければならない。すなわち、我々は当面、この最初の史料に依拠せざるをえないのである。
 しかしながら、小倉碑文に発した武蔵吉岡対戦伝説が、武蔵諸伝の成立過程で伝説の枝葉を広げてしまっていることは、これも改めて認識しておくべきである。とくに『武公伝』『二天記』の肥後系伝記二書にはその傾向が著しい。これに対し、『峯均筆記』もまた、小倉碑文にはない記事もかなりあり、立花峯均がこれを記すまでに、さまざま伝説成長があったようである。  Go Back



*【小倉碑文】
《是より先、吉岡代々、公方の師範爲り。扶桑第一兵法術者の号有り。霊陽院義昭公の時に當り、新免無二を召し、吉岡と兵術の勝負を決せしむ。限るに三度を以てし、吉岡一度利を得、新免兩度勝を決す。是に於て新免無二に令して、日下無雙兵法術者の号を賜はる。故に、武藏、洛陽に到り、吉岡と數度の勝負を決し、遂に吉岡兵法の家泯絶せり》(原文漢文)






*【武公伝】
《武公、父ハ新免無二ノ介信綱。即チ十手二刀ノ祖タリ。號トシテ當理流ト云。曾テ扶桑第一ノ劔術者、公方義照公ノ師洛陽ノ士、吉岡庄左衛門兼法ト云。公方命ニテ無二ト雌雄ヲ決セシム。限ルニ相交ル事參分ヲ以ス。吉岡一度利ヲ得、無二兩囘勝之。因テ日下無雙兵法術者ノ號ヲ無二ニ賜フ。兼法ハ其后年ヲ歴テ禁庭御能興行ノ時、同士ト争闘シ刃下ニ八人ヲ斬弑シ、築地ヲ跳リ越テ遁ントス。袴ノ裳、築地覆ノ釘頭ニ係リテ倒レ懸ル、邏卒長鎗ヲ以刺貫テ死ス。夫ヨリ以來迄今禁裏御能拝見ノ者帯劔ヲ禁ズトナリ》

*【二天記】
《武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也。將軍義昭公ノ御師吉岡庄左衛門兼法ト云者、洛陽ノ士・扶桑第一ノ剣術者也。將軍ノ命ニ依テ庄左衛門ト無二ト雌雄ヲ決セシム。庄左衛門一度利有テ、無二兩度カチヲ得タリ。因テ無二ニ日下無雙ノ號ヲ賜フナリ。新免無二之介劍術ヲ修シ得テ、自ラ新免ト改ム、又吉岡ト勝負ヲ決シテ日下無双ノ號ヲ賜フ、此ノ時ヨリ新免ト改ムトモ云ヘト、未詳》
《或説ニ曰、慶長十九年六月禁庭ニテ御能興行有シ時、其席ニ於テ吉岡押ヘノ雑色ドモト口論シ、遂ニ身ヲ果スト云ヘリ》

*【本朝武芸小伝】
《吉岡者平安城人也。達刀術、爲室町家師範、謂兵法所。或曰、祇園藤次者、得刀術之妙。吉岡就之、相續其技術也。或曰、吉岡者鬼一法眼流而京八流之末也。京八流者鬼一門人鞍馬僧八人矣。謂之京八流也云々。吉岡與宮本爲勝負。共達人而未分其勝負也。其子吉岡又三郎傳箕裘術、大有美名。慶長十九甲寅年六月廿二日、於朝廷有猿楽興行、使洛人許見是興行。吉岡又在其席。于時雑色者、誤而當杖於吉岡。吉岡怒而潜出禁門、携刀於衣服之下、入而斬殺雑色。故其席騒動。雑色等大勢、欲殺吉岡。吉岡不敢騒、登舞臺、吐息屏氣、及雑色等群進而、飛下斬之。又飛登舞台。如此者度々、雑色多殞命。後袴襭解散、誤而跌仆。衆皆幸之斬殺矣。于時吉岡一族多雖在其庭、不敢騒、皆束手而見其働。事終而京尹侍從板倉勝重、感吉岡一族之静而、無敢罪之。又三郎之勇威、可謂、施誉于一時、流勇名於千歳矣》
駿府政事録曰、慶長十九年六月廿九日、今日從京都伊賀守注進申曰、今月廿二日、禁裏御能。然處狼籍者乍立見物。警固之者制之門外追出。件者註D之下竊拔刀匿脇、又入御門、截殺警護之者。則其者被殺當座、御庭流血。故晴天俄曇雷雨云々。右之狼籍者云建法剣術者、京之町人也云々》
雍州府志曰、西洞院四條吉岡氏、始染黒茶色。故謂吉岡染。倭俗毎事如法行之、稱憲法。斯染家吉岡祖、毎事如此。故世稱憲法染。此人得劔術、是稱吉岡流而行于今也

*【吉岡伝】
《加之世以兵術鳴世者、悉無不立下風者、就中從弟吉岡清次郎重堅、亦能劔術、膽大心猛、得江都之輕捷。慶長十八年癸丑、右僕射秀頼公、再興東山大佛殿、已畢其功。六月廿二日於禁裡、有御祝之能。依勅許、無貴無賤、無緇無素、來視者如堵。重堅、于時病未全痊、先徃見之。臨如此時、平素有所司代役人、預誡非常繄。有只見瀰五左衛門者、是亦一流兵法者也。曾與重堅有隙、伺其便間、幸爲奉行、指揮諸人之次、制坐列之高低。以筇撃重堅三度。重堅瞪之。只見善記、只見如不聞去。重堅密出門、取輿中所藏之刀、藏將又密入門。蓋金闕禁佩刀也。重堅即日未尅、忽寄身於只見之邊、自稱報怨、即時截断只見。頭上至于腰下、一刀兩段也。重堅從來妙手無防之者。於是奉行役人相集、各作鑓衾突出。重堅鑓上飛躍奔轉、一時斬殞鑓柄卅本、蒙疵者可十四五人、死者六七人。其翔也、恰如龍布皷舞風雲。防者四迸、重堅抛刀地上、合掌念佛云、「我若任心殺害、豈有相殘者。唯々奉怖 禁裡」。言了遂被突伏、殞命。舉世皆感惜之事、聞江府、相決欲滅吉岡之一族也。東照大~君、仁慈之餘、嘆惜藝術、下令曰、「這回吉岡雖作不禮於 禁内、當人已死之間、刑罸不可及一族者」也。於是、一族雖蒙宥恕、不及死罪、猶且晦跡一年餘。大~君命曰、「自今已後、須停兵法之指南」矣。越明年冬、大~君爲討秀頼、相率諸軍、攻大坂城。~君乃命所司代曰、「速尋出吉岡一類、及迄弟子、堅制、這回不可得入大坂城」云々。於是召兄弟於二條城。兄弟、從來雖有出陣之志甚切也、依鈞命誓之以状、翌年丁卯夏四月、兄弟應三宿越前守長則之招、籠城一月餘、軍勞雖多、大坂城陥。論功無益、歸京居住西洞院。于茲明人李三官、傳染黒色方。以爲家業、扶助眷属、永爲冨家。世人稱之憲法染、又号吉岡染》
《夫吉岡之祖直光稱著妖宗甫、天性慈愛超人、正直聞也。憲法之職依之。平生好倭歌、耽數寄、造顛不忘、實風流之人豪也。直綱・直重、老後皆歸佛乘、直綱稱透關不住、直重號學室宗才。相共入大徳圓鑑國師之室、參禅學道、直窺佛祖命脈。家富名香以壽終。今也、吉岡直令者、直綱之弟榮佐子而宗才之養子也。一人續兩家督、不墜先業、無忝祖考、慈愛温和、醞藉可愛。是故予編方外交、以爲u友》





色名・憲法染(けんぽうぞめ)
吉岡憲法による黒茶染の色
「吉岡染」ともいう






京都吉岡関係地図(再掲)







*【常山紀談】
《慶長年中禁裡に散楽のありし時、貴賎群参しけり。吉岡建法といふ染物屋、剣術の妙手にてありしが、無礼の事ありしを雑色咎めければ、建法外に出で、羽織の下に脇差を隠し元の所に入り、先の雑色をたゞ一打に切つて、それより縦横に駈廻る。もとよりあくまで手利なり。手負数を知らず。板倉伊賀守勝重、日の御門にありしが、眉尖刀の鞘を外し向はれしを、太田忠兵衛、「何条手おろさせ給ふ事やある」とてかけ行くを、勝重、「此の長刀にて」とて与へられしかば、太田、吉岡に向ひ、「悪逆無礼の男子首をのべよ」と走りかゝれば、吉岡は紫宸殿の階に息つぎ居しが、「我に太刀打せん者汝ならでは」といひて、階を下りて立向ふ。太田、「己に眉尖刀は無uなり」といふまゝに刀をぬく。吉岡走りかゝりさまに倒れけり。太田大音あげ、「倒れたるを切るは士の恥なり。立つて勝負せよ」といふ。吉岡立上る所を飛びかゝり、一太刀に切殺しけり。勝重悦びて太田に禄を増し盃を与へて後、「吉岡が倒れたるを切らざるは勇余りありといへども、気に驕の失あるに似たり。吉岡商買賎しき身なれども、剣術はいかなる人も及び難し。倒れしは天の与へなり。然るを切らざるは虚を打つの理にくらしともいふべきにや」といはれしに、太田、「仰せ誠に辱く候。こゝに一つ存ずる故の候。多く敵の倒れ候を起しも立てず打たんとする故に、身を忘れ脚を切られて、倒れたる者の勝になり候。倒れ候に虚実の二つあり。吉岡が倒れ候は虚にて候。吉岡たとひ実に倒れ候ともたやすく斬らるゝ男にあらず。倒れし時は身を防ぐ事、虚に似て候へども、近附くならば切らんと存ずるは実にて候。虚にも実にも、倒れ候者の立上らぬと言ふ事はなく候。その立上る時は躬を防ぎ、敵を切り払はんと存ずる心虚になり候。そこを打つてたやすく切りとめ候ひき。誠にかゝる小さき業、匹夫の事にて、殿のしろしめす理にても候まじ。されども陣を分ち軍する道にも相叶ひ候事もやと、憚をかへりみずして申すにて候」といへば、勝重大きに感ぜらる》




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