宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  8  Back   Next 

 
  18 青木條右衛門を叱る
一 豊州小倉ヘハ、宮本伊織勤仕故、武州、折々参上、中津ヘモ時々伺公セラレタリ。
 或時、小倉ニテ、小笠原家臣島村十左衛門ガ宅ニテ饗應アリ(1)。相伴ノ面々モ數輩アリテ、料理モ濟、物語ノ内ニ、玄關取次ノ者罷出、「武州様ヘ、青木條右衛門ト申者参上、御逢被下候様ニト、相願申」由ヲ申ス。武州被聞届、「不苦事。早々是ヘ通シ候得」トテ呼入、「扨々、久敷打絶タリ。息災ニテ目出度シ」ナドヽテ懇ニ被申、「兵法ハイカニ」ト尋ラル。「只今トテモ不絶修行仕」由ヲ申ス。「サラバ見ルベシ」トテ、表等一覧、殊外機嫌克、「先以上達セリ。何方ヘ參リ指南シテモ不苦」トテ、稱美セラル。條右衛門、「忝キ仕合、身ニ餘リ、大慶仕」由申、次ヘ退キ木刀ヲ袋ニ納ム。(2)
 其時、紅ノ腕貫付タル木刀ヲチラト見ラレ、「條右衛門、其赤キハ何カ」ト尋ラル。條右衛門、甚當惑セリ。再三尋ラレシ故、答云、「諸國ヲ廻リ候間、何方ニテモ試闘望申者モ可有之。一應ハ斷可申候ヘ共、強テ所望致候ハヾ、此木刀ニテ可仕ト存、用意如是」トテ、八角ニ削リタル大木刀ニ紅ノ腕貫付タルヲ取出ス。
 武州、以ノ外機嫌損ジ、「扨々タハケ者哉。其方ガ兵法ニテ試闘ナド致ス事、甚イカヾ也。最前譽タルハ、幼少ノ人達ニ教候ニハ、一段ヨキト存ジ、稱美セシ也。試闘望人アラバ、早々其所ヲ可去。言語道斷ノ事共也。兵法ハ大意ヲ*得心セズ、手ハ利ズ、何トシテ人ニ可勝哉。縱ヒ兵法ハ不知共、手業ナリ共熟シタラバ、萬一人ニ勝事モ可有。其方ガ業ニテハ、中々勝負ノ沙汰ニ不及」トテ散々ニ呵リ玉ヒ、(3)
 十左衛門ガ兒小姓ヲ呼テ、「盆ニ飯粒ヲ入レ來レ」トテ取寄、右ノ兒小姓ガ前髪ノ結目ニ飯粒ヲ*一粒ツケテ、「アレヘ參リ、立テ居候得」ト申付、立アガリ、床〔トコ〕ニ有ケル刀ヲ取テ、スル/\ト抜放シ、上段ニ構、兒小姓ガ後ザマニ立タルニ、上段ヨリ直ニ打込ミ、結目ニ付タル飯粒ヲ二ツニ切割リ、條右衛門ガ鼻ヘサシ付、「是ヲ見ヨ」トテ、三度迄致サル。條右衛門驚嘆シ、十左衛門ヲ始メ一座ノ面々、舌ヲマキ感誉セリ。
 武州ノ玉フハ、「吾、如是手業熟シタレ共、業ニテハ敵ニ勝難シ。マシテ其方、兵意ハ得心セズ、業ハ不叶、何ヲ以テ人ニ可勝哉。偖々ウツケ者也。早々歸候ヘ」トテ追返サレシト也。(4)

一 豊州小倉へは、宮本伊織が勤仕していたから、武州は折々参上され、中津へも時々伺候された。
 ある時小倉でのこと、小笠原家臣・島村十左衛門宅で(武州への)饗応があった。(その席には)相伴の面々も数人あって、料理もすんで、(食後の)物語をしていると、玄関取次の者が来て、「武州様へ、青木條右衛門と申す者が参上、お逢い下さるようにと、お願い申しております」という。武州はそれを聞き入れられ、「かまわないから、すぐにここへ通しなさい」といって呼び入れ、「さてさて、久しく会わなかったな。息災でめでたい」などと懇ろに申され、「兵法はどうだ」と尋ねられた。(條右衛門は)「今でもたえず修行しております」という。(武州は)「さらば、見てみよう」といって、表〔基本型〕など一覧され、ことのほか機嫌よく、「まずもって上達したな。どこへ行って指南してもかまわないぞ」といってお褒めになった。條右衛門は、「ありがたき仕合せ、身にあまり、大慶にございます」と申し、次の間へさがり、木刀を袋に納めようとした。
 その時、(武州は條右衛門の)紅の腕貫が付いた木刀をちらと見られ、「條右衛門、その赤いのは何か」と尋ねられた。條右衛門は(それを聞かれて)甚だ当惑してしまった。再三尋ねられたので、(とうとう)答えて云う、「諸国を廻っておりますと、どこでも試合を望む者もあるでしょう。一応は断りを申すべきですが、強いて所望されましたら、この木刀で相手をしようと思い、用意したのがこのようなものです」といって、八角に削った大木刀に紅の腕貫を付けたのを取出した。
 武州は、ひどく機嫌を損じ、「さてまあ、何というたわけ者か。おまえの兵法で試合などするのは、まったくとんでもないことだ。さっき誉めたのは、幼少の人たちを教えるのには向いていると思って、ほめたのだ。試合を望む人があれば、早々にそこを去るべし。(試合するなど)言語道断のことである。兵法は大意を得心せず、手は利かず、どうして人に勝てるのか。たとえ兵法は知らなくても、手わざなりとも習熟したら、万に一つ人に勝つ事もあろうが、おまえのわざでは、決して勝負はできない」といって散々にお叱りになり、
 (島村)十左衛門の児小姓を呼んで、「盆に飯粒を入れてもって来なさい」といって取り寄せ、その児小姓の前髪の結目に飯粒を一粒つけて、「あそこへ行って、立っていなさい」と申しつけ、立ちあがって床の間にあった刀を取って、するすると抜き放ち、上段に構えて、児小姓が後ろ向きに立っているのを、上段からまっ直ぐに打込み、結目につけた飯粒を二つに切り割り、條右衛門の鼻先へ突きつけ、「これを見よ」といって、三度も(同じことを)なされた。條右衛門は驚嘆し、十左衛門をはじめ一座の面々は舌を巻き、感動して称賛した。
 武州が言われるに、「おれはこのように手わざに熟練したけれど、わざ(だけ)では敵に勝つことはできない。まして、おまえは兵意は心得ず、わざは未熟、どうして人に勝てるのか。さてさて、うつけ者である。とっととお帰りなさい」といって追い返されたとのことである。

  【評 注】

 
 (1)小笠原家臣島村十左衛門ガ宅ニテ饗應アリ
 これも武蔵の腕前に驚く説話である。ただし、こんどは具体的で詳細な話の結構である。
 まず、これは小倉の話のようで、豊州小倉には宮本伊織が勤仕していたから、武蔵は折々参上したこと、また中津へも時々伺候した、とある。参上・伺候とあるから、相手は殿様で、小倉の小笠原忠政、中津の小笠原長次を訪問して、ときどき話をすることがあった、というわけである。
 『峯均筆記』の記述順序からすると、これは武蔵肥後時代のことになり、肥後に逗留するようになっても、武蔵はまだ豊前の小倉や中津へ行って、ときどき忠政や長次に会っていた、という設定のようである。ただし、そうとも限らず、順不同のようでもあり、これを小倉時代のことと読めないこともない。そのあたりは確定不可能である。
 前に見たように、『峯均筆記』では、武蔵は細川忠利に、《肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ参ルマジ》、肥後で命を終るべしと思ってやって来ました。もう何方へも参りますまい、と言ったことになっているから、これは少々話が合わない。ただし、肥後時代は五年ほどあるから、豊前へ行く時間がないとは云えない。
 ところが、『峯均筆記』のこの一段の話も伝説だから、肥後時代の武蔵の動向を、これによって立証するというわけにはいかない。《肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ参ルマジ》となると、武蔵はもう小倉へ戻らなかったことになる。この仮定条件では、この一段の伝説の場面は、肥後時代ではなく豊前小倉時代の事跡だともみえる。しかし、もともと武蔵が肥後を命終の地にしたというのが、筑前の伝説なのだから、ようするに、時期を特定しようとすると、この伝説に振り回されるのである。

 さて、話は、小笠原家臣の島村十左衛門の家で武蔵を饗応したときのことだという。
 この島村十左衛門が何者かといえば、小笠原家中で千石取りの重臣である。ただし島村家は譜代の家臣ではなく、十左衛門の代に小笠原忠政(忠真)に召抱えられた新参である。しかし従来、この『峯均筆記』に登場する「島村十左衛門」に関し、従来立ち入った研究例がないので、以下、若干この人物について関説しておく。
 十左衛門の子孫に幕末の小笠原家家老・島村志津摩(貫倫 1833〜76)がいるが、その志津摩名の由緒書(『諸士由緒』所収)によれば、「元祖」島村十左衛門貫吉〔つらよし〕とある。この島村貫吉が、『峯均筆記』に出てくる島村十左衛門である。
 島村家はもともと備前の島村氏とのことである。島村氏は中世、守護大名赤松氏宿老の浦上氏に仕えた武家だった。近世「島村蟹」で有名になったのは、享禄四年(1531)の摂津大物崩れで戦死した島村弾正貴則であるが、島村弾正は浦上村宗に属したらしい。
 由緒書によれば、島村豊後守貴次が浦上宗景に仕えたとある。宗景は浦上村宗の息子で、兄宗政と対立して備前天神山城に拠った。兄が赤松政秀との戦いで死ぬと、その勢力は西播磨まで及んで、一方、西の毛利勢と対立した。
 天正三年(1575)浦上宗景が、宿老らのクーデタによって播磨へ避ると、宇喜多直家が国人衆の頭目になった。このあたりから島村氏は宇喜多の麾下に入ったようである。由緒書に、島村九兵衛則貫が宇喜多秀家の門葉とあるのは、島村氏が宇喜多氏と姻戚関係があったことを云うようである。
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では、島村九兵衛則貫は宇喜多秀家に属して敗軍となった。ただし九兵衛は戦死せず、関ヶ原戦後も生きのびた。このあたり由緒書によれば、島村九兵衛は「後ニ筑前三笠郡ニ來リ隠ル」とのことである。
 むろん、これでは事情が不明である。実際は、宇喜多筆頭家老で関ヶ原合戦で敗軍の将となった明石掃部(1569?〜1615)が、同じキリシタンの縁で、黒田如水(官兵衛 1546〜1604)を頼って筑前に迎えられたおり、島村九兵衛も同道したのである。
 このとき黒田家から、明石掃部(道斎)の家来衆、池太郎右衛門・澤原善兵衛・同忠次郎・明石少右衛門・同半右衛門・同半左衛門・島村九兵衛・黒岩彦右衛門に、計千二百五十石の知行宛行があった。島村九兵衛もそのうち筑前下座郡片延村に百八十二石余の知行を与えられている(池家譜)。
 つまり、島村九兵衛は「筑前三笠(御笠)郡に隠れた」のではなく、実際は、筑前下座郡片延村(現・福岡県朝倉市片延)に知行地を与えられ、おそらくそこに住んだのである。筑後川北岸の村である。遠い先祖のことゆえ致し方がないのだが、島村志津摩の由緒書は、このあたり情報が胡乱になっている。
 さて、島村九兵衛は筑前黒田家に禄を得た。その息子が件の島村十左衛門貫吉である。
 その後のことは、小笠原家側の『諸士由緒書』に、島村十左衛門が黒田右衛門佐様(忠之)のもとで、知行三百石取り、持筒頭を勤めていたが、牢人したとある。つまり十左衛門は、黒田忠之の代に黒田家を致仕退去したというのである。
 ところが、これも胡乱な子孫情報で、事態が皆目不通である。実際のところを具体的にいえば、以下の通りである。
 すなわち、黒田如水とその弟・直之により筑前はキリシタン王国の様相を呈していたが、如水が死去し、さらに直之も死ぬと、長政の気配が変ってきて、慶長十六年になると、長政は明石掃部に致仕退去を命じた。家臣にキリシタンがいては困るという時代になったのである。
 そこで、明石掃部は、島村九兵衛ら主だった者を、黒田家家老・小河之直に託し、自らは若干の従者を連れて黒田家を退去した。島村十左衛門は、そのとき明石掃部について黒田家を去った連中の一人である。したがって、十左衛門が黒田家を致仕するのは、忠之の代ではなく、長政の代である。
 慶長末の大坂陣のことは周知の通りである。明石掃部は後藤又兵衛らとともに、大坂城に入城して、豊臣家のために戦うことになった。大坂城落城して明石掃部は生死不明だが、たぶん戦死したらしい。島村十左衛門も、明石掃部の麾下で大坂陣に戦ったが、敗戦後落ちのびて再度筑前へ舞い戻ったようである。
 元和九年、家光が将軍宣下をうけた際に恩赦があり、大坂牢人の召抱えが解禁になった。諸大名はこぞって武功ある牢人を召抱えた。筑前黒田家分限帳「元和九年知行高帳」の御側筒衆の項に、《一 貳百石 嶋村九大夫 貫吉》とある。島村十左衛門(九大夫貫吉)が黒田家に二百石で再仕することになるのは、このときであろう。十左衛門は父九兵衛の跡目を嗣いで、「九大夫」を名のったらしい。その後、十左衛門は家督を息子の九大夫貫正に譲って隠居した。江戸に出ることもあったようである。
 島村志津摩の由緒書には、島村十左衛門が武州江府(江戸)で小笠原忠政(忠真)に召抱えられ、五百石を賜わり御使番、とある。これによれば、十左衛門は江戸で小笠原忠政と会い、家臣となった様子である。ただし、この由緒書の記事だけでは、十左衛門が小笠原忠政に仕官した時期が不明である。小笠原家が播州明石にいた頃か、それとも九州の豊前小倉へ移封された後か。
 そこで何か材料はないかとみると、『諸士由緒書』には、十左衛門が召寄せられたのは播州明石ではなく豊前小倉であるとする。
 小笠原忠政が明石から小倉へ転封になるのが、寛永九年。したがって、何れにしても、寛永九年(1632)、小笠原家国替えのおりが、島村十左衛門仕官の契機であろう。国替えで大幅に加増された小笠原家は、軍役増員に応じる必要があり、それなりの人士を求めていたのである。
 島村十左衛門は、これにより豊前小倉に新しく一家を立てるようになった。むろん筑前黒田家中には息子九大夫の島村家があるのだが、小笠原忠政の招聘を断りきれなかったのである。
 五百石で仕官後、十左衛門は、御使番・江戸御留守役など歴任し、三百石、二百石と順次加増をうけ、都合千石の知行取りになった。小倉小笠原家は十五万石の所帯だから、十左衛門の千石取りは重臣の列に並んだということである。

 これについて『諸士由緒書』は、いささか皮肉な書きぶりである。つまり、十左衛門の一門は、「伊丹播磨守」の肝入の者ゆえ、このように出世した。十左衛門は、ことの外、利口な者でござる、と。
 では、「伊丹播磨守」とは何者か。この人物は「播磨守」とあるので、伊丹康勝(1575〜1653)のことらしい。伊丹氏は本国摂津であるが、康勝の祖父の代に伊丹城を退転し、父康直は今川氏や武田氏に仕えたらしい。康勝は幼少の頃から徳川家康に仕えて、秀忠の代に旗本となり、能吏として急速に頭角を顕してくる。そして寛永九年(1632)に勘定奉行、翌十年に甲府城番となって三千石加増され、都合一万二千石となり、大名に列し、老中連に伍する勢力があったが、同じ寛永十年(1633)に家光の勘気にふれ失脚している。ところが翌年には早々に復権し復職している。
 そんな伊丹康勝だが、彼と島村十左衛門との縁はどこから生じたか。江戸で偶然相遇したというには「肝入」が濃厚である。そこで、何か縁戚関係でもありはしないか、という話の筋道になる。
 それが思いがけないところから出た。後にも参照する備前の史料、浦上家系図である。島村十左衛門の妹婿に島村治郎右衛門なる者がいるが、浦上家系図によれば、治郎右衛門は浦上瀬兵衛の実弟で、島村に入り婿したらしい。
 そこでさらに浦上瀬兵衛の兄弟姉妹の記事を見るに、姉妹三人のうちの一人に、こんな記事がある。――浮田左京の弟・浮田加賀右衛門に嫁す。娘二人あり、一人は伊丹播磨守に嫁し、一人は小松原次郎右衛門時之に嫁す、と。つまり浮田左京とは、宇喜多詮家=坂崎直盛のことだが、それはさておき、浦上瀬兵衛・治郎右衛門の姪(姉妹の娘)に、伊丹播磨守に嫁した女性があったとのことである。
 むろんこのばあい、伊丹氏側の伝えとの照合が必要である。伊丹康勝の妻は浦上氏ではなく、興津氏であり、康勝の息子・勝長には宇喜多詮家(坂崎直盛)の娘が嫁している。したがって、浦上家系図にある「伊丹播磨守」に該当するのは、康勝ではなく勝長であろう(勝長も「播磨守」を称した)。
 よくある例に漏れず、伝えの不整合はいかんともしがたいところだが、備前の系図記事は宇喜多詮家(坂崎直盛)と伊丹康勝の所縁とその反映の痕跡をのこしている。そこにからむのが、上述の浦上・島村両家の関係である。島村十左衛門と伊丹播磨守(康勝・勝長)にもし縁故があるとすれば、そのあたりからきているようである。
 ようするに、島村十左衛門には、伊丹播磨守康勝という幕府の有力者の後ろ楯があった。小笠原忠政が島村十左衛門を家臣にするについては、伊丹康勝が肝入りで関与したのだが、その後も何かとサポートをうけていたらしい。
 十左衛門が八百石に加増されて江戸留守居役になるのは、仕官後八年ばかり後のことで、これも伊丹康勝の関与があったかもしれない。

 そうしてみると、武蔵と島村十左衛門の遭遇の機縁は、いろいろ考えられる。十左衛門が江戸留守居役のとき、武蔵と江戸で交際があったと推測しうるし、もちろん、寛永十四年の有馬陣、すなわち天草島原の乱のとき、武蔵も島村十左衛門も、同じ小笠原隊に属して戦場にいたのだから、双方、顔見知りであったはずである。
 島村十左衛門の名は「有馬浦御陣御供諸士由緒記」の御旗本の項にみえる。寛永十四年の島原の乱の鎮圧に九州諸大名が動員されたおり、原城攻めに小笠原家も参戦した。島村十左衛門は小笠原忠政の旗本としてその場にいたのである。
 さらにいえば、本サイトのあちこちで述べられているように、武蔵は黒田家中諸士との縁があった。だから、島村十左衛門がまだ黒田家に属していたころに、すでに知り合いであった可能性もある。
 そうしてみると、武蔵には、島村十左衛門は旧知の人物で、それが、播磨時代から武蔵と縁の深い――武蔵養子の宮本伊織が重臣として仕えている――小笠原家に、新参として就職してきたのだから、双方かまわないわけがない。
 (この島村十左衛門は、後掲の「追加2 三祖柴任三左衛門美矩」にも登場する。それについても関連記述してあるので、それを参照のこと)

 ところで、丹羽信英の『兵法先師伝記』にも、青木條右衛門について、まったく同じ話がある。ところが、武蔵を家に招いて饗応するのは、島村ではなく、家老の二木何某ということになっている。
 二木氏は、小笠原氏が信州で武田晴信と合戦していた頃からの小笠原家重臣、新参の宮本伊織とは比べものにならないくらい旧い譜代家老である。それゆえ、この武蔵饗応の場面で、家老の二木某というのもありえない話ではなかろうが、ここは、『峯均筆記』ゆかりの柴任美矩の親戚ということで、島村十左衛門の家での話だとしておく。
 となると、話の出処は島村十左衛門で、柴任美矩が島村から聞いた話ということになって、これは実話なのではないか、といった目星が一応つきそうだが、そうは単純な判定をゆるさないのが、この一段の面白いところなのである。  Go Back





小倉城


九州関係地図





*【島村志津摩由緒書】
《元祖島村十左衛門貫吉[備前島村住、浦上分流、島村豊後守貴次、三世九兵衛則貫嫡。貴次ハ浦上遠江守宗景ニ仕。則貫ハ宇喜田秀家ノ門葉ニ依テ備前ニ居シ、後ニ筑前三笠郡ニ來リ隠ル](後略)》



明石掃部 関ヶ原合戦図屏風


*【池家譜】
爲扶持於下座郡千二百五拾石宛行畢。目録別紙有之。全可領知者也。
 慶長七年十二月廿三日  長政 印
       明石道斎家来中 》


*【島村十左衛門関係略系図】

○島村豊後守貴次―九兵衛則貫┐
┌―――――――――――――┘
十左衛門貫吉┬九大夫貫正
 (九大夫) | 福岡黒田家中
       |
       └次郎左衛門貫重
         小倉小笠原家中


*【諸士由緒書】
《島村十左衛門事、黒田右衛門佐様にて知行三百石取、持筒頭相勤居申候が牢人致候》



出光美術館蔵
大坂夏の陣





*【島村志津摩由緒書】
《元祖島村十左衛門貫吉(中略)、武州江府ニ於テ、忠眞公被召抱、采地五百石被下、御使番》



*【諸士由緒書】
《島村十左衛門事、黒田右衛門佐様にて知行三百石取、持筒頭相勤居申候が牢人致候を、伊丹播磨守殿御肝入にて、右近様小倉へ被召寄、五百石被下被召抱候》

*【島村志津摩由緒書】
《元祖島村十左衛門貫吉(中略)武州江府ニ於テ、忠眞公被召抱、采地五百石被下、御使番。有馬浦御陣御供。後ニ江戸御留守惣引受、御加増三百石。其後御加増二百石被下ノ所[嫡子次郎左衛門貫重ノ部屋住料ニ願依テ貫重ニ被下、御近習]、後ニ又御加増二百石、都合千石ヲ領、無格。其後貫重、家領千石ヲ継[此時自分ノ二百石ハ上ル]、上ノ段詰ノ者支配。後ニ忠雄公御附。其後外様番頭。(後略)》

*【諸士由緒書】
《是一門は伊丹播磨守殿御肝入の者故、此如。其後、御留守居役、願にて被爲御免、小倉へ帰候て、弐百石の御加増被下、千石に成申候。十左衛門儀、殊外利口なる者にて御座候》





*【浦上家系図】(浦上瀬兵衛の姉妹)
《浮田左京弟・浮田加賀右衛門ニ嫁ス。娘二人アリ、一人伊丹播磨守ニ嫁シ、一人小松原次郎右衛門時之ニ嫁ス》


*【島村浦上姻戚関係図】
        
        ┌次郎左衛門 小倉
        |
 ┌島村十左衛門┴九太夫 福岡
 |
 └ 女 十左衛門妹
   │
 ┌島村治郎右衛門 浦上瀬兵衛弟
 |
 ├浦上瀬兵衛―十兵衛
 |
 └女
  ├――女 伊丹播磨守妻
  |
 浮田加賀右衛門 浮田左京弟





北九州市歴博蔵
有馬浦御陣御供諸士由緒記


小倉城下屋敷比定地図



*【兵法先師伝記】
《小倉ニテ、或時家老二木何某ガ宅ニ請ゼラレテ、饗應有シ折節、案内シテ、「青木條右衛門ト申者ニ候。武藏様是ヘ御出被成御座候由、拜謁仕度申上給レ」ト云。取次是ヲ達スレバ、先師、「成程知レル者也。通シ被申ヨ」トノ事故、條右衛門衣装ヲ改テ席ニ出ル。「條右衛門何トセシヤ、久シク逢ザリシ。兵法ハ少モ上リシカ」ト尋ラル》
 
 (2)武州様ヘ、青木條右衛門ト申者参上
 島村十左衛門宅で、武蔵を迎えて宴会の最中、訪ねてきた者があった。青木條右衛門という者である。武蔵に会いたいという。
 武蔵は、「かまわないから、すぐにここへ通しなさい」といって呼び入れ、「さてさて、久しく会わなかったな。息災でめでたい」などと親しく声をかけて、「兵法はどうだ」と尋ねる。青木條右衛門は、「今でもたえず修行しております」。武蔵、「さらば、見てみよう」といって、青木の表〔基本型〕など一覧して、ことのほか機嫌がよく、「何はともあれ、上達したな。どこへ行って指南してもよいぞ」と、ほめた。青木條右衛門は、「ありがたき仕合せ、身に余ることで、大慶と存じます」と答えて、次の間へさがり、木刀を袋に納めようとした、云々。
 こういう場面を見るに、青木は武蔵の弟子であり、武蔵を師として仰いでいることになる。しかし、この青木條右衛門が何者なのか、いちおう見ておくする。
 すでにこの『峯均筆記』の最初に、青木條右衛門の名が出ていた。つまり、武蔵の「父」の無二に関する記事で、無二には多くの弟子があったが、なかでも青木條右衛門は「無二免許の弟子」だというのである。
 もう一つは、『峯均筆記』の巌流島決闘の記事である。このとき武蔵の道具に、舟の櫂を長四尺に切って、刃の方に二寸釘を隙間なく打込み、握りの所に鋸目を入れた木刀があり、割註に、これは《青木条右衛門製》と言い伝えている、という。
 となると、『峯均筆記』によれば巌流島決闘は武蔵十九歳のイベントだから、青木條右衛門は武蔵の最も早期の弟子だということになる。このことは、青木が、無二免許の弟子だったという記事と必ずしも矛盾するものではない。
 しかし、「父」新免無二の免許を受けた弟子である青木が、武蔵の弟子になったとすると、これは年上の弟子である。そうでなくとも、武蔵十九歳のとき、すでに青木が武蔵の弟子だったとすれば、小倉小笠原家臣の屋敷でのこの一件のとき、武蔵はすでに六十歳近いだろうから、巌流島決闘より四十年ほど後のことである。青木が武蔵より年長とすれば、このとき彼は六十歳以上。そうなると、この一段の説話のように、あたかも若年の未熟者のように青木が扱われるのは、話が合わない。
 ことにこの点につき、新免無二は《天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武藏掾玄信と曰す》という泊神社棟札の記事と照合すれば、武蔵は年齢からして無二とは直接関係をもたなかったわけで、直接関係がなかった無二と武蔵を結びつけるのが、青木條右衛門なのである。しかしまた一方、青木は無二没前の天正年間に無二の免許を受けていなければならないわけで、そうなると無二免許の弟子だったという青木は、武蔵十九歳の巌流島決闘のときはすでに中年である。さらにいえば、巌流島決闘のときすでに中年だった青木が、その四十年後、武蔵が六十歳近い寛永末期に、存命だったかどうかすら恠しいはずである。
 そこでこの矛盾を解消しようとして出てくるのが、武蔵晩年のこの小倉での一件に登場するのは、二代目青木條右衛門ではないかという救済策である。先代青木條右衛門は無二免許の弟子、これは巌流島決闘あたりまで武蔵と関係があった人。それに対して、青木條右衛門の名跡を嗣いだ二代目青木條右衛門は、武蔵と同世代の人で、武蔵初期の弟子、という筋書で、そうなると年齢上の矛盾はなくなるというわけである。
 ところが、この説の決定的な難点は、『峯均筆記』には、青木條右衛門が二代目だとも何とも記していないことである。『峯均筆記』では、無二免許の弟子で、巌流島決闘の木刀の製作者で、そして小倉の島村宅へ武蔵を訪ねてきたのも、すべて同一人物の扱いである。それゆえ、『峯均筆記』の青木條右衛門に関する伝説には、明らかに矛盾が露呈しているのである。
 それゆえ、『兵法先師伝記』の丹羽信英は、青木條右衛門を無二免許の弟子とせず、武蔵免許の弟子とする。しかも、武蔵が二十八〜九歳の壮年の頃の門弟だという。丹羽信英は、越後で、その青木條右衛門の流末に遭遇している。すなわち、越後村上の内藤家中、土屋皆右衛門なる者である。綿谷雪によれば、この伝系は、青木休心の系統で「両剣時中流」と号したという。我々が近年現地で確認したところでは、その時中流は、やはり青木休心を祖とするもので、青木條右衛門とはみなしがたい。
 青木條右衛門の流末に遭遇したと思った丹羽信英が言いたいのは、青木條右衛門は初期の武蔵の流儀を伝授されたもので、それゆえ、同じ二刀でも、晩年の武蔵流兵法とは仕方等も意味も違う、ということである。こういう主張は『峯均筆記』の伝説背景にもあるようで、青木條右衛門が無二流であれ、初期武蔵流であれ、自分たちの流儀とは異なる、というのが筑前系伝記の強調するところである。















*【丹治峯均筆記】
《無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ無二免許ノ弟子也》
《辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ著シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ著シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リ手ゴロノ木ヲ、握リノ所ハ皮ヲヽシ削リテモテリ》


























*【兵法先師伝記】
《廿八九歳ノ比、門人モ有テ、其流義免許セラシモ多カリシトナン。中ニモ、青木條右衛門ト云者ハ、其比ノ門弟ニテ免許ノ弟子也シトゾ。此青木條右衛門ガ傳ル処、間々世ニ殘レリ。當時越後村上内藤侯ノ臣土屋皆右衛門、二刀ヲ傳得テ、彼御家ニ名アリ。是則青木條右衛門ニ、先師壯年ニ免許セラレシ流義ナル故、仕方等モ違、意味モ違シ事有ト聞》
 これに対し、肥後系伝記は青木條右衛門に関する情報はなかったものとみえて、『武芸小伝』の記事を引用するのみである。『武芸小伝』の記事は、「青木城右衛門は、刀術を宮本武蔵に学び、二刀に達す。名を華夷に顕はす。後に鉄人と号す」というはなはだ簡単なもので、『武公伝』『二天記』ともにこの記事に拠っただけである。(なお、『二天記』写本に「武藏小傳」とあるのは、「武藝小傳」の誤写であろう)。
 『武芸小伝』の「青木城右衛門」の記事は、これもあまり根拠はなさそうであるが、傍証しうるものが何かあるかといえば、かつて綿谷雪が示した円明流実手家譜の青木鉄人金家(鉄人実手流開祖)の嗣系以外にはない。これによれば、宮本大蔵大輔家元から青木常右衛門吉家へ、そして青木鉄人金定、青木鉄仁金家という伝系がみえる。そしてむろん、一方に宮本武蔵守吉元→宮本無二之助一真→宮本武蔵守正勝と続く、例の伝系が並ぶ。
 「円明実手流家譜并嗣系」によれば、生国河内国錦郡住人・宮本武蔵守吉元と青木常右衛門吉家は兄弟、常右衛門は母方の青木姓を名のった。宮本武蔵守吉元(1537〜1600)は円明流を発明したが、慶長五年死去にあたり、弟吉家に相伝し、かつ、息子・無二之助を後見してその兵器を育てるよう依頼した。無二之助は青木常右衛門吉家の甥なのである。
 すでに前に見たように、宮本無二之助一真(1570〜1622)は、前武蔵守吉元の実子、常右衛門は兄吉元から承けた円明流を、甥の無二之助に相伝した。したがって、嗣系は、宮本武蔵守吉元→青木常右衛門→無二之助である。このとき無二之助は武蔵守の名跡を嗣いだということになる。そうして、無二之助は甥の虎之助を養子にしてこれを嗣がせて、宮本武蔵守正勝。既述の通り、これが宮本武蔵をモデルにした人物である。
 ところで、青木常右衛門吉家の方は、自身の子・金定(1570〜1621)に相伝した。これが鉄人を名のる。これを嗣いだ息子の金家(1596〜1675)も鉄人を名のった。この金家が鉄人実手流開祖である。他方、青木常右衛門吉家は入道したとき、常右衛門の名跡を弟の与八郎に譲った。これが青木常右衛門家真である。家真は入道して休心を号し、嗣いだ子が常右衛門真継である。
 こうしてみると、常右衛門の名跡は、青木吉家から弟の家真へ譲られ、さらにその子・真継へ渡った。常右衛門の名跡は鉄人の名跡とは別系統である。したがって、青木常右衛門が鉄人を名のることはない。『武芸小伝』の、青木城右衛門が後に鉄人と号したというのは、混同から生じたもので、伝聞の誤情報である。
 他方、肥前佐賀の鉄人流に内田春朝聞書覚という一書がある。それには、金家は初名新右衛門、後に常右衛門金家と名のる。宮本武蔵の門人で、江戸へ出て神田明神前で道場を開いた。没年享年は寛文元年、七十五歳というから、生没年は一五八七〜一六六一年となって、円明流嗣系の話と矛盾する。また、常右衛門の名跡は大叔父・家真の系統のもので、金家が常右衛門を名のることはない。内田春朝の説の当否は別にして、おそらく『武芸小伝』の作者はこの筋の伝書を見たものと思われる。
 では、『武芸小伝』に、青木城右衛門が刀術を宮本武蔵に学んだとあり、また『峯均筆記』に、青木條右衛門が無二及び武蔵の門弟として登場する、これはいかなることか。
 円明流嗣系で云えば、青木「常」右衛門だが、吉家と家真は吉元の弟だから、これは世代的にも無二の門弟になりようがない。そうしてみると、青木家真の子・常右衛門真継あたりになる。しかし、そういう伝承もないので、これは何とも云えない。
 一方、『武芸小伝』を見るかぎりにおいて、十八世紀はじめ頃には、青木城右衛門が刀術を宮本武蔵に学んだ、という伝説ができあがっていたらしい。『武芸小伝』の「青木城右衛門」の記事が知られていたから、『峯均筆記』の青木條右衛門記事も、ソースはオリジナルではなく、『武芸小伝』あたりの新説が混入しているかもしれない。ただ、『峯均筆記』が肥後系伝記と異なるのは、肥後系伝記が『武芸小伝』のような文献資料しか情報をもたないのに対し、『峯均筆記』は筑前ローカルな固有伝説をもちえたということである。『武芸小伝』との相違は、『峯均筆記』が青木條右衛門を無二の門弟とするところである。そこに『峯均筆記』の伝説更新があるのだが、これは円明流のセクトとは別の、無二流の伝説があったものと思われる。  Go Back


*【武公伝】
青木城右衛門ハ武公ノ弟子、二刀ニ達ス。後、鉄人ト云ト[武藝小傳出]》

*【二天記】
《武藏小傳ニ、武藏門弟ニ青木城右衛門ト云名アリ、後鉄人ト號ストアリ。何國ノ人ト云コト未考》

*【本朝武芸小伝】
青木城右衛門者、學刀術於宮本武藏、達二刀。顯名於華夷。後號鉄人》


*【円明流実手嗣系】

○宮本大蔵大輔家元┐
┌────────┘
├宮本武蔵守吉元―宮本無二之助一真┐
│  円明流権輿   実手当理流 │
│┌───────────────┘
│└宮本武蔵守正勝┬宮本無右衛門
│    武蔵流 └宮本伊織勝信

├青木常右衛門吉家―青木鉄人金定┐
│┌──────────────┘
│└青木鉄人金家─┬青木弁右衛門
│  鉄人実手流 ├青木与四郎家久
│        └青木藤五郎
└青木常右衛門家真┬青木常右衛門真継
      休心 └青木次郎左衛門






鉄人流十手器
 
 (3)武州、以ノ外機嫌損ジ
 たったいま武蔵は上機嫌で、青木條右衛門を誉めたばかりなのに、その場の空気は急変する。武蔵は、青木の木刀に紅の腕貫が付いているのを見咎めたのである。
 前出の武蔵の五尺杖の記事にあるごとく、腕貫〔うでぬき〕というのは腕貫緒のことで、武器が手を離れないようにする紐。革や糸紐で作り、柄の先端に取り付けて、緒に手首を通しておく。武蔵の五尺杖は、刃の方に銕〔くろがね・鉄〕を伸ばして補強し、後・先・中にも胴がね〔胴金〕があって、長い腕貫の緒が付いていた。枕木刀の腕貫は指にかかる程度で短い、という記事があった。
 ここでは赤い腕貫緒が武蔵の目にとまったのである。ただしこれは、「何というチャラチャラした赤い紐など付けておるのか」というわけではない。先を読んでみる。
 青木條右衛門の木刀に紅の腕貫が付いているのを見咎めた武蔵は、「條右衛門、その赤いのは何か」と尋ねた。青木は困ってしまい、返事が出来ない。武蔵が再三詰問するので、とうとう青木は、「諸国を廻っておりますと、どこでも私に試合を望み挑戦する者もあるでしょう。一応は断りを申すべきですが、強いて所望されましたら、この木刀で相手をしようと思い、用意したのがこのようなものです」と、八角に削った大木刀に紅の腕貫を付けたのを取出し、それを武蔵に見せた。
 大木刀とあるが、青木の道具は八角棒のようである。廻国修行していた青木條右衛門は他流試合用に、格別しゃれた紅の腕貫を付けた道具を携帯していたのである。試合は衆目環視の中で行うハレの場だから、廻国修行者はおのづから派手なファッションになり、美々しいアクセサリーで飾ったのである。
 このあたりは、『兵法先師伝記』は後世のものだけあって、話の運びがすっきり整理されて、語り口がコナれている。『兵法先師伝記』流の言い方をすれば「枯れ」ている。ここでは青木の科白は、「これは試合用の木刀です。私も諸国を巡っておりますから、試合を挑まれた時のため、こしらえたものです」。ようするに、試合用の木刀、いつでも人と試合できるように、ハレの木刀を用意していたのであるから、青木條右衛門は人と試合をするつもりでいるというわけだ。
 武蔵は、猛烈に機嫌を損じ、「さてまあ、何というたわけ者か。おまえの兵法で試合などするのは、とんでもないことだ。さっき誉めたのは、幼少の人たちに教えるのには向いていると思って、ほめたのだ。試合を望む人があれば、早々にそこを去るべし。おまえが試合するなど、言語道断のことである。兵法は大意も得心せず、手は利かず、どうして人に勝てるのか。たとえ兵法は知らなくても、手わざなりとも習熟したら、万に一つ人に勝つ事もあろうが、おまえのわざでは、決して勝負の沙汰には及ばない」といって散々に叱った、云々。
 ここまでの話で、すでに話のモチーフは出ている。つまり、衆人環視の中で叱責されたのだから、青木條右衛門の面目は丸つぶれであることだ。しかし、むろんこれでは、話は明らかに変である。どこが変だか、明敏な読者ならすでに察しがついているはずである。
 前に見たように、『峯均筆記』に従うならば、青木條右衛門は巌流島から四十年、ベテランどころか、もう老人である。こんな若年の未熟者のような叱責を受けるはずがないのである。
 しかしながら、青木條右衛門が無二流であれ、初期武蔵流であれ、自分たちの流儀とは異なる、というのが筑前系伝記の強調するところである。言い換えれば、武蔵に叱責されるこの話のモチーフは、青木條右衛門の面目をつぶすことにあり、それゆえ、この説話に登場する彼は、さんざんに叱責されてしまうのである。ようするに、俗にいうところの、タメにする話である。
 そのことは、武蔵の「父」新免無二に対する扱いにおいても同様で、『峯均筆記』ではあからさまな近親憎悪の様態をなしているが、それは、当時無二流があちこちに現存していたので、いわば筑前系の武蔵兵法流末の無意識的な敵意や悪意が、『峯均筆記』の無二像に投影されているのである。無二流と武蔵流の近親憎悪が投影されて、無二と武蔵の父子近親憎悪の関係が演じられるのである。
 したがって、青木が無二免許の弟子だという場合は、彼は無二流であり、面目をつぶされる。また青木が武蔵免許の弟子だという場合は、彼は初期武蔵流であり、この場合も面目をつぶされる。いづれにしても排除の心的メカニズムが『峯均筆記』の伝説には作動している。それも、無二流もしくは初期武蔵流に対する筑前武蔵流末の近親憎悪に似たセクト主義のあらわれである。かくして、伝説の中でこのように貶められる青木條右衛門という存在は、その取扱いには注意を要する。それは後でまとめて述べることにする。  Go Back






*【丹治峯均筆記】
《五尺杖ハ、刃ノ方ニ銕ヲノベテフセ、跡先中ニモ胴カ子アリテ、長キ腕貫ノ緒付ケリ。枕木刀ノ腕貫ハ指ニカヽル様ニ短シ》













*【兵法先師伝記】
《條右衛門衣装ヲ改テ席ニ出ル。「條右衛門何トセシヤ、久シク逢ザリシ。兵法ハ少モ上リシカ」ト尋ラル。條右衛門謹テ、「御覧被下度奉願」ト云。「左アラバツカヘ」トユルサル。條右衛門木刀ヲ出シテ、ツカヒケレバ、先師モ、「中々上リシゾ。弥其通ニ修行セヨ」ト、機嫌ヨケレバ、條右衛門モ悦ビ、木刀ヲ袋ニ入ル時、赤キ紐(総)ノチラト見ヘケルヲ、先師「夫ハ何ゾ」ト問ル。條右衛門、「是ハ試闘木刀ニ御座候。私モ諸國ヲ廻リ候ヘバ、試闘望マレ候時ノ爲、拵置候」ト云。先師機嫌アシク、「條右衛門、何ト心得候ヤ。其方ガ兵法ヲホメルハ、若輩抔ニ太刀筋等ヘルタグヒハ苦シカラズト、賞美セシナリ。中々汝如キガ、人ト試闘ナド丶ハ、思モ寄ラザル事。夫ヲ合点サスベシ」ト…》

 
 (4)結目ニ付タル飯粒ヲ二ツニ切割リ
 この説話の本体は、一連の同類説話群のなかに位置づけられる以下の、武蔵の超人的な芸術(腕前)に驚嘆するという説話素にある。その説話素を、無二流もしくは初期武蔵流の青木條右衛門なる排除対象に無媒介的に接木して、この一段の話が出来あがった、というのが伝説形成の筋道である。言い換えれば、説話本体の武蔵名人譚の環境設定上、召喚されたのが、排除対象としての青木條右衛門なる存在である。
 整理された『兵法先師伝記』の武蔵の科白では、「おまえのような者が試合など思いもよらない。それを合点させてやろう」という。どのようにして武蔵は合点させてくれるのか。
 『峯均筆記』によれば、青木條右衛門をさんざんに叱責したあと、武蔵は、島村十左衛門の児小姓を呼んだ。児小姓というのは元服前の少年である。『兵法先師伝記』はこれを小扈従としていて、必ずしも稚児ではないから、この説話のディテールが崩れる。ここは『峯均筆記』の児小姓の方が絵になっている。
 さて、武蔵は呼んだ児小姓の少年に、「盆に飯粒を入れてもって来なさい」といって取り寄せた。武蔵が何をするのかと思うと、その児小姓の前髪の結目に飯粒を一粒つけて、「あそこへ行って立っていなさい」と申しつけた。
 さて、この座敷で何が始まるのか。武蔵は座から立ち上がって、床にあった刀を取った。床の間にあったというから、これは武蔵の刀ではなく、島村家の太刀だろう。他方、家老二木某とする『兵法先師伝記』は、それを「志津兼氏の差料二尺五寸」と記し、その志津兼氏を武蔵の差料としている。後世文書特有のディテールの具体化を示す。
 志津兼氏は南北朝の頃の十四世紀、現在でもかなり遺っており、たとえば東博所蔵の兼氏は重文である。 志津兼氏の名を出すのは、この場にふさわしい名刀を出すべしということで、説話化が進展している証拠である。
 武蔵は太刀をとって、スルスルと抜き放ち、上段に構えて、後ろ向きに立たせた児小姓に向かって、上段からまっ直ぐに打込んだ。武蔵が児小姓の頭上から斬りつけたのだから、一座の者らはびっくり仰天、というところだろう。
 武蔵は何をしたのか。なんと、後ろ向きに立たせた児小姓の前髪の結目につけた飯粒を、二つに切り割ったのである。一座の者らは、もう一度びっくり仰天である。
 武蔵は身の丈六尺の、当時としては巨人だから、後ろ向きに立たせた児小姓の前髪の結目につけた飯粒を、上から切断したという様子らしい。曲芸みたいな技であるが、児小姓の少年といっしょに練習したわけではない。児小姓を後ろ向きに立たせたわけも、これでわかる。少年が前に向いていたら、武蔵に斬りつけられる恐怖で、とっさに身を動かしただろう。そうさせないために、後ろ向きに立たせたのである。
 そうして武蔵は、真っ二つに斬り割った飯粒を、青木條右衛門の鼻先へ突きつた。そればかりか、「これを見よ」といって、三度も同じことをやってのけた。青木條右衛門は驚嘆し、十左衛門をはじめ一座の面々は舌を巻き、感動して称賛した。
 武蔵は青木條右衛門に言った。「おれはこのように手わざに熟練したけれど、わざだけでは敵に勝つことはできない。まして、おまえは兵意は得心せず、わざは未熟、どうして人に勝てるのか。さてさて、うつけ者である。とっとと帰ってしまえ」といって追い返した、とのことである、云々。
 これが武蔵名人伝説であることは明らかで、よくできた話である。しかも教訓までついている。しかし、この教訓の文意を補足する必要があろう。
 おれはこのように手わざに熟練したけれど、わざだけでは敵に勝つことはできない。この原文は、《吾、如是手ワザ熟シタレ共、ワザニテハ敵ニ勝ガタシ》。わざでは敵に勝つことはできない、である。これに、わざ「だけ」では敵に勝つことはできないと訳語を足したのは、『峯均筆記』の文脈を勘案してのことである。では、わざだけでは敵に勝つことはできないとして、ほかに何が必要だというのか。
 上記のように武蔵が青木條右衛門を叱ったとき、《兵法ハ大意ヲ得心セズ、手ハ利ズ、何トシテ人ニ可勝哉》、すなわち、兵法はその大意を心得ず、手は利かず、どうして人に勝てるのか、と詰った。兵法の大意とは、極意というよりも、兵法のファンダメンタルな考え、根本思想というようなことがそれである。とすれば、敵に勝つには、わざだけではないとして、ほかに何が必要かというに、『峯均筆記』では実はそれは語られておらず、「?」なのである。この穴を埋める解釈をするならば、自分の技能を知ること、ひいては、《汝自身を知れ》ではないが、「自分」を知ることである。青木條右衛門は自分を知らない、それが問題だ、というわけである。
 わざでは勝たない、心で勝つ――これは当時通俗の思考で、それゆえわかりやすいのだが、もちろんそれは、『兵法先師伝記』の十八世紀後期のことである。武蔵がそんなことを言うわけがない。『峯均筆記』の武蔵も、「心で勝つ」だなんて科白は言わない。
 すると、話の原型はどんなものだったのか、と問わねばならない。その答えは、説話を文字通り読むことにある。
 最初武蔵が青木條右衛門の腕前をみて、「かなり上達したな」と褒めたのだが、それにしても、初心者なら青木條右衛門が指南するに差し支えない、その程度の腕前である、まだまだ人と試合する腕前ではない、ということである。まだ人と試合ができる腕前ではないのに、未熟な青木が自分を知らず、勝手に試合をしようとしているから、武蔵が叱ったというわけである。これが話の原型である。
 それに対し、武蔵が、児小姓の前髪の結び目に付けた飯粒を真っ二つにするという自分の芸術(腕前)を見せた上で、「わざだけでは人には勝てない」と教訓したというのは、シーンの第二幕である。
 以上この一段の説話を総括してみるに、構成要素は三つである。すなわち、第一に、未熟なのに他流試合をしようする弟子を武蔵が叱った、という基本的な説話素。これは、いつでもどこでもありそうなことで、実話か否か争う必要はない。
 むろん『峯均筆記』では、無二免許の弟子であり、巌流島決闘の木刀を作製したこの青木條右衛門なら、当然相当の老人であるはずなのだが、『峯均筆記』の伝説は、そのことはまるで意に介さず、まさに永遠に未熟な廻国修行者として青木條右衛門を登場せしめるのである。
 第二は、驚くような芸術(腕前)を武蔵が見せた上で、教訓したという説話が追捕される。前髪の飯粒を真っ二つというのは大道芸でも実演されたことだから、とくに武蔵に帰する必要はない。兵法流派としては教訓譚の方に重点がある。「わざでは勝たず、心で勝つ」という『兵法先師伝記』の解釈文言がその典型である。
 そうして第三に、この武蔵に叱られる弟子を、青木條右衛門とする。いうならば、青木條右衛門は武蔵に叱られ追い出されるために、ここに登場する。セクト主義な排除のメカニズムにより、この説話のなかで、青木條右衛門はいわばスケープゴートの役割を演じるのである。
 かくして、この一段の説話は、柴任三左衛門美矩の親戚である島村十左衛門の名を出して、いかにも尤もらしい舞台設定なのだが、青木條右衛門を登場せしめたところで、伝説たることを露呈しているのである。未熟者・青木條右衛門という設定は、年齢上の整合性を欠く。かりにこれが島村十左衛門宅の出来事であったとすれば、武蔵に叱られた弟子は、少なくとも青木條右衛門ではないのである。
 この青木條右衛門なる存在は、特定の個人と勘違いしてはならない。この人物はいわば排除対象一般であって、スケープゴートの役割を負わされた伝説上のモデルである。武蔵が「とっとと帰れ」と青木條右衛門を追い出すというシーンは、まさに、この説話の排除というテーマを、メタレベルで表明している。
 したがって、この話の舞台となったのが島村十左衛門宅で、島村が柴任の親戚だということから、これを島村から柴任が聞いた実話と見てしまうのは、およそナイーヴな読みである。結論を言えば、このように強く排除メカニズムのバイアスのかかった説話を実話とみなすことはできない。この逸話は伝説流通過程で生じたものである。
 もとより、同じ筑前二天流の早川系でも、武蔵が児小姓の前髪の結び目に飯粒付けて、それを真っ二つにしたという話はある。しかし、それには青木條右衛門は登場せず、辻芸の居合術に関わる話で、およそ青木條右衛門を叱責したという説話とは無関係である。時と場所も、小倉とはせず、武蔵晩年、肥後に客居していた時のことだとする(藤郷秘函 世記)。
 それゆえ、まず、武蔵が児小姓の前髪の結び目に飯粒付けて、それを真っ二つにしたという名人譚が説話素として単独に流通していて、それに青木條右衛門叱責潭が結合されたのである。これは、同じ筑前二天流でも立花系のみの伝説であり、早川系にはそういう話はなかったのである。  Go Back









前髪の児小姓






*【兵法先師伝記】
《先師機嫌アシク、「條右衛門、何ト心得候ヤ。其方ガ兵法ヲホメルハ、若輩抔ニ太刀筋等ヘルタグヒハ苦シカラズト、賞美セシナリ。中々汝如キガ、人ト試闘ナド丶ハ、思モ寄ラザル事。夫ヲ合点サスベシ」ト、小扈従ヲ呼ビ、「飯粒ヲ持來レ」トテ、其飯粒ヲ小扈従ガ髪ノ結フシノ上ニ一ツブ立テ、指料ノ志津兼氏ノ刀二尺五寸有シヲ拔、立上リテ飯粒ヲ切ラル丶ニ、半分ハ刀ノ刃ニ付、半分ハ殘テ結フシノ上ニ有リ。其刀ヲ條右衛門ニ差付、見セラレ、「ヨク是ヲ見ヨ。我等手ヲカラス事如此、身ヲキカセ習フ事數年ナレ共、人ト勝負ヲ決スルニ、其業ニテハ勝レズ、言葉ニノベガタシ。心ヲ以漸々勝事ヲ知レリ。今其方ガ兵法、身ハキカズ、手ハカレズ、心ハユカズ、何ヲ以テ人ニ勝ンヤ。必試闘望マル丶共、事ヲ左右ニ寄テ、ナス事勿レ。只猶日夜脩行セヨ」ト戒メ、帰サレシトゾ》




















































*【世記】
《武州晩年ニ及ンデ肥後ニ客居セリ。一日、客三四輩來ル。是ニ對話セシニ、又一人、後レ來ルアリ。此者、語テ曰、「今來リシ街ニテ、辻藝ノ居相ヲ見シニ、見ル者、多其術ノ美ヲ不稱ハナシ」ト語ルヲ、武州、熟ト始末ヲ聽テ曰、「所謂辻藝ニ、花ヲサカセ賣ル者也。實用トセンニ不足、只ニ售〔クチモロフ〕ノミ」ト笑テ、「其本實、手ニ得、心ニ熟センニハ、末伎ニ於テヤ」ト云。召仕ノ兒扈從ヲ呼ビ、「飯粒持來レ」トテ、即チ前ニ踞坐セシメテ、彼飯粒ヲ取テ、兒扈從ガ前髪ノ結目ニ附テ、其手ニテ、側ナル刀ヲ取ルヨリ早ク、抜討チニ彼兒童ガ前髪ニ附テ置タリシヲ切ルニ、飯粒バカリ二ツニ切レテ、元結ニハ疵モナカリシト。一坐士人、唯驚嘆シ、實ニ凡慮ヲ以テ察量スベキニ非ズトナリ。彼ノ一人ハ、最前ニ、楚忽ノ話ヨリシ如斯ト、己ト心ニ慙ヂ、且ツ懲メリト、故ニ常ニ曰ル事アリ。曰ク、諸藝ハ能ク勤メテ事理ヲ暁貫シテハ、微末ノ業ニ至テハ、為之ハ自ラ應手モノナリト。師ノ為ニスル處如斯ンモ、始テ驚膽センヤ。獨リ可愛ニ堪エタルハ、此ノ頑童ナリ。容動揺ナク、心魂為之ニ不驚怖シメル事雖、成人不可逮ノ勇敢ナリ。恨ムラクハ、其姓氏ヲ不識リシ事ヲ》

 
  19 高田又兵衛と三本勝負
一 又或時、小倉ニテ、寶藏院三代ノ鋼叉〔ジウモンジ〕、高田又兵衛[法名宗伯]ト、忠眞*卿之御前ニテ試闘アリ。(1)
 武州ハ常ノ使ヒ木刀二刀ニテ立合ル。又兵衛、十文字ノ竹刀ニテ立向フ。武州、中段ノ位ニテ三本迄入込ル。三本目ノ時、「今ノハ當リタリ。然レ共、下リテ足ニ當レリ」トノ玉フ。見物ノ面々モ見留メザルト也。
 又兵衛、其後、人々ニ向ヒ、「武州ガ兵法ハ、中々我等ナドガ段式ニテハナシ。申タリ共、各合点行マジ。三本目當リタリト武州ハイヘド、吾ハ曽テ覚ヘズ。當時ノ挨拶タルベシ。至極ノ達人、言語ニワタラズ」ト云リ。(2)

一 またある時、小倉で、宝蔵院三代の十文字(鎗)、高田又兵衛[法名宗伯]と、(小笠原)忠眞卿の御前で試合があった。
 武州はいつも使っている木刀二刀で立合われた。又兵衛は十文字〔十文字鎗〕の竹刀で立向う。武州は、中段の位で三本まで入込まれた。三本目の時、「今のは当たった。されども、(鎗先が)下がって足に当たったよ」と言われた。(しかし武州はそう云うが)見物の面々も(当たったとは)見えなかった、とのことである。
 又兵衛がその後人々に向い、「武州の兵法は、おれなどのレベルとはまったく違う。それを申しても、だれも合点がいくまい。三本目が当たったと武州は言ったが、おれにはまったく(当てた)覚えがない。その場の挨拶〔社交的言辞〕だったのだろう。(武州のような)究極の達人は言語に絶するものだ」と云った。

  【評 注】
 
 (1)寶藏院三代ノ鋼叉高田又兵衛
 『峯均筆記』の記事には珍しく、これは後世に名が残った武芸者との試合である。他は、高木馬之助を指一本で突き倒したという説話くらいなものである。
 ここに高田又兵衛とあるのは、宝蔵院流槍術の高田又兵衛吉次(1590〜1671)のことである。この一段の解説として、高田又兵衛のことをここで少し語っておく必要があろう。しかし彼の履歴については、諸説ブレがあって、どれを是とすべきか確言はできない。その分、読者には割り引いて読んでいただきたい。
 高田又兵衛は、天正十八年伊賀国白樫村(現・三重県上野市白樫)生れ。武蔵より六歳年下だが、おおまかに云って同じ世代である。白樫村は大和国境に近く、奈良興福寺の別院宝蔵院に槍術を学ぶ。覚禅坊胤栄の弟子・中村市右衛門尚政(1583〜1652)に師事するや、少年天才を顕し、早くも十二歳にして奥旨会得、慶長八年(1603)十四歳にして胤栄から宝蔵院流槍術の印可をうけたという。(宝蔵院遺跡は、現在国立奈良博物館の前庭に井戸跡のみのこる)。
 もちろん、これを中村市右衛門の事蹟と照合すると矛盾がある。中村市右衛門は胤栄弟子中隨一とされる名手で、武技を将軍家光台覧に供すること前後三回、という。十四歳で覚禅坊胤栄に入門、慶長十年奥伝、胤栄は道具類をことごとく中村市右衛門に託し、宝蔵院流槍術道場を閉鎖した。中村市右衛門は翌年渡明、皇帝から褒賞品をうけたという。となると、高田又兵衛は、胤栄の一番弟子・中村市右衛門より先に印可をうけたことになる。変な話だが、しかし、それぞれ我流伝説だから、どういう是非決定の根拠もない。
 とにかく高田又兵衛は、胤栄秘伝の巴之術の唯一相伝者、その宝蔵院流槍術の他、五坪兵庫介から直槍を学び、剣術は柳生新陰流、薙刀は穴沢流、さらに馬術・弓術も学んだ。かくして当時の兵法者一般がそうであったように武芸諸種を習得したのだが、万事独学の武蔵とは違って、諸流をきちんと学ぶいわば秀才である。その後の高田又兵衛の事蹟はしばらく不明である。江戸へ出て道場を開いて門人四千人ともいうが、たしかではない。
 次に高田又兵衛の姿が現れるのは、元和九年(1623)三十四歳の時、播州明石である。そこで小笠原忠政に仕官して、四百石馬廻役格という。
 この播州明石は、本サイトの閲覧者にはおなじみの、武蔵所縁の土地である。武蔵は明石の城下町建設の頃から小笠原家に関与しているから、武蔵の方が明石は先である。そこで、高田又兵衛は宮本武蔵と相遇したのである。以来、播州明石から豊前小倉へ土地を移って、二十年近く両者はつき合うことになる。
 その後、寛永十五年の島原戦役で高田又兵衛は戦功あり、加増されて知行七百石という。高田又兵衛には将軍台覧の事蹟がある。それは伝説の寛永御前試合に彼の名があることではなく、武蔵没後の慶安四年(1651)4月、病床にあった将軍家光の御慰みにと召出され、長男・斎〔いつき〕と門弟・観興寺七兵衛を連れて、急遽小倉から江戸へ駆けつけ登城、十文字槍の芸術を披露した。この日は四月十一日、家光が死ぬのは九日後の二十日。高田又兵衛一行はすでに帰国の途についており、彼らが将軍の死を知るのは後日である。
 晩年、高田又兵衛隠居して号祟白(宗伯)。一説には、長男・吉深は高田の故郷・伊賀へ戻り、藤堂家に仕えて伊賀上野に住んだ。次男・吉和は、筑前福岡黒田家に仕え、三男・吉通と四男・吉全は、豊前小倉に留まり、三男八兵衛が家督相続して、二代目高田又兵衛を名のったという。
 ちなみに、高田又兵衛が武蔵から贈られた短刀、というものが伊賀の高田家に伝わっていたらしい。又兵衛長男・斎が、宝蔵院覚禅房胤栄の遺品ともども伊賀へ持ち帰った。代々持ち伝えてきたが、昭和の戦争末期に行方不明となったという。
 あるいは、また一説に、長男吉深は小笠原家の臣籍を脱し、筑前福岡の黒田家に仕え、次男・吉和は伊賀の藤堂家に仕え、三男・吉武と四男・吉通は豊前の小笠原家に留まり、三男・吉武は中津に、四男・吉通は小倉にあって父の名跡を嗣いだともいう(武芸流派大事典)。これは異説である。
 我々は宝蔵院流高田派の道統を云々する立場にないので、論評を差し控えたい。しかし、ここでの関連からすれば、長男・高田斎吉深が福岡黒田家中に残した道統があったということは、一応念頭においておかねばなるまい。つまり、高田吉深の末流に、斎藤勘助直賢という人があり、立花峯均の孫弟子・丹羽五兵衛信英は、父の遺言によって、その斎藤勘助に師事し、のちに宝蔵院流鎗術の印可を受けているのである。
 ここで『峯均筆記』の記事にもどる。――ある時、小倉で、宝蔵院三代の十文字鎗、高田又兵衛と、忠貞卿の御前で試合があった、という。「宝蔵院三代」とあるのは、初祖覚禅坊胤栄→その弟子・中村市右衛門尚政→高田又兵衛吉次、という相伝三代のことであろう。中村市右衛門の門流は中村派、高田又兵衛のそれは高田派として存続した。
 この「十文字」とは、宝蔵院流のユニークな道具、十文字槍のことである。「鋼又」と表記するが、十文字槍のことである。形態は大仰だが、直槍に比べて有効幅が広い鎌槍で、相手の体の一部をひっかけ傷害するので、実戦には有利な道具であるらしい。
 『峯均筆記』には、高田又兵衛の法名を「宗伯」とするが、別史料には、祟白ともある。また、「忠貞卿」とあるのは、例によって写本の誤記である。ただし、「忠貞」とする写本が複数あるところからすると、立花峯均の原本にそう誤記していた可能性もある。
 ともあれ、これは「忠真卿」であり、播州明石以来、武蔵と縁が深かった小笠原忠政のことである。「卿」とあるのは、忠政の官位が従四位下であったからである。公卿の位だから卿と記したわけである。
 武蔵が高田又兵衛と、小笠原忠政の御前で試合をした、という。これは当代随一の槍の名手との試合であって、『峯均筆記』の中でも特記すべきイベントである。
 ところでこれは、小倉で、というから、小笠原家小倉時代である。武蔵も小倉にいたときのことであろう。『峯均筆記』の収録順序としては、肥後移住記事の後に配置されているが、これは順不同で、武蔵小倉時代の事蹟とみておく。晩年の肥後逗留時、改めて高田又兵衛と試合しに、わざわざ小倉へ行ったとは思えないからである。  Go Back




個人蔵
高田又兵衛像



*【宝蔵院流高田派略系統図】

○覚禅坊胤栄┐
┌─────┘
├奥蔵院―禅栄坊胤舜─覚舜坊胤清

├中村市右衛門尚政―中村八太夫重行

高田又兵衛吉次┬高田斎吉深
        │
        ├高田新左衛門吉和
        │
        ├高田八右衛門吉武
        │
        ├高田又兵衛吉通
        │
        ├高田七兵衛吉久
        │
        ├高田作兵衛吉勝
        │
        ├原與五兵衛昌種
        │
        └森平三政綱




宝蔵院井戸枠跡
国立奈良博物館構内





宝蔵院高田派関係図



*【宝蔵院流高田派福岡伝系図】

○宝蔵院胤栄―中村市右衛門直政┐
┌──────────────┘
高田又兵衛崇白―高田斎吉深─┐
┌──────────────┘
└永村勘助成利―下見何左衛門正辰┐
┌───────────────┘
└斎藤勘助大楽―丹羽五兵衛信英




奈良宝蔵院流鎗術保存会
宝蔵院流十文字鎗
 
 (2)至極ノ達人、言語ニワタラズ
 なぜ小倉時代になって両者が仕合うことになったのか、不明であるが、小笠原忠政の御前での、武蔵と高田又兵衛との試闘(試合)である。せっかく武蔵と高田又兵衛が同じ小倉で身近にいるのだから、両者を対戦させずにおかない、というのも伝説だからである。
 武蔵の道具は、いつも使っている木刀二刀。高田又兵衛は「十文字の竹刀」で立向う。稽古用の十文字鎗で、竹製という意味である。十文字の「竹刀」があるわけではない。
 武蔵は中段の位、それで三本まで入込んだ。入込むというのは、相手の懐に入り込むこと。相手が槍のように長い道具だと、入込むのがなかなか難しい。槍は長さ九尺(2.7m)あるいは十二尺(3.6m)もある。技能が同程度なら、間合いが遠い槍の方が有利と云われるゆえんである。逆に槍は、刀を持った相手に懐に入込まれたら、もうどうしようもない。それで終り、勝負あった、である。武蔵が三本まで入込んだとあるから、これは三本続けて武蔵の勝ちである。
 ところが、その三本目に入込んだとき、武蔵が意外なことを云った。「今のは当たった。されども、鎗の穂先が下がって足に当たったよ」と。
 ここを、『兵法先師伝記』には、これを、高田又兵衛の槍が外れて武蔵の股間に突き入れた、としている。そこでは、股間に入ったのを、武蔵は「今のは当たった。私の負けだ」と云ったという話になっている。
 ともあれ武蔵はそう言って、三本目は高田又兵衛の勝ちだと宣言したが、どうもそうではないらしい。見物の面々にも、当たったようには見えなかった、とのことである。
 以下は後日談。高田又兵衛はその後、人々に向い、「武州の兵法は、おれなどのレベルとはまったく違う。それを言っても、だれも合点がいくまい。三本目が当たったと武州は言うが、おれにはまったく覚えがない。その場の挨拶〔社交的言辞〕だったのだろう。武蔵のような究極の達人は言語に絶するものだ」と語った、云々。
 ようするに、高田又兵衛には当てたという覚えがないが、武蔵は「当たった」といって、高田又兵衛に勝ちをゆずった、ということである。これは『峯均筆記』が武蔵側の伝説だから、武蔵は圧倒的に強いし、三本のうち一本、勝ちを譲る余裕もある。勝ちを譲られた高田又兵衛は、負けた上にさらに負けたことになる。
 ところが奇妙なことに、この「負けるが勝ち」の説話素が、主役を交替して、高田又兵衛に帰属する説話もある。高田又兵衛の伝記「崇白先生伝」(『菊瀬文鈔』所収)には、こういう話がある――。
 ある年の正月、小倉藩の諸士が城で例年のように参賀するが、主君小笠原忠政は接見の座に出てこない。皆が不審に思っていると、大書院の方で、高田又兵衛と宮本武蔵に試合を命じていたのである。武蔵は剣を、又兵衛は槍を、それぞれもって立ち合う。双方一進一退して、三度打合うが勝負がつかない。そのとき突然、又兵衛が槍を捨てて、云った、「私の負けです」。
 小笠原忠政はわけが分からず、高田又兵衛にその理由を尋ねる。すると又兵衛は云う、「槍は長くて剣は短い。短い武器と対戦すれば長い道具の方がいろいろと有利です。いま三度打合っても、私は勝てませんでした。したがって、これは負けだと悟りました」と。高田又兵衛のこの返答に、忠政は大いに称嘆し、諸士は皆喝采、その声は城壁を揺るがすほどだった。忠政は後に近臣にしばしば語って曰く、「これほどの快事は経験したことがない」と。
 これを見るに、三合して勝負の決着がつかず、勝ちを譲ったのは、高田又兵衛の方であり、主君以下諸士の喝采を受けるのである。それも当然、これは高田又兵衛側の伝説だからである。しかしながら、面白いのは、相互に勝ちを譲り合うこういう説話の対称性。武蔵側と高田又兵衛側の両方に、「勝ちを相手に譲る」「負けるが勝ち」という同じ説話素が居座っていることである。
 高田又兵衛の伝記「崇白先生伝」では、武蔵と高田又兵衛、どちらが勝った、どちらが強いかという好奇の目は、その「負けるが勝ち」の説話でうやむやになってしまい、結局は双方傷が付かずに済む、という効果がある。これは十分コナれた解決法であるので、本来は、武蔵と高田又兵衛両方の顔を立てなければならない小倉ローカルの伝説であろう。
 それに対し、『峯均筆記』の伝説の方は、小倉を離れた分だけ、武蔵に格段の優越性を与えている。それが高田又兵衛の科白として語られているところをみれば、かなり説話化の度合いが進行した伝説である。したがって、武蔵と高田又兵衛の試合は実際にあったかもしれないが、『峯均筆記』の伝説そのままだったとは認めがたいのである。
 この「負けるが勝ち」は、武蔵側の伝記では、高田又兵衛のしなかったことである。それどころか、『兵法先師伝記』が記すもう一つの高田又兵衛伝説によれば、又兵衛は絶対に勝ちを譲らない人物である。すなわち、
 ――ある時、高田又兵衛が小笠原忠政の使者として紀州徳川家江戸屋敷へ行った。口上を済ませたところ、紀州家家老・安藤帯刀がいうには、殿様の大納言頼宣が、高名な高田又兵衛に当家槍役との試合を所望とのことである。高田又兵衛は「自分は使者で来ているのだから」と辞退したが、間に立った安藤帯刀に懇願されて、しかたなく試合に及ぶ。
 高田又兵衛はあっさりと三本勝ってしまう。しかし殿様の頼宣が、もう一回みたいという。又兵衛は「何とぞ御免下され」と辞退するが、またもや安藤帯刀が「是非もう一本」と頼む。こんどは師範役らしいのが出てきて、いきなり先制攻撃の構え。高田又兵衛は、「私は使者で来ているのに、迷惑千万。だが、こうなると何本でも来い」と立ち合う。
 高田又兵衛はたちまち一本勝って退く。すると相手はまた突きかかる。はねのけると手摺りに越して突いてきた。相手がいう、「今の槍、当り」と。又兵衛、「いや当っていない」。相手がまた「当りだ」と云う。その時、又兵衛は脇差を抜いて、我が袖を突き抜き、「袖を突いて、人が死ぬか」と大声で怒鳴った。すると又兵衛の言葉に、大納言頼宣は立腹して座を立つ。重臣一人も残らず座を立った。――又兵衛の不始末に、安藤帯刀は、「あとは私が良いように処理するから、すぐに品川口まで立退きなさい」。口上の返書を受け取らずそのまま帰っては、使者の役目が果たせないが、追って安藤帯刀が返答書を持たせてきたので、高田又兵衛は無事帰国できたという話。
 袖を突いて、人は死ぬか、と大声で怒鳴って、大納言頼宣の機嫌を損じた高田又兵衛――というのがこの説話のポイントだが、「負けを認めない高田又兵衛」という説話素がここでは前面に出ている。これは武蔵側の伝説だから、そういう役回りになっているとも思われるが、『兵法先師伝記』の著者、丹羽信英は宝蔵院流十文字槍を学んで印可をうけた人である。とすれば、『丹治峯均筆記』にはないこの逸話は、筑前の宝蔵院流の伝説のようである。
 これに対し、豊前の高田又兵衛側の伝説では、上記のように負けるが勝ちの説話パターンになる。とにかく、負けを進んで認める、相手に勝ちを譲る、という説話素は、高田又兵衛伝説に付帯していたもののようである。
 ちなみにもう一つ、小島礼重の『鵜之真似』にも、武蔵と高田又兵衛の試合記事がある。『鵜之真似』は幕末嘉永年間の小倉藩士の作で、地元伝説のその後の展開を見ることができる。
 こちらの方は、もはや、勝った負けたの話ではなく、宝蔵院流十文字鎗の由来とからめて二人の試合を語る。すなわち、――宝蔵院流の鎗は元は素鎗であった。つまり、十文字ではなく普通の直鎗である。あるとき掃除をしていて箒が崩れて十文字の形になったのを見たのがきっかけで、十文字鎗を工夫発明した。武蔵と高田又兵衛はときどき試合をする仲で、あるとき久し振りに試合をしたあと、武蔵は又兵衛に、「もう貴殿は素鎗になさるがよろしい」と云った。十文字鎗ではなく、素鎗でも十分にやっていけるから、素鎗にもどりなさい、という意味であろう。老人の物語にこれを批評して、「名人には不思議なところがあるものだ。暗に鎗術の帰するところを言い当てた」。
 もはや伝説もここまでくると、素鎗に戻れという余計なおせっかいである。というのも、この頃までにすでに武蔵は、演劇や実録本の主役として抜群に有名な存在であり、高田又兵衛とはかなりの差がついているから、伝説は巷間で成長して、こんなかたちになったのである。
 以上要するに、武蔵と高田又兵衛、小笠原家を舞台にした両者の対戦、これについて今日我々が知るのは、その伝説のみである。  Go Back





槍と剣の間合い



*【兵法先師伝記】
《小笠原侯ノ臣高田又兵衛[入道シテ宗伯ト云]ハ、宝藏院流ノ十文字鎗ノ達人ナリ。先師小倉ニ居ラレシ時、又兵衛常ニ來テ、兵意ヲ談ジ、其ヘヲ受ル。小笠原侯、或時先師ト又兵衛トノ試闘ノ御望有ケルニ、高田氏固辞セシカ共、忠眞侯御許シナケレバ、無余義立會ケル。先師ハ常ノ木刀、高田氏ハ十文字ノ竹刀ナリシガ、立會ル丶ト高田氏突懸シヲ、先師中段ノ搆ニテツル/\ト入込、二度同ジ位ニテ勝レ、三度目ニ又同位ニテ入ラレシ時、高田氏ガ鎗ハヅレテ、先師ノ股間ニ突込レケレバ、先師、「今ノ鎗ハ當リテ、我等ガ負ニ候」ト申上ラレ、「又兵衛鎗術ハ至テ上手ニ候」ト賞美セラレケル。又兵衛、其後、人ニ語リケルハ、「武сn誠ニ名人也。中々突ル丶事ニ非ズ。然共我ヲ助テ、公ヘ右ノ御挨拶アリシゾ」ト云シトゾ》


*【菊瀬文鈔】
《某年諸士賀正於城、公不即接見、皆疑其不豫、久之間大書院而出、命先生與宮本武藏角技、武藏以劍先生以鎗相睨而立、隻進隻退鎗劍三合勝負未判、先生抛槍曰負矣、公怪問其故、先生曰鎗長劍短以長敵短利有十七、今三合不能制勝、是以知其負、公大稱嘆諸士皆喝采聲感城壁、公後屡語近臣曰余未見如此快事》(崇白先生伝)






十文字鎗




*【兵法先師伝記】
《此又兵衛、或時、小笠原侯ヨリ紀я蜚[言様ヘ御使者ニ参、小笠原侯の御口上ヲノベ、御玄關ニ扣ヘ居シニ、紀сm御家老安藤帯刀主ガ口上ニテ、「外ニ大納言殿御用有之間、別ノ間ニ通ラレヨ」トノ事故、又兵衛何心ナク案内ニ任セ通リシニ、程ナク帯刀主出座セラレ、「大納言殿御意ニ、又兵衛鎗術兼テ御聞及有之。幸參ラレタル事ナレバ、當家鎗役ノ者ト試闘ヲ御望也。乍御苦労立會レヨ」トノ事ナリ。又兵衛謹テ、「大納言様御意難奉背候得共、今日私義、右近将監使者ニ罷越、覺悟モ不仕事ニ候得バ、何トゾ御免ノ義奉願候」ト申ケレバ、帯刀主モ、「被申処、尤ノ義ナガラ、是非御所望ノ御意ナレバ無據事、只一本試闘致サレヨ」トノ事故、又兵衛モ無詮方、「左様ニ候ハヾ奉畏候」ト申(ニ)付、帯刀主座ヲ立ル丶ト程ナク案内有テ、御鎗ノ間ニ參リシニ、上段ニ大納言様、夫ヨリ安藤帯刀主、水野甲斐守、三浦長門守ナドヲ始メ紀сm歴々並居タリ。(中略)其氣ヲハカリテ、又安藤主ニ對シ、「先刻モ申上候様ニ、私義右近将監使者ニ差被遣候処、存掛ナク重キ御意ヲ奉蒙候故、無拠先刻試闘御覧ニ入候。再三奉蒙御意候段、迷惑千萬ニ奉存候。乍併、紀州流ノ鎗何本ニテモ」ト、大音聲ヲ揚ゲ、ツヽト入込一本勝テシサレバ、慕テ又突ヲ、鎗ニテ切ノケ、打込テ勝、退テ竹刀ヲ置ントセシヲ、又々突掛ルヲ、逆ニ鎗ヲハ子ノケ入込処ヲ、手ズリニコシテ突ク鎗、手裏ヘヌケシヲ、向ヨリ、「今ノ鎗、中リシ」ト云。又兵衛立ナガラ、「イヤ中ラヌ」ト云。向ノ者、又、「中リシ」ト云時、又兵衛脇差ヲ拔テ、我袖ヲ突拔キ、「袖ヲ突テモ人ハ死ヌルカ」ト大音ニ申セバ、大納言様御座ヲ御立アレバ、安藤、水野、三浦ヲ始一人モ不残座ヲ立、相手モ續テ入ケレバ、又兵衛跡ニ居テ樣子ヲ伺居タルニ、帯刀主出來リ…》


*【鵜之真似】
《寶藏院流の鎗は元眞鎗〔素鎗〕也。或時高箒にて掃除の節、箒崩れ柄の鎌十文字に殘りけるを見て、其利を工夫して十文字鎗始めしと申傳ふ。高田又兵衛宗伯殿は十文字の名人なりし。或時宮本武藏殿「久し振之立合ひ可申」迚〔とて〕、以前立合はれし事もあり、立合有之、跡にて「最早や貴殿は素鎗に成されて可然」申されし由。「名人に妙あるもの也。暗に鎗術の本意に云當て玉ふ」とて老人の物語也》

 
  20 門人・寺尾孫之丞
一 武州門人數百人ノ内、肥後ノ住人、寺尾孫之允信正一人、多年ノ功ヲ積テ、當流相傳セリ。(1)
 或時、武州ノ打太刀ニテ、小太刀入ヲ、押返/\指南セラレシガ、小太刀、中ヨリ折レテ、武州ノ打ルヽ木刀、信正ガ頭ニ當ルト見ヘシガ、月代ノ際ニテ打留ラル。少モ頭ニ疵ツカズ。加様ナル手業ノ利タル事ハ、常住有之タリト云リ。(2)

一 武州の門人数百人の内、肥後の住人、寺尾孫之允信正一人のみ、多年の功を積んで当流〔二天流〕を相伝したのである。
 ある時、武州の打太刀で、(信正が)小太刀で入るのを、押し返し押し返し指南されていたところ、(信正の)小太刀が真ん中から折れて、武州の打った木刀が信正の頭に当たったと見えたが、月代〔さかやき〕のまぎわで打ち留められた。少しも頭に疵がつかなかった。このような手わざの利いた事は、いつもあったという。

  【評 注】
 
 (1)寺尾孫之允信正一人、當流相傳セリ
 これは、『峯均筆記』の筆者・立花峯均が受け継いだ筑前二天流の、余流に対する正統性の主張である。
 武蔵の門人数百人のうち、肥後の住人・寺尾孫之允信正一人だけが、多年の功を積んで当流、武蔵の二天流を相伝したのである、という言明である。これを読むに、解説を要する点いくつかがあろう。
 まず第一に、ここに名の出ている、寺尾孫之丞信正(1613〜72)のことである。五輪書はじめ一般には通り名は「孫之丞」と「丞」字で書くが、ここでは「孫之允」と記す。「丞」も「允」もとくに有意な相異はない。表記のブレというにとどまる。他方、諱は他に「勝信」とする肥後の資料例があるが、筑前二天流では、伝書通り「信正」と記すのである。
 この寺尾孫之丞については、後に『峯均筆記』「追加」部分で述べるであろうが、この人は、武蔵の五巻兵法書、いわゆる五輪書の各巻奥付にある宛先が、この人、寺尾孫之丞である。現存五輪書写本によるかぎり、たいてい宛先は寺尾孫之丞である。それには日付もあって、正保二年五月十二日というから、武蔵が死ぬ直前である。
 このことから、武蔵は、命終を控えて寺尾孫之丞に五輪書を与えたらしい、と知れる。肥後系伝記では、武蔵が臨終のさい寺尾孫之丞に五輪書を与えたと明記しているが、これは五輪書の奥付を見ればだれしもそう思うわけで、伝説というほどのものではない。五輪書の奥付を見れば、そう推測解釈できるというにすぎない。したがって、今日の研究者も、肥後系伝記筆者も、条件は同じなのである。『武公伝』『二天記』にそう書いているから、というのは、理由にはならないのである。
 しかし、奇妙なことは、武蔵が生前だれかに印可を与えた、という証拠がないことである。『峯均筆記』には、寺尾孫之丞信正一人だけが当流を相伝したというが、他流にあるような印可状があるともみえない。『武公伝』『二天記』をみれば、寺尾孫之丞に五輪書を、寺尾求馬に三十九ヶ条(三十五ヶ條)の書を、相伝とあるが、これは相伝といより遺品授与である。一流相伝の印可状を与えたとは記さない。なるほど、肥後にも筑前にも、武蔵の相伝証書はのこっていない。
 これは武蔵独特の流儀であろう。武蔵はだれにも一流相伝の証書を与えなかったのである。むしろ、積極的にそうしなかった。一流相伝の証書など、無意味な兵法諸流慣習にすぎない、とみていたふしがある。そのかわりに、五輪書というテクストが残った。これが同時代の兵法諸流派においては特異な例外的な帰結であった。
 『峯均筆記』は、寺尾孫之丞信正一人だけが当流を相伝したというが、この《only one》は五輪書を形見に与えられたにすぎない。したがって、立花峯均が受け継いだ、寺尾孫之丞を二祖とする筑前二天流の正統性の主張は、厳密に言えば、根拠を欠くといえる。武蔵には一流相伝の慣習に亞する意志はなく、そういう意味では、だれも武蔵を嗣いでいないのである。
 次に、第二点として看過できないのは、筑前系伝記と肥後系伝記の扱いの相違である。
 『峯均筆記』は、寺尾孫之丞信正一人だけが当流を相伝したというが、肥後系伝記では、孫之丞(夢世)の弟・求馬助の子孫が連綿として続いて武蔵の兵法を伝えていることを強調するのである。
 『武公伝』では、《夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳》、つまり夢世(孫之丞)は一代限りで、武蔵の兵術を子孫に伝えなかったとする。しかし実際は、寺尾孫之丞は息子が早世したが、甥の左五左衛門を養子もとって、家系は肥後宇土郡松山で十八世紀後期まで存続したらしい。兵法も孫之丞一代かぎりではなかったようである。ところがそれ以上に、肥後系伝記では、求馬助系統の隆盛が強調され、夢世(孫之丞)の兵法系統に関する記述は弱い。
 夢世(孫之丞)の高弟として『武公伝』は、柴任三左衛門らの名も挙げるが、柴任の弟子からその先の展開を記さないから、柴任で立ち消えになったかのようである。肥後系伝記では、柴任以下筑前に流伝した系統は視界から消えている。
 肥後では寺尾求馬助信行(1621〜88)の系統が主流として残った。とくに、おもしろいのは、志方半兵衛之経『兵法二天一流相伝記』(寛保二年・1742)の伝説で、「門弟多き中に此道を伝ふる事、信行一人に限る」と武蔵がいつも言っていたという話である。これだと、寺尾求馬助信行の系統が正統だということで、それをかように主張する必要があったとみえる。肥後でもしばらくは、寺尾孫之丞の系統と求馬助信行の系統が正統性争いをしていたようすである。
 これに対し、『峯均筆記』は、寺尾孫之丞信正一人だけが当流を相伝したという。しかも、寺尾求馬助系統の隆盛を記すどころか、求馬助の名もなく、肥後における武蔵流存続のなきがごとくである。この書き方は、おそらく故意に無視する振舞いであって、立花峯均が肥後の寺尾求馬助系統の存在を知らないはずがない。言うならば、お互いに無視し合っていることからすれば、同じ武蔵流兵法を伝えながら、肥後系と筑前系の関係はうまく行っていなかったとみえる。これは、肥後の細川家と筑前の黒田家の仲が悪かった、ということのみに帰することはできない事態である。
 ところで第三に、とくにここの記事で注目したいのは、『峯均筆記』に、寺尾孫之丞が「多年の功を積んで」、当流を相伝したとある。すると、「肥後の住人」寺尾孫之丞が、武蔵の肥後時代以前から師事していた、という矛盾した話になりそうなことである。
 武蔵の肥後滞在は、寛永十七年から正保二年の死去まで、約五年(1640〜45)である。武蔵肥後移住後の弟子なら、師事期間はせいぜい五年、「多年の功を積んで」というには期間が不足である。したがって、『峯均筆記』の文言に拠るかぎりにおいて、寺尾孫之丞は、寛永十七年よりかなり以前に武蔵の門人になったとしなければならない。
 ところが、この『峯均筆記』には、寺尾孫之丞がいつ武蔵の弟子になったか、そうした記事はない。なるほど、五輪書風之巻にも記すように、入門誓詞をとらないのが武蔵流、とすれば、文書ははじめから残らない。しかし、口碑なりとも残ればよかったのだが、『峯均筆記』にはそれもない。唯一相伝者にしては、寺尾孫之丞に関する口碑は、まったく不足しているのである。
 そうすると、寺尾孫之丞が「多年の功」を積んだという『峯均筆記』の記事を無視すべきかというと、我々の所見では、必ずしもそうとはかぎらないのである。というのも、寺尾孫之丞が「肥後の住人」だという点と、彼が「多年の功」を積んだという点は、明らかに矛盾するのだが、その整合性を欠く点にこそ、我々は注目するのである。ここに何か、従来の研究では死角になって隠れていた意外な事実があるようなのである。
 それで、現存史料からあれこれ推測するよりほか手はないのだが、現在(二〇〇五年時点)は九州の武蔵研究が進んでいない。寺尾孫之丞について我々の所見を越える研究が見当たらないし、参照すべき研究もない。かくして、当面の我々の見解を以下に示して、後学の研究進展を喚起したい。
 『峯均筆記』に記すように、寺尾孫之丞が「多年の功」を積んだとして、武蔵死去時は孫之丞三十三歳、かりに二十歳のときから師事したとして、期間は十三年である。「多年の功」とするにはまだ足りないが、孫之丞二十歳以前だと、武蔵はまだ播州にあって、九州へは来ていないから、無理がある。小笠原家転封で武蔵が伊織と共に豊前小倉へ来たのが、寛永九年(1632)、寺尾孫之丞が二十歳のときである。頃合いはよい。
 豊前小倉城主の前任は、細川忠利である。それまで細川家の家士は、小倉や中津に住んでいたのである。移封にともなう領国城郭の受け渡しや引継ぎの事務処理があって、細川家と小笠原家の家臣同士は一時頻繁に通交があっただろう。その折の縁で、細川家の家士に武蔵の弟子になる者も出るようになったかもしれない。
 というようなことを書くと、いや、それは違う、巌流島決闘のとき、武蔵は細川家家老・長岡佐渡を頼っているのだから、その当時から細川家中とは縁があったはずだ、という異見が出そうである。しかし前に、その巌流島決闘の読解で明らかにされているように、それは肥後系の伝説にすぎず、史実として信憑性を欠くものである。それは巌流島決闘に関する我々の所見を再読してもらうとして、巌流島決闘の一件から、武蔵は細川家と以前から関係があった、とするこの異見は却下する。
 さて、細川家家臣と豊前小倉の関係を云えば、寺尾家のケースでは、孫之丞の父・寺尾佐助が細川家に召抱えられたのが慶長七年(1602)で、このとき、備前から豊前小倉へ来たものらしい。だから、孫之丞が生まれる前から寺尾家は小倉に住んでいた。寺尾佐助二男の孫之丞も、とうぜん小倉生れの小倉育ちであろう。
 寺尾孫之丞は二十歳まで小倉にいた。その年、細川家肥後転封で、寺尾ファミリーは肥後へ移住した。すると、孫之丞もそのとき肥後へ行ったと思われるが、実は確かではない。というのも、寺尾孫之丞は細川家に仕官した形跡がなく、孫之丞直弟子の柴任美矩から話を聞いた立花峯均も、本書『峯均筆記』に孫之丞は一生仕官しなかったと記す。
 これはどういうことか、と云うに、仕官をすれば自由はない。若き寺尾孫之丞は、仕官せず、兵法者として生きようとしたと思われる。そうなると、寺尾孫之丞は、肥後ではなくどこに居ても不思議はない。とすれば、生まれ育った小倉で、牢人のまま居ついていた、そして若き寺尾孫之丞を、小倉に居つかせたものこそ、宮本武蔵という兵法者の小倉到来であった。――これが我々の推測における重要なポイントである。
 そうなると、『峯均筆記』のいう寺尾孫之丞の「多年の功」に照応するのは、自分が生まれ育った小倉で、孫之丞が武蔵に師事したということである。言い換えれば、武蔵の小倉時代、すでに寺尾孫之丞は武蔵の弟子だった、というのが当面の結論である。
 武蔵に師事していた期間、寺尾孫之丞は十年以上小倉に居て、最後の五年だけ肥後住であった。――これが我々の推測であるが、この推定に対する可能な反証は、島原役のとき寺尾孫之丞が細川勢で参戦したらしいことである。
 それは『綿考輯録』(巻四十七)の記事にわずかに見えるだけだが、この後世の文書の記録を信じるとして、島原役のとき寺尾孫之丞が細川勢で参戦したとすれば、それは寺尾家の男としてである。寺尾孫之丞はどこにも仕官していなかったから、たとえば、武蔵と共に小笠原勢に参加してもよかろうはずだが、やはり実家の寺尾家を加勢する義理があったのであろう。寺尾家の男としての行動は細川勢で参戦することであった。しかし、そうだからといって、その当時、寺尾孫之丞が肥後住人だったという証拠にはならない。
 したがってまた、『峯均筆記』が寺尾孫之丞を「肥後の住人」とするのは、明らかに留保が必要である。寺尾孫之丞は本来は豊前小倉の人で、上述の仮定に拠れば、「肥後の住人」となったのは、武蔵に隨って肥後へ行ってからのことである。以来、死ぬまで三十年以上「肥後の住人」である。『峯均筆記』が孫之丞を「肥後の住人」とするのは、それじたい誤りではないが、それはむろん、三祖柴任三左衛門が肥後で寺尾孫之丞に師事した、という頭があるからである。
 以上のことから、寺尾孫之丞に関する我々のポイントは、(1)孫之丞は小倉生れの小倉育ち、(2)若年の頃から自身は仕官せず、(3)故郷の小倉で武蔵に師事した、(4)武蔵肥後移住のとき、自身も肥後へ移った、という諸点である。
 従来、『二天記』あるいはそれに準拠した顕彰会本『宮本武蔵』の影響が大きく、五輪書を武蔵から授かった寺尾孫之丞(号夢世)について、肥後中心の話しか語られなかった。そのうえ、近年の武蔵本には、寺尾孫之丞を武蔵晩年の弟子と憶断し、しかも細川藩士と誤解した解説書が主流をなしていた。しかし、それは誤りである。
 かくして我々の見解は、寺尾孫之丞に関する従来の説とは異なる。これについては、後に再説するであろう。  Go Back








九州大学蔵
吉田家本五輪書 空之巻奥付


*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス。[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》

*【二天記】
《同五月十二日、寄之主、友好主へ、爲遺物、腰ノ物并鞍ヲ譲リアリ。寺尾勝信ニ五輪ノ卷、同信行ニ三十五ケ條ノ書ヲ相傳也。其外夫々ノ遺物アリ。増田惣兵衛・岡部九左衛門ト云者、武藏譜代ノ者ノ由ニテ、シカモ手ニ合ヒシ者故、被召使可給由頼テ、亡後ニ寄之主召抱ラル。物事カタツケ極メラレテ、自誓ノ心ニテ書セラル》




*【武公伝】
夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳。筑後殿・山名十左衛門殿・浦上十兵衛・柴任三左衛門ナド皆夢世ノ高弟也。求馬子孫ハ于今連綿アリ。子息五人ノ内、弁介兵術勝タル名ノ由。夫レ継テハ加賀介技ヨリヨカリシト也》








*【兵法二天一流相伝記】
《武蔵平日語て曰、「我六十余州廻国して望の者に伝ふと雖も、未信行の様なる弟子を得ず。空しく我道を失し事歎き思ふ所に、幸達人を得る事、是我道の天理に叶ふ故と悦び、一流の奥儀少も不残伝授し畢。門弟多き中に此道を伝ふる事、信行一人に限る」。太守光尚公へ、武蔵其旨を申上、則召出され、於御前兵法御覧遊され、其後御大切の御稽古にも度々御打太刀相勤、武蔵同前御前に相詰、御稽古の御相手に相成、数年相勤。然ども様子有て押立弟子を取、指南不致》





























細川領と武蔵九州関係地




*【寺尾家略系図】

○寺尾孫四郎―孫四郎─┐
 ┌─────────┘
 ├作左衛門 本多忠政領知500石
 |
 ├佐助 勝正 ───────┐
 │ 慶長7年細川忠利出仕  │
 |            |
 ├七兵衛         │
 |            |
 └市郎左衛門       │
 ┌────────────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之丞 信正 夢世
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛






(正保国絵図)豊前小倉城絵図
 
 (2)月代ノ際ニテ打留ラル
 これは、これまで何度か類話が出ている武蔵名人伝説の一種である。内容は、見ての通り、いわゆる「寸止め」である。
 ある時、寺尾孫之丞(信正)が武蔵に入身〔いりみ〕の稽古をつけてもらっていた。武蔵の打太刀で、小太刀で入込む入身の仕方を孫之丞に教えていたのである。
 武蔵が打ちかかるのを、小太刀の孫之丞が受けて入込む。武蔵は押し返す。これを何度も繰返し、稽古している。ところが、武蔵の打太刀を受けた孫之丞の小太刀が、真ん中から折れてしまった。あわや、武蔵の打った木刀が孫之丞の頭に当たったかと見えたが、孫之丞の月代〔さかやき〕のまぎわで打ち留めた。孫之丞の頭には少しも疵がつかなかった。このような手わざの利いたことは、常日頃いつもあったという。
 こうした手わざの利いたことは武蔵にはよくあったというが、しかしながら、この程度のことは、名人なら他の者でもありえたことである。いわば、説話としては見事に内容がユルい。
 とすれば、ここで『峯均筆記』がなぜこれを記したかというに、それは他の類話と照らしてみればわかる。というのも、前に出た説話で、たとえば武蔵が召使の若党の頭を粉砕したという話がある。そのとき、頭が碎かれたのに少しも流血がなかった。頭皮を破裂させず頭骸骨を粉砕した、というのである。
 それに対し、ここでは、あわや孫之丞の頭を粉砕するかに見えたが、木刀は月代のまぎわで寸止めにできる。寸止めの話は単独では内容がユルいが、若党の頭を粉砕する話を隣に併置してみれば、俄然迫力がちがってみえるであろう。
 さて、この話が実話だとして、これがいつのことであったか、それを探りたくなる研究者もあろうが、こういうことは武蔵には《常住有之》、いつもあったと『峯均筆記』が語る以上、それは止めておいた方がよい。無駄な努力である。
 しかし、これを肥後でのことだとする説があるとすれば、それは根拠がないと断じてよい。というのも、武蔵が寺尾孫之丞に、打太刀・受太刀で、このように小太刀の入身を教えたとすれば、それは小倉時代でもありうることだから。  Go Back









月代で寸止め

 
  21 武蔵流という流儀
一 壯年ノ時*ニ、二、三流モ表ノ切組有之シト也。夫故ニ、今モ武藏流ト号スル流儀世上ニ殘ル。(1)
一 (武州が)壮年の時に、二、三流も表の切組〔基本技の形一式〕があったとのことである。それゆえに、今も武蔵流と号する流儀が世間に残っている。

  【評 注】
 
 (1)二三流モ表ノ切組有之

 これは、壮年というから、二十〜三十代のころの初期武蔵流のことを指すもののようである。
 ここでいう「切組」は、武術では形ということ。切組稽古というのは形稽古で、これは、互いに打合う仕合稽古と区別される。能・歌舞伎でも「切組」というが、それは剣戟場面のことであり、これはすでに意味がズレている。また大工が木材を加工する工程を指す「切組」は、意味がまた違う。
 「表の切組」は、表の形ということで、これが何十もあるのが諸流派一般である。切組兵法、構兵法というのは、揶揄するばあいに使われる表現である。武蔵は表の形の煩瑣な細分化を嫌い、五輪書ではこれを五つの表、五方の構えに還元している。
 さて、『峯均筆記』の流派口碑伝承では、武蔵が壮年のころ、「二、三流も表の形があった」、すなわち流派を複数立ち上げたことがある、ということである。
 この話はどこから生じたものか。続いて、『峯均筆記』は、それゆえ、今も武蔵流と号する流儀が世間に残っている、と記す。つまりこの一段の話は、武蔵は壮年のころ、流派を複数立ち上げたことがある、「それゆえ」、今も武蔵流と号する流儀が世間に残っている、というわけである。
 初期武蔵流には複数の流儀があった。武蔵一人だから、同時に武蔵流を複数立ち上げるわけがない。武蔵は、あれこれ工夫、試行錯誤しているうちに、どんどん変っていった。この軌跡が複数の異なる流儀である。――というわけで、なるほど、これは分かり易い話であるが、しかし、話が出来すぎている。
 『峯均筆記』の説話のロジックをみるに、話は逆倒している。すなわち、この口碑のもとになったのは、いまも武蔵流と号する流儀が世間に残っている、それには異なる表の切組をもつ複数の武蔵流派が存在する、「それゆえ」、武蔵は壮年のころ、流派を複数立ち上げたらしい、という憶測であろう。ようするに、共時的現在を過去に通時的変換したのである。
 この憶測で抜けているのは、武蔵流が事後的に変化して表の切組に相違を生じるようになった、ということである。後代の諸派分化によって、初期武蔵流に複数の流派があったとみるのは、間違いである。
 それよりも重要なことは、《今モ武藏流ト号スル流儀世上ニ殘ル》とあるように、『峯均筆記』の時代にさえ、そんな武蔵流が存続していたことである。したがって、「初期」武蔵流は決して過去のものではなかった。たとえば、例の「青木條右衛門」の流派は、肥前佐賀に「鉄人流」として存続していた。
 そのような事情があったから、『峯均筆記』には、青木條右衛門が、あのような情けない叱られ役で登場するのである。それがタメにする説話であることは前に述べた通りである。『峯均筆記』には繰返し自流の正統性を主張する必要があったらしい。
 ところで、どんな初期武蔵流があったのか、『峯均筆記』には、それに関する情報はない。流派口碑は「青木條右衛門」伝説に留まっている。まったく武蔵伝記としては心もとないのである。とはいえ、肥後系伝記になると、もっと頼りない。『本朝武芸小伝』という一般書しか情報源がない始末なのである。
 ただし、ここで立花峯均が、武蔵壮年期の初期門流として、複数の流派を認識している。それは、一つは、『峯均筆記』に出てくる青木條右衛門の系統である肥前佐賀の「鉄人流」だというのは分かりやすい話だが、あと二つはどうであろうか。
 実は、それは立花峯均が、明石で柴任美矩から聞いた話らしい。後ほど『峯均筆記』「追加」の柴任の記事に関連して述べるが、その二つとも、柴任が関係しているからである。すなわち一つは、柴任が仕官した本多家の家中で伝承されていた「武蔵流」。石川主税が武蔵から相伝した流派で、柴任播州時代の当時、播州姫路にあった武蔵門流である。もう一つは、これも柴任が関与した播州龍野の「円明流」で、これは多田祐甫(半三郎頼祐)が相伝した流派である。
 おそらく、表の切組が複数あったと書いた立花峯均の念頭には、鉄人流、武蔵流、円明流、この三つの流派のことがあったと推測できる。








*【五輪書】
《五方の構の事 五方の構は、上段中段下段、右の脇に構ふる事、左の脇に構ふる事、是れ五方なり。構五つに分つと云へども、皆人を切らん為なり。身の構へ五つより外はなし。何れの構へなりとも、構ふると思はず、切る事なりと思ふべし。構の大小は、ことにより利にしたがふべし。上中下は體の構へなり。兩脇はゆうの構なり。右左の構は、上のつまりて、脇一方つまりたる所などの構へなり。右左は所によりて分別有り。此道の大事に曰く、構へのきはまりは中段と心得べし。中段は構への本意なり。兵法大きにして見よ。中段は大將の坐なり、大將についでは、後四段の構なり。能く吟味すべし》(水之巻)
《他の兵法を尋ね見るに、大なる太刀を取て、強き事を專にして、其業をなすながれ、或は小太刀と云ひて、短き太刀を以て道を勤るながれ、或は太刀數多くたくみ、太刀の構を以て、表と云ひ、奥と云ひて、道を傳ゆる流もあり。是皆、實の道にあらざる事、此卷の奥に、慥に書顯し、善惡理非を知らするなり。我一流の道理、各別の義なり。他の流は、藝に渡て、身すぎのためにして、色をかざり、花をさかせ、賣物に拵えたるによつて、實の道にあらざる事か。又世の中の兵法、劍術ばかり小さく見立て、太刀を振り習ひ、身をきかせて、手のかるゝ所を以て、勝事を辨へたるものか。何れも慥かなる道にあらず》(風之巻)





鉄人流相伝書 正徳三年


○宮本武蔵────┐
 ┌───────┘
 ├青木條右衛門…肥前佐賀鉄人流
 |
 ├石川主税………播磨姫路武蔵流
 |
 └多田祐甫………播磨龍野円明流

 そこで、同じ筑前二天流でも、立花峯均より後の世代、つまり十八世紀中後期にどんな認識があったか、それを見ておきたい。
 その史料は相伝書ではなく、控えの覚書のようなものだが、「二天流兵法者」として、当時の諸国諸家中の武蔵門流を記録している。最初に筑前黒田家中の師家を記す。立花弥兵衛、林七郎右衛門、大塚伊右衛門、大塚作太夫という名を記すところからすると、これは、筑前二天流第七代あたりの世代である。つまり、立花弥兵衛と林七郎右衛門は立花峯均の孫弟子であり、大塚伊右衛門と大塚作太夫は、早川実寛の系統である。このことから、これが十八世紀中後期の文書と知れる。
 ところで、この文書には、続いて肥後細川家中の「武蔵流」を掲げる。この「武蔵流」という名は、当時肥後で武蔵門流を一般にそのように云っていたのである。ここには、六名の名があって、山東彦右衛門、村上大右衛門、野田三郎右衛門を含む顔ぶれだから、『二天記』を書いた豊田景英と同時代の連中である。
 第三番目は、「酒井修理太夫」の家中。これは、酒井忠貫のことで、若狭の小浜城主。その「楠友右衛門」のことは不明だが、小浜に「二天流」を称する武蔵門流があって、これが明治後期まで存続していた。本書に、小浜二天流の記載があるから、十八世紀後半、若狭小浜の二天流は、けっこう有名だったのかも知れない。にもかかわらず、昨今の諸藩武芸流派リストの作成者はそれを知らないようである。
 もう一つ、この記録で注目すべきは、本多家にある武蔵門流である。ここに「本多中務大輔殿」とあるのは、明和六年(1769)に、三河岡崎へ転封した本多忠粛、もしくはその嗣・本多忠典だろう。本多家中には、播州姫路以来の武蔵門流が存続していた。本多家家臣・石川主税の系統である。武蔵流免許状に記載がある「国分三之丞」の名がここに記されている。これも明治まで存続した。
 最後には、《尾州家ニ而圓明流》とあって、尾張円明流を記している。これは、武蔵門人の古橋惣左衛門あるいは竹村与右衛門の系統である。ただし、ここには鈴木猪八郎の名だけが記されている。とすれば、この文書の記者は尾張円明流のことに詳しくなかったようである。ただし、それでも、尾張徳川家の家中に「円明流」と称する武蔵門流があるという認識はあった。
 以上のように、この「二天流兵法者」なる文書には、筑前二天流をはじめ、肥後武蔵流、若狭小浜二天流、三河武蔵流、尾張円明流の五流派を挙げ、十八世紀中後期の認識を示している。このうち、初期武蔵流といえるのは、三河岡崎の本多家中で存続した「武蔵流」のみである。




個人蔵
二天流兵法者

*【二天流兵法者】
《筑前家中ニ而
   立花弥兵衛  林七郎右衛門
   大塚伊右衛門  大塚作太夫
   右四人師家也。
 細川家ニ而武蔵流
   山東彦右衛門  飯岡七郎
   村上大右衛門  野田三郎右衛門
   浅井圓助  荒瀬彦弥太
 酒井修理太夫殿ニ而
   楠友右衛門
 本多中務大輔殿ニ而
   國分三之丞  石橋源右衛門
 尾州家ニ而圓明流
   鈴木猪八郎   》
 しかるに、『峯均筆記』の衣鉢を嗣いだ『兵法先師伝記』(天明二年)には、思いがけず具体的な話が出てくる。
 同書の筆者・丹羽信英は立花峯均の孫弟子、武蔵から数えて「兵法七代」を称する人である。故あって、彼は黒田家を去り、当時、越後に居たものらしい。そこで記述したのが『兵法先師伝記』である。そこには十八世紀中後期の伝説状況が示されていて興味深い。『峯均筆記』の記事が余りにも簡単なので、それを補足するために、以下順に記事を見てみよう。
 (1)同書によれば、武蔵は二十五歳の頃一流を立てたという。これは『峯均筆記』にはない記事である。ただし「壮年」のころ自流を立てたということから、後世の伝説らしく、「二十五歳」と数字が具体化したようである。これは、丹羽信英が、武蔵二十五歳の慶長十三年の年号を記した伝書を見たためと思われる。
 (2)続いて青木條右衛門のことになるが、これは大して『峯均筆記』の域を出るものではない。ただし、越後村上内藤侯の臣・土屋皆右衛門のことが出ているのが注目される。この土屋が、丹羽信英の当時、二刀流を伝えていて、これが青木條右衛門系統の武蔵流末とみなされていたらしいのである。丹羽信英は越後へ流れて、村上内藤家中に伝わった二刀流に遭遇した。「遣い方等も違い、意味も違っていることありと聞く」とあって、丹羽信英は、青木條右衛門の武蔵流が自分たちの流儀とは異なるとの伝聞を記す。これは越後村上というから、時中流のことである。これについては、丹羽信英『兵法先師伝記』の読解において論究されるであろうから、ここでは省筆する。
 (3)次に、「當流ノ兵書」、つまり武蔵流の兵法書だとして、世間に所持する者あり、という。面白いのは、江戸の古書物屋などで、それを購入できることもあったというあたりである。武蔵流兵書は、丹羽信英の当時、江戸の古本屋に出回っていたのである。これは興味深い証言である。
 (4)「是を見るに」、とあるから、丹羽信英はその武蔵流兵書を実見している。それは、「空」のことや「直通」と所々に記してあるが、「我が五卷の書」(つまり五輪書のこと)とは格別の違いだという。つまり、まるで違うというのだが、そもそも武蔵流の兵法書が、江戸の古本屋で買えるような偽書だとすれば、それは仕方ないことではある。しかし、丹羽信英は、それは武蔵壮年の頃の流儀だから格別の違いがあるのだ、と思っている。
 (5)では、丹羽信英が見た武蔵流の兵法書とは、具体的にいえばどんなものだったのか。ヒントは次に出てくる「義經」という名である。すると、どうやらこれは、播州龍野の多田円明流伝書の、「宮本武藏守藤原義輕」「宮本武蔵守藤原義恆」という名と関係がありそうである。つまり、現在円明流史料として残っている文書に近いものだったらしい。だが、丹羽信英は「円明流」だとは記していないから、また別種の武蔵流兵法書が出回っていたとも思える。
 (6)「義經」という署名について、丹羽信英は、武蔵が若い頃、我が武勇源義経に比肩すると云われ、義経と号したという伝説を記す。これは『峯均筆記』にはない記事で、後の伝説形成であろう。その伝説については、丹羽信英は、かの世間にある書物を見れば、偽説だろうという。つまり、信英が伝授された五輪書と比するに、その内容があまりにも違いすぎているからである。
 (7)次に、松井八右衛門のこと。この人は当時越後に居た丹羽信英と知合いらしい。八右衛門家の先祖は松平大和守直矩(1641〜95)の家臣で、慶安二年播州姫路へ国替えの時、云々の話が『兵法先師伝記』にある。ただし、直矩の慶安二年(1649)は、越後村上から播州姫路へではなく、播州姫路から越後村上へ転封の年であり、方向は逆である。直矩が再び播州姫路へ国替えで復帰できるのは寛文七年(1667)である。八右衛門は、地元の古文書によれば、越後蒲原郡西条村に住んでいた浪人=郷士である。丹羽信英が住んだ片桐新田の北一里半ほどの村である。
 (8)この松井八右衛門が「先師の父無二之助」の系統の免許状を所有しているとある。それは、無二之助→宮本徳右衛門→山川弥助という相伝の免許状で、年号は慶長三年(1598)。これにも「直通の位」「喝咄」などとあるが、文意甚だ拙なく「五卷の書」に似るべきもなし、という。無二之助の名の上に天下無双と書き、三巻の書である。丹羽信英は、一度ならず再三これを見せてもらった。八右衛門には「大事にしまって置かれよ」と言いおいた。
 (9)そうして丹羽信英はいう、「二刀流」あるいは「武蔵流」といって世間に残っているのは、無二之肋の流儀もあるのではないか、また、武蔵から青木條右衛門などへ相伝されたものも残っていると聞いている、と。これも興味深い証言で、すでに無二流と武蔵流の混同があったようであるが、ある意味で「二刀流」も含めて、初期武蔵流では無二流からさして差異化の距離が発生していなかったということである。ようするに無二流と武蔵流の並存は、十八世紀後期に現存していた流派で確認されているのである。
 (10)丹羽信英の結論。しかし、武蔵は五十歳を過ぎて不易の道を建て(これは五輪書冒頭自序の文言によるらしい)、肥後国で寺尾信正一人道統を得たのだから、世間の二刀と称する流派はすべて支流にすぎないと。これは『峯均筆記』における正統性の主張と同じである。つまり、余流はすべて異端である。自流のみ正統である、云々。
 さて、以上が『兵法先師伝記』の語るところである。なかでも、江戸の古書店に武蔵流兵書が出回っているなど、十八世紀中後期の状況が知れて興味深い。
 あるいは、播州龍野の多田円明流伝書の、「宮本武藏守藤原義輕」という名と関係がありそうな「義經」という署名の兵書を、丹羽信英が見ているのも、十八世紀後期の証言として興味深い。その「義經」文書は「義輕」と一連の系列をなす偽書の原型であろうが、少なくとも、十八世紀前期にはなかったそんな武蔵流兵書が出てきたのである。
 丹羽信英は武蔵流兵書を見て、「我が五卷の書」(五輪書)とは格別の違いだという。それは本当に武蔵の文書なのかと疑っている。今日の一部研究者は、初期武蔵流の姿を、「兵道鏡」等の恠しい伝書に探るのだが、そうした偽書の発生点は、どうやら十八世紀後期らしい。
 武蔵晩年の肥後での弟子たちについては、九州に詳細情報があるが、一方、それ以前の弟子たちということになると、武蔵の弟子は諸国に数多いとされながら、明らかではない。しかるに、播州龍野の多田円明流資料には、円明流の前史を記録し、武蔵の初期の弟子たちを一覧しうる文書がある。それが、享保六年(1721)の「円明流系統図」である。これによって円明流系統の伝系が知れる。九州の武蔵流諸派系譜と比較対照してみよう。

*【兵法先師伝記】
《先師廿五歳ノ比ヨリ一流ヲ立ラル。此時已ニ空ノ意ヲ得ラレ、直通ノ位ヲ立ラレシカ共、イマダ壯年ノ事故、不易ノ道ニ至ラレザリシガ、五十歳ニ至リテ、今ノ五方ノ搆、其兵法ノ正シキ道ヲ成就セラレケル。廿八九歳ノ比、門人モ有テ、其流義免許セラシモ多カリシトナン。中ニモ、青木條右衛門ト云者ハ、其比ノ門弟ニテ免許ノ弟子也シトゾ。此青木條右衛門ガ傳ル処、間々世ニ殘レリ。當時越後村上内藤侯ノ臣・土屋皆右衛門、二刀ヲ傳得テ、彼御家ニ名アリ。是則青木條右衛門ニ、先師壯年ニ免許セラレシ流義ナル故、仕方等モ違、意味モ違シ事有ト聞。又當流ノ兵書トテ、世間ニ所持スル者有リ。或ハ江戸ノ古書物屋抔ニテ求メ來リタルコトモ有。是ヲ見ルニ、我五卷ノ書ノ如キ正シキ事ナク、成程空ノ事ヲ著シ置レ、直通/\ト所々ニ記シ置レシ事アレ共、今傳來ノ五卷ノ書トハ格別ノ違ナリ。其時先師、名乗義經ト書置ル。先師年若キ時、我武勇源義經ニ比スト云レシガ、直ニ義經ト号セラレシト云傳フ。彼世間ニ有ル卷物ヲ見レバ、是ハ偽説ナラント聞ユ。又當時、松井八右衛門ト云ハ、其先祖松平大和守直矩侯ノ臣ナリシガ、直矩侯、慶安二年ニ播姫路ヘ処替ノ時[直矩侯ハ夫迄越後村上城主也]、何故ニヤ、右松井ガ先祖ニ田畑屋敷等ヲ賜リ、永ク郷士トシテ時ノ地頭ニ達シ、違フ事ナカレトノ事故、于今其家連續セリ。此八右衛門、先師ノ父無二之助ヨリ宮本徳右衛門ト云ニ當テ、徳右衛門ヨリ山川弥助ト云ニアテ名シタル免許状アリ。年号、慶長三年ト有。是ニモ直通ノ位ナド丶云事有テ、喝咄ト云事モアレ共、其書ノ文意甚陋シク、五卷ノ書ニ似ルベクモナシ。是無二之助ノ立ラレシ流義ト見ヘ、名ノ上ニ天下無双ト書テアリ。此書三卷ナリ。予再三是ヲミタリ。能々納メ置レヨト云置ヌ。如此事ニテ、二刀流或ハ武藏流ナド丶テ殘リシハ、無二之肋ノ流義モ有ベク、又先師青木條右衛門ガ類ニ傳ラレシモ殘リシト聞ユ。然共、五巻ノ書ニ著シ置ルヽ如ク、五十歳ヲ越テ不易ノ道ヲ建ラレ、肥後國ニシテ寺尾信正一人其道統ヲ得ラレシ事ナレバ、世間ノ二刀ト號スルハ皆支流ナリ



越後関係地図




*【丹治峯均筆記】
《無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ無二免許ノ弟子也》








たつの市立歴史文化資料館蔵
宮本武蔵守 藤原義恆
円明流印可状 部分


円明流系統図  たつの市立歴史文化資料館蔵
*【円明流略系譜】

○宮本武蔵玄信┐
┌――――――┘
├落合忠右衛門光経
├多田半三郎頼祐――――――――┐
│               │
├山田淤泥入          │
│               │
├石川主税清宣         │
│               │
├市川江左衛門         │
│               │
├寺尾孫之丞――寺尾求馬    │
│               │
└柴任道隨重矩┬吉田太郎右衛門 │
       │        │
       ├立花専太夫   │
       │        │
       ├川村弥兵衛   │
┌―――――――――――――――┘
└三浦源七延貞┴多田源左衛門祐久→
         (多田円明流祖)
*【武蔵流諸派略系譜】

○新免武蔵守玄信┐
┌―――――――┘
├寺尾孫之丞信正―柴任三左衛門美矩┐
│┌―――――――――――――――┘
│└吉田太郎右衛門実連―立花専太夫峯均
├寺尾求馬助信行┬寺尾藤次玄高
│       │
│       ├新免弁助信森
│       │
│       ├寺尾郷右衛門勝行
│       │
│       └道家平蔵
└古橋惣左衛門良政―松井市正甫水
 これによって注目されるのは、円明流系譜に、寺尾孫之丞をはじめ、寺尾求馬、柴任道隨重矩(三左衛門)、吉田太郎右衛門、立花専太夫(峯均)ら、九州関係者の名がみえることである。柴任道隨が武蔵の直弟子になっていたり、立花専太夫が柴任の直弟子になっていたりするのは、事実関係からすれば、それじたい誤りではないが、系譜上では異とすべきところである。
 他方、九州の武蔵流兵法諸派系譜にはない播州の弟子たちの名がみえる。落合忠右衛門光経、多田半三郎頼祐、山田淤泥入、石川主税清宣、市川江左衛門らがそれである。このうち、後世に残ったのが、多田半三郎頼祐(祐甫)以下の龍野円明流と、石川主税以下の本多家中の武蔵流である。
 では、『峯均筆記』に、無二の弟子で、また武蔵壮年のころの弟子とある青木條右衛門、いわば初期武蔵流の弟子の代表者とされるこの人物はいかに、とみるに、青木の名はここにはないのである。とすれば、播磨の門流ではない系統が、青木條右衛門の系統である。
 また、ここに名がみえないのは、尾張円明流の門人である。武蔵の門人という竹村与右衛門が尾張に滞在して教え、林資源・林資龍親子や彦坂八兵衛など、武蔵の弟子に免許を与えた。あるいは、古橋惣左衛門の弟子・松井市正の系統もあったらしい。しかし何れにしても尾張円明流は、初期武蔵の門流とはいえない。
 となると、武蔵壮年期の初期門流で、立花峯均のころ存続していたのは、前に述べたように、
    ・青木條右衛門系統……肥前佐賀 鉄人流
    ・石川主税系統…………播磨姫路 武蔵流
    ・多田祐甫系統…………播磨龍野 円明流
とすべく、これは、『峯均筆記』の《二三流モ表ノ切組有之》という伝説のもとになったところのもの、つまり初期武蔵流の三つの流派に対応するかのようである。しかしながら、これも決定的な根拠史料のない推測を出ない。
 初期武蔵流に関しては、我々は、新史料の出現を期待するよりほかないのである。そもそも史料とする武蔵流兵書が、江戸の古本屋で買えるような偽書だったとすれば、それは研究以前の問題である。それゆえ我々は、初期武蔵流とみなされがちな円明流伝書について、安易に現存資料を信憑してしまうのではなく、史料批判を厳密にすることをことさらに重視するのである。
 ともあれ、資料不足により、今日では初期武蔵流の姿は不明である。二刀流、武蔵流、宮本流、あるいは円明流、さまざま名称はあるが、今日我々は確かな資料をもたないのである。  Go Back




*【兵法先師伝記】
《一流を立てらる。この時すでに空の意を得られ、直通の位を立てられしが、まだ壯年の事故、不易の道に至らず、五十才に至りて、今の五方の構その兵法の正しき道を成就せられたり。》





新免武蔵守玄信之碑
笠覆寺(笠寺観音)


 
  22 猫を仕留める
一 或時、庭上ニ猫ノ居候ヲ、武州フツト立揚リ、枕木刀ヲ上段ニ搆へ、ツカ/\ト寄ラルヽ。猫其勢ニ怖レ、位ニヒシゲテ、迯ン/\トハシタレ共、迯ル事不能、終ニ打留ラレシト云リ。凡人ノ及難キ事也。(1)
一 ある時、庭上に猫が居たのを、武州がふっと立上がり、枕木刀を上段に搆え、つかつかと近寄られた。猫はその勢いに懼れ、位(搆え)に威圧されて、逃げよう逃げようとはしたけれど、逃げることができないで、とうとう打ち留められてしまったという。凡人の及び難いことである。

  【評 注】
 
 (1)庭上ニ猫ノ居候ヲ、武州フツト立揚リ
 これも武蔵名人伝説の一種である。前に、包丁人を打って懲らしめたり、召使の若党の頭を粉砕したり、寺尾信正の稽古で寸止めにしたり、とこれまで数種の逸話があった。とうとう、こんどは人間ではなく猫である。
 ある時、庭に猫が居たのを見て、武蔵がふっと立上がり、枕木刀を上段に搆え、つかつかと猫に近づいた。枕木刀というのは、短い木刀、小太刀のことだが、二天流では長二尺ほどの、ややゴツい木刀である。
 さて、武蔵が猫に近づく。すると、猫は武蔵の勢いにおそれ、位(搆え)に威圧されて、逃げよう逃げようとはしたけれど、逃げることができない。そうして、とうとう打ち留められてしまった、という話である。
 猫は敏捷な動物なので、逃げ足は早い。しかし名人武蔵の勢位に気圧されて、逃げることが出来なかった。そして、武蔵に仕留められてしまった。筆者のコメントに云う、凡人の及び難いことである、と。
 打ち留めたというのは、ここでは、枕木刀で打ち殺したということである。武蔵のゴツい枕木刀を知らなければ、この打ち留めたというシーンはイメージできない。
 ところが、猫をブチ殺すなんぞ、愛猫家にかぎらず動物愛護家には、ゆるしがたい残虐行為である。すでに戦前から、このエピソードにはそんな非難があった。動物愛護という支配的な現代的観念からすれば、武蔵の残酷行為はゆるされないが、とはいえ、説話の枠組みを外して行為を非難しても、はじまらない。
 これも包丁人や若党相手のケースと同じように、『峯均筆記』のスタンスは、凡人の及び難いことであると、武蔵の名人ぶりを単純に賛嘆するのみである。猫の動きを封じたのみでは、この伝説は成立しなかったであろう。猫の動きを封じ、そして仕留めたというところに説話のポイントがある。
 動物相手の名人譚類話では、『兵法先師伝記』に猿の話がある。
 武蔵は江戸でも門弟があったが、ある時、師弟共々うち連れて遊びに行った。見世物がある場所で、猿に芸を仕込んで人々に見せている。その猿はよく訓練されていて、見物人から投げつける小刀を取るのが非常に素早く、同時に何本投げつけても取り損なうことがない。
 その時、門弟のなかから武蔵に云う者がある。「先生、一度小刀を投げてみてください。最近のことですが、人々がこんな猿を見て投げてくれと望むので、柳生但馬守殿が指小刀(小柄)を打付けられると、猿は取り損なって胸を打抜かれて死んだそうで、江戸中の評判になって但馬守殿を誉めています。先生もひとつ投げて見せて下され」というので、先生の武蔵も、「無用のことながら」と云いつつ、指小刀を持って、猿を見ると、猿は啼いて逃げ隠れ、その場に出てこない。人々これをみて、柳生但馬守の兵法より勝れていると感嘆したそうな、云々。
 とんでもないところで、柳生但馬守(宗矩)のご登場だが、むろん武蔵流末の伝説である、眉に唾して聴かねばならない。ここでは、柳生但馬守は猿を打ち殺せたが、武蔵のばあいは、小柄を投げる前に猿は逃げてしまったから、武蔵は柳生但馬守以上の名人、という講談咄の類いである。
 柳生は活人剣だが、武蔵は殺人刀だ、という俗説が今日でも流布されているが、この猿の逸話では、話は逆である。江戸時代に、もうこんな話が出ていたのだから、柳生は活人剣、武蔵は殺人刀、というような安易な対比は、もともと論じるに値しないのである。
 そこで、次の話になる。では、この猿の逸話の方向に沿えば、『峯均筆記』の武蔵が猫を仕留めた話はどうなるか。――猫を仕留めたのは、さして大したことじゃない、それより、武蔵が庭に出ると、すぐ猫は逃げてしまった――?? これでは、まったく話にならない。やはりここの説話素は、敏捷で逃げ足の速い猫を仕留めた、ということでなければならない。
 しかし猫を仕留めただけでは、名人伝説とするにはかなり不足があり、また説話構成に完結感がない。『峯均筆記』記者の記憶が曖昧なせいで、こんな話しか書き留められなかったようである。
 立花峯均はこの武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」の後記に、自分が若年の頃耳に聞き得たままにして、多年を過ぎ、いま半白の老人になって思いみるに、記憶していた事どもを忘却して、つながらなくなった、と書いている。その《覚シ事共忘却シテ連續セズ》の一例はこの説話であろう。どうしてこんな中途半端な話が記憶に残っているのか、峯均本人にもわからなかったに違いない
 そこで伝説本体を復元してみるに、おそらくこれは、禅の公案にある「南泉斬猫」の教訓とからんだ話だったのだが、その文脈が途中で脱落して、こういう姿になったものと推定しうる。
 「南泉斬猫」というのは、――唐代の禅家の話。南泉普願(748〜834)の名声を慕って多くの僧が集まって修行していた。ある日、東西両堂の僧たちが猫の児をめぐって争論をはじめた。この猫は我々のペットだとかなんとか。
 それを見て、南泉が出てきた。そして口論の間に割って入ると、「言うことができれば猫を助けよう。言えなければ斬り捨てるぞ」と、言い放つ。
 しかしその場の僧たちは、何も言えず沈黙したままである。すると、言葉どおり、南泉は、猫を斬り捨ててしまった。
 晩になって、高弟の趙州従諗(778〜897)が外から帰って来た。南泉が猫を斬った話をして、おまえならどうすると問う。すると趙州は、何も言わず、ただ、履いていた草履を脱いで、それを頭の上に載せて、出て行った。この禅的パフォーマンスを見た南泉は云った、「趙州さえいれば、猫の児を救えたのに」。
 この禅家流パフォーマンスは、南泉の斬猫と趙州の応答行為がセットになっている。もちろんこれは公案だから場面を解釈してもはじまらない。猫に仏性が有るや無しやという解説も無用である。南泉のように猫を斬り、趙州のように草履を頂戴するのみである。
 ただし、武蔵が猫を打ち殺したと聞くと、「それみたことか、武蔵は残虐な奴だ」と非難したがる者が、昔から跡を絶たないのだが、かたや、猫を斬殺したというこの南泉斬猫の説話について、「南泉は残酷な坊主だ」と非難した例がないのも、不思議な偏見である。
 ともあれ、この南泉斬猫の逸話は、あまりにも有名である。むろん、武蔵と南泉斬猫のリンクは、ありそうなことである。当時絵画にも描かれ、たとえば長谷川等伯にも南泉斬猫図があった。もちろん武蔵も南泉斬猫図を知っており、あるいは自身この画題を描いたかもしれない。そうしてまた、兵法講話に南泉斬猫を話頭にのせたかもしれない。
 そこで、伝説原型を仮想復元してみるに、こうなる。――南泉の弟子たちと同じように、ある日、武蔵の門弟たちが子猫を取り合いになり口論した。武蔵はそれを聞いて、枕木刀を取ると、門弟たちに向かって云う、「言うことがあれば言ってみろ。道得即救、道不得即斬却」。門弟たちは何も言えない。すると武蔵は庭に出て、猫を打ち殺した。門弟たちは余りのことに口々に云う、「草履を頭に載せればよかった」。
 最後のオチは蛇足だとしても、武蔵伝説なら、このていどの説話があってほしいものである。これに比すれば、『峯均筆記』の説話は少々間が抜けている。それというのも、「武蔵は庭に出て、猫を打ち殺した」という部分だけしか語れず、しかも、猫を仕留めたくらいで、「凡人の及び難いことである」と云ってしまうからだ。そんなことでは武蔵的なエピソードにはなりがたい。
 ようするに、補足してみなければ意味不明なほど、この「武蔵斬猫」説話は原型を喪失しているのである。  Go Back






個人蔵
二天流枕木刀 長二尺




*【兵法先師伝記】
《先師、江戸ニ而モ門弟數人有ケルガ、或時師弟打連テ遊歩セラシニ、見セ物有場所ニテ、猿引、猿ニ藝ヲ仕込テ人ニミセケルガ、其猿甚ダヨク馴テ、見物ノ人ヨリ小刀抔ヲ投付ニ、中々取事至テ早ク、一同ニ何本投カケテモ取損ズル事ナシ。其時、門弟ノ内ヨリ、先生、一度小刀ヲ御投御見セ被成候ヘ。近比柳生但馬守殿、ケ様ノ猿ヲ御覧有シニ、人々所望ニ依テ、指小刀ヲ打付ラレ候ヘバ、猿取ハヅシ、忽胸ヲ打抜レ死候由、府中ノ沙汰ニ、但馬守殿ヲ誉申候。先生モ御打付御見セ被下候ヘト餘義ナク申。先師聞レテ、無用ノ事ナガラト指小刀ヲ持テ、猿ヲ見ラル丶ト、猿大ニ啼テ逃カクレ、其場ニ不出。人々是ヲミテ、但сm兵法ニハ増リシト、感ジケルトゾ》












*【丹治峯均筆記】
《右、先師柴任美矩・吉田實連兩先生、夜話ノ序ニ物語リアリシヲ、吾、若年ノ耳ニ聞得タル侭ニテ多年ヲスギ、今半白ヲ越テ思ヒミルニ、覚シ事共忘却シテ連續セズ。此マヽ打捨ヲカバ、弥忘レ果ン事、無本意ヲモヒ、荒々書記畢ヌ》


*【無門関】
《南泉和尚因東西堂爭猫兒。泉乃提起云、大衆道得即救、道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晩趙州外歸。泉擧似州。州乃脱履安頭上而出。泉云、子若在即救得猫兒》(第十四則 南泉斬猫)
(南泉和尚、東西両堂の猫児を争ふに因んで、乃ち提起して云く、「大衆道ひ得ば即ち救はん、道ひ得ずんば即ち斬却せん」と。衆対うる無し。泉遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に挙示す。州乃ち履を脱いで頭上に按じて出ず。泉云く、「子若し在らば即ち猫児を救い得てん」)





長谷川等伯 禅宗祖師図
南泉斬猫




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