宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  9  Back   Next 

 
  23 兵書五巻、清書なきこと
一 寛永二十年、武州六十歳、肥ノ後州岩戸山ニ登リ、觀世音菩薩ヲ拜シ、佛前ニ於テ、天道ト觀世音ヲ鏡トシテ、十月十日ノ寅ノ一天ニ筆ヲ執テ、兵書五巻ヲ記サル。地水火風空ト號ス。(1)
 清書ナキ内ニ病生ズ。[噎嗝之由](2)

一 寛永二十年、武州六十歳、肥後国岩戸山に登り、観世音菩薩を礼拝し、仏前において、天道と観世音を鏡として、十月十日の寅の一天に筆を執って、兵書五巻(五輪書)を記された。地水火風空と号す。
 (この書を)清書されないうちに、病が生じた。[噎嗝*〔えっかく〕の由]
 
[文字化け]文中一部文字にuncode tagを使用しているため「?」と表示される場合がある。文字は「口へん+鬲」である。
  【評 注】
 
 (1)寛永二十年、武州六十歳、肥ノ後州岩戸山ニ登リ
 武蔵が五輪書執筆を開始した記事。これは、五輪書冒頭自序部分そのままである。とくに目新しい情報はない。
 寛永二十年、武州六十歳、肥後国岩戸山に登り、観世音菩薩を礼拝し、仏前において、天道と観世音を鏡として、十月十日の寅の一天に筆を執って、――とあるのは、五輪書自序そのままである。そして《寛永二十年、武州六十歳》と記して、武蔵がこのとき六十歳であったと語る。
 このうち、武蔵の五輪書執筆開始時点を「六十歳」とするのだが、これは、「歳つもりて六十」とある例の文言によるもので、『峯均筆記』固有の情報ではない。五輪書の内容を知る者なら、執筆開始時点は六十歳、ということはわかっていた。
 それに対し、今日でも武蔵評伝が記すがごとく、武蔵が岩戸観音の霊巌洞に籠って五輪書を書いたなどというのは、五輪書から出た不正確な情報が流布されて伝説と化したものである。
 五輪書冒頭を読めば分かるように、霊巌洞でこの兵書を書いたとは記していない。「十月上旬」に岩戸山に登り、観音を礼拝し…とあるように、武蔵は五輪書執筆開始にあたって、まず岩戸観音に祈願した、という以上のことではない。そして、「十月十日」の寅の一天に筆を執って執筆を開始したという場所は、とくに記されていないのである。執筆場所は霊巌洞以外の場所、熊本市中もしくは近郊の村、と見た方がよい。
 武蔵が霊巌洞に籠って兵法書を延々書いたなどというのは、伝説上のイメージにすぎない。ただ、『峯均筆記』や『武公伝』という伝記をみれば、武蔵没後八十年もすれば、そういう伝説の萌芽が生じていることがわかる。
 ところで、『峯均筆記』に、兵書五巻を記された、地水火風空と号す、とあるのは五輪書のことで、ここでは「兵書五巻」と記している。「兵書五巻」というのは文書のタイトルではなく、五巻の兵法書という意味で、まだ題名はないのである。我々が今日呼ぶような「五輪書」という名は、『峯均筆記』の周辺にはまだ発生していない。このことは注意しておいてよいだろう。
 これに対し、肥後系伝記の『武公伝』には、これを「剣術五輪書」と記しており、「五輪書」という名がみえる。つまり「五輪書」の名は、肥後の武蔵流末内部から発生した通称である。同時代の筑前二天流では、「五輪書」という通称は使われていない。この相違にも注意しておく必要がある。
 ただし、「五輪書」とは、武蔵流兵法末孫が後世つけた名だとしても、それは恣意的な命名であったとするのは、誤りである。というのも、五輪書本文に、地水火風空の五巻にするとあるからである。武蔵は執筆にあたって、この地水火風空の五輪(五元素)、五つのエレメントの名を各巻のタイトルにするつもりだったのである。
 地水火風空ということになれば、当時の連想では、墓碑としての五輪塔である。五輪塔のパーツは下から順に、地・水・火・風・空の五元素の名がある。そういう連想のあることを前提にして、武蔵はこんな5巻タイトルにしたのである。ということは、五輪書という兵書は、ある意味で武蔵の墓碑である。書物としての墓であり、墓としての書物である。
 これは、「天仰實相圓満之兵法逝去不絶」という遺偈とともに、武蔵最後の諧謔である。  Go Back




岩戸観音 霊巌洞
熊本市松尾町平山 雲巌禅寺


*【五輪書】
《兵法の道二天一流と號し數年鍛練の事初めて書物に顯さんと思ふ。時寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拜し觀音を禮し佛前に向ふ。(中略)此一流の見たて、實の心を顯す事、天道と觀世音を鏡として、十月十日の夜寅の一天に筆をとつて書初るものなり》(地之巻冒頭)


*【武公伝】
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之》
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》



五輪塔
 
 (2)清書ナキ内ニ病生ズ
 これは他にはなく、『峯均筆記』のみにある伝説情報である。
 兵書五巻の清書がすまないうちに、病が生じたという。つまり、武蔵は五輪書を完成しないうちに発病してしまった、というのである。
 その病気は何かというに、「噎嗝」〔えっかく〕だったという伝説を記す。ここまで武蔵の死病について特定した伝説は、むろん他にはない。この情報は筑前系の伝記のみであり、他の伝記資料に病名まで記すものはない。『兵法先師伝記』には、「膈症」(異本「噎症」)を病んだとあり、『峯均筆記』の伝説を継承している。
 ちなみに、「噎嗝」とは、胃癌や食道癌にともなう嘔吐症状のことらしい。武蔵を死去せしめた病気について関心ある者がこれを伝えたようだが、『峯均筆記』が記すのは、噎嗝らしいという、不確実性をのこした伝聞情報である。したがって、武蔵の死病についてはこういう伝説もあった、という以上の話ではない。
 だがこれは、大名ならいざ知らず、兵法者の死因病名まで記した例は他にほとんど例をみないので、これは珍重すべき記事である。ついでに言えば、福岡黒田家初代の長政の死病は、「嗝噎」〔カクイツ〕だという(吉田家伝録・巻之六)。死因が同じ病気なのが興味深い。
 ここで《病生ズ》というのは、今日我々のいう発病というより、病に倒れたというに近い。癌であったとすれば、それはすでに末期癌で、それが急速に進行するから、今日でさえ手の打ちようがない状態であっただろう。ホスピスのように死病を看とるしかない。しかし当時は点滴もないのだから、武蔵は急激に衰弱していったであろう。
 武蔵は老いたとはいえ、若年の頃から鍛錬を重ねた尋常でない肉体をもつ。しかし、いかに宮本武蔵でも癌には勝てないのである。かくして病いよいよ篤くなり、ついに武蔵は死ぬのだが、ようするに、武蔵の五輪書は、草稿のまま残されたのである。この件については、後で話題にするであろう。
 ところで、おもしろいのは、肥後系伝記に、武蔵が霊巌洞で臨終を迎えようとした、という話があることである。『武公伝』には、武蔵の発病は正保二年の春で、武蔵は市中の喧噪を厭い、岩戸山に行き、霊岩洞の内に入り、静かに終命の期を迎えようとした、とある。
 『武公伝』の記事を受けた『二天記』では、同じ内容であるが、相違があるのは、武蔵が霊巌洞へ行く前に、(長岡)式部殿・監物殿・(澤村)宇右衛門殿と家老重臣三人宛の書状を出したことになっており、しかもその書状を全文掲載していることである。別論攷がこれに論及するはずなのでそれに譲って割愛するが、この書状は、巌流島決闘前日の武蔵書状と同じく、どこかから沸いて出たものらしい。
 ともあれ肥後系伝記では、発病した武蔵は霊巌洞に入ってそこで死のうとした、という伝説を記す。これは、五輪書冒頭の記述から、武蔵が岩戸観音と結び付けられ、そのうち、こんな霊巌洞伝説が生じたのである。
 しかし実際には、武蔵は霊巌洞に籠って死んだのではなかった。そういうわけで、伝説は、こんどは武蔵を市中に連れ戻さねばならない。そこで、長岡寄之が武蔵を連れ戻す役を演じることになる。すなわち、武蔵が霊巌洞に籠ったというので、世間では何かと「奇怪ノ浮説」があった。長岡寄之はこれを聞いて、放鷹にことよせて岩戸観音へ出向き、武蔵を諌めて、熊本市中千葉城の屋敷へ帰らせた、というわけである。
 この説話素は、「武蔵は霊巌洞に籠って死のうとしたが、長岡寄之が武蔵を連れ戻した」、という内容である。ただし、これは武蔵の伝説ではなく、長岡寄之のための伝説である。言うまでもなく、この霊巌洞伝説が長岡寄之を引っ張り出すのは、同じ肥後系伝説でも、『武公伝』『二天記』の話は、熊本というよりも、寄之の系統が城代になった八代系の伝説だからである。
 では、実際のところはどうだったのか。
 その事実関係を知るには、実は幸いにも適切な史料が残っている。武蔵養子の宮本伊織と長岡寄之が、武蔵の病気療養について交わした書状がそれである(松井文庫蔵)。それが肥後側に遺ったのは、いつもながら物持ちのよいことで感心するのだが、ここでは、伝説を事実検証する手がかりになるので、ありがたい史料である。
 宮本伊織は、父の武蔵が肥後へ行ってしまったので、そばにいない。肥後で発病したと報せをうけて気をもむが、小笠原家の老職にあっては、おいそれと出向くわけにはいかない。それで、武蔵の治療にあたって面倒をみている長岡寄之に宛てて礼状を書き、どうかよろしくとたのむ。それが、(寛永二十一年)十一月十五日付の長岡寄之宛宮本伊織書状である。
 この一連の書状には年記載がないが、これを武蔵が死んだ正保二年の前年・寛永二十一年(十二月正保改元)とするのは、日付が十一月だからである。正保二年なら、武蔵は十一月にはもうこの世にいないのだから、正保二年ではなく前年の寛永二十一年とするわけである。
 さて、十一月十五日付の長岡寄之宛宮本伊織書状に対して、十一月十八日付の宮本伊織宛長岡寄之書状案がある。書状案というのは手紙の下書き原稿である。
 武蔵養子の宮本伊織から十一月十五日付で長岡寄之へ武蔵病気看護の礼状がきた。それに応えて、より詳しい病状報告をしたのが、この寄之書状である。行間加筆がありやや輻輳しているが、その文面からは大要以下のことが知れる。
 そのとき武蔵は、熊本市中を離れて熊本近郊の村に住んでいた。そこで武蔵は発病したので、医者を派遣し治療にあたらせていた。しかし在郷の田舎では治療も十分にできない。そこで、家老の長岡興長・寄之父子が、熊本へ戻って療養するように申し遣わした。ところが武蔵は同意しない。そこでまた、「是非ともお戻り下さい。遠くては治療の相談もできません。ケア(肝煎)しようにも、これではどうしようもありません」と申し遣わす。殿様の細川光尚(文中、肥後)もことさら気をつかって、医者なども度々派遣し、いろいろ治療にあたらせたが、郊外の村にいては療養の指図もできかねるので、再三武蔵に熊本へ戻るよう申された。そこでようやく、一昨日(十一月十六日)武蔵は熊本へ戻ってきた。それで寄之は伊織にいう、「病気治療にはいよいよ気をつけて油断なく看護するように指図しましたし、細川光尚(肥後)もお気づかいあり、医者なども付け置くよう申されていますので、ご安心ください。今のところ病状も安定しています」、云々――これが長岡寄之書状案の内容である。
 この書状と、前出の『武公伝』など肥後系伝記の伝説とを突き合わせてみると、事実との相違がよくわかる。
 まず、武蔵の発病は、正保二年春のことではなく前年の寛永二十一年(1944)である。また武蔵が病気になって熊本市中に連れ戻されたのも、正保二年のことではなく、寛永二十一年十一月のことである。
 この点でまず、肥後系伝記の伝説は誤伝である。ところが、筑前系伝記でも『兵法先師伝記』は、正保二年の春という肥後系伝記の説を導入している点に注意したい。泥鰌伊織伝説とともに、『先師伝記』には肥後系伝記の影響がみられるところである。
 武蔵は熊本市中を離れて近郊の村にいた。おそらくそこで五輪書を書いていた。その村の名や場所は不明であるが、そこで武蔵は発病したのである。
 なるほど、岩戸観音あたりの村では《熊本より程近在郷》とは云えない。武蔵は死病を得て、霊巌洞に籠ったのではなかった。つまりは、武蔵が熊本近郊の村へ引っこんで住んでいたという事実が、武蔵が霊巌洞に引きこもったという伝説に化けたのである。
 しかも、武蔵は治療を拒んだのではなく、武蔵がいる村に医者が派遣され、治療がなされたのである。そして治療に不便だからと、熊本へ戻るよう武蔵に言ってよこしたのは、長岡佐渡興長と式部寄之の両人。細川家筆頭家老父子である。それでも、武蔵はなかなか同意せず、興長と寄之を手こずらせたようだが、殿様の細川光尚まで気をつかって医者を派遣し、やはり十分な治療が出来ないから熊本へ戻れと言い遣わす、というさわぎである。そうしてようやく武蔵は十一月十六日に熊本へ帰ったのである。
 この点について、『兵法先師伝記』に、先師(武蔵)ははじめから不治の病なることを知って、服薬を好まなかったけれど、肥後侯(光尚)のお世話厚きゆえ、固辞することもなかったそうな、という話を記す。これは結果として誤りではないが、筆者丹羽信英の想像である。
 前述のように、武蔵養子の宮本伊織は十一月十五日付で長岡寄之へ、武蔵病気看護の礼状を出している。武蔵養子の伊織へこうした書状を出したのをみると、武蔵の病気療養には長岡寄之(1617〜66)がかなり関与していたらしい。寄之は宮本伊織(1612〜78)と同世代、すでにみたように、細川忠利の末弟で、長岡興長の養子に入った人である。この書状案に長岡興長(1582〜1661)の名も出ているが、興長の方は世代的にも武蔵の旧知である。
 以上のような次第なので、長岡寄之が武蔵を連れ戻したという伝説には、一応事実関係の反映があるわけだが、『武公伝』そして『二天記』のように、寄之が放鷹にことよせて岩戸観音へ出向き、霊巌洞に籠る武蔵を諌めて、熊本市中千葉城の屋敷へ帰らせた、というのは、まさに伝説なのである。
 かくして、周辺事実関係を追っていけば、五輪書執筆事情にも通じることが若干ある。すなわち、武蔵の執筆開始は、寛永二十年十月十日。その後、武蔵は熊本城下近郊の村に滞在して、執筆していたようだ。しかし、寛永二十一年十一月十五日付の長岡寄之宛宮本伊織書状によって、すでに十一月半ばまでに武蔵は発病していたと知れる。
 そして病重篤になり、治療のため熊本城下へ連れ戻されるのが、同年十一月十六日。『峯均筆記』が、清書がすまないうちに病が生じたというのは、寛永二十一年夏あたりであろう。したがって、武蔵が五輪書執筆にかかっていたのは、寛永二十年十月から一年足らずかもしれない。  Go Back






*【兵法先師伝記】
《先師既ニ肥後ノ國ニ年老、正保二年ノ春ヨリ膈症ヲ煩レ、衆醫力ヲ盡ス。先師ハ病發ヨリ不治ノ病ナル事ヲ知リ、薬ヲ服セラル丶事モ好レズ。然共、肥後侯ノ御世話厚故、固辞セラル丶事モ無カリシトゾ》









*【武公伝】
《正保二年[乙酉]之春、武公病ナリ。府中ノ紛囂ヲ厭ヒ、岩戸ニ至リ、霊岩洞ノ裏ニ入リ、静ニ終命ノ期了セントス。世上何カト奇怪ノ浮説アリ。寄之公、放鷹ニ託シテ岩戸ニ至リ、武公ヲ諌テ、再ビ千葉城ノ旧宅ニ帰ラシム》

*【二天記】
《正保二年ノ春、武藏疾病也。同四月、書ヲ家老衆ニ與フ。其文、(書状略)其ノ後潜ニ靈岩洞ニ至リ、静カニ終命ノ期ヲ了セントス。然ルニ早ヤ、世上ニ何角〔なにかと〕奇怪ノ浮説アリト、寄之主聞召シ、放鷹ニ托シテ岩戸ニ到リ、武藏ヲ諌メテ誘ヒ、千葉城ノ宅ニ歸リヌ。介抱ノ爲寄之主ノ家士中西孫之允ヲ差添置也》








松井文庫蔵
長岡寄之宛宮本伊織書状

*【長岡寄之宛宮本伊織書状】
《未辱尊意候へ共一筆致啓上候。然者同名武蔵煩申付而、養生之様子色々被為入御情被下候由承、恭次第可申上様無御座候。私儀不日罷越御礼等も申上度存候処、無據仕合御座候付而、存儘不罷成、背本意辛存候。武蔵儀常々御懇志御座候由承及候間、弥養生之御指図乍慮外奉憑存候。猶重而可得貴意候。恐惶謹言》(11月15日付)



松井文庫蔵
宮本伊織宛長岡寄之書状案

*【宮本伊織宛長岡寄之書状案】
《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候處ニ、被煩成に付而医者共申付、遣薬服用養生被仕候へ共、聢験氣も無之ニ付而、在郷ニ而ハ万事養生之儀も不自由ニ可在之候間、熊本被罷出[御出候て]養生可然之由、拙者佐渡守[佐渡拙者]両人かたより申遣候へ共、同心無之候間、是非共出候へ、程隔候てハ養生談合も不成、肝煎可申様も無之与申遣ニ付而[然共肥後も殊外懇ニ被申、医者なとも度々遣被申、色々養生候て、在郷二而てハ養生之儀差図難被致候間、度々被罷出候様ニと被申ニ付而]一昨日熊本へ被罷出候。此上二而養生之儀、猶以肝煎無油断様ニ差図等可仕候間、(肥後も懇ニ存候て、医者なとも付置被申候間)可御心易候。気色相替儀も無之…》(11月18日付)






熊本武蔵関係地

 
  24 武蔵の臨終と墓所
一 命終ノ所、熊本ノ城下近邑ノ由、縱バ福城春吉邑ノ如シト云リ。正保二年乙酉五月十九日、平日ノ如ク正念ニシテ、命終ラル。行年六十二歳也。(1)
 五巻之書、同年同月十二日ノ日付也。病ニ臥、起居不安故ニ*、年号月日ハ所ノ庄屋ニ書セ、枕ヲアゲテ、判形アリテ、寺尾信正ニ授ラル。(2)
 和尚ニ引導ヲ頼ム。和尚ノ云、「武州ハ悟道ノ人也。何ゾ引導ニ及バンヤ」トテ辭退ナリ。天仰實相圓満兵法逝去不絶、二天道樂居士。コレ自ノ稱號也。(3)
 廟所、肥後□□*ニ塔ヲ建テ、武藏塚ト云。諸士ヨリ農夫ニ至ル迄、今モ下馬スト云リ。其後、伊織、塔ヲ豊州小倉之内、赤坂ト云所ニ建テ、石碑ヲ顯ハセリ。[企救郡ナリ。伊織領知ノ内、立山ノ由](4)
一 命終の場所は熊本の城下に近い村の由、たとえば、福岡城下春吉村のような所という。正保二年(1645)五月十九日、いつものような正念の状態で命を終られた。行年六十二歳であった。
 五巻の書〔五輪書〕は、同年同月十二日の日付である。病に臥して起居安らかならざるゆえに、年号月日は在所の庄屋に書かせ、(武州は)身を起して、判形(花押)をしるし、寺尾信正に授けられた。
 和尚*に引導を頼んだ。和尚の云うに、「武州は(すでに)悟道の人である。どうして(いまさらに)引導が必要か」といって辞退した。天仰實相圓満兵法逝去不絶、二天道楽居士。(引導がなかったので)これは自称の号である。
 廟所は、肥後□□(約二字分空白)に塔を建て、武蔵塚という。武士から農夫に至るまで、(武蔵塚の前では)今も下馬するという。その後、伊織が、豊前小倉の内、赤坂という所に塔を建て、石碑を顕した。[企救郡である。伊織知行領地のうち、立山〔たてやま〕の由]

  【評 注】
 
 (1)命終ノ所、熊本ノ城下近邑ノ由
 この一段は、武蔵の臨終および墓の話である。『峯均筆記』の記事には、他にない伝説がいくつかある。順にみてみよう。
 まず、命終の場所である。それは熊本の城下近郊の村だそうな、という話で、たとえば、福岡城下春吉村のような所という、という具体的な例示まである伝説である。福岡城下でいうと春吉村のような所、というように福岡近郊の村でたとえるのは、『峯均筆記』が筑前系の伝記だからである。いわば発話のポジションを指し示す記事である。
 この「春吉村」が、那珂郡春吉村だとすれば、福岡城から東方半里ほどの、那珂川沿岸の近郊の村である。那珂川の付け替えがあって、このあたりは当時とはかなり変っているが、春吉村の現在は、福岡の繁華街・天神に近く、福岡市中央区に春吉という地名が残る。しかし、福岡近郊のこの村になぞらえても、『峯均筆記』には肥後の武蔵歿地の名は伝わらなかった。
 これを肥後系伝記と照合してみると、『武公伝』は、熊本千葉城の屋敷で死んだといい、また『二天記』も同様である。
 とすれば、武蔵は病気治療のため熊本近郊の村から連れ戻されたという前後の事情から、熊本市中で死んだとしなければならない。武蔵が屋敷を与えられていたという「熊本千葉城ノ宅」とするのは、まず妥当なところである。
 とすれば、『峯均筆記』が記す《命終ノ所、熊本ノ城下近邑ノ由》というのは、誤伝であろう。武蔵が熊本に連れ戻される以前、《熊本より程近在郷へ御引込候而被居候》という長岡寄之書状を勘案すれば、武蔵は熊本市中ではなく、熊本近郊の村に住んでいたという話が、伝わっていたのかもしれない。筑前系伝説では、そこから、武蔵は熊本近郊の村(福岡城下春吉村のような所)で死んだ、そこに葬られた、という話になったようである。
 したがって、前後の状況を勘案すれば、『峯均筆記』の伝説は誤りである。武蔵は熊本市中で死んだのに、熊本近郊の村で死んだことになっている。これは、柴任美矩が当時熊本に居たはずだから、柴任から聞いた話だとすれば、奇妙な誤伝である。他のケースもそうだが、『峯均筆記』の筆者は、柴任美矩からあまり確かな話を聞かされていないのである。
 ただし、これも立花峯均の記憶違いということもありうる。つまり、武蔵を葬ったのは、熊本近郊の村、福岡でたとえれば春吉村のようなところだと、柴任美矩が語ったのを、そこが命終の場所だと勘違いして記憶していた。というわけで、これもありそうなことである。
 『峯均筆記』には、正保二年(1645)五月十九日、いつものような正念〔心の安定した状態〕で命を終った、行年六十二歳であった、と記す。この《平日ノ如ク正念ニシテ命ヲ終ラル》という一文は、前記の病名への関心も含めて、肥後系伝記とのスタンスの違いを示す。
 『兵法先師伝記』には、この臨終場面をさらに具体的な情景にして、武蔵の「立ち往生」を語っている。武蔵は臨終に、起きあがって、帯を締め、脇差を差し、片膝を立て、太刀を左に杖に突いて、終ったというわけである。
 『峯均筆記』の《平日ノ如ク正念ニシテ命ヲ終ラル》という一文が、半世紀後には、ここまで絵に描いたような芝居じみた姿になってしまった。伝説流通過程における説話変態の実態や、かくのごとし、という典型である。  Go Back





三奈木黒田家文書 九大蔵
「福城春吉邑」

*【武公伝】
《正保二天[乙酉]五月十九日、熊本千葉城ノ宅ニ病卒ス》
*【二天記】
《同五月十九日千葉城ノ宅ニテ病卒ス。歳六十二》



千葉城址 熊本市千葉城町







*【兵法先師伝記】
《病弥重リテ、遂ニ五月十九日卒去セラル。臨終ニ、起テ帯ヲシメ、脇差ヲ帯シ片膝ヲ立、刀ヲ左ニ杖ニ突テ終ラレケルトゾ。行年六十二歳》

 
 (2)年号月日ハ所ノ庄屋ニカヽセ
 武蔵死去に関連して、ここは五巻之書(五輪書)の相伝場面を記す。現存五輪書写本の日付は正保二年五月十二日、武蔵死去の七日前である。
 『峯均筆記』によれば、この日、武蔵病臥起居安らかならざるゆえに、年号月日は在所の庄屋に書かせ、判形の方は武蔵が身を起して花押をしるし、五巻之書を寺尾(孫之丞)信正に授けた、という。とすればこの日、武蔵はもう筆もとれないほど衰弱していたのである。このあたり、場面はことのほか具体的であるが、それはいかがであろうか。
 年号月日は在所の庄屋に書かせたという。筑前系伝説にこうした話が残ったのは、おそらく、この五巻之書の年号月日の文字が、武蔵の筆跡と違うものであったからであろうか。それを説明するための説話だったかもしれぬ。この年号月日異筆は、相伝について第三者の証人(在所の庄屋)の介在を示すようでもあるが、説得力がない。
 在所の庄屋が出てくるこの場面は、面白いといえば面白いが、逆に信憑性を自ら抛棄するようなものである。在所の庄屋の登場は、武蔵命終の場所を熊本城下近郊の村とする環境設定とリンクしている。それは、武蔵命終の場所は熊本市中だったという、すでに述べた前提に反するものである。これは、説話内部でディテール間の整合性はあるが、全体として話が矛盾破綻している、という典型例である。
 したがって、この逸話からは、五巻之書の年号月日が異筆だった、という推測しか生じない。その異筆を説明する伝説が、武蔵命終の場所は熊本城下近郊の村だとするこうした異説と結合し、在所の庄屋が年号月日を記入するというこうした場面をもたらしたのである。
 つまり、武蔵から寺尾孫之丞への五巻之書相伝の場面がこのように恠しいものであるとすれば、本来の事実は伝わらず、知られず、伝説流通過程で形成された逸話しか残らなかったということである。
 このことはまた、寺尾孫之丞から五巻兵書写本を相伝された柴任美矩もまた、かの武蔵から寺尾孫之丞への五巻之書相伝という決定的に重要な場面の話を聞いていなかったことになる。あるいは、聞いていたけれども、少なくとも立花峯均には伝わらなかったとも考えられる。しかし、武蔵から寺尾孫之丞への五巻之書相伝という最も重要な場面が、語り伝えられないというのは、伝記としてはずいぶん間の抜けたことである。
 ともあれ、この場面は、『峯均筆記』ではノイズの多い伝説になってしまっている。そのことは、柴任美矩という伝説媒体を評価するにさいして、決して過大評価してはならない、という帰結に導く。言い換えれば、『峯均筆記』には、柴任も知らない後世形成の伝説が多数あるということである。それは『峯均筆記』を読むにあたっての要注意点である。
 ところで、同じ筑前系の『兵法先師伝記』には、武蔵は書きおいた「書五巻」を寺尾孫之丞信正に与えるとともに、「三箇(三ケ)の大事」を伝えたとある。もとよりこの「三箇の大事」は戒定慧の三種要諦を指す本来仏家の語彙だが、兵法の分野にも導入された概念である。特定流派に限った用語ではなく、柳生流でも「三箇の大事」をいう。ここでは具体的に何を指すか不明だが、ただし、肥後系伝書にはない言葉である。『峯均筆記』には出るから、この「三箇の大事」は筑前二天流系統の伝承形態である。
 また、興味深いのは、『峯均筆記』の相伝場面には、寺尾孫之丞は登場するが、寺尾求馬助の姿がないことである。肥後系伝記では、寺尾孫之丞(勝信)は五輪書、求馬助信行は兵法三十九箇条(三十五箇条)を与えられたことになっている。寺尾求馬助は武蔵の病床に附け置かれた人で、相伝場面には同席しているはずだが、筑前系伝記ではその存在をまったく無視されている。これも、筑前系と肥後系の伝説変異を示す特徴である。
 ともあれ、すでに述べたように、『峯均筆記』のこの場面は、五輪書原本の相伝年月日が異筆だったことを証言している。このことは、現存写本にある「五月十二日」という相伝日付の信憑性如何、という問題に、当然発展するであろう。
 我々がこの問題を指摘しておくのは、従来五輪書研究において、『峯均筆記』のこの場面の意味が看過されてきたという経緯があるからである。しかし、我々がこう指摘すると、それでは、相伝年月日は五輪書原本を握った寺尾孫之丞が後で勝手に記入した疑いがある、本当は五輪書相伝はなかったのではないか、などと興奮して色めき立つ者が出そうなのだが、それは粗忽というものである。  Go Back



九州大学蔵
五輪書空之巻年月日署名
吉田家本
















*【兵法先師伝記】
《病頻リニ重ケレバ、正保二年五月十二日、書置ルヽ兵書五卷寺尾孫之亟信正ニ與ヘラレ、三箇ノ大事ヲ傳ヘラル。其書イマダ改メ書レズ、美濃紙ニ書置レシカ共、病重リテ改メ書ル丶事不能、其侭信正ニ譲ラレケル。兵法至極シテ道統ノ傳ヲ受シハ、信正只一人ナリ》

*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》

*【二天記】
《同五月十二日、寄之主、友好主へ、爲遺物、腰ノ物并鞍ヲ譲リアリ。寺尾勝信ニ五輪ノ卷、同信行ニ三十五ケ條ノ書ヲ相傳也。其外夫々ノ遺物アリ。増田惣兵衛・岡部九左衛門ト云者、武藏譜代ノ者ノ由ニテ、シカモ手ニ合ヒシ者故、被召使可給由頼テ、亡後ニ寄之主召抱ラル。物事カタツケ極メラレテ、自誓ノ心ニテ書セラル》

 
 (3)武州ハ悟道ノ人ナリ、ナンゾ引導ニ及バンヤ
 この和尚が誰なのか、不明である。「和尚」という以上、これは禅家の僧である。『峯均筆記』では、それ以上のことは分からない。
 ここでの逸話は、武蔵は臨終にあたって和尚に引導を頼んだという話に始まる。引導とは、死の直前に、法を説いて教えを諭し仏道に導くこと。しかし、和尚の云うに、「武蔵はすでに悟道の人である。いまさらどうして引導が必要か」といって辞退したというのである。
 この逸話を、肥後系伝記による先入観なしにそのまま読めば、ここは次のような場面がイメージできる。――武蔵が臨終を迎えた。それで、村の寺の和尚を呼びにやった。和尚曰く、「武蔵はすでに仏道を悟った人だ。いまさら引導は必要ではない」と。それで、和尚は来なかった…。
 ここで「村の寺の和尚」とするのは、武蔵命終の場所が「城下近邑」だという環境設定に沿っての解釈である。仏僧が人の臨終に立ち会うのは、引導を渡すためである。この和尚が《ナンゾ引導ニ及バンヤ》と云ったとすれば、辞退した和尚は来なかったのであるし、もちろん、はじめから立ち会ってもいないわけである。
 それで、『峯均筆記』によれば、「天仰實相圓満兵法逝去不絶、二天道楽居士」。これが自らの称号であったというのは、文脈からすれば、和尚に引導を渡されたのではないから、居士号は自称だという話になっているのである。
 「天仰實相圓満兵法逝去不絶」は小倉の武蔵碑上部の偈文。「二天道楽居士」は居士号を記す以上、これは禅宗法号らしいが、小倉碑文では、「播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑」とあって、「道楽」の文字はない。「二天道楽」という号は後世になって流通したものらしい。
 同じ筑前系の『兵法先師伝記』には、太守の命によって「岩戸山」に葬った、などというヨタ話もあるが、武蔵の当初の墓碑の法号が、「天仰實相圓満兵法逝去不絶二天道楽居士」だったと記す。これは『峯均筆記』の記事を踏襲したものである。
 しかし、これには不審がある。というのも、『丹治峯均筆記』巻末付録の小倉碑文写しは、誤写が数多いものの、肥後の小倉碑文写しとは違って、「新免武藏玄信二天居士碑」という碑銘正しく、「道楽」は挿入していないのである。そうすると、『丹治峯均筆記』の「二天道楽居士」は、立花峯均が書いたものか、それとも、後人の記入なのか、にわかに問題が生じる。
 同じ筑前系の『兵法先師伝記』も「二天道楽居士」と記すから、筑前二天流ではそういう伝承があったとことになるが、他方、『兵法先師伝記』は明らかに肥後系伝記を参照したふしがあるので、むしろ、筑前の「二天道楽居士」は肥後の説を輸入したものかもしれない。つまり、『丹治峯均筆記』の立花峯均の段階では、小倉碑文に效って「二天居士」と書いていたが、『峯均筆記』の伝写過程で、肥後の情報が入って「二天道楽居士」に書き換えられたとこもありうる。
 というのも、「二天道楽居士」のみならず、大仰にも「天仰実相円満兵法逝去不絶二天道楽居士」とするからである。こうしたことが、立花峯均のような初期段階で生じたとは考えにくい。筑前系のこの法号は、後人の改竄であろう。
 「二天道楽」という号について云えば、肥後系伝記の『武公伝』には、熊本鍛冶屋町の養寿院で武蔵の位牌を見たとして、「新免武蔵藤原玄信二天道楽先生 神儀」という文字を記録している。神儀は霊位の一つで、尊儀・台霊・神儀などは皇族貴族諸侯の位牌にみられる。これは神仏習合の位牌であるが、しかし、東照大権現神儀などという事例からすれば、神儀も安くなった時代の代物である。位牌は後世作製のものが多いが、武蔵のケースでもそれは同じことで、現存の武蔵位牌なるものはすべて後世の作物である。
 それはともかく、いまの『峯均筆記』の伝説記事では、武蔵の法号は自称なのである。その武蔵臨終場面では、武蔵は仏僧引導によらず、彼岸への道を独行したかのごとくである。独悟独行、《武州ハ悟道ノ人也。何ゾ引導ニ及バンヤ》というのは、そのような英雄的臨終を荘厳する讃辞にほかならない。『峯均筆記』では、武蔵は最後の最後まで、常軌には律せられない不羈の人でなければならないのである。これが十分説話化が進んだ段階の伝説であることは言うまでもない。
 しかしながら、この和尚の引導の話に関しては、肥後系伝記では話が違っている。どちらかといえば、肥後系の方は、説話としてはまるで凡庸なものなのである。
 『武公伝』では、以前からの約束で、棺を泰勝寺の前杉馬場の内に運んできて据え、春山和尚が出迎えて引導した、この引導も武蔵の遺言だったという。『二天記』では、これもかねての約束で、泰勝寺の春山和尚が導師になって引導したことになっている。この二つの引導記事をみると、これはどうも葬式の話らしく、本来の臨終引導とは違うようである。
 しかもその引導の場所が、『武公伝』では泰勝寺の前杉馬場、『二天記』では弓削村となっていて、記事に相違がある。泰勝寺は細川家の菩提寺、現在は廃寺であるが立田自然公園(熊本市黒髪)に遺跡がある。それに対して弓削村は、武蔵塚公園の近所である。同じ肥後系伝記でも時代が違えば、引導の場所が違うのである。それに、肥後系伝記は「泰勝寺」と記すが、当時はまだ「泰勝院」の時代である。
 しかし、肥後系伝記では、どうもこの「春山和尚」が大活躍のようすである。彼は生前武蔵に、引導を頼まれるだけではなく、五輪書序文の推敲を頼まれるわ、はては伊織に小倉の碑文まで頼まれるわ、いろいろ武蔵のために働いたことになっている。そのため、肥後系伝記のこの春山和尚伝説を信じた近代の武蔵評伝は、「武蔵の親友、春山和尚」などと書いてしまうのである。
 では、春山和尚とはどういう人物か。彼は春山玄貞(1618〜73)、大淵玄弘の法嗣で泰勝院二世。武蔵死去時は二十八歳、世代的にいえば伊織より若い。それゆえ、武蔵とは親子以上に年齢差があるから、武蔵に引導を渡したというのはありえないという憶断もあるが、小坊主ならいざ知らず、二十八歳の禅僧なら十分立派に人を引導できる年齢である。年齢差だけでは、春山玄貞の引導を否定することは出来ない。
 それよりも、当時の泰勝院の住持は、春山玄貞ではなく、彼の師匠・大淵玄弘(1588〜1653)だったことだ。大淵玄弘は若年のころから諸方に参学、丹後曹渓山大泉寺開山の琢堂宗圭の法嗣で、大泉寺三世。その後京都の妙心寺で一三九世住持をつとめ(1636〜37)、そして寛永十九年(1642)、細川光尚の招きに応じて肥後へ、細川家菩提寺泰勝院の開山となった。大淵が細川家菩提寺の開山となったのは、丹後と京都の人脈による縁である。
 そうしてみれば、臨終引導のことは別にして、武蔵の葬儀の導師をつとめたのは、春山玄貞ではなく大淵玄弘だろうという推測が成り立つ。大淵玄弘は、武蔵より四歳ばかり年下で、まず同世代の人でもある。
 この推測を支持するのが、葬儀の後、宮本伊織が長岡監物是季との間で交わした往復書簡である。そのうち、監物に宛てた五月二十九日付宮本伊織書状がある(長岡監物宛宮本伊織書状写・小倉宮本家蔵)。これによれば、《於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行》とあるごとく、武蔵の葬儀法事は泰勝院で、大渕和尚が執行したのである。
 泰勝院は新設の細川家菩提寺である。そんな場所で武蔵の葬式をやったのだから、細川家では武蔵は下にもおかぬ扱いである。察するに、豊前の小笠原忠政への顔向けもあっただろう。主君の細川光尚はちょうど出府の時期で江戸へ行っていたが、すでに事前に葬儀計画が決まっていたらしく、長岡監物の書状を見るに、これは主君肝いりの葬儀であり、家中総出で盛大にやったものらしい。
 ともかく、肥後系伝記には大淵玄弘の名はなく、あるのは春山和尚の名である。武蔵が肥後に来て参学したのも、大淵玄弘ではなく「泰勝寺の住持」春山和尚なのである。むろん春山はまだ「泰勝寺の住持」になっていないし、泰勝寺の名も当時まだ「泰勝院」である。したがって、葬儀において大淵玄弘を春山に取り違えたのは、肥後系武蔵伝記の情報がオリジナルのものをもたず、後世の伝説をもとにしていることを示す。
 これは、言い伝えが不確かというよりも、もっと積極的な春山和尚伝説というべきものである。つまり、この春山和尚の記事は肥後系伝記が春山に対し特殊な関心をもったことを示す以外のものではない。それゆえ、宮本伊織から小倉の碑文を依頼され、春山がそれを撰したということも含めて、いうならば肥後系伝説特有の春山和尚伝説なのである。
 そもそも五輪書の記述を読めばわかるように、かりに大淵玄弘であろうが、武蔵が禅に参学したとは思えない。語彙が違うのである。禅というより宋儒の影響が強い。武蔵が晩年禅に入れこんでいたという痕跡はない。したがって、「武蔵の親友、春山和尚」説のもとになった肥後系伝記の記事は、明らかに後世の伝説なのである。
 現在泰勝院(泰勝寺)跡には、「伝」武蔵供養塔と春山和尚墓の卵塔が隣り合わせに仲良く並んでいる。「武蔵の親友、春山和尚」説が後世の伝説だとすれば、これも奇妙な光景である。なるほど、伝説は物質化されるものである。
 話を戻せば、『峯均筆記』の説話もまた伝説である。武蔵は熊本近郊の村で臨終を迎えたのではないし、引導を頼んで和尚に断わられたのでもない。肥後系伝記の春山和尚伝説の実相を知れば、この「和尚」を春山和尚とする根拠もない。ただ、『峯均筆記』の伝説が、肥後系伝説と違っているとすれば、それは『峯均筆記』の伝説の方が説話として面白く出来ているということなのである。  Go Back





















小倉碑文上部

*【兵法先師伝記】
《行年六十二歳。肥後侯ノ宰臣以下諸役人來リツドヒテ、弔禮アツシ。太守ノ命ニ依テ岩戸山ニ葬ル。右石碑名號、天仰實相圓満兵法逝去不絶二天道樂居士》








泰勝寺跡 引導石

*【武公伝】
《兼テノ約束ニテ、泰勝寺ノ前杉馬場ノ内ニ棺ヲ舁居ヘ、春山和尚出迎テ引導也。皆是遺言ニ因テ也》

*【二天記】
《兼テ約ナレバ、泰勝寺春山和尚導師ニテ、飽田郡五町手永弓削村ノ地ニ葬ス。規式尤モ夥シ。春山和尚ノ引導終ルト齊シク、一天晴レタルニ、雷聲一ツアリ。諸士ノ下部〔しもべ〕ドモ驚キ、葬場大ニ騒動スト云ヘリ》



泰勝寺跡 細川家四つ御廟

*【武公伝】
《老年ニ及肥後ニ來テ、泰勝寺春山和尚ニ參学シテ道號ヲ二天道樂ト云》
《武公、平居閑静シテ毎ニ泰勝寺ノ住持春山和尚ニ參禅シ、連歌或ハ書畫小細工等ヲ仕テ、日月ヲ過了ス》
《武公ノ石碑豐前小倉ノ城下ニ在。春山ノ作、左ニ記》
《其后、承應三天[甲午]四月十九日、宮本伊織ノ碑ヲ立此。碑銘肥後國泰勝寺住持春山和尚書之。前出》
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ推黄〔推敲〕ヲ乞フ。春山、コレニハ斧鑿ヲ加フル寸〔時〕ハ却テ其素意ヲ失ン事ヲ愁テ、更ニ文躰法度ニ不拘、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換、且ツ義理ノ近似ナル古語ヲ引用テ潤色之ト也》

*【二天記】
《老年ニ及ビ肥後ニ來リ居住セリ。立田山泰勝寺二世之僧春山和尚ニ縁リ、道號ヲ二天道樂ト號ス》
《右泰勝寺住持、春山禅衲書之》
《其後承應二年四月伊織石碑ヲ建テ、其ノ銘ヲ春山和尚ニ請フ》


*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候。此段乍恐、至江戸岩間六兵衛方江、以書状申上候。乍慮外、弥従貴殿様も可然様被仰上可被下候。随而書中之印迄、胡桃一箱并鰹節一箱弐百入致進上候。恐惶謹言》(5月29日付)



泰勝寺跡 伝武蔵供養塔と春山卵塔
 
 (4)廟所、肥後□□ニ塔ヲ建テ、武藏塚ト云
 ここは武蔵墓所の記事である。まず、武蔵の肥後の廟所については、いわゆる武蔵塚のことを記す。本書写本には、「肥後ニ塔ヲ建テ」として、肥後のどこそこという地名がない。ただし三宅長春軒本では、「肥後」という文字の後が、約二字分空白になっている。空白にしているところをみれば、写本作成の書写段階で読み取れなかった文字があったのであろうか。
 ともあれ、この場所に塔を建て「武蔵塚」と云う、とあるから、これは肥後系伝記と照合しうる。――と思ったが、実は、肥後系伝記『武公伝』『二天記』には「武蔵塚」という名がみえない。とすれば、この「武蔵塚」という名は当初からあったのではなく、後にできたものらしい。それを『峯均筆記』は取り込んでいるわけである。
 ところがさらに面白いことに、肥後系伝記の葬地記事には相違があることである。『武公伝』では「飽田郡小江村」、『二天記』では「飽田郡五町手永弓削村」となっている。飽田郡弓削村は確認できるが、『武公伝』のいう小江村は飽田〔あきた〕郡には確認できない。
 「小江村」と類似互換性のある地名といえば、一般に「大江村」であるが、近辺の大江村は託麻郡の村であって、飽田郡ではない。「飽田郡小江村」は託麻郡大江村の誤伝か。託麻郡大江村だとすれば、もっと熊本城下に近くなる。武蔵が引っ込んでいたという、上記寄之書状にある「熊本より程近在郷」に相当しそうな場所である。また、『峯均筆記』が譬えた福岡城下春吉村に立地環境も類似する。――などと、さまざま推測の展開されるところであるが、ともあれ、この「小江村」の特定と、『武公伝』『二天記』両者の葬地記事の相違について、この件は『武公伝』読解研究において別途述べられるであろう。
 ところで現在、武蔵塚というのは、「武蔵塚公園」として整備されている場所にある(現・熊本市龍田弓削一丁目)。弓削村は合志郡の村であるから、これは該当しないが、『二天記』にいう飽田郡弓削村とは、飽田郡上立田村内にあった枝村でろう。
 肥後ご当地の伝説を聞けば、武蔵塚は当初の墓ではない。武蔵養子の宮本伊織が武蔵の墓を豊前小倉に移すとき、地元では武蔵に肥後の細川家を見守ってもらいたいと、大津往還の傍らの現在地に、武蔵の遺骨を分骨して墓を建てた、それが武蔵塚だという。
 しかるに、『武公伝』『二天記』両者の葬地記事には、こういうその後の移転記事はない。それにしても、肥後系伝記の葬地記事には相違があって、もともと武蔵葬地は画定しないのである。したがって、少しでも他の情報があればよいのだが、それだけに、『峯均筆記』写本の《肥後□□ニ塔ヲ建テ、武藏塚ト云》とある欠字空白部分が惜しまれるのである。
 『峯均筆記』には、武士から農夫に至るまで、武蔵塚の前では、今も下馬するという、という伝聞を記録している。地元の人々にうやまわれたということらしい。そういうこともあってか、肥後系伝記には、作家たちが好んで採り上げて有名になった例の武蔵入棺伝説がある。つまり、
  《卒去ノ時遺言之通、甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也》(武公伝)
  《武藏遺言ニマカセ、甲冑ヲ帯シ六具ヲ固メテ入棺也》(二天記)
というわけで、武蔵の遺言があって、遺骸は甲冑六具に身を固めて入棺、というこれまた出来すぎた話になっている。武蔵は、報恩のためかどうか知らぬが、死して熊本城の守護神たるべしと、武装して埋葬されたというわけだ。しかし、甲冑六具に身を固めて入棺というのは土葬のケース。武蔵が火葬されていたら、そんなわけにはいかない。これは、熊本城下へ入る往還を扼する場所に武蔵塚を設置したということで、鬼門の守護神というイメージから生じた伝説であろう。
 肥後系伝記はこういうマッチョでナイーヴな説話が好みのようで、それは、武蔵の死因病名に関心を抱いたりする『峯均筆記』とは傾向がちがっている。ただし、『兵法先師伝記』では、太守(細川光尚)の命によって岩戸山に葬る、とあって、いわば岩戸観音を武蔵聖地にしたがる伝説傾向を示している。十八世紀中期には、五輪書で有名な岩戸山が武蔵の葬地だとする伝説が生じていたようである。
 『峯均筆記』は武蔵塚のことを記した後、小倉の武蔵碑に言及する。その後、伊織が、豊前小倉の内、赤坂という所に塔を建て、石碑を顕した、とある。その場所について、企救郡と記しているから、これは企救〔きく〕郡赤坂村である。
 伊織知行領地の内、立山の由、とある立山〔たてやま〕というのは、燃料や建材確保のための保安林、建山・留山ともいう。何万坪という山地を、知行地の田地とは別に、重臣らが拝領したのである。小倉のことになると、『峯均筆記』はなかなか詳しい。この山は現在、手向山公園として整備されている(現・北九州市小倉北区赤坂)。
 この記事のうち、「赤坂という所に塔を建て、石碑を顕した」とある部分、この「塔」は武蔵の墓塔であり、「石碑」はいわゆる小倉碑文の武蔵顕彰碑であろう。すると、「塔」と「石碑」は別のものである。『先師伝記』の丹羽信英は、若年の頃、武蔵百年忌に参詣し、その後もたびたびこの赤坂山(手向山)に參ったようで、「頂上に先師の墓あり」との証言を残している。しかし、武蔵顕彰碑以外に墓碑もないから、『峯均筆記』のいう「塔」が不明である。
 それゆえ、山頂にある手向山武蔵顕彰碑こそが、その「先師の墓」ではあろう。というのも、碑文には、「播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑」とタイトルがあり、脇に「正保二乙酉暦五月十九日於肥後國熊本卒」と墓誌記事があるからである。とすれば、尋常の墓とはずいぶん変ってはいるけれど、人々がこれを武蔵の墓と解するのも当然で、さしあたっては、武蔵顕彰碑=墓碑としておくのが妥当であろう。
 肥後系伝記では、武蔵が肥後へ移る前、小倉城外の山に寿蔵を建てて、遺跡を残してきたという。「寿蔵」というのは、生前に建てる自分の墓のことである。すると、ずいぶん用意のよいことではあるが、武蔵の墓はすでに生前からあったということになる。肥後を命終の場所にするといえば、養子の宮本伊織はむろん、小笠原忠政も承知はしない。そこで武蔵は、小倉に自分の墓を建てて肥後へやってきたというのが、この話の設定する背景であろう。
 それで、肥後系伝記は、その後伊織がそこに碑を建てたとするのだが、それは、武蔵が建てた寿蔵を廃して建碑するというわけではない。武蔵が建てた寿蔵と伊織が建てた武蔵碑が並存したはずである。しかしながら、武蔵が肥後へ移る前、小倉城外の山に寿蔵を建てて、遺跡を残してきたという、この肥後系伝記の話も確証がない。豊前小倉サイドに傍証資料があるわけではない。これは肥後で発生した伝説であろう。
 すでにみたように、武蔵はもともと、肥後を命終の地にしようとして彼地へ行ったのではない。武蔵は客として肥後に滞在したにすぎない。結果として当地で客死するが、武蔵にその「予定」があったわけではない。それゆえ、肥後に武蔵の墓が設置されたというのも、武蔵の遺志ではあるまいが、細川家では武蔵の葬式を執行した上に、墓所まで建設しようとしたらしい(正保二年五月二十九日付長岡監物宛宮本伊織書状写)。
 『先師伝記』の丹羽信英は、小倉赤坂山の墓は、宮本家としては肥後では墓参に不便だから肥後から移した、という話を伝える。もとより遺骸を引きとるのだから、それはそれは大ごとだったそうな、というわけである。遺骸を引きとったとなると、これが本墓である。
 十八歳の丹羽信英は、延享元年(1744)の武蔵百回忌に際し、親友の江角利助武就と一緒に、無断で国外へ出て豊前小倉へ行ったようである。赤坂山で、当時の小倉宮本家嫡子・仲之助と知り合って、武蔵の法要に演武を頼まれたりしたようだが、この武蔵墓移転の話は、丹羽信英が聞いた小倉宮本家の伝説であろう。
 むろん、早期に武蔵の墓は小倉に設置されていたのである。宮本伊織が赤坂山に巨大な武蔵記念碑=墓碑を建てたのは、武蔵十回忌記念事業としてである。武蔵は肥後で「客死」しただけであり、また武蔵養子伊織の宮本家というものが小倉にある以上、結局武蔵の墓は小倉に設置されるのである。
 それゆえ、武蔵の墓は本来肥後から失せたはずだが、後世武蔵流兵法末孫により流祖武蔵を記念する建碑があったのち、それが武蔵の墓と誤って伝承されるようになった、というのが実際の経緯であろう。少なくとも『武公伝』はじめ肥後の武蔵伝記においてさえ、武蔵の墓所が定まらぬのは、そのためである。現在肥後には武蔵の墓が数ヶ所あるが、それらはどれもさらに後世の記念碑建立によるものである。
 興味深いことに、小倉では武蔵の遺骸を引取ったというし、熊本では、いや小倉のは義墓で、武蔵の真墓は武蔵塚にあるとする。いづれにしても後世の議論に過ぎないが、その原因は武蔵自身にある。おそらく武蔵は、「おれには墓なんぞ造るな」といった人だったのである。それでも、宮本伊織をはじめ後人が、墓ならぬ、武蔵のモニュメントを建ててしまう。そのような次第なので、武蔵の「墓」はすでに早期から伝説化されて、諸処複数存在するようになったのである。  Go Back

福岡市総合図書館蔵
(赤枠)文字空白部分 長春軒本



武蔵塚 熊本市龍田弓削

*【武公伝】
《正保二天[乙酉]五月十九日、熊本千葉城ノ宅ニ病卒ス。卒去ノ前、病中寄之公ニ被申上ハ、私死候ハヾ、御家來弟子ノ内ニ、有馬ニテ手ニ會ソロ〔候〕者ヲ、附置セ被下候樣ニトノ事故、病中ヨリ中西孫之亟[宗昌]被附置、卒去ノ時遺言之通、甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也。飽田郡小江村地ニ葬ス。兼テノ約束ニテ、泰勝寺ノ前杉馬場ノ内ニ棺ヲ舁居〔据〕ヘ、春山和尚出迎テ引導也。皆是遺言ニ因テ也》

*【二天記】
《同五月十九日千葉城ノ宅ニテ病卒ス。歳六十二。武藏遺言ニマカセ、甲冑ヲ帯シ六具ヲ固メテ入棺也。兼テ約ナレバ、泰勝寺春山和尚導師ニテ、飽田郡五町手永弓削村ノ地ニ葬ス。規式尤モ夥シ。春山和尚ノ引導終ルト齊シク、一天晴レタルニ、雷聲一ツアリ。諸士ノ下部〔しもべ〕ドモ驚キ、葬場大ニ騒動スト云ヘリ》

*【兵法先師伝記】
《病弥重リテ、遂ニ五月十九日卒去セラル。臨終ニ、起テ帯ヲシメ、脇差ヲ帯シ片膝ヲ立、刀ヲ左ニ杖ニ突テ終ラレケルトゾ。行年六十二歳。肥後侯ノ宰臣以下諸役人來リツドヒテ、弔禮アツシ。太守ノ命ニ依テ岩戸山ニ葬ル。右石碑名號、天仰實相圓満兵法逝去不絶二天道樂居士》



小倉武蔵碑
北九州市小倉北区赤坂




*【武公伝】
《寛永十七年[庚辰]之春、武公忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ來[五十七歳]。其時小倉城外山上ニ壽藏ヲ営ミ、蹤ヲ遺シテ、肥後ニ赴ク。(其后、承應三天[甲午]四月十九日、宮本伊織ノ碑ヲ立此。碑銘肥後國泰勝寺住持春山和尚書之。前出)》

*【二天記】
《同十七年ノ春、忠利公ノ召ニ因テ肥後ニ來ル。于時五十九歳ナリ。小倉ヨリ肥後ニ來ル時、城外ノ山ニ壽藏ヲ建テ、跡ヲ残シテ、肥後ニ來ル。其後承應二年(三年の誤)四月伊織石碑ヲ建テ、其ノ銘ヲ春山和尚ニ請フ。此ノ書ノ書奥ニ出ス》


*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候》(5月29日付)

*【兵法先師伝記】
《小笠原侯ノ宰臣宮本主馬、始ハ肥後國ノ先師ノ墓ニ祭時、代參ヲ以祭リシガ、國ヲ隔テハ常ニ心ニ不任事多シトテ、主君ニ願テ、先師ノ墓ヲ我領地、小倉ノ近所赤坂山ト云ニ引。本ヨリ遺骸ヲ引事ナレバ、其事甚ダ重事ナリシトゾ。予モ未若輩ノ比、先師ノ百年忌ニ當リシカバ、親友江角利助武就ト忍テハル/\參リ詣デタリシニ、其比ハ、宮本伊織ト号シ、嫡子仲之助ト云シガ、父子共ニ赤坂山ニ詣デ居テ、其親類縁者ニヤ、大勢參詣、山下ニ駕籠三挺、乗馬五疋繋ツヽ、折節塔ノ前ニテ衆僧勤經最中ナリ。僧廿六人厳重ナル法會ナリシ。予ト江角武就トニ、今夜ハ伊織ガ宅ニ一宿セヨトノ事ナリシガ、我國法、他國ニ出ル事禁制ナレバ、忍テ來リシ故、直ニ筑前木屋瀬迄引取ル事ヲ云テ、帰ラントセシニ、仲之助出合テ、遠路參詣セシ謝礼ヲ述ベ、別業ニ誘引シテ掛合ヲ出シ、於墓前為追善兵法ヲ一返ツカヘヨトノ事故、幸ニシテ江角ト表ヲツカフニ、皆左右ニ列居シ、其間、和尚衆僧ヲ卒テ勤經有リ。兵法濟テ燒香スレバ、和尚又燒香セラレ、仲之助燒香ス。其場ニ暇乞シテ帰リケル。其後、予ハ大守ノ供奉ヲシテ度々此赤坂山ノ下ヲ通ル故、拜參セシ事數度ナリケル》
《右赤阪山、小倉城下ヨリ一里半、内裏ヨリモ一里余有。此山ニ宮本主馬代々ノ墓有リ。丸キ象ノ山ニテ、大木茂リタルニ、道ハ山ヲメグリ頂上ニ登ル様ニ作リ、絶頂ニ先師ノ墓在リ。山ヲ下リ代々ノ墓ヲ築タリ》


 
  25 五巻の書、草案のまま
一 五巻ノ書、草案ノマヽニテ信正ニ授ケラレシ故、軸表紙ナシ。依之、後年相傳ノ書、其遺風ヲ以軸表紙ヲツケズ。(1)
 武州自筆ノ兵書、何等ノ訳ニテ公儀ヘ被召上候哉、御城へ上リ御天守ニ納ル。焼失ノ時、此書ニ不限、數多之珍寶珍器、焦土トナレリトカヤ。可惜可悲。(2)
一 五巻の書は、草案のままで信正〔寺尾孫之丞〕に授けられたために、軸も表紙もない。これにより、後年、(我が流派の)相伝の書は、その遺風を保って軸表紙を付けない。
 武州自筆の兵書は、どういういきさつで公儀〔幕府〕へ召上げられたのか(不明だが)、御城〔江戸城〕へ上り御天守に納められた。(江戸城天守)焼失の時、この書に限らず、数多くの珍宝珍器が焦土となったそうな。惜むべし、悲しむべし。

  【評 注】
 
 (1)五巻ノ書、草案ノマヽニテ
 この「五巻ノ書」はいわゆる五輪書のことである。先には、「兵書五巻」「五巻之書」ともあった。ここでは、武蔵が書いたその五輪書原本に関する言い伝えが記されている。
 ここで五輪書研究において看過できないのは、五巻ノ書は「草案」のまま寺尾孫之丞に授けられたということ。つまり、通例、武蔵は五輪書を書き上げて死んだ、ということになっているが、『峯均筆記』のこの記事によれば、そうではなかったと知れる。
 これは、前出のように、清書なきうちに病が生じた、とある記事と符合する。つまり、武蔵が残した五輪書原本はまだ草稿段階であり、完成稿に至る前に武蔵は発病し、そして死んだのである。
 これをすでに見た武蔵の動静と照合してみると、武蔵は死の前年の寛永二十一年に発病。つまり、「清書なきうちに病が生じた」のは死の前年である。そのとき武蔵は熊本から程近い村に住んでいて、医者が派遣され治療にあたった。それでも病状が悪化するため、熊本市中で治療させようと、長岡興長寄之父子が呼び戻そうとしたが、武蔵は同意せず、細川光尚まで武蔵に熊本へ戻るように呼びかけた。そして、ようやく十一月半ばに熊本へ連れ戻されたのである。
 半年後、武蔵は死亡するが、五輪書の日付をみるに、相伝があったのは、死の直前、七日前の五月十二日。このとき、『峯均筆記』の伝説は、《病臥起居不安ユヘ、年号月日ハ所ノ庄屋ニカヽセ、枕ヲアゲテ判形アリテ、寺尾信正ニ授ラル》と語る。この場面は「所ノ庄屋」が出てきて信用を失墜していることは上述の通りであるが、臨終相伝印可はよくあることで、それ自体は異とするにあたらない。
 ところで、《五巻ノ書、草案ノマヽニテ信正ニ授ケラレシ》である。五輪書原本は草案のまま相伝された、つまり五輪書原本は未完成原稿であり、それが寺尾孫之丞に授与された、ということである。
 『兵法先師伝記』でも、その書(兵書五卷)はまだ書き改められず、美濃紙に書き置かれていたが、病が重くなって、武蔵はそれを書き改めることができず、そのまま信正に譲られた、と記している。つまり、武蔵の著書、兵書五卷は改稿が予定されていた未完成原稿で、重症に陥った武蔵は、それを改稿することはできず、結局、草稿のままを信正に、遺稿として贈与したということである。
 じっさい、五輪書テクストをみると、かなりの段階まで出来上がっているが、それでも随所に草稿段階であることをうかがわせる部分がある。五輪書という文書は、もともと草稿断片の集成なのである。この点については、本サイト[資料篇]「武蔵の五輪書を読む」において、全文にわたって逐条分析されているので、そちらを参照されたい。
 このように、五輪書は未完成だったという話は、筑前系伝記のみが伝える情報である。『武公伝』以下の肥後系伝記にもない。五輪書テクストを綿密に読めば、草案だったということは隨所に確認できることであり、それゆえ、この『峯均筆記』(そして『兵法先師伝記』)の記事は納得できる話である。この臨終相伝場面に関するかぎり、日付が異筆だったという点とともに、『峯均筆記』の記事は正確な情報を伝える唯一のものである。
 さらに『峯均筆記』には、軸表紙なし、という情報がある。武蔵遺贈の五巻の書には、軸も表紙もなかったというわけである、つまり、五輪書として今日知られる兵書は、軸装した巻物でも表紙のついた冊子でもなかった。それはまったくの草稿の状態であった。
 それゆえ、『峯均筆記』の筑前系武蔵流では、五巻の書を相伝したが、その体裁は軸も表紙もつけないことにしている、というのである。その理由は、もともと武蔵から寺尾孫之丞へ託されたのが草案のままの生原稿であったから、その形式体裁まで遺風として伝えるというわけである。
 この記事の云わんとするところは、現存吉田家本五輪書(九州大学蔵)はじめ筑前二天流系統の五輪書の体裁で確認できる。また、筑前から越後へ伝播した道統においても、この軸装のない書巻の様式で伝えている。
 たしかに肥後系の五輪書写本は、麗々美々しく軸表紙をつけたものである。『峯均筆記』の筆者は、そういう武蔵余流のファッションを見知っていたのか、わざわざこう書いたのである。余流は、五巻之書の本来の姿を知らない、本来の姿を伝えているのは我が二天流のみである、と。つまり、武蔵が寺尾孫之丞に託した形式を、我々は正確に踏襲しているのだ、という言挙げである。ここには、武蔵の正系は我らが系統にのみあり、との自負がうかがえる。
 次に、ここで問題として指摘すべきは、現存五輪書写本では、地水火風空各巻に署名あり、また年月日や寺尾孫之丞宛の文字があることだ。もちろん年月日や寺尾孫之丞宛の文字もある。しかし、もし草案のまま与えられたとすれば、地水火風空各巻に署名あり、また年月日や寺尾孫之丞宛の文字があるのは、奇妙なことである。
 これは、原本にはなかった体裁であろう。おそらく空之巻の奥付にのみ、署名・印形、年月日、そして寺尾孫之丞宛の文字があったのであろう。とすれば、現存写本の体裁をどう考えるか。








*【丹治峯均筆記】
《寛永二十年、武州六十歳、肥ノ後州岩戸山ニ登リ、觀世音菩薩ヲ拜シ、佛前ニ於テ、天道ト觀世音ヲ鏡トシテ、十月十日ノ寅ノ一天ニ筆ヲ執テ、兵書五巻ヲ記サル。地水火風空ト号ス。清書ナキ内ニ病生ズ》
五巻之書、同年同月十二日ノ日付也。病ニ臥、起居不安故ニ、年号月日ハ所ノ庄屋ニカヽセ、枕ヲアゲテ、判形アリテ、寺尾信正ニ授ラル》








*【兵法先師伝記】
《病頻リニ重ケレバ、正保二年五月十二日、書置ルヽ兵書五卷寺尾孫之亟信正ニ與ヘラレ、三箇ノ大事ヲ傳ヘラル。其書イマダ改メ書レズ、美濃紙ニ書置レシカ共、病重リテ改メ書ル丶事不能、其侭信正ニ譲ラレケル。兵法至極シテ道統ノ傳ヲ受シハ、信正只一人ナリ》







九州大学蔵
吉田家本五輪書




永青文庫蔵
軸装巻物の例 細川家本五輪書
宮本武蔵伊織顕彰会蔵
楠家本五輪書地の巻巻末
寺尾から槙島へ、正保年月日付なし

永青文庫蔵
細川家本五輪書地の巻巻末
武蔵から寺尾へ、正保年月日付あり

九州大学蔵
吉田家本五輪書地の巻巻末
武蔵から寺尾、柴任から吉田へ

 現存写本のこの体裁はどういう背景を反映しているのか。写本のこの体裁をみると、推測するに、寺尾孫之丞からその弟子に相伝する段階で、五巻一度にではなく、門弟の修行上達をみながら地水火風空の各巻を時間を追って相伝する風が生じたものらしい。それゆえ、各巻それぞれすべてが、武蔵署名をもち、写本によっては、年月日と寺尾宛の文字が記されるようになったのであろう。
 したがって、現存写本のすべてにおいて各巻著名があるのは、原本の状態、つまり草案のままではなく、寺尾孫之丞からその弟子に相伝する段階での体裁を反映しているのである。つまり、我々は編集された五輪書しか見ることができないわけである。
 ところで、もう一つだけ、ここで注意しておきたいことがある。五輪書が草案のまま寺尾孫之丞に与えられたということは、地水火風空の五巻が草案だったということで、五巻が完備しないということではない。たとえば、地水火風の四巻はあったが、最後の空之巻を欠いていた状態だということを意味しない。
 ところが、この点で興味深いのは、志方半兵衛『兵法二天一流相傳記』(寛保二年・1742)に、《五巻[序地水火風]、是則一流の伝書なり》とあって、この割注に従えば、五輪書五巻は、序・地・水・火・風の諸巻であって、空之巻は存在しないのである。空之巻は存在せず、存在するのは「序」なのである。かくして、五輪書には「地水火風空」の五巻ではなく、「序地水火風」五巻というヴァージョンが存在したのである。
 この志方半兵衛之経は、寺尾求馬助の孫にあたる人物で、父の寺尾藤次玄高は兵法師範をつとめた人らしい。したがって、求馬助系統の正系の一つであろうが、すでにこの世代では五巻之書の構成が違ってしまっていたのである。それゆえこの流派は、空之巻を欠いたまま嗣資相伝したものらしいが、これが寺尾求馬助→寺尾藤次→志方半兵衛の系統に限ったことであったかどうか、それは不明である。この点は今後の五輪書研究の宿題である。
 もとより、五輪書は最初から地水火風空の五巻だったことを証言する史料はある。その第一は五輪書の本文であることは云うまでもないが、この点につき、寺尾孫之丞の文も残っているのである。寺尾孫之丞が柴任三左衛門に出した相伝証文(吉田家本空之卷)がそれである。
 そこには、《令伝受地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候》とある。つまり、地水火風空の五巻を伝授せしめる、これは~免玄信公、つまり宮本武蔵が自分に相伝したもの、それを写して、柴任三左衛門に進呈するというのである。五巻とは地水火風空の五巻である。これ以上の証言はない。
 寺尾孫之丞が柴任三左衛門に出した相伝証文(承応二年十月二日付)には、注目すべき文言がある。それは、「空之巻は、武蔵がながく病気だったので、所存のほどを明かされなかった」という部分である。つまり、寺尾孫之丞は五輪書最終巻・「空之巻」の所存を、つまり武蔵の考えを聞かされていないのである。
 しかるに、寺尾孫之丞は云う、「しかし私は、四冊の書(地水火風の4巻)の理を明らかに得道して、道理を離れたので、おのづから空の道に適った」と。一般には、最終の理を知らされずには相伝とは云えない。したがって、これはかなり興味深い相伝形態である。
 武蔵は空之巻の理を空白のまま残した。武蔵の遺志は、その空白としての空の意を自分で埋めてみろということだったと、寺尾孫之丞は理解したのである。しかも、その空白を埋めるのは、道理を離れることが空の道に相応することだと思い至った。地之巻には《すでに空という時は、何を「奥」と云い何を「入口」と云うのか、そんな区別などありはしない。道理を得てしまえば、道理を離れ自由になる》と述べられていたのである。
 道理を離れること――これは、武蔵が残した空白に対する寺尾孫之丞の解答である。そして寺尾孫之丞は、その弟子たちに、お前はこの空白をどう埋めるか、という問いを残す。寺尾の弟子は、自分はこう思い至ったと解答を記す。以下、同じ――。
 というわけで、おのおの自分の空意を表明するこの相伝方式は、武蔵に発するのではなく、寺尾孫之丞に発するものである。武蔵はたまたま、病のため、空之巻の理を寺尾孫之丞に明かさずに死んだにすぎない。しかし空之巻の理とは「空」にほかならぬことは、空之巻の内容が示すところである。それゆえ、空之巻の理を寺尾孫之丞に明かさずに死んだのは、まさに武蔵的な振舞いと思われる。
 しかるに、《就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ所存之程あらはされず候》とある部分を、何をどう勘違いしたのか、空之巻は存在しなかったと錯覚する者もある。これは、その直前に《令伝受地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所》とある以上、寺尾孫之丞は確かに地水火風空之五巻を相伝したのである。空之巻は存在しなかったのではなく、最初から確かに存在した。ただ、武蔵がながく病気だったので、空之巻については、玄信公武蔵はその所存のほどを明かされなかった、ようするに、自分は武蔵の考えを聞かされていない、というまことに正直な寺尾孫之丞の弁明なのである。
 ともあれ、寺尾孫之丞の残したこの相伝証文を含む伝書を有した『峯均筆記』の伝系は、現在までのところ最も確かな相伝経路を示す。この意味で、草案のまま、という『峯均筆記』のこの記事は、五輪書研究において重要な意義を有するであろう。少なくとも、この五輪書への言及記事において、『峯均筆記』は他の武蔵伝記に対して比類なきステイタスを有する。これは改めて確認されるべき要点である。  Go Back
個人蔵
丸岡家本五輪書地の巻巻末
武蔵識日付のみ、宛先なし



*【兵法二天一流相傳記】
《六十歳の頃、兵法得道書を、当国城西の霊岩洞にて書顕。五巻[序地水火風]、是則一流の伝書なり》


*【寺尾家略系図】

○寺尾佐助 勝正 ─────┐
 ┌───────────┘
 ├九郎左衛門 喜内
 |
 ├孫之丞 信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛─┐
 ┌───────────┘
 ├佐助 信形 ―助左衛門 勝春
 |
 ├新助 信景
 |
 ├藤次 兵法師範之経
 │        志方半兵衛
 |
 ├弁助 信盛 後改新免 兵法師範
 |
 ├加賀助 勝明
 |
 └郷右衛門 勝行 兵法師範



九州大学蔵
寺尾孫之丞相伝証文 部分
吉田家本五輪書

*【寺尾孫之丞相伝証文】
令伝受地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候。就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ所存之程あらはされず候。然ども四冊之書の理あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に到候。只兵法はおのづからの道にまかせ、しづか成所うごかざる所に自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶、是は玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を可有鍛錬也。以上
  承応二年十月二日 寺尾孫丞信正
                    在判

 
 (2)武州自筆ノ兵書
 かつて五輪書は寺尾孫之丞の創作だという珍説が生じ、またこれに追随する亜流も出たことがあった。それも、昭和までしばらく細川家本五輪書が武蔵自筆と信じられてきた事態への単なる反動であった。そんな珍説も、そもそも武蔵自筆の五輪書原本が現存しないということから出てきたわけである。
 ここで『峯均筆記』の記事は、「武州自筆ノ兵書」というものに関してのことである。その武蔵自筆兵書が、公儀へ召上げられたとある。この「公儀」というのは、徳川将軍と解してもよいが、ここは幕府、幕閣としておく。どういういきさつで公儀へ召上げられたのだろうか、とあるから、いきさつは不明であるという話である。
 この自筆兵書は御城へ上り、御天守に納められたという。さきに「公儀」とある文脈からすれば、この御城は江戸城である。武蔵自筆の兵書は、江戸城天守へ収蔵されたというわけである。
 さて、焼失というというから、これは江戸城天守の火災、おそらく話は、明暦三年(1657)のいわゆる振袖火事を指すもののようである。ちなみに、江戸城天守閣はこの振袖火事で焼失し、その後再建されなかったので、江戸城は天守閣をもたない城郭となった。時代劇などで、元禄以後の時代だというのに、しばしば江戸城天守が背景に出現するが、それはフィクション映像である。
 この武蔵自筆兵書は、数多くの珍宝珍器とともに焼失したそうな。惜むべし、悲しむべし――というわけであるが、これは『峯均筆記』の筆者が伝え聞いた「武州自筆ノ兵書」に関する伝説である。
 ところで、この「武州自筆ノ兵書」というものが何を指すのか、それが問題である。通例一般には、これを武蔵自筆の五輪書のことだと解釈している。それはそれでもよかろうが、我々の武蔵研究では、話はもう少し先へ進んでいる。
 かつてあった細川家本五輪書武蔵自筆説は論外としても、それ以後は、『峯均筆記』のこの記事に依拠した、明暦三年五輪書原本焼失説が従来支配的で、それには疑義が呈されることがなかった。しかし、『峯均筆記』のこの記事を以って、明暦三年に五輪書原本が焼失した、とみなすことは可能か。この点を検証してみる必要がある。
 というのも、一つは明暦三年(1657)という年である。江戸城天守は明暦三年の火災以後結局再建されなかったから、『峯均筆記』にいう武蔵自筆兵書の焼失は、これ以後のことではない。そうしてみると、寺尾孫之丞が武蔵から授与された五巻之書自筆原本が、こんな時期に召上げられることがあるだろうか。
 現存写本によれば、吉田家本では、寺尾孫之丞が柴任三左衛門に相伝したのは承応二年(1653)である。これは明暦三年より四年前である。これに対し異本五輪書では、細川家本の山本源介宛奥書が寛文七年(1668)、また楠家本では槙島甚介宛奥書が翌寛文八年。これらは明暦三年の十一年〜十二年後である。寺尾孫之丞は武蔵から授与された五巻の書を書写して相伝門弟に与えたのだから、少なくとも寛文七、八年には原本はまだ手許にあったはずである。
    承応二年(1653) 吉田家本五輪書(寺尾孫之丞→柴任美矩)
    明暦三年(1657) 江戸城天守焼失
    寛文七年(1668) 細川家本五輪書(寺尾孫之丞→山本源介)
    寛文八年(1669) 楠家本五輪書(寺尾孫之丞→槙島甚介)
    寛文十二年(1672) 寺尾孫之丞歿
 しかし、それよりむしろ、五巻之書自筆原本は一流相伝の証拠物である。寺尾孫之丞が存命中に、それを献上するなどありうるだろうか。そんな大事な物を手放すとも思えない。もし召上げ献上があったとすれば、当人の没後でなければならない。寺尾の没年は、寛文十二年(1672)である。したがって、明暦三年以前に五巻之書自筆原本が献上されることもありそうにない。
 さらに問題は、そもそも五巻の書が草案のままだった、という『峯均筆記』の伝説である。そういう草案文書でも、宮本武蔵の遺書なら蒐集したいという兵法マニアな人物が幕府にありえないことではないとしても、これが公儀召上げとなると、よほど可能性がない事態である。
 それゆえ、ひとつの可能性は、この『峯均筆記』の武蔵自筆兵書焼失伝説が、じつは筑前系に五輪書原本が伝わらなかったという事実を説明するためにできた説話ではないか、ということ。つまり、寺尾から柴任へは五輪書原本が伝わらず、柴任が授与されたのは写本であった、という事実を、原本が公儀に召上げられ、しかも焼失してしまった、というドラマティックな出来事でカヴァーしたということである。
 これはどこかに(つまり肥後に)五輪書原本なるものが出ても、それは偽書だと主張しうるポジションの確保である。なにしろ、『峯均筆記』によれば、武蔵から一流相伝を受けたのは寺尾孫之丞一人だし、寺尾孫之丞から一流相伝を受けたのは柴任美矩ただ一人なのである。そこに五輪書原本が伝わっていないとすれば、それが喪失された理由を語る必要がある。それゆえ、五輪書原本は公儀に召上げられ江戸城へ収蔵されて、しかも焼失しなければならなかったのである。
 これに対し、もう一つの可能性は、武蔵自筆兵書召上げと焼失をいちおう事実と仮定した上で、そもそもこの「武州自筆ノ兵書」なるものが、五輪書原本とは別の兵書だったのではないか、ということ。
 この「武州自筆ノ兵書」を、『峯均筆記』のいう五巻之書あるいは五巻兵書と同一視できないのは、武蔵自筆原本は一流相伝の証拠物として寺尾孫之丞が保持していたはずだからである。また、五巻之書が草案のままだったとすれば、召上げられるはずもない。公儀献上の場合には美々しく表装されるものだが、『峯均筆記』の記事は逆にそんなことはなかったと明言している。
 要するに、『峯均筆記』の記事から、江戸城天守に収蔵されて焼失したという武蔵自筆兵書が、従来、五巻之書(五輪書)の原本と同一視されてきたのだが、必ずしもそうとは読めないのである。明暦三年以前に公儀に召上げられたことになる、この「武州自筆ノ兵書」は、『峯均筆記』には「兵書」とあっても「五巻」の書とは記されていない。そうすると、これは五巻之書のことではなさそうである。
 とすれば、「武州自筆ノ兵書」は、五巻之書自筆原本とは別のものであったということになる。では、「武州自筆ノ兵書」とはいかなるものか。
 ここで推測しうるのは、「武州自筆ノ兵書」が、かの兵法三十九箇条(三十五箇条)のような比較的短い兵書だったのではないか、ということである。しかし、この推測にも決定的な難点がある。
 というのも、五輪書に明確に記されているように、武蔵が兵書を書いたのは、五輪書がはじめてなのである。それ以前には、講義のような形での口頭の教説はあっただろうが、書物に書いたのは五輪書が最初である。
 したがって、肥後系伝記に、武蔵が寛永十八年に細川忠利の求めに応じて提出したという伝説がある「兵法ノ書三十九箇条(三十五箇条)」とは、ようするに後世の仮託文書であり、偽書なのである。
 とすれば、公儀に召上げられ、その後焼失した兵書とは、やはり五巻の兵書、五輪書以外には該当するものがないのである。
 だいたい、公儀が物を召上げるのは大名からである。召上げといっても、大名が老中を通じて公儀に献上する形である。とすれば、細川忠利と武蔵の二人とも死んで後、公儀がこれを要望したので、細川家が献上し、江戸城天守へ収蔵され、そうして明暦の振袖火事のときに焼亡した、ということになる。しかし、上述の如く、事実関係からして、これはありえないことである。

 ともあれ以上は、『峯均筆記』の伝説を「事実」と仮定すればどうか、それを検証してみたまでのことである。しかしながら、この『峯均筆記』の記述部分によって、武蔵自筆の兵書が江戸城へ収蔵され焼失したという伝説が、筑前系の武蔵流末にあった、ということが知れるのみである。
 しかも、上述のように、『峯均筆記』の武蔵自筆兵書焼失伝説が、じつは筑前系に五輪書原本が伝わらなかったという事実を説明する説話ではないか、という可能性も残っている。公儀に召上げられて焼失してしまったから、我々には五輪書原本が伝わっていないのだ、とする説明伝説である。とすれば、この兵書焼失の一件はそれじたいフィクションである。
 以上の論点は、従来看過されてきたポイントなので、注意を喚起しておく。ただし、これも立花峯均が聞いた伝説であって、事実関係ついては確かなことは知れない。そのことは再度確認しておくべきである。
 『峯均筆記』のこの記事によって、武蔵自筆の五輪書は江戸城で焼失したという説が、これまで一般的であったが、これは要するに筑前系の伝説である。しかしながら、同じ筑前二天流でも、早川系には、このような「先師自筆ノ書」が公方(将軍家)へ献上されたという言い伝えはなかった(藤郷秘函 巻之二)。
 同じ筑前二天流でも、早川系の大塚藤實は、そんな話は聞いたことがないという。つまりこれは、筑前の二天流でも、早川系に伝承のない話であり、およそ立花系のみのごく内輪の伝説だったのである。そして当然、肥後にはそれに類する伝説はない。
 したがってこの一件につき、筑前二天流の事情を知らない武蔵研究者らが、これまで暗愚の伝説再生産をしてきたのだが、それも、そろそろ終幕にするがよかろう。ようするに、『峯均筆記』のこの記事が、筑前福岡でさえどんな批評を受けていたか、そうした周辺事情に対する無知が、今日この伝説を延命させているのである。
 五輪書焼失事件とは、なるほど、喪失にかかわるロマンティックな心情をかきたてるものだが、武蔵ファン諸君には気の毒ながら、あれやこれや周辺事情を洗えば、それはありえないことである。  Go Back








国立民俗博物館蔵
江戸城本丸天守 江戸図屏風




東京都立中央図書館蔵
明暦大火浅草門 むさしあぶみ





寺尾孫之丞相伝証文
承応2年10月2日付
吉田家本五輪書



*【細川家本五輪書奥書】
 寛文七年
  二月五日   寺尾夢世勝延(花押)
   山本源介殿

*【楠家本五輪書奥書】
 寛文八年五月日  寺尾夢世(花押印)
     槇嶋甚介殿


























*【五輪書】
《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ。時寛永二十年十月上旬の比》(地之巻・自序)

*【武公伝】
《寛永十八年[辛巳]二月忠利公ノ命ニ依テ、始テ兵法ノ書三十九箇条ヲ録シテ献之》

*【二天記】
《寛永十八年ニ命有テ、初メテ兵法ノ書三十五ケ條ノ覺書ヲ録シテ差上ラル。于時三月十七日、忠利公御逝去ナリ。御歳五十四。御法號妙解院殿臺雲宗伍大居士》

















*【藤郷秘函】
《先師自筆ノ書、公方家エ献ゼシムヤ否(ヤ)、無傳聞》(巻之二)


 
  26 澤村大学には不似合のこと
一 武州死去前々日、細川ノ家臣澤村大學、病臥ヲ訪ル。武州、枕ヲアゲテ、「御尋祝着致シ候。今生ノ御暇乞ニテ候」ト申サル。大學被申ニハ、「御病氣左程大切トモ見ヘズ。御養生候ハヾ御快氣有ベシ」ト挨拶シテ歸ラル。
 其跡ニテ、武州、隨仕ノ面々ニ申サルヽハ、「當家ニテ大學ハ、武功ト云、人品ト云、人ノ目當ナル人也。武藏ガ死ヲ知テ暇乞申スニ、養生セバ可快善*トノ挨拶、大學ニハ不似合事也」トノ玉フ。
 死ヲ知ル事、眞ニ悟道ノ人也。(1)

一 武州死去の前々日、細川の家臣・沢村大学が、病床見舞いに訪ねてきた。武州は、枕を上げて、「おいで下さってうれしく思います。今生のお別れです」と申される。大学が申されるには、「いやいや、ご病気はさほど深刻とも見えません。ご養生なさればご快気なさるでしょう」と受け答えして、帰られた。
 その後で、武州が隨仕の面々に申されるには、「当家(細川家)では、大学は、武功といい人品といい、人の目標になる人だ。(しかし)この武蔵が死を知って、お別れを申すのに、養生すればよくなるだろうとの受け答え、大学には似合わないことだな」と言われた。
 死を知ること、(武州は)まことに悟道の人である。

  【評 注】
 
 (1)大学ニハ不似合事也
 この話は武蔵臨終譚の追補である。武蔵が死ぬ前々日、二日前のこと、つまり五月十七日ということになる。
 細川の家臣・沢村大学が、武蔵の病床見舞いに訪ねてきたという。この沢村大学は、沢村大学助吉重(1560〜1650)、丹後以来の古い家臣で、肥後入りしては知行五千石の重臣である。
 沢村大学は武蔵より二十四歳も年長、このときすでに八十六歳である。それゆえ、沢村大学は戦歴は長い。生国は若狭、若年の頃はじめ高浜の逸見駿河守昌経に仕えて戦ったが、逸見家退転して牢人、天正十年忠興の細川勢に属す。先祖附によれば、武蔵が生れた天正十二年には、すでに戦場で活躍しており、大将首を挙げた戦功で秀吉と対面して直接感賞されている。以後、各地の戦場に戦功をあげた。
 沢村大学は、細川家きっての勇士として知られ、『武辺咄聞書』には、沢村大学の逸話がある。のちに徳川家康駿府に隠居したおり、家康が禁じた朱鑓を「細川越中守内沢村大学」と名のる者が持って通った。それを聞いた家康は、小牧長久手の戦いで敵方ながら沢村大学の武勇を眼前に見知っている、朱鑓を禁じたのは、かようの剛の者に持たせるためだ、と語ったという話。
 そんな逸話もあるこの老いた勇士は、なお天草島原一揆のおりにも七十八、九歳の高齢で参戦したほどで、光利君(光尚)に近侍して老功を示しとあって、細川忠利嫡子光尚の守役をつとめたらしい。ようするに、この沢村大学という人物、戦国時代を生きたまさに伝説的な勇者なのである。
 しかも、武蔵とはおそらくはかなり以前からの知り合いで、武蔵の肥後移住にあたっては口利きをしたとの伝説もある人物である。これは『續肥後先哲偉蹟巻一』(寺尾求馬助条)からの孫引きになるが、「寺尾家記」には、武蔵が肥後に来て、沢村大学が知人だったので滞在した。大学がこれを細川忠利に上申した。忠利は武蔵に兵法を問うて大いに信仰するようになり、ついに武蔵を師として学ぶようになった、という話があるらしい。
 つまり、長岡佐渡(興長)ばかりを武蔵旧知の人物とする説が、今日支配的な状態なのだが、別の伝説では、もう一人、沢村大学のような人物の存在もある、ということである。
 それはともかく、『峯均筆記』によれば、その沢村大学が、病床の武蔵を見舞いに訪ねてきた。そこで、武蔵が、今生の別れを、と言い出すと、大学は、いやいや大して悪いともみえない、養生すればよくなると、通り一遍の気休めばかりの受け答えをして帰って行った。武蔵としては、大学と今生の別れをしたかったのに、残念だというわけで、武蔵は随仕の連中に、「養生すればよくなるだろうとの受け答え、大学には似合わない事だな」と失望の念を洩らしたという話である。
 大学は大学で、気の利いた上手な受け答えもあろうに、武蔵の病状に接して心の余裕をなくし、うろたえて、ついかような通り一遍の気休め挨拶しかできなかった。そうみれば、かえって沢村大学という老戦士のナイーヴな人柄をしのばせる逸話である。それゆえ、武蔵も、そんな大学という男と、心を通わせた今生の別れをしたかったのに、いわば逃げられてしまったのである。男というものは昔も今も、こういう場面は苦手で、つい不器用にふるまってしまうものである。
 しかしながら、『峯均筆記』のこの伝説は、そういう文脈にはない。武蔵を、死を知る事、まことに悟道の人である、と称揚するのに対し、沢村大学を、死と直面することを回避した男として語るのである。これは、筑前系の伝説であって、よほど印象深いものであったか、丹羽信英『兵法先師伝記』にも、この逸話を忘れず記載している。
 しかしこれは、武蔵と大学、この二人について説話論的に対照関係を構成をしたにすぎず、いわば伝説の常套手段である。しかも、この配役では、武蔵を称揚するに対し、いわば貶められる役割の相手は、有名な伝説的勇者なのである。このように、当時ならだれでも知っている有名な伝説的勇者を、武蔵と対照させて貶める説話論的運動は、たとえば肥後系伝記に、志水伯耆にその役割を負わせているのと、まったく同じ話の編成である。
 すなわち、『武公伝』によれば、正月三日の御謡初めの晩の話、――志水伯耆が武蔵に、「吉岡との仕合で、あなたが先を打たれたとの風聞がありますが、それはどうなのです」と尋ねる。武蔵はそれに何も答えず、ずんと立って燭台をとり志水伯耆の前にどっかと座り、「私は幼少の時、頭に疥癬ができまして、月代を剃ると見苦しいので、惣髪にしております。吉岡清十郎はあの仕合の時、真剣をもって私と戦いました。もし真剣で先を打れましたら、当然疵痕があるはずです。疵痕があるかないか、とくと自分の目でご確認なされ」と、左手で燭台をもち、右手で自分の髪をかきわけて、頭を志水伯耆の顔に突きつける。その武蔵の行動に気圧され、伯耆はのけぞって、「いや疵痕は見当りません」。武蔵、「しかとご覧なさい」。伯耆が「たしかに、とくと見届けました」と云うと、武蔵は直ちに立ち上り、燭台をもどし、自分はもとの座に着して、髪をかきなで、何もなかったような顔をしている。一座の諸士は手に汗を握り、緊張して一人も鼻息さえする者がなかった。「伯耆殿一生の不覚なり」と、そのころ批判あったとか。胆気豪発ノ事なり、云々。
 これは前述のように、同じ話が『二天記』では、吉岡との仕合ではなく、岩流小次郎との仕合にすり替わっている。それはともかくとして、志水伯耆(1573〜1649)は、日下部與助元五〔もとかず〕の名で有名な勇者。志水伯耆は武蔵より十歳以上年長で、この当時少なくとも七十歳になっている老いた英雄である。しかも沢村大学と同じく『武辺咄聞書』にも登場する(第三十六話)。肥後系伝記では、そんな彼が、武蔵を挑発して逆にやりこめられたということになっている。
 いうならば、志水伯耆と沢村大学には説話論的互換性がある。志水伯耆であれ沢村大学であれ、こうした老いた英雄を武蔵の相手にして、彼らを貶め武蔵を称揚するのは、いわゆるタメにする説話である。実際にあったというよりも、説話の内容分析からすれば、明らかな伝説である。
 祖師を称揚するために、それなりの有名な伝説的人物を相手に引き出して、損な役割を演じてもらわなければならない。《死ヲ知ル事、眞トニ悟道ノ人也》という話の落とし所をみれば、伝説の企図は明らかである。こうした逸話は、すでに現実の決闘ではないが、武蔵がいかに勝れていたかを示す、別の意味での勝負なのである。伝記の伝説の中では、祖師・武蔵はこういう仕合も演じるのである。
 武蔵所縁の岩戸観音霊巌洞に、沢村大学が逆修碑を残している。逆修〔ぎゃくしゅ〕とは、生前に自身の死後の冥福を祈願する仏教儀式、予修ともいう。霊巌洞を教えたのは沢村大学だったという説を立てた者があったが、これは、霊巌洞に沢村大学の逆修碑があるため発生した、近代の霊巌洞伝説の一種である。  Go Back







成道寺蔵
沢村大学像


*【武辺咄聞書】
《四五日過て細川越中守忠興町場の近所にて、皆朱の鑓持せたる者普請に懸て役人と見へ、菖蒲皮の立付にて三十人計供召連通る。横目衆是を咎め、名を聞候所「細川越中守内澤村大學」と名乗て打通る。其晩御夜話の刻言上仕候。家康公被聞召、「其澤村大學は若き時才八といふ。小牧陣の砌、(中略)太閤方敗軍に成候時、細川越中太閤の先手にて我先勢を引請一戦有し時、澤村一番鑓を合る。其働眼前にて見及たり。ケ様の剛の者に持すへき為に外の輩に皆朱玳瑁の鑓禁制する事也」と被仰出。沢村承り忝き事身に余り、越中守も大慶仕候れたりと聞》(三十一)


*【寺尾家記】
《宮本武藏玄信回国の折柄、當國に來り[忠利公御代]、澤村大學知音たるに因り留滞す。大學之を上に告奉りければ、迎て兵法を問ひ、大に御信仰遊され、遂に師として學び玉ふ》(續肥後先哲偉蹟巻一)




*【兵法先師伝記】
《或日、澤村大學[細川侯ノ長臣。初名澤村才八ト云、武功ノ士也]尋來リ、先師ノ容躰ヲ見テ、「隨分保養セラレヨ。病アナガチ重カラズ、無程全快セラルベシ」ト云テ帰リケル。跡ニテ、先師、人ニ謂テ曰、「大學ハ武功モ勝レシ人ナルガ、今日ノ挨拶ハ不似合事哉」ト云レシトゾ》





*【武公伝】
《或年正月參日、御謡初ノ晩、御備頭衆ヲ初トシテ着座衆何レモ列座ニテ、武公モ其席ニアリ。御矩式未始ニ何カト打話ノ時、志水伯耆殿[時御備頭ナリ]武公被申候ハ、「先年吉岡清十郎ト仕合ノ節、吉岡先ヲ打タル由致風聞候ガ、如何ニテ候哉」トアリ。武公、兎角無返答、ズンド立テ燭臺ヲ把テ、伯耆殿ノ膝元ニツカト座シ、「私幼少ノ時、頭ニハス〔疥癬〕出來テ、月代ヲ剃リ候得バ見苦シク候ニ附、惣髪ニテ居候。清十良仕合ノ時、彼ハ眞劔自分ハ木刀ニテ候。眞劔ニテ先ヲ打レ候ハヾ疵痕在ベシ。得斗〔とくと〕御覧候」ト、左ノ手ニ燭臺ヲ把リ、右ノ手ニ髪カキ分テ、首ヲ伯耆殿ノ顔ニツキ附ラル。伯耆殿、ノツケニソリテ、「疵痕見ヘ不申」トアリ。「シカト御覧候哉」トアリ。「ナルホド得度〔とくと〕見届候」ト云トキ、直ニ立チ上リ、燭臺ヲ直シ、モトノ座ニツキ、髪カキナデテ自若タリ。一座ノ諸士、手ニ汗ヲ握リ、一人モ鼻息ヲスル者ナシ。伯耆殿一生ノ不覚也ト、其比批判在シト也。胆氣豪発ノ事ナリ》




沢村大学逆修碑 霊巌洞

 
  27 武蔵一生の戦傷は
一 武州、一生數十度ノ試闘、其外、豊後陳、難波ノ合戰、原城ノ城責、彼是手疵ヲ被リ玉ハズ。冨來ニテノ鎗疵、又ハ巖流ヨリ外ニハ疵付ケシ者ナシト云リ。(1)
一 武州は、一生数十度の試合、そのほか、豊後の陣〔関ヶ原役当時〕、難波の合戦〔大坂陣〕、原城の城攻め〔島原役〕、あれやこれや戦歴があるが、手疵を被られることはなかった。富来〔豊後の陣〕での鎗疵、または巌流以外には傷つけたものはなかったという。

  【評 注】
 
 (1)武州、一生數十度ノ試闘、其外
 これは、武蔵が数々の戦歴で手疵を負わなかったという、ほとんど蛇足に関する記事である。
 武蔵は、一生数十度の決闘勝負をやった。これは五輪書冒頭自序の、《其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十余度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなわず。其ほど、年十三より二十八九迄の事也》とある部分の、不正確な言い換えである。『峯均筆記』の記者は、十六歳但馬国秋山との一戦に関連して、《六十餘度之ノ試闘、口碑ニモレタル事可惜》と語り、武蔵の決闘歴の口碑伝説がほとんどないのを惜しんでいる。五代目の立花峯均になると、武蔵伝説事情はその程度だったのである。
 そんな決闘勝負のほか、さらにいくつかの合戦参戦事蹟を挙げる。まず、「豊後陣」というのは、前に記事が出たように、慶長五年(1600)の関ヶ原役当時、黒田如水の手勢で九州豊後の戦いに参戦したという事蹟のことである。これには『峯均筆記』がいくつか伝説を収録しており、当時武蔵は関ヶ原や上方で戦ったのではなかったことを示す記事である。『峯均筆記』の伝説だけでは弱いが、生国播磨の武蔵の黒田家との因縁という環境条件から、これは関ヶ原で参戦したというより可能性が高いことは既述の通り。ここでは伝説は異様に突出して具体的で、武蔵の英雄的な負傷の経緯を語っていた。
 次に「難波の合戦」というのは、慶長末(1614〜15)の冬・夏の大坂陣、豊臣家滅亡し家康が覇権を確立した大きな合戦である。武蔵は薙刀で多数を薙ぎ倒したという武勇伝だが、こちらはまるで無内容である。口碑情報がなかったらしい。『峯均筆記』の記者は、どの大名の麾下にあったか、(聞いたが)忘れたという。どのみち徳川方大名の麾下であるが、すでに述べたように、水野隊に属したという可能性が高い。明治末の顕彰会本『宮本武蔵』以来、武蔵が豊臣方で戦ったという珍説があったことは、これも前に述べた通りである。
 「肥州原城の城攻め」は、寛永十四〜五年(1637〜38)の切支丹一揆のさいの島原役。武蔵は豊前の小笠原勢で参加した。このときは、小笠原忠政の甥・信濃守長次(中津城主)の護衛役で出たらしい。この点に関するかぎり、『峯均筆記』は武蔵伝記中唯一正しい記事をのせている。しかし、これも、その戦績となると、城攻めのとき投石を五尺杖で突き返したり、薙刀で多数を薙ぎ倒したという、あまり内容のない伝説にとどまる。
 以上を回顧して、『峯均筆記』は、武蔵にはいろいろと戦歴があるが、手疵を被らなかったと強調する。そして例外は、ということになって――慶長五年の関ヶ原役当時、黒田如水による一連の九州制圧戦での富来城攻めの折の鎗疵、そして巌流島決闘の相手・巌流以外には武蔵を負傷させた者はなかった、とする。
 富来城の一件は、太腿を槍で突き貫かせて、その槍を折り取るという、匹夫の勇と戦前の作家には何かと評判の悪かった行為のことだが、『峯均筆記』の文脈は、匹夫の勇ではなく英雄的行為として称揚するにある。筆者が意図しない匹夫の勇を、このシーンに読んでしまう小説家の誤読は滑稽な脱線だが、もとよりこれも伝説化された説話に他ならない。
 『峯均筆記』がもう一つ挙げる武蔵の負傷歴は、巌流島決闘のときのもの。これは、武蔵の完勝のように見えたが、実は巌流の太刀が平打ちながら武蔵の首に当っていた。それで出血もしたのだが、武蔵は切られたカルサンを高く掲げて見せ、他方、首の負傷は襟を立てて隠したという秘密の内緒話。この種の秘密は、だれでも知っている秘密という奇妙なステイタスをもつのが、伝説の伝説たるゆえんである。
 (ここで、余計な事ながら、読者がたぶん気づかれているであろうことを共有しておけば、『峯均筆記』はここに来て、《冨來ニテノ鎗疵、又ハ巖流ヨリ外ニハ疵付ケシモノナシトイヘリ》と述べる。つまり、『峯均筆記』は「津田小次郎」という名を挙げ、「巌流」とは人名ではなく流儀の名だと、あのように強調しておきながら、ここでは、ついつい「巌流」と言ってしまい、人名扱いしている。『峯均筆記』の巌流=流派名説にはさして一貫性はない。)
 これが肥後系伝記になると、巌流島の武蔵の「被害」は、鉢巻の結び目を切られたのと、袷の裾を三寸ばかり切り裂かれたにとどまる。こちらは秘密の負傷はない。その代わりに『二天記』では、志水伯耆が、巌流島決闘のとき、岩流に先に打たれたという噂があるが、それはどうなんだ、と聞かれて云々という話がある。これは原型の『武公伝』では、対吉岡清十郎戦の話であるのは、前述のごとくであるが、いづれにしても肥後系伝記では、老雄志水伯耆をやり込めることに説話の重心があって、負傷そのものは本題ではない。
 しかるに、『峯均筆記』の武蔵伝記(兵法大祖武州玄信公伝来)の末尾の一段がこれである。筆者はここで総括の意味で、この玄信公伝のなかから武蔵の手疵を算えるのだが、その数字はわずか二度にすぎない。『峯均筆記』が強調するのは、そのように武蔵の手疵がわずかしかなかったことである。
 言い換えれば、わずか一回の合戦で身体中に無数の手疵を負い、それをもって武勇の証しとする者があるとすれば、この『峯均筆記』の記事のモチーフは明らかである。負傷の数が武勇の証しなのではない。またむしろ、負傷の多さは、兵法名人に似合わないことである。『峯均筆記』は、数多くの戦歴にもかかわらず、武蔵が負傷したのはわずか二度だと語って、武蔵の超人的戦士ぶりを称揚する。しかもそれを強調して武蔵伝記を終るのである。
 しかしながら、そのわずか二回の負傷でさえ、一方は、若年のおりの富来城での豪傑の振舞い、他方は、巌流島で強敵を倒した名人ぶりの、それぞれ十分説話化が進行した段階にある伝説のものである。数回の合戦参加はむろんのこと、だいいち、武蔵の兵法者としてのキャリアを飾る六十余度の勝負については、ほとんど情報をもたないのが、『峯均筆記』の筆者の無念とするところなのである。そうしてみれば、武蔵が負傷したのはわずか二度だという説も、実ははなはだ怪しい話である。
 たとえば、島原役の戦場で認められたと思われる有馬直純宛武蔵書状にみえるところの、武蔵が原城において投石で脚に負傷したという事実は、『峯均筆記』の情報にはない。『峯均筆記』の伝説では、逆に投石は武蔵の五尺杖で突き返されたことになっている。
 原城城乗り時の投石というこの一点に関しては、事実と伝説が両方確認できるので、話は分かり易いであろう。事実と伝説のこの落差は、むろん『峯均筆記』の記事がいかに説話化されているかを示すものである。『武公伝』『二天記』という肥後系伝記の武蔵伝説に対して、『峯均筆記』にはやや確度の高い信憑しうる記事もあるにはあるが、大半は、肥後系伝記のそれと変わりないレベルの伝説である。
 したがって、誤解をあらかじめ封印するために言えば、肥後系伝記『武公伝』『二天記』よりも『峯均筆記』の方が信頼できるという憶断は、読解能力の欠如を露呈したものであり、もとより誤りである。我々の『峯均筆記』読解においてそれぞれ当該箇処の分析を読めば、本書の記事をむやみに特権化する理由のないことが知れるだろう。  Go Back






*【丹治峯均筆記】
○《十六歳ノ時、但馬國秋山ト云強力ノ兵法者ニ打勝玉フ事、地ノ巻ニ載ラルヽトイヘ共、働ノ事、語リ傳ヘヲ不聞。惣テ六十餘度ノ試闘、口碑ニモレタル事可惜。漸ク百ニシテ一二ヲ語リ傳フ》
○《慶長五年庚子、石田治部少輔三成、邪謀ヲタクミ、濃州関ヶ原ニ於テ家康公ト決雌雄、三成一戦ニ打負生捕ラル。九州ニテ如水公、東軍之御味方トシテ、中津川ノ御居城ヲ御發騎有テ、石垣原ニテ大友義統ヲ擒ニセラレ、安岐・冨来ノ二城ヲ責破リ玉フ。御出陣前、辨之助、中津ヘ下リ、父ガ勘氣ヲモ赦免シ、父子一所ニアリ。是、弁之助十七歳ノ時ナリ。(中略)其後、出陣シテ冨来城乘ノ節、黒田兵庫殿先手ヨリ二町ホド先ガケテ、三ノ丸ノナラシニ乘アガリタル所ヲ、矢狭間ヨリ鎗ヲ以テ辨之助ガ股ヲ突キカスル者アリ。辨之助、甚忿テ、立並ビタル者ドモニ向ヒ、「此狭間ヨリ槍ニテ吾ヲ突、鎗トツテ見スベシ」ト云テ、股ヲ矢狭間ニサシ當テヽ待ツ。案ノ如ク、又鎗ニテ股ヲ貫ク。突通サレナガラ鵜ノ首ヲヒシト取テ、鎗ヲ奪取ントス。敵モ取ラレジト引合フ。辨之助、股ノ骨ニアテヽ、「ヱイ」ト云テ、鵜ノ首ヨリ二尺余ヲヲイテ、鎗ヲ切折ル。朋友共ニ、「是ヲ見ヨ。鎗ヲトリタリ」トテ、少モ疵ヲ被リタル事ヲ不言。各、驚キ、血止メナント騒ギシヲ、馬糞ヲ取テ疵口ニヲシ入レ、少モ痛ム面色ナク城ヘ乘上リ能働キ、其後小屋ヘ歸テモ、朋友ノ手負ヲ見廻ニ杖ニスガリテ、痛メル色ナク徘徊セラレシト云リ》
○《辨之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。巖流ハ流義ノ稱号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ。(中略)辨之助、櫂ヲ下ヨリ振上テ打込ミ、小次郎モ刀ヲ水車ヨリ直ニ切込、互ニ當ル。然レ共小次郎ガ刀、手ノ裡マハリテ、平ヲ以テ辨之助ガ左ノ平首ヲウツ。(中略)辨之助、二ノ目ヲ又シタヽカニ打ツ。大力ノ、然モ舟ノ櫂ノシタヽカナルヲ以テ、同ジツボヲ二ツ迄打タル故、頭碎ケテヒレ臥セリ。辨之助ハカルサンノボタンヲ外シ、カルサンヲカナグリ捨テ、尻ヲツミマヒテ高クカヽゲ、小次郎ガ刀ヲモ取リ、舟ノ柱ニ打マタガリテ漕戻ル。ハジメカルサンヲ切ラセタル事ハ、諸人見及故、高クカヽゲ、平首ニアタリタルハ、ハゲシキ場故見届ケタル者ナシ。太刀ガ平打ナガラ、シタヽカニ打タルニヨリ、血モ少ハ流シヲ、下着ノ襟ヲ出シ、疵ヲ隠サレタリトカヤ》
○《慶長十九年、翌元和元年、攝州大坂両度ノ御合戦ニモ、軍立シテ佳名ヲ顯ハシ、傳来ノ薙刀ヲ以テ數人薙ギ倒シ玉フト云リ。[但シ、イヅレノ手ニツキ出陣アリシヤ、其事ヲ忘ズ]》
○《寛永十四年ヨリ翌十五年ニ至テ、肥州原ノ城ニ賊徒楯籠リ、西國ノ諸將、人数ヲ引テ嶋原ニ至、原ノ城ヲ責ラル。武州、其時ハ小笠原右近将監殿御頼ニテ、御同姓信濃守殿、御若輩故、後見トシテ出陣セラル。始終、鎧ハ着玉ハズ、純子ノ廣袖ノ胴著ヲ着シ、脇指ヲ二腰サシ、五尺杖ヲツキ、信州ノ馬ノ側ニ居ラル。城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ來ル石ヲ、「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏セラレシト也》

















*【有馬直純宛武蔵書状】
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶奉存候。拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。猶重而可得尊意候。恐惶謹言
    即刻       玄信(花押)


 
  28 後記および期日記名
右、先師柴任美矩、吉田實連兩先生、夜話ノ序ニ物語アリシヲ、予*若年ノ耳ニ聞得タルマ丶ニテ多年ヲ過、今半白ヲ越テ思ヒミルニ、覺シ事共忘却シテ連續セズ。此マヽ打捨置バ、彌忘果ン事、無本意ト*思、アラ/\書記畢ヌ。此道ニヨラン人ノ*一助ニモナラン事ヲ所希也。至祝々々(1)

兵法五代之門人
  丹治峯均入道廓巖翁五十七歳
  享保十二龍次丁未年夏五月十九日
         於潜龍窟中執毫記之(2)

以上、先師柴任美矩・吉田実連両先生が、夜話のついでに物語られたのを、私が若年の頃耳に聞き得たままにして、多年を過ぎ、いま半白の老人になって思いみるに、記憶していた事どもを忘却して、つながらなくなった、このまま放置すれば、いよいよ忘れ果てる、これはいけないと思って、大よそを書き記しおわった。この道に拠ろうとする人の一助にもならんことを希うのである。めでたし、めでたし。

兵法五代の門人
  丹治峯均入道廓巌翁、五十七歳
  享保十二年(1727)丁未の年、夏五月十九日
      潜龍窟中において、筆を執りこれを記す

  【評 注】
 
 (1)先師柴任美矩・吉田實連兩先生、夜話ノ序ニ物語アリシヲ
 『峯均筆記』のうち、武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」部分の後記である。したがってここは、筆者・立花峯均の地の文である。
 これによれば、彼の師匠である柴任美矩と吉田実連が、夜咄のついでに物語ったのを、筆記者が聞いた、というのが伝聞情報の経路である。つまり、柴任美矩と吉田実連の二人からの聞書という体裁である。
 柴任三左衛門美矩と吉田太郎右衛門実連の二人については、後に詳しく見ることになるが、それぞれ筑前二天流兵法三祖・四祖で、第五代の立花峯均は、柴任と吉田の両方から教えを受けている。
 とくに、柴任美矩は肥後熊本の出身で、寺尾孫之丞の教えを受け、五巻之書(五輪書)を相伝された人物であり、しかも、若年の頃、最晩年の武蔵に接した可能性のある人である。それゆえ、『峯均筆記』の記事に柴任からの伝聞があるとすれば、それはかなり信憑性のある情報ということになる。
 ところが実態は、そのような今日の我々の期待を裏切るものである。『峯均筆記』の記事はその大半が、かなり説話化の進んだ伝説であることは、以上各段にわたる内容分析の結果判明したことである。しかも、柴任経由とは思われぬ後世形成された説話を多く含んでいる。
 こういう落差は興味深い。つまり、柴任美矩と吉田実連からの聞書という体裁にもかかわらず、その内容が形式を裏切っているのである。
 筆者は云う、――先師柴任美矩・吉田実連両先生が、夜話のついでに物語られたのを、私が若年の頃耳に聞き得たままにして、そのまま放置して多年を経過してしまった。いま半白の老人になって思いみるに、記憶していた事どもを忘却して、つながらなくなった。このまま放置すれば、いよいよ忘れ果てる。これはいけないと思って、大よそを書き記しおわった、云々。
 とすれば、立花峯均が柴任美矩と吉田実連から話を聞いたのは、彼が若年の頃だということである。そのまま放置して何十年もたって、いま老人になって、当時二人から聞いた内容を書き留めたというわけだ。
 しかるに、ここで、立花峯均の年齢をかれこれ勘案してみれば、興味深いことに、看過できない矛盾がたち騒いでいる。
 後出記事にあるごとく、享保十二年(1727)がこの奥書のデータで、自分の年齢を五十七歳と記しているから、この記載事項によるかぎりにおいて、立花峯均は寛文十一年(1671)生れである。
 次に、若年の頃とあるのは当時一般に十代の年齢を指すから、これが立花峯均のケースでは、彼が若年の頃というと、一六八〇年代後半の貞享から元禄初期と、時期が絞れることになる。ただし、峯均がそんな時期から、武蔵流兵法を学んでいたのではないのは明らかである。
 そもそも立花峯均が、吉田実連の門人になるのは、元禄四年(1691)二十一歳のときである。それゆえ、吉田実連から武蔵の話を聞かされるのは、少なくとも元禄四年以降のことである。もちろん、吉田実連の師匠である柴任美矩に会えるのはもっと後のこと。本書の峯均自記で我々が確認しうるのは、立花峯均が三十一歳、三十三歳のときである。いづれにしても、立花峯均がすでに「若年」ではないことは明らかである。
 『峯均筆記』の大半を占める武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」が、柴任美矩と吉田実連から若年の頃聞いた話を書きとめたという体裁は、それじたいが修辞的フィクションなのである。前後の事情からして、立花峯均が吉田実連から話を聞いたのは二十代以後、そして柴任美矩から話を聞いたのは三十代初めのことである。これは当時の年齢観念からすれば、若年ではなく壮年である。ただし、立花峯均がこの武蔵伝記(兵法大祖武州玄信公伝来)を書いたのが、五十七歳のときだとすれば、話を聞いたときから、すでに数十年は経っているわけである。
 おそらく、この数十年という年月が、『峯均筆記』の伝説記事の説話化をもたらした当のものである。その歳月には、峯均が玄界灘の小呂島に流刑に処せられた七年間を含む。言い換えれば、立花峯均という人物が、弟子に教える兵法講話の中で繰り返し物語する間に、醗酵して、旨味が出た説話群なのである。『峯均筆記』が両先師直話そのままの聞書ならばありえないような、説話としての醗酵が多くの逸話に関して進行している。
 もちろん、柴任美矩と吉田実連から聞いた話を備忘のために書き留めるという、この後記の文言は鵜呑みににはできない。物語の大半は、柴任・吉田両人とは別のところにソースがある。そのことに十分留意して、この武蔵伝記は読まれるべきである。  Go Back








  【筑前二天流系譜】

   大祖 新免武蔵守玄信
          ↓
   二祖 寺尾孫之丞信正
          ↓
   三祖 柴任三左衛門美矩
          ↓
   四祖 吉田太郎右衛門實連
          ↓
   五代 立花專太夫峯均


















兵法大祖武州玄信公伝来
後記 年月日 署名
 
 (2)兵法五代の門人、丹治峯均入道廓巌翁
 後記に記す日付と著者名のある奥付部分である。立花峯均の当時年齢も記されていて、彼の生年に関して情報を得ることが出来る。
 日付は、《享保十二龍次丁未年夏五月十九日》とある。享保十二年(1727)は干支が丁未の年である。丁未は「ひのとひつじ」と読んでもよいが、ここでは「ていび」と漢読みするのがインテリ風。「龍次」〔りうじ〕というのは、「龍集」〔りうじふ〕に同じ。というと、ますますわからないという人がありそうだが、ようするに星宿一周期で歳次のこと。当時流行っていた語法で、たんに「年」と書けば済むことを、こんなぐあいに学のあるところを見せたのである。
 ただし写本によっては、「龍次」の文字がないものもある。「享保十二丁未年五月十九日」として、「夏」字も入れない。したがって、こういう年暦月日の記載スタイルが、どこまで著者立花峯均に帰しうるか、性急には決めがたいところがある。
 立花峯均は、本書を脱稿した享保十二年(1727)のこのとき五十七歳。ゆえに生年は寛文十一年(1671)である。後に述べるように、峯均は福岡の黒田家家老・立花重種の四男。次兄に、茶書『南方録』の事実上の筆者と目されている立花実山(重根)がいる。峯均はその兄に茶の湯を師事して、自身、寧拙と号した茶人だった。
 宝永五年(1708)、立花峯均三十八歳、兄の実山が粛清されたのをはじめ一族遭難に連座して、弟の立花峯均も流刑になった。かたや、兄立花実山は蟄居先で自害せしめられた(暗殺されたともいう)。峯均も玄界灘の小呂島に流刑に処せられた。峯均はそれから五年獄中にあり、さらに二年して正徳五年(1715)ようやく赦免されて、島から帰還した。立花峯均、四十五歳のときである。
 その後彼は、出家隠遁して、兄の小左衛門増武の所領である志摩郡青木村(現・福岡市西区)に、小庵を結んで住んだ。住居は潜龍窟、自身は廓巌翁と称した。一般にそう言われるところの典拠は、実は、『峯均筆記』のこの部分に他ならない。
 世上「丹治峯均筆記」というその通称書名も、ここに《丹治峯均入道廓巌翁》とあるによる。丹治峯均が筆記した書物というわけである。丹治峯均入道とあるから、この「峯均」は道号であり、「ほうきん」とよむ。俗名の立花峯均のばあいは、「みねひら」である。
 もっとも、立花峯均以後の立花系門流では、その兵法伝書に、「廓巌翁」とは記さず、「巌翁」と書く。「巌翁師」と云えば、立花峯均のことなのである。したがって、どちらかというと、「廓巌翁」よりは「巌翁」の方が普通なのである。
 ところで、丹治峯均の「丹治」〔たんぢ〕というのは、「丹墀」とも記すが、立花家の先祖薦野氏の、さらなる旧姓。多治比・丹治比とも同姓で、宣化天皇の皇子上殖葉王を遠つ御祖とし、薦野氏の先祖には平安時代に丹治式部という地頭がいた。峯均の父は黒田姓を許された家老だったが、宝永の粛清で重昌の代に黒田姓を剥奪され、立花姓にもどったという経緯がある。一族の者に丹治姓を名のった例は他にもあるが、峯均が遠祖の丹治姓を名のるのは、復古と反骨のあらわれであろう。
 兵法五代の門人、とあるのは、武蔵から数えて五代目ということである。元祖・武蔵→二代・寺尾信正→三代・柴任美矩→四代・吉田実連→五代・立花峯均という相伝ルートである。峯均は、出家して後も、やはり二天流兵法を教えていたようである。
 以上要するに、ここで、本書の著者・立花峯均は、「武蔵兵法五代の門人/丹治峯均入道廓巌翁」と署名していた。無華斎でも寧拙、宗僕でもない。これは兵法における晩年の名である。ただし、これが武蔵おける「新免武蔵守藤原玄信」のようなフォーマルな名称であったとなると、やや疑念がのこる。
 というのも、越後の兵法伝書には、「立花専太夫峯均」とあり、「郭巌翁」と法名を記すからである。したがって、本書に、俗名でなく、「丹治峯均入道」と入道号をもって記すのは、出家後の著述であることの証左である。
 これに関説していえば、後ほど、本書「追加」の二祖寺尾孫之丞信正の記事において示すが、峯均所用と想定しうる五尺木刀がある。その裏面に記名刻字があって、それが、「兵法天下無雙 新免武蔵守玄信 五代之弟子 立花四郎丹墀眞人峯均入道郭巌翁」とある。
 これも明らかに入道号である。ただし、本書の署名と照らせば、「丹墀眞人峯均入道」とあって「眞人」の号を入れるから、より法号めいたものである。「眞人」は禅宗系の名号である。晩年入道後の兵法名号は、この「丹墀眞人峯均入道郭巌翁」であろう。
 ただ、この刻名について、興味深いのは「立花四郎」という俗名であろう。立花峯均は、立花一族で用いた「専太夫」を名のる以前、初名は「四郎」であったと思わせるものである。むろん峯均は立花重種の四男である。したがって、この資料との遭遇により、我々は峯均の初名が「立花四郎」であったとみておくのである。
 さて、本書に記すように、峯均は、享保七年(1722)、兵法流系の後嗣に三人を選んだ。甥二人(峯均弟立花重躬の子、長男・勇勝、二男・種章=後改増寿)と、もう一人は桐山丹波信行の子孫・桐山丹英という俊英の者である。三人一同に、五巻之書(五輪書)を伝授し、一流相伝したのである。(ただし、後に、中山伊右衛門という者にも一流相伝あり、立花峯均の法嗣門人は計四人である)。
 かくして、この武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」の筆記が、峯均五十七歳のときだから、享保七年(1722)の三人相伝の五年後であった。峯均はこれを書き記すことで、筑前二天流の由来を歴史化=物語化したのである。
 なお、この日付の「五月十九日」は、申すまでもなく、宮本武蔵の命日である。すなわち、武蔵は正保二年(1645)五月十九日卒。この武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」は、武蔵没後八十三年目にできあがったというわけである。  Go Back




















志摩郡青木村




立花山



春風館道場蔵
立花峯均所用五尺木刀銘


*【筑前二天流系統図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞信正┐
 ┌――――――――――――――┘
 └柴任三左衛門美矩―吉田実連―┐
┌―――――――――――――――┘
立花系
立花峯均┬立花権右衛門勇勝
|    |
|    ├立花弥兵衛増寿
|    |
|    ├桐山作兵衛丹英
|    |
|    └中山伊右衛門

早川系
└早川瀬兵衛実寛―月成実久



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