宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  自 記  Back   Next 
直前の「追加」に続き、本書の最後に「自記」である。「追加」は筑前二天流の二祖・三祖・四祖を記し、この「自記」においては立花峯均が自身の兵法略伝を記す。第五代目たる自分はいかにしてかくなりしや、それを具体的に語るところが興味深い。しかも、それのみならず、峯均自身の命運に有為転変あり、よくぞまた、彼の代で筑前の武蔵流兵法が途絶しなかったものだと思わせる。言い換えれば、きわめてスリリングな綱渡りを経て、武州一流の系譜が存続したことが知れる。以下は、関連資料も参照しつつ、本書の峯均自記を読み解く。

 
  立花峯均自伝
   自  記

 予、廿一歳ノ春ヨリ吉田實連門人トナリ、十三年之功ヲ積ンデ、元禄十六年癸未五月廿八日、一流相傳セリ。
 十九歳ヨリ、邦君綱政公ノ御膝下ニ勤仕シ、少ノ暇、日夜無懈怠兵術修行ストイヘ共、不省ノ身、イカデカ此道ヲ成就センヤ。是、偏ニ實連ガ兵法、愚父重種ガ恩儀タルノチナミヨリ事發レリ。實連門人數百人之内、予一人ナラデ傳授ノ者ナシ。(1)

 自家、實連居宅ト、裏ト裏隅合ノ合壁ニテ、少ノ暇ニハ互ニ行通ヒ稽古セリ。御城近ク居宅ヲ可被下仰事アリトイヘ共、御断申上シモ、實連ニ隨仕ノ志深ガ致ス所也。
 東府又ハ長崎ヘモ缺ズ御供シ、着府ノ翌日ヨリ發足ノ前日迄、日々太刀ヲ振ラヌ日ナク、海陸旅行ノ間モ不絶太刀ヲ取レリ。帰着シテハ尚更日夜稽古セリ。
 柴任モ、愚父舊友ノ志深ク、度々文通。元禄十四年辛巳四月、東府ヨリ御下國ノ節、攝州兵庫御泊舩、明石ヘノ御暇申上、鶏鳴ニ兵庫ヲ發足シ、明石ヘ相越、柴任面會、終日稽古セシ也。
 柴任妻[大原惣右衛門妹。翌年卒ス]、此時迄ハ息災ニテ、夫婦悦ビニ不堪。其外、婿ノ橋本七郎兵衛、同人一男善兵衛、二男柴任源太郎、三男大原清三郎、七郎兵衛婿弟等、一類中擧テ饗セリ。同夜半、兵庫ヘ帰着ス。(2)

 是ヨリ前、實連病差出、年ヲ追テ氣力衰ヘ傳授成難キ故、柴任方ヘ實連ヨリ其趣ヲ達ス。道隨モ、前々年予ガ兵法一覧アリシ故、点頭シ、明石ニテ傳授可有旨、元禄十六年ノ春、東府ヘ申來ル。
 同四月御入國ノ刻、大坂ニテ御用等相仕廻、明石ヘノ御暇申上、此節ハ、同所ヨリ小舩ニテ、直ニ明石ヘ着岸ス。道隨居宅、明石ノ水主町ノ外レニテ、海邊ヨリ程近シ。[今年打續キ強雨、川水増、大坂橋ノ下、御通舩成難ク、同所ヘ兩日御逗留也] 早々通達、老人迎ニ出ラレ、兩夜止宿シ、直通傳授アリシ也。前々年ノ如ク、一族擧テ奔走セリ。
 御座舩明石ノ沖御通舩ノ節、乘移ル。下着長崎、御供相仕廻、五月廿八日、實連ヨリ空之巻被相渡、三ケノ大事ヲ再授シテ、一流成就セリ。(3)

 二師ノ親切、豈愚父ガ舊志ニ依ズンバ、イカデカ此事ニ及ンヤ。綱政公御膝下ニテ、愚父以來ノ御高恩ニ又打添テ、自分ノ御大恩、明石ヘノ御暇モ、偏ニ御恩ノ一端也。御生涯無怠勤仕シ、御百年ノ後拜録ヲ指上、薙髪シテ御高恩ノ端ヲモ可奉報謝。
 志アツテ、仕官ノ内、妻帯ノ事、度々父重種、家兄重敬、重根、伯父増弘ヘ御内意有之トイヘ共、カタク御断申上、獨身ニテ身輕ク御奉公仕リ、二ニハ大願ノ兵法モ今少シ高キ位ニモ登度志アツテノ事也。(4)

 計ラズモ、寶永五年戊子六月三日、事ニ坐〔ツミ〕セラレテ、大蛇〔ヲロノ〕嶋ニ謫居ス。是、業因ノ皈スル所カ、嘆テモ尚餘リアリ。
 此儘ニテ嶋ノ奴ト成果ント思シニ、又不計モ、正徳五年乙未六月、辜ヲユルシテ歸陸シ、志摩縣、家兄立花増武ガ采地、檍村ノ山フトコロニ、小菴[号半間庵]ヲ結ベリ。飢渇ヲシノグノ料トシテ、恭クモ、邦君継高公ヨリ毎月ノ糧ヲ拜受シ、山菴ニ安居セリ。(5)
 方爐一炭ノ火ヲヽコシ、苦茖ヲ点ジテ、佛ニ供シ、吾モ呑ミ、獨坐ヲ樂メリ。親族舊友、稀ニモ訪フ人アレバ、点一服、相語フ。是、特賜利休居士、南坊宗啓師ノ、禪味茶味一碗裏ニ喫得スルノ跡ヲヽヘリ。
 仕官ノ内、志ヲ家兄重根[法名実山宗有]ト同ク、仏乘ニ皈シテ、東林開山卍山(道*)白和尚ヲ師トシ、禪ニ参ジ、禪戒壇ニ入テ戒法ヲ受ケ、法諱ヲ授ル。是、併(テ)御大恩ヲ奉報ノ志タリトイヘ共、其益ナシ。宿因ノ程思ヒ見ベシ。(6)

 廿一歳、實連ヲ師トセシ日ヨリ、老年ノ今月今日ニ至ルマデ、片時モ兵法ヲ不忘、心ニ修シワザニ行フトイヘ共、不省ノ身、イカデカ道ニ叶事ヲ得ンヤ。
 爰ニ、家弟立花重躬ガ子、一男勇勝、二男種章、兵法其器ニアタリ、桐山丹英、同ク其功ヲ積ンデ、三人一同ニ、享保七壬寅年正月十七日、五巻ノ書ヲ渡シ、一流傳授セリ。此道、永久ニ斷絶セザラン事ヲ示ス。(7)
 勇勝、丹英ヘハ、五巻ノ書、自筆ニ書寫シテ授之、種章ヘハ、實連ヨリ予ニ與フル所ノ書ニ、奥書ヲ加ヘテ譲之。傳来ノ薙刀モ種章ニ渡シ置リ。兩甥*子孫ニ其器ヲ撰ンデ、永ク是ヲ授與シ、敢テ私スル事ナカレト、一卦ノ書ヲ添テ授之。(8)
 其外門人數多アツテ不絶修行シ、小菴ノ扉ヲ敲クノ輩モアリ。此一冊、先師ノ來由ヲ記シテ、後年誤ナカラシメン事ヲ、兩甥*乞之。依之、書之。追加ニ、寺尾、柴任、吉田、三師ノ成立ヲ書シ、後〔シリヘ〕ニ自ラノ事ヲ書ス。他見ニ及ベカラズ。(9)

 大祖以来、戸入ノ位、鎗相ノ位、相傳ストイヘ共、五巻ノ内ニ見ヘズ。草案ノ書故、書落シカ。又ハ、取籠者ノ事ハ、火ノ巻ニ記サレタル如ク、取ニ入ル者ハ鷹、取籠ル者ハ雉子ニ譬ラレタリ。其如ク終ニハ遁レ出ベキヤ。戸入ノ位ニ不限、何レニテモ踏破リテサヘ入レバ、輙〔タヤス〕ク捕ル事モ打放ス事モ、成安カルベシ。輕キ事故、書ニ載ラレザルニヤ。
 鎗相*ノ事、能々工夫鍛錬アルベシ。就中、中段*ニテ静ニ入事、難成位ナリ。(10)

 武州公、地ノ巻ニ、兵法二ノ字ノ利ヲ知ルト云事ヲ記サレタリ。太刀ノ道ヲ覺タル者ヲ兵法者ト云事、古今如此。弓鐵炮、鎗薙刀、皆是武家ノ道具ナレバ、其道ヲ知タル者、皆兵法者タリ。然レ共、太刀ニ限テ兵法ト云事、能々思慮アルベシ。
 今世、軍法ヲ以テ兵法トシ、太刀ヲ以テ劔術ト云族、數多アリ。軍術ハ尚更兵ノ法ナレバ、其利アル様ナレ共、太刀ヲ兵法ト云事、劔ノ威徳ヨリ事發リ、武士ノ最上ノ道具故、是ヲ兵法トハ云也。漢士本朝、上一人ヨリ下庶人ニ至ル迄、誰カ是ヲ仰ガザラン。寔ニ世ヲ治メ身ヲ治ルノ至寶タリ。
 ケ様ノ事、申ニ不及トイヘ共、惡敷心得テハ、只々劔術一通リノ利ニ可成行ヲ嘆シク、記置モノ也。當流ニ於テハ、一人ト一人ノ勝負モ、萬人ト萬人ノ勝負モ、同ジ利ニシテ、武士ノ道ハ皆々兵法也。一歩モ道ニ違ヘバ、惡道ニ堕在スル由、大祖*是ヲ記サレタリ。(11)

 武州ハ天正十二甲申*、誕生、正保二乙酉五月十九日、徃*年六十二歳、於肥後州死ス。延享元甲子年、一百年ニ當ル。(12)

   自  記

 私は二十一歳の春以来、吉田実連の門人となり、十三年の功を積んで、元禄十六年(1703)五月二十八日、一流相伝したのである。
 十九歳より、邦君(黒田)綱政公の御膝下に勤仕し、少しの暇があれば日夜懈怠なく兵術修行をした。とはいえ、不肖の身、どうしてこの道を成就できようか。これはひとえに、実連の兵法が我が父・重種の恩儀であるという縁によって実現したのである。実連門人数百人の内、私一人以外に伝授の者はない。

 私の家は、実連の居宅と、裏と裏が隅合いの合壁で、少し暇があると互に行き通い稽古した。(綱政公から)御城近く居宅を下されるとの仰せ事があったけれど、お断り申し上げたのも、実連に隨仕する志が深かったからである。
 東府〔江戸〕または長崎へも欠かさず(綱政の)お供をし、到着の翌日から出発の前日まで、日々太刀を振らない日はなく、海陸旅行の間もたえず太刀を取った。(福岡に)帰ってくれば、なおさら日夜稽古をした。
 柴任(美矩)も、我が父旧友の志深く、たびたび文通した。元禄十四年(1701)四月、(綱政公が)東府から御下国の節、摂州兵庫(湊)に御泊船された。(私は)明石へ行かせてほしいと申上げ、明け方に兵庫を出発して明石へ行き、柴任と面会し、終日稽古したのである。
 柴任の妻[大原惣右衛門の妹。翌年死去]は、この時までは息災で、夫婦して大いに悦んでくれた。そのほか、婿の橋本七郎兵衛、同人の長男・善兵衛、二男・柴任源太郎、三男・大原清三郎、七郎兵衛の婿弟など、親類中こぞって歓待してくれた。その夜半、兵庫へ帰着した。

 これより前、(吉田)実連の病気が生じ、年を追って気力が衰え、(兵法)伝授ができなくなった。そのため、実連から柴任へ、その事情を伝えた。(柴任)道隨も、前々年、私の兵法を一覧したことがあるので、それに同意し、明石で伝授しようと、元禄十六年(1703)の春、東府(の私のもと)へ言ってよこした。
 同年四月、(綱政公)御入国〔帰国〕のとき、大坂での御用等を終えて、明石へ行かせてほしいと申上げ、このときは、同所〔大坂〕から小船で直接明石へ着岸した。(柴任)道隨の居宅は、明石の水主町のはずれ*で、海辺からほど近いところである。[この年は強雨が続き、川水が増し、大坂は橋の下を御船が通れず、同所〔大坂〕へ二日間御逗留であった](明石に着いて、私が来たことを)早々に伝えると、老人〔柴任〕が迎えに出られ、二晩(柴任宅に)止宿し、(柴任から)直通伝授があったのである。(このときも)前々年の如く、一族こぞって歓待してくれた。
 (綱政公の)御座船が明石の沖を通過するとき、それに乗り移った。長崎に下着する(長崎番の)御供を終えて(福岡へ帰り)、五月二十八日、実連から(五輪書)「空之巻」を渡され、三箇の大事*を再授して、一流成就したのである。

 二師(柴任美矩・吉田実連)の親切は、我が父の旧志によらずして、どうしてここまでできようか。(そして、)綱政公の御膝下で、我が父以来の御高恩に加えて、自分〔峯均〕の御大恩、明石へ行かせてもらったのも、ひとえに(綱政公の)御恩の一端である。(綱政公の)御生涯の間怠りなく勤仕し、さらに御百年の後拜録を差上げ、薙髪〔剃髪〕して御高恩の一端をも報謝し奉るつもりである。
 仕官していたとき、(峯均の)妻帯の事について、たびたび父重種、家兄重敬・重根、伯父増弘へ、(綱政公から)御内意があったけれど、志があって、かたくお断り申上げた。それは、(一つには)独身で身軽なまま御奉公させていただき、二つには、大願の兵法も、もう少し高い境位に登りたいという志あってのことである。

 はからずも、宝永五年(1708)六月三日、事件の処罰を受け、大蛇島〔をろのしま〕に謫居した*。これは、業因の帰するところか、嘆いてもなお余りあることである。
 このまま島の下僕となり果てるだろうと思っていたが、またはからずも、正徳五年(1715)六月、罪を赦免されて島から帰り、志摩縣の、家兄・立花増武の采地、檍〔アハキ・青木〕村の山ふところに、小菴[半間庵と号す]を結んだ。飢渇をしのぐ料〔生活費〕として、かたじけなくも、邦君(黒田)継高公より毎月の糧を拜受し、山庵に安居している。
 四角い炉に一炭の火を熾し、苦茖〔くめい・苦い茶〕を点じて、仏に供え、自分も呑んで、独坐を楽しんだ。親族旧友、まれに訪う人があれば、一服(の茶)を点じ語らい合う。これは、特賜利休居士や南坊宗啓師の、「禅味茶味一碗裏に喫得する」の跡を追うものである。
 仕官するなかで、志を家兄・重根[法名・実山宗有]と同じくし、仏乗に帰依して、東林寺〔博多〕の開山、卍山道白和尚を師とし、禅に参じ、禅戒壇に入って戒法を受け、法諱を授かる。これは、あわせて(主君の)御大恩に報じ奉らんとの志でもあるとはいえ、その益なし。(我が)宿因のほど思い見るべし。

 二十一歳で実連を師とした日より、老年の今月今日に至るまで、片時も兵法を忘れず、心に修し業に行うとはいえ、不肖の身である、どうして道に叶う事ができようか。
 ここに家弟・立花重躬の子、長男・勇勝、二男・種章は、兵法その器に相当し、桐山丹英、同じくその功を積んで、三人一同に、享保七年(1722)正月十七日、五巻の書(五輪書)を渡し、一流伝授した。この(二天流兵法の)道は永久に断絶しないことを諭した。
 勇勝と丹英へは、五巻の書を自筆で書写して授け、種章へは、実連から私に与えられた書に奥書を加えて譲った。伝来の薙刀も、種章に渡しておいた。二人の甥(立花勇勝・種章)には、子孫にその器(に当たる者)を選んで、永くこれを授与し、決して私することなかれと、一卦の書を添えて授けた。
 そのほか門人数多くあって、たえず修行し、私の庵の扉をたたく輩もある。この一冊(本書・丹治峯均筆記)は、先師の来由(伝来)を記して、後年誤りなからしめんことを、二人の甥が求めたので、これを書いた。(本書の)追加に、寺尾、柴任、吉田三師の経歴を書き、最後に自分の事を記した。(ただし本書を)他人には見せてはならない。

 大祖(武州)以来、戸入〔といり〕の位、鎗相〔やりあい〕の位を相伝したのだが、それが、五巻(五巻の書・五輪書)の内には見当たらない。(五巻の書は)草案の書ゆえ、書き落しがあったのか、または取籠者の事は、火之巻に記されているように、取りに入る者は鷹、取籠る者は雉子に譬えられている。その如く、結局は遁れ出ることができようか。「戸入の位」に限らず、どんな場合でも踏破って入りさえすれば、捕える事も打果たす事も容易にできるであろう。そんな簡単なことゆえ、書(五巻の書)に載せられなかったのだろうか。
 「鎗相」の事は、よくよく工夫鍛錬あるべし。とりわけ、中段で静かに入る事は、なかなかできない位である。

 武州公は、(五巻の書)地之巻に、「兵法二の字の利を知る」という事を記されている。太刀の道の覚者を兵法者と云うこと、古今かくの如し。弓鉄炮、鎗薙刀、これらすべて武家の道具であるから、その道を知った者は、皆兵法者である。しかしながら、太刀に限って兵法と云うこと、よくよく思慮が必要である。
 今の世では、軍法(兵学)をもって兵法とし、太刀をもって剣術と云うやからが数多くある。軍術は尚更兵の法(兵を動かす方法)であるから、その利(理)があるようだが、太刀を兵法と云うことは、剣の威徳に起源し、武士の最上の道具ゆえ、これを兵法と云うのである。中国でも日本でも、上一人〔天皇〕より下々の庶民に至るまで、これを尊仰しない者があろうか。(剣は)まことに世を治め身を治める至宝である。
 このようなことは、申すに及ばずといえども、悪しき心(意味)を得ては、ただ単に剣術一通りの利になってしまうのを嘆かわしく思い、記しておくのである。当流(二天流)においては、一人と一人の勝負も、万人と万人の勝負も、同じ利(理)であって、武士の道はすべて兵法である。一歩も道み違えば、悪道に堕在するとのこと、大祖(武蔵)がこれを記されている。

 武州は天正十二年(1584)誕生、正保二年(1645)五月十九日、行年六十二歳、肥後国において死す。延享元年(1744)は歿後百年にあたる。

  【評 注】
 
 (1)廿一歳ノ春ヨリ吉田實連門人トナリ
 立花峯均の自記である。自分自身のことを誌す。
 そこで、峯均の話を聞く前に、まずは、彼の出自について、みておきたい。立花峯均の父は、平左衛門重種(1626〜1702)、彼の名は、柴任美矩、吉田実連に絡んで再三出てきたところである。すでに見たように、重種は、柴任美矩や吉田実連のために世話をした。黒田光之の代、とくに重種は重臣として権勢があった。そういう実力者のもとには、さまざまな芸能の人材が群がり、一つの文化センターのようになる。重種のばあいもそうで、とりわけ文芸方面のサロンが形成されていた。
 自得亭と名づけた重種の居宅は風雅で有名で「自得亭記」という重種の一書もある。同時代の歌人・黒田一貫は、重種の自得亭に寄せて「自得亭後序」に、《此亭も、この人のあればなるべし。自得々々、大なる哉や》と、讃辞を記している。
 このような「自得」は立花重種の風雅の文芸的境地であるとともに、彼自身の権勢の表現であった。この重種の権勢は父祖以来のものかというと、そうではなかった。立花氏、実は、播州出身者が多い黒田家中のなかでは、新参である。つまり、長政の代に家臣になった、いわば新顔であった。とすれば、筑前福岡の立花氏は、いかなる筋目の家系で、重種に至ったのか、それをみておこう。

 立花氏先祖については、遠くまで遡ってもあまり意味はない。戦国末期、ちょうど大友宗麟が勢力を張っていた時代以後で話はよかろう。関連諸史料*を総合してみれば、だいたい以下のような家系である。
 豊後の大友宗鱗が筑前に勢力を伸ばし在来毛利勢力と対決、大友家家老の戸次鑑連〔べつき・あきつら〕(1513〜85)が制圧に派遣され各地に転戦。立花鑑載・秋月種実・高橋鑑種・原田了栄・宗像氏貞・麻生隆実ら諸城主を降した。元亀二年(1571)正月に立花城入城、自ら滅ぼした立花鑑載の家名を、大友宗鱗の命によって継ぎ、立花道雪と称す。豊後の所領は猶子・鎮連に譲ったという。
 天正年間には筑後・豊前へ龍造寺隆信が侵攻、道雪は龍造寺勢との対戦に明け暮れるうちに、天正十三年(1585)筑後の戦地に死亡。後嗣の立花宗茂(1569〜1642)は、道雪の盟友・高橋招運(1548〜1586)の長男統虎で、道雪が娘のァ千代〔ぎんちよ〕の婿養子にした人である。
 天正十四年(1586年)、島津勢が筑前に侵攻、宗茂実父の高橋紹運は岩屋城で籠城し戦死。このとき宗茂は立花城で籠城抗戦、さらには島津軍を追撃し高鳥居城を攻め、岩屋城・宝満城を奪還した。そうして、翌天正十五年(1587)、大友宗麟の派兵要請に応じた秀吉の九州制圧に従軍し、功成って筑後四郡十三万石に封ぜられ、旧蒲池氏の居城・柳河城主に。これにより、立花宗茂ははじめて独立した大名となった。
 この立花道雪と宗茂に属した武将に、薦野三河守増時(1543〜1623)あり。筑前の裏糟屋郡薦野(現・福岡県古賀市薦野)を本拠とした地侍だが、立花道雪に降ってその与力となり、各地に転戦して戦功があった。宗茂が筑後柳河城主に封じられると、三河守増時もそれに従って筑後へ移転した。同地で城島城を預かり、四千石(五千石とも)の家老職。立花姓を許された。以来、薦野増時の子孫は立花姓を名のるのである。また立花宗茂の妹は、増時の嫡子・吉右衛門成家〔しげいえ〕の妻になった。
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では、立花宗茂は西軍についた。このとき家老・立花増時は、西軍に勝ち目はないとして、東軍への味方を進言したが、宗茂は、「秀吉への恩義がある。勝敗が問題なのではない」と斥け、増時を留守居に残して出陣、結果は周知の通り、東軍の大勝。 立花勢は、島津勢とともに敗走、宗茂は柳河に戻って加藤清正・黒田如水らの軍勢に一時抗戦したが、結局開城して退転した。
 そして、三河岡崎城主・田中吉政が、戦功(石田三成逮捕とか)により大出世、筑後柳河城主三十二万石を与えられた。かたや、主家消滅とともに宗茂の家臣は浪人となった。その多くは肥後の加藤清正に仕えた。立花増時は、筑前が本国であることもあってか、慶長六年(1601)黒田長政(1568〜1623)の招きに応じ、親族を率いて黒田家に仕える。黒田家は、関ヶ原戦後の筑前移封によって身上数倍に増大、家臣はいくら集めても足りない状態であった。
 黒田長政に出仕したとき、立花増時嫡子・吉右衛門成家は四千石、増時弟の半左衛門は千石を与えられた。増時はすでに高齢、隠居して二百人扶持を給付され(あるいは裏糟屋郡薦野村に隠居領600石とも)、号玄賀、または賢賀。
 かたや、かつての主人・立花宗茂のその後はやや不明だが、家康に請われて、江戸で五千石の旗本になったらしい。そのまま終りかと思われたが、まもなく陸奥棚倉一万石を与えられて、大名に返り咲いた。さらに大坂陣において戦功あり、その結果、元和七年(1621)再び柳河城主へ復帰するのである。
 というのも、かつて立花宗茂に替わって柳河城主になった、田中吉政が慶長十四年(1909)に死去、後嗣の忠政も元和六年(1920)に死亡して、嗣子なく廃絶。その後へ、立花宗茂が再入部し十一万石、まことに幸運な人と言わねばならない。宗茂は長命で、寛永十五年の原城攻めにも参戦し、昔日の勇姿を諸軍にみせたという。柳河立花家はその後明治維新まで城主であった。
 柳河の立花宗茂の方へ話が行ってしまったところで、以上が前史。










*【自得亭後序】
《自得々々、大なる哉や。古今を巻舒し、天地を摩挲す。山のたゝずまひ、水のながれ、雲のゆき、鳥のかへるをはじめて、げに静にみれば、皆人間の手をからず。花にあくがるゝより、ほとゝぎすをまち、月にさまよひ、雪をあはれむまで、おりふしのうつりかはれるにつけても、すむ人からに、猶うき世のほかのこゝちぞする。(中略)かつ山はたかゝらず、水は深からねど、仙あり龍あれば、名あり霊ありとか。此亭も、この人のあればなるべし。自得々々、大なる哉や》



*立花氏系譜史料
丹墀姓薦野氏系・丹墀姓略系・薦野氏系譜略二・薦野氏系・筑前立花系図、関ヶ原軍記大成、等。





戦国末期北九州割拠図



立花城址 


立花城図


*【立花家略系図】

     戸次鑑連
立花鑑載=道雪=┬宗茂 高橋招運子
        |  筑後柳河城主
        └女
 薦野      |
三河守増時┬吉右衛門成家
      |
      ├増利
      |
      ├甚兵衛重時
      |
      └彌兵衛増重

 筑前にあった立花増時の方は、旧主が柳河に復帰したとはいえ、すでに筑前黒田家に仕える身だから動く気色はない。ところが、吉右衛門成家の嫡子・雅歌助が早世、しかも吉右衛門成家も死亡。そこで、立花増時は成家の弟たちを出仕させた。すなわち、甚兵衛重時に八百石(一説に六百石とも)、彌兵衛増重に四百石を与えられた。
 弟の彌兵衛増重は、播州由来の小河〔おごう〕氏、勘左衛門の娘を妻にした。小河勘左衛門の息子が小河権太夫で、老いてのち露心と号したのだが、この件は本篇武蔵伝記で既述の通りである。寛永十五年(1638)島原役、彌兵衛増重は奮戦するも、鉄砲に当って戦死。この彌兵衛増重の息子が平六、先に再三登場した立花平左衛門重種である。
 重種は父・増重の家督を継ぎ、十四歳で出仕、黒田忠之に近仕した。平左衛門は忠之の命名だという。父・増重は知行四百石であったが、重種はこの忠之のもとで目覚しく出世する。すなわち、慶安二年(1649)二十四歳のとき三千石を与えられ家老に列する。そして承応三年(1654)黒田忠之が死んで光之が家督相続した後も、明暦二年(1656)三十一歳、七千石に加増、延宝五年(1677)五十三歳、知行ついに一万五百石余に達する。その生涯は、忠之・光之父子二代に取り立てられて、まさしく、派手な出世ぶりであった。
 光之の嫡子となった綱政の夫人は、立花氏のいわば本家ともいうべき、筑後柳河城主・立花氏である。すなわち、かの立花宗茂の孫娘、当主忠茂の二女ろく子である。この主家の縁組についても、重種が重要な役目を演じたことは想像できる。
 重種が出世するとともに、弟の勘左衛門(のち吉右衛門)増弘もまた家老となっているから、この立花兄弟の急速な出頭ぶりがうかがわれる。貞享二年(1685)重種六十二歳、致仕して隠居、号平山。隠居料八百石を与えられる。家督は長男・次郎太夫重敬が相続、家老職も継ぐ。重種致仕後も終生光之との交わりは深い。
 さて、重種の息子たちはどうか。嫡男重敬〔しげたか〕が一万石余の家督と老職を相続したことは、上述の通り、重敬は平左衛門を襲名する。二男の五郎左衛門重根〔しげもと〕は、隠居した光之付頭取となり、二千石。のち加増されて二千六百石、さらに隠居光之から六百石加増されて計三千二百石。四男専太夫峯均は五百石、五男源右衛門重躬〔しげみ〕は八百石。加えて、長左衛門系統の重常は二千石。そして重種弟の吉右衛門増弘は、六千三百石余の家老である。
 こうしてみると、島原役で戦死した彌兵衛増重の遺禄四百石は、孫の世代には一族計二万石余の家督になっていたのである。新参立花家のこの急速な一族隆盛は、スタティックな封建秩序のイメージを覆すものである。
 こうしたことは、十七世紀末まではまだ可能だった、と言い換えてもよい。むろん重種個人の抜群の力による。播州以来の古い譜代の、家中諸名族との軋轢も、当然あったろう。
 『吉田家伝録』所収の「此君居秘録」に、竹翁曰くとして、興味深い批判がある。竹翁とは吉田治年のことである。竹翁曰く、光之も綱政も宣政も、忠臣の直言に聞く耳をもたず、国政に真に心を尽さなかった。寵臣が、巧言で忠臣を讒言し自分に諛う人を昇進させ、私欲を達するため厳明な倹約嫌って華奢を好むのを、主君らが気にとめなかったので、年々、家中の風俗が悪くなり、国の財乏しく庶民は困窮するに至った、云々。
 さらにまた、竹翁が申すには、高位の人の子弟を昇進させるのは、その父兄の不幸である。光之の代に、黒田(立花)平左衛門重種の弟・立花勘左衛門増弘が、御納戸頭を命じられ、その後家老職に昇進させ、また平左衛門の次男・立花五郎左衛門重根に、御納戸頭を命じたこと、綱政の代には、家老斉藤忠兵衛貞則の嫡子・斉藤三郎大夫勇知に、御側御用勤めを命じらこと、これらを世人は善しとしなかった。立花平左衛門重種や斉藤忠兵衛が子弟の昇進を固辞しなかったことを非難し嘲笑した、云々。
 「此君居秘録」に記す竹翁の批判は、当時の黒田家中の空気であっただろう。ことに光之代に品悪しく出世昇進して、栄華絶頂を示した立花重種一族の振舞いは、心よく思われなかったばかりか、妬み嫉みもあって嘲笑の的になっていた。立花峯均は、そんな絶頂期にある重種の四男として、世に出たのである。

 『峯均筆記』によれば、立花峯均は十九歳で出仕というから、少し遅い。これは元禄二年(1689)。邦君綱政公とあるのは、すでに再三出てきた黒田綱政(1659〜1711)である。綱政は廃嫡となった長兄・綱之に替わって、延宝五年(1677)嫡子になった人で、元禄元年(1688)父の黒田光之が隠居して、綱政は家督相続した。したがって、前後の状況からして、立花峯均の出仕は、この光之→綱政の代替り直後のことである。
 ところが、薦野氏系譜には、峯均について、花房助之進の養子になったとある。花房助之進の父・権之助は竹田茂庵の子。竹田茂庵は養照院の縁者、つまり黒田忠之室で之勝母の二の丸殿坪坂氏の親族である。茂庵の子・権之助は、旗本花房志摩守の養子になり、島原陣のおり黒田忠之に仕えるようになった。
 この花房志摩守は花房幸次であろうか。ちなみに、花房志摩守先祖は本国播州、のち正成の代に宇喜多秀家の家老、三万石の備中高松城主であったが、慶長四年の宇喜多騒動で戸川逵安らとともに離反、関ヶ原直前、徳川家康の麾下に入った。以後子孫は、山田奉行などを勤める五千石の旗本である。しかし、花房志摩守の養子になった権之助は、黒田忠之に出仕して黒田家臣となった。
 花房助之進の家は、そういう家柄であるが、峯均が養子に入ったというのは、おそらく婿養子であろう。しかしまもなく故あって離別、峯均は父重種の家へ帰った。そのとき、助之進の家督千石のうち五百石を久太郎(峯均)に与えられ、助之進は隠居して、実子七十郎は、父の千石のうち半分の五百石を与えられたという。
 そうしてみると、実子七十郎がいるのに、花房助之進は立花峯均を婿養子にして、離縁のとき、家禄半分を峯均へ分与した、ということになる。あるいは、峯均が養子に入ったが、後に七十郎が生まれたのか。『峯均筆記』には、この養子に出たという話はない。しかし、峯均には一女子があって、宮崎氏へ嫁したという話もある(兵法列世伝)ので、峯均は婿養子に出たが、娘を連れて出戻った後、後述のように、妻帯せずに独身で奉公し、兵法修行したのであろう。
 とにかく、立花峯均は綱政に仕えて、采地五百石、ということである。元禄分限帳だと、采地四百石プラス蔵米百俵という内訳であるが、これでも取分は変らない。峯均の出仕が『峯均筆記』の記事にあるように、十九歳と少し遅かったのは、養子に出ている間があって、離縁して実家へ出戻り、出仕したからかもしれない。この養子話は、立花峯均の自記にはない。

 さて、『峯均筆記』の話の本題に戻れば、これは兵法自伝なので、ここは一流相伝者としての言明である。すなわち、立花峯均は二十一歳の春、吉田実連の門人となった。前にみたごとく、武蔵伝記の後記によれば、峯均は享保十二年(1727)、五十七歳。生年は寛文十一年(1671)である。つまり、峯均が吉田実連に入門した二十一歳の年は、元禄四年(1691)である。
 それから、十三年の功を積んで、元禄十六年癸未(1703)五月二十八日、一流相伝したのである。成就の年は峯均が三十三歳のときである。このあたりの具体的な話は後に出てくる。
 しかし、峯均が黒田家勤務でどんな役目を与えられていたか、不明である。後出のように、東府〔江戸〕または長崎へも欠かさずお供をし、とあるところをみると、綱政に近仕する小姓組だったかもしれない。少しでも暇があれば稽古に励んだ、というのだが、やはり家中の実力者・立花重種の息子とあって、特別待遇を受けていたようである。
 それで峯均が云うに、自分が一流相伝できたのは、ひとえに、実連の兵法が、我が父・重種の恩儀である縁によって実現したのである。それはそうだろう。この強力な支援者・重種がいなければ、柴任美矩・吉田実連の縁もない。また、峯均が吉田実連から相伝を受けるのにも、特別な便宜が図られたのである。
 そして、云う。――実連門人数百人の内、私一人以外に伝授の者はない、と。これまで再三繰返された唯一人相伝である。この一行を書くために、峯均はそれまで、繰り返し、相伝唯一人の伝系であることを強調してきたのである。武蔵から寺尾孫之丞へ唯一人、寺尾孫之丞から柴任美矩へ唯一人、柴任美矩から吉田実連へ唯一人、吉田実連から立花峯均へ唯一人、である。
 むろん、こういう唯一人相伝の形態を武蔵が望んでいたとは、とうてい考えられないが、武蔵流末孫のこの世代では、もうそんなことを強調せざるをえない時代になっていたのである。
 しかし実際には、吉田実連には、もう一人、甥の早川実寛に一流相伝者があった。これは立花峯均が流罪になった後、吉田実連が一流存続を期して、実寛を相伝者にしたのである。したがって、実連門人数百人の内、私一人以外に伝授の者はないと、立花峯均が主張するのは、いささか穏やかではないのであった。この件については別に述べる通りである。  Go Back




*【立花家略系図・続】

○三河守増時┬吉右衛門成家
      |
      ├増利
      |
      ├甚兵衛重時―増成
      |
      └彌兵衛増重
 ┌――――――――――┘
 ├長左衛門重興┬重常
 |      |
 |      └重貫―重武
 |
 ├平左衛門重種┬重敬―重昌
 |      |
 |      ├重根―道ロ
 |      |
 |      ├増武 増成養子
 |      |
 |      ├峯均 断絶
 |      |
 ├重友    └重躬―勇勝
 |
 └勘左衛門増弘―増能―増直





















*【此君居秘録】
《竹翁曰ク、光之君・綱政君・宣政君、忠臣ノ直言ヲ用ヒ玉ハズ、国政ニ実ニ御心ヲ尽サレズ、寵臣ノ巧言ヲ以テ忠臣ヲ讒シ己ニ諛フ人ヲ挙ゲ進メ、私欲ヲ達スベキタメ厳明ノ倹ヲ嫌フテ、花奢ヲ好ムヲ、覚〔サトリ〕玉ハザルニ依テ、年々ニ御家中ノ風俗悪シク成リ、御国財乏シク四民困窮ニ及ベリ》
《竹翁申候ハ、有職ノ人ノ子弟挙ゲ進メラレ候ハ、其父兄ノ不幸ニ候。光之君ノ御代ニ、黒田平左衛門重種ノ弟・立花勘左衛門増弘、御納戸頭命ジラレ、其後家老職ニ進メラレ、平左衛門ノ次男・立花五郎左衛門重根、御納戸頭命ジラレ、綱政君ノ御代ニ、家老斉藤忠兵衛貞則ノ嫡子・斉藤三郎大夫勇知ニ、御側御用勤仰付ラレ候ヲ、世人善〔ヨシ〕トせズ。平左衛門・忠兵衛ノ固辞せザルヲ誹謗リ笑ヘリ》









*【薦野氏系】
《峰均 立花専太夫、仕于綱政公、賜米地五百石》
*【薦野氏系譜畧】
《峰均 立花久太郎、後専太夫。母妾□〔欠字〕田杢助妹。断絶。花房助之進為養子、後有故離別、帰重種家。于時、助之進拝地之内、五百石久太郎江被下、助之進隠居、実子七十郎江千石之内五百石被下。仕于綱政公、采地五百石》































*【丹治峯均筆記】
《武州、門人数百人ノ内、肥後之住人、寺尾孫之允信正一人、多年ノ功ヲ積テ當流相傳セリ》《武州公数百人ノ門人ヨリ撰ビ出シ傳授アリシ人ナリ》
《信正傳授ノ弟子、柴任一人也》
《柴任門人数百人之内、一流傳授、利翁一人也》

 
 (2)明石ヘ相越、柴任面會、終日稽古セシ也
 ここは、峯均が兵法成就にいたるまでの、具体的な記述である。またとくに、柴任美矩に関する明確な情報もあって、晩年の播州時代の柴任研究には、貴重な証言である。
 まず、私の家は、とある。これは、立花峯均が独身者であることから、実家の父の屋敷だと推測する向きもあるが、そうではなく、これは、峯均が与えられていた屋敷であろう。それが城下のどこになるか、我々は把握していない。
 ただし、この記事の中で、御城近く居宅を下されるとの仰せ事があったけれど、お断り申し上げたのも、実連に隨仕する志が深かったからだ、云々と書いているところをみると、立花峯均の屋敷は、城に近い屋敷町ではなかったようである。それがどこになるか、これは地元九州の研究者の今後の探求を待ちたい。
 ともあれ、吉田実連が四百石、峯均が四百石プラス蔵米百俵なら、ほぼ同じクラスなので、同じ区域に屋敷が割り当てられる。それが、実連の屋敷と裏と裏が隅合いの合壁で、という。つまり、裏の塀の一部が互いに接するというわけで、そこを行き来できるように戸口でも設けたらしい。
 そんなに具合よく屋敷割りがなされるわけもなく、これは偶然ではなく、人為的な計らいである。吉田実連の家の隣だったらよいな、と思ったら、そんな屋敷が峯均に割り当てられたのである。立花重種の息子には、何でも事は叶うのである。
 そういう便宜を受けて、峯均は、少しでも暇があると、吉田実連と互に行き通い稽古した。裏口が通じた、そういう同居に近い環境なので、これ以上の条件はない。だから、御城近くに居宅を下されるとの意向があったけれど、お断り申し上げた。というのも、実連の側にいて隨仕する志が深かったからである、と語る。
 吉田実連は、前にみたごとく、長崎番や江戸留守居など勤めているから、福岡を留守にすることも少なくなかっただろう。しかし、綱政の代になると、むしろ福岡にいることが多かったかもしれない。綱政は、芸術サロンの一員として、実連を側におきたい。となると、立花峯均には有利な環境である。
 立花峯均自身の言によれば、とにかく熱心に稽古した。綱政のお供で長崎や江戸へも欠かさず行くのだが、その間にも決して稽古を怠らない。彼地に到着した翌日から、出発の前日まで、毎日太刀を振らない日はなく、また江戸や長崎への旅の間も、たえず太刀を取って稽古した。海陸旅行の間も、とあるから、たぶん御座船に乗っていても稽古したのだろう。もちろん、福岡へ帰ってくれば、なおさら昼も夜も稽古をした。

 柴任美矩も、峯均の父・重種とは旧友であり、たびたび文通したという。この「たびたび文通した」の主語は、ここでは、重種というより、峯均自身のようである。柴任は、父の旧友であり、また師匠・吉田実連の師匠でもある、この人物と、峯均は文通するようになっていたのであろう。
 それで、柴任が、機会があれば、一度稽古してやろう、ということになった。ところが、仕官の身の上だから、おいそれと、播州明石の柴任のところへ行くわけにもいかない。唯一のチャンスは、綱政の江戸参勤のお供をして、明石の側を行き来するから、その途中で立寄ることである。



福岡県立図書館蔵
福岡御城下絵図



屋敷区画隅合いの事例

九州大学蔵
海山名所図絵 林田家文書
 元禄十四年(1701)四月というから、峯均は三十一歳、吉田実連の門弟になって、はや十一年目である。柴任美矩に見てもらってもよいほど、上達もしていたのであろう。この年は綱政下国の年で、帰路明石の側を通る。筑前黒田家の綱政一行の船は、摂津兵庫湊に停泊した。摂津の兵庫湊とは、清盛以来の古くからの港、現在は周辺地形が変貌してしまっているが、神戸港西の和田岬脇にあたる。
 明石の柴任のもとへ行きたい、夜中には帰ると、綱政の許しを得て、明け方兵庫湊から明石へ向かった。これは、おそらく陸路である。海辺の道は、須磨浦、舞子浜を通って、およそ四里ばかり。この距離だと、今日の時刻でいうと、おおよそ午前十時には明石へ着いただろう。
 峯均は、はじめて柴任美矩と面会した。老人は、若年のころ肥後で宮本武蔵を実見した人であり、寺尾孫之丞の印可を受けた、当流第三祖である。前出『峯均筆記』の記事によれば、
  《勝レタル大男ニテ、容儀弁舌双ビナキ恰好也》
という人物であった。柴任は、峯均の父・立花平左衛門重種とは四十年来の旧友である。重種は寛永三年(1626)生れだから、柴任と同年代。むろん両者は、峯均が生まれるよりずっと以前からの知人である。柴任の年齢は、我々の生年仮説によれば、このとき七十三歳になっている。この日会って、終日稽古したというから、なお壮健なる老人である。
 このとき、峯均は柴任の妻にも会っている。ここで記事は《大原惣右衛門妹。翌年卒ス》という割註を入れている。大原惣右衛門の妹である柴任の妻は、大和郡山で結婚した配偶者である。この年まだ達者だった。というのも、次回峯均が訪問したとき、彼女はすでに亡くなっていたから、峯均はここでとくにそれを記したのであろう。老夫婦は峯均が来たのを、ほんとうに喜んでくれた。
 それから、九州の立花峯均がやって来たというので、柴任孫の男たちが柴任美矩の家へ集った。柴任夫婦に子がないので、大和郡山時代に妻の実家・大原家から養女をとり、彼女を橋本七郎兵衛へ嫁がせた。柴任孫の男たちというのは、この橋本夫婦の息子たちである。
 ここで、柴任の子孫に関する貴重な情報が得られる。というのも、峯均は、柴任孫の男たちの名を記録しているからである。すでにこの記事は、前に先取りして関説しているが、ここで改めてみておく。
       (長男)  善兵衛
       (二男)  柴任源太郎
       (三男)  大原清三郎
とある。長男の善兵衛は橋本家嫡男で、むろん「橋本」善兵衛であろうが、興味深いことに、二男が「柴任」源太郎、三男が「大原」清三郎と記されている。となると、養女を嫁した橋本七郎兵衛の息子たちのうち、二男・源太郎に柴任の家を嗣がせ、そして三男・清三郎に妻の実家・大原家を嗣がせた、と読むことができるのである。
 ここで注目すべきは、「柴任源太郎」とあって、柴任が源太郎を養子にして柴任の家を嗣がせている、ということである。したがって、本庄家別冊家系譜の「子孫なし」という記事は、肥後の本庄家末孫が、勝手にそう思い込んでしまったもので、明らかに誤伝である。これはすでに述べたことがあった。
 もう一人、三男が「大原」清三郎。これは、養女の息子に、断絶した妻の実家・大原家を嗣がせた、ということである。このことからすれば、橋本七郎兵衛妻になった柴任の養女は、やはり大原惣右衛門の娘で、柴任美矩にとっては妻の姪であろうと思われる。
 以上のように、筑前福岡の黒田家臣、立花峯均の歓迎会に参集した息子たちの記録から、重要な情報が得られる。これも、明石訪問の具体的な記事を、峯均が残してくれたおかげである。
 さて、柴任の家には、橋本七郎兵衛とその三人の息子たち、それに「七郎兵衛婿弟」とあるから、これは橋本七郎兵衛の娘婿の弟まで参会して、歓迎の宴があった。峯均は、日帰りの約束で暇をもらったのだから、この夜は宿泊せず、夜半、兵庫湊へ帰ったのである。


兵庫湊 海上絵図



明石・兵庫 海山名所図絵部分


*【柴任美矩子孫】

○本庄喜助┬本庄角兵衛
     |
     └柴任三左衛門
        │
       ┌ 柴任妻
       |
 大原勘右衛門┴惣右衛門┐
 ┌――――――――――┘
 ├惣右衛門 無嗣廃絶
 |
 └女 柴任養女
    ├─――┬善兵衛
    |   |
 橋本七郎兵衛 ├柴任源太郎
        |
        └大原清三郎

 (補記)――柴任の教えを受けたこのころまで、吉田実連から立花峯均への五輪書伝授はいかなる次第であったか。これについては、立花峯均系統の五輪書が筑前で出ないので、不明であった。しかるに、幸いにも平成二十年春の越後調査で、地元関係者の協力により発掘した史料がある。石井家本三巻兵書である。筑前二天流の越後への伝播は、丹羽五兵衛信英によるものだが、その系統の兵書三巻(地水火巻)である。そこには、吉田実連から立花峯均への五輪書各巻伝授の期日が明記してあった。
   地之巻 元禄八年(1695)十月十二日 (峯均二十五歳)
   水之巻 元禄四年(1691)七月廿六日  (二十一歳)
   火之巻 元禄十三年(1700)八月十九日  (三十歳)
 このように、地之巻より水之巻の方が伝授が早いのは、柴任美矩から吉田実連への伝授に倣ったものとみえる。また、峯均の入門が二十一歳のときであるから、入門して間もなく水之巻の伝授があったらしい。これも、柴任美矩から吉田実連への伝授の法を踏襲したもののようである。入門間もない初心の門弟に、水之巻を伝授していたとすれば、当時の五輪書水之巻の用法がわかるのである。
 元禄十四年(1701)に、立花峯均は、明石の柴任宅でその教授をうけたのだが、上記のように前年の元禄十三年に火之巻までの伝授を受けていたのである。そして、福岡で吉田実連から火之巻までの伝授を受けて、立花峯均は、その年、主君の参勤上府に随行し、江戸で越年して、四月に明石へ立ち寄ったという次第である。
 こうしたことは、越後の二天流伝書の発掘によってはじめて判明したことである。新史料の発掘が事蹟ディテールの具体化に寄与した例である。よって、我々の『丹治峯均筆記』読解研究を補足する新情報として、ここに追記しておきたい。(以上、2008年 補記)  Go Back



個人蔵
越後石井家本三巻兵書
個人蔵
三巻兵書 地之卷
元禄八年(1695)十月十二日

個人蔵
三巻兵書 水之卷
元禄四年(1691)七月廿六日

個人蔵
三巻兵書 火之卷
元禄十三年(1700)八月十九日

 
 (3)道隨居宅、明石ノ水主町ノ外レニテ、海邊ヨリ程近シ
 これより前、というから、元禄十四年に立花峯均が柴任美矩の指導稽古をうけたときより前から、ということであろう。吉田実連が発病して、年を追って気力が衰え、兵法伝授ができなくなっていた。そういうこともあって、峯均は元禄十四年に明石で柴任の指導を受けたのであっただろう。
 吉田実連はこのころ年齢六十歳半ば、すでに隠居して家督を嫡子実勝へ譲った後だったろうが、『峯均筆記』によれば、病気で気力が衰えていたという。それで、実連は師匠の柴任へそのことを伝え、立花峯均の指導を頼んだ。
 元禄十五年(1702)三月二十四日、峯均の父・立花重種死去。享年七十九歳、長命であった。峯均はこのとき、三十三歳である。
 同年冬、立花峯均は東府参勤の綱政に随行して、江戸へ行く。このころ、綱政父の光之は隠居の身であるが、綱政と交替に江戸往還をしている。元禄十五年をみると、光之は、四月江戸着、閏八月まで江戸に居て、帰国する。同年秋、入れ替わりに綱政が江戸へ出てくる。そのように隠居した先代が、しばしば江戸へ出勤するのは、黒田家は外様大名で、人質慣行があったからである。当主が帰れば、だれか代りの重要人物が江戸に居る必要があった。
 この元禄十五年十二月十四日夜、播州赤穂の牢人たちが吉良義央の屋敷を襲撃し、吉良の首をとった。翌元禄十六年二月四日、吉良邸へ討ち入った赤穂浪人らが、預けられた細川家はじめ諸大名の江戸屋敷で切腹。
 元禄十六年(1703)の春、というからちょうどそのころ、前年から江戸にいた立花峯均のもとへ、播州明石の柴任美矩から手紙がきた。吉田実連から話は聞いた、自分が兵法伝授のことは引き受けた、明石で伝授しよう、というのである。
 四月、綱政が帰国の途につく。立花峯均もそれに随行して、まず大坂へ。大坂での御用を終えて、とあるが、大坂で峯均にどんな仕事があったか不明。この年は強雨が続き、川が増水し、大坂では綱政一行の船が橋の下を通れない。つまり、黒田綱政一行は江戸から京まで陸路、それから伏見で乗船して淀川を下り、大坂まで出てくるというコースである。すると、大坂の橋々の下を船が通れないとなると、大坂を出ることはできない。それで、一行は大坂に予定外の二日間逗留。そこで時間ができた。このあたり、状況説明は詳しい。
 立花峯均は、一昨年と同じく、明石へ立寄らせてもらうことにした。こんどは、大坂から小舟で明石へ直行である。これは大坂から明石まで、舟で行った方が早いということではなく、おそらく集中豪雨の水害で陸路に難があったためだろう。河川が増水したり洪水したりしていれば、陸路では踏破はできない。それで、小舟を雇って明石まで行ったようである。
 海路明石へ着くと、すぐに峯均は到着を知らせた。柴任道隨老人が出迎えた。ここで、貴重な情報記事がある。それは、柴任の居宅は、明石の水主町のはずれで、海辺からほど近いところにあった、ということである。この柴任宅については、この『峯均筆記』読解の柴任美矩のページですでに述べてあるし、もともと平成十六年には[サイト篇]明石城下のページで比定地特定が行われていた。
 この「水主町のはずれ」というのは、中崎にあった御水主町の東側である。淡路島を眼前にした風光明媚の場所で、柴任道隨の隠宅にふさわしい。海辺から近いのは云うまでもない。
 立花峯均にとって二度目の柴任宅訪問だが、今回は二晩泊めてもらった。そうして、柴任から晴れて直通伝授があったのである。これは、吉田実連からのかねてよりの依頼があって、柴任は立花峯均に伝授した。「直通伝授」というのは、おそらく直通〔じきづう〕の位という最終的な教えがあったのである。これによって、実質的には、峯均は柴任美矩から一流相伝されたも同然である。
 一昨年と同じく、柴任の一族こぞって歓待してくれた。その顔ぶれは、橋本七郎兵衛以下息子たちであろうが、一人だけ欠けていた。柴任の妻である。彼女は前回の訪問の折は健在だったが、今回はすでに姿はなかった。峯均も前年、父・重種を亡くしている。
 柴任宅で二泊して、綱政一行の船が明石の沖を通過する。その頃合をみて、立花峯均は一行の船に乗り移った。参勤交代の船は明石には停泊しないから、沖合いまで小舟で漕ぎ出して、船に乗り移ったのであろう。このあたりも、前々からの段取りがなければできないことである。峯均が、特別扱いを受けているのは、これだけでもわかる。
 今回の下国は、長崎番視察があったのか、綱政一行はそのまま海路長崎まで足を延ばして、長崎で上陸した。それが済んで、立花峯均は帰国した。峯均は吉田実連に会い、五月二十八日、実連から五輪書の「空之巻」を渡され、三箇之大事を再授して、一流成就した、という。
 すでに明石で柴任美矩から「直通伝授」を受けていたから、吉田実連から立花峯均への相伝手続きは形式的なものである。しかし、柴任が吉田実連の師匠とはいえ、フォーマルな師匠はやはり吉田実連だから、順番を間違えるわけにはいかない。このとき吉田実連から峯均に、残る空之巻を伝授された。これは、吉田家本五輪書の追補部分の相伝証文において、交付年月日とともに確認しうる。
 現存写本によれば、武蔵が遺した空之巻に応答する「空意」を付して、空之巻を師匠から弟子へ授与したもののようである。吉田実連からは、「武蔵流の兵法に、貴殿がご執心により、先師武蔵以来伝えおかれた趣旨を残らず相伝し、究極の兵書五巻(五輪書)をお渡しする」とあって、相伝文の規矩を備えて、「空は無にして有なること、もちろんである。ろく(陸・水準)は偏る心なく、汚れたる意味のないのを、兵法の空と云うべきなり」と、実連所懐の空意の解を示すものである。
 こうして、空之巻を授与されたのだが、次に、「三箇の大事を再授して、一流成就した」とある。三箇之大事。これは、もともと仏家の語彙だが、兵法の分野でも普及して、たとえば新陰流截相口伝書事には、「三箇大事」として、拍子有る構えの事、拍子なき構えの事、身離る構えの事という三項目を列記している。いうまでもないことだが、三箇の大事というのは、武蔵流に限らず、ごく普通の兵法語彙である。
 しかし、ここに出ている「三箇の大事」に関して、この新陰流伝書にあるのと同じような口伝事項があったか否か不明である。ただ、「三箇の大事を再授して」とあるから、これは明石で柴任美矩が峯均へなされた「直通伝授」の反復であることは確かで、このケースでは「三箇の大事」とは、口伝事項の謂である。これによって知れるのは、筑前の二天流道統に、こうした口伝事項があったことである。たしかに五輪書において、「口伝」とある条々が三ヶ所あった。水之巻の「打あひの利の事」と「直通の位と云事」、火之巻の「いはをの身と云事」である。
 しかるに、武蔵は、我が一流において、太刀に奥口なく、構えに極りなし、とも語る人だから、口伝が究極の秘儀に関わるとも思えない。「口伝」という文字は、我々の五輪書研究の結論では、寺尾孫之丞の段階で後入れされた字句である。
 「口伝」とは「書かれていない事」(unwritten)である。ただし、寺尾孫之丞以後、この口伝が重要視されるようになったようである。むしろ、「三箇の大事」ということを言い出した武蔵流裔に問題があるように思われる。新陰流をはじめ他流のイデオロギー的な影響を受けはじめているのである。
 ともあれ、立花峯均は、師匠の師匠・柴任美矩の助けをもかりて、こうして兵法一流成就に至ったのである。  Go Back







忠臣蔵夜討之図
一立斎重宣(二代広重)画



京伏見方面
大坂古地図集成
新撰増補大坂絵図 元禄4年



享保期明石城下町図
御 城   侍屋敷   足軽屋敷
寺 社   町 家
(播磨武蔵研究会作製)









*【吉田実連相伝証文】
《武州一流之兵法、依御執心、先師已来被傳置趣、不残令相傳、至極之兵書五巻渡進候。空は無にして有なる事勿論也。ろくハかたよる心なく、汚れたる意味之なきを、兵法之空と云べき也。已上
  元禄十六年未五月廿八日
           吉田太郎右衛門実連
                    在判
       立花専太夫殿 》


*【新陰流截相口伝書事】
三箇大事
 一、拍子有かまへの事
 一、拍子なきかまへの事
 一、身離かまへの事
三拍子之事
 一、越拍子事
 一、付拍子事
 一、当拍子事
三見大事
 一、太刀さきの事
 一、敵之拳の事
 一、敵之顔の事
 右条々口伝有之》


*【五輪書】
《一 打あひの利の事。此打あひの利といふ事にて、兵法、太刀にての勝利をわきまゆる所也。こまやかに書記すにあらず。(能)稽古有て、勝所を知べきもの也。大かた、兵法の実の道を顕す太刀也。口傳》(水之巻)
《一 直通の位と云事。直通の心、二刀一流の實の道をうけて傳ゆる所也。能々鍛練して、此兵法に身をなす事、肝要也。口傳》(水之巻)
《一 いはをの身と云事。巖の身といふは、兵法を得道して、忽巖のごとくになつて、萬事あたらざる所、うごかざる所。口傳》(火之巻)
《我一流におゐて、太刀ににおくくち〔奥口〕なし、搆に極りなし。只心をもつて其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》(風之巻)

 
 (4)明石ヘノ御暇モ、偏ニ御恩ノ一端也
 ここは、立花峯均が父・重種のこと、あるいは、主君・黒田綱政(1659〜1711)の「御恩」を、繰り返し述べるところである。
 まず、二師(柴任美矩・吉田実連)の親切は、我が父の旧志に拠らずして、どうしてここまでできようか、という。柴任美矩も吉田実連も、峯均の父・重種には恩義があった。たしかに、そんな縁がなければ、立花峯均が一流相伝できたかどうか、それは峯均自身が記すように、ありえなかったことかもしれない。
 これを峯均の謙遜とみるのが、こういう文章を読むばあいの常道である。しかし、峯均にとっての二師、柴任美矩と吉田実連の二人からすれば、峯均が本当のところどう見えていたか、それはわからない。立花重種の息子だから、印可を与えた、という部分もあったはずである。しかし、峯均自身は真剣に修行して、その功あって一流成就したと思っている。そこが、筑前二天流の微妙な問題の残るところである。
 そして、立花峯均は主君・綱政の「御恩」を強調する。我が父以来の御高恩というが、父・重種が目覚しい出世をするのは、実際には、先君光之の代である。重種が在世中は綱政も、光之代以来の権勢を容認していた、というのが実態であろう。それはともかくとしても、綱政は立花峯均より一回り年上であり、峯均は十九の歳に綱政に出仕して以来、綱政以外に仕えた主人はいない。
 ここは峯均が、自分の兵法修行に対する綱政の特別な配慮に感謝するかたちである。明石で柴任から稽古を受け、また、直通伝授を受けたのも、江戸参勤の帰途、綱政が峯均に特別な便宜を与えてくれたからだと。このように綱政の「御恩」をかくまで強調するのは、もちろん峯均が相伝したこの武蔵流兵法が、綱政の御墨付きであることを示すためである。
 それに、峯均の身の上のことでも、綱政が峯均の結婚妻帯について何度か斡旋の労をとろうとしたことがあったことを記す。綱政から父の重種、長兄の重敬、次兄の重根、そして叔父の増弘(重種弟)へ話があったが、峯均はそれを奉公第一、兵法修行専一を理由に断わった。
 独身で身軽に御奉公させていただきたい、自身大願の兵法修行も、もう少し高い位に登りたい、というわけで、自分の我ままで独身を通させてもらった、というのである。当時、武士が独身者であることは、それ自体珍しくはないが、峯均のケースでは、一女子があって、宮崎氏へ嫁したという話もある(兵法列世伝)ので、峯均は婿養子に出たが、離別して立花氏へ戻った後、一女を育てながら、この話のように、再婚もせずに独身で奉公し、兵法修行したのであろう。
 奉公については、綱政の生涯の間怠りなく勤仕し、さらに御百年の後、つまりその百回忌に拜録を差上げる、ということで、薙髪〔剃髪〕して高恩の一端をも報謝し奉るつもりだという。死後百年までも勤仕するというから、これは修辞的な、大げさで極端な物言いであるが、それくらいの気持ちでいたということである。この志において、ある意味で『葉隠』の山本常朝(1659〜1719)に近いスタンスの武士道が表白されている。
 しかしながら、峯均がこういう綱政への奉公赤誠の志を強調するにつけても、やはりこれは、綱政との君臣関係における複雑な心情が吐露されているとみるほかない。なぜなら、この立花峯均は綱政によって流刑に処された人物であったからだ。  Go Back




















*【立花家略系図】

○三河守増時┬吉右衛門成家
      |
      ├増利
      |
      ├甚兵衛重時―増成
      |
      └彌兵衛増重┐
 ┌――――――――――┘
 ├長左衛門重興┬重常
 |      |
 |      └重貫―重武
 |
 ├平左衛門重種┬重敬―重昌
 |      |
 |      ├重根―道ロ
 |      |
 |      ├増武 増成養子
 |      |
 |      ├峯均 断絶
 |      |
 ├重友    └重躬―勇勝
 |
 └勘左衛門増弘―増能―増直

 
 (5)事ニ坐セラレテ、大蛇嶋ニ謫居ス
 ここで峯均は、自身の流刑と帰還のことを語る。そもそも、綱政の恩顧を十分受けていたはずの彼が、なぜ流罪になったのか。
 すでに述べたように、立花氏は新参ながら、峯均兄弟の父・立花重種(1624〜1702)は、黒田忠之に仕えて出世し、光之の代にはさらに目覚しい出頭ぶりで、采地万石余、黒田家の重鎮となった。重種は貞享2年(1685)致仕隠居するが、嫡子重敬は采地万石余の家督相続を認められ、家老職も引き継いだ。重種は隠居後も十七年余生した。
 重種二男・五郎左衛門重根(1655〜1708)は、兄弟の中でも出色の人であった。寛文二年(1662)八歳にして光之に召し出され、以来近習、側近として長く仕えた。文芸方面で才能を発揮した人で、とくに和歌は中院〔なかのいん〕通茂(1731〜1710)に学び古今伝授を承けたという。
 中院通茂は権大納言従一位、宮廷の上位貴族であるとともに、後水尾天皇(1596〜1680)から古今伝授を受け、宮廷歌壇のリーダーともいうべき人物である。立花重根はその弟子で、後水尾天皇の勅点を受け宸翰を賜ったとされるが、これは年齢的に合わない。後水尾天皇の譲位は慶安四年(1651)、重根の生まれる前である。後水尾天皇の勅点や宸翰というのは、筑前の伝説であろう。ただ、たしかに立花重根は京都文化と深いつながりをもち、福岡黒田家中における文芸界の中心人物であった。
 このような立花重根は、黒田光之側近として仕え、元禄元年(1688)の光之隠居後は、隠宅頭取となって、光之のいわば院政の鍵を握るポジションにあった。このとき光之側近として専横のことがあったようで、それが後に禍を招くことになる。
 宝永四年(1707)五月二十日、光之歿。享年八十歳。重根は四十五年も光之に仕えていたことになる。七月重根は出家を願い出る。九月重根は隠居を命じられる。光之側近の藤井勘右衛門・根本金太夫も隠居。長年仕えた光之死去にあたって隠居とあれば、これ自体は異とすべきではない。翌日、重根は東林寺で剃髪して号実山宗有、屋敷を出て那珂郡住吉村の松月庵に移った。家督は嫡男・太左衛門道ロへの相続が認められた。
 しかしながら、このとき同時に、重根の弟・専太夫峯均が、百石減知され大組へ配置転換となった。大組そのものは重要な組織だから左遷とは言えないが、峯均は君側から遠ざけられたということであろう。
 翌宝永五年(1708)五月二十日、光之の一回忌法要が執行された。そして六月三日、重根(実山)は逮捕されて野村太郎兵衛裕春に身柄を預けられ、嘉麻郡鯰田村(現・福岡県飯塚市鯰田)に幽閉された。重根の嫡男・太左衛門道ロは相続したばかりの家督を没収され、吉田久太夫利房に預けられ、宗像郡村山田村(現・福岡県宗像市村山田)に幽閉された。
 そうして、このとき、重根の弟・立花峯均は事件に連座して、玄界灘の小島・大蛇島へ流刑となったのである。いったい何があったのだろうか。
 先に吉田実連のページで、吉田知年の娘が野村勘右衛門為貞に嫁し、夫婦の二女(知年の孫娘)が、立花五郎右衛門重根の妻となったことを述べた。吉田家と立花家は、野村勘右衛門家を媒介にして、親戚関係にあったということである。
 差障りがあったのか、『吉田家伝録』はこの事件の記録を省略している。ただ吉田知年の姻戚関係を記す章に、立花重根の事件を記しているのみである。それによれば、事件は《綱政君、重根ノ旧悪ヲ糺サレ》ということである。つまり、主君綱政が、立花重根の旧悪を断罪して、このような仕置になった、というわけである。
 この「重根の旧悪」とは、むろん光之側近としてあった頃の所業に関することであろう。とすれば、光之が死去し、またその一周忌法要も済んだ、というところで、綱政は重根逮捕に踏み切ったのである。
 光之の死の二年前ほどから、光之・綱政父子の関係が険悪になっていた。同年光之は遺言状を記しているが、その中には自分の死後、立花重根ら側近の家督安堵を、ことさらに頼むくだりがある。とすれば、光之には、自分の死後、綱政が立花重根らを排除するという予感があったのであり、光之・綱政父子の関係が険悪化したことと、「重根の旧悪」とは何か関連があるはずで、これはある意味で政治的な権力抗争だったのである。
 言い換えれば、光之側近の立花重根の権勢と、隅田清左衛門重時ら綱政側近グループの権勢との衝突で、重根は綱政の治世を批判することもあったのであろう。「重根の旧悪」がついに明らかではないのは、綱政体制にとって重根が政治的障害物だったからである。要するに重根は、権力抗争に敗れて粛清されたのである。
 峯均が連座して流罪になったのは、少々わかりにくい話である。それは、光之派・綱政派の対立なら、峯均は最初から綱政に召出され、しかも長く近仕していたから、綱政以外に主人を知らない。その峯均が島流しになるというのは、よほどのことがあったとみなければならない。言い換えれば、綱政君側にあって重根に通じるスパイだとか、そんな嫌疑がかかったのであろう。
 しかし、こういうことは、光之が死ねば…というわけで、こちらもあちらも、予測済みの未来であったはずだ。重根側には、何の手も打った様子もない。それまでの所業が祟ったのか、孤立無援のさまである。しかし何か、従容として落日を迎える、という姿勢である。
 重根は幽閉から五ヵ月後、同年十一月十日、謫居先で死亡した。五十四歳であった。重根の死は、暗殺されたとも切腹を命じられたとも云うが、明らかではない。文字通り、その最期は闇に葬られたのである。
 翌宝永六年から次第に重根の兄弟、親族への処分がはじまった。まず重根の実弟で、立花増成の養子になって家督を継いだ小左衛門増武は、綱政の小姓頭だったが御役御免となった。翌年になると、重根の従兄で、中老上座であった長左衛門重常が隠居を命じられ、家督は半減された。同年、重種嫡流の知行万石余の次郎太夫重昌〔しげなり〕も隠居を命じられ、嫡子・徳太夫増敬〔ますゆき〕には四千石のみ、そして祖父重種に与えられた黒田姓は剥奪され、中老職に格下げ。これらは、いづれも、重種の時代に光之に重用され異常に膨らんだ立花一族の家督身分を回収する動きであり、子や孫からすれば重種時代の栄華と遺産の滅失であった。



山種美術館蔵
中院通茂 一首懐紙

*【黒田家譜】
《就中立花五郎左衛門ハ菟裘君の老臣にて、寵恩ふかき者なりしが、文才有てはやくより歌学を好みしかば》










重根・道ロ・峯均流謫地図



*【吉田家伝録】
《重根ハ黒田平左衛門重種ノ二男ナリ。光之君納戸頭御用勤命ジラレ、采地二千七百石賜ヒ、後光之君御隠宅ノ家老トナリ、隠退シテ宗有ト号シ、那珂郡住吉邑松月菴ニ閑居ス。重根ノ嫡子・当立花太左衛門家ヲ続グト云ヘドモ、綱政君重根ノ旧悪ヲ糺サレ、野村太郎兵衛祐春ニ預ラレ、采地嘉麻郡鯰田村ニ籠居シ。終ニ同所ニ没ル。太左衛門ハ采地没収セラレ、吉田久太夫利房ニ預ラレ、采地宗像郡村山田村ニ籠居ス。宣政君ノ御代ニ至リ免許セラレ、今蓆田郡上月隈村ニ幽居ス》






峯均流謫地 大蛇島
 さて、重種の四男・立花峯均は、玄界灘に浮ぶ孤島、大蛇島(小呂島)へ流された。島名は「おろのしま」と読む。
 貝原益軒『筑前国続風土記』志摩郡条によれば、――この島は西浦より北東十三里の海中にあり。島の周り二十六町、南北の長さ十一町、東西五町十八間の小島である。「おろ」とはおろち、大蛇。昔はこの島に大蛇がいたので、この名ありと云い伝える。今もなお大蛇が蟠っていたという穴が多いと云っている。この島に宗像大神の社がある。また、非常の外国船が来るの監視するため、国主が島守を置き、その番所がある。島民の数は百人にも足りない小邑である。国君から、時々この島に罪科ある者を流し流刑の島である。忠之の時代からそうなった、云々――というわけで、だいたいのことはわかる。
 「おろ」とは大蛇というのは俗説である。こういう海上孤島は海神の聖地であり、「ヲロ」は「ヲロガム」、拜むであって、この島に宗像大神の社があったのは、古代信仰の名残りである。そういう海神信仰の聖地が流刑の島になっていたのである。
 筑前福岡城主・黒田家は海上防備の任務があり、この島に監視隊を派遣していた。常駐の番士もいるので、忠之代から流罪者も送るようになったものらしい。余談になるが、宝永年間の当時、この海域は抜荷、密輸業者が跳梁していた、という興味深い事実もある。外国船を監視するどころか、朝鮮との間の密輸業者を取締る任務もあったのである。
 『筑前国続風土記』は貝原益軒(1630〜1714)の編纂、本書の序文を依頼したりした立花重根が失脚し、彼の弟峯均がこの島へ流刑になるとは、貝原益軒は夢にも思っていなかったはずである。
 ともあれ、立花峯均が流されたこの島は、福岡から約五十キロ離れた絶海の孤島である。峯均はもう一生帰還はかなわぬと諦めたであろう。ところが、思いがけないことに情勢が変った。
 正徳元年(1711)綱政が死去。嫡子・宣政(1685〜1744)が家督相続した。その後正徳三年(1713)、今度は隅田重時ら綱政側近を粛清する措置が三月にあり、七月には重根嫡男の太左衛門道ロらに赦免があった。しかし峯均には、遠島赦免はまだない。
 他方で同年秋、宣政が江戸参勤途中から「御異乱」。精神病発症のようである。この御家の一大事に、ついに家老連中は主君を江戸屋敷に押込め、豊前小倉城主の小笠原忠雄ら親戚大名とも協議して、直方分家の黒田長清(1667〜1720)の長男・長好(1703〜1775・翌年冬元服して改継高)を擁立することになった。光之・綱政の専制の弊害に懲りたとみえ、この危機における一連の動きは、黒田家中における家老連に内部対立はあったものの、とりあえず合議システムが曲がりなりにも機能した結果である。
 翌正徳四年(1714)長好は、宣政の養子というかたちで嗣子と認められ、十二歳の長好を名目上は十五歳にして、官兵衛長好、従四位下筑前守。代替わりは五年後のことだが、ともかく継高の父の黒田長清が本家を後見することになった。黒田家は家老連が奔走して何とか危機を凌いだのである。
 かくして正徳五年(1715)立花峯均は赦免されて、遠島から帰還する。流されたのが宝永五年(1708)、帰還が正徳五年(1715)だから、足かけ八年の流刑であった。
 『吉田家伝録』によれば、この赦免決定通告は、正徳五年の五月二十八日のようで、立花峯均は遠島御免、親族のだれかの知行地に居住するように、という命令である。これは、他の赦免された者らが福岡城下に出てきてもよいとされるのに比すると、まだ厳しい措置である。
 ちなみに、重根の嫡子・太左衛門道ロは、峯均のように遠島にならず、家督没収、宗像郡村山田村謫居という処分であったが、赦免された太左衛門道ロは、六人扶持を与えられ居住制限なし、福岡城下へ出てきてもかまわないという措置であった。それゆえ、峯均の仕置がなお制限つきのものであったとすれば、遠島流刑になるだけの重い罪科があった、とみなされたのであろう。
 立花峯均と甥の太左衛門道ロの赦免通告は、「太左衛門伯父・立花小左衛門」に対しなされた。この小左衛門は、立花重種三男の増武で、大伯父(祖父の兄)甚兵衛重時の養子に入った人である。立花峯均には実兄にあたる小左衛門が、二人の身柄を引き受けたということである。
 なお、この日の赦免決定通告に、鎌田八左衛門父子の措置も記されているほか、峯均と同じく、遠島御免になった福山長四郎という者があったことが知れる。この福山長四郎に関しては不詳だが、これも事件の関係者だとすれば、立花峯均と一緒に遠島になった者があったということになる。
 ここで、黒田長清の名が出るところをみれば、この赦免決定も実質的には長清の判断であったようである。綱政の嫡子・宣政は在位八年で引退し、養嗣子になった継高(長清の息子)が跡を襲うのである。長清は、すでにみたように『峯均筆記』の吉田実連の項目に記事があった人である。
 さて、『峯均筆記』によれば、峯均は正徳五年の六月に帰還して、兄の小左衛門増武の領地、志摩郡檍村に居を定める。増武の領地に居住したということは、この兄が峯均の身元引受人になったということである。峯均は、福岡城下に住むことは赦されなかったようである。
 ここに記す「志摩縣檍村」とは、峯均による擬古表現である。「檍」〔あはき〕は語音から青木となり、現在地名は福岡市西区今宿青木である。福岡城から西へ二里。海岸には元寇防塁遺跡がある。
 前出の『筑前国続風土記』をみれば、青木村は長垂〔ながたり〕山の西南に在る村だとし、昔は、長垂山の北麓の七寺川から海の潮が入り、青木村の側まで入海だったとか。海辺にあって海潮が入って流れる川瀬なので、檍原〔あはきはら〕とここを云ったのも、理由がないことではない、云々とある。日本書紀に「筑紫日向小戸橘之檍原」とあるのを念頭において、書いているのである。
 『峯均筆記』には、檍(青木)村の山ふところに、「半間庵」と呼ぶ小菴を結んだとある。この山は長垂山のことで、この山の西麓に居を構えたのである。立花峯均はそこで、主君継高から《飢渇ヲシノグノ料トシテ》ということは、生活費として蔵米を支給されて暮らした。要するに合力米である。これが六人扶持。米約十石である。無足の下士ほどの給料だが、独身の隠棲者には十分な恩給であっただろう。  Go Back


*【筑前國續風土記】
《○大虵島
此島は西浦より亥の方十三里海中に有。島の周り廿六町、南北の長さ十一町、東西五町十八間あり。所によつて異なる。おろはおろちなり。大虵と云。昔は此島に大虵有し故、此名有と云傳へたり。今も猶大虵の蟠りし穴など多しと云り。此島に宗像大神の社有。又國主より非常なる異船の來るを察せんため、島守を置給ふ。其番所あり。島民の數は百人にもたらず。小邑也。國君より時々此島に罪科あるものを放流したまふ。忠之公の時よりしかり》(巻之二十三)





大蛇島(小呂島)現況



福岡市博物館蔵
黒田継高像




*【吉田家伝録】
《五月二十八日、鎌田八左衛門・同九郎兵衛、福岡表へ罷出候儀、遠慮ニ及バザル思召ニ候、此段大音六左衛門ヨリ申伝フベキ旨、長清君御意ノ由、月番野村太郎兵衛ヨリ六左衛門ニ申伝へ候。
同日、立花太左衛門へ六人扶持下サレ候。何方ニ成トモ勝手次第住居、御城下へ罷出候儀モ遠慮ニ及バザル旨、太左衛門伯父・立花小左衛門〔増武〕ニ月番申渡候。
同日、立花専太夫遠島御免、一家間ノ知行所ニ罷有ルベキ旨、立花小左衛門へ月番申渡候。
同日、福山長四郎遠島御免、福山長助方ニ召置ベキ旨、長助へ月番申渡候》










*【筑前國續風土記】
《○青木村
長垂山の西南に在る村也。昔は長垂山の北の麓、七寺川より潮指て、村際迄も入海なりしとかや。されば海邊に在て、潮入て流る川瀬なれば、檍原と此所を云はむも理無きにしも有ず。此村は初は谷村・女原・今宿など合て一村也。長政公國主と成給ひて、分て三村とす》(巻之二十三)

*【日本書紀】
《則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而秡除焉。遂将盪滌身之所汚、乃興言曰、「上瀬是太疾。下瀬是太弱」。便濯之於中瀬也。因以生神、号曰八十枉津日神…》


志摩郡檍村(青木村)の位置

青木村周辺地図

峯均隠宅比定地付近
 
 (6)方爐一炭ノ火ヲヽコシ、苦茖ヲ点ジテ
 ここでようやく立花峯均、というより、茶人・寧拙〔ねいせつ〕の登場である。峯均は兄・立花重根から茶の湯を学んだのである。必然、失脚し変死した兄の話になろう。
 すでに述べたように、立花峯均の兄・重根は福岡にける文芸の中心的人物の一人であった。父・重種の権勢がバックにあっただけではなく、自他共に認める文才があったようである。そうして、重根の特記すべき文芸活動の一つが茶の湯であった。
 千利休(1522〜91)死して百年。茶の湯の元禄は利休回帰の時代である。回帰が一般に、新解釈による再発見であるように、この利休回帰も「元禄の利休」に他ならない。たとえば俳諧における芭蕉の登場という時代性をみればわかるように、百年前のそれとはかなりちがった時代の感性が生まれていた。元禄の利休回帰は、この時代の感性に洗われた一つの志向である。
 立花重根の多彩な文芸活動の中でも茶の湯が前面に出てくるのは、彼がある茶書を入手してからである。重根の「岐路弁疑」(元禄十六年)によれば、その入手経緯は以下のごとくである。
 貞享三年(1686)重根が、黒田光之の江戸参勤の伴をして海路船旅の途中、京都何某方から船中に宛て書状が届く。内容は、利休秘伝の茶湯の書五巻を所持する人があり、それを内密に書写してあるので、お望みとあらば写しをお送りできるという話。サンプルとして本文の一部と台子などの絵図も添付してあった。
 重根は、以前から少しは茶を嗜んでいたが、未熟ゆえこの茶書の評価ができない。それで、この旅に同行していた三谷古斎や衣非了義に見せた。彼らは(土屋)宗俊流の茶に造詣の深い茶匠である。これは、興味深い文書だということなので、重根は伏見に到着すると写しをもらいたいと依頼した。翌年正月、江戸桜田外の黒田家江戸屋敷へ件の茶書が届いた。早速重根はその夜、三谷古斎と衣非了義を招き、夜の明けるまでこの伝書を読んで大いに感心した。内容はきわめて確かなものであった。
 その後、元禄三年(1690)重根は、堺の納屋宗雪を訪ね、著者南坊宗啓の遺品中に「滅後」「墨引」の二巻を発見し、二晩徹夜して写しとった。かくして、先に入手した五巻と合わせて七巻の写しが手に入った。――以上が「岐路弁疑」の話である。この伝書には題名がないため、後に重根は、黒田家菩提寺でもある崇福寺の古外和尚に頼んで「南方録」という題をもらった。
 かようにして、この『南方録』は立花重根の編集になる茶書である。言い換えれば、重根は『南方録』という稀書を成立せしめて、以後、筑前福岡ローカルとはいえ、茶の湯においても重きをなすことになった。
 ところで、『南方録』を書いたとされる南坊宗啓は、千利休の高弟で、堺の南宗寺集雲庵の禅僧ということになっている。「ということになっている」というのは、実はこの南坊宗啓、『南方録』の内部にしか存在しないのである。『南方録』の奥書によれば、本書は南坊宗啓が利休直伝の茶の詳細を記録したもの。南坊宗啓は、利休三回忌の文禄二年(1593)二月二十八日、最終巻「滅後」を利休の位牌に献じ、その後行方不明になったという、これまたよくできた話なのである。
 『南方録』の偽書たることは、しばしば語られてきたことで、ここでは繰返さない。ただ偽書というには、仮託された著者が明確に存在しなければならない。著者が不明では、偽書という概念はここでは適用できない。もし、南坊宗啓が幽霊でしかないのなら、逆に、著者に擬せられた南坊宗啓こそが、この書物のなかから生まれた存在なのである。
 『南方録』を捏造したのは立花重根だとされるが、必ずしもそうではない。それは、三谷古斎や衣非了義という証人があるということではなく、重根以前に、京の文芸界に漂流していた利休秘伝の茶書五巻なる文書があり、堺には重根が買い求めた別巻も南坊宗啓の茶道具もあった。そういう無名捏造者の群れを抱えていた上方の分厚い文化的基層は想定しておかなければならない。
 そんな一筋縄ではいかない京の文化人に、重根はおそらく相当の礼金を取られて、南坊宗啓という人物の伝書の「写し」と彼の道具を買い取った。ただ、重根は非常に有能な編集者であったわけで、京都や堺に類書別ヴァージョンが出ない以上、これは福岡産の茶書だということになっているにすぎない。これはまだ研究の余地のある問題である。
 前述のように立花重根は、逮捕され僻村に幽閉されて失脚したばかりか、五ヵ月後には変死している。その死は闇に葬られたが、ただ、百年前に秀吉に切腹を命じられて死んだ利休の跡を反復する、というほどの志は、実山にはあっただろう。
 立花峯均は、この重根の実弟であるとともに、茶の湯の弟子であった。峯均には寧拙・寧雪・宗朴・宗樸など道号がある。なかでも、寧拙は後世有名になった号である。
 宝永二年(1705)重根は、弟子四人に『南方録』の書写を許した。言い換えれば、南坊宗啓の著という『南方録』が相伝における聖典になったわけである。これは、筑前二天流において武蔵の五輪書を書写して授与するのと同じ形態である。
 重根が書写を許した弟子は、寧拙、虚谷斎、固本、自得庵の四人である。このうち、寧拙は立花峯均、虚谷斎は重根嫡子の太左衛門道ロ、固本は衣非了義嫡子、自得庵は大賀如心である。
 このとき書写された『南方録』は七巻本で、覚書・会〔かい〕・棚・書院・台子〔だいす〕・墨引〔すみびき〕・滅後の各巻である。その後、峯均は、島から帰った正徳五年(1724)、兄が草稿のまま遺した、秘伝・追加の二巻を「浄書」した。したがって、秘伝・追加の二巻を含めて九巻を「南方録」と呼ぶ場合は、この問題の書『南方録』は、立花峯均によって完成されたと言わねばならない。これがいわゆる寧拙本南方録である。






福岡市美術館蔵
立花実山画 三聖図




円覚寺蔵
円覚寺本 南方録




博多円覚寺蔵
実山自画像写







福岡市博物館保管
寧拙本南方録
 しかれば、立花峯均は深く茶の道に関わった人である。大蛇島から帰還した峯均は、志摩郡青木村の山麓の小庵、半間庵に住み、一人茶を点てて暮らす。『峯均筆記』の記事は、そんな峯均の生活を記す。
 方爐一炭の火をおこし、苦茖を点じて、――とあるのは、炉に炭の火を熾し、茶をたてる、ということで、苦茖〔くめい〕は苦い茶の意。この点てた茶を仏に供え、自分も飲むとあるから、これは来客あって茶事をするのではなく、客は仏の、独居の点茶である。親族旧友らの、まれに訪う人があれば、一服の茶を点じ語らい合う。これは、特賜利休居士や南坊宗啓師の、「禅味茶味一碗裏に喫得する」の跡を追うものである、云々。
 この一節を読解してもらうために、以上のような長い前提条件が必要であった。ここで、どうしていきなり利休や南坊宗啓の名が出てくるのか、――それを知るには、峯均が兄・立花重根(実山)の弟子だった、しかも『南方録』の秘伝・追加の二巻を仕上げた人物だった、ということは基礎知識として加えておいていただきたい。ここで「特賜」利休居士とあるのは、利休という居士名が、当時の正親町天皇から特賜された号だということである。
 しかるに、そればかりか、この『峯均筆記』の記事は、『南方録』冒頭の文章に呼応するものである。家は雨が漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足りる。これは仏の教え、茶の湯の本意である。水を運び薪を採り、湯を沸かし茶を点て、仏に供え、人にも施し、吾も飲む…。
 しかし、あの事件のことを思えば、痛切な文体になる。綱政のもとでの仕官、志を兄・重根[法名・実山宗有]と同じくし、とあるのは、主君への忠節の志であろう。だが、主君の大恩に報じ奉らんとの志には、その益はなかった。宿因のほど思い見るべし、とあたかも慚愧の噴出である。おそらく畏兄重根に心情的に同一化していた峯均には、最も辛い事件を体験したのである。

 ここでもう一つ、峯均の出家にからまる話がある。
 『峯均筆記』には、仏乗に帰依して、東林寺の開山、卍山白和尚を師とし参禅し、禅戒壇に入って戒法を受け、法諱を授かる、とある。「卍山白和尚」とあるのは、卍山道白(1636〜1715)。曹洞宗の僧で、宗門改革運動の旗手、曹洞宗中興の祖ともされる。月舟宗胡に参禅しその法嗣。宗胡を継いで加賀大乗寺に住し、摂津の興禅寺、山城鷹ヶ峰源光庵に住す。天桂伝尊らとの論争もあるが、学僧としては道元遺文の研究、『正法眼蔵』の卍山本編纂など業績がある。
 卍山の宗門改革のスローガンは、復古である。卍山自身、復古道人と称した。法燈継承において、面授の弟子に一師印証する嗣法のみを正しい継承法とした。これは、兵法武術における相伝では当然のことだったが、むしろ元祖の仏家では嗣法が混乱していたのである。
 元禄九年(1696)立花重根は博多に東林寺を建立して、翌十年この卍山道白を開山とした。重根は以前から卍山に参禅していた。もちろん卍山が住持となったのではない。その頃は、卍山は洛北鷹ヶ峯源光院にいた。まだ宗門改革運動以前の卍山である。卍山は筑前へ来たついでに、あちこちの開山を頼まれている。
 東林寺の寺地が、重根の舅・野村勘右衛門為貞の隠宅だったことは、すでに吉田実連のページで述べられている。ここでさらに補足すれば、もともと野村勘右衛門為貞の隠宅があり、為貞没後その家臣だった祖忠上座が発願して、ここに野村家の菩提寺でも建てよう、という程度の計画だったらしい。祖忠弟の亀子白直は立花重根の家臣でもあった。祖忠の発願に加え重根が乗り出して、話が大きくなってしまったのである。
 東林寺には、黒田家始祖如水の霊牌を置き、立花道雪・高橋紹運・法運院(綱政室心空院の母)ら柳河立花家の先祖の霊牌を置いた。さらに宝永元年には、綱政夫人心空院の依頼を受けて、祖先供養のために観音堂を建立した。こうして東林寺は、立花氏である綱政夫人を前面に押し出して、あたかも立花氏の菩提寺のごとくなったのである。
 『峯均筆記』によれば、峯均は卍山道白に参禅し、受戒して法諱を授かった、という。これは卍山西遊のとき、つまり長崎へ行ったついでに筑前の諸寺の開山を頼まれて、元禄九年冬から翌年春まで筑前にしばらく滞留したおりのことであろう。
 「鷹峯卍山和尚法語」には、卍山がさまざまな人に示した話が記載されているが、その中に増弘居士(立花勘左衛門増弘)、実山居士(重根)、宗樸居士(峯均)、道ロ居士(重根嫡男)、養琢医士(白水養琢・重根弟子)らの名がみえる。そのうち、とくに右掲の竹箆の話などは実山との交わりを示す興味深いものだが、他方「宗樸居士に示す」とあって、峯均が卍山に斎号を乞うたときの話が収録されている。それによれば、
 ――立花宗樸居士が予に斎号を求めたので、「無華」と応じた。古語に、「むしろ拙にして巧なし。むしろ樸にして華なし。むしろ粗にして弱なし。むしろ僻にして俗なし」とある。これは詩句を作るに、巧華を嫌い、弱俗を嫌ったのである。ここではそうではない。巧なしとは智を養うことである。華なしとは仁を養うことである。弱なしとは勇を養うことである。俗なしとは真を養うことである。この四者のうち「無華」を斎号にしたのである。というのも、樸実をもって仁を養えば、智勇と真(という三者)もすべてその中に備わるからだ。またこの四者をあわせて禅に参ずれば、禅もまたその中に在ることになる。そして仏と名づけるのは、能仁寂黙であり、一切智人であり、大勇猛者であり、真実語者であるときは、仏もまたこの四者にほかならない。仏といえども、禅といえども、文武といえども、ただその養うところ次第なのである、云々。
 現代の通俗的解釈だと、すぐに、仏禅文武の無差異無差別が語られていると読んでしまうのだが、そんなことはどうでもよく、こうしてみると、卍山は強引にも、「華なしとは仁を養うことである」という方向へもっていくのであり、儒家の思考に譲歩して行った近世禅家の言説の特徴を示す。
 ともあれ、この卍山法語集から知れるのは、立花峯均が「無華斎」という斎号を卍山からもらったということのほかに、峯均がすでに「宗樸」(宗朴)という居士号をもっていたこと、「寧拙」という号は、この法語にある「寧拙無巧、寧樸無華」から得たもので、「無華斎」と同時ではないか、ということどもである。したがって、『峯均筆記』に記す卍山から与えられたという、その法諱についていえば、立花峯均の法名を無華斎廓巖宗朴居士とするから、斎号は無華、道号は廓巖、法諱は宗朴ということであろう。  Go Back
個人蔵
実山写利休像

*【南方録】
《宗易の云、小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修業得道する事なり。家居の結構、食事の珍味を楽〔たのしみ〕とするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢ぬほどにてたる事なり。これ仏の教、茶の湯の本意なり。水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたて、仏にそなへ人にもほどこし、吾ものむ。花をたて香をたく。みなみな仏祖の行ひのあとを学ぶなり》




加賀大乗寺蔵
卍山道白像


*【鷹峯卍山和尚法語】
付竹箆実山居士
《予在鷹峰嘗製一枚竹箆。蓋模建長大覚禅師持来底古様也。今茲西遊途中。為物礙卻一頭少折。則重下刀子戴其折頭。以為短箆。而心自念。凡物長則有礙。短則不然。然従来古様亦不可失焉。
一日遊松月庵。出彼短箆告実山曰。請為予別製一枚箆子。少許令長而可也。居士許諾焉。即収短箆去。今新箆已成。添以偈並序。持来呈之。序也偶也。抓著予痒処。此時一衆列坐。予乃撫摩竹箆。挙首山背触話了曰。我即不然。喚作竹箆不触。不喚作竹箆不背。有時背也可憐生。有時触也可隣生。語未訖。居士微笑点頭即礼三拝。予曰。前日以短竹箆留於居士庵中。然居士若無今日事。背手奪取。以擬彼趙壁。今卻加拙和一篇以付焉。夫以予短授居士。令居士常避其長以居其短。則長自在其中。予今雛得居士長。而不敢忘其短。
昔楚昭王与呉人戦。軍敗走。王亡其踦履。行三十歩後還取之。左右曰。大王何惜於此。王曰。楚国雖貧豈無此一踦履哉。吾悲与之偕出。而不与之偕返。於是楚俗無相棄者。少原婦泣惜奢簪。亦不忘其故也。
予与此短箆出鷹峰。而不与偕返鷹峰。然非忘之也。何也。如居士已是予室内人。雖他日隔千里。不可離予左右。而短箆属居士。則此物亦常在予左右也。長箆出於居士手雖向後在鷹峰。亦豈忘松月旧主人哉。其唯不忘。是以長短二箆。如君臣如父子。如師資如兄弟。而伝受用於無窮也。祝祝。
付短留長意作麼。従来少欲不較多。点頭微笑礼三拝。直得呼蛇又遺蛇》
示宗樸居士
《立花宗樸求斎号於予。予乃以無華応焉。古曰。寧拙無巧。寧樸無華。寧粗無弱。寧僻無俗。是為詩句。嫌巧華也。嫌弱俗也。今則不爾。不巧者養智也。不華者養仁也。不弱者養勇也。不俗者養真也。就此四者中。以無華名斎。而以樸実養仁。則智勇与真皆在其中。且兼四者参禅。則禅亦在其中。而名仏為能仁寂黙。為一切智人。為大勇獲者。為真実語者。則仏亦不外於四者也。雖仏雖禅雖文武。但在其所養何如也》

 
 (7)三人一同ニ、五巻ノ書ヲ渡シ、一流傳授セリ
 再び兵法の話にもどり、立花峯均による嗣資相伝のことを記す。
 『峯均筆記』はこれまで、唯授一人のリニアな伝系を強調してきた。曰く、先師武蔵は寺尾信正ただ一人に相伝し、寺尾は柴任美矩ただ一人に、柴任は吉田実連ただ一人に、そして吉田は立花峯均ただ一人に一流相伝したのであると。
 しかし、それは、立花峯均が大蛇島に流刑に処される以前のことである。つまり、宝永五年(1708)六月に立花峯均が流罪、ここで筑前二天流の道統は絶滅の危機に瀕した。そこで、秋九月、師匠の吉田実連は、甥の早川瀬兵衛実寛に一流相伝して、伝統保全の措置をとった。したがって、これ以後、実際には、筑前二天流において、立花峯均と早川実寛の二系統が存在するのである。
 正徳五年(1715)、立花峯均が流刑地の島から帰還すると、師の吉田実連はすでに死去し、そして早川実寛が吉田実連の道統を続いでいた。
 それなら、早川の系統も認知してよいはずなのに、立花峯均は、本書執筆の享保十二年(1727)に至っても、これを無視するかたちである。これはいかなることであろうか。
 おそらく、本書執筆以前に、立花系・早川系の両派の関係がこじれてしまっていたのである。よくあることだが、いわゆるセクト対立が生じていたのである。関係が近いがゆえの近親憎悪に似た関係である。
 早川系の大塚藤郷によれば、巌翁(立花峯均)が、早川実寛のもとへ、人を立てて申入れたことがあった。つまり、兵法の事をお互いに打合せて相談し、あるいは記憶違い、遺忘となっていることも、相互に補い合い、改めたいと思う、そのために、おいで下されば、談じ合たいと。
 この申入れの趣旨からすると、立花峯均はむしろ、同門の早川実寛と合議して、二天流兵法の伝承内容を補完し合って、より確実なものにしたい、という気持だったようである。実際、自分が遠島の間に、吉田実連が早川にどんな内容の相伝をしたのか、それを確認しておきたい、というところもあったであろう。この段階において、立花峯均は早川へ働きかけをしていたのである。
 しかるに、早川実寛の応答はつれないものだった。自分は利翁(吉田実連)の伝えを忘れてしまって、覚えていることは何もない、ようよう差しあたっての事どもを門弟に相談いたしているだけだ、あなたに面接して、何を話すことがあろうか、という調子である。ようするに、会っても何も話す内容はもたない、会うのはお断りだ、という返答である。
 しかし、その後も、立花峯均は早川に対し、再三この申入れをしたようである。だが、早川からの返答は毎度同じで、結局、この立花・早川会談は実現しなかったということである。
 立花峯均からすれば、早川は何を依怙地になっているのか、ということであろう。しかし、早川にすれば、立花に会ってしまえば、洗いざらい検査されて、自派存立が危ういというところかもしれない。
 しかも、この両エコールには明らかに階級差もあった。早川門下は、直方から移住してきて、城外の春吉村の長屋に住むクラスである。これに対し、立花峯均の門人はおおむね重臣クラスである。会ってしまえば、いやとは云えぬところがある。
 かくして、立花峯均からの呼びかけに早川実寛は応じず、両者の関係はこじれて行ったようである。そうして、両派はお互いに、変な業を遣うと批難し合うようになった。
 立花峯均が門人に相伝するにあたっては、そういう状況もあった、ということを念頭におくべきである。立花峯均は享保七年(1722)正月十七日、三人それも同時に、一流伝授した。
 このとき峯均から相伝され三人とは、甥の立花権右衛門勇勝と弥兵衛種章。それに、桐山作兵衛丹英〔あきひで〕である。彼らについて少しみてみよう。




*【筑前二天流伝系略図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞┐
 ┌――――――――――――┘
 └柴任美矩―吉田実連―┐
 ┌――――――――――┘
 |立花系
 ├立花峯均┬立花勇勝
 |    |
 |    ├立花増寿→
 |    |
 |    ├桐山丹英
 |    |
 |    └中山伊右衛門
 |早川系
 └早川実寛―月成実久→





*【藤郷秘函】
《長清公逝去ナリキ後ニ、直方ノ諸士、轉移シテ福岡ニ來リ居ル。實寛師ハ、春吉ニ住ム。其比、巖翁ハ人ヲ以テ言ヒ送リ、曰、兵法ノ事互ニ打合セテ相談致シ、或ハ覺エ違エ、遺忘トナリシモ、補ヒ改ント為ニ、入來アラバ談ジ合タキトノコト、三度マデニ及ビシカドモ、同ジ答ニテ、吾レハ利翁ガ傳エシコトヾモ忘テ覺エシ事、更ニナシ。漸ニ差當ル事ドモヲ門弟ニ致相談ノミト、面接シ何ヲカ談ゼンヤト、卒ニ其事ヲ不果ザリシトナリ》(世記)
 甥の勇勝〔たけかつ〕と種章〔たねあきら〕は、『峯均筆記』に記すように、峯均の弟・立花源右衛門重躬の長男と次男である。勇勝(1698〜1762)は 享保二年(1717)、二十歳のとき父重躬の家督八百石を継いで黒田継高に仕え、無足頭。五十五歳のとき致仕して隠居、号流水。宝暦十二年(1762)歿。立花勇勝が峯均から一流伝授された享保七年(1722)には二十五歳である。
 この流水と号した勇勝の方は、南坊流の茶の湯の方も継承している。ただし峯均からではなく、笠原道桂(1675〜1764)からである。笠原道桂は、立花勝久のことであり、笠原四郎右衛門の養子になって笠原氏を名のった人である。立花実山(重根)に学んだが、如上の事件などあり『南方録』の書写を得なかった。それで、立花峯均(寧拙)・立花道ロ・大賀如心の三人合議の上、同書の書写を許された。これが享保三年(1718)、笠原道桂四十四歳のときである。立花勇勝(流水)はこの笠原道桂から南坊流を受け継ぎ、立花維石に伝えた。このように、勇勝は立花一族に兵法と茶の湯を相伝した人である。
 次に、弟の種章(1701〜70)は初名大八、重貞。立花弥兵衛重直の養子になって平七、種章のち改増寿〔ますなが〕。享保九年(1724)、二十四歳のとき重直の家督千三百石を継いで黒田継高に仕え、さらに継高の嫡子・重政(1734〜1762)に仕えた。六十一歳とき致仕して隠居、号随翁。明和七年(1770)歿。
 種章は幼年の頃から、伯父の峯均に二天流剣術を学び、二十二歳のとき相伝(薦野氏系譜に二十一歳とあるは誤り)。また桑嶋宗治から大坪流馬術を学び、二十二歳のときこれも一流相伝。こちらは茶の湯の方は取り立てて記事はないが、茶人として風流の道もよくした。とくに、三人のうちでも最も兵法優秀だったのであろう、峯均が吉田実連から譲られた五巻の書(五輪書)は、種章に託されている。

 それから、もうひとり、立花峯均の相伝門弟が、桐山作兵衛丹英(あきひで・1688〜1640)。彼は、黒田二十四騎の一人・桐山丹波、孫兵衛信行(1554〜1625)の本家筋の子孫である。桐山丹波のことは、前に小河権太夫(露心)のところで少し話に出したが、小河内蔵允之直の母が再嫁したのが桐山丹波であった。小河権太夫の妹が立花峯均の祖母なのだが、桐山とは親族というほどの関係ではない。
 むしろ享保当時、桐山丹英の母方(月成氏)の従弟に、立花増直(五千石中老)がいて、しかも役目を通じて丹英と増直が親しかったという縁である。増直は月成茂左衛門の子で、吉右衛門増春(増能)が養子に迎えた人である。立花峯均にとっては、増直は、従兄の養子ということになる。
 さて桐山丹波、孫兵衛信行は、筑前入国後四千石、その後加増あって六千石知行し老職。丹波死後、その遺禄六千石は分知され、嫡男の作兵衛利行は二千石、孫の代になると、兄弟分知あって千五百石。桐山丹英の実父・金兵衛利直は千五百石を食んだが、二十二歳で早世した。ために弟六兵衛利貞が兄の家禄を相続したが、宝永三年(1706)故あって千五百石を八百石に減知されたが、後に千三百石まで回復した。
 桐山丹英は、立花峯均よりも十七歳年下である。丹英は叔父六兵衛利貞の娘、つまり従妹の阿佐祢を妻にし、叔父六兵衛を経由した家督を嗣ぎ、知行千三百石。丹英はなかなかの人物で、黒田継高に重用され、御納戸頭、側用人として権勢をふるったようだ。これについては「此君居秘録」に興味深い経緯が記されている。
 これをみるに、黒田継高が家督相続したがの十七歳、そのうち実父の長清も卒して、家老連中の対立が現在化する。当時家老連の間に不和が生じ紛糾の暇がないありさまで、隠居したしたはずの竹翁吉田治年が召し出される次第。というわけで、「此君居秘録」を通読すれば、黒田家中枢の権力抗争の内幕を知ることが出来る。黒田武士もこの頃には、出頭と失脚の連続で、ドタバタ状態なのである。
 この時期、主君継高への言上は家老といえども、桐山作兵衛丹英を通じて内奏されるという具合になっている。享保十二年、家中内紛で野村太郎兵衛祐明が辞職して、吉田六郎太夫栄年が家老を命じられたときも、奉書をもって内意を示したのは桐山丹英であった。寵臣というほどではないが、丹英は最初から黒田継高に気に入られ、側近の御納戸頭として桐山丹英は着実に権勢を築いていた。
 ところが享保十四年二月、御納戸頭桐山丹英は失脚する。その間の事情は、「此君居秘録」に記事がある。それによれば、享保十二年〜三年のことになるが、駒山助左衛門が失脚し、その後に桐山丹英と明石行風が登用された。桐山と明石は郡輝成と組んで、駒山則信、野村祐明、久野一昌らの追い落としを図っていた。この権力抗争は桐山・明石・郡らのグループの勝利となる。その中で立花増直の家老昇進も、桐山らの画策である。対立はどうも藩財政の再建をめぐるもののようで、駒山・野村・久野らは倹約派、これに対し、桐山・郡らは、もともと華美を好む者で、倹約派を卑賤吝嗇と嘲る放漫派というのが、「此君居秘録」の竹翁の語る対立図式である。
 ところが、こういう権力抗争には離合集散がつきもので、明石行風は毛利予平次とともに桐山から離反して、失脚。そうして桐山丹英・郡輝成の二人が勝ち残った恰好だが、やがて桐山丹英は家老にした従弟・立花増直と組んで、郡輝成を遠ざける。竹翁の曰く、桐山丹英は生まれつき剛気権柄にして後難を顧みないアグレッシヴな性質。これに対し、郡輝成は柔弱懈怠にして後の災いを恐れ優柔不断。桐山丹英は最初、郡輝成と組んだが、輝成が日和見るので、これを捨て、愚昧な立花増直を使って専横しようとした。ところが、郡輝成が逆襲に出て、桐山丹英と立花増直の非を訴えた。もとは仲間なので丹英の謀術をよく知っている。目付頭が丹英の旧悪を洗って、ついに桐山丹英は失脚した。愚昧な立花増直は単に桐山丹英に利用されただけなので、家老職を解かれなかった。
 これは「此君居秘録」の竹翁吉田治年の目に映った事態であって、反桐山丹英のポジションは明らかなので、どこまでこの記事のごとくであったか不明である。しかし、「此君居秘録」の記事にあるように。桐山丹英が黒田継高の下で一時藩政を牛耳ったのは確かのようである。彼のアグレッシヴな性格からする、その権謀術策は、家中を不安に陥れ、また陰で非難もされたほどであった。そういう意味で、ポスト武蔵研究からすれば、出色のなかなか興味深い人物なのである。
 そして云えば、この「此君居秘録」の竹翁・吉田治年が、実は吉田家本五輪書の伝承について結果的に重要な役割を果たしたらしいことは特記しておかねばならない。すなわち、吉田実連が手許においていた五輪書が、どういう経緯か、本家の吉田治年の保管するところとなり、数代にわたって吉田氏本家に死蔵されていた。それが後年、子孫の発掘により篋底から表に出たということである。
 これに関しては、峯均以後の事蹟として別に述べられるであろう。ここでは、吉田実連の五輪書を握っていた吉田治年が、桐山丹英のことを上記の如く書き留めていた、という関係に注意を喚起しておきたいのである。
 従来、武蔵周辺研究史において、桐山丹英の失脚を含めて彼に関する事蹟があまり知られていなかった。それゆえ、一応以上のような話はここで書きとめておきたい。後学のさらなる研究を期待するところである。
 吉田治年の「此君居秘録」によれば、桐山丹英の失脚は享保十四年(1729)である。立花峯均が彼に兵法相伝したのは、上述のように享保七年(1722)、失脚はその七年後である。その間、享保十二年(1727)には、本書(丹治峯均筆記)が書き上げられている。つまり、本書が出来あがった頃から、桐山丹英の出頭権勢が著しくなったのである。
 桐山丹英の失脚・召放ちは享保十四年(1729)であるが、後に享保十八年(1733)になって、先祖が長政以来の格別の筋目だというので、丹英の息子・玉之丞へ新知五百石が与えられ、桐山の家名は救済された。この玉之丞が桐山孫兵衛丹誠(1718〜1785)である。
 孫兵衛丹誠の弟、つまり桐山丹英の三男に大助あり、後年越後へ流れて同地に二天流兵法を伝え、また武蔵伝『兵法先師伝記』を書いた丹羽五兵衛信英(1727〜91)である。桐山丹英は元文五年(1740)に歿、享年五十三歳であった。息子の孫兵衛丹誠は二十三歳、弟の大助は十四歳であった。大助は二十一歳の時、丹羽家へ養子に出て、丹羽五兵衛を名のった。
 『兵法列世伝』によれば、丹羽信英は、若年の頃、父桐山丹英が死去したので、父の遺言によって、兄と共に立花弥兵衛増寿に学び、一流相伝という。立花弥兵衛は、既述のように、立花峯均の甥で、峯均の相伝弟子の一人である。
 なお、丹羽信英によれば、立花峯均の相伝弟子は、上記の立花勇勝(増時)、立花種章(増寿)、桐山丹英の三人の他に、中山伊右衛門という者があった由である(兵法列世伝)。とすれば、立花峯均の相伝弟子は三人ではなく、四人ということになる。これによって、立花峯均相伝弟子は三人という従来の説は訂正すべきである。  Go Back


*【薦野氏系譜畧】
《勇勝  権右衛門、初名平内。元禄十一戊寅月日生。継父禄仕于継高公、為無足頭。致仕号流水。達二天流剣術、伯父峰均為師。勇勝有病、宝暦二壬申月日致仕五十五歳、改流水。宝暦十二壬午閏四月七日卒。葬東林寺。号不二斎武山流水》
《種章  後改増寿。弥兵衛。初名大八又平七。元禄十四辛巳十一月十七日生。実重躬之二男也。享保九甲辰九月六日二十四歳、襲父封千三百石、仕于継高公、馬回司、先鋒惣司及執権等勤之。又儲君重政公、為耽勤之司矣。于時宝暦三癸酉六月二十八日也。自幼随伯父峰均入道廓厳翁、学二天流剣術、二十一歳極奥義。又属桑嶋宗治、学大坪本流馭術、二十二歳極奥義焉。宝暦十一辛巳二月十一日致仕、改随翁。于時六十一歳。為菟裘之料賜五人扶持、辱於恩沢安静而憩矣。又壮年比、侍東林大光雲和尚之下、請諱名而号直通斎如山達丈。後改随翁。明和七庚寅歳七月二十日卒。葬東林寺》

*【立花家略系図】

○三河守増時┬吉右衛門成家
      |
      ├増利
      |
      ├重時―増成=増武
      |
      └彌兵衛増重┐
┌―――――――――――┘
├重興┬重常
|  |
|  └重貫―重武

├重種┬重敬┬重昌┌増厚
|  |  |  |
|  |  ├増敬┴増昆=増名
|  |  |
|  |  └重直=種章―種貫
|  |
|  ├重根―道ロ―増一
|  |
|  ├増武 増成養子
|  |
|  ├峯均 断絶
|  |
|  └重躬┬勇勝―種時
|     |
├重友   └重貞 重直養子種章

└増弘―増能=増直┬増厚 増敬養子
         |
         └時弘=増栄



*【桐山家略系図】

○桐山丹波守丹斎―作兵衛利行―┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├六兵衛利房―┬喜兵衛利重
 |      |
 └市郎兵衛一章└長左衛門利昌┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├金兵衛利直―作兵衛丹英
 |
 └六兵衛利貞―森作左衛門


*【此君居秘録】
《享保十四年己酉ノ歳正月二十六日、継高君吉田六郎大夫栄年ヲ召サレ、桐山作兵衛丹英[御納戸頭]勤方思召ニ応ぜザル由、委曲仰聞ラレ、竹翁存念聞シメサレ度旨御意ニ候由、六郎大夫此君居ニ来リ告グ。桐山我慢ニシテ、人ノ非ヲ顕ハシ罰ヲ好ム。故ニ諸士安心せズト云フ。上ニ寛仁大度行ハレ候、御妨何力是ニ過ベカラズ、速ク退ケラレ然ルベキ旨申上候。其後黒田美作一利始メ家老中へ思召仰聞ラレ、二月十七日作兵衛ニ仰渡サレ候御用帳写
桐山作兵衛只今迄御納戸頭被仰付置候処、御近習之勤御勝手ニ応兼候付、御役儀御免、大組被仰付候事》
《竹翁、桐山丹英ノ進退ヲ考フルニ、丹英最初ヨリ継高君ノ思召ニ合、寵臣ト云フニハアラザレドモ、去々年駒山助右衛門則信ヲ退ケラルヽ時、外ニ御内意仰聞ラルベキ人モ無カリシ故、桐山並ニ明石四郎兵衛行風ヲ挙ゲ用ヒラレシナラン。両氏時ヲ得テ、郡輝成ニ相親シミ、駒山及野村祐明、久野一昌等ノ過失ヲサガシ求メ、虚実ヲ糺サズ狼リニ言上ス。其頃輝成・丹英・行風日夜間断無ク会シテ私語ク。諸士是ヲ見テ或ハ疑惑シ或ハ潮リ笑フ。又立花勘左衛門増直[丹英ノ従弟]去々年東武ニ在ルノ中ヨリ、輝成・丹英ニ変リ、去夏職ニ進メラレシ後、三子一致ニ熟談ス。然ルニ去秋ノ頃ヨリ増直・丹英ノ両子、輝成ニ意ヲ隔テヽ増直・丹英親睦ス。竹翁察スルニ、丹英ノ生質剛気権柄ニシテ後難ヲ顧ミズ、輝成ハ柔弱解怠ニシテ後ノ災ヲ恐ル。丹英、始メ輝成ニ因ツテ、人ノ進退己ガ好悪ニマカせ、私欲ヲ達せン事ヲ計ルト云ヘドモ、輝成、君威ヲ懼レアヤブミテ、果敢ユカズ。丹英是ヲ患ヒテ、増直ヲ勧ム。増直愚昧ニシテ、丹英ノ助言ヲ信ジ、数内〔シバシバ〕奏ニ及フ。継高君、一旦増直ノ言ヲ許容シ玉フ。故ニ増直・丹英、力ヲ得、輝成ヲ捨テ自立セントス。輝成是ヲ覚リ、増直・丹英ノ非ヲ訴フ。爰ニ於テ継高君目附頭ニ仰セテ、増直・丹英ノ誤ヲ糺サレ、本文ノ如ク丹英ヲ退ケラレ、増彊ハ職ニ居へ置カルヽ而已ナラン》



桐山六兵衛利貞(宝永三年)と
桐山作兵衛丹英(享保十八年)への処分
黒田家臣由緒書



*【桐山家略系図】

○桐山丹波守丹斎―作兵衛利行―┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├六兵衛利房―┬喜兵衛利重
 |      |
 └市郎兵衛一章└長左衛門利昌┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├金兵衛利直―作兵衛丹英――┐
 |             |
 └六兵衛利貞―森作左衛門  |
 ┌―――――――――――――┘
 ├伊予之丞 早世
 |
 ├孫兵衛丹誠―六兵衛利永
 |
 └大助 丹羽五兵衛信英

 
 (8)五巻ノ書
 『峯均筆記』によれば、一流相伝に際し、立花勇勝と桐山丹英へは、「五巻の書」を自筆で書写して授け、立花種章(増寿)へは、吉田実連から峯均に与えられた書に、奥書を加えて譲った。「伝来の薙刀」も種章に渡しておいた、という。
 とすれば、五巻の書(五輪書)は、峯均筆写本が二部あり、これは寧拙本南方録ならぬ、峯均本五輪書である。これは未発掘資料であり、もはや現存しないかもしれない。もう一つは、吉田実連から峯均に授与され書に、峯均が奥書を加えて立花種章(増寿)に譲ったもの、これも現存が確認できていない。つまり、立花峯均発給の五輪書はまだ発掘されていない。周知の通り、吉田家本空之巻は、柴任美矩→吉田実連の一本が吉田家に残っていたもので、これは立花峯均を経由していない伝書である。
 上記のように、『峯均筆記』は「伝来の薙刀」も立花弥兵衛種章(増寿)に渡しておいた、という。これは『峯均筆記』にしばしば登場する武蔵所持の薙刀のことであろう。丹羽信英『兵法先師伝記』にその証言がある。すなわち、島原役の時武蔵が携行した長刀は、柴任美矩が受け継いで立花峯均へ譲ったのを、峯均が立花増寿(種章)へ授与し、現在は増寿が重器(宝物)にしているという。丹羽信英は、これを立花増寿のところで実見している。刃の長さ二尺五寸、柄は大きくて赤銅作りだとある。刃長も含めてかなり大きな薙刀である。
 島原戦役で武蔵が所持したという曰く付きのこの薙刀の伝系は、柴任美矩が受け継いで立花峯均へ譲ったとある。中間に吉田実連の名がない。とすれば、これは柴任美矩から吉田実連を経由せずに、柴任から直接立花峯均へ譲渡されたものらしい。おそらく明石で峯均が柴任から贈与されたのである。柴任美矩がこれをどこから入手したかというと、寺尾孫之丞以外にはないのだが、そのあたりは実は確かではない。これは今後の研究課題であろう。
 丹羽信英の『兵法先師伝記』が挙げる、筑前系に伝わった武蔵遺品というと、他には、林羅山(道春)賛付きの武蔵画像であろう。これは、武蔵が二刀を抜き放って立つ姿を絵師に描かせた画に、羅山が賛を寄せたという話のもので、寺尾孫之丞から柴任美矩が受け伝え、(吉田実連、立花峯均と)段々に譲りて、丹羽信英が立花増寿から譲り受けて、現在、丹羽信英が所持し、それを祭っているという。この伝系が本当なら、丹羽信英が伝授された画像が真物で、それが越後まで流れて行ったということになる。が、真物かどうか、そのあたりは実は確かではない。というのも、羅山賛付き武蔵画像は人気があり複製物が多かったようで、当時江戸の古書店で出回っていたかもしれない。このあたりは不確定としておく。
 ちなみに云えば、前に出たことのある話だが、丹羽信英の父・桐山作兵衛丹英が、江戸で武蔵の画を入手した。わざと印を隠して、それを狩野派の絵師に見せたところ、「狩野光信の作だと思う」と云い、「いやそうではなくて、宮本武蔵の絵ではないか。まことに名画だが、狩野派とは違うところがある」と言い当て、「大切になされよ」と云われたという。これは丹羽信英が十三歳のとき父から聞いた話だということである。前掲の「此君居秘録」では悪役の桐山丹英だが、その華美を好むと評される一面には、こういうところもあったのである。
 もう一つ、丹羽信英『兵法先師伝記』が挙げる、筑前系に伝わった武蔵遺品というと、上記の立花峯均の甥で、相伝弟子の権右衛門増時(勇勝)が所持する書軸で、これは《春風桃李花開日/秋露梧桐葉落時》という例の白居易「長恨歌」の一節に、「是兵法の初め終りなり」と行文字で書いてあったという。
 肥後系に比して筑前系には武蔵遺品は少ない。それは、この伝系が、若くして肥後を離国した柴任美矩を経由するからである。武蔵の薙刀や羅山賛武蔵画像など、その遺品には真物というには疑問があるものもある。ただ、この筑前の伝系が興味深いのは、五輪書の伝承経路が明確であることによる。この点では、伝系のあやしい他の五輪書写本とはまったく異なるのである。この点に関しても、別論攷に関説されるであろう。



















*【兵法先師伝記】
《此時、先師ノ持レシ長刀、柴任美矩持傳テ立花峯均ヘ譲ラレシヲ、峯均、予ガ師立花増壽ヘ譲ラレ、今ニ重器トセラル。予本ヨリ常ニ是ヲ見タリ。此長刀刃長サ二尺五寸、柄大ニシテ皆赤金作ナリ》
《先師、江戸ニ居ラレシ時、羅山子道春ト親ク交ラレケル。或時、先師出入スル繪師ノ有シニ、「我像ヲ圖セヨ」トテ、二刀ヲ拔持立テ、形ヲ寫サセラル。道春先生是ヲ見テ、直ニ賛ヲシテ、自其像ニ書ル。(賛文略)右先師ノ眞像、柴任美矩寺尾信正ヨリ受傳ラレシヲ、段々譲リテ、予則立花増壽師ヨリ譲リヲ受テ、今是ヲ祭ル。予歿シテ後、道統ヲ傳タラン門人、謹テ日々ニ拜シ祭リテ、怠ル事有ベカラザル者也》
《先師常ニ繪ヲ好テ畫レケル。墨畫多シ。達摩ヲ畫レシモ有、或ハ唐犬ヲ烏ノナブル処ヲ畫、或ハ、岡ニ雉子ノ一羽居タル圖有リ。大方墨繪ナリ。今モ江戸ニテ見當ル事有リ。我徒東武ニ行バ、心ニカケテ可求事ナリ。印ハカメマルノ形、中ニ古文字ニテ名乗アリ。繪大カタ古ビテ、繪所ニテモ印ヲ隠シテ見スレバ、家ノ畫ト見違事有トゾ。岡ニ野雞ノ畫、予ガ父桐山丹英、江戸ニテ幸ニ求得テ、秘蔵ノ余リ、印ヲ隠シテ狩野家ニミセシニ、一見シテ、是ハ先祖光信ガ畫ニテヤト云レシガ、能々見テ、否、左様ニテハナク候。是ハ承及タル宮本武蔵ト申人ノ繪ニ候ヒナン。誠ニ名畫ニ候得共、習ナキ処御座候ト云シカバ、印ヲ被テ見セケルニゾ、弥感心シテ、隨分御秘蔵被成ヨト云シ由、予ガ十三歳ノ比、父ノ語リシヲ今ニ覺ヘタリ。又、手筆モ拔群ナリキ。本國立花権右衛門増時所持スルハ、春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時。是兵法ノ初メ終リナリト行文字ニ書レタリ。實ニ兵書ニ書レシ如ク、萬ヅニ於テ我ニ師匠ナシトハ、萬事ニ付、思ヒ知ラルヽ事ナリ》
 以上のように、当流は伝承されるのであるが、立花峯均は上述のように相伝者を三人にした。それまで、宮本武蔵→寺尾孫之丞→柴任美矩→吉田実連→立花峯均と、唯一人相伝のリニアな伝系だったのを、ここで三人に増員したというわけである。(後に、中山伊右衛門という第四の相伝者が出るが、享保七年のこの段階では三人である)
 ところが、この唯授一人のリニアな伝系には、すでに述べたように疑問がある。というのも、武蔵から寺尾孫之丞ただ一人が相伝の弟子、というのは明らかに事実に反するし、また寺尾孫之丞→柴任美矩というコースが唯一人相伝だったというのも、肥後の事蹟をみれば明白な虚構である。さらに、柴任美矩は、江戸・筑前福岡・大和郡山・播州姫路・明石など、あちこちで教えていたし、ことに播州龍野の多田円明流系譜にその名を残している。とすれば、柴任美矩→吉田実連が唯一人相伝であったはずもない。
 この唯授一人のリニアな伝系というのは、禅家の伝系にしばしばみられるもので、それをモデルにした兵法諸流派における常套句にすぎない。とはいえ、事実に照らせば、これは『峯均筆記』が排他的に主張するフィクションに他ならない。つまり、立花峯均は、自身の弟子への相伝にあたり、当流がエクスクーシヴな絶対性を有することを、あえて主張してみせたのである。
 なぜこのような峯均の主張がなされたか、それは当時、肥後をはじめ、武蔵流末が各地に賑わっていた、という状況を背景にしてみれば知れようというものである。しかし、それよりももう一つ、すでに述べたように、同じ筑前二天流に別の一派が存立するようになっていたからである。
 繰り返せば、立花峯均は元禄十六年(1703)五月、吉田実連から一流相伝あって、その道統を継いだ。ところが、上述のように、兄・立花実山の失脚に連座して、宝永五年(1708)六月、遠島流罪となった。これにより、筑前二天流は絶滅の危機に立ち至った。というのも、立花峯均が帰還できる見込みはなかったからである。
 そこで、師の吉田実連は、筑前二天流の道統保全を図ったらしい。同年九月、甥の早川瀬兵衛実寛へ一流相伝、これは早川系の伝書によって確認できる。
 吉田実連は、その翌年の宝永六年(1709)十一月死去。むろん、立花峯均は流刑中である。つまり、立花峯均が流刑中に、早川実寛が相伝を得て、また、師匠吉田実連も死んでしまったのである。
 黒田家中の情勢が変り、立花峯均は正徳五年(1715)帰還できた。七年の流刑であった。帰って来てみると、師匠吉田実連はすでに死去しているだけではなく、早川実寛が一派を率いていたのである。
 かくして、立花峯均が帰還して、筑前二天流は二派並立という形になった。この両派の関係がうまく行ったのなら、問題はないが、そうではなかった。享保になって、直方分領統合により早川実寛も福岡へ移ったが、以後、立花系と早川系の関係はこじれ、互いに相手を認めず、対立するようになる。
 立花峯均は、吉田実連から与えられたという相伝書を確認しようとしたが、早川実寛は応じなかった。実際、我々はまだ中山文庫本と大塚家本の二例しか見ていないので何とも云えないのだが、両本の相伝証文は、空意の部分に相当の文の乱れがあり、吉田実連が伝授したものとするには、やや難がある。この件はいづれ別に分析研究すべきところである。
 ともあれ、筑前二天流のこうした内部対立の状況は、ここで念頭におくべきである。それまでのリニアな単伝を、峯均の段階で複数相伝に改めたのは、むろん早川派への対抗措置であろう。ただし、もっと根源的なところでは、吉田実連→立花峯均の相伝が、当初、唯一人相伝だったために、問題を生じたからである。つまり、峯均が流罪に処せられて遠島になって帰還できないとなったとき、筑前二天流は確かに絶滅の危機に陥ったのである。そうした苦い経験から、立花峯均は複数相伝を決めたのであろう。
 それでも気になるのは、峯均からの相伝者三人はよいとしても、そのうち二人が彼の甥である、という事実である。これは峯均に、女子はあっても男子がなかったためである。おそらく峯均に息子があれば、必ずその息子が唯授一人の相伝者になったのではあるまいか、と思わせる。こういう峯均の傾向は、弟子たちにも受け継がれ、当流は立花家一族内部で相伝され、いわば「立花流」になって行くのである。
 武蔵流が「立花流」に化すというこういう事態には、是非両面がある。峯均も受け継いだ兄・立花実山の茶の湯は、一部江戸その他へ分派もしているが、やはり筑前において立花家一族内部で相伝された。こういう一族相伝の形態は、いわば安定的伝承を保証する。南坊流が以後ずっと存続したように、この「立花流」としての筑前二天流も、以後安定的に伝承されたのである。柳生流のような家元システムではないが、それとやや類似したかたちである。こういう安定志向は武蔵流末孫の行き着くところであっただろう。
 これとともに、一族相伝の形態にはむろん弊害もある。それというのも、その器でない者が相伝して兵法技能が低下し、いわば流派の内実が形骸化するからである。
 『峯均筆記』には、異本に《兩姓、子孫ニ其器ヲ撰ンデ、永クコレヲ受與シ、敢テ私スル事ナカレト、一卦ノ書ヲ添テ授之》とある。つまり、「両姓」なら、立花・桐山の両姓の者ということで、立花勇勝・種章、そして桐山丹英の三人である。また、我々のテクストのように「両甥」なら、甥二人(立花勇勝・種章)を指す。ただしこれは、「両姓」というのも奇体な字句であり、明らかに写本の誤記である。ここは二人の甥、「両甥」とすべきところである。
 しかし、何れにしても、立花氏甥二人の子孫に、という部分は、すでに一族相伝の形態を予示しているし、「その器を選んで永くこれを授与し、決して私することなかれ」という立花峯均の教誨は、一族相伝の内部に限定される。
 これは、ひろく普遍的な兵法普及を志向した、元祖武蔵の流儀とはまったく逆の行き方である。およそ、諸世代を通じて伝承されていくものには、始祖のオープンな普遍性とは正反対の、私的に閉じて行く閉域化傾向が生じるものだが、筑前系の場合、すでに立花峯均の世代にそれが始まった、と跡づけることができる。  Go Back





丹治峯均筆記 自記





*【大塚家本相伝証文】
《武州一流兵法、依御執心、傳来之書五巻、不残渡相傳候。空は、無にして有なる事、勿論也。ろくにして、片よる心なく、心汚たる意味のなきを、空と云べき所、勿論也。猶後日期一氣候。以上
           吉田利翁
 寶永五年九月七日
      早川瀬兵衛殿 》





*【筑前二天流伝系略図】

○新免武蔵守玄信―寺尾孫之丞┐
 ┌――――――――――――┘
 └柴任美矩―吉田実連―┐
 ┌――――――――――┘
 |立花系
 ├立花峯均┬立花勇勝
 |    |
 |    ├立花増寿――┐
 |    |      |
 |    ├桐山丹英  |
 |    |      |
 |    └中山伊右衛門|
 |┌――――――――――┘
 |├立花種貫┬立花種純→
 ||    |
 ||    └立花増昆
 ||
 |└丹羽信英―→越後二天流
 |
 |早川系
 └早川実寛―月成実久―┐
  ┌―――――――――┘
  ├月成実誠→
  |
  └大塚重寧―大塚藤郷→











*【二天流伝記】
《兩、子孫ニ其器ヲ撰ンデ、永ク是ヲ授與シ》(巻之四)

 
 (9)此一冊、先師ノ來由ヲ記シテ
 立花峯均の相伝弟子は、立花勇勝、立花種章(増寿)、桐山丹英、そして後に、中山伊右衛門の四人である。そのほか門人数多くあって、たえず修行し、峯均の庵の扉をたたく輩もあったという。
 この庵は、峯均が流刑の島から帰って晩年住んだ青木村の住居である。峯均は終生福岡城下に住むことを赦されなかったようである。その青木村の峯均の住居へ、城下から門人が学びに通ってきていた。
 ところで、ここで峯均は、本書成立の事情を述べている。注意すべきところである。
 この一冊(本書・丹治峯均筆記)は、――と峯均は云う。先師の来由を記して、後年誤りなからしめんことを、二人の甥が求めたので、これを書いたと。
 つまり、かれら最初の相伝門人たる二人の甥が、後年の誤伝なきように、「先師の来由」を、つまり先師武蔵の経歴事蹟を書いておいていただきたい、と峯均に頼んだので、これを書いたというわけである。
 これは、口碑伝説ばかりでは、世代を追って訛伝誤伝が増大する。文書にしておけば、少なくとも後年の変形の危惧を絶つことができよう。そういう考えである。
 峯均の世代にして、すでに五代である。そんな始祖からの距離は、本書『峯均筆記』における武蔵記事の内容にも窺われる。立花峯均は、柴任美矩と吉田実連から聞いた話だというが、そもそも武蔵伝記「玄信公伝来」の大半が伝説の域にある説話でしかない。峯均は、始祖武蔵のことに関し、柴任美矩や吉田実連からさして話を聞いていない。また、柴任美矩や吉田実連がどれほど武蔵情報を得ていたか、となると、これはあまり期待できない。したがって、『峯均筆記』における武蔵伝記をみれば、立花峯均の世代のポジションが知れる。
 それゆえにこそ、ここで、言い伝えを明文化して残しておく必要があった。伝えられた伝記情報の保全である。峯均は、甥たちの要請に応えて、武蔵伝記を書くことにした。それが本書の成立経緯である。
 そこで、もう一つ、重要なことが記されている。つまり、本書の追加に、寺尾・柴任・吉田の三師の経歴を書き、最後に自分の事を記す、というわけである。これは先師武蔵の伝記の他に、寺尾信正・柴任美矩・吉田実連の三師の伝記である「追加」、立花峯均の「自記」を書いたということである。
 そうしてみると、本書は最初から、先師伝記、追加、自記の三部構成として書かれたものである。したがって、先師伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」のみの書にはあらず、「追加」と「自記」を含めた全体が本書なのである。
 しかし、その全体を呼ぶ名はない。それは武蔵の五巻の兵書にしても同じで、後世の我々はそれを「五輪書」と仮に呼んでいるだけである。立花峯均が書いた本書も、同じく、全体を指す題名はない。しかし、これも今日の我々は、仮に「丹治峯均筆記」と呼ぶのである。

 ところで、峯均はここで、《他見ニ及ベカラズ》、絶対に他人に見せてはならないという禁止条件を付す。これは、現代人にはやや分りにくいところである。これはどういうことか、
 もちろん、以上の『峯均筆記』の記事を見ても、秘事とすべき内容の記事などどこにも見当たらない。これはたとえば、上に引用した「此君居秘録」のように、歴代主君たちに対してさえも歯に衣をきせぬ辛辣な批評がある書物ならともかく、『峯均筆記』のような内容では《他見ニ及ベカラズ》とする書ではありえない。
 差し障りがあるとすれば、立花峯均が再三反復した「唯授一人のリニアな伝系」という明白な虚構である。寺尾孫之丞や柴任美矩の段階であれば、すでに過去のことだから、それはよかろうが、吉田実連の唯一相伝者は自分だという主張には、同じ筑前二天流の早川派の連中は黙っていない。これが表に出れば、早川派の連中を刺激することは明らかである。実際、半世紀ほど経って、本書が門外へ流出して「二天流伝記」の名で書写されるようになったとき、早川派をいたく憤激させたのである。
 しかし、立花峯均にはそんなことを気にする様子はない。やはり、自分が吉田実連の唯一相伝者だという認識は変らなかった。吉田実連が甥の早川実寛に相伝したのは、自分が流刑になったための非常措置であって、自分が帰還した以上、原状回復されなければならない。
 それに、早川実寛に相伝証文を見せろと云ってもそれに応じない。吉田実連が早川實寛にどんな証文を発行したか、それが確認できない以上、これを一流相伝者と認めがたい。それが立花峯均の考えであっただろう。
 これは、峯均が死ぬまで訂正しなかった、早川派に対する扱いであり、それゆえその門流の立花派では、早川系を正統性を有しない分派とみなした。
 立花峯均が、他に見せるな、という釘を刺したとすれば、それは早川系への情報封鎖である。たしかに、柴任美矩からも播州明石で直接話を聞いた立花峯均は、早川実寛の知らぬ情報を多くもっていた。しかし、それでも、この《他見ニ及ベカラズ》という一行の均衡を欠く唐突さは緩和できない。
 ここで我々が気づかされるのは、その秘密性が一つの党派的中心を構成することである。言い換えれば、『峯均筆記』が自身を秘密文書としたとき、明らかにこの流派は自閉に向かって歩み出したということであるのだが、その秘密性の核心とは、実は秘密にすべき内容は存在しないという事実なのであった。
 ただしこれは、《他見ニ及ベカラズ》という一行が峯均自身によって記された、と前提してのことである。もしこれが、峯均ではなく後の世代による写本段階の書き入れであるとすれば、この《他見ニ及ベカラズ》という一行の均衡を欠く唐突さは幾分緩和されよう。峯均の意を過剰に体した後代の者が伝写のプロセスで、文書の秘密化を図ったにすぎない。
 後代の者がこれを記入した可能性もあろうというのは、もしこれが峯均自筆本にあったとすれば、この《他見ニ及ベカラズ》という一行で一文は完了するはずで、以下の文章はなかったことになる。ところが以下に、教訓を語る補足的な文章が連続するから、ここで打ち留めとはみえない。したがって、この《他見ニ及ベカラズ》については、後入の可能性を想定しておくべきであろう。後人はいろいろイタズラをするので、歴史研究にとっては厄介な連中である。  Go Back









丹治峯均筆記 自記
 
 (10)戸入ノ位、鎗相ノ位、相傳ストイヘ共
 上述のように、峯均がすでに《他見ニ及ベカラズ》と書いたとすれば、以下はなかった文章である。あるいは、《他見ニ及ベカラズ》がなかったとすれば、いわば補記追記に類する内容である。
 まず内容を読めば、大祖・武蔵以来、「戸入」〔といり〕の位、「鎗相」〔やりあい〕の位という術を相伝したのだが、それが、五巻の書(五輪書)には見当たらない、という話である。戸入というのは、屋内籠城者などを制圧する術で、これはおそらく新免無二の「十手の家」以来の捕手術であろう。もう一つの鎗相の位というのは、長い道具である槍を持った相手と対戦するときの術で、たとえばこちらが小太刀で、相手が鎗という長物、という不利な条件で、相手を打ち負かす秘技ということになる。しかし、これらが武蔵流に独自な術であろうとは思えない。どの流派でも、これくらいの術は教えたのである。
 したがって、大祖・武蔵以来、戸入の位と鎗相の位という術を相伝したというが、これが武蔵直伝の術かというと、それは恠しい。戸入の位と鎗相の位が、相伝の位とされるほど特別なものになったとすれば、それは早くて寺尾孫之丞以来のことであろう。前に出た話だが、五尺木刀(五尺杖)の操法については、寺尾孫之丞が独自の技術開発をしている。
 立花峯均がここで、大祖以来相伝の戸入の位と鎗相の位の記述が、五輪書にないとして、いささか困惑しているのは、それゆえ、見当が外れているのである。峯均は、五輪書が草案の書ゆえ、書き落したのだろうか、と首をひねっているが、五輪書の内容をみればわかるように、戸入の位と鎗相の位などは五輪書の話の趣旨とはレベルが異なる。そういう専門家レベルの特定用途の術については、普遍的入門書たる五輪書には入る余地はないのである。
 戸入の位について、峯均がここで想起しているのは、五輪書火之巻の「敵になると云事」の一文である。これにしても、峯均のいう戸入の位とはまったく文脈の違う話で、要するに、敵の身になってみろ、戦うとき、相手が今何を思っているか、それを推察してみろ、という一般普通の教えなのである。
 このあたり、立花峯均はまったく誤解しているのだが、それというのも、彼の世代までに、五輪書は境位に応じて各巻順次伝授されるところの、一種の秘伝書にされてしまっていたという経緯がある。これはむろん、始祖武蔵の意思を裏切る慣習なのだが、五輪書を秘伝書とみなす意識からすれば、相伝の秘術たる戸入の位と鎗相の位の記述が、五輪書にないのが奇怪なのである。峯均にそう思わせるのは、始祖当初の運動が惰性化した後代の境位である。
 鎗相の位について、立花峯均がここでわざわざ記しているのは、これが峯均得意の術だったからだという見方も可能である。中段からすっと静かに入り身する。これが肝要なのだが、なかなか難しい、と云う以上、峯均はこれを得意としたものらしい。
 さて、この一段はかような次第なので、体系的な技術論でもなく、峯均の自伝たるこの「自記」とは異質な記述で、補記という性格のものである。したがって峯均は、相伝の術なのに五輪書に記載がないという、自分が感じていた疑問だが、ここまで記述する機会がなかったのを、ここで念のため考えをメモしたというところであろう。
 なお言えば、このあたり三宅長春軒本には誤記が散見される。《鎗相ノ事、能々工夫鍛錬アルベシ。就中、中段ニテ静ニ入事》とすべきを、《鎗位之事、能々工夫鍛錬アルベシ。就中、中位ニテ静ニ入事》と記す。むろん「鎗位」も「中位」も二天流兵法語彙にはなく、これは「鎗相(合)」、「中段」とすべきところを間違ったのである。これは不用意というよりも、二天流門外漢の手つきである。したがって、こうした写本を不用意に鵜呑みにすると、『峯均筆記』の記述を損ねることになる。  Go Back








九州大学蔵
火之巻 敵になると云事
吉田家本五輪書


*【五輪書】
《一 敵になると云事。敵になると云ハ、我身を敵になり替りておもふべきと云所也。世の中を見るに、ぬすミなどして、家のうちへとり籠るやうなるものをも、敵を強くおもひなすもの也。敵になりておもへバ、世の中の人をみな相手として、にげこミて、せんかたなき心也。とりこもる者ハ雉子也。打はたしに入人ハ鷹也。能々工夫有べし。大なる兵法にしても、敵といへバ、強くおもひて、大事にかくるもの也。我常によき人数を持、兵法の道理を能知り、敵に勝と云所を能うけてハ、氣づかひすべき道にあらず。一分の兵法も、敵になりて思ふべし。兵法能心得て、道理強く、其道達者なる者にあひてハ、かならず負ると思ふ所也。能々吟味すべし》(火之巻)

 
 (11)地ノ巻ニ、兵法二ノ字ノ利ヲ知ルト云事ヲ記サレタリ
 前段と関連して、ここでは兵法論に関する教訓である。五巻の書(五輪書)地之巻に、「兵法二の字の利を知ると云事」という条項があるが、ここではそれに言及している。
 太刀の道の覚者を兵法者と云うこと、古今かくの如し。弓、鉄砲、鎗、薙刀、これらすべて武家の道具であるから、その道を知った者は、皆兵法者である。しかしながら、太刀に限って兵法と云うこと、これにはよくよく思慮が必要である、という。
 これは五輪書の当該部分を、立花峯均なりに読みくだいたところだが、そこから峯均が何を記しているかといえば、今の世では、軍法(兵学)を以って兵法とし、太刀を以って剣術と云うやからが数多くある。軍術はなおさらに、兵の法(兵を動かす方法)であるから、その利(理)があるようだが、太刀を兵法と云うことは、剣の威徳に起源し、武士の最上の道具ゆえ、これを兵法と云うのである。漢士・本朝、つまり中国・日本を通じて、上一人(天皇)より下々庶民に至るまで、これを尊仰しない者があろうか。剣はまことに世を治め身を治める至宝である。――と、いったんは剣の物神化、刀剣礼賛をなぞってみせる。
 ところが峯均の論説は一転して、このようなことは、申すに及ばずといえども、悪しき心(意味)を得ては、つまりその意味を取りそこなうと、ただ単に剣術一通りの利、つまり唯剣主義になってしまう。それを嘆かわしく思い、記しおくのである、という。つまり、この部分を誤読するな、という至極もっともな峯均の教訓である。
 たしかに、武蔵には剣術至上主義、唯剣主義に対する批判があって、それを明記している。――近年、兵法者と称して世を渡る者がある。これは剣術だけしかできない連中である。常陸国の鹿島・香取の社人どもは、明神の伝えとして諸流派を立て、国々を廻って人に宣伝しているが、これは最近のことである。昔から「十能七芸」とあるなかで、利方〔りかた〕といって武芸に関わるとはいえ、利方というのなら剣術だけに限定してはならない。剣術だけの利に留まるなら、その剣術も知ることはできない。もちろん、兵法(全般)には叶うことはありえない、と述べている(地之巻 兵法の道と云事)。
 したがって、ここで立花峯均が、わざわざ地之巻「兵法二字の利を知と云事」という条項に言及して語っているのは、およそ太刀の徳を称揚するかのごときこの条項だけを見て、武蔵の言わんとするところを誤解する者が、当時からあったからであろう。
 この、当時から、というのは、もちろん我々の同時代の五輪書読みも同様で、ここで武蔵が単純に太刀の徳を称揚していると誤読してしまうのである。ところが実は、立花峯均が明記しているように、《太刀の徳よりして、世を治、身をおさむる事なれば、太刀ハ兵法のおこる所也》ということも、その意味を取りそこなうと、ただ単に剣術一通りの利、つまり剣術至上主義、唯剣主義になってしまう。それを峯均は嘆かわしく思い、ここでとくに注意しているのである。
 立花峯均の言説が正しいのは、兵法とは軍学・用兵術の意味だ、いや兵法とは剣術だ、というような一義的な意味規定の双方を退けているところである。すなわち、――当流(筑前二天流)においては、一人と一人の勝負も、万人と万人の勝負も、同じ利(理)であって、武士の道は皆々兵法なり。一歩も道み違えば、悪道に堕在するとのこと、大祖(武州)がこれを記されている、と記しおいたところである。つまり、武士の道はどれもみな兵法だ、ようするに戦闘術だ、と喝破した武蔵を反芻しているのである。
 なお、「大祖」については、三宅長春軒本は「太祖」と記すが、それは誤記であろう。これは異本のごとく「大祖」が正しい。
 さて、この一段も、峯均自伝というかたちの「自記」には異質の、原則的な兵法論で、先の戸入〔といり〕の位、鎗相〔やりあい〕の位への言及と同じく、「自記」本文に対する補記追記というところである。とくにこれは、兵法後学への教訓である。  Go Back




*【五輪書】
《一 兵法二の字の利を知事。此道におゐて、太刀を振得たるものを、兵法者と世に云傳たり。武藝の道に至て、弓を能射れば、射手と云、鉄炮を得たる者ハ、鉄炮打と云、鑓をつかひ得てハ、鑓つかひと云、長刀を覚てハ、長刀つかひと云。然におゐてハ、太刀の道を覚へたるものを、太刀つかひ、脇指つかひといはん事也。弓鉄炮、鑓長刀、皆是武家の道具なれば、何も兵法の道也。然ども、太刀よりして、兵法と云事、道理也。太刀の徳よりして、世を治、身をおさむる事なれば、太刀ハ兵法のおこる所也。太刀の徳を得てハ、一人して十人に必勝事也。一人して十人に勝なれば、百人して千人に勝、千人して万人に勝。然によつて、我一流の兵法に、一人も万人もおなじ事にして、武士の法を残らず、兵法と云所也。道におゐて、儒者、佛者、数奇者、しつけ者、乱舞者、これらの事ハ、武士の道にてハなし。其道にあらざるといへども、道を廣くしれば、物ごとに出合事也。いづれも、人間におゐて、我道々を能ミがく事、肝要也》(地之巻)
《近代、兵法者と云て世をわたるもの、これハ劔術一通りの儀也。常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り人に傳事、近き比の事也。いにしへより十能七藝とあるうちに、利方と云て、藝にわたるといへ共、利方と云出すより、劔術一通りにかぎるべからず。劔術一へんの利までにてハ、劔術もしりがたし。勿論、兵の法にハ叶べからず》(地之巻 兵法の道と云事)
《道々事々をおこなふに、外道と云心有。日々に其道を勤と云とも、心の背けば、其身ハ能道とおもふとも、直なる所よりみれば、実の道にハあらず。実の道を極めざれバ、少心のゆがみにつゐて、後にハ大にゆがむもの也。ものごとに、あまりたるハたらざるに同じ。よく吟味すべし》(地之巻 此兵法の書五卷に仕立事)
《我道を傳ふるに、誓紙罸文などゝ云事をこのまず。此道を学ぶ人の智力をうかゞひ、直なる道をおしへ、兵法の五道六道のあしき所を捨させ、おのづから武士の法の實の道に入りに入、うたがひなき心になす事、我兵法のおしへの道なり。能々鍛錬有べし》(風之巻 他流に奥表と云事)
 
 (12)延享元甲子年、一百年ニ當ル
 この一段は、本書末尾の記事である。この記事がない写本があるので、ここで掲載しておいた。ただし、大塚藤實が見た写本には、武蔵誕生を天正十二年とすべきところを、「天正十一年癸未」と誤記していたようで、甚だ胡乱なことである。ただし、ただしこの当該写本の本文には、そうあったので、それをそのまま転記したらしい(藤郷秘函 巻之四)。
 大塚藤實は、評記の別の箇処でこれを天正十五年だと書いているが、またまたこれも明らかな誤認である。彼は後にこれを天正十二年と訂正しているが、そのように、天正十一年だの天正十五年だのと、筑前では武蔵門流でさえも、あれこれ迷惑していたようである。どうも当時の武家には、思いのほか算数に弱いという傾向があったとみえる。
 それはともかくとして、ここに「延享元甲子年、一百年ニ當ル」という記事があるのが、興味深い。これによって、末尾にこの記事を有する一本が、武蔵歿後百年にあたる延享元年(1744)、あるいはそれ以後に書かれた、もしくは写されたことを示す。
 書かれた、もしくは写されたというのは、本書『峯均筆記』のうち、附録の「追加」や、立花峯均の「自記」が書かれた時期がはっきりしないからである。
 本書本篇の武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」の末尾には、享保十二年の年暦記載があって明確である。それに対し、本書の附録たる「追加」と「自記」については、執筆時期は明記がない。それゆえ、本篇の武蔵伝記と同時に書かれたとも、後になって増補されたとも、慥かなことは云えないのである。
 ところが、このケースのように、「延享元甲子年」という記載があると、少なくともこの年か、あるいはそれ以後まで、立花峯均は附録部分を書いていたという推測が可能である。ただし、立花峯均は延享二年(1745)卒で、その前年となると、すでに最晩年だから、これがおそらく最終版なのである。
 それゆえ、本書の成立については、本篇の武蔵伝記は享保十二年(1727)、附録二篇は時期は不明であるものの、その最終版は延享元年(1744)あたりの峯均最晩年に下限をおくことができる。

 しかるに、本書写本のうち、三宅長春軒本には、その末尾に「享保丁未五月下旬廓巖翁老先生之述著」とある。奇態なことである。
 「廓巖翁」とは既述のように立花峯均のこと。しかしここに「廓巖翁老先生」とある以上、立花峯均自身の署名を写したのではなく、後に本書を書写した人物による記入である。
 「享保丁未」とあるのは、干支からするに、享保十二年(1727)である。しかるに、「五月下旬」という曖昧な日付がある。これは、本書本体の武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」部分奥書に、《享保十二龍次丁未年夏五月十九日》とある日付を見て、この後に「追加」「自記」が書かれたものと推測して、「五月下旬」と書いたものであろう。下手な小細工である。
 武蔵は、正保二年(1945)五月十九日卒、である。したがって、五月十九日は武蔵の命日ということで、武蔵流兵法末孫には特別な意味を有する日である。玄信公伝部分をこの日に書き上げたものであろうがなかろうが、大祖武蔵記念日に合わせたものとして、この日付があったのである。
 それゆえ、のちの書写者がこの例にならうとすれば、やはり日付はこの特別な日、つまり武蔵命日の五月十九日とすべきであった。それを「五月下旬」という曖昧な日付を記してしまったのは、事実そうであったとしても、よくよく思慮の足りない振舞いなのである。
 本来は、ここには何も記載文はなかったのである。寺尾・柴任・吉田の三師の伝記を記した「追加」も峯均自伝の「自記」も、武蔵伝記本篇に対する附録である。附録ゆえに、それらには奥書を記さないのである。したがって書写者がこの一行を記したのは、蛇足というものである。
 三宅長春軒本には、「享保丁未五月下旬廓巖翁老先生之述著」という文字の右側に判読不能の印章がある。「廓巖翁老先生之述著」と記すものが、立花峯均の「半間庵」の印章を添えるというのも変な話で、これはまた後人の余計な仕業であろう。他方、この一文があることに関しては、寛政十二年(1800)書写の異本(熊本・島田美術館蔵)のケースも同じである。ただ、こちらは、左側に「半間庵」の印章があったとする文字と落款がある。筑前二天流の『峯均筆記』の一本が、肥後に現存するに至った経緯は明治のことで、おそらく古くはあるまい。

 なお、三宅長春軒本の巻末には、小倉碑文の写しが附されている。これは肥後系の武蔵伝記も同様だが、本篇の武蔵伝記の資料として付録されたものらしい。ただし、これが立花峯均の原本にあったものとは見えない。
 単なる付録だろうと思って、最初とくに気に留めなかったが、よくよくこの小倉碑文写しをみると、かなり多数脱字誤記がある。おそらく伝写反復のうちに、誤写が生じたものであろう。伝写者が判読できなかった文字もあると見えて、欠字空白にしている箇処もある。それで、参考のため、三宅長春軒本の附録が小倉碑文のどこをどう間違えているか、対照してみた。正字・略字の使用の違いも示しておく。

個人蔵
巖翁自記末尾 「延享元甲子年」
(藤郷秘函 巻之四)



*【丹治峯均筆記】
(武蔵伝記部分奥書)
 兵法五代之門人
  丹治峯均入道廓巖翁五十七歳
  享保十二龍次丁未年夏五月十九日
    於潜龍窟中執毫記之




福岡市総合図書館蔵
三宅長春軒本 書写者奥書
【小倉碑文】

兵法天下無雙
  播赤松末流新免武藏玄信二天居士碑
    正保二乙酉暦五月十九日於肥後國熊本卒
    于時承應三甲午四月十九日孝子建焉
臨機應變者良將之達道也講武習兵者軍旅之用事也游心於文武之門舞手於兵術之場而逞名誉人者其誰也播英産赤松末葉新免之後裔武藏玄信二天夫天資達不拘細行蓋斯其人乎爲二刀兵法之元祖也父新免号無二爲十手之家武藏家業朝鑚暮研思惟考索灼知十手之利倍于一刀甚以夥矣雖然十手非常用之器二刀是腰間之具乃以二刀爲十手理其徳無違故改十手爲二刀之誠武之精選也或飛眞劔或投木戟北者走者不能逃避其勢恰如發強弩百發百中養由無踰于斯也夫惟得兵術於手彰勇功於身方年十三而始到播新當流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利十六歳春到但馬國有大力量兵術人名秋山者又決勝負反掌之間打殺其人芳声満街後到京師有扶桑第一之兵術吉岡者請決雌雄彼家之嗣清十郎於洛外蓮臺野爭龍虎之威雖決勝敗木刄之一撃吉岡倒臥于眼前而息絶依有一撃之諾輔弼於命根矣彼門生等助乘板上去藥治温湯漸而復遂棄兵術髪畢而後吉岡傳七郎又出洛外決雌雄傳七袖于五尺餘木刄來武藏臨其機奪彼木刄撃之伏地立所死吉岡門生含寃密語云以兵術之妙非所可敵對運籌於帷幄而吉岡又七郎寄事於兵術會于洛外下松邊彼門生數百人以兵仗弓箭忽欲害之武藏平日有知先之歳察非義之働竊謂吾門生云汝等爲傍人速退縱怨敵成群成隊於吾之如浮雲何恐之有散衆敵也似走狗追猛獣震威而洛陽人皆感嘆之勇勢知謀以一人敵人者兵家之妙法也先是吉岡代々爲 公方之師範有扶桑第一兵法術者之号當于 霊陽院義昭公之時召新免無二吉岡令兵術決勝負限以三度吉岡一度利新免兩度決勝於是令新免無二賜日下無兵法術者之号故武藏到洛陽与吉岡數度決勝負遂吉岡兵法家泯絶矣爰有兵術達人名岩流彼求決雌雄岩流云以眞劔請決雌雄武蔵對云汝揮白刄而其妙吾提木戟而顕此秘堅結漆約長門豐前之際海中有嶋謂舟嶋兩雄同時相會岩流手三尺白刄來不顧命術武藏以木刄之一撃殺之電光猶遲故俗改舟嶋謂岩流島凡從十三迄壯年兵術勝負六十場無一不勝且定云不打敵之眉八字之間不取勝毎不違其的矣自古決兵術之雌雄人其算數不知幾千雖然於夷洛向英雄豪傑前打殺人今古不知其名武藏屬一人耳兵術威名遍四夷其誉也不絶古老口所銘今人肝誠奇哉妙哉力量早雄尤異于他武藏常言兵術手熟心得一毫無私則恐於戦場領大軍又治國豈難矣 豐臣太閤公嬖臣石田治部少輔謀叛時或於州大坂 秀頼公兵乱時武藏勇功佳名縱有海之口溪之舌寧説盡簡略不記之加旃無不通禮樂射御書數文況小藝巧業殆無爲而無不爲者歟蓋大丈夫之一躰也於肥之後卒時自書於 天仰實相圓滿之兵法逝去不絶字以言爲遺像焉故孝子立碑以傳于不朽令後人見嗚呼偉哉
【峯均筆記付録小倉碑文写】


兵法天下無雙播赤松末流新免武藏玄信二天居士碑
正保二乙酉暦五月十九日於肥後國熊本卒
于時承應三甲午四月十九日      孝子建焉
臨機應變者良將之達道也講武習兵者軍旅之也游於心文武之門舞於手兵術之場而逞名誉人者其誰也播英産赤松之末葉新免之後裔武藏玄信二天夫天資達不拘細行蓋斯其人乎爲二刀兵法之元祖也父新免号無二爲十手家武藏家業朝鑚暮研思惟考索灼知十手之利倍于一刀甚以夥矣雖然十手非常用之器二刀是腰間之具乃以二刀爲十手其徳無違故改十手爲二刀成舞之精選也或飛眞劔或投木戟北者走者不能逃避其勢恰如發強弩百發百中養由無踰于斯也夫惟得兵術於手彰勇功於身方年十三而始到播新當流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利十六歳春到但馬國有大力量兵術人名秋山者又決勝負反掌之間打殺其人芳声満街後到京師有扶桑第一兵術吉岡者請決雌雄彼家之嗣清十郎於洛外蓮臺野爭龍虎之威雖決勝敗木刀之撃吉岡倒臥于眼前而息絶依有一撃之諾輔弼於命根矣彼門生等助乘板上去藥治温湯漸而復遂棄兵術髪畢然後吉岡傳七郎又出洛外決雌雄傳七袖于五尺餘木刀來武藏臨其機奪彼木刀撃之伏地立所死吉岡門生含寃密語云以兵術之妙非所可敵對運籌於帷幄而吉岡又七郎寄事於術會于洛外下松邊彼門生數百人以兵杖弓箭忽欲害之武藏平日有知幾之才察非義之働竊謂吾門生云汝等爲傍人速退縱怨敵成群成隊於吾之如浮雲何恐之有散衆敵也似走狗追猛獣震而洛陽人皆感嘆之勇勢知謀以一人敵人者兵家妙法也先是吉岡代々爲 公方之師範有扶桑第一兵法術者号當于 霊陽院義昭公之時新免無二吉岡令兵術決勝負限以三度吉岡一度利新免兩度決勝於是令新免無二賜日下無兵法術者之号故武藏到洛陽与吉岡數度決勝負遂吉岡兵法家泯絶矣爰有兵術達人名岩流彼求決雌雄岩流云以眞劔請決雌雄武蔵對汝揮白刄而其妙吾提木戟而顕此秘堅結漆約長門國豊前國之際海中有嶋謂舟嶋兩雄同時相會岩流手三尺餘之白刄來不顧命術武藏以木刀之一撃殺之電光猶遲故俗改舟嶋謂岩流島凡從十三迄壯年兵術勝負六十場無一不勝且定云不打敵負八字之間不取勝數不違其的矣自古決兵術之雌雄人其算數不知幾千雖然於夷洛向英雄豪傑前打殺人場無一不勝且定云不打古今不知其名武藏屬一人耳兵術威名遍四夷其誉也不絶古老口所銘今人肝誠奇哉妙哉力量雄尤異于他武藏常言兵術手熟心得一(欠字空白)無私則恐於戦場領大軍又治國豈難矣(闕字なし)豐臣太閤公嬖臣石田治部少輔謀叛時或於州大坂(闕字なし)秀頼公兵乱時武藏勇功佳名縱有海之口溪之舌寧説盡簡略不記之加旃無不通禮樂射御書數文況小藝巧業殆無爲而無不爲者歟蓋大丈夫之一躰也於肥之後卒時自書於(闕字なし)天仰實相圓滿之兵法逝去不絶字以言爲遺像焉故孝子立碑以傳于不朽令後人見嗚偉哉
(注) Web上表記制約のため、一部文字に「事」「汝」など借字使用
 このように最後の「嗚偉哉」いたるまで、本書所載の小倉碑文写しには、まことに賑やかに脱字誤字がある。これがどこまで最初の筆写者によるものなのか、途中の伝写の過程で生じたものか、あるいはもし立花峯均がこれを写したとすれば、彼の段階ですでにどれほど間違いがあったのか、それは不明である。
 とはいえ、こうした誤記の多い写しを挙げることに、どんな意義があるのか、と訝る読者もあろう。これだと、少なくとも現代では史料的価値はないではないか、と。
 まことにその通りだが、それを数百年前の江戸時代の杜撰な資料伝承とのみ決めつけるわけにはいかない。実は、小倉碑文の正確な「写し」は、つい最近まで存在しなかったのである。
 それは、我々の研究プロジェクトにおいて、小倉碑文の読解を開始するにあたり、例によっていちおうすでに刊行されていた諸文献に当るという手続きを踏んだのだが、そこで判明したのは、驚くべきことに、まことに数多い「小倉碑文」が掲載されておりながら、どれ一つとして正しい「小倉碑文」が活字化されていなかったのである。
 そのため我々は、現物及び拓本を参照しつつ、「小倉碑文」を全文校訂した上で、それを掲げて碑文読解に入る、という二重の手続きを踏まざるを得なかった。その経緯は、[資料篇]小倉碑文の当該ページに記されている通りである。
 したがって、『峯均筆記』巻末に付録された、誤写の多い小倉碑文について、現代の我々は決してそれを嗤うことはできない。そのことを肝に銘じるために、あえてここに掲載しておいたのである。
 今後『峯均筆記』の校訂文が出るとしても、その校訂がどれほど正確か、あるいはいかに杜撰なものであるかは、ここに付録された小倉碑文写しの字句を照合すれば、それが判明するであろう。言わば、この付録の誤記を「正しく」拾っているかどうかで、校訂の確度を判定しうる。ついついオリジナルの小倉碑文の「正しい」文言を転記しているようでは、ろくに校訂もやっていないのがバレてしまうわけだ。つまりは、この付録の誤記が校訂者の手抜きを摘発する、という仕掛けである。
 ともあれ、この付録小倉碑文の特徴は、誤記が多いことである。肥後系伝記『武公伝』写本所収の碑文写しと比べても、こちらの方が誤記箇処が多い。この付録は、『峯均筆記』のオリジナルには存在しなかったと推測せしめる所以である。たしかに、立花峯均が記した本文には、小倉碑文を巻末に付録するという文言はない。それゆえ、この付録小倉碑文写は、後世の写本段階で、武蔵伝記資料として増補されたものとみなしうる。
 筑前の異本「二天流伝記」には、この碑文写しもなければ、前記の「廓巖翁老先生之述著」の文字も印章もない。これらはもともと無かったものが、後人によって付加されたものである。本書『峯均筆記』については、なおテクストは未確定の段階である。
 他の写本――そしてあるいは原本も、まだどこかに現存する可能性もある。それら未見資料が発掘されるのを期待したい。『峯均筆記』については、まだまだ探索すべきことが多く残っているからである。  Go Back


小倉碑文拓本



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