宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  1  Back   Next 

 
  01 父無二・有馬喜兵衛
  兵法大祖武州玄信公傳來(1)

一 新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族(2)、父ハ宮本無二ト号ス(3)。邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也(4)
 無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟數多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ無二免許ノ弟子也。(5)

 武蔵、童名辨之助ト云(6)。幼年ヨリ父ガ兵法ヲ見コナシ、常々誹謗ス。無二、一子タリトイヘドモ、其事ニヨツテ心ニ不叶。
 或時、無二楊枝ヲ手ヅカラ削ル。辨之助*一間餘ヲ隔テ座セリ。無二小刀ヲ以テ手裡劔ニウツ。辨之助面ヲソムク。則座セル所ノ後ノ柱ニシタヽカニタツ。
 無二甚タ忿テ曰、平日我兵法ヲサミス。手裡劔ヲ以テ*耳ノ端ヲ二三分打切リ、思ヒ知ラセント思ヒシニ、面ヲソムケ難ヲ遁ル。近比奇怪ノ由ニテ、家ヲ追出ス。是、辨之助九歳ノ時也。(7)
 夫ヨリ播州ニ至ル。母方ノ叔父アリ。出家ニテ小菴ニ安住ス。彼ガ許ニテ成長スト云リ*。(8)
 
 十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ來リ(9)、濱邊ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス。辨之助同輩ノ童ト手習ニ行キ、帰リガケニ其高札ヲ見、手習筆ヲ以テ高札ニ墨ヲヌリ、何町何方ニ居申ス宮本辨之助、明日試闘可致旨記之、菴ヘ歸る。
 及晩、喜兵衛ヨリ使者ヲ差越、彌御望之如ク明日試闘可仕旨申越ス。叔父ノ出家聞之、甚驚怖シテ、右ノ使者ニ出合、「幼年ノワルサニ致シタル事ニ候間、是非々々免ジクレ候ヘ」ト申ス。使者是ヲ聞テ、「自分ニ承候迄ニテハ、兎角ノ返答申難シ。喜兵衛ニ御面談ノ上、斷被仰達可然」由申ニ付、叔父右ノ使ト打連、喜兵衛ノ旅宿ニ至リ、右ノ旨趣ヲ申述、ヒタスラ斷ヲ申ス。
 喜兵衛モ*聞届、「幼年ノ手業ニ候ヘバ、強テ可申様モナシ。然レ共、我等兵法修行ノ為日本ヲ廻ルニ、播州ニテ高札ヲ墨ヌリニ逢タリト唱アツテハ、幼年ノ仕業タル事、人々ニ*申分モ成難シ。明日ヤラヒ場ヘ御同道候得。拙者モ支度シテ場所ヘ出游申スベシ。彼所ニ於テ斷ヲ被仰候ヘバ、諸人ノ目前故、斷モ相立チ、唱モ幼年ノ仕業タル事顯然タリ。明日御同道候得」トテ差戻ス。
 翌日ニ至リ、ヤラヒ場、貴賤群ヲナス。喜兵衛、装束等相改メ、カルサンヲ着シ、牀几ニ腰ヲカケ相待ツ。叔父ノ僧、辨之助ニ對シ*、「己ユヘ、ヨシナキ事ニ骨ヲ折ル。跡ヨリ可來」ト云テ、先ヘ行。辨之助ハ短キ脇差計ニテ、縁ノ下ヲノゾキ見テ、薪ノ内ヨリ六七尺アル手比ノ棒一本取出シ、杖ニツキ見ヘカクレニ歩ミ行カル。
 場所ニ至リ、叔父ノ僧ヤラヒ竹ニ手ヲカケ、「喜兵衛殿、昨晩モ申ス様ニ、アレヘ参ル若輩者ニテ候。試闘ノ儀ハ、兎角御赦免被下候ヘ」ト申内ニ、辨之助來タリ、ヤラヒノ戸ヲ押開キ、「喜兵衛トハ其方カ、サア、試闘マイラン」ト聲ヲカケ、走リ掛テ杖ヲ以テ打ツクル。
 喜兵衛モ立揚リ、抜打ニ切ツクル。然レ共、辨之助ハ走リカヽリ、喜兵衛ハ牀几ヲ立揚り切リツケシ故、身近ク、双方疵ツカズシテ、腕ト腕ガ肩ニトヾマル。辨之助、杖ヲステ、カヒクヾリザマ、肩ニアゲテ、マツサカサマニ落シ、杖ヲツ取、ツヾケ打ニ十四五打、即時ニ打殺ス。諸人感嘆シバラクヤマズ。(10)
 夫ヨリ惟ラク、「我命ヲ捨テ、蹈込テサヘ打ツクレバ、敵ニ打勝事、何ノ手間モ不入」ト心得テ、叔父ガ手前ヲ立*去リ、十三歳ヨリ二十八九歳迄ノ間、日本國中ヲ廻リ、六十餘人ノ相手一人トシテ武州ニ打勝タル者ナシ。是、地ノ巻ニ記サルヽ所也。(11)

  兵法大祖武州玄信公伝来

一 新免武蔵守玄信は、播州の産、赤松の氏族である。父は宮本無二と号す。邦君(黒田)如水公の御弟、黒田兵庫殿の与力であった。
 無二は、十手の妙術を得て、その後、それを二刀に移し、門弟が多数あった。中でも青木條右衛門は無二免許の弟子であった。

 武蔵は童名を弁之助という。幼い頃から父(無二)の兵法を蔑んで、常々誹謗していた。無二は、武蔵が唯一の子であったけれど、そのことによって心に異和があった。
 ある時、無二が楊枝を自身の手で削っていた。弁之助(武蔵)は、そこから距離一間余(約二m)を隔てて座っていた。無二が(突然)小刀を手裡剣にして(息子に向って)打った。弁之助は顔面をそむけてそれをかわしたので、座っている所の後の柱にしたたかに突き刺さった。
 無二は、ひどく忿って云う、「おまえは常日頃、おれの兵法を蔑んでいるから、手裡剣で耳の端を二三分〔六〜九mm〕打ち切って、思い知らせてやろう思ったが、顔面をそむけて難を遁れやがった。まったくお前はけしからん奴だ」といって、(息子を)家から追出した。これが弁之助九歳の時であった。
 それから(武蔵は)播州へ行った。母方の叔父があった。(叔父は)出家で小さな庵に安らかに暮らしていた。(武蔵は)彼のもとで成長したという。

 (武蔵が)十三歳の時、新当流の兵法者で有馬喜兵衛という者が、播州にやって来た。浜辺に矢来を結び、金磨きの高札を立てて、試合を望み次第いたす旨、それに書き記した。弁之助は、同輩の児童と手習に行った帰りがけにその高札を見て、手習筆で高札に墨を塗り、何町何方に居り申す宮本弁之助である、明日試合しようとの旨を記し、(叔父の)庵へ帰った。
 晩になって、喜兵衛から使者を寄こして、お望の如く、いよいよ明日試合しようとの旨を言ってきた。叔父の出家はこれを聞いて大いに驚怖して、この使者に向って、「幼い子が悪戯にしたことですので、ぜひとも許してもらいたい」と断りを申した。使者はこれを聞いて、「自分にそう言われても、とにかく返答はできない。喜兵衛に御面談の上、(試合の)断りを申されるのがよいでしょう」と申すので、叔父はこの使いと一緒に喜兵衛の旅宿へ行き、右の旨趣を申し述べ、ひたすら断りを申した。
 喜兵衛もこれを聞届け、「幼い子の悪戯でしたら、強いて申すべきこともない。けれども、私のように兵法修行のため日本を廻っている者が、播州で高札に墨塗りに逢ったと噂されては、幼い子の悪戯だったと言っても、人々には何の弁明にもならない。明日、矢来場へその子を御同道ください。拙者も支度して(試合)場所ヘ出向きますから。そこで、断りをおっしゃれば、諸人の目前ですから、あなたの断りも立ち、噂にしても、幼い子の仕業たることが顕らかになるでしょう。明日その子を御同道なされ」と言って、(叔父を)帰した。
 翌日になって、矢来場は貴賎群をなす状態である。喜兵衛は試合用に装束等を着替え、カルサン(軽衫)を穿いて、牀几に腰を掛けて待った。叔父の僧は弁之助に、「おまえのせいで、わけの分からぬ事に苦労させられる。わしの後からついて来い」と云って、先へ行く。弁之助は、短い脇差しかなかったので、縁の下を覗いて見て、薪のなかから六〜七尺〔約二m前後〕ある手ごろの棒を一本取出し、それを杖について、叔父の後を見え隠れに歩いて行く。
 (約束の)場所にやって来て、叔父の僧は、矢来竹に手をかけて、「喜兵衛殿、昨晩も申したように、あそこへ参るような若輩者でして、試合のことは、とにかく御赦免下さい」と断りを申していると、弁之助が来て、矢来の戸を押開き、「喜兵衛とはお前か、さあ、試合しよう」と声をかけ、走り寄って杖〔棒〕で喜兵衛に打ちかかった。
 これに喜兵衛も立上って、抜き打ちに切りつけた。けれども弁之助が走りかかり、喜兵衛は牀几を立上って切りつけたので、近すぎて双方疵つかず、腕と腕が肩に乗った状態になった。弁之助は杖を捨て、かいくぐったその瞬間、相手を肩にかつぎ上げて、まっ逆さまに投げ落し、杖を取って続けさまに十四五回殴りつけ、即時に打ち殺した。諸人の感嘆は、しばらく止まなかった。
 それから(弁之助は)考えるに、「我が命を捨て、踏み込んで打ちつけさえすれば、敵に打ち勝つことは何の手間もいらない」と心得て、叔父のもとを去って、十三歳から二十八九歳までの間、日本国中を廻ったが、六十人以上の相手、だれ一人として武州に打ち勝った者はなかった。これは(五輪書)地之巻に記されているところである。

  【評 注】
 
 (1)兵法大祖武州玄信公傳來
 本書のタイトル部分である。したがって、これが本書の正規の題名であり、解題に述べたように「丹治峯均筆記」というのは通称である。
 「兵法大祖」というのは、立花峯均を五代目とする兵法流派の元祖だということである。「大祖」とは偉大な流祖という意味で、「だいそ」と訓みたいところあるが、本文中に「太祖」という文字も見え、これが「たいそ」と一般に訓むことからすれば、「大祖」という文字もここは「たいそ」と呼んだかもしれない。これは今日では決定不可能であろう。
 つぎに「武州玄信公」とあるのは、武蔵の名をそう呼んだということである。「武州」とは武蔵守のことである。新免武蔵守玄信が武蔵のフォーマルな名であったから、「武州玄信公」なのである。
 ただし「武蔵守」とは擬制官位によるものである。しかし、べつに峯均が武蔵を国司大名と錯覚しているのではない。こういう表記は、いづれにしても擬制であることを承知の上での、レトリカルな措辞である。この点、武蔵が「武蔵守」という擬制官位を使用したことについて、今日なおこれを真に受けたナイーヴな論説があるが、これは芸能史や職人の民俗に対する無知に由来するものである。
 さて、「兵法大祖武州玄信公傳來」とあって、これは伝説記録の類であることを示すタイトルである。著者峯均がかつて聞いて記憶していることを書き記した文書である。  Go Back

 
 (2)新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族
 宮本武蔵のフォーマルな名は「新免武蔵守玄信」である。著者は、兵法五巻書(五輪書)を伝授され、また相伝したのであるから、そこに記されていた武蔵の記名「新免武蔵守玄信」をここに記すのである。
 しかし一方、豊前小倉の小倉碑文(北九州市小倉北区赤坂)も承知しているのである。墓碑に準じたこの碑の名は、「新免武蔵玄信二天居士」である。「武蔵守」ではない。峯均はこれを承知の上で、五輪書に準拠して「武蔵守」とするのである。本書『峯均筆記』におけるこうしたクリティカルなポジションは、銘記しておいてよい。
 それは肥後系伝記二書『武公伝』と『二天記』の差異にも言える。『武公伝』は、冒頭に《新免武藏守藤原玄信先生》と書く。これに対して『二天記』は、《新免武藏藤原玄信》である。祖父の書を踏襲したはずなのに、内容はかなり違うのが『二天記』である。ここも同様に「武藏守」ではなく「武藏」なのである。祖父・豊田又四郎正剛が「武公」と書くのは「武藏守」だからである。これは『峯均筆記』が「武州」と書くのと同じ心である。
 さて、この武蔵が「播州ノ産、赤松ノ氏族」だと記す。つまり、産地については播州生まれで、出自は赤松の氏族(枝族)とする。峯均が伝授された兵法五巻書(五輪書)地之巻冒頭には「生國播磨」と書いてあったはずである。ただし赤松の氏族とするのは、五輪書ではなく、小倉碑文なのである。つまり、小倉碑文に「播чp産、赤松末葉」とある記事に依拠したものである。この点に関するかぎり、本書は小倉碑文の情報を越えるものではなく、おそらく、この記事は小倉碑文に拠ったものであろう。
 少なくともここで言えるのは、十八世紀のはじめころには、武蔵の産地と出自に関して、「播州英産、赤松末葉」という小倉碑文の記事を否定する伝説は、どこにも発生していなかったということである。
 なお、肥後系伝記を見れば、『峯均筆記』に比して小倉碑文に忠実ではなく、勝手な「想像力」が働いているようである。『武公伝』は《玄信公、播州赤松ノ家族也》として、あたかも赤松宗家縁者のごとくで、小倉碑文の「赤松末葉」の意味を取り違えている。しかも、赤松氏は貴族だから、その名を憚って宮本を名のるようになったという、たわごとを記す。これは播州の事情を知らないがためである。
 赤松党には俗に三十六家あり、その余類を含めると異姓は百は超す、それがすべて赤松末葉である。宮本と称したのは、何も赤松が貴族だから憚ったのではない。赤松氏は天正年間に壊滅し、最後の赤松大名たる但馬竹田城主・赤松広秀(元龍野城主)も関ヶ原役後自決して竟った。すでに憚るまでもないのである。
 また《蓋シ兵書等ニハ不避之》とあるのは、武蔵流兵法文書、たとえば『五輪書』に《新免武藏守藤原玄信》と署名のあることを云っているようだが、『武公伝』の誤解はこれを貴族の名称と勘違いしたことにある。『武公伝』の著者は、どうして武蔵が「武藏守」という職名を名のったか、その習俗の本義を知らない世代である。しかもなぜ新免氏であり藤原姓なのか、それも知らないのである。
 これは『武公伝』以上の情報をもたない『二天記』でも同様である。しかし『二天記』はそれ以上に余計なことをやっている。つまり、『武公伝』の記事では粗麁ありと感じたか、赤松氏を研究したのである。たとえば、『武公伝』が赤松氏のことは書いても、新免という武蔵の名のりについては、言及していない。では新免のことも書かないといけないとなったようである。
 そうして『二天記』は「其先村上天皇…」以下の記事を書いた。武蔵が赤松円心の末葉だの、円心を佐用城主にしてしまったり、小倉碑文にも『武公伝』にもない記述をしてしまう。要するに後世の「研究」が誤りを増幅するという事例である。
 小倉碑文にも『武公伝』にもない記事は、他にも《故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム》というのがある。宮本姓を「外戚」の氏にしてしまうのである。どこにもそんな情報はないから、これもまた、後世の、しかも播州から遠い九州での伝説形成の所産である。
 武蔵の生年は、『五輪書』の寛永二十年十月に「六十」だという記事から遡及して、天正十二年(1584)生まれと特定できるが、肥後系伝記の特徴は、生年だけではなく、生れ月まで書いてしまうところである。いずれにしても、肥後系伝記のこうした情報ディテールの増殖は、事後のローカルな伝説形成があったことを示す。
 これに対し『峯均筆記』は、このあたりの武蔵情報は小倉碑文の矩を超えず、いたってシンプルなものである。しかし、それは肥後系伝記に比して情報が不足していたことを物語るものではない。後出のように『峯均筆記』は、三祖柴任美矩という情報源を有する。
 この柴任が肥後生れで寺尾孫之丞から一流相伝し、しかも播州に居ついて姫路本多家に仕官したこともある人であることからすれば、肥後系伝記よりも爾後の武蔵播磨情報は潤沢にあったはずである。しかし柴任の孫弟子で、しかも彼に明石で教えを受けた立花峯均が、こうしたシンプルな情報しか示しえないということは、筑前の伝系さえも実態はかくの如し、「播磨武蔵」はまさに韜晦の中にある。柴任も、
   「おれは何も聞いていないよ」
と、立花峯均に云ったのであろうと思われる。  Go Back



福岡市総合図書館蔵
三宅長春軒本 冒頭
兵法大祖武州玄信公傳來






左:手向山武蔵顕彰碑
右:五輪書 地の巻冒頭








*【武公伝】
《玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之。天正十二年甲申三月、播州ニ生ル》













*【二天記】
《新免武藏藤原玄信、其先村上天皇ノ皇子具平親王ノ後胤、播磨國佐用ノ城主赤松二郎到官則村入道圓心ノ末葉也。故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム。又兵書等ニハ新免ト書セリ。天正十二年甲申年暦三月、播州ニ生ル》


 
 (3)父ハ宮本無二ト号ス
 武蔵の父は「宮本無二」と号したというのである。これは何とも奇怪な話である。
 まず、豊前小倉の小倉碑文では、「父新免は無二と号す」とあって、「宮本」無二だとはしていない。小倉碑文を承知だとすれば、これは胡乱なことである。さらに言えば、播州加古川の泊神社に残された宮本伊織撰述の棟札によれば、武蔵は「新免」の養子になったが、後に「宮本」に改めたという。このことからすれば、無二が「宮本」を名のるはずがないのである。『峯均筆記』は後世の伝説の影響を蒙っているのは明らかである。
 この点に関しては、本サイトの諸論文に論及されているので、ここでは繰り返さない。ただし、この『峯均筆記』の記事を見るかぎり、武蔵が「宮本」武蔵なら、父親の無二も宮本であろうという、根拠なき憶測が伝説化したものである。峯均は、もちろん武蔵が無二の実子ではなく、養子だという情報ももたない。明らかに実子だと思い込んで伝説を再生産しているのである。これについては、のちに関連事項で言及するであろう。  Go Back

 
 (4)黒田兵庫殿ノ与力
 無二の記事である。まずは、無二が如水黒田官兵衛の弟、黒田兵庫助の与力であったという。本書の著者は福岡黒田家家臣であったから、無二の黒田家との因縁を語るのである。
 兵庫助利高(1554〜96)は、播州姫路生まれ、小寺職隆の息子で小一郎。職隆猶子の官兵衛とは義兄弟。妻は斎藤氏、御着城北の斎藤山構に依拠した。兵庫助利高は、兄官兵衛に従い播磨で戦功を挙げ、一時秀吉の近習となる。岸和田陣や四国攻略に独立した武将として参戦後、官兵衛のもとに帰属する。秀吉の九州攻略に功があり、黒田家豊前転封後は、一万石を領し高森城に拠る。朝鮮の役では渡海したが、病んで泉州堺で歿。
 子の政成は、関ヶ原役当時、官兵衛の九州戦で石垣原の戦いにおいて功あり、黒田家筑前転封後は知行一万四千石。しかし後に所領没収、ようやく四代目が白国姓で復帰、しかし千石の家となった。この「白国」は播州飾東郡の顕氏で、現在も姫路市内に同名地名がある。
 さて、無二が黒田兵庫助利高の与力であったという話だが、これは播州時代以来のことと見なければならない。新免無二の「新免」は美作の氏であるが、すでに天正八年以後は無二は播州にあり、以来黒田兵庫助麾下にあったという可能性をみとめることができる。だが決定的な証拠はない。
 泊神社棟札によれば、この無二に相当する武蔵の義父は、天正年間に筑前秋月城で歿という。とすれば、慶長元年歿の黒田兵庫助よりも早く死んでいるし、豊前中津に住んだかどうか恠しい。与力というのも、被官ではなく、協力者・同盟者という本来の意味で言えば、兵庫助の家臣としてしまうのは、誤認のもとである。したがって、黒田家分限帳に見える、百石取りの新免無二の記事も疑わしいところである。
 これについて、若干言及しておけば、次のようなことであろう。

 問題は、こうした後世の写本史料に信を措くことは可能か、である。すなわち、一つには、黒田家分限帳はいつの写本か、その記事はどこまで慶長当時のものか、という問題がある。「武州師父」や「新目無二」、あるいは「新免無二/一真」という記事は、むろん後世のもので、余計なノイズを示している。
 分限帳記事について、それぞれ問題点を提起すれば、以下の如くである。
(1) 慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳
 この分限帳では、新免伊賀守宗貫を「新目伊賀」と記すから、この「新免」無二は小倉碑文を知っている者による記名である。また給人分限帳なら、「無二」という号は記さず、たとえば「新免武蔵(守)」というような職名で記すだろう。「武州師父」とは、武蔵先生の父ということで、これは筑前二天流の用語が入っている。立花峯均『丹治峯均筆記』は享保年間だが、それより以後の記入であろう。
(2) 慶長七年諸役人知行割同九年知行書附
 「新目無二」はむろん後世の誤記であって、口碑を文字化したため「しんめん」(新免)が「しんめ」(新目)に転訛したものである。あるいは『本朝武芸小伝』に新免に「にいみ」とルビをふるから、「新見」→「新目」という経過をたどった記名かもしれない。いづれにもせよ、これも後世伝説の徴しである。
(3) 慶長年中士中寺社知行書附
 「新免無二/一真 播磨人」という記事は、十八世紀中期を遡るものではない。つまり、円明実手流系譜に「宮本無二之助一真」の名があり、その猶子が「宮本武蔵守正勝」。後者が武蔵、前者が無二をそれぞれモデルにした人物で、むろん後世の伝説変形である。これが当理流伝書になって、十八世紀中期以後九州で流布したらしい。「新免無二/一真」は「宮本無二之助一真」の名を知っている者の所為で、新免無二に「一真」を付記したものである。ただし、新免無二は播磨人かもしれないが、「宮本無二之助一真」は河内の人だから、このケースの「一真 播磨人」の記入はそれを知らない後人の仕業である。
 したがって、以上のことからすると、黒田家分限帳の無二記事は、どれも十八世紀中期を遡るものではない。決して慶長期のオリジナルではなく、根拠史料として扱えるものではない。そういう史料批判を知らぬ立論が近年目につくのは周知の通りである。
 しかも、現存史料としては、原本は存在せず、近世書写を繰り返されて伝わったものであり、それを明治になって長野誠(芳斎)が書写集成したものである(「福岡藩仰古秘笈」三二所収)。したがって、もとよりオリジナルの史料として処遇することはできない。
 こうした後世の加筆が明白な史料にどこまで信がおけるか。新免無二が百石で黒田家に仕えたという伝説をもとに、この分限帳の無二記事が書かれたと思われる。そして、もしかりに、新免無二が黒田家士だったなら、その家を継いだ武蔵は黒田家士だったことになる。これは明白な僻説である。
 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、無二は黒田家臣ではなく、黒田兵庫助の「与力」だったとある。黒田兵庫助の、しかも「与力」、外部協力者である。無二と黒田家との関係は、それどまりと見たほうがよい。給人分限帳に登録される関係ではあるまい。

 あるいはまた、もう一つ、「無二」が出てくる史料には、慶長十八年の木下延俊「日次記」のことがある。二木謙一によれば、豊後日出藩主・木下延俊(1577〜1642)の「日次記」、慶長十八年(1913)の日録には、兵法を遣う「無二」なる者の名が見え、延俊に仕えたと読める記事があるという。
 これは慶長十八年、したがって少なくともそこまで「無二」なる者は生存していたことになる。では、そこにみえる兵法をつかう「無二」なる者が新免無二だとみなす根拠は薄弱である。この日記は延俊の家臣が書いたのであるが、「新免」とか氏の記載はない。知行を給したというのに、これも奇妙なことである。
 この点につき、慶長年間まで事蹟のある「無二」という人物は、実は武蔵であって、彼は「父の家業」を嗣いだのだから、当時よくあるように「無二」の名跡を継承したのだと解する向きもあろう。しかしそれは安易な解釈というべきである。
 小倉碑文によれば、「無二」は号であり、名跡ではない。名跡をいうなら、たとえば「新免武蔵守」と職名がなければならない。武蔵が「新免武蔵守」と名のったところをみると、それが無二の名跡なのである。
 これに関連するが、ずっと後の宝暦元年(1751)の「杉原氏御系図附言」なる書に、この木下延俊が「宮本無二斎」の流派を伝えた、無二斎の免許巻物が現存している、という記事があるらしい。これは十八世紀中期の文書であり、依拠するほどの史料ではない。「宮本無二斎」なる名は、上述の円明流家譜に記事がある「宮本無二之助一真」なる名の流布に関連するから、後世の記事たる表徴である。もしその免許巻物に「宮本無二斎」という名が記されているとすれば、十八世紀中期に流行したと思われる当理流目録である。証拠の免許巻物など、伝説に合わせていつでも出現しうるから、それも依拠するにたりぬ資料である。
 ようするに、無二が、少なくとも慶長年間まで黒田家の家臣となって生きていたのか、日出城主・木下延俊の慶長日記の「無二」が新免無二なのか、それを決定する根拠はない。
 結論を言えば、伊織棟札の「天正年間に筑前秋月城で死んだ」という記事を覆す有力な史料は、まだ出ていないのである。

 しかしながら、それとは別に注意すべきは、播州の出身である黒田官兵衛の出世とともに家臣増加があり、多くの播州人が麾下に組織されたことである。武蔵周辺の者たちもおそらく同様であろう。そこで、官兵衛が豊臣秀吉から最初に万石知行を得た領地はどこかというと、それは、播州揖東郡内であり、それには武蔵産地とみなすべき宮本村のある石見庄もそれに含まれるのである。しかも武蔵誕生の天正十二年当時の領主は、他ならぬ黒田官兵衛なのである。
 それゆえ、このとき武蔵周辺の者が黒田勢に組織された可能性があり、播州で四万石まで行った官兵衛が、九州での戦功で豊前に十五万石を得るのだが、この九州転戦に従った播州人の中に武蔵を連れて行った者があるはずである。
 泊神社棟札によれば、無二は無嗣で死んだわけだから、死後相続である。武蔵は無二の家を嗣いだが、これは仲介をする者があってのこと、しかし武蔵は無二と会っていない可能性がある。したがって、この問題の結論を言えば、『峯均筆記』がたぶん無二を武蔵実父と錯覚している以上、この段の話は信憑性がないと考えるべきである。  Go Back



*【小倉碑文】
《父新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼に知れり…》

*【泊神社棟札】
《作州の顕氏に神免(新免)なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを武蔵掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む》

















姫路城原型 模型













*慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳
    組遁
        武州師父
 一 百石   新免無二


*慶長七年諸役人知行割
    同九年知行書附
    組外

   百石   新目無二


*慶長年中士中寺社知行書附
    組外
        古御譜代
 一 百石   新免無二
          一真 播磨人























*【慶長十八年日次記】
《四つ時分に無二参り候て御対面成され候》(五月一日)
《五つ時無二給知御礼に参られ候。無二に御帷子二つ遣はされ候》(同五日)
《無二兵法を遣申し候》(七月九日)
《夜に入りて無二と兵法を御遣ひ候》(九月二十八日)










*【平姓杉原氏御系図附言】
《劍術は宮本無二斎の流派を伝へたまふ[無二斎免許の巻物今以てこれあり]》















中津城 大分県中津市二ノ丁
 
 (5)十手ノ妙術
 無二は、十手の妙術を得て、その後それを二刀に移し、門弟が多数あった、ということである。無二と十手の話は、すでに小倉碑文にある。無二が十手の家をなしたという記事である。
 ところが、本書と小倉碑文の相違は、「十手の妙術を得て、その後それを二刀に移した」のが、武蔵ではなく無二の事跡とするところである。小倉碑文では、それをしたのは、無二ではなく武蔵なのである。
 十手というのは、円明流の絵図によれば、十字型の武器で左手にもつ。これで相手の太刀を受け止めたり、あるいはこれでも攻撃できる。これを使わず、大小二刀を操作する戦闘法に変えたのは、本書によれば――武蔵ではなく――無二である。これはおそらく、無二流を習った者があり、彼らが二刀を使っていたことによる。
 本文中に見えるように、無二免許の弟子・青木條右衛門がその例である。無二が十手を二刀に変えた、しかし、無二の二刀流は未完成で大した事はない、というのが本書の伝説のスタンスである。
 この、十手から二刀へという転換の功は、無二か武蔵か、いづれに属するものなのかという問いは、我々のものではない。二刀は以前にも、また無二・武蔵以外にも存在するので、十手も二刀も無二あるいは武蔵に帰するのは、理なきに等しいからである。ただ、無二も二刀を教えたというのは、小倉碑文にはない情報であるが、本来の十手術は二刀に近いどころか、二刀流そのもの。だから、それはありうることとして、ここに保全しておいてよいと思われる。『丹治峯均筆記』が、小倉碑文よりも正しいこともある。というのは、この記事がその例外的な事例である。

 さて、無二の記事に関して、ここまで差し控えていたことがある。それは言うまでもなく、肥後系の伝説である。伝説とその再生産ということなら、肥後系伝記の方が活発である。それがどんな展開を示したか、以下に一通り当たってみたい。
 『武公伝』によれば、《武公、父ハ新免無二ノ介信綱》である。無二は「無二ノ介」で、しかも「信綱」という諱まである。これがどこからどのようにして出現したのであろうか。一つは、「宮本無二之助」の登場である。これは『武公伝』が記すところでは、「当理流」という流派が無二に帰せられるようで、これと関係があるらしい。宮本無二助発行の当理流の免許状なるものがあり、そこにある記名記日は、
    《宮本無二之助藤原朝臣一真》 (慶長二年・生駒宝山寺蔵)
    《宮本無二斎 藤原一真》
       [天下無双宮本無二助十印](慶長三年・安場家蔵)
    《宮本无二介 藤原一真》 (慶長十二年・朽木家蔵)
であり、いずれも「宮本無二之助」系統の署名である。もともと「無二」が号であるところからすれば、「無二之助」あるいは「無二助」「无二介」と署名することはありえない。これは武蔵物演劇などで武蔵が「武蔵之介」という名を与えられるのと同じく、後世の捏造である。
 ところが興味深いことに、鉄人実手流系統の文書(円明実手流家譜并嗣系)に、まさしく「宮本無二之助一真」が登場するのである。かくして宮本無二之助一真が、武蔵の父であるなら、「宮本武蔵守正勝」こそ宮本武蔵となろうが、結論を先取りして云えば、この宮本氏は河内国錦郡の家系で、実在の宮本武蔵とも新免無二とも無関係なのである。
 しかるに、今日世上では、新免無二を「宮本無二助一真」だとする妄説が横行している。これについていえば、論者たちの言説は、宮本無二助一真のことを知らずに、虚説主張に及んでいるのが大半である。余計なお節介だが、それら妄説論者の啓蒙のために、宮本無二助一真なる人物を紹介しておく。ネタは、宮本無二助一真の略伝を記した唯一の史料、「円明実手流家譜并嗣系」である。
 同書によれば、宮本無二助一真(1570〜1622)は、生国河内国錦郡住人・宮本武蔵守吉元(1537〜1600)の実子である。宮本武蔵守吉元は「円明流」を発明したが、慶長5年死去にあたり、弟青木常右衛門吉家に相伝し、かつ、息子・無二之助を後見してその兵器を育てるよう依頼した。
 宮本無二之助は、幼名・虎千代丸、後に武蔵守と改む。のちに入道して号一真。宮本無二之助も武蔵守と称したのである。無二助は上京して剣法吉岡という者を破り、その高名は諸国に鳴り渡り、また自得して流儀を改め、「実手当理流」と名づけた。
 一方、青木常右衛門は兄吉元から承けた円明流を、甥の無二之助に相伝した。無二之助はこれを受けたが、父吉元の円明流の伝統は、叔父常右衛門吉家の息子、つまり無二之助とは同い年の従兄弟である吉虎(青木鉄人金定)に相伝あるべしと懇願した。そこで常右衛門吉家の伝系は、青木鉄人金定→鉄人金家と派生する。
 ところで、宮本無二之助は妻帯せず実子はなかったが、甥の虎之助を養子にして育てた。虎之助は無二之助の姉の子で、本氏栗原、播州揖東郡鶴瀬の庄の生れである。宮本無二之助は甥の虎之助に家を継がせ、自身は入道して一真と称して、京都の三條に居住していた。そうして我が名、武蔵守を虎之助に譲って、その後播州揖東郡に移り、姉聟栗原の何某を頼て暫く居住し、同地で卒去。行年五十三歳である。
 栗原虎之助、改め宮本武蔵守正勝は、十四歳のころから深く兵術を心懸け、十五歳の春、古郷を出て、坂東に下り、武者修行して関東八州を経廻して、その後下総国に至り、寺本坊権大僧都に願って、兵法九字劔法之秘密を相伝、飛業奇特をあらわした。その後九州筑紫に下向して益々修行に勤め、門弟数輩を伴った。このころ豊前の住人で、日域無双岩流という一刀に名高き者、正勝が当国に来たるを聞いて、試合を求めた。結果は、正勝が即時に岩流を撃殺、その後正勝は豊前に留まり、やがて法流を改めて「武蔵流」と称するようになった。
 正勝には養子があって、一人は筑後国生れの宮本無右衛門正次。本姓水田、幼名虎法師。正勝は豊州に居住し、諸士を門人としていた。正次は益々当流の奇業を学び、九島無双の印紙を著した。後に肥後国に住んだ。正次の門弟は肥後筑後の両国に多い。また、正勝は、加藤清正の旗本と懇志を結び、孫の伊織助という者を養子にして一流相伝した。後に伊織助は豊州小倉城主・小笠原右近太輔忠政に仕えた。器量あり、身を立て、家老となって、その子孫累代、伊織之助という――というのが、「円明実手流家譜并嗣系」の話。
 さて、いかがかな。こうなると、播州揖東郡鶴瀬庄生れの栗原虎之助、改め宮本武蔵守正勝は、我々の知る宮本武蔵をモデルにした人物らしいと知れる。いろいろ類似点もあって、事実と近接する部分もあるにはあるが、伝説情報の変異が大きく、明らかに後世発生した「宮本武蔵」の一つである。
 むろん、十五歳の春故郷を出て、坂東に下り、武者修行して関東八州を経廻して、その後下総国に至り、寺本坊権大僧都に願って、「兵法九字劔法之秘密」を相伝、飛業奇特をあらわしたというあたり、およそ武蔵の所行とは似つかないもので、しかも、京都での対吉岡戦の事跡が脱落している。それゆえ、五輪書や小倉碑文の記事とは別のところで発生した伝説のようである。
 あるいは、「豊州の住、日域無双岩流」との試合では、場所を長門国「柳が浦」という小嶋とする。「此所を岩流嶋と名く」とあるから、これが巌流島であるのは間違いのだが、「舟島」の名は出てこない。これは巌流島決闘が演劇で有名になった以後の、伝説変形であろう。
 そのことでいえば、正勝の祖父・宮本武蔵守吉元が、肥後の加藤清正の師範だったとの所縁を述べ、それによって清正が正勝を懇近せしめたとか、あるいは、その加藤清正旗本の孫を養子にしたのが、伊織助で…というあたりは、伊織異伝としておもしろいが、こういう肥後の加藤清正との絡みは、何やら『二島英勇記』のストーリーの反映もありそうである。口碑が巷間流伝して、こういう変形を蒙ったのである。ただし、武蔵伝説生成の一つとして、説話論的観点からは興味深いものがある。
 また他方、当理流の元祖・宮本無二之助も、新免無二をモデルにしたらしい人物であるが、これも、宮本武蔵守正勝が宮本武蔵と違うように、河内国錦郡生れの宮本無二之助一真も新免無二とは違う。「円明実手流家譜并嗣系」には新免の名もみえない。
 ようするに、世代順からすると、宮本無二之助一真が新免無二と同一人物だとするためには、まず、宮本武蔵守正勝が宮本武蔵と同一人物だとしなければならない。ところが、宮本武蔵守正勝は、宮本武蔵をモデルにした架空の人物なのである。これは伝説というより、フィクションの世界に近い。そこで、「円明実手流家譜并嗣系」の宮本無二之助一真も、おそらく伝説上の架空の人物なのである。





円明流實手術 三學真



鉄人流十手器



*【円明流実手嗣系】

○宮本大蔵大輔家元┐
┌────────┘
├宮本武蔵守吉元―宮本無二之助一真
│  円明流権輿   実手当理流 │
│┌───────────────┘
│└宮本武蔵守正勝┬宮本無右衛門正次
│    武蔵流 └宮本伊織勝信

├青木常右衛門吉家―青木鉄人金定┐
│┌──────────────┘
│└青木鉄人金家─┬青木弁右衛門
│  鉄人実手流 ├青木与四郎家久
│        └青木藤五郎

└青木常右衛門家直┬青木常右衛門直継
      休心 └青木次郎左衛門


*【円明実手流家譜并嗣系】
《 同宮本無二之助藤原一眞
      字虎千代丸。後に武藏守と改む
一真ハ前武藏守吉元の実子なり。吾父の遺符あるを肝心し、日夜家術を学び、一年洛陽に於て劔法吉岡と云者と仕逢をとげ、忽勝利をゑて、其名諸國に振い、其後自徳を以て流儀を改め、実手当理流と名く。娚の虎之助と云者を養て、当家を令継、其後入道して一眞と改名す。都三條に居住する事年あり。然して我が名を猶子に譲て、後播州揖東郡に越、姉聟栗原の何某を頼て暫く居住し、於此所卒去す。行年五十三歳。
傳云、一真光蓮和尚に願て、支天慈眼之秘明を令相伝、常身躰塵穢に不交、朝日垢離を取、常に潔斎して、已に蒙無常道を心懸、甚孝心を尽す。一生妻合を離て専ら勇道を眼とせり。
傳云、一真吾流之高壇相続を思事切にして、我父の遣符せる大箱之開見を深く慎み、殊更叔父が老年を歎て、当家の巻器を従兄吉虎に譲ん事を思へり。彼れ吾と同歳たり。雖然其器象大勇にして天骨人に勝り、必も向壇相続せば、万人之師資と成て、当道之後栄勿ん事を思惟し、此旨伯父に談じて、一子伝承之明道、即吉虎に許譲せん事を述る。雖然吉家深く此義を辞す。頻に其存念を歎き誓て是を理す。其無止事及して、当流秘承愚息右馬之允に令付嘱。是一真孝心之深き故、家栄を思て私を去るの実也。
吉家亦兄の遣命其重恩不忘、内傳之秘術、色胎之両壇并真剣兵道之二鏡、不残一真士に令相伝、殊更吉元之秘器剣印を渡すもの也。尤も此比一真が左剣に合もの世に又なかりき》
《 同宮本武蔵守藤原正勝
      本氏栗原。字虎之助
正勝ハ無二之助の猶子也。生國ハ幡州揖東の郡瀬の庄にて出生す。本姓ハ栗原。年僅十四の比より深く兵術を心懸、其十五歳の春古郷を出、坂東に下り、武者の難行を執行し、長生に随て八州経廻して、士薗の深底を尋ね、其後下総の國に越て、寺本坊権大僧都に願て、兵法九字劔法之秘密を傳へ、飛業奇特をあらはせり。中比筑紫に下向して、益々執行を励し、門葉数輩を倶ふ。此時豊州の住日域無双岩流といゑる一刀に名高き者、正勝が當国に來るを聞て、威光を争ひ、城下に札を立、仕逢を覓む。正勝其志を感じ、即答札を立、別日を定、時を約して、長門國柳が浦と云小嶋に於て令劍闘。彼ハ眞劔也[青江作二尺七寸]、正勝ハ木刀也。猶有思、其切先五寸を短くして立向ふ。誠に命期の一剣、其長短を不論と云事、歴然也。則戰て岩流を即時に撃殺せり。惜哉岩流、強氣を頼て兵理を空し、已に命を縮む。是よりして此所を岩流嶋と名く。猶當國に震り、其後法流を改て武蔵流と名く》
《傳云、正勝中比加藤清正卿の旗本出入しめ懇志を結び、孫の伊織助と云者を養子として、一流口傳し、後に豊州小倉の城主小笠原右近太輔忠政卿之従属となす。有器量、身を立、已に家宰と成り、其累葉代を伊織之助と云り。
傳云、清正卿中比先蓮和尚に願て、卯剱之口伝を受く。亦常に鎌鑓を好て、吉元を為師範、月剱之口伝を受り。其由緒に依て正勝を近け、甚懇祐せり》
 改めて見てみよう。上記鉄人流文書によれば、「宮本無二之助一真」は、京都三条にしばらく住んだが、播州揖東郡の姉聟栗原氏を頼ってそこで暮らし、元和八年死去、行年五十三歳という。また「宮本武蔵守正勝」は、宮本無二之助の甥で、本姓栗原氏、生国は播州揖東郡鶴瀬庄とある。そこに親の栗原氏が住み、また無二之助もそこで死んだということらしい。
 しかし「揖東郡鶴瀬庄」というといかにも実在地名らしくみえるが、実際にはそんな庄名の土地は存在しない。実は揖東郡内に鶴瀬などという地名はないし、栗原という地名も播州揖東郡にはない。したがって、これは播州の事情を知らない地域での伝説だと知れる。ただ、なにか伝説のもとになるこうした情報があって、それが伝えられる内に変形歪曲されてしまったのであろう。
 類似名字を求めれば、鶴瀬というのは、鶴崎というよりも、むしろ鵤〔いかるが〕の誤記から転化して生じたもので、また栗原は老原の誤写から出たものであろう。だがこうした復元にはポジティヴ的な意義はない。伝説の基本的な構成がすでに異なっているからだ。正勝の養子・伊織助にしても、その名は伊織助勝信であり、これは寺尾夢世勝信(孫之丞信正)の流用のようである。播州揖東郡関係の名も、それと同じ説話論的レベルでの名称操作があるとみえる。
 こうしたところから結論しうるのは、これの記事が後世の仮託である、ということだ。つまり、「宮本無二之助一真」なる人物が、かりに実在したとして、これが新免無二と混同された後で形成された伝説なのである。円明流内部では、宮本武蔵が播州揖東郡生れだという情報が伝播していたから、武蔵の養父とされる「宮本無二之助一真」が河内の「宮本武蔵守吉元」の嫡子として生まれたとしても、晩年播州揖東郡に居住しそこで没したことにしなければならない。
 これらは、播州のことをよく知らない者の、伝聞にもとづく記事であるから、実在しない地名を書き残して虚構性を自ら刻印しているのである。本書の地域性を云えば、たんに播州、播磨国と書くのではなく、揖東郡何がしと記すところをみれば、これは上方系の伝説である。九州系伝説なら、そこまでは書かない。
 ところで、前に見たごとく、宮本無二助発行の当理流免許状が数点ある。それによれば、慶長年間の初期に「宮本無二助」が免許状を発行している。





安場家蔵
当理流目録 慶長三年二月二十四日 水田無右衛門宛 宮本無二斎/藤原一真
 当理流伝書によれば、慶長二年や三年という段階で、「宮本無二助」が免許状を発行している。しかし、円明流系譜の宮本無二助伝によれば、これはありえないことである。
 というのも、慶長五年(1600)宮本武蔵守吉元が死ぬとき、弟青木常右衛門に円明流を相伝して、また嫡子無二之助の後見を依頼したのだから、無二之助は、慶長5年にはまだ後見人の必要な者である。一人前ではなく、むろん一家をなしていない。したがって、そのことからすれば、慶長二年、三年という日付をもつ当理流免許状は偽書である。
 それにまた、記名のことがある。宮本無二助が後に「武蔵守」を称したとあるのに、当理流免許状は「無二助」「無二斎」と記名している。正式な免許状であれば、「宮本武蔵守」という記名でなければならない。記名については形式が整っていない。
 記名のことでもう一つ云えば、「宮本武蔵守」という名跡を、甥で養子の虎之助に譲って、入道出家して一真と号したというから、この「一真」は無二助の道号である。ところが、当理流免許状には、「藤原一真」とあって、一真を諱として扱っている。これは要するに、円明流の伝書が「宮本無二助一真」と書いているのを見て誤解し、一真は諱だと錯覚したのである。したがって、「藤原一真」と記すのは、鉄人流伝書以後の贋造物であることを自ら示すものである。
 かくして、青木鉄人金家流末の作になる円明流嗣系のフィクショナルな「宮本無二之助一真」よりも、それに輪をかけて虚構性が高いのが、当理流免許状の「宮本無二助(无二介)藤原一真」である。宮本無二之助名当理流免許状は、「宮本無二之助一真」という名が流布して後の贋作とみるべきである。




生駒宝山寺蔵
宝山寺本宮本無二助伝書
奥田藤右衛門宛
慶長二年霜月吉日
宮本無二助藤原朝臣一真発行
 いちおう以上のような結論を踏まえて、こんどは肥後系武蔵伝記を見てみることにしよう。
 『武公伝』が記すのは、《武公、父ハ新免無二ノ介信綱。即チ十手二刀ノ祖タリ。號トシテ當理流ト云》というわけで、すなわち、「無二之介」名が、どうも「当理流」との関連で出たものらしいと推測しうる。上記当理流免許状があって、その現存二通は肥後にあったものであることから、おそらく、「無二之介」名と「当理流」の結合した伝説が肥後に生じたのであろう。
 とくに『武公伝』『二天記』の武蔵伝記二書は、肥後系のなかでも八代の伝説である。『武公伝』『二天記』は、三斎没後八代城主となった長岡(松井)氏に縁が深い伝説を残す。そのなかでも、長岡興長が無二之介に師事したとする事項は、この系統の伝説を特徴づけるものである。言い換えれば、肥後系の中でも八代で育った伝説なのである。
 興味深いことに、『武公伝』は無二の伝説名「宮本無二之助」を「改正」してしまう。当理流免許状の発行者・無二助(无二介)は「宮本」であって「新免」ではない。それを「新免」にしてしまうのは、小倉碑文の《父新免、無二と号す》に準拠したものである。「宮本無二助(无二介)」は改訂校正されて、『武公伝』の「新免無二ノ介」となったのである。つまり順序は、
     宮本無二助(无二介) → 新免無二ノ介
という次第である。しかし『武公伝』はもう一つ、その名を「新免無二ノ介信綱」として、「信綱」という諱を記録している。ただし、当理流免許状では「藤原一真」とする。この「信綱」がいかなる出所のものかは不明である。「宮本無二之助藤原一真」の流布した諱「一真」ではない異伝を刻印しているところが興味深い。
 そもそも、小倉碑文が記すように《父新免、無二と号す》ということであれば、「無二」は号であって、「無二之助」を名のるわけがない。ところがこうなってしまうのは、「無二」が号であるとの起源が忘れられた後世のことである。「無二」が「無二之助」になるのは、ちょうど演劇で武蔵が「宮本武蔵之助」として登場するのと同じなのである。つまり、
     無二 → 無二之助
     武蔵 → 武蔵之助
 武蔵を「宮本武蔵之助」とする者は、もうどこにもいまいが、無二を「宮本無二之助」とするのに抵抗がないのが今日の傾向である。後者は後世の仮構と見やすいが、前者も同じように、伝説の中から発生した名である。「無二助」「无二介」あるいは剣術家好みの「無二斎」などの名を記録するものは、いずれも後世の変形を受けた後の名である。

Matrx 新  免 宮  本
無 二 「父新免、号無二」
(小倉碑文)
――
新免(新目)無二 [一真]
(黒田藩分限帳)
宮 本 無 二
(峯均筆記)
無二之助 新免無二ノ介信綱
(武公伝)
宮本無二之助藤原一真
(円明鉄人流家譜并嗣系)
新免無二之介信綱
(二天記)
宮本無二助 藤原朝臣一真
(宝山寺本当理流免許状)
新免無二之助一真
(小倉宮本家伝書)
宮本无二介 藤原一真
(朽木家本当理流免許状)
無二斎 新免無二斎
(本朝武藝小傳)
宮本無二斎 藤原一真
〔宮本無二助印〕
(安場家本当理流免許状)
新免無二斎
(撃劔叢談)
宮本無二斎信綱
(塩田清勝先生石塔銘)

 以上の姓名マトリックスによって知れるところだが、本書『峯均筆記』の特徴は、そうした「無二之助」名を記さないことである。言い換えれば、後世の変形を受けざるところを示している。ただし、上述のように、播州加古川の泊神社棟札によれば、武蔵は「新免」の養子になったが、後に「宮本」に改めたということからすれば、無二が「宮本」を名のるはずがない。「宮本無二」と記す『峯均筆記』はこの点で後世の変形を示す。しかし、肥後系伝記に比すれば、それでも古型をとどめているのである。  Go Back



*【武公伝】
《武公、父ハ新免無二ノ介信綱。即チ十手二刀ノ祖タリ。號トシテ當理流ト云。曾テ扶桑第一ノ劔術者、公方義照公ノ師洛陽ノ士、吉岡庄左衛門兼法ト云。公方命ニテ無二ト雌雄ヲ決セシム。限ルニ相交ル事參分ヲ以ス。吉岡一度利ヲ得、無二兩囘勝之。因テ日下無雙兵法術者ノ號ヲ無二ニ賜フ。兼法ハ其后年ヲ歴テ禁庭御能興行ノ時、同士ト争闘シ刃下ニ八人ヲ斬弑シ、築地ヲ跳リ越テ遁ントス。袴ノ裳、築地覆ノ釘頭ニ係リテ倒レ懸ル、邏卒長鎗ヲ以刺貫テ死ス。夫ヨリ以來今迄禁裏御能拝見ノ者帯劔ヲ禁ズトナリ》

*【二天記】
《武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也。將軍義昭公ノ御師吉岡庄左衛門兼法ト云者、洛陽ノ士・扶桑第一ノ剣術者也。將軍ノ命ニ依テ庄左衛門ト無二ト雌雄ヲ決セシム。庄左衛門一度利有テ、無二兩度カチヲ得タリ。因テ無二ニ日下無雙ノ號ヲ賜フナリ。新免無二之介劍術ヲ修シ得テ、自ラ新免ト改ム、又吉岡ト勝負ヲ決シテ日下無双ノ號ヲ賜フ、此ノ時ヨリ新免ト改ムトモ云ヘド、未詳》
 
 (6)童名辨之助
 武蔵の童名は「弁之助」だという伝説である。これも恠しい話だが、立花峯均が聞いた話である。しかし小倉碑文のような一次史料にはその記事がなく、どこにも武蔵童名の慥かな記録はないことは念頭においておかねばならない。
 まず、「弁之助」というのが童名だというのが変だと気づくのである。これは童名らしくない名である。むしろ通称として、大人になっても使える名である。これを童名だとわざわざ言うところに『峯均筆記』のボロが出ている。
 『江海風帆草』に、《此時まで武藏の名を弁之助といひし也》とあるところをみると、少なくとも十八世紀初めの筑前では、武蔵=弁之助説は発生していたことが知れる。おそらく『峯均筆記』の「弁之助」説は、この『江海風帆草』の説に拠ったものであろう。ただ、『江海風帆草』が、この巌流島決闘のときの武蔵の名は弁之助だったとするのに対し、『峯均筆記』はこれを一歩進めて「童名」にしてしまう。これはたぶん踏み外しであろう。
 我々の所見では、「弁之助」は武蔵伝説のある段階で発生したものである。義経・弁慶の物語は巷間流布したものであったから、たぶん武蔵という名から「弁慶」が連想されて、その弁慶の「弁」が取り込まれたのである。伝説形成の過程では、こうした言語上の換喩的シフトがしばしば見られるもので、この「弁之助」もそういう連想シフトの所産であろうと見当がつく。
 この点に関して言えることは、少なくとも十八世紀はじめには、武蔵の童名が「弁之助」だという伝説が形成されていたという事実である。ただし、武蔵の童名が「弁之助」だという事実はない。
 先に見たように、円明流嗣系では、宮本武蔵としての宮本武蔵守正勝の初名は「虎之助」である。むろん、九州ローカルな「弁之助」が、上方系伝説の「虎之助」より、アドヴァンテージがあろうはずがない。逆である。弁之助を信憑するくらいなら、虎之助の方がまだ分があるというところである。ただし、それも五十歩百歩の差異でしかないが。  Go Back



*【江海風帆草】
《武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、弁之助[此時まで武藏の名を弁之助といひし也]只今立のくぞ」といひければ、死せる宗入又立あがり、海上を見て、「弁之助いづくへ行ぞ」と、一聲よバゝつて忽死す》



歌舞伎 勧進帳
初演元禄15年(1702)
江戸中村座

 
 (7)近比奇怪ノ由ニテ、家ヲ追出ス
 本書の伝説物語における最初の説話である。これは武蔵評伝が必ずとりあげる有名な逸話である。しかるに、この伝説を鵜呑みにするばかりで、まともな読解は従来武蔵研究には一つも出なかった。そういう意味で、ここで改めてこれを読んでおく必要があろうというものである。
 これは端的な父子不和説話なのだが、武蔵伝記においてこれが発生したのは、武蔵流末裔と無二流との党派的対立が背景にあってのことである。
 新免無二の流儀は、本書『丹治峯均筆記』の時代にも残っていた。武蔵流と同じ二刀術である。流祖を同じくするのだから、両派はいわば近親憎悪のように反目していたらしい。それが知れるのは、本書のこの記事である。
 無二流を名のる流派に対して、武蔵流はそれを異端としたらしい。たぶん、武蔵は「父」無二から教えを受けたという伝説があったのだろう。それに対し、いや、武蔵流は無二流とはまったくちがう、と主張するだけではなく、そもそも武蔵は「父」無二から教えを受けていないと強弁するのが、本書の記事の背景である。
 つまり、武蔵は「父」無二から教えを受けていない、というのも子供の頃、武蔵は「父」無二から家を追い出されたのだ、というわけである。
 しかも、武蔵は子供なのに「父」無二の兵法を誹謗したとするわけで、武蔵の兵法は「父」無二から何の恩恵も受けていない、という主張は、かような説話素まで発生せしめたのである。
 これがタメにする説話であることは明らかである。無二流を貶めるラインの延長上に、「父」無二そのものを貶めるところまで行ってしまったのが、この『峯均筆記』の逸話である。
 もとより立花峯均の説話には、排他的な傾向があって、この武蔵と父無二との不和という話は、ようするに、無二流を貶める、タメにする話なのである。『峯均筆記』には、そのような無二流を貶める例話が他にも二三ある。
 この逸話を鵜呑みにして、武蔵伝記として一般化して受け取るわけにはないかない。それが、この逸話に関して固めるべき足元なのだが、従来武蔵研究では、だれも明言したことがないという始末なのであった。
 ところで、以上の条件付けをしたうえで、この説話そのものを、読んでおく必要がある。これはこれで、よくデキた説話なのである。
 話のテーマは、父子の不和関係。ただし、よく読めば、これはほとんど英雄伝説の型をなぞる神話的構成をもっている。
 その基本構造は、父が息子を疎んじ排除するというものであるが、これは日本神話では、素戔鳴尊や倭建命という神話主体に反復されるところの、イニシエーション過程を語る神話的祖型である。とりわけ、暴力的な素戔鳴尊神話がそれに相当する。
 このとき武蔵伝説では、息子が父を蔑み誹謗し、それに対し父親が息子を殺しかねないという場面で、その断面を示し、父が子を追放することによって、神話主体のイニシエーション過程がスタートする、という展開である。この過程は、神話主体が未発の「父殺し」(patricide)を、父親の代理者(agent)を相手に反復するという行為の連続として物語られるであろうし、最後にはある種の弁証法的和解(reconciliation)の成就において一連のイニシエーション過程が完結するであろう。
 したがって、ある意味で、神話主体としての英雄の父親にふさわしいポジションを、ここでは無二が与えられている。それが息子を疎外し追放する父親のそれである。こうした神話的構造を有する物語を、あたかも小説の如く読むことは誤りである。
 とくにこの一節は、近代の小説家が好んで採用した説話であり、ある種の心理小説に仕立てるのだが、それがほとんど噴飯ものとなってしまうのは、神話主体が決して心理学的主体ではないという、その根本に対する無知があるからだ。言い換えれば、日本神話の素戔鳴尊を小説仕立てにするのと同じ愚行を演じていることに対し自覚的ではないのである。
 この一段における神話素は、手裏剣を投げることである。すなわち、フロイトで言えば、「子どもが撲られる」という有名な一節と同類の主体間構造である。ただし神話空間では抑圧は解除されているから、フロイト的構造では抑圧されたもの(父さんが僕を撲る)が、ここでは何の抑圧もなく露出して演じられるのである。
 繰り返して言えば、武蔵物語においてことに有名なこの場面は、神話的構造を有するということであり、そういう意味では、これを事実として読んでしまい、自身の小説評伝に取り込んで憚らぬそのナイーヴさは、まさに日本神話の神代巻を事実として読むのと変わりがない――と言えば、すこしは理解されるであろうか。  Go Back





個人蔵
元祖宮本辨之助肖像

宮内庁書陵部蔵
宮本武蔵肖像
 
 (8)夫ヨリ播州ニ至ル
 本書伝説のイニシエーション過程は、発端を過ぎて、これから神話主体による遍歴の冒険譚が開始されるところへ来ている。
 そこで、語られるのは、武蔵がまず「播州」へ行った、ということである。
 おいおい、武蔵は播州産だとさっき言ったばかりではないか、話が矛盾しているぞ、というのは、しかし少々理解が足りないのである。ここで武蔵伝説の担い手が、九州ローカルな伝説者であることを、想起すべきである。無二はすでに黒田家に隨って九州へ来ているのである。したがって、さきほど無二が息子を追い出したその家は、どこにあったかというと、申すまでもなく、九州にあったのである。
 これは本書伝説の説話主体にとっては自明なことで、とくに断るまでもないのである。すでに無二は黒田兵庫助の与力だったと語った以上は、無二は兵庫助と行動をともにして、九州にいるのである。言い換えれば、武蔵は播磨生まれだが、少年期――この伝説では九歳まで――を九州で過ごしたのである。したがって、武蔵にとって九州は第二の故郷であるというのが、ここでの伝説の暗黙の含意である。
 それゆえに、この一段が後世、美作における場面と読まれてしまうなどとは、少なくとも立花峯均は夢にも思わなかったであろう。こうしたことは、近代の誤謬の典型とすべきものであるが、それよりも、峯均の語りの場がどこにあったか、それを無視した結果生じた誤りである。
 すなわち、武蔵研究史における珍場面の一つが、まさにそれであって、峯均はこれを美作のことだとは書いていないのである。書かれていないことを読んでしまうという、こうした踏み外しの錯誤をみれば、いわゆるイデオロギーなるものの構造を透視できるであろう。よくよく考えてみれば、錯誤は自明であるのに、そもそも見る眼が乱視や斜視であるから、像が歪んで錯覚を生産してしまうのである。
 なお付け加えて言えば、ここに登場する「叔父」とは、まさに文字通りの父親の代理物(substitute)である。こうした代理者としての役割の人物を繰り出してくるのは、偶然ではなく、まさに神話的構造を備えた物語の必然なのである。
 この代理父は、暴力的な父に代わって/そして暴力的な父とは違って、非暴力的な出家であり、とくにコミカルな道化の役割を演じるであろうことは、以下の部分がとく示している。そういう対蹠的な対位法を示す点では、説話の物語構造は一貫しているのである。  Go Back






九州豊前筑前と播州姫路
 
 (9)新當流ノ兵法者有馬喜兵衛
 武蔵が十三歳の時、新当流の兵法者で有馬喜兵衛という者と決闘して勝ったという事跡は、『五輪書』地之巻冒頭の自序部分に記されていることである。すなわち、これは武蔵の兵法者としての人生を決定づけた事件であり、武蔵には記念すべき出来事であったようだ。それはまた、小倉碑文の踏襲するところであり、さらに、本書記事にも同じ話が導入されているわけである。
 新当流というのは、塚原卜伝に発する剣術流派である。それだけではなく、当時最大流派の一つである。つまり特定地域に限ったローカルな流派ではなく、どこにでも新当流の遣い手がいたのである。
 有馬喜兵衛という決闘相手の名は、次の「但馬国秋山」という兵法者の名ともに、『五輪書』ではめずらしく名を残している。どちらも具体的なことは何もわからない。あるいは、もし武蔵と決闘して死ななかったら、たとえば夢想権之助ように一派を創始し兵法者として名を残したかもしれない。ただ、彼らの場合、武蔵の『五輪書』に明記されたことから、現代今日我々がこうして話題にしているがごとく、結局、歴史に名を残したことになるのである。
 この「新当流有馬喜兵衛」の一件は『五輪書』が記し、小倉碑文にも言及する事蹟である。ところが本書では、意外なことに、かなり詳細なディテールを有する、ある種完成した説話として提示される。以下それを読んでみよう。  Go Back






有馬喜兵衛 武稽百人一首
 
 (10)即時ニ打殺ス
 ここは長いが一気に読んでもらった方がよい。一連のシーケンスが全体として動員され、説話の論理構造を貫徹しているからである。きわめて興味深い説話である。
 まずは、新当流の兵法者・有馬喜兵衛が、播州へやって来て、浜辺に矢来を結び決闘相手を募る高札を立てたという話からはじまる。
 この記事を民俗学的にみれば、なかなか興味深いディテールを含んでいる。武芸者が生死を賭けた決闘をするには、まず広告をする。現代なら広報に載せたり、新聞広告を出したりするのと同じく、これが暗闘ではなく、公然たる勝負として位置づけること、それが要件である。
 次に、決闘場所が「浜辺」であること。これは、浜辺がいわゆる無縁の空間、公界であったからである。ここは基本的には、行政権力の及ばない法外の空間である。浜辺がとくに交易の場所であったことは、古代から記録のあることで、人類学的にはいわゆる沈黙交易の場所として広く世界的に確認される事実である。沈黙交易とは市場経済以前の交換形態であって、余談になるが――面白いことに、今日のインターネット・オークションを沈黙交易の復活とみる見解もある。しかしながら、これを敷衍して言えば、インターネット空間そのものが、ある種の公界・無縁の空間とすべきものなのである。インターネット空間を統制しようとする動きがあるが、それはこの仮想空間の無縁公界性を破壊するものであろう。
 さて、この浜辺に矢来を結んで決闘場所を設けるのは、それを結界するためである。言い換えれば、自余の空間とは異なる特別な場所――聖なる空間――として区画するのである。この空間の内部と外部は截然区分され、その内部で行われる行為については誰も手を出せない。したがって、浜辺に矢来を結ぶとは、公界中の公界を結界するということである。
 かくして決闘の場所が設定されたものの、伝説説話の物語としても、これは極めて強力に機能している。すなわち、聖なる場所の設定があって、次にそれに対する侵犯がなされるという、神話的場面が継起するからである。それが、この決闘伝説では、高札に墨を塗るという弁之助の行為である。
 こうした聖なる空間における侵犯行為ほど神話主体のポジションを明示するものはなく、これは世界の諸神話に通有のものである。いま、弁之助が墨を塗るという行為によって、聖なるものを汚し冒涜するわけだが、これが機縁となって、神話主体=英雄による殺害暴力へと展開する。言い換えれば、ここで屠殺されのは、侵犯者ではなく、まさにそれを非として咎める存在である。この不条理はまさしく神話的なもので、神話的供犠の暴力はそのようにして遂行される。ついでに言えば、矢来に貴賎群れをなす群集というのも、こうした供犠的暴力に必須条件である。
 ここで注意すべきは、叔父の僧とともに、有馬喜兵衛も、極めて常識的な大人であることだ。このノーマルな大人に対し、弁之助は、神話主体であるがゆえに、アブノーマルな暴力的存在として登場する。常識的な大人のノーマルな世界に対し、善悪の彼岸たる存在、侵犯者としての弁之助は「不意」の理不尽な暴力を激発させる。かくして、この二項対立の物語構造のうちに、供犠が完遂される。群集は、これがまさに供犠であるがゆえに賛嘆するのである。
 有馬喜兵衛を打ち殺した少年武蔵の道具は、縁の下にあった薪の中から見つけた武器として手ごろな棒状の木材である。だから、武蔵は常々これで鍛錬していたわけではない。この武器は偶然見つけた道具なのである。つまり、
    薪 → 武器
というわけで、薪が武器に転化したのである。この物の道具への転化は、いわば〈恩寵〉ともいうべき代物で、それは、少年が自身の天賦の才能を発見することに相応している。
 言い換えれば、この偶然の発見は二重であるが、武器となる道具の発見は、天賦の才能を発見を、そのシンボリックな次元で示している。それゆえ、この道具についても、中々看過できない説話論的装置として運用されているのである。
 『峯均筆記』はこの道具を「杖」と書いている。これを木刀にして、有馬を打ち殺したのである。この「杖」は、六〜七尺〔約二m前後〕というから、長大な木刀である。『峯均筆記』では、「杖」と呼ぶこの種の大木刀が後にしばしば登場するであろう。
 少年は大人の兵法者を撲殺した。この殺害が、父殺しという意味もあわせもつことを、読み取るのは容易である。言い換えれば、有馬喜兵衛は、弁之助叔父なる僧の分身なのである。この分身(double)としての二人の代理父は、明らかに父親の二つの面を分担しているのである。
 かくして、この一段の説話は、極めて正統な、神話的物語構造を有する。したがって、ここまで完備された物語構造をもつ以上、これは伝説として自然発生的に形成された説話であると判断しうる。言い換えれば、単体として存在した武蔵伝説を、峯均はここへ挿入したのである。  Go Back





















矢 来
 
 (11)地ノ巻ニ記サルヽ所也
 以上の決闘譚について、今日、これを播州平福(現・兵庫県佐用町平福)での事蹟とする見方が広く流布している。すでに大正十五年(1926)の『佐用郡誌』(兵庫県佐用郡発行)には、新しいヴァージョンの同類決闘伝説が収録されている。とくに今日では、「母方の叔父」についても、田住家文書などを傍証に特定しようとし、その叔父が住み弁之助が身を寄せた庵にしても、同地東方にある庵村の正蓮庵という具体的な場所をそれとしている。
 しかし、本サイト所収諸論文が示すように、これらの史実上の対象特定には何の根拠もないのである。この播美国境を跨いだエリアにおける武蔵伝説の発生は、そう古いことではない。少なくとも十九世紀に入って定着した伝説である。
 『佐用郡誌』が採録した当地の有馬喜兵衛決闘伝説は、おそらく九州で発生した伝説の流伝であろう。この佐用郡の伝説では、有馬喜兵衛は播州にやって来た廻国修行の兵法者ではなく、たんに村の鼻つまみ者の博徒であり、少年武蔵はこの悪漢を退治する、別のパターンの英雄なのである。
 もちろん『武稽百人一首』には、有馬喜兵衛について、《この人、武人に有ながら、篤実温厚にして、朋友に信あり。実に古今の英士といふべし》とあって、平福の伝説とはまったく正反対である。いわば平福の伝説は、有馬喜兵衛についてのそうした一般のイメージを知らないところで発生した、ローカルな説話である。それは、悪漢を退治する英雄譚のパターンをなぞったものにすぎない。
 またこの伝説では、とくに武蔵幼名を「傳」〔でん〕とするが、これは「弁之助」の「弁」〔べん〕の方言転訛である。武蔵→弁慶→弁之助→弁→伝という移項の末端にこの武蔵幼名「伝」という話が出来したのである。
 いずれにしても、こうした平福の伝説は古いものではない。明治以後に発生したローカルな伝説である。
 他方、『峯均筆記』が取り込んだ有馬喜兵衛との決闘伝説は、おそらく筑前のローカルな伝説であろう。こちらはかなり熟成された説話で、十八世紀前期にはすでに出来ていた。誤解を避けるために一言すれば、これは『峯均筆記』の著者が創作した物語ではなく、逆に、筑前で巷間存在した伝説を『丹治峯均筆記』が取り込んだということである。
 さて、本書によれば、この決闘の後、弁之助は、「我が命を捨て、踏み込んで打ちつけさえすれば、敵に打ち勝つことは何の手間もいらない」と考えまた心得たという。このあたりは、伝説通有の教訓獲得の一説であり、いかにも通俗的で凡庸なものである。このような特徴は、人口に膾炙した伝説がここに取り込まれていることを証言している。
 かくして、叔父のもとを去って、十三歳から二十八九歳までの間、日本国中を廻ったが、六十人以上の相手、だれ一人として武州に打ち勝った者はなかった。これは(五輪書)地之巻に記されているところである、という。
 むろん、『五輪書』地之巻には、十三歳で有馬喜兵衛と決闘してこれを破ったこと、そうしてその後六十数回の決闘に無敗であったことは書いてある。ところが、こんな台詞つきの講談噺はないし、母方の叔父という説話要素もない。しかも、決定的な差異は、その地之巻を含む五輪書のどこにも無二の記事すらないことである。
 言い換えれば、小倉碑文を中間媒介として措くとしても、『五輪書』地之巻とこの『峯均筆記』との隔差は大きい。その差異は、いかなるものかといえば、まさしく倫理的な隔差である。先師の伝記として、『峯均筆記』は、いわば物語を放縦にも欲望するのであるが、そうした物語への欲望を一切絶っているのが、地之巻自序部分のスタンスが示す倫理的特徴なのである。その差異は根本的次元のものであって、地之巻自序部分と『峯均筆記』を同列に読むのは、あきらかな錯誤である。
 現代の読者もまた物語を欲望している。しかし、それはまさに、こうした『峯均筆記』における物語への欲望を踏襲し反復しているだけである。これは、何より武蔵的ではない。 Go Back



武蔵関係地図

*【佐用郡誌】 平福村の松原
《平福村平福南端の川原、土地は宗行に屬す。田住村田住助兵衛政久は田住太郎左衛門定道の養子(實父は揖東郡神中城主大國半左衛門正俊)にして妻は定道の女なりしが、二男を殘して死す。その後別所左衛門林治(定道の弟)の女美作國宮本村平田無(又は武)二に嫁し一男を挙げし後ち無二死没せしを以て生家別所家に歸りて政久の後室となりしが、平田家に産みし一子幼名七之助または友次郎また傳 (後に武藏)實母を追慕し來りて別所家に食客す。其時平福町に博徒を以て暴行至らざるなき有馬喜兵衛なるものあり。新當流の達人といへども村内の平和を破り一般より蛇蝎の如く忌み嫌はれしかば、平田傳幼にして之を憎み、或時之れと口論し此松原に於て立會ひ、彼れ喜兵衛を一刀のもとに伐り伏せ其身は處定めず行衛を晦ましたり。此時傳齢十三歳なりと云ふ。(田住氏所有の書にあり)即ち平田傳は宮本武藏の幼名なり。或本に喜兵衛を劒客の如く記しあれども左にあらず浪人體のものなりしならん》



武蔵初決闘の地
兵庫県佐用町平福


 
  02 但馬國秋山
一 十六歳ノ時、但馬國秋山ト云強力ノ兵法者ニ打勝玉フ事、地ノ巻ニ載ラルトイヘ共、働ノ事、語リ傳ヘヲ不聞。
 惣テ六十餘度ノ試闘、口碑ニモレタル事、可惜。漸ク百ニシテ一二ヲ語リ傳フ。(1)

一 十六歳の時、但馬国秋山という強力の兵法者に打ち勝たれたことは、(五輪書)地之巻に載せられている。けれども、(武蔵が)決闘でどんな働きをしたか(その具体的な内容については)、語り伝えを聞かない。
 総計六十余度の試合、これらが口碑に洩れているのは惜しむべきことである。百のうちやっと一つか二つしか語り伝えがないのである。

  【評 注】
 
 (1)但馬國秋山ト云強力ノ兵法者
 但馬というのは、播磨の北方、日本海側にある地域である。但馬は播磨とは文化や言語が異なるにもかかわらず、明治の廃藩置県で兵庫県に入ってしまった。その結果の一つ、但馬の人々が乗る車は何と「姫路」ナンバーである。こういう馬鹿げた伝統文化の境界混乱は早く停止した方がよかろう。
 さて、この秋山については『五輪書』地之巻自序部分に、ほぼ同じ文言がある。すなわち、十六歳にして但馬國秋山という兵法者に打勝ち、という記事である。同様にして、九州小倉の二天居士碑(小倉碑文)には、《十六歳春、但馬國に到る。大力量の兵術人、名、秋山なる者有り。又、勝負を決し、反掌の間に其の人を打ち殺す。芳声街に満つ》とある。
 この両者を比較対照してみると、『五輪書』は文飾のない事実記述のスタイルであるのに対し、小倉碑文には文飾があって、追補の跡がうかがえる。「十六歳春」「反掌の間に其の人を打ち殺す。芳声街に満つ」というあたりがそれである。
 しかしそれよりも注目すべきは、著者峯均の嘆きである。武蔵がほとんど決闘履歴を語り残していない。それに嘆きがあるところである。峯均は物語を欲望するのだが、大祖武蔵はそれに答えてくれないのである。
 武蔵が決闘でどんな働きをしたか、語り伝えを聞かない。六十余度の試合、これらが口碑に残ってないのは惜しむべきことである。百のうちやっと一つか二つしか語り伝えがない――ということだ。
 だが我々は、峯均とともに嘆くのではなく、むしろこれを証言として受け取る。この点に関連して言えば、『峯均筆記』の記者・立花峯均は、播州明石で柴任美矩から直接兵法伝授された者である。したがって柴任から話を聞く機会があった。柴任は武蔵在世中の肥後熊本を知っている者である。しかし、『峯均筆記』がこのように嘆くほど、その柴任美矩にも武蔵関する口碑情報はさしてなかったのである。
 明らかに武蔵は、『五輪書』に記した以上の情報を、だれにも語り伝えていなかったのである。したがって、京都での対吉岡戦や巌流島決闘は、『五輪書』に記事はなく、小倉碑文に初出の事蹟であるが、これらが「漸ク百ニシテ一二ヲ語リ傳フ」ところの口碑であったということである。言い換えれば、対吉岡戦や対巌流戦は、明白に口碑伝説の類なのである。
 むろん、峯均が拾った前出のような対有馬喜兵衛戦の口碑は、小倉碑文にはないもので、おそらくかなり新しい伝説である。『峯均筆記』が欲望するのはこんな説話である。しかし、この但馬國秋山については、そういう伝説が発生しなかったものらしい。  Go Back




国制諸国地図


*【五輪書】
《我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち》(地之卷)

*【小倉碑文】
《方年十三而、始到播юV當流与有馬喜兵衛者進而決雌雄、忽得勝利。十六歳春到但馬國、有大力量兵術人名秋山者、又決勝負反掌之間打殺其人。芳声満街》

 
  03 黒田如水麾下、九州で参戦
一 慶長五年庚子、石田治部少輔三成、邪謀ヲタクミ、濃州關ヶ原ニ於テ家康公ト決雌雄、三成一戰ニ打負、生捕ラル。九州ニテ如水公、東軍之御味方トシテ、中津川ノ御居城ヲ御發騎有テ、石垣原ニテ大友義統ヲ擒ニセラレ、安岐冨来ノ二城ヲ責破リ玉フ。(1)

 御出陣前、辨之助中津ヘ下リ、父ガ勘氣ヲモ赦免シ、父子一所ニアリ。是、辨之助十七歳ノ時ナリ。(2)
 近々出陣アルベシトテ、同輩打連、山野ニ出テ遊行セシガ、二間程ノ切岸ノ所アリ。下ハ小竹原ヲ切拂ヒテ、竹ノソギカケイクラモタテリ。
 辨之助、朋友ニ向ヒ、「此ノ下ヲ、敵カケ通ラバ、各イカヾ可被*致ヤ」ト申サル。朋友共、「縱ヒ何等ノ敵カケ通ル共、追掛ベキ様ナシ」ト云モ終ヌニ、辨之助、「エイ」ト聲ヲ*カケ飛下ル。竹ノソギカケ足ヲ貫ク。各驚キ、「是ハ如何ナル事ゾ」ト云。
 辨之助云ク、「上ヘハ三尺四尺アリテモ、飛上ル事不叶。下ヘハ数丈アリテモ、飛下ル事成ヨシ、天性如此。然ルヲ、敵カケ通ルヲ何トシテ追カクベキヤト、各被申。沙汰ノ限リ也。是ニ依テ怪我可致トハ思ヒ儲ケナガラ、各ノ一言ニヨリテ飛タリ」トノ玉フ。朋友共舌ヲ振フ。(3)
 
 其後出陣シテ、冨来城乘ノ節、黒田兵庫殿先手ヨリ二町ホド先ガケテ*、三ノ丸ノナラシニ乘アガリタル所ヲ、矢狭間ヨリ、鎗ヲ以テ辨之助ガ股ヲ突カスル者アリ*。
 辨之助甚忿テ、立並ビタル者ドモニ向ヒ、「此狭間ヨリ鎗ニテ吾ヲ突、鎗トツテ見スベシ」ト云テ、股ヲ矢狭間ニサシ當テヽ待ツ。案ノ如ク又鎗ニテ股ヲ貫ク。突通サレナガラ鵜ノ首ヲヒシト取テ、鎗ヲ奪取ントス。敵モ取ラレジト引合フ。辨之助、股ノ骨ニアテヽ、「ヱイ」ト云テ、鵜ノ首ヨリ二尺余ヲヽイテ鎗ヲ(切*)折。朋友共ニ*、「是ヲ見ヨ。鎗ヲトリタリ」トテ、少モ疵ヲ被リタル事ヲ不言。
 各驚キ、血止メナント騒ギシヲ、馬糞ヲ取テ疵口ニヲシ入レ、少モ痛ム面色ナク、城へ乘上リ能働キ、其後小屋ヘ歸テモ、朋友ノ手負ヲ見廻ニ、杖ニスガリテ*、痛メル色ナク徘徊セラレシト云リ。(4)
一 慶長五年(1600)、石田治部少輔三成が邪謀を企み、濃州関ヶ原において家康公と雌雄を決するが、三成はこの一戦に敗北し生け捕られた。九州にあっては、黒田如水公が東軍の御味方として、中津川の御居城から出陣なされ、石垣原で大友義統を捕虜にされ、安岐・冨来の二城を攻め破られた。

 如水公御出陣の前、弁之助は(播州から)中津ヘ下リ、父(無二)の勘気をも赦し、父子一所に暮らした。これは、弁之助十七歳の時である。
 近々出陣ありそうだと、同輩たち連れ立って山野に出て遊行した。高さ二間(3.6m)程の崖になった所があった。下は小竹原を切払って、竹の尖った削ぎかけが無数に立っている。
 弁之助は、朋友に向って、「この下を敵が駈け通るのに遭遇したら、諸君、どうなさるか」と云われる。朋友どもが、「たとえどんな敵が駈け通って行くとしても、(飛び降りて)追いかけるようなことはできない」と、言いも終ぬうちに、弁之助は「えい」と声をかけて、飛び下りてしまった。みなが驚き、「これはどうした事か」と云う。
 弁之助が云う、「上へは三尺四尺〔0・9〜1.2m〕ほどでも飛び上ることはできないが、下へなら数丈〔6〜9m〕あっても飛び下りることができる。天性〔物事の本質〕かくの如し。ところが、敵が駈け通るのを、どうやって追いかけることができるかと、諸君が云われる。バカなことだ。こうしたら怪我するとは思っていたが、(できないと云う)諸君の一言によって飛んだのだ」と言われた。朋友どもは舌を巻いた。

 その後、出陣して冨来城攻略の節、黒田兵庫殿の先手より二町〔200m〕ほど先駆けて、弁之助が三ノ丸の均し(土台)に攻め上った。そこを、矢狭間から鎗で弁之助の股(太もも)を突擦った者があった。
 弁之助は、大いに憤激して、(下に)立ち並んだ者どもに向って、「この狭間から鎗でおれを突く、その鎗を奪って見せよう」と云って、太ももを矢狭間に差し当てて待つ。思った通り、また鎗で太ももを貫いてくる。(弁之助は)太ももを突き通されながら、鎗の鵜の首をひしと掴んで、鎗を奪い取ろうとする。敵も(鎗を)取られまいとするので、引っ張り合いになる。弁之助は大腿骨に鎗を当てて「えい」と云って、鵜の首から二尺〔60cm〕余り下で鎗を(切り)折り、朋友どもに、「これを見よ。鎗を取ったぞ」といって、少しも負傷したことを言わない。
 みなが驚き、「血を止めなければ」と騒ぐのを、馬糞を取って傷口におし入れ、少しも痛む顔色なく、城へ攻め上がって能く働き、その後、小屋(兵舎)ヘ帰っても、朋友の負傷者を見廻るために、杖にすがって、痛む気色もなく徘徊なされた、という話である。

  【評 注】
 
 (1)慶長五年
 慶長五年(1600)は関ヶ原役の年である。この段の記述は、黒田如水が東軍に味方して、中津城から出陣し、石垣原の戦いで大友義統を捕虜にし、安岐・冨来の二城を攻め破ったとだけある。これではあまりにも簡略に過ぎて、事情がわからない。で、以下のことは念頭においておきたい。
 関ヶ原戦のおり、黒田氏は東軍に属し、黒田勢主力は長政とともに関ヶ原にあった。一方、九州にいた黒田如水(官兵衛・1534〜1604)がこのとき挙兵したのである。如水は諸大名が東方に出兵して空き家同然の九州を撫で切りにして、同地方を掌握しようとしたとされる。
 中津には軍勢はあまりいなかったので、黒田如水は平生より貯えていた金銀や米をここぞと用いて兵を募り浪人を集めたという。その俄か仕立ての軍勢を率いて、西軍に属した九州近隣の諸城を次々に攻略した。
 巷間流布した説によれば、如水はそうして九州を制圧して、関ヶ原の勝者と天下を賭けた戦さに持ち込むつもりだったが、そんな如水の野望も、関ヶ原戦がわずか一日で決着がついたために潰えてしまった。如水は、自分の挙兵行動をすべて東軍のためにやったことにして、自身の野望を匿した、というものである。これは俗説の極みである。
 当時、戦場は関ヶ原だけではなく、各地で同様の小競り合いがあった。放っておいても戦闘は生じたのである。隠居の如水とても動かざるをえない場面である。長政の黒田家主力が東軍の最前線にいたのだから、選択の余地なく如水は東軍である。そもそも関ヶ原戦は、家康と豊臣方の対決ではなく、豊臣方大名間の紛争決着である。関ヶ原役の結果の恩賞論功は、西軍豊臣方大名の大幅な加増である。この段階では家康はまだ豊臣方諸大名の一つにすぎない。これを二重権力状態に持ち込むのは関ヶ原戦後のことである。家康を過大視することは事実に反するが、それ以上に、九州の如水の挙兵行動を過大視することは、如水を英雄視する俗説講談にすぎない。
 さて、如水の挙兵行動における最大の敵は、この記事にみえる大友義統〔よしむね〕(1558〜1605)である。「吉統」とも記す。義統は大友宗麟(義鎮)の嫡男で、宗麟の家督を嗣いだ。ただし「凡将」として高名で、せっかく父宗麟が確立した北九州での勢力を一代で潰してしまった。
 大友義統と黒田官兵衛の縁は深い。というのも、対島津ということで両者は共同戦線を張ったということだけではない。父大友宗麟が切支丹大名の代表的存在で、官兵衛もまた切支丹であったのだが、フロイスの『日本史』によれば、官兵衛が義統を受洗させたらしい。しかし秀吉の切支丹禁令を受け、義統は数ヵ月後には棄教している。
 義統にはさまざまな失態があったようだが、豊臣秀吉の「大友勘当状」(豊公遺文)によれば、朝鮮侵略の文禄役では逃亡の罪を挙げ、また対島津戦での豊前龍王への逃走を責め、領国を取り上げ身柄を毛利輝元に預けるとしている。義統は 剃髪して宗巌と号した。つまり、ここで大友氏は鎌倉時代以来の豊後国主権を失ったのである。
 秀吉死後、慶長四年義統はようやく赦免された。翌五年、関ヶ原役に際し西軍に加担して、九州へ攻め込んだというわけなのだが、どうして豊後国主権を失った大友義統がここで登場するか、と言えば、大友の遺臣らが存在したからである。彼らが呼応して、関ヶ原役を絶好のチャンスとみて豊後大友氏再興に賭けたのである。したがって、この北九州戦の主役は大友氏遺臣であり、決して黒田如水(官兵衛)ではない。むしろ如水は豊後回復を狙って九州へ攻め込んできた大友勢(つまりはその背後の毛利勢)と戦わなくてはならないのであった。
 当時豊後の割拠状況をみておかねばならない。まず細川忠興所領(六万石)の杵築城〔現・大分県杵築市杵築〕に城代松井(長岡)康之がいた。そして竹田城〔現・大分県竹田市竹田岡〕の中川秀成(七万石)、臼杵城〔現・大分県臼杵市臼杵〕の太田一吉(六万五千石)・佐伯城〔現・大分県佐伯市鶴谷城山〕の毛利高政(二万石)・高田城〔現・大分県豊後高田市玉津〕の竹中重利(二万石)・富来城〔現・大分県東国東郡国東町富来浦〕の垣見一直(二万石)・安岐城〔現・大分県東国東郡安岐町下原〕の熊谷直盛(一万五千石)・府内城〔現・大分県大分市荷揚町〕の早川長政(一万石)など諸大名があった。
 このうち東軍の旗色が明らかなのは、松井康之が居た杵築城だけで、中川と竹中は中立、他は西軍である。なかでも臼杵城の太田勢は毛利の指示で、細川所領の杵築城接収に動いた。そこから当地の戦闘が始まるのである。義統は長門から海路豊後に上陸、立石〔現・別府市〕に陣を構えて杵築城と対峙した。
 松井康之から救援要請を受けた如水は自ら出陣した。すでに杵築城では激闘が展開されていたが、如水の派遣した兵が加わり形勢は逆転、大友勢は立石へ撤退した。それを追って今度は立石へ攻め込み、石垣原〔いしがきばる 現・別府市石垣原〕を主戦場として決戦に及んだ。結果は大友勢の敗北、宗像鎮続、吉弘統幸はじめ大友方部将が戦死した。大将の義統は投降して、中津城へ護送された。(義統はその後出羽に配流、のち常陸へ移され配所で歿した)。
 かくして大友勢を粉砕した如水ら東軍は兵をとって返し、まず安岐城を包囲した。守将熊谷外記は降伏し無血開城となったが、このとき城兵の大半を味方に得た。さらに富来城へ進軍し包囲した。このとき、海上で上方からの飛脚船を捕らえた。そこで発見したのは、富来城主・垣見一直から西軍の敗報を認めた密書である。如水は早速これを城内に送って降伏を勧告。こうして富来城も無血開城、城兵の大半を味方に得た――という話である。しかしこれらは黒田方による伝説で、必ずしも経緯はこんな簡単なものではなかったらしい。
 安岐・富来二城を降伏させた東軍は、次に臼杵城を落とし、別部隊は佐伯城〔現・大分県佐伯市鶴谷城山〕・角牟礼城〔現・大分県玖珠郡玖珠町森〕・日隈城〔現・大分県日田市亀山町〕の各城を攻略し、豊後を制圧した。その後、如水は北へ進軍し、中津から先へ進み、香春岳(かわらだけ)城〔現・福岡県田川郡香春町採銅所〕・小倉城〔現・福岡県北九州市小倉北区室町〕の二城も落として、わずか一月余りで豊前・豊後二国を制圧したのである。これも関ヶ原の結果が出た後のことで、いわば如水の軍勢は、どさくさ紛れに諸城接収に走り回っていたという恰好である。その結果、黒田家は戦後、筑前国主五十余万石の大大名へのし上がったのである。
 こういう如水成功譚なので、このあたり、本書は黒田家臣ならではの書きぶりで、いかにも意気揚々としている。  Go Back

黒田如水像 福岡市博物館蔵





豊後豊前諸城地図




杵築城址 大分県杵築市杵築







石垣原古戦場址現況
如水本陣実相寺山を望む

 
 (2)辨之助中津ヘ下リ
 ここから武蔵の話になる。黒田如水出陣の前、弁之助は中津ヘ下リ、とあるから、これは播州から豊前中津へ舞い戻ったというわけである。いずれにもせよ、武蔵は家を追い出されて生まれ故郷の播州へ戻って、そこで成長したという話の筋書きである。
 中津へ舞い戻った武蔵は、父無二の勘気をも赦し、父子一所に暮らした、これは弁之助十七歳の時である、という。したがって、九歳から十七歳まで、武蔵は九州の父の元を離れていたわけである。この段も、前段からの説話の連続で、無二は武蔵実父であるかのごとく、話は抵抗なく滑らかに進行するようである。
 しかし無二は、泊神社棟札記事にあるように天正年間に死んだとすれば、この慶長五年(1600)の関ヶ原役の年には、この世にいないわけである。ここでも亡霊たる父無二が登場するのである。武蔵が無二の義子で、しかも死後相続であったという情報はないから、無二は武蔵の実父、父子いっしょに暮らした、という伝説が生まれたのである。
 この逸話は、他の武蔵伝記に類例を見ないディテールを有する点、この記事は、福岡黒田家中で成長した口碑伝承であろうかと思われたが、そうではない。大塚藤実の言によれば、これも師説にないという。同じ筑前二天流でも早川系門下では、そんな話は聞いたことがないし、碑銘(小倉碑文)の記事と符合しない、信用しがたい話だというわけである。
 次の段に出てくる逸話も同様である。これらは立花峯均がどこかから仕入れたのであろうが、黒田家中の者が知らないとなれば、もとより事実とは言いがたい。この点、諸君の注意を喚起しておく。  Go Back


中津城 大分県中津市二ノ丁本丸


*【藤郷秘函】
《中津川ニ來リ、父ガ勘氣等ノ緩リシ事、無師説。碑銘ト意不符号。難信用カ》(巻之一 先師上)
 
 (3)下ヘハ数丈アリテモ飛下ル事成ヨシ
 武蔵十七歳である。中津で近々出陣ありそうだということになって、武蔵は同輩たち連れ立って山野に出て遊行した。この「遊行」は単なる山遊びではなく、戦闘の実習訓練のことであり、朋輩たちで一同山に入ったということである。
 そこに「二間程ノ切岸ノ所アリ」。「切岸」というのは崖のこと、つまり高さ三〜四m程の崖になった所があった。下は小竹原を切払って、竹の尖った削ぎかけが無数に立っている。「小竹」は笹というよりは篠で、小竹原は「しのはら」と読む。
《妹らがり我が通ひ道の小竹すすき 我れし通はゞ靡け小竹原》
  妹等所 我通路 細竹為酢寸 我通 靡細竹原(万葉集七巻)
 この小竹原が「しのはら」である。ようするに、この場面を竹藪と勘違いする向きは作家連中にいまだにあるが、小竹とある以上は太い竹ではなく細い竹で、おそらく里山でそれを切り払ってあったわけだ。篠竹は籠や笊などさまざまな生活用具の材料になるし、垣根にもなる。笛や子どもの玩具にもなる。というわけで、利用方法が多い生活素材である。だからそれを刈り取って里へ持ち帰っていた。
 しかしながら、「竹の尖った削ぎかけ」というのは、尖端恐怖症者でなくても、言葉だけでもいかにも痛そうである。こんなところへ飛び降りる奴はいない。
 すると武蔵は朋友に向って、「この下を敵が駈け通ったら、諸君、どうなさるか」と問う。竹の尖った削ぎかけが無数に立っているから、朋友どもが、「たとえどんな敵が駈け通るとしても、(ここを飛び降りて)追いかけることができない」。そう言いも終ぬうちに、弁之助は、「えい」と声を発して飛び下りた。当然、竹の尖った削ぎかけが武蔵の足を貫いた。みなが驚いて、「これはどうした事か」。
 朋輩どもが驚くのは当たり前で、武蔵の行動はまったく意表をついたものだというよりも、狂気の沙汰であるからだ。武蔵が云うに、上へは三尺四尺〔0・9〜1.2m〕ほどでも飛び上ることはできないが、下へなら数丈〔6〜9m〕あっても飛び下りることができる。天性かくの如し。つまり、自然法則とはこうだという。朋輩ども皆が「こんなところを飛び降りて敵を追いかけるなんて、できるかよ」と云う。これに対し武蔵は、「沙汰ノ限リ也」、とんでもない、馬鹿なことを言うなと、「こうしたら怪我するとは思っていたが、できないという諸君の一言によって飛んだのだ」と答えたので、朋友どもは「舌を振るう」、つまり驚嘆して舌を巻いたということである。
 この段は、少年にして朋友どもに抜きん出た武蔵、という説話定型である。しかし朋友たちは、武蔵の何に驚かされたのか、それがこの説話のポイントである。武蔵の勇気か自傷の狂気か。それとも、身をもって教えを為す自己犠牲的ポジションか。
 ただし、匹夫の勇とか、これに若き武蔵の蛮勇のみを見る、俗説に多い解釈は論外である。若者同士で「やれる」「やれない」といった論争から発展して勇気を競うチキンレースであるわけはない。ましてや、近代、通俗小説の常套手段に、この一段の逸話から奇妙な心理分析に及ぶ傾向があるが、それはむろん論外である。
 この説話に明らかなように、武蔵はいきなり飛んだのである。これは次の段にある説話と同じで、戦場で負傷しても苦痛など物の数ではないという戦国武士の伝説を、この説話はなぞり返しているのである。篠竹で足を踏み抜くなどは蛮勇でも何でもない。足を踏み抜いたくらいで戦闘不能になるような者は武士ではない、というわけだ。つまりは、この説話は戦国武士譚に多い「苦痛を知らぬ勇者」の説話パターンを反復しているのであり、またそれ以上のものではない。
 したがって、もとより事実ではなく、虚から湧いて出た説話である。しかも、これが筑前二天流の局所的な特殊伝説かというと、そうではない。大塚藤実が明記しているように、同じ筑前福岡の二天流でも早川系には、こんな言い伝えはなかったのである。
 とすれば、これも巷間伝説でもない。黒田家臣どころか、同じ筑前二天流の早川系でも、そんな話は聞いたことがないというのが事実であった。いわば本書『峯均筆記』のみにある説話である。したがって、この逸話を事実と見誤っては、まさに阿呆である。  Go Back

小竹原(篠原)




白竹と女竹













*【藤郷秘函】
《藤實按ニ、此條無師説。(中略)巖翁ハ何レ處ヨリ傳得テ、斯ク記セルヤ、疑無缺也》(巻之一 先師上)
 
 (4)冨来城乘ノ節
 その後、出陣して富来城攻略のときのことである。この武勇談も、本書以外には見えないところである。
 富来城は「とみく」と読む。国東半島の東海岸の城である。この富来城の歴史は古い。弘長元年(1261)に富来氏が拠点とし、以来富来氏累代の居城であった。富来浦は、西下した足利尊氏が再起し出陣した出発の地という。尊氏と富来城主・富来忠茂ゆかりの禅院・萬弘寺がのこる。
 戦国末期、富来氏は大友氏麾下にあり、豊前攻略に戦功を立てているが、天正六年(1577)、日向耳川の合戦で富来実直・実信父子が討死した。さらに文禄二年(1593)、前述の大友義統除国のさい、城主・富来統長は日向へ立ち退いた。入れ替わりに富来城主になったのは、垣見家純。慶長五年の関ヶ原役で、垣見は西軍に属して出陣、城代垣見理右衛門が富来城を守備していたが、垣見家純は美濃大垣城で討死した。そのころ、中津の黒田如水が富来城に攻めてきた。しかし黒田軍はいったん安岐城へ行き、そちらを先に落とし、それから富来城へ襲来し包囲した。城方は十日間の籠城戦を戦うが、関ヶ原役の結果を知らされて降伏、無血開城したという。
 さて、この記事は珍しい武蔵戦陣譚である。まず、武蔵の先駆けである。黒田兵庫の先手よりさらに二町〔200m〕ほど先を先駆けて、武蔵は三ノ丸の均しに攻め上ったという。「均し」というのは、石垣を積んで盛土して嵩上げされた地盤面のことで、城壁を作る土台部分である。つまり、ここでは、石垣を這い上がって土台部分に取り付いたという場面である。
 そうすると、城塀の矢狭間から鎗で突いてくる者がある。その鎗が武蔵の股(太もも)を擦った。そこで武蔵は「甚忿テ」、つまり激怒して、石垣の下に立ち並んだ味方の者どもに向って、「この狭間から鎗でおれを突く、その鎗を奪って見せよう」と云った。この「甚忿テ」は感情の激発だが、闘志に高揚した戦場の武士はよく泣いたし、またよく「甚忿テ」いたのである。
 しかしながら具体的なシーンでは、ここには性的隠喩があって、股間を鎗で突くという場面が武蔵を激怒させたことになる。というのも、これは石垣の下から見ている衆には恰好の喜劇的シーンであるからだ。あいつの股ぐらに鎗が突いてくる。そこで武蔵は下で見ている連中に、さっきおれの股ぐらを突いた鎗を取ってみせる、と云ったわけである。
 ところで矢狭間というのは、鉄砲狭間ともいい、弓矢・鉄砲を発射するため城壁に開けた小さな穴のことである。狭間は「はざま」でもよいが「さま」と読むべきである。小さな開口部という意味である。しかし、弓矢・鉄砲を発射する穴だから高さ三尺ほどで低い位置にはないのが道理である。この記事にあるように、矢狭間から太ももを突かせた、その高さに太ももがある武蔵というのは、これは随分巨大な男ではないか。そういうシーンもここにあることを、注意しておきたい。
 で、武蔵は太ももを矢狭間に当てて待つのである。案の如く、矢狭間からまた鎗で股を貫いてくる。武蔵は太ももを鎗で突き通されながら、鎗の鵜の首を掴んで、鎗を奪い取ろうとする、というなかなか壮絶な場面になる。しかし敵も取られまいとするので鎗の引っ張り合いになる。すると武蔵は、大腿骨に鎗を押し当てて「えい」といって、鵜の首から二尺〔60cm〕余り下で鎗を折った。そうしてみると、そんな辺りまで太ももを貫通していたわけである。
 異本にはここを「切折」とする。いづれにしても、鎗を折り取ったという場面である。鎗を取った武蔵は、朋友どもに、「これを見よ。鎗を取ったぞ」といって、少しも負傷したことを言わない。武蔵がそんなことをしたので、みなが驚き、「血を止めろ」と騒ぐが、武蔵は馬糞を取って疵口に押し込む。――となると現代人には、随分乱暴な話のように思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。
 馬糞は当時一般的な創薬である。馬糞汁というのもあって、まだ温かいうちに絞って汁で飲むこともあったようだ。糞はだいたい肥料だが、民間療法では戦前まで薬にもしたものである。「クソ!」と云って馬鹿にはできない、ありがたいものである。とくにここで馬糞が出てくるのは、戦さで身近に騎馬が多くいたからである。馬は人を乗せるだけではなく、薬品も製造したのである。
 かくして馬糞治療した武蔵は、少しも苦痛の色なく、城へ攻め上がって十分に働いた。その後小屋(兵舎)ヘ帰っても、朋友の負傷者を見廻りに、杖にすがって、痛む気色もなく出歩いた、という話である。「痛メル色ナク徘徊セラレシトイヘリ」という「イヘリ」の伝説性は、注意しておくべきであろう。
 ついでに言えば、武蔵の先駆けの場面で、《黒田兵庫殿先手ヨリ二町ホド先ガケテ》と、黒田兵庫助の名がここで登場する。もとより大前提のことであるが、史実としては、黒田兵庫助はすでに慶長元年(1596)に死去しているから、この慶長五年の戦闘に関与することはできない。そこで、これは黒田兵庫助利高ではなく、その嗣子の黒田政成であろうとする修正説があるが、当時黒田家で兵庫助は利高であり、黒田「伯耆」政成を指すものではない。どのみち、この記事は後世の粉飾である。
 ただし、もとより、そんなことで目くじらを立てる必要はない。武蔵伝説論の観点からすれば、この説話は、当時無数にあった武辺談のカテゴリー内に納まるものであって、前述の如く「苦痛を知らぬ勇者」の説話類型である。こういう説話は定型として反復されたものである。
 しかしながら、同じ筑前二天流でも早川系では、こんな話は聞いたことがないというのである。大塚藤実によれば、この行状はほとんど血気にはやった躁行で、狂夫に異ならず、巌翁(立花峯均)はどこかから聞いてこれを書いたのだろうが、とても信じがたいという具合である。
 しかも、同じ立花系でも、峯均の孫弟子である丹羽信英の武蔵伝記『兵法先師伝記』によれば、黒田如水によるこの九州での掃討戦には、そもそも武蔵は出陣しなかったとする。本書『峯均筆記』の武蔵武勇談は、半世紀ほど後には、地元筑前福岡の二天流でも信憑されず、しかも孫弟子においてさえも伝承されなかったのである。
 したがって、小説にあらず、これを実録として信じる今日のナイーヴな読みは、却下されるべきである。まして、前段の小竹原へ飛び降りた逸話とあわせて、「武蔵の匹夫の勇」なる僻説を抽出するのも、周知の如く戦前から武蔵本に例が多いのだが、まことに愚行と云うべし。
 総じて『峯均筆記』の記事は、伝説の説話化がかなり進んでいるのだが、その説話も、地元福岡でさえ信憑性なしとされる、こうしたケースもある。それを、後学啓蒙のために、ここでとくに注意を喚起しておく。  Go Back






富来城本丸跡







均しと矢狭間





狭間の典型例 姫路城



























*【藤郷秘函】
《藤實按ニ、説無師傳。其誌セル所ノ行状ヲ見ルニ、頻〔ホトン〕ド血氣ノ躁行有テ、狂夫ニ不異也。(中略)巖翁ハ聞キ得ル所有テ、事ヲ記セルナルベケ(レ)共、撰テ不顧、聞ルマ丶ニシ不撰》(巻之一 先師上)

*【兵法先師伝記】
《先師ハ本ヨリ主君ニ仕ル身ニアラズ、吾志ス処ハ兵法至極ノ道ニ達セン事已而ト、今度ノ戦場ニ不被出》



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