(3)父ハ宮本無二ト号ス
武蔵の父は「宮本無二」と号したというのである。これは何とも奇怪な話である。
まず、豊前小倉の小倉碑文では、「父新免は無二と号す」とあって、「宮本」無二だとはしていない。小倉碑文を承知だとすれば、これは胡乱なことである。さらに言えば、播州加古川の泊神社に残された宮本伊織撰述の棟札によれば、武蔵は「新免」の養子になったが、後に「宮本」に改めたという。このことからすれば、無二が「宮本」を名のるはずがないのである。『峯均筆記』は後世の伝説の影響を蒙っているのは明らかである。
この点に関しては、本サイトの諸論文に論及されているので、ここでは繰り返さない。ただし、この『峯均筆記』の記事を見るかぎり、武蔵が「宮本」武蔵なら、父親の無二も宮本であろうという、根拠なき憶測が伝説化したものである。峯均は、もちろん武蔵が無二の実子ではなく、養子だという情報ももたない。明らかに実子だと思い込んで伝説を再生産しているのである。これについては、のちに関連事項で言及するであろう。
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(4)黒田兵庫殿ノ与力
無二の記事である。まずは、無二が如水黒田官兵衛の弟、黒田兵庫助の与力であったという。本書の著者は福岡黒田家家臣であったから、無二の黒田家との因縁を語るのである。
兵庫助利高(1554〜96)は、播州姫路生まれ、小寺職隆の息子で小一郎。職隆猶子の官兵衛とは義兄弟。妻は斎藤氏、御着城北の斎藤山構に依拠した。兵庫助利高は、兄官兵衛に従い播磨で戦功を挙げ、一時秀吉の近習となる。岸和田陣や四国攻略に独立した武将として参戦後、官兵衛のもとに帰属する。秀吉の九州攻略に功があり、黒田家豊前転封後は、一万石を領し高森城に拠る。朝鮮の役では渡海したが、病んで泉州堺で歿。
子の政成は、関ヶ原役当時、官兵衛の九州戦で石垣原の戦いにおいて功あり、黒田家筑前転封後は知行一万四千石。しかし後に所領没収、ようやく四代目が白国姓で復帰、しかし千石の家となった。この「白国」は播州飾東郡の顕氏で、現在も姫路市内に同名地名がある。
さて、無二が黒田兵庫助利高の与力であったという話だが、これは播州時代以来のことと見なければならない。新免無二の「新免」は美作の氏であるが、すでに天正八年以後は無二は播州にあり、以来黒田兵庫助麾下にあったという可能性をみとめることができる。だが決定的な証拠はない。
泊神社棟札によれば、この無二に相当する武蔵の義父は、天正年間に筑前秋月城で歿という。とすれば、慶長元年歿の黒田兵庫助よりも早く死んでいるし、豊前中津に住んだかどうか恠しい。与力というのも、被官ではなく、協力者・同盟者という本来の意味で言えば、兵庫助の家臣としてしまうのは、誤認のもとである。したがって、黒田家分限帳に見える、百石取りの新免無二の記事も疑わしいところである。
これについて、若干言及しておけば、次のようなことであろう。
問題は、こうした後世の写本史料に信を措くことは可能か、である。すなわち、一つには、黒田家分限帳はいつの写本か、その記事はどこまで慶長当時のものか、という問題がある。「武州師父」や「新目無二」、あるいは「新免無二/一真」という記事は、むろん後世のもので、余計なノイズを示している。
分限帳記事について、それぞれ問題点を提起すれば、以下の如くである。
(1) 慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳
この分限帳では、新免伊賀守宗貫を「新目伊賀」と記すから、この「新免」無二は小倉碑文を知っている者による記名である。また給人分限帳なら、「無二」という号は記さず、たとえば「新免武蔵(守)」というような職名で記すだろう。「武州師父」とは、武蔵先生の父ということで、これは筑前二天流の用語が入っている。立花峯均『丹治峯均筆記』は享保年間だが、それより以後の記入であろう。
(2) 慶長七年諸役人知行割同九年知行書附
「新目無二」はむろん後世の誤記であって、口碑を文字化したため「しんめん」(新免)が「しんめ」(新目)に転訛したものである。あるいは『本朝武芸小伝』に新免に「にいみ」とルビをふるから、「新見」→「新目」という経過をたどった記名かもしれない。いづれにもせよ、これも後世伝説の徴しである。
(3) 慶長年中士中寺社知行書附
「新免無二/一真 播磨人」という記事は、十八世紀中期を遡るものではない。つまり、円明実手流系譜に「宮本無二之助一真」の名があり、その猶子が「宮本武蔵守正勝」。後者が武蔵、前者が無二をそれぞれモデルにした人物で、むろん後世の伝説変形である。これが当理流伝書になって、十八世紀中期以後九州で流布したらしい。「新免無二/一真」は「宮本無二之助一真」の名を知っている者の所為で、新免無二に「一真」を付記したものである。ただし、新免無二は播磨人かもしれないが、「宮本無二之助一真」は河内の人だから、このケースの「一真 播磨人」の記入はそれを知らない後人の仕業である。
したがって、以上のことからすると、黒田家分限帳の無二記事は、どれも十八世紀中期を遡るものではない。決して慶長期のオリジナルではなく、根拠史料として扱えるものではない。そういう史料批判を知らぬ立論が近年目につくのは周知の通りである。
しかも、現存史料としては、原本は存在せず、近世書写を繰り返されて伝わったものであり、それを明治になって長野誠(芳斎)が書写集成したものである(「福岡藩仰古秘笈」三二所収)。したがって、もとよりオリジナルの史料として処遇することはできない。
こうした後世の加筆が明白な史料にどこまで信がおけるか。新免無二が百石で黒田家に仕えたという伝説をもとに、この分限帳の無二記事が書かれたと思われる。そして、もしかりに、新免無二が黒田家士だったなら、その家を継いだ武蔵は黒田家士だったことになる。これは明白な僻説である。
筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、無二は黒田家臣ではなく、黒田兵庫助の「与力」だったとある。黒田兵庫助の、しかも「与力」、外部協力者である。無二と黒田家との関係は、それどまりと見たほうがよい。給人分限帳に登録される関係ではあるまい。
あるいはまた、もう一つ、「無二」が出てくる史料には、慶長十八年の木下延俊「日次記」のことがある。二木謙一によれば、豊後日出藩主・木下延俊(1577〜1642)の「日次記」、慶長十八年(1913)の日録には、兵法を遣う「無二」なる者の名が見え、延俊に仕えたと読める記事があるという。
これは慶長十八年、したがって少なくともそこまで「無二」なる者は生存していたことになる。では、そこにみえる兵法をつかう「無二」なる者が新免無二だとみなす根拠は薄弱である。この日記は延俊の家臣が書いたのであるが、「新免」とか氏の記載はない。知行を給したというのに、これも奇妙なことである。
この点につき、慶長年間まで事蹟のある「無二」という人物は、実は武蔵であって、彼は「父の家業」を嗣いだのだから、当時よくあるように「無二」の名跡を継承したのだと解する向きもあろう。しかしそれは安易な解釈というべきである。
小倉碑文によれば、「無二」は号であり、名跡ではない。名跡をいうなら、たとえば「新免武蔵守」と職名がなければならない。武蔵が「新免武蔵守」と名のったところをみると、それが無二の名跡なのである。
これに関連するが、ずっと後の宝暦元年(1751)の「杉原氏御系図附言」なる書に、この木下延俊が「宮本無二斎」の流派を伝えた、無二斎の免許巻物が現存している、という記事があるらしい。これは十八世紀中期の文書であり、依拠するほどの史料ではない。「宮本無二斎」なる名は、上述の円明流家譜に記事がある「宮本無二之助一真」なる名の流布に関連するから、後世の記事たる表徴である。もしその免許巻物に「宮本無二斎」という名が記されているとすれば、十八世紀中期に流行したと思われる当理流目録である。証拠の免許巻物など、伝説に合わせていつでも出現しうるから、それも依拠するにたりぬ資料である。
ようするに、無二が、少なくとも慶長年間まで黒田家の家臣となって生きていたのか、日出城主・木下延俊の慶長日記の「無二」が新免無二なのか、それを決定する根拠はない。
結論を言えば、伊織棟札の「天正年間に筑前秋月城で死んだ」という記事を覆す有力な史料は、まだ出ていないのである。
しかしながら、それとは別に注意すべきは、播州の出身である黒田官兵衛の出世とともに家臣増加があり、多くの播州人が麾下に組織されたことである。武蔵周辺の者たちもおそらく同様であろう。そこで、官兵衛が豊臣秀吉から最初に万石知行を得た領地はどこかというと、それは、播州揖東郡内であり、それには武蔵産地とみなすべき宮本村のある石見庄もそれに含まれるのである。しかも武蔵誕生の天正十二年当時の領主は、他ならぬ黒田官兵衛なのである。
それゆえ、このとき武蔵周辺の者が黒田勢に組織された可能性があり、播州で四万石まで行った官兵衛が、九州での戦功で豊前に十五万石を得るのだが、この九州転戦に従った播州人の中に武蔵を連れて行った者があるはずである。
泊神社棟札によれば、無二は無嗣で死んだわけだから、死後相続である。武蔵は無二の家を嗣いだが、これは仲介をする者があってのこと、しかし武蔵は無二と会っていない可能性がある。したがって、この問題の結論を言えば、『峯均筆記』がたぶん無二を武蔵実父と錯覚している以上、この段の話は信憑性がないと考えるべきである。
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*【小倉碑文】 《父新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼に知れり…》
*【泊神社棟札】 《作州の顕氏に神免(新免)なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを武蔵掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む》

姫路城原型 模型
*慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳
*慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附
*慶長年中士中寺社知行書附
*【慶長十八年日次記】
《四つ時分に無二参り候て御対面成され候》(五月一日)
《五つ時無二給知御礼に参られ候。無二に御帷子二つ遣はされ候》(同五日)
《無二兵法を遣申し候》(七月九日)
《夜に入りて無二と兵法を御遣ひ候》(九月二十八日)
*【平姓杉原氏御系図附言】
《劍術は宮本無二斎の流派を伝へたまふ[無二斎免許の巻物今以てこれあり]》

中津城 大分県中津市二ノ丁
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