宮本武蔵 資料篇
関連史料・文献テクストと解題・評注

Home Page

 解 題    目 次    1   2   3   5   6   7   8   9    追 加   自 記    以 後     伝記集 

[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  4  Back   Next 

 
  06 大坂の陣
一 慶長十九年、翌元和元年、攝州大坂兩度ノ御合戦ニモ、軍立シテ佳名ヲ顯ハシ、傳来ノ薙刀ヲ以テ數人薙倒シ玉フト云リ。(1)[但シ、イヅレノ手ニツキ出陣アリシヤ、其事ヲ忘ズ](2)

一 慶長十九年(1614)、翌元和元年(1615)、摂州大坂の両度の御合戦(大坂冬陣、夏陣)にも、軍立ち〔参戦〕して佳名を顕し、伝来の薙刀で多数を薙ぎ倒されたという。[但し、どの(大名の)手勢となって出陣されたか、その事は忘れた]

  【評 注】
 
 (1)攝州大坂両度ノ御合戦
 これは豊臣家を滅亡せしめて徳川家康が最終的に覇権を握った大坂役のことである。合戦は慶長十九年(1614)の冬と同二十年(1615)の夏の二度であり、これを冬の陣・夏の陣と呼んでいる。武蔵はこのとき年齢三十一、二歳である。
 『峯均筆記』の記事によれば、武蔵は冬夏の両度の合戦に参加して、佳名を顕した、つまり戦功があったという。
 この情報は、小倉碑文の域を出るものではない。小倉碑文には、《豊臣太閤公の嬖臣・石田治部少輔謀叛の時、或は攝州大坂に於て秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名、縦ひ海の口、渓の舌有るとも、寧〔いづく〕んぞ説き盡くさんや。簡略して之を記さず》とある。小倉碑文は「簡略して之を記さず」というが、もちろん簡略するどころか、もともと小倉碑文の記者にも情報がなかったのである。そして、小倉碑文の域を出ない『峯均筆記』の記事には、大坂陣の戦場で武蔵がどのように働いたか、その具体的な情報はない。この点を確認しておくべきであろう。
 後出の島原役の記事も同じ性格のものだが、戦場で武蔵がいかに働いたか、という武蔵戦記情報が『峯均筆記』には欠落しているのである。大坂陣では、どこをどう攻め、どのような戦功を挙げたか、その情報がない。ただ佳名を顯わしたとすのみで、この系統には伝承はなかったものと見える。百年以上前の事件とて、これでは武蔵伝記の役をなさないのであるが、実際『峯均筆記』の筆者が嘆いているように、武蔵に関する口碑伝説の情報は、すでにごくわずかしかなかったのである。
 ちなみに、肥後系伝記を見るに、『武公伝』『二天記』ともに、大坂陣のことを記すものの、具体的な記事はない。《慶長十九年大阪陣、軍功證據アリ》と『二天記』が記すが、それがどんなものか情報はない。『峯均筆記』にしてもほぼ同様である。とすれば、武蔵末流には、大坂陣武蔵参戦に関して、ほとんど何も情報がなかったのである。
 『峯均筆記』に記すのは、武蔵が、伝来の薙刀で多数を薙ぎ倒した、という一点である。この「伝来の薙刀」は武蔵が代々受け継いできた薙刀とみる必要はない。これは立花峯均に連なる筑前二天流において伝えられた薙刀のことであろう。
 ただし、注意すべきは、この「薙刀」に関しては、同じ筑前の二天流でも早川系にはその言い伝えがなかったことである。早川系では、武蔵の道具は薙刀ではなくて、(何と)十文字鎗だという話である。しかも戦闘のはじめにその十文字鎗が折れてしまったので、佩刀をぬいて戦ったというわけである(藤郷秘函 巻之一)。
 そのように、同じ筑前二天流でも、門流が違うと言い伝えも違っていた。したがって「伝来の薙刀」うんぬんというのは、これは立花峯均の門流のみにあった伝承である。この点、誤認なきようにしたい。
 つまり、これは一流伝承の武蔵所用とされる薙刀に関する立花派の伝説なのである。後出の島原役の記事にも、五尺杖とともに登場する薙刀であるが、ようするに、「例の薙刀」に関する伝説である。
 こうした伝説類型はどこにでもあって、取り立てて言うべきほどのものではない。伝来家宝の道具、このいわれは…という伝説類型である。武蔵が吉岡を斬ったという刀が、肥後の沢村家に伝えられていたというのも同じパターンである。事物があって、それにまつわる説明伝説が発生するのである。  Go Back




出光美術館蔵
大坂夏の陣







*【武公伝】
《慶長十九年[甲寅]十月大坂陣、三十一歳》 《翌元和元年[乙卯]五月八日大坂落城》
*【二天記】
《慶長十九年大阪陣、軍功證據アリ。三十一歳。翌元和元年落城ナリ》
 
 (2)イヅレノ手ニツキ出陣アリシヤ、其事ヲ忘ズ
 この通り、『峯均筆記』は、武蔵がどの大名の下で出陣したのか、そのことを忘れてしまったという。筆者はこれを聞いたのだが、それを忘れたという。このあたり、峯均の面白いところである。
 では、武蔵はどの大名の下で出陣したのか。しかしながら、今日ですら、豊臣・徳川のどちらに与して参戦したのか、と改めて問う必要があるという情けない状況である。『峯均筆記』では、
  「攝州大坂の両度の御合戦」
として「御合戦」とある以上、これは徳川将軍家のサイドに立った記述であり、佳名を顕したとすることから、むろん勝ち組の徳川方について参戦したのである。「イヅレノ手ニツキ出陣アリシヤ」というのは、文脈からすれば、豊臣方・徳川方のどちらに味方したか、ということではない。徳川方のどの大名の麾下についたか、ということである。
 それを、立花峯均は聞いたが忘れてしまったというわけだが、あまり確かな噺ではないという判断もあったのだろう、忘れたと書いたのである。
 他方、本書『峯均筆記』よりも半世紀後の大塚藤實の註記によれば、武蔵は小笠原秀政に属して戦ったという話が、筑前二天流早川系にあったらしい。上述の武蔵の道具について、それを十文字鎗だとする話のなかで、武蔵は小笠原兵部太夫秀政に属して戦ったという説を示している(藤郷秘函 巻之一)。これは従来、武蔵研究の視野に入っていなかった異説である。
 むろん、小笠原秀政は、小笠原忠政(忠真)の父である。小笠原忠政は播州明石以来武蔵と縁があったし、筑前の隣国豊前小倉の城主であった。もし、そういうはっきりした伝説が立花峯均の時代にあったとすれば、『峯均筆記』にもそう書いたことだろう。
 大塚藤實は、立花峯均の世代からすると孫の世代である。大坂陣で武蔵は小笠原秀政に属して戦ったというこの話は、おそらく、立花峯均が死んだ後になって、筑前で発生した新説であろう。武蔵と縁が深かった小笠原家を、大坂陣のさいの所属先にしてしまうのは、臆測から出た解釈伝説である。
 ようするに、豊前小倉の隣国であった筑前でもそういう次第なので、十八世紀になると、大坂陣のとき、武蔵がどの大名の手に属したかという話が、曖昧模糊たるものになってしまったのである。
 そういう伝承情報の空白を埋めるかたちで、後世あれこれの説が生じるのも事の成行きとして必然だったらしい。明治以後になると、まったくの珍説が出現するようになった。その珍説とは、大坂陣のとき武蔵は徳川方ではなく、豊臣方に与して戦ったとするものである。
 もとよりそんな話は、江戸時代にはなかった。近代明治以後の新作の解釈伝説である。しかしながら、武蔵が豊臣方に属して戦ったというこの珍説が、以後支配的になってしまったのである。今なおこの謬説を鵜呑みにして反復する者がいるので、その点について、以下若干関説しておく。
 これは、明治末の宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』の中に短く記された憶説であったが、その後同書を信奉する傾向が一般に普及するにいたって、武蔵が大坂陣には豊臣方で参戦したとの説が流布してしまったのである。
 言うまでもないが、顕彰会本の筆者の語るところは、たんに恣意的な空想であって、何か典拠が示されているわけではない。明治には「反徳川」の気分が濃厚であり、しぜん明治人として、こうした空想に流れたものであろう。顕彰会本は吉川英治が依拠したこともあって、その余波でつい近年まで、これが支配的な説となっていた。それゆえここで改めて、この説が根拠を欠く明治人の空想の産物であったことは確認されるべきである。
 戦前、この支配的な謬説に異を唱えた者があった。吉川英治の『随筆宮本武蔵』を批判した森銑三(1895〜1985)である。その「『随筆宮本武蔵』」(初出『日本及日本人』昭和十四年)や『宮本武蔵言行録』(昭和十五年)で森銑三は、松平君山の『黄耈雜録』を典拠として挙げて、武蔵が水野日向守勝成の軍に属したことが書かれていることを示し、その反証としたのである。
 松平君山(1697〜1783)は尾張徳川家に仕えた儒者。名は秀雲、字は士竜、通称太郎左衛門。母は堀忘斎の三女で杏庵の孫にあたる。婿養子に入った松平姓を名のる。博学で知られ、地誌『張州府志』三十巻のほか著書多数。友人に吉見幸和・横井也有らがいる。
 さて水野家は、徳川家康の母の実家で、勝成は、彼女を父忠重の姉、つまり叔母とする人であるから、家康の従弟にあたる。慶長十五年(1610年)従五位下日向守。『黄耈雜録』には、《宮本武蔵ハ兵法の名人也》として、《大坂の時、水野日向守が手に付》としている。大坂陣のとき、この水野勝成麾下で参戦したというわけである。明らかに徳川方である。明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の筆者、池辺義象はこの文献に言及していない。おそらく知らなかったのである。
 おもしろいことに、『黄耈雜録』の武蔵記事には、武蔵が我代(尾張侯)に仕えていたとか、三間(5.4m)もある差物(旗指物)に《釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者》というスローガンを大書していたとか、笑ってしまうような荒唐無稽な話を記録し、橋の上で大木刀を持って数人(多数)を薙ぎ伏せたとか、あれこれ記しているが、内容は風聞伝説以上のものではない。尾張の武蔵伝説はたいてい恠しい話である。
 しかしながら、大坂陣のとき武蔵がどうしていたかについて、具体的に記したものは、当時『黄耈雜録』以外の文献史料が見あたらなかったのであるから、森銑三がこれと指摘したのは妥当な仕儀である。
 それまで人によっては、『趨庭雜話』(蓬左文庫蔵)を挙げた者もあった。同書は本寿院淫奔の記事などあって、なかなか興味深い秘書の類であるが、著者不明(安井某)で、19世紀初めの著作と思われる。こちらの方にも《大坂の役、水野日向守が手に属し》など類似の武蔵記事があるが、明らかに松平君山の『黄耈雜録』を見て書いた不正確な模倣記事である。
 森銑三が「直木の見たか聞いたかしたのは恐らく別の文献だつたらうと思はれる」と書いているのだが、直木三十五が参照したこの「別の文献」とは、我々の見るところ、たぶんこの『趨庭雜話』である。『黄耈雜録』に対し『趨庭雜話』は二次資料であるから、森銑三が『黄耈雜録』の方を挙げたのは、書誌学的にも正しいのである。
 大坂陣のとき、武蔵が水野隊に属したことは、直木三十五も指摘し、またこの森銑三の典拠明示により、問題は一応ケリがついたはずであった。だが、明治の顕彰会本に依拠する吉川英治の説が戦前戦後を通じて強力な影響力を発揮していたから、根拠なき武蔵豊臣方説が、一部を除いて戦後も依然として支配的であったのである。まことに小説家の力たるや恐るべし、である。それとともに、世間では「史実」は多数決で決まる、という愚かな事実があった、ということである。
 言うまでもないが、森銑三らの尾張文献の指摘とは別に、堀正平が、その主著『大日本剣道史』(昭和9年)で、大坂夏の陣のとき武蔵が水野勝成麾下で出陣したことを明記し、しかも「水野家記録」と史料の所在を記していた。直木三十五が「現在の剣客中、剣道史、剣客の研究をしておられるのは、呉の堀正平氏をもって、オーソリチーとする」(「剣法夜話」)と書いているように、堀正平は当時剣道史の権威であり、大正十年には京都一乗寺下り松の「宮本吉岡決闘地碑」を自費で建碑しその銘文を自刻している。堀正平は『大日本剣道史』を著すにあたり、全国の協力者に歴史調査を仰いでいたし、これは地元広島県のことだから、堀はこの「水野家記録」を実見したものであろう。ようするに、水野家関係史料に、武蔵が水野勝成の麾下で参戦したとあることは、昭和九年(1934)以前の段階ですでに知られていたのである。
 その後、戦後になって、水野勝成を藩祖とする福山藩関係史料のうち、昭和四十六年(1971)に小場家文書が世に出て、そこで「大坂御陳御人数附覚」なる文書により、慶長二十年大坂夏の陣のときの水野隊の編成とその顔ぶれが知れ、たしかに水野勝成麾下に宮本武蔵の名があることが確認された。というわけで、堀正平の『大日本剣道史』のいう「水野家記録」とはまさにこれであった。また森銑三が戦前示した『黄耈雜録』の伝説記事も傍証を得たのである。
 そうして、昭和四十九年(1974)には『小場家文書』が刊行され、またその後昭和五十一年(1976)には、『広島県史』にこの「大坂御陳御人数附覚」が転載されて、だれでも容易に内容を確認できるようになった。これが今から三十年ほど前の、一九七〇年代半ばの状況である。
 ただし、言うまでないが、現存の「大坂御陳御人数附覚」(福山城鏡櫓文書館蔵)は写本である。しかも、小場氏末孫の小場兵馬による奥付を見るに、十八世紀半ばの宝暦二年(1752)に写したものが虫食いなどで文字が分らないところもあり、文政元年(1818)六月に改めて写しなおした、との記事がある。したがって、これは原本どころか、写本の写本、コピーのコピーなのである。
 とすれば、宝暦の写し、あるいは文化年間の写し、このいづれかの段階で、かの有名な宮本武蔵の名が挿入され、文書が改竄された可能性もある。古文書というものは、原本でないかぎり、写本には常にそういう可能性を含まれる歴史資料なのである。
 しかしながら、この現存写本において、中川志摩之助三男で宮本武蔵の養子になった三木之助の甥・宮本小兵衛の記録と符合するところがある点をみれば、これは原本の内容をほぼそのまま保存するものと、一応みなしうる。すなわち、中川志摩之助(三木之助父)、同求馬(三木之助叔父)、同刑部左衛門(三木之助兄)の三人の名があるのである。
 しかも宮本武蔵について、一切余計な文言がないのが、その原本たる性格を特徴づける。つまり写本段階での改竄者は、分限帳に新免無二を記載した黒田家文書のように、往々にして一言余計なことを附記して馬脚を現わすのだが、この文書にはそういうところもない。そういうわけで、当面、これを反証する有力な新史料が出現しないかぎり、これを武蔵史料として登録してよかろう。
 この「大坂御陳御人数附覚」のオリジナルがいつごろの作製か、それを推定するために、その内容を分析すれば、以下のことが言えるであろう。すなわち、――水野勝成のことを「信解院様」と記し、またその嫡子・勝重(美作守勝俊)を「作州様」と記す。したがって、これは水野勝成(1565〜1651)が没してのち、その子の勝俊(1598〜1655)に代替わりした後の時期で、しかも勝俊を院号で呼ばないから、勝俊が在世中の頃とみなしうる。
 そうして改めて歿年を確認してみると、勝成は寛永十六年(1639年)隠居して勝俊が家督相続、勝成の死は慶安四年(1651)であり、勝俊の死が承応四年=明暦元年(1655年)。とすれば、本書の作成時期は一六五一〜五五年の五年間ほどに絞り込める。これは武蔵が死んで六〜十年ほどの間のことであり、他の武蔵史料で言えば、泊神社棟札(1653年)や小倉碑文(1654年)の時期に重なる。したがって、この資料の想定原本は武蔵関係一次史料と同時期であり、このことから、我々はこれを武蔵史料として珍重する次第である。
 むろん、想定原本作成の一六五〇年代前半に「宮本武蔵」の名が後入れされた可能性がある。もしくはさらに後代の伝写段階での後入れの可能性もある。それら問題点はのこるが、他に有力史料が出ない現状では、武蔵は水野隊に属したとするのが妥当、としておく。
 しかるに、近年、奇怪な現象があって、武蔵研究史を知らないものか、武蔵が水野隊に属したことを新発見したかのごとく言う者が現れて、話は奇妙な混乱を見せている。我々のこの研究サイトにその点の問合せがあるから、ここで答えておけば、むろん、武蔵研究における経緯は上記の通りで、戦前、堀正平が『大日本剣道史』で水野家文書の所在を明示したこと、森銑三が尾張の『黄耈雜録』を典拠として明示したこと、および戦後の福山藩史料の発掘より他には、本件に関して何も新しいエポックはない。それが武蔵研究史における順序と経緯である。この点、事実誤認なきように、読者諸氏に注意を喚起しておきたい。
 ところで、水野勝成と武蔵の関係に関連して、もう一つ、従来知られていなかった資料を挙げるとすれば、下掲のものであろう。


















*【藤崎秘函】
《此度小笠原兵部太夫秀政に屬すとして藤江口に向ハれ、戰の始に十文字鎗折しかバ、佩刀をぬき、始終働かれし事なれバ、薙刀にあらざる事、分明也》(巻之一 先師上)











宮本武蔵遺跡顕彰会本『宮本武蔵』
明治四十二年刊


*【顕彰会本宮本武蔵】
《大阪陣の時、武藏は武者修行の身なれども、城下に馳せつき、豐臣方に加はり、徳川方を惱しゝこと少からざりきといへれど、その詳なることを知るべからず。
元和元年、大阪落城し、天下全く徳川氏に歸してよりは、武蔵は更に世を思ひ放ちけむ、居處暖まるに暇あらず、或は東に或は北に、さては南し西せしと思はるゝことは、こゝかしこにその事跡を傳へたるにて推測るべし》

*【森銑三】
《大阪陣に武蔵は大阪方だつたといふ。これは顕彰会本に書いてあるのであるが、顕彰会は一体何に拠つたのか更に分らない。吉川氏も大阪方だつたことを頭から信じてかゝつて、直木三十五が、大阪陣の武蔵が水野勝成の配下に在つたとしてゐるといふのを不審とし、「多くの宮本武蔵研究家は、西軍説に拠つてゐる」といふのを頼みに、「直木のこゝの説は、僕は、嘘だと云ひ捨てゝおく」と、事もなげにいひ放つてゐる。併し西軍説を執つてゐる研究家があるとしたら、それは顕彰会本を鵜呑にしてゐるだけの話で、武蔵が大阪方だつたか関東方だつたかを、多数決で極められたりしては堪まらない。勝成の下にゐたことは名古屋の松平君山がその随筆に書いて居り、それにはその時武蔵の用ひた旗差物の文句まで挙げてある。直木の見たか聞いたかしたのは恐らく別の文献だつたらうと思はれるが、何れにもせよ何の根拠もない西軍説に盲従したりするのは見ともない》(「『随筆宮本武蔵』」)
《顯彰会本「宮本武藏」には、大阪陣には豐臣方に加つたことになつてゐるが、尾張の学者松平君山の黄耈雜録には、武蔵はこの時、水野日向守勝成に屬して出陣したとしてある。恐らくこの方が正しかつたであらう》(『宮本武藏言行録』)

名古屋市鶴舞図書館蔵
松平秀雲(君山) 黄耈雜録

*【黄耈雜録】
《宮本武藏ハ兵法之名人也。十四五の時分剣術を得。父ハ無二と云、是又一流の遣ひ手也。是をバ古流と云。武藏我代に仕へしとぞ。十八歳にて吉岡清十郎と仕相し名を發し、廿余にて岩石と仕合、名を發す。大坂の時、水野日向守が手に付、三間程の志ないの差物に「釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者」と書ける、よき覚ハなし。何方にて有けん、橋の上にて大木刀を持、數人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりと人々誉ける》

*【趨庭雜話】
《宮本武蔵は拾四五歳の頃より剣術を得徳〔会得〕す。父ハ無二といふ。是又、一統の達人也。是を古流といふ。武蔵十八歳にて吉岡清十郎と仕合ひし、名を顕はし、二十五にて岩石と仕合し、弥々名を顕はしぬ。大坂の役、水野日向守が手に属し、三間程のしなへの差物に「釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者」と書きける由。させる功もなく、何方にてか橋の上にて大木刀を振廻し、數人を橋の左右へ薙伏せける有様見事なりたりしとぞ、人々誉めけるとなむ》

*【堀正平】
《元和元年の大阪夏の陣には三十二歳で大和口の東軍先陣水野勝成の麾下に屬して出陣した。水野家記録 》(『大日本剣道史』昭和9年)

*【大坂御陳御人数附覚】
水野隊は「惣御供騎馬 弐百三拾騎、惣御人数 三千二百人之由」という規模で、そのなかの「作州様附」、つまり水野勝成の嫡男・勝重(美作守勝俊)に従う十騎の武士のなかに、「宮本武蔵」の名が記載されている。

 「作州様附」のメンバー
        都筑右京
        近藤左大夫
        藤井八郎兵衛
        宮本武蔵
        牧馬之助
        丸井三大夫
        森源九郎
        水野勘兵衛
        牛抱平兵衛
        芦田十郎右衛門





賢忠寺蔵
水野勝成像
藤田文庫蔵
兵道鏡相伝状 水野日向守宛 宮本武蔵守藤原義輕
 これは例の「宮本武蔵守藤原義輕」名の「兵道鏡」相伝状である。他の「兵道鏡」は二十八箇条だが、こちらは裏も記載するから、条々増減あって三十八箇条である。この「兵道鏡」を相伝されたのが、なんと「水野日向守」、つまり水野勝成宛なのである。
 この写本は、後人が、書体を下手くそに模して、花押・印章まで模写したものである。だが、これにより、水野勝成宛の「兵道鏡」なるものが存在したことがわかる。
 相伝年月は、慶長十三年十二月である。それゆえ、この「宮本武蔵守藤原義輕」が武蔵なら、二十五歳のとき、水野勝成へこの「兵道鏡」を相伝したことになる。
 もちろん武蔵が水野勝成に「兵道鏡」を相伝したのが事実だとみなす者はあるまい。申すまでもなく、「宮本武蔵守藤原義輕」名の「兵道鏡」は偽書なのだが、それが出回るうちに、さらに水野勝成宛の「兵道鏡」を捏造した者があったらしい。
 しかし興味深いのは、偽書であっても、こうした文書が出回っていたことである。おそらく、武蔵と水野勝成との関係が周知のものであったから、これを捏造する者が出たのである。
 上述のごとく、尾張には、武蔵が大坂陳で水野日向守麾下で出陣したという伝説があった。とすれば、この水野日向守宛「兵道鏡」の原本も、尾張周辺で作成された可能性がある。
 いづれにしても、明治以後の近代とは違って、江戸時代までは、武蔵が大坂城方に属して戦い、敗残の兵となって諸国を流浪した、などというバカげた話はなかったのである。すくなくとも、このような水野日向守宛「兵道鏡」まで捏造されたのだから、水野勝成と武蔵の関係は深いとみなされていたのである。

*【兵道鏡相伝状】
《右條々、案圓明一代之秘術、積的傳之法、名兵道鏡、盡傳妙術、第子印可免許之者授之。古今無雙之兵法、後々末々迄、為不可失絶、先跡無類之秘事等、書付令置者也。縦予雖有直筆免状之手形、無此秘巻者、更不可用必状。此條々不学者、争決勝負。予雖為親子兄弟、依其覚悟、不授之。寔抛他事、執心神妙之旨、此一巻相渡者也。可秘々々
      宮本武藏守
         藤原義輕 [花押朱印]
    水野日向守殿 参
 慶長十三年十二月吉日節辰 》
 さて、武蔵は水野隊に属し、水野勝成の嫡子美作守の傍についた。とすれば、武蔵は大坂陣の戦闘でどのように行動したか。これは水野隊の戦記を見るにしくはない。
 たとえば『水野日向守覚書』である。これは寛永十八年(1641)五月の日付を有し、水野勝成が晩年記録したもの、という体裁である。他の大名への批判もあって、戦記としてそれじたいなかなか面白い文書である。
 夏の陣のおりに限って以下をみれば、水野勝成は大和口先鋒大将で、水野隊はまず、小松山で後藤又兵衛の部隊との激戦を展開している。日向守覚書によれば、片山村(小松山)の攻防戦で強敵後藤隊を追い崩した時、一番乗りが勝成、二番目に中山勘解由、三番目に勝俊(美作守)、四番目に村瀬左馬という順だという。中山勘解由と村瀬左馬(左馬助)は公儀御目付として「大坂御陳御人数附覚」に記載のある人物である。この目付は「横目」とも言い、諸大名の戦いぶりを監察する役で戦功の証人となる者らである。水野父子は小松山乗っ取りの一番乗りを果たし、最前線で勝俊は戦っているのである。
 このあたりの円明・玉手・片山村という村々には、すき間もないほど死体が転がっているというありさまであった。後藤又兵衛は伊達隊との戦闘で死んだが、その後遅きに失して薄田兼相・明石掃部・真田幸村・毛利勝永らの部隊が道明寺に到着。日向守覚書の記事に、《薄田隼人正をハ拙者もの河村新八郎討取申候》というから、薄田隼人の戦死は水野隊との戦闘である。また道筋は深田の中で石橋の小さい橋があって、ということだが、これは石川に架かる橋か、そこで本多左京の部隊が総崩れになったのを見て、水野父子(勝成・勝俊)と中山勘解由・村瀬左馬助の四人の武将も馬を下りて、鎗をもって戦ったという。白兵戦である。
 この道明寺河原の戦いは後世有名なので、前掲『黄耈雜録』のように、武蔵が橋の上で数人なぎ倒したという伝説もある。それはともかくとして、武蔵が「作州様附」で水野勝俊についていたとすれば、この白兵戦に加わっていたことになる。
 ついで、翌日の戦いでは、最初水野隊は家康旗本の先備についていたようだが、水野勝成は豊臣方が徐々に兵を増していく様子を見て、即刻開戦を主張したが容れられなかったらしい。水野隊は住吉にあって、そうこうしているうちに、本多忠朝が毛利隊と戦端を開き、本日の決戦となった。
 この日、真田幸村隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前勢松平隊とともに戦って茶臼山を落とし真田隊を敗走させる。このとき真田幸村が戦死した。《同苗美作守我等もの共を召連一番に黒門通八町目の町追越、天満の川端迄追打に仕候》とあるから、美作守勝俊の部隊はここでも真っ先に追撃している。そこで明石掃部(全登)の部隊と戦闘になった。とすれば、美作守勝俊についた武蔵は、明石隊との激戦の場にいたことになる。
 明石全登の部隊は船場にいて秀頼の出馬を待っていたが、天王寺・岡山の戦いで豊臣方が崩れてしまう。そこで毛利勝永隊の援護に向い、まず松平隊を攻め崩し、その後方にいた水野隊と戦闘になったのである。《味方たてられくつれ我等手前江逃懸申候間、其時馬より下り立麾を取比興者共何方江逃候哉、何も見知候間返し候得と申候得共、聞も不入みな崩れ懸り申候》とあるところの敗走した「味方」とは、松平隊のことであろう。明石隊と遭遇した水野隊は激戦を展開し、ついに明石隊を敗走せしめた。このとき、水野勝成は自ら鎗をとって敵兵を突き伏せ、家臣に首を取らせたという。それから、大坂城桜門へ進撃し、そこへ一番乗りの旗を立てたという次第。
 前年の冬の陣は不明だが、夏の陣では「大坂御陳御人数附覚」で美作守(勝俊)附きとするから、ここに記載のある「宮本武蔵」は、水野勝成嫡男の護衛と、その戦功を立てさせる役である。以上の水野隊の戦歴からすると、武蔵は、小松山・道明寺の戦いや天王寺決戦など決定的な戦闘に参戦していたことになる。とくに水野隊は、後藤又兵衛や真田幸村や明石全登という強敵相手の戦いを勝ち抜いた部隊である。武蔵は彼ら諸将の部隊と対決する場にいた。今後武蔵小説をものしたい連中には、根拠なき妄想で阿呆をさらすよりも、この事実を反映してもらいたいものである。

 大坂陣後の論功行賞で、水野勝成は諸大名中「戦功第二」と賞せられ、大和郡山六万石を与えられた。さらに水野勝成は、元和五年(1619)備後福山十万石へ移封、徳川譜代大名としてはじめて西国に出て前衛となったのも、勇猛の水野家ゆえであろう。水野家は当地で数代続いたが、しかるに元禄十一年(1698)五代勝岑が二歳で夭折し、無嗣改易、水野家は廃絶となってしまう。大名家の命運たるや、かくのごとし。
 ところが先祖の旧勲を無視できぬわけがあり、勝成の曾孫にあたる勝長(1679〜1704)が水野家跡目を許され、能登羽咋郡西谷に領地一万石を与えられた。翌年下総結城に転封、その後一万八千石まで加増され代々相続するのだが、立花峯均の当時、水野家は勝長や勝政の代であり、立花峯均が九州の大大名・黒田家の家中とあっては、印象の薄い水野家になっていたのであろう、立花峯均がその名を失念してしまったのにも、わけがあるというものである。
 つまり、黒田や細川など大大名の先祖ならいざしらず、大祖武蔵が、いまや物の数にも入らぬ極小大名水野家の先祖の麾下にあったなどとは記すわけにいかず、『峯均筆記』は、面倒なのでついつい韜晦をきめこんだふしもある。武蔵はだれの軍に属したか、聞いた立花峯均がそのことを忘れてしまったというのだが、しかし本当に忘却してしまったのか、あるいは失念のふりをした韜晦なのか、ここではこれ以上立ち入っても無駄であろう。
 なお、水野勝成との縁があってか、武蔵は、水野家臣・中川志摩之助の三男・三木之助を養子にして、大坂役後姫路城主となった本多家に仕官させている。水野との並々ならぬ縁でもなければ、中川家の息子を養子にすることなどなかったであろう。三木之助は本多忠政の嫡男・忠刻に仕え、忠刻死去にさいし殉死した。
 本書『峯均筆記』に、後でこの宮本三木之助が「造酒之助」という名で、登場する。それが、水野家臣・中川志摩之助の息子ではなく、何と西宮の馬子だというのである。『峯均筆記』の伝説たるや、かくのごとし。このあたりは、[サイト篇]姫路城下のページに詳しい。  Go Back

*【水野日向守覺書】
《片山の山を下へ追崩し申時、一番に拙者、二番目に中山勘解由、三番目に水野美作守、四番目に村瀬左馬、道筋ハ兩深田にて田の中に石橋の小き橋御座候。夫を乗越申時本多左京者共追崩され其橋の間まて逃懸り申時、右四人の者見申、馬より下り鑓を取懸り申候。左京おとな狸々緋の羽織着申、崩れ侯てのほりなとをも皆すて申候。其時左京者も一人其場にて被討申候。敵ハ崩れ口にて候間、はやく引上退候て藤井寺の山に備を立罷在候。薄田隼人正をハ拙者もの河村新八郎討取申候。又兵衛をハ正宗手にて被討取候共申、又ハ餘の手へ討申候共承候。拙者ハ不存候。其日の一番首拙者もの杉野數馬と申者取候て見せ申候。美作又兩人の横目衆に首をみせ申候。此働の通りを横目衆に直段に申候。首數多候得共是ハ一番首と申組頭の首にて候間、書付申候、則上様江言上仕候》
《其内に惣人數騒き懸り申候條、早々先手の衆かゝり候得と申候得共、承引不仕候。先手の者打捨て拙者旗本を崩し越前衆同前に懸、天王寺茶臼山の根を押込申候かゝり口にハ惣人數を先江押候て、拙者は其跡に罷越候。同苗美作守我等もの共を召連一番に黒門通八町目の町追越、天満の川端迄追打に仕候。其時黒門筋の道大人數にて候まゝ天王寺の石の鳥居を越し、せんは(船場)より大坂江はいり申道存候間、左へ乗あけ拙者ハせんはの道より城江乗込可申と存、其道筋江罷越候。其節せんはより明石掃部押上、前年藤堂和泉仕寄仕候所にて御座候、敵其道を押あげ申、一花鐵炮打其儘馬を入懸り申に付て、味方たてられくつれ我等手前江逃懸申候間、其時馬より下り立麾を取比興者共何方江逃候哉、何も見知候間返し候得と申候得共、聞も不入みな崩れ懸り申候。其時拙者もの廣田圖書・尾關左次右衛門と申者、鑓を合申候。(中略)又餘人のもの貳人我等所へ懸り申候を突まくり申候得者又一人金のなし打の甲に鳥尾の引まわしを付たる者、拙者右の方へ鑓を突付參候間、其場にて突倒し、側に成瀬久太夫と申もの居候而走り出、此首を討可申と申候間、其首久太夫に取せ申候。其後敵引退敵はなれ仕候。櫻の門江拙者のほり一本一番に立申候。幟奉行神谷久右衛門と申もの召連罷越候。二番に越前一伯様ののほり一本、此二本より外御座有ましく候》



大坂夏の陣水野隊関係地図




福山城下図
 

  07 松平出雲守
一 寛永ノ*比、武州、松平出雲守殿ノ家ニアリ。雲州ノ家頼ニ多力ノ兵法者アリ。雲州、彼ト武州トノ勝負ヲ望マル。(1)
 書院庭上ニテノ事ト云リ。カノ兵法者進ンデ庭ニ出、八尺餘ノ八角棒ヲ横タヘタリ。武州ハ常ノ使ヒ木刀二刀ニテ、書院ノ蹈段ヲ*隨分穏ニ下リラル。カノ兵法者、書院ノ正面ヲ横身ニウケ、武州陛ヲヽリ向ニ直ラルベシト思、待受タリ。武州、蹈段ノ二段目ヨリ、直ニ中段ノ位ニテ面ヲサヽル。兵法者驚テ八角棒ヲ取直サントスル所ヲ、左右ノ腕ヲヒシギツケテ強ク打。打レテヒルム所ヲ、即時ニ打倒シ、勝ヲ得玉フ。(2)
 雲州、甚セキ玉ヒテ、自身試闘可致ト所望アリ。武州、答テ曰、「自身不被成候而ハ、兵法ノ御合点ハ*難成。一段可然」ト申ス。雲州ノ家老用人等罷出、「御ハイリ被成候ヘ」ト再三申ストイヘ共、曾テ承引ナク、既試闘*ニ及ベリ。
 武州ハ二刀ニテ、三度マデ追込マル。三度目ニハ床ノ上ニ追上タリ。雲州、尚モヒルマズ、又、木刀ヲ振直サレシヲ、直ニ付合、子バリヲカケテ、石火ノアタリニテ、シタヽカニ當ラル。木刀二ツニ折レテ、一ツハ天井ヲ打拔タリ。雲州、驚怖シ平伏セラル。即、門弟トナリ、暫ク抑留アリテ稽古セラレシト云リ。(3)

一 寛永の頃(のこと)、武州は松平出雲守殿の家に滞在された。雲州(出雲守)の家来に多力の兵法者があった。雲州は、かれと武州との勝負を望まれた。
 書院の庭でのことという。かの兵法者は先に庭に出て、八尺〔2.4m〕余の八角棒を(地面に)横たえて(武蔵を待って)いた。武州はいつも使っている木刀二刀で、書院の踏段をゆっくり静かに降りられる。かの兵法者は、書院の正面に対し横身にして、武州が階段を降りて来て自分の前に直られると思い、待ち受けていた。(ところが)武州は、踏段の二段目からいきなり中段の位で(兵法者の)顔面を差された。兵法者が驚いて、八角の棒を取直そうとするところを、(武州は)左右の腕を挫ぐように強く打つ。打たれて怯むところを、即時に打倒し、勝ちを得られた。
 雲州(出雲守)は、ひどく興奮なさって、自分が(武州と)試合しようと所望された。武州が答えて曰く、「ご自身で試されなくては、兵法の御合点はなりますまい。ひとつ、やってみましょう」。雲州の家老用人らが出て来て、(出雲守を制止して)「お入りなさってください」と再三申すけれど、(出雲守は)まったく承知せず、すでに試合が始まってしまった。
 武州は二刀で、(出雲守を)三度も追い込まれた。三度目には(庭から)床上にまで追上げた。雲州はなおも怯まず、また、木刀を振り直されたのを、(武州は)すぐに付け合い、粘りをかけて、石火の当りで強烈に当たられた。(雲州の)木刀は二つに折れて、一つは天井を打ち抜いた。雲州は驚怖し平伏なさった。ただちに(武州の)門弟となり、しばらく(武州を)引き留められて、稽古をなさったという。

  【評 注】
 
 (1)寛永ノ比、武州、松平出雲守殿ノ家ニアリ
 この記事は、他の武蔵伝記にはみられない、『峯均筆記』のみにある逸話である。
 松平出雲守とあって、「雲州」とある。出雲守を雲州と呼ぶ。これは新免武蔵守という職名の武蔵を「武州」と呼ぶのと同じ仕儀であり、また武蔵を呼ぶ「武州」が、通称の「武蔵」ではなくフォーマルな「武蔵守」に対応する名であるのと同じ用例である。
 そこでまず、この「松平出雲守」はだれか、ということになるが、従来一般に、松平直政(1601〜1666)のこととみなしている。直政は結城秀康の三男、家康の孫で、出雲松江城主松平家十代の初祖にあたる。直政が松江へ転封となったのは寛永十五年(1638)、とすれば、本書で「寛永のころ」というのは、時期として合わないことはない。
 ところが、肝腎の問題がある。松平直政はたしかに出雲松江城主であったが、彼が「出雲守」であったかというと、そうではないのである。松平直政の職名は「出羽守」、あるいは後に「左近衛権少将」であったが、「出雲守」であったことはない。
 そこで改めてよく読めば、『峯均筆記』の記事には、《寛永比、武州、松平出雲守殿ノ家ニアリ》とのみあって、武蔵が出雲へ行ったとは一言も記されていない。だいたい、出雲松江城主なら、松平出雲守の「家」などとは言わない。したがって、松平出雲守=直政とみなした従来の説は、たんに「松平出雲守」とあるのを、出雲の松江城主として有名な松平直政がそれだと、粗忽にも勘違いしたのである。
 この誤りは、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』にはじまり、それをそのまま頂戴したらしい中里介山『日本武術神妙記』にしても誤謬を反復している。こういうことは武蔵評伝に限らずよくあることで、よく調べもしないで粗忽にも勘違いしたにすぎない。ところが具合の悪いことに、それが大正昭和と世間で普遍流通して、今日では何か自明の史実のようになってしまっているのである。
 そこで我々は、この点を改めて検証し直したのである。松江城主・松平直政は出雲守ではなかった。とすれば、寛永のころ「松平出雲守」だったのは、だれであったか?
 結論から先に言えば、該当する人物は、松平勝隆(1589〜1666)である。家康の旗本で大番頭をつとめ、大坂陣後、出世して元和三年(1617) 従五位下出雲守。寛永十二年(1635)から万治二年(1659)まで寺社奉行、長く幕府の要職にあった。寛永十六年(1639)には、上総佐貫城一万五千石(現・千葉県富津市佐貫)を与えられ、大名に列した。ようするに、寛永年間に「松平出雲守」といえば、この松平勝隆をおいてほかにはない。
 とはいえ、これだけでは心許ないので、この松平勝隆のことを洗ってみるに、この松平はいわゆる能見松平氏で、父は遠州横須賀城主二万六千石の松平重勝(1549〜1620)である。その松平重勝の長子が重忠(1570〜1626)で、これが跡を嗣いで、のち遠州から出羽上山城主に転じ四万石。そして重勝の五男が勝隆、我々の松平出雲守なのである。
 ところで、この能見松平氏、重勝→重忠と家を継いで、この重忠が養子をとって家を嗣がせる。この養子が、小笠原秀政(1569〜1615)の四男、すなわち小笠原忠政の弟・重直(1601〜1642)なのである。重直は、出羽上山、摂津三田を経て、兄・小笠原忠政とともに豊前へ転封、はじめ竜王、そして豊後高田へ転じ三万七千石。いづれにしても、重直は能見松平氏本家を嗣いだが、実兄の忠政を中心とする豊前・豊後における小笠原一族所領合計約三十万石の一角を形成したのである。
 かくして我々の探索によれば、なんと、武蔵と縁の深い小笠原忠政の親戚(弟の養子先)として能見松平氏はあり、それを出自とする松平出雲守とリンクしてしまったのである。松平勝隆からすれば、本家の長兄の養子が小笠原忠政の弟である。このような縁からすれば、《寛永比、武州、松平出雲守殿ノ家ニアリ》、つまり寛永のころ、武蔵が松平出雲守の家に滞在した、というのもありうる話である。
 こういう次第なので、松平出雲守=直政とする従来の通説を我々は否定し、『峯均筆記』のいう「松平出雲守」を松平勝隆としたわけである。この松平出雲守=勝隆説の発表は、このページが最初なので、諸君の注意を喚起しておきたい。我々の武蔵研究プロジェクトは、こうして通説化した謬説を覆しつつ、着々と進展してきたのである。

対馬宗家文書
宗対馬守宛寺社奉行書状 寛永二十年八月六日附
松平出雲守勝隆・安藤右京進重長の連名


 上掲書状は、寛永二十年(1643)朝鮮通信使が江戸に来た折のもので、松平出雲守勝隆が寺社奉行として、安藤右京進重長と連名で、朝鮮外交の仲介役である宗対馬守義成へ出した連署状である(対馬宗家文書)。内容は、文禄慶長の役、つまり秀吉の朝鮮侵略戦争の際に、捕虜として日本へ連行されてきた朝鮮人の身柄返還の件である。
 事件後半世紀も経っているが、当時まだこうした帰朝鮮通信使国希望の朝鮮人捕虜がいたのである。これは五年前の天草島原の切支丹一揆の後、海禁策が強化されたので、帰国の機会を失うことを危惧したものであろうか、帰国を願い出た者があったようである。このケースでは夫婦者と男子一人というから家族であろう。この一家三人を連れ帰るように、朝鮮通信使に言ってくれ、というのが、宗義成への指示内容である。こうした朝鮮人送還に、寺社奉行である松平勝隆が関与しているのが興味深いところである。
 松平勝隆は寛永十六年に、内藤氏の後釜で上総佐貫城主となり、寛文二年隠居、寛文六年(1666)死去、行年七十八。菩提寺はその名も勝隆〔しょうりゅう〕寺。この名の寺は現存するが、ただし元の場所から佐貫へ移転している。勝隆の墓は勝隆寺旧跡に今もある(千葉県富津市花香谷)。
 さて、この松平勝隆は寛永の当時、大番頭から奏者番・寺社奉行を歴任し幕府の要職にあったのだから、《寛永比、武州、松平出雲守殿ノ家ニアリ》というその出雲守の屋敷は、当然江戸にあった。それゆえ、この逸話は従来の通説のような出雲松江のことではなく、江戸での逸話であったとしなければならない。
 しかるに、寛永年間は二十年もあって長いので、これがいつの時期か特定はできない。松平勝隆が寺社奉行になる以前、まだ大番頭であったころのこととすれば、寛永年間前期であるが、それだと勝隆が四十代前半である。これも、とくに根拠はないが、松平勝隆は武蔵より五歳ほど年下で、ほぼ同世代だから、年老いてはこの逸話のような血気盛んなことはできないだろう、寛永年間後期ではないだろう、というまでである。
 ともあれ、まず話は、出雲守の家来に力の強い豪傑がいて、出雲守は、武蔵がこの兵法者と試合することを望んだというわけだ。この「多力の兵法者」と武蔵の勝負やいかに。  Go Back








出雲松江城






*【顕彰会本宮本武蔵】
《この頃の事にや、武藏出雲國松平出雲守の家に在りき、この家には、強力の兵法者が多く、一日出雲守武藏に命じて、家士の尤も強力の者と勝負せしむ》

*【日本武術神妙記】
《武藏が出雲國松平出雲守の邸に在つた時分、この家には、強力の兵法者が多かつたが、ある日、出雲守は武藏に命じて、家士の尤も強力の者と勝負をさせた》








*【小笠原・能見松平両氏関係図】

小笠原秀政┬忠脩─長次 豊前中津
     |
     ├忠政 豊前小倉
     |
     ├忠知 豊後杵築
     |
     └重直 ─┐
          ↓
 松平重勝┬重忠=重直 豊前龍王
     |
     ├重長
     |
     ├重則
     |
     ├重信
     |
     └勝隆 出雲守












*【寺社奉行書状】
一筆申入候。先年一乱之刻、従朝鮮国日本江、捕来候者之内、其成参度と申者、於有之者、被返下候様ニと此度申来候付、御穿鑿之処、當地罷有候夫婦者其外男一人、参度と申出候。依而男女以上三人、被差遣候間、信使江此段被申聞、召連参候様ニ可被仰通候。恐々謹言
          松平出雲守
   八月六日      勝隆[花押]
          安藤右京進
               重長[花押]
   宗対馬守殿 》









松平勝隆墓所
千葉県富津市花香谷

 
 (2)打レテヒルム所ヲ、即時ニ打倒シ
 書院の庭でのこと。かの兵法者が先に庭に出て、八尺余の八角棒を地面に置いて、武蔵が下りてくるのを待っている。八尺余の八角棒というから通常の棒術の道具より長大、また多力の兵法者というから大力、格闘術を体得した者であろう。
 武蔵はいつも使っている木刀二刀をもって、書院の踏段をゆっくり静かに降りてくる。かの兵法者は、書院の正面に対し横身になって、つまり武蔵に身体の側面をみせるかたちである。兵法者は、武蔵が階段を降りて自分の向いに来て直るものと思って、待ち受けている。
 ところが武蔵は、庭に降りる前に踏段の二段目から、中段の構えからいきなり顔面を差してきた。兵法者はこの不意打ちに驚いて、八角棒を取り直そうとするところを、武蔵は相手の左右の腕を(二刀で?)打ち砕くように強く打った。打たれてひるむところを、即時に打ち倒し、勝ちを得た。――勝負はこういう次第である。
 つまり、これは、どうやら五輪書水之巻にある「敵を打つに一拍子の打ちの事」の、《思ふ心のなき内を打つ》という記述の解説説話のようにみえる。ところが、五輪書の趣旨は違っているのは明らかである。
 《敵の太刀ひかん、はづさん、うたんと思ふ心のなき内を打つ拍子、是れ一拍子なり》とあるが、とくに《敵のわきまへぬ内に心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、如何にも早く直に打つ》という。これが武蔵の先制攻撃の要旨である。
 改めてよく読めば、打撃するタイミングの話である。しかしそれはまず、敵の攻撃の心が起きる前に、機先を制して攻撃することである。敵の心が起動する以前の打撃、つまりは、字義通りの「不意打ち」である。
 この拍子は、いかにも先制攻撃であるが、早ければ早いほどよいというわけでもない。ようは、敵の心の動きを読んで、攻撃の機先を制することである。
 武蔵流は、拍子を外す拍子、つまりは敵の攻撃リズムを撹乱し、失調させることを重視していたらしい。ところが、攻撃の最中ではなく、攻撃開始の前に拍子を外す――とは変な話かもしれないが、まさにそれが先制攻撃の要諦なのである。
 武蔵伝説では、往々にして五輪書の記述内容を説話化してしまうものがある。つまり、武蔵流の教授にあたって、こういう逸話を交えて教えたものらしい。逸話があれば、五輪書の内容をわかりやすく説明できるのである。
 『峯均筆記』のこの先制攻撃逸話もその気色が濃厚である。我々が注意しなければならないのは、こうした武蔵伝説の口碑が、武蔵流末の教授シーンで発生したらしいこと、そしておそらくは、たとえば五輪書のこの「一拍子」の段のような教えが、そのテーマになっていたのであるが、のちにこれが逸話として独立して語られるようになったのである。
 しかしながら、近代の武蔵評論には、この先制攻撃を武蔵の「不意打ち」として、いわば「卑怯な武蔵」という像を捏造するものがあった。ところが、『峯均筆記』にはこの件についてそんな意味づけはしていない。何のコメントもなしに、さも当然の如く、次の逸話へ話が移る。
 いうならば、この逸話は、「試合でいざ立ち合う、という前にも油断するな、実戦においてはそんな明確な仕切りなどないぞ」という教訓以上のものではない。言い換えれば、「いつでも油断するな、油断大敵だぞ」という、およそ説話化された民話レベルの教訓譚なのである。
 ようするに『峯均筆記』は、意外な行動に出て兵法の何たるかを教える武蔵を語ろうとしたにすぎない。しかも、この多力の兵法者との試合は、実は次の逸話の前段以上のものではない。  Go Back












*【五輪書】
《一 敵を打つに一拍子の打ちの事
 敵を打つ拍子に、一拍子〔ひとつひやうし〕と云ひて、敵我あたる程の位を得て、敵のわきまへぬ内に心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、如何にも早く直に打つ拍子なり。敵の太刀ひかん、はづさん、うたんと思ふ心のなき内を打つ拍子、是れ一つ拍子なり。此拍子能く習ひ得て、間の拍子を早く打つ事鍛練すべし》(水之巻)

 
 (3)雲州、驚怖シ平伏セラル
 殿様の出番である。出雲守は、家臣の兵法者があっさり打ち倒されたのを見て、こんどは自分が勝負を、と言い出した。なかなか元気のある殿様だが、寛永あたりまでは、殿様でもこんな武勇の者がいたのである。とくに、この出雲守が松平勝隆だとすれば、旗本一番組大番頭として戦場のつわ物であった。
 武蔵、答えて曰く、「ご自身で試されなくては、兵法の納得はまいりますまい。ひとつ、やってみましょう」。すると、出雲守の家老用人らがあわてて出て来て、殿様を制止する。怪我でもされたら大事だ、「やめてください、もどってください」と再三言うけれど、出雲守はまったく聞く耳をもたない。
 このあたりは、無謀な振舞いをする殿様と狼狽する重臣側近、という設定で、いささか滑稽な場面である。説話化はかなり進んでいるのである。
 というわけで、すでに試合が始まってしまった。武蔵は二刀で、出雲守を三度追い込んだ。打たずに、ただ追い込むのである。三度目には、出雲守を庭先から床上にまで追い上げた。出雲守はなおも怯まず、またもや木刀を打ち込んだのを、武蔵はぴたりと木刀を付け合い、粘りをかけて、石火〔せつか〕の当りで出雲守の木刀を強烈に打った。すると、出雲守の木刀は二つに折れて、一つは天井を打ち抜いた。
 武蔵のこの強烈な打撃に、出雲守は驚怖し、その場に平伏した。出雲守はすぐさま武蔵の門弟となり、しばらく武蔵を屋敷に留めおいて、稽古をしたという――という話である。
 五輪書を読んだことのある者なら、すでに気づかれていると思うが、この「粘りをかける」「石火の当り」は五輪書の記述にある言葉である。前にも述べたように、武蔵伝説では、往々にして五輪書の記述を説話化してしまうものがある。この『峯均筆記』の逸話は、とくにその気色が濃厚である。
 このようなことが実際にあったのかどうか、それはわからない。石火の当りで、このように木刀が折れるのはわかるが、その片割れが天井をぶち抜くほど上に飛ぶ、というのは、よくよくイメージしにくい場面である。逆に、この逸話のままではなく、松平出雲守が武蔵の弟子になったのが事実で、その由来譚としてこの逸話が発生した、とすることも可能である。
 そのとき、この「松平出雲守」が松平勝隆だとして、これが寛永のいつのころか特定はできないが、前述の通り、年老いては、この逸話のような、武蔵と勝負するなどという血気盛んなことはできないだろうから、寛永後期ではないだろう。寛永年間の前期だとすれば、勝隆は四十代前半、それなら可能性があるが、これも、とくに根拠があるわけではない。
 この松平出雲守の逸話は、同じ筑前二天流でも、早川系には聞き伝えがなく、この『峯均筆記』にのみあるものであり、むろん肥後系の伝記、『武公伝』『二天記』にはない。とすれば、これは立花峯均が独自に聞いた話である。吉田実連の知らない話で、おそらく立花峯均が柴任美矩あたりから聞いた話であろうし、オリジナルの伝説は、松平出雲守家周辺にあったのだろう。それは「松平出雲守は武蔵と直接試合したことがある」という伝説であったろうが、それが枝葉を伸張して、筑前の二天流における講話シーンで、五輪書用語を解説する逸話として組織されるようになって、ここにそれが収録されたもののようである。
 なお、『峯均筆記』では、このように、前段の慶長末の大坂陣の話から、いきなり寛永期に時間が飛んでしまう。つまり、元和年間の事蹟が見当たらないのである。
 元和年間は武蔵が播州で本多家や小笠原家と関わった時期で、しかも姫路で三木之助を、明石で伊織を養子にしての宮本家を創設したのであるが、『峯均筆記』にはそんな情報はなかったようである。それで、後段にみるように、二人の養子について、およそ笑止な伝説を記すのだが、元和年間の事蹟が抜けているというこのあたり、『峯均筆記』の伝記内容の貧困さが露呈されているとともに、その情報限界を示すところである。言い換えれば、九州筑前という立花峯均のポジションにおいては、武蔵伝記情報はかほどに少なかったのである。
 また、言うまでもないことだが、この松平出雲守邸での試合はじめ以後の試合は、すべて、例の「六十余度の勝負」以後のもので、この「六十余度」の対戦キャリアには含まれない。武蔵自身の語るところによれば、「六十余度」の対戦は二十八〜九歳頃までの事蹟である。そして「六十余度」の対戦は生命を賭した決闘勝負だが、それ以後は、「だれもよろしい。遠慮せずに兵法を試みなさい」という、たんなる「ゲーム」である。武蔵に敵う相手はもう居なくなって、爾後二十年自己修行を持続したのである。  Go Back
















*【五輪書】
《一 ねばりをかくると云ふ事 粘りをかくるなり。敵も打ちかけ、我も太刀打かくるに、敵受くる時、我太刀敵の太刀に付て、ねばる心にして入る也。ねばるは、我太刀敵の太刀と離れがたき心、餘り強くなき心に入るべし。敵の太刀に付て、ねばりをかけ入る時は、いかほど靜に入りても苦しからず。ねばると云ふ事と、もつるゝと云ふ事、ねばるはつよし、もつるゝはよはし。此事分別有べし》(水之巻)
《一 石火の當りと云ふ事 石火の當りは、敵の太刀と我太刀と着合ふほどにて、我太刀少しも上げずして、如何にも強く打なり。是は足もつよく、身もつよく、手もつよく、三所をもつて早く打べきなり。此打度々打習はずしては打がたし。よくよく鍛練すれば、つよく當るものなり》(水之巻)


 
  08 塩田浜之允
一 武州門弟ニ鹽田濱之允ト云者アリ。仕物、取籠者ナド、節々致シタル者也。細川越中守殿ニ有附、肥後ニ住居ス。(1)
 武州、或時、肥後へ下向、濱之允ガ宅ニ旅宿セラル。其比ノ諺ニ、「公方様カ、柳生殿カ、越中殿カ」ト申程ノ兵法者也。近仕ノ士ニ、打太刀ノ者三人有シトカヤ。越中守殿、三人ノ輩ニ、「兵法天下無雙、新免武藏守ト云者、鹽田濱之允ガ家ニ旅宿スト云リ。其方共ハ存タリヤ」ト被尋。三人言葉ヲ揃ヘ、「御機嫌ヲ見合セ、是ヨリ可申上ト存候折柄、御尋被成。御意ノ如ク、濱之允ガ宅ニ*罷有ヨシニ候。相越、兵法所望仕度」旨申上ル。越中殿被聞召、「一段、尤ノ事也。早々相越、兵法ヲモ試候得」ト也。(2)
 三人悦ビテ鹽田ガ宅ニ至リ、案内ヲ報ズ。濱之允ハ軽キ勤ノ者、三人ハ出頭人故、鹽田甚驚キ、「何等ノ御事ニテ御來儀候ヤ」ト申ス。「別儀ニテハナシ。武州、貴殿宅ヘ旅宿ノ通リ承、御近付ニ罷成度、伺候」由申ス。鹽田早々武州へ其旨ヲ達ス。座敷へ三人ヲ通シ、無程武州被出合、對面アリ。武州*被申ハ、「我等ヘ御逢アリ度トアレバ、別ノ御用ニテモ*有マジ。兵法御覧被成度トノ御事可爲。御望ニ任セ可申候」ト被申。三人謹テ、「御尤ナル御事」ト計リ答テ、其外返答ナク、追付暇乞シテ退出ス。
 濱之允ガ門前ニテ、三人*目ト目ヲ見合ハセ、「偖々、臆シタル事カナ。名人ニ位ヲトラレ、兵法所望ノ事、曽テ*不申出。不及是非事共、罷帰、主君ヘ可申上様モナシ。イカヾ可致」ト云フ。一人ガ云、「兎角ノ問答ニ不及。立戻リ、其趣ヲ可申」トテ、門前ヨリ立歸リ、又濱之允ヲ呼出シ、「武州ヘ、只今ハ初テ御目ニ掛リ候故、兵法御所望不申。御相手ニ罷成度旨、申達候ヘ」ト也。鹽田其旨趣ヲ相達ス。(3)
 武州早速出ラレ、「御遠慮ニ不及儀、早々御立合候ヘ」ト申テ、常ノ木刀二刀ニテ出合ル。板縁ノワレタル所ニ大太刀ノ先ヲ差入レ、ヒラ/\ト太刀ヲ左右ニ押タハメ、待居玉フ。
 三人ノ内、就中巧者ノ人、庭ヘヲリ立。某甚之允トカヤ申ス[三人ノ姓名聞候ヘ共、忘之]。武州モ庭上ヘヲリ立、太刀ヲ上段ニ搆、靜カナル位ニテ懸ラル。甚之允モ木刀ヲ前ニ搆テカヽリ來ル。武州上段ヨリ直ニ頭ニ打込ルヽ。頭ニ當リタルカト見ヘシガ、月代ノ際ニテ打留ム。甚之允、尻居ニ打スヘラル。二度目ニハ、武州上段ヲ廣ク大キニ搆、流水ノ打ニテ横ヨリ足ヲナグラル。木刀ヲ越テ、チウニカヤル。武州二足三足シサラルヽ所ヲ、甚之允フツト起アガリ、直ニ打込ム。武州入込テ、身ノ當リニテ當ラル。二三間ハケノキテ、ノツケニ倒レ息絶タリ。漸ニシテ蘇ル。
 殘ル兩人申様、「甚之允ハ高弟ニテ巧者タリ。中々兩人抔ガ立合可申様モナシ」トテ辭退ス。武州被申ハ、「誰人ニテモ打合テ試ラレ候ヘ。少モ遠慮ニ不及」ト有ケレ共、堅ク斷ヲ申テ、三人一同ニ退出ス。(4)
 直ニ登城シテ、右之趣演説ス。越中守*殿被聞召、「左程ニハ無之モノカ。不審ナリ。兎角、自身不試シテハ知レ難シ」ト被仰。
 是ハ、武州老年肥後ヘ被下シ時ノ事ニテハナシ。夫ヨリ前ノ事ナリ*ト云リ。(5)

一 武州の門弟に塩田浜之允という者があった。仕物・取籠者(逮捕・籠城者排除)などを時々やった者である。細川越中守殿〔忠利〕に(仕官を)ありついて、肥後に住居していた。
 武州がある時肥後へ下向し、浜之允宅ヘ宿泊なされた。〔細川越中守は〕その頃の諺言に、「公方様か、柳生殿か、越中殿か」と申すほどの兵法者だった。近仕の家士に、(越中守の稽古の相手をする)打太刀の者が三人あったとか。越中守殿が、その三人の連中に、「兵法天下無双、新免武蔵守という者が、塩田浜之允の家に泊まっているという。その方どもは、知っておるか」と尋ねられた。三人は言葉を揃え、「〔越中守の〕ご機嫌を見合せ、これから申上げようと思っておりましたところ、お尋ねになりました。御意の如く、(武州は)浜之允の家に居るそうです。(我々が)行って、(武州に)兵法を所望したいのですが」と申上げる。越中殿はこれをお聞きになって、「それはけっこうなことだ。早々に行って兵法を試してみなさい」とのことである。
 三人は悦んで塩田宅まで行き、案内を報じた。浜之允は軽輩の下士、三人は出世頭の側近ゆえ、塩田は甚だ驚いて、「どんなご用があって、お越しになったのでございますか」と尋ねる。「ほかでもない。武州が貴殿宅ヘ宿泊されておると聞いて、お近付きになりたくて伺った」とのことである。塩田は早々に武州へその旨を知らせる。座敷へ三人を通し、ほどなく武州が現れて、対面された。武州が申されるには、「私にお逢いになりたいとあれば、別のご用でもありますまい。(私の)兵法をご覧になりたいとのことでしょう。お望み通りにしましょう」。(ところが)三人はかしこまって、「その通りです」とばかり答えて、その外に返答がなく、そうこうしているうちに、(武州に)暇乞いして退出してしまった。
 浜之允宅の門前で、三人は目と目を見合せ、「やれやれ、ビビってしまったなあ。名人に気圧されて、兵法所望だとはどうしても言い出せなかった。しかたのないことだが、これでは帰って主君へ報告することもできない。どうしようか」と云う。一人が云う、「あれこれ問答していてもしようがない。戻って、兵法所望だと言おう」と、(三人は)門前から戻って、また浜之允を呼出し、「さっきは初めてお目にかかりましたので、武州へ兵法御所望を言い出せなかったが、(やはり)お相手にならせていただきたいと、申し伝えてほしい」とのことである。塩田はその旨趣を(武州に)伝えた。
 武州は早速出てこられ、「遠慮なさる必要はない。早々にお立合なさい」と言い、いつもの木刀二刀で試合される。(武州は)板縁の割れた所に大太刀の先を差入れ、ひらひらと太刀を左右に押し撓めて、待っておられる。
 三人のうち一番巧者の人が、庭へ降り立つ。某甚之允とか申す[三人の姓名は聞いたが忘れてしまった]。武州も庭へ降り立ち、太刀を上段に搆え、静かな姿勢で懸かられる。甚之允も、木刀を前に搆えて、懸かって来る。武州は上段からまっ直ぐに頭に打込む。頭に当たったかと見えたが、月代の間際で打ち留めた。甚之允は打ち据えられて、尻もちをつく。二度目には、武州は上段を広く大きく搆え、「流水の打」で横から足を払うように打つ。(甚之允の体が武州の)木刀の上を越して、宙に返る。武州は二足三足後へ退がる。すると甚之允が不意に起上がり、まっ直ぐに打込む。武州は入り込んで、「身の当り」〔体当り〕で当たられると、(甚之允は)二、三間(4〜5m)もぶっ飛んで、仰向けに倒れ、気絶した。そして、ようやくにして息を吹き返した。
 残る二人が申すには、「甚之允は高弟で巧者です。なまじ(我々)両人などが立合い申すべくもありません」といって辞退した。武州が申されるには、「誰でも打ち合ってお試しなさい。少しも遠慮に及びません」とのことだが、(両人は)堅く断りを申して、三人一緒に(塩田宅を)退出した。
 (三人は)すぐに登城して、以上のことを説明した。越中守殿はお聞きになって、「そんなはずはないだろう。不審である。ともかく、自分で試してみないのでわからんな」と仰せられた。
 これは、武州が老年になって肥後へ下られた時のことではない。それより前のことだという。

  【評 注】
 
 (1)武州門弟ニ鹽田濱之允ト云者アリ
 この段は、かなり長い逸話である。まず、武蔵の門弟に、塩田浜之允という者があった、ということである。異本には「浜之丞」とも記す。この塩田について、『峯均筆記』は、仕物・取籠者、つまり捕手術による逮捕・籠城者排除などを時々やった者であり、細川越中守(忠利)に仕官して、肥後に住居していた、と記す。
 しかし『峯均筆記』だけでは、この人物が何者か、よくわからない。そこで、塩田が住んでいたという肥後の武蔵周辺伝承を参照すれば、これはたぶん、塩田松斎(浜之助清勝)のことであろうと、当たりがつく。「浜之允」「浜之助」の相違はあるが、筑前系の伝承では、塩田は「浜之允」「浜之丞」という名になっていたようである。
 『武公伝』によれば、塩田浜之助は細川三斎(忠興)から五人扶持に十五石を賜り、捕手の師範であったというし、『二天記』も同様に、塩田は、棒捕手の上手で、忠興から五人扶持十五石を賜って、家中の諸士に指南した、とある。とすれば、塩田は、細川忠利の父・忠興の代から、棒捕手術の師範をつとめていた、ということになる。
 『峯均筆記』には、「細川越中守殿にありつき」とあるから、塩田が細川家に召抱えられたのは、忠興ではなく忠利の代から、ということになる。塩田関係の記事については、必ずしも地元肥後の伝承の方が信憑性があるというものではないが、この件に関する限り、細川忠利の父・忠興の代から、棒捕手術の師範をつとめていた、という肥後系伝記に分があろう。
 ともあれ、肥後の細川家中の士に、捕手術師範をしていた塩田浜之助、松斎を号した者があり、彼は武蔵の門弟で、棒術の名人だったらしい。では、この塩田松斎は何者かとなると、はなはだあやしいのである。さして具体的な伝承はない。
 明治の『續肥後先哲偉蹟』(巻一)に、《鹽田松齋 名は清勝、濱之助と稱し、松齋と號す。新免武藏の門に入り、武術を善くす。慶安元年六月二日没す。享年七十餘。飽託郡池田村虆林〔ツヾラ〕に葬る》とあり、続いて野田某による墓誌「塩田清勝先生石塔銘」(天明二年建碑)を記載している。その記事によれば、塩田が播州の産で、細川三斎に丹後で仕え、その後豊前へ、肥後へと転封に従い、忠利・光尚まで三代にわたって細川家に仕えたという。
 この記事によれば、慶安元年(1648)に七十余歳で歿というから、生れは天正五年(1577)あたりであり、武蔵より七〜八歳年長である。その年齢からすれば、細川氏丹後時代から、つまり関ヶ原役以前から仕えていたという話にも、いちおう妥当性はある。
 次の問題は、塩田が播州産だという点である。この『續肥後先哲偉蹟』の記事に、塩田が播州之産とあるところから、綿谷雪は『武芸流派大事典』で、播州塩田村の人としているが、塩田姓から塩田村を探すという方法は悪くないとしても、どういうわけかその塩田村を「佐用郡本位田字塩田」としている(『考証武芸者列伝』も同様)。これには根拠はないし、間違ってもいる。当地は佐用郡本位田村であり、塩田村とは言わない。とすれば、この塩田村はどこなのか。
 この点に関しては、[サイト篇]姫路城下のページに記事があるので、繰り返さないが、塩田の産地・播州塩田村に関して、我々はこれを飾西郡塩田村(現・姫路市夢前町塩田)に比定している。
 塩田松斎は、出身地の塩田を姓とした。彼が、なぜ「松斎」を号したか、理由がある。それは、松斎の「松」とは赤松氏に因んだものであったからである。この播州塩田村は、赤松氏の居城・置塩城の近辺であり、彼の父祖まで赤松宗家に仕えていたものらしい。
 では、いつ塩田松斎は塩田村を出たのか。これについて当時の播磨の状況を勘案すれば、置塩城の破却は天正九年(1581)であるから、塩田松斎の父親が置塩城赤松宗家の家士だったとすれば、このころまでに赤松家臣団はいったん解散したはずで、彼が播州を立退いたのは、天正八年あたりかもしれない。塩田松斎が生まれたのは天正五年あたりになる勘定だから、塩田村を出たのはそれ以後、つまりこのケースでは、塩田松斎はまだ幼児であった、ということになろう。この時期、赤松則房は各地に転戦しているから、塩田松斎の親も播磨を出て他国で参戦していたのかもしれない。長じて塩田松斎が細川忠興に仕えるようになったのは、塩田松斎の年齢からして天正末(一五九十年代半ば)より後、しかも細川氏の丹後時代からだとすれば、慶長五年(1600)以前であろう。
 したがって、言うまでもないことだが、塩田松斎が新免無二から教えを受けたとする肥後の伝説には難がある。塩田松斎は天正五年あたりの生れで、天正後期には丹後へ行っており、他方、新免無二は、泊神社棟札によれば、天正年中に九州で歿しているからである。肥後の伝説のごとく、塩田松斎が「宮本」無二齋に《捕縛之道》を学んだというのなら、この伝説自体が誤りであるか、あるいはその「宮本」無二齋は「新免」無二とは別人とならざるをえないだろう。
 塩田松斎の来歴がこのようなものだとすれば、武蔵が揖東郡宮本村に生まれた頃、塩田はすでに播磨を出ていたことになる。揖東郡と飾西郡は隣接する地域、このように近くで生まれた両人が後に遭遇して、師弟となるのは、同郷とはいえ、やはり奇縁と謂うべきであろう。  Go Back








*【武公伝】
《鹽田濱之助ハ三斎公ヨリ五人扶持ニ十五石賜リ、捕手ノ師ナリ》

*【二天記】
《鹽田濱之助ト云者、棒捕手ノ上手也。忠興公ヨリ五人扶持十五石賜リ、諸士ニ指南ス》



*【塩田清勝先生石塔銘】
《鹽田清勝先生石塔銘  野 田 某
鹽田濱助、藤原清勝先生、號松齋、播州之産也。爲人果毅雄俊、廉潔正直也。游新免武藏玄信二天一流道樂先生神祇之門、而學其父日下無双兵術者宮本無二齋信綱君捕縛之道、鍛之錬之、未至精妙焉。(中略)自是而後、爲天下無双當理流手縛之祖、又爲鹽田流祖也。清勝先生、仕三齋公於丹後國、賜食禄、賞賜備前道永刀。常辱懇情、移豐前、移肥後、仕忠利公、仕光尚公。於是、此道偃然行于國、赫然鳴于世矣。以慶安元戊子夏六月初二日、卒于岩楯之荘。享年七十餘。(後略)》(『續肥後先哲偉蹟 巻一』所収)

*【武芸流派大事典】
《塩田流(棒、小具足)
 祖は播州塩田村(げんざい兵庫県佐用郡本位田字塩田)の人、塩田松斎清勝。通称は浜之助、また浜助ともあり》


 [サイト篇] 姫路城下 



置塩城址


田辺城址 京都府舞鶴市


塩田松斎関係地図
 
 (2)武州、或時肥後ヘ下向、濱之允ガ宅ニ旅宿
 武蔵が肥後へやって来て、塩田浜之允の家に宿泊したおりの話であるという。
 細川越中守というのは細川忠利(1586〜1641)、肥後熊本城主である。彼はその頃の諺言に、「公方様か、柳生殿か、越中殿か」というほどの兵法者だったと記す。
 この「公方様」は徳川将軍のことで、いづれにしても話は寛永期のことだろうから、これは三代将軍徳川家光(1604〜1651)のことであろう。
 また、「柳生殿」とは柳生又右衛門宗矩(1571〜1646)のことで、家康以来将軍側近の旗本、ことに家光の代には幕府の要職に登り、五十九歳(寛永六年)従五位下但馬守、六十二歳(寛永九年)から惣目付をつとめ、さらに六十六歳(寛永十三年)には一万石を得て、大名にまで出世した人物。近代では剣豪小説などで有名である。
 戦前、直木三十五などが、柳生但馬守宗矩は万石大名になったのに、宮本武蔵は細川家で三百俵(?)、これも見ても当時武蔵の評価は低かった、などという珍説を披露したものだが、阿呆な話である。柳生宗矩が万石大名になったのは晩年のこと、しかも家康以来の三代にわたる将軍側近としての忠誠と、諜報の政治的手腕に対する評価である。一箇の兵法者としての芸能への評価ではない。
 ともあれ、将軍家光も武芸好きなら、元祖の家康も同じく武芸好きで、武芸諸流派から印可を受けている。家康・秀忠・家光が柳生宛に出した誓紙が柳生史料に残っているのも、奇特なことであるが、柳生は主人へ印可状を出すのを忘れなかったようだ。
 印可は兵法家からの献上物である。権力があれば何でも手に入る。それは現代でも変らない。だがこれが形式的な印可かというと、そうでもない。文武両道は武家の法度であり、将軍や大名が率先して武芸や学問の嗜みあることを示すのである。
 細川忠利も、柳生新蔭流をはじめ武芸諸流派を学んでいる。これは大名の嗜みであって、とくに珍しいものではない。祖父の幽斎や父の三斎は、武芸のほかにも学芸や芸術に造詣が深かったが、この三代目はそちらの方面はすこし足りなかったようである。それでも、武芸では大名連の中では特記されるものがあったらしい。
 細川忠利は柳生宗矩に柳生流兵法を学び、寛永十四年(1637)には柳生宗矩から『兵法家伝書』及び柳生流印可状を授与されている。そのように兵法に熱心な細川忠利であるし、小笠原忠政の義弟という関係もあって、以前から武蔵の兵法にも関心をもっていたはずである。ところが面白いことに、『峯均筆記』のこの説話では、忠利は武蔵のことをよく知らない、という設定のようである。
 それで、話は、この忠利が、武蔵が城下へ来ていると聞いて、いつも稽古の相手をしている側近の3人を差し向けたというわけである。  Go Back





徳川家光 新陰流誓紙
柳生宗矩宛 寛永6年




柳生但馬守宗矩坐像
奈良市柳生 芳徳寺蔵
 
 (3)三人悦ビテ塩田ガ宅ニ至リ、案内ヲ報ズ
 主人忠利から試合の許可を得て、三人は悦んで、塩田の家宅にやってきた。「三人悦ビテ」とあるのは、有名な名人、あの宮本武蔵と仕合できると、喜んだものだろうか。多少とも武芸に心得のある者なら、それはもっともなことである。武芸にちょっとうるさい殿様の稽古の相手をするというからには、家中でも相当の遣い手でもあろう。
 しかしながら、「武蔵が城下に来ておるようだが」と主君から水を向けられると、家臣としては、早速その意を先取りして、「武蔵と試合をしてみたい」と自分から言い出さざるをえない、という様子もある。こちらの背景は、どちらかというと後世の伝説環境である。
 三人の突然の来訪を受け、塩田は驚いてしまった。それというのも、塩田は棒捕手の師範、逮捕術を細川家士に教えていたということだが、『武公伝』だと五人扶持十五石。この禄高からすると、小身の士である。師範といっても「芸者」なので、行政官僚ではないから、こんな軽い身分なのである。
 そんな小身の家士が殿様の側近たちの来訪を受けた、というわけで、塩田は驚いたのである。《濱之允ハ軽キ勤ノ者、三人ハ出頭人故、塩田甚驚キ》というのはそこである。
 塩田はびっくりして、「どんなわけで、お越しになったのでございますか」と尋ねると、「ほかでもない。武蔵先生が貴殿の家ヘ宿泊されておると聞いて、お近付きになりたくて参った」と云う。塩田は早々に武蔵へその旨を知らせる。座敷へ三人を通し、ほどなく武蔵が現れて対面した。武蔵がいう、「私にお逢いになりたいとあれば、別のご用ではありますまい。私の兵法をご覧になられたいとのことでしょう。お望み通りにしましょう」と云う。ところが、三人はかしこまって「その通りです」とばかり答えて、その外に返答がなく、そうこうしているうちに、暇乞して退出してしまった。
 ようするに、三人は武蔵に対面したはよいが、武蔵の方から試合を言い出されて臆してしまった、というのが、ここでの話の設定で、コミカルな逸話になっている。
 塩田の家を辞した三人だが、その家の門前で目と目を見合わせ、「やれやれ、ビビってしまったなあ。名人に威圧されて、兵法所望の事を言い出せなかった。しかたのないことだが、それでは、帰って主君へ報告することもできない。どうしようか」と云う。一人が云う、「あれこれ問答していてもしようがない。もう一度戻って武蔵に兵法所望だと言おう」と、三人は門前から戻って、また塩田を呼出し、「武蔵先生へ、さっきは初めてお目にかかったので、兵法御所望だと言い出せなかったが、お相手になりたいとの旨、申し伝えてもらいたい」。
 これは、殿様から派遣されてその役を果たせない、ということでは帰れない、というわけである。「兵法御所望」とは殿様のご所望なのである。お前たち、兵法天下無双とかいう武蔵の兵法を試して来い、という殿様の意向があったのである。  Go Back




熊本城
 
 (4)武州早速出ラレ
 三人が再び戻って、塩田に話を通すと、早速武蔵が出てきた。「ご遠慮には及ばないので、早々にお立合なさい」と言って、いつもの木刀二刀で出合う。濡れ縁にでも座っていたのか、板縁の割れた所に大太刀の先を差入れ、ひらひらと太刀を左右に押し撓めて、待って居る…。
 このあたりも、よくできた話で、とくに《板縁ノワレタル所ニ大太刀ノ先ヲ差入レ、ヒラヒラト太刀ヲ左右ニ押タハメ、待居玉フ》というのは、ヴィジュアルなディテールがうまいが、効果が利きすぎて、小説じみた調子である。『峯均筆記』がしばしば見せるところであるが、伝説における口承の重層が窺える特徴である。
 以下は、武蔵が三人のうち一人と試合した様子である。筆者は、三人の姓名は聞いたが忘れてしまったという。それでも、武蔵と試合したのは甚之允とかいう者、これは筆者は覚えていたらしい。
 相手の用意ができると、武蔵も庭上へ降り立ち、太刀を上段に構え、静かな姿勢で懸かる。甚之允も、木刀を前に構え懸かって来る。武蔵は上段からまっ直ぐに頭に打込む。頭に当たったかと見えたが、月代の間際で打ち留めた。甚之允は打ち据えられ尻もちをつく。これで初回の勝負あった。
 二度目には、武州は上段を広く大きく構え、「流水の打」で横から足を払うように打つ。甚之允の体が木刀の上を越して、宙に返る。武州は二足三足後へ退がる、すると甚之允がふっと起上がり、まっ直ぐに打込む。武州は入り込んで、「身の当り」〔体当り〕で当たると、甚之允は二、三間もぶっ飛んで仰向けに倒れ気絶したが、ようやくにして息を吹き返した――。
 このあたりの記述も、具体的すぎて、見てきたような話である。しかも、まるで五輪書の講義のように、「流水の打」「身のあたり」という用語を援用しての講釈まで入るところをみると、話は講話と解説から発した口承伝説の類である。
 甚之允はあっさり負けてしまった。残る二人は、甚之允は高弟で巧者である。彼が負けた以上、なまじ我々二人が立合うまでもないと、試合を辞退する。武蔵は、「誰でも打合ってお試しなさい。少しも遠慮に及ばない」と言ってやったが、二人は固辞して、そうして三人連れ立って塩田の家を退出した、云々。
 ようするに、この『峯均筆記』の逸話は、肥後に対する筑前系伝説のポジションを勘定に入れる必要がある。武蔵の痛快伝説のうち、兵法自慢の肥後の殿様側近の巧者が、武蔵に無様に負けた、というところがポイントなのである。細川忠利は、対幕府外交に必要ということもあって、いわば情報局長格の旗本柳生宗矩とは親しく交際し、また自身かなり柳生流を習っていた。『峯均筆記』には、かの甚之允ら三人が柳生流の遣い手だとは語っていないが、このシーンで言外に示唆されているのは、そのあたりである。  Go Back












*【五輪書】
《一 流水の打と云ふ事 流水の打と云ふは、敵合ひになりて競合ふ時、敵早くひかん、早くはづさん、早く太刀をはりのけんとする時、我身も心も大きになつて、太刀を我身のあとより、如何程もゆるゆると、よどみの有るやうに、大きにつよく打事なり。此打ち、習ひ得ては、慥に打ちよきものなり。敵の位を見分くる事肝要なり》(水之巻)
《一 身のあたりと云ふ事 身のあたりは、敵のきわへ入込て、身にて敵にあたる心なり。少し我顔をそばめ、我左の肩を出し、敵のむねにあたるなり。我身をいかほどもつよくあたる事、行合ふ拍子にて、はずむ心に入るべし。此入る事、入り習ひ得ては、敵二間も三間もはねのくるほど強きものなり。敵死入るほどもあたるなり。よくよく鍛練あるべし》(水之巻)

 
 (5)左程ニハ無之モノカ、不審ナリ
 三人は塩田の家から直ちに登城して、試合の様子を殿様に説明した。越中守はこれを聞いて、「そんなはずはないだろう。不審である。ともかく、自分で試してみないのでわからんな」と言ったという。
 この越中守は肥後熊本城主・細川忠利で、後年武蔵が熊本に滞在したおり、客分として遇することになるが、この話では、武蔵のことをまだよく知らないという設定である。肥後系の伝説では、武蔵が小次郎と対戦した巌流島決闘は、小倉時代の細川家主催の試合のごとく我田引水であるが、筑前系伝説では、小倉の細川家は巌流島決闘には無関係である。肥後熊本に転封した後でも、細川忠利は、まだ武蔵のことをよく知らない、というのが、ここでの設定である。
 そして、これは、武蔵が晩年に肥後へ行って住むようになった時のことではなく、それより前の事だという、とするのだから、話の辻褄は合っている。しかし、細川忠利が武蔵のことをこれほど知らなかったというのも「不審である」。養子伊織が家老をつとめ武蔵に所縁のある小笠原忠政とは、義理の兄弟(忠利妻の兄)であり、ごく親しい間柄である。ところが、筑前系伝説としては、「武蔵の強さを知らない肥後の殿様」というあたりが、話のポイントなのである。
 殿様の打太刀を勤めるというからには、家中でも選りすぐりの達者、生半可な遣い手ではない。しかもその三人のうち最強の上手を、いとも簡単に負かしたわけで、殿様が、「そんなはずはないだろう。不審である。ともかく、自分で試してみないのでわからんな」と言ったというここの科白は、肥後の殿様の懐疑主義というよりも、『峯均筆記』が、武蔵の強さが常識を超えたものであることを強調している場面である。
 むろん、肥後系伝記には、細川忠利に関わるこんなエピソードはない。黒田家中の筑前系伝説ならではの「肥後の殿様」説話である。塩田浜之允のことは、『峯均筆記』には以下何回か出てくる。  Go Back




熊本市 水前寺公園
細川忠利像



 PageTop    Back   Next