(2)イヅレノ手ニツキ出陣アリシヤ、其事ヲ忘ズ
この通り、『峯均筆記』は、武蔵がどの大名の下で出陣したのか、そのことを忘れてしまったという。筆者はこれを聞いたのだが、それを忘れたという。このあたり、峯均の面白いところである。
では、武蔵はどの大名の下で出陣したのか。しかしながら、今日ですら、豊臣・徳川のどちらに与して参戦したのか、と改めて問う必要があるという情けない状況である。『峯均筆記』では、
「攝州大坂の両度の御合戦」
として「御合戦」とある以上、これは徳川将軍家のサイドに立った記述であり、佳名を顕したとすることから、むろん勝ち組の徳川方について参戦したのである。「イヅレノ手ニツキ出陣アリシヤ」というのは、文脈からすれば、豊臣方・徳川方のどちらに味方したか、ということではない。徳川方のどの大名の麾下についたか、ということである。
それを、立花峯均は聞いたが忘れてしまったというわけだが、あまり確かな噺ではないという判断もあったのだろう、忘れたと書いたのである。
他方、本書『峯均筆記』よりも半世紀後の大塚藤實の註記によれば、武蔵は小笠原秀政に属して戦ったという話が、筑前二天流早川系にあったらしい。上述の武蔵の道具について、それを十文字鎗だとする話のなかで、武蔵は小笠原兵部太夫秀政に属して戦ったという説を示している(藤郷秘函 巻之一)。これは従来、武蔵研究の視野に入っていなかった異説である。
むろん、小笠原秀政は、小笠原忠政(忠真)の父である。小笠原忠政は播州明石以来武蔵と縁があったし、筑前の隣国豊前小倉の城主であった。もし、そういうはっきりした伝説が立花峯均の時代にあったとすれば、『峯均筆記』にもそう書いたことだろう。
大塚藤實は、立花峯均の世代からすると孫の世代である。大坂陣で武蔵は小笠原秀政に属して戦ったというこの話は、おそらく、立花峯均が死んだ後になって、筑前で発生した新説であろう。武蔵と縁が深かった小笠原家を、大坂陣のさいの所属先にしてしまうのは、臆測から出た解釈伝説である。
ようするに、豊前小倉の隣国であった筑前でもそういう次第なので、十八世紀になると、大坂陣のとき、武蔵がどの大名の手に属したかという話が、曖昧模糊たるものになってしまったのである。
そういう伝承情報の空白を埋めるかたちで、後世あれこれの説が生じるのも事の成行きとして必然だったらしい。明治以後になると、まったくの珍説が出現するようになった。その珍説とは、大坂陣のとき武蔵は徳川方ではなく、豊臣方に与して戦ったとするものである。
もとよりそんな話は、江戸時代にはなかった。近代明治以後の新作の解釈伝説である。しかしながら、武蔵が豊臣方に属して戦ったというこの珍説が、以後支配的になってしまったのである。今なおこの謬説を鵜呑みにして反復する者がいるので、その点について、以下若干関説しておく。
これは、明治末の宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』の中に短く記された憶説であったが、その後同書を信奉する傾向が一般に普及するにいたって、武蔵が大坂陣には豊臣方で参戦したとの説が流布してしまったのである。
言うまでもないが、顕彰会本の筆者の語るところは、たんに恣意的な空想であって、何か典拠が示されているわけではない。明治には「反徳川」の気分が濃厚であり、しぜん明治人として、こうした空想に流れたものであろう。顕彰会本は吉川英治が依拠したこともあって、その余波でつい近年まで、これが支配的な説となっていた。それゆえここで改めて、この説が根拠を欠く明治人の空想の産物であったことは確認されるべきである。
戦前、この支配的な謬説に異を唱えた者があった。吉川英治の『随筆宮本武蔵』を批判した森銑三(1895〜1985)である。その「『随筆宮本武蔵』」(初出『日本及日本人』昭和十四年)や『宮本武蔵言行録』(昭和十五年)で森銑三は、松平君山の『黄耈雜録』を典拠として挙げて、武蔵が水野日向守勝成の軍に属したことが書かれていることを示し、その反証としたのである。
松平君山(1697〜1783)は尾張徳川家に仕えた儒者。名は秀雲、字は士竜、通称太郎左衛門。母は堀忘斎の三女で杏庵の孫にあたる。婿養子に入った松平姓を名のる。博学で知られ、地誌『張州府志』三十巻のほか著書多数。友人に吉見幸和・横井也有らがいる。
さて水野家は、徳川家康の母の実家で、勝成は、彼女を父忠重の姉、つまり叔母とする人であるから、家康の従弟にあたる。慶長十五年(1610年)従五位下日向守。『黄耈雜録』には、《宮本武蔵ハ兵法の名人也》として、《大坂の時、水野日向守が手に付》としている。大坂陣のとき、この水野勝成麾下で参戦したというわけである。明らかに徳川方である。明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の筆者、池辺義象はこの文献に言及していない。おそらく知らなかったのである。
おもしろいことに、『黄耈雜録』の武蔵記事には、武蔵が我代(尾張侯)に仕えていたとか、三間(5.4m)もある差物(旗指物)に《釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者》というスローガンを大書していたとか、笑ってしまうような荒唐無稽な話を記録し、橋の上で大木刀を持って数人(多数)を薙ぎ伏せたとか、あれこれ記しているが、内容は風聞伝説以上のものではない。尾張の武蔵伝説はたいてい恠しい話である。
しかしながら、大坂陣のとき武蔵がどうしていたかについて、具体的に記したものは、当時『黄耈雜録』以外の文献史料が見あたらなかったのであるから、森銑三がこれと指摘したのは妥当な仕儀である。
それまで人によっては、『趨庭雜話』(蓬左文庫蔵)を挙げた者もあった。同書は本寿院淫奔の記事などあって、なかなか興味深い秘書の類であるが、著者不明(安井某)で、19世紀初めの著作と思われる。こちらの方にも《大坂の役、水野日向守が手に属し》など類似の武蔵記事があるが、明らかに松平君山の『黄耈雜録』を見て書いた不正確な模倣記事である。
森銑三が「直木の見たか聞いたかしたのは恐らく別の文献だつたらうと思はれる」と書いているのだが、直木三十五が参照したこの「別の文献」とは、我々の見るところ、たぶんこの『趨庭雜話』である。『黄耈雜録』に対し『趨庭雜話』は二次資料であるから、森銑三が『黄耈雜録』の方を挙げたのは、書誌学的にも正しいのである。
大坂陣のとき、武蔵が水野隊に属したことは、直木三十五も指摘し、またこの森銑三の典拠明示により、問題は一応ケリがついたはずであった。だが、明治の顕彰会本に依拠する吉川英治の説が戦前戦後を通じて強力な影響力を発揮していたから、根拠なき武蔵豊臣方説が、一部を除いて戦後も依然として支配的であったのである。まことに小説家の力たるや恐るべし、である。それとともに、世間では「史実」は多数決で決まる、という愚かな事実があった、ということである。
言うまでもないが、森銑三らの尾張文献の指摘とは別に、堀正平が、その主著『大日本剣道史』(昭和9年)で、大坂夏の陣のとき武蔵が水野勝成麾下で出陣したことを明記し、しかも「水野家記録」と史料の所在を記していた。直木三十五が「現在の剣客中、剣道史、剣客の研究をしておられるのは、呉の堀正平氏をもって、オーソリチーとする」(「剣法夜話」)と書いているように、堀正平は当時剣道史の権威であり、大正十年には京都一乗寺下り松の「宮本吉岡決闘地碑」を自費で建碑しその銘文を自刻している。堀正平は『大日本剣道史』を著すにあたり、全国の協力者に歴史調査を仰いでいたし、これは地元広島県のことだから、堀はこの「水野家記録」を実見したものであろう。ようするに、水野家関係史料に、武蔵が水野勝成の麾下で参戦したとあることは、昭和九年(1934)以前の段階ですでに知られていたのである。
その後、戦後になって、水野勝成を藩祖とする福山藩関係史料のうち、昭和四十六年(1971)に小場家文書が世に出て、そこで「大坂御陳御人数附覚」なる文書により、慶長二十年大坂夏の陣のときの水野隊の編成とその顔ぶれが知れ、たしかに水野勝成麾下に宮本武蔵の名があることが確認された。というわけで、堀正平の『大日本剣道史』のいう「水野家記録」とはまさにこれであった。また森銑三が戦前示した『黄耈雜録』の伝説記事も傍証を得たのである。
そうして、昭和四十九年(1974)には『小場家文書』が刊行され、またその後昭和五十一年(1976)には、『広島県史』にこの「大坂御陳御人数附覚」が転載されて、だれでも容易に内容を確認できるようになった。これが今から三十年ほど前の、一九七〇年代半ばの状況である。
ただし、言うまでないが、現存の「大坂御陳御人数附覚」(福山城鏡櫓文書館蔵)は写本である。しかも、小場氏末孫の小場兵馬による奥付を見るに、十八世紀半ばの宝暦二年(1752)に写したものが虫食いなどで文字が分らないところもあり、文政元年(1818)六月に改めて写しなおした、との記事がある。したがって、これは原本どころか、写本の写本、コピーのコピーなのである。
とすれば、宝暦の写し、あるいは文化年間の写し、このいづれかの段階で、かの有名な宮本武蔵の名が挿入され、文書が改竄された可能性もある。古文書というものは、原本でないかぎり、写本には常にそういう可能性を含まれる歴史資料なのである。
しかしながら、この現存写本において、中川志摩之助三男で宮本武蔵の養子になった三木之助の甥・宮本小兵衛の記録と符合するところがある点をみれば、これは原本の内容をほぼそのまま保存するものと、一応みなしうる。すなわち、中川志摩之助(三木之助父)、同求馬(三木之助叔父)、同刑部左衛門(三木之助兄)の三人の名があるのである。
しかも宮本武蔵について、一切余計な文言がないのが、その原本たる性格を特徴づける。つまり写本段階での改竄者は、分限帳に新免無二を記載した黒田家文書のように、往々にして一言余計なことを附記して馬脚を現わすのだが、この文書にはそういうところもない。そういうわけで、当面、これを反証する有力な新史料が出現しないかぎり、これを武蔵史料として登録してよかろう。
この「大坂御陳御人数附覚」のオリジナルがいつごろの作製か、それを推定するために、その内容を分析すれば、以下のことが言えるであろう。すなわち、――水野勝成のことを「信解院様」と記し、またその嫡子・勝重(美作守勝俊)を「作州様」と記す。したがって、これは水野勝成(1565〜1651)が没してのち、その子の勝俊(1598〜1655)に代替わりした後の時期で、しかも勝俊を院号で呼ばないから、勝俊が在世中の頃とみなしうる。
そうして改めて歿年を確認してみると、勝成は寛永十六年(1639年)隠居して勝俊が家督相続、勝成の死は慶安四年(1651)であり、勝俊の死が承応四年=明暦元年(1655年)。とすれば、本書の作成時期は一六五一〜五五年の五年間ほどに絞り込める。これは武蔵が死んで六〜十年ほどの間のことであり、他の武蔵史料で言えば、泊神社棟札(1653年)や小倉碑文(1654年)の時期に重なる。したがって、この資料の想定原本は武蔵関係一次史料と同時期であり、このことから、我々はこれを武蔵史料として珍重する次第である。
むろん、想定原本作成の一六五〇年代前半に「宮本武蔵」の名が後入れされた可能性がある。もしくはさらに後代の伝写段階での後入れの可能性もある。それら問題点はのこるが、他に有力史料が出ない現状では、武蔵は水野隊に属したとするのが妥当、としておく。
しかるに、近年、奇怪な現象があって、武蔵研究史を知らないものか、武蔵が水野隊に属したことを新発見したかのごとく言う者が現れて、話は奇妙な混乱を見せている。我々のこの研究サイトにその点の問合せがあるから、ここで答えておけば、むろん、武蔵研究における経緯は上記の通りで、戦前、堀正平が『大日本剣道史』で水野家文書の所在を明示したこと、森銑三が尾張の『黄耈雜録』を典拠として明示したこと、および戦後の福山藩史料の発掘より他には、本件に関して何も新しいエポックはない。それが武蔵研究史における順序と経緯である。この点、事実誤認なきように、読者諸氏に注意を喚起しておきたい。
ところで、水野勝成と武蔵の関係に関連して、もう一つ、従来知られていなかった資料を挙げるとすれば、下掲のものであろう。
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*【藤崎秘函】 《此度小笠原兵部太夫秀政に屬すとして藤江口に向ハれ、戰の始に十文字鎗折しかバ、佩刀をぬき、始終働かれし事なれバ、薙刀にあらざる事、分明也》(巻之一 先師上)

宮本武蔵遺跡顕彰会本『宮本武蔵』 明治四十二年刊
*【顕彰会本宮本武蔵】 《大阪陣の時、武藏は武者修行の身なれども、城下に馳せつき、豐臣方に加はり、徳川方を惱しゝこと少からざりきといへれど、その詳なることを知るべからず。
元和元年、大阪落城し、天下全く徳川氏に歸してよりは、武蔵は更に世を思ひ放ちけむ、居處暖まるに暇あらず、或は東に或は北に、さては南し西せしと思はるゝことは、こゝかしこにその事跡を傳へたるにて推測るべし》
*【森銑三】
《大阪陣に武蔵は大阪方だつたといふ。これは顕彰会本に書いてあるのであるが、顕彰会は一体何に拠つたのか更に分らない。吉川氏も大阪方だつたことを頭から信じてかゝつて、直木三十五が、大阪陣の武蔵が水野勝成の配下に在つたとしてゐるといふのを不審とし、「多くの宮本武蔵研究家は、西軍説に拠つてゐる」といふのを頼みに、「直木のこゝの説は、僕は、嘘だと云ひ捨てゝおく」と、事もなげにいひ放つてゐる。併し西軍説を執つてゐる研究家があるとしたら、それは顕彰会本を鵜呑にしてゐるだけの話で、武蔵が大阪方だつたか関東方だつたかを、多数決で極められたりしては堪まらない。勝成の下にゐたことは名古屋の松平君山がその随筆に書いて居り、それにはその時武蔵の用ひた旗差物の文句まで挙げてある。直木の見たか聞いたかしたのは恐らく別の文献だつたらうと思はれるが、何れにもせよ何の根拠もない西軍説に盲従したりするのは見ともない》(「『随筆宮本武蔵』」)
《顯彰会本「宮本武藏」には、大阪陣には豐臣方に加つたことになつてゐるが、尾張の学者松平君山の黄耈雜録には、武蔵はこの時、水野日向守勝成に屬して出陣したとしてある。恐らくこの方が正しかつたであらう》(『宮本武藏言行録』)

松平秀雲(君山) 黄耈雜録
*【黄耈雜録】
《宮本武藏ハ兵法之名人也。十四五の時分剣術を得。父ハ無二と云、是又一流の遣ひ手也。是をバ古流と云。武藏我代に仕へしとぞ。十八歳にて吉岡清十郎と仕相し名を發し、廿余にて岩石と仕合、名を發す。大坂の時、水野日向守が手に付、三間程の志ないの差物に「釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者」と書ける、よき覚ハなし。何方にて有けん、橋の上にて大木刀を持、數人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりと人々誉ける》
*【趨庭雜話】
《宮本武蔵は拾四五歳の頃より剣術を得徳〔会得〕す。父ハ無二といふ。是又、一統の達人也。是を古流といふ。武蔵十八歳にて吉岡清十郎と仕合ひし、名を顕はし、二十五にて岩石と仕合し、弥々名を顕はしぬ。大坂の役、水野日向守が手に属し、三間程のしなへの差物に「釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者」と書きける由。させる功もなく、何方にてか橋の上にて大木刀を振廻し、數人を橋の左右へ薙伏せける有様見事なりたりしとぞ、人々誉めけるとなむ》
*【堀正平】
《元和元年の大阪夏の陣には三十二歳で大和口の東軍先陣水野勝成の麾下に屬して出陣した。水野家記録 》(『大日本剣道史』昭和9年)
*【大坂御陳御人数附覚】 水野隊は「惣御供騎馬 弐百三拾騎、惣御人数 三千二百人之由」という規模で、そのなかの「作州様附」、つまり水野勝成の嫡男・勝重(美作守勝俊)に従う十騎の武士のなかに、「宮本武蔵」の名が記載されている。
「作州様附」のメンバー
都筑右京
近藤左大夫
藤井八郎兵衛
宮本武蔵
牧馬之助
丸井三大夫
森源九郎
水野勘兵衛
牛抱平兵衛
芦田十郎右衛門

水野勝成像
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