宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 丹 治 峯 均 筆 記  追 加 2  Back   Next 
二祖・寺尾孫之丞信正に続き、こんどは、三祖・柴任三左衛門美矩〔よしのり〕である。柴任美矩は、本書の筆者・立花峯均が直接教えを受けたことのがある人物で、それゆえ、寺尾孫之丞の場合と違って、かなり記事量も多い。ここでは関連資料を参照しつつ『峯均筆記』の記事を追い、この三祖・柴任美矩という興味深い人物について探求してみる。
 この柴任美矩については、すでに二〇〇四年、[サイト篇]の龍野・姫路・明石の各ページで、播州関係地の調査探究が公表されているので、それを併読されたい。二祖・寺尾孫之丞、四祖・吉田実連については、下記の名をクリックすれば、当該ページへスキップできる。



 
  追加2 三祖柴任三左衛門美矩
一 同三祖、柴任三左衛門美矩ハ、細川家ノ家臣本條角兵衛ガ弟也。(1)
 寺尾信正ヨリ傳授ス。勝レタル大男ニテ、容儀辨舌雙ビ無キ恰好也。信正ニ隨仕、夜白修練シテ、七ヶ年ニ成就シ、承應二癸巳年十月二日、一流相傳有。(2)

 初メ越中守殿ニテ無足組ニ相勤ム。他家ノ奉公望アツテ暇申受、肥後ヲ立去リ、先豐州小倉、島村十左衛門所ヘ來ル。[本條角兵衛ハ島村三太夫祖父、治郎右衛門姪婿也。治郎右衛門ハ同名十左衛門妹婿ノ由](3)
 十左衛門對話、武州三代ノ兵法ノ由、申達ス。未年若ナル柴任故、十左衛門無心許、末手*不熟ノ趣ナラバ、小倉ヨリ可差戻ト存、暫ク抑留ス。
 十左衛門所ヘ出入ノ兵法者アリ。彼ニ申含メ、試闘ヲ望ム。押返シ々々數本ノ試闘、一本モ當ラズ。柴任、大太刀ヲ杖ニツキ、十左衛門ガ方ニ向ヒ、「誰ニテモ御打セ候ヘ。當リ申物ニテハ無シ」ト挨拶ノ内、右ノ兵法者、ヨキ透間ト見請、飛カヽリテ打ツ。柴任、直ニ喝咄ノ位ニテカスリ揚テ、頭ヲシタヽカニ打ツ。
 十左衛門、手ヲ拍テ感賞シ、「年若ナル故、無心許存、彼者ニ申付、試申タリ。何サヘ氣遣敷事曽テナシ。書状ヲ相認可申間、早々江戸ヘ被相越可然」トテ、東府ヘ差越ス。
 御旗本左近殿[名字失念]吹挙ニテ、御旗本倍〔陪〕臣ニカケ、大勢門弟有リ。(4)

 其後、十左衛門ヨリ愚父黒田平左衛門重種ヘ物語ス*。光之公ヘ重種申上、可被召抱旨ニテ一式重種取持ニテ、三百石被下、御小姓組ニ召仕ハル。重種ヲ初メ家人共大勢門弟ニナリ、日々柴任入來稽古アリ。其外諸士倍〔陪〕臣ニカケ、數多ノ門人也。御家ニテハ三左衛門ト改ム。
 三左衛門、御暇被下シ*趣ハ、風俗等ハデニ相見ヘ、光之公御意ニ不入、御小姓組ヨリ御馬廻組ニ被差加。「偖ハ御意ニ不叶」ト致料簡、御暇之事申出ル。重種ヨリ、家頼森八郎右衛門ヲ差越、様々申留トイヘ共、「御譜代ノ衆トハ違ヒ、新參者、御意ニ不叶所ニ長居可致様無之。其上、御暇ノ儀、致發言、其詞ヲ翻シ可申様曽テ無之」トテ、強テ御暇ノ事申出、御國ヲ立去ル。
 屋敷廻リ掃除等念ヲ入レ、畳モ敷ナガラ召置、手洗大小ツルベ等新敷申付、臺所ノ庭ニハ大釜ヲ据置、罷出ル。今以御普請方ノ帳面ニモ、古今無之屋敷ノ引渡也ト記セリ。(5)

 偖御國ヲ退ク刻、笠原三郎右衛門申ニハ、「江戸ヘ相越サレ候ハヾ、通リカケ和州郡山ヘ立寄、本多内記殿家老朝比奈何某ヘ知ル人ニ被成可然。三郎右衛門ヨリ書状相添可申」由ニテ、一封ヲ渡ス。則、郡山ヘ相越、朝比奈ヘ面會、夫ヨリ東府ヘ罷越ス。
 其後、朝比奈ヨリ、「内記殿ヘ申上、四百石可被下。早々郡山ヘ可罷越」旨申來ル。柴任返答ニ、四百石ニテハ御請申難キ旨ヲ申ス。朝比奈再答ニ、「四百石ニテハ有附可申ト、内記殿ヘ申上、朝比奈御請合申置タリ。只今ニ至リ違變ニテハ、御主人ノ手前申分モナキ仕合也。彌四百石ニテ成難キ趣ナラバ、朝比奈御暇申ヨリ外ハ*無之」旨、無據申越スニ依テ、郡山ヘ四百石ニテ有附、相勤ム。
 其後、内記殿御家督、中務太輔殿ヘ十三万石、出雲守殿へ六万石御分知アリ。柴任儀ハ、内記殿被召抱タル者故、出雲守殿ヘ相勤申*度旨願出、則出雲守殿ニテ取來、四百石ニテ勤仕ス。但シ内記殿ハ、中書殿御幼少故御人代也。出雲守殿ハ、内記殿御實子ノ由。(6)

 其後、三左衛門外甥〔コジウト〕、大原惣*右衛門早世ス。家督ノ儀三左衛門ヨリ願出ル。其趣ハ、「惣右衛門儀、相續可致倅*ナシ。御譜代ノ者ニテ候間、家督ノ事何分ニモ被仰付可被下*。新参者ナガラ、外ニ願出*候親類無之故、三左衛門ヨリ御願申」旨相達ス。家老中聞届、「被願越趣、尤ノ事也。惣右衛門ハ御用ニモ相立タル筋目ノ者也*。首尾好被仰付ニテ可有之」由、相應ノ會釈アツテ數日ヲ送ル。
 其後、又願出候得バ、同然ノ答ニテ、又數日ヲ經。「以上三度迄願候得共、何等ノ事ニ候哉。尤ノ由ニテ捗行ズ。然者、新参者、不埒ヲ申様ニ何モ被存ト見ヘタリ。不埒ト存ラルヽ所ニ足ヲ留可申様ナシ」トテ、暇ノ事申出、身退キ、江州大津ニ浪人ニテ罷有。
 愚父重種、東府御供之徃來ニハ、必旅宿ヘ入來、遂對話、兵法一覧セシ事モ有シトカヤ。(7)

 其後、本多中務太輔殿ヘ*五百石ニテ被召出。家老梶金平取持ナリ。然ル所、金平事、様子有テ、本多ノ御家ヲ父子一同ニ立退ク。三左衛門ニ不限、金平口入ノ面々、一同ニ暇申、退散ス。(8)

 夫ヨリ柴任、播州明石ニ住居ス。城主松平若狭守殿[左兵衛督殿御父]家臣、橋本七郎兵衛、柴任婿也。三左衛門無嗣、子女ハ妻ノ姪也。七郎兵衛子供大勢アリ。三左衛門薙髪シテ、固学道隨ト号ス。(9)
 御國退出後、兵法門人ナシ。七郎兵衛子供少々兵法稽古ス。宝永三年丙戌閏八月廿日、病テ家ニ卒ス。信正傳授ノ弟子、柴任一人也。(10)
一 同(二天流兵法)三祖、柴任三左衛門美矩は、細川家の家臣・本條角兵衛の弟である。
 寺尾信正から(当流を)伝授した。非常な大男で、容儀弁舌ならぶ者なき恰好であった。(寺尾)信正に隨仕し、夜昼修練して七年、(兵法)成就して、承応二年(1653)十月二日、一流相伝があった。

 はじめ(細川)越中守殿で無足組*を勤めた。他家の奉公を望んで(細川家から)離脱し、肥後を立去って、まず豊州小倉の島村十左衛門のところへやって来た。[本條角兵衛は島村三太夫の祖父、治郎右衛門の姪婿である。治郎右衛門は同名十左衛門の妹婿の由]
 (柴任は)十左衛門と対話して、武蔵以来三代の兵法(の相伝者)だと言明した。まだ年若な柴任であったから、十左衛門は心もとなく感じ、(兵法)未熟のようであれば小倉から(肥後へ)帰そうと思って、しばらく(自宅に)寄寓させることにした。
 十左衛門の所へ出入する兵法者があり、彼に言い含めて、(柴任との)試合を望ませた。(兵法者が打っても柴任が)押し返し押し返し、数本の試合で一本も当たらなかった。柴任は、大太刀を杖について、十左衛門の方に向い、「誰でも(私を)打たせてみなさい。当たるものではありません」と言いかけていると、さっきの兵法者が、よい隙ができたと見うけ、飛びかかって打つ。柴任は、直ちに喝咄〔かっとつ〕の位で、かすり上げて、頭をしたたかに打った。
 十左衛門は拍手して感賞し、「おまえが年若なので、心もとなく思い、かの者に申し付け、試みさせたのだ。もう何も心配はいらない。書状を認めるから、早々に江戸ヘ行かれるがよい」といって、東府〔江戸〕へ向わせた。
 (江戸では)旗本の左近殿[名字失念]の推挙で、旗本から陪臣にいたるまで、大ぜい(柴任の)門弟ができた。

 その後、(島村)十左衛門から私の父・黒田〔立花〕平左衛門重種へ話があり、(黒田)光之公ヘ重種が申し上げたところ、(柴任を)召抱えようということになり、一切を重種の取りもちで、(柴任に)三百石を下され、御小姓組に召し抱えられた。重種をはじめ、家人たちが大勢門弟になり、日々柴任がやって来て稽古した。そのほか、諸士・陪臣にわたって数多くの門人があった。御家〔黒田家中〕では、三左衛門と(名を)改めた。
 (ところが、この柴任)三左衛門が解雇された。そのわけは、(柴任の)身なりなどが派手な外見で、光之公の気に入らず、御小姓組から御馬廻組に配置転換された。(柴任は)「さては、御意に叶わないのだな」と思い切って、御暇(退職)を申し出たのである。(私の父)重種から家来の森八郎右衛門を派遣し、さまざまに申し慰留したが、「御譜代の衆とは違い、(私のような)新参者は、(殿様の)御意に叶わぬ場所に長居すべきではない。その上、御暇の件はすでに口に出してしまったことなので、その言葉を翻すなど絶対にできない」と、強いて御暇を申し出て、御国〔筑前〕を立ち去った。
 (立退きに際し、柴任は)屋敷廻りの掃除など念を入れ、畳も敷いたままにしておき、手洗大小、釣瓶などは新しく作らせ、台所の庭〔土間〕には大釜を据え置き、そうして退出したのである。今もって御普請方の帳面にも、古今これなき屋敷の引渡しだ、と記してある。

 さて、(柴任が)御国を退去するとき、笠原三郎右衛門が申すには、「江戸ヘ行かれるのなら、通りがけに和州郡山〔大和郡山〕へ立寄り、本多内記〔政勝〕殿の家老、朝比奈何某と知り合いになられるとよろしい。私から紹介状を添えましょう」とのことで、(書状)一封を渡す。そこで、郡山へ行き、朝比奈と面会し、それから東府〔江戸〕へ行った。
 その後、(郡山の)朝比奈から、「(本多)内記殿へ申上げ、四百石下さることになった。早々に郡山へ来られるように」と言ってよこした。柴任は返答に、四百石ではお請けできないとの旨を伝えた。朝比奈の再答に、「(柴任が)四百石なら仕官すると、内記殿へ申上げ、朝比奈が請合いますと言ってある。今になって話が変っては、主人の手前申訳もできないことになる。(貴殿が)四百石でダメだと言われるのなら、この朝比奈が辞職するよりほかはない」と、よんどころなく言ってよこしたので、郡山ヘ四百石で就職し、勤仕するようになったのである。
 その後、(本多)内記殿の家督は、中務大輔〔政長〕殿ヘ十三万石、出雲守〔政利〕殿へ六万石と分知された。柴任は、自分は内記〔政勝〕殿が召抱えられた者なので、出雲守殿(政勝の息子)へ勤めたいとの旨を願い出た。そうして出雲守殿の方に配属され、四百石で勤仕した。ただし内記〔政勝〕殿は、中書〔政長〕殿が幼少ゆえ、御人代〔代理人〕であった。出雲守〔政利〕殿は、内記殿の実子の由。

 その後、(柴任)三左衛門の外甥〔小舅・妻の甥〕、大原惣右衛門が早世した。そこで家督相続の件を三左衛門から願い出た。その趣旨は、「(大原)惣右衛門には相続すべき息子がない。(大原は)譜代の者であるゆえ、家督相続を是非とも仰せつけ下さるべし。(私の)他に願い出る親類がいないので、新参者ながら(柴任)三左衛門からお願い申します」ということで、それを上申した。家老たちはこれを聞き届け、「願い出た理由はもっともの事である。(大原)惣右衛門は御用にも立った筋目の者である。(家督の儀は)首尾よく仰せ付けられるであろう」との由、相応の回答があって、それから数日を送った。
 (返答がないので)その後再び願い出ると、前と同じような答えであり、また数日を経た。(柴任は)「これまで三度も願い出たが、どういうことであろうか。もっともの由だというのに、事が進捗しない。しかれば、新参者が不埒を言い立てているように、どなたも思われていると見える。不埒と思われる所に足を留める必要はない」と、退職を申し出て、身を退き、江州(近江国)大津で、浪人していた。
 私の父(立花)重種が東府御供の往来(江戸参勤交代)のさいには、必ず旅宿ヘ(柴任が)やって来て話をしたし、(柴任の)兵法を見たこともあったそうな。

 その後、(柴任は播州姫路城主)本多中務太輔〔忠国〕殿へ五百石で召し出された。(これは本多家)家老・梶金平の斡旋であった。ところが、(梶)金平には事情があって、本多の御家を、父子もろともに立ち退くことになった。(そのため、柴任)三左衛門に限らず、金平が周旋した面々も一緒に辞職して(姫路を)退散した。

 それから柴任は、播州明石に住まいするようになった。(明石)城主・松平若狭守〔直明〕殿[左兵衛督〔直常〕殿の父]家臣、橋本七郎兵衛が柴任の婿であった。三左衛門は嗣子がなく、子女は妻の姪であった。(橋本)七郎兵衛に子供が大勢あった。三左衛門は薙髪(剃髪出家)して、固学道隨と号した。
 御国〔筑前〕退出後は、兵法の門人はなかった。(橋本)七郎兵衛の子供が少々兵法の稽古した。宝永三年*(1706)閏八月二十日、病んで家で亡くなった。(寺尾)信正伝授の弟子は、柴任ただ一人である。

  【評 注】
 
 (1)柴任三左衛門美矩
 最初に、柴任三左衛門美矩の簡単な紹介である。二天流兵法三祖、つまり、武蔵→寺尾孫之丞→柴任三左衛門美矩と次第する三代目である。
 「柴任」という姓は珍しい。しかもこれの読みが、実は不明である。綿谷雪の読みに従って、我々は「しばとう」としているが、それは暫定的な措置であることを断わっておく。
 細川家資料では「柴当」角兵衛(真源院様御代御侍名附)、「紫当」角兵衛(寛文四年六月御侍帳)の名があり、一定しないが、どちらも誤記である。公文書は時として不正確という事例である。また、後出の本庄家資料「先祖之景圖」には、柴任に類似の「柴住」という表記がある。これは明らかな誤写で、子孫が「任」字を「住」と書き誤ったのである。子孫の作成文書でさえ、アテにならないという事例である。
 したがって、氏名表記を「柴任」とする『峯均筆記』の方が、細川藩公式文書や、本庄家子孫の系譜よりも、正確な情報を伝えている、という奇妙な結果になった。これは、『峯均筆記』の著者・立花峯均が、柴任美矩の孫弟子、あるいは直弟子だった、という強みである。
 さて本文に戻れば、柴任三左衛門美矩は、細川家の家臣・本條角兵衛の弟だという記事である。出自記事としてはわずかこれだけで、父の名も記さない。いかにもあっさりしている。我々は、柴任の兄が細川家中の本條角兵衛だということから、柴任の出自を探ることになる。
 『峯均筆記』のいう「本條」角兵衛が細川家士だとすれば、これは「本庄」角兵衛のことである。先祖附によれば、本庄角兵衛は、細川忠利の代に召出され、寛永九年知行百五十石云々とある人物であり、これが柴任美矩の実兄である。
 本庄氏先祖附をみるに、本庄角兵衛の父が本庄喜助、つまり、この人が柴任美矩の父である。本庄喜助は丹後国の者で、本姓は岡山。本庄久右衛門に育てられ、細川忠興が丹後から豊前へ移封されたとき、久右衛門とともに豊前へやってきたという。
 この本庄家は、先祖附によれば、久右衛門の父が丹後で細川藤孝に召抱えられて以来の家系である。本庄久右衛門は豊前で召出され百五十石、他資料では、留守居組二百石(於豊前小倉御侍帳)、御留守居衆二百石(肥後御入国宿割帳)とあって江戸詰のようで、忠利が慶長五年江戸へ証人(人質)として出たときに供についている(綿考輯録・巻二十八)。のちに久右衛門は加増されて四百石、三人の男子にはそれぞれ知行百五十石が与えられた。
 喜助の話にもどれば、本庄久右衛門が、細川忠利がまだ部屋住みでそれに付いて中津に居た頃、「狼藉者」があって筑前へ逃亡しようとしたとき、本庄喜助がこれを捕まえたとある。これが、細川忠利の耳に入り、喜助は召出され、五人扶持切米十五石を与えられた。その後眼病を煩い走り使いの勤務が難しくなったので、小倉では御船召場の櫓勤務にしてもらい、肥後へ移っては東ノ丸櫓勤務にしてもらった。喜助は五人扶持十五石と軽輩だが、眼が悪くても奉公できるようにという温情ある処遇を受けたということである。この喜助は、寛永十八年(1641)細川忠利が病死したとき、殉死した。
 本庄喜助の嫡子が本庄角兵衛である。後に名字を「柴任」と改めたというから、角兵衛の代に、本庄から柴任へ改姓したらしい。角兵衛は十六歳のとき、細川忠利に召出され、歩小姓。その後、寛永九年に知行百五十石を与えられ、小姓組に召加えられたという。父喜助はまだ現役であるから、これは父の家督とは別の新知である。しかも父が無足の切米取りであるのに対し、角兵衛は百五十石の知行取り。つまりは父が小身下士であるのに、角兵衛は出世できたということである。
 その後角兵衛は御徒頭になり、有馬陳(島原役)のおり、光尚の御供で戦地に行った。原城総攻撃の城乗りのさい、先手(最前線)への使者を命じられ、用をすました後、そのまま二ノ丸へ乗り込んで戦闘に参加し、そのとき負傷した。それで細川隊本陣へ戻り、忠利に状況報告をして、本陣に詰めていた。ところが、帰陣後、角兵衛は軍法違反に問われる。
 つまり、先手へ使者に行ったのに、そのまま勝手に戦闘に参加したのは、軍法を破るものだということで、本来なら切腹を命じられるところだが、赦免されたという。かくして角兵衛は知行を召上げられるわけでもなく、むしろその後、鉄炮頭を命じられ五十石加増された。先知と合わせて都合二百石になった。角兵衛が年老いて隠居したのは、延宝五年(1677)だということである。
 先祖附によって知れるのは、このように、柴任美矩の父や兄の事績であり、柴任美矩については何の記事もない。それも当然で、先祖附は、先祖以来代々の勤功を報告するものであって、柴任美矩が細川家臣で家を残さなかったとすれば、その痕跡は先祖附には残らないのである。
 本庄氏先祖附ではかような次第であるが、他に細川家の事蹟を記した『綿考輯録』がある。これは享和年間作成、つまり先祖附よりも後世作成の文書であるが、同書には家臣のこともさまざま記録している。これを当ってみると、上記の細川忠利殉死者の記事があって、本庄喜助の事項に本庄家のことを記している。
 それを見るに、先祖附とほぼ同様の記事である。しかるに、本庄角兵衛の弟、「二男本庄三左衛門」という名が出てくる。先祖附にはない記事である。それゆえ我々の注目するところとなった。
 その記事によれば、父喜助が殉死して、嫡子角兵衛はすでに別禄(上記の百五十石)を下されていたので、「二男本庄三左衛門」に、父喜助の給扶持(五人扶持十五石)を相続するよう仰せつけがあった。ところが、三左衛門は御暇申上げ、他国いたした、つまり肥後を出国してしまったと。
 このように、柴任美矩について、それを「本庄」三左衛門と記す点、注意を要するところだが、ようするに『峯均筆記』の記事を裏付ける資料である。ただし、三左衛門の記事は『綿考輯録』にあるものの、わずかにこれだけである。先祖附には柴任美矩の記事はなく、また『綿考輯録』にその名が出ているとしても、まことに肥後における情報は心もとない状況であった。




九州大学蔵
柴任三左衛門自筆署名
吉田家本空之巻奥書


永青文庫蔵
本庄氏先祖附

*【本庄氏先祖附】
《一 先祖本庄喜助儀、丹後國之者、本庄久右衛門育置、三斎様丹後國より豊前國御入國被遊候節、久右衛門一同ニ豊前罷越申候。喜助最前之名字岡山と申候。久右衛門儀、妙解院様御部屋ニ被成御附中津ニ居申候節、狼藉者有之、筑前江立退可申と仕候処、喜助彼者を捕申候。右之段、妙解院様達尊聽、喜助儀被召出五人扶持御切米拾五石被爲拝領、相勤居候処、眼病相煩、馳走之御奉公難相勤御座候に付、小倉ニ而御船召場之御櫓被召置、當御國ニ而ハ東ノ丸御櫓被召置、相勤申候。寛永十八年妙解院様被遊御逝去候節、殉死仕候。
一 高祖父本庄角兵衛儀、右喜助嫡子ニ而御座候。後名字を柴任と改申候。十六歳ニ而、妙解院様御代、歩小姓被召出、寛永九年御知行百五拾石被爲拝領、御小姓組被召加、其後御歩頭被仰付、有馬御陳之節、真源院様御供仕罷越、城乘之節、御先手江御使被仰付、御意之趣申渡、直ニ二ノ丸江乘込働申候に付、手負申候。妙解院様江先ニ而之首尾段々申上、御本陳江相詰申候。御帰陳以後被仰付候は、御軍法を破、一分之働仕候付、切腹をも可被仰付候得共、被成御免候。其後御鉄炮頭被仰付、御加増五拾石被爲拝領相勤居候処、年罷寄、御役儀御断申上候處、被成御免、延寶五年依願隠居被仰付候》



*【綿考輯録】
《嫡子角兵衛ハ別禄被下置候ニ付、二男本庄三左衛門ニ御給扶持相續被仰付候處、御暇申上、致他國候。兄角兵衛ハ寛永八年十六歳ニ而歩之御小姓被召出、同九年五月御知行百五拾石拜領、同十二年御歩頭并御具足奉行役被仰付、有馬御陳之節は、光利君御供仕、江戸より罷下候[有馬ニての事、寛永十五年之所ニ詳ニ出]。後に名字を柴任と改申候》(巻五十二)
 こうして我々の探索も頓挫したのだが、その後、本庄敏夫『本庄家系譜』(平成十二年・私家版)が出て、同書所収の系譜「先祖之景圖」によって手がかりを得ることになった。
 この文書は明治までの記録があるから、作成時期は新しい。しかし柴任美矩の実家・本庄家の家譜であるから、何か情報が得られる可能性がある。以下は、その「先祖之景圖」に沿って、柴任美矩の周辺を洗ってみることにする。上記の先祖附と重複するが、復習の意味で読んでもらえばよい。
 柴任美矩の父・本庄喜助重正は、生国丹後というから、つまり丹後国(現・京都府北部)生まれ。本名は岡山姓だが、本庄久右衛門に養育され、細川忠興が丹後から豊前へ国替えのおり、本庄久右衛門に連れられて豊前へやってきた。当時、喜助はまだ岡山姓であった。
 中津での話も先祖附と同じく、本庄久右衛門が忠利御部屋付となっていたあるとき、狼藉者があって、筑前へ立退くところを、喜助が逮捕したことがあり、その武勇を忠利が聞いて、本庄久右衛門に他へやるなと命じ、その後、五人扶持十五石を支給して本庄姓を名のらせたという。
 その後、細川忠利が家督相続して小倉へ移ったのに喜助も随伴した。ところが小倉では眼病を患い、出走り等役に立てなくなったが、温情ある処遇を受けた。こうした前後の事情から、思うに、本庄喜助は軽輩ながら――あるいは軽輩ゆえに――細川忠利に重大な恩義を感じていたようである。
 武蔵が肥後に滞在するようになった寛永十七年の翌年、寛永十八年(1641)三月十七日に細川忠利は病歿、五十七歳であった。殉死者十九人という。そしてこの殉死者の中に、本庄喜助がいたのである。
 「先祖之景圖」によれば、喜助は、忠利が死んだので御供(殉死)したいと願い出た。江戸から願い通りにしてよいとの回答を得て、四月二十六日殉死した、という。もちろん、これは本庄家末孫による後世の伝説である。「江戸から」というのも、殉死許可が出たというのも虚構である。当時公式に殉死許可など出るはずがない。殉死は当時すでに原則禁止である。
 虚構といえば、この忠利殉死事件は、森鴎外の小説「阿部一族」で有名になった。この小説では、殉死者十九人のうち十八人は、御供について忠利の許可を得たが、阿部弥一右衛門通信一人だけ許されなかった、という設定である。鴎外のネタ本は『阿部茶事談』で、鴎外がそうしたのにも一応の典拠もあり、また『綿考輯録』(巻六)のリストには、阿部の切腹期日も介錯人も記されておらず、行年も不明としている。
 ところが、この殉死事件を洗い直した近年の研究(山本博文『殉死の構造』)によれば、政務日誌『日帳』(永青文庫蔵)の記事には、阿部弥一右衛門が、他の殉死者同様、四月二十六日に殉死したとあるらしい。鴎外の小説とは違って、事実は、阿部弥一右衛門は四月二十六日に切腹したのである。なるほど、忠利の霊廟の脇には十九名の殉死者の墓があり、その中には阿部弥一右衛門の墓もある。阿部騒動は、殉死をめぐるトラブルではなく、弥一右衛門殉死後の家督問題に起因する。
 鴎外が誤って強調しているのは、殉死の許しの有無云々である。許された十八人と、許されなかった弥一右衛門の対照的構図を描いて、阿部一族の悲劇の伏線としたのである。しかし、実際には、忠利卒後、殉死者は当局にしかるべく願書を出すが、誰一人として殉死を許された者はなかった。跡目を認証された光尚は、江戸から殉死制止の指令を送った。建前は原則、殉死禁止である。したがって、殉死者たちはすべて許可なくして勝手に切腹した、という形式をとった。鴎外の視野に入っていないのは、この殉死事件におけるそういう実際の環境条件である。
 ともあれ、殉死者は、忠利に恩顧を与えられた側近ばかりなのではない。また、阿部弥一右衛門のような千石取り級は例外で、むしろ切米十五石五人扶持の本庄喜助のような、小身の下級武士が多いのである。あるいは、御犬引津崎五助や、家臣ではない右田因幡もいる。
 喜助のケースは、殉死を前々から決心していたようである。理由は、眼疾で御役に立たなくなったのに召放ち(解雇)されかった、という恩義の一点である。恩義とは、ニーチェ流に言えば、負債感情のことである。本庄喜助の墓も、他の十八人と並んで廟所の右脇にある。

妙解寺跡 細川家霊廟
北岡自然公園 熊本市横手二丁目


忠利殉死者墓碑群
写真右から二つめが本庄喜介墓

 つぎに、本庄喜助の嫡子・角兵衛正薫。彼は部屋住みであったところを、寛永八年(1631)十六歳で、徒小姓に召抱えられ、忠利の御供で江戸へ行ったという。しばらく江戸詰だったらしく、江戸江相詰衆百石(於豊前小倉御侍帳)というのがそれであろう。
 寛永八年、十六歳という記事で、角兵衛の生年は元和二年(1616)と知れる。本庄喜助は細川忠利について中津に居たから、息子角兵衛の出生地は中津であろう。元和五年(1619)忠利が家督相続して小倉へ移るから、角兵衛は小倉で育ったということになる。
 ところが、後出の本庄家別冊家系譜によれば、角兵衛は元和二年「丹後」生れとある。元和二年ならば、喜助家は豊前にあるはずで、これは単に誤伝記事なのか、それとも喜助に何か事情があったのか、不審とする記事である。
 「先祖之景圖」によれば、角兵衛は、寛永九年(十七歳)には百五十石御小姓組、これは父喜助の家禄とは別の新知であり、しかも百五十石とは、大きな出世である。寛永十二年(二十歳)には、御歩頭と御具足奉行役、江戸定御供と、順当に役目も昇進したようだ。寛永十五年(二十三歳)島原役のさいには、忠利に従って江戸から急遽帰って戦地へ出動した。
 原城攻めの二月二十七日、角兵衛は、最前線への使者に立った。伝達を済ませた後、そのまま二の丸攻撃に参加した。このとき角兵衛の若党二人死亡、小者二人が負傷した。角兵衛も負傷して、陣屋へ撤退したのだが、忠利に城内の様子を聞かれて報告し、その後は本陣に詰めていた。
 戦場ではこういうことがあったが、帰国後、角兵衛は軍法違反を問われた。つまり、伝令に出たのに、勝手に原城へ攻め込んだのが違反行為だ、というわけで、本来なら切腹ものだが、赦免されて、本庄を「柴住」に改めたというのである。
 実はこのあたり、首を傾げるところなのである。戦場では、最前線へ使者に立った者がそのまま戦闘に参加することはよくあることで、臨機応変と称えられることはあっても、軍法違反にはならない。一番乗りを狙って抜け駆けすれば軍法違反とされるが、これはそういうケースではない。
 しかも、切腹ものだが赦免されたというものの、その後角兵衛が百五十石の知行を没収されたとも、減知されたとも、処分の記事はない。それどころか逆に、主家が光尚に代替わりしても、ずっと御歩頭を勤めているし、しかも後年、寛文六年(1666・五十一歳)には御鉄砲十挺頭、さらに五十石加増で都合二百石である。決して角兵衛は冷遇されてもいない。
 そうすると、どうやら軍法違反の件は、本庄を「柴住」に改姓したのはなぜか、その所以が不明になってしまった後代に生じた解釈伝説らしい。
 角兵衛は延宝五年(1677)隠居、翌年死去する。ここで角兵衛の生没年を確認しておけば、前に寛永八年(1631)出仕のとき十六歳とあるから、生年は元和二年(1616)である。没年は延宝六年(1678)、ゆえに享年四十八歳である。先祖附やこの先祖之景圖に、角兵衛は年が寄って隠居したとあるが、実際は、それほどの年齢でもなかった。
 角兵衛の家督を嗣いだ嫡子・角右衛門(槌之助)は、小姓組に配属されて勤務していたが、病気になって役儀を辞退するなどしているうちに、不行跡を理由として、知行地・家屋敷もろとも没収されてしまう。これがいつなのか、先祖之景圖では時期は不明だが、本庄氏先祖附によれば、《行跡不被爲叶御意旨ニ而、貞享四年十一月御知行被召上候》とあって、それは貞享四年(1687)のことらしい。そうすると、柴任美矩の甥・角右衛門は十年は家を維持していたのである。角右衛門はその後、享保十五年(1730)まで存命だったらしい。
 知行地・家屋敷もろとも召上げられてしまった「柴住」家だが、角右衛門の子・角兵衛(初名喜助)高房が、十一歳の少年ながら跡目を嗣いで、知行取りではないが当前の扶持米を給付された。忠利五十回忌の元禄三年(1690)復権を許されて、角兵衛は改めて新知二百石を与えられ、しかも「柴住」から「本庄」へ復姓も許されたという。
 その後、角兵衛高房は問題なく勤めていたが、江戸出府中の享保十二年(1727)江戸屋敷で「病乱」のため自殺してしまう。先祖之景圖では明らかではないが、組子の者の困窮救済ため上申して抗議の切腹したという説もある。角兵衛高房に子なく、弟(角右衛門の子)を養子にして、それが喜助正辰で、跡目を嗣ぐが、五人扶持十五石。元祖の本庄喜助の給料へもどったのである。



本庄敏夫 本庄家系譜
平成十二年 私家版




柴任美矩関係地図


*【先祖之景圖】
《第一代
○本庄喜助重正
生国丹後之国ニ而本名ヲ岡山と云、本庄久右衛門育置申候。三斎様従丹後豊前江被遊御入候砌、久右衛門一同ニ豊前江罷越申候。喜助最前之名字ハ岡山と申候。久右衛門儀、妙解院様御部屋ニ被成御付、中津江居申侯節、狼籍者有之、筑前江出退可申と仕折節、喜助參掛、右之者を捕申候。此段、妙解院様達御耳、喜助を脇江遣申間敷旨久右衛門ニ被仰附、其後五人扶持拾五石被下置、本庄と名字を改可申旨被仰出、御奉公相勤居申侯処、小倉ニ而眼病相煩、出走之御奉公難相勤御座侯ニ付、御船召場之御櫓ニ被召置、当御国江罷越候而者、東之御丸御櫓ニ被召置候事。
右喜助儀、寛永十八年三月十七日妙解院様被遊御逝去候ニ付、御供申上度段奉願候処、願之通被仰付旨、従江戸申參、四月廿六日殉死仕候事。
寛永十八年四月廿六日艮殉死仕候事。
  妙解寺君廟之側
    側菴全身居士 》

*【日 帳】
(四月)廿六日
一、御供衆、達而被成御留との仰渡、御花畠ニ而、何も御揃て被仰渡候、
            大塚喜兵衛
            原田十二郎
            本庄喜介
            太田小十郎
            内藤長七郎
            野田喜兵衛
            伊藤太左衛門
            阿部弥一右衛門
            小林理左衛門
            宮永少左衛門
            橋谷市蔵
            井原十三郎
            津崎五介
            南郷与左衛門
   四月廿七日  右田因幡
   四月廿九日  寺本八左衛門
   -----------------------------
   五月二日    宗像嘉兵衛
            宗像吉太夫
   六月十九日   田中意徳




*【先祖之景圖】
《第弐代
○本庄角兵衛正薫
喜助嫡子ニ而御座候、部屋住ニ而居申候処、寛永八年十六歳ニ而、妙解院様歩之御小姓ニ被召出、江戸御供ニ被召連、同九年御下国之上、五月五日御知行百五拾石被爲拝領、御小姓組ニ被召加、組并之御奉公相勤申候。同十二年御歩頭并御具足奉行役被仰付、江戸定御供ニ被召連、寛永十五年有馬御陳之節、真源院様御供仕、江戸より彼表江罷越申候、二月廿七日城乗之時分、御先手江之御使者被仰付、御意之趣銘々ニ申渡、直ニ二丸江乗込、強働申候而、手を負、働成兼、陳屋江引取申侯。其節、召連申候若党弐人討死仕、小者弐人手を負申侯。妙解院様城内之様子被遊御尋候ニ付、先ニ而之首尾段々申侯て、御本陳ニ相詰居申侯。御帰陳以後御吟味之上、被仰渡候者、御軍法を破、一分之働仕、切腹を茂可被仰付候得共、御赦免被成之旨被仰渡、名字を柴住と改メ、真源院様御代迄、御歩頭相勤居申候。寛文六年八月御鉄砲拾挺頭被仰付、御知行高五拾石御加増被下、都合弐百石被爲拝領、其後御鉄砲弐拾挺頭被仰付、御奉公相勤居申候処、年罷寄、御役儀難相勤御断申上候処、延宝五年十一月如願之隠居被仰付、同六年十二月十三日卒葬ス》





松浦史料博物館蔵
原城攻囲陣営並城中図
 しかしながら、もう一点、読者の疑問とするところであろうが、兄の角兵衛が(軍法違反が原因で)本庄から柴任へ改姓したというのに、どうして弟の美矩まで柴任へ改姓する必要があったか、ということである。
 これは当然の疑問で、兄の角兵衛は新知を受け、父の喜助は小禄ながらまだ現役なのである。父の喜助が柴任へ改姓したという記事は先祖之景圖にはない。寛永十八年の喜助殉死時の記録、上記『日帳』においても「本庄喜介」である。すると、角兵衛の方は当時どうか。
 それでまた、ここでの引用書・本庄敏夫『本庄家系譜』の松本寿三郎の序文を見るに、喜助が殉死した直後の、寛永十八年(1641)六月十七日付「追腹仕る衆妻子ならびに兄弟附」(忠利公光尚公御判物)という調書の記事が引用されている。孫引きになるが、これを見るかぎりにおいて、「本庄喜介」「本庄角兵衛」とあって、「柴任」という名字ではない。
 この資料は、御判物という公文書だから、柴任に改姓したのなら、当然名字は柴任でなければならない。したがって、寛永十八年のこの資料をみるかぎりでは、寛永十五年の島原役での軍法違反のため本庄から柴任(柴住)へ改姓した、という「先祖之景圖」の記事には疑問がある。
 それに、先祖之景圖では弟の美矩まで柴任(柴住)を名のっている。そうすると、この改姓は、島原役での軍法違反云々とは無関係の話で、父喜助の殉死以後のことではないか。改姓理由は別にあるのではないか、父喜助の殉死以後の改姓を、後世の系譜作者が島原役当時まで話を遡らせたのではないか。本庄から柴任への改姓は、「先祖之景圖」の説明とは逆に、名誉の賜姓であったのではないか。それを、後世の子孫が逆に受け取って、本庄から柴任への改姓にネガティヴな意味を付与したのではないか。父の家を継いだ弟の美矩が、以後ずっと「柴任」を自身の姓とした以上、この姓には、本来ネガティヴな意味はなかったのではないか。――とはいえ、現段階ではこれ以上の深追いは無益であり、この件は今後の宿題としておく。




先祖之景圖 「柴住」三左衛門
 以上が、柴任美矩の実家と目すべき本庄家の状況である。柴任は本庄喜助の二男に生まれた。父喜助は細川忠利に殉死した。兄の角兵衛は順調に勤仕し加増も受けて無事卒したが、その家は、角右衛門の代に知行地・家屋敷召上げに遭い、まもなく復権して喜助(角兵衛)高房の代に至った。その頃まで柴任美矩は、高齢だが生きていたのである。
 「先祖之景圖」は、「柴住」三左衛門について短い記事を記す。「道隨重矩」とも記すが、右の通り( )書きであり、この筆記法は明らかに新しい。明治以後のものである。記事は続いて、喜助二男とある。また、「離国ス」とあって、その下に、ごく簡単なものであるが、三左衛門の記事がある。――後に助左衛門と改めた、後年、播州明石領中ノ庄に卒す、子孫なし、戒名一鑑道隨、とあって、詳細は別冊家系譜にあり、と記されている。この「別冊家系譜」に三左衛門の記事がある、ということなのである。
 いま一つは、上記の本庄敏夫『本庄家系譜』所収序文が引用する、寛永十八年(1641)六月十七日付「追腹仕る衆妻子ならびに兄弟附」(忠利公光尚公御判物)という文書の記事である。
 それには、「喜助二男歳十六/御目見仕り候 熊介」とある。喜助二男ということからすれば、この「熊介」が、「先祖之景圖」にある喜助二男・三左衛門である。そして、新君主・細川光尚のローマ字印判のある、「喜助切米扶持方、屋敷ともに、相違なく、倅・熊介に遣わすべき也」との相続承認文があるから、熊介は二男ながら、(兄角兵衛がすでに別に新知を得ていたので)父喜助の「切米十五石五人扶持と屋敷」を具体的内容とする家督を相続したのである。
 とすれば、兄の角兵衛が柴任姓に改めても、父本庄喜助の家督を相続した熊介は、「本庄」熊介であってしかるべきはずなのだが、この熊介が柴住姓の三左衛門なのである。本庄家の歴史におけるこの点の疑問は上述の通りである。
 柴任美矩について、本庄敏夫『本庄家系譜』から知りうるのは、ここまでである。これだけなら、『峯均筆記』の以下の記事をさして超えるものではない。かくして、いったん我々の研究も頓挫していたのである。「先祖之景圖」に記すところの、「詳細ハ別冊家系譜ニ在リ」というその「別冊家系譜」なる文書の存在も気になっていたが、そのままになっていた。
 しかるに、平成十六年(2004)になって、その別冊家系譜の内容を写真図像で見る機会があり、先祖之景圖にはない柴任美矩関連記事に接するに及び、我々の従来の考えも若干進展させることができたのである。とくに別冊家系譜には、柴任書状や宛行状など関係文書写を収録しているのが注目される。先祖之景圖において「柴住」と記された姓も、別冊家系譜では「柴任」と正しく書かれている。
 以上、まことに悠長な経過であったが、この武蔵サイトでは、平成十六年公開の[サイト篇]龍野・姫路・明石の各ページに柴任関係の記事が掲載され、そこで播磨に関連する柴任の足跡がはじめて明らかにされた。こうしたことは、平成十二年の本庄敏夫『本庄家系譜』刊行から四〜五年ほどのことで、柴任美矩に関する研究進展は、ごく最近のことなのである。
 以下、『峯均筆記』の記事を読んでいく。[サイト篇]の各ページにすでに公表されている柴任関連記事と重複するところがあるが、ここでは視角を変えて、縦断的に柴任美矩の事蹟を追ってみることにする。  Go Back


先祖之景圖 柴任三左衛門記事
別冊家系譜の所在を示す





個人蔵
本庄家別冊家系譜
 
 (2)勝レタル大男ニテ、容儀辨舌雙ビ無キ恰好也
 柴任美矩は、筑前二天流第三祖である。二祖・寺尾孫之丞信正から柴任三左衛門美矩へ当流を伝授した。
 そこで、『峯均筆記』特有の興味深い記事がある。柴任美矩は、
   《勝レタル大男ニテ、容儀辨舌雙ビ無キ恰好也》
つまり、非常な大男で、容儀弁舌比類なき恰好であった、というのである。このあたりは『峯均筆記』の独壇場で、肥後系伝記にはない情報であり、むろん本庄家の家譜資料にもない記事である。
 武蔵については身長六尺という具体的な寸法があるが、柴任美矩については、非常な大男というのみで、寸法はない。伝聞の方が情報が数量的だというケースである。柴任美矩は容儀弁舌ならぶ者なき恰好であると記すところが面白い。体格も大男なら、容儀は堂々たるもので弁舌も達者、まことに威風あたりを払う偉丈夫、ようするに、派手で押し出しの強い人だったようである。
 柴任個人を語るこのあたりは、立花峯均ならでは、の記事である。立花峯均は老年の柴任美矩に直接会って指導を受けている。老人は、おそらくまだ、《勝レタル大男ニテ、容儀辨舌雙ビ無キ恰好也》の片鱗はあっただろう。
 柴任は寺尾孫之丞から一流相伝後、肥後を飛び出し、あちこちに仕官しては致仕牢人を繰返している。おそらく《勝レタル大男ニテ、容儀辨舌雙ビ無キ恰好也》に見合った、三百石〜五百石という待遇を得ている。その威風堂々の派手で押し出しの強い人となりは、仕官に都合よい場合もあれば、悪い場合もあったようである。
 しかし本来、武蔵同様に不羈の人で、気に入らないことがあれば、あっさりと勤仕を致して、どの大名家にも執着しなかった。一生仕官せずというのが、武蔵と寺尾孫之丞の当初二代共通の人生だったが、柴任にもそういう面が半分は残っていた。
 さて『峯均筆記』には、この当流兵法三祖・柴任美矩は、寺尾孫之丞信正に隨仕し、夜昼修練して七ヶ年、成就して、承応二年(1653)十月二日、一流を相伝した、とある。
 隨仕した――とあるからには、寺尾孫之丞とともに修行生活をしていたわけで、仕官の身のままではできないことである。それが承応二年まで七年間というから、武蔵が死んだ翌年の正保三年(1646)以来ということになる。ということは、おそらく柴任は細川家を致仕して、正保三年に寺尾孫之丞に隨仕するようになった、という経緯がうかがえる。
 寺尾孫之丞は七年後、柴任に一流相伝するが、承応二年(1653)十月二日、と日付が具体的である。これも『峯均筆記』以外の武蔵伝記にはみられない記事である。立花峯均は自分の相伝五輪書を保持していたのだから、そこに寺尾→柴任の相伝証文があり、それを見てこう書いたはずである。
 この推測は、筑前二天流系の五輪書、すなわち吉田家本が出て、それを裏付けできるようになった。すなわち、その空之巻奥書にある寺尾孫之丞から柴任美矩への相伝証文の日付が、まさしく承応二年十月二日なのである。












九州大学蔵
寺尾孫之丞相伝証文 部分
吉田家本五輪書



*【寺尾孫之丞相伝証文】
令伝受地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候。就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ所存之程あらはされず候。然ども四冊之書の理あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に到候。只兵法はおのづからの道にまかせ、しづか成所うごかざる所に自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶、是は玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を可有鍛錬也。以上
  承應二年十月二日 寺尾孫丞信正
                    在判

 ところで、以下の『峯均筆記』の記事を読む前提として、まず、柴任美矩の来歴を検証してみよう。
 第一に、柴任はいつ生まれたか、生年問題であるが、これはどの資料にも記載がない。したがって、間接的資料から推測する他ない。どこで生まれたか、産地については、生年から知れるであろう。
 柴任の生年に関して、さしあたり、以下の三つの説が可能である。
     ・寛永六年(1629)生れ  寛永十五年(1638)十歳
     ・寛永三年(1626)生れ  寛永十五年(1638)十三歳
     ・元和九年(1623)生れ  寛永十五年(1638)十六歳
 まず資料は、本庄家別冊家系譜が収録する柴任書状写である。これによれば、柴任が、死の年の宝永七年(1710)に、甥の喜助高房に、自分の具足その他、黒田家・本多家などに仕官したときの俸禄証書、柴任一身の文書を送りつけたようである。
 そのおりの書状に、裏面に追記申入文があったようで、その内容は、自分は当年八十二歳になり、具足を肩にかけて歩くこともできなくなった。道を一丁〔百m〕も歩けないので、この器量の具足を、自分が存命のうちに、おまえに譲る、云々とある。
 ここに「我等事當年八十二ニ成申候」とあるから、この年八十二歳。この記述によれば、柴任の生年は、寛永六年(1629)となる。
 ところが、同じ別冊家系譜に、島原役において戦功があったと記しているから、問題が生じる。つまり、寛永六年生れだとすれば、島原役当時の寛永十五年(1638)にはまだ元服以前の十歳で、これでは、戦功ありというには、いくら何でも幼すぎるというものである。したがって、柴任が宝永七年に八十二歳、寛永六年生れとするかぎりにおいて、柴任の島原役参戦はなかったとすべきである。
 ところが、もう一つ、上述のように本庄敏夫『本庄家系譜』所収の松本寿三郎序文に引用されている、「追腹仕る衆妻子ならびに兄弟附」(忠利公光尚公御判物)という文書の記事がある。孫引きになるが、これを見るかぎりにおいて、柴任の父喜助が殉死した直後の寛永十八年(1641)六月十七日付文書で、それには、「喜助二男歳十六/御目見仕り候 熊介」とある。
 本庄家の別冊家系譜や先祖之景圖には記載はないが、ここで喜助二男とあるこの「熊介」が、柴任三左衛門に相当するとみてよかろう。そして、御判のある「喜助切米扶持方、屋敷ともに、相違なく、倅・熊介に遣わすべき也」との相続承認文があるから、二男熊介は、父喜助の切米十五石五人扶持と屋敷を相続した。兄角兵衛がいたが、彼は新知百五十石を得ていたからである。
 そうしてみると、寛永十八年(1641)に熊介が十六歳、すなわち柴任は寛永三年(1626)生れ、という別のデータが出たわけで、生年が三年違うということになる。これだと寛永十五年の島原役のおりには十三歳、参戦は微妙なところである。十三歳初陣という例は他にないではない。しかし、細川家中では、有馬陣のおり、十五歳以下は出陣無用ということになっていたし、初陣はだいたい十六歳ころなので、それからすればやはり早すぎる。
 しかしながら、よくよくみれば、《喜助二男歳十六》が改行の《御目見仕り候》と連続するので、これは熊介が十六歳の時御目見を済ませた、という文言である。つまりこの書面では、父殉死のこの寛永十八年以前に、熊介はすでに十六歳の時、御目見を済ましています、という申告内容になる。
 そうなると、話はまた別で、たとえば島原役参戦時に御目見をしていたという可能性もある。つまり、父喜助が眼疾なので十六歳の熊介が戦役についた。これが家督相続権者としての御披露目というわけで、島原戦役の時には十六歳、そうなると初陣の年齢としても不足はない。このケースだと、柴任の生年は元和九年(1623)。もし、柴任が島原役に参戦していたという点に重心をおくとすれば、こちらの可能性をとらねばならない。
 しかし本当のところ、柴任が島原役に出陣したか否か。まず、『峯均筆記』には参戦記事はない。後出の吉田実連の部分には、その生誕に関連して島原役の記事がある。したがって、立花峯均の念頭に島原役のことがないわけではなく、もし、柴任が参戦していれば、初陣という特別な事件なので、そのような記事があってしかるべきである。一般に九州の当時の記録文書では、島原戦役はつねに、いわば特記事項なのである。ところが、そういう記事はないから、立花峯均はそんな話は聞いていなかった、との見当はつく。
 この点に関連して言えば、別冊家系譜に、島原戦役で戦功があったにもかかわらず、それを認められないのを、柴任が憤って細川家を見限ったという話があり、さらにまた、同書収録の柴任書状が記す「当年八十二」という年齢からすれば、島原役は柴任十歳の児童の時のこと、戦功も何もありえない。そういうわけで、文書内の一貫性を求めるかぎりにおいて、ようするにこれは、柴任本人の戦功を指しているのではない。
 言い換えれば、兄・角兵衛の軍法違反云々の伝説が、ここへ尾を引いているのである。本庄家末孫の伝説として、角兵衛が島原戦役で功があったのに、逆に軍法違反に問われ、柴任改姓などあって冷や飯を食わされたという話があり、その連続で、柴任がそういう細川家の扱いに憤ったということなのである。したがって、柴任美矩が認められないのを憤ったのは、兄角兵衛をはじめとする本庄家の戦功であって、自分自身の戦功なのではない。柴任は当時まだ元服前の児童で、戦功とは無縁であったとみなすべきである。
 それゆえ現段階では、柴任美矩の生年について、別冊家系譜が収録する柴任書状以外には根拠資料を欠き、また彼の島原役参戦についても確証を得ない状態にある。このことは現時点での柴任研究のリミットとして、注意を喚起しておきたい。
 その上で、話を進める上で当面必要な仮説として、別冊家系譜が収録する柴任書状の「当年八十二」に依拠して、柴任を寛永六年(1629)生れとしておく。というのも、後世子孫が書いた別冊家系譜の本文には信憑性はなくとも、それが収録した柴任書状の方には、本文よりも多少信憑性はあろう、という手続き上の判断である。ただ、これも暫定的な措置であって、有力な未見新資料の出現によって我々の所説に豹変もありうる、という意味での仮説である。
 それよりも、柴任美矩が、父の遺禄切米十五石五人扶持を放擲して致仕したとすれば、それには別の理由があったはずである。若者は、かの高名な兵法者・宮本武蔵その人を見てしまったのである。  Go Back




我等事當年八十二ニ成申候
本庄家別冊家系譜


*【本庄家別冊家系譜】
《裏ニ (柴任美矩書状)
猶追而申入候。我等事當年八十二ニ成申候。具足肩ニ掛歩行成不申、道一丁共歩不申候ニ付、此器量之具足、存命之内ニ、其許江譲リ申候》
《喜助二男、母同上、初歩ノ御使番二召出サル。肥前國原ノ役戦功有、其後功ノ不顕ヲ憤リ、身上望有之由ニテ御暇申上、万治ノ初年離國》


*【追腹仕る衆妻子ならびに兄弟附】
御切米拾五石五人扶持 ○本庄喜介
                 右之女房
百五拾石        本庄角兵衛
          喜助二男歳十六
御目見ニ仕候      本庄熊介
               むすめ壱人
喜介切米扶持方家屋敷共ニ無相違せかれ熊介ニ可遣也 [印]









秋月郷土館蔵
島原乱図屏風




天草島原一揆関係地図
 
 (3)島村十左衛門
 ここでは、柴任美矩が肥後を離れた経緯、その後を誌す。
 柴任美矩は越中守殿(細川忠利)に仕え、最初、無足組を勤めたという。無足組とは知行地なしの切米支給のクラスで、上掲資料にある父喜助から相続した、十五石五人扶持がその給料内容である。まことに零細な家督であり、下級武士に属する。
 『峯均筆記』によれば、柴任美矩は他家の奉公を望んで細川家から離脱し、肥後を立去ったという。細川家中では切米十五石五人扶持、これではウダツがあがらないと見切ったものか、他の大名家に仕官しようと望んで肥後を出た。時期は、寺尾孫之丞から一流相伝後であろう。いわば武蔵流三代兵法を看板に、兵法者として世に出ようとしたのである。
 ところで、これでは寺尾孫之丞に隨仕して七年、という先ほどの話とすり合わせができない。というのも、仕官したままだと、寺尾孫之丞に「隨仕」はできないからである。そうすると、上述のように柴任は正保三年(1646)あたりにいったん致仕して、その後七年寺尾に隨仕し修行、かくして承応二年(1653)に嗣資相伝を得たのである。
 ところが、『峯均筆記』から得る情報に対して、本庄家別冊家系譜の話はかなり違う。というのは、同書には寺尾孫之丞への隨仕などという話はなく、むしろ島原戦役で(兄をはじめ本庄家に)戦功があったにもかかわらず、それを認められないのを憤って、細川家を見限ったというストーリーになっている。
 それもあるだろうが、別冊家系譜によれば、柴任が離国したのは万治初年(1658)、島原役から二十年も経っているのである。戦功があったにもかかわらず、それを認められないのを憤って、というには、時間が経ちすぎている。しかも兄角兵衛はその間、知行没収とか減知とか冷遇されてはいない。前述のように、その後角兵衛は、寛文六年(1666)には御鉄砲十挺頭、五十石加増で都合二百石と、かえって昇進するのである。かれこれ状況を勘案すれば、別冊家系譜の理由づけには、あまり信憑性はない。
 それに対し、柴任が、細川家では無足の切米十五石五人扶持、これでは自分のウダツがあがらないと、主家を見限って、寺尾孫之丞に隨仕し、兵法者として身を立てようとした、という方が話は現実的である。

 さて、武蔵流兵法三代を無形の資産にして、肥後を去った柴任が向かった先は、『峯均筆記』によれば、まず豊前小倉なのである。なぜ小倉だったのか。
 ひとつは、柴任美矩の生れである。柴任の生年は寛永六年(1629)、細川家が豊前小倉から肥後へ転封になるのは寛永九年(1632)のことだから、どのみち柴任は小倉生れなのである。しかも当時小倉は小笠原家の居城、主君は小笠原忠真(1596〜1667)、家老には宮本伊織(1612〜78)がいて、武蔵所縁の人々がいる土地柄である。年齢をいえば、当時小笠原忠真は七十歳前、宮本伊織は働き盛りの四十代である。そんなわけで、柴任はまず小倉へ来て、仕官の可能性を探ろうとしたのかもしれない。
 折しも、柴任が寺尾孫之丞から一流相伝を受けたのが承応二年、その翌年の承応三年に、宮本伊織が小倉東郊赤坂山(現・手向山公園)に武蔵の記念碑を建立している。これは武蔵の墓碑に相当するものであり、このとき武蔵の墓は肥後から豊前小倉へ移されたのである。寺尾孫之丞は云うまでもないが、孫之丞の相伝門弟として、柴任は何らかのかたちでこの武蔵墓移設事業に関与した可能性がある。つまり、武蔵の墓が小倉へ移ると同時に、柴任も小倉へ行ったということになる。
 「小倉碑文」として有名なこの武蔵記念碑建立と、柴任の小倉行きを関連づけた説は従来なかったことであるから、この点読者の注意を喚起しておきたい。このあたりを探求する研究を期待したい。

 それから、柴任美矩が熊本から小倉へ行ったもうひとつの線は、親族関係の人脈である。『峯均筆記』は、島村十左衛門の名をあげて、柴任が島村家に寄寓したことを記す。この島村十左衛門は、『峯均筆記』本編の武蔵伝記に出てくる名で、青木條右衛門を叱る話の、その舞台が、島村十左衛門宅の座敷であった。
 この島村十左衛門のことはすでに述べてある(本編「青木條右衛門を叱る」の項)ので、それを参照されたい。
 島村十左衛門は元は筑前の黒田家家臣で、家督を息子九太夫に譲って、隠居後請われて豊前の小笠原家に再就職した人物である。したがって、黒田家家老の息子・立花峯均としても噂を聞いた人であろう。ただし、なにせ世代が違うから交渉はなかったであろう。
 島村十左衛門が豊前小倉に住むようになったのは、小笠原忠政(忠真)に召抱えられたことによる。それは小笠原家が播州明石から小倉へ転封してきた、寛永九年(1632)あたりのことである。
 とくにいえば、島村十左衛門の父・九兵衛も、前述の寺尾孫之丞の父・佐助も、もとは備前の宇喜多家中であり、それだけに、知らぬ間柄ではない。また、小倉生れで小倉育ちで、武蔵に隨仕していた寺尾孫之丞の縁も想定できる。
 こういう背景事情があるのだが、ところで、『峯均筆記』によれば、島村十左衛門は柴任美矩の親戚筋にあたるらしい。
 具体的に言えば、柴任の兄・本庄角兵衛は島村三太夫の祖父・治郎右衛門の姪婿であり、治郎右衛門は同名十左衛門の妹婿の由、というわけである。これを一読しただけではイメージしにくかろうから、関係図にしてみると、右掲図のごとしである。
 本庄家の系譜には、こういう記事はない。本庄角兵衛の妻は「浦上氏の女」だという記事しかない。また先祖之景圖はむろんのこと、別冊家系譜の柴任記事にも、柴任が肥後を離国してまず豊前小倉へ行ったという情報はない。本庄家の系譜では、最晩年以前の柴任情報はきわめて手薄である。それゆえ、柴任美矩を豊前小倉へリンクさせるこの島村十左衛門の記事は、『峯均筆記』のみにある貴重な情報である。
 文中、島村三太夫という人物はおそらく島村家当代で、立花峯均の知人であろう。その島村三太夫の祖父が島村治郎右衛門。この島村治郎右衛門と島村十左衛門の関係は如何となると、それは備前側の浦上家系図に拠るほかない。
 つまり、次郎(治郎)右衛門は実は浦上瀬兵衛の弟で、筑前の島村十左衛門の妹と結婚して、島村姓を名のった。要するに入り婿なのだが、それは『峯均筆記』のいう治郎右衛門は同名十左衛門の妹婿の由、という記事と一致する。そこで、治郎右衛門の姪(本庄角兵衛の妻)が浦上氏だというから、彼女は、治郎右衛門の実家・浦上の兄弟姉妹の子である。具体的にいえば、浦上瀬兵衛の娘が本庄角兵衛の妻、すなわち柴任美矩の兄嫁となったのである。
 むろん、島村家と浦上家は昔から縁があった。直近でも先代に姻戚があった。浦上家系図によれば、浦上瀬兵衛の母は、島村豊後守(貫次)の娘である。島村十左衛門の叔母である。熊本と福岡、細川家中と黒田家中、場所と境遇は異なっても、備前以来の両家の結びつきは続いていたのである。
 それゆえ、本庄家と浦上家の姻戚関係、浦上瀬兵衛と島村治郎右衛門の兄弟関係、治郎右衛門が島村十左衛門の妹婿だという関係があって、いわば浦上家がブリッジとなって、柴任美矩を島村十左衛門へリンクするという関係である。そして浦上瀬兵衛の息子・十兵衛が、寺尾孫之丞の一番弟子であり、柴任美矩の兄弟子にあたるというわけである。
 そういうわけで、柴任美矩にとって島村十左衛門は、兄嫁の叔父(治郎右衛門)の義兄にあたる。いささか遠い親戚になるが、島村十左衛門を頼って、柴任美矩は豊前小倉へやってきたのである。  Go Back




*【本庄氏先祖附】
《右之段、妙解院様達尊聽、喜助儀被召出、五人扶持御切米拾五石被爲拝領》

*【綿考輯録】
二男本庄三左衛門ニ御給扶持相續被仰付候處、御暇申上、致他國候》(巻五十二)



熊本県立図書館蔵
平山城肥後国熊本城廻絵図




九州関係地図




伊織建立武蔵顕彰碑
北九州市小倉北区赤坂









*【丹治峯均筆記】
《本條角兵衛ハ島村三太夫祖父、治郎右衛門姪婿也。治郎右衛門ハ同名十左衛門妹婿ノ由》


*【島村本庄姻戚関係図】

        ┌次郎左衛門 小倉
        |
 ┌島村十左衛門┴九太夫 福岡
 |
 └ 女 十左衛門妹
   │
 ┌島村治郎右衛門― ○ ―三太夫
 | 浦上瀬兵衛弟
 |
 └浦上瀬兵衛┬十兵衛
       |
       └女 治郎右衛門姪
        │
  本庄喜助┬本庄角兵衛
      |
      └柴任三左衛門


*【浦上家系図】(嶋村次郎右衛門)
《嶋村貫阿弥子・豊後守、豊後守子・十左衛門ト云。黒田筑前守ニ仕ヘテ居レリ。時ニ瀬兵衛弟・次郎右衛門ヲ十左衛門弟ニシテ、嶋村ト称シテ仕ヘシム》
 
 (4)早々江戸ヘ被相越可然
 さて以下は、『峯均筆記』の独壇場である。小倉へ来た柴任は、島村十左衛門に会って話をして、武蔵以来三代の兵法相伝者だと大いに売り込んだらしい。ところが島村十左衛門は、柴任がまだ年若なので、心もとなく感じたという。
 派手な押し出しの強い柴任だから、大言壮語を吐く若僧と思ったらしい。それで、兵法未熟のようであれば、柴任を小倉から肥後へ帰してしまおうと思って、しばらく自宅に居候させることにした。
 このあたりから、話は口承伝説の色合いをみせる。話の結構が説話構造を備えているのである。
 ここでいささかこだわりたいのは、『峯均筆記』が、
    《未年若ナル柴任故、十左衛門無心許》
と記すところである。柴任がまだ年若なので、心もとなく感じたというわけだが、柴任はこのとき「年若」だったのか。
 柴任が寺尾孫之丞から一流相伝をうけたのが承応二年(1653)、いま、柴任の生年を寛永六年(1629)として、彼はその年二十五歳である。後出の四祖・吉田実連の記事に、吉田が十八歳のときに、江戸で柴任と師弟の契約をした、そのとき柴任はまだ牢人中だったとある。吉田実連は寛永十五年(1638)の生れだから、吉田が十八歳というと明暦元年(1655)、このとき柴任は江戸に出ていたわけである。とすれば、柴任が寺尾孫之丞から一流相伝をうけた後、間をおかず、まず小倉へ行ったようである。
 他方、本庄家別冊家系譜によれば、柴任が肥後を離国したのは万治初年(1658)、とすれば彼はそのとき三十歳。これでは決して若いとは言えない。しかも『峯均筆記』にある上記の吉田実連の記事(吉田実連が十八歳のときに、江戸で柴任と師弟の契約をした)と矛盾する。島原役の戦功処遇に不満があって、という話も含めて、別冊家系譜の本文記事が信憑性を欠く所以である。
 もし『峯均筆記』の記事の如く、柴任がまだ年若で心もとないと感じられたとすれば、やはり、寺尾孫之丞から一流相伝をうけた直後にでも、小倉の島村十左衛門のもとへ行った、としなければならない。
 それで、『峯均筆記』によれば、島村十左衛門は柴任をテストしてみることにした。十左衛門の所へ出入する兵法者があり、彼に言い含めて、柴任との試合を望ませた。
 試合させてみると、柴任が圧倒的に強い。相手が打ち込んでも柴任に押し返されるだけで、数本の試合で一本も当たらない。腕前に決定的な差があるというわけである。
 そこで柴任は、島村十左衛門に向かって、「他のだれでもよいから私を打たせてみなさい。当るものではありません」と挨拶する。つまり、公言してみせたわけだ。その隙を狙って、さっきの兵法者が打ち込む。柴任は、(『峯均筆記』お得意の)喝咄〔かっとつ〕の位でかすり上げて、頭をしたたかに打った。それまで柴任は押し返すだけで打ち込まなかったのだが、ここではじめて打ち込んで見せたのである。
 島村十左衛門は、これを見て、拍手して感称、これで柴任の腕前が口先だけではないと納得した。「おまえが年若なのでテストしてみたが、これだともう何も心配はいらん。推薦状を書くから、それを持って早々に江戸へ行きなさい」というわけで、柴任を江戸へ向かわせたのである。九州の田舎ではなく、江戸で柴任の才能を発揮させよう、という親心である。
 島村十左衛門が江戸に人脈があったことは、彼自身が江戸御留守役を勤めたこともあるし、また前述の伊丹播磨守の縁故などもあったのを思えば、首肯できるところである。
 江戸へ出た柴任美矩は、「旗本の左近殿」の推挙で、兵法者として成功する。旗本から陪臣にまで、大ぜい門弟ができたという。「旗本の左近殿」については、名字失念と『峯均筆記』は割注に記す。五千石クラスの関左近やら斎藤左近など旗本の左近殿には例があるが、いづれにしても、『峯均筆記』の記事のみでは、この旗本の左近殿は不明である。
 以上が『峯均筆記』の話である。これに対しもう一つの柴任資料、本庄家別冊家系譜の方は、万治初年(1658)に肥後離国、万治三年(1660)に黒田家へ三百石で召抱えられ、その後黒田家を立ち去り、江戸へ行ったとする。『峯均筆記』の記事はそれとは逆で、江戸へ行って成功した後、黒田家召抱えとなるという順序である。
 この相違にも、注意を払う必要があるだろう。ようするに、本庄家別冊家系譜を鵜呑みにすると事実を錯るのである。  Go Back





小倉城下屋敷比定地図






*【丹治峯均筆記】
《實連十八歳之時、於東府柴任美矩ニ會シ、師弟之約諾アリ。[美矩未浪人之内ナリ]》

*【本庄家別冊家系譜】
《喜助二男、母同上、初歩ノ御使番二召出サル。肥前國原ノ役戦功有、其後功ノ不顕ヲ憤リ、身上望有之由ニテ御暇申上、万治ノ初年離國。万治三年八月廿一日、筑前ノ太守黒田右ヱ門佐殿被召出、食禄三百石ヲ賜フ》






国立歴史民俗博物館蔵
江戸図屏風 部分
 
 (5)風俗等ハデニ相見ヘ、光之公御意ニ不入
 ここの話は、筑前黒田家に仕えたさいの逸話で、まさに柴任美矩らしいところが語られた一節である。また、関係者に、立花峯均の父・平左衛門重種(1626〜1702)が登場して、これも『峯均筆記』ならではの話になっている。
 江戸で門弟多数あった柴任だが、その後、島村十左衛門から、立花峯均の父・重種へ話があり、福岡の黒田家で柴任を召抱えようという話になった。島村十左衛門はもと黒田家家臣で、重種とは旧知の間であろう。島村十左衛門が福岡の立花重種に話を持ち込み、重種が斡旋役を引き受けたのである。重種は当時三十代はじめで、知行七千石(のち一万五百石)、もともと忠之代に出世して新参ながら家老になった人物である。重種のことは、後出の立花峯均自記のところで述べるであろう。
 ここで重種が「黒田平左衛門」と記され、主家の黒田姓になっているのは、黒田姓を名のることを許されるという特権をえていたからである。これはまた、黒田家だろうが伊達家だろうが、松平姓を与えるという徳川政府の例をみれば、旧来の贈苗習慣が残っていたのである。
 重種が、柴任召抱えを主君・黒田光之(1628〜1707)ヘ具申し、黒田家で柴任を召抱えることに決まった。光之は官兵衛孝高から数えて、黒田家四代目当主である。柴任が召抱えられるとき、一切を重種が取り持った。このとき柴任は知行三百石、御小姓組である。つまり、兵法の腕を買われて、光之の側近についたのである。
 ところで、それ以前のこと、柴任がどれだけ江戸にいたのか不明だが、その間に明暦元年(1655)あたりに吉田実連と師弟契約している。柴任がどれだけ江戸にいたのかというよりも、むしろ柴任が江戸を去るきっかけとなったのは何か、と問い方を改めれば、それなら答えは決まっていよう。
 つまり、明暦三年(1657)の正月に起った大火のことである。いわゆる明暦の大火なるこの災害で、江戸は中心部が大半焼失し、江戸城も天守はじめ大方が焼け落ちたのである。これでは剣術を教えるどころの騒ぎではないわけで、江戸に居れない。というわけで、柴任は九州へ舞い戻ったのではあるまいか、それも豊前小倉あたりへ、というのが我々の推量である。
 では、筑前福岡に来たのはいつか、というに、『峯均筆記』には記事はない。そのかわりに、本庄家別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写があって、この光之宛行状の日付が万治三年(1660)八月二十一日である。我々の年齢仮説では三十二歳、柴任はこのときから黒田家に仕えたのである。光之が家督を嗣いだのは承応三年(1654)だから、これは勘定が合う。
 柴任は福岡で、どのあたりに住んだか、どのあたりに屋敷があったか。これについて直接の記録はないが、筑前二天流早川系の後の言い伝えでは、養巴町に屋敷があったという。『藤郷秘函』(巻之三)によれば、記述当時(安永年間)の東郷氏の居屋敷がその場所だという話である。
福岡御城下絵図 安永六年
養巴町付近現況
 そういうことになると、東郷氏の居屋敷は安永年間の城下絵図で確認できる。それによれば、柴任屋敷は、現在の福岡市中央区大名一丁目あたりにあったということになる。写真でご覧の通り、養巴町は今や繁華な街のど真中である。
 立花峯均父の重種の屋敷は、城内の家老連の屋敷群の一角にあった。柴任の屋敷は近い。重種はそういう具合に差配したものであろう。
 では、柴任の知行地はどこか。上記別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写には、宗像郡竹丸村・津丸村の内三百石とある。竹丸村は現在の福岡県宗像市武丸、津丸村は福津市津丸。福岡城から東北に五里、三里というあたりの村である。
 柴任は御小姓組だが、重種の家では、主人重種をはじめ家来も大ぜい門弟になり、毎日のように柴任がやって来て、稽古をした。そのほか、黒田家の諸士から陪臣まで多数が柴任の門人になった。ようするに、黒田家中での立花重種の威勢が大いに働いたようである。
 『峯均筆記』は、柴任が三左衛門と名を改めたのは、この御家、つまり福岡黒田家に仕えたときだという。とすれば、それ以前は三左衛門でなかったわけで、父喜助の家を相続したのだから、たぶん、喜助を襲名したのであろう。『峯均筆記』によれば、黒田家に仕官したとき、それを三左衛門に変えたということになる。
 しかし、これには不審がある。というのも、吉田家本五輪書の水之巻奥書の柴任署名が、すでに「柴任三左衛門尉/秀正」とあるからである。それは、吉田家本に限らず、丹羽信英が越後へ伝えた道統の五輪書でも同様である。この水之巻奥書は明暦二年(1656)であるから、黒田家仕官の万治三年(1660)以前のことで、柴任がまだ江戸に居た頃である。
 したがって、柴任が三左衛門と名を改めたのは、黒田家に仕えたときだ、という『峯均筆記』の記事には疑義がある。これは立花峯均の記憶違いであろう。おそらく、この改名は三左衛門という通称の方ではなく、諱の方であろう。
 つまり、明暦二年(1656)の水之巻の署名は「秀正」だが、万治三年(1660)五月朔日の地之卷の署名は、「重高」に変っている。この「重高」はおそらく、父本庄喜助重正の「重」字に採ったものである。兄本庄角兵衛は「正薫」で、これは父重正の「正」字を偏諱している。黒田家仕官に当たって、柴任は「重高」と諱を改めた。それを後年、立花峯均は、三左衛門と名を改めたというぐあいに間違って、『峯均筆記』に書いた。実際はそんなところであろう。



福岡県立図書館蔵
福岡御城下絵図





しんわ本社
福岡城下模型




福岡県立図書館蔵
柴任屋敷位置
福岡城下屋敷図 寛文頃





柴任美矩の知行地


九州大学蔵九州大学蔵
吉田家本五輪書奥書
柴任三左衛門記名諱
左:秀正(水之卷・明暦二年)
右:重高(地之卷・万治三年)

 ところで、『峯均筆記』が興味深いのは、ここからである。この柴任三左衛門が御暇を下されたというのである。そのわけが面白い。
   《風俗等ハデニ相見ヘ、光之公御意ニ不入》
 柴任の身なり服装などが派手な外見で、主君・黒田光之は気に入らなかった、というわけである。光之という人は、黒田官兵衛孝高→長政→忠之→光之という筋目で、官兵衛の曾孫にあたる。室は宝光院、小倉の小笠原忠真(忠政)の娘である。福岡黒田家は前代忠之のころから財政逼迫で、家督を嗣いだ光之が第一の課題としたのは財政再建で、倹約令を相次いで出した。質素を尊んだのであるから、柴任の風俗はそれとは逆のものだったらしい。
 これは福岡へ来る前、およそ五、六年江戸にいたから、柴任の風俗が派手になっていた、というだけではなさそうである。前に《勝レタル大男ニテ、容儀辨舌雙ビ無キ恰好也》とある柴任の特徴とも見合せば、何かと派手に出過ぎる男だったのであろう。光之と反りが合わなかったものらしい。柴任は柴任で、光之の意に添おうともしない。
 それで柴任は、君側から遠ざけられた。御小姓組から御馬廻組に配置転換されたのである。そこで、柴任は、光之が気に入らないのならば、しかたがないと思い切って、辞職を申し出た。それを聞いた、立花重種は、家来の森八郎右衛門を柴任のもとへ派遣した。(三宅長春軒本では「八郎右衛」として、「門」字の脱落がある。異本により「八郎右衛門」と補正しておく)。
 森八郎右衛門は、さまざまに柴任を慰留したが、「譜代の衆とは違い、私のような新参者は、主君の御意に叶わぬ場所に長居すべきではない。その上、退職の件はすでに口に出してしまったことなので、その言葉を翻すなど絶対にできない」と、強いて致仕を申し出て、御国〔筑前〕を立ち去ってしまった、というのである。
 困ったのは、立花峯均の父・重種で、自分が一切を取り持ったのに、柴任にプイと辞められては立つ瀬がない。ふつうなら、恩義のある立花重種や島村十左衛門の顔を潰さないように我慢するのだろうが、柴任の行動原理はそういう秩序内におさまるものではない。
 ここで、興味深いのは、いわゆる「武士道」以前の武士の姿を、柴任の言動が垣間見せるからである。主従は契約による双務的関係である。自分を推し立て決して折れないで我を通し、ある意味で主人を主人とも思わない、意に染まぬ主人はこちらから捨てる。そういう性格こそ本来の武士なのである。かつて黒田家中には、長政と不和して致仕した後藤又兵衛のような武士もいた。こういう武士は当時少なくなっていて、それが柴任の行動を異様にみせるのだが、さすがに立花峯均のセンスは違って、こういう柴任の姿をむしろ称賛すべきものとみる視線をもって語っている。
 武士は引き際がかんじん。立退きに際し、柴任は屋敷廻りの掃除など念を入れ、畳も敷いたままにしておき、手洗大小、釣瓶などは新しく作らせ、台所の庭〔土間〕には大釜を据え置き、そうして筑前を退出したのである。『峯均筆記』によれば、今もって御普請方の帳面にも、古今これなき屋敷の引渡し也と記してある、という。これは、黒田家中の人間ならではの証言である。
 なお、本庄家別冊家系譜の記者は、柴任が筑前黒田家を辞した原因として、わけのわからない理由をあげている。つまり、その頃、細川家と黒田家と関係が断交状態で、柴任は肥後の兄からの音信も不通なので、黒田家にはとどまることはできず、それで程なく黒田家を立ち去って江戸へ行った、云々という話である。
 これでは、兄と交信できないのでやむをえず黒田家を致仕した、ということになってしまい、まことに武士の一分が立たない。柴任美矩に似合わない理由である。要するにこれは、ごく私的な理由だてで、いわば本庄家末孫の伝説における我田引水である。
 これに対し、『峯均筆記』の方は、主君・黒田光之と反りが合わないから黒田家を辞めた、という話で、理由は明確である。こちらの方は地元福岡の情報であり、しかも立花重種の息子(峯均)の話だから、『峯均筆記』に分がある。
 ところで、柴任の黒田家致仕はいつのことか。『峯均筆記』にはこれを記さないので、不明であるが、他方、筑前二天流早川系の大塚藤實がこれを記録している(藤郷秘函 世記)。
 それによれば、柴任の黒田家致仕は、寛文四年(1664)二月十四日のことだという。致仕承認文書も引用している。したがって、これに依るかぎりにおいて、万治三年(1660)に黒田家に召抱えられた柴任は、四年ほど黒田家に仕え、福岡に住んだということになる。  Go Back




黒田光之


*【黒田家略系図】

官兵衛孝高―┐
 ┌―――――┘
 └長政┬忠之―┬光之―┬綱之
    |   |   |
    ├長興 └之勝 ├長寛
    | 秋月  東蓮寺
    └高政     └長清
     東蓮寺





後藤又兵衛基次



*【本庄家別冊家系譜】
《万治三年八月廿一日、筑前ノ太守黒田右ヱ門佐殿被召出、食禄三百石ヲ賜フ。然ルニ其比細川家・黒田家御不通ナリ。依テ兄正薫ヨリ不通音問。依之テ不得止、程ナク黒田家ヲ立去、江戸ニ趣ト云々》






*【世記】
《此ヨリ事ヲ急ニ出國ノ志急ナリ。直ニ達君聴、寛文四年二月十四日也。
柴任三左衛門、病者ニ有之ニ付、御暇ノ儀申上候望之通、御暇被遣事、
 右、 明石四郎兵衛
    伊藤半兵衛   申渡 》(藤郷秘函巻之八)
 
 (6)柴任返答ニ、四百石ニテハ御請申難
 ここは柴任美矩が、大和郡山の本多家に仕官したときの話である。
 寛文四年(1664)福岡の黒田家を致仕した柴任は、牢人の気楽な身の上になって、また江戸へでも出て兵法師範でもやろうか、というところ。
 柴任が御国を退去するとき、――『峯均筆記』が筑前について「御国」というのは、立花峯均が執筆当時隠居して禄を離れているとはいえ、筑前が主家・黒田家の領国だからである。肥後のように他の大名の領国にはこんな「御国」という表現はしない。たとえ島流しにされても、立花峯均には主家は黒田家、筑前は御国なのである。
 柴任が筑前を退去するとき、笠原三郎右衛門が彼に言った。「江戸ヘ行かれるなら、途中で大和郡山へ立ち寄って、本多内記殿の家老・朝比奈何某と知人になられるとよろしい。私から書状を添えて申しましょう」とのことで、書状一封を渡す。そこで柴任は、途中郡山へ立寄って、朝比奈と面会し、それから東府〔江戸〕へ行った、という。
 この笠原三郎右衛門というのは、寛文官録に「四百石 笠原三郎右衛門之近」とみえる人物であろう。その笠原三郎右衛門の紹介状をもって、柴任は大和郡山に立寄って、本多家家老の朝比奈何某に会ったのである。
 文中、大和郡山の「本多内記」とは、本多政勝(1614〜1671)のことである。政勝は、武蔵に縁の深い姫路城主・本多忠政の甥であった。寛永八年(1631)本多忠政歿して二男政朝が姫路城主を嗣ぐが、これも七年ばかりで寛永十五年(1638)死去、政朝の嫡子・政長が幼かったので、政朝の従兄弟である政勝が、本多家を家督相続して姫路城主になった。(このあたり、播州における武蔵と本多家の関係や武蔵の養子・三木之助の事蹟などは、[サイト篇]姫路・龍野の各ページに詳しいので、それを参照されたい)
 しかし当時本多政勝は二十五歳、この若輩では姫路城主はつとまらぬとかで、翌年大和郡山に転封、交替に、大和郡山居城二十年のベテラン松平忠明(1583〜1644)が姫路城に入った。大和郡山へ移った本多政勝は、寛文十一年(1671)に江戸で死ぬが、それまで三十年以上の長期間、大和郡山城主であった。柴任が関係する大和郡山の「本多内記」とは、本多政勝のことである。
 ただし、寛文四年(1664)に柴任美矩が福岡の笠原から紹介されて会った、家老の朝比奈という者が不明である。本多家家老中に朝比奈という家はなかったはずだが、これは立花峯均の記憶違いか。この朝比奈何某は宿題である。
 さて、大和郡山で朝比奈に面接されて、江戸へ行った柴任だが、そのうち朝比奈から「内記殿へ申上げ、四百石下さることになった。早々に郡山へ来られるように」と言ってよこした。四百石で仕官という道がついたのである。五十万石の大大名・黒田家で三百石だから、四百石なら柴任も文句はないだろうと、この朝比奈は値踏みしたかもしれない。
 ところが柴任の返答は、四百石では仕官をお請けできないということであった。その旨朝比奈に伝えた。
 朝比奈からまた返信がきて、「柴任が四百石なら仕官すると内記殿へ申上げ、朝比奈が請合うと言明してある。今になって話が変っては、主人の手前、申訳ができない。貴殿が四百石でダメだと言われるのなら、この朝比奈が辞職するよりほかはない」と、よんどころなく言ってよこしたので、柴任はやむをえず、大和郡山の本多家ヘ四百石で仕官したという。
 これはたぶん柴任からの直話であろう。柴任は、最低五百石と期待していたのかもしれない。ちなみに、かつて播州姫路で、武蔵養子の三木之助は、本多忠政嫡子の忠刻の小姓について、知行七百石だという。宮本三木之助家は、三木之助殉死後、弟九郎太夫が相続し、転封とともに播州姫路から大和郡山へ移った。九郎太夫は寛永十九年(1642)同地で病死して、跡を嫡男弁之助が嗣いだ。それから弁之助が死亡するまで、ほぼ十五年間、宮本家は大和郡山に存続した。柴任が大和郡山に来たとき、すでに大和郡山の宮本家はなく、九郎太夫の二男宮本小兵衛は他所へ去って、すでに備前池田家に奉公していた。
 主君の本多政勝は姫路城で育った人で、播州時代本多家一族に縁の深かった武蔵を知っていたであろう。武蔵が、明石城主・小笠原忠政の豊前小倉移封にともない、播州を去って九州へ移るのは、寛永九年(1632)であり、そのとき政勝は十九歳。小笠原忠政が明石から豊前小倉へ移封されたあと、明石城は一年無主であった。そのとき姫路の本多家が同城を預かって、本多政勝が守備の任についたこともある。武蔵が播州にいたころ、政勝は十代なので、武蔵から兵法教授もあっただろうと思われる。その武蔵の孫弟子だという柴任を、大和郡山に迎えるについては、もとより積極的であっただろう。
 本庄家別冊家系譜にある宛行状(折紙)写は、上述の黒田家の分と、のちに柴任が召抱えられる姫路本多家の分しかなく、大和郡山の分がない。したがって、いつ柴任が本多政勝に仕えるようになったか、その時期は不明である。
 ただし、すでに見たように、柴任の黒田家致仕が寛文四年(1664)のことだとすれば、それより間もないころであろう。福岡を去った柴任は江戸へ行く途中、大和郡山に立ち寄って、朝比奈と対面し、その後江戸にいて、その朝比奈と書状のやり取りをして仕官の条件を交渉していた。朝比奈の根回しにさして時間はかからないはずだから、遅くとも翌年の寛文五年(1665)には、大和郡山へ移って、本多家に出仕したのではないかと思われる。
 ところで、大和郡山時代の本多家分限帳(内記政勝公御家中分限帳)にあるリストを整理すれば、右掲のごとく、柴任三左衛門に相当する「柴住三郎左衛門」という名が四百石取りのグループにみえる。分限帳というものはだいたい後世の不正確な写しのものだから、こんな誤記がよくあるのである。本多家十五万石の身上では、知行取が三三六人で、無足組が一九〇人。柴任は新参だから、知行四百石取りは、なかなかの優遇である。
 なお、このリストをみると、柴任関係では、妻の実家の大原惣右衛門が八百石とある。そして前述のように寺尾孫之丞の伯父・寺尾作左衛門は、播州姫路の本多美濃守忠政に仕え領知五百石、それゆえ寺尾孫之丞の親戚筋かと思われる寺尾四郎右衛門という名が、三百石のグループにみえる。ともあれ、この分限帳で柴任の本多家仕官と知行四百石が確認できる。

 ところで、本多家中の武芸のことで言えば、初期武蔵流というべき流派「武蔵流」が家中で存続していた。本多政勝が柴任を召抱えたについては、まさに本多家中武蔵流の存在があったのである。
 この道統は、本多家が播磨姫路・龍野にあった頃の武蔵門人、石川主税清宣に発するものである。この石川主税から楠田圓石、国分九郎右衛門真恒と伝承されるのが、本多家中の武蔵流の系譜である。


武蔵流免状

 柴任美矩の本多家出仕が寛文五年(1665)あたりだとすれば、石川主税はまだ存命で、おそらく、千百石とある分限帳の石川主税がその人であろう。柴任は以後、本多家中にとどまるから、その武蔵流は、石川主税から楠田圓石への相伝の段階と想定される。
 ここで、興味深いのは、石川主税伝来の初期武蔵流というべき「古流」と、武蔵晩年肥後に発する寺尾孫之丞→柴任美矩という「当流」との遭遇というシーンである。後に柴任が老年期、播州姫路で本多家に再仕していることからすると、本多家中武蔵流への柴任の関与はかなり深いとみるべきところである。





柴任関係地図


柳沢文庫蔵
郡山御城之図




*【本多家略系図】

○本多忠勝┐
 ┌―――┘
 ├忠政┬忠刻
 |  |
 |  ├政朝―政長=忠国→
 |  |
 |  ├忠義―忠平
 |  |
 |  ├ 国姫 堀忠俊室
 |  |    後有馬直純室
 |  |
 |  └ 亀姫 小笠原忠脩室
 |       後小笠原忠政室
 |
 └忠朝─政勝─政利





*【吉備温故秘録】
《宮本九郎大夫 [三木之助弟にて御座候] 是も圓泰院様児小姓に被召仕候。兄三木之助殉死仕、實子無御座候に付、九郎大夫に跡式無相違、美作守様被仰付、名も三木之助に罷成候。(中略)甲斐守様〔政朝〕御代、番頭に被仰付候。内記様〔政勝〕御代、寛永十九年九月病死。私兄宮本辨之助と申、跡式被下、内記様に罷在候へ共、若き時病死仕候》
《宮本小兵衛 [御膳奉行、六十二俵五人扶持、四十四歳。十五歳之時兄辨之助果申候。其節より南都に罷在候]寛文二年十月十二日二十一歳之時、於江戸侍從様へ被召出、同十一月十日御禮申上、今俵六十二俵五人扶持被下候。天和三年、御膳奉行被仰付候》






*【内記政勝公御家中分限帳】
(3500石) 都築惣左衛門
(3000石) 日高右衛門兵衛
(2500石) 梶 金平
(2000石) 深津杢之助・中根平右衛
      門・河合又五郎・林長兵衛
(1500石) 早野一学・大橋図書・松平
      金兵衛
(1200石) 小野勘解由
(1100石) 石川主税
(1000石) 深津内蔵之介・服部平六郎・佐々九郎左衛門・佐久間郷左衛門
(800石) 大橋清左衛門・中根弥一左衛門・大原惣右衛門
(750石) 山本只右衛門
(700石) 朝倉九郎右衛門・伊奈宇右衛門・上田与一郎・片岡郷左衛門
(600石) 大屋小隼人・窪田伝十郎・松下久左衛門・旧科六兵衛・大野源左衛門・志賀与惣右衛門
(500石) 佐野源五郎・浪切七郎兵衛・梶原与兵衛・関屋後藤左衛門・林数馬
(400石) 柳田平兵衛・佐々九郎兵衛・蜂須賀彦助・細谷弥五太夫・小柳津助兵衛・河村新右衛門・東小兵衛・柴住三郎左衛門
  ---------------
(300石) 寺尾四郎右衛門他




*【武蔵流伝系図】
 
○宮本武蔵玄信―石川主税清宣┐
┌―――――――――――――┘
└楠田圓石好政―国分九郎右衛門→
 大和郡山は柴任にとって居心地がよかったのか、そこで大原氏から妻を娶り、本多政勝が死んだ後も居続けている。
 ところが、本多政勝が死ぬと、本多家中に紛争が生じた。いわゆる「九六騒動」という御家騒動である。
 この騒動は、もともと播州姫路にその直接因がある。つまり、姫路城主・本多政朝の死去直前の措置で、跡目のことにつき、政朝の従弟(叔父忠朝の子)の政勝をもって家督相続せしめるよう幕府に願い上げていた。それというのも、本多家の家訓に、馬の乗り降り自在ならぬ者は当主になることはできないとあり、政朝嫡子政長は幼少ゆえ、その資格を欠くという理由である。
 かくして政朝従弟の政勝が家督を相続したのだが、政長が成長の上は家督を嫡流に戻すという取決めがあった。しかしながら、政勝が逝去すると、相続をめぐって家中に内訌が生じた。つまり、政勝の子・政利に家督を相続せしめようとする一派と、姫路でなされた本来の約束を履行して、家督を嫡流政長(政朝嫡子)に返せという一派との対立である。
 この御家騒動の決着は、嫡流政長(八郎兵衛)に九万石、政勝長男政利に六万石、という仕置であった。この仕置は、実はよくよく考えられた公平なもので、姫路の本多政朝以前からの問題も解決する措置である。
 というのも、政朝は、叔父の忠朝が大坂陣で戦死して、忠朝嫡子の政勝がまだ幼児ゆえ、大喜多城主を嗣いだ人で、本多家播磨入部のさいもその権利を受け継いで、龍野城主となったのである。ところが、忠政嫡子の忠刻が病死して、政朝が嫡子となり、姫路城へ移ったのだが、その龍野領は小笠原忠政の甥・長次が拝領した。そういうわけで、忠朝嫡子・政勝は依然として姫路城に部屋住みであったのだが、まもなく政朝が死亡して、自身が姫路城主になったのである。それゆえ、政勝が死去して家督を嫡流政朝系へ戻すにしても、政勝系からすれば、本来、龍野領相当分の六万石の権利があるわけで、これが主張されたわけである。
 かくして裁定は、本多政勝所領十五万石を、九万石と六万石に分割し、九万石は政朝系に、六万石は政勝系に配分することにした。嫡流政朝嫡子政長(1633〜79)は、従来の部屋住料三万石プラス九万石の十二万石(余一万石は弟政信に分知)、政勝嫡子政利(1641〜1707)は六万石という結果である。これで、ほぼ両方の顔も立つという仕置であった。しかしながら名裁定のようでいて、これは、家康側近以来の譜代、本多家の分割であり、その弱体化を狙った幕府の政略的措置である。本多家全体も、播州時代の三十万石からすれば、大幅に減封となっているのである。
 『峯均筆記』に、内記〔政勝〕殿は、中書〔政長〕殿が幼少ゆえ、御人代〔代理人〕であり、出雲守〔政利〕殿は、内記殿の実子の由、とあるのは正しい。しかし『峯均筆記』に、内記殿(本多政勝)の家督は、中務大輔〔政長〕殿ヘ十三万石、出雲守〔政利〕殿へ六万石と分知された、とあるのは、訂正の必要がある。分知されたのは本多政勝の十五万石であり、政朝嫡子政長三万石と弟政信一万石がそれとは別にあり、本多家は計十九万石を領していたのである。
 このような次第で、政朝系政長と政勝系政利への配分が決した。家臣もそれぞれ系統にしたがって再配属される。『峯均筆記』によれば、柴任は、自分は内記〔政勝〕殿が召抱えられた者なので、政勝系の出雲守〔政利〕殿へ勤めたいとの旨を願い出て、そうして出雲守殿で召抱えられ、同じく四百石で勤仕した、という。
 かくて、柴任は改めて本多出雲守政利に仕え、なおしばらく大和郡山に居たようである。この政利に仕えたことで、柴任にはなお人生の転変が待っていることになる。  Go Back






姫路城



*【本多家略系図】

 ○本多忠勝┐
  ┌―――┘
  ├忠政┬忠刻
  |  |
  |  ├政朝―政長=忠国→
  |  |
  |  └忠義―忠平
  |
  └忠朝─政勝政利




柳沢文庫蔵
郡山城及城下町写
 
 (7)大原惣右衛門
 ここは柴任美矩が、本多家を致仕するに至った経緯である。これも『峯均筆記』のみにある情報である。
 柴任は大和郡山で結婚したらしい。妻は本多家譜代の家臣・大原氏である。家禄は八百石で、本多家では、組頭クラスの上級武士の部類に入る。上記本多家分限帳では、大原惣右衛門は足軽組頭である。
 『峯均筆記』に、大原氏が本多家譜代の者、筋目の者、というのは正しい。というのも、永禄九年(1566)本多家先祖の忠勝(1548〜1610)が、最初に家臣団を構成したとき、徳川家康から附属された与力五十二名のなかに、大原惣右衛門・大原作右衛門・大原与五左衛門の名がすでにみえる。したがって大原惣右衛門家は、本多家中で最古の譜代という筋目の者なのである。
 柴任の妻は大原惣右衛門の妹で、当代惣右衛門は柴任の外甥、つまり妻の甥であった。ところが甥の惣右衛門が後嗣なく早世して、家督相続する者がいない状態になった。このままだと、家は廃絶である。何とかして妻の実家・大原家を存続させたい。ところが願い出るべき親戚がいない。
 そこで柴任は、大原家の外戚ながら、しかも家中新参にもかかわらず、大原家存続のために運動したのである。柴任の願い出に対し、家老たちも、もっともなことだと賛成し、家督相続は首尾よく許可されるだろう、と言ってくれた。
 それで何日か待っていたが、その後はなしのつぶて。柴任は、再度願書を提出した。すると前回と同じ好意的な回答である。それからまた数日を経ったが返事がない。業を煮やした柴任は、「以上三度まで願い出たが、どういうことなんだ」と怒る。
 以上三度まで願い出たとあるが、文中は二度である。まあそこは、固いことは言わないとして、仏の顔も何とやらで、柴任は家老連のビューロクラシーに憤り、「もっともの由だというのに、事が進捗しない。しかれば、新参者が不埒を言い立てているように、どなたも思われていると見える。不埒と思われる場所に足を留める必要はない」と、これまた御暇、致仕を申し出て、さっさと本多家を立退いてしまったというのである。
 このあたりは『峯均筆記』の柴任像は、言いたいことを云って通らなければ、口先だけではなく本当に辞めてしまう男である。押しの強い派手な柴任だが、このときおそらく五十代、分別もないことはないだろうに、こういう行動をとるわけである。
 かくして、柴任の致仕牢人はこれで三度目である。つまり、最初は肥後の細川家、次は三百石で仕えた筑前の黒田家、そして今回は、四百石で召抱えられていた本多家である。
 『峯均筆記』によれば、本多家を立退いた柴任は、近江の大津に住んでいたという。大津はもと秀吉が大津城を築いて城下町であったが、徳川の時代になって廃城となった。大津町は幕府の直轄地となり代官所が置かれ、琵琶湖水運の港町、東海道の宿場町として栄えた。人口も二万人ちかくあり、当時としては比較的大きな商業都市であった。
 どういう伝手で、柴任が大津へ行ったのかは不明である。大津の代官が旧知の旗本だったという可能性もあるが、そのあたりはまだ検証していない。今後の宿題である。
 ただ、『峯均筆記』によれば、立花峯均の父・重種は江戸往還の途中、大津に立ち寄って、柴任と会っていたという。峯均のことだから、父からそういう話を聞き、また柴任からも話を聞いて、ここにこの一件を記したのであろう。後出の峯均自記に、柴任も、我が父旧友の志深く、とある。柴任は重種とは、福岡時代だけの縁ではなく、その後も旧友として通交があったらしい。したがって、柴任が大津にいたのは、おそらく間違いない。
 ところが、興味深いことに、本庄家別冊家系譜では話は全く違っている。そもそも、大原家家督相続にからむ話はない。むしろ、柴任が本多家を致仕したのは、「本多侯身上被減」が原因という。身上被減とは、つまり家督減封。このケースでは、本多政勝没後、上述の九六騒動の結果、政勝十五万石が嗣子政利分が六万石、それで、減封された、身上被減ということらしいのである。
 この別冊家系譜の記事には、妙な混乱がある。それは、「本多侯身上被減」して柴任は本多家を去り、またまた江戸へ赴いたとあって、その後に、寛文七年(1667)に一族見回りのため肥後へきて、ほどなく江戸へ去った、とある部分である。
 この記述順序からすれば、寛文七年以前に柴任は大和郡山から去っていなければならないわけである。柴任が大和郡山で本多家へ出仕したのが、寛文五年あたりだから、こんな早々に柴任が本多家を致仕するわけがない。
 しかも、寛文七年というと、本多政勝死去(寛文十一年)よりも以前、そしてもちろん上記の九六騒動、「本多侯身上被減」以前のことである。またこれが、本多政利が明石転封後改易されたことを指すとすれば、これは天和二年(1682)のことで、もっと時期がずれる。そうなると、別冊家系譜が記す「本多侯身上被減」はどこにも該当する事件がないのである。
 かりに「本多侯身上被減」が九六騒動のさいの話だとしても、これは別冊家系譜の誤伝であり、前後関係が混乱している。別冊家系譜の本文は後世の末孫が記したものであり、本庄家伝説といった色彩が強い。口碑反復の言い伝えの過程で、こういう誤伝が生じたもののようである。
 総じて云えば、本庄家別冊家系譜という柴任関連資料は、それが収録した柴任書状や宛行状(折紙)写しには一定程度信憑性があるが、家系譜の本文となると、憶測で記しており信憑性に欠ける記事がある。
 それに対し『峯均筆記』の記事では、前に見たように、九六騒動の所領再配分以後も本多家にとどまり、出雲守政利に仕えたことになっている。柴任の致仕については、大原家家督問題をその原因としているが、ただし、その時期は明らかではない。
 とすれば、ここで別のストーリーが考えられる。
 後に見るように、延宝八年(1680)に吉田実連は、江戸御留守居を命じられて江戸へ行く途中、明石に立寄って柴任美矩から兵法相伝。つまり柴任は、このとき明石に住んでいた。すると、柴任は延宝七年(1679年)本多政利が播州明石へ転封するのに従って明石へ移ったことになる。そして明石で、本多政利は天和二年(1682年)改易処分となる。そうすると、大原家家督問題が出来したのは明石においてであり、柴任が本多家を致仕した時期は、延宝八年(吉田実連への相伝)以後であり、また天和二年(本多政利改易)以前のことであろう。
 そうすると、柴任が大津にいたというのも、また確かのようであるから、柴任は明石を立退いて、大津へ行ったのである。立花峯均の父・重種の隠居は、貞享二年(1685)だから、重種が大津の旅宿で柴任と会ったという時期もかなり限定されよう。  Go Back





大和郡山城址
奈良県大和郡山市城内町





















大津市歴史博物館蔵
大津町周辺古地図
矢橋小舟入航路絵図




*【本庄家別冊家系譜】
《其後[年月不分明]、大和郡山太守本多内記殿ニ被召出、食禄賜四百石。同家中大原勘右ヱ門女ヲ嬰ル。無子ヨツテ兄正薫妻ノ姪、浦上十兵ヱ女ヲ養女トシ、彼地ニ連越居住ノトコロニ、其女無程病死。本多侯モ身上被減ニ依テ暇ヲ乞、又々江戸エ趣ト云々。寛文七年一族中見廻ノタメ肥後エ来、無程江戸ニ趣ト云々》





*【本多家略系図】

 ○本多忠勝┐
  ┌―――┘
  ├忠政┬忠刻
  |  |
  |  ├政朝―政長=忠国→
  |  |
  |  └忠義―忠平
  |
  └忠朝─政勝政利

 
 (8)本多中務太輔殿ヘ五百石ニテ被召出
 ここは柴任美矩が、再度仕官した話である。本多中務太輔が柴任美矩を五百石で召出したとのみあって、それがどこのことなのか、記事には国名場所が記されていない。
 そこでまず、ここにある「本多中務太輔殿」というのが問題である。この本多中務大輔とは、だれなのか。柴任が明石を立退いたのは、前述のように、延宝八年(1680)以後のことである。したがって、この一六八〇年代に「本多中務太輔」であった大名を突き止めれば、柴任が仕官した主君も場所も判明するであろう。――というわけで、この当時の「本多中務太輔」から、天和二年(1682)に播州姫路城主になった本多忠国(政武)をそれと特定しうるのである。
 その後、越後で丹羽信英が書いた『兵法列世伝』を発見するに至り、筑前二天流内部でも、これが播州姫路城主・本多忠国だという具体的な認識があったことが知れた。それによれば、
《夫ヨリ播сj行、姫路ノ城主、本多中務太輔忠國侯ノ家老、梶金平ニ遇レケルニ、金平モ兼テ美矩ノ事ヲ聞及シ事ナレバ、大ニ悦ビ、君上ヘ申テ直ニ五百石ニテ被抱ケル。姫路ニ居ラレシ時、他方ヨリ試合望テ來リシ者有ケルガ、本ヨリ手ニ足ル者ニ非ズ。早速逃帰リケルト云事ヲ聞シカ共、正シキ事ヲ不聞、真偽難斗。根元、美矩ニ對シ誰カ能敵セン。事ヲ求メテ聞ニ不及事ナリ》(兵法列世伝)
 おおむね後世の書物ほど伝説変形が大きくなるものだが、反面、立花峯均が『峯均筆記』でこのように簡単に書いていることも、その孫弟子・丹羽信英の著作では、より正確な情報もなくはないというケースである。
 さらに、本庄家別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写がこれを傍証する。つまりそこには、貞享四年(1687)三月朔日の日付と「中務太輔/政武印」という名がある。この折紙の記事を見て書いたと思われる別冊家系譜本文には、貞享四年に「播州姫路太守」本多中務太輔殿へ召し出され云々とある。これは姫路城主の本多中務大輔で、しかも、貞享四年当時の姫路城主といえば、本多忠国(政武)以外にはない。
 さて、この本多忠国(1666〜1704)は、松平頼元(1629〜1693)の二男である。頼元は水戸徳川家初代徳川頼房(1603〜1671)の三男だから、頼房の孫であり、家康の曾孫にあたる。
 頼元の正室は嘉禰で、彼女は武蔵所縁の小笠原忠政(忠真)の娘である。嘉禰は嫡男・頼貞(1664〜1744)の母である。ただし、忠国の方は側室辻氏の子である。したがって、橋本政次『姫路城史』に、忠国を小笠原忠政の孫とみなし、またそこから、本多忠政の曾孫だとするのは、憶測というよりも明白な誤りである。小笠原忠政の外孫にあたるのは、忠国の兄の頼貞のことである。
 さて忠国は、延宝元年(1673)八歳のとき、大和郡山城主・本多政長の養子となる。そして延宝七年(1679)十四歳のとき、政長が死去すると家督相続するが、ただちに陸奥福島に国替となった。ところがまもなく、三年後の天和二年(1682)には播州姫路へ移封され、本多家は忠政ゆかりの姫路城へ還ってきたのである。
 そこで、上述のように、柴任が本多政利に隨って播州明石に来ていたとすれば、明石と姫路のことだから近いといえば近い。それで、再度、その前後関係を見ておく。
   寛文五年(1665)頃 本多政勝、柴任を召抱える
   寛文十一年(1671) 本多政勝死去。九六騒動
   延宝七年(1679) 本多政利、明石城主へ転封
   延宝八年(1680) 柴任美矩、明石で吉田実連へ一流相伝
   天和二年(1682) 明石城主本多政利、改易
              松平直明、越前大野から明石へ転封
   天和二年(1682) 本多忠国、姫路城主へ転封
   貞享四年(1687) 柴任美矩、姫路本多家へ出仕
 こうしてみると、延宝八年には柴任美矩が吉田実連へ一流相伝しているから、このとき柴任は明石にいたのだが、それは、前年の延宝七年に本多政利明石転封について明石へ来たからだろう、というのが我々の推測である。そうしてまもなく、大原家家督問題で柴任は本多家を去り、以後牢人するわけである。
 そこで柴任は、『峯均筆記』の記事にあるように、大津へ移ったかもしれない。そうしてまた、明石に舞い戻って、その後、姫路の本多家家老梶金平の仲介があって、本多忠国に召抱えられるようになった、というのが我々の推測である。
 家老梶金平の取り持ちであったというから、かつて福岡の黒田家仕官のさいに、立花峯均の父・重種が演じたのと同じ役割を、この梶金平が演じたということであろう。梶家祖先の梶淡路守勝忠は、もともと家康から本多忠勝へ付けられた与力で、そういう由来もあって、子孫代々本多家の家老職を勤め、名も「梶金平」を襲名してきた家である。
 柴任美矩を姫路本多家に斡旋した梶金平は、おそらく三代目の勝雄であろう。梶勝雄は、政勝から忠国まで三代にわたって仕えた。むろん、柴任は本多政勝に仕えた大和郡山時代、家老の梶金平勝雄を知っていたはずである。ということは、もう数十年前からの知己である。その梶勝雄が、柴任が明石にいて牢人していると聞いて、柴任に声をかけ、仕官を取り持ったということであろう。柴任を寛永六年(1629)生れとすれば、貞享四年(1687)本多家再仕官のこのとき、柴任はすでに五十九歳である。
 本庄家別冊家系譜所収の姫路での宛行状(折紙)写によれば、柴任はこの頃、三左衛門ではなく、助左衛門を名のっていることが知れる。延宝八年(1680)柴任が明石で吉田実連へ一流相伝したときは、まだ三左衛門であったことは、吉田家本五輪書の奥書でわかる。
 それゆえ、三左衛門→助左衛門への改名は、貞享四年(1687)本多家再仕官までの間のことであろうが、あるいは、姫路で仕官するにあたり改名したのかもしれない。それというのも、播州姫路で「三左衛門」といえば、姫路城を建設した池田輝政のことであって、「三左衛門」名は地名に刻印され、堀の名にそれをとどめていた。「三左衛門」名を憚ったのかもしれない。
 本書『峯均筆記』によれば、姫路で柴任の禄高は五百石である。これは本庄家別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写の内容と一致するから、『峯均筆記』や『兵法列世伝』など筑前の伝承記事は正しいと言える。
   十代  肥後熊本/細川家 切米十五石五人扶持(無足)
   三十代前半  筑前福岡/黒田家 知行三百石
   三十代後半〜五十代 大和郡山→播州明石/本多家 知行四百石
   五十九歳  播州姫路/本多家 高五百石
 この五百石については、別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写には「高五百石」とあって、知行地の記載はない。体裁が整わない宛行状だが、おそらくは別紙に知行地目録があったのに、それが残らなかったのかもしれない。ともあれ、そんなわけで、姫路本多家に仕えたときの柴任の知行地がどこだったか、今のところそれを知る資料はない。
 他方、姫路における柴任の屋敷については、我々の研究でその比定地が割り出されている。場所は姫路城の東の武家屋敷の一画、下岐阜町の北端東側屋敷。現在は、淳心学院という学校の用地の一部である(姫路市本町)。




姫路城



*【本庄家別冊家系譜】
《本多家ノ折紙
 高五百石之事令扶助畢。全可
 知行者也
  貞享四年   中務太輔
    三月朔日   政武印
      柴任助左衛門とのへ》



*【本多忠国関係図】

○徳川家康─(水戸)頼房┐
 ┌――――――――――┘
 ├頼重―綱條 水戸第三代
 |
 ├光圀 水戸第二代
 |
 | 小笠原忠政― 嘉禰
 |       |
 |       ├─頼貞→
 |       |
 ├――――――頼元 陸奥守山
 |       |
 ├頼利     ├─忠国
 |       |
 ├頼雄   辻氏女  |
 |          |
 └頼隆 常陸府中    |
            |
○本多忠勝┐      |
 ┌―――┘      |
 ├忠政┬忠刻     ↓
 |  |
 |  ├政朝―政長=忠国
 |  |
 |  ├忠義―忠平
 |  |
 |  └ 亀姫 小笠原忠政室
 |
 └忠朝─政勝─政利







柴任関係地図





*【梶金平家系図】

○梶淡路守勝忠─淡路守勝成┐
 ┌―――――――――――┘
 └金平勝雄―勝賢―勝任…









下岐阜町 柴任屋敷比定地
姫路市本町 淳心学院


姫路城下町模型 柴任屋敷比定地

同右 下岐阜町 柴任屋敷比定地
 しかるに、柴任美矩は、またまた致仕してしまう。『峯均筆記』によれば、ある事情があって、梶金平が本多家を父子一緒に立退くことになったという。それで、柴任に限らず、金平が口入れ・斡旋して仕官した面々も皆、本多家を去ったというわけである。
 『丹治峯均筆記』によれば、梶金平が本多家を父子一緒に立退くことになった。それで、柴任に限らず、金平が口入れした面々も皆、本多家を去ったという話である。
 ところがこの話、丹羽信英の『兵法列世伝』にも記事があり、その記述内容に接するに及び、話はもう少し現実味を帯びたものとなった。
 つまり、梶金平は讒言によって隠居を余儀なくされたが、金平は本多家の功臣の家筋なので、その子が家督相続した。しかし、柴任美矩は、一徹な性格なので、自分を推挙してくれた梶金平がこんなことになって、このまま本多家に居続けることはできないと、すぐに立退いたというのである。
 このあたりの記述も、著者丹羽信英が同じく《一筋成生質故》、播州姫路以来先祖代々仕えた黒田家を出奔、脱藩した人物だから、よけいに感興あるところである。
 しかし、これも事実はどうであったか。もちろん、我々の研究プロジェクト以前には、『丹治峯均筆記』のまともな読解研究がなかったし、丹羽信英の『兵法列世伝』も知らないという研究状況では、この件を明らかにした研究例はなかった。『姫路市史』や『姫路城史』等の一般図書しか見ていないようでは、分からぬのも当然だが。
 これは要するに、三河岡崎まで出向いて、本多家の家臣系譜を当たれば済むことである。前述の宮本家や大原家のような絶家や退去のケースは、家中の家臣系譜は殘らない。ところが、梶金平の家は存続したから、系譜はあったのである。
 家臣略系譜(岡崎郷土館蔵)によれば、梶金平勝雄は、政勝、政長、忠国の三代に仕えて、貞享四年(1687)十二月に隠居。しかしその後の記事に、「其後離散」とある。
 二千五百石の家老の家だというのに、「離散」とは穏やかな話ではない。金平の隠居も梶家離散も、上記の『峯均筆記』や『兵法列世伝』の記事に相応するものと思われる。
 これを息子の梶金平勝賢(始め民部)の記事で見れば、もう少し、話は具体的にわかる。つまり、勝賢は、家督以前に千石で勤めていたが、貞享四年十二月に、父金平勝雄が隠居して、二千五百石の家督を継いだ。しかし、翌年貞享五年(1688)六月四日に、本多家を立退いたのである。
 このように、勝雄の隠居から立退まで、半年という短期間であるから、おそらくこれは、家中の権力抗争の臭いがする。勝雄は失脚して隠居、しかしそれに留まらず、梶父子は本多家を退去してしまったのである。おそらく、柴任を世話した父の梶金平勝雄は、離散先で死亡したのであろう。
 ところで一方、本庄家別冊家系譜には、「梶金平」ではなく「梶川民部」という名の異伝を示す。これは奇怪な話である。本多家家老は、初代忠勝以来、都築惣左衛門・梶金平・松下久左衛門の名を襲名する三者で、これは忠国の時代も同じ。新参家老で梶川民部という者があったのかどうか、不詳である。しかし、むしろ、そんな探索は無駄骨で、それよりも、梶金平勝雄の息子勝賢が、梶民部を名のっていた。屋敷割図に梶金平の隣に「梶民部」という名を記す例もある。おそらく別冊家系譜は、梶金平の息子「梶民部」の名を聞き誤って「梶川民部」と伝えたものらしい。
 なお、別冊家系譜には、家老梶川が故あって暇を乞う、この梶川の与力数人も行動と共にし、柴任も梶川与力なので暇乞いをしたとある。内容は『峯均筆記』とほぼ同じである。ただし、別冊家系譜によれば、柴任の暇乞いを知った主君・本多忠国が、丁寧に召しつかわれたとあるから、慰留されたのである。ところが、柴任は、自分は病を抱えており、本多家を致仕しても、それ以後もうどこへも勤仕するつもりはない、だから辞めさせてもらいたい、といって本多家を離れた、というのである。
 『兵法列世伝』によれば、柴任美矩は一筋なる性質だったから、自分を推挙してくれた梶金平が、主君の命に背いたというのに、新参の身分である自分が、どうしてこのまま居留できようか、とすぐさま本多家を退去して、云々とある。このあたり、話のニュアンスが少し異なる。
 ともあれ、柴任は本多家を退去したのだが、本多家仕官の期間がどれほどの間であったか、これまでに出た資料では不明である。本書『峯均筆記』には記載がないし、『兵法列世伝』にも《其後年數有テ》とあるのみである。本庄家別冊家系譜にもまた、数年勤仕したとあるが、柴任致仕の時期について言い伝えはなかったようである。したがって、どれくらいの期間、柴任が姫路に住んでいたのか、これらによるかぎり不明である。
 しかしながら、本多家臣略系譜の梶勝賢の記事によって、それが知れる。つまり、梶父子の退去は、貞享五年六月である。とすれば、それとほぼ同時に、柴任も本多家を退去したのである。
 すると、柴任美矩が本多忠国に仕えていたのは、ごく短い間である。前述のように、柴任の姫路本多家仕官は、貞享四年(1687)三月朔日である。そして、梶金平の退去が貞享五年六月である。したがって、柴任美矩が姫路本多家に仕えていたのは、一年と三ヶ月という短期間であった。
 ようするに、五百石の仕官にありついても、このように短期間であっさり辞めてしまう。それが柴任という武士であった。筋を通す人間であること、それは丹羽信英が、《美矩ハ一筋成生質故》と書いたゆえんである。
 ともあれ、柴任は、これで二回目の本多家退去である。そして、肥後熊本以来、四度目の浪人である。よくよく流転した人であるが、これが柴任の武士の道であった。  Go Back







*【兵法列世伝】
《其後年數有テ、梶金平、何カ人ノ讒スル事有テ、押テ隠居ナサシメラル。然レ共、金平ハ本多家ノ功臣ノ家筋成ヲ以テ、其子家督相續スト云共、美矩ハ一筋成生質故、我ヲ吹〔推〕挙セシ金平、上ノ命ニ背ヌルニ、新参ノ身分、何ゾ其処ニ足ヲ止メンヤト、忽本多家ヲ立退、同國明石ノ城主、松平左兵衛督直常ノ家中ニ、美矩ノ親類有シニ、行テ同所ニ住居セン事望マレケレバ…》










*【本多家臣略系譜】(梶金平)
○勝雄 《忠国様御代、依願御免。貞享四卯十二月十四日、隠居。其後離散
○勝賢 《忠国様御代、貞享三寅八月十日御加増七百石、合千石、御職儀。其後、家督。同五辰六月四日、立退。正徳五未三月十八日、帰参。御職儀、二千五百石。元文元辰九月七日死去》





*【本庄家別冊家系譜】
《貞享四年四月朔日、播州姫路太守本多中務太輔殿エ被召出、禄賜五百石、相伴組トナル。数年勤仕ス。其後家老梶川民部ト云者、故有テ暇ヲ乞。與力ノ士数人暇ヲ乞、重矩モ與力タルニ依テ暇ヲ乞ント欲。太守聞之、丁寧ニ被召仕。重矩、「抱病、此以後身代有付為ヘカラス」ト申シテ、暇ヲ乞》



梶金平・梶民部
 
 (9)播州明石ニ住居ス
 ここは柴任美矩晩年の播州明石での話である。
 柴任が明石にいたのが確認できる最初の記事は、『峯均筆記』にある。すなわち、柴任は延宝八年(1680)に吉田実連へ一流相伝したのだが、当時明石にいたのである。すると、柴任は延宝七年(1679年)本多政利が播州明石へ転封するのに従って明石へ移ったのは確かである。そして明石で、本多政利は天和二年(1682年)改易処分となる。少なくとも、その時点までに柴任はいったん明石を退去したのである。
 その後姫路で仕官するまでのことは、明らかでないのは上記の通り。姫路を去った柴任が移り住んだのは明石であった。それはどういうわけであろうか。『峯均筆記』によれば、明石城主・松平若狭守〔直明〕殿家臣、橋本七郎兵衛が柴任の婿であった、という。このばあい、婿というのは娘の夫である。柴任の娘の一家が明石にいたのである。
 ところが、柴任は大和郡山で大原惣右衛門の妹と結婚したが、実子はなかった。それで、『峯均筆記』によれば、妻の姪を養女にして、この橋本七郎兵衛と夫婦にしたものらしい。そうすると、この養女は、妻の実家・大原家の子女、おそらく妻の兄・大原惣右衛門の娘であろう。
 外甥(妻の甥)大原惣右衛門が後嗣男子なく早世して、家督相続する者がいないので、そのままだと大原家は無嗣廃絶、というわけで柴任は、家老連に掛け合って大原家存続の運動をしたが、それが実現しなかった。そこで、柴任は憤って自分から本多家を去り、云々というのが『峯均筆記』の記事なのである。
 ところが、興味深いことに、本庄家別冊家系譜では、子がない柴任夫婦が養女にしたのは、柴任の実兄・(角兵衛)正薫の妻の姪、つまり浦上十兵衛の娘だというのである。浦上十兵衛は、肥後系武蔵伝記『武公伝』にその名がみえる寺尾孫之丞の弟子の一人である。ともに寺尾孫之丞の門弟ということで、肥後時代、柴任は浦上十兵衛と親しく、豊前小倉の島村十左衛門へ柴任を紹介したのも、浦上十兵衛であっただろう。
 それはともかく、養女の話、妻の姪と兄嫁の姪とでは大違いである。かたや大和郡山の大原家の子女であり、かたや肥後熊本の浦上十兵衛の娘なのである。しかし、妻の姪と兄嫁の姪の二人を別人とすれば、それはそれで話に矛盾はない。別冊家系譜では、肥後から呼び寄せた養女(浦上十兵衛の娘)は、ほどなく病死、とある。
 『峯均筆記』後出記事によれば、立花峯均は元禄十四年(1701)四月に明石に柴任を訪ね、一族の者と会っている。峯均が会ったのは、柴任の妻(翌年死去)、婿の橋本七郎兵衛、橋本の長男・善兵衛、二男・柴任源太郎、三男・大原清三郎、七郎兵衛の婿弟など、親類中こぞって歓待してくれたという話である。
 つまり、立花峯均を歓迎する宴会は柴任宅で行われたので、橋本以下子息たちと娘聟の弟まで、男たちが集ったのである。そこで興味深いのは、立花峯均が列挙する橋本七郎兵衛の息子たちの名で、
       長 男  善兵衛
       二 男  柴任源太郎
       三 男  大原清三郎
とある。長男の善兵衛は橋本家嫡男で、むろん「橋本」善兵衛であろうが、二男が「柴任」源太郎、三男が「大原」清三郎と記されている。となると、養女を嫁して生した橋本七郎兵衛の息子たちのうち、二男・源太郎に柴任の家を嗣がせ、そして三男・清三郎に妻の実家・大原家を嗣がせた、という構図が浮上する。
 ここで注目すべきは、柴任が孫の源太郎を養子にして柴任の家を嗣がせる、ということである。「柴任」源太郎とある以上、柴任の家は断絶したのではなかった。したがって、本庄家別冊家系譜の「子孫なし」という記事は、明らかに誤伝である。おそらく明石と熊本は早々に縁が切れて、肥後の本庄家末孫が、柴任に子孫なしと、勝手に決めつけてしまったのである。
 もう一つは、孫の清三郎には、妻の実家・大原家を嗣がせた、ということである。このことからすれば、その養女はやはり大原惣右衛門の娘で、妻の姪であろう。妻の姪は子どもを男女数人産んで、彼らがおそらく成人していて、立花峯均を歓迎する宴に参集したのである。
 [サイト篇]の明石のページに詳しいが、明石の雲晴寺(明石市人丸町)には、柴任夫婦の墓碑が残っている。それを見るに、柴任墓の建碑者は、「柴任右傳士重正」と「大原清三郎正矩」の連名である。この墓碑の建碑者を『峯均筆記』の記事と照合すれば、知れることがある。つまり、孫の源太郎と清三郎が建碑者であって、この両人は柴任夫妻の養子になっていたから、「孝子」として柴任の墓を建てたのである。

 子らの年齢からすれば、養女が橋本七郎兵衛に嫁したのは、明石以前の大和郡山時代であろう。橋本七郎兵衛はおそらく、大和郡山で柴任と同じく本多政利家臣であって、政利の明石転封にさいし柴任と同じく明石へ来たのである。そして本多政利改易のさい、柴任と同様に牢人したが、橋本は新しい明石城主・松平直明に召出されたようである。橋本が軽輩ならば、かえって再就職にはそう大して困難はない。
 『峯均筆記』は、橋本七郎兵衛を松平若狭守殿[左兵衛督殿御父]家臣としている。松平若狭守は松平直明〔なおあきら〕、左兵衛督はその息子の直常である。
 松平直明(1658〜1721)は、越前松平の系統で大野城主・松平直良(1605〜1678)の子である。直良は結城秀康の子だから、直明は家康の曾孫ということになる。直明は父の跡を嗣いで越前大野城主であったが、前述の如く、天和二年(1682)本多政利改易で、播州明石へ転封となった。その後約二十年明石城主であったが、元禄十四年(1701)に隠居して、家督を直常(1679〜1744)に譲った。直常は寛保三年(1743)まで、四十年以上も明石城主であった。
 そうしてみると、『峯均筆記』の記事は、明石城主を松平若狭守とするかぎりにおいて正しい。これに対し、本庄家別冊家系譜には、姫路を立退いた柴任が、明石の松平左兵衛督殿家中・橋本七郎兵ヱのところへ来て同居した、とある。左兵衛督(直常)が家督相続するのはまだ先のことだから、この記事はむろん誤りである。橋本七郎兵衛は、本多政利改易のさい柴任と同様に牢人したが、橋本は新しい明石城主・松平若狭守直明に召出された、とするのが正しい。
 本庄家別冊家系譜の記事をみると、おおむね柴任最晩年のことを把握しているが、それ以前のことになると、憶測で書いているようである。松平若狭守直明の代のことなのに、息子の左兵衛督直常の代と間違えるのは、その一例である。別冊家系譜の本文は、最晩年の情報をもって遡行させる傾向にあると言える。他にはたとえば、柴任の住居のことである。
 さきほどの話のように、別冊家系譜によれば、姫路を立退いた柴任が、明石の橋本七郎兵衛のところへ来て同居、明石領中ノ庄という所に居住したとある。また、柴任が明石領中ノ庄で卒、とあるから、柴任臨終の地は中ノ庄の橋本宅であろう。これは、橋本七郎兵衛の家が中ノ庄にあったという史料として読むことができるが、「左兵衛督殿」家中・橋本七郎兵ヱのところへ来て「同居」した、というのは別冊家系譜の記者の憶測である。最晩年の住所を数十年以前のこの時点にまで遡及させているのである。いづれにしても別冊家系譜の記者には、明石では「中ノ庄」という住所情報しかないようである。
 ところが、『峯均筆記』には、元禄十六年(1703)に立花峯均が明石の柴任宅を再訪したときの記事があって、そこには、道隨(柴任美矩)の居宅は、明石の水主町の外れにあった、という。立花峯均は実際に柴任の家へ二度も行ったのだから、水主町の外れというのが正確な情報であろう。
 我々の[サイト篇]明石のページで、すでに比定地が示されているように、この「水主町」は中崎にあった御水主町であり、明石城主は御座船の水夫たちを、入江を抱いた中崎に住まわせて、御水主町としたのである。柴任の居宅は、その外れというからその東側、大蔵谷村に近い方である。こちらなら、《海辺ヨリ程近シ》という記事に適合する。
 これに対し「中ノ庄」の場所は、明石湊をはさんで西側の地域である。こちらは中庄村といい、城下の町に対する「在」の地域である。明石の城下町は、『播磨鑑』など地元史料によれば、小笠原忠政の代の「開発」である。人工的に造った町であり、それ以前は、中庄村・明石村・大蔵谷村など海辺の村々があったにすぎない。そこへ突如として新城と町を建設したわけで、旧来の村の地名は、城下町の辺縁に残ることになったのである。
 さて、明石城下町の都市構造をみるに、城郭と家臣団居留地は堀の内にあって、中庄村は堀の外である。この堀の外の地域は、町人の住む区域であるが、それとともに、足軽屋敷が展開し、小身の下級武士たちの居留地でもある。したがって、橋本七郎兵衛の家が堀の内ではなく、中庄村にあったということは、明石藩内における橋本のポジションを推測せしめる。つまり、橋本はおそらく新参ゆえ家禄はまだ高くはなかったようだ。
 この橋本宅についても、上掲[サイト篇]明石のページに比定地が探索されている。西国街道の南の一角、「中ノ庄小役人」とある役宅ゾーンである。むろん海辺からは離れた地区にある。
 立花峯均が元禄十六年に明石の柴任宅を再訪したときは、柴任は七十五歳で、その居宅はまだ水主町の外れ、海辺に近いところにあった。中庄村の橋本宅は、それ以後、柴任が老いて身を寄せた最晩年の住所であろう。本庄家別冊家系譜には、こちらの柴任最晩年の住所しか情報がなかったのである。
 ようするに、橋本七郎兵衛が堀の内に住めないクラスの家臣で、堀の外の中庄村に住んではいても、松平家家臣であるかぎり、「水主町の外れ」などには住まないのである。したがって、地理不案内によるむやみな同一視によって、立花峯均が再訪した柴任宅(水主町の外れ)と、中庄村の橋本宅を、混同してはならない。

 『峯均筆記』はまた、柴任晩年の名号を記録している。(柴任)三左衛門は薙髪して、「固学道隨」と号したという。薙髪は剃髪のことだから、柴任は隠居して出家したのである。「固学道隨」となると、これは禅宗系の法号のようである。
 ただし、この「固学道隨」のうち、「学」という文字は、立花峯均の誤りである。上記の明石雲晴寺の柴任墓碑には、「固岳道隨居士」とある。「岳」であって「学」ではない。立花峯均は「こがく」という語音は覚えていたが、文字に記憶違いがあったのである。
 『峯均筆記』より半世紀ほど後に、筑前二天流早川系の大塚藤實が、安永年間に知人を介して明石に照会して確めたという記事には、柴任の法謚を、「萬境院固岳道隨居士」とする(藤郷秘函 世記)。とすれば、柴任道隨の院号まで知れるわけで、ようするに柴任の道名は、固「学」道隨ではな、く固「岳」道隨なのである。
 立花峯均の孫弟子・丹羽五兵衛信英(1727〜91)によれば、柴任の墓所は「大倉谷の禅創」だという(兵法列世伝)。つまり、丹羽信英自身も参詣した柴任の墓は、明石大蔵谷の禅院にあった。『峯均筆記』にも本庄家別冊家系譜にも、この情報はない。
 しかるに、上記の大塚藤郷の記録では、明石大蔵谷の雲晴寺に葬るとある。実際、雲晴寺は現存し(現・明石市人丸町)、同寺には柴任の墓が残っている。したがって、大蔵谷の禅院という丹羽信英の記事、そして大蔵谷の雲晴寺に葬るとある大塚藤實の記事は正しかったのである。
 この雲晴寺は人丸神社の南にあり、我々の柴任居宅比定地から五百mばかり北の、近隣の寺院である。柴任は死後ここに葬られた。とすれば、生前はこの雲晴寺で入道参学したものであろう。
 柴任は隠居して家督を譲ったから、上述の『峯均筆記』の記事に、橋本七郎兵衛の二男が「柴任」源太郎になっているのである。柴任は「孫」にあたる源太郎を養子にして柴任家を嗣がせ、自身は隠居して出家したわけである。
 したがって、本庄家別冊家系譜が、柴任を「子孫なし」とするのは、本庄家末孫の誤伝である。明石には「柴任源太郎」という人がいたからである。現存する柴任の墓碑にも、建碑者として、「柴任右傳士重正」「大原清三郎正矩」両人の名がある。『峯均筆記』の「柴任源太郎」が、この柴任重正である。
 十八世紀後期のことであるが、丹羽信英が、自身この雲晴寺の柴任墓所に詣でたとき、墓は掃除が行き届いて、花も活けてあったという(兵法列世伝)。明石には柴任子孫がいたからである。この点も、別冊家系譜本文の柴任記事を鵜呑みにできない事例の一つである。
 立花峯均が元禄十六年(1703)に明石の柴任宅を再訪したときの記事では、「道隨居宅」と記されているから、それより以前に柴任は隠居入道して、道隨と号していた。そして、水主町の外れ、海辺に近いところに住んでいたのである。そのあたりは中崎といって、松林があり、淡路島を前にみる明石海峡の風光明媚な場所である。  Go Back



明石海峡現況
左:淡路島  右:明石



明石城址

*【本庄家別冊家系譜】
《其後[年月不分明]、大和郡山太守本多内記殿ニ被召出、食禄賜四百石。同家中大原勘右ヱ門女ヲ嬰ル。無子ヨツテ兄正薫妻ノ姪、浦上十兵ヱ女ヲ養女トシ、彼地ニ連越居住ノトコロニ、其女無程病死》


*【丹治峯均筆記】
《元禄十四年辛巳四月、東府ヨリ御下國ノ節、摂州兵庫御泊船、明石ヱノ御暇申上、鶏鳴ニ兵庫ヲ發足シ、明石ヘ相越、柴任面會、終日稽古セシナリ。柴任妻[大原惣右衛門妹。翌年卒ス]、此時迄ハ息災ニテ、夫婦悦ビニタヘズ。其外、婿ノ橋本七郎兵衛、同人一男善兵衛、二男柴任源太郎、三男大原清三郎七郎兵衛婿弟等、一類中コゾリテ饗セリ。同夜半兵庫ヘ帰着ス》


*【柴任美矩関係図】

 本庄喜助┬本庄角兵衛
     |
     └柴任三左衛門
        │
       ┌ 柴任妻
       |
 大原勘右衛門┴惣右衛門┐
 ┌――――――――――┘
 ├惣右衛門 無嗣廃絶
 |
 └女 柴任養女
    ├─――┬善兵衛
 橋本七郎兵衛 ├柴任源太郎
        └大原清三郎



柴任夫妻の墓 雲晴寺
兵庫県明石市人丸町





松平家御霊屋 長寿院
兵庫県明石市人丸町



*【本庄家別冊家系譜】
《重矩、抱病、此以後身代有付為ヘカラスト申シテ、暇ヲ乞。夫ヨリ養女ノ夫同國明石太守松平左兵ヱ督殿家中、橋本七郎兵ヱニ立越同居、明石領ノ内中ノ庄ト云所ニ居住ス。左兵ヱ督殿度々重矩宅エ被立寄ト云々》



御 城   侍屋敷   足軽屋敷
寺 社   町 家


*【丹治峯均筆記】
《コレヨリ前、實連病差出、年ヲ追テ氣力衰ヘ傳授成ガタキユヘ、柴任方ヘ實連ヨリ其趣ヲ達ス。道隨モ前々年予ガ兵法一覧アリシユヘ、点頭シ、明石ニテ傳授可有旨、元禄十六年ノ春、東府ヘ申来ル。同四月御入國ノ刻、大坂ニテ御用等相仕廻、明石ヘノ御暇申上、此節ハ、同所ヨリ小船ニテ、直ニ明石ヘ着岸ス。道隨居宅、明石ノ水主町ノハヅレニテ、海辺ヨリ程近シ》



柴任宅比定地付近
明石市相生町1丁目




柴任墓碑 固岳道隨居士


*【世記】
《柴任三左衛門、諱ハ重矩、後ニ道隨ニ改稱ス。二天流劍術ヲ善ス。某ノ年、肥後國熊本ニ生レ、寶永七年庚寅閏八月二十日、明石ニ卒ス。同郡大藏谷雲晴寺ニ葬シ。法謚シテ萬境院固岳道隨居士ト云》(藤郷秘函巻之八)

*【兵法列世伝】
《道隨師遂ニ明石ニ終ラル。大倉谷ノ禪創ニ葬ル》
《立花増壽江都ノ往來ニ大倉谷ノ道隨師ノ寺ニ詣デラル。予モ又彼寺ニ詣デシニ、老師ノ墓ハ五倫ノ塔ニテ、常ニ参詣スル人モ有ト見ヘテ、掃除モ能シテ花抔立テ有ケル。年久シクナレバ、其寺ノ號モ忘ル丶而已カ、老師ノ捭名モ忘レヌルハ、不忠ノ至リ也》


播磨武蔵研究会作製 享保期明石城下町図から
柴任居宅と墓所・雲晴寺
 
 (10)御國退出後、兵法門人ナシ
 ここは柴任美矩の記事の締めくくりとして、柴任の死去年月日と、彼が残した兵法門人の話である。
 まず、柴任の兵法門人のことだが、御国〔筑前〕退出後は、兵法の門人はなかったという。つまり、柴任三十代の頃、黒田家に仕官して、そののち筑前を去るのだが、それ以後、柴任には門人がなかった、という奇妙な話である。
 もちろん、これは、筑前黒田家中時代に柴任が吉田実連を弟子にした、それ以外に柴任の正系はない、という含みで語られていることである。しかし、その後、江戸や大和郡山、それに播州姫路や明石に住んだのだから、柴任に弟子のないはずがないのである。
 ちなみに云えば、おそらく柴任の明石時代であろう、姫路の隣の龍野領の円光寺を拠点とする多田円明流に、柴任の事蹟が残っている。詳しくは[サイト篇]龍野のページを参照されたし、として、ここでは以下のポイントのみ、指摘しておく。
 ひとつは、多田円明流系統図に登場する柴任の名は「道隨」「重矩」で、これは柴任晩年の名号である。「重矩」は本庄家別冊家系譜にも出る名であり、龍野の円明流系統図にある道隨重矩という名号から、柴任が龍野に関与したのが晩年であることが知れる。
 次に、柴任が龍野円光寺の円明流に、どのように関与したか。円明流系統図に、多田円明流始祖・多田祐久が柴任の弟子になり教えを受けたという記事がある。そこに「古流」の免許を得て後、柴任重矩に隨って「当流」に伝えたとあるが、この「古流」とは三浦から受けた多田頼祐伝来の円明流の流儀であり、「当流」は柴任の武蔵流を伝えているのである。
   (古流) 宮本武蔵→多田頼祐→三浦延貞→多田祐久
   (当流) 宮本武蔵→柴任重矩→多田祐久
 三浦源七延貞から多田平之丞祐久に宛て出した宮本流免許状は、延宝九年(1681)の時期記載がある。それが「古流」の免許。加えて、多田祐久は晩年の柴任と師弟関係にあった。柴任は明石に住んでいたし、とくに貞享四年(1687)から数年間は姫路城主・本多忠国に仕えたことがあった。多田祐久が柴任に隨仕したのはこの時以後のことであろう。
 これに対し、『峯均筆記』によれば、福岡黒田家臣・吉田実連が、明石在住の柴任から一流相伝したのは、延宝八年(1680)であり、また立花峯均が、明石で柴任から相伝したのは、元禄十六年(1603)のことである。したがって、柴任の多田祐久への伝授は、九州の相伝者に前後するのである。
 このようにしてみれば、まさに柴任が吉田実連や立花峯均に相伝したのに平行して、播州龍野の円明流、多田祐久に相伝していたのである。『峯均筆記』は、柴任は筑前を離れてから弟子はいない、相伝者はいないという排他的なポジションを示すが、『峯均筆記』が描く歴史とは別の歴史が存在するのである。
 ちなみに、円明流系統図は享保六年(1721)の作製である。これに対し、『峯均筆記』は享保十二年の峯均奥書がある。したがって、両者はほぼ同時期の資料である。
 円明流系統図は見ての通り、宮本武蔵の初期の弟子たちを列記し、その最後に柴任道隨重矩の名を記している。つまり、柴任は武蔵の直弟子になっているわけだ。厳密にいえばこれは誤りなのだが、これは柴任が、若年のころ武蔵から直接指導を受けたとでも語ったことが、ここに反映されたものとみえる。流派系図は、諸家系図と同じく、先祖を大きく見せたがるものである。それともう一つ、龍野の多田円明流において柴任の果たした役割がいかに大きかったか、それを裏づける扱いである。
 また興味深いことに、柴任の弟子のポジションにおいて、吉田太郎右衛門(実連)を立花專太夫(峯均)が横並びにしている。筑前二天流では、柴任美矩→吉田実連→立花峯均という縦の系統次第であるが、ここでは立花峯均は柴任の相伝者なのである。これは、『峯均筆記』の自記をみればわかるように、立花峯均が明石で柴任から直接相伝を受けたことと合致している。したがって、これも柴任から聞いた話が反映されているとみなすべきである。このように、多田円明流系統図には、晩年の柴任からの情報が入っている。興味深い経緯である。
 それにしても、逆に、多田円明流の柴任門人が、『峯均筆記』ではまったく排除されているのが面白い。多田円明流系統図には、柴任の弟子として、「河村弥兵衛」という名もみえる。「御旗本」とあって、柴任が江戸にいたときの門人かもしれぬという以外、これも不明だが、いづれにしても多田円明流系統図に記載された柴任の門人は、吉田実連と立花峯均のほかに、河村弥兵衛と多田祐久の二人があったのである。
 さらに云えば、讃岐の柴任門流のことがある。龍野円明流史料のうち新発見の「諸流覚書」(仮題、個人蔵)には、「関流 二刀 武蔵流」とあって、《柴藤道隨といふ者、是を遣ふ。今、讃岐ニ有るよし》とある。つまり、武蔵流の二刀に「関流」という流派があって、十八世紀中期の当時、讃岐で伝承されていたが、これが「柴藤道隨」、つまり柴任美矩から派生した武蔵流だというわけである。
 これは柴任が讃岐へ行って教えたのではなく、讃岐の者が播磨の姫路・龍野近辺にいたのである。というのも、丸亀京極家の飛び地一万石相当の領村が、揖保川河口周辺にあり、揖東郡興浜村に陣屋があった。おそらく、その関連であろう。
 もともと京極家は、丸亀へ移る以前、十七世紀中期、寛永から明暦にかけて、約二十年ほど龍野城主であった。当時、京極家の家中で、龍野円光寺の多田頼祐(祐甫)の武蔵流を学んだ者もあっただろう。しかし、丸亀へ移った後も、京極家領地が龍野近くの海岸部にあって、興浜村の陣屋に赴任していた者が、柴任から教えをうけたものらしい。
 この讃岐の柴任門流は「関流」とある。この流派については目下委細不明だが、「関流」という以上、その創始者は関氏某であろう。この関氏が柴任美矩から武蔵流の二刀を学び、讃岐へそれを伝えたのである。
 そうしてみると、柴任美矩の門葉は、吉田実連や立花峯均といった筑前二天流だけではない。龍野円明流史料が示す範囲だけでも、播磨龍野の多田祐久、江戸の旗本・川村弥兵衛がいるし、さらには、上記の如く、讃岐の関流の創始者・関氏某がいたのである。
 そして、むろん、本多家の家臣にも門人があっただろう。柴任は、大和郡山と姫路で、前後二回、数十年間本多家に仕えている。とすれば、本多家中に柴任の門人があったはずである。
 以上、ようするに、柴任の門人はあちこちにいたのである。しかし、柴任が筑前を去って後、門人はいないとする『峯均筆記』は、武蔵→寺尾孫之丞→柴任美矩→吉田実連という、唯一人相伝の排他的な一本線の系統を強調しすぎる性格がある。
 したがって、柴任には他に兵法門人はいない、という『峯均筆記』の書きっぷりには注意を要する。柴任には江戸でも大勢門人がいたとは、他ならぬ『峯均筆記』の記事である。柴任の門人は各地に多数あったと思われる。それが歴史から抹消されてしまうのは、一般に歴史というものが、「書き残したものが勝ち」の世界だからである。




柴任関係地図



円光寺 たつの市龍野町下川原


*【多田氏系譜】
○祐全―祐欣―祐妙―祐恵┬祐応┐
            └祐閑│
┌――――――――――――――┘
├祐仙―祐山┬祐栄
├頼房   │ 広島へ
頼祐………├祐久―勝久┬種久
└祐信   └祐願→  └紀久→
       円光寺嗣


*【多田円明流略系統図】
宮本武蔵玄信
┌――――――┘
├落合忠右衛門光経
├多田半三郎頼祐――――――――┐
├山田淤泥入          │
├石川主税清宣         │
├市川江左衛門         │
├寺尾孫之丞――寺尾求馬    │
柴任道隨重矩┬吉田太郎右衛門 │
       ├立花専太夫   │
       ├河村弥兵衛   │
┌―――――――――――――――┘
└三浦源七延貞┴多田源左衛門祐久→
         (多田円明流祖)


龍野歴史文化資料館
円明流系統図 部分

*【円明流系統図】
《印可 柴任道隨/重矩 本田中務太輔様仕、其後浪人、播明石在卒》



讃岐と播磨

個人蔵
諸流覚書 関流記事
 さて、『峯均筆記』の記者・立花峯均にとって、自身接した重要人物の一人であるこの柴任美矩は、明石で病死する。多田円明流系統図にも、「本田中務太輔」(本多忠国)に仕え、その後浪人して、播州明石に在り、そこで卒した、という記事がある。
 柴任の卒年は、『峯均筆記』によれば、《宝永三年丙戌閏八月廿日、病テ家ニ卒ス》とあって、宝永三年(1706)である。しかるに、これは以下の諸点からして、明らかに誤伝である。
 明石の柴任墓碑右側面には、文字欠損があって月日までは見えないが、「寶永七庚寅年」という卒年が読める。つまり、柴任歿年は、宝永三年ではなく、宝永七年(1710)なのである。
 この件につき、上記の大塚藤實の記録(世記)は、《寶永七年庚寅閏八月二十日、明石ニ卒ス》と記録している。したがって、閏八月二十日という月日は一致するが、『峯均筆記』は「七年」を「三年」と間違えたということである。
 また、本庄家別冊家系譜も、同様に、《宝永七年閏八月廿日卒》とある。もちろん、本庄家別冊家系譜によれば、柴任が故郷肥後の実家の甥(正しくは甥の子)・本庄喜助へ、甲冑その他道具や文書等を贈ったが、それが宝永七年四月三日。柴任添状の期日が三月十九日。ということは、すくなくとも宝永七年の三月までは、柴任は生きていたことになる。
 柴任美矩歿年は、宝永七年の方が正しい。おそらく、これは立花峯均の記憶違いというよりも、テクストの問題とみなすべきかもしれない。すなわち、我々の参照しうる『峯均筆記』は立花峯均の原本ではなく、後世の写本なので、書写伝承過程で誤写があった可能性もあろう。原本ではなく写本である以上、こういう問題はつねに発生する。
 しかるに、立花峯均の孫弟子・丹羽信英が後年越後で書いた文書には、柴任歿年を《寶永三年丙戌八月廿日卒ス》と記している(兵法列世伝)。とすれば、筑前二天流のうち立花峯均の系統では、柴任の歿年を宝永三年としてきたのである。丹羽信英は、「閏八月」を「八月」として、誤伝をさらに増幅させているのだが、それはともあれ、結論としていえば、宝永三年卒という誤伝は、立花峯均の段階ですでにあったようである。
 さて、柴任が明石で死んだ年の前年、宝永六年には、柴任相伝門人の吉田実連が筑前福岡で死んでいる。柴任は弟子よりも少しだけ長生きしたのである。
 柴任が吉田実連に渡した五巻の兵書(五輪書)は、現存吉田家本にその跡をとどめている。そこには、柴任が吉田実連に与えた相伝証文があり、これが柴任の文章としては現存する唯一のものである。それをよめば、こうある。
――武州は、当流の究極の兵書五巻を、寺尾(孫之丞)信正に伝え、私はこれを受けついで、(武州以来)三代の兵法を継ぐといえども、いまだ武州の心(真意)を得ることができない。しかれども、貴殿はこの道に志あって、二十六年の間たえず修行してきた。不相応にも私が受けついだところ、当流の一通りを伝授する。五巻の書を残らず相伝するものである。兵法においてろく(陸・平衡不偏)というのは中立の位であり、しずかなること、岩のごとくなって、敵に当ること、これが直通である。敵(の後手)につくことなかれ。敵をここに捕まえて、剣を踏むのである…。
 この文章については、後の別ページで解説があろう。相伝証文という形式的文書ながら、柴任美矩という人物の一端が窺い知れる文面である。
 また、柴任が死んだ宝永七年のことだが、この年、立花峯均はどこで何をしていたか。ここが武蔵周辺史の面白いところなのだが、立花峯均は、宝永五年(1708)罪せられ玄界灘の孤島・大蛇島に流されており、宝永七年にはまだ流刑の最中なのである。立花峯均はさらに五年後、ようやく赦免されて島から帰るのである。  Go Back

柴任墓碑 寶永七庚寅年

*【本庄家別冊家系譜】
《其後宝永七年閏八月廿日卒于明石領中ノ庄。子孫無シ。号一鑑道随》
宝永七年四月三日、着領ノ冑二枚甲一領、其余雑具、并先主ヨリノ折紙[三枚]、仲間藤次郎ト云者ヲ付、甥本庄喜助ニ贈ル、其状ニ云。
 (柴任美矩書状写)
態以飛脚申入候。其元御一門中、御無事御座候哉。角左ヱ門殿可為御息災と存候。拙者去年六月中旬より相煩、于今聢〔しか〕と無御座候。内々申談候、我等着領之具足甲弐両、此度進申候。御請取可被成候。以飛脚遣可申と存候得共、船中崎之道中無心許、家来壱人遣申候。崎より熊本迄之たちん、其元ニて御拂せ可被成候。此仲間、明石領長坂村と申所之庄屋之倅ニ而、奉公能いたし申候者ニ御座候。其元ニ而御馳走被成可被下候。若熊本見物仕度申候者、案内被添、一両日中も逗留被仰付可被下候。猶期後音之時候。恐惶謹言
 三月十九日   柴任道随
             重矩(花押影)
 本庄喜助様
    人々御中
尚々、爰許橋本七郎兵衛一家無事ニ居申候 》


*【柴任美矩→吉田実連 相伝証文】
《武州、一流至極之兵書五巻、寺尾信正ニ傳、我是ヲ請テ、三代之兵法ヲ次と云とも、未武州之心ヲ不得。然共貴殿此道ニ志有テ、二十六年之間執行不絶。いやしくも我請ル所、一流一通令傳授可申。五巻ノ書不残相傳也。於兵法ろくと云ハ中立之位、しづか成事岩尾のごとく成テ、敵に發事、直通也。敵ニつく事なかれ。敵を爰に取テ、劔ヲ踏者也
             柴任三左衛門
延寶八年申ノ四月廿二日 美矩 花押印
         吉田太郎右衛門殿 》



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