(8)芦二ツ連レ鳬
最後に記すのは、「芦に二つ連れ鳬」とあるものである。葦の水辺に二羽の鴨という図であるらしい。これは註して、岡部加太夫所持とある。
この岡部加太夫は、長岡家臣の岡部嘉太夫である。先祖附によれば、先祖は岡部九左衛門英時、じつはこの九左衛門、武蔵に属従していた若党であったらしい。岡部九左衛門の先祖は東国浪人だそうな、という情報しか岡部氏先祖附にはない。岡部九左衛門は武蔵に従者として仕え、そして武蔵末期に長岡寄之に九左衛門のことを頼んだので、武蔵の死後、寄之が九左衛門を召抱えたという経緯である。以後、岡部氏は長岡家に仕えた。
この岡部氏のことは、すでに前に高田貞行作の刀の話のところで言及があるので、当該箇処を参照していただきたい。この「芦に二つ連れ鳬」という絵画作品も、高田貞行作の刀とともに、岡部氏先祖の九左衛門が主人の武蔵から贈与されたものであろう。高田貞行は寿之に召上げられ、のちに道家平蔵に与えられたが、この「芦に二つ連れ鳬」は岡部家に伝わっていたのである。
ここで名が出た「岡部加太夫」は、岡部嘉太夫英虎のことであろう。この英虎の曾祖父が岡部九左衛門、武蔵に仕えた人である。
先祖附によれば、岡部嘉太夫英虎は、実は宗幸太夫二男で、岡部嘉太夫英明の養子になった人である。寛延二年(1749)七月養子になり、翌月養父死亡して家督知行百石を相続した。宝暦九年に減知三十石となったが、その後足高・役料を得ている。明和三年(1766)御奉行副役、座配御鉄炮頭次座、同年、座配持懸りで伝習堂御目附役、同五年(1768)庸之御附、明和八年(1771)病死ということである。
このことからすれば、岡部嘉太夫英虎は、先代の英明とともに、橋津正脩がよく知っていた人で、この記事は正脩の『武公伝』にすでにあったかもしれない。景英は父正脩の記事をそのまま、ここに書いたのである。しかしまた、英虎は橋津正脩よりも長生きしていたから、景英が直接これを聞いた可能性もある。
ともあれ、『武公伝』がここに記すのは、「芦に二つ連れ鳬」の画である。これが葦の水辺に二羽の鴨という図だとすれば、該当作品はないであろうか。前出の寄之秘蔵の三幅対「達磨浮鴨図」は左右幅に一羽ずつ描き分けたものである。それに対し、この「芦に二つ連れ鳬」は二羽の鴨がいる図である。
これも現存作品にはそのままで相当するものがなさそうであるが、大正期の『宮本武蔵遺墨集』の収録写真に、「浮鴨」とあるものを参考作品として挙げることができる。これは「熊本 紫藤猛君蔵」とあり、また昭和戦前の『畫人宮本武蔵』(添田達嶺)でも「熊本 紫藤家蔵」とあって、近代しばらく紫藤家の所蔵であったらしい。写真でみるかぎり、「達磨浮鴨図」に劣らぬ画作のようだが、近年では見かけないものである。
もしこれが、『武公伝』にある岡部加太夫所持の「芦に二つ連れ鳬」だとすれば、八代の岡部家から離れ、その後の経路は不明だが、近代には熊本の個人所蔵に帰していたのである。ただしそれも、何か証拠とてなく、可能性の次元のことである。『武公伝』の浮鴨図、「芦に二つ連れ鳬」も、これとは別物で、そしてすでに失われてしまったかもしれない。
以上が『武公伝』が記録した武蔵書画作品である。豊田家所蔵のものを含め、ここにリストアップされているのは、所持者をみるかぎりにおいて、おおむね八代関連の人々である。したがって、これらは橋津正脩と豊田景英の知見の範囲に属する諸作品なのであろう。
それゆえ『武公伝』に、「このほか多数あるが、ここでは省略する」というのは、熊本関係の武蔵作品がほぼ抜けているからである。とくに熊本城主・細川家伝来の重要作品があり、『武公伝』の記者は、伝聞によって当然それを知っているはずだが、それをあえて語らない。この節義については、当時の武士が抱えた複雑な事情があるから、むしろここでは彼の「減筆法」をみておくべきである。
また、この『武公伝』の武蔵書画作品リストのうち、同定しうる現存作品はほとんどない。言い換えれば、他は散佚し失われてしまったのである。物持ちのよい肥後ですら、そういう状態なので、他は推して知るべしである。ただ、『武公伝』が記した諸作品は、十八世紀中期にその存在が確認されていたということで、具体的な図柄までは知れないが、これはこれで武蔵研究の一資料たるべきものなのである。
豊田景英は『二天記』ではこの武蔵作品記事を割愛している。したがって、これは『武公伝』によってしか知りえない情報である。その意味で、武蔵書画研究にとっては貴重な証言と云えよう。
Go Back
|
*【岡部氏先祖附】 《私高祖父岡部九左衛門[英時]儀、先祖は東国浪人の由ニて、新免武蔵殿ニ属居申候処、正保二年五月武蔵殿病中ニ要津院様え御頼被申候故、御家ニ被召抱、歩御小姓ニ被召出、其後覚雲院様御代、御中小姓被召直、崇芳院様御附ニ被仰付相勤申候処、老極仕候付奉願御休被成、弐人扶持被為拝領置、其以後病死仕候》
*【岡部家略系図】
○岡部九左衛門―嘉太夫英武┐
┌―――――――――――┘
└嘉太夫英明=嘉太夫英虎
*【岡部氏先祖附】 《亡父岡部嘉太夫[英虎]儀、右の嘉太夫養□□□実は宗幸太夫二男ニて、宗清之進と□□□□元年十二月弘之公御児小姓ニ被召出、御扶持方衣類代被為拝領相勤居申候内、寛延二年七月岡部嘉太夫養子ニ被仰付、名を幸次郎と改申候、同年八月養父病死仕候ニ付、同十月家督御知行百石無相違被為拝領、(中略)当御代同(明和)三年五月御奉行副役被仰付、御役料五石被増下、座配御鉄炮頭の次座ニ被附置候。同九月御奉行副役被成御免、座配持懸りニて伝習堂御目附役被仰付、御足高直ニ被為拝領、外ニ御役料五石被下置候。同五年七月庸之公御附ニ被仰付、御足高御役料□□□□相勤居申候処、明和八年四月病死仕候》

浮鴨図 熊本紫藤家旧蔵
|