宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   14  Back   Next 

 
  45 武蔵の書画作品
一 武公書畫餘多アリ。戦氣 [眞大文字。豊田家
    傳]

一 寒流帯月澄如鏡 [草文字掛物也。内家有リ](1)
一 野馬[掛物] 左ハ立駐リ、右ハ奔破スル像
    是ハ二刀ノ左右ニ比シテ書タモウ也 (2)
一 岩上鵜并自誓書軸 [正保二年五月十二日ト
    有リ]

    是ハ皆豊田家ニ傳ハル (3)
一 三幅對。中ハ達磨、左右ハ芦鳬
    是ハ二刀ニ比シ画タマヱリ
    寄之公ノ秘蔵ニテ、今八代御城ニ有リ (4)
一 枯木鴉 [松井土岐殿所持] (5)
一 枯木鵙 [佐藤九左衛門所持ナリ] (6)
一 柳ニ鷺 [中川権太夫所持ナリ] (7)
一 芦二ツ連レ鳬 [岡部加太夫所持]
  此外數多在、爰ニ略ス。 (8)

一 武公の書画は多数ある。戦気 [真大文字。豊田
    家に伝わる]

一 寒流帯月澄如鏡 [草文字、掛物である。内家有り]
一 野馬 [掛物] 左は立ちどまり、右は奔破する像
    これは二刀の左右に比喩して描かれたのである
一 岩上の鵜ならびに自誓書の軸 [正保二年五月十二
    日とあり]

    これはみな豊田家に伝わる
一 三幅対。中は達磨、左右は芦鳬〔かも〕
    これは二刀に比喩し画かれた
    寄之公の秘蔵にて、いま八代の御城にあり
一 枯木鴉 [松井土岐殿所持]
一 枯木鵙 [佐藤九左衛門所持である]
一 柳に鷺 [中川権太夫所持である]
一 芦に二つ連れ鳬 [岡部加太夫所持]
  このほか多数あるが、ここでは略す。

  【評 注】
 
 (1)武公書畫餘多アリ。戦氣…
 武蔵の書画作品に関する記事である。これは、『武公伝』の当時、どのようなものが武蔵作品として伝えられていたか、を示す貴重な史料である。
 武蔵作品はその多くは散佚してしまったが、肥後は物持ちのよい土地柄であったから、幸いにも武蔵作品がかなり残った。『武公伝』は、「武公、書画あまたあり」という。今日武蔵作品とされるものの多くは、武蔵がこの肥後で遺したものである。しかし散佚したものも多い。それゆえ、現存作品と、この『武公伝』の記事を照合してみることができる。

 最初に挙げてあるのは、「戦氣」、註記して、真大文字、豊田家に伝わるとある。となると、今日の我々には、「戦氣」と大書して、その下に「寒流帯月澄如鏡」と一行書きした、例の軸が想起されるのだが、これはそれとはどうも違うらしい。
 それというのも、「寒流帯月澄如鏡」の方は、『武公伝』では、それとは別に、草文字、掛物であると記している。ということは、『武公伝』によるかぎり、真大文字「戦氣」と草書「寒流帯月澄如鏡」は別の作品である。
 すると、今日伝わっている、「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」を一つにした一行書(松井文庫蔵)は、『武公伝』が記録したものとは別物である。
 大正期の『宮本武蔵遺墨集』(森大狂編)で確認すると、一行書「戦氣 寒流帯月澄如鏡」には別のヴァージョンがあった。これは「熊本 寺尾計三君蔵」とあって、寺尾家伝来のものらしいが、こちらはご覧のように、明らかに下手な模作ないし偽作である。
 ともあれ、『武公伝』によれば、真大文字「戦氣」と草書「寒流帯月澄如鏡」は別の書軸である。とすれば、これをどう見るか、ということである。
 従来の武蔵研究においては、書「戦氣」に関して、こうした『武公伝』記事との相違を指摘して言及したものがない。それゆえ、参考にすべき先行考察もない。
 そこで考えるに、書作品は何も一つに限定されるものではない。武蔵は「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」の文字がお気に入りで、それらを何度も書いた。そして現存書幅のように「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」を一つにした書もあり、また『武公伝』の記事のように、「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」をそれぞれ別に書いた書もあったということであろう。
 他方また、後人による断裁の可能性もある。先に「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」を一つにした軸があって、それを断裁して「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」に分割し、それを別々の軸に表装しなおして、ようするに一つの作品を二つの作品にしてしまったというケースである。こういうことは、今日では一種の犯罪行為とみなされかねないのだが、昔の人は違った。中世以来茶の世界では、書画の断裁やトリミングによるサイズ変更はよくあることである。
 しかしながら、『武公伝』の記事にある、「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」のそれぞれの軸が現存しない以上、それは確認できない。したがって、『武公伝』の「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」が一つのものを断裁して二つにしたものだとも断定できない。ここは、武蔵は「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」をそれぞれ別に書いた、それが『武公伝』の時代には残っていたと見ておく。
 ここからもう一歩踏み込んで言えば、もし武蔵が、『武公伝』の記事のいうような、真大文字「戦氣」と草書「寒流帯月澄如鏡」をそれぞれ別に書いたものしか遺さなかったとすれば、話はどうなるか。結論は、云わずと知れたことで、一行書「戦氣 寒流帯月澄如鏡」は、それを一つに「編集」した後人の手による作品、ということになる。
 上述の寺尾家伝来の一行書「戦氣 寒流帯月澄如鏡」(森大狂編『宮本武蔵遺墨集』所収写真)の方は、明らかに模作であるから話は早い。これには、わざわざ「二天道楽」の落款と香炉印が入れてある。むろん落款「二天道楽」も香炉印も後人の手によるものである。これにモデルがあったとすれば、松井文庫蔵の一行書あるいは同様作品である。
 それゆえ、この松井文庫蔵一行書「戦氣 寒流帯月澄如鏡」が武蔵の真作かどうか、ということが問題である。『武公伝』には落款印章の記録はないが、松井文庫蔵の一行書には二天朱印と「道楽」の落款がある。この落款「道楽」は十八世紀中期以後の後入れとみなしうる。既述のように、当時、武蔵位牌に「二天道楽先生神儀」と記すようになっていた。いわば「道楽先生」は十八世紀後半の流行であった。
 この場合、問題は、二天朱印である。印章のケースは、武蔵自身が押印したものか、それとも後世の人間による後入れなのか、にわかには断定できない。二天印の印影から鑑別できそうだが、それも世間で思われているほど話は簡単ではない。というのも、贋作に真印を後入れしたばあいもあれば、逆に、武蔵の真作に後人が偽印を押印した、という真作+偽印のケースもありうるからだ。従来の説の欠陥は、そういうケースを想定せず、印章偽印を見て、真作を偽作とみなしてしまうことにあった。
 以上のようなことがあるので、松井文庫蔵一行書「戦氣 寒流帯月澄如鏡」についても、その真贋はただちには判断できない。しかし、それよりも、最も大きな障碍は、真大文字「戦氣」と草書「寒流帯月澄如鏡」を一行書にするというこの体裁である。そもそも、こういうことを武蔵はやったであろうか、ということである。
 上記のように、『武公伝』によれば、「戦氣」と「寒流帯月澄如鏡」の二点が豊田家にあるという。それらは別の作品であった。この豊田家本が、一行書の書「戦氣 寒流帯月澄如鏡」ではなかったことは改めて確認しておきたい。
 『武公伝』には、これらがいかなる経緯でこれを入手したものか記されていない。豊田正剛は武蔵関係文書を蒐集していたようなので、おそらくこれも正剛が入手したものであろう。そして「豊田家に伝わる」というからには、この記事の書き手は、孫の景英であろう。橋津正脩ならば、「豊田家」とは書かないからである。これは、既出事項の「豊田家にあり」という記事と同様である。記事の基本的な部分は正脩段階ですでにあったと思われるが、とくに作品現所持者については、景英が確認し、加筆した痕跡のある記事である。  Go Back















松井文庫蔵 宮本武蔵遺墨集
戦氣 一行書
左;松井文庫所蔵 右:寺尾家旧蔵













松井文庫蔵 宮本武蔵遺墨集
同上戦氣 印章落款
左;松井文庫蔵 右:寺尾家旧蔵

 
 (2)野 馬
 次は、「野馬」とあって、これは絵画作品で「野馬図」。これも掛物だというから軸装した画であろう。そうして、左は立ちどまり、右は奔破する像、とあるから、立ち止まった馬と奔馬を描いた画だと知れる。しかし、これだけでは、これが一幅の画か、それとも二幅一対の作品であるか、それは不明である。
 これは現存していない絵画作品である。ただし、左は立ちどまり、とあるから、もし二幅一対の作品なら、左幅の馬は、たとえば右掲のような野馬図(松井文庫蔵)であったかもしれない。
 ただし、『武公伝』の記事にある「左は立ちどまり、右は奔破する像」が、二幅一対だとすれば、この画は、その作品の片割れだとみなすことはできない。二天印章が右にあるからである。すなわち、「左は立ちどまり」とある二幅一対の作品の左幅だとすれば、この画は該当しないのである。
 『武公伝』の記事は二幅一対とは記しておらず、ただ掛物とするだけだから、その作品は、この二頭の馬を描いた一幅の画とするほかない。とすれば、該当作品は現存しない。
 ところで、『武公伝』は、左は立ちどまり、右は奔破するこの野馬図について、これは二刀の左右に比して、つまり二刀左右に喩して描かれたのである、と書いている。それを描いた武蔵が嘆きそうな、無くもがなの通俗講釈である。これを書いたのは、景英であるが、その作品理解レベルが露呈されていると云うべきであろう。
 武蔵は馬の画をよく描いたはずだが、それらはあまり残っていない。中には、田能村竹田が『山中人饒舌』(天保六年)で記録したように、《又観設色馬十二匹、施朱填粉、極濃厚、而無俗習。至鞍轡鞭鐙諸具、按古式作之》とあって、――着色した馬十二匹の画を観るに、朱を施し胡粉で充填して濃厚を極めているが、通俗的なところがない。鞍轡鞭鐙の馬具にしても、古式をきちんと考証して描いている――ということだから、墨画ではなく、極彩色の絵まであったらしい。
 武蔵は現存「野馬図」より優れた馬図を描いた可能性がある。それゆえ、『武公伝』が記載する「左は立ちどまり、右は奔破する野馬図」は、武蔵画論の観点からして興味あるとこころであるが、まことに残念ながら現存しない。
 なお、この「野馬」について所持者の名の記載がない。しかしながら、前後の記述からすると、これも豊田家所持とみてよい。『武公伝』のこのあたり、はじめに豊田家所持作品を列挙したものである。  Go Back





野馬図 松井文庫蔵


*【山中人饒舌】
《予、蔵宮本武蔵画布袋和尚像。筆法雋頴、墨色沈酣。阿堵一点、奕々射人。又観設色馬十二匹、施朱填粉、極濃厚、而無俗習。至鞍轡鞭鐙諸具、按古式作之》
 
 (3)岩上鵜并自誓書軸
 ここに記してあるのは、「岩上の鵜ならびに自誓書の軸」の二点である。前者は岩上にいる鵜を描いた絵画、そして後者は自誓書、つまり末期に及んで武蔵が五月十二日に書いたと『武公伝』前出の当該記事があり、そこには他も含めてこの自誓書が今豊田家にある、と記していた。既述のごとく、これは「独行道」という名で知られている文書である。
 この項では、以上のように鵜の画と自誓書という書の二つの作品が一緒に記されており、これは豊田家に伝わるとしている。ただし、これらも入手経路について記事はない。
 まず、「岩上の鵜」とあるのは、現存武蔵画にいくつかある鵜図の類いであろう。右掲のように、岩場にいる鵜を描いた画である。一つは、永青文庫蔵の「鵜図」で、こちらは国重文である。もう一つは岡山県立美術館所蔵の「鵜図」である。上記の『宮本武蔵遺墨集』で大正期の所蔵者をみると、前者は「細川護立君蔵」、後者は「嶋田恒信君蔵」とあって、近代の保有者はわかるが、それ以前の伝持経路は不明である。
 さて、『武公伝』の当時、豊田家が所蔵していた「鵜図」は、このうちのどちらか、という問いもあろう。どちらであるにしろ、入手経路の情報があれば公開していただくとよい。それによって、武蔵作品の伝承経路が分かってくるからである。
 ただし、申すまでもなく、『武公伝』の「鵜図」が、これら二つの「鵜図」のどちらかだと決まったものでもない。武蔵は「鵜図」をいくつか書いたことは想像に難くないから、『武公伝』の「鵜図」が、これらとは別物で、どこかに散佚してしまって現存しないと見ることもできる。

 この項のもう一つは、自誓書である。これは、「正保二年五月十二日とあり」というから、その日付があったということである。
 自誓書は、今日「独行道」という名で知られている文書である。『武公伝』では自誓書とのみあってその内容はわからない。他方、『二天記』には、《物事カタツケ極メラレテ、自誓ノ心ニテ書セラル》とあって、「獨行道」というタイトルの十九ヶ条が引用されている。豊田景英は、自家伝来の自誓書――つまり『武公伝』のここに記すもの――を見て書いたはずだから、それは間違いないところである。
 すでに述べたように、問題は、現存自誓書(野田家旧蔵、現在熊本県立美術館所蔵)が『二天記』の十九ヶ条独行道より二つ多い、二十一ヶ条であることだ。となると、武蔵が書いたという自誓書は、十九ヶ条なのか、二十一ヶ条なのか、という珍妙な問いを立てざるをえないのである。





鵜 図 永青文庫蔵
熊本県立美術館蔵
野田家本二十一ヶ条自誓書(独行道)
 ようするに、武蔵が書いたのは二十一ヶ条自誓書で、豊田家に入った自誓書の方が異本なのか。あるいは、両方とも贋作物で、そもそも武蔵は末期に及んで自誓の書などは書かなかったと見ることもできる。
 ともあれ、自誓書にはこうした問題が残されているのである。ただ、野田家本の現存自誓書、いわゆる「独行道」の本文は武蔵自筆だという今日の通説は、根拠を得ない臆説である。器用な贋作制作者なら、武蔵の筆跡に似せることは容易い。筆跡の類似を理由に、武蔵真筆を主張することは、むろんできない相談である。
 それゆえ、『武公伝』のいう自誓の書、つまり「独行道」というタイトルのない自誓書がいかなるものか、興味深いところであり、その発掘を期待したいのであるが、肥後の武蔵作品はあらかた出盡くした観があるので、それは望み薄かもしれない。  Go Back




 
 (4)三幅對。中ハ達磨、左右ハ芦鳬
 この記事には作品呼称はなく、「三幅対。中は達磨、左右は芦鳬」とあるものである。鳬は「かも」で、葦に鴨の図であろう。これが左右にあって、三幅対の中央が達磨だという。これが、(長岡)寄之公の秘蔵で、今も八代城にあるという。
 となると、これはもう話が早くて、現在松井文庫蔵の「達磨浮鴨図」(だるまふおうず)墨画三幅対、がそれである。下掲のような画である。


達磨浮鴨図 三幅対 松井文庫蔵

 中央の達磨像は、いわゆる「蘆葉達磨図」である。それと葦鴨を組合わせて、三幅対にしたものである。ただし、画家武蔵が三幅対にするため書いたか否かは別の話である。
 ここでも、「野馬図」についてと同様、これは二刀に比して、つまり二刀を喩して描かれた、と書いている。無くもがなの通俗講釈が反復されているのである。どうも、この『武公伝』筆者は、左右一対ということになると、オートマティックに連想機械が動くものらしい。
 それはさておいて、この三幅対の画を長岡寄之が秘蔵していたとある。寄之は『武公伝』に再三登場する武蔵関係人物であり、本稿においてもすでに何度か言及されている。武蔵とは養父長岡興長以来の交誼があり、武蔵が肥後に滞在するように取持ちをし、また武蔵が病死するまで、何かと世話をやいたのが、この興長・寄之父子である。
 寄之は武蔵肥後滞在当時は、若年寄として藩政の中枢にいた人物である。この「達磨浮鴨図」を寄之が秘蔵していたとあるが、これは、隠してだれにも見せなかったということではなく、大切に保管していたという意味である。『武公伝』の筆者は、「三幅対。中は達磨、左右は芦鳬」と記し、「今八代御城に有り」とするのだから、伝聞のみならず、これを実見した可能性もある。
 この作品を、寄之は、武蔵生前に贈られたのであろう。死の間際の遺贈物ではなく、まだ武蔵が元気だった頃に寄之に贈ったものであろうと思われる。これが寄之以後も、八代城内に保管されて、『武公伝』のこの記事が書かれる十八世紀後期にも同様であったことが知れる。そして、それが受け継がれて、今日松井文庫蔵となっているようである。  Go Back













達磨浮鴨図 部分
 
 (5)枯木鴉
 さらに六番目に記すのは、「枯木鴉」とあるものである。枯木に鴉〔からす〕という図であろう。これは註して、松井土岐殿所持とある。
 この「松井土岐殿」は、長岡寿之五男の弘之(1714〜65)、いわゆる古城家へ養子に行った人である。古城家というのは、直之の代に、二男裕之(1672〜1747)を独立させて分家として立てたものである。家督四千石で、細川家中では重臣である。二代目が周之(1717〜55)、三代目が周之の従弟で、本家から養子に入った弘之である。宝暦五年(1655)周之が病死して、同年十二月、弘之がこれを嗣いだ。
 そうしてみると、『武公伝』に「松井土岐殿」と記すのは、弘之が家督相続した後でなければならない。それが宝暦五年であるから、この記事は宝暦五年以後に書かれたものである。言い換えれば、この短い一行が、他の事例と同様に、『武公伝』成立問題への証言をなしているのである。
 『武公伝』記事の「松井土岐殿」について、ここで我々が注意しなければならないのは、弘之は、その翌年、明和二年(1765)十月に死去しているから、この年までが「松井土岐殿」が存在した期間である。したがって、『武公伝』が「松井土岐殿」と書くのはこの期間内に限られる。
 他方で、景英の世代ならば、次代の松井求馬賀之(1753〜1800)の所持とするだろう。この「松井土岐殿所持」という文言を書いたのは橋津正脩であろう。それを景英は受け継いだと思われる。
 ただし、後出記事に「岡部加太夫」なる人物が出てくる。この人は岡部嘉太夫英虎のことであろう。英虎は、岡部家へ養子に入る以前、松井土岐弘之の児小姓に召出されていた。英虎は橋津正脩よりも長生きしていた。したがって、この英虎から、「松井土岐殿がご所持であった」と、後に景英が聞いた可能性もある。
 さて、「松井土岐殿」に関する言及が先になったが、『武公伝』が「枯木鴉」と記す武蔵画はいかなるものであろうか。周知のごとく、武蔵には鳥類を描いた作品が多いが、烏もまた描いたようである。『武公伝』のものが「枯木鴉図」だとすれば、我々の知見の範囲に参照すべきものがないではない。
 それは複数あるが、ここでは、前記の『宮本武蔵遺墨集』に「枯木烏」としてある墨画を挙げておきたい。この作品の大正期段階の所蔵者は、「松平保男君蔵」とあって、この人の名から、これは会津松平氏先祖、保科正之(1611〜72)に遡る家筋の所蔵物だと知れる。松平家には、戦前まで、武蔵作品という花鳥十二幀の屏風があった。戊辰戦争にも戦火をまぬがれたという。この烏図はその花鳥十二幀屏風の一つである。ただし、近年では姿を見ない作品である。
 保科正之は、徳川秀忠の息子で、家光の異母弟。むろん、武蔵とどういう縁があったか示す史料はない。したがってまた、近代まで受け継がれた松平家旧蔵武蔵画が、そもそもいかなる経緯で入手されたか、それは知れない。
 しかし、そのように保科=会津松平家に所蔵されていたとすれば、この「枯木烏」は、『武公伝』の「枯木鴉」とは別物である。『武公伝』の「枯木鴉」は現存しないとみなすほかない。  Go Back



*【古城家略系図】

○康之―興長=寄之―┐
 ┌――――――――┘
 └直之┬寿之――┬豊之―営之
    │    │
    └裕之  ├直峯
      │   │
      │   └―弘之
 古城家  ↓     ↓
  ○松井裕之─周之=弘之―賀之
            土岐





宮本武蔵遺墨集
枯木烏図 松平家旧蔵
 
 (6)枯木鵙
 次にに記すのは、「枯木鵙」とあるものである。枯木に鵙〔もず〕という図である。これは註して、佐藤九左衛門所持であると書いている。
 何はともあれ、ここで『武公伝』がいう「枯木鵙」なる画とは、ようするに、今日我々が「枯木鳴鵙図」と呼んでいる作品もしくは同題絵画であろう。現存する武蔵作「枯木鳴鵙図」の代表は、現在和泉市久保惣記念美術館所蔵のもので、周知のごとく、国重文である。
 これは、明治期には書付の主・横瀬氏の所持であったが、大正の『宮本武蔵遺墨集』に「東京 某君蔵」とあって、横瀬氏が手離したらしい。さらにまた添田達嶺『畫人宮本武藏』(昭和十一年)には、これを「枯梢百舌圖(國寶) 東京 長尾家蔵」としてあるから、この段階で長尾氏所蔵となっていたのである。これがのちに久保氏の手に渡り、現在は上記の久保惣美術館所蔵となっている。
 この作品には渡辺崋山(1773〜1841)の筥書がある。また、横瀬氏の書付によれば、渡辺崋山は江戸市中でこの画が売りに出ているのを見つけて、買おうとしたが金がない。そこで、金子金陵のもとで共に画を学んでいる与力須賀川某に頼んで購入してもらい、崋山がのちにこれを所持したという。さらにのちに、明治二十五年(1892)に横瀬氏が東京両国で入手したというわけである。
 そうしてみると、この「枯木鳴鵙図」は、十九世紀はじめには江戸市中で売りに出ていたのである。たしかに、武蔵作品は以前から人気が高く、江戸の古書店などに出回っていたらしい。
 立花峯均の孫弟子・丹羽信英(兵法先師伝記)によれば、《今モ江戸ニテ見當リ有リ。我徒東武ニ行バ、心ニカケテ可求事ナリ》、つまり、江戸の古書店で武蔵作品が出ていることがあるから、江戸へ行ったときには注意して探してみるように、と述べている。また同書によれば、丹羽信英の父・桐山丹英は立花峯均の相伝弟子だが、彼が息子の丹羽信英に語ったところによれば、実際に桐山丹英は江戸でそれを入手し、さらに狩野派の絵師にそれを見せて、云々という話を記している。これは享保の頃と思われるから、十八世紀前期には、すでに江戸市中で武蔵作品は商品として流通していたのである。
 こういうことを述べるのは、『武公伝』が武蔵作品をリストアップしている時期より三十年以上も前に、桐山丹英が江戸市中で武蔵作品を買ったことがあるというあたりが興味深いからである。そして、渡辺崋山が「枯木鳴鵙図」を江戸市中で見出す前に、つまりその八十年ほど前に、すでにそういう状況があったのである。
 さて、『武公伝』のいう「枯木鵙」に話をもどせば、佐藤九左衛門なる者が、それを所持していた。この『武公伝』記事が正脩によるものだとすれば、時期は遅くとも一七六〇年代前半だということになる。その後のこの画の行方が知れないから、これが江戸へ流れた可能性もある。
 とすれば、渡辺崋山が江戸市中で見つけた「枯木鳴鵙図」が、『武公伝』の記事にある佐藤九左衛門所持の「枯木鵙」である可能性も否定できない。ただし、それも可能性の線をたどれば、という話であって、何か傍証資料があるわけではない。
 あるいは、これとは別に島田美術館蔵の「枯木鳴鵙図」もある。それが『武公伝』の「枯木鵙」に相当するという可能性もある。しかしながら、これも渡辺崋山が江戸市中で見つけた「枯木鳴鵙図」と同様に、『武公伝』の「枯木鵙」だという確証はない。それゆえまた、武蔵は「枯木鳴鵙図」をいくつか遺しており、その一つが『武公伝』の「枯木鵙」であり、そしてそれは散佚してしまって現存しないと見た方がよい、ということもある。
 なお、ここに所持者として名が出ている「佐藤九左衛門」は不詳。八代の長岡家臣ではなく、熊本の細川家臣に佐藤九左衛門という者あり、知行二百石。先祖附によれば、剣術や鎗術の武芸出精で賞詞をうけてもいる人物らしいが、この佐藤九左衛門、なにせ天明二年(1782)十九歳で家督相続とあるから、『武公伝』の記述時期と年齢が合わない。したがって『武公伝』のいう佐藤九左衛門とは別人であろう。ゆえに、この「佐藤九左衛門」については、今後の探求を俟ちたい。  Go Back





枯木鳴鵙図
和泉市久保惣記念美術館蔵




*【兵法先師伝記】
《先師常ニ繪ヲ好ンデ画ケル。墨画多シ。達摩ヲ書レシモ有、或ハ唐犬ヲ烏ノナブル処ヲ画、或ハ、岡ニ雉子一羽居タル圖有リ。大方墨繪ナリ。今モ江戸ニテ見當リ有リ。我徒東武ニ行バ、心ニカケテ可求事ナリ。印ハカメマルノ形、中ニ古文字ニテ名乗アリ。繪大方古ビテ、繪所ニテモ印ヲ隠シテミスレバ、家ノ画ト見違事有トゾ。岡ニ野雞ノ画、予ガ父桐山丹英江戸ニテ幸ニ求得テ、秘蔵ノ余リ印ヲ隠シテ狩野家ニミセシニ、一見シテ、「是ハ先祖光信ガ画ニテヤ」ト言レシガ、能々見テ、「否、左様ニテハナク候。コレハ承リ及タル宮本武蔵ト申人ノ繪ニ候ナン。誠ニ名画ニ候得共、習ナキ処御座候」ト言シカバ、印ヲ披テミセケルニゾ、弥感心シテ、「隨分御秘蔵披成ヨ」ト言シ由、予ガ十三歳ノ比、父ノ語リシヲ今ニ覺ヘタリ》
 
 (7)柳ニ鷺
 これは「柳に鷺」と記すものである。柳の木に鷺がいるという図であるらしい。これは註して、中川権太夫所持であると書いている。
 この中川権太夫は、八代の長岡家臣である。先祖の中川伊予重高が、丹後久美浜時代に松井康之に召抱えられて以来の古い属臣である。その子・五兵衛重吉の代は、関が原役・大坂陣の時代で、親の知行百五十石をさらに加増されて四百石にした。その次の五兵衛有重は興長に仕え、細川家移封にともない豊前から肥後へ移った世代である。有重も本知百五十石からはじまり順次加増されて四百石になった。五兵衛嫡子が久左衛門有久、父の死去により先知百五十石相続して、諸役を勤めていたが、貞享四年(1687)病気になり役儀辞退を申し出たところ、どういうわけか直之の気に入らず、知行召上げ、中川家は扶持米取りに落ちた。
 先祖附によれば、この久左衛門有久の嫡子に中川五右衛門有友という人物がある。彼は前名が権太夫である。元禄四年(1691)直之御目見、直之死後、寿之に代替わりして、父久左衛門在勤のかたわら、嫡子権太夫も寿之に仕えた。元禄十三年(1700)十二月八代の桂光院御部屋から出火、寿之は急遽熊本から早馬で八代へもどった。そのとき権太夫は御供して、それが達者だというので褒美を賜った。実はこのとき、八代から早馬で熊本の寿之に急を報せたのが、豊田正剛である。
 元禄十四年(1701)父久左衛門が隠居し、権太夫が跡目を嗣いだが、寿之の覚えめでたく、そのおり先知百五十石を回復された。その後諸役を歴任し、豊之の代になって享保四年(1719)、名を五右衛門と改め、鉄炮頭、奉行役、熊本御留守居奉行兼帯等々、さらに享保二十年(1735)役儀御免で者頭列、熊本から八代へ引越して式台御番。そうして元文二年(1737)隠居、寛延二年(1749)死去。
 このような履歴をみるに、中川権太夫(五右衛門有友)は豊田正剛より若いがほぼ同世代である。家禄も同じ百五十石である。そして豊田正剛と同じ年に死んでいる。したがって、この権太夫有友を、『武公伝』記事の「中川権太夫」とするには、記述時期と合わないという難がある。
 そこで、さらに中川氏先祖附の記事をたどれば、もう一人、中川権太夫が出てくる。これは、権太夫の孫にあたる人物である。
 有友の長男は病弱で、二男が跡目を継いだ。これが中川貞右衛門有英、豊之の代、元文二年のことである。貞右衛門には実子があったが、幼年で死亡。そこで、後藤三右衛門正房の二男を養子にとった。これが、中川権太夫有房。後に明和五年(1768)、五兵衛と改名した。安永二年(1773)家督相続。おそらく、この中川権太夫有房が『武公伝』記事の「中川権太夫」である。
 豊田景英は、この中川権太夫有房と同じ世代であろう。有房は、先祖附追記を書いた人物であるが、安永四年(1775)竹林流射芸代見を命じられたと書いている。
 竹林流射芸とは弓術、大きくは日置〔へき〕流の一派で、石堂竹林坊如成に発する。尾張や紀伊の竹林流が有名である。これが肥後に伝わった。熊本の時習館の竹林流師範は木原帰雲、その次は浦上瀬兵衛。これは、寺尾孫之丞允門弟の浦上十兵衛の子孫である。
 中川権太夫有房が竹林流射芸代見を命じられたというのは、八代の教衛場で、師範代として教えたということである。同じ頃、豊田景英も、安永三年(1774)から教衛場で二天一流・村上八郎右衛門の代見を勤めている。したがって、同じ長岡家士というだけではなく、八代の教衛場で両人は教えていた。つまり、景英はこの「中川権太夫」とはそういう縁があったということである。
 さて、『武公伝』に中川権太夫所持というその「柳に鷺」の図であるが、現存作品の中には、これにそのまま対応する図柄の画はなさそうである。ただし、鷺の武蔵画ということで参照作品として挙げれば、右のような「鷺図」がある。
 これは前記『宮本武蔵遺墨集』に「松井敏之君蔵」とあるもので、現在松井文庫所蔵である。とすれば、前掲「達磨浮鴨図」と同じく、長岡家伝来のものであろうと思われる。これに対し、『武公伝』のいう「柳に鷺」の図は、別のもので、これも散佚して現存しないもののようである。  Go Back


*【中川氏先祖附】
《父中川五右衛門有友儀、右久左衛門嫡子ニて御座候。幼年の名は伝五郎と申候。元禄四年直之公御目見被仰付、名を権太夫と改申候。父在勤の中、寿之公御次えも折々罷出、熊本御供ニも御雇ニて度々罷出申候。同十三年十二月桂光院様御部屋出火ニ付、寿之公従熊本御早馬ニて被成御帰候節、御供達者仕候付て、為御褒美御紋付御小袖壱ツ被為拝領候。同十四年七月寿之公御代、久左衛門隠居被仰付、権太夫え先知百五拾石被為拝領、御馬廻組ニ被召加、御式台御番相勤申候。同十五年十二月御目付役被仰付、宝永三年八月御小姓頭役被仰付、其後病身罷成候付て御役儀御断申上候処、正徳三年五月御懇の以御意、御町奉行役被仰付、享保四年八月御鉄炮頭被仰付、名を五右衛門と改申候。同十年四月御奉行役被仰付、同十八年正月熊本御留守居御奉行兼帯被仰付、引越相勤申候。其後病身相成候付、御役儀御断申上候処、享保廿年正月願の通御役儀被成御免、御者頭列被仰付、八代え引越、御式台御番相勤申候。元文二年隠居奉願候処、如願隠居被仰付、寛延二年病死仕候》
○中川五兵衛 《私儀、実後藤三右衛門正房二男ニて御座候。養父中川貞右衛門実子御座候処、幼年ニて病死仕候ニ付、私儀養子奉願其後名を権太夫[有房]と改申候。宝暦六子年正月凌雲院様え御目見仕候、明和元[申]年七月親在勤の中、私儀御側御中小姓ニ被召出、思召の旨御座候由ニて、熊本御広間詰被仰付並の御給扶持被為拝領、熊本え引越相勤申候。明和三[戌]年十二月此元御側武具方被仰付、同五[子]年七月御近習被召直、同年十二月名を五兵衛と改可申旨被仰付ニ付、其節より名を相改申候。同年同月御納戸方兼勤被仰付相勤申候。同卯八年七月御納戸兼勤も被成御免御近習被仰付候。尤御納戸方本役差支申候節は助勤仕候様ニと被仰付、其後折々助をも相勤申候。安永二[巳]年閏三月兼々御奉公出精仕、御櫛をも無懈怠相勤申候由ニて御銀被為拝領候。同年九月養父貞右衛門依願隠居被仰付、貞右衛門え被下置候御知行家屋敷共無相違被為拝領、外様御馬廻組被召加、御式台御番相勤申候。同四[未]年四月竹林流射芸代見をも被仰付相勤申候》


鷺 図 松井文庫蔵
 
 (8)芦二ツ連レ鳬
 最後に記すのは、「芦に二つ連れ鳬」とあるものである。葦の水辺に二羽の鴨という図であるらしい。これは註して、岡部加太夫所持とある。
 この岡部加太夫は、長岡家臣の岡部嘉太夫である。先祖附によれば、先祖は岡部九左衛門英時、じつはこの九左衛門、武蔵に属従していた若党であったらしい。岡部九左衛門の先祖は東国浪人だそうな、という情報しか岡部氏先祖附にはない。岡部九左衛門は武蔵に従者として仕え、そして武蔵末期に長岡寄之に九左衛門のことを頼んだので、武蔵の死後、寄之が九左衛門を召抱えたという経緯である。以後、岡部氏は長岡家に仕えた。
 この岡部氏のことは、すでに前に高田貞行作の刀の話のところで言及があるので、当該箇処を参照していただきたい。この「芦に二つ連れ鳬」という絵画作品も、高田貞行作の刀とともに、岡部氏先祖の九左衛門が主人の武蔵から贈与されたものであろう。高田貞行は寿之に召上げられ、のちに道家平蔵に与えられたが、この「芦に二つ連れ鳬」は岡部家に伝わっていたのである。
 ここで名が出た「岡部加太夫」は、岡部嘉太夫英虎のことであろう。この英虎の曾祖父が岡部九左衛門、武蔵に仕えた人である。
 先祖附によれば、岡部嘉太夫英虎は、実は宗幸太夫二男で、岡部嘉太夫英明の養子になった人である。寛延二年(1749)七月養子になり、翌月養父死亡して家督知行百石を相続した。宝暦九年に減知三十石となったが、その後足高・役料を得ている。明和三年(1766)御奉行副役、座配御鉄炮頭次座、同年、座配持懸りで伝習堂御目附役、同五年(1768)庸之御附、明和八年(1771)病死ということである。
 このことからすれば、岡部嘉太夫英虎は、先代の英明とともに、橋津正脩がよく知っていた人で、この記事は正脩の『武公伝』にすでにあったかもしれない。景英は父正脩の記事をそのまま、ここに書いたのである。しかしまた、英虎は橋津正脩よりも長生きしていたから、景英が直接これを聞いた可能性もある。
 ともあれ、『武公伝』がここに記すのは、「芦に二つ連れ鳬」の画である。これが葦の水辺に二羽の鴨という図だとすれば、該当作品はないであろうか。前出の寄之秘蔵の三幅対「達磨浮鴨図」は左右幅に一羽ずつ描き分けたものである。それに対し、この「芦に二つ連れ鳬」は二羽の鴨がいる図である。
 これも現存作品にはそのままで相当するものがなさそうであるが、大正期の『宮本武蔵遺墨集』の収録写真に、「浮鴨」とあるものを参考作品として挙げることができる。これは「熊本 紫藤猛君蔵」とあり、また昭和戦前の『畫人宮本武蔵』(添田達嶺)でも「熊本 紫藤家蔵」とあって、近代しばらく紫藤家の所蔵であったらしい。写真でみるかぎり、「達磨浮鴨図」に劣らぬ画作のようだが、近年では見かけないものである。
 もしこれが、『武公伝』にある岡部加太夫所持の「芦に二つ連れ鳬」だとすれば、八代の岡部家から離れ、その後の経路は不明だが、近代には熊本の個人所蔵に帰していたのである。ただしそれも、何か証拠とてなく、可能性の次元のことである。『武公伝』の浮鴨図、「芦に二つ連れ鳬」も、これとは別物で、そしてすでに失われてしまったかもしれない。

 以上が『武公伝』が記録した武蔵書画作品である。豊田家所蔵のものを含め、ここにリストアップされているのは、所持者をみるかぎりにおいて、おおむね八代関連の人々である。したがって、これらは橋津正脩と豊田景英の知見の範囲に属する諸作品なのであろう。
 それゆえ『武公伝』に、「このほか多数あるが、ここでは省略する」というのは、熊本関係の武蔵作品がほぼ抜けているからである。とくに熊本城主・細川家伝来の重要作品があり、『武公伝』の記者は、伝聞によって当然それを知っているはずだが、それをあえて語らない。この節義については、当時の武士が抱えた複雑な事情があるから、むしろここでは彼の「減筆法」をみておくべきである。
 また、この『武公伝』の武蔵書画作品リストのうち、同定しうる現存作品はほとんどない。言い換えれば、他は散佚し失われてしまったのである。物持ちのよい肥後ですら、そういう状態なので、他は推して知るべしである。ただ、『武公伝』が記した諸作品は、十八世紀中期にその存在が確認されていたということで、具体的な図柄までは知れないが、これはこれで武蔵研究の一資料たるべきものなのである。
 豊田景英は『二天記』ではこの武蔵作品記事を割愛している。したがって、これは『武公伝』によってしか知りえない情報である。その意味で、武蔵書画研究にとっては貴重な証言と云えよう。  Go Back


*【岡部氏先祖附】
《私高祖父岡部九左衛門[英時]儀、先祖は東国浪人の由ニて、新免武蔵殿ニ属居申候処、正保二年五月武蔵殿病中ニ要津院様え御頼被申候故、御家ニ被召抱、歩御小姓ニ被召出、其後覚雲院様御代、御中小姓被召直、崇芳院様御附ニ被仰付相勤申候処、老極仕候付奉願御休被成、弐人扶持被為拝領置、其以後病死仕候》

*【岡部家略系図】

○岡部九左衛門―嘉太夫英武┐
 ┌―――――――――――┘
 └嘉太夫英明=嘉太夫英虎

*【岡部氏先祖附】
《亡父岡部嘉太夫[英虎]儀、右の嘉太夫養□□□実は宗幸太夫二男ニて、宗清之進と□□□□元年十二月弘之公御児小姓ニ被召出、御扶持方衣類代被為拝領相勤居申候内、寛延二年七月岡部嘉太夫養子ニ被仰付、名を幸次郎と改申候、同年八月養父病死仕候ニ付、同十月家督御知行百石無相違被為拝領、(中略)当御代同(明和)三年五月御奉行副役被仰付、御役料五石被増下、座配御鉄炮頭の次座ニ被附置候。同九月御奉行副役被成御免、座配持懸りニて伝習堂御目附役被仰付、御足高直ニ被為拝領、外ニ御役料五石被下置候。同五年七月庸之公御附ニ被仰付、御足高御役料□□□□相勤居申候処、明和八年四月病死仕候》

宮本武蔵遺墨集
浮鴨図 熊本紫藤家旧蔵

 
  46 忠利公から拝領の刀
一 忠利公ヨリ拜領刀アリ。尤金ノ無垢飾也。新シク一腰掛ノ刀掛ヲ造リ、餘ノ道具ヲ不掛、拝領ノ刀マデヲ掛ケテ、常ニ床ノ上ニ置レシト也。[岡部九左衛門コレヲカタル也] (1)

一 (細川)忠利公から拝領の刀あり。当然、金無垢の飾りである。(武公は)新しく一腰〔ふり〕掛けの刀掛を造り、ほかの道具〔刀〕を掛けなかった。拝領の刀だけを掛けて、常に床(の間)の上に置かれたということである。[岡部九左衛門がこれを語った]

  【評 注】
 
 (1)忠利公ヨリ拝領刀アリ
 武蔵が細川忠利から拝領した刀があったということである。
 それを頂戴した武蔵は、その刀のために、わざわざ専用の刀掛を新しく造った。これは一腰〔ふり〕掛けというから、太刀一腰のみを掛ける刀掛である。刀掛を新調したのだが、むろんそれは武蔵自作の刀掛ということであろう。その刀掛には、他の刀を掛けず、拝領の刀だけを掛けた。いつも床の間の上に置いて、下にも置かぬ扱いだった。――そういう伝説が記されている。
 これにはいくつか疑問が出よう。まず、太守忠利から拝領の刀というからには、前に諸処で話に出たように、大原真守だとか高田貞行だとか、とにかく名のある刀匠の作であることが語られてよいはずなのに、それがない。長さ何尺何寸という寸法データもない。ただ、金無垢の飾りという外見の装飾を記すのみである。あるいは、そうした大切な拝領刀なのに、それが『武公伝』の当時、だれの所持になっているか、その記事もない。
 しかも、その武蔵作の刀掛がいかなるものか、その語りがないところをみると、これは武蔵作品としての刀掛の記事でもなさそうである。すると、この説話本体に残るのは、武蔵は忠利から金無垢装飾の太刀を拝領したという要素である。
 たしかに、この伝説のポジションは、そういう拝領刀の中身よりも、拝領した武蔵がわざわざ専用の刀掛を自作までして、大切に扱った、というところに重心をおいたものである。殿様から拝領したのは、豪華な金無垢の刀でなければならず、武蔵はその宝物をありがたく頂戴し、大切にしたというわけである。
 そのあたりに、この伝説の武蔵像の逸脱がみえる。武蔵という人が金無垢の太刀など拝領するか、また忠利が武蔵に金無垢装飾の太刀など贈与するか。そういう場違いな、違和感のある伝説である。そもそも金無垢装飾の太刀は、いわば祭祀儀礼用で、神前に奉納したりする代物である。まさか、武蔵が神様であるまいし、そんなものを忠利が贈るわけがないし、武蔵も受け取るわけもない。
 そういう次第で、この金無垢飾りの太刀拝領というのが恠しいのである。たしかに、忠利が武蔵に刀を贈るというようなことはありうる。しかしそれが、金ピカの金無垢装飾の太刀だとすれば、それこそ児童向けの童話である。ようするに、これは肥後における後世の武蔵伝説なのであるが、説話レベルは、次の段の「大原真守刀ノ事」の話に比すれば格段に落ちる。
 しかしながら、興味深いことに、『武公伝』は註記して、この話は、岡部九左衛門が語ったとある。この「岡部九左衛門」が、武蔵に仕えた岡部九左衛門だとすれば、では、この岡部九左衛門から話を聞いたのはだれか。たとえば豊田正剛にその機会はあっただろうか。
 岡部氏先祖附によるかぎり、九左衛門の生没年は不明である。ただし先祖附には、九左衛門晩年、直之の代に、崇芳院の御付になったとあるから、彼がいつごろまで存命したか、これで見当をつけることができる。崇芳院は寄之妻の古宇(1624〜1712)、直之の母である。
 しかるに、正剛の父・豊田高達が同じく崇芳院御付となっていた、という興味深い事実がある。高達が崇芳院御付となって八代へもどったのは、元禄四年(1691)十二月のことである。これにより、岡部九左衛門と豊田高達がある時期、つまり元禄五年以後しばらく、崇芳院のもとで共に仕えていたことが知れる。そのときは豊田正剛もすでに出仕していて、晩年の直之に仕えていた。
 そうなると、豊田正剛は、父の同僚である岡部九左衛門に会う機会もあれば、話を聞かされた可能性もある。ところが、武蔵に仕えた岡部九左衛門なら、もう少し違った具体的な、誰彼作の刀だとか、寸法とか、そういう話があってしかるべきである。それがこんな曖昧な伝説じみたものでは、何か話がそぐわないのである。それに第一、この拝領刀が現在だれの所有か、それも記さない。
 したがって、武蔵に仕えた岡部九左衛門から得た情報なら、こんな話にはなるまい。そこで、改めて先祖附をみると、この岡部氏先祖附の提出者が「岡部九左衛門」なのである。先祖の名を襲名したわけだが、この岡部九左衛門は、九左衛門→嘉太夫→嘉太夫→嘉太夫→九左衛門と次第する五代目である。
 この九左衛門は、明和八年(1771)父嘉太夫英虎が死去して、家督を相続した。先祖附の当年(明和九年)十四歳になるという。その後、安永四年(1775)岡部九左衛門が十七歳になった年、家督の知行を給された。
 もしここで『武公伝』のいう「岡部九左衛門」がこの人物だとすれば、ここに「岡部九左衛門コレヲカタル也」と書いたのは、むろん豊田景英である。橋津正脩はこの岡部九左衛門を知らない。豊田景英ならこの人物と同時代である。
 豊田景英が書いた『武公伝』記事の特徴の一つは、「武公」という主語を記すのを避けることである。ここでも、記事は「武公」という主語を記すのを避けている。そういう文章の特徴からして、忠利から武蔵が金無垢装飾の太刀を拝領したというこの話は、景英が記したものである。出所は、若い岡部九左衛門。たぶん岡部家の伝説としてあったものを、九左衛門は児童の頃聞かされて育ち、それを豊田景英に語ったものであろう。
 したがって、この記事を読むポイントは、ここにいう「岡部九左衛門」がどの岡部九左衛門なのか、それを特定することにある。それが決定的な分かれ目である。
 従来の武蔵伝記研究は、ここにいう「岡部九左衛門」を、武蔵に仕えた九左衛門と受け取るのみで、子孫にもう一人の岡部九左衛門がいることを知らなかった。そのため、これを、武蔵に仕えた九左衛門の直話と誤解してしまったのである。  Go Back









金無垢飾り太刀の例
黒韋包金桐紋糸巻太刀
東京国立博物館蔵







*【岡部氏先祖附】
《私高祖父岡部九左衛門[英時]儀、先祖は東国浪人の由ニて、新免武蔵殿ニ属居申候処、正保二年五月武蔵殿病中ニ要津院様え御頼被申候故、御家ニ被召抱、歩御小姓ニ被召出、其後覚雲院様御代、御中小姓被召直、崇芳院様御附ニ被仰付相勤申候処、老極仕候付奉願御休被成、弐人扶持被為拝領置、其以後病死仕候》




*【岡部家略系図】

○岡部九左衛門―嘉太夫英武┐
 ┌―――――――――――┘
 └嘉太夫英明=嘉太夫英虎┐
 ┌―――――――――――┘
 └九左衛門


*【岡部氏先祖附追記】
《私先祖以来の儀は、安永元年三月書付御達申上置候通御座候。其以後同四年五月、私儀十七歳罷成候節、新知の儀付て可被減候得共、思召の旨被成御座、御宥恕を以、亡父岡部嘉大夫え被下置候御知行無相違被為拝領、外様御馬廻ニ被召加、以来武芸文学相励可申旨、御番等は追て可被仰付段被仰渡候。其後式部様御側え罷出候様被仰付、北御丸江日々罷出申候処、同五年六月御式代御番被仰付、当時相勤居申候。
右の通御座候。以上
 天明元年閏五月   岡部九左衛門
    御家司宛 》

 
  47 大原真守の刀の不思議
一 右書シタル大原真守刀ノ事。先年断罪アリシニ、誤テ此刀出シタルニ、斬テ看ニ不切、両三度ニ及ケレ共不成。大刀取ノ云フ、「此刀ニテハ不難嵒石。利刀也。我手ノ内ノ逈タルニヤ」ト、又鍛ケレ共如前。カルガユヱニ、則ノリヲ落、鞘ニ納ルヽニ、半ヨリシテ總不能入。ユヱニ其侭ニシテ返ニケリ。
 沢村宇右衛門見玉ヒ、「此刀如何トシテカ出シケルヤ。是ハコレ、新免武公ヨリ傳ヘテ、毎度不思儀アルニヨリ、如~アガメケル事、家中皆知ル処也。シカルニ今度出ケルコト、太ニ穢リ」トテ、直當國鎮守藤崎八幡宮~前ニ寶納シテ、三七日昼夕不怠、摧丹誠祈祷アリケレバ、フシギヤ此劔、拔モ不拔納レ共不納(ガ)、ヲノレト鞘ニヲサマリケル。
 寔ニ漢皇三尺劔ニモヲトルマジト彌敬ヒ、七五三ハリテ家寶トアヲガレケルト也。[豊田権内説、予語] (1)
一 前に書いた大原真守の刀の事。先年断罪(斬首刑)があったとき、誤ってこの刀を出してしまった。ところが、斬ってみるに切れず、二度三度もやったが切れない。大刀取(介錯人)が云う、「この刀では岩石も堅くはない。それほどの利刀です。私の腕では過ぎたものなのでしょう」と、また、やってみたけれど、前と同じだった。そんなことだったので、血糊を落とし、鞘に納めようとすると、半分から先はどうしても入らない。そこで、そのままにして返したのであった。
 沢村宇右衛門がこれをご覧になって、「どうしてこの刀を出したのか。これはまさに、新免武公から伝えて、いつも不思議なことがあったので、神の如く崇めていたのは、家中のみなが知っているところだ。しかるに、今度(断罪に)出したので、大いに穢れてしまった」といって、直ちに当国の鎮守・藤崎八幡宮の神前に宝納して、三七(二十一)日の間、昼夕怠たらず、丹誠をくだいて祈祷があったところ、不思議や、この剣、抜けども抜けず、納れども納まらなかったのに、自然に鞘に納まったのである。
 まことに漢皇の三尺剣にも劣るまいと、(沢村家では、この刀を)いよいよ敬まい、注連縄を張って、家宝として尊仰されたとのことである。[豊田権内が説いて私に語った]

  【評 注】
 
 (1)大原真守刀ノ事
 前出の大原真守作の太刀のことである。それにはこうあった。――武蔵所持の大原真守作の刀は、沢村宇右衛門友好に贈られた。今も沢村家の重宝となっている。長さは三尺余あるという。二代目宇右衛門の時、何かと奇瑞のことがあったので、その刀に神霊があるとして、いつもは筥に納めて、注連縄を張り、みだりに指料にはしなかったそうだ。今日では三尺余の刀を差す人もまた稀れである。この刀は至極鋭利で見事な刀だそうである。――という記事であった。
 ここは、その話に対応するところである。では、この刀にどんな奇瑞があったのか。
 先年、断罪があったとき、誤ってこの刀を出してしまった、という。断罪とあるからには斬首刑である。罪人の斬首にこの刀を用いようとしたのである。どれほどの切れ味が試してみたのである。誤ってこの刀を出してしまった、というが、後に見るように、沢村家の当主はこれを関知していなかった、という説話設定だから、「誤って」ということになっているのである。
 ところが、大刀取が斬ってみるに切れず、二度三度繰り返し試みたが切れない。大刀取というのは、切腹のおりの介錯人だが、ここでは斬首刑だから首切り役人である。斬るのに熟練しているはずの大刀取が斬ってみたが、一向に切れなかったというのである。
 このあたりの話の展開はよく熟成している。名刀であるはずの大原真守が切れない、というあたりが説話のポイントである。
 大刀取が云う、「この刀では岩石でさえ堅くはない。岩石でさえ斬ってしまうほどの利刀だ。私の腕が拙くて切れないのだろう。私の腕には過ぎた、不相応のものなのだろう」と、そう云って、またやってみたけれど、前と同じだった。
 ようするに、ここで大刀取に語らせているのは、「切れすぎるから切れない」というパラドックスである。「利刀だが切れない」は「切れすぎるから切れない」という逆説へ展開する。これが落着するのは、太刀取りの技能と名刀の性能のアンバランスという平凡な解説である。これはこの名刀への讃辞に他ならない。
 太刀取りは、自分の腕には過ぎたものだと云いつつ、再び試みるが、結局切れなかった。そこで、血糊を落とし、刀を鞘に納めようとすると、こはいかに。――刀が鞘に納まらないのである。
 刀は半分ほど鞘に入ったが、そこから先はどうしても入らない。ようするに、下手に切ったので、刀が曲がってしまい、鞘に納まらなくなったというに過ぎないのだが、この説話ではここが神秘化のポイントだから、そんな世俗的な説明はしない。むしろ、刀が鞘に納まらないのを、何ものかの意志、あるいはこの名刀それ自身の意志と思わせる語りである。
 どうしても刀が鞘に納まりきらない。つまり、鞘に半分まで刀身は入ったが、そこから先に入らない、しかも鞘から抜こうとしても、もう抜けない。つまり、鞘に半分だけ入った中途半端な状態なのである。どうにもならないので、その状態のままにして、刀は沢村家に返されてきた。
 沢村宇右衛門がこれを見て、とある、この沢村宇右衛門は、この段単独なら沢村宇右衛門友好とも読めるが、すでに前に、二代目沢村宇右衛門のとき奇瑞があったと書かれているので、これはそのときのことで、この沢村宇右衛門は二代目宇右衛門友雅のことである。宇右衛門友好なら、「故宇右衛門殿」と書くであろう。
 沢村宇右衛門がこのありまさを見て、どうしてこの刀を出したのか、と怒る。となると、二代目宇右衛門はこの刀を断罪に用いたのを関知していなかったという設定である。二代目いわく、「この刀はまさに、新免武公から先代宇右衛門に伝授されたもので、いつも不思議な現象があったので、神の如く崇めていたのは、家中のみなが知っているところだ」と。すると、すでに沢村家では、以前からこの大原真守を神宝として崇め奉っていたのである。そんな宝剣なのに、勝手に持ち出した者がいて、こんなありさまになってしまったというわけである。
 もしこれが事実なら、この宝剣を主人に無断で持ち出した者は切腹ものだろうが、そんな話はないから、三代目か誰かが持ち出したのだろう。新免武蔵から贈られた家宝の大原真守だというが、どれほど切れるか試してやろう、という邪気と無邪気の混合した仕業なのである。
 『武公伝』のような肥後の話では、重臣沢村家の当主を貶めるわけにはいかないので、宝剣を持ち出したのはだれか不明にしている。二代目宇右衛門は云う、「神の如く崇めていたのに、こんなことになってしまった。今度首切りに出したので、神聖な宝剣が大いに穢れてしまった」。ここでは、宝剣が鞘に半分しか入らない異常な状態で帰ってきたことよりも、罪人を切った血で穢れてしまったことが語られている。
 これも明らかに矛盾した語りである。刀は人を殺傷する武器である。言い換えれば、血で穢れなければ用をなさないのが、刀剣である。本来そのような事物である刀が、血で穢れてしまったというのは、矛盾した語りなのだが、すでに宝剣として神聖化されているという状況なので、こうした本末転倒した物言いになった。
 これは神聖化に共通した成り行きであるかもしれない。たとえば、宮本武蔵は、近代に入って剣聖として崇拝されるようになったが、その神聖化のあげくは、吉川英治説武蔵のような、平和のための剣、あるいは無刀に至る。このパターンは、戦後とくに、殺人刀ではなく活人剣だ、という俗説柳生宗矩の横行と平行したものである。ようするに、神聖化によって血の穢れが厭離されるのは、昔に限ったことではなく、まさに現代にも通有の状況なのである。
 この説話に確認できるのは、そうした神聖化がすでにこの段階で始まっていることである。ただ、この説話が近代のような観念化を免れているのは、ここでの血の穢れが、刀を断罪に用いたこと、つまり罪人を斬ったという、罪との接触によって聖なるものが穢れたとしていることだ。言い換えれば、罪=穢れというプリミティヴな表象が、ここに垣間見えるのである。
 かくして、沢村家の当主は、ただちに肥後国鎮守である藤崎八幡宮の神前に、この刀を納めて、穢れの清祓にかかる。そんな穢れた事物を神聖な神前に持ち込まれては困る、などと藤崎八幡宮の神職はいわなかったようだ。備頭で家老の沢村宇右衛門の要請である。しかし、八幡神という本来暴力的な武神の霊威は、そんなささいな穢れをものともしないらしい。
 この藤崎八幡宮は、石清水八幡(山城国)を勧進したもの。平将門・藤原純友らによる内乱が生じたとき、追討祈願のため諸国に八幡社を分祀したその一つである。祭神は、武神応神天皇を中心に、左に海神住吉大神、右に母神神功皇后である。ようするに、記紀神話にある神功皇后の新羅征伐にちなむ祭神である。
 この神社は、当時は熊本城二ノ丸の重臣屋敷群の中にあった。『武公伝』の世界ではお馴染の長岡家の熊本屋敷の西側である。現在は藤崎台球場にその名を残している。明治十年(1877)西南戦争で焼失、白川岸の現在地(熊本市井川淵町)に移設再建されたのが、現在の藤崎八旛宮。
 したがって、この話の藤崎八幡は、元の場所で考えなければならない。二代目宇右衛門はこの穢れた刀を清祓浄化するために、三七、つまり三×七=二十一日の間、昼夕怠たらず、丹誠を摧いて祈祷してもらった。その効験があったか、不思議や、抜けども抜けず、納れども納まらなかったこの剣は、おのずから鞘に納まったのである。八幡神の霊威を讃えるところである。
 さあって、沢村家では、この宝剣は漢皇の三尺剣にも劣るまいと、いよいよ敬まった。「漢皇三尺剣」は、この大原真守が三尺余あったという話とともに、当時流布していた有名な史記の逸話からきているのだが、それは現在では説明が必要かもしれない。
 すなわち、漢王劉邦が死の間際語ったという、「おれは三尺剣をひっ提げて天下を取った」云々のせりふが一人歩きしたのである。これがことに剣の功徳を称賛するところへ変じ、たとえば、能「小鍛冶」の、有名な《漢王三尺の剣、居ながら秦の乱を治め》というようなせりふになる。言い換えれば、刀剣の神秘的な霊力を讃えるなかに、必ず漢王三尺剣の詞が出てくるのである。
 それゆえ、沢村家の武蔵伝大原真守の剣にまつわるこの説話にも、「漢皇三尺剣」が出てきたのである。この宝剣は漢皇の三尺剣にも劣るまいと、いよいよ敬まい、七五三(標・しめ)を張って家宝として尊仰したという。七五三といっても、男児女児を神社に連れ行って参らせる例の習慣のことではない。七五三とは、神聖な領域と事物を結界し聖別する注連縄のことである。まさにこの刀は、聖なる霊剣へ昇華されたのである。
 その功徳があってか、なかってか、あるいは、清祓浄化が不十分だったのか、二代目宇右衛門友雅は後に閉門、知行召上となる。そのことは『武公伝』は記していない。
 この話は、「豊田権内が予に説いて語った」とある。この人の名は前にも出た。そこで述べたように、この「豊田権内」が豊田正剛の父・高達のことだとすれば、この一人称「予」は、豊田正剛である。いづれにしても、武蔵が沢村宇右衛門にこの刀を遺贈したこと、そしてその後の奇瑞譚は、豊田正剛が父・高達から聞かされた話なのである。
 そして、晩年の正剛がこれを書きとめるまで、長い時間がたっていた。この説話は、他の記事に比してよく熟成しているので、その数十年の間に口説反復されるうち、よくこなれたものになったと思われる。
 『武公伝』には、沢村家伝来のこの大原真守に関する逸話が、すでにいくつか出ている。それらは、『武公伝』巻之二に分散収録されている。これはおそらく、景英が編集して、そのようになったものであろう。正脩段階の『武公伝』では、もう少し纏まったものだったかもしれない。  Go Back




*【武公伝】
《武公所持ノ大原眞守作ノ刀、澤村故宇右衛門殿友好ニ贈ラル。今ニ澤村家ノ重宝トナレリ。長サ三尺餘在ト也。二代宇右衛門殿ノ時、何與奇瑞ノコトアリシヨリ、神霊アリトテ、常ニ筥ニ納メ、注連ヲ張、ミダリニ指料ニセラレザル由。當時參尺餘ノ刀ヲ指コナス人モ亦稀也。至極スルト〔鋭〕ニ見事ナル刀ノ由。右、豐田権内、予ニ語ル》















讃岐松平家旧蔵
大原真守 重文 銘真守造
長二尺五寸三分

























藤崎八幡宮の位置



現在の藤崎八幡宮
熊本市井川淵町



*【史記】
《高祖撃布時、為流矢所中、行道病。病甚、呂后迎良医。医入見、高祖問医。医曰、「病可治」。於是高祖罵之曰、「吾以布衣提三尺剣取天下。此非天命乎。命乃在天、雖扁鵲何益」。遂不使治病、賜金五十斤罷之》(巻八、高祖本紀第八)

*【小鍛冶】
《それ漢王三尺の剣、居ながら秦の乱を治め、又煬帝がけいの剣、周室の光を奪へり/その後玄宗皇帝の鍾馗大臣も/剣の徳に魂魄は、君辺に仕へ奉り/魍魎鬼神に至るまで/剣の刃の光に恐れて、其寇をなす事を得ず/漢家本朝に於て、剣の威徳/申すに及ばぬ奇特とかや》

 
  48 木 刀
   木刀寸法 [村上八郎右衛門曰]
大長サ二尺七寸、小同一尺六寸二歩也 (1)

   木刀寸法 [村上八郎右衛門曰く]
大は長さ二尺七寸、小は同(長さ)一尺六寸二分である。

  【評 注】
 
 (1)木刀 寸法
 これも、「村上八郎右衛門曰く」とあるから、『二天記』作者・豊田景英の筆による記事であろう。村上八郎右衛門は、すでに述べたように、豊田景英の師匠と目しうる人物で、景英は『武公伝』にその法名命日を記録している。
 ここは、一つ書きではなく、メモ書きのような記事である。師匠の村上八郎右衛門の話、それを景英はここに書き留めたのだが、ここでは「武公の木刀」と記さず、ただの「木刀」である。景英は、容易なことでは「武公」と書かない。むろん、誰の所持なる木刀とも記していないが、ここに記録する以上、ようするに武蔵の遺物だという意味であろう。
 その木刀は大小あって二刀のものらしく、寸法は、
     大  長さ二尺七寸(82cm)
     小  長さ一尺六寸二分(50cm)
というから、比較的小ぶりなものである。ふつう、二天流の木刀大小は、大が三尺、小が二尺という長さである。それゆえ、案外な気もするのだが、当時の村上派二天一流では、こういう小ぶりな二刀で稽古させていたのかもしれない。
 むろん、『武公伝』の本文には、木刀の記事はないから、これは景英の代になって、伝聞に入った代物である。これは村上八郎右衛門からの聞いた話であり、景英自身はこれを実見したとは書いていない。
 これが八代ではなく、熊本かどこかにあって、豊田景英には実見する機会がなかったのかもしれない。しかし、これは村上八郎右衛門所有とも、あるいは八郎右衛門が実見したとも記事はないから、いささか頼りない記録ではある。



松井文庫蔵
大木刀 長四尺二寸
松井文庫蔵
木刀大小 大:長三尺四寸 小:長二尺
 なお、現在、松井文庫所蔵の木刀が二組ある。一つは、長さ約四尺二寸(127cm)の大木刀で、巌流島のとき使用した木刀を、武蔵が再現して作り寄之に贈ったという伝説のもの。これは、小倉碑文の木戟や、『丹治峯均筆記』の記事にある、二寸釘をびっしり隙間なく打ち込んで、握り束に鋸目を入れた、凶暴ともいえる撮棒様のものとは似ても似つかない、何の変哲もない木刀である。巌流島のときの木刀を再現したというのは眉唾の話で、四尺二寸というその寸法からして、武蔵伝説から生じた後世の製作物であろう。
 もう一つは、大小二刀の木刀で、大は長さ三尺四寸(102cm)、小は同二尺(61cm)である。したがってこれは、豊田景英が記録したものとは寸法とは違う。したがって別物である。別物だからといって、後世の贋作と決めつけるいわれはないが、少なくとも、『武公伝』本文にも、また、このケースのような豊田景英の増補記事にも、そんな寸法の木刀の記録はない、ということは改めて確認しておくべきであろう。
 師匠の村上八郎右衛門の話、武蔵が使用したという木刀があるとのこと。いかに死後百数十年後とはいえ、それくらいは残っていてよさそうなものである。豊田景英の記録により、熊本の村上派周辺に、それがあった、としておく。  Go Back


*【丹治峯均筆記】
《辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ著シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ著シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リ手ゴロノ木ヲ、握リノ所ハ皮ヲヽシ削リテモテリ》

 
  49 武蔵に迷惑させたい
時々御前被召衛〔御*〕話申上ラル。時ニ、太守様近習ノ者ヘ仰付ラルヽハ、「何卒シテ武藏ヘ迷惑サセ度思フ、謀フベシ」ト。「難シ、方便ヲ以テスベシ」ト。武藏御咄申上時ハ、御次ノ敷井ニ手ツキ居ラルヽ也。是ヲ知テ、「首ヲ狭ムベシ」ト評定シテ、来ルヲ待。
 少焉出仕ス。咄半バナラントスル比ヲイ、襖ヲハタイ〔ト*〕セクニ、少モ驚ク色氣ナク、泰然トシテ御咄申上ル。アヤシミテ見玉フニ、敷井ノ溝ニ扇ヲ入ヲク故、其アワイ一尺二寸スキマアリ。依首ニサワル事ナシ。公、大歎美シ玉フ。暫時モ由断ノ体ナク、小ヲ以テ大ヲシルベシ。(1)
(武公は)時々御前に召され、お話申上げられることがあった。あるとき、太守様が近習の者へ仰せつけられるには、「何とかして、武蔵に迷惑させたいと思う。方法を考えろ」と。(近習の者らは)「難しいぞ。作戦を立てよう」。武蔵がお咄し申上げる時は、御次(の間)の敷居に手をついて座っておられる。これを知って、「首を狭むべし」と決めて、(武公が)来るのを待つ。
 しばらくあって(武公が)出仕した。話が半ばになろうとするあたりで、襖をハタと閉めたのだが、(武公は)少しも驚く気色もなく、泰然として話を続けている。(太守が)不思議に思ってご覧になると、(武公は)敷居の溝に扇子を入れておいたので、その間隔、一尺二寸(36cm)ほど隙間があった。それで、首に(襖が)触れることがなかったのである。公(太守)は大いに賛嘆賞美なさった。(このように武公は)一瞬も油断の様子がない。小をもって大を知るべし。

  【評 注】
 
 (1)首ヲ狭ムベシト評定シテ
 あらかじめ言っておけば、これは『二天記』作者・豊田景英の作文である。本稿ですでに指摘されているが、豊田景英の作文は、「武公」という主語を、わざわざ避けるところにその特徴がある。ここはその最たるもので、上掲現代語訳ではそれを補っておいたから、その特徴が歴然と可視化されているであろう。
 それに加えて、『二天記』と同じように、地の文で「武蔵」とつい書いてしまっているところがある。つまり、「武蔵へ迷惑させたい」というのは、殿様の台詞中だから、それは別として、《武藏御咄申上時ハ》という記述部分である。
 これが橋津正脩の作文なら、ここは「武公がお咄し申上げる時は」となるはずである。この「武公」と「武蔵」という主語設定の相違に注意しておくことだ。興味深いことに、『武公伝』のこの最後の段で、まさに『二天記』の文体が姿を現し始めているのである。
 さて、この説話のプロットは、武蔵に迷惑させたい、つまり、あの武蔵の困った顔が見たいという殿様の意向で、武蔵にいたずらを仕懸ける話である。ここで「太守様」とあるのは、肥後太守のことだが、熊本城主が「太守様」なのである。ただし、ここでは、細川忠利か光尚か、どちらか不明である。この説話の構成からして、それはどちらでも構わないらしい。
 殿様が、「何とかして武蔵に迷惑させたい。方法を考えろ」という。近習の連中は、「難しいな。何か作戦を立てよう」ということになった。考えてみると、武蔵が御前に召されて話をするときは、御次の間の敷居に手をついて座っている。そうだ、というわけで、「首を挟んでやろう」ということに評定は決まった。両側から襖を閉めて、武蔵の首を挟もうという作戦である。
 そうして待っていると、しばらくして武蔵の登場である。いつものように、武蔵は御次の間の敷居に手をついて座り、話を申上げる。話が半ばになろうとするあたりで、襖をハタと閉めた。
 ところが武蔵は、まったく驚く気色もなく、泰然として話を続けているのである。どうなっているんだと、殿様が不思議に思って、よくよく見ると、武蔵は敷居の溝に扇を置いている。それで、襖は閉まったけれど、まだ一尺二寸(36cm)ほどすき間があって、武蔵の首に襖は触れもしなかった云々。
 この説話のオチはそこにある。殿様は感じ入って武蔵を大いに褒めちぎる。そしてこの作者も、このように武蔵は一瞬も油断の体がない、小をもって大を知るべし、と垂訓する。
 ここで見落とされがちなのは、すき間が一尺二寸ほどあったということである。とすれば、その長さの扇はかなり大きな代物である。諸氏お手持ちの八寸(24cm)ほどの扇子と比較してみればわかる。言うまでもなく、これは武器として用いる鉄扇である。それが解れば、この扇という小道具は、にわかに武蔵のリアルな道具として現前するようになる。
 以上のように、これは一篇の逸話として程よくコナれたものである。あの武蔵を迷惑させたいと悪戯を仕掛けるが、意外にも武蔵は扇子を使って予防、その悪戯をいとも簡単に却けてしまう。面白そうな話だが、しかし、これは実は、当時一般に知られた説話素である。主役は何も武蔵に限った話ではなかった。
 たとえば、寛政期の成立と想定される和田烏江(正路)の随筆『異説まちまち』には、類似の逸話がある。しかもそれは、宮本武蔵ではなく、柳生但馬守宗矩の話なのである。
 『異説まちまち』の逸話の一つは、将軍家光が柳生但馬の不意を狙って、打ちかかるという話。家光は柳生但馬に兵法を学んでいた。ある時、但馬を側近く召した。但馬が頭を畳にすりつけて拝礼して居るのを、「但馬参る」といって打ちかかると、但馬は家光の敷物(しとね)をさっとあげて、家光をひっくり返す。
 続いてあるのは、それこそ『武公伝』の話と道具立てが同じである。柳生但馬が、江戸城で敷居を枕にして寝ていた。若い連中が、但馬を驚かしてやろうと、障子をハタと閉めた。ところが、一尺ばかりすき間があって障子が閉まらない。但馬は目をさました。みると、但馬は敷居の溝に扇を置いていたという。
 『武公伝』の話は、どうやらこの二つの逸話が一本化したものらしい。家光が但馬の不意を襲って仕掛けるという説話素は、『武公伝』では、太守が、武蔵を迷惑させたいと言い出すに留まるが、主君と兵法指南役という関係構図は共通である。さらに、次の逸話の具体的な説話素で、共通要素は明らかである。すなわち、障子を閉めて頭首を挟むという、若者たちの悪戯の仕掛けに対し、但馬は敷居に扇を置いていてこれを防ぐ。
 そうなると、『武公伝』の作者は『異説まちまち』を読んでこの武蔵の逸話を創作したか、というと、そうではない。『異説まちまち』の成立は寛政頃であって、『武公伝』の作者が『異説まちまち』を読んだということはない。ただし、『異説まちまち』そのものが巷間伝説を収録したものである。したがって、当時以前に、こういう柳生但馬の逸話が民間口碑として全国に流布していたと考えられる。『武公伝』の伝説が『異説まちまち』の記事と似ているのは、共通の巷間の口碑を媒介にしているからである。
 ここで、話のついでの脱線になるが、和田烏江の『異説まちまち』には、上記の柳生但馬の記事に続いて、武蔵が登場する話がある。
 それによると、なんと、柳生は宮本武蔵の弟子だったという。柳生は廻国修行して、師匠の武蔵に会う。武蔵が柳生に問う、「何か工夫ができたか」。廻国修行してきたのだから、何か成果があるだろうと。柳生答えて、「無刀取りを工夫しました」。武蔵先生、「では、試してみよう」。それで両者は立ち合う。座敷を三遍廻ったところで、武蔵が、「師匠に向って、表裏別心ありや」と問いかける。柳生、参ったとばかりに、座して謝しける、云々。
 さして明快なオチではないが、武蔵はここで、ダブルバインドの問いを仕掛けた。それで、弟子の柳生は、武蔵に一本取られて降参したというわけである。剣禅一如の柳生流に対する揶揄でもありそうな咄である。
 さて、この逸話では、柳生は武蔵の弟子。前段の連続からすると、これは柳生但馬守宗矩だということになる。『渡辺幸庵対話』の、武蔵は柳生但馬よりも段違いに強かった、すなわち《但馬にくらべ候てハ、碁にていハば、井目も武蔵強し》は知られていても、『異説まちまち』が採取したこの荒唐無稽な異説は、従来の武蔵研究のどこにも出たためしがない。そのため武蔵本著者たちは、渡辺幸庵を孫引きしても、他方でこんな異説があったということさえ知らない。この逸話は、本サイトの[坐談武蔵]で、以前一度言及されたことがあるだけだから、ここで改めて、諸君に紹介しておくのも悪くはあるまい。
 話をもどせば、かくして、敷居に扇を置いて、建具に首を挟まれないように予防線を張る、という説話素は、『武公伝』の肥後では、宮本武蔵と接合した。柳生但馬と宮本武蔵は互換性がある人物なのである。しかもこれが、単なる若い連中の悪戯なのではなく、肥後では、太守が武蔵を迷惑させたいと言い出したところに、ローカルな特徴がある。
 ただし、それも、家光が柳生但馬の不意を突こうとしたが、逆に敷物を引っ張られて転がされたという、「殿様の試みは通じない、失敗する」というモチーフの模倣反復なのである。肥後太守をこんなふうに登場させるのは、肥後人民の巷間伝説だからであって、「あるとき、太守様が」といった物語口調は、まさに武家社会では発生しえないものである。したがって、これは肥後武蔵流兵法門流内部で生れた伝説とはみなしえない。
 ようするに、この『武公伝』の記事は、十八世紀後期肥後で発生した庶民の巷間伝説を拾ったものであろう。そして、これを採取して記録したのは、上に述べたように、豊田景英である。かくして、この最後の記事でも、『二天記』作者が『武公伝』の記事を書いた、という事例を見出すことができるのである。  Go Back




























鉄扇 長1尺2寸




*【異説まちまち】
《一 家光公、劔術を柳生但馬守に習はせ給ふ。ある時、但馬を御側近く召れて、頭を畳につけて居たるを、「但馬参る」と宣ひければ、御しとねをあげゝると也。
一 但馬、御城にて敷居を枕として寝けるを、若キ衆驚さんと、障子をはたと建付けるに、一尺計りにてたゝず。但馬目をさまし、敷居の溝に扇を置れりと也》




柳生但馬守宗矩



*【異説まちまち】
《一 柳生は宮本武藏が弟子也。回国修行して武藏にあひ、(武蔵)問ていふ、「何ぞ工夫ありしや」と。柳生答て、「無刀取を工夫せり」と。武藏、「こゝろみん」とて、しなへを持、柳生は無刀にて、八畳敷の座しきを互に見詰て廻る事三べんなり。其時武藏、「師にむかひて、表裏別心ありや」といひかけたり。其時柳生、座して謝しけると也》

 
  文政二年奥書
 于時文政二[己卯]六月吉辰
            田村秀之
              寫書[花押] (1)
 時に文政二年(1819)六月辰の吉日
                 田村秀之
                   写し書く [花押]

  【評 注】
 
 (1)于時文政二[己卯]六月吉辰
 これは参考までにあげておくが、我々の参照写本の奥書である。書写期日と写した者の自署がある。
 これによって、この写本が文政二年(1819)六月に作成されたこと、そして田村秀之という人物がこれを書写したことが知れる。この田村秀之という書写者については、いかなる人物か、現在不詳である。
 五輪書写本に、田村家本と呼ぶものがあって、これが田村秀之の作成したもので、軸装装幀は本書『武公伝』写本と同じである。この田村秀之は、一応、豊田景英の孫弟子あたりという見当であるが、それも確かな話ではない。今後の研究を俟つところである。
 この文政二年(1819)という時期であるが、豊田景英は寛政十一年(1799)に六十歳で死去しているから、それから二十年後である。『武公伝』に豊田景英が書いたように、師匠・村上八郎右衛門は安永五年(1776)に死んだ。豊田景英はその時まだ相伝を受けていなかったので、八郎右衛門の跡を継いだ子、村上大右衛門から、師の墓前で、後に相伝を受けたのである。
 村上氏先祖附によれば、その年、村上大右衛門が熊本の時習館に出榭して師役を勤めるようになった。それから以後ずっと村上大右衛門は師役を勤めている。四十年以上たったこの文政二年になっても同様で、まだ師役を勤め、役料加増を受けている。
 志方半兵衛之経の嫡子・半七は父の跡を嗣いで、兵法師範、その跡は、半七弟で、半兵衛五男の新免弁之助が嗣いで兵法師範となった。弁之助が「新免」を名のるのは、親・志方半兵衛が武蔵の家名を継がせたからである。その新免弁之助は安永六年(1777)に死去した。それを継いだのは志方弥兵衛之唯である。
 村上八郎左衛門と太田左平次に教えをうけ、また当理流始祖・塩田松斎の小具足を再興した野田一渓種信は、享和二年(1802)歿、享年六十九歳。跡を継いだのは野田三郎兵衛種勝、父同様に剣術・居合・小具足、三芸の師役を勤めて、文化十四年(1817)歿である。寺尾求馬助六男・郷右衛門の弟子・吉田如雪に学んだ山東彦右衛門清秀は、文政二年にはまだ存命中で六十四歳、天保二年(1831)歿、享年七十六歳。
 ともあれ、この文政二年には、十八世紀後半に肥後の武蔵流兵法を担った人々は、ほぼいなくなっている。他方、世間では、巌流島決闘をハイライトとする武蔵物演劇や読本が流行していた。浄瑠璃「花襷会稽褐布染」(菅専助・若竹笛躬作)は安永三年(1774年)初演、十返舎一九「敵討巌流島」は寛政元年(1789)刊、平賀梅雪「絵本二島英勇記」は享和三年(1803)刊、これらが出揃った後、いよいよ武蔵像は、これから幕末にかけて、フィクションの世界で成長していくのである。言い換えれば、そのような時代に、この『武公伝』写本が生れたというわけである。

 肥後八代には、「新免武蔵之塚」と刻字した石塔が現存する(八代市妙見町)。熊本の武蔵塚に比すれば、ささやかなモニュメントである。「寛政九年冬 村上氏門弟中」とあるところからすると、これは八代の村上派門弟が建てたものである。その寛政九年(1797)という時点をみれば、これはおそらく、晩年の豊田景英が関与した事業であろう。景英は、その二年後に死去した。
 それゆえ、この石碑は、八代村上派の存在痕跡であるとともに、武蔵伝記『武公伝』『二天記』を書いた人物の遺跡でもある。ならば、武蔵ファンの未だに絶えない今日、もう少し注目されてしかるべきであろう。
 これと同時期の武蔵碑としては、武蔵百五十回忌の前年に、尾張円明流末孫らが名古屋の新福寺に設けた「新免政名之碑」がある(現・名古屋市昭和区広路町)。これは寛政五年(1793)の建碑である。名古屋ではそれより先、左右田邦俊の門弟らが武蔵百回忌の延享元年(1744)に建てた笠寺観音(現・名古屋市南区南区笠寺町)の「新免武蔵守玄信之碑」がある。既述のように、この間、半世紀ほどの間に、武蔵の諱に関して「政名」が「玄信」を凌駕するという事態が生じていた。
 しかるに、肥後では、『武公伝』の前出記事にあったように、『武芸小伝』の「宮本武蔵政名」に対し批判的である。尾張円明流において、「新免政名之碑」が建ってしまうその時期、肥後八代では、「新免武蔵之塚」と刻字した石塔が建てられたことに注意したい。ただしそれも、それより半世紀前の、尾張円明流の「新免武蔵守玄信之碑」の銘と比較すれば、いささか崩れた碑銘だと云わねばなるまい。  Go Back





武公伝 奥書
















新免武蔵之塚 寛政9年(1797)
八代市妙見町




新免政名之碑 寛政5年(1793)
半僧坊新福寺
名古屋市昭和区広路町




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