ところで、『武芸小伝』は武蔵の流派名を、「日下開山神明宮本武蔵政名流」だとする。大げさで秘教主義的な流派名である。五輪書にみられる武蔵の性向からすると、これは武蔵に似合わない名称である。そこで、考えられるのは、次のようなことである。
A 同姓同名の宮本武蔵が、他にもいろいろあるようだから、これは別人の流儀を、「宮本武蔵」とあるだけで混同してしまった。
B 初期武蔵流の門弟から発した流派が、伝承過程で変異して、その末孫に至って流儀名も流祖名も本来の姿から乖離してしまった。
C 実際には存在しない流派で、よくあることだが、たんに尤もらしい流派伝書が捏造され、後世それが流通していた。
他例の「政名」については、岡本系伝書に、「岡本小四郎政名」が後に「宮本武蔵義貞」に改めたという記事もある。すると、こちらは宮本武蔵義貞流で、宮本武蔵政名流ではないらしい。
しかし、このうち、もっとも可能性があるのは、最後の捏造伝書のケースである。「日下開山神明宮本武蔵政名流」という名称には、いくつかの仕掛けがあるのだが、一つは、「神明宮本」という語詞結合に示されている。「神明(しんめい)宮本」とは、「新免(しんめん)宮本」のパロディである。宮本武蔵が新免氏だと知っていての、騙し絵のような作為である。「政名」は、「正名」で、名を正せという謎かけである。これは当時有名な『論語』のパロディである。孔子に正名論あり、曰く「必也正名乎」(必ず名を正さんか)。あるいは「名不正則言不順、言不順則事不成」(名正しからざれば、言順はず。言順はざれば、事成らず)である。
『武芸小伝』の作者は、どこかでこの「日下開山神明宮本武蔵政名流」の伝書を見たのだろう。しかし、伝書があるからといって、その流派が実在したとは限らない、というのが剣術史料の世界である。この「政名」が示すのは、この流儀の名を正せという謎かけだが、それが謎かけとも見えないようでは目は節穴である。こういうゲームの仕掛けに乗ってしまったのが、『武芸小伝』である。
しかるに、後に『武芸小伝』が世間であまりにも普及しすぎて、やがて、新免武蔵玄信はどこへやら、宮本武蔵政名が世間に横行するようになった。正名は虚名に駆逐される事態となった。
その遷移プロセスを示すのが尾張の円明流で、左右田邦俊の子孫門弟が武蔵百回忌の延享元年(1744)に建てた笠寺観音(現・名古屋市南区南区笠寺町)の武蔵の碑銘は「新免武蔵守玄信之碑」である。つまり、まだ武蔵は新免氏であり諱は玄信である。
ところが、それから半世紀後の寛政五年(1793)、武蔵百四十九年忌の法要に際し、市川長之がその門人とともに新福寺(現・名古屋市昭和区広路町)に建碑したのは、「新免政名之碑」。つまり、
新免武蔵守玄信 + 宮本武蔵政名 → 新免政名
という混ぜ具合である。ようするに、その五十年ほどの間に、「政名」が「玄信」を駆逐してしまった。まことに『武芸小伝』の影響たるや、想像以上に大きかったようである。十八世紀後期になると、宮本武蔵は「政名」ということに大勢が決まったようである。そのように特定の謬説が一世を風靡してしまう例は、近代の武蔵伝記において、顕彰会本『宮本武蔵』が及ぼした影響を想起すればよい。
『武公伝』の作者は、「日下開山神明宮本武蔵政名流」について、『武芸小伝』は小倉の碑銘を記載しているが、当の碑銘にはこのような名称はない。これは『武芸小伝』の誤謬である、と断じている。しかしながら、それは『武芸小伝』の日夏弥助も承知の上のことで、小倉碑文とは別の伝説伝書から、これを引っ張り込んだのである。
そういうことを云えば、『武公伝』の「新免無二ノ介信綱」も、小倉碑文にはない名で、既述のごとく別のソースから、これを引っ張り込んだのである。かたや、巌流島決闘の相手、岩流の兵法伝系については、『武公伝』は、『武芸小伝』の伝説記事をそのまま継承している。あれやこれや、いづれにしても、十八世紀半ばには、近代の諸説紛々たる状態の構図ができあがったのである。
ともあれ、『武芸小伝』は武蔵の法名を「玄信二天」としているが、これは、諱を「政名」とする以上、「玄信」は諱ではなく法号と見なしたらしい。武田「信玄」という類似例もある。そこで、小倉碑文の「新免武蔵玄信二天居士」から、「二天」の直前にある「玄信」を取り込んで四字法号にして、「玄信二天」としたのである。これは『武芸小伝』の解釈であって、何らかの資料や伝説があったというわけではない。
なお云えば、『武芸小伝』は関が原・大坂戦争とともに島原役にも言及しているが、島原役の一件は小倉碑文にはない。しかも、細川家に属して戦場へ赴いたとするが、これまた、杲らかな誤伝である。地元肥後の『武公伝』としては、それを指弾しえたはずだが、作者はそれを語らずにいる。
『二天記』は『武公伝』の記事をそのまま継承している。とくに変更したところといえば、「日下開山神明宮本武蔵政名流」について、『武公伝』が小倉の碑銘にはないと注意したところを、『二天記』は、《此ノ名、流書等ニテ不見》、この名は武蔵流の伝書にはない名だとしているところである。「政名」というのは五輪書等の「玄信」名とは違う、ということだ。
これについて、また『二天記』は註記して、武蔵は本姓が赤松、つまり源氏なので、源政名といったのか、よくわからかん、と書いている。
これはどういうことかというと、――つまり『二天記』の作者が何を考えたかというと、小倉碑文にある「新免武蔵玄信」では諱は玄信、五輪書の記名は「新免武蔵守藤原玄信」で、これも玄信。武蔵は新免氏を名のるときは藤原玄信だが、もとの姓は赤松氏だから源氏。すると、(赤松)源政名というのが、本来の姓名かもしれない、というようなことである。つまり武蔵には「藤原玄信」だけではなく、「源政名」という姓名もあったのではないかと。
これは、『武公伝』がにべもなく却下した「政名」を、『二天記』ではまともに考えはじめているということである。むろん、『二天記』記の作者をこう仕向けるのは、世間で『武芸小伝』の影響が無視できないところまで来ていたからである。尾張では円明流末孫が「新免政名之碑」を建ててしまう時代なのである。『二天記』は、そんな時代の影響を蒙って、足元が動揺しはじめているということである。
ちなみにえば、武稽百人一首では「佐々木巌流」と「宮本武蔵政名」の組合せである。「佐々木」巌流は、十八世紀中期の演劇で戯作者の頭の中から発明された名であるが、この図では、それに相応するのが宮本武蔵「政名」という名なのである。
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*【岡本流伝系】
○岡本三河房祐次―(4代略)―┐
┌――――――――――――――┘
└新右衛門義次┬小四郎政名
│ 宮本武蔵守義貞
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└祐実―(3代略)┐
┌―――――――――――┘
└直右衛門照方―勘兵衛正誼
*【論語】 《子路曰、「衛君、待子而爲政、子將奚先」。子曰、「必也正名乎」。子路曰、「有是哉、子之迂也。奚其正」。子曰、「野哉、由也。君子於其所不知、蓋闕如也。名不正則言不順。言不順則事不成。事不成則禮樂不興。禮樂不興則刑罰不中。刑罰不中則民無所錯手足。故君子名之必可言也、言之必可行也。君子於其言無所苟而已矣》(子路13)

新免武蔵守玄信之碑 笠覆寺(笠寺観音)

新免政名之碑 半僧坊新福寺
*【二天記】 《又宮本武藏政名、父ハ無二齋ト云、十手刀術ノ達人、日本開山~明宮本武藏政名トアリ。此ノ名、流書等ニテ不見。[本姓ハ赤松源氏ナレバ、源政名ト云タルカ。不詳]》
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