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宮本武蔵 資料篇 関連史料・文献テクストと解題・評注 |
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| ［武蔵伝記集］ | 武 公 伝 9 | Back Next |
27 泥鰌伊織
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一 宮本伊織ハ出羽國正法寺ノ産也。父某、農業ヲ廢シ浮浪人ト也。正法寺村ヨリ三里外、山陰ノ曠野ニ在不毛地、其所ニ小草屋ヲ造テ、潜ニ是ニ住居シ、曠野ヲ開テ畠トシ、今日ノ飢ヲ扶ク。男女二子在。女ハ同邑某ニ嫁シ妻モ亦没シ、彼男兒ト父子二人ナリ。(1) 武公壯年武者修業シテ、諸國ヲ経歴ス。時ニ彼兒十三歳、聰明俊俏シ、生レツキ也。泥鰌ヲ捕テ路傍ニアリ。武公コレニ遇シ、彼泥鰌ヲ乞フ。小童應諾シテ、泥鰌ヲ小桶ニ納テ、盡ク是ヲ賜ル。武公ノタモウハ、「志ハ過分ナレ共、我餘斗〔計〕ニ不入。少シ許ヲ得テ足リヌ」トテ掬シ、手帛ニツヽミ其桶ヲ返サル。小童笑テ道フ、「旅人ノ偶所望セラルヽニ、我何ゾ吝ン哉。ヒラニ桶共ニ持行ルベシ」トテ、投之顧ズシテ去ル。武公、怡然トシテコレヲ受テ、謝シタモウ。 其后武公、正法寺原ヲ経過シ、不覺錯テ宿ヲ借得ズ。日已ニ晩レ、行事三里、回ル事四五里ナラザレバ、村坊ニ不遇。如何セント思處ニ、遥ノ山陰ニ火ノ光閃、是ヲ幸ト思、火ヲシルベニ至見レバ、小キ草ノ庵リアリ。 戸ヲ敲ケバ、内ヨリ十三四才斗ノ童出、「如何ナル人ゾ」ト問。武公道フ、「旅行ノ人、不案内ニテ宿ヲ不求、日暮テ如何トモシガタシ。何卒一夜ノ宿ヲ借ラン」ト也。童ノ曰、「御覧ノ通リ草屋見苦シク、殊漸我一人居候得バ、御宿ハ叶ヒ申マジキ」由也。武公亦道フ、「旅行ノ事ニ候エバ、井カ樣ナル所ニテモ不苦。何卒一宿ヲ許サレヨ」ト、頻ニ是ヲ乞フ。童ツク／＼視テ曰、「其許ハ先日泥鰌ヲ囉〔モラ〕ヒシ非人ニ哉」ト。武公モ驚キ、「成程其者ナリ」ト云。「サラバ苦シカラズ。御宿申サン」トテ、伴ヒ内ニ入。 座定テ後、武公問タマウハ、「如何人ナレバ、幼年ニテ一人此所ニ居ラレ候ヤ」。童ノ曰、「我母親已ニ没シ、一人ノ姉ハ此ヨリ三里外農家某シニ嫁セリ。老父ト二人居シ時ニ、老父モ亦没シ、我獨住居セリ」トテ、粟飯ヲ出シテ喫セシメ、「客ハ休シタマヘ」トテ、自分モ奥ニ入ル。武公不審ナガラモ、就寝タマフ。(2) 半夜ニ刀ヲ磨音枕ニ響キ、眠覺。因テ思フ、「扨社〔こそ〕此童盗賊ノ餘黨ニテ、クセ者ナリ。我熟睡ヲ待テ害セントスルナルベシ」トテ、不覚欠シ伸シ、時ニ山童道フ、「客ハ何ヲ以テ不睡眠耶」。武公道フ、「磨刀ノ音耳ニ障リ、心ヨカラズ。故熟睡セズ」ト也。童笑テ曰、「其許ハ剛強ナル面貌ニ不似、扨々臆病ナル人哉。假令俺以利刀刺殺サントスルトモ、無甲斐。此小腕ニテ如何程ノ事アラン。何トシテ客ヲ殺シ得ンヤ」。武公道フ、「サアラバ、ナゼニ刀ヲ磨スルヤ」。 其時ニ童、容ヲツクロイテ云、「我老父死スル事、實ニ昨日ナリ。コレヲ後ロノ山、亡母ノ墓ノ傍ニ葬ントスレドモ、一人加勢ノ便リナシ。俺一人ニテ父ノ遺体ヲ山マデ持行コト不能。色々ト工夫スルニ、我一ツ荷ノ物ハ擔フニヨリ、此刀ヲ以テ兩段ニ斬テ、一荷トシテ擔行、埋ントス」ト云。 武公聞給ヒ、其言ヲ偉ナリトシ、其志ヲ感ジ、太甚稱歎シテ曰、「我幸ニ今夜此屋ニ止宿セリ。随分力ヲ合テ加勢スベシ。カナラズ憂事ナカレ」トテ、彼死骸ノ首ラヲ武公負ヒ、足ヲ童ニカヽヱサセ、後ノ山ニ持行、亡母ノ墓ノ側ニホリ埋メ、石ヲ立テ誌トシ、家ニ皈レバ、夜已ニ暁タリ。 童懇ニ道、「俺一人無聊、客暫時逗留シ玉ヒ、徒然ヲ慰メ玉ヘ」ト也。武公モ不便〔不憫〕ニ思、漸アツテ問玉フハ、「其方一人此處ニ居住センモ、イカヾナリ。俺ニ伴ヒ來ラバ、以後随分ト取立得サスベシ」ト也。童ノ曰、「ナル程、客ニ従イ何方ヱモ參タクハ候ヘ共、一生奴僕ノ身トナル事ヲ不願。武士トナリ、馬ニ跨リ槍ヲ把（る）身トナラバ足ヌ。サナクンバ此地ニ孤居シテ、自由ニ一生ヲ過サンガ勝レリ」ト。武公道フ、「俺ニ伴ヒ來ラバ、ナル程望ノ如ク、馬ニ跨リ鎗ヲ把ルヤウナル武士トスベシ」ト。 肯ル童モ、喜悦面ニ見〔現〕ハレ、「サアラバ御供可申」トテ、何カト入用ノ物取揃ヘ、旅行ノ用意アリ。 武公ノ曰、「何方ヨリ故障ノ儀ナドハナシヤ」。童云ク、「我一人ノ姉正法寺村ニ在トイヘ共、久シク音信ヲ絶ス。其外何ノ拘リナシ。暇乞ニモ不及也。扨、此草屋ハ我等父子ニテ作リ置ク。是亦何方ヨリモカモイナシ、跡ニ残スモ無用」ト放火、コレヲ焼。彼刀ヲ帯ビ旅装シテ、武公ニ従ヒ出行。(3) 夫ヨリ諸國ヲ經歴シ、兵術拔群英雄豪傑ト也、宮本伊織ト号シ、豊州小笠原ノ家宰トナリ、二千石ノ知行ヲ得、終ニ風〔夙〕志之通、把鎗跨馬身ト也、子孫相續シテ、豐城諸士ノ冠タリ。(4) |
一 宮本伊織は出羽国正法寺の産である。父の某は、農業を廃し浮浪人だったそうだ。正法寺村から三里（12km）離れた、山陰の荒野に住んでいた。不毛の地で、そこに小さな草屋を造って、ひそかにそれに住まいし、荒野を開墾して畠とし、今日（一日）の飢えをしのぐ。男女二人の子があった。娘は同邑（正法寺村）の某に嫁し、妻もまた没し、かの男児と父子二人であった。 武公は壮年のころ武者修業をして諸国を経歴していた。時にかの児は十三歳、聰明で美形なのは生れつきであった。泥鰌を漁って路傍にいた。そこに武公は行き会って、泥鰌を分けてくれと頼んだ。小童は、いいよとこたえて、泥鰌を小桶に入れ、全部くれようとする。武公が云われるには、「志はありがたいが、私は余計にはいらない。少しだけもらえば足りるよ」と、（泥鰌を）すくい、手ぬぐいに包んで、その桶を返された。小童は笑っていう、「旅の人がたまたま所望されるのに、私がどうしてケチなことをしましょう。どうぞ桶ごと持ってお行きなされ」と、それを放り出し、ふり返りもせずに行ってしまった。武公は、嬉しくなってこれをもらい、感謝された。 その後、武公は、正法寺原を通ったとき、思いがけず（道を）間違って宿を借りることができなかった。日はすでに暮れ、まっすぐ行っても三里（12km）、迂回すれば四～五里（16～20km）も行かなければ村の宿坊に行き着けない。どうしようかと思っていると、遥か遠くの山陰に火の光が閃いている。これは幸いと思い、火を目印に行って見れば、小さな草葺きの庵があった。 戸をたたくと、中から十三、四才ほどの少年が出てきて、「どなたですか」と問う。武公はいう、「旅行の者だが、（地理）不案内で宿を探せず、日が暮れてしまってどうにもできない。どうか一夜の宿を借してほしい」と。少年が曰く、「ご覧の通り、見苦しい草屋で、ことに私一人がやっと居れるような（狭さ）ですから、お宿はできません」とのことである。武公はまたいう、「旅行中のことだから、どんな所でもかまわない。どうか一宿を許されよ」と、しきりに頼み込む。少年は（武公を）よくよく見て曰く、「あなたは、先日泥鰌を差し上げた人ではありませんか」。武公も驚いて、「たしかに、その者だ」という。「それなら、かまいません。お宿しましょう」と、（武公を）連れて中に入る。 座に落ち着いて後、武公が（少年に）問われた、「幼いのに、一人でこんな所に居られるとは、どういう人なのですか」。少年が曰く、「私の母親はすでに死に、たった一人の姉は、ここから三里離れた農家の某に嫁に行きました。老父と二人で暮らしておりましたが、老父もまた亡くなり、私一人で住んでいます」と答え、粟飯を出して（武公に）食べさせ、「客人はお休みなされ」といって、自分も奥に入った。武公は不審ながらも、就寝された。 夜中に刀を磨ぐ音が枕に響き、（武公は）眠りが覚めた。そこで思うに、「さては、この子は盗賊の仲間で、曲者だな。おれが熟睡するのを待って、殺すつもりらしい」と、思わずあくびすると、そのとき山の子がいう、「客人はどうして眠らないのですか」。武公はいう、「刀を研ぐ音が耳に障って、気味が悪い。だからよく睡れない」。少年は笑っていう、「あなたは剛強な面貌に似合わず、さてさて臆病な人だなあ。たとえおれが鋭利な刀で（客人を）刺し殺そうとしても、それはできない。この小腕で何ができますか。どうして客人を殺せましょうか」。武公はいう、「では、どうして刀を研いでいるのか」。 すると、少年は居ずまいをただして、こういった、「私の老父が死にましたのは、まさに昨日です。遺骸を、後ろの山、亡母の墓の傍に葬ろうと思いますが、加勢してくれる手づるは一人もない。おれ一人では、父の遺体を山まで運ぶことはできない。色々と考えたあげく、自分は一つ荷の物は担げるから、この刀で（父の遺体を）ふたつに斬って、一つずつ担いで行って埋めるつもりです」という。 武公はお聞きになり、その言を偉とし、その志を感じ、はなはだ称歎して曰く、「私は幸いに今夜この家に止宿している。できる限り力を合せて加勢しよう。決してもう憂うな」といって、かの死骸の頭（の方）を武公が負い、足を少年にかつがせて、後ろの山に運んで行き、亡母の墓の側に（墓穴を）堀って埋め、石を立てて墓誌とし、家に帰ると、もう夜は明けかかっていた。 少年はねんごろに云う、「おれは一人になってしまって、無聊です。客人はしばらく逗留なさって、つれづれを慰めてください」と。武公も不憫に思い、しばらくあって問われたのは、「おまえ一人がここに住むというのも、どうかと思うよ。おれについてくれば、そのうち相応に取立てられるようにしてやる」と。少年が曰く、「なるほど、客人に従ってどこへでも参りたいとは思いますが、一生奴僕の身となることは願いません。武士となって、馬に跨り槍を把る身となれば満足です。そうでなければ、この地に一人で住んで、自由に一生を過す方がましです」と。武公がいう、「おれについて来れば、（おまえの）望みの如く、必ず、馬に跨り鎗を把るような武士にしてやる」と。 うなづく少年も、喜悦の顔になって、「そういうことなら、お供しましょう」と、何やかやと必要な物を取揃え、旅行の準備をする。 武公が曰く、「（おまえを連れて行くのはよいが）どちらかに差し障ることなどはないか」。少年がいう、「私のたった一人の姉は正法寺村にいますが、久しく音信が絶えています。そのほかには何の縁者もありません。暇乞いにも及びません。さて、この草屋は私ら父子で作りました。これまた、どちらにも関わりはありません。あとに残すのも無用です」と放火して、これを焼いた。（遺体を切断しようとした）かの刀を帯び、旅装して、武公に従って出発した。 それから諸国を経歴し、（少年は）兵術抜群の英雄豪傑となり、宮本伊織と号し、豊前国小笠原家の家老となり、二千石の知行を得、ついに初志の通り、鎗を把り馬に跨る身となり、子孫も相続いて、豊城〔豊前小倉城〕諸士の冠〔首席〕となっている。 |
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【評 注】 （1）宮本伊織ハ出羽國正法寺ノ産也 武蔵の養子・宮本伊織の話であるが、異例にかなり長い記事である。これで、後年の肥後における宮本伊織に関する伝説がどのようなものと化したかを知ることができる。その点で興味深い資料である。 とくに『武公伝』に発するこの話は、「泥鰌伊織」と呼ばれる説話であり、戦前戦後を通じて、広く信じられた。それというのも、これが『二天記』に承継され、それが明治末の顕彰会本『宮本武蔵』に記載されたため、当時の人々はこぞってこの伝説を事実と錯覚したものである。 顕彰会本『宮本武蔵』の筆者は、当時すでに、小倉宮本家系図を見ているのは確かだが、伊織が、播磨の印南郡米堕村邑の産で、田原久光の二男だという、そこにある記事を却下して、理不尽のまま『二天記』の肥後伝説の方に加担している。 それというのも、宮本家系図の記事は、なんと武蔵が田原家貞の息子で、この田原久光の弟になっている、という荒唐無稽なものだったから、資料として信用ならずとして、それと一連に伊織の播磨出自も却下してしまったのである。もっとも、顕彰会本『宮本武蔵』の作者には、武蔵は美作産だとする思い込みがあるので、武蔵を播磨産とするわけにはいかないのだが、これは、いわば盥の水と一緒に赤児まで流してしまうという事例である。 しかるに、この顕彰会本の所説の影響は多大なるもので、その弊害がその後長く残存した。たしか戦前までは、ほぼ唯一の例外（川島宙次）を除いて、伊織の出自を正しく認識した者はいなかった。『播磨鑑』を明治の刊本で閲たはずの森銑三でさえ、同書にある伊織記事を知りながら、俗書には長々と『二天記』の泥鰌伊織（顕彰会本からの孫引）を引用して、むしろその伊織伝説に与した方だから、他は推して知るべしである。とはいえ、彼らの無明を嗤えたものではなく、今日でも同様の仕儀が続いているのである。 では、その『二天記』の記事の原型をなした『武公伝』の物語を読んでみよう。ここでの我々のスタンスは、『武公伝』の記事を純粋に物語伝説として読むということである。これまではたいていの論者は、この泥鰌伊織の説話を、妄信するか、虚構として棄却するか、そのどちらかでしかなかった。いままでに武蔵本を書いたことのある諸君は、胸に手を当ててみることだ。これは武蔵関連伝説として、きちんと読んでおくべきものであるが、そのような試みさえ従来存在しなかったのである。しかし、この泥鰌伊織譚はとくに『武公伝』が初出なのだから、これを一通りは読んでおくことが必要なのである。 まずは伊織の産地、出生地のこと、彼の生い立ちのことである。 『武公伝』は、《宮本伊織ハ出羽國正法寺ノ産也》と断じて明快であるが、そもそもこれが物語の発端だから威勢がよい。しかるに、分かり切ったように語るその「出羽国正法寺」が不明である。 その昔我々もこれを探したことがあるが、現在でもやはり探索の手がかりはない。文中に「正法寺村」とあるから村名とみなして、出羽国絵図の隅々を探しても、これはない。ならば、正法寺という寺は全国に多いから、寺はいかに、というと、これはいくつもある。山形県内だと、鶴岡・天童・中山・長井にその名の寺があるし、また秋田県では横手にも正法寺がある。なかでも、天童の正法寺は、付近の倉津川の上流が正法寺川といい、正法寺が地名化したことが知れる。そこで古地図で倉津川・正法寺川沿岸を探したが、これとても『武公伝』のいう正法寺村という地名は見当たらなかったのである。 あるいは、周知のごとく森鴎外が短編「都甲太兵衛」（大正六年）に書いていること、――つまり、羽後国仙北郡の強首野の続きにこの正法寺という地名があるそうだ、伊織の故郷はそこではあるまいか、という話がある。これははなはだ怪しげな伝聞なのだが、改めて検証してみることにした。すると、結果はどうであったか。 鴎外の時代に比較的近い天保国絵図でみると、なるほど仙北郡に強首〔こわくび〕村がある（現・秋田県大仙市強首）。周囲は雄物川流域の盆地で村がいくつもみえる。しかし、強首の周辺を探してみても、残念ながら正法寺村という村名はみえないのである。強首野の続きに正法寺という地名があるそうだという鴎外の話は伝聞にすぎず、それをそのまま書いたわけで、彼自身が地名の所在を確認したわけではないから、これは却下とするほかない。 かくして結果はいづれもアウトであった。伝説を真に受けて出羽国に正法寺村なる村を探すなど、余人からすれば酔狂なことである。だが、無駄とわかっていても、一再ならずしつこく探索するというのが、研究者に求められる愚直の道である。なるほど、実際は伊織自身にとってもどうでもよい駄法螺話だが、この伝説を読むために、出羽に正法寺という村があったのか、なかったのか、それを確定しておきたいというわけである。 それはそれとして、出羽には正法寺村はないとすれば、結局、これは遠い九州で形成された実体なき後世の伝説であると、我々は結論づけたのである。それでも、いかに荒唐無稽な実体なき伝説とはいえ、その「正法寺村」という具体的な名には何か理由があるかもしれない。 これについて、すでに以前、本サイト［資料篇］泊神社棟札読解のページで提示されていたように、播磨に正法寺村があったのである。なるほど、伊織所縁の播州三木郡に「正法寺村」という村が存在していた。美嚢川が加古川本流に合流するあたりが、その「正法寺村」であった（現・三木市別所町正法寺）。正法寺山という名も現存する。このあたりは、かつては湿原で、泥鰌などいくらでも捕れそうな場所である。しかし人里離れた山奥とは言いがたい。 とはいえ、出羽にはない「正法寺村」が播磨にはあった、しかも、伊織に所縁のある播州三木郡にその村があったということは、この泥鰌伊織の伝説にその名を提供した可能性もある。伝説というものは無関係な説話素を組み込んで成長するものだが、何らかのきっかけで、肥後で形成された泥鰌伊織伝説に、この「正法寺村」の名だけが紛れ込んだものかもしれない。――そういう推測も成り立ちうるであろうというのが、「正法寺村」探索の結果、我々が得た所見である。 さて、『武公伝』の物語は、伊織の出自と生い立ちを語る。――父の某は、農業を廃し浮浪人だったそうだ、正法寺村から三里（12km）離れた、山陰の荒野に住んでいたとあって、伊織の父は名無しで、しかも浮浪人なのである。この浮浪人とは、語の厳密な意味でホームレスということだが、どこにも帰属先をもたない自由な身という意味でもある。伊織の父は、百姓身分を捨てて、山に入ったのである。これも脱俗の生活の一つである。 そこは不毛の地で、小さな草屋を建て、ひそかにそれに住まいし、荒野を開墾して畠とし、今日一日の飢えをしのぐ生活である。これは清貧とかいう上品なものではなく、飢餓線上の極限的な貧困と格闘する日々である。そのようにしてこの物語は、上方でも西国でもなく、まさに北の辺境たる出羽の、そのまた山奥で、浮浪人の子として生まれ、極貧の中で育った伊織、というイメージをまず措定するのである。 かの父には男女二人の子があった。娘は同邑（正法寺村）の某に嫁し、妻もまた死んだので、残された男児、つまり伊織と父の二人で暮らしていた。これが、武蔵が遭遇した少年伊織なのである。 Go Back |
*【二天記】
《武藏常陸ヨリ出羽ニ至ル。出羽ノ國正法寺原ト云處ヲ通ル。路ノ傍ニ十三四ノ童、泥鰌ヲ小桶ニ入テ持ツ。武藏是ニ向テ、其泥鰌ヲ少シ所望スベキヨシヲ乞フ。易キコトナリト桶ヲ差出ス。…》 *【顕彰会本宮本武蔵】 《又按に宮本氏系圖によれば、伊織は武藏の養子なれども、その實は、田原久光の二男とし、實母は小原上野守源信利の女とし、慶長十七年十月廿一日、播州印南郡米堕村邑の産とし、寛永三年十五歳に於て、小笠原忠眞に奉仕すとせり。田原久光とは、田原右京大夫貞光の孫にて、赤松持貞の後、小原信利は、攝津有馬の城主なり。これによれば、武藏も本は田原氏にて、田原家貞の子田原久光の弟にして、新免無二齋の養子となり居れども、甚だ信じ難し。思ふに伊織を無名なる浪人の子とせる二天記を厭ひての作ならむか。或書には伊織を以て商家の子とせるもあれど採らず》 *【播磨鑑】 《宮本伊織 印南郡米田村ノ産也。宮本武藏、養子トス》 《宮本伊織 米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す》  伊織関係地図
*【森鴎外】
《武藏は伊織を連れて豐前國小倉の城下に來た。此伊織は武藏が出羽國正法寺が原の一つ家で相識になつた孤だと云ふ。わたくしは正法寺と云ふ地名を求めたが、見えなかつた。後に聞けば羽後國仙北郡強首野の續きに此地名があるさうである。伊織の故郷は或はそこではあるまいか》（「都甲太兵衛」）  出羽国強首村 天保国絵図  播磨国細見図 三木郡正法寺村  播磨国三木郡正法寺村 現況 兵庫県三木市別所町正法寺 |
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（2）彼児十參歳…泥鰌ヲ捕テ路傍ニアリ 物語の本体部分である。伊織が武蔵と出会い、武蔵とともに旅立つまでを語る。 まず、武蔵は壮年で、武者修業をして諸国を経歴していた頃のこと、と遭遇の時期を語る。なるほど武蔵の五輪書によれば、武蔵は慶長後期、二十代の終りあたりまで、諸国遍歴して多くの兵法者と試合をして廻っていたようである。現代では青年の部類かもしれないが、当時では二十代は壮年であるから、不都合はない。諸国武者修業をするうちに、辺境の出羽の国にも行った、という物語の設定である。 かたや、この童、つまり少年伊織は、年齢十三～四歳で、生まれつき聡明で俊俏とある。俊俏は、すぐれてうるわしいの意であるから、ようするに美少年である。賢くて美童とあれば、衆道の典型的な表現である。 しかるに、これが武蔵二十代の最後の頃だとしても、慶長十六～七年。伊織がすでに年齢十三～四歳というのは、勘定が合わない。それというのも、現実の伊織は、慶長十七年生まれだから、武蔵が武者修行の慶長諸国遍歴時代、まだ誕生していない。それに何より、現実の伊織は播磨国印南郡米田村産だから、出羽あたりに姿を現すわけがない。 したがって、時期も場所も現実離れしている。そもそもの出だしから、この物語は事実と違っているのだが、上述のように、我々の武蔵研究のスタンスは、この物語を武蔵関連伝説の一つとして読むということだ。読んでみればわかるが、これが、なかなかよく出来た説話なのである。 さて、――廻国修行中の武蔵が道を通りかかると、泥鰌捕りの少年がいた。この子は泥鰌を捕って遊んでいるのではない。これは売るために捕っているのである。ここで、なぜ泥鰌なのか。それには理由があって、民俗学的に云えば、泥鰌捕りは孤児に特許された生業である。伊織が泥鰌捕りの少年だという語りの背景には、この子か孤児だという暗黙の条件づけがある。「泥鰌伊織」というのは「孤児伊織」という含意がある。 武蔵は少年に泥鰌を分けてくれと頼む。武蔵が泥鰌を食いたかったからといよりも、むしろ、これは物語上の伏線で、以下の説話展開を引き出すためである。少年は惜しむことなく、武蔵に泥鰌をくれる。それがポイントなのである。泥鰌は孤児の商品、生活の糧だが、少年は吝なことは言わず、それを桶ごと全部武蔵に与える。これが、のちに大きな贈与となって返ってくるというのが、民話のパターンである。この物語もその基本構造を示す。 武蔵はその泥鰌を有り難く頂戴して別れたが、これきりだと、話にはならない。説話論上の必然として、二人は再会しなければならない。 数日後――かどうか知れないが、――武蔵は「正法寺原」を通るさい、不覚にも道を間違って宿を借りることができなかった。日はすでに暮れ、まっすぐ行っても三里、迂回すれば四～五里も行かなければ、村の宿坊に行き着けない。 武蔵ほどの者が、こんな程度のことで難渋するわけがない、と云うなかれ。あるいは、どうして武蔵は「正法寺原」あたりでまだうろついていたのか、などと突っ込みを入れないことだ。とにかく、村里を離れた「正法寺原」で武蔵は道に迷ってしまい、宿を求めることができない。 どうしようかと思っていると、遥か遠くの山陰に火の光が閃いている。人家がある。これは幸いと思い、火を目印に行って見れば、小さな草の庵があった。旅人が夜道に迷い、人家の火を見出す、これも物語の定型にほかならない。 戸をたたくと、中から十三～四才ほどの童が出てきた。十三～四才ほどの童というのは、語りの反復である。『二天記』の方はここをもう少し曖昧化して、年齢十三～四才とは記さず、あやしい童が出てきたという風に変えている。反復に難を感じるのは、『二天記』のケースは書物として書き下ろしたからである。これに対し『武公伝』の方は、語りの調子をほぼそのまま再現していると云える。 十三～四才ほどの童が出てきたというわけだから、この場面を聞く者は、すでに再会なったと決めてかかる。しかしそう単純に事を運ぶのは、物語として出来損ないである。武蔵が一夜の宿借りを頼んでも、少年はそれを断わる。見ず知らずの者を泊めるわけにはいかない。狭いから何のというのは、断わるための理由である。 ここで説話論的対位法がある。先ほどの泥鰌との対照関係である。 ・武蔵に泥鰌を気前よくくれてやった ・こんどは、武蔵に宿を貸すのを渋る ここで物語は二人の再会を宙吊りにする。サスペンスの原型である。少年は武蔵を泊めるだろうか。 武蔵は断わられても、しきりに頼み込む。そのうち、少年は武蔵に気づいて、「あなたは、先日泥鰌をくれといった人ではありませんか」。武蔵も驚いて、「たしかに、その者だ」という。「それなら、かまいません。お宿しましょう」となって、障碍は撤去される。物語を聞く者は、ほっと一安心であるとともに、二人の再会成就を喜ぶだろう。 物語は、聴衆を引きずり回すものでなければならない。この少年が戸口を開けて出てきたのだから、二人がお互い相手に気がついてもよさそうなのに、そうは簡単には、説話の問屋は卸さなかったのである。しかし、一度は断わるというのは、「安達原」でも同じで、説話はいづれにしてもかような手続きを蹈むのである。 少年は武蔵を家に入れる。腰を落ち着けて、それから武蔵は少年に問う、「幼いのに、一人でこんな所に居られるとは、どういう人なのですか」。少年は、「私の母親はすでに死に、たった一人の姉は、ここから三里離れた農家の某に嫁に行きました。老父と二人で住んでいましたが、老父もまた亡くなって、私ひとり住まいしております」と答えた。ようするに姉はいるが、父母を亡くした孤児だというのである。 そうして少年は、粟の飯――これは極貧ではなくとも、山家の者の常食だが、――粟飯を武蔵に食わせた。泊めるだけではなく、飯も出したということである。『二天記』は、この粟飯を語る前に、《童小鍋ノ下ヲ焚キ、柴茶ヲ出サントス》として、客人にまず茶を出したことにする。具体的な光景を語って潤色を進めているのである。 武蔵に粟飯を食わせて、少年は、「客人はお休みなされ」といって、自分も奥に入った。『武公伝』はそう語るのだが、『二天記』はまた潤色を加えて、「夜陰秋風冷シ。客ハ休ミ玉ヘ」という台詞にする。『武公伝』は季節はお構いなしだが、『二天記』では、いつの間にか話は、夜陰秋風冷シの季節ということにしてしまっている。これは『二天記』が、次に「草蟲耳にかまびすしく、白露袖に結ぶばかりなり」と修辞することでいっそう確定する。 さて、『武公伝』がここで「奥」というのは、一間きりの小屋だろうから、別室があったのではなく、衝立か何かで区切っただけの「奥」のようである。ところが、『二天記』では、奥ではなく、「次ノ間」とあって別室に変わっている。『二天記』では、この家は「次ノ間」付きに増築されているようである。 武蔵は不審ながらも、寝に就いた。――この不審というのは、飯を食わせると、童はさっさと奥へ引っ込んだわけで、愛想がないということだけではなさそうである。何かあやしげなのである。武蔵とともに、物語の聴き手も「不審」という言葉に引っかかって、居心地悪く宙吊りにされたかっこうで、話は次へ進む。 Go Back |
  泥 鰌
*【二天記】
《武藏常陸ヨリ出羽ニ至ル。出羽ノ國正法寺原ト云處ヲ通ル。路ノ傍ニ十三四ノ童、泥鰌ヲ小桶ニ入テ持ツ。武藏是ニ向テ、其泥鰌ヲ少シ所望スベキヨシヲ乞フ。易キコトナリト桶ヲ差出ス。武藏云、「吾餘計ニハ無用ナリ。少シ得テ足ヌ」ト手拭ヲ出テ包ントス。童笑テ曰ク、「旅人ノ適々所望セラルヽニ、是何ゾ惜ンヤ。桶トモニ持行キ玉ヘ」ト云テ、不顧シテ去ル。武藏怡然〔いぜん〕トシテ受之。次日武藏曠野ヲ經過シ、不覺錯テ宿ヲ不得、日既ニ暮ヌ。往クコト三里許リ有リ、後ニ返レバ四五里ナラデハ村坊ニ不遇、如何セント思フニ、遙ニ山陰ニ火ノ光ヒラメク、是家有リト思ヒ、火ヲシルベニ漸クタドリ着キ見レバ、小キ艸屋一軒アリ。内ニ音ヅルレバ、アヤシキ童出デ、「如何ナル人ゾ」ト云。武藏、「旅行ノ者ナルガ、不条内ニテ、宿ヲ不求得、既ニ日暮テ如何トモ爲ガタシ。何トゾ一夜ノ宿ヲ借ン」ト云フ。童云、「此ノ狭キ艸屋、殊ニ我一人居リ粮ダニ無ク、客ヲ容ルヽコト不諧」。武藏又云、「旅行ノ事ナレバ。如何ナル體ノ所ニテモ不苦」ト頻リニ請フ。童ツクヅクト見テ、「其元ハ前日泥鰌ヲ乞ヒシ人ニアラズヤ」。武藏驚キ、「ナルホド其者ナリ」ト云。童、「サラバ内へ入玉ヘ」ト。武藏座ニ着ク。童小鍋ノ下ヲ焚キ、柴茶ヲ出サントス。其生資、聰明俊俏ナリ。武藏云、「如何ナル人ナレバ、幼年ニテ爰ニ居ルヤ。父母ハ如何ニ」ト。童云、「我等正法寺村ト云處ノ産ナリ。父農業ヲ癈シテ、此ノ野外ニ居住シ、又父母歿シ、一人ノ姉モ此ノ處ヨリ三里外ノ農家ニ嫁セリ」ト云テ、粟飯ノ少シ有シヲ出シ、「夜陰秋風冷シ。客ハ休ミ玉ヘ」トテ、童モ次ノ間ニ入リヌ。武藏不審ナガラモ、ソコニ寝タリ》 |
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（3）半夜ニ刀ヲ磨音枕ニ響キ、眠覚 夜半に刀を磨ぐ音がして、それが枕に響き、武蔵の眠りが覚めた。――それ、云わぬことではない、「安達原」だ。夜道に行き暮れて、ようやく見つけた山中の一軒家、話を聞く前に、条件は出揃っている。さて、鬼が出るか、蛇が出るか。 刀を磨ぐ音に、武蔵は思う、「さてこそ、この童は盗賊の余党で、曲者だな。おれが熟睡するのを待って、殺すつもりらしい」と、これは期待の怪談に応じたものではなく、現実的な話である。聴き手はすこしがっかりする。と、武蔵は思わずあくびをする。 このあたり、サスペンスの緊張が崩壊して、一気に弛緩である。状況はネガティヴなものから反転する。聴き手を引きずり回すという点では、うまく出来ているのである。 武蔵があくびをしたので、聴きつけた少年が、「客人はどうして眠らないのですか」。武蔵、「刀を研ぐ音が耳に障って、気味が悪い。だからよく睡れない」。この答えも正直なものである。少年は笑っていう、「あなたは剛強な面貌に似あわず、さてさて臆病な人だなあ」。まったく、そうだろう。こんな科白が出るとは面白い。 少年がいう、「たとえ、おれが鋭利な刀で刺し殺そうとしても、それはできない。この小腕では何ができますか。どうして客人を殺せましょうか」。武蔵、「では、なぜ刀を研いでいるのか」。それが、物語の聴き手も、ぜひ知りたいところだ。一気に少年に視線が集中する。 すると、少年は居ずまいをただして、「私の老父が死にましたのは、まさに昨日です」と語る。母も父も死んで孤児だと少年は言ったが、なんと、父親は死んだばかりで、その死骸がまだその家にあったのである。それに気づかぬ武蔵の方も呑気で間が抜けているのだが、とにかく寝ている場合ではない。 少年がいう、「父の遺骸を、後ろの山、亡母の墓の傍に葬ろうと思いますが、加勢してくれる手づるは一人もない。おれ一人では、重くて父の遺体を山まで運ぶことはできない。色々と考えたあげく、自分は一つ荷の物は担げるから、この刀で（遺体を）ふたつに斬って、一つずつ担いで行って埋めるつもりです」と。 この子は重くて運べない父の遺体を、半分なら運べるから両断しようとしている。そのために刀を研いでいたというわけである。 この、「一つ荷の物は担げる」というのは、天秤棒で担ぐくらいの重さなら担げるということである。天秤棒で前後二つの荷を担ぐということで、二つで一つだから一つ荷。だから、この子が泥鰌を売り歩いていたという伏線が、この「一つ荷」という語に露頭している。 それでも父親の遺体の重さは、自分が担げる一つ荷より重い。そこで、半分なら運べるから、二つにしようという大胆な論理である。この「一つ」と「二つ」をめぐっては、武蔵流兵法の二刀一流ないし二天一流の名にある弁証法、「二にして一、一にして二」という論理のアナロジーがある。それが具体的には死体を両断すること、死せる父を二つにして、二度目の死を死なせること、――というように、いわば父殺しのテーマをめぐって、一と二の数が戯れている。 しかも、この物語には、息子が父の遺体を両断するという宿業の深淵が開いていることを看過することはできない。あるいは、説話の論理からすれば、第二の父、新たな父の出現こそが、実父を亡き者にしたのであって、実父の死体を両断するという親不孝の極み、その絶望的な悪行を阻止するのも、この新たな父の仕事なのである。 もちろん、幸いに武蔵のような剛強な面貌の豪傑が泊まってくれたのだから、刀を研ぐ前に、さっさと頼めばよかろうに、というのは素直な聴衆ではない。それでは、肝心の「安達原」めいたホラーが失せるし、それに何より、父親の死骸なれど、惱んだ挙句それを両断するもやむなし、というこの山童の決断の痛切を、物語内で提示する機会がなくなる。物語の必然は無理を承知で押し渡るのである。 武蔵はこれを聞いて、えらい根性のある奴だと感心して、申すまでもなく、遺体の運搬と埋葬を手伝うことにした。死骸の頭の方、上半身を武蔵が負い、足を童にかつがせて、後ろの山に運んで行き、亡母の墓の側に墓穴を堀って埋め、石を立てて墓標とした。 父の遺骸の埋葬という、この共同作業のシンボリックな行為に注意することだ。大男で怪力の武蔵なら一人でも容易に遺体を担げるはずだが、ここは少年と二人で担いでいく場面である。『二天記』も、この前後のことはほぼ同じように書いている。文体が書き言葉になって変わっているだけである。 家に帰ると、もう夜は明けかかっていた。もう夜明けである。鬼が出るわけでも蛇が出るわけでもなく、死せる父を切断するという、ありうべきこの夜の惨劇は回避され、まさにこの少年の運命の夜明けを迎えたのである。 少年は懇ろにいう、心をこめて言うのだが、「一人になってしまって、無聊。客人はしばらく逗留なさって、つれづれを慰めてください」と言い出す。衆道の科白である。客人は当然出発する。急に淋しくなったというところ。武蔵も不憫に思う。 武蔵はしばらく考えて、この少年を連れて行くことにした。「おまえ一人がここに住むというのも、どうかと思うよ。おれについてくれば、そのうち、できるだけ取立てられるようにしてやる」と。しかし童は、「なるほど、客人に従ってどこへでも参りたいとは思いますが、一生奴僕の身となることは願いません。武士となって、馬に跨り槍を把る身となれば満足です。そうでなければ、この地に一人で住んで、自由に一生を過す方がましです」。なかなか、したたかな子なのである。窮屈な近代社会とは違って、昔はまだこういう生き方ができたのである。 武蔵は約束させられる。「おれについて来れば、おまえの望みの如く、必ず、馬に跨り鎗を把るような武士にしてやる」と。うなづく童も、喜悦を顔にあらわし、「そういうことなら、お供しましょう」。というわけで、童は何やかやと必要な物を取揃え、旅立ちの準備をする。 武蔵は念のため、もう一つ訊いておかねばならないことがあった。「おまえを連れて行くのはよいが、どこかからクレームがつくようなことはないか」。子供を勝手に連れ出すのは、今も昔も、人さらい、誘拐である。だれか親代りになる親類縁者でもあって、念のため断りを入れる必要がありはしないか。 少年はいう、「私のたった一人の姉は正法寺村にいますが、久しく音信が絶えています。そのほかには何の縁者もありません。暇乞いにも及びません」。だれにも断りを入れる必要はないし、別れを告げる必要もないという。物語の必然として、この子はいわば絶対的な孤児なのである。 そして意外なことをする。「この草屋は私ら父子で作りました。これまた、どちらにも差し支えはありません。あとに残すのも無用」と放火して、これを焼いたのである。 このあたりも、父の遺体を両断しようというのと同じ仕儀で、大胆なことをする子なのである。しかし、自分の家を放火して焼くのは、もうここへは戻らないという決断の身振りであるとともに、自分の出自の焼却である。自分の過去を抹殺して、新たな人生の旅立ちをしるす行為である。この物語の秀逸なシーンである。かくして少年は、遺体を切断しようとしたあの刀を腰に差し、旅の装いよろしく、武蔵に従って出発したのである――。 ようするに、このように山童伊織が何の縁者とてない絶対的な孤児だという設定は、だれも伊織の出自（父の名）を知らないという物語の条件と相応することであって、我が家を焼却するという説話素は、伊織出自不詳をメタレベルで語っているのである。 Go Back |
 安達原 般若能面
*【二天記】
《草蟲聒耳、白露袖ニ結ブ計ナリ。夜半過比ニ、刃ヲ磨ク音切々トシテ枕ニ響キ、睡覺ヌ。依テ思フ、「扨コソ盗賊ノ餘黨ニテ、曲者ヨ。吾熟睡ヲ待チ、害スルヤ」トテ、不思欠伸ス。時ニ童聞テ、「客ハ何故ニ睡眠セザルヤ」。武藏云、「刃ヲ磨音耳ニ障リテ不快、ウチ覺タリ」。童笑テ云、「客ハ剛強ナル顔ツキニ不似、臆病ナル人哉。假令我等利刀テ以テ殺サントスルモ、此ノ小腕ニテ如何程ノコトヲセンヤ」。武藏云、「サアラバ何故刀ヲ磨クヤ」。童云、「何ヲカ包可申。我父死スルコト昨日也。是ヲ後ノ山亡母ノ墓ノ傍ニ埋メント思ヘドモ、我持行事能ハズ。ツクヅク思フニ、我一荷ノ物ハ擔フニヨリ、此ノ刀ヲ以テ父ノ死體ヲ兩段ニ斬テ一荷トナシ、擔ヒ行埋メン」トナリ。武藏聞テ其言ヲ偉トシ、其ノ志ヲ感ジ太ダ稱歎シ、「吾幸ニ止宿セリ。二人シテ葬ルべシ。憂ルコトナカレ」ト、死體ノ肩ヲ武藏負ヒ、足ヲ童抱テ山ニ行、亡母ノ墓ト一所ニ埋メ、石ヲ立テ誌トシ、家ニ皈レバ夜既ニ明タリ。童懇ニ云、「我孤リ頼母シゲナシ。客ハ暫ク逗留シ玉ヘ」ト。武藏不便ニ思ヒ、「汝一人此ニ居住センヨリ、吾ニ従テ來ラバ、随分取立べシ」ト。童云、「客ニ從ヒ何方ヘモ参ルベケレドモ、一生奴僕ノ身ナラバ、参ルマジ。武士トナリ、鎗ヲ把リ馬ニ跨ル身トモナラバ、行ベシ。左ナクバ、此ノ地ニ孤居シテ、自由一生ヲ過サンガマサレリ」。武藏云、「吾ニ從ヒ來ラバ、望ノ如クナサン」ト肯フ。童喜悦面ニ見〔現〕レ、「然ラバ付參ルベシ」ト、彼一腰ヲサシテ進ム。武藏云、「何方ヨリモ故障ノ事ハ無キヤ」。童云、「何方ヨリモ故障ナシ。姉モ有ト云ドモ、久ク音信ヲ絶ス。此事告ルニ不及。又此艸屋我等父子ガ造リタル家ナレバ、何方ヨリモ無構。但シ跡ニ残スモ無益ナリ」ト、火テ放テ焼棄ツ。武藏ニ從テ出行》 |
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（4）豐洲小笠原ノ家宰トナリ、二千石ノ知行ヲ得 伊織は、豊前国小笠原家の家老となり、二千石の知行を得、ついに初志の通り、鎗を把り馬に跨る身となった。鎗を把り馬に跨る身なら知行三百石でよいが、伊織は二千石の家老にまで出世した。その子孫も老職を相続して、豊城〔小倉城〕諸士の冠となっている。めでたし、めでたし、というわけで、この伊織出世物語は幕を下ろす。 改めて『武公伝』の語るところをみれば、「それから諸国を経歴し」とあって、武蔵はこの少年を連れて、諸国武者修行を続けたということである。面白いのは、兵術抜群の英雄豪傑となり、宮本伊織と号し、とあることである。『武公伝』の物語では、伊織は兵術抜群の英雄豪傑となったのである。武蔵に従って諸国を経歴して修行したのだから、これは兵術抜群の英雄豪傑にでもならなければ、話は納まらないわけである。 しかし、さすがにこれでは現実離れした話だと感じられたのか、『二天記』では、この兵術抜群の英雄豪傑という一節を削除している。つまり、諸国経回して豊前小倉に逗留した。のちに伊織は小笠原家に仕え、云々とあって、兵術抜群の英雄豪傑になったという話はない。『武公伝』の伊織伝説は、児童向けの童話じみた説話に仕上がっているので、『二天記』の作者はこれを抑制したのである。 しかるに、近代になってむしろ、伊織は「八五郎」という名の剣術名人になってしまった。それというのも、寛永御前試合の番組に、試合をした十一組二十二人のうちに、豊前小倉の宮本八五郎という名があって、それを武蔵養子の宮本伊織と同一視したのである。その事例は多すぎるほどあるが、たとえば、右に示すような森銑三の説（宮本武蔵言行録・昭和十五年）もその一類である。 つまり、三代将軍家光の寛永十一年（1634）九月二十二日から吹上御覧所で上覧仕合があり、そのとき出場したとなれば、宮本八五郎＝伊織は、将軍の御前試合に出るほどの剣の達人であり、しかも相手は、伊賀越鍵屋辻の決闘で有名な剣豪・荒木又右衛門なのである。 結果は、荒木又右衛門を相手に相打ちで引き分け。とはいえ、この豊前小倉の宮本八五郎は、武蔵が養子にしたほどの者なら、荒木又右衛門と勝負互角とみたいという空想の産物である。またこの寛永御前試合そのものがフィクションであるから、宮本八五郎は荒木又右衛門を相手に仕合するわけにもいかない。 ところが、講談本の類をみると、寛永御前試合で荒木又右衛門と試合したのは、宮本無三四だとして噺を進めている。それはさすがに荒唐無稽だ思ったか、それは無三四ではなく八五郎だ、と訂正しているのが、顕彰会本『宮本武蔵』。無三四ではなく八五郎だと訂正されても、同じくフィクションであることには変りはない。 しかし、「八五郎」は宮本伊織だという説は、長く俗書に再生産されていたし、小説などでも伊織は宮本八五郎という名を与えられ、剣術の達人として登場することもあった。これらはいづれにしても、伊織にまつわる近代の巷間伝説にほかならない。そして、伊織が兵術抜群の英雄豪傑になったとする『武公伝』においてさえ、むろん、そんな「八五郎」は存在しないのである。 ところが江戸時代には、こんな宮本八五郎＝伊織伝説とは異なる系統の伝説もあった。筑前系の『丹治峯均筆記』には、武蔵の二人の養子、造酒之助（三木之助）も伊織も兵法稽古はなかった、つまり武蔵は彼らに兵法を教えなかったという。とくに伊織には、（兵法ではなく）仕舞を教えたとまで記して、ようするに伊織は兵法とは無縁だったことを強調している。 しかし、これもバイアスがかかった伝説であって、武蔵は養子たちに兵法を教えなかったということは、武蔵流兵法は養子が嗣がず、別の人間が承継したこと、とくに筑前二天流では、寺尾孫之允が唯一相伝者の武蔵流兵法嫡流だ、ということになっているのである。 肥後の伝説では、志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』には、それよりも詳しい話もある。武蔵死後のこと、寺尾求馬助は、武蔵流の書物や帯刀など武蔵の遺品を、小倉小笠原家の家老・宮本伊織方へ送ったという。つまり武蔵遺品を息子の伊織へ返したのである。そうしてここでは、武蔵遺品を送りつけられた伊織の返答まで伝えられている。曰く、「私は武蔵の本名を嗣いだが、兵法の事は一切相伝しなかった。寺尾求馬助は幸いに武蔵の流儀を相伝した。武蔵の遺品はそちらで受用なさるがよい」と。そうして、武蔵の遺品を寺尾求馬助方に返してきた。そういうことなので、しかたがなく、寺尾求馬助がこれを持ち伝えて、年暦を経たというわけである。 求馬助は、主君細川光尚から武蔵の病床に付け置かれた（五月二十九日付長岡監物宛伊織書状）。武蔵の看病や身の回りの世話をしたであろうし、武蔵の病中死後、あれこれ仕切る役まわりであったと推測しうる。となれば、求馬助が、武蔵の遺品を小倉の伊織方へ送ったということはありうる話だが、上記のような返答をもって、伊織が遺品を返送してきたというのは、かなり説話化の進んだ伝説である。 というのも、伊織は兵法関係の遺品を返送してきた話が、新免弁助が武蔵二代目となったという話に接続されるから、武蔵遺品の帰属の話には、別の意味合いが発生している。すなわち、伊織は、自分は武蔵から宮本家を嗣いだが、兵法の家・新免家は継いでいない、新免の家名も含めて、武蔵流兵法関係は、そちらで勝手になさるがよろしい、という言質を得たという格好の成り行きで、新免の家名をどうするか、伊織から寺尾求馬助に託されたというのが、ここでの文脈である。武蔵の兵法関係遺品を持ち伝えるというのは、三種神器と同じく、ようするに新免家を継いだという証なのである。 したがって、『兵法二天一流相伝記』の伝説では、伊織は、寺尾求馬助系統の正統性を保証するという役回りを演じさせられる。しかしここでも、『丹治峯均筆記』と同様に、伊織は武蔵流兵法を継がなかった養子、という位置づけである。 これに対し、『武公伝』の、伊織が武蔵の諸国遍歴に随行して、兵術抜群の英雄豪傑となった、という伝説記事は、いかにも童話めいているが、注意を要するポイントである。というのも、実際に伊織は兵法と無縁であったかどうか、その点に関してまだ十分な検証がなされていないのである。 伊織がいかなる人物であったか、それに関する情報は、小倉宮本家の伝書をはじめさして詳しいものはない。小倉関係の伝記資料の今後の発掘に期待するより他はない。 しかるに、伊織と兵法の関係を示すものがないわけではない。というのも、武蔵研究ではこれまで看過されてきたのだが、宮本伊織が伝えた二刀流兵法というものが現存するのである。すなわち、宮本伊織伝二天一流である。 この伊織伝二天一流の史的経緯については不明だが、幕末まで豊前小倉に伝えられていたのが、近代以後東京で伝承されたらしい。こういう生きた史料については、よほど尊重してかかるべきで、これまで武蔵研究で無視されてきたのは不当というべきであろう。これが来歴も無しに突然発起するわけもないから、何らかの跡が小倉に残っているはずである。 つまり、伊織が伝えた武蔵流兵法が小倉で幕末まで伝承されていたとすれば、他に何らかの傍証資料があるはずである。『丹治峯均筆記』や『兵法二天一流相伝記』の伝説は上述のようなことだが、実際には、伊織関連の資料が小倉で発掘されるのを待たねば、伊織と武蔵流兵法との関係については、本来は何も云えないはずである。 そして実際、武蔵の豊前小倉時代の資料が決定的に不足しているというのが事実である。武蔵が豊前でどうしていたのか、それを把握せしめる情報がないのである。伊織関連資料が新たに出れば、武蔵の小倉時代の輪郭概略を描ける可能性も出てくる。この点に関して、とくに地元小倉の研究者の出現を待ちたい。 |
*【二天記】
《夫ヨリ國々ヲ經囘シ、豊前小倉ニ留ル。後ニ小笠原家ニ仕へ、誠ニ夙志ノ如ク、鎗ヲ把リ馬ニ跨ル身ト成リ、子孫相續シテ、今ニ豐城ノ諸士ノ冠タリ。宮本伊織ト號ス》
*【宮本武蔵言行録】
《武藏の小倉に到つた寛永十一年の五月二十二日に、將軍家光は全國から各流の武藝者を招いて、吹上に於てその試合を覧た。世にこれを寛永の御前試合といふのであるが、このとき荒木又右衛門と試合して合打となつた小倉の宮本八五郎こそは、即ち出羽國の少年だつた。時に又右衛門は三十八歳、八五郎は二十三歳だつた。（中略）劔客としての八五郎は、この時既に又右衛門と互格の勝負をなし得るほどの腕前になつてゐたのである》  伊賀越仇討之図
*【丹治峯均筆記】
《武州平生被申ニモ、「物ノ目利ハ其道々ニ携リ、スキ候ヘバ、程々ノ見習アルモノ也。ワレハ人ヲ目利スル事ヲ得タリ」ト自賛アリタリトカヤ。ゲニモ養子二人ノ目利、及ガタキ事也。伊織モ造酒之助モ、兵法者稽古ナカリシトイヘリ。伊織ニハ仕舞ヲ教ラル。武州、平日仕舞ヲ致サレシトカヤ》 *【兵法二天一流相伝記】 《武藏死後に至り、一流の書物、竝帯刀共、豐州小倉城主小笠原家の家老、宮本伊織方へ遣す。伊織は武藏本名を繼し子なり。伊織の曰、「我武藏の本名繼と雖も、兵法の事、曽て相傳せず、信行幸流儀相傳せり、受用可有」由にて、右の品求馬方に差返す。依然無據持傳、年暦を經。四男寺尾辨助、天性兵法萬人に越、其道元祖武藏に不負、獨歩の器量、流儀の有徳、二天流奥儀、不殘傳授して、武藏の名跡を繼せ、新免辨助と號す。二天流二代是也。武藏存生の内、「信行男子あらば、我流儀を相傳して、新免の名跡を繼可申」由、大望任契約者也》  小倉城  伊織伝二天一流 秋満紫光 |
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ともあれ、伊織は豊前小倉の小笠原家老職である。ところが、筑前系も肥後系も九州の武蔵伝記は、小倉以前の伊織を知らない。『丹治峯均筆記』は、伊織が小倉で、武蔵の推挙で召抱えられたとするし、『武公伝』にしても、豊前国小笠原家の家老となり、二千石の知行を得たとあって、小倉へ来るまでは、武蔵と諸国を遍歴していたことにしている。 むろん実際の伊織は、播磨国印南郡米田村で生まれ、少年の頃、明石時代の小笠原家に出仕したのである。そこで、武蔵と遭遇して、武蔵は伊織を養子にして、明石に第二の宮本家を創設した。最初の宮本家は、同じく播磨の姫路で三木之助を養子にして設けたものであり、それゆえ寛永の一時期、播磨には二つの宮本家が存立していたのである。 このような事実経緯に対し、伊織が小笠原家に仕えるのは、同家が豊前小倉へ移封された後とするのは、九州の伝説のローカルな特徴である。九州の武蔵伝記は、武蔵の播磨時代を知らない。これは、伝記のいづれもがかなり後世になって書かれたからである。その間に失われた口碑伝承は多かったと思われる。九州の武蔵伝記は、むろん西国九州に記述のポジションがあるので、そうした局地的制約による偶然性と恣意性を考慮しなければならない。 九州の武蔵伝記に依拠した説は、今日でさえも興行されており、そのばあい、諸国遍歴してきた武蔵は伊織を連れて豊前小倉へ姿をあらわし、そこに居つくようになったという筋書きである。小倉碑文が巌流島決闘を記録したのも、それが眼下の海峡の近くの島であった武蔵事蹟だからである。ところが、それ以後の具体的な記事はないから、巌流島決闘以来数十年、再び武蔵は小倉に登場するというわけで、その間を武蔵伝記の空白期間とみなすのである。 かくして、武蔵は突如豊前小倉へ姿をあらわす。そのポイントは、まさにこの『武公伝』の記事、武蔵が諸国経歴のあげく、伊織を連れて豊前小倉に姿をあらわすというシーンにある。これが、今日でさえ悪しき先入見を構成しているのである。今後の武蔵論は、そうした九州系武蔵伝記の局地的制約という負の条件を脱却しなければならない。 さて『武公伝』は、宮本伊織は豊前国小笠原家の家老となり、二千石の知行を得たとする。この「二千石」の知行というのは、不審とすべき記事だが、どこから得た情報だろうか。 ちなみにいえば、伊織の知行高は四千石である。小倉宮本家伝書によれば、伊織は豊前入国後に二千五百石、のち島原役の戦功で千五百石加増、都合四千石である。『武公伝』のいう二千石とは違うのである。 もちろん、伊織の所領四千石のうち、半分の二千石が上知である。上知とは、主家へ知行を返すという意味ではなく、ここでは年貢徴収を藩庁が行う分である。知行地は各給人に徴税課役権があるが、収入は安定したものではない。上知は、実収を定率化して家臣の家計安定を図る措置で、十七世紀の後期から諸国で行われるようになったシステムである。こうした上知配分をみれば、伊織の知行高のうち、半分の二千石が家老役料という取決めであったかもしれない。 しかし、そんな立ち入ったことは『武公伝』の作者の耳に入りそうもない話である。上知等内訳がいかほどでも、四千石は四千石であって、名目知行高は変わらない。では、実際に子孫の家禄変遷は如何。 伊織の子・貞信は早世したので、甥（兄の大山吉久の子）を養子にしたが、延宝六年（1678）伊織の死後、家名を継いだのは伊織の孫（貞信の子）・幸左衛門実貞で、これが知行三千石。享保二年（1717）大山家からの養子が継いで主馬実弼、三千石、のちに加増あって三千二百石。宝暦二年（1752）実弼の嫡男・幸之助貞陳が（先祖伊織の）名跡を継いで、当初千五百石。のち二度の加増で、都合二千百石。ついで、小笠原弾正貞顕の末子を養子に迎え、天明二年（1782）二千百石の家督を相続して主馬貞則。以後明治維新まで、この家督である。 こうしてみると、十八世紀前半までは三千石だが、二千石になるのは十八世紀後半である。それゆえ『武公伝』の「二千石」というこの記事は、もともと根拠があるわけではないが、たんなる空想であろうとも言えない。すなわち、二千石知行というのは、伊織の時代のものではなく、宝暦以後のリアルタイムの情報のようである。 『二天記』では、家老となって知行二千石という部分を削除している。とすれば、『武公伝』の知行二千石という記事は、橋津正脩が仕入れた伝聞情報であっただろう。言い換えれば、伊織は二千石の知行を得たというこの数字で、『武公伝』のこの記事がいつ書かれた記事だか、それを特定できるのである。泥鰌伊織は、十八世紀半ばには肥後で出来ていた口碑伝説であろうが、正脩がこれを書いたのは宝暦以後、十八世紀後半である。 『武公伝』が書いた物語は十分熟成した説話だったので、『二天記』もこの物語の基本的な構成には大して変更の手を加えていない。以下に示すように、語りの文体を書き言葉に改め、説話順序も前後しているが、だいたいは細部の語句を変換増補するに留まる。主たる相違については上述諸処のごとくである。 |
 武蔵伊織播磨関係地図
*【小倉宮本家系図】
《貞次 宮本伊織 實ハ田原久光二男。母ハ小原上野守源信利女。慶長十七壬子十月廿一日生於播州印南郡米堕邑。寛永三丙寅於播州明石奉仕于忠眞公之御近習［于時十五歳］。寛永八辛未執政職［廿歳］。同九壬申従于（忠眞）公移于豊前小倉。於此采地二千五百石。同十五戊寅二月従于（忠眞）公肥州有馬浦出陣。于時侍大将［此時廿六歳］惣軍奉行兼。傳曰、城攻之日筑州太守黒田忠之侯、於忠眞公御陣營、貞次被召出、此度之働御褒詞之上御指料之御刀［備前宗吉］賜之。同年自肥州御皈陣之上御加恩千五百石、都合四千石ヲ領ス。慶安三庚寅従于（忠眞）公往于肥後州熊本。寛文七丁未従于（忠眞）公往于肥州長崎。同年十二月二十五日 忠雄公御家督御禮之節、貞次將軍家綱公拝謁［此時吉岡三郎兵衛氏定、大羽内藏助政朋三人也］、延宝六戊午三月廿八日於小倉卒。享年六十七。法名慈海院忠巖紹徳。室ハ作州津山城主森美作守侯家士中村氏女。元禄七甲戌正月十三日卒。法名本浄院妙清日如》
*【小倉宮本氏略系図】
○宮本伊織貞次―源左衛門貞信┐ ┌─―――――─―――――┘ └幸左衛門実貞＝主馬実弼┐ ┌─―――――─――――┘ └幸之助貞陳＝主馬貞則→  幕末期小倉宮本家所在地図 |
| 武 公 伝 | 二 天 記 |
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一 宮本伊織ハ出羽國正法寺ノ産也。父某、農業ヲ廢シ浮浪人ト也、正法寺村ヨリ三里外、山陰ノ曠野ニ在不毛地、其所ニ小草屋ヲ造テ、潜ニ是ニ住居シ、曠野ヲ開テ畠トシ、今日ノ飢ヲ扶ク。男女二子在。女ハ同邑某ニ嫁シ妻モ亦没シ、彼男兒ト父子二人ナリ。
武公壯年武者修業シテ、諸國ヲ経歴ス。時ニ彼兒十三歳、聰明俊俏シ、生レツキ也。泥鰌ヲ捕テ路傍ニアリ。武公コレニ遇シ、彼泥鰌ヲ乞フ。小童應諾シテ、泥鰌ヲ小桶ニ納テ、盡ク是ヲ賜ル。武公ノタモウハ、「志ハ過分ナレ共、我餘斗〔計〕ニ不入。少シ許ヲ得テ足リヌ」トテ掬シ、手帛ニツヽミ其桶ヲ返サル。小童笑テ道フ、「旅人ノ偶所望セラルヽニ、我何ゾ吝ン哉。ヒラニ桶共ニ持行ルベシ」トテ、投之顧ズシテ去ル。武公、怡然トシテコレヲ受テ、謝シタモウ。 |
一 武藏常陸ヨリ出羽ニ至ル。出羽ノ内正法寺原ト云處ヲ通ル。路ノ傍ニ十三四ノ童、泥鰌ヲ小桶ニ入テ持ツ。武藏是ニ向テ、其泥鰌ヲ少シ所望スベキヨシヲ乞フ。易キコトナリト桶ヲ差出ス。武藏云、「吾餘計ニハ無用ナリ。少シ得テ足ヌ」ト手拭ヲ出テ包ントス。童笑テ曰ク、「旅人ノ適々所望セラルヽニ、是何ゾ惜ンヤ。桶トモニ持行キ玉ヘ」ト云テ、不顧シテ去ル。武藏怡然トシテ受之。
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其后武公、正法寺原ヲ経過シ、不覺錯テ宿ヲ借得ズ。日已ニ晩レ、行事三里、回ル事四五里ナラザレバ、村坊ニ不遇。如何セント思處ニ、遥ノ山陰ニ火ノ光閃、是ヲ幸ト思、火ヲシルベニ至見レバ、小キ草ノ庵リアリ。
戸ヲ敲ケバ、内ヨリ十三四才斗ノ童出、「如何ナル人ゾ」ト問。武公道フ、「旅行ノ人、不案内ニテ宿ヲ不求、日暮テ如何トモシガタシ。何卒一夜ノ宿ヲ借ラン」ト也。童ノ曰、「御覧ノ通リ草屋見苦シク、殊漸我一人居候得バ、御宿ハ叶ヒ申マジキ」由也。武公亦道フ、「旅行ノ事ニ候エバ、井カ樣ナル所ニテモ不苦。何卒一宿ヲ許サレヨ」ト、頻ニ是ヲ乞フ。童ツク／＼視テ曰、「其許ハ先日泥鰌ヲ囉〔モラ〕ヒシ非人ニ哉」ト。武公モ驚キ、「成程其者ナリ」ト云。「サラバ苦シカラズ。御宿申サン」トテ、伴ヒ内ニ入。 座定テ後、武公問タマウハ、「如何人ナレバ、幼年ニテ一人此所ニ居ラレ候ヤ」。童ノ曰、「我母親已ニ没シ、一人ノ姉ハ此ヨリ三里外農家某シニ嫁セリ。老父ト二人居シ時ニ、老父モ亦没シ、我獨住居セリ」トテ、粟飯ヲ出シテ喫セシメ、「客ハ休シタマヘ」トテ、自分モ奥ニ入ル。武公不審ナガラモ、就寝タマフ。 |
次日、武藏曠野ヲ經過シ、不覺錯テ宿ヲ不得、日既ニ暮ヌ。往クコト三里許リ有リ、後ニ返レバ四五里ナラデハ村坊ニ不遇、如何セント思フニ、遙ニ山陰ニ火ノ光ヒラメク、是家有リト思ヒ、火ヲシルベニ漸クタドリ着キ見レバ、小キ艸屋一軒アリ。
内ニ音ヅルレバ、アヤシキ童出デ「如何ナル人ゾ」ト云。武藏、「旅行ノ者ナルガ、不案内ニテ、宿ヲ不求得、既ニ日暮テ如何トモ爲ガタシ。何トゾ一夜ノ宿ヲ借ン」ト云フ。童云、「此ノ狭キ艸屋、殊ニ我一人居リ粮ダニ無ク、客ヲ容ルヽコト不諧」。武藏又云、「旅行ノ事ナレバ。如何ナル體ノ所ニテモ不苦」ト頻リニ請フ。童ツクヅクト見テ、「其元ハ前日泥鰌ヲ乞ヒシ人ニアラズヤ」。武藏驚キ、「ナルホド其者ナリ」ト云。童、「サラバ内へ入玉ヘ」ト。 武藏座ニ着ク。童小鍋ノ下ヲ焚キ、柴茶ヲ出サントス。其生資、聰明俊俏ナリ。武藏云、「如何ナル人ナレバ、幼年ニテ爰ニ居ルヤ。父母ハ如何ニ」ト。童云、「我等正法寺村ト云處ノ産ナリ。父農業ヲ癈シテ、此ノ野外ニ居住シ、又父母歿シ、一人ノ姉モ此ノ處ヨリ三里外ノ農家ニ嫁セリ」ト云テ、粟飯ノ少シ有シヲ出シ、「夜陰秋風冷シ。客ハ休ミ玉ヘ」トテ、童モ次ノ間ニ入リヌ。武藏不審ナガラモ、ソコニ寝タリ。 |
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半夜ニ刀ヲ磨音枕ニ響キ、眠覺。因テ思フ、「扨社〔こそ〕此童盗賊ノ餘黨ニテ、クセ者ナリ。我熟睡ヲ待テ害セントスルナルベシ」トテ、不覚欠シ伸シ、時ニ山童道フ、「客ハ何ヲ以テ不睡眠耶」。武公道フ、「磨刀ノ音耳ニ障リ、心ヨカラズ。故熟睡セズ」ト也。童笑テ曰、「其許ハ剛強ナル面貌ニ不似、扨々臆病ナル人哉。假令俺以利刀刺殺サントスルトモ、無甲斐。此小腕ニテ如何程ノ事アラン。何トシテ客ヲ殺シ得ンヤ」。武公道フ、「サアラバ、ナゼニ刀ヲ磨スルヤ」。
其時ニ童、容ヲツクロイテ云、「我老父死スル事、實ニ昨日ナリ。コレヲ後ロノ山、亡母ノ墓ノ傍ニ葬ントスレドモ、一人加勢ノ便リナシ。俺一人ニテ父ノ遺体ヲ山マデ持行コト不能。色々ト工夫スルニ、我一ツ荷ノ物ハ擔フニヨリ、此刀ヲ以テ兩段ニ斬テ、一荷トシテ擔行、埋ントス」ト云。 武公聞給ヒ、其言ヲ偉ナリトシ、其志ヲ感ジ、太甚稱歎シテ曰、「我幸ニ今夜此屋ニ止宿セリ。随分力ヲ合テ加勢スベシ。カナラズ憂事ナカレ」トテ、彼死骸ノ首ラヲ武公負ヒ、足ヲ童ニカヽヱサセ、後ノ山ニ持行、亡母ノ墓ノ側ニホリ埋メ、石ヲ立テ誌トシ、家ニ皈レバ、夜已ニ暁タリ。 |
草蟲聒耳、白露袖ニ結ブ計ナリ。夜半過比ニ、刃ヲ磨ク音切々トシテ枕ニ響キ、睡覺ヌ。依テ思フ、「扨コソ盗賊ノ餘黨ニテ、曲者ヨ。吾熟睡ヲ待チ、害スルヤ」トテ、不思欠伸ス。時ニ童聞テ、「客ハ何故ニ睡眠セザルヤ」。武藏云、「刃ヲ磨音耳ニ障リテ不快。ウチ覺タリ」。童笑テ云、「客ハ剛強ナル顔ツキニ不似、臆病ナル人哉。假令我等利刀テ以テ殺サントスルモ、此ノ小腕ニテ如何程ノコトヲセンヤ」。武藏云、「サアラバ何故刀ヲ磨クヤ」。
童云、「何ヲカ包可申。我父死スルコト昨日也。是ヲ後ノ山亡母ノ墓ノ傍ニ埋メント思ヘドモ、我持行事能ハズ。ツクヅク思フニ、我一荷ノ物ハ擔フニヨリ、此ノ刀ヲ以テ父ノ死體ヲ兩段ニ斬テ一荷トナシ、擔ヒ行埋メン」トナリ。 武藏聞テ其言ヲ偉トシ、其ノ志ヲ感ジ太ダ稱歎シ、「吾幸ニ止宿セリ。二人シテ葬ルべシ。憂ルコトナカレ」ト、死體ノ肩ヲ武藏負ヒ、足ヲ童抱テ山ニ行、亡母ノ墓ト一所ニ埋メ、石ヲ立テ誌トシ、家ニ皈レバ夜既ニ明タリ。 |
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童懇ニ道、「俺一人無聊、客暫時逗留シ玉ヒ、徒然ヲ慰メ玉ヘ」ト也。武公モ不便〔不憫〕ニ思、漸アツテ問玉フハ、「其方一人此處ニ居住センモ、イカヾナリ。俺ニ伴ヒ來ラバ、以後随分ト取立得サスベシ」ト也。童ノ曰、「ナル程、客ニ従イ何方ヱモ參タクハ候ヘ共、一生奴僕ノ身トナル事ヲ不願。武士トナリ、馬ニ跨リ槍ヲ把（る）身トナラバ足ヌ。サナクンバ此地ニ孤居シテ、自由ニ一生ヲ過サンガ勝レリ」ト。武公道フ、「俺ニ伴ヒ來ラバ、ナル程望ノ如ク、馬ニ跨リ鎗ヲ把ルヤウナル武士トスベシ」ト。肯ル童モ、喜悦面ニ見〔現〕ハレ、「サアラバ御供可申」トテ、何カト入用ノ物取揃ヘ、旅行ノ用意アリ。
武公ノ曰、「何方ヨリ故障ノ儀ナドハナシヤ」。童云ク、「我一人ノ姉正法寺村ニ在トイヘ共、久シク音信ヲ絶ス。其外何ノ拘リナシ。暇乞ニモ不及也。扨、此草屋ハ我等父子ニテ作リ置ク。是亦何方ヨリモカモイナシ、跡ニ残スモ無用」ト放火、コレヲ焼。彼刀ヲ帯ビ旅装シテ、武公ニ従ヒ出行。 |
童懇ニ云、「我孤リ頼母シゲナシ。客ハ暫ク逗留シ玉ヘ」ト。武藏不便ニ思ヒ、「汝一人此ニ居住センヨリ、吾ニ従テ來ラバ、随分取立べシ」ト。童云、「客ニ從ヒ何方ヘモ参ルベケレドモ、一生奴僕ノ身ナラバ、参ルマジ。武士トナリ、鎗ヲ把リ馬ニ跨ル身トモナラバ、行ベシ。左ナクバ、此ノ地ニ孤居シテ、自由一生ヲ過サンガマサレリ」。武藏云、「吾ニ從ヒ來ラバ、望ノ如クナサン」ト肯フ。童喜悦面ニ見レ、「然ラバ付參ルベシ」ト、彼一腰ヲサシテ進ム。
武藏云、「何方ヨリモ故障ノ事ハ無キヤ」。童云、「何方ヨリモ故障ナシ。姉モ有ト云ドモ、久ク音信ヲ絶ス。此事告ルニ不及。又此艸屋我等父子ガ造リタル家ナレバ、何方ヨリモ無構。但シ跡ニ残スモ無益ナリ」ト、火テ放テ焼棄ツ。武藏ニ從テ出行。 |
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夫ヨリ諸國ヲ經歴シ、兵術拔群英雄豪傑ト也、宮本伊織ト号シ、豊州小笠原ノ家宰トナリ、二千石ノ知行ヲ得、終ニ風〔夙〕志之通、把鎗跨馬身ト也、子孫相續シテ、豐城諸士ノ冠タリ。
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夫ヨリ國々ヲ經囘シ、豊前小倉ニ留ル。後ニ小笠原家ニ仕へ、誠ニ夙志ノ如ク、鎗ヲ把リ馬ニ跨ル身ト成リ、子孫相續シテ、今ニ豐城ノ諸士ノ冠タリ。宮本伊織ト號ス。
伊織父ハ正法寺村ノ者ト雖モ、本羽州最上家ノ浪士ニテ、此ニ住テ自然ト農夫トナレリトモ云ヘリ。伊織武藏ノ養子トナリ、宮本ヲ號ス。又宮本次郎太夫ト云シモ、武藏ノ親族ニテ無二ノ門弟ナリ。當理流稽古有テ、相傳ノ卷物ミエタリ。是ハ豐前ニ於テ忠利公三百石賜リ、召抱ヘラル。宮本家ノコト爰ニ不記。
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ところで、上掲のように『二天記』は本文に補註を付している。それは一つには、伊織の出自のことである。つまり、伊織の父は、この正法寺村の者とはいえ、もとは出羽最上家の浪士で、この地に住んで、おのづから農夫となったともいう、と記す。 すなわち、『武公伝』には、伊織の父は、農夫から「浮浪人」となったとあるが、『二天記』は本文ではその「浮浪人」の語を抹消し、さらに補註して記すのは、伊織の父は、実は、もと最上家の家臣で、れっきとした武士だった、という伝説修正である。 農夫 → 浮浪人 農夫 → 武士 これは後知恵による修正で、『武公伝』は、伊織の父は、農夫から浮浪人へ身を落としたように語っているが、それではあまりにも伊織に失礼だ。というわけで、農夫から浮浪人へ貶めるのではなく、逆に農夫から最上家浪人へ持ち上げる。『武公伝』のような児童向けの説話設定なら、伊織は浮浪人の孤児とする方が適切な設定だが、そうではなく、大人の武士たちにも聞かせる話となれば、こうした修正説が出てくるということである。 『二天記』補註の、この「最上家浪人」という説話素に立ち入ってみれば、これはいつの時期のことか。周知のごとく、戦国末期の出羽の大名といえば、最上義光（よしあき・1546～1614）、伊達や上杉との国取り合戦に生き残った戦国大名である。伊達政宗の母が最上義光の妹（義姫）である。義光は関が原役のとき家康に与して上杉追討に功あり、出羽において現在の山形県の大半を所領とする五十七万石の大大名に成り上がった。 その後、義光は長男義康を廃嫡して、慶長八年（1603）に庄内でこれを殺させ、二男の家親を嫡嗣子にした。義光は慶長十九年歿である。しかるに、義光の孫・義俊の代になって、有名な御家騒動、いわゆる最上騒動があって、ために元和八年（1622）所領没収、改易となって近江大森に一万石。のちに義光の曾孫・義智の代になって五千石の旗本に落ちたが、最上の家名は存続した。 これでみると、伊織の父が最上家を浪人したという説話の背景には、出羽だから最上家だという連想のほかに、御家騒動から最上家改易というこの有名な事件が織り込まれたようである。 しかし、これは元和年間の事件だから、武蔵の武者修行の時期と合わない。武蔵の諸国遍歴は慶長後期である。伝説は無責任なものだから、時期の整合性など、とんと気にしないものである。それゆえ『二天記』も、これを「トモ云ヘリ」の一説として註記するのみで、本文に入れてはいない。 しかるに、『二天記』が註記で一説扱いにしているのを無視して、この伝説をまるで本文にあるかのごとく扱い、伊織を、実は最上家遺臣の子だと語る説が戦前から横行していた。泥鰌伊織伝説の仇花と云うべきだが、これも、論者が『二天記』をよく読んでいないため生じた謬説である。 それから『二天記』補註事項のもう一つは、宮本次郎太夫のことである。言うところのその要点は、
（1）宮本次郎太夫という者も、武蔵の親族である。
以上三点が述べられているのだが、宮本家のことは、ここには記さない、と書いている。むろん、そうは言うが、実はこの記者には書くべき情報がなかったのである。（2）宮本次郎太夫は新免無二の門弟で、当理流を修行して、無二からの相伝の巻物がのこっている。 （3）宮本次郎太夫は、豊前で細川忠利に召抱えられ、三百石を賜った。 さて、『二天記』が武蔵の親族だという、この「宮本次郎太夫」とは何者か。宮本次郎太夫は細川忠利に召抱えられたあるから、これは細川家臣ということになる。そうなると話は早い。細川家臣で、「次郎太夫」を名のる宮本氏は、宮本伝右衛門である。 宮本伝右衛門は、宮本賢立の息子で、兄に宮本総兵衛（伝兵衛）がいる。宮本賢立は浪人して京都に居住、細川幽斎（藤孝）の連歌の会衆でもあったようだが、天正三年（1575）毛利輝元に二百石で召抱えられ長州下関に移り、毛利家で船手役を勤めた。息子の宮本総兵衛は、秀吉の朝鮮出兵のとき、細川忠興に用船の便宜を図るなどして昵懇になった。とすると、この宮本家は水軍の家だったらしい。慶長五年（1600）関ヶ原戦後、弟の次郎太夫と共に長州毛利家を立退き、丹後の細川忠興を頼って行った。宮本総兵衛が知行三百石の給人となるのは、細川家豊前入国後。 弟の次郎太夫は、細川忠興の児小姓に召し出され、そののち元和二年（1616）、兄総兵衛の家督三百石を相続した。また忠興隠居後も中津衆として忠興に仕えた。そして、夫婦ともども細川忠利嫡子・光尚の妻、禰々の御側付となり、江戸藩邸に住んだ。禰々は中納言鳥丸光賢の娘である。寛永十三年（1636）十月、禰々は男子を産んだが、産後の肥立ちが悪く母子ともに死亡した。そのとき光尚十八歳、禰々は十六歳である。 このころ忠利は熊本に在国だが、隠居の三斎（忠興）が江戸に上府してきて、禰々と嬰児の死亡を知り、その不始末に激怒して、側仕えの宮本次郎太夫らの禄を召し放った。つまり細川家から追放されたのである。この爺さまは茶の道の名人だが、時々このように感情激発する癖があった。 光尚は孫で十八歳、この偉大な祖父に何も言えない。宮本次郎太夫も、児小姓から三斎に仕えた子飼の身だから、この処分を甘受した。そうして、ただ豊後鶴崎に住む許しだけは得た。いつか勘気が解けて召返しの機もあろうというもの。光尚は時々かくれて宮本次郎太夫に金銭援助した。しかし三斎の勘気が解けないまま、次郎太夫は寛永十九年（1642）に居留先の豊後で病死した。 以上の経緯からすると、宮本次郎太夫が細川忠利に召抱えられたという『二天記』の記事は誤りで、実際は忠興に召抱えられ、また忠興隠居後も中津衆として忠興に仕えていた。しかもまた、宮本家の来歴を見れば、武蔵との親族関係等、個人的な接点はなさそうである。 宮本次郎太夫の名は、上記の禰々死亡事件があって、細川家中の伝説に残るほど有名だった。そして「宮本」という同姓から、次郎太夫は武蔵の親族ではあるまいか、という憶説が後世生じたものであろう。 とくに次郎太夫が新免無二の門弟で、当理流相伝の巻物があるというのは、当理というより無理である。新免無二は天正年中死去、次郎太夫は慶長後期まだ児小姓、ゆえに年齢が合わない。肥後の当理流伝説については既述の通り十八世紀中後期のものであるが、次郎太夫が無二の門弟だったというのは、次郎太夫が武蔵の親族という説から生じた二次的な説話素である。「相伝の巻物見えたり」とあって、宮本次郎太夫宛の当理流免許状があるとのことで、これを記したのだろうが、とすれば、その当理流相伝書巻もまた、この時期流行の当理流関連偽書の一種であろう。 このように宮本という姓から、次郎太夫は武蔵の親族にさせられてしまったが、武蔵が宮本姓を用いるようになるはるか以前、次郎太夫の父親の宮本賢立の代以前から、こちらは宮本氏なのである。このあたりの順序を混同してしまうと、宮本次郎太夫は武蔵の親族だという埒もない空想に陥ることになる。 次郎太夫の跡は、甥が嗣いで、寛文四年（1664）肥後宮本家は、細川家中で合力米十五石から再出発できたようである。以後子孫は、おおむね伝右衛門を襲名している。元禄のころ、八代城付になった宮本伝右衛門がいて、これはもう知行百五十石になっており、のちに二百石である。 おそらく、宮本次郎太夫が宮本武蔵の親族だという話には、この八代城付になった宮本伝右衛門という存在を考慮に入れる必要があるかもしれない。しかし、宮本次郎太夫のことは『武公伝』には記さない記事であり、豊田正剛や正脩の段階では存在しなかった話である。しかも『二天記』が註記に収録しているところをみると、これは豊田景英の世代になって出てきた新しい説話であろう。当理流相伝の巻物の話といい、十八世紀後期の説話である。 ところで、武蔵養子のことを云えば、伊織の他に、宮本三木之助（1604～26）がいる。三木之助は、水野勝成家臣・中川志摩之助の三男、武蔵が養子にして、播州姫路の本多家に出仕させた。本多忠政（1575～1631）の嫡子・忠刻（1596～26）の近習となって、知行七百石。これが姫路宮本家である。寛永三年、忠刻が病死すると、三木之助は殉死した。三木之助の跡目は、弟の九郎太夫が継いだ。 その後、武蔵は同じく播州明石に、田原貞次（のち伊織）を養子にして、もう一つの宮本家を立てた。しかし、伊織より先に武蔵の養子になって、姫路で最初の宮本家の人となった三木之助のことは、『武公伝』のような肥後系伝記では、視野の外にあったらしい。伊織は小笠原家豊前移封で九州へ来ているから、肥後の人々にも何らかの情報はあった。しかし、姫路宮本家の三木之助のことはまったく知らなかったようである。 それに対し、筑前系伝記『丹治峯均筆記』は、武蔵の養子・造酒之助（三木之助）の存在を語り、その殉死にも言及している。その点では肥後系伝記よりも格段のアドヴァンテージがあるが、造酒之助（三木之助）の出身を西宮の馬子にしてしまうなど、正確な情報をもたず、後世発生の口碑伝説しかなかったようである。 ともあれ、肥後では、武蔵の二人の養子のうち、三木之助に関しては、その存在すら知られていなかった。豊田正剛は武蔵直弟子であった老人たちから話を聞いたはずだが、『武公伝』に記録が反映されていないところからすると、肥後の武蔵直弟子らも三木之助について何も聞いていないのである。 肥後の伝説は、このように、武蔵の播州時代について情報をまったくもたない。言い換えれば、肥後の武蔵直弟子という人々はあまり武蔵とは直接接しておらず、話を聞くことは稀だったのであろう。ようするに、肥後の武蔵伝記情報はごく限られたものでしかない。この点は改めて注意を喚起しておくべきところである。いまだに『武公伝』や後継の『二天記』といった肥後系伝記を鵜呑みにして述べるという、頭は何も考えていない武蔵評伝が多いからである。 同じ九州である小倉にいた宮本伊織についても、この条りのように、武蔵が出羽の山奥で拾った孤児だとするのが、肥後の伝説である。伊織について情報が少ないというのではなく、伊織伝説はまさにこのように、十分練り上げられた物語に発展したのである。『武公伝』の段階での泥鰌伊織の話は、児童向け立身出世物語の体裁をもつ民話として仕上がっている。肥後特有のローカルな口碑伝承があったのである。 おそらくこれは、巷間の説話として出来あがっていたもので、それを『武公伝』が採取したのである。それゆえ物語の語りの調子が『武公伝』の記事文言には残響している。それに対し『二天記』の豊田景英は、それを書き言葉に改め、児童向け民話の演出は抑制し、大人向けの説話として再構成している。それが景英の仕事であり、『武公伝』の伊織記事の改訂であった。 しかるに、近代になって明治末の顕彰会本『宮本武蔵』が、『二天記』の記事をトレースしたため、この泥鰌伊織説話が広く世間に信じられるようになった。それは今となっては笑話でしかないが、過去のそういう事態は、今日の教訓とすべきである。無知による類似の謬説は、たとえば、伊織は武蔵の甥だ、武蔵は甥を養子にした、という説もあるごとく、今日まだ多く残っているのである。 Go Back |
*【二天記】
《伊織父ハ正法寺村ノ者ト雖モ、本羽州最上家ノ浪士ニテ、此ニ住テ自然ト農夫トナレリトモ云ヘリ。伊織武藏ノ養子トナリ、宮本ヲ號ス》  山形城絵図  山形城址
*【二天記】
《又宮本次郎太夫ト云シモ、武藏ノ親族ニテ無二ノ門弟ナリ。當理流稽古有テ、相傳ノ卷物ミエタリ。是ハ豐前ニ於テ忠利公三百石賜リ、召抱ヘラル。宮本家ノコト爰ニ不記》  細川三斎蔵  細川光尚蔵
*【肥後宮本氏略系図】
○宮本賢立――┐ ┌─――――┘ ├総兵衛 伝兵衛 ｜ └伝右衛門 次郎大夫 ――┐ 養子 総兵衛弟 ｜ ┌─――――――――――┘ └伝右衛門＝善右衛門―伝右衛門 養子 甥 養子
*【吉備温故秘録】
《宮本三木之助 ［中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候］ 宮本武藏と申者養子に仕、児小姓之時分、本多中務様へ罷出、七百石被下、御近習に被召出候。九曜巴紋被付候へと御意にて、付來候、御替御紋と承候。圓泰院様寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》（宮本先祖）  宮本三木之助墓 書写山円教寺 本多家廟所 |
28 宮本伊織と由井正雪
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一 宮本伊織、駕シテ御城ノ小路ヲ通ル。時ニ、勢屯ニテ旅人ト見ヘテ藥ヲ売者一人、先ニ一奴ニ金絲織ノ嚢ヲ負セ、錦袋万病圓ヲ触サセテ行過ル。伊織駕内ヨリ是ヲ見、如何思ケルカ、若黨ヲ呼テ、「アノ者何方ヨリ來ルヤ相尋、直ニ其旅宿ヘ送リ達シ、今日中ニ早速可罷皈由、厳シク申付ヨ」ト云。則其旨沙汰シケルニ、大坂ノ者ノ由ニテ、即日出舩ス。 其翌年、由井正雪、丸目蔵人〔丸橋忠弥*〕、黨類ドモ一同ニ、駿河府中ニ於テ伏誅ス。物色ヲ以考之、前事売藥シタル者ハ乃正雪也。如何シテ正雪ナル事ヲ知テ追返シタルヤト、伊織ニ問。伊織、素ヨリ正雪ヲ不知、尤其年貌ヲモ不聞。又問フ、然ラバ何ヲ以勢屯ニテ行逢ヒ追回シタルヤ。伊織曰、彼行體常ニ非、歩ニ間数ヲ蹈ガ如シ。故ニ怪之、不措即時ニ追返ト也。其明察如此。(1)
［由井正雪、丸橋忠弥*等ガ事、慶安四年七月ノ由、歴史ニ見ユ。 伊織者非庸人コトヲ村屋勘八郎話之］(2) |
一 宮本伊織が駕籠に乗って、御城〔小倉城〕の小路を通っていた。そのとき、勢屯（武者溜）で、旅人と見える薬売りの者一人、前に一人の奴僕に金糸織の袋を負わせ、「錦袋万病円」（きんたいまんびょうえん）を触れさせて通り過ぎる。伊織は駕籠の中からこれを見て、何を思ったのか、若党を呼んで、「あの者がどこから来たのか尋ね、直ちにその旅宿へ送って行って、今日中に早速帰るよう、厳しく申しつけよ」という。そこで、その旨を沙汰すると、大坂の者だそうで、即日船で去った。 その翌年、由井正雪、丸目蔵人〔丸橋忠弥*〕、党類ども一同に、駿河府中において伏誅された。物色〔容貌風体〕をもって考えるに、以前売薬していた者はつまり正雪であった。「いかにして正雪だと知って追い返したのか」と、伊織に問う。伊織、「もとより正雪を知らない。しかもその年齢や容貌も聞いたことがない」。また問う、「しからば、どうして勢屯で行き逢って追い返したのか」。伊織曰く、「彼の様子は普通ではなかった。歩くに間数を踏んでいるようだった。それで、これを怪しみ、時をおかず即時に追い返した」ということである。その明察かくの如し。
由井正雪、丸橋忠弥らの事件は、慶安四年（1651）七月だと、史書に見える。
伊織は非凡な人なることを、村屋勘八郎が話した。 |
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【評 注】 （1）売藥シタル者ハ乃正雪也 前段に続いて、宮本伊織の話である。これは、伊織の非凡で不思議な能力という伝説であるが、なんと伊織は、かの慶安事件の由比正雪（由井、油井とも）と遭遇したことがあるというのである。 といえば、たちまち、そんなアホな、と思われるだろうが、ともあれ、まずは『武公伝』の説話を聞いてみよう。 宮本伊織が駕籠に乗って、御城〔小倉城〕の小路を通っていた。そのとき、勢屯（せいだまり）――つまり、勢溜、武者溜、軍兵が勢ぞろいする広場で、旅人と見える薬売りの者を見かけた。前に一人の奴僕に金糸織の袋を負わせ、「錦袋万病円」（きんたいまんびょうえん）を触れさせて通り過ぎる。 薬売りが唱えるという「錦袋万病円」は江戸時代笑話で有名な薬の名で、落語にも「万病円」という出し物があるほどである。石川 流舟『正直咄大鑑』（貞享四年・1687）には、「万病錦袋円」として出てくる。万病にきく錦袋円というのが最初である。のちの『口合恵宝袋』（宝暦五年・1755）になると、薬名は「万病円」と変化している。したがって、『武公伝』に「錦袋万病円」とあるところをみると、この説話は宝暦以後の出来のようである。 だいたい、旅の薬売りの者が、城内の武者溜に紛れ込んでいるというのは、ありえない。旅の者、異国の者は、城下の決まった道を通らせ、それ以外は通行させない。しかも町ではなく、勢屯などで、売薬行商をしているというのも妙な振舞いである。 それかあらぬか、伊織は駕籠の中からそれを見とがめる。物語は「何を思ったのか」と、とぼけて神秘化している。伊織は、若党（従者）を呼んで、「あの者がどこから来たのか尋ね、直ちにその旅宿へ送って行って、今日中に早速帰るよう、厳しく申しつけよ」という。そこで、その旨を沙汰すると、大坂の者だそうで、即日船で去った、云々。 つまり、伊織は、その不審人物を国外へ追出した、というわけである。「どこから来たのか尋問して、直ちにその旅宿へ送って行って、今日中に早速帰るよう、厳しく申しつけよ」というから、若党どもに宿まで護送させ、（宿主に命令して）その日のうちに船に乗せて出国させた、ということだろう。不審者に宿を貸すと宿主は罪を問われるから、船宿でもこの客をさっさと追い返したのである。 しかし、不審な旅の者の穿鑿と処分は町奉行の役目である。町奉行に命じてやらせればよいことである。だが事は緊急、主席家老の伊織だから、こんな処置を勝手にやれた、ということなのか、まずもって無理のあるプロットではある。 では、伊織が国外退去せしめたこの不審人物とは誰であったか。それがこの説話のポイントである。 『武公伝』の云うところでは、その翌年、由井正雪とその党類ども一同に、駿河府中において伏誅された、とあるから、これはいわゆる「慶安事件」、すなわち由比正雪を首謀者とする慶安四年（1651）の叛乱未遂事件を指すもののようである。 それでは、この慶安事件とはいかなる事件であったのか。――慶安四年四月将軍家光が死去して間もない、七月下旬の二十三日、江戸で複数の訴人があった。訊いてみると、これが途方もない天下転覆の計画であった。北ノ丸の塩硝蔵（火薬庫）を爆発させ、江戸を火の海にして、その隙に江戸城に突入して幕府要人を殺し将軍を拉致し駿府へ向かう。駿府では江戸の蜂起と同時に家康所縁の久能山を占領し、それに立て籠る。また京大坂の上方でも、これに呼応して蹶起する。これには浪人数千が参加し、さらに世の不満分子を糾合して、江戸へ攻め込む――という計画である。その首謀者は、江戸で楠流軍学を教えて門人も多い由比正雪。江戸で蜂起するのは、丸橋忠弥・河原十郎衛門・長山六郎右衛門らである。ただし、由比正雪他数十人はすでに江戸を出て、駿府に向かったとのことである。 これを訴え出たのは、由比正雪の門弟丸橋忠弥の知己で、計画を打ち明けられて、空恐ろしくなって訴え出たのである。その中には、松平信綱の家臣・奥村権之丞の弟で、正雪の門弟なる人物もいた。この一大陰謀事件の露見に、早速町奉行どころか幕閣も動いて、同日夜には丸橋忠弥はじめ由比正雪与党を逮捕した。 かたや正雪一行はすでに前日江戸を出発しており、二十五日夜には無事駿府へ到着して、紀伊大納言徳川頼宣の家中だと称して、梅屋太郎左衛門という家に宿泊した。他方、正雪ら逮捕の御使として、駒井右京が二十三日夜に江戸を発って、25日午後には駿府に到着していた。知らずに途中で正雪一行を追い越したというわけである。 駒井右京の持参した逮捕命令を請け、城代大久保忠成らは合議して、正雪らを生捕りにするため梅屋を包囲した。しかし生口詮議のため、つまり詮議する必要があるから生かしたまま逮捕せよという命令なので、あれこれ策を弄しているうち、二十六日朝方、梅屋の家内で正雪ら八人が切腹自殺してしまい、二人だけが生捕りにされた。正雪は切腹し首も刎ねてあった。 駿府で正雪らが死んだあと、余党、親族らが続々逮捕された。上方で蜂起する者へも探索の手が伸びた。京都で蜂起するはずだった吉田喜左衛門は大坂で発見され、逮捕の追手を斬って自殺した。また最後まで行方知れずだった金井半兵衛は八月十三日に大坂天王寺で、書置を遺して自殺しているのが発見された。 逮捕は関係者ばかりか、親族にまで及び、女子供を含めて多数が処刑された。大道寺友山は少年の頃、彼らが引き回しの上処刑されるのを目撃している（落穂集）。 かたや、由比正雪に名を無断借用された紀州南龍公・徳川頼宣も、御三家ながら喚問を受けた。集まったのは、尾張と水戸の二侯、そして老中の面々である。新将軍家綱は幼少のこととて、代替わりの不穏な世情に乗じて、紀州公頼宣を擔いで新政権をというクーデタの疑いがあったからである。正雪が浪人たちを糾合するに当たってそれを騙り、頼宣の判物を偽造したらしい。頼宣は尋問に対し、「それは、おれでよかった、外様大名なら疑念も起ころうが、おれの判を偽造したなら、もう大丈夫、むしろ天下安全の基である」という、まさに逆説を弄して、同席の面々を煙に巻いた（紀州祖君言行録）。追求はそれまでで、向後沙汰止みである。 この事件は何ゆえの蜂起計画であったのか。正雪が死の直前急いで認めたという書置というものが、あちこちの史料に引用されている。が、これは事件後出回った偽書であろう。ただ、天下を困窮させる張本として大老の酒井忠勝を名指しし、その排除を求めるために駿府で籠城して世間に訴えようとした、とあるのを見れば、世間世論が期待した方向＝意味を知ることができる。つまり、世直しである。 それは大坂で自決した金井半兵衛の遺書も同様で、そこには、正雪の企ては私欲のためではない。家光が死んだあと、政道がよこしまで、武家・出家、農民・商人までが苦しみ、憤っている。これを世間に訴えようとして、浪人たちを集めたのである。たとえ自滅するとも、天下の善政のために一箇の身命を惜しむべくもないと、この叛乱計画は無道のものではないと述べる。 当時の大衆の心情も、まさにこれに応じたものであった。翌年の慶安五年／承応元年には、三月に佐渡で下役人辻藤右衛門らの叛乱が生じ（佐渡一揆）、九月には浪人・別木（戸次）庄左衛門らが増上寺崇源院法要で老中を襲撃するという計画が発覚する（承応事件）。暮には、将軍家綱に佐倉の名主・惣五郎が直訴するという事件もあった。三月の浅間山噴火は社会的感情の爆発の隠喩にほかならなかった。 だが一方で、由比正雪の慶安事件の後、幕府は浪人対策の一環として末期養子を認めるなどしたというのが、今日興行されている通俗的歴史解釈である。だが、それは本来非本質的な事項を連接したにすぎない。 浪人たちが仕官にありつく機会は戦乱にしかない。浪人対策とはまさに戦争である。しかしすでに内戦の時代は終焉したのである。根本的矛盾は、武士という戦闘集団と平和な秩序社会との間にあった。この矛盾が露出したのが、慶安事件である。 しかし、以後こうしたクーデタを狙うアクティングアウトが不可能になって、武士道なる精神主義的道徳が生じた。言い換えれば、暴力的行動が禁止された武士には、生き方を観念化し美学化するよりほかなかった。代わりに、やがて十八世紀になって農民の間で一揆が頻発するようになる。 むろん慶安事件の実際は不明である。由比正雪を中心とする数十人の浪人たちが、杜撰な計画で失敗したというにすぎない。その行動の論理も、君側の奸を除くということにすぎず、支配秩序の範囲内にある。生存者が拷問で責められて、ありもしない壮大な幕府転覆事件としてデッチあげられた様子である。将軍の代替りを祝う余興の花火が不発であった、という冴えない話あろう。 しかしながら、それは社会の不穏を体現する。問題は事件の社会的意味作用であって、挫折／不発（misfire）とはいえ、――あるいは、挫折／不発のゆえに、――アンチ・ヒーロー由比正雪の計画は、愚行としての義挙と受け取られた。叛乱は公然と世直しを要求する行動であり、この社会に正義が行われうるか、という根本的な異議申立てを含むものであり、それゆえ義による蹶起としての社会的意味づけ＝方向づけを得るものであった。ただしそれは、実際の正雪の意図とは別の次元の、社会的リアクションである。 この事件を後世有名にしたのはいわゆる実録物、『慶安太平記』『由井根元記』『望遠雑録』の三書、著者も著作時期も不明だが、もっとも影響力のあったのはやはり『慶安太平記』であろう（現存最古写本は宝暦七年・東大図書館蔵）。主人公・由井正雪は終始奸賊のピカレスク小説、善人の大成功より大悪人の挫折の方が人気があるのも、時代を通じて変わらぬ世情の有様である。『慶安太平記』は事件を数千人の浪人を糾合した幕府転覆計画にしてしまったが、奸人だ、悪人だ、と云いながら、その実、主人公の「悪」の魅力を大いに宣揚するタイプの実録小説である。 この『慶安太平記』の影響は現代にまで及ぶ。今日のたいていの由比正雪評伝や小説は、『慶安太平記』の焼き直し以上のものではない。これもフィクションが事実を凌駕するケースである。『翁草』のように、『望遠雑録』や『慶安太平記』の物語は虚構だという批判も十八世紀後期にはすでに出たが、それでも実録正雪物の影響は近世中期以後、圧倒的なものであったらしい。『武公伝』のこの記事を読むには、そういう当時の状況を念頭に置く必要がある。 ここで、『武公伝』の宮本伊織の話に戻る。 伊織は怪しい薬売りを国外退去させた。のちになって、その薬売りの物色〔容貌風体〕を考えてみると、以前小倉で売薬していた者は、つまり正雪であった。この、《物色ヲ以考之》の考える主体＝主語は曖昧だが、これは伊織あるいは周辺の者たちとしておく。あれは正雪だったな、と伊織。しかし、どうしてあれが正雪だと判るのか。 正雪の物色は当時の人相書（内藤家文書）の形容で知れる。年は四十余、がっそう（総髪）である。背は小さく、色白で、額はせまく、髪は黒、唇が厚い。眼はくりくりとしている、云々。 しかし、『武公伝』の物語は、伊織がこの種の正雪の人相書を知っていた、ということにはしない。それはもっと説話に適合したものである。つまり、どうして正雪だと知って追い返したのか、と伊織に問えば、伊織、「もとより正雪を知らない。しかもその年齢や容貌も聞いたことがない」と答える。「しからば、どうして勢屯で行き逢って追い返したのか」。伊織曰く、「彼の様子は普通ではなかった。歩くに間数を踏んでいるようだった。それで、これを怪しみ、時をおかず即時に追い返した」ということである。 間数を踏んで歩いている。歩幅で長さを計測しているようだった、という。軍学の基本の一つは、城砦の現状把握である。天下転覆を狙う由比正雪が、薬売りに変装して小倉に潜入し、勢屯（武者溜）の大きさを測っていたというわけである。いかにも他愛のない説話である。 軍学者なら目測で間数を測れるものだ。歩いて長さを測るまでもない。しかも当時は正保の国絵図製作事業の後であり、全国諸大名の領国も城郭も絵図で把握されていた。戦国時代ではあるまいし、軍学者たる者が、現地に潜行して実測するまでもない。そんな非現実的な計測シーンが必要なのは、軍学と城郭という連想からくるもので、そうして言うまでもなく、それを怪しむ知恵者との対立の構図を描くことにある。 『武公伝』の当時、世間で有名だったのは、丸橋忠弥が江戸城弁慶堀の深さを測っているのを、老中の松平伊豆守信綱が駕籠の中から見て怪しんで云々という『慶安太平記』の一場面であろう。『武公伝』が記録した伊織伝説は、明らかにこの人気場面の焼き直しである。言い換えれば、 松平伊豆守 → 宮本伊織 という変換を介して、実録正雪物の典型的パターンをなぞっているのである。『武公伝』は、その明察かくの如し、と評判を加えるが、その批評そのものが、ステロタイプな代物である。  豊原国周筆 慶安太平記城外之場 丸橋忠弥：市川左団次 松平伊豆守：市川団十郎 『慶安太平記』の叛逆の相を見抜いて云々という話も、他に類例があって、たとえば、紀州公頼宣の家老・安藤帯刀が、あるいは備前の池田光政の儒臣・熊沢蕃山が、それぞれ正雪の相を見て、彼を近づけるなと主君に警告したという逸話に反復されている。 この世間に流布した『慶安太平記』のシーンが流用されているところをみれば、『武公伝』のこの記事にみられる逸話は、十八世紀半ばを遡らない。言い換えれば、人形浄瑠璃「太平記菊水巻」の上演が宝暦九年（大坂竹本座）、この「太平記菊水巻」の趣向、宮城野・信夫二女の仇討ちが実録物に取り込まれているから、いづれにしても演劇と読本の正雪物の成立は宝暦年間であろう。 それゆえ、この『武公伝』の話は、今日ではさすがにまともに取り上げる者はいない。前条の泥鰌伊織伝説を継承した『二天記』も、この由比正雪物は収録が憚られたようで、これを削除している。もとより『武公伝』にしても、こんな伝説もあるという程度のことであろうが。 この『武公伝』の説話では、伊織が正雪を追い返した翌年、慶安事件が起きたということだから、この一件は慶安事件の前年らしいから、慶安三年（1650）のことである。ところが、このころ実際の伊織は、肥後細川家の難事のために働いていたのである。 それというのも、慶安二年に当主細川光尚が若くして急死し、嫡子六丸（綱利）はまだ7歳の児童だっため、細川家は最悪のばあい改易、少なくとも移封分割という措置を蒙る可能性があった。これに対し、豊前小倉の小笠原忠真が後見人となって、慶長4年、細川家の家督相続を無事実現せしめた。先代細川光尚は、小笠原忠真の甥（妹の子）にあたり、六丸は甥の子ということになる。最も近い親族大名である小笠原忠真が動いて事なきを得たのである。 しかし一件落着となる以前は、何かと苦労が多かったようである。後見人として小笠原忠真は、幕府に文句をつけられないような細川家の体制を確立しなければならない。慶安三年、この年三十九歳の伊織は、小笠原忠真に随行して肥後へ出向いた。当時、細川家家老の長岡興長は六十九歳、寄之は三十五歳である。彼らの間にどういう交渉があったか、興味深いところである。 かように慶安三年は、細川家中にとって御家存続の危機という動揺に悩まされた時期である。しかるに、肥後の『武公伝』の伊織伝説は、慶安三年のことだというのに、そんな実際の状況とは一切無関係に、暢気に伊織伝説を語っている。慶安三年の伊織を語るのなら、何よりも、伊織が肥後へ来て、細川家の御家存続に尽力したことを語らねばならないはずである。 しかし、『武公伝』の作者には、そんな史的事実は知られていなかったらしい。慶安三年の伊織については、由比正雪と遭遇したこと以外には念頭にない。ようするに、この伊織正雪遭遇説話は、『慶安太平記』あたりに刺激されて後世発生した伝説であろう。 Go Back |
 豊前国小倉城図  八木甚兵衛宛由比正雪書状 慶安4年7月10日
*【酒井忠勝書状】
《先書に申遣候通、今度ろう人共一味仕、駿河久能之城取可申たくみ仕候所に、組之内よりそ人出、於江戸に三人とらへ申候。其外組之内より申出候者数多有之事候。駿府へ先達参候ろう人由井正雪を初、駿府にて取まき候へは、八人自尽仕候、其外かろき者、又正雪おやおぢなとからめ申候。如此候事を存候へは、若狭などは、つねづね留主之事に候、其上万事心付不申、由断仕罷有候者、いか様之不慮事可有も難計候。国中に罷有候ろう人、又はめし遣候下々者、かれこれにも、上方筋ろう人など、しんるい縁者なども有之物之取籠なと不仕候様に、つねづね気遣可仕候、今度爰元之ろう人之しんるいなど、御城御番之仕候かろき者之内にも、いくたりも有之事に候。左様之者と申談、城之内より火など付、其まぎれなどに取籠候者、何事も成事に候。無由断'ため申入候。謹言 讃岐守［花押］ 七月廿八日 酒井内匠殿 武久庄兵衛殿 芝二郎右衛門殿 青山伊左衛門殿 尚、京都にはろう人多所に候、つねづね万々気遣可仕候、以上》 *【落穂集】 《楠由井正雪が事 問云、以前由井正雪と申たる浪人ハ徒党企候故に訴人の者有之露顕に及び、同類悉く御仕置に被仰付候と有之はいか様之次第に候と被聞及候哉。 答て曰、其儀は大猷院様之御他界の年の義と覚申候。我等幼年之時の儀に有之候正雪事ハ同類の輩に委細の儀申合置て、其身ハ駿府へ罷登り梅屋町とや申所に忍居在て、種々の悪意を相企罷有内に御当地に於て訴人有之悉く相顕れ、駒井右京殿へ被仰付駿河へ被遣、彼地の町奉行落合小平治と被相儀、正雪儀は何とて生捕に致御当地へ被引下度と有之所に、正雪并同類の輩共に不残旅宿へ取篭自殺致候て相果候となり。其節御当地に於ひてハ丸橋忠弥と申浪人者被召捕へられ、数日御詮議の上品川表に於て、同類不残磔罪に被仰付候。右科人共被引渡候節、我等なども井伊掃部頭殿屋敷前に於て見物致候處に、丸橋ハ鼻馬にて其後に段々と相つづき妻子等迄も被引渡候中に至て幼少なる児共の儀は切縄を結て首に懸させ手にハ風車人形なとを持せ、穢多共是を抱き、母親共の乗候馬の脇も附そひつつ参り候ごとく有之候。其節迄ハ外桜田御門外只今馬たまりに成候処に、上杉殿向屋鋪と申て有之が、其門前迄丸橋が馬の先のぼりハ参り届候へ共、跡の紙のぼりハいまた麹町土橋辺に相見へ申程の義に有之候故、前代未聞の事也、と見物の諸人共に申候也》  由比正雪首塚 菩提樹院  慶安太平記  由比正雪人相書
覺
一、油井正雪事、年四十餘、がつさう。但かミをそり候儀も可有之事 一、せいちいさく、色白、ひたいミじかく、髪黒、くちびるあつく候事 一、まなこくりくりといたし候由之事 以上 （内藤家文書） *【慶安太平記】 《時に正保四年を改元有て慶安元年と成けるが、春の末一日丸橋忠彌用事ありて辨慶塹［本丸西南に在内桜田と云］邊を通行しけるが、御城を見返り、爰ぞ能攻口なり、塹ハ何程の埋草を以て埋むべき抔と心中に思ひ計り、彼方此方と打眺め樣子有氣に通り行折柄、松平伊豆守殿登城の途中、駕籠の内より忠彌の体を見て不審思ハれける時、向ふの方より御旗本天野彌五右衛門殿馬上にて來掛りしが、忠彌ハ彌五右衛門殿を見て、編笠を脱ぎ平伏して通りける。程無く彌五右衛門殿ハ伊豆守殿に行逢れけれバ、馬を止敬禮有に、伊豆守殿にハ彌五右衛門殿を近へ招かれ、「今の男ハ貴殿御知人と見たり。偖能男かな、名ハ何と申て、何方へ相勤め罷在や」と尋問給へバ、彌五右衛門殿答へて、「彼者ハ丸橋忠彌と申す浪士にて、寶藏院流の鎌鎗を指南し、折節ハ私宅へも出入仕つり候」と申けるを、伊豆守殿聞給ひ、「夫ハ豫て聞及びたる者なり。某も對面致し度存ぜしが、公用繁多にて延引せり。幸ひ成れバ爰にて對面致すべし」の御仰に、彌五右衛門殿ハ、「途中にての御對面ハ如何なり。御邸館へ召れ然るべし」と申を、伊豆守殿にハ、「否左樣にてハ又々用事に支へられて延引に及ぶべし。只今直に對面申さん」と其儘駕籠を御させらる。（中略）此時天野も、是非御延引共申難く、餘程行過たる忠彌を呼返し、右の段申聞けるに、忠彌ハ直樣伊豆守殿の前へ進み、「數ならぬ私儀量らず御目通り仰付られ候段、冥加至極有難く存じ奉る」と平伏バ、伊豆守殿にハ、「其方事豫て聞及し故折を以て逢ふべしと存る處に、公用に閑無延引せり。依て途中乍對面申なり。以後見覺の爲顔を上られよ」との仰に、忠彌ハ顔を上けれバ、伊豆守殿にハ忠彌を熟々見給ふに、人相常成ず、正敷叛逆の相顯れけれバ、直に搦捕んと思召れしが、未だ事も顯ハれざるに召捕らば、伊豆守短見たる致方と世上の噂も如何なり、又渠等如き者假令謀叛を企る共何程の事か有ん、其期に及んで搦捕とも遅くハ有まじと思ハれしかバ、「以後屋敷へも折節ハ參るべし」と仰有りて、駕籠を舁せて登城せられたり。後浪人共謀叛を起せしと注進有し時、伊豆守にハ、「其浪人共の中に、丸橋忠彌と云者有可」と仰ければ、諸人伊豆守殿の明察に感じけるとなり。然バ今度の一亂を悉く伊豆守殿一人の才智を以て事平穏に治め給ふ事、天晴天下補翼の功臣とハ斯の如き人をや謂つべし》 |
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（2）村屋勘八郎話之 これは、本文とは別の扱いの補註のかたちである。記事の一つは、慶安事件のことは「歴史」にみえる、書いてあるということである。文中「歴史」とは歴史書のことである。しかも、公的な歴史である。《history》は、歴史＝物語である。歴史は昔も今も、支配者が公認した歴史である。それ以外は「野史」である。 しかし、『武公伝』の作者が何か史書を見たとしても、慶安事件関係文献はあてにならない。また、当時流布していたのは『慶安太平記』のような実録小説で、むしろそれが史実と勘違いされていたようである。 もう一つ、ここに記してあるのは、伊織が凡人ならざること、それを村屋勘八郎が語った、という問題の一文である。 この村屋勘八郎については、前に巌流島決闘の記事にその名が出ていた。正徳二年（1712）春、小倉の商人・村屋勘八郎という者が語ったところでは、武公が舟航した時、梢人（舟人）は勘八郎で、老いて後、勝負の次第をことごとく委しく語った、というのである。 この正徳二年、豊田正剛は四十一歳。この『武公伝』の記事では、武蔵が下関と舟島（巌流島）を往復したときの舟の船頭だったということだが、これについてはすでに述べたように、正徳二年が巌流島決闘から百年後としても、当時の生存者が居て、八代にまで来るというのは非現実的な話である。正剛の記憶違いとすべきであろう。また『二天記』冒頭凡例は、橋津正脩が書いたという体裁であるが、そこではこれを修正して、村屋勘八郎が、まだ存命中であった梢人の老人から聞いた咄、つまり本人ではなく伝聞だという具合に変えている。 その村屋勘八郎が、伊織は庸人にあらず、非凡な人だと語ったという。それを誰が聞いたかとなると、世代からすると、豊田正剛以外にはない。 しかるにこの説話を内容は、松平伊豆守と丸橋忠弥の有名な場面の焼き直しである。とすれば、時代要素は宝暦以後である。したがって、豊田正剛が正徳二年（1712）に村屋勘八郎から聞いた話だということはありえない。とすれば、これは世代からして、息子の正脩の記事であろう。 となると、ここに出てくる《伊織者非庸人コトヲ村屋勘八郎話之》という一文が宙に浮いてしまう。村屋勘八郎の話だというのは、豊田正剛が書いた文以外にはありえない。正徳二年、正脩はそのときまだ七歳である。しかし、七歳の児童に、村屋勘八郎が「伊織様は非凡な人だった、偉い人だった」と語った可能性はあろうし、正脩はそれを印象深く記憶していた、という条件も想定しえないことはない。しかし、それにしても、あまり説得力のない仮定である。 そこで、《伊織者非庸人コトヲ村屋勘八郎話之》が、『武公伝』のここに、補註のかたちで記されていることに注目である。もし正脩がこれを村屋勘八郎から聞いたのなら、この文は本文末尾にでも入っただろう。そうではなく補註にこれが記入されている。とすれば、正脩はこれを正剛の覚書から引用してきたのである。 おそらく、正脩は《伊織者非庸人コトヲ村屋勘八郎話之》という断章に触発されて、当時巷間にあった伊織の伝説、すなわち、先の泥鰌伊織の話とこの由比正雪の話を、『武公伝』のここに収録したのである。伊織伝説二題を並べて、最後に《伊織者非庸人コトヲ村屋勘八郎話之》と記した。ことの経緯はそういうことであろう。 しかるに『武公伝』のこの由比正雪伝説が、宝暦以後、しかも浄瑠璃「太平記菊水巻」や『慶安太平記』以後とすれば、『二天記』凡例の「宝暦五年橋津八水正脩著」の段階の『武公伝』には、この伝説記事はなかったことになる。明和元年（1764）に正脩歿。したがって、これは最晩年の記述であろう。 ところで、伊織のご当地、豊前小倉にこんな伊織伝説はなかったのか。小倉にそれがあれば、伝播経路が知れるはずである。 泥鰌伊織の話は、豊前サイドでは確認できない。したがって、これは肥後での伝説発生である。では、由井正雪の逸話はどうか。 実をいえば、宮本伊織と由比正雪というテーマの説話は豊前小倉にもあった。それは、小島礼重『鵜之真似』に収録されている、伊織伝説のなかの一つである。ただし同書は、ずっと時代が下った幕末嘉永の頃のもの、したがって、古い伝説ではなく、むしろ江戸末期の新しい伝説である。それを承知していただいた上で、小倉のその類話の内容を確認しておこう。 それによれば、「宮本小伊織」は、生涯不思議なことが多かった人の由、とある。宮本伊織を「小伊織」とするのは他に例をみないが、この呼称由来については地元の用例研究を俟ちたい。主家小笠原家に伊織を名のる人が出て、家臣の伊織を「小伊織」と呼んだ可能性もある。 とにかく、伊織は不思議のことがよくあった人であるというわけで、『鵜之真似』には伊織の凡人ならざる逸話をいくつか記すのだが、その最初がこの記事である。 あるとき広寿山へ参詣の節、とあるから、これは福聚寺参詣に行こうとするとき、という設定である。福聚寺は、隠元禅師の高弟・即非和尚を開山に招いて、寛文五年（1665）小笠原忠真による創建。したがって、慶安事件の当時には、広寿山福聚寺はまだ存在しない。現在の福聚寺（北九州市小倉北区寿山町）は、延宝七年（1679）二代忠雄のとき移設拡張した伽藍。ゆえにもっと時代は下がる。こういう時節の齟齬は、伝説の気にするところではない。巷間民話となるとき、地元で名の知られた名所が関係づけられるのである。 伊織は広寿山へ行こうとして、橋を渡りかける。というのも、入江口の大橋（常盤橋）を渡らねば、川東にある広寿山へは行けないからである。この大橋は、主要街道がここに発する九州の喉元であるから、戦略上の要点である。あるいは、西国大名が参勤交代で、小倉から舟に乗って、播磨室津や摂津兵庫または大坂へと渡航するケースも多く、橋元には大名が泊まる本陣も集まっていた。 それだけではなく、橋というものは一般に説話において重要なアイテムだから、注意しておきたい。ここはその橋をめぐる話でもある。橋の西詰から橋に上りかかり、とあるのも興味深い。大橋はとくに船入があって、水平ではなく、太鼓橋のような形状でかなり勾配がある。だから「上がる」というわけである。 伊織は橋を上がりかけて、「駕籠をかえせ」という。家老重臣だから、駕籠に乗って供回りも連れて出かけたようである。伊織は常盤橋から、屋敷へ帰る。家老屋敷は役宅を兼ねている。自宅に役所をもっているのである。この宮本伊織の屋敷はどこにあったか。 家老クラスになると、一般に屋敷は城の正面（大手前）にあって、あまり屋敷地は動かないものだ。したがって、おそらく伊織の屋敷もそのあたりだろうと思われたが、小倉では事情が異なるようである。正保の城絵図では、一般の武士たちの屋敷地は「侍町」、重臣らの屋敷地を指すとみえる土地は「侍屋敷」として区別されている。そして十六区画の侍屋敷群は、南の大手門側ではなく、むしろ城の周囲を取り巻くようにして配置されている。したがって、伊織の宮本家屋敷もその侍屋敷の一つであっただろうが、どこという見当は、資料不足でつけることはできない。 後世のものでは、幕末の屋敷地図（『小倉城調査報告書』昭和五十二年・添付資料）がある。この段階では、宮本家の屋敷は立町口門にある。これは伊織の時代と違って、宮本家が中老どまりとなって、言わば格下げになったため、途中で屋敷地が移ったものとみえる。伊織時代の宮本家屋敷、これは今後の研究課題である。地元研究者の資料発掘を待ちたい。 話を戻せば、伊織は屋敷へ帰ると、すぐさま寺社奉行を呼んだ。「さきほど橋本であやしい浪人者を見た。早速調査するように」と命じた。浪人者の管轄は町奉行なのに、寺社奉行を呼んだのは解せぬことだが、今日の参詣は中止だと告げるためか、あるいは、この浪人者は『武公伝』の説話のように変装して、何か芸能者の身なりをしていたのかもしれない。芸能者なら寺社奉行の管轄である。しかし、この場合、伊織の意を受けた寺社奉行から、やはり町奉行へ話が行ったらしい。伊織が偉すぎて、町奉行は直接会えないから、寺社奉行を介して調査命令が申達されたのか。 ともあれ早速町奉行が調べてみると、かの浪人は舟宿へ帰って、「さっき橋本で見かけたのは、宮本伊織だろう。早々に船出してくれ」と云って、ひそかに出帆してしまったとのことである。 『武公伝』の話とは違っていて、伊織に怪しいと思われた人物は、先方でも、こちらは伊織だと知っている。宮本伊織に見られた、これはいかんと、早々に出国してしまったというわけである。このあたり、『鵜之真似』の説話の方が、伊織を偉大にみせたいという心情に適っており、豊前小倉ローカルで、しかも新しい説話である。 これがその後「逆叛」した由比正雪で、「どうして、正雪と見咎めたのか」と問う人があって、伊織がこたえるに、「向うから橋の間数を踏みながら来たから、怪しいと思ったのだ」と、これまた『武公伝』の「間数を踏む」というキーワードがここでも現れる。間数を踏むというのは、歩幅で距離を計測することをいう。『武公伝』では勢屯（武者溜）を計っていたが、こちらでは大橋を計っている。 もちろん、そんな計測をわざわざする必要がないのは、さきに『武公伝』の同類説話で述べた通り。正保絵図には、「大橋長サ二十八間」と記している。橋の長さは秘密でも何でもないのである。それをわざと秘密めかして語るのは、この正雪伝説の特徴である。 そうして評判に、さすが正雪で、宮本伊織だと見たのも、不思議の「両雄」なり、と記す。両雄相手を知るという講談咄である。かくして、宮本伊織はかの有名な由比正雪と匹敵する英雄とする扱いであるが、これはむろん豊前小倉のご当地伝説であるからだ。 とすれば、同型の伝説が肥後の『武公伝』に記録されているのをどう見るか。しかも『鵜之真似』は幕末の嘉永頃、『武公伝』の記事はそれより約百年前。したがって、『武公伝』の収録した伝説は、『鵜之真似』のそれより古型を示すと言える。 ただし、これはご当地伝説のパターンだから、肥後で発生したというよりも、当時豊前小倉で語られていた初期の伝説が伝播してきたものであろう。ところが、上述のごとく、間数を踏むという説話素が、丸橋忠弥を松平伊豆守が怪しむという『慶安太平記』の一場面の焼き直しから派生した伝説だとすれば、これは宝暦以後に肥後に入った説話である。 そうすると逆に、『鵜之真似』の、橋の間数を踏むという説話素の方が古いとも考えられる。つまり、広寿山参詣云々は小倉ローカルな設定だが、橋の間数を踏むという説話素が先にあって、肥後の伝説過程で、勢屯の間数を踏むという方へ変化したとみえる。というのも、軍学者・由比正雪のことであれば、橋よりも軍事的な勢屯の間数を踏むとした方がインパクトがあるからだ。伝説は強い意味の方へシフトするものである。 それでも『武公伝』のばあい、それ以外の説話素と全体の構成は、『鵜之真似』の伝説よりは古い形態を示している。『鵜之真似』の、由比正雪が宮本伊織だと気づいて、小倉を自分から退散するというのは、ご当地伝説として新しいパターンであるし、また、《流石正雪にて、小伊織ならんと見たるも、不思議の兩雄なり》と、正雪と伊織が同列に並べられるのは、本来「奸賊」の汚名を着た正雪が、幕末の頃には英雄に昇華していたからである。 以上、ようするに、『鵜之真似』が収録したこの伊織伝説は、『武公伝』のそれよりも新しい時代のものであるが、一方で、橋の間数を計るという説話素に限っては、『武公伝』の説話の原型かもしれない、というところである。 |
*【武公伝】
《又正徳二年春、小倉商人村屋勘八郎ト云者語也。武公航セシ時、梢人ハ勘八郎ニテ、老ニシテ勝負次第咸ク委語之》 *【二天記凡例】 《岩流勝負の事は、長岡興長主其事を取計ひ在りし故、于今精く聞傳る處なり。又正徳二年の春、豊州小倉之商人村屋勘八郎ト云者、八代に來る。正剛遇之、岩流嶋乃事を問ふ。勘八郎委しく其事を語る。勘八郎親族に、小林太郎左衛門と云者、長州下ノ關の問屋なり。則先師其時宿せし処なり。彼家に老人あり、其者先師舟渡りの時之梢人也。勘八郎度々出會し其噺を聞に、毎囘一言も不違と（云）。故に此度委く知れりと語る》  丸橋忠弥と松平伊豆守 豊斎画 慶安太平記
*【鵜之真似】
《宮本小伊織は、生涯不思議成る事多かりし人の由。或時廣壽山え參詣の節、橋本西より上り掛り、駕返せと申され、宅へ歸され、直ぐ樣寺社奉行召寄られ、只今橋本へあやしき浪人者を見たり、早々しらべ申すべき段申達し、町奉行早々相調候處、右浪人宿屋へ歸り、只今橋本にて見掛候者、聞き及びし小伊織ならん、早々船出し呉れる樣申候間、ひそかに出帆せし由。其後逆叛せし由井正雪なりし由。小伊織殿、如何にして見咎られしやと、後に問ふ人有之て、向より橋の間數を蹈みて來りし故、怪しく思ひしと云れしとなり。流石正雪にて、小伊織ならんと見たるも、不思議の兩雄なり》  西国内海名所一覧  小倉城下図 部分  立町口門内の宮本伊織屋敷  大橋長サ二十八間 豊前国小倉城絵図 |
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もう一つ、由比正雪に関連することを云えば、由比正雪は宮本武蔵の孫弟子だという説もある。それというのも、武蔵の初期の弟子に石川主税があり、その石川主税に由比正雪が剣を学んだというのである。 これは怪しげな話である。由比正雪は高松半兵衛の養子になった。しかるに、『望遠雑録』に、高松半兵衛は、実は江戸から流れてきた「石川主税」という浪人だと記す。ここで石川主税の名が登場である。この高松半兵衛＝石川主税は、楠不伝から親の仇と付け狙われる人物である。そして、楠不伝は安陪川原で首尾よく高松半兵衛＝石川主税を討ち果たす。こんどは正雪が、養父の仇として楠不伝を追って江戸へ行く番だが、紆余曲折あって、正雪は、江戸で成功した楠不伝を亡きものにし、自分はその道場を乗っ取るというピカレスクな筋書きになる。 要するに、高松半兵衛は少年正雪を教えた人物。となると、高松半兵衛＝石川主税という『望遠雑録』の説から、さらにもう一歩進んで、由比正雪は石川主税に剣を学んだ、石川主税は武蔵の門弟・石川主税清宣である、したがって、武蔵→石川主税→由比正雪という伝系が発生してしまったのである。 もとより、石川主税から生じた本多家中の武蔵流は、楠田圓石、国分九郎右衛門真恒と相伝され、以下道統は、三河で武蔵流として連綿と存続したのだが、こちらは現実の話である。 他方、武蔵→石川主税→由比正雪という伝系説を開陳して、後人亜流に影響を与えたのは、山田次朗吉『日本劔道史』（大正十四年）である。だが、山田次朗吉の解説は『慶安太平記』の物語からさえも、かなりズレた話である。楠不伝と高松半兵衛（石川主税）を混同しているのである。 それよりも、由比正雪伝説に出てくる石川主税という名を、播州龍野円明流伝書に出てくる武蔵初期門弟の石川主税と混同するのは誤りである。そもそも高松半兵衛については、明智光秀の孫で、父親の松秀は天正・慶長両度の遣欧使節に随行したなどという珍説もあって伝説花盛りだが、本多家とは無縁である。そうだとすれば、『望遠雑録』の高松半兵衛＝石川主税は、本多家中の石川主税とは別人である。 実際の石川主税は、本多家を致仕して江戸で浪人したのではなく、石川主税家は姫路以後大和郡山でも存続している。ともあれ、播州時代の武蔵に学んだ石川主税は、後世の憶説によって、このように由比正雪の師匠になったり、あるいは林羅山に新免玄信像の賛を頼んだりと、いろいろ活躍させられている人物である。しかし、ご本人には、いづれも身に覚えのない所為であるのは、申すまでもない。 Go Back |
*【武蔵流略系統図】
○宮本武蔵―石川主税清宣┐ ┌―――――――――――┘ ├楠田圓石好政―国分九郎右衛門┐ ｜ ｜ └（由比正雪？） │ ┌―――――――――――――┘ └国分九郎右衛門―国分三之丞→
*【日本劔道史】
《因にいふ。由井正雪が故郷駿州由比を出て江戸に來つて劍道兵學を修行したのは、實は此石川主税清宣の許である。石川清宣は楠氏の後裔だと名告つて兵書をも多く藏して居つた。正雪は深謀ある男であつたから、旨く石川に執り入て父子の約束をした。清宣が歿して後［一説に正雪が毒殺したともいふ。清宣は七十許の老人なり］、楠與四郎と名告つて菊水の旗を偽造し、淺間山から掘出したと詐つて衆盲を欺いたのである》 |