宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   13  Back   Next 

 
  43 寺尾孫之丞の門弟たち
一 夢世ノ弟子、山本源介勝守[土水男。後ニ源左衛門ト云](1)、井上角兵衛正紹[一流傳授相済、寛文七天八月五輪書相傳。後、素軒ト云](2)、中山平右衛門正勝[後ニ箕軒ト云](3)、提次兵衛永衛[後ニ又兵衛ト云、改一水ト云]、此外余多有レ共、此等ハ大抵傳授モアリシ由。初ヨリ五方ヲ以テ教ルナリ。[此五法、提又兵衛ヨリ予相傳ス。八水ト云](4)
一 夢世(寺尾孫之丞)の弟子は、山本源介勝守[土水の息男。後に源左衛門と云う]、井上角兵衛正紹[一流伝授相済し、寛文七年(1667)八月、五輪書相伝。後、素軒と云う]、中山平右衛門正勝[後に箕軒と云う]、提次兵衛永衛[後に又左衛門と云い、改めて一水と云う]、このほか数多く有ったが、これらは大抵伝授もあった由、最初から五方をもって教えるのである。[この五法を私は提又兵衛から相伝した。八水と云う]

  【評 注】
 
 (1)山本源介
 夢世とあるのは、寺尾孫之丞の道号である。寺尾家系図には《寺尾孫之丞。後夢世。牢人。宇土郡松山手永ニ居住》と短い記事があるのみである。別に述べるように、寺尾孫之丞は、養子をとったから、隠居して夢世〔むせい〕を号したらしい。住所は宇土郡松山手永とあるから、晩年は熊本を離れて宇土城の近くの村に住み、弟子を育成していたようである。
 『武公伝』に夢世の弟子とあるのは、寺尾孫之丞の弟子ということである。記事をみるに、まず最初に、山本源介勝守。割註して、土水の息男、後に源左衛門と云うとある。つまり、これは前に述べたから繰り返さないが、長岡家重臣・山本源太左衛門勝安(号土水)の嫡子、山本源左衛門勝秀のことである。初名が源助である。
 『武公伝』記事には山本源介「勝守」とするようだが、これは「勝秀」の誤り。「勝守」は源助の伯父(父の兄)、有馬陣で戦死した山本四郎太夫の諱である。
 細川家本五輪書の奥書に、「寛文七年二月五日」という日付、「寺尾夢世勝延」という発行者名、そして、「山本源介殿」という宛先が記されている。それがこの山本源助である。つまり、山本源助は、寛文七年(1667)に寺尾孫之丞から五輪書相伝をうけたのである。寺尾孫之丞は慶長十八年(1613)生れだから、この年、五十五歳である。むろん、この山本源助が最初の五輪書相伝者ではなく、すでに慶安・承応年間に、浦上十兵衛・柴任三左衛門らが五輪書を相伝されている。
 先祖附によれば、その後、源助は父の家督七百石を相続した。ところが病気になって、治療のため京都へまで行ったが、結局治らず京都で死亡した。このため、山本家の家督のうち、本知五百石を、土水弟の山本弥左衛門が相続した。この弥左衛門は、源太左衛門金重。以前豊田正剛の父・高達は弥左衛門組で、高達の喧嘩公事のさい面倒をみたのがこの人である。
 細川家本五輪書は写本である。山本源助が授与されたのが、細川家本五輪書の原本というわけであるが、『武公伝』にはこの相伝日付の記事がないから、『武公伝』の作者は、この山本源助が相伝された五輪書は実見していないらしい。  Go Back







*【山本氏先祖附】
《源五左衛門嫡子・山本源左衛門勝秀、初名ハ源助と申候。御合力米百俵被為拝領、御側支配御中小姓頭・御鉄炮頭の上座被仰付置候。其後家督七百石被下候。然処病気ニ付て、為養生上京仕候処、本復不仕、京都ニて果申候。因茲右源左衛門本知五百石を、土水弟・山本弥左衛門被為拝領候》



細川家本五輪書奥付
寛文七年二月五日 寺尾夢世勝延
山本源介殿

 
 (2)井上角兵衛
 次に名が出ているのは、井上角兵衛正紹。割註して、一流伝授が済んで、寛文七年(1667)八月、五輪書相伝、のち素軒と云うとある。この井上角兵衛は、松井治部右衛門正元二男である。
 井上角兵衛のことはこれまで出ていないので、少し解説しておけば、――先祖・井上将監正季は足利幕府に仕え、山城桑田郡に居城、細川晴元に属して晴元没落後牢人、将監の子・井上市正は丹後久美浜以来で松井康之に仕え、松井姓を賜り松井紀伊守之勝と称す。慶長五年岐阜城攻めはじめ興長に従って武功あり。紀伊守の嫡子が松井四郎兵衛、四郎兵衛の嫡子が松井治部右衛門正元である。家督七百石、長岡家重臣である。治部右衛門の嫡子が松井牛右衛門、のち治部右衛門正信。二男が、本姓を名のって、井上角兵衛正紹である。
 先祖附によれば、角兵衛は、寛文五年(1665)長岡直之に召出され児小姓。直之の近習として、江戸へもたびたび行ったらしい。直之は寺尾孫之丞に学んだようだから、主従ともに寺尾孫之丞の門弟ということになる。直之嫡子・寿之が部屋住のとき御付になったというから、文武二道の教育係であったらしい。延宝七年(1679)新知百五十石を得た。のち二度の加増で都合二百五十石の家禄になった。
 井上角兵衛という人が興味深いのは、長岡家重臣・松井治部右衛門分家ということとは関わりなく、彼個人が有能な役人だったことである。たとえば、貞享元年(1684)細川家の御用銀調達の役を与えられ、京大坂に出かけている。細川家は財政逼迫で、京の商人に莫大な借金をしていた。細川家は毎度踏倒しにかかるので悪名高い家だったから、資金調達には苦労したであろう。しかし、井上角兵衛は長岡家家臣であって、細川家直臣ではない。そういう角兵衛に細川家の御用銀調達の役が回るというのは、よほど金融にあかるく、また外交手腕があったのである。
 その後も元禄五年(1692)京都知行所で、百姓鉄砲改報告書が遅れたというので、幕府から糾問されるという事件が出來したとき、これも細川家の御用なのだが、御家の一大事とあって解決に奔走している。
 ようするに、井上角兵衛は、八代というより肥後で有数の敏腕能吏であったらしい。外交上の難事に駆り出される人のようで、頭もよければ度胸もあるという人物だったのであろう。宝永五年(1708)隠居して剃髪、道号は素軒。
 先祖附ではわからないが、『武公伝』の記録によって、この井上角兵衛が寺尾孫之丞から五輪書を相伝されていたことが知れる。寛文七年(1667)八月というから、角兵衛が直之に召出されて二年後である。中小姓になったのが三年後の寛文十年。それゆえまだ前髪のあった頃、五輪書相伝を受けたということになる。この点は注意が必要であろう。
 相伝の時期としては、現存五輪書写本からすると、山本源助宛(細川家本・寛文七年二月五日)の後で、槇嶋甚助宛(楠家本・寛文八年五月)の前になる。ただし、この井上角兵衛の五輪書は、残念ながら、原本はむろん写本も残っていない。我々はただ『武公伝』の記事よってこれを知りうるのみである。  Go Back


*【井上氏略系図】

○井上将監正季─市正之勝──┐
         松井紀伊守 |
┌─────────────┘
└四郎兵衛正秀─治部右衛門正元┐
┌──────────────┘
├牛右衛門正信=四郎左衛門正賀

|井上
角兵衛正紹─角兵衛正栄

└所兵衛正名 木本権右衛門養子

*【井上氏先祖附】
《私祖父・井上角兵衛正紹儀は、松井治部右衛門正元二男ニて御座候。(中略)角兵衛儀、寛文五年覚雲院様御児小姓被召出、江戸えも度々御供被仰付候。同十年御中小姓被仰付候。其後御合力米五拾石被為拝領、御小姓頭被仰付候処、邀月院様御部屋住の節御附被仰付候。延宝七年十月新知百五拾石、御役料拾石被為拝領、熊本御留守居并御鉄炮頭被仰付、熊本え引越申候。其後御奉行役兼候て相勤可申旨被仰付候。貞享元年太守様御用銀の儀ニ付、京都ニ被差登候。此節大木舎人様よりと御座候て、白銀三拾枚・白砂糖五斤・切漬一桶被為拝領候。於京大坂銀千貫目相調候を、大坂御留主居奥田小右衛門殿より御国ニ被差下候。其後は右の御用は御断申上、御自分御用迄相調、翌年罷下申候。同二年の冬、京都御知行所え御用御座候て被差登、相勤罷下申候。同四年裏松様御奥様御逝去ニ付、御悔の御使者被仰付、外ニ御用も御座候て大坂え逗留仕、御用相仕廻罷下申候。元禄五年十一月京都御知行所の御百姓鉄炮御改の御差出御延引の儀ニ付、従公義御詮議ニ付て早追ニて江戸え被差登、(中略)此度の為御褒美五拾石御加増被為拝領の旨御直ニ被仰渡候。於道中煩候段も被聞召上緩々休息可仕旨被仰付、同六年の冬京都御知行所御百姓共願の趣有之、公義御代官所の御取遣の儀埒仕候様ニ御花畑より被仰付、急ニ被指登御用相仕廻罷下申候、同七年稲葉能登守様御家督の為御祝儀臼杵え御使者被仰付、上下廿壱人ニて罷越申候、追て能登守様より紗綾三巻御肴等被為拝領候、同十一年五拾石御加増ニて御中小姓頭被仰付候、宝永五年閏正月病身ニ罷成御役儀御断申上候処、願之通隠居被仰付候。刺髪仕、井上素軒と改申候》
 
 (3)中山平右衛門
 次に、『武公伝』に名が出ているのは、中山平右衛門正勝。後に箕軒と云うとある。この中山平右衛門も長岡家家臣で、先祖附で照合しうる。
 中山平右衛門の父・中山藤兵衛正明は、藪内匠政一(1539〜1619)に属したという。藪内匠は秀吉の中老・中村式部少輔一氏の家臣である。藪氏は関が原の折東軍に属し、戦後中村式部少輔の子・中村一忠(1590〜1609)は米子十七万石を与えられ、伯耆守。しかし慶長八年(1603)中村一忠が家老横田内膳を殺すという事件があり、横田党との武力対決になった。隣国出雲の堀尾氏の加勢を得て、これを攻め滅ぼした。
 柳生石舟斎宗厳の四男・柳生五郎右衛門宗章(1566〜1603)は、柳生宗矩の兄にあたる人である。五郎右衛門は当時中村家に仕えていたが、この内訌で横田党に与して戦死した。そんな家中の大騒動があって、藪内匠は中村家を見限って致仕した。そして京都で牢人しているところを、細川忠興に召出され、豊前に下って一万石。のち二千石加増で、都合一万二千石。ただし、藪家の万石知行は内匠一代で、その子・図書正成は知行二千石となる。
 この藪内匠に属した中山藤兵衛は、藪内匠が細川家に召抱えられたとき、内匠の元を離れ、長岡興長に召抱えられた。知行二百石。のち五十石加増で都合二百五十石。嗣子がなかったので、松井外記元勝二男を養子にして、これが中山弥右衛門昌良。有馬陣(島原役)では親子共々働いた。その後、弥右衛門が家督相続。しかし、弥右衛門を養子にとった後、中山平右衛門が生れたのである。そこで、弥右衛門隠居後、三代目は、中山藤兵衛実子の中山平右衛門が継いだというわけである。
 中山平右衛門は、直之に児小姓で召出され、のち前髪をとって中小姓を勤めた。寛文四年(1664)、合力米三十石、小姓頭を命じられた。こうしてみると、中山平右衛門は先の井上角兵衛よりも先輩である。延宝七年(1679)新知二百石、奉行・弓頭・鉄炮頭などをつとめた。貞享元年(1684)部屋住の嫡子・寿之に付けられた。寿之が家督して八代入城の後、元禄六年(1693)五十石加増で都合二百五十石、御側頭。宝永三年(1706)御用人、同五年(1708)城代、用人兼役御直触。その後、平太夫と名を改め、正徳三年(1713)隠居、隠居料五人扶持、剃髪して名を箕軒と改めた。
 平右衛門跡目は養子の陽右衛門正武で、宇土細川家士・見崎弥兵衛三男である。寿之の児小姓に召出され、以来長岡家に仕え、中山平右衛門の養子になって跡を継いだ。
 以上が先祖附の内容である。井上角兵衛ほど派手ではないが、中山平右衛門が着実に出世昇進していることがわかる。『武公伝』に名が挙げられているから、この中山平右衛門も直之近習であり、若い頃寺尾孫之丞に学び、五輪書を相伝された者であろう。しかし、井上角兵衛と同じく、中山平右衛門宛の五輪書は原本・写本ともに現存しない。  Go Back





*【中山氏略系図】

○中山藤兵衛正明──┐
┌─────────┘
├弥右衛門昌良―仁兵衛勝英
| 松井外記二男

平右衛門正勝=陽右衛門正武
  平太夫 箕軒  見崎弥兵衛三男



*【中山氏先祖附】
《祖父・中山平左衛門正勝儀は、中山藤兵衛正明実子ニて、中山弥右衛門昌良を養子ニ仕候以後出生仕候。其後覚雲院様御児小姓ニ被召出、執前髪御中小姓相勤、寛文四年甲辰八月四日御合力米三拾石被為拝領、御小姓頭役被仰付候。延宝七年己未十月十九日新知二百石被為拝領、御奉行・御弓頭・御鉄炮頭も相勤申候。貞享元年甲子三月寿之公御部屋ニ御附被成候。御入城以後、元禄六年五拾石の御加増被為拝領、御側頭被仰付、宝永三年丙戌八月十九日御用人被仰付、同五年閏正月十六日御城代被仰付、御用人兼役御直触ニ被仰付候。其後平太夫と名を改申候。正徳三年癸巳六月九日隠居被仰付、五人扶持被為拝領、剃髪仕名を箕軒と改申候。家督無相違被為陽右衛門え被為拝領候》


 
 (4)堤次兵衛
 さて、四番目は、堤次兵衛永衛。割註して、後に又兵衛、改めて一水と云うとある。これは堤又左衛門永衛(1641〜1731)、長岡家家臣であり、先祖附で確認しうる。初名作平、次兵衛、次平、八郎右衛門、甚右衛門と種々名が変わったようだが、『武公伝』のいう次兵衛の名もある。
 先祖附によれば、堤氏先祖は、下野守源満快五代堤源三為氏の後胤、堤大蔵永基とある。とすると、清和源氏の源経基五男の満快の流れで、源為公の六男・為氏が「堤源三為氏」を称するを起点とする堤氏である。その後胤、堤大蔵永基が先祖だという。永基は鎌倉将軍宗尊・惟康に仕えたというから、鎌倉将軍六代目・七代目の親王将軍の時代の人である。文永三年(1266)の田地并武具等譲渡の書付があるという。北条時宗が宗尊を廃し惟康を次期将軍に奏請した頃である。
 この後の系譜は定かではないが、元冦のころ豊後に下向した大友頼泰の曾孫・久茂が堤駿河守を名のり、豊後日田郡を領したという筋もあるから、おそらくそのあたりかもしれない。
 堤氏先祖附では、その間は飛んで戦国末期、堤大蔵鎮久が具体的な先祖として登場する。堤鎮久は大友義鎮(宗麟 1530〜1587)に属した。堤鎮久嫡子の鎮方、嫡孫の統永も、大友宗麟・義統に仕えた。戦国末期のこととて歴戦武功があった。統永は家督して間もなく病死した。それで鎮方の弟が養子になって跡を継いだ。堤源左衛門尉永房である。永房のときは大友氏末期で、周知の通り大友義統のとき領国を剥奪され、没落。大友家臣団離散して、永房も牢人して肥後へ流れ、そこに居着いた。
 堤源左衛門永房の子が九郎右衛門永正で、堤次兵衛の父である。永房・永正の代は四十年ほどずっと牢人していたことになるが、その間の動向は不明である。寛永九年(1632)堤九郎右衛門は、細川三斎の八代入城のとき、八代へ来た細川立孝(1615〜45)に仕えた。鷹匠小路に住んだというから知行取りであったのだろうが、具体的なことは不明である。その後、下益城郡森山という所に浪居したとあるので、立孝が死ぬと、九郎右衛門は牢人したのであろう。
 堤次兵衛は、明暦元年(1655)十五歳のとき長岡興長に召出され、児小姓として興長孫の直之に付けられた。児小姓から中小姓へというコースを進み、勤めていた。おそらくこの時期に寺尾孫之丞に学んだのであろう。ところが、熊本で火事が起きたとき、八代からも出動したのだが、堤次兵衛はその出動に間に合わず、その失態で扶持召放ち、いわば懲戒免職となった。そうして次兵衛は、阿蘇の親類の家に浪居することになった。
 堤次兵衛という人物が興味深いのは、ここからである。次兵衛は阿蘇で逼塞していたが、その後豊後へ移った。豊後というのは大友麾下にあった堤氏先祖の地である。何か係累でもあったのであろう。その豊後で、堤次兵衛は鉄砲術を学んで相伝をうけた。柘植流・妙玉流の両流という。どちらも詳細は不明だが、豊後にその伝承者があったのであろう。
 ところで、召放ちになっても、ほとぼりが冷めたころ再び召返されることは、よくあることで、堤次兵衛も、直之の代、寛文十年(1670)に呼び戻され、帰参が叶った。次兵衛は柘植流・妙玉流両流の相伝を手土産にして八代へ戻ったのである。なお、豊田正剛の父・高達は、元禄期に柘植流鉄砲術指南役である。堤次兵衛が柘植流を八代へもたらしたとすれば、豊田高達は堤次兵衛に鉄砲を学んだ可能性がある。
 堤次兵衛は帰参後、寿之の部屋附中小姓、直之の御側付き、その後、書物方・御側御銀支配・台所方など諸役を歴任し、直之側近として仕える。
 寺尾孫之丞の死は寛文十二年(1672)である。堤次兵衛が寺尾孫之丞相伝弟子だとすれば、この年以前に相伝を受けていなければならないわけだが、その時期は不明である。熊本火事のさいの失態で召放ちに遭い、その後寛文十年に帰参するまでの、牢人期間中に相伝を受けた可能性もあるが、その時期は阿蘇や豊後にいたとすれば、次兵衛が寺尾孫之丞から一流相伝をうけたのは、寛文十年直之に呼び返された帰参後とみた方が妥当であるかもしれない。堤次兵衛はおそらく若いころから寺尾孫之丞に学んでいたが、相伝は寛文十年以後であろう。『武公伝』の記事でも第四番目に記載されている。
 その後、堤次兵衛は、前川勘右衛門の身柄引渡し要求に豊後臼杵へ出張する。これには以下の経緯がある。
 延宝元年(1673)、細川家臣の前川勘右衛門と藤田助之進の仲が険悪になって、喧嘩両成敗で両人とも召放ちになった。しかし事はそれだけでは済まず、その後、肥後筑後国境の北関(現・福岡県みやま市山川町北関)で、両方の徒党が果し合いをして、藤田助之進・縫殿進父子を含めて双方十一人の死者が出るという事件が起きた。これは「北関始末記」など書物も現れて、肥後では後世有名な事件になった。
 『武公伝』に寺尾孫之丞門弟に列記されている山名十左衛門は、当時二十八歳、前川勘右衛門に加勢してこの決闘に出たらしい。というのも、前川勘右衛門は山名十左衛門の従弟で、勘右衛門は召放ちの後、山名十左衛門の知行地、山鹿郡高橋村に牢居していた。そこへ藤田助之進からの果し状が来たというわけで、山名十左衛門が加勢したのも理由があった。山名十左衛門が鑓で藤田助之進を仕留め、前川勘右衛門が縫殿進を鑓で仕留めた。山名十左衛門が事件後罪を問われなかったのは、細川重臣の家柄ということもあるが、藤田方が鉄砲飛道具を用意して攻撃したというのが卑怯だという世論の支援があったのである。
 しかし前川勘右衛門は、果し合いの後、三人の家来とともに出奔した。豊前に流転してのち、豊後臼杵城主・稲葉右京亮景通(1639〜94)の元に身を寄せているのが判り、翌二年五月、堤次兵衛は前川勘右衛門引渡し交渉の使者として臼杵へ出向いた。そこでしばらく交渉していたが、前川勘右衛門が京都にいるとの情報もあってか、さらに京都へ調査に出向いた。そうしているうちに、八月晦日に臼杵で前川勘右衛門が自害したとの知らせを受けた。御用済みとなったので帰ることになるが、ちょうど信得院(直之室・房、烏丸資慶女)の弟・野崎淡水が肥後へ下るというので、そのお供をして帰った。
 前川勘右衛門家来の瀬戸源七は北関の決闘に参加し、その後勘右衛門の流転に付き従い、臼杵に来ていた。勘右衛門自害後、差返し要求で身柄を返還され、臼杵から熊本へ戻り山名十左衛門に顛末を報告、その後直之の望みで長岡家に召抱えられた。瀬戸源七は宇野與三衛門の養子となり、宇野源七隆久、元禄三年(1690)家督相続。ちなみにいえば、この宇野源七の孫が、『二天記』序文を書いた宇野源右衛門惟貞である。
 また、宇野源七の二男又九郎が、元禄二年に堤次兵衛の養子になり、堤又左衛門永栄。直之の意向であろうが、これも何かの因縁である。
 堤次兵衛の話に戻れば、次兵衛は直之側近として、この前川勘右衛門の一件にみられるように、外交の方面にも出ていたらしい。貞享三年(1686)に新知百石、元禄五年(1692)直之が江戸在府中に死亡、寿之に代替わりして五十石加増で、都合百五十石になった。
 長岡(松井)家は知行三万石であり、細川家老職とはいえ大名並の扱いで、代替わりには将軍に挨拶することになっていた。元禄六年(1693)の寿之の江戸参府には、次兵衛は中小姓頭中山平左衛門と同格でお供した。次兵衛、五十三歳である。中山平左衛門は上述の寺尾孫之丞相伝弟子。つまり孫之丞の弟子である二人が、連れ立って江戸へ行ったのである。
 堤次兵衛について特記すべきは、その長命であろう。前出例では中西孫之丞の九十七歳という例があるが、堤次兵衛も長寿であった。元禄十四年(1701)六十一歳で隠居して、号一睡。『武公伝』には「一水」とあるから、一水とも号したのであろう。しかし、『武公伝』の割註にある《後ニ又兵衛ト云》という記事は不審である。これは「又左衛門」の誤記であろう。
 堤次兵衛はその後三十年も余生して、享保十五年(1730)九十歳になったところで、寿之から長寿の祝いをうけた。そして翌十六年(1731)病死、行年九十一歳であった。








*【堤氏略系図】

○堤大蔵永基…(?)…堤大蔵鎮久┐
┌───────────────┘
├次郎兵衛鎮方―三右衛門尉統永

└源左衛門尉永房―九郎右衛門永正┐
┌───────────────┘
又左衛門永衛=又左衛門永栄
  次兵衛 一睡  宇野源七隆久二男



大徳寺瑞峯院蔵
大友義鎮(宗麟)




*【堤氏先祖附】
《曾祖父・堤又左衛門永衛儀は、右九郎右衛門永正嫡子ニて御座候。初名作平、次兵衛、次平、八郎右衛門、甚右衛門と申候。明暦元[乙未]年、十五歳ニて興長公御代被召出、同年十二月、直之公被為執御前髪、御新宅ニ御移被遊候節、御附御児小姓被仰付、其後御中小姓被召置相勤居申候処、熊本ニて出火の節御供の間ニ合不申、御給扶持被召放、阿蘇え浪居仕、同氏方え暫罷在、其以後、豊後ニ罷越居申候内、柘植流・妙玉流両流の鉄炮相伝仕、右の書伝来仕候。寛文十[庚戌]年、帰郷仕候様ニ被仰付、八代え罷帰申候処、(中略)同(延宝)二[甲寅]年前川勘右衛門豊後臼杵ニ居被申候内、御使者被仰付、五月御当地出立仕、臼杵御城内ニも度々罷出、彼方御役人中ニも出会、入組候御用申談被仰付、暫逗留仕、夫より京都え罷登、勘右衛門殿住居の所柄等承合候様ニ被仰付、同年九月迄滞留仕候処、勘右衛門殿八月晦日臼杵ニて自害ニ付、早々罷下可申旨、且又信得院様御舎弟・野崎淡水様御下被成候ニ付、御供可仕旨被仰付、同年十月罷下申候。同年十一月朔日御側御銀の支配、御書物方等被遊御免、御側御武具の支配被仰付、同四[丙辰]年十月七日今迄の加役被遊御免、御台所方一遍ニ被仰付、銀米御渡被成、沢井清右衛門両人ニ裁判被仰付、弐人扶持御加増被仰付候。同六[戊午]年信得院様御病中京都より医師御呼下被成候付被差登、西三伯と申医師同道ニて三月帰着仕候。同年御知行奉行役被仰付、天和元[辛酉]年十二月十六日御作事奉行役被仰付、貞享三[丙寅]年九月十九日新知百石被為拝領、御作事奉行役今迄の通相勤可申旨被仰付、同四[丁卯]年九月十五日御城内ニ御引直の御米蔵致出来、右御用出精相勤申候ニ付、白銀三枚被為拝領候。元禄五[壬申]年十二月廿二日寿之公被遊御入城、翌廿三日高五拾石御加増被仰付、同六[癸酉]年百五拾石の高ニ被仰付、御中小姓頭中山平左衛門同格ニて、寿之公御参府御供被仰付、同年御下着以後、御奉行役被仰付、(中略)同十二[己卯]年九月病気相成、御役儀難相勤御断申上候処ニ御奉行役被遊御免、御鉄炮頭は直ニ相勤申候様ニ被仰付、御式台御番等相勤申候。同十四[辛巳]年病身ニ付、如願隠居被仰付、一睡と名を改申候。享保十五庚戌年正月九十歳ニ相成申候付、従寿之公長寿被遊御祝、綿入御羽織被為拝領候。同十六[辛亥]年十月病死仕候》










*【宇野氏略系図】

○宇野与三左衛門治時──┐
 ┌──────────┘
 |       前川家来 瀬戸
 └彦右衛門治久=源七隆久─┐
 ┌────────────┘
 ├彦市恒久─平右衛門通久
 |
 ├又九郎 堤又左衛門養子
 |
 ├弥三右衛門
 |
 ├孫之丞喬明―源右衛門惟貞
 |
 └弥次右衛門盛満 田中氏養子

 以上四人はいづれも、八代城を預かった長岡家の家臣である。それのみならず、とくに長岡直之の近習という特徴がある。後に見るように、直之は寺尾孫之丞に学んだらしい。近習らにも学ばせたようである。『武公伝』のこの記事にある孫之丞弟子は、直之の側近にいた人々である。
 直之が家督相続して、八代へ入城したのは寛文六年(1666)二十九歳のときで、それまでは熊本にいた。五年前から細川家老職を勤めていた。したがってここに記されている人々が長岡家家臣だからといって、孫之丞は熊本ではなく八代で教えた、とみるのは早計である。五輪書相伝時期が杲らかである山本源助・井上角兵衛のケースは、ともに寛文七年で、直之八代入城後まもなくのことであり、彼らはそれまで直之近習として熊本にいて、寺尾孫之丞に学んだとみた方がよかろう。
 この記事には、夢世(寺尾孫之丞)の弟子は他にも多数あったとあり、ここに書かれていない多くは、熊本の細川家士であろう。『武公伝』の正脩は八代の人なので、おのずから記録が偏るのである。
 また『武公伝』に云う、これらは大抵伝授もあった由、と。一流伝授して五輪書相伝とすれば、寺尾孫之丞は多数の弟子に五輪書を相伝したようである。さらにまた、最初からして二刀をもって教えるとあるのは、むろん片手で刀を振りなれるようにするためである。これは本サイトの五輪書読解の諸論攷を参照されたい。
 豊田正剛は晩年の直之に仕えた。直之が元禄五年(1692)に江戸で五十五歳で死んだとき、二十一歳の正剛は彼の側に居た。十八歳のときから御側仕えだから、晩年の直之の側に最期まで居たわけである。直之所持の伝書に武蔵流兵法書があり、自身がこれを添削もしていた。その「兵法書目註解」を正剛が直之に写させてもらった。そういうことからすれば、直之側近の兵法環境に正剛もいた。したがって、世代はまったく異なるが、上記の孫之丞門弟たちに関する記事も正剛の原稿があったのかもしれない。
 しかるに、この記事の筆者は、豊田正剛ではなく、息子の正脩であろう。この段の末尾に注記して、自分はこの五法を提又兵衛から相伝した。八水と云う、とある。この「又兵衛」は上記のごとく又左衛門、つまり堤次兵衛から五法相伝を得たというのである。
 「五法」はこれだけでは不明だが、三十九ヶ条兵法書でいう「五方ノ構ノ次第」のような部分が奥儀化したものであろう。五輪書相伝のことはここに記されていないが、当然それを得たというところであろう。
 文中の一人称「予」は、「八水と云」とあるから、橋津八水正脩のことである。ただし、正脩の原稿にこの「八水と云」があったとは思えない。これは本人ではなく、息子の豊田景英の記入であろう。正脩が「予」と書いたが、これでは他人には分かりにくかろうというので、「八水と云」を書き加えたのである。景英は、こういう細かい補記もしているということである。
 では、ほんとうに橋津正脩は寺尾孫之丞弟子の堤次兵衛から教えを受けたのか。正脩は宝永三年(1706)生まれ、年齢が開きすぎてはいないか。しかしこれは、堤次兵衛の長命によって可能だったと云うべきである。
 上掲先祖附によれば、堤次兵衛の没年は、享保十六年(1731)、行年九十一歳。宝永三年生れの正脩は、この年、二十六歳である。晩年の堤次兵衛から五法相伝があったというのは、妥当なところである。寺尾孫之丞弟子の生き残り、長老の堤一睡から、正脩は五法相伝を受けたのである。そうして、『武公伝』のこの記事は、堤次兵衛から聞いた情報をもとにして、正脩が書いたと思われる。
 生没年がわかっている堤次兵衛(1641〜1731)は、この列記の最後に記されている。寺尾孫之丞卒年の寛文十二年(1672)には、堤次兵衛は三十二歳である。山本源助・井上角兵衛・中山平右衛門の三人よりも年長の可能性もあるが、おそらく相伝はもっとも遅かったようである。
 総じていえば、寺尾孫之丞の弟子は、求馬助の弟子たちよりかなり年齢が上である。たとえば、新免弁助(1666〜1701)に対して、堤次兵衛は二十五歳も年長である。つまりほぼ一世代上である。このことはもっと注意して見られてしかるべきである。
 また、寺尾孫之丞の門弟に関しては、次に別途記事がある、それに関連して再説するあろう。  Go Back




*【長岡(松井)家略系図】

○康之┬興之
   │
   └興長=寄之┬直之
         │  │
         └正之│
 ┌──────────┘
 ├寿之┬豊之┬営之┬徴之→
 │  │  │  │
 └祐之├直峯└庸之└誠之
    │
    └弘之


松井文庫蔵
長岡直之

 
  44 寺尾兄弟の子孫門弟たち
一 夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳。(1) 筑後殿、山名十左衛門殿(2)、浦上十兵衛、柴任三左衛門ナド皆、ム世(夢世)ノ高弟也。(3)
 求馬子孫ハ于今連綿アリ。(4) 子息五人ノ内、辨介兵術勝タル名人ノ由。夫レ継テハ加賀介技ヨリヨカリシト也。(5)
一 夢世(寺尾孫之丞)は一代かぎりで、兵術を子孫に伝えなかった。筑後殿、山名十左衛門殿、浦上十兵衛、柴任三左衛門など、すべて夢世の高弟である。
 (これに対し)求馬助の子孫は今も連綿として続いている。子息五人うち、弁介は兵術に勝れた名人の由。それ(名跡)を継いでからは加賀介の技より上だったという。

  【評 注】
 
 (1)夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳
 ここで「夢世」というのは、寺尾孫之丞のことである。既述のように、「夢世」は孫之丞が隠居して名のった道号であり、『武公伝』に「ム世」とも書くから、「むせい」と呼んだことが知れる。
 『武公伝』は、夢世は一代で、兵術を子孫に伝えなかったという。これは実際は、いかがであろうか。それをここで検証してみよう。
 しかしながら、従来、武蔵周辺研究において、寺尾孫之丞の子孫まで追跡した研究は存在しない。したがって、このあたりは前人未到の荒野というに等しいのだが、以下、我々の所見を示すことで、先鞭をつけておく。
 寺尾孫之丞は生涯仕官せず、牢人のまま兵法指南して活計していた。寺尾家の系図(「寺尾家系」)によれば、寺尾孫之丞は独身ではなく、妻子があったらしく、一女一男あり、娘は横井某へ嫁し、息子は早世したとある。そこで、寺尾孫之丞は養子をとったらしい。
 系図によれば、孫之丞兄・寺尾喜内の息子に、佐五左衛門という人があり、彼が寺尾孫之丞の養子になっている。つまり、病気につき、宇土郡松山手永に牢人、夢世養子になるとあれども、不分明、とある。そうすると、佐五左衛門は病気で廃嫡され、宇土郡松山手永にいた叔父の寺尾孫之丞の許に引き取られ、養子になったということのようである。だが、それがどうなったのか不分明というから、系図も頼りにはならない。佐五左衛門以下子孫の情報は、熊本には残らなかったものとみえる。
 ともあれ、寺尾孫之丞は甥の佐五左衛門を養子にして、跡を嗣がせた。自身は隠居して夢世を号した。寛文年間の五輪書の記名は夢世だから、孫之丞は五十代には隠居して、佐五左衛門が跡を嗣いでいたのである。
 本サイトの別の論攷にすでに指摘があるが、系図には、寺尾孫之丞について、《寺尾孫之允。後夢世。牢人。宇土郡松山手永ニ居住》という短い記事しかない。松山手永のどの村に住んだかというところまでの記載はないが、それでも、孫之丞は晩年、宇土郡松山手永の村に住んだことだけはわかる。そして孫之丞の墓が、その宇土郡松山手永に対応する、熊本県宇土市松山町にある。
 《南無阿弥陀佛 釋夢世滅後位》とある寺尾孫之丞の墓碑銘からすると、宗旨は浄土宗のようである。命日は「寛文十二[壬子]年九月十九日」であり、裏面に「寺尾氏源勝信六十歳薨」と享年記録もあって、寺尾孫之丞が寛文十二年(1672)に六十歳で死去した事が知れる。
 そこで、当所の寺尾家墓所の他の墓石を倚見するに、系図の記事に対応する人物の墓と思しきものが存在する。
 一つは、「万治二[己亥]年十月朔日」の命日がある「夢菴幻身居士」の墓である。これが万治二年(1659)卒の人。であれば、おそらく、系図に「早世」とある寺尾孫之丞の息子であろう。万治二年は孫之丞四十七歳である。実子が早世したので、上述の、甥の佐五左衛門を養子にしたのであろう。
 次に、孫之丞墓の右にあるのが女性の墓で、法名「釋尼妙清」、命日「延宝八[庚申]歳十二月十五日」とある墓石がある。これは延宝八年(1680)卒の女性、おそらく寺尾孫之丞の妻であろう。孫之丞はこの女性を妻にして、一男一女を生したのである。
 さらに、寺尾佐五左衛門の墓がある。すなわち、法名「釋如侠」、命日「元禄参[庚午]二月十日」とあり、「寺尾佐五左衛門」という俗名を記す。これが、夢世(孫之丞)の養子となったと系図にある、寺尾佐五左衛門であろう。裏面には「藤原勝秀」とあって、佐五左衛門の諱が知れる。記載命日によれば、寺尾佐五左衛門勝秀は元禄三年(1690)に死去したのである。
 この墓所にはもう一つ寺尾佐五左衛門名の墓があって、それは「寺尾佐五左衛門尉勝宣」と世性(俗名)を記す。この人は命日「享保十[乙巳]年正月十有三日」、法名「知眠院三誉宗忍居士」。享保十年(1725)卒で、寺尾佐五左衛門を襲名するから、これは佐五左衛門勝秀の息子であろう。そうしてみると、寺尾孫之丞の養子になった佐五左衛門の家は、不分明どころか実際には存続していたのである。
 しかるに問題は、もう一つの墓である。それは「釋夢世居士之塔」と銘があって、命日「享保十[乙巳]歳五月初六日」と記す。俗名の記載はない。そこで、享保十年(1725)卒去のもう一人の夢世、第二の夢世がいたことになる。
 このように「釋夢世」に「居士」を接合するというのも奇妙な法名だが、それはともかくとして、この「夢世」は、同所に墓がある寺尾孫之丞の道号「夢世」を襲名したものらしい。
 佐五左衛門勝宣と同年に死去しているこの人物は、勝宣の息子か弟であろう。ただし、佐五左衛門の後が別にないから、この夢世居士は、佐五左衛門勝宣の息子であろう。他に徴証する資料を見ないので、当面はそのように推定しておく。夢世号を嗣いだところからすると、この第二の夢世も曽祖父・孫之丞のように兵法指南で身を立てた人かもしれない。
 そこで、問題は、系図の孫之丞子孫の記事である。孫之丞には一男一女あって、娘は横井某へ嫁し、息子は早世した。この早世した息子の墓は、先ほどのように「夢菴幻身居士」の墓を、それと同定しうる。ところが、系図には、寺尾孫之丞が、佐五左衛門とは別に、養子を取ったことになっている。
 すなわち、系図には、その人物について、《寺尾孫之允。牢人。断絶。実ハ松岡玄壽二男、為養子》とある。これは、松岡玄寿の二男で、養子になり、寺尾孫之丞を襲名したというわけである。牢人とあるから、兵法指南で活計した人であろう。
 しかしながら、松岡の二男が寺尾家の養子になり、「寺尾孫之丞」を襲名したということはありえたとしても、初代寺尾孫之丞が松岡の二男を養子したというのは、明らかに事実に適合しない記事である。というのも、孫之丞が養子にした甥の佐五左衛門勝秀は、元禄三年(1690)卒だから、孫之丞死後まで生きている。しかも、さらに勝秀の息子の佐五左衛門勝宣までいる。とすれば、寺尾孫之丞が、甥の佐五左衛門とは別の者を養子にしたはずがない。
 したがって、系図の孫之丞子孫部分は、明らかに誤伝である。となると、系図のこの記事は匡すべきだが、それにはいかなる訂正が妥当か。

 おそらく、系図作成者は、享保十年(1725)に死んだ「釋夢世居士」を、寺尾孫之丞の夢世と混同したのである。そこで、寺尾孫之丞が「松岡玄寿二男」を養子にしたと書いたのだが、実は、松岡の二男を養子にしたのは、この第二の夢世であろうと見当をつけることができる。
 ここで名が出てくる「松岡玄寿」は、その名号からすれば、おそらく細川家御医師の松岡元寿であろう。先祖附によれば、松岡家は代々詫間郡で小児医をしていたが、宝永七年(1710)松岡元寿のとき召出され、享保九年(1724)御医師組、同十八年(1733)には新知百石を得ている。寛延三年(1750)元寿は知行を返上して、跡目を息子の三寿に譲った。三寿は父の知行百石のうち五十石を与えられた。だが、三寿は八年後の宝暦八年(1758)に病死して、跡は養子の玄悦が継いだ。
 さてこの元寿の二男が養子になったというわけであるが、名は某とのみあって、系図に名をとどめていない。「寺尾孫之丞、牢人」とあるから、「寺尾孫之丞」の名跡、つまり兵法指南の家業を継がせたということである。しかし、断絶とある。
 それを系図によって次の世代をみると、夢世の養子(松岡玄寿二男、寺尾孫之丞)には一男一女がある。ところが、その息子について、《勝寿養育イタシ》とある。おそらく親が死んで、まだ幼少だったので、他家に引き取られ養育されたということである。ここで「勝寿」とあるのは、熊本の寺尾本家、九郎左衛門勝寿のことであろう。
 先祖附によれば、この九郎左衛門勝寿は、初代寺尾佐助から数えて六代目の人である。宝暦六年(1756)家督、宝暦九年(1759)名を孫四郎から九郎左衛門に改めた。卒年は寛政三年(1791)である。世代からすると、おそらく橋津正脩(1706〜64)というより、子の景英(1740〜1799)に近い世代の人あろう。つまり、夢世養子「寺尾孫之丞」の子を九郎左衛門勝寿が養育したとなると、これはすでに十八世紀後期の話なのである。
 かくして夢世養子「寺尾孫之丞」の子は、知行千五十石の寺尾本家で養育されたのである。本家としては、余類を路頭に迷わせるわけにはいかない。そして、この子に寺尾喜内を名のらせる。寺尾孫之丞の兄・九郎左衛門は初名が喜内である。寺尾九郎左衛門家先祖の「喜内」を名のらせたということは、この子は疎かには扱われなかったとみてよい。
 そして系図によれば、この寺尾喜内は余田寿三郎の養子になった。寺尾喜内は余田家を嗣いで余田喜内となったが、これに対し、喜内の妹の方は、寺尾系図に、蓑田軍八妻とある。この「蓑田軍八」は、細川家臣・蓑田左五右衛門貞重のことであろう。左五右衛門、初名が軍八である。知行百五十石の家である。
 こうして、寺尾喜内は余田家に養子に入り、女子は蓑田家に嫁に行った。子孫は2人とも他家へ入ってしまったから、夢世の裔は後嗣子なく、系図が記すように、断絶したということである。
 したがって、以上の検証結果から、系図記事は右のように訂正しうるであろう。






*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助勝永┬喜内勝正――┐
       | 九郎左衛門 |
       |      |
       ├孫之丞勝信 |
       |      |
       └求馬助信行 |
 ┌――――――――――――┘
 ├佐五左衛門 孫之丞養子
 |
 └九郎左衛門克清―勝貞→


*【寺尾家系】
《某[寺尾佐五左衛門。病気ニ付、宇土郡松山手永ニ牢人。夢世養子ニ成ト有之候得共、不分明]》





寺尾孫之丞の墓
熊本県宇土市松山町



夢菴幻身居士 釋尼妙清
左:夢菴幻身居士 右:釋尼妙清

釋如侠 勝秀 三誉宗忍居士 勝宣
左:釋如侠 勝秀 右:三誉宗忍 勝宣

釋夢世居士
釋夢世居士


個人蔵
寺尾家系 孫之丞子孫部分


*【寺尾家系による孫之丞子孫】

某[寺尾孫之丞 後夢世 牢人
   宇土郡松山手永ニ居住]―┐
┌――――――――――――――┘
├女子[横井某へ嫁]

├男子[早世]

└某[寺尾孫之丞 牢人 断絶
   実ハ松岡玄壽二男 為養子]┐
┌――――――――――――――┘
├某[寺尾喜内 勝壽養育イタシ
|   余田壽三郎養子ト成]

└女子[蓑田軍八妻]





*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助勝永――┐
 ┌―――――――┘
 ├喜内勝正 九郎左衛門 ―┐
 | ┌―――――――――┘
 | ├佐五左衛門 孫之丞養子
 | |
 | |九郎左衛門
 | └克清―勝貞―勝宣―勝寿
 |
 |      養子 勝正長男
 ├孫之丞勝信=佐五左衛門勝秀┐
 | ┌―――――――――――┘
 | └佐五左衛門勝宣―夢世
 |
 └求馬助信行―佐助信形―┐
   ┌―――――――――┘
   └助左衛門勝春―佐助勝義



*【寺尾孫之丞子孫訂正系図】 

○寺尾孫之丞┬女子 嫁横井某
      |
      ├男子 早世
      |
      |養子 孫之丞甥
      └佐五左衛門勝秀
 ┌――――――――――――┘
 └佐五左衛門勝宣―夢世居士┐
 ┌――――――――――――┘
 |養子 松岡玄寿二男
 └=寺尾孫之丞――┐
   ┌――――――┘
   ├男子 寺尾喜内 後余田養子
   |
   └女子 蓑田軍八妻

 ところで、喜内が養子に入った余田〔よでん〕家は、その先祖附によれば、初代・四郎三郎は丹後以来の細川家臣で知行百五十石、二代目の三右衛門も家督相違なく相続し、島原陣で討死。しかしこれを継いだ三代目の余田庄兵衛が、乱心により知行召上げ。その子嘉兵衛も孫の三右衛門の代は五人扶持、中小姓の扶持米取りに落ちた。六代目の忍助のとき、事情があって扶持を返して浪人、そのまま死去という。
 そうして七代目が余田寿三郎で、その代に、余田家が丹後以来の旧臣で、島原で先祖が討死という訳有りの家ということで、安永二年(1773)、五人扶持、中小姓で召出された。その後安永五年(1776)小姓組で切米十五石、さらに天明五年(1785)これに五石加増されて。都合二十石。余田寿三郎は天明六年(1786)病死した。そして養子になっていた寺尾喜内がこの余田家を相続したのである。
 喜内は天明六年(1786)二十五歳のとき、余田寿三郎跡目を相続した。中小姓五人扶持からのスタートである。文化三年(1806)合力米十五石、このあたりから諸役を勤め出世して加増、文政三年(1820)にはそれまでの擬作百石を地面(知行)に直されて、余田家を知行百石の家へ回復した。喜内は、文政十二年(1829)六十八歳で歿。これで、喜内の生没年(1762〜1829)が知れる。
 つまり、喜内は宝暦十二年(1762)生れである。もし松岡玄寿二男(寺尾孫之丞)である父が、夢世生前に養子になったとすれば、この父が少なくとも四、五十歳とき喜内は生まれたことになる。その点、やや不自然の難があるとみえるかもしれないが、かような遅い子もなきしもあらず、としておく。
 上述、宇土郡松山の寺尾家墓所には、「善正院釋誓也位」という銘のある墓石がある。命日は、「明和三[丙戌]天十一月十七日」とある。さらにまた、「旭正院釋尼妙躰」という銘のある墓石がある。命日は、「明和三[丙戌]天十二月十七日」である。
 前者が、夢世養子の「寺尾孫之丞」(松岡玄寿二男)の墓だとみれば、これが寺尾(余田)喜内の父の墓である。また後者を、その妻の墓だとすれば、これが喜内の母の墓である。彼らは明和三年(1766)に相次いで死去している。この年両親を失った喜内は五歳である。遺児は、寺尾本家の九郎左衛門に引き取られて養育された。――墓碑にある明和三年という頃合は妥当性があるので、そういうストーリーを描くことができるだろう。
 ちなみに、喜内を養育したという六代目寺尾九郎左衛門勝寿には嫡子があって、これが七代目の寺尾岩多、後に改め寺尾志馬勝徳である。先祖附によれば、この人は、文政二年(1819)五十四歳卒というから、生年は明和三年(1766)で、喜内より四歳年下、これが寺尾喜内と同世代の寺尾当主ということになる。
 しかし、喜内は余田家へ養子に出たのだが、しかし、知行千石の寺尾本家の九郎左衛門家から直接養子に出たのなら、軽士の余田家では釣合いが悪いということになろう。そこで、注目したいのは、余田家の先祖附には、喜内は寺尾市郎右衛門の弟と記すところである。とすれば、喜内は九郎左衛門家で養育され、それから次に親類の寺尾市郎左衛門の弟分となって、余田家へ養子に入ったことになり、以上の話とは少し違ってくる。
 この寺尾市郎右衛門家は、寺尾孫之丞・求馬助の叔父(父佐助の弟)市郎右衛門の系統である。市郎右衛門は加藤家臣の叔父・寺尾甚之允の養子になっていたが、加藤家改易で浪人していた。しかるに島原陣に兄佐助に従い浪人で参戦して功あり、寛永十六年(1639)に十人扶持で細川家に召抱えられた。寛文五年(1665)には新知二百石を給され、市郎右衛門家は細川家中にポジションを得た。
 四代目の市郎右衛門は嫡子が幼少のため、宝暦元年(1751)弟の寺尾平次に家督、ところが、この五代目の平次が、いかなることか、明和三年(1766)五月知行召上、しかし同年十二月、先祖の武功により、嫡子作次郎(後改市郎右衛門)に跡目を認められた。だが、本知回復ならず、わずかに六人扶持という処遇。おそらく、余田氏先祖附が、喜内を寺尾市郎右衛門弟とする、その市郎右衛門とはこの人であろう。落ち目になった市郎右衛門家を通じて養子に出るとなると、五人扶持で切米取りの余田家が相当というところだったのである。しかし、養子喜内は二十五歳で余田家を継いで、ようやく五十九歳の時、ついに余田家を知行百石の家に回復したのである。
 この喜内の孫が余田三右衛門である。この世代となると、もう幕末である。三右衛門は、嘉永三年(1850)父・平格が病死して、家督した。三右衛門は、剣術・居合・砲術・馬術そして文学と、諸芸術に秀でていた、と先祖附に特記している。そして文久三年(1863)には西洋式砲術と航海術を修行のため江戸表へ派遣された。以後それらを研究し、細川家中に近代的な軍事テクノロジーをもたらす一人となったところで、明治維新である。

 さて、以上の紆余曲折のプロセスをたどった検証結果からすれば、『武公伝』に、「夢世(孫之丞)は一代で、兵術を子孫に伝えなかった」とある記事は、どう評価しうるか。
 寺尾孫之丞は、宇土郡松山手永に居住しそこで卒去したが、孫之丞一代で終らず、その系統は存続した。孫之丞は、甥の佐五左衛門を養子にして、さらにその佐五左衛門は男子を得て、佐五左衛門勝宣。そして佐五左衛門勝宣の息子が「第二の夢世」である。この父子は同年に死去したが、第二の夢世は、松岡玄寿(元寿)二男を養子にして、「寺尾孫之丞」の名跡を継がせた。この「寺尾孫之丞」は牢人というから、おそらく兵術指南で活計したものであろう。そして、この「寺尾孫之丞」が明和三年(1766)卒去とすれば、十八世紀中期まで寺尾孫之丞の兵術の家は、宇土郡松山に存続していたのである。
 十八世紀の「寺尾孫之丞」には一男一女があった。彼が死んで、その遺児は寺尾本家に養育され、息子は寺尾喜内を名のり、寺尾市郎右衛門弟分として、余田寿三郎家へ養子に行った。かくして喜内が養子に出た段階で、寺尾孫之丞の家系はようやく断絶する。だが、それまで、少なくとも十八世紀後期までは、寺尾孫之丞の家は存続していたのである。
 このうち、寺尾孫之丞の道号「夢世」を襲名した「第二の夢世」、そして松岡玄寿(元寿)二男で、寺尾家に養子に入って名跡を継いだ「寺尾孫之丞」は、兵術の家を維持していた可能性があるとは、上述の通りである。
 したがって、「夢世(孫之丞)は一代で、兵術を子孫に伝えなかった」という『武公伝』の記事は、事実を伝えるものではない。八代と宇土は比較的近いのに、寺尾孫之丞の子孫に関する情報がなかったとは思えない。おそらく『武公伝』の橋津正脩は、宇土の寺尾孫之丞が甥の佐五左衛門を養子にして以後のこと、あるいは、松岡家から寺尾夢世の養子に入って、かの名跡を継いだ「寺尾孫之丞」のことを知っていたであろう。
 それゆえ、『武公伝』のこの記事は正脩によるものではなく、寺尾孫之丞の兵法の家は一代限り、と強調したかった者の記入であろう。これは後段の、「求馬助の子孫は今も連綿として続いている」という記述と対応する。ようするに、景英の改訂増補の手が入ったとみなしうる記述である。
 従来の武蔵研究の諸説は、「夢世(孫之丞)は一代で、兵術を子孫に伝えなかった」という『武公伝』の記事を鵜呑みにして語るのみで、寺尾孫之丞の裔を追跡するという作業を怠っていた。これに対し、我々の研究プロジェクトで得られた結果により、そうした僻説は矯正されざるをえないであろう。この点につき、諸氏の注意を喚起しておきたい。  Go Back

*【余田氏略系図】 

○余田四郎三郎―三右衛門―┐
 ┌―――――――――――┘
 └庄兵衛―嘉兵衛┐
 ┌―――――――┘
 └三右衛門―忍助―寿三郎┐
 ┌―――――――――――┘
 └喜内―平格―三右衛門


*【余田氏先祖附】
《八代目寺尾〔ママ〕喜内儀、寺尾市郎左衛門弟ニ而候。寿三郎養子ニ奉願置、病死ニ付、同年(天明6年)七月二十五歳ニ而名跡相續被仰付、御中小姓被召出、五人扶持被下置、落合勘兵衛組被召加、(中略)同(文政)三年九月、多年格別致精勤且御家舊家柄ニ被對、今迄下置候御擬作高百石、地面ニ被直下旨、以奉書申渡。(中略)同年(文政12年)六月六十八歳ニ而病死》

釋誓也 釋尼妙躰
左:釋誓也 右:釋尼妙躰

*【寺尾氏略系図】

○寺尾孫四郎 越前 ──┐
┌──────────┘
└孫四郎───────┐
┌――――――――――┘
├作左衛門

├佐助―――――──―┐
|┌―――――――――┘
|├喜内勝正 九郎左衛門 ―┐
||┌――――――――――┘
||├佐五左衛門 孫之丞為養子
|||
|||九郎左衛門
||└克清―勝貞┬勝宣――――┐
||      |      |
||      └喜内勝安  |
||        勝義為養子|
||┌――――――――――――┘
||└九郎左衛門勝寿―志馬勝徳
||
||      養子 勝正長男
|├孫之丞勝信=佐五左衛門勝秀┐
||┌――――――――――――┘
||└佐五左衛門勝宣―夢世―┐
||┌―――――――――――┘
|||松岡二男    勝寿養育後
||└=孫之丞―喜内 余田家養子
||
|└求馬助信行―佐助信形―┐
| ┌――――――――――┘
| └助左衛門勝春―佐助勝義┐
| ┌―――――――――――┘
| |養子 勝貞男 養子 津川氏男
| └=藤兵衛勝安=藤兵衛勝俊

├七兵衛

└市郎右衛門―平四郎―藤左衛門┐
  甚之允養子         |
┌――――――――――――――┘
├市郎右衛門―市郎右衛門 作次郎

└平次



肥後関係墓所地図


寺尾家墓所の山 宇土市松山町


寺尾家墓所
 
 (2)筑後殿、山名十左衛門殿
 ここは、寺尾孫之丞の「高弟」の列記である。すでに見た前出記事は、夢世(寺尾孫之丞)の弟子として、山本源介勝守、井上角兵衛正紹(素軒)、中山平右衛門正勝(箕軒)、提次兵衛永衛(一水)の四人を挙げていた。彼らは八代の長岡家臣で、直之近習もしくはその周辺にいた人物である。
 それに対し、こちらは寺尾孫之丞の「高弟」である。ここでいう「高弟」は、その顔ぶれをみるに、八代の四人組よりも先輩にあたる門弟というわけでもないらしい。
 まず、ここに「筑後殿」というのは、そのままでは不詳である。細川家中では他に「筑後」の例がないから、これは長岡筑後、つまり直之のことを指すと、見当をつけることができる。直之の職名は、式部、帯刀、佐渡、そして筑後である。したがって、これを直之とみなすのが従来の通例である。
 しかるに、これまで看過されてきた要件もある。というのも、直之を「筑後殿」とするのは、『武公伝』の記者が長岡家臣の豊田家の人間である以上、ただちに不都合であることが知れるはずなのに、そのことに注意した研究例がなかった。
 豊田正剛は直之に召出され直之晩年側で仕えたし、正脩は直之の子・寿之に半世紀以上も仕えた。そのように自分の主筋であるから、直之祖父・興長を「興長主」、直之父・寄之を「寄之主」する本書の事例で知れるように、これは「直之主」と記さねばならない。ところが、ここでは、他の細川家重臣の表記例のように「殿」つけで、しかも「筑後殿」なのである。
 したがって、ここから次の二つの可能性が想定されるであろう。
 一つは、この表記は『武公伝』の原文には本来なかったであろう、とみなすこと。もしこれが直之のことで、筑後名を用いるなら、たとえば「筑州公」と記すところである。したがってこれは、おそらくもとは「筑後公」、値引いても「筑後様」とあったはずである。それを写本段階で「筑後殿」と誤記してしまったというわけだが、これは少々安易な見方である。
 それゆえ、もう一つ別にありうるのは、反対に「筑後殿」の表記に有意性を認めること。すなわち、これは『武公伝』作者のものではなく、別の誰かの言説の引用文であろう。言い換えれば、直之を「筑後殿」と呼ぶのは、八代の長岡家臣以外の人物、熊本の細川家士もしくはその周辺の言説である。それをそのまま『武公伝』は引用したのである。
 とすれば、この言説の主は、豊田景英の師匠・村上八郎右衛門であろう。村上八郎右衛門なら、長岡家臣ではない。村上家は、父の平内正雄以来、細川家臣ではなく牢人しているが、村上八郎右衛門は兄・平内正勝と相役で熊本の時習館で兵法指南。『武公伝』の周辺で、長岡直之を「筑後殿」と呼ぶ者があるとすれば、この村上八郎右衛門である。
 したがって、『武公伝』のこの記事は、豊田景英が、師匠・村上八郎右衛門の文言をそのまま転記したものである。それは、「夢世(寺尾孫之丞)は一代で、兵術を子孫に伝えなかった」という先の記事が、実は村上派の伝説からきていることを示唆するであろう。
 それゆえ、『武公伝』には前に正脩による寺尾孫之丞門弟記事があるのに、それとは別に、同じ寺尾孫之丞の高弟に関する記事があるという奇妙な点も、その理由が知れよう。すなわち、山本源介・井上角兵衛・中山平右衛門・提次兵衛の四人を孫之丞弟子として挙げた記事は、正脩の『武公伝』にあった記事である。それに対し、こちらの記事は、話の出処が違っている。つまり、村上八郎右衛門の言説を、景英が引用してここに挿入したのである。
 しかし、そのお陰で、本来『武公伝』にはなかった情報が補足されたのである。すなわち、寺尾孫之丞の熊本における門弟らの名が、ここに伝わったのである。景英の増補改訂には余計な記事が多い中で、こうした例外もあるということである。

 「筑後殿」、つまり長岡直之(1638〜1692)は、長岡興長の孫、寄之の子にあたる。その直之が寺尾孫之丞の高弟だったという。その年齢からすれば、武蔵が死んだ年、直之は八歳であり、これは孫之丞から指南されるほかない。従来一部の説に、直之が武蔵から学び、それを寺尾孫之丞に伝えたという謬説があったが、それは年齢を照合すれば、その錯誤は歴然としている。
 直之の家督相続、八代入城は、二十九歳の寛文六年(1666)であり、元禄五年(1692)五十五歳で江戸で急死するまでの、二十六年間ほど長岡家当主の地位にあった。直之が寺尾孫之丞に学んだとすれば、それは熊本に居た時分で、二十代の頃であろう。
 この直之のことに関連して言えば、野田派伝書に「二天一流兵法書目註解」あり。これには豊田正剛が享保六年(1721)五十歳の時記した奥書がある。それによれば、――この一書は、わが筑州公(直之)が修学したところの剣術の真諦である。筑州公は壮年のころ、この術を、新免武蔵直弟・寺尾夢世(孫之丞)から伝えられた。本来は武翁(武蔵)が著して云う所の書であり、一巻合計三十九條有り、という。したがって、この兵法書とは三十九ヶ条の兵書のことである。そしてこれを潤色し、五巻に分けて、題して五輪書という云々とあるから、当時の解釈としては、三十九ヶ条兵書を増補展開して再編したのが五輪書なのである。
 そしていう、筑州公は自らこれを研究し、体・用・心(の三概念)をもって一種とした。まさにその本則は、武の起源に発出して来た。ゆえに剣術の将となる家門は明暁すべきなのである。筑州公はこれを勉強して、すでに長い年月がたっていた。そうしてついに奥義を了解し、その精微を極めたのは、かくのごとし云々。とすれば、豊田正剛が召出されたとき、直之はすでに長年にわたり、三十九ヶ条兵法書を研究してきていたのである。
 この注解書については、豊田正剛が書写させていただいたというが、じっさいは豊田正剛の作物で、権威づけのために直之の作物としたという可能性もある。それは承知しておいてよい。ただし、父の寄之が武蔵に学んだように、直之も寺尾孫之丞に学んだというのはありうることである。
 しかしながら、この注解書が豊田正剛による写しだとしても、奥書の話からその原本が直之の許にあったはずである。だが、それが長岡(松井)家に伝わったかというと、そうではない。またとくに、直之が寺尾孫之丞の高弟なら、当然五輪書相伝もあって、それが残っていそうなものだが、松井文庫にはそれがないようである。いづれにしても、直之が寺尾孫之丞の高弟だったことを示す兵法伝書は、直之側には現存しないことは念頭におくべきである。


*【武公伝】
《夢世ノ弟子、山本源介勝守[土水男。後ニ源左衛門ト云]、井上角兵衛正紹[一流傳授相済、寛文七天八月五輪書相傳。後、素軒ト云]、中山平右衛門正勝[後ニ箕軒ト云]、提次兵衛永衛[後ニ又左衛門ト云、改一水ト云]、此外餘多有レドモ此等ハ大抵傳授モアリシ由》




松井文庫蔵
長岡筑後(直之)





























*【長岡家略系図】

○康之┬興之
   │
   └興長=寄之┬直之┬寿之
         │  │
         └正之└祐之




*【二天一流兵法書目註解奥書】
《此一書、吾筑州公修ル処ノ劔術ノ真諦也。公壮年、此術ヲ新免武蔵直弟寺尾夢世ニ伝。モト武翁著シテ云所ノ書シニテ、一巻凡ソ三十有九條有リ。且之ヲ潤色シ、頒テ五巻ト爲シ、目シテ五輪書ト云。是釋シテ義ヲ取、地水火風空耳。公自ラ工夫ニ就キ、體用心ヲ以て一種ト爲ス。蓋シ其本則ハ、武翁ノ水源頭ニ発出シ来ル。夫劔術ノ将門明暁スベキ所以也。公之ヲ勉強シテ既ニ年有リ。而テ竟ニ融会シ、其精微ヲ極ムコト是ノ如シ。嘗テ僕ニ謂テ曰ク、「御学歐劔方須ク武蔵ノ術ヲ学ブベシ。此書當時近待ノ者ヲシテ之ヲ記セシム」。而問、「添削ハ公ノ自書スル所也。嗚呼今如其手澤ヲ得、亦是甚幸ニ非ズヤ」。仍テ謹テ録ス。
 享保辛丑孟秋中浣  豊田正剛
                 九拝 》
 寺尾孫之丞の高弟として、次に名があがっているのは、山名十左衛門である。この人は山名十左衛門重澄(1646〜1721)、『武公伝』前出記事では、連歌の会の記事で登場した長岡右馬助重政の孫である。
 山名十左衛門先祖の長岡伊賀守好重は、細川藤孝(幽斎)の実弟であり、家門は代々重職にあった。細川藤孝実家の三渕氏である。好重の子が長岡右馬助重政で、山名十左衛門の祖父である。父は三渕八郎左衛門之直、知行四千石。兄の弥三右衛門之政が、寛文四年(1664)家督相続したが、翌年死亡。そこで、二十歳の十左衛門が跡目を嗣いだ。のち加増されて知行五千石、家老職も勤めた人である。享保元年(1715)隠居して、号聴水。書の名人でもあったという。
 妻は長岡寄之の女・国(1653〜75)である。直之はこの妹をいったん自分の養女というかたちにして、山名十左衛門に嫁がせた。つまり、直之にとって十左衛門は妹聟である。むろん、前にも話に出たが、長岡寄之の妻は長岡右馬助重政の娘・古宇(1624〜1711)、つまり、直之の母だが、彼女は娘を実家の甥・十左衛門に嫁がせたのである。『武公伝』に、直之と山名十左衛門の名が並ぶのを見ただけではわからないが、この二人には実はこういう重代姻戚関係の背景があったのである。
 さて、この山名十左衛門は、前に堤次兵衛の関連で名が出たが、ようするに延宝元年(1673)の北関の決闘で有名な人物である。前川勘右衛門と藤田助之進が武士の意地で果し合い、そのとき山名十左衛門は、従弟の前川勘右衛門に加勢して、敵方が鉄砲を持出して発砲するのにもかかわらず、鑓で藤田助之進を仕留めたというので、それこそ後世に語り継がれる武功英雄なのである。その山名十左衛門が寺尾孫之丞の高弟だったというわけである。
 山名十左衛門の名を高からしめた、北関決闘のときは、十左衛門は二十八歳である。直之は三十六歳である。当事者の前川勘右衛門は山名十左衛門従弟というので、決闘事件後、直之は前面に出ていろいろ世話を焼いたらしいが、結局前川勘右衛門は、当事者としての責任を負って、臼杵で自害してしまった。
 さて山名十左衛門は寺尾孫之丞の高弟だということである。寺尾孫之丞の没年は寛文十二年(1672)で、十左衛門はそのとき二十七歳。したがって若すぎるということもなく、年齢からすれば高弟ということにも無理はない。寺尾孫之丞が死んだ翌年が延宝元年で、十左衛門は北関の決闘に加勢することになる。そういう前後関係もある。
 むろんこの決闘では、十左衛門の働きは、藤田助之進を鎗で突留めたとあるだけである。双方数十人の戦闘なので合戦に近い。鎗で突留めというのは通常の記述である。だから、読者が期待するような、寺尾孫之丞の高弟がこの決闘で武蔵流兵法を用いたという話はない。そもそも寺尾孫之丞にしろ、有馬原城戦のときは鎗を持って戦ったのである。
 直之の妹が山名十左衛門の妻という関係なので、山名十左衛門も直之の屋敷へ来て、寺尾孫之丞から教えを受けたことがあるかもしれない。山名十左衛門は直之の義弟ということで、これも長岡家中の八代では身近に感じる人物であったであろう。
 寺尾孫之丞は寛文七、八年(1667〜68)あたりに五輪書相伝事例がある。山名十左衛門のケースは、年齢からして、それより後の相伝だろう。これも長岡直之のケースと同じく、孫之丞高弟なら、当然五輪書相伝もあって、それが残っていそうなものだが、山名十左衛門宛五輪書というものは現存はしない。
 ともあれ、長岡直之と山名十左衛門、この二人は、細川家重臣という以上の、家老を勤めた人物。これを寺尾孫之丞高弟とするには、伝説要素が強い。しかし、これが八代ではなく熊本の伝説で、また必ずしも寺尾孫之丞の系統の伝説ではなく、求馬助系統の村上派の伝説だとすれば、一応の客観性はあろうと評定しておく。  Go Back


*【山名家関係略系図】

○藤孝―忠興┬忠利―光尚―綱利
      │
      └寄之
        ↓
  長岡興長=寄之
        ├┬直之―寿之
        ││
        |└ 国
      ┌古宇  ├=正之
 山名   │  ┌重澄
○好重―重政┤  │山名十左衛門
      │  │
      ├之直┴之政
      │
      └重則―重之
          前川勘右衛門


*【北関秘録】
《延寶癸丑七月廿三日筑後北關に於て肥後浪士前川勘右衛門重之、藤田助之進父子を討取、前川の従弟山名十郎左衛門重澄之を助力す。時に山名二十八、前川二十二、藤田助四十余、同縫殿之進十七歳なり。山名手疵一ヶ所、前川は不手負、山名家来鏡権平討死、其他手負八人[鉄炮]、前川家来西郷入道祐道[鉄炮]・一宮彌助[太刀]・西郷平十郎[太刀]・酒屋伊右衛門[太刀]討死、其他手負一名、前川正立寺に葬る》

*【堤氏先祖附】
《同(延宝)二[甲寅]年前川勘右衛門豊後臼杵ニ居被申候内、御使者被仰付、五月御当地出立仕、臼杵御城内ニも度々罷出、彼方御役人中ニも出会、入組候御用申談被仰付、暫逗留仕、夫より京都え罷登、勘右衛門殿住居の所柄等承合候様ニ被仰付、同年九月迄滞留仕候処、勘右衛門殿八月晦日臼杵ニて自害ニ付、早々罷下可申旨、且又信得院様御舎弟・野崎淡水様御下被成候ニ付、御供可仕旨被仰付、同年十月罷下申候》
 
 (3)浦上十兵衛、柴任三左衛門
 寺尾孫之丞高弟として、次に名があがっているのは、浦上十兵衛と柴任〔しばとう〕三左衛門である。この二人は、長岡筑後直之や山名十左衛門のような細川家家老という重役ではない。ここにこの両人の名が挙がっているのは、彼らが寺尾孫之丞初期の相伝者であるからである。
 浦上の親類は、九州であれば筑前や豊前にあり、そこでそれぞれ仕官するようになっていたようだが、この浦上十兵衛についていえば、肥後系史料である先祖附には、十兵衛祖父の浦上友心なる者からしか記載がなく、先祖は記されていない。ただし「浦上」を名のるからには、赤松家重臣の浦上氏末葉であろう。ちなみに云えば、浦上氏本地は、武蔵の生地・播州揖東郡宮本村の西、林田川対岸の浦上庄である。
 備前側資料の浦上家系図によれば、浦上十兵衛の出自はもっと分明になる。すなわち、浦上紀三郎則国―与三左衛門行国―与三太郎国宗―近江守国秀―右衛門尉国明―瀬兵衛―十兵衛という系譜である。浦上村宗、政宗・宗景という嫡流ではないが、傍系として浦上本家の老職にあったものらしい。
 浦上氏は戦国時代の下克上の效いに洩れず、主家赤松氏と対立し、備前を中心に備中・美作そして播磨西部において一時大きな独立勢力となった。しかし天正三年、備前天神山城の浦上宗景が宇喜多・明石ら老臣に攻められ播磨へ敗走するに及んで、この地域の浦上氏支配時代は終焉する。
 それゆえ、織田方の秀吉を大将とする中国攻めが始まる前に、浦上氏は没落していた。その係累末流は諸方に離散した。備前側の浦上家系図によれば、浦上国明は、《宗景没落後、漂泊シテ、細川越中守忠興ニ浪人分トシテ仕へ、法名禅可ト云》とある。この国明の子が瀬兵衛だということからすると、肥後の先祖附にいう浦上友心とはこの国明のことになるが、それではすこし年数が足りなさそうなので、国明と瀬兵衛の間にもう一代あって、それが友心という人であるような気もする。
 さて、肥後の浦上氏先祖附によれば、十兵衛祖父・浦上友心はその子浦上瀬兵衛とともに、細川忠興に召出された。時期は慶長十三年(1608)、場所は豊前である。浦上氏没落からそれまで数十年、この父子がいかなる運命をたどったか不明である。
 細川忠興に召出された浦上父子は、百石ずつ与えられた。寛永四年(1627)浦上友心が死去すると、浦上瀬兵衛は父の知行百石を与えられて、自分と合わせて都合二百石知行。細川家肥後移封後、寛永十年(1633)に加増百石で、都合三百石の家禄となった。





*【浦上氏略系図】

○浦上行景―広景―行宗―貞宗┐
 ┌――――――――――――┘
 ├則宗―宗助―村宗┬政宗
 |        |
 |        └宗景
 |
 └則国―行国―国宗―国秀┐
  ┌――――――――――┘
  └国明―瀬兵衛―十兵衛





浦上宗景居城 天神山城
岡山県和気町田土

 浦上瀬兵衛嫡子が、『武公伝』にいう浦上十兵衛である。無足の部屋住だったが、慶安二年(1649)召出され御使番、江戸へもたびたび行った。寛文六年(1666)父瀬兵衛が死去して、三百石の家督を相続した。長崎留守居役、御目附役など諸役を歴任し、現役のまま元禄八年(1695)死亡した。
 この浦上十兵衛の生年は、先祖附では不明である。何か手がかりはないか。ということで、これは次に名が挙がっている柴任三左衛門美矩と、浦上十兵衛の所縁をもって推測するしかない。
 後にみるように、柴任美矩の兄・本庄角兵衛は、浦上瀬兵衛の娘を妻にした。その女性は浦上十兵衛の姉妹であり、柴任美矩には兄嫁である。本庄家別冊家系譜によれば、柴任は大原勘右衛門の娘を妻にしたが、子がなかったので、兄・角兵衛妻の姪、浦上十兵衛の娘を養女としたという。とすれば、柴任は、浦上十兵衛の姻戚にあたり、また、十兵衛が娘を三左衛門の養女にやるなど、親交もあったと思われるのだが、年齢のことでいえば、柴任は浦上十兵衛とほぼ同世代であろう。
 そうすると、柴任美矩の生年が分かれば、浦上十兵衛の年齢もほぼ見当がつく。では、柴任三左衛門の生年は、といえば、前記本庄家別冊家系譜所収の柴任三左衛門書状によれば、宝永七年(1710)に「我等事當年八十二ニ成申候」とあるから、この年八十二歳。この記述によれば、柴任三左衛門の生年は、寛永六年(1629)となる。浦上十兵衛の方が少し年上かもしれないが、だいたいその頃の生れとみてよい。
 そうなると、武蔵が死んだとき、柴任美矩は十七歳、浦上十兵衛も同世代とみれば、彼らは武蔵その人を見ているだろうし、あるいは、武蔵門弟千人という噺を真に受けてみれば、若年ながらその数のうちに入って、教えに接したこともあるかもしれない。そういう世代である。
 これに対し、前出の長岡直之(筑後、1638〜1692)は、そのとき八歳の児童、また山名十左衛門(1646〜1721)はまだ生れていない。直之も山名十左衛門も、のちに寺尾孫之丞から教えを受けるしかないが、浦上十兵衛と柴任三左衛門の二人は、実物の武蔵を見た世代である。
 したがって、浦上十兵衛と柴任三左衛門は、むしろ寺尾求馬助(1621〜88)の世代に近く、求馬助の息子たちにとっては親の世代に近い。ちなみに云えば、武蔵没年には、寺尾求馬助は二十五歳、嫡男佐助の生年は把握していないが、三男藤次(1650〜1731)は未生、むろんそれ以下の弟らもまだ出生していない。一口に寺尾孫之丞・求馬助の弟子たちといっても、そういう年齢差があることは念頭におかれるべきである。
 さて、『武公伝』に浦上十兵衛が寺尾孫之丞高弟だとある以上、一流伝受して五輪書を相伝されたはずである。それを徴証しうる五輪書写本がある(島田美術館蔵)。これは風之巻のみで、他の諸巻がないが、慶安四年(1651)十一月五日の日付と、寺尾孫之丞勝政の記名花押がある。つまり、武蔵死後六年後に寺尾孫之丞が、浦上十兵衛に五輪書を相伝したということになる。むろんこれは原本ではなく、後世の写本でしかないが、とにかく、慶安四年の五輪書相伝ということで、これは現在までのところ、最早期の相伝である。
 あるいはまた、前に話題にしたように、寺尾孫之丞が浦上十兵衛に与えたという言い伝えの相伝証文の写しが、野田派伝書にある。それによれば、日付は上記と同じ慶安四年十一月五日付で、発行者名は「寺尾孫丞勝政」である。ただし問題は、この文書には浦上十兵衛という宛先がないことである。
 いま、これを読んでみるに、次のようなことを書いている。――右の地水火風空の五冊は、玄信公(武蔵)が、若年より兵法に心をよせ、数多い試合に勝ち、諸芸諸能の道を鍛錬し、六十余歳にしてこの書を書き、死の間際に予(寺尾孫之丞)に授けられたものである。このため、空之巻については、所存のほどを書きあらわされなかった。兵法の道に至っては、地水火風の四冊の巻を、一字一字文字通りに修行し、道理を得ては道理を離れ、格を用いては格を離れ、おのづから兵法を離れ、有にあらず無にあらず、真の道たるこそ、実相圓満兵法逝去不絶と記された碑文の心に達するであろう。空を言うに至っては、豁達して空である。絶学無爲の境位であろう。右に記したように、玄信公(武蔵)が死の間際になって撰された書であるから、天下にこの書を得たる人は私以外にいない。しかるに、貴殿の執心により、いま書写して伝授せしめるのである。いよいよ朝に夕に鍛錬して、兵法の真実の道に達し、伝えの道においては、極まって極まらざる所を用い、望む者があれば、おのづから真の道に至るように、相伝なさってよろしい。
 ――というわけで、これは五輪書伝授を明記する文書であるとともに、自分の判断で弟子に五輪書を伝授してよいという免許状なのである。だが、残念ながら宛先はないので、これが浦上十兵衛宛のものであったか不明である。
 五輪書写本には種々異本があるが、島田美術館所蔵の風之巻のみの五輪書写本は、日付がこの相伝証書と同じ慶安四年十一月五日付である。とすれば、浦上十兵衛が伝授された五輪書を写した書写の片割れが流伝して残ったのかもしれない。
 しかしながら、この文書の中身が、楠家本五輪書添付の奥書(槇嶋甚介宛、寛文八年)とほぼ同文なのも、気になるところである。というのも、そうなると、寛文八年前後の証文が、この浦上十兵衛宛と伝えられる証文に流用され、日付を替えて捏造された可能性があるからである。流末伝書にはそうした後世の製作物とみえるものが少なくない。
 それにまた、既述のように、この文書の記名が「寺尾孫丞勝政」とあるのも疑義のあるところである。寺尾孫之丞の兄、本家の寺尾喜内(九郎左衛門)の諱は「勝正」である。兄弟間でこうした同音類字の名をつけるわけがないから、この文書の署名には問題がある。却って言えば、この「勝政」なる記名は、この文書が後世の偽書たるを示すものではないか。
 以上のように問題が残るが、現時点では、島田美術館所蔵の五輪書写本にある、慶安四年十一月五日という日付の有意性を認め、浦上十兵衛は、慶安四年に寺尾孫之丞から一流相伝、五輪書を伝授されたみておくことにする。とすれば、現存資料によるかぎりにおいて、孫之丞門弟の中では、浦上十兵衛が最も早く一流相伝をうけた、ということになろう。



*【浦上柴任関係図】

○浦上友心―┐
 ┌――――┘
 └瀬兵衛┬十兵衛┬瀬兵衛
     |   |
     |   ├源左衛門
     |   | 石川家へ養子
     |   |
     └─女 └女 柴任養女
       │      │
○本庄喜助┬本庄角兵衛   ↓
     |
     └柴任三左衛門=養女



*【本庄家別冊家系譜】
《其後[年月不分明]、大和郡山太守本多内記殿ニ被召出、食禄賜四百石。同家中大原勘右ヱ門女ヲ嬰ル。無子ヨツテ兄正薫妻ノ姪、浦上十兵ヱ女ヲ養女トシ、彼地ニ連越居住ノトコロニ、其女無程病死》
《裏ニ (柴書状)
猶追而申入候。我等事當年八十二ニ成申候。具足肩ニ掛歩行成不申、道一丁共歩不申候ニ付、此器量之具足、存命之内ニ、其許江譲リ申候》























寺尾孫丞勝政相伝証文写

*【寺尾孫丞勝政相伝証文写】
《右地水火風空之五冊は、玄信公若年より兵法に心をよせ、数度之しあひニ勝利を得、諸藝諸能之道鍛錬し、六十有余にして此書を書し、末後ニ及、予にさづけらるゝ書籍也。然によつて空之巻は所存之程書顕されず、兵法之道ニ至てハ地水火風之四冊の巻を一字一字執行し、道理を得てハ道理を離れ、格を用ゐてハ格を離れ、おのづから兵法をはなれ、有にあらず無にあらず、真の道たるこそ、実相圓満兵法逝去不絶碑文之心に達すべし。空をいふに至てハ豁達して空也。絶学無爲之所なるべし。右に顕す如く末後におよびて撰書たるニよつて、天下に此書を得たる人なし。然に貴殿依執心、今書写令所伝授也。弥朝鍛夕錬して兵法誠之道に達し、伝之道におゐてハ極まつて極まらざる所を用ひ、望のやから於有之ハ、おのづから真の道に至る様ニ可被相伝者也。
   慶安四年十一月五日
       寺尾孫丞勝政 [花押]》
 最後に名があがっているのは、柴任〔しばとう〕三左衛門である。これは柴任三左衛門美矩(1629〜1710)、のち重矩、あるいは隠居出家して号固学道隨。すでに本サイトの[武蔵伝記集]『丹治峯均筆記』読解研究に含まれる柴美矩のページに解説されているので、詳細はそちらをご覧いただくとして、ここでは、以下のことを述べておく。
 すでにみたように、浦上瀬兵衛の娘が本庄角兵衛に嫁した。その本庄角兵衛の弟が、この柴任美矩である。この兄弟の父は、本庄喜助という。
 本庄喜助は生国丹後、本名は岡山氏。本庄久右衛門に養育され、細川忠興が丹後から豊前へ国替えのおり、本庄久右衛門に連れられて豊前へやってきた。細川忠利が部屋住嫡子で中津に居たころ、久右衛門は忠利御部屋付となっていた。あるとき、狼藉者があって、筑前へ立退くところを、喜助が逮捕したことがあり、その武勇を忠利が聞いて、本庄久右衛門に他へやるなと命じ、その後、五人扶持十五石を支給して本庄姓を名のらせたという。武蔵が肥後に滞在するようになった翌年、寛永十八年(1641)三月十七日に細川忠利は死去、殉死者十九人。その殉死者の中に、本庄喜助がいたのである。
 それより前、本庄喜助の嫡子・角兵衛は部屋住みであったところを、十六歳のとき召出され、翌年には新知百五十石。島原役のさいには、忠利に従って江戸から急遽帰り、戦地へ出陣した。帰陣後、角兵衛は軍法違反を問われたという。実はこのあたり、首を傾げるところである。その後角兵衛が百五十石の知行を没収されたとも、減知されたとも、処分の記事はない。そうすると、どうやら軍法違反の件は、本庄を「柴住」に改姓したのはなぜか、その所以が不明になってしまった後代に生じた解釈伝説らしい。
 この本庄角兵衛の弟が『武公伝』の柴任三左衛門である。兄の角兵衛が新知を得たので、二男の三左衛門が家督相続したものらしい。「先祖之景圖」は、三左衛門について短い記事を記す。道隨重矩と号す、喜助二男とある。また、「離国ス」とあって、その下に、――後に助左衛門と改めた、後年、播州明石領中ノ庄に卒す、子孫なし、戒名一鑑道隨、とあって、詳細は別冊家系譜にあり、と記されている。この「別冊家系譜」に三左衛門の記事がある、ということなのである。
 この本庄家別冊家系譜について柴任三左衛門に関する記事がある。すでに『丹治峯均筆記』の当該ページで分析が公表されているが、別冊家系譜の記事は後世の子孫が書いたもので、その内容には疑問とすべきところが多い。むしろ、柴任美矩から直接話を聞いた立花峯均の『丹治峯均筆記』の方に依るべき記事は多い。別冊家系譜の資料的価値は、その本文にあるのではなく、これに付録された宝永七年の柴任書状や宛行状などの文書にある。それゆえ、以下は『丹治峯均筆記』を中心に見ていくことにする。

 柴任三左衛門美矩は、筑前二天流三祖である。二祖寺尾孫之丞信正から柴任三左衛門美矩へ当流を伝授した。『峯均筆記』特有の興味深い記事がある。柴任は、《勝レタル大男ニテ、容儀弁舌双ビナキ恰好也》――つまり、体格も大男なら、容儀は堂々たるもので弁舌も達者、まことに威風あたりを払う偉丈夫、ようするに、派手で押し出しの強い人だったようである。このあたりは『峯均筆記』の独壇場で、肥後系伝記にはない情報であり、むろん本庄家の家譜資料にもない記事である。
 さて『峯均筆記』には、この当流兵法三祖・柴任美矩は、寺尾孫之丞信正に隨仕し、夜昼修練して七年、成就して、承応二年(1653)十月二日、一流を相伝した、とある。隨仕した、とあるからには、寺尾孫之丞とともに修行生活をしていたわけで、仕官の身のままではできない。それが承応二年まで七年間というから、武蔵が死んだ翌年の正保三年(1646)以来ということになる。
 寺尾孫之丞は柴任に一流相伝した。それは承応二年(1653)十月二日、と日付が具体的である。立花峯均は自分の相伝五輪書を保持していたのだから、そこに寺尾→柴任の相伝証文があり、それを見てこう書いたはずである。すなわち、空之巻奥書にある寺尾孫之丞相伝証文の日付が、まさしく承応二年十月二日なのである。
 この相伝証文を読めば、――伝授せしめる地水火風空の五卷は、~免玄信公(武蔵)が、予(寺尾孫之丞)に相伝されたのを書写して進呈するものです。中でも空之卷は、玄信公が永々の病気であったので、所存のほどは明らかにされませんでした。しかしながら、(地水火風)四冊の書の理は明らかに得道しまして、道理を離れますれば、おのづから空の道にかなうのです。私などが多年工夫いたしましたところも、道理を得ては道理を離れ、おのづから無爲の境位に到りました。ただ兵法はおのづからの道にまかせ、静かなるところ、動かざるところに自然と行いなして、豁達して空である。実相圓満兵法逝去不絶、これは玄信公が(小倉の)碑名に顕しおかれたものである。よくよく兵の法を鍛錬なさるように。以上。――というわけで、楠家本五輪書に添付のものより、内容はシンプルかつ明解である。
 柴任美矩は寺尾孫之丞から一流相伝をうけて、肥後を離国する。以後諸国に仕官浪人を繰り返して、立花峯均が会って教えを受けた折には、播州明石に居住していた。
 『丹治峯均筆記』によれば、柴任は肥後を離国してまず豊前小倉へ出たらしい。小倉には浦上十兵衛の親戚、島村十左衛門がいて、それを頼って行ったのである。島村十左衛門は、肥後熊本からやってきて、武蔵流兵法三代だと大口をたたく、この柴任三左衛門をテストしてみた。出入りの兵法者と試合させるのだが、腕が大したものでなければ、「悪いことはいわないから、熊本へ帰れ」と言ってやるつもりだった。ところが、柴任三左衛門は圧勝したので、島村十左衛門は、この青年を江戸へ行かせることにした。
 江戸へ出た柴任は、「旗本の左近殿」の推挙で、兵法者として成功する。旗本から陪臣にまで、大ぜい門弟ができたという。このころ、明暦元年(1655)に黒田家家臣の吉田実連が入門している。しかし明暦の大火があって、柴任は江戸を立退いたらしい。
 その後、島村十左衛門から、立花峯均の父・平左衛門重種(1626〜1702)へ話があり、福岡の黒田家で柴任を召抱えようという話になった。立花平左衛門は当時三十代はじめで、知行七千石(のち一万五百石)、もともと忠之代に出世して新参ながら家老になった人物である。島村十左衛門は立花平左衛門とは旧知の間であろう。島村十左衛門が福岡の立花平左衛門に話を持ち込み、平左衛門が斡旋役を引き受けたのである。
 本庄家別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写があって、それによれば、黒田光之(1628〜1707)から知行三百石、日付が万治三年(1660)八月二十一日である。ところが、四年ほどして、柴任は黒田家を致仕してしまう。『丹治峯均筆記』によれば、この柴任が御暇を下されたというのである。そのわけが面白い。《風俗等ハデニ相見ヘ、光之公ノ御意ニ不入》――柴任の身なり服装などが派手な外見で、主君・黒田光之の気に入らなかった、というわけである。
 柴任は黒田家を致仕して、いったん江戸に出たが、その後、大和郡山の本多内記政勝(1614〜1671)に召抱えられた。今度は知行四百石である。この本多家は、播州にあったころ、武蔵と所縁があった大名家である。柴任は大和郡山に居着いて結婚もした。妻は本多家譜代の大原氏の娘である。しかし無子だったので、浦上十兵衛の娘を養女にした。が、彼女は間もなく死亡した。そこで、妻大原氏の姪を養女にして、橋本七郎兵衛と結婚させた。
 その後、本多政勝が死に、家督をめぐって内訌があったが、柴任は政勝子の出雲守政利(1641〜1707)に再仕した。本多政利はその後播州明石へ転封になり、柴任一家も明石へ移った。延宝八年(1680)柴任は、明石へやって来た筑前の長年の弟子、吉田太郎衛門実連に一流相伝した。
 そのときの相伝証文が、吉田家本五輪書空之巻奥書にあって、それが柴任の文章としては現存する唯一のものである。それをよめば、こうある。――武州(武蔵)は、当流の究極の兵書五巻を、寺尾(孫之丞)信正に伝え、私はこれを受けついで、(武州以来)三代の兵法を継ぐといえども、いまだ武州の心(真意)を得ることができない。しかれども、貴殿はこの道に志あって、二十六年の間たえず修行してきた。不相応にも私が受けついだところ、当流の一通りを伝授する。五巻の書を残らず相伝するものである。兵法においてろく(陸・平衡不偏)というのは中立の位であり、しずかなること、岩のごとくなって、敵に当ること、これが直通である。敵(の後手)につくことなかれ。敵をここに捕まえて、剣を踏むのである。――相伝証文という形式的文書ながら、柴任美矩という人物の一端が窺い知れる興味深い文書である。
 明石で住んでいた柴任美矩だが、一つ事件が起きる。妻の甥・大原惣右衛門が無嗣子で死んだので、大原家は断絶ということになったのである。柴任は大原家存続を再三嘆願したが、聞き入れられないのに怒り、自身が本多家を致仕して浪人してしまう。
 他方、旧主・本多政利は不行跡あって、天和二年(1682年)改易処分となる。すると、大原家家督問題が出来したのは明石においてであり、柴任が本多家を致仕した時期は、延宝八年(吉田実連への相伝)以後であり、また天和二年(本多政利改易)以前のことであろう。
 それから柴任三左衛門は、もう一度だけ仕官する。こんどは播州姫路城主・本多中務太輔忠国に召抱えられた。本庄家別冊家系譜所収の宛行状(折紙)写によれば、貞享四年(1687)のことで、知行五百石である。
 この時期、柴任は播州龍野の円明流にも関わったようで、多田源左衛門祐久が柴任から相伝をうけている。龍野の多田円明流は、「兵道鏡」や落合忠右衛門宛宮本武蔵守義軽名印可状など、その真贋は別にして、初期の武蔵に関わる見なされる史料を残した門流である。これに柴任が一時関わったということは銘記されてよい。
 やがて柴任美矩は、姫路本多家も致仕する。その原因は、本多家家中の内紛に関わるもののようであるが、いづれにしても委細不明である。そうして、柴任は姫路から明石へもどり、隠居して道隨と号し、余生を過ごす。
 『丹治峯均筆記』の筆者・立花峯均は、そのころ吉田実連に学んでいたが、吉田実連が病気ゆえ指導も行き届かぬので、自身の師匠である柴任道隨に、立花峯均への指南をゆだねた。立花峯均は江戸への往還の途中、明石に立ち寄り、柴任道隨から指導をうけた。道隨の居宅は、明石の水主町のはずれにあって、海辺から近いところにあったと峯均は記している。明石海峡を望む風光明媚な海辺にあったのである。この播州時代の柴任については、[サイト篇]明石をはじめ龍野・姫路のページをに詳しいので、それを参照されたい。
 元禄十六年(1703)に明石の柴任宅を再訪したときは、柴任道隨は七十五歳になっていた。そのとき立花峯均は柴任から「直通伝授」を受けた。そして、九州へ帰って、五月二十八日、吉田実連から五輪書空之巻を伝授され、三箇之大事を再授して、一流成就した、という。これは、吉田家本あるいは越後松井家本の五輪書空之巻の相伝証文において、交付年月日とともに確認しうる。
 本庄家別冊家系譜によれば、宝永七年(1710)八十二歳の柴任道隨は、故郷熊本の甥(正しくは甥の子)本庄喜助に甲冑その他道具や宛行状等文書を遺贈した。同年閏八月、明石で柴任道隨は死去した。故郷を出ておよそ半世紀後である。おそらく寺尾孫之丞の弟子の中でも、柴任美矩はもっとも出色の人物であっただろう。
 柴任美矩については、以上のように他に比して解説がやや詳しくなったが、これもその門流が筑前福岡に存続し、しかも立花峯均のような人物が彼のことを書き残したこともあって情報が多いからである。
 それだけではなく、寺尾孫之丞相伝のうち、現在までのところ最も明らかな相伝者である。というのも、他の諸写本よりも確かな筋目を有する筑前系の空之巻付属文書において、その前後伝系が知れるのである。
 ここで『武公伝』にもどれば、この柴任三左衛門も寺尾孫之丞の高弟だとする。これは、柴任が、寺尾孫之丞初期門弟で、早期に一流相伝をうけたからであろう。
 既述のごとく、浦上十兵衛が慶安四年(1651)に相伝だとすれば、柴任の相伝は承応二年(1653)であり、現存史料によるかぎりにおいて、浦上十兵衛に次いで第二番目の相伝者だったということになる。  Go Back




*【先祖之景圖】
《○本庄喜助重正
生国丹後之国ニ而本名ヲ岡山と云、本庄久右衛門育置申候。三斎様従丹後豊前江被遊御入候砌、久右衛門一同ニ豊前江罷越申候。喜助最前之名字ハ岡山と申候。久右衛門儀、妙解院様御部屋ニ被成御付、中津江居申侯節、狼籍者有之、筑前江出退可申と仕折節、喜助參掛、右之者を捕申候。此段、妙解院様達御耳、喜助を脇江遣申間敷旨久右衛門ニ被仰附、其後五人扶持拾五石被下置、本庄と名字を改可申旨被仰出、御奉公相勤居申侯。(中略)右喜助儀、寛永十八年三月十七日妙解院様被遊御逝去候ニ付、御供申上度段奉願候処、願之通被仰付旨、従江戸申參、四月廿六日殉死仕候事。
寛永十八年四月廿六日艮殉死仕候事。
  妙解寺君廟之側 側菴全身居士 》



細川家霊廟 忠利殉死者墓碑群
写真右から2つめが本庄喜介墓
北岡自然公園 熊本市横手2丁目






*【丹治峯均筆記】
《同三祖、柴任三左衛門美矩ハ、細川家ノ家臣・本條角兵衛ガ弟也。寺尾信正ヨリ傳授ス。勝レタル大男ニテ、容儀弁舌双ビナキ恰好也。信正ニ隨仕、夜白修練シテ七ヶ年ニ成就シ、承應二癸巳年十月二日一流相傳有》


九州大学蔵
寺尾孫之丞相伝証文 部分
吉田家本五輪書


*【寺尾孫之丞相伝証文】
《令傳受地水火風空之五卷、~免玄信公、予に相傳之所、うつし進之候。就中、空之卷ハ、玄信公永々の病氣に付テ、所存之程あらはされず候。然ども、四冊之書の理、あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に至候。只兵法は、おのづからの道にまかせ、しづか成所、うごかざる所に、自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶。是は、玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を、可有鍛錬也。以上
  承應二年十月二日 寺尾孫丞信正
                   在判》




*【丹治峯均筆記】
《其後、十左衛門ヨリ愚父黒田平左衛門重種ヘ物語、光之公ヘ重種申上、可被召抱旨ニテ一式重種取持ニテ、三百石被下御小姓組ニ召仕ハル。重種ヲ初メ家人ドモ大勢門弟ニナリ、日々柴任入來稽古アリ。其外諸士倍〔陪〕臣ニカケ数多ノ門人也。御家ニテハ三左衛門ト改ム。三左衛門、御暇被下サレシ趣ハ、風俗等ハデニ相見ヘ、光之公ノ御意ニ不入、御小姓組ヨリ御馬廻組ニ被差加。サラバ、御意ニ不叶ト致料簡、御暇之事申出ル。重種ヨリ、家頼森八郎右衛門ヲ差越、サマザマ申留トイヘ共、「御譜代ノ衆トハ違ヒ、新参者、御意ニ不叶處ニ長居可致様無之。其上、御暇ノ儀發言イタシ、其詞ヲヒルガエシ可申ヤウ曽而無之」トテ、シ井テ御暇ノ事申出、御國ヲ立去ル》




大和郡山城址
奈良県大和郡山市城内町



*【柴任美矩→吉田実連 相伝証文】
《武州一流至極之兵書五巻、寺尾信正ニ傳、我是ヲ請テ、三代之兵法ヲ次と云とも、未武州之心ヲ不得。然共、貴殿此道ニ志有テ、二十六年之間執行不絶。いやしくも我請ル所、一流一通令傳受可申、五巻ノ書不殘相渡也。於兵法ろくと云ハ、中立之位、しづか成事岩尾のごとく成テ、敵に發事、直通也。敵ニつく事なかれ。敵を爰に取テ、劔ヲ踏者也。
             柴任三左衛門
延寶八年申四月廿二日 美矩[花押印]
        吉田太郎右衛門殿 》


*【本多家略系図】

 ○本多忠勝┐
  ┌―――┘
  ├忠政┬忠刻
  |  |
  |  ├政朝―政長=忠国→
  |  |
  |  └忠義―忠平
  |
  └忠朝─政勝政利



姫路城

*【丹治峯均筆記】
《コレヨリ前、實連病差出、年ヲ追テ氣力衰ヘ傳授成ガタキユヘ、柴任方ヘ實連ヨリ其趣ヲ達ス。道隨モ前々年予ガ兵法一覧アリシユヘ、点頭シ、明石ニテ傳授可有旨、元禄十六年ノ春、東府ヘ申来ル。同四月御入國ノ刻、大坂ニテ御用等相仕廻、明石ヘノ御暇申上、此節ハ、同所ヨリ小舩ニテ、直ニ明石ヘ着岸ス。道隨居宅、明石ノ水主町ノハヅレニテ、海辺ヨリ程近シ。(中略)御座舩明石ノ沖御通舩ノ節、乘移ル。下著長崎御供相仕廻、五月廿八日、實連ヨリ空之巻被相渡、三ケ之大事ヲ再授シテ、一流成就セリ》



柴任三左衛門関係地図
新免武蔵守玄信 ―┐
 ┌――――――――┘
 ├寺尾孫之丞信正┬浦上十兵衛   ┌多田源左衛門祐久―→多田円明流
 │       │        │
 │       ├柴任三左衛門美矩┴吉田太郎右衛門実連┐筑前二天流
 │       │         ┌――――――――┘
 │       │         │立花系
 │       ├山本源左衛門勝秀 ├立花専太夫峯均┬立花権右衛門勇勝       ┌立花平左衛門増昆
 │       │         │       │               │
 │       ├井上角兵衛正紹  │       ├立花弥兵衛増寿┬立花弥兵衛種貫┴立花弥兵衛種純→立花派
 │       │         │       │       │
 │       ├中山平右衛門正勝 │       └桐山作兵衛丹英└丹羽五兵衛信英―→越後二天流
 │       │         │早川系                        渡部八右衛門信行
 │       ├槇嶋甚介     └早川瀬兵衛実寛―月成八郎左衛門実久┬月成彦之進実誠  赤見俊平有久他
 │       │                           │
 │       └提次兵衛永衛―橋津彦兵衛正脩             └大塚作太夫重寧―大塚初平藤郷→大塚派
 │
 └寺尾求馬助信行┬寺尾藤次玄高┬志方半兵衛之経―志方半七之郷―新免弁之助玄直―志方弥左衛門之唯→寺尾派・山尾派
         │      │
         ├新免弁助信盛┼村上平内正雄┬村上平内正勝┬村上平内正則→村上派正勝系
         │      │      │      │
         │      │      │      └長尾権五郎徒山―高田十兵衛→長尾派
         │      │      │
         ├寺尾加賀助 │      └村上八郎右衛門正之┬村上大右衛門正保―村上貞助→村上派正之系
         │      │                U
         │      └寺尾助左衛門――太田左平次泉露―┴野田一渓種信―野田三郎兵衛種勝→野田派
         │
         ├寺尾郷右衛門勝行―吉田如雪正弘―山東彦左衛門清秀―山東半兵衛清明―山東新十郎清武→山東派
         │
         └道家平蔵宗成―豊田又四郎正剛
 
 (4)求馬子孫ハ于今連綿アリ
 寺尾求馬助の子孫は今も連綿として続いている、という。これは、前に、《夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳》、つまり、孫之丞は一代で終り、兵術を子孫に伝えなかった、という記述と対照的な構図を示す一文である。孫之丞はの方は一代で終ったが、これに対し、寺尾求馬助の子孫は今も連綿として続いている、というわけである。
 これは先に求馬助の息子たちに関する記事があって、その解説と重複するところだが、上掲の肥後武蔵流兵法系統図を参照しつつ、以下を読んでいただきたい。
 再度繰りかえせば、嫡子は佐助信形で父求馬助の三百石の家督を嗣いだ。佐助が兵法に無縁だったかというと、そうではない。求馬助はこの佐助に師伝の書(三十九ヶ条兵書)を授けた。寛文六年(1666)中秋中旬の日付がある。求馬助四十六歳の時である。この嫡子・佐助信形以外の息子たちには、こういう文書が残っていない。この寛文六年ころ、求馬助は嫡男佐助に、兵法の家も嗣がせようとしたのかもしれない。求馬助四男の弁助(後新免 1766〜1701)は、この年ようやく生れたばかりである。
 寺尾佐助の子が助左衛門勝春、叔父の新免弁助に武蔵流兵法を学んだ。この助左衛門(愚一)の弟子が太田泉露(左平次)、そして太田泉露に学んだのが野田一渓である。一渓は村上八郎右衛門に学んでいたから、これは重伝である。野田一渓からいわゆる野田派が派生する。したがって、寺尾佐助→新免弁助→助左衛門という筋目は、求馬助門葉として無視できない。
 次に求馬助二男は寺尾新助信景(1648〜76)、別禄二百石で召出され、新知を得たものらしい。しかし、新助は延宝四年(1676)死亡、これは無嗣で断絶したようだ。そのため、この『武公伝』の記事では、三男新助が見落とされ、「寺尾求馬信行子息五人」ということになっているというのは、すでに見た通りである。
 求馬助三男は寺尾藤次玄高(1650〜1731)である。のちに、老年ながら細川宣紀に召出されて兵法師範となった。それまでは、この門流には長い冬の時代があった。それをもちこたえたのが藤次だが、その嫡子が志方家へ養子に出て、志方半兵衛之経。のちに寺尾派の中心を担うことになる。既述のごとく、この重要人物が『武公伝』で無視されているのは、奇怪というほかない。
 ちなみに志方氏先祖附によれば、志方半兵衛は志方半七の養子になり、宝永五年(1708)家督三百石を相続した。それまでは、叔父の新免弁助に学び、弁助死後は実父藤次から再伝を受けた。志方家相続の後、長く仕官奉公、奉行役等諸役歴任して、老年になった寛延二年(1749)に剣術師役。つまり志方半兵衛は、学校・時習館設置以前に、志方半兵衛は兵法師範になっていたのである。そうして時習館が設置されると、村上平内正勝とともに、武蔵流兵法師役になった。しかるに時をおかず、宝暦六年(1756)老病のため隠居、同年死亡した。
 繰り返せば、時習館で師役を勤めたとなると、志方半兵衛は肥後における武蔵流兵法の当時代表者の一人である。少なくともそのように世間から目されていたということである。したがって、『武公伝』にその記事がないのは、故意に無視したとしか言いようがない。
 四男が弁助信盛、後に新免と改める。兵法師範、役料十人扶持二十石。この新免弁助(1766〜1701)が、求馬助の実質的な後継者で、弁助から志方半兵衛らの寺尾派、あるいは村上平内正雄以下の村上派が派生する、というのが村上派・寺尾派のストーリーである。
 この弁助が新免氏を名のるのは、父求馬助の意向で、武蔵の新免家を嗣がせたのである。武蔵の兵法家は、新免無二から嗣いだ新免氏である。新免弁助は武蔵の兵法家新免氏を継いだから、武蔵流兵法二代目である。実際は、弁助が生れる前に武蔵は死んでいるから、武蔵に学ぶことはできないのだが、武蔵の新免氏を継いだということで、二代目として勘定する。新免弁助位牌背面文によれば、志方半兵衛は弁助五十回忌に、その位牌を作った。ようするに、新免弁助の衣鉢を嗣ぐのは、志方半兵衛だということである。
 そうして五男が加賀助。新組に召出され、後に御暇となったとある。寺尾家系図によれば、これは加賀助勝明、初名忠四郎、御中小姓に召出され、江戸御供役。後に事情があって扶持を返上し離国したとある。何か事情があったということだが、先祖附によるかぎり、その後は不明である。
 さて最後に、六男が寺尾郷右衛門勝行(1673〜1747)。兵法師範を仰付けられ、役料五人扶持十五石である。この郷右衛門の弟子が吉田如雪で、さらにその門下から山東彦左衛門が出て、この系統は山東派を形成することになる。
 早世した新助と、扶持を返上して離国したという加賀助、この二人を除いて、四人の息子たちの道統はいづれも、後に肥後における武蔵流諸派を形成する。しかし、それは寺尾家の子孫が兵法師範として存続したということではない。
 右掲の寺尾求馬助流系統図に明らかなように、十八世紀中期以後、それぞれに人材を輩出して、村上派・野田派・山東派など諸派派生して隆盛することになる。それに対し、寺尾求馬助子孫で兵法家として存続したのは、志方半兵衛の系統のみである。したがって、『武公伝』に、孫之丞は一代で子孫兵法を伝えず、これに対し、求馬助の子孫は今も連綿として続いているというのは、いささか誤解を生じる記事ではある。
 『武公伝』の文は、寺尾孫之丞は一代限りだが、求馬助の子孫は今も存続しているという対照的記述である。これは正脩の『武公伝』にはなかった記述であり、それを――つまり、寺尾孫之丞の兵法の家は一代限りなのに対し、求馬助の子孫は今も連綿として続いている、と強調したい者の作文である。
 では、求馬助の子孫は今も連綿として続いている、と記すこの記事の「今」とは、いつのことか。おそらく、《求馬子孫ハ于今連綿アリ》と記すポジションは、求馬助の子孫数代を経過した世代の話である。とすれば、十八世紀後期のことで、つまりは、豊田景英の時代である。
 それは、下に示す寺尾氏諸家と豊田氏の平行系図に整理されているごとくであるが、他方で、既述のように、十八世紀の「寺尾孫之丞」が存在し、しかも彼が明和三年(1766)歿だとすれば、明らかに豊田景英と同時代の人なのであった。その存在が、景英の『武公伝』では視野から疎外されているというのは、これまた奇怪事と言わなければならない。
 父の正脩が隠居して景英が家督相続したのは、明和元年(1764)、景英は二十五歳である。改めて寺尾氏諸家の動向をみるに、本家の寺尾九郎左衛門家では、宝暦六年(1756)に勝寿が家督相続、また求馬助系統では、本家から養子に入った孫十郎(勝宣弟)が、宝暦十二年(1762)に家督相続して、後に藤兵衛勝安。
 そうして、「寺尾孫之丞」の息子(喜内)が生まれたのは、同じ宝暦十二年(1762)である。明和三年(1766)に「寺尾孫之丞」が死んで、息子は寺尾本家に引きとられ養育された。この子が喜内の名を与えられたのは、前に喜内を名のっていた勝安が、求馬助系統へ養子に出て、そこで喜内の名跡の空席があったというわけであろう。かくして、「寺尾孫之丞」の息子は、本家九郎左衛門家先祖・勝正ゆかりの喜内を襲名したのである。
 それやこれや、とにかく、寺尾孫之丞の家系は、まだこの段階では存続していたのである。従来武蔵研究において看過されていたことであるが、いまや確認しておくべきは、まさにこのことである。  Go Back




*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助 勝永 ─┐
 ┌───────┘
 ├喜内 勝正 後九郎左衛門
 |
 ├孫之丞 信正 勝信 号夢世
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛─┐
 ┌───────────┘
 ├佐助 信形 ―助左衛門 勝春
 |
 ├新助 信景
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 ├藤次 玄高 ―半兵衛 志方之経
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 ├弁助 信盛 後改新免
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 ├加賀助 勝明
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 └郷右衛門 勝行



*【野田一渓墓表】
《初其師祖新免武藏、傳刀法於寺尾信行。信行第四子信盛、尤長其技、因冒新免氏。時人云、武藏復出矣。(中略)信森傳之兄子愚一、愚一傳之泉露[太田]、泉露以是傳之翁》





時習館の位置










*【新免弁助位牌背面文】
《新免辨得居士、實寺尾氏男、有故新免武藏先生之繼家名、號新免辨助源信森、二天一流二代是也。元禄十四年辛巳七月二十五日卒。于時寛延三庚午年七月二十五日、當五十有年、依此志方之經手位作。之經實寺尾氏男、信森甥、有故二天一流之奥儀口受、盡信森傳授畢。誠師恩厚偉哉。于時寛延三庚午年七月二十五日、志方半兵衛源之經建焉》


*【寺尾求馬助流系統図】

○新免武蔵守玄信―寺尾求馬助┐
┌―――――――――――――┘
├寺尾佐助信形 子助左衛門勝春

├寺尾藤次玄高―志方半兵衛之経

├新免弁助信盛―┐
|┌――――――┘
|├寺尾助左衛門勝春―太田泉露┐
||      ┌――――――┘
||      └野田一渓種信
||
|├志方半兵衛之経―志方半七┐
||     ┌――――――┘
||     └新免弁之助玄直
||
|└村上平内正雄―┐
|┌―――――――┘
|├村上平内正勝┬平内正則
||      |
||      └長尾徒山
||
|└村上八郎右衛門┬大右衛門
|        |
|        └野田一渓

├寺尾加賀助勝明 致仕離国

└寺尾郷右衛門勝行―吉田如雪┐
     ┌――――――――┘
     └山東彦右衛門清秀
*【寺尾氏豊田氏平行略系図】

○寺尾佐助┬喜内勝正┬佐五左衛門 孫之丞為養子
     |    |
     |    └九郎左衛門克清―勝貞┬九郎左衛門勝宣―勝寿―志馬勝徳
     |               |
     |               └喜内 孫十郎 佐助勝義為養子
     |
     |      養子 勝正男        養子 松岡二男
     ├孫之丞勝信=佐五左衛門勝秀―勝宣―夢世=孫之丞―喜内 余田家養子
     | 信正 夢世
     |                       養子 勝貞男 養子 津川氏男
     └求馬助信行―佐助信形―助左衛門勝春―佐助勝義=藤兵衛勝安=藤兵衛勝俊

○豊田甚之允高久=専右衛門高達―又四郎正剛―彦兵衛正脩―専右衛門景英
                 橋津卜川  橋津八水  豊田復姓 守衛
 
 (5)辨介兵術勝タル名人ノ由
 この記事は、前文に続くもので、新免弁助が兄弟の中でも一番の名人という伝説を記している。つまり、『武公伝』記事において、新免弁助は寺尾求馬助門葉では最重要人物という扱いだが、弁助は武蔵の名跡を継いでからは、加賀助の技よりも上手だったという話である。
 ということは、逆に言えば、加賀助はかなりの達人で、この人の方が弁助より兵法上手だった時期があるということになる。とすれば、本来は加賀助が、武蔵の新免の名跡を継ぐはずだったかもしれないが、致仕して離国した。それがなければ、在国のまま師役を勤めた人だろうが、訳ありで離国した、――という話にもなる。
 しかるに、新免弁助はその加賀助よりも勝れていたとするのは、まさに村上派の伝説なのである。前に求馬助子息の話が出たとき、『武公伝』には、村上八郎右衛門の話だという情報ソースを記している。この記事にはそうとは書いていないが、これも、村上八郎右衛門から聞いた話だろう。
 野田一渓は、村上八郎右衛門の咄として、寺尾求馬助が新免弁助を江戸へ連れて行ったとき、試合を挑まれて、十六歳の息子の弁助を出して勝負させたという逸話を記している。村上八郎右衛門はこうした話をよく語っていたらしい。新免弁助が兄弟の中では一番強かったというのも、村上八郎右衛門の説話であろう。そうして、師匠から話を聞いて、これを書いたのは豊田景英なのである。
 ところが、『武公伝』のここにある新免弁助の記事についていえば、寺尾求馬助は息子の中でも弁助に、武蔵の名跡「新免」氏を継がせた。寺尾家系図では「寺尾弁助」とあって、弁助は新免を名のる以前から弁助である。あるいは、新免弁助嫡流を自認する志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』には、そんな話はない。志方半兵衛の記すところでは、弁助は、求馬助四男・寺尾弁助で、求馬助が武蔵の名跡を継がせ、新免弁助と号したのである。したがって、はじめから弁助は弁助なのである。
 しかし、『武公伝』に、《少名ハ弁介ト云》とあるように、武蔵の幼名は弁介と記すからである。つまり、ここに出てくる「弁介は兵術に勝れた名人の由」というその「弁介」は、武蔵の幼名、兵術に勝れた名だったから、弁助はその名を継いだという話のようである。
 ところが、志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』は、武蔵の幼名が弁助だなどとは記していない。もし、志方半兵衛の念頭に武蔵幼名は弁助ということがあったなら、同名ゆえに、何らかの言及があったはずである。弁助嫡流の志方半兵衛にそれがないということは、志方半兵衛の念頭には武蔵幼名は弁助という話はなかったのである。
 これは本末転倒した話の展開である。おそらくは、武蔵の名跡を継いだ新免弁助という人が出て、武蔵の名跡は「新免」というより、「新免弁助」がそれだ、という錯覚が生れたのである。すると、名跡の「弁助」とは武蔵の初名ということになり、それがさらに進んで幼名ということになってしまった。それが『武公伝』冒頭記事の《少名ハ弁介ト云》である。おそらくそれは、新免弁助の死後に発生した俗説であろう。弁助は武蔵の再来との評判だったというから、名の同一視の契機はすでにあったのである。
 新免弁助卒年は元禄十四年(1701)、武蔵幼名弁助説はそれ以後巷間で生れた俗説である。これが流伝して、宝永元年(1704)序をもつ『江海風帆草』に早くも「弁之助」が登場する。『江海風帆草』では、巌流島決闘の時、武蔵十八歳。ゆえに初名の弁之助なのである。この説は同じ筑前系伝記『丹治峯均筆記』(享保十二年・1727)にも受け継がれて、そこでも武蔵の童名は弁之助、巌流島決闘の時、こちらは十九歳の武蔵だが、まだ弁之助なのである。
 こういう俗説は他国の方で急成長する。そこには寺尾弁助が新免弁助になったという情報は、むろん存在しない。ところが、武蔵の幼名が弁助だという説は、こんどは肥後に還流して、武蔵流兵法内部でもそれが信じられるようになった。つまり、武蔵の名跡を継いだ「新免弁助」の名が何よりの証拠だ、というわけである。
 『武公伝』の記述段階、つまり十八世紀後期では、すでにそのようになっていたらしい。それを証言するのが、「弁介は兵術に勝れた名人の由、それを継いでは…」というこの記事なのである。  Go Back















*【野田一渓翁記録】
《求馬助御鐵炮頭の節、倅辨助召連江戸へ相詰申さる節、何みかくと云兵法人、求馬助と仕合に參候に、辨助を出し、致勝負候儀有之。辨助十六歳の節と承傳候事。委は略す。村上正之咄なり》



*【兵法二天一流相伝記】
《四男寺尾辨助、天性兵法萬人に越、其道元祖武藏に不負、獨歩の器量、流儀の有徳、二天流奥儀、不殘傳授して、武藏の名跡を繼せ、新免辨助と號す。二天流二代是也。武藏存生の内、「信行男子あらば、我流儀を相傳して、新免の名跡を繼可申」由、大望任契約者也》

*【武公伝】
《玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之。天正十二年甲申二月、播州ニ生ル。少名ハ弁介ト云》










*【江海風帆草】
《武藏船を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、辨之助[此時武藏が名なり]只今立皈るなり」といひければ、死せる宗入立ち上り、海上を見て、「瓣之助いづくへ行ぞ」と、一声呼んで忽ち死す》

*【丹治峯均筆記】
《武蔵、童名辨之助ト云》《見物ノ貴賤、小治郎*ガ死骸ニ近キ見ルニ、ハヤ息モ絶々ナリ。見物ノ内ヨリ、「弁之助ハヽヤ立チノクガ、小治郎、モハヤ是迄カ」ト、詞ヲカケシニ、両眼ヲクハツト見ヒラキ、フツト立揚リ、「水一ツクレヨ、ヤル事デハナキ」ト、一声サケンデ前ヘカツパト轉テ、息絶タリ。古今ノ英雄ト云ツベシ。可惜可憐》



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