宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   12  Back   Next 

 
  40 武蔵の死と墓所
一 正保二天[乙酉]五月十九日、熊本千葉城ノ宅ニ病卒ス。(1)
 卒去ノ前、病中寄之公ニ被申上ハ、「私死候ハヾ、御家来弟子ノ内ニ、有馬ニテ手ニ會ソロ〔候〕者ヲ、付置セ被下候様ニ」トノ事故、病中ヨリ中西孫之亟[宗昌]被付置。(2)
 卒去ノ時、遺言之通、甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也。飽田郡小江村地ニ葬ス。兼テノ約束ニテ、泰勝寺ノ前杉馬場ノ内ニ棺ヲ舁居ヘ、春山和尚出迎テ引導也。皆是遺言ニ因テ也。(3)
 其后、寄之公鷹狩ニ御出、小江村ノ墓ニ展セラレ、其庄屋ヲ召出サレ、墓ノ掃除無懈怠仕候様ニト被仰付、其料トシテ八木〔米〕五十俵渡サレ、翌日荘屋、二ノ丸ヘ罷出、手形ヲ仕テ米ヲ請取候由。孫之亟子・中西角之進、其節御供ニ參リ、右手形モ見候由也。(4)

一 正保二年[乙酉](1645)五月十九日、(武公は)熊本千葉城の宅で病卒した。
 卒去の前、病中に(長岡)寄之公に申上げられるには、「私はもう死にますので、御家来の弟子の中で、有馬〔島原戦役〕で手柄のあった者を、付け置いて下さるように」とのことゆえ、病中から中西孫之亟[宗昌]が付け置かれた。
 卒去の時、遺言の通り、甲冑を帯し六具を固めて入棺であった。飽田郡小江村の地に埋葬した。かねての約束で、泰勝寺の前杉馬場の内に棺を舁ぎ据え、春山和尚が出迎えて、引導した。これはみな(武公の)遺言によってのことである。
 その後、寄之公が鷹狩にお出になり、小江村の(武公の)墓に墓参され、その庄屋を召出され、墓の掃除を怠りなくするようにと仰せつけられ、その役料として米五十俵を給付されることになり、翌日庄屋が二ノ丸(の屋敷)ヘ罷り出て、手形を提出してその米を受け取った由。(中西)孫之亟の子・中西角之進は、その節お供で参り、右の手形も見たそうである。

  【評 注】
 
 (1)正保二天[乙酉]五月十九日、熊本千葉城ノ宅ニ病卒ス
 ここは武蔵の死亡前後のこと、および埋葬地に関する記事である。武蔵の命日は、最初の武蔵伝記である小倉碑文に明記してあって、正保二年(1645)五月十九日。これは動かない。歿地熊本には、小倉の武蔵碑(承応三年建碑)より古い墓誌は現存しないから、武蔵の命日に関しても、これが一次史料である。
 小倉碑文には、《正保二乙酉暦五月十九日、肥後國熊本において卒す》とあって、熊本のどことまでは記さない。これは他国に建つ碑の墓誌だからである。命終の地は肥後国熊本、これだけで十分なのである。
 しかるに、地元肥後の伝記となると当然これだけではすまない。武蔵は熊本で死んだ、では、熊本のどこで死んだのか、となる。それが、千葉城の屋敷だというわけである。
 すでに、『武公伝』では、熊本での武蔵の屋敷が、千葉城の高台に与えられていたことを記している。武蔵の熊本における屋敷の所在については、これ以外の情報はない。ただし、これを徴証する資料を我々は見出していない。既述のように、これは今後の研究課題である。
 前年の冬、十一月に熊本へ連れ戻されるまで、武蔵は熊本からほど近い在郷に居て、そこで病床にあった。武蔵は、細川光尚はじめ長岡興長・寄之父子から、病気治療のため熊本へ戻るように再三要請されたが、なかなかウンとは言わず、皆を手こずらせた。そういう連れ戻されるまでの経緯がおもしろいのだが、これはすでに述べたところである。
 それはともかく、十一月十六日に熊本へ連れ戻されて、それから半年、武蔵は病床にあったが、五月十九日に死亡した。死因はおそらく癌であろうが、兵法において無敗の豪傑武蔵といえども、癌には勝てなかったのである。
 なお、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、武蔵命終の場所は、熊本の城下に近い村の由、たとえば、福岡城下春吉村のような所という、とある。つまり、武蔵は熊本の城下に近い村で死んだということである。
 しかし、これは、武蔵が前年十一月に、近郊の村から熊本へ連れ戻されたという事実と合わない。たしかに、武蔵は帰らぬといって周囲の者をさんざん手こずらせたのだが、その熊本近郊の村から戻って、そして武蔵は熊本で死んだのである。
 したがって、『丹治峯均筆記』の記事は、熊本へ戻るまで武蔵がいた在郷の村の所在を示唆するものの、武蔵命終の場所としては、事実と相違する伝説なのである。
 武蔵の屋敷について言えば、熊本近郊の村に別荘のようなものがあって、武蔵はそこに居たのである。この点は、従来の武蔵研究では看過されてきたので、諸氏の注意を喚起しておきたい。  Go Back




*【小倉碑文】
《正保二乙酉暦五月十九日、卒於肥後國熊本》



*【武公伝】
《忠利公ヨリ月俸十七口現米三百石ヲ賜。蓋シ遊客タルヲ以テ、諸士ノ列ニ不配[人持着座ノ格ナリ]。居宅ハ熊本千葉城ノ高キ所也》


千葉城の位置

*【丹治峯均筆記】
《命終ノ所、熊本ノ城下近邑ノ由、假令バ福城春吉邑ノ如ト云ヘリ。正保二年乙酉五月十九日、平日ノ如ク正念ニシテ命ヲ終ラル。行年六十二歳也》
 
 (2)病中ヨリ中西孫之亟被付置
 『武公伝』は、長岡寄之の命で、中西孫之丞が武蔵の病床に付け置かれたという。この中西孫之丞については、これまで『武公伝』の記事に何度も登場しているから、ここではくりかえさない。寄之近習として仕えていた人である。
 中西孫之丞が武蔵の病床に付け置かれたということは、中西氏先祖附によって徴証しうる。つまり、正保二年(1645)五月、新免武蔵が病死したのだが、武蔵病中に長岡寄之(文中、要津院様)が見舞いに行った。そのとき、武蔵が遺言とて寄之にいろいろ頼んだ。それで、病中から中西孫之丞を付け置いて、諸事取り計らうように、命じたとある。
 もちろん、中西孫之丞は、このように興長・寄之の長岡家から世話係として送り込まれた人物である。しかし、武蔵死去前後の経緯を知る一次史料であるところの、長岡監物宛宮本伊織書状(五月二十九日付)によれば、寺尾求馬助が武蔵に病床に付いたようである。
 それによれば、武蔵の病中死後まで寺尾求馬助が付け置かれたということだが、こちらは細川光尚(文中、肥後守様)の指示である。つまり、細川家からは、家臣の寺尾求馬助を武蔵の世話のため送り込んだのである。これは求馬助が武蔵門弟・寺尾孫之丞の弟ということで、特別の配慮があったのだろう。求馬助には鉄砲頭という役目業務があり、プライベートに見舞いに行くことしかできないのだが、武蔵に付け置いたということは、公務は免除するから、武蔵の側にいて世話をしろ、という指示なのである。そうしてみると、
    細川家からは、寺尾求馬助
    長岡家からは、中西孫之丞
この二人がそれぞれ公式に武蔵の病床に送り込まれ、病中から死後まで世話をしたということである。宮本伊織との書状では、長岡監物も世話を焼いていて、武蔵死後、伊織から謝礼の贈物などしているから、あるいは長岡監物の米田家からも、家臣が世話役として派遣されていた可能性がある。しかし、そのあたりは資料がなく不明である。
 しかし、病中死後まで武蔵の側に付いたと『武公伝』にあるのは、中西孫之丞だけである。とくに、主君光尚の指示で寺尾求馬助が側に付いたというのに、その記事がない。これは奇妙なことである。
 その記事がないということは、『武公伝』の作者は、これを聞いていなかったらしい。それは『武公伝』のポジションが熊本ではなく八代にあり、八代の伝説を記したのだから、長岡寄之や中西孫之丞が活躍する場面が語られても、他の場面は視野に入っていなかったのである。八代には、寺尾求馬助が光尚の指示で武蔵の側に付けられたということは、伝説として伝わらなかったのである。
 もう一つ『武公伝』の記事で奇態なことは、寄之に武蔵が頼んだ内容が、「私が死にましたら、ご家来の弟子の中で、有馬(島原戦役)で手柄のあった者を、付け置いて下さるように」とのことで、中西孫之丞が武蔵の側に付け置かれた、という話である。
 この言葉から窺えるのは、死者の遺体の守りに勇士を付けるという風習のあったらしいことである。殯〔もがり〕とまではいかないが、これは葬礼の一連の過程におけるシンボリックな行為だったはずである。しかし、かりにそのような風習があったとしても、武蔵がそんなことを頼んだとは考えにくい。それに、有馬(島原戦役)で戦功のあった者、というのが、ここでの話にそぐわない。
 おそらくこれは、中西家の伝説なのである。武蔵の病中死後まで中西孫之丞が側に付いたのは事実であるとしても、それが、有馬で戦功があったから選ばれたとするのは、いかにも唐突である。これでは本末転倒で、中西孫之丞が有馬陣で戦功があったと寄之が認めていた、という宣伝話になってしまっている。この部分が、中西家の伝説だとみなすゆえんである。
 中西家では孫之丞の戦功について、こだわりがあった。そこで、中西氏先祖附によって孫之丞の戦功を一瞥しておけば、こうである――。
 中西孫之丞は原城攻めのおり、寄之の側に付いていた。細川隊は左翼主力、東の三ノ丸が担当で、そこを攻めあげた。孫之丞はそのとき、三ノ丸一番鑓一番首という戦功をあげた。首を取っても邪魔になるので、規定通り耳鼻を削いで、それを証拠とし、証人の竹内七郎右衛門にそれを確認してもらう。そこまではよかったが、その確認を受けるのに手間取って、寄之を見失い、主人の側から離れてしまった。寄之の側に付くというのは、一時も側を離れないということである。これはしまった、ということで、孫之丞は寄之を追いかけた。
 帰陣後、中西孫之丞は褒美の席に召し出されなかった。十月になって、論功行賞で、孫之丞は新知百石を与えられることになった。それまで孫之丞は切米三十石でしかなかったから、これは大きな昇進である。しかし孫之丞はそれを受けるのを留保した。
 たしかに自分が寄之の側を離れたのは、陣中御側の勤方疎略であった。しかしそれは寄之に迫ってくる敵を防ぐために戦ったためで、やむをえないことだった。これを不届きだと思われても、それを恨むのではない。しかし、三ノ丸一番鑓一番首という戦功を認めて下さらないのかと、意固地になって知行の折紙を受け取らなかったのである。
 翌日、孫之丞は召出された。そこには寄之だけではなく、当主の長岡興長も同席である。寄之が孫之丞に云った。孫之丞の武功のことは(光尚は)承知されている。けれども、近習の勤めを粗略にした不覚の働きがあっては召しおくことはできないと、あの褒美の席に召し出さないことにして、追々奉公ぶりを見たうえで取り立てようとのことであったのだと。そう懇ろに云われて、孫之丞は面子が立ち、知行を受けることに同意し、その席で新知百石の折紙を受け取った。三年後の寛永二十年(1643)孫之丞は三十石の加増をうけ、都合百三十石の知行取りになった。
 先祖附にはこうしたことが細かく書いてある。ということは、中西家では、このときのことが、孫之丞から四代末孫まで語り継がれ、こだわりが続いていたということである。なるほど、中西家が知行取りになった、いわば起源物語なのである。
 『武公伝』に話をもどせば、これは中西孫之丞の養子角之進が語った話であろう。実際、中西孫之丞が選ばれたのは、有馬陣第一の武功があったからではなく、また孫之丞が寄之近習の武蔵門弟だったからではない。既述のように、おそらく武蔵が、中西孫之丞の父親・大西道也と親しかったので、武蔵が中西孫之丞を子供の頃から知っていたからであろう。それを、有馬陣戦功に事寄せたのは中西角之進なのである。
 『二天記』にこの段を継承して記事にしているが、この中西孫之丞が有馬陣で武功があったので、武蔵の側に付け置かれたという部分は削除している。これは差し障りあったのだろう。つまり、他に戦功のある先祖をもつ家は少なくなかったから、特定の家の勲功譚に事寄せられるのを『二天記』作者は避けた。それに、豊田家先祖には、有馬陣において語るべき功績は何もなかったのである。  Go Back






*【中西氏先祖附】
《正保二年五月新免武蔵病死の節、病中ニ要津院様御見廻被成候処、武蔵遺言の趣付て、孫之丞儀病中より御附被成、諸事取計候様ニ被仰付》


*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候…》(五月二十九日付)




















柳川古文書館蔵
嶋原御陣図


*【中西氏先祖附】
《三丸ニ御乗入被成、田渡え被成御向候時、孫之丞被為召、「有吉頼母は相見不申候哉」と被成御意候付、「大簀戸切明被成御乗入候上は、御先ニ難乗込可申様無御座候」と申上候ニ付、「三丸一番乗」と孫之丞よバヽり御進被成候処、浜手ニ敵大勢相見候付、孫之丞御先ニ立、彼敵ニ詞を懸候得は、壱人長刀ニて仕懸候を、鑓を合突伏首を取、入御覧候得は、「孫之丞。三丸一番鑓一番首」と被成御意、如御制法耳鼻を取、首は捨可申旨ニ付捨申候処、竹内七郎右衛門殿被参候間、証拠を取候中少隙取、要津院様を見失、御側離レ申候。(中略)御帰陣の上有馬ニて働の様子は追々被聞召候得共、右より被仰渡置候所を違へ候段不届被思召候ニ付、御褒美の席不召出候段、被仰渡候。其後武功御吟味役ニ被差加相勤申候。然処同年十月、新知百石被為拝領の段、松井采女を以被仰渡候処、「御請は采女宅ニて可申上」と申上、退出仕、采女迄申上候は、「私儀御陣中御側の勤方疎略不奉存候得共、御側ニ敵取懸申候付、相防鑓を合申候ニ付、少隙取候故、不得止御側を離レ申候。其儀は証拠を以申上候得共、畢竟御軍法を背申候儀、不届被思召上候段蒙仰候儀、御恨可奉存様無御座候。併御当手ニて一番鑓・一番首仕候□□□御座候間、功は御立不被下候哉」と奉申上候。御知行は重ても拝領可仕旨申上、御知行の折紙采女迄差上申候。此段被聞召上、翌日又々被召出、御父子様御同座ニて、要津院様被仰渡候は、孫之丞儀武功は勿論の儀被思召上候得共、不覚の働其分ニて難被召置、一旦右の通被仰渡候。追々奉公振次第御取立可被下旨、御懇意被仰渡候ニ付、重畳難有奉存候段御請申上候。其節玉名郡の内宮内村・庄寺村両所ニて百石被為拝領候御書出取持仕候。寛永廿年御奉公手全相勤候旨ニて、玉名郡請村・坂上村於両所三拾石御加増被為拝領候御書出并別紙目録所持仕候》
 
 (3)甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也
 この部分の記事は、いくつか重要な問題点が含まれている。まず、ひとつは、武蔵が死んだとき、遺言通り、甲冑を帯し六具を固めて、武装して入棺であったという。これは、武蔵評伝や小説にしばしば採りあげられる場面であるから、武蔵の死をめぐる逸話として有名なものになっている。
 というのも、この記事を後継『二天記』が記し、また明治末の顕彰会本『宮本武蔵』がこれを採録したため、世間に広まったのである。このシーンがインパクトのあるものだったから、近代になって多くの注目するところとなった。しかし、この説話の初出は『武公伝』である。それゆえ、この部分をきちんと読んでおかねばならない。
 『武公伝』の記事は、《卒去ノ時、遺言之通、甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也》とあって、ごく短い簡単なもので、しかもこれだけである。ところが、これにより、武蔵が死に臨んで、甲冑具足して自ら棺桶に入った、という珍説も生じたが、まさか、そこまで云うと嘘になるという類いの近代の伝説である。『武公伝』の記事はそんな荒唐無稽なものではなく、「遺言の通り」としていて、自分が死んだら、遺体を甲冑具足着装させて棺桶に入れてくれと、武蔵が遺言したので、その通りにした、と記すまでである。
 本人が存命中でさえ、あらぬ噂が生じるのは、今日の社会でも同じことで、人の口というものはつねに旺盛な生産性を有するのである。肥後では、武蔵の死と葬儀というイベントを通じて、さまざまな噂話が生じたことは想像に難くない。
 この話は前後の関係からすると、中西孫之丞が武蔵の病中死後まで側に付いて、諸事取り計らったとあるから、もし武蔵の遺体に甲冑武装させて納棺したのなら、中西孫之丞がそれに関与しているはず、ということになる。しかし、『武公伝』はそうは記さないから、この遺骸入棺の説話は、中西孫之丞の記事とは切り離して、後世発生の伝説として読まねばならない。
 『武公伝』の記事では、武蔵の遺体は飽田郡小江村の地に埋葬した。かねての約束で、泰勝寺の前杉馬場の内に棺を舁ぎ据え、春山和尚が出迎えて、引導した。これはすべて武蔵の遺言によってのことであるという。とすれば、この部分は、武蔵の遺言があったからこうした、という話なのである。
 春山和尚引導説はすでに述べた通り、誤伝である。というのも、長岡監物宛宮本伊織書状(五月二十九日付)に、泰勝院で大渕和尚様御取置法事以下御執行とあるからだ。武蔵の葬儀は、場所は泰勝院、導師は大渕和尚である。
 泰勝院は細川家菩提寺である。当時の泰勝院の住持は、春山玄貞ではなく、彼の師匠・大淵玄弘(1588〜1653)である。大淵玄弘は、寛永十九年(1642)、細川光尚の招きに応じて肥後へ、細川家菩提寺泰勝院の開山となった。長岡監物宛宮本伊織書状に、大淵玄弘が導師となって武蔵の葬儀が行われたというのは、事実に照らして妥当である。
 これに対し、『武公伝』の春山和尚引導説は、後世の伝説である。春山玄貞(1618〜73)は、大淵玄弘の法嗣で泰勝院二世。『武公伝』には大淵玄弘の名はなく、あるのは春山和尚の名である。武蔵が肥後に来て参学したのも、大淵玄弘ではなく「泰勝寺の住持」春山和尚にしてしまう。むろん春山はまだ「泰勝寺の住持」になっていないし、泰勝寺の名もまだ泰勝院である。葬儀の導師を大淵玄弘ではなく春山玄貞と記すのも、たんに取り違えたというよりは、そもそも八代の伝説が、大淵玄弘の名を知らなかったからであろう。
 『武公伝』の情報はオリジナルのものをもたず、後世の伝説をもとにしている。『武公伝』では、この「春山和尚」が大活躍である。彼は生前武蔵に、引導を頼まれるだけではなく、五輪書序文の推敲を頼まれるし、はては伊織に小倉の碑文まで頼まれたりして、いろいろ武蔵のために働いたことになっている。したがって、『武公伝』の記事は、言い伝えが不確かというよりも、もっと積極的な意味合いの春山和尚伝説というべきものである。
 言い換えれば、春山をめぐる後世の伝説形成があったということである。『武公伝』が熊本の伝説を拾ったなら、春山和尚伝説はここまで猛威を振るわなかったかもしれない。熊本ではなく八代であるがゆえに生じたローカルな伝説形成なのである。
 引導は春山和尚という、『武公伝』の伝説についていえば、八代特有の伝説形成があったとみなしうるが、本稿において他の箇処で既述のように、すでに豊田正剛の段階で記録されたものであろう。それに対し、武蔵の遺体が甲冑軍装して入棺というのは、橋津正脩が収録した伝説、あるいは他例と同様、『二天記』作者・景英の手による補筆である可能性もある。

 したがって、ここで興味深いのは、『武公伝』と『二天記』の対照である。すなわち、武蔵遺言によって、遺体は甲冑武装して入棺、引導は春山和尚、という二つの説話素は変わらないが、埋葬地の記事が異なっている。すなわち、
    (武公伝) 飽田郡小江村地ニ葬ス
    (二天記) 飽田郡五町手永弓削村ノ地ニ葬ス
 これによってみれば、『二天記』は『武公伝』から、甲冑武装して入棺、引導は春山和尚、という2つの説話素を継承したが、ただ、埋葬地に関しては記事を訂正している。言い換えれば、「飽田郡小江村」という村は実在せず、それゆえ、埋葬地に関して、景英は、当時墓所とされる武蔵塚があった弓削村の誤りであろうと考えて、これを訂正したらしい。
 ところが、興味深いことに、この弓削村の墓所は、当初からあったのではなく、のちに新設されたものである。つまり、承応三年(1654)宮本伊織が熊本から豊前小倉赤坂山に武蔵の墓を引き取ったのだが、他方、肥後における武蔵記念碑として後に設置されたのが、弓削村のいわゆる武蔵塚である。しかるに、『二天記』の作者は、この武蔵塚に当初から武蔵の墓があった、そこに武蔵は埋葬されたと思い込んで、このように訂正したのである。
 そしてもう一つ興味深いことは、その弓削村の所在である。飽田郡弓削村は、正保国絵図にはその名がない。あるのは、白川左岸の合志郡弓削村である。したがって武蔵が死亡した頃には存在しない村である。元禄国絵図になって、白川右岸に弓削村の名がみえるようになる。すなわち飽田郡上立田村之内として登場する。つまり、合志郡弓削村の者が、対岸の飽田郡内に枝村として拓いた集落だが、行政区画としては飽田郡上立田村の内ということになっていたらしい。
 飽田郡弓削村は正保の頃まだ存在しなかった。この事実は、従来の武蔵伝記研究では看過され、だれも指摘しなかったことである。これにより、武蔵葬地に関する従来の諸説は変更を余儀なくされるであろう。その点ここで、諸君の注意を喚起しておく。
 ようするに、『二天記』のいう「飽田郡五町手永弓削村」は、武蔵死亡時には存在しない。したがって、『二天記』の記事は、この地名によって後世の伝説たることを示している。
 そして、豊後街道(大津往還)に面したこの場所に武蔵碑が新設されたのち、ある伝説が生じた。それが、武蔵の遺言によって遺体は甲冑武装して入棺、という伝説である。
 すなわち、この熊本城からすると鬼門にあたるこの場所、そして城下立田口の先で豊後街道を扼する位置にあるこの武蔵の墓、これによって武蔵は、熊本を守る武神=守護神たる位置づけを得てしまうのである。かくして、武蔵の遺体は《甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也》ということになった。したがって、甲冑武装して入棺という伝説は、白川右岸の飽田郡弓削村に武蔵塚が出来て以後の発生とみなしうる。
 そうすると、問題はさらに興味深い進展をみることになる。すなわち、埋葬地を「飽田郡小江村」とする『武公伝』の記事をどうみるか、ということである。
 おそらく葬地を「飽田郡小江村」とする記録は、豊田正剛の聞書の段階にあったようである。後述のように、中西角之進から聞いたのである。これに対し、橋津正脩は、自分当時の武蔵塚が弓削村にあることを知っていたが、正剛の手稿にある地名を書き換えずに、埋葬地を「飽田郡小江村」と『武公伝』に記した。言い換えれば、正脩は武蔵の埋葬地に関してはオリジナルの記事を保存したのである。
 これを『二天記』の景英は「飽田郡五町手永弓削村」に改訂してしまったのだが、それは上記の通り、「飽田郡小江村」という村は実在せず、したがって豊田景英は、埋葬地は弓削村だと誤認して、そのように改竄してしまったというわけである。
 これは、景英の頭には弓削村の武蔵塚より他になく、『武公伝』の伝承よりも、武蔵塚は弓削村にあるという事実を優先させたのである。この「実証主義」の結果、弓削村に武蔵塚が設けられる以前の、当初の武蔵墓の場所についての伝承情報が抹消されてしまった。
 『二天記』は、埋葬地の「飽田郡小江村」を削除し、代りに飽田郡弓削村を記録し、全面的に記事を改稿した。今日の通説は、明治の顕彰会本『宮本武蔵』を経由して、その延長線上にある。『二天記』しか知らなければ、武蔵の葬地・墓所は最初から弓削村だと思い込むとしても、それは当然である。しかし、『武公伝』の巻之二に整理されてかろうじて残った記事により、我々は、弓削村の武蔵塚とは異なる、当初の墓所の所在を知る手がかりを得ることができるのである。

 しかるに、この「飽田郡小江村」なる名の村は実在しない。けれども、かろうじて『武公伝』に残ったこの記事を尊重して、これをめぐって一考してみる値打ちはある。というのも、武蔵の埋葬地が、如上のごとく飽田郡弓削村の武蔵塚でなかったとすれば、当初のその武蔵埋葬地がどこか、不明とせざるをえないからである。
 そもそも従来の武蔵伝記研究では、この「飽田郡小江村」という記事に注目した例はない。それゆえ、我々の研究プロジェクトでは、これをどう扱うべきか、というところから始めざるをえなかった。そのとき、手がかりは、類似地名の探索である。飽田郡には「小江村」はない。とすれば、飽田郡以外の付近に類似地名はないか、ということである。
 そこで、白川左岸に「大江村」なる村があるのに気づいた。名称における大/小の転化はしばしばあることで、たとえば大原/小原などもそうである。とすれば、『武公伝』の「小江村」はこの「大江村」の転訛であった可能性が高い。
 この大江村は、飽田郡ではなく、詫摩郡本庄手永内の村である。熊本城下からほど近い白川対岸の在郷の村である。今日、熊本市大江として地名が残っている。正保国絵図には「飽田郡弓削村」はまだないが、この大江村はすでにある。『武公伝』が詫摩郡を飽田郡と間違えたために、このような探索が必要になったわけだが、『武公伝』の伝承が不正確だったのは、むろんこれが、熊本ではなく八代の口碑伝承だったからである。
 かくして、『武公伝』の記事に示唆されて、武蔵埋葬地は「詫摩郡大江村」とする我々の仮説が生れた。そうすると、次の作業は他の史料によるすり合わせ、傍証である。「詫摩郡大江村」とまでは云わないが、何かそれを示唆する記録はないか。
 そこで我々が注目したのは、武蔵の死の半年ほど前の宮本伊織宛長岡寄之書状(十一月十八日付)である。そこには、発病した武蔵が熊本へ戻るまで居た、熊本近郷の村について言及がある。
 すなわち、そのとき武蔵は、熊本市中を離れて熊本近郊の村に住んでいた。そこで武蔵は発病したので、医者を派遣し治療にあたらせていた。しかし在郷の田舎では治療も十分にできない。そこで、家老の長岡興長・寄之父子が、熊本へ戻って療養するように申し遣わした。ところが武蔵は同意しない。そこでまた、「是非ともお戻り下さい。遠くては治療の相談もできません。ケア(肝煎)しようにも、これではどうしようもありません」と申し遣わす。細川光尚(文中、肥後)もことさら気をつかって、医者なども度々派遣し、いろいろ治療にあたらせたが、郊外の村にいては療養の指図もできかねるので、再三武蔵に熊本へ戻るよう申された。そこでようやく、一昨日(十一月十六日)武蔵は熊本へ戻ってきた。それで寄之は伊織にいう、「病気治療にはいよいよ気をつけて油断なく看護するように指図しましたし、細川光尚(肥後)もお気づかいあり、医者なども付け置くよう申されていますので、ご安心ください。今のところ病状も安定しています」、云々――これが長岡寄之書状案の内容である。
 この書状にある《熊本より程近在郷》、熊本からほど近い在郷というのが、まさに大江村に該当する記述である。白川があって、迂回して橋を渡るか、渡瀬の石列を踏んで川向こうへ越せば、大江村である。したがって、長岡寄之書状の《熊本より程近在郷》を大江村とみなしうる。
 関連資料のもう一つは、筑前系の『丹治峯均筆記』の記事である。これは、武蔵の命終の地を《熊本ノ城下近邑ノ由、假令バ福城春吉邑ノ如ト云ヘリ》としている。
 すなわち、武蔵が死んだのは、熊本城下近郊の村だそうだ、という言い伝えを記しているのだが、これは、武蔵が熊本へ連れ戻されてのち死亡した、ということからすれば、誤りである。福岡近郊のこの村になぞらえても、『峯均筆記』をみるかぎり、肥後の武蔵歿地の名は、筑前の伝記には伝わらなかったのである。
 しかしながら、これが筑前系二天流内部での口碑伝説であり、つまりは、武蔵の埋葬地を命終の地と誤伝したという可能性がある。熊本近郊の村に武蔵の別荘があり、そしてそこに武蔵は埋葬されたと、柴任美矩が語った。それを立花峯均は、いつのまにかそこが武蔵命終の地として記憶するようになった。そのため、『丹治峯均筆記』には、そう書いたと。言い換えれば、これは武蔵の埋葬地を示唆する資料断片なのである。
 とすれば『峯均筆記』に、《熊本ノ城下近邑》、それも、たとえて云えば《福城春吉邑》のような所、と記す部分は、看過できないということになる。
 ここで『丹治峯均筆記』のいう《福城春吉邑》というのは、福岡城下近郊の村、春吉村である。これは本サイトの『丹治峯均筆記』読解のページですでに言及されているように、那珂郡春吉村のことのようである。とすれば、福岡城から東方半里ほどの、那珂川沿岸の近郊の村である。このあたりは当時とはかなり変っているが、春吉村の現在は、福岡の繁華街・天神に近く、福岡市中央区に春吉という地名が残る。この春吉村の立地条件をみれば、いずれも熊本近郊の大江村に近似している。したがって、福岡近郊春吉村に似た熊本近郊の村、という『丹治峯均筆記』の記述もまた、武蔵埋葬地を特定するための参考資料にしうるわけである。
 以上の諸点から、ここで、武蔵の埋葬地を詫摩郡大江村とする仮説を提起しておきたい。つまり、武蔵は千葉城址の高台に屋敷を与えられていたが、そこから東方に望見しうる白川対岸の村、大江村に、武蔵の別荘があった。そこに武蔵は住み、五輪書を執筆していたが、病に倒れた。熊本からは長岡興長・寄之父子はむろんのこと、殿様の細川光尚まで、再三熊本へ帰って治療するように説得したが、武蔵はなかなかウンとは云わない。そうして人々をさんざん手こずらせたあげく、十一月十六日になって、ようやく熊本へ連れ戻された。それから半年、千葉城址の屋敷で闘病生活を続けたが、ついに卒去。かくして、細川家菩提寺泰勝院で盛大に葬儀が行われた。そして、武蔵の別荘があった大江村の土地を墓所とし、遺体はそこに葬られた。――要約すれば、以上のようなことである。
 長岡監物宛宮本伊織書状(五月二十七日付)は、武蔵の死亡葬儀直後の礼状だが、その内容を読むに、――武蔵病気とのことで、肥後守様(細川光尚)から寺尾求馬助殿を付け置かれ、武蔵に養生を仰せつけられましたが、定業ゆえに甲斐なく死亡しました。その後、葬儀・三日目の法事、ならびに墓所のことまで、(光尚が)念入りに仰せつけられましたことは、まことに冥加の至りで、有り難く存じます。(光尚には)武蔵病中には御見舞いいただき、葬儀には野辺へ御名代を遣わされ(光尚は江戸出府中で不在)、そして法事の節はご香典まで気づかいをいただき、そのうえご焼香のため御寺(江戸東海寺)までお出ましになられるとのこと、諸事念入りにして下さり、かたじけなく存じております…云々、とある。
 まさに、父親の病中から死後葬儀まで世話になったと、息子が感謝している文面である。これによるかぎり、細川光尚は、武蔵の葬儀のことはむろん、墓所まで指示を下して、江戸へ出府したらしい。
 しかし、他方からみると、これはいささかありがた迷惑、という気配もありそうである。光尚の指示で、細川家側は、武蔵の墓所まで用意して埋葬してしまった、そのことにより、息子の伊織は、父親の遺体を小倉へ引き取るきっかけを失ったのである。
 その後、伊織は、細川光尚が死んで発生した細川家存亡の危機に対処するため、主君小笠原忠真に随行して肥後へ行ったりして、いわば十分借りを返したうえで、結局、武蔵死後九年、その十年忌をきっかけに、武蔵の遺体を引き取り、関門海峡を望む小倉郊外赤坂山に、武蔵のモニュメントを建碑したのである。この石碑は、墓石としては大層変ったデザインだが、碑文には墓誌もあるので、人々はこれを武蔵墓とみなした。  Go Back



*【二天記】
《同五月十九日千葉城ノ宅ニテ病卒ス。歳六十二。武藏遺言ニマカセ、甲冑ヲ帯シ六具ヲ固メテ入棺也》


甲冑具足


*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候。此段乍恐、至江戸岩間六兵衛方江、以書状申上候。乍慮外、弥従貴殿様も可然様被仰上可被下候。随而書中之印迄、胡桃一箱并鰹節一箱弐百入致進上候。恐惶謹言》(五月二十九日付)


*【武公伝】
《老年ニ及肥後ニ來テ、泰勝寺春山和尚ニ參学シテ道號ヲ二天道樂ト云》
《武公、平居閑静シテ毎ニ、泰勝寺ノ住持春山和尚ニ參禅シ、連歌或ハ書畫小細工等ヲ仕テ、日月ヲ過了ス》
《武公ノ石碑豐前小倉ノ城下ニ在。春山ノ作、左ニ記》
《其后、承應三天[甲午]四月十九日、宮本伊織ノ碑ヲ立此。碑銘肥後國泰勝寺住持春山和尚書之。前出》
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ推黄〔推敲〕ヲ乞フ。春山、コレニハ斧鑿ヲ加フル時ハ却テ其素意ヲ失ン事ヲ愁テ、更ニ文躰法度ニ不拘、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換、且ツ義理ノ近似ナル古語ヲ引用テ潤色之ト也》


春山玄貞頂相 永青文庫蔵
春山玄貞









正保国絵図
正保国絵図 弓削村
合志郡にのみあり


元禄国絵図
元禄国絵図 弓削村
飽田郡に新登場





















正保国絵図
隈本(熊本)・大江村・弓削村





松井文庫蔵
宮本伊織宛長岡寄之書状案

*【宮本伊織宛長岡寄之書状案】
《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候處ニ、被煩成に付而医者共申付、遣薬服用養生被仕候へ共、聢験氣も無之ニ付而、在郷ニ而ハ万事養生之儀も不自由ニ可在之候間、熊本被罷出[御出候て]養生可然之由、拙者佐渡守[佐渡拙者]両人かたより申遣候へ共、同心無之候間、是非共出候へ、程隔候てハ養生談合も不成、肝煎可申様も無之与申遣ニ付而[然共肥後も殊外懇ニ被申、医者なとも度々遣被申、色々養生候て、在郷二而てハ養生之儀差図難被致候間、度々被罷出候様ニと被申ニ付而]一昨日熊本へ被罷出候。此上二而養生之儀、猶以肝煎無油断様ニ差図等可仕候間、(肥後も懇ニ存候て、医者なとも付置被申候間)可御心易候。気色相替儀も無之…》(十一月十八日付)


*【丹治峯均筆記】
《命終ノ所、熊本ノ城下近邑ノ由、假令バ福城春吉邑ノ如ト云ヘリ。正保二年乙酉五月十九日、平日ノ如ク正念ニシテ命ヲ終ラル。行年六十二歳也》



三奈木黒田家文書 九大蔵
「福城春吉邑」


大江村と弓削村



*【長岡監物宛宮本伊織書状】
《一筆致啓上候。去ル廿三日私者罷帰候刻、即貴札拝見仕候。然者今度同名武蔵相煩候之由、肥後守様より寺尾求馬助殿被為付置、養生被為仰付被申候得共、定業故無甲斐相果候。以後取置、三日目之御法事、并墓所之儀まで、被入御念可被為仰付旨、誠以冥加之至、難有奉存候。武蔵病中御見舞被成、御取置之砌野辺江御名代被遣、并法事之節御香奠被懸御意、其上御焼香として御寺迄御出被成候之由、諸事被入御念候段、恭奉存候。為御礼先以飛札如是御座候。猶自是可得貴意候。恐惶謹言》
 
 (4)寄之公鷹狩ニ御出、小江村ノ墓ニ展セラレ
 武蔵を葬ったその後のこと、長岡寄之が鷹狩に出て、小江村の武蔵の墓に墓参したとある。この「小江村」は、大江村と読み替える必要があることは、上述の通り。
 『武公伝』によれば、そこで寄之は、庄屋を召し出し、墓の掃除を怠りなくするように命じ、その費用として米五十俵を村へ支給することにした。翌日、庄屋が、二ノ丸の長岡屋敷に参上し、手形(約束の証書)を提出して米を受け取ったらしい。中西孫之丞の子・角之進は、寄之の墓参にお供し、この手形も見たそうだ、云々。
 この部分は、中西孫之丞の子・角之進を目撃者、現場立会人とする場面である。角之進は、この墓参にお供したので、寄之が庄屋に墓掃除を命じ、役料米五十俵を支給する約束をする場にいたのである。
 墓の掃除というのは、ようするに墓守をしろということである。このように村に墓の管理をさせるということは、むろん武蔵の墓が寺院の境内にはなかったことを意味する。実際、武蔵の墓は何某寺にあるという記事はない。これは、武蔵に与えられていた別荘地をそのまま墓所にしたということであろう。
 武蔵は重病になっても、熊本へ帰るのに同意せず、細川光尚や長岡興長寄之父子をはじめ周囲の者を手こずらせた。その理由は明らかではないが、一つ考えられるとすれば、武蔵はおそらくこの大江村の別荘がお気に入りで、熊本の屋敷へ戻って死ぬよりも、ここで死にたいと思っていたということだろう。それを斟酌した細川家側は、当地を墓所と定めたのである。無関係な土地を武蔵の墓所とするわけもない。
 この白川沿岸の村は、前述のように筑前の伝記『峯均筆記』には、福岡城下の春吉村のような所とある。それを言うなら、武蔵の故郷・播州揖東郡宮本村のような所、ということもありうる。これも平野にある川沿いの古い村であった。西に川が流れ、東に田園がひろがる。武蔵が最晩年住んだのは、故郷の宮本村によく似た環境の村だった。いささか感傷に堕するのを無視すれば、これもありうべき仮説としておく。
 武蔵が葬られたという小江(大江)村の墓所はどれほどの規模であったか、『武公伝』には記録はない。しかし、掃除料・墓守料が米五十俵とあれば、これはほぼ十人扶持に相当し、ある程度の面積規模をもつ墓所だったことが窺える。大江村のような石高三四百石程の村にとっては、米五十俵(二十石)は決して少なくない報酬である。

 ところで、『武公伝』は、この寄之墓参がいつの頃の話か、それを記していない。そこで、この『武公伝』の記事で、中西角之進が寄之の供をしたとあるのに着目すべきである。
 既述のごとく、中西角之進重春(1636〜1710)は、長岡家家臣・中西孫之丞の養子に入った人である。中西氏先祖附によれば、中西角之進は、初名柴山金弥、松平下総守の家臣、柴山五兵衛友実の五男。奉公の望みがあって江戸へ出ていたのを、長岡寄之が児小姓に召抱え肥後へ連れてきた。それが正保四年(1647)、十二歳の時。その後、中西孫之丞の嫡子又兵衛が病死、柴山金弥は中西孫之丞の養子になって、中西角之進重春。万治元年(1658)中西孫之丞が隠居。二十三歳の角之進は家督百三十石を相続して、寄之御側馬乗組に配属された。
 長岡興長が死んで、当主になった寄之が八代に入城するのが、寛文元年(1661)。同年角之進は二十石加増で、都合百五十石となった。寄之が熊本に居たのは、この寛文元年以前である。それまでは、長岡興長が八代城を預かり、寄之は熊本で老職を勤めていた。したがって寄之が、熊本近郊の村の武蔵墓所の世話をすることもありえたであろう。
 したがって、寄之と角之進の動向を中心とすれば、『武公伝』のこの話は、角之進が家督相続した万治元年(1658)以後、寛文元年(1661)の八代入城以前のことになろう。
 ところが、この仮定だと、武蔵死後十数年、墓掃除を村に命じるには、あきらかに時期が遅すぎる。それでは、十数年も武蔵の墓は放置されていたことになるからだ。寄之が墓参に行ったという以上、これは、少なくとも、武蔵の墓が出来て間もなくのことでなければならない。それゆえ、時期はもっと遡らせる必要がある。
 そうすると、これは中西角之進が家督相続して寄之の御側馬乗組に配属された後ではなく、もっと以前の、角之進が寄之の児小姓だった頃のことであろう。つまり角之進は、正保四年(1647)、十二歳のとき熊本へ来たのだが、その直後のことでなければならない。それでも、武蔵没後数年は経っている。その間数年、武蔵の墓は墓守りなしだったということになる。
 それゆえ、中西角之進を目撃証人とするこの話は、だんだん恠しくなってくる。ただ、これは、寄之がこのときはじめて墓参し、村へ墓守の役料を支給するようになった、という話ではないかもしれない。寄之は前々から墓参もし、墓守料も村へ支給していたが、たまたま児小姓の角之進が見ているこのとき、村の庄屋を召出し、恒例の儀式があったということなのであろう。そうなると、正保年間と特定する必要もなく、それより後の慶安年間のことであってもよいわけである。

 そこで、これをもっと絞り込めるとすれば、武蔵と関係の深い豊前小倉城主・小笠原忠真(忠政から改名)と、その家老で武蔵養子の宮本伊織が肥後へ来る、という異例の出来事との関連である。
 すなわち、慶安二年(1649)、細川光尚が出府中の江戸で急死した。嗣子の六丸(綱利)はまだ七歳、ために細川家は減封分知の危機に立った。外様大名の苦しいところである。病床見舞いに来た酒井忠勝に対し、光尚は、細川家の領地を返上する、とまで言明せざるを得なかったのである。
 このとき、小倉城主・小笠原忠真も江戸在府中であった。光尚が酒井忠勝に領地返上という重大発言をしたとき、小笠原忠真はその場に同席していた。細川家はまさに御家存亡の危機に立っていた。この事態に、小笠原忠真が後見に立ち、細川家存続のために尽力した。というのも、死んだ光尚は小笠原忠真の甥(妹の子)にあたる、そういうもっとも近い親族大名だったのである。
 翌慶安三年(1650)三月下旬、小笠原忠真は江戸を出発し帰国の途についた。四月下旬小倉へ帰着したが、六月下旬肥後熊本へ出向いた。参勤交代で他国を通行するのは別として、この当時、大名が他国に立ち入るのは、極めて異例のことである。熊本で、朽木稙綱(1605〜66)以下検分役の上使と会見し、細川家家督問題の協議を行った。小笠原忠真が表に立って幕府側と交渉したのである。問題は難しく、翌年二月には再度熊本へ出向いて、川勝広綱(1587〜1661)ら上使と協議するとともに、細川家後見人として、領内を巡察した。
 その結果、四月になって幕府から細川家相続の承認を得た。条件は、小笠原忠真が目付として細川家の監督責任を負い、幼君ゆえ家老衆の集団指導体制によって領国統治を行うということである。
 このように慶安三年と四年の両年、小笠原忠真が二度肥後入りしている。そして小笠原家主席家老の宮本伊織も、これに随行して肥後へ来ている。小笠原忠真を補佐して、細川家のために尽力するところがあったのであろう。
 それゆえ、細川家存続の危機というシリアスな状況なので、必ずしも保証のかぎりではないが、このとき宮本伊織は養父・武蔵の墓参をしたに相違あるまいと思われる。当時、孝子として亡父の墓参もせずに帰ることは、まずありえないからである。
 もし寄之が、小江(大江)村の庄屋に武蔵の墓所の掃除を「臨時に」命じたと仮定すれば、小笠原忠真と家老の宮本伊織が肥後へ来る以前であろう。伊織が肥後へ来れば、武蔵の墓参をするだろう。とすれば、改めて清掃して、この武蔵の息子を迎える必要があった。そのときのことが、この『武公伝』の記事であろうとみることもできる。
 とすれば、この一件の時期はかなり絞り込める。つまり、それは、慶安三年(1650)六月下旬、小倉から来る重要人物らを迎える前であろう。武蔵とは昵懇の間柄である寄之としては、心尽くしの墓掃除であったということになる。
 ではなぜ、『武公伝』の記事にはこうした背景を語る伝説がないのか。それは、伊織を、出羽の山奥で武蔵が拾った孤児にしてしまう『武公伝』の伊織情報のレベルからすれば、察しがつくところである。また、伊織が肥後へ来た慶安三年にしても、『武公伝』に記事があるのは、その年小倉で伊織が不審人物を見咎めて国外退去させた、それが後になって由比正雪だとわかった、という上述の伝説しかない。細川家が危機にあったというのに、いかにもズレた話である。
 武蔵の墓所の話についても、これは中西家の伝説が中心で、なぜ寄之が墓掃除を命じたか、その背景の具体的なことは、八代の伝説口碑にはなかったまでのことである。そこで、例によって、寄之は鷹狩に出るのである。言い換えれば、武蔵伝記『武公伝』に厳密な史実性を期待するのは無理な話である。それというのも、『武公伝』の記事は、肥後八代におけるローカルな武蔵伝説のコレクション以上のものではないからである。

 ここで余談になるが、中西角之進の養父・中西孫之丞のことである。中西孫之丞は、万治元年(1658)五十六歳のとき、孫之丞は離国の望みがあって、隠居を願い出た。隠居は認められたが、四国遍路をしたいと願い出ても許しが出ず、それどころか、離国しないという誓書を書かされた。隠居の身でも武士は自由勝手にはできないのである。その後再三願い出て、ようやく離国が叶い、備前国に三年住んだという。四国遍路をしたいというのは口実で、実は備前へ行きたかったということであろう。
 中西孫之丞の滞留先が、どうして備前だったのか、その事情はよく分からない。この当時、備前岡山城主は、池田光政(1609〜1682)である。学問好き大名として知られた人で、陽明学者・熊沢蕃山を重用して藩政改革を遂行した。しかし反陽明学の風潮のなかで、蕃山は失脚同然で備前を去った後である。備前に三年という時間を考えれば、中西孫之丞には、備前岡山に、父大西道也の代からのだれか知遇所縁でもあって、そこにしばらく居ついたのかもしれない。というのも、父大西道也は先祖附に《前々より池田家ニ被育置候》というように、長年池田輝政(1565〜1613)らの援助を受けており、それを理由に、細川忠興の招聘を断わっているからである。
 しかしもう一つ注目されるのは、寛文二年(1662)、池田光政が江戸で宮本小兵衛という青年を拾ったことである。宮本小兵衛は、播州姫路で本多忠刻に殉死した三木之助の甥である。本多忠刻と千姫の間には娘が一人あって、それが池田光政の妻・勝姫である。池田光政は宮本小兵衛を召抱え、備前へ連れ帰った。
 中西孫之丞は備前に三年居て、万治三年(1660)肥後へ呼び返された。したがって中西孫之丞と宮本小兵衛は備前ではすれ違いである。肥後へ呼び戻された中西孫之丞は、隠居の身ながら、いつでも役に立つべし、ということになった。興長が死んで寄之が家督して、八代入城、それ以後中西孫之丞は八代の人となる。屋敷は本丸橋口北の門脇である。その後、長命して九十七歳まで生きた。卒年は元禄十三年(1700)である。武蔵のことについても語り部の長老としてあっただろう。
 中西角之進は既述の通り孫之丞の養子になった人である。万治元年(1658)百三十石の家督を相続して、八代移住後二十石加増で、知行百五十石の家禄になった。寄之・直之・寿之の三代に仕えた。宝永元年隠居して、同七年(1710)死亡。享年七十五歳であった。

 そうしてみると、寛文十二年(1672)生れの豊田正剛は、この長寿の老人・中西孫之丞とその息子から話を聞く機会があっただろう。ただしそれが直話だったとしても、正剛が文書に書き留めたのは数十年後である。しかもまたそれが『武公伝』の記事になるまでには、なお何十年という時間が経過している。この年月の経過の間に、さまざまな説話要素が混入した。
 おそらく正剛が、中西角之進から聞いたのは、中西孫之丞が寄之の命で武蔵の病中死後まで世話をしたという話と、埋葬地の場所、そしてその墓掃除の話であろう。その他の記事について言えば、春山和尚引導は、豊田正剛が書き加えた記事である。また、武蔵遺体の武装入棺の話は、おそらく正脩の段階での挿話であろう。
 武蔵の墓というこの重要な記事は、本来なら、巻之一にあってしかるべきものだが、『武公伝』ではこのように、巻之二に配置されている。それは、校訂者・豊田景英からすると、葬地を「飽田郡小江村」とする難点があるとみたためであろう。これには手を付けず、整理物件として放置し、『二天記』で全面的に書き換えることになる。
 『二天記』になると、中西孫之丞が武蔵の病床に付け置かれた話は別の箇処へ移転し、そしてこの記事では、中西孫之丞と角之進という名は、例によって抹消されている。つまり、中西家の伝説という固有性を抹殺して、物語の一般的次元へ進んでいる。
 加えて、『二天記』は、埋葬地の「飽田郡小江村」を削除し、代りに飽田郡の弓削村と記録し、全面的に記事を改稿した。景英の頭には弓削村の武蔵塚より他になく、『武公伝』の伝承よりも、武蔵塚は弓削村にある事実を優先させたのである。この結果、弓削村に武蔵塚が設けられる以前の、当初の武蔵墓の場所を示す伝承情報が失われてしまった。
 かくして、『二天記』の豊田景英は、武蔵の葬儀中、春山和尚の引導が終ると同時に、雷鳴が轟いた、という新たな伝説を増補している。それは武蔵の葬儀をドラマティックに盛り上げる逸話だが、もとより、『武公伝』の段階ではかような伝説はなかった。肥後の武蔵伝説は、十八世紀後期でさえ、なお活発に成長していたのである。  Go Back




正保国絵図
隈本(熊本)と大江村



慶長國絵図
播磨国揖東郡宮本村









*【中西氏先祖附】 角之進
《曽祖父中西角之進重春儀、初名柴山金弥と申候。下野国宇都宮城主松平下総守様御家来、柴山五兵衛友実五男ニて、奉公望江戸え罷出居候を、正保四年十二歳の時、要津院様御児小姓ニ被召抱御国ニ被召連候。孫之丞嫡子・中西又兵衛宗㻇儀、要津院様御側被召仕候処病死仕候ニ付、柴山金弥を孫之丞養子被仰付、中西角之進と改申候。万治元年孫之丞隠居仕候付御知行百三拾石角之進え被為拝領、直ニ要津院様御側御馬乗ニ被仰付、寛文元年八代御入城の節山田源次跡屋敷被為拝領候、同年八月角之進儀若年より御奉公手全相勤候旨ニて、玉名郡群村の内弐拾石御加増被為拝領候、此御書出別紙目録共所持仕候》





















九州関係地図



細川光尚


福聚寺蔵
小笠原忠真










*【中西氏先祖附】
《万治元年七月離国の願有之、五十六歳ニて隠居奉願候処願の通隠居被仰付、五人扶持被為拝領、熊本万石村ニ隠居仕候。其後四国遍土奉願候得共、御書を以御留被成候付、離国は不仕段誓紙相調差上申候て、再三奉願候付、願の通被仰付候処、備前国ニ三年滞留仕居候付て、同三年の秋御呼寄被成候。此御書取持仕候。寛文元年要津院様八代御入城の節、隠居仕居申候得共、御供被仰付候。同二年九月熊本御出府の節、二丸御屋敷ニ被為召、山本源五左衛門を以、孫之丞儀隠居仕候得共、殊外達者有之候間、今一度年齢相応の勤方可被仰付候。尤何事そ有之節は、御知行百五拾石軍役被為拝領可被召連旨被仰渡候て、現米三拾石為御合力被為拝領候。同年十月八代於御城被仰渡候は、当御城御殿守惣御櫓御預被成候間、火事・地震・雷・大風の節、御次え罷出居候て、夜白〔昼〕共ニ心を付可申旨、夫故御本丸橋口北の御門脇の屋敷被為拝領之段被仰渡候。同四年妙応院様八代御光駕の節、御城内御案内被仰付候、同五年豊後国日田・玖珠両郡の百姓一揆騒動の節、与兵衛様御供被仰付置候。延宝元年二月拾人扶持被為拝領被成御休候。元禄十三年十二月九十七歳ニて病死仕候》

















*【二天記】
《同五月十九日千葉城ノ宅ニテ病卒ス。歳六十二。武藏遺言ニマカセ、甲冑ヲ帯シ六具ヲ固メテ入棺也。兼テ約ナレバ、泰勝寺春山和尚導師ニテ、飽田郡五町手永弓削村ノ地ニ葬ス。規式尤モ夥シ。春山和尚ノ引導終ルト齊シク、一天晴レタルニ、雷聲一ツアリ。諸士ノ下部ドモ驚キ、葬場大ニ騒動スト云ヘリ。其ノ後寄之主廟參有リテ、弓削村ノ庄屋ヲ呼出シ、墓ノ掃除等無怠可致旨被申附、米五十俵賜フ由ナリ。
送葬ノ時一ツ雷鳴シコトハ、奈何ニモ其例ナキニシモアラズ。細川右京太夫勝元、或ハ山名右衛門佐宗全等、送葬ノ時如是有シ由、應仁記ニ見エタリ。必豪傑ノ死去葬禮ニハ、如是事有ト云ヘリ》

 
  41 桜谷の鳶
一 武公、櫻谷ト云所ニ、澤村宇右衛門殿ヲ始トシテ門生千余人ノ過半、武公ニ随イテ木ノモトニ莚ヲモウケ、酒肉席ニ充リ。皆座テ、武公上席ニ進メ、門生二行ニ座シ、宴シバ々々欲頻。宇右衛門殿ヨリ武公ニ盞ヲ獻ジ、側酌輩肴ヲ獻ズ。武公右ノ手ニテ是請ケントシタマ(ヒ)ケル寸〔時〕、鳶空中ヨリ電光ノ如下リ来テ、肴ヲ掴デ揚ラントスル所ヲ、武公短劍ヲ左ノ手ニテ拔ト否、鳶ノ眞中ヲ差シ通シタマイケル。其早ワザ如此、聞人耳ヲ驚カシケルト也。
福田某語予。
右此鳶、歴年櫻渓ニ栖テ、至春遊宴ニ望ゴトニ肴核ヲ掴テ飛行。人々コヽニ行、肴核ヲトラレヌハナシトイヱ、武公カツテ此所ニ鳶スメル事ヲ不知。シカルニ、左ノ手ニテサシヲトシタマイシ事、電光猶遲ト云ツベシ。(1)

一 武公が、桜谷という所で(花見をされた折のこと)、沢村宇右衛門殿をはじめとして、門生千余人の過半が(集まって)、武公に随って木の元に莚を設け、酒肉が席に充ちた。みなが座って、武公を上席に進め、門生らは二列に座し、宴会は大いに盛り上がろうとしていた。宇右衛門殿から武公に盃を献じ、側に付いた酌輩が肴を献じた。武公が右の手でこれを受け取ろうとされた時、鳶が空中から電光の如く下りてきて、肴をつかんで飛び揚ろうとする。するとそこを、武公は短剣を左の手で抜くや否や、鳶の(体の)真中を刺し通されたのだった。その早わざ、かくの如し、聞く人の耳を驚かせたとのことである。
福田某が私に語った。右のこの鳶は、長年桜渓に栖んでいて、春になって遊宴に臨むと、いつも酒の肴(肴核)を奪って飛び去る。人々がここへ行って、酒の肴を取られないことがない。とはいえ、武公はここに鳶が栖んでいることをまったく知らなかった。しかるに、左の手で(鳶を)刺し落とされたのは、電光なお遅しと云うべきであろう。


  【評 注】
 
 (1)武公、櫻谷ト云所ニ、澤村宇右衛門殿ヲ始トシテ
 最前は武蔵の葬儀と墓所の話だったのに、こんどはまた生前の話になる。これは、『武公伝』巻之二がクロニクルとして整理されたものではなく、個別伝説を収集したその形をそのまま遺すものとみえる。巻之二は記事未整理のまま年代順序は気にせず、最前は中西家の伝説だが、こんどは沢村家の伝説、というぐあいなのである。
 ところで、肥後系伝記には、案外、武蔵名人譚は少ない。それゆえ、この桜谷の鳶の話は珍しい伝説事例である。
 ここに記す「桜谷」というのは花見の名所であったらしい。日本人は桜が好きだが、花見が大衆化したのは江戸時代以降、それまでは公家や武家の遊興である。有名なところでは吉野の桜があるし、秀吉の時代、豪勢な饗宴で知られる醍醐の花見では、諸大名は婆沙羅ぶりを競った。このころに桜の新種も開発された。
 武蔵の時代は、近世初期なので、まだ花見は武家の特権的遊興である。後世のように植樹して桜の園や並木をつくる時代でもない。自生の山桜や桜の巨樹を愛でるものであろう。
 『武公伝』の記事よれば、この花見の饗宴には、沢村宇右衛門をはじめとして、武蔵の門生千余人の過半が集まったというから、五百人以上の宴会である。沢村宇右衛門は前出の宇右衛門友好(1607〜67)、細川家の重臣である。彼については『武公伝』にすでに何度が登場しているから、ここではくりかえさない。この桜谷の宴の伝説記事では、この沢村宇右衛門が主催して、武蔵を主賓として招いたという状況設定である。文字通り華のある舞台である。
 門弟らが居並ぶ間を武蔵が上席に請じられ、主催者の宇右衛門が武蔵に酒盃を献じる。その傍らから接待係が肴を差し出す。武蔵が右手でこれを受け取る。と、そのとき、鳶が空から急降下、その肴を獲ろうとした。
 鳶というのは、今日でもどこでも見かける野鳥で、小動物を捕食する大型の猛禽類、両翼を広げると二メートルにもなるやつもいる。あまり人間を恐れず、人の食物を狙って急降下して奪うこともある。鷹はこういうことはしないが鳶はよくやる。トンビに油揚げではないが、花見で酒肴を攫われたというのは、よくある話である。丹後の伊根は舟屋で周知の漁村だが、ここに棲む鳶は、観光客のソフトクリームをかっさらう。
 ここに出てくる「桜谷」あるいは「桜渓」という地名は不詳。これについては、地元の研究に待つところあり、である。山渓に限らず、鳶は海辺にも多く棲息する野鳥である。あるいは海に近い場所かもしれない。それが場所特定のヒントになるだろう。
 さて、武蔵が右手で酒肴を受け取ろうとすると、鳶が空から急降下、その肴を獲ろうとした。その瞬間、武蔵は左手で短剣(脇差)を抜いて、鳶の体の真中を刺し通し仕留めた。電光石火の武蔵の早わざ、というわけで、これがこの説話の本体をなすシーンである。
 『武公伝』には、「その早わざ、かくの如し、聞く人の耳を驚かせたとのことである」と記されている。奇妙な記述である。「見る者の目を驚かせた」ではなく、「聞く人の耳を驚かせた」とあるからである。
 この一文で、この場面は、武蔵が鳶を仕留めた花見の現場から一気に遠ざかり、臨場性を欠く伝聞の世界へ送り込まれてしまう。たしかに、これは誰が語った話か、それを記していない。ようするに、これは現場に居合わせただれかの話ではなく、伝聞をもとにした後世の伝説なのである。おそらく、正剛の記事ではなく、子の正脩の代の伝説記事であろう。
 この段の補記に、福田某が予に語った、とある。この一人称「予」は、橋津正脩であろう。福田某については、細川家中に福田姓の家士は複数あって、とくにこれを特定する材料はない。あるいは、細川家臣ではなく、沢村家の家臣という可能性もある。しかし、いづれにしても、これは正脩と同時代の、後世の伝聞者である。聞く人の耳を驚かせた話をしたのが、この福田某である。
 その福田某の話によれば、この鳶は長年桜浜に栖みついていて、春になって遊宴に臨むと、いつも酒の肴を奪って飛び去る。人々がここに行くと必ず酒の肴を取られる。ということは、この鳶は有名な鳶だったという話になる。ところが、武蔵は、人の肴を攫うこの有名な鳶を知らなかった。それを電光石火、左手で短剣を抜いて仕留めたのは、さすが武蔵だ、と絶賛の体である。
 筑前系の『丹治峯均筆記』にも、いくつか武蔵名人譚があるが、それらには案外凡庸な話が多い。たとえば猫を仕留めた話もある。それと同じく、この鳶を仕留めた説話も、さして「聞く人の耳を驚かせる」ほどの内容ではない。この状況を読んでみよう。
 武蔵は不意をつかれたのか。鳶は上空でくるりくるり旋回しながら、獲物を狙っている。ここに人の肴を攫うので有名な鳶がいるとは知らなくても、武蔵は空に鳶がいるのに気づいている。そしてある種の「常識」として、肴を狙って取りに来る可能性があることを、知らないはずがない。それは我々の今日でも、ありふれたことだからである。
 実際、鳶に何かを取られそうになった経験がある人なら知っているだろうが、鳶の急降下は急速である。しかし、それをかわすのはさして難しくはない。というのも、鳶は獲物を脚爪でつかもうとするから、そのとき一瞬動きがとまる、居つくのである。
 武蔵の早わざは、右手に肴をもったまま、即座に左手で短剣を抜いて鳶を仕留めた、ということにつきる。ただし、これが名人譚かとなると、あまりそうは言えないのである。
 それよりも、『丹治峯均筆記』によれば、武蔵は鷹を手にしての野遊びを好んでやっていたらしい、ということがある。鷹狩という大がかりなものではない。放鷹して遊ぶのである。
 鷹を扱い慣れている者には、鷹を馴らす方法も知っている。手にある餌の肉を鷹が食うよう馴らすのである。餌をくれる者だということを鷹が認識すれば、それで鷹を調教できるようになる。鳶も野生ながら餌付けはできる。それは鷹と同じ要領である。ただし鷹のように狩猟に使役できないだけである。
 したがって、武蔵が鷹を扱い慣れているとすれば、この説話の場面はさして驚くべきことではない。右手に肴肉を持ち、左手で抜いた短剣で鳶を仕留めるというのは、たしかに早わざだが、名人譚として語られるほどのことではない。
 むしろそれよりも、肴を狙って飛来した鳶を、武蔵が左手一つで捕まえてしまい、それを連れ帰って餌付けして、鷹と同じく狩猟に使えるよう調教してしまった、というほどの、やや荒唐無稽の展開になった方が、それこそ驚嘆すべき話なのである。
 『武公伝』のこの記事は、名人譚としては凡庸な場面である。これに驚く、あるいは聞く人の耳を驚かせたということは、人々の口を経過して摩滅した通俗伝説だということを意味する。これが、豊田正剛ではなく、橋津正脩の段階での記事だろうとは、上に述べたところである。花見と鳶という一般的な説話素に、武蔵という存在が結合されて発生した、後世の伝説なのである。
 『二天記』の景英はこの逸話を採録していない。前に武蔵の驚嘆すべき事蹟として、火事場で屋根を飛び渡った話が出たが、それは収録しても、この鳶を仕留めた話は編入しなかった。
 それは、親父の本にこんな話があるがと披露したが、村上派内部では、そんな話は聞いたことはない、ガセネタだろう、ということになったのかもしれないし、また景英が、武蔵の逸話としては、さして上等な話ではないとみなしたためであろう。かくして、この逸話は、『武公伝』巻之二に整理物件としてさし置かれたのである。
 ともあれ、後世の人間が期待するような「聞く人の耳を驚かせる」ほどの武蔵名人譚は、『武公伝』にかぎらず武蔵伝記には残っていない。肥後系であれ筑前系であれ、武蔵晩年肥後時代の事蹟が見聞材料なのだが、その頃には武蔵はあまり人前に現われることはなかったのである。武蔵門弟とは称しても、実際に武蔵に接する機会はごく稀で、それゆえ特に際立った逸話もなかった。それが実態のようである。  Go Back





吉野の桜 奈良県吉野町



醍醐桜 岡山県真庭市

























 
  42 寺尾求馬助と弁助の門弟たち
一 寺尾求馬并辨介ノ弟子、小篠十郎右衛門、道家平蔵、村上平内、此三人ハ直通傳授也。(1)
 其外、的場甚右衛門、渡邊新之亟、岡田久左衛門、真下源太兵衛杯、何レモ相傳ノ衆也。(2)

一 寺尾求馬助ならびに弁介の弟子は、小篠十郎右衛門、道家平蔵、村上平内、この三人は直通伝授である。
 そのほか、的場甚右衛門、渡辺新之亟、岡田久左衛門、真下源太兵衛など、何れも相伝の衆である。

  【評 注】
 
 (1)寺尾求馬并辨介ノ弟子
 話はうって変わって、ここから三つの段にわたって、武蔵の弟子である寺尾孫之丞と求馬助、この二人の門流・弟子たちの記事である。寺尾孫之丞・求馬助の兄弟については、前に話に出たおりに解説してあるから、それを参照されたい。
 ここは、まずは寺尾求馬助の門流だが、『武公伝』は《寺尾求馬并辨介ノ弟子》と、奇妙な書き方をしている。弁助は求馬助の子であるし、門流世代からすると、弁助は求馬助に教えを受けた次世代のはずである。求馬助と弁助を一括してしまうのは、このままでは解せない記述である。
 しかるに、すでに前に述べたように、新免弁助は、父求馬助が武蔵の新免氏の家名を嗣がせた人である。したがって、その限りにおいて武蔵流兵法第二代。実際は孫弟子であって三代目なのだが、形式上は二代目。それゆえ、『武公伝』の記事は、寺尾求馬助と弁助を、並列させているわけである。
 そういう位置づけなので、新免弁助の系統はすべて代々数を一つ繰り上げて算える。既述例で云えば、村上平内正雄の子、平内正勝は実際は五代目だが、一つ繰り上がって四代目となる。混乱の元になりそうだが、これは新免弁助が、武蔵の家名を継いだということを最大限強調する、ある種の派閥論理の貫徹である。これは肥後の寺尾派と村上派の特徴である。
 というわけで、『武公伝』は、寺尾求馬助と弁助の弟子は、小篠十郎右衛門・道家平蔵・村上平内の三人だという。このうち、道家平蔵が求馬助の弟子であり、小篠十郎右衛門と村上平内(正雄)は新免弁助の弟子である。
 以下、彼らについて知りうる情報は些少だが、先祖附を中心に順にみておこう。先祖附は諸家系譜書上文書であり、いわば奉公記録であるから、たいてい記述内容が乏しく、無味乾燥の一語に尽きる。決してそれぞれの武士の生き様の具体相は語ってくれない。それを承知で読むことである。

 (1)小篠十郎右衛門
 さて、まず小篠十郎右衛門についていえば、小篠先祖は、足利将軍に仕えた小篠兵庫頭、その子・亀之允は大和大納言豊臣秀長(1540〜91)に仕え、その後豊前小倉城主・毛利壱岐守勝信(?〜1611)に仕えた。亀之允死後、次太夫・七左衛門・八兵衛ら息子たちも毛利勝信に仕えたが、慶長五年(1600)の関ヶ原役で毛利勝信没落、小篠兄弟は浪人することになった。
 次太夫は細川忠興に召抱えられ七百石、一方、七左衛門は黒田如水に召抱えられ、長政に仕えたが、慶長八年(1603)筑前を立退き、同年細川忠興に召抱えられ、三百石。八兵衛も同じく忠興に召抱えられ、三百石を与えられた。七左衛門の子・角大夫は忠興に召出され新知二百石、細川忠利に附属された。寛永十五年の有馬陣(島原役)に出陣して負傷。父の死後家督相続。延宝三年(1675)隠居。角大夫の子・彦右衛門が家督相続したが、やがて貞享三年(1686)隠居。小篠十郎右衛門が家督を嗣いだ。
 小篠十郎右衛門は以後諸役を勤め、順次加増され、宝永二年(1705)江戸留守居役の頃には都合七百石。さらに享保三年(1713)番頭になり、加増二百石に役料二百石。しかるに同年病気で死去した。
 小篠十郎右衛門の生年は不詳だが、おそらく年齢は新免弁助(1666〜1701)の世代であろう。十郎右衛門の家督は貞享三年(1686)だから、新免弁助よりも年上かもしれない。ここに一番に名があがっているのは、次の道家平蔵よりも年長の兄弟子だからであろうが、ただし、世代からして寺尾求馬助の弟子としては晩年の門弟に属する。この小篠十郎右衛門を新免弁助の弟子とする道統があるから、結局、寺尾求馬助の死によって相伝は得ず、新免弁助から一流伝授となったらしい。
 それゆえ、寺尾求馬助の息子たちを除いても、ここに一番に名が出ているのは不審である。次に名が出る道家平蔵は明らかに求馬助の相伝弟子である。したがって、道家平蔵よりも小篠十郎右衛門の名を先に出すというのは、いかなる具合か。『武公伝』のこの門弟記事は、かなり恣意的で不完全なものと看做さざるを得ない。

 (2)道家平蔵
 次に、道家平蔵とあるのは、道家角左衛門の息子・道家平蔵宗成。求馬助の弟子である。道家角左衛門は『武公伝』に再三語り手としてその名が登場している。豊田正剛は道家平蔵の弟子なので、彼の名をここに特に入れたのであろう。道家平蔵が父角左衛門から聞いた話を豊田正剛が聞いて、その又聞きが『武公伝』の記事なったとおもわれるものがある。
 改めてこの道家氏について先祖附をみれば、先祖道家帯刀は、慶長七年(1602)、松井康之の取次で、豊前で忠興に召出され、知行千石。寛永十年(1633)加増千二百石あり、都合二千二百石。寛永十九年卒というから、この道家先祖は、武蔵が肥後に逗留していた頃まで生きていたことになる。
 道家帯刀の嫡子は左近右衛門。慶長八年(1603)親帯刀同様、豊前で忠興に召出され、知行百五十石。忠利の代になって元和七年(1621)加増八百五十石で、都合千石。その後、有馬陳(島原役)の戦功で五百石加増、都合千五百石。父帯刀と同じく左近右衛門も結構な出世ぶりである。寛永十九年に帯刀が死去して、父の知行二千二百石に、左近右衛門自分知行千五百石の内、有馬陳で得た加増五百石を加え、都合二千七百石が左近右衛門拝領分となった。つまり、差引き千石は返上したかたちである。ところが、まもなく左近右衛門が病死、嫡子太夫は幼少三歳ながら跡目を相続したが、これが翌年死亡。ここで道家左近右衛門家は断絶した。
 道家帯刀の二男が七郎右衛門。元和元年(1615)細川忠興に召出され知行三百石。忠興・忠利・光尚三代に仕えたが、慶安四年(1651)死去。家督は嫡子の次右衛門が嗣いだ。他方、七郎右衛門二男が角左衛門。つまり、『武公伝』に語り手として登場する、武蔵直弟子という道家角左衛門である。
 道家角左衛門は、忠利に召出され五人扶持。有馬陳はじめ以後武勇もあるが、とくに知行は与えられなかった。武蔵死後の正保三年(1646)になって、ようやく新知二百石を得た。その後、承応三年(1654)鉄砲十挺頭、寛文十一年(1671)鉄砲二十挺頭、と出世もささやかなものである。元禄四年(1691)隠居、入道して号哲斎。『武公伝』には徹水とある。
 さて、道家平蔵宗成は角左衛門嫡子である。父が隠居して、二百石の家督を相続し、以後元禄宝永年中諸役を勤め、正徳二年(1712)病死した。道家平蔵の場合、家督相続以前には勤仕記録がないから不明だが、おそらく若年の頃から兵法修行して、児小姓や中小姓という通常の事前コースはたどらなかったのであろう。つまりその間、寺尾求馬助に随って修行したのである。
 豊田正剛は道家平蔵に学んだという。正剛は貞享三年(1686)十五歳のとき直之に召出された。同年十一月、父高達は熊本勤務。翌年、正剛は、直之の嫡子・寿之の御部屋附きとなった。とすれば、豊田正剛は若年のころ熊本へ出て暮す機会があり、この頃から豊田正剛が道家平蔵に学んだ可能性がある。これは既述の通りである。

 (3)村上平内
 三番目は、村上平内正雄、新免弁助の弟子である。村上平内については既述事項があるので、それを参照してもらいたい。ただここで関連事項を改めて述べれば、以下のごとくである。
 村上先祖は、伊予国能嶋城主・村上氏、つまり村上水軍の一つ、能島〔のしま〕村上氏である。能島村上氏五代村上大和守武吉(1533〜1604)の叔父、村上弾正少弼隆重がこの村上家の先祖である。隆重は備中笠岡山城主、笠岡掃部とも称した。のち小早川隆景に属した。村上隆重嫡子が村上八郎左衛門尉、後東右近太夫と改む。隆重二男が村上縫殿介、細川忠興が豊前で召出し、細川氏肥後入部後、八代で長岡河内と改め、三斎の家老をつとめた。
 東右近太夫の子が村上吉之允正重(1606〜38)。父病死後、幼少のため豊前にいる叔父縫殿介方で養育された。それを細川忠利が児小姓に召出し、知行二百石。のち、有馬陳(島原役)に出陣するも鉄砲で撃たれて負傷、帰国し養生したが死去、享年三十三歳であった。
 『撃剣叢談』に、細川忠利の近習、村上吉之丞という者は、松山主水の平法にもっとも心力を委ね、抜群の器なり、として、あるいは、吉之丞は、主水死後には及ぶ者なく、吉之丞の門下に入る人多し、とあるのは、この村上吉之允正重のことであろう。
 つまり、この村上吉之允は、二階堂流松山主水の高弟なのである。しかも周知のごとく、『撃剣叢談』には、武蔵がやってきて派手なパフォーマンスをやっていたが、吉之允がこれを聞いて武蔵との試合を望んだところ、武蔵は吉之允に敵わないと思って敵前逃亡してしまった、という話を記載している。
 かくして、十八世紀後期にはこんな反宮本武蔵伝説が生じていたことがこれで知れるが、それにしても、村上吉之允は村上平内の祖父である。村上平内も自分の祖父が、後世こんな珍説の片棒を担がされるとは、夢にも思わなかったにちがいない。周知のごとく、これは近代の小説家たちが好んで活用した逸話だが、むろん荒唐無稽な伝説である。
 吉之允正重の子が吉之允正之(1633〜97)。父が若死にしたので家督のおりは六歳であった。ところが、正保四年(1647)のポルトガル船来航のとき、つまり前に都甲太兵衛の話題に出た事件のおり、吉之允正之は出陣、年齢は十五歳、元服前であった。その後は諸役歴任して、元禄四年(1691)隠居、そして家督二百石を相続したのが、村上平内正雄である。
 この村上平内のケースも若年家督相続ではなく、それまでに兵法修行の期間は十分にあっただろうと思われる。平内は新免弁助の門弟だという。村上平内の生年は墓誌になく不明である。たぶん、新免弁助(1666〜1701)と同世代か、あるいは年上の可能性もある。
 村上平内の門流は後に隆盛をみたから、平内の逸話も多いが、その中にこんな話もある。――元緑七年(1694)というから平内家督後のことだが、家中諸士武芸上覧の節、村上平内は弓で出場した。殿様の細川綱利は、平内が文武共に達者なのを認知して、その後、平内の弓術ではなく兵法(このケースでは剣術)を見たいと内意があった。平内が申上げるに、自分の兵法は、まだ鍛練不十分なので、未熟なのをお見せするのは、如何かと存じますと。すると、では、敵に勝つ術を見せろとの内意。平内応えて、勝つことは確かではありません。ですから、家中の兵法者、他流残らず、相手にして試合させていただけるのなら、お受けしましょうという返事。すると、もう上覧の話はなくなった、云々。
 これなど、家中すべての他流兵法者と試合させてくれるのなら、勝ってみせましょう、という不遜な返事なのである。もう頃は元禄のことで、勝った負けたのこういう他流試合は穏やかではない、ということになっていたらしい。
 この逸話では、すでに村上平内は、細川家中では最強の兵法者たることを自認していたということになろうが、この話に反映されている背景は、細川綱利は柳生流を信仰し、(村上平内に限らず)武蔵流兵法を遠ざけたという事実である。それが、このような逸話に改編されて残ったのである。
 先祖附によれば、村上平内は、元禄七年(1694)御暇を願い出たが、許されなかったという。すると、先ほどの兵法上覧話があった年に、村上平内は致仕を願い出ていたのである。離国して、他国を回遊して兵法修行したいという希望があったらしい。そのためには細川家に禄を返上して浪人し、自由の身とならねばならない。しかしその望みは叶えられず、平内はそのまま仕官を続けざるをえなかった。
 このとき新免弁助は二十九歳である。致仕離国の望みがあったとすれば、村上平内には師匠の新免弁助を超えた、という気があったのかもしれない。また、それだけの威勢が平内にはあったということだろう。本サイトの別のページでも述べられているように、村上平内が師匠の新免弁助を襲撃したという伝説がある。平内は、師匠の弁助さえ居なければ、俺が日本一になれると思い、ある日弁助を襲ったが、逆に捕り抑えられて、破門になった、というわけである。村上派と競合する寺尾派による、露骨にタメにする説話であるのは、あきらかであるが、他方、こういう反村上平内伝説が発生するほど、村上平内には勢力があったということである。
 その後、元禄十年(1697)村上平内は、二百石の知行と家屋敷を召上げられて、牢人した。この召上げの理由は、《右平内儀、世間出合不宜、殊之外手荒打合なとニ懸り風聞不宜》、つまり、平内は、普通の世間付合いもせず、とくに異常に手荒い稽古をするなど、家中の評判がよくない、それで召放ちにするというわけである。ようするに、その傍若無人ぶりが肥後の武家社会の秩序に納まらなかったので、反感を買ったというのである。
 とすれば、三年前致仕を願い出た経緯もあるので、これは、浪人の身となって自由に廻国修行したいという平内が、わざと仕向けた処分であったかもしれない。しかし、そうだとしても、結局は平内の算段は狂った。この処分に関連して、村上の親類に通達があった。知行召上げになったからといって平内を粗略に扱うな、平内が困窮するようなことがあれば、親類中で面倒をみてやれ、もし平内が他国へ出るようなことがあれば、親類一同の共同責任だぞ、という通告なのである。こうなると、親類の迷惑があるから、平内も勝手に離国できない。浪人の身になっても、この元禄の頃には、すでに武士は自由な身ではなくなっていたのである。
 こういう締め付けもあって、村上平内はその後、熊本から離れた合志郡妻越村(現・熊本県菊池市旭志新明)に住んで武蔵流兵法を教えていたらしい。その門流から、息子の平内正勝と八郎右衛門正之の二人が出て、以後いわゆる村上派の展開となる。こうして村上平内が致仕牢人して兵法指南に専念したおかげで、十八世紀半ば以降も武蔵流兵法が存続する推進力になったともいえる。

 以上三人、すなわち、小篠十郎右衛門・道家平蔵・村上平内の三人は、「直通伝授」だという。これは奥義伝授ということだろうから、彼らが正統の弟子だというわけである。この記事の問題の所在については、後に再説するであろう。  Go Back












*【武公伝求馬助系統図】

○新免武蔵守玄信─寺尾求馬助
 ┌────────────┘
 ├新免弁助信盛―村上平内正雄
 |
 ├小篠十郎右衛門
 |
 └道家平蔵宗成―豊田又四郎正剛












*【小篠氏略系図】

○小篠兵庫頭―亀之允┬次大夫
          |
          ├七左衛門┐
          |    |
          └八兵衛 |
┌──────────────┘
└角大夫―彦右衛門―十郎右衛門


























*【道家氏略系図】

道家帯刀一成┐
┌─────┘
├左近右衛門立成―太夫

└七郎右衛門┬次右衛門―次右衛門
      │
      └角左衛門―平蔵宗成



熊本県立図書館蔵
立田口 道家平蔵屋敷


○新免武蔵守玄信┐
┌───────┘
寺尾求馬助道家平蔵―豊田正剛

└道家角左衛門






*【村上家略系図】

○村上弾正少弼隆重┬東右近太夫┐
         │     │
         └縫殿介  │
           長岡河内│
┌──────────────┘
└村上吉之允正重―吉之允正之┐
┌─────────────┘
平内正雄─┬平内正勝―平内正則
│     │
└吉之允正房└八郎右衛門正之┐
  ┌───────────┘
  └大右衛門─貞助


*【撃剣叢談】
《忠利の近習、村上吉之亟と云者、此の平法に尤心力を委ね、抜群の器也。(中略)吉之亟ハ、主水死後には及ぶ者なく、是が門下に入人多し。其比宮本武藏、流を弘めんとて九ヶ國に經歴し、城下近き松原にて藝習はす様、折節夏の比成しが、伊達成帷子に金箔にて紋打るを着、目ざましく装ひて、夜な/\出て太刀撃す。もとより輕捷自在の男なれば、縱横奮撃する有様、愛宕山の天狗などハかくもやあらんと專沙汰せし也。吉之亟是を聞て、人を以て勝負を望ミたり。武藏ひそかに吉之亟が藝の様を聞に、中/\及ぶべくも思われざりしかば、何となく去て他國に行しと云。されど、武藏が名は天下に高けれども、吉之亟ハ知る人なし。(是)諸國に周遊して藝を弘めしと、國一ツにて行れしとの違成べし。戦國にて武辺塲数の士も、國一ツにて立たる功名ハ、遍く世にしられざるも多きを以て見れば、さもあるべし》(第三巻 二階堂流)


*【村上氏先祖附】
《元緑七年、武藝上覧の節、弓にて罷出候處、平内儀、文武共に達候旨御意、即座に申渡、其後兵法御覧御内意の處、平内申上候は、兵法の儀は、未た鍛練不仕候間、未熟成る儀を仕候は、如何に奉存候由申上候處、猶又敵に勝候儀を致候樣にとの御内意に付、勝申候儀は覺申候間、御家中兵法者、他流不殘、相手相打を仰付られ候はゞ、仕申度申上候處、御上覧は無御座候。然處、平内病身に罷成、御奉公難動、御知行差上度、奉願候處、叶はせられず、無構其儘罷在候樣仰付られ候。(元禄)十年、平内儀世間出合不宜、殊の外手荒打合等に懸り、何も悪き風聞致候間、御知行召上られ候段仰渡され候。其後監物殿宅にて、三宅藤兵衛を以、平内御知行召上られ、難儀可致間、一類中より麁末に不致候樣、一類中へ申渡に相成、且又平内他國を望共にては無之歟、若左樣の儀有之節は、一類中へ迷惑仰付られ候段、申渡に相成、前々の通、思召の筋も在せられ候間、身を崩不申、押移候樣仰付らる。其後金子御米等拝領、元文四年十二月病死》


*【二天記附記】
《或曰、村上平内正雄者、學兵法於新免辨助之門。其派存于今者二家。子今作武藏流傳統系圖。而外之者何耶。曰、余甞聞正雄學兵法於辨助師之門久矣。藝既成。以爲天下唯師勝已也。心竊害之、乃携四尺餘木刀、撃其不意。師徒手奪其刀、叱而逐其門。後數年、正雄授劍法於人、師之姪志方之經聞之、以書責其僭。正雄答謝曰、浪士無由糊口、用所自給耳。然所授于人非所受師也。之經恕不問。是以遂興一家、名曰村上流。其謝書存于志方氏。木刀存于寺尾氏。皆歴々于今。然而世人以村上大塚二家出于正雄者、混志方山東二家出于武藏守者、而共稱武藏流。余恐眞僞之辨久而u癈也。故作武藏流系圖、別附以村上流、掲之於二天記之末。以示後人矣。
 天保十五甲辰歳孟冬 友成正信識》





*【村上派系統図】

○新免武蔵守玄信―寺尾求馬助┐
┌─────────────┘
└新免弁助信盛―村上平内正雄
┌─────────────┘
├村上平内正勝―村上平内正則

└八郎右衛門正之┬村上大右衛門
        │
        └野田一渓種信
 
 (2)相傳ノ衆
 小篠十郎右衛門・道家平蔵・村上平内の三人は、「直通伝授」。その次に、名が並んでいるのは、的場甚右衛門・渡辺新之亟・岡田久左衛門・真下源太兵衛の四人である。いづれも実在の細川家士の面々である。彼らは「その他相伝の衆」である。小篠十郎右衛門・道家平蔵・村上平内の三人の「直通伝授」とは違って、一段落ちるということかどうか、このあたりはもとより委細不明である。
 ここで彼ら相伝の衆をみておけば、これも諸家先祖附にたよるほか、我々には情報はない。

 (1)的場甚右衛門
 まず的場甚右衛門。先祖附によれば、先祖の的場甚右衛門正簾は細川藤孝(幽斎)に召出され、細川家が丹後に移って忠興から知行三百石を与えられた。甚右衛門二男が的場平三郎、忠興に召出され、知行二百石。忠利・光尚の代まで勤めて隠居、嫡子・的場甚右衛門に家督相続。ところが甚右衛門が病死してしまった。二男市之允も程なく病死。そこで甥、つまり平三郎の兄・的場甚兵衛の倅を養子にした。これが的場金右衛門、徒御小姓に召出されていたが、叔父平三郎の養子になって知行二百石の家督を相続した。老年まで勤士して、元禄六年(1693)隠居。
 これを嗣いだのが、『武公伝』の的場甚右衛門。実は宇野小左衛門の弟、つまり宇野九左衛門二男である。こちらは、祖父の宇野五郎左衛門のとき、豊前で細川忠利に知行二百石で召抱えられた。五郎左衛門の兄・七右衛門は、それより先、細川忠興に豊前で召抱えられ、知行三百石。この宇野七右衛門・五郎左衛門の兄弟から細川家に仕えるようになった。
 父の宇野九左衛門は、慶安三年(1650)家督相続。元禄二年(1689)父が隠居して、兄の宇野小左衛門が家督相続した。その弟を的場金右衛門が養子にして、的場甚右衛門正邑。甚右衛門は元禄六年(1693)家督相続して知行二百石、御番方からはじめその後諸役歴任して出世し、享保四年(1719)には本知五百石の外役料百石をうけた。同九年(1724)隠居、そうして長年の勤功に対し隠居料十人扶持を与えられた。
 的場甚右衛門は、貞享五年(1688)に死んだ寺尾求馬助の弟子である。家督相続が元禄六年(1693)で、そのまま御番方勤務だから、若年ではない。おそらく道家平蔵と同世代であろう。

 (2)渡辺新之亟
 次に名があがっているのは、渡辺新之亟。先祖附によれば、渡辺先祖は栗山三郎左衛門、播磨の人である。その子・栗山源兵衛は同国小塩という所に居住したとある。この「小塩」は「をじお」つまり置塩のことで、赤松宗家居城のあった所である(現・姫路市夢前町)。栗山源兵衛の子・源三郎の代まで播州に居たが、赤松氏退転により浪人、その後鳥取城主・宮部善祥坊継潤(1529〜99)に仕えた、善祥坊の息子・宮部長房(1581〜1634)にも仕えたが、関が原敗戦で宮部家没落してまた浪人。次には、姫路城主・池田利隆(1584〜1616)に仕え、榊与次右衛門と家名を改め、その子・池田光政(1609〜82)にも仕えた。この間、主家池田氏は、播磨姫路→因幡鳥取→備前岡山と転封し、与次右衛門もこれに従った。そうして与次右衛門は隠居して、二男榊十兵衛に家督相続、しかし十兵衛は、事情があって備前を立退き浪人した。
 榊与次右衛門嫡子が渡辺武左衛門。幼少より母方の叔父・渡辺掃部(藤堂高虎家臣)で養育されていたが、細川忠利に召出され、知行三百石。有馬(島原役)に出陣して名誉の負傷。その後武左衛門は諸役を勤め、元禄三年死去。この渡辺武左衛門の嫡男が、『武公伝』の渡辺新之允である。
 渡辺新之丞は、延宝四年(1676)細川綱利に召出され児小姓、中小姓を勤め、元禄四年(1691)武左衛門跡目を相続して知行三百石。以後諸役を勤め、享保十八年(1733)死去である。渡辺新之丞は延宝四年に綱利に召出されて児小姓というから、新免弁助よりもやや年長であろう。道家平蔵と同世代とみておく。渡辺新之允は寺尾求馬助の弟子であろうと思われる。

 (3)岡田久左衛門
 第三番目は、岡田久左衛門である。岡田氏先祖はさして遡らない。初祖禰羽右衛門は三斎様御附中津二相詰候衆、七十二石とある(於豊前小倉御侍帳)。二代甚五衛門は右筆となって、三百石(真源院様御代御侍名附)。そうして、三代目に久左衛門の名があり、御奉行処触組・御郡方、三百石に役料五十石(元禄御侍帳)である。家格はこの頃、知行三百石となったものらしい。
 しかし、この久左衛門が、『武公伝』の岡田久左衛門とは特定できない。というのも、彼の養子に、久左衛門豊健という者がある。この豊健は、道家角左衛門二男で、初名・甚右衛門、岡田家に養子に入って家督を嗣いだ。
 先代久左衛門から三百石で郡奉行を勤めていたが、この久左衛門豊健も、宝永から享保にかけて、下益城郡、上益城郡、玉名郡、合志郡と、郡奉行を歴任している。
 ともあれ、武蔵から学んだ道家角左衛門の二男ということであれば、道家平蔵の弟であり、この岡田家四代目の久左衛門が、寺尾求馬助門下に学んだ。世代からすれば、新免弁助の弟子であろうし、相伝は新免弁助から受けたものと思われる。

 (4)真下源太兵衛
 相伝の衆の最後は、真下源太兵衛。真下先祖は沢井対馬守、足利将軍に仕えた。永禄八年(1565)足利義輝が松永弾正久秀や三好三人衆に攻められて自害したとき戦死した。沢井対馬守の子らは大和国真下という所に住んだが、のち丹後弓木城主・一色義有に仕えた。そのとき真下と改氏した。
 一色義有は細川藤孝の女婿だが、天正十年(1582)本能寺の変のおり、細川藤孝・忠興父子は一色義有を宮津城に招いて謀殺し、弓木城を攻めた。このとき、一色家家老の真下梶之助は、細川勢の米田監物と戦って討死した。そのとき真下は監物に後事を託した。この約束で米田監物は、真下梶之助の子らを養育した。そういう典型的な戦国美談がある。
 梶之助嫡子が真下七之助(後に七兵衛)。丹後で細川家に仕え、知行三百石。真下七兵衛の姉・さいは細川忠興の側女となり、産んだ男子が岩千代、のちの長岡寄之である。その後、さいは沼田勘解由に嫁した。そのとき忠興は知行五百石を与えた。真下七兵衛は、忠興・忠利・光尚の三代に仕え、明暦元年(1655)卒去である。真下七兵衛の子は名跡を継いで、これも真下七兵衛。父が死んだとき十四歳で、翌年跡目を相続した。諸役歴任し、元禄十一年(1698)隠居、寶永元年(1704)死去。
 これを嗣いだのが、『武公伝』の真下源太兵衛。元禄十一年(1698)に知行三百石の家督を相続し、御番方を振り出しに諸役歴任、再三江戸へも出向いている。享保十九年(1734)隠居するまで勤仕した。
 この真下源太兵衛は寺尾求馬助の弟子である。家督が元禄十一年というから、おそらく壮年になってからの相続であろう。長命だった人のようである。

 以上、相伝の衆として名があがっている四人をみたが、前記直通伝授の三人を含めて、どれも実在の細川家士の面々である。『武公伝』にこれらの名があるのは、何か伝系文書があったというよりも、流派内の口碑伝承のようなものであろう。『武公伝』の作者は師匠からそれを聞いて、記録したのであろう。
 しかし、彼らがいつ直通伝授あるいは相伝をうけたか、不明であるばかりではなく、どれが寺尾求馬助の弟子で、どれが新免弁助の弟子なのか、『武公伝』の記事によるかぎりでは明確な区別がつかない。その分別は推測によるしかないのである。












*【的場氏略系図】

○的場甚右衛門正簾―┐
 ┌────────┘
 ├甚兵衛―金右衛門 平三郎養子
 |
 └平三郎┬甚右衛門
     |
     ├市之允
     |
     └金右衛門―┐
 ┌─────────┘
 └甚右衛門 宇野小左衛門弟


*【宇野氏略系図】

○宇野五郎左衛門―九左衛門┐
 ┌───────────┘
 ├小左衛門―五左衛門―忠左衛門
 |
 └甚右衛門 的場金右衛門養子











*【渡辺氏略系図】

○栗山三郎左衛門―源兵衛―┐
 ┌───────────┘
 └源三郎 榊与次右衛門 ―┐
 ┌───────────┘
 ├渡辺武左衛門―新之允
 |
 └榊十兵衛

































*【真下氏略系図】

○沢井対馬守┬真下梶之助―┐
      |      |
      └沢井小八郎 |
 ┌───────────┘
 ├女 さい 寄之生母
 | 忠興側室・後沼田勘解由妻
 |
 └七之助―七兵衛―源太兵衛

 『武公伝』は、直通伝授の三人をはじめ以上計七人の名を挙げているが、むろん、この列記から抜け落ちた名もあるはずである。それは『武公伝』の作者の時代まで残らず、視野から消えた人々であろう。しかしながら、それを勘案しても、その名がないのがどうしても解せないものがある。言い換えれば、『武公伝』の作者が故意に無視したとしか思えない、名の脱落である。
 一つにはそれは寺尾求馬助の他の息子たち、新免弁助の兄弟たちである。すでに見たように『武公伝』は、村上八郎右衛門の話として、寺尾求馬助の息子たちを記録している。しかしそこには、その息子たちについて、たとえば、兵法師範を勤めたというような具体的な記述はない。
 ところが、求馬助長男嫡子の佐助は、三十九ヶ条兵法書相伝の伝書があるし、また寺尾系図によれば、三男の藤次と六男の郷右衛門は、どちらも《兵法師範被仰付、五人扶持拾五石》とあるから、むろん兵法に無縁であったのではない。
 とりわけ、寺尾藤次の息子が志方半兵衛で、これは新免弁助から一流相伝、さらに実父寺尾藤次から再伝をうけて、志方半兵衛→半七→新免弁之助以下その門流は存続している。また、寺尾郷右衛門もまた師役をつとめ、吉田如雪→山東彦右衛門以下その門流は展開する。
 『武公伝』の記者がそうしたことを知らぬわけがない。そうなると、『武公伝』のこの記事は、同時代のとくに近縁諸派を故意に無視したもののようである。
 もっとも顕著な作為は、志方半兵衛の名を記さないことである。というのも、宝暦年間熊本に学校・時習館が設置され、その当初の武蔵流兵法の師役は、志方半兵衛と村上平内(正勝)である。この二人が時習館で師役を勤めたということは、彼らが肥後の武蔵流を代表する者だということであろう。しかるに、同じ新免弁助門下から出た村上平内の名を記しても、志方半兵衛の名をまさに排除しているのである。
 しかし、志方半兵衛はその著『兵法二天一流相伝記』(寛保二年・1742)において、寺尾藤次の嫡子たることを記し、そのうえで、新免弁助と寺尾藤次の両方から相伝を受けた自分以外に正統正系はないと主張している。また前に述べたように、養源院にあった新免弁助の位牌は、寛延三年(1750)弁助五十回忌に志方半兵衛が納めたものである。叔父だからというよりも、その兵法嫡流なればこそ、弁助の位牌を門流を代表して納めたのである。その志方半兵衛の名が『武公伝』にはないのである。
 とすれば、『武公伝』の記事は決して公平客観的なものとは云えない。むしろ、これはある種の党派的道統を示すもので、要するに、村上派の伝系を記したものである。前に述べたように、『武公伝』は《寺尾求馬并辨介ノ弟子》と、奇妙な書き方をしている。これは、新免弁助を武蔵3代ではなく、二代目と算える特異な伝系によるとした。しかし、ここまで辿ってくると、志方半兵衛の名を排除していることに示されるように、これは新免弁助の門流内部の対立からする、排他的構図を語っているのである。
 したがって、そうなると、これは誰が書いた記事なのか、ということになる。答えは、申すまでもなく、村上八郎右衛門の弟子だった豊田景英である。《寺尾求馬并辨介ノ弟子》という特異な書き出しは、まさに村上派たる豊田景英の記述なのであった。
 そうしてみると、小篠十郎右衛門・道家平蔵という直通伝授の二人、あるいは的場甚右衛門・渡辺新之亟・岡久左衛門・直下源太兵衛ら相伝の衆は、村上派とは関係がなさそうだから、これはオリジナルの正脩の『武公伝』にあった記録であろう。
 しかもその段階では、新免弁助門弟と思われる岡久左衛門・直下源太兵衛ら相伝の衆の名があるところを見ると、村上平内の名とともに、新免弁助門下の有力者・志方半兵衛の名も当然あったはずである。とすれば、『武公伝』は景英の段階で、志方半兵衛の名を抹消したものと思われる。
 それゆえ、「寺尾求馬ならびに弁介の弟子は、小篠十郎右衛門・道家平蔵・村上平内、この三人は直通伝授である」という部分が景英の記事である。これを復元すれば、「寺尾求馬の弟子、小篠十郎右衛門・道家平蔵・新免弁助。新免弁助の門弟、志方半兵衛・村上平内。これら五人は直通伝授である」というようものであっただろう。しかし、これに加えて、寺尾藤次や寺尾郷右衛門の名がないでは、記録のかたちをなさない。そうしてみると、これは抹消削除も含む、露骨な改竄記事なのである。
 既述のように、志方半兵衛の寺尾派の系統では、村上平内は新免弁助から破門された、という伝説まで生じている。つまりは、そのような村上派を排除する言説が寺尾派側にもあった。とすれば、『武公伝』のこの記事の改竄は、そうした派閥対立を背景にして、豊田景英によってなされたのである。  Go Back




*【求馬助系統図】

○新免武蔵守玄信──┐
 ┌────────┘
 └寺尾求馬助信行─┐
 ┌────────┘
 ├寺尾佐助信形―助左衛門勝春
 |
 ├寺尾藤次玄高┐
 |      ├志方半兵衛之経
 ├新免弁助信盛
 |      └村上平内正雄
 |
 └寺尾郷右衛門勝行―吉田如雪


熊本城天守閣展示
時習館 熊本城復元模型


*【兵法二天一流相伝記】
《二天流數多有之と雖、新免辨助、武藏二代、寺尾藤次流儀令相傳より外、以心傳心の相受の者無之、此兩人に限る。外を以て求る事なし。予實は寺尾藤次の嫡子、伯父辨助に、一流の相傳受、辨助病死以後、實父藤次に再傳を得、二天一流の奥儀、全雖令相傳、不敏にして其徳を不得。雖然、爲後來、其記を誌し、祖流の傳無誤、所任天照鑑者也》

*【新免弁助位牌背面文】
《新免辨得居士、實寺尾氏男、有故新免武藏先生之繼家名、號新免辨助源信森、二天一流二代是也。元禄十四年辛巳七月二十五日卒。于時寛延三庚午年七月二十五日、當五十有年、依此志方之經手位作。之經實寺尾氏男、信森甥、有故二天一流之奥儀口受、盡信森傳授畢。誠師恩厚偉哉。于時寛延三庚午年七月二十五日、志方半兵衛源之經建焉》



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