宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   4  Back   Next 

 
  09 武蔵小倉へ来たる
一 寛永九年壬申、豊前大守細川忠利公肥後ヲ御拜領、其跡ヲ小笠原右近大夫忠眞公御拝領(1)。同十一年甲辰、武公亦小倉ニ来。忠眞公篤遇之、小倉停[武公五十一歳也](2)
一 寛永九年(1632)、豊前の大守、細川忠利公は肥後をご拜領になり、そのあとを小笠原右近大夫忠真公がご拝領になった。同十一年(1634)、武公もまた小倉にやって来た。忠真公はこれを篤く遇し、小倉に滞在した[武公は五十一歳である]。

  【評 注】
 
 (1)小笠原右近大夫忠眞公
 ごらんのように、『武公伝』では、巌流島から寛永中期の小倉へ話が飛んでしまう。まさしくタイムマシンであるが、ようするにその間の数十年、武蔵がどこでどうしていたか、肥後の武蔵流末孫には情報がなく、伝記としてはまことに杜撰ながら、話が飛んでしまわざるをえないのである。
 さて、ここで「小笠原右近大夫忠真公」とあるのは、我々のこの武蔵サイトでは、小笠原「忠政」としておなじみの人物である(後に四十九歳のとき忠真〔ただざね〕に改名)。武蔵の養子・宮本伊織の主君であり、また、播州明石以来長く武蔵と親交のあった大名である。
 小笠原忠政(1596〜1667)は、大坂陣で父・秀政と兄・忠脩が戦死したため、小笠原家を相続した。そして彼は、兄嫁・亀姫をも引き継いだ。彼女は本多忠政の娘、つまり、小笠原忠政は本多忠政の女婿である。
 小笠原忠政が、信州松代八万石から播州明石十万石へ移封されたのが、元和三年(1617)、同じ年、舅の本多忠政も播州姫路城主になった。つまり、播磨国は、舅・婿関係にある本多家と小笠原家の2家が統治することになった。武蔵は、彼の故郷播磨の新領主となった本多・小笠原両家と親交したようである。武蔵は最強の兵法者であるだけではなく、学問芸術に造詣の深い、文武両道の模範のような人であったから、武蔵を身近において家士たちの教師にしたとみえる。
 武蔵は、水野家臣・中川志摩之助の息子・三木之助を養子にして、本多家に仕えさせた。すなわち、ここに七百石の姫路宮本家創設、しかしまもなく、宮本三木之助は、寛永三年(1626)本多忠刻に殉死する。その後は三木之助の弟・九郎大夫が名跡を継いで、姫路宮本家は存続する。
 他方、明石では、武蔵は小笠原忠政の委嘱をうけ、明石城下町の町割り(都市計画)や、城内樹木屋敷の造園を手がけたらしい。もっとも、これは元和四〜五年(1618〜19)あたりのことで、しかも明石新城の縄張りは舅の姫路城主・本多忠政によるものらしく、いづれにしても、元和のはじめ頃から、武蔵は本多忠政や小笠原忠政と交誼があったのである。
 その後、寛永三年(1626)田原甚兵衛久光の三男・貞次(十五歳)が、明石城主小笠原忠政に出仕するようになった。翌年、小笠原忠政の推挙もあって、少年は武蔵の養子になった。すなわち、これが宮本伊織である。養子になったということは、十六歳という年齢からすれば成人で、一家を立ち上げたということである。ここに明石宮本家が創設されたのである。つまり、そうして播州において、姫路と明石の二つの町に、二つの宮本家が並立するようになったのである。
 その後もしばらく武蔵の播磨時代が続く。姫路を中心に東の明石、西の龍野と、事蹟が残っている。龍野も本多忠政の二男・政朝、ついで、小笠原忠政の甥・長次(本多忠政の孫)と、両家の子弟が城主であり、とくに領域に武蔵産地の揖東郡宮本村を含むわけだから、こちらも武蔵には由縁の地域である。
 明石入部から十五年、寛永九年(1632)小笠原忠政は、豊前小倉へ移封された。肥後熊本城主・加藤忠広(1601〜53)が領地を召上げられ、失脚したため、豊前小倉城主・細川忠利(1586〜1641)が熊本城へ移り、その跡へ小笠原忠政が入ったのである。
 かくして小笠原家中ですでに家老として要職にあった宮本伊織も当然九州へ移る。明石宮本家は、豊前へ移り、隠居の武蔵もこれに同行して九州へ下向した。
 以上が、ここまでの経緯だが、いかんせん、肥後八代の『武公伝』の筆者には、こうした情報がなかったものとみえ、『武公伝』には武蔵の播磨時代の事蹟は完全に空白である。むろん『武公伝』以上の情報をもたない『二天記』も同様である。
 かくして、『二天記』しか知らない近代の論者らが、武蔵の「空白の二十年」なんぞという珍説を展開することになった。それもこれも、肥後系武蔵伝記が、武蔵や伊織の播磨時代の事蹟について、何も情報をもたなかったことに淵源するのである。
 なお、『武公伝』は、「小笠原右近大夫」という職名を記す。小笠原忠政は、小笠原忠政は、はじめ「右近大夫」。寛文三年(1663)六十八歳のとき、侍従に叙任され「右近将監」を称する。侍従、右近将監が忠政の極官だから、通例は、「小笠原右近将監」と記す。この点では、同時代の播磨の文献『播磨鑑』の方が正確である。すなわち、『播磨鑑』は「小笠原右近将監」と正確な職名を記しているのである。
 ただし、小倉へ移封の当時、小笠原忠政は「右近大夫」だから、『武公伝』の記事は間違っていない。しかし、厳密に言えば、当時、右近大夫「忠政」であって、「忠真」ではない。したがって、『武公伝』の記者は、小倉移封当時の忠政の職名・諱を知っていたのではなく、後世の伝聞によって「右近太夫忠真」と書いただけのようである。  Go Back





播磨武蔵関係地図



姫路城



明石城








*【播磨鑑】
《宮本武藏 揖東郡鵤ノ邊宮本村ノ産也。若年ヨリ兵術ヲ好ミ、諸國ヲ修行シ、天下ニカクレナク、則武藏流ト云テ諸士ニ門人多シ。然レトモ諸侯ニ仕ヘス。明石ニ到リ小笠原右近将監侯ニ謁見シ、其時伊織ヲ養子トシ、其後小笠原侯豊前小倉ニ赴キ玉フトキ同伴シ、養子伊織ニ五千石ヲ賜ハリテ大老職ニ仕官ス。今ニ其子孫三千石ニテ家老職ト云》
《宮本伊織 米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す。(中略)其後、伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯に、宮本武藏と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが、此伊織其家に召遣はれ居たりし処に、器量すぐれたる生れ付故、武藏養子にせられ、後、豊前小倉へ御所替にて御供し下られける時、折節、しま原一揆烽起の節、彼戦場へ召連られ軍功有、其賞として三千石を賜はり、無役にて小笠原家に被仕。其後宮本伊織とて家老職になさる》
 
 (2)同十一年甲辰、武公亦小倉ニ来
 このように『武公伝』は、寛永十一年(1634)、武蔵も小倉にやって来たという。武蔵は宮本家の隠居で、小笠原家臣ではないから、当主の伊織が小倉に移ったからといって、宮本家移転に同行したとは限らない。したがって、二年遅れで小倉へ来て、そこに居ついたということもありうる。
 しかし、『武公伝』が記すこの寛永十一年という年に何か確証があるわけではない。『武公伝』の、小笠原家周辺の事情不案内の様子をみれば、この「寛永十一年」は、むしろ逆に、信憑性を欠く記事である。十八世紀半ばの肥後では、こういう伝説が出来上がっていたことを示すにすぎない。
 また、後に話が出るように、宮本伊織を、武蔵が羽州で拾った泥鰌取りの孤児だとするような『武公伝』だから、伊織についても奇怪な伝説伝聞以外に情報をもたなかったものとみえる。
 『武公伝』には、小笠原忠政(忠真公)は武蔵を篤く遇し、武蔵は小倉に滞在した、とある。武蔵が小倉へやって来たのは、小笠原家転封とともに養子伊織の宮本家が小倉に移ったからだが、『武公伝』のこの書き方は、播州明石以来の小笠原忠政と武蔵との関係を知らぬもののようである。それで、二十九歳から五十一歳まで、およそ二十年間以上、話が飛んでしまう。
 しかしながら、武蔵播磨時代は遠い上方でのことだから致し方ないにしても、小倉は同じ九州である。小笠原家と細川家には姻戚関係があり(細川忠利の妻は小笠原忠政妹・千代姫)、光尚死後の細川家危機の折には、伯父の小笠原忠真だけではなく家老の宮本伊織まで熊本へ来て、その危殆を救ったのである。小倉時代の武蔵について、肥後に何か伝説口碑でもありそうなものだが、それも『武公伝』にはない。これもまた奇異とすべきである。いづれにしても、『武公伝』の伝記記事には、かなりの偏りがあると言わざるを得ない。すなわち、肥後以外のことは情報がないという偏向である。
 『武公伝』がこうしたありさまなので、後継『二天記』の作者にも、それ以上の情報はない。『二天記』の記事は、ほぼ同文の引き写しである。つまり、寛永十一年武蔵が小倉へやってきた。小笠原忠真が篤くこれを遇したので、武蔵は小倉に留った、という話である。
 ただし、『武公伝』にない記事が『二天記』にひとつある。それは、――島原の切支丹一揆のとき、武蔵が召連れていた伊織という者が抜群の功があった。それで伊織は召抱えられた。その後、祿二千石で家老職となった。しかも忠真の命で、武蔵の養子となって奉仕した。武蔵は客分の由である、云々という話である。
 そもそも『武公伝』には、島原役のときの武蔵に関する記事がない。したがって、肥後にはもともと、武蔵の島原役での事績について伝説がなかったのである。しかるに、『二天記』にかような記事が出たのをみると、武蔵は小笠原隊に参加して出陣したという新情報があった、とみなしてもよさそうだが、実はそれは違う。
 つまり、寛永十一年に武蔵が小倉へ現われ、小笠原忠政が武蔵を厚遇したので、武蔵は小倉に滞在した、という前の話からすると、武蔵は小倉にそのままいたというわけで、寛永十四〜五年の島原一揆のときは小笠原麾下で出陣したであろう、という推測からする記事なのである。何か新情報が景英にあったわけではない。
 しかしながら、景英は『二天記』で余計な憶測もしていて、伊織が島原戦後小笠原家に召抱えられた等々と記している。むろん景英には、伊織が播州明石以来の小笠原家臣で、島原役の折にはすでに老職にあったという情報はなかった。そこで、こうした的外れな憶測をして、妄説を書いてしまったのである。
 何度も云うようだが、遠い播磨のことは致し方ないにしても、小倉は同じ九州である。その小倉での武蔵や伊織の事績について、かくも貧寒な情報しかなかったのが、『武公伝』『二天記』の肥後系伝記である。肥後での事績以外はほとんど情報がなかったのである。肥後系武蔵伝記におけるこの情報過疎による偏向は、十分認識されるべきである。
 この偏りは、『武公伝』作者ならびにその環境による制約からするものである。つまり、第一に、武蔵没後百年という懸隔のある後世の時点での著作であること。第二は、肥後は肥後でも、熊本ではなく、八代の人間が書いたこと。『武公伝』は肥後八代というきわめてローカルな環境のなかで生れたのである。もう一つは、作者の身分的制約である。もし作者が主持ち武士ではなかったら、もう少し広範な世界の中で情報収集が可能であったはずである。
 しかし、『武公伝』の作者は、情報不足に陥りがちな田舎の城下で、いわば遅い福音が来るのを坐して待つという受動的ポジションに置かれている。『武公伝』がそういう悪条件、制約の下に書かれたということは念頭におかれてよい。また、『二天記』がそうした制約の中で、憶測による虚説を生産したということも、認識されるべきである。このように我々が繰り返し注意を喚起するのも、いまだに見境いもなく『二天記』の記事を妄信する者らが跡を絶たない、という惨憺たる状況があるからである。  Go Back





武蔵関係地図



*【小笠原細川両家関係図】

小笠原秀政┬忠脩─長次 豊前中津
     |
     ├忠政 豊前小倉
     |
     ├忠知 豊後杵築
     |
     ├重直 松平重忠養子
     |   豊前龍王
     |
     └千代姫
細川     ├─光尚─綱利
藤孝─忠興─忠利
    小倉 熊本





豊前小倉城



*【二天記】
《寛永九年豐前細川越中守忠利公エ肥後國ヲ賜フ。其跡ヲ小笠原右京太夫忠眞公ヘ賜ヘルナリ。同十一年武藏小倉ニ至ル。忠眞公篤ク之ヲ遇シ玉フ。因テ小倉ニ留リヌ。五十一歳也》
《同十四年肥前島原城ニ、切支丹一揆楯籠ル。忠眞公出陣、武藏相従フ。五十六歳ナリ。歸陣以後忠眞公麾下ノ諸士ノ軍功ヲ吟味アリシ時、武藏召連シ伊織ト云フモノ、抜群ノ功有リ、因テ召抱ヘラル。其ノ後祿二千石ニテ家老職トナル。且ツ忠眞公ノ命ニテ、武藏養子トナリテ奉仕ス。武藏ハ客分ノ由ナリ》

 
  10 氏井彌四郎という兵術者
一 武公肥後ニ来ル前、柳生但馬守宗頼主ノ直弟氏井弥四郎ト云兵術者、柳生殿ヨリ頼ニテ肥後ニ来。忠利公曾テ宗頼主ノ門弟也。(1)
 時ニ武公、小倉ヨリ召ニ應ジテ肥後ニ来。忠利公懇望ニテ、武公ト弥四良ト御前ニ於テ勝負ヲ決シム。勝負ノ批判互ニ仕間敷トノ神文ニテ、御側ニモ一人モ他人ヲ不被召置、御刀持一人御児小姓浦兵太夫、是モ他言仕間敷トノ神文也。(2)
 扨、武公弥四郎ト太刀ヲ持(て)立合ノ事、三度ニ及ト雖、一向弥四良ヨリ打出事不叶。武公モ御前故、只敵ノ技ヲ押ヘテ強ク打事ナシ。
 忠利公、殊外感称シタマヒ、御自身モ立合タマフト雖、一度モ其無利。因茲則チ柳生流ヲ改テ、二天一流ノ兵法ヲ學ビタマフ。(3)

一 武公が肥後に来る前、柳生但馬守宗頼〔宗矩〕主の直弟子・氏井弥四郎という兵術者が、柳生殿からの依頼で肥後にやって来た。忠利公は以前から宗頼主の門弟であった。
 ときに、武公は(忠利公からの)召出しに応じて、小倉から肥後にやって来た。忠利公の懇望で、武公と弥四郎に、御前において勝負を決せしめた。勝負の批判は互いにしないとの神文(誓約)をして、(忠利公の)お側にも一人も他の人を同席させず、刀持ち一人、児小姓の浦兵太夫(だけを同席させた)。これも決して他言しないとの神文(で誓わせたの)である。
 さて、武公が弥四郎と太刀をもって立合いの事、三度に及ぶといえども、まったく弥四郎の方から打出すことができなかった。武公も、御前ゆえ、ただ相手の技を抑えるだけで、強く打つことはなかった。
 忠利公は、ことのほか感称なさり、ご自身も(武公と)立合われたのだが、一度も勝てなかった。これによって、(忠利公は)柳生流を改めて、二天一流の兵法を学ばれた。

  【評 注】
 
 (1)氏井弥四郎ト云兵術者
 『武公伝』の話は、このように、すぐに豊前小倉から肥後へ飛んでしまう。小倉での話題がなかったのである。
 武蔵が肥後に来る前のこと、柳生但馬守宗頼からの依頼があり、という話である。柳生但馬守「宗頼」とあるが、今日一般には「宗矩」とする例が多い。ここに「宗頼」とあるのは誤りではなく、柳生宗矩には「宗頼」という別諱もあった。
 柳生宗矩(1571〜1646)は、武蔵と同時代人、むろん今日でも有名な人物で、将軍家兵法師範江戸柳生流の創立者、家康に仕えて以来の旗本で、当代家光まで歴代将軍に仕えて出世し、当時は万石を食む大名格である。
 不審なのは、『武公伝』の「宗頼主」という扱いである。「忠利公」に対して、家老の長岡興長などは「興長主」である。この「公」「主」の用法はほぼ一貫しており、それなりの規則性があるようである。しかし柳生但馬守に「宗頼主」というのは解せない仕儀である。将軍旗本だから、「家光公」に対して「宗頼主」ということか。だがここは他家の主人だから、通例は「様」かあるいは「殿」であろう。したがって、この不都合な記述は、未完成原稿たる『武公伝』の跡を留めるものとみてよい。『二天記』では改められ、文章まで書き直されている。
 柳生宗矩は、将軍側近として幕府の大名統制に当たった者で、それゆえ諸大名は本来は一旗本にすぎぬこの宗矩にこぞって親近を求めた。肥後の細川家も同様で、三斎・忠利ともに、柳生宗矩に親近していた。
 とりわけ、細川忠利(1586〜1641)は個人的な兵法好きもあって、柳生宗矩に学び、ついには柳生流の印可を受け、『兵法家伝書』を授与されている。ここで『武公伝』が《忠利公曾テ宗頼主ノ門弟也》とするわけである。大名では他例は、肥前の鍋島元茂(1602〜54)も宗矩から印可を受けたという。これは政治的意味合いのある社交的な通交であろうが、とにかく、細川忠利の兵法好きは有名であったらしい。
 筑前の立花峯均による『丹治峯均筆記』には、そのころの諺言に、細川忠利は、「公方様(将軍家光)か、柳生殿(宗矩)か、越中殿(細川忠利)か」というほどの兵法者だったとある。
 さて、ここでの話は、柳生宗矩からの依頼があって、宗矩の直弟子・氏井弥四郎という兵術者が肥後へやってきたというわけである。しかし、このあたりの筋書きにはやや不審が残る。つまり、大名から柳生宗矩に、門弟を派遣してくれと要請するのが普通、とすれば、ここでは話は逆である。柳生宗矩から細川家に、こいつを兵法師範として使ってやってくれ、ということである。しかし、これもありうることで、柳生宗矩は諸大名に門弟の師範役周旋もしていたのである。
 氏井弥四郎という人物は、肥後に子孫を残したようで、子孫が岩尾という別姓となって残った。その岩尾氏先祖附によれば、この氏井弥四郎の出自は「雲林院」〔うぢい〕氏、すなわち伊勢国安濃郡の工藤氏の傍流、雲林院氏のようである。「雲林院」はもともとは平安期に有名だった京都紫野の寺院(現在は大徳寺塔塔頭)、古今集などに歌われる京の名所で、またのちに謡曲のタイトルにもなった。雲林院はいったん廃寺となったが、要するにこの「うんりんいん」が「うぢい」に転訛して、京の一郷名になった。雲林院姓はこれにちなむものとみえる。
 父は雲林院出羽守光秀、号松軒。兵法をもって信長に仕えた。岩尾家文書には、新当流の塚原卜伝から受けた相伝書があり、しかも、かの疋田豊五郎が雲林院弥四郎入道(光秀)に提出した起請文なるものがあるそうだ。そうすると、疋田豊五郎は雲林院光秀に新当流を学んだということになり、これはいささか眉に唾してかからざるをえない。
 その後、雲林院光秀は九州豊後の大友宗麟の下へ来て、兵法を教えた。その雲林院光秀の息子が、雲林院弥四郎光成(1581〜1669)、これが『武公伝』の氏井弥四郎である。ただし、『武公伝』は、雲林院を「氏井」と記す。
 弥四郎は、父の光秀から新当流を相伝。しかしそれにとどまらず、柳生家の兵法を学んだらしく、また石舟斎宗厳の高弟・村田弥三から授与された目録があるという。となると、石舟斎宗厳→村田弥三→雲林院弥四郎という兵法系譜であって、『武公伝』のように柳生宗矩直弟とはなし得ないが、このあたりは委細不明である。
 弥四郎は、柳生流高弟の例に漏れず、柳生家から諸大名に兵法指南として派遣されていたようである。大和郡山の松平忠明(1583〜1644)に招かれ、しばらくに当地に居たこともあり、また、豊前小倉時代の細川忠利にも招かれ師範役を勤めたらしい。
 寛永九年(1632)はいろいろあった年で、まず細川家が肥後に転封である。幕府は惣目付(後に大目付)を設置、井上政重らと共に柳生宗矩がこれに就任。宗矩の『兵法家伝書』が成ったのもこの年、他方、細川忠利は同年「柳生流剣法之書」を授かっている。これは忠利がそれまで雲林院弥四郎を指南役として稽古した結果であろう。
 細川忠利が肥後へ転封となって、小倉には小笠原忠政が入城した。雲林院弥四郎は、前々からの縁もあって、忠利の指南役として、寛永十年(1633)四月に熊本へ来た。先祖附によれば、その前に小倉の小笠原忠政のもとにしばらくいて、忠政から早く熊本へ行けと云われて、熊本へ来たらしい。その間の事情は不明であるが、小笠原忠政豊前入部に、武蔵も伊織と共に随行したようだから、この寛永十年の春ごろ、武蔵と雲林院弥四郎が会っている可能性がある。
 このころ忠利は、二階堂流の松山主水大吉を召出し近習にしたが、松山主水は寛永十二年(1635)十月に暗殺された。松山主水の跡を嗣いで師範になったのが、村上吉之丞である。他方、細川忠利は、江戸住の嫡子光尚のために、柳生宗矩に依頼して柳生流の梅原九兵衛を家臣に召抱え、指南役に付けようとしている。ただしこの仕官話は梅原の給与のことですったもんだがあって、結局、梅原は熊本へ下るのを辞退している。肥後に雲林院弥四郎がいるとすれば、梅原もおいそれとはこの話に乗れなかったのだろう。ともあれ寛永十一年(1634)ころ、梅原九兵衛は擬作三百石で召抱えられて、光尚御部屋附で定江戸勤務となった。江戸屋敷には梅原を召抱え、熊本には雲林院弥四郎を迎えて指南させるというかたちである。
 寛永十三年(1636)八月には忠利は肥後熊本へ帰国しており、父の三斎は前年に江戸から戻り八代にいた。その頃の三斎書状の注記に、《寛永十三年八月五日、忠利君より兵法つかひ雲林院弥四郎を被差越候》とあって、細川忠利は父の三斎のもとに弥四郎を派遣したものらしい。したがって弥四郎は熊本から八代へ遣わされたのである。そのときの忠利宛三斎書状が記録されており、それによれば、気魂なる者で、思いのほか柳生流の巧者だと、三斎が褒めている。
 三斎の小姓たちが初心者なので、弥四郎の指南も十分なところまで行かず、また春に弥四郎を雇うつもりだとある。ということは、三斎方で師役料を出していたし、また、彼は家臣ではなく、雇われ師範だったということである。忠利が父三斎のもとに弥四郎を使ってみてくれと派遣した事蹟などあるを見れば、弥四郎は肥後に居着いて、君側で兵法師範をする者だったようである。
 先祖附によれば、弥四郎は、忠利が召抱えようというのを辞退したという。後世の子孫による先祖附のことだからアテにはならないが、すでに梅原九兵衛が江戸で光尚御付に召抱えられ、島原役にも出陣して戦功をあげている。弥四郎は、柳生家へ召返される望みもあって、客分で師範役を勤める方を選んだらしい。ただ弥四郎は、絶えず忠利の側を離れず、忠利の死には殉死するものと世間から見られていたほどだったという。弥四郎はすでに老齢である、忠利死後も弥四郎を肥後に居着かせる因縁が何かあったのであろう  Go Back





柳生但馬守宗矩




*【二天記】
《武藏肥後ニ來ル以前ニ、氏井彌四郎ト云者、柳生家ノ頼ニテ肥後ニ來ル。忠利公モ但馬守殿ヨリ相博アリ、一流奥儀ヲ極メラレテ、専ラ柳生流ナリ。彌四郎モ、數度御相手ニ出テ、御修行アリ》




*【丹治峯均筆記】
《武州、或時、肥後ヱ下向、濱之丞ガ宅ヘ旅宿セラル。其頃ノ諺ニ、公方様カ、柳生殿カ、越中殿カト申程ノ兵法者也。近仕ノ士ニ、打太刀ノ者三人有シトカヤ》
















塚原卜伝高幹




永青文庫蔵
細川忠利坐像








*【細川忠利宛三斎書状】
《弥四郎儀、此中毎日ほねをおらせ申候。気魂成者ニ而、先日も如申候、存外之外柳生流巧者にて候。我々小姓共、兵法今度初而にて候ゆへ、一切合点不参候間、又春ハやとひ可申候。此由留守居共に被申付置可給候。打太刀も初心ニ候へ共、りきミのなきつかひてにて候。猶期後音候。恐々謹言。
 八月廿九日  三斎宗立 印
  越中殿 進之候》(綿考輯録・巻23)


 
 (2)武公小倉ヨリ召ニ應ジテ肥後ニ來
 武蔵が肥後に来るより以前に、氏井弥四郎が肥後へ来て、柳生流を教えていた。そのところに、武蔵が小倉からやってきて…というのがこの説話の設定である。
 これは『武公伝』の設定では、寛永十七年(1640)、武蔵が肥後に滞在するようになった折のことのようで、そうすると、武蔵五十七歳、弥四郎六十歳、という年齢である。両者十分に経験を積んだ者というよりも、当時としては、むしろ二人ともすでに老人である。
 ただし、ここに記されているように、武蔵が「細川忠利からの召出しに応じて」小倉から肥後にやって来たというわけだが、そんな「召し」があったかどうか、となるとこれは恠しい。これは後に関連記事の箇処で検分することにする。
 ともあれ、この説話の本体は、殿様の細川忠利の懇望で、武蔵と弥四郎に、御前において試合をさせたということである。むろん、氏井弥四郎なる一兵法者との試合ではなく、「柳生流」の兵法者、しかも柳生宗矩直弟との試合、というところが話のミソである。ようするに、肥後の武蔵伝説は、柳生流との試合を実現させたかったのである。
 しかし、じっさいには柳生流は、他流との試合は厳禁である。自流の稽古ですら、他見無用である。『兵法家伝書』相伝者である細川忠利が、そんな違反行為をやらせるわけがない。――これが、『武公伝』のこの説話を読むポイントである。
 『武公伝』の作者はそれを承知でこれを書いている。つまりは、他流試合厳禁という柳生流のタブーに対応したのが、以下の説話である。柳生流との試合という不可能事を実現させるには、『武公伝』の物語はどうするか。ここで確認しうるのは、「禁止と目撃」という説話論的仕掛である。
 すなわち、『武公伝』によれば、忠利の懇望で実現した試合だが、勝負のことは秘密である。また勝負の批判はしない、つまり勝負の結果について互いに何も言わない、他言しないという誓約である。この「批判」は今日の意味ではなく、批判しないということは、言語に出さないということ、つまり言語の次元においても存在せしめない、ということなのである。
 神文というのは、もし違反すればどんな神罰をうけてもかまわないと明記した、神にかけて誓約する文書のことで、これを互いに交わして契約とする。この禁止条件のもとでは、この勝負は、事実の次元でも言語の次元でも、存在しないのである。
 言い換えれば、不可能事は禁止によって可能となる。武蔵と柳生流との試合という不可能事を説話空間で可能にするのは、この神文誓約という禁止である。さらに言い換えれば、禁止の設定こそが、不可能事を可能事に反転するのである。
 もう一つは、目撃者の視線の存在である。余人を払った秘密の勝負とはいえ、その場にいるのは、殿様の忠利と二人の対戦者の計三人だけ、ではない。殿様は客の前では一人にはなれないわけで、太刀持ちの児小姓一人だけはその場に同席、という設定である。
 『武公伝』は、この太刀持ちの児小姓に、浦兵太夫という名を記録している。秘密の試合だったが、太刀持の児小姓・浦兵太夫ただ一人が目撃していたという具合である。この人物は「浦」という氏姓からすると、これは長門の武将・浦(乃美)宗勝(1527〜1592)の子孫であろうと推測しうるし、児小姓となると少年で、とすれば宗勝の孫か曾孫であろうかというところ。
 じっさい、宗勝の子が、乃美主水景嘉。細川忠興に仕えて千五百石、その嫡子が乃美市郎兵衛で千石。乃美市郎兵衛の弟が浦兵大夫で、知行二百石。後入道して宗閑と号した。となると、浦兵大夫は宗勝の孫ということになる。
 ただし、浦兵大夫が、寛永十七年あたりで忠利の児小姓だったとなると、話は眉唾である。というのも、浦兵大夫の子が、浦新蔵勝正、のち猪左衛門。この人は寛永十五年の知行所付目録に乃美新蔵名で二百石とある。寛永十五年に二百石の給人たる子がいる者が、どうして寛永十七年に児小姓などであろうか。話が合わないのである。
 あるいはまた、寛永十四年十月に、島原の乱が勃発したちょうどその折、米田監物(是季)宅に沼田勘解由(延之)を招いて碁会を催していた。《浦兵大夫[後号宗閑]も来り居候》、そこへ浦兵大夫も来ていたというわけである。細川忠利の児小姓である少年が、さらにその三年前に米田是季や沼田延之らの碁会に出るであろうか。『武公伝』がここへ浦兵太夫の名を持ち出したのは、馬脚を顕すためとしか言いようがない。
 ともあれ、説話の必然として、この秘密の勝負の現場には目撃者の視線がなければならず、この太刀持ちの児小姓を出して、その目撃者(の視線)の役をなさしめるというわけである。これは、浮世絵の男女性交場面の一端に小さな目撃者(豆男)を描き込むのと同じ仕掛である。ビジュアルなものでなくても、説話の秘密の場面には、こういう目撃者の存在が不可欠のようである。それを語り込んだのが、『武公伝』の伝説である。
 こうした説話の仕掛けをみるに、『武公伝』の記事は、伝説の基本仕様を備えている。これに対し、後継の『二天記』の方は、この秘密の場面に不可欠な目撃者たる、太刀持ちの児小姓の名を抹消している。この名の抹消は、秘密性の濃度の稀薄化であり、むろん伝説の体裁を崩すものだが、それによってむしろ一般向けの物語という段階に出ている。言い換えれば、浦兵太夫という名の抹消は、『二天記』が『武公伝』よりも説話化レベルが進行したことを示す。  Go Back





熊本城








柳生家蔵
柳生宗矩 兵法截合心持之事
元和九年















*【浦(乃美)氏略系図】

○浦(乃美)宗勝─乃美主水景嘉┐
 ┌─────────────┘
 ├乃美市郎兵衛─市右衛門→
 │
 └浦兵大夫─猪左衛門勝正→


*【綿考輯録】
《同廿六日、監物宅に勘解由を招き囲碁の會を催して、浦兵大夫[後号宗閑]も来り居候。是季と延之の勝負の中に、是季碁石を持ながら「不思議成事候。西南の方に當て大筒のひゞき聞へて、世のつねならず。今一ツ響かバ兵亂なるべきか」と云も終ざるに、又聞へ候ニ付…》(巻三十七)


*【二天記】
《武藏肥後ニ來ル以前ニ、氏井彌四郎ト云者、柳生家ノ頼ニテ肥後ニ來ル。忠利公モ但馬守殿ヨリ相博アリ、一流奥儀ヲ極メラレテ、専ラ柳生流ナリ。彌四郎モ、數度御相手ニ出テ、御修行アリ。武藏召ニ應ジテ、小倉ヨリ來リ、御國ニ留ル。或時忠利公命有テ、武藏ト彌四郎ト、密カニ御前ニ於テ其手技ヲ比へシム。尤モ互ニ勝負ノ批判致スベカラズトナリ。近習モ除ケラレテ、御腰物持一人差置カレシナリ》
 
 (3)柳生流ヲ改テ、二天一流ノ兵法ヲ学ビタマフ
 ここで、この説話の主題が出てくる。武蔵は忠利の目の前で力量を実証し、これにより、忠利は柳生流を捨て、武蔵の二天一流の門弟となった、というわけである。むろん、これは武蔵流兵法末孫の為にする作話であって、事実上はそんなことはありえないのだが、いちおう『武公伝』の説話の具合をみてみよう。
 まず、武蔵と弥四郎の試合であるが、立合は三回勝負。結果は、格段の違いで武蔵の方が強かった。しかも、まったく弥四郎の方から打出すことができなかったというから、手も足も出なかったわけだ。武蔵は、殿様の御前のことだからというので、ただ弥四郎の技を抑制して、優勢を示すだけで、強く打つことはなかった。形だけ軽く打って勝負を決めたのである。いわば余裕の勝ち方である。
 両者の試合を要請した忠利は、大いに感称した。忠利は、柳生流を学んで但馬守宗矩から印可を受けたほどで、自身もいささか心得があるから、武蔵と立合った。だが、弥四郎と同じく一度も勝てなかった。つまり、忠利も武蔵の兵法を身をもって体験したということになる。
 以上は見てきたような話であり、説話形態は目撃談である。その視線の所在は、すでに児小姓・浦兵太夫の同席において語られていた。浦兵太夫が豆男である。『二天記』の方は、浦兵太夫の名を消して、伝説を一般化しているし、例によって説話内容を増幅しており、『武公伝』の言句にさまざまな装飾の枝葉を生じせしめている。
 たとえば、忠利が武蔵との立合のとき、《御工夫ヲ囘ラサレ》というのはまだよしとしても、武蔵に負かされ、はなはだ驚いて「これほどすごいものとは思わなかった」(如斯異ナル者トハ思シ召レザリキ)という科白などは、説話の伸張である。
 また、『武公伝』が、これによって忠利が柳生流を改めて、二天一流の兵法を学んだと記すに止めたところを、忠利が兵法の道に才能があって、武蔵から相伝をうけたと、いよいよ話を進展させてしまう。つまり、忠利に武蔵相伝という話は、種本の『武公伝』にはない、ということを確認しておきたい。
 後継の『二天記』に『武公伝』にない新情報があるわけではない。とすれば、熊本の伝説、つまり志方半兵衛の「二天一流相伝記」が記す、武蔵が細川忠利に兵法至極の道理を相伝したという話と同じ話をここで導入したのである。景英のケースでは、話の出所は、村上八郎右衛門であろうと特定しうる。景英は村上派の伝説をここに導入したのである。これは、後に述べるように、三十九ヵ条兵法書との関連で生じた伝説であろう。ともあれ、伝説はその運動の為すがままに委ねれば、このように他の伝説を吸収して、話を勝手にどんどん展開してしまうものである。

 ともあれ、武蔵は柳生宗矩の直弟子と試合して、問題にならないほど強かった、細川忠利は柳生流を捨てて武蔵に帰依した、という、このような説話が発生してしまうのも、武蔵流末孫がおかれた境遇に事情ありと言わねばならない。
 細川綱利の代になると、武蔵が肥後に残した兵法流儀は公的な場面から後退する。綱利は忠利以上に柳生家の兵法を信奉したのである。
 綱利は寛文元年(1661)肥後入国、そして同三年(1663)二十一歳のとき、柳生宗冬から『兵法家伝書』の相伝を受けた。『兵法家伝書』は、忠利がかつて柳生宗矩から受けたことがあるから、細川家へは再伝ということになる。綱利は、肥後入国にあたって、柳生宗冬の名代の者を同道して乗り込んできた。それ以後、肥後では柳生流が大いに威勢をふるうようになった。
 当時、肥後の柳生流といえば、田中甚兵衛(?〜1699)とその子・隼之助(1674〜1739)の名を挙げるべきであろう。この父子によって、肥後の柳生流は隆盛をみたからである。
 先祖附によれば、田中甚兵衛の祖父・田中兵右衛門は藤堂和泉守に仕えたが、息子の半兵衛の代に同家を立退いて浪人し、後に半兵衛は大和の柳生家へ身を寄せた。半兵衛の子が甚兵衛で、幼少の頃から柳生家で兵法修行し、一国一人の口決など相伝を受けた。柳生家兵法高弟として、柳生飛騨守宗冬の名代で、諸大名へ指南に出た。綱利の代、細川家へも指南役に出向き、九年ほど勤めたところで、綱利が柳生宗冬に懇望して、田中甚兵衛を師範役の家臣にした。最初知行四百石、のち加増して五百石であるから、相当な優遇であった。
 田中甚兵衛が細川家士になったのは寛文八年(1668)のことである。むろん寺尾孫之允も求馬助もいる時代である。綱利が柳生宗冬に懇望して得た師範役だけに、綱利と田中甚兵衛の関係は密接で、この時から、武蔵流の寺尾求馬助の入る余地などまったくなくなってしまった。綱利の代に至って肥後の武蔵流はまさに冬の季節を迎えたのである。
 田中甚兵衛には息子が三人いたが、二男の隼之助に道の器用があった。隼之助は江戸へ出て、柳生大膳宗春(宗冬の子)に学んだ。柳生家の兵法は、やはり本家で修学する必要があったらしい。隼之助は学ぶうち、柳生家でも隼之助ほどの者はそうはいない、というまでになった。つまりは、肥後の田中柳生流は、甚兵衛だけならすぐに勢力が衰えたかもしれないが、隼之助という人が出て肥後における本格的な兵法主流となった。
 父の甚兵衛の時には、綱利の御師範であったが、隼之助は、家中の諸士を弟子をとって教えた。たちまち門弟は膨れ上がった。門弟千五百人に及ぶという隆盛である。隼之助は、剣法及び武事の論撰百十二種ありというから、著述も多数あって論客でもあったようだ。
 田中甚兵衛は元禄八年(1695)まで現役で、二十八ヶ年の間綱利に仕えて、肥後の柳生流の礎を築いた。甚兵衛が隠居すると長男の武兵衛が家督相続、二男の隼之助には新知百五十が与えられ、兵法家は隼之助が相続した。隼之助は後に甚兵衛の名跡を継ぎ、綱利以後宣紀・宗孝にも仕えた。
 肥後の兵法主流を形成した田中隼之助が死んだのは、元文四年(1739)である。そしてまさに同じ年、村上平内正雄が死去、である。村上平内が致仕下野して妻越村に引っ込んだ理由もわかる。熊本では、柳生流が支配的だったのである。武蔵流が再び抬頭する余地が出てくるのは、村上平内以後の世代であり、田中隼之助が死んだ後のことである。
 肥後における武蔵流末孫らは、柳生流の隆盛を横目に見ていたであろう。いやいや我々の祖師・武蔵には柳生流は歯が立たなかった、という伝説の発生する動機はそのあたりにある。しかし、柳生流は他流試合は禁制である。柳生宗矩との関係もあるから、細川忠利がそんなことをさせるわけがない。伝説は需要に応じて形成されるもので、他流試合を禁じた柳生流に是非とも武蔵と立合ってもらわなければならない。現実の不可能事を説話上で可能にするのも伝説の作用である。
 余人はだれも知らず、まただれも口外しなかったはずの秘密事を物語るのは、伝説パターンの一つである。不可能事は秘密である。なぜなら、それはこの世のどこにも定位しえない事象だから。ようするに、この世ではありえない事だから、口外禁止の秘密なのである。
 かくして説話において秘密という装置は、その事象が非現実的なありえざることとする徴候である。言い換えれば、『武公伝』が語るこの説話は、本来存在しなかった事蹟であり、ただ武蔵流末孫の願望をドライヴとして発生したものである。武蔵流末のタメにする説話である。当然、肥後武蔵流末以外のどこにもみられない逸話である。
 豊田正剛は、上記の田中隼之助とほぼ同世代である。肥後柳生流繁栄の極相をみたであろう。しかし、『武公伝』のこの記事は、正脩が書いたもので、十八世紀中期にはできあがっていた伝説であろう。それを、忠利が柳生流を捨てて武蔵に帰依した、武蔵から相伝を受けたという具合に、さらに数歩進めて説話化したのは、豊田景英である。
 今日の武蔵本などに、この氏井弥四郎との試合譚をナイーヴに信じて、「武蔵最後の試合」とか記すのは、むろん誤りである。さらに錯誤が極まれば、武蔵最後の「決闘」などと書いたりする。それやこれや、付き合いきれない武蔵評論が、現在なお再生産されているのは、まさに惨状というほかあるまい。  Go Back















*【二天記】
《扨、兩人木刀ヲ以テ立合フコト三度、彌四郎曾テ勝ナシ。武藏モ御前故、強ク撃ツコトナク、唯技ヲ抑ヘテ働ラカセズ。忠利公御工夫ヲ囘ラサレ、御自身ニモ御立合在リシカドモ、一向御勝利ナシ。依テ甚ダ驚キ給ヒテ、如斯異ナル者トハ思シ召レザリキト、感稱シ給ヒ、夫ヨリ二天一流ヲ御修行アリ。其道ニ御器庸有テ、追々御相傳ヲ受ラルルナリ




*【兵法二天一流相伝記】
《その後諸國を巡行して、年暦を經て、寛永の頃、此肥州に來り、太守忠利公兵法御大望に付て御師と成、兵法至極の道理を御相傳申上、御得心の上、一流の書物を捧、彌以御懇志依不浅、當國に極居住》






永青文庫蔵
細川綱利宛柳生宗冬再伝状








*【田中氏略系図】

○田中兵右衛門─半兵衛─┐
 ┌──────────┘
 └甚兵衛明親┬武兵衛
       │
       ├隼之助保親─┐
       │ 後改甚兵衛│
       │      │
       └友之進   │
   ┌──────────┘
   └長左衛門―甚兵衛→

 
  11 肥後逗留の経緯
武公御國ニ逗留ノコト、岩間六兵衛[御聞番役御城使トモ云。今御留守居ト云]ヲ以テ御尋アリ。則御側衆坂崎内膳殿マデ口上書ヲ以テ言上在。(1)
我等身上之事、岩間六兵衛ヲ以御尋ニ付、口上ニ而は申上がたく候間、書付懸御目申候
一 我等事、只今迄奉公人と申て居候
所ハ、一家中も無之候。年罷寄、其上近年病者ニ成候得ば、身上何之望も無御座候。若致逗留候様ニ被仰付儀ニ候ば、自然御出馬之時、相應之武具をも持せ参、乘替之一疋も牽せ参候様ニ有之候へバ、能く御座候。妻子とても無之、老躰ニ成候ヘバ、居宅家財等之事など思ひもよらず候
一 若年より軍場へ出候事以上六度ニ
て、其内四度ハ、其場ニおゐて拙者より先ヲ懸候者、一人も無之候。其段ハあまねく何も存知之事ニて、尤證據も有之候。乍然此儀は以全く身上之申立ニ仕ニてハ無之候
一 武具之拵様、軍陣におゐて夫々に
應じ便利成事
一 時により國之治様之事
右は若年より心にかけ、数年致鍛煉候間、若於御尋可申上候。以上
 寛永十七年二月     宮本武藏判
  坂崎内膳殿 (2)

忠利公ヨリ月俸十七口現米三百石ヲ賜。蓋シ遊客タルヲ以テ、[扶持方ノ]諸士ノ列ニ不配[人持着座ノ格ナリ]。居宅ハ熊本千葉城ノ高キ所也。(3)
武公が御国〔肥後〕に逗留することについて、岩間六兵衛[御聞番役、御城使ともいう。今は御留守居という]をもってお尋ねがあった。そこで(武公は)御側衆・坂崎内膳殿へ、口上書をもって言上した。
私の身上(待遇)について、岩間六兵衛をもってお尋ねがありましたが、口上では申上げることはできませんので、文書でお目にかけます
一 私は、これまで、どの家中であれ、奉公人として
居りました所は、一つもありません。年が寄り、そのうえ近年は、病者になりましたので、身上(待遇)といって何の望みもございません。もし(私に)逗留するようにと仰せつけられるのであれば、御出馬〔出陣〕なさるようなことが起きた時、(私に)相応の武具をも持たせ、乗替え馬の一疋でも牽かせて行けるようにしていただければ、それでよろしいのです。(私には)妻子などもなく、老体になりましたので、居宅・家財等のことは、どうでもかまいません
一 (私は)若年のころから戦場に出ましたことは計六
度あり、そのうち四度は、その場において拙者より先駈けした者は一人もありませんでした。そのことは、あまねく誰でもご存知のことで、当然、証拠もあります。しかしながら、このことをもって身上(待遇)の申立てにするものではまったくありません
一 武器道具の製作法、軍陣においてそれぞれに応
じ、役に立つ事
一 時により、国の治め方の事
右のことは、若年のころから心にかけ、多年鍛煉いたしましたので、もしお尋ねがあれば申上げます。以上
  寛永十七年二月        宮本武蔵判
    坂崎内膳殿

忠利公から(武公に)月俸十七口・現米三百石を賜わる。けだし、遊客であることから、[扶持方の]諸士の列に配さず[人持着座の格である]。居宅は熊本千葉城の高い所である。

  【評 注】
 
 (1)武公御國ニ逗留ノコト
 ここは、武蔵が肥後に滞在するようになった経緯を語る伝説である。むろん言うまでもないことだが、ここに「逗留」とあるごとく、武蔵は遊客として肥後に滞在したのであって、細川家に仕官したわけではない。しかし、すこし以前までは、武蔵が肥後へ来て仕官を希望した、というような妄説が武蔵本や小説などで流布されていたものである。
 ところで、肥後系武蔵伝記のみが記す話がここにあるのは申すまでもない。すなわち、細川忠利が岩間六兵衛という者を通じて、武蔵に尋ねさせたというのである。これをみる限りにおいて、忠利はこの期に及んでも武蔵を知らぬもののごとくであるが、武蔵と小笠原忠政との長年の関係があり、細川忠利が小笠原忠政の妹聟だという関係からすれば、実際には、かなり以前から知遇のあったことが推測される。しかし、さしあたり『武公伝』の語るところを聞いてみよう。
 最初に注意しておきたいのは、この条りは、一つ書きの体裁をもたないことである。しかるによって、後に増補されたとみなしうる記事である。
 内容に立ち入れば、ここにまず名が出ている「岩間六兵衛」は岩間六兵衛正成(?〜1647)、武田晴信(信玄)嫡孫だという。すなわち、父は武田義信(1538〜67)で信玄の長男、周知の通り義信は父信玄と不和反目して廃嫡され、三十歳で早世した人である。義信は武田勝頼(1546〜82)の異母兄であり、その遺児が六千代丸、つまり岩間六兵衛である。
 先祖附によれば、父義信は、叔父の武田兵庫頭晴清(信実)に息子の将来を託した。晴清は六千代丸を嫡男分にして養育したが、天正三年戦死してしまった。武田氏滅亡のおり、母と共に故縁のある奥平九八郎(美作守信昌)を頼って行き、そこで塩谷監物という者の養子となった。塩谷監物はその後浪人したが、小笠原兵部大輔(秀政 1569〜1615)に仕えるようになった。六兵衛も出仕して、秀政の嫡子忠脩の御守役を勤めた。ところが、その後秀政・忠脩の父子不和のあおりを食って、六兵衛は知行を召上られ、養父塩谷監物のもとで逼塞したという。
 この岩間六兵衛が細川家の家臣となったのは、慶長十四年(1609)小笠原秀政の二女・千代姫(1597〜1649)が細川忠利と結婚したからである。すなわち、千代姫が細川家に入輿するに際して、彼女の御付となって細川家に仕えるようになったのである。
 岩間という姓も、本来武田氏所縁の姓である。六兵衛が細川家に仕えるに際して、いったん徳川旗本にした上で仕官させるという手続きを踏んだのであるが、そのとき武田から岩間に改姓したという。岩間六兵衛の禄高は三百石、あるいは於豊前小倉御侍帳では二百石の他に合力米二百石ともいう。
 六兵衛が千代姫に附いて細川家に移籍して間もなく大坂陣となる。このとき、小笠原秀政・忠脩父子が戦死、六兵衛養父の塩谷監物も戦死した。この小笠原家を継いだのが、前述のように小笠原忠政である。
 岩間六兵衛に関しては以上のような経緯である。とすれば、岩間六兵衛は細川家と小笠原家との媒体でもあるわけで、小笠原家所縁の武蔵が、細川氏領国の肥後に滞在するにも、彼が何らかの仲立ちをしたというのはありえない話ではない。
 さてすでに話が出たように、岩間六兵衛が武田義信(永禄10年歿)の子だとすると、彼は武蔵が肥後に逗留するとなった当時、すでに相当の高齢である。おそらく七十代後半であろう。そして、当時奥方は一種の人質として江戸に置かれたから、六兵衛の勤務は熊本ではなく江戸詰である。『武公伝』に御聞番役・御城使とあるのは、千代姫側近として取次も使いも岩間六兵衛を通じてなされたということである。
 岩間六兵衛は江戸詰だから、武蔵に対する忠利の下問も江戸でなされたとみるべきであろう。忠利は島原一揆鎮圧後、しばらく熊本に留まっていたが、寛永十六年の春に江戸上府、以後翌年夏までずっと江戸にいた。
 そうしてみれば、この忠利下問のとき、武蔵も江戸にいたとみるべきであろう。小笠原家の江戸屋敷あたりにいて、それゆえに小笠原家所縁の岩間六兵衛を通じて尋問があったという舞台設定である。
 さあって、『武公伝』の話では、忠利下問に対して、武蔵は坂崎内膳宛に文書を提出して応答したという。ここで第二の人物、坂崎内膳という名が出てくる。
 『武公伝』が御側衆・坂崎内膳「殿」とするから、話が早い。細川家重臣の坂崎内膳(?〜1682)である。坂崎氏先祖の坂崎伝助成基は、織田信長の父・信秀に仕えて小豆坂七本鑓の一人という。いづれにしても尾張の人である。伝助の子が坂崎兵庫成方で、先祖附によれば、池田勝入斎恒興・蒲生氏郷・小早川秀秋に転々して仕え、その後牢人していたところを、細川忠興から召抱えの声がかかったが請けなかった。
 坂崎兵庫の嫡子が坂崎清左衛門で、この清左衛門が忠興に召出され知行千石。その後五百石加増。父の坂崎兵庫も九州へ下って一緒に住んだ。号道雲。清左衛門は忠利の代に小姓頭、有馬陣(島原役)後は五百石加増で、都合二千石、光尚の代に番頭を勤め、老後は芦北番代を十年勤め、彼地で病没した。
 坂崎内膳は坂崎清左衛門の養子である。実父は、肥後の国人城氏の一族・城清助で、秀吉への人質に出された。天正十五年のいわゆる肥後国人一揆で、隈部親永らが蜂起すると、隈部・城両家の人質も殺されることになったが、岡田将監が嘆願して助命し、身柄を引き取った。そのとき城清助は名字を岡田源太夫と改めた。
 余談になるが、豊田正剛の父・豊田専右衛門高達は養子で、実父は岡田権左衛門正継、祖父は尾張星崎城主・岡田長門守直孝である。この岡田直孝の弟が岡田善同、すなわちここに出てくる岡田将監である。
 さて、岡田源太夫の子・虎之助は、十三歳のとき、岡田将監が豊前小倉の細川忠利に願い出て、召抱えられた。知行四百石、のち加増されて都合七百五十石。名を岡田内膳と改めた。その後岡田内膳は、坂崎清左衛門の養子になった。これはおそらく、坂崎先祖と岡田先祖が共に織田信長家臣で、それぞれ小豆坂七本鑓の一人だという縁であろう。
 坂崎清左衛門の養子になった岡田内膳は、坂崎内膳と名を改める。その後加増されて都合知行千石余となって、小姓頭を勤めた。光尚の代になって、養父・坂崎清左衛門が死去して、坂崎内膳は家督相続して知行二千石、その上自分知行の千石余も加えられて、合計三千石余。二代目坂崎清左衛門である。綱利の代にはさらに千石加増で、都合四千石余、備頭・家老も勤め、老いて天和元年隠居し栖山と号す。天和二年(1682)歿。爾来子孫は知行三〜四千石で、細川家中の重臣である。肥後国人城氏の裔とあれば、これもある意味で当然の処遇であろう。
 さて、武藏が肥後に逗留という当時、坂崎内膳は知行千石余で、忠利側近の小姓頭というところであろう。『武公伝』に御側衆とあるのは、ほぼ正しい。御側衆は小姓で御伽衆を兼ねたもので、実際坂崎内膳は御伽衆も勤めてもいる。そのような側近である坂崎内膳宛に提出したという文書を、『武公伝』が記録しているのである。真贋のほどは後に検分することにして、その内容を以下に見てみよう。  Go Back















*【岩間六兵衛略系図】

○武田信虎┬晴信┬義信―六千代丸
     │  │
     ├信繁├龍芳―道快
     │  │
     ├信兼├勝頼―信勝
     │  │
     ├信基├信盛
     │  │
     ├信是└義久
     │
     └信実―信俊


永青文庫蔵
先祖附 岩間六兵衛

*【岩間氏先祖附】
《一 武田六兵衛儀、右兵庫頭嫡子ニ而甲州落去之節五歳之時母召連候而立退、奥平九八郎殿頼居申候處、九八郎殿御肝煎を以塩谷監物と申者養子罷成申候。監物致浪人候付而、其後小笠原兵部大輔様江被召出候。監物は大坂御陳之節、兵部大輔様御供ニ而討死仕候。
一 右六兵衛儀、兵部大輔様御嫡子大学様御守被仰付候處、兵部大輔様と大学様御父子御不和付而、右六兵衛知行など被召上、養父監物ニ御預被成逼塞仕居申候處、慶長年中兵部大輔様御姫様、秀忠様江御養子被遊、妙解院様江御縁組相調、豊前御輿入之節、六兵衛を御附被成候。此節、御知行返シ被下、名字岩間と相改申、豊前中津江御供仕候。於中津、両御所様江御祝儀御使者之儀、被仰付、毎年相勤申候。江戸於御城秀忠様家光様江も御目見被仰付、御時服御銀被爲拝領》




永青文庫蔵
先祖附 坂崎清右衛門内膳
 
 (2)我等身上之事
 細川忠利が、岩間六兵衛を仲介にして、武蔵に対し尋ねた。この文書で、忠利がいかなる問いをしたかがわかる仕掛けである。つまり、忠利は、武蔵が肥後に滞在するについて、どんな待遇が望みか、それを尋ねたのである。それに対し、武蔵は使者に口上、つまり口頭では言いにくいと、文書で返答したというわけである。
 文書は三ないし四項目あって、まず最初は、待遇のことである。文書にはこうある。――私は、これまで、どの家中であれ、奉公人になって居た所は、一つもない。つまりどの大名にも仕官したことはない。老齢になって、そのうえ近年は、病者になったので、身上(待遇)といっても何の望みもない。もし私に逗留するようにと仰せつけられるのであれば――と、待遇の話になって、――忠利が戦場に出馬の時、私に相応の武具を持たせ、乗替え馬の一疋でも牽かせて行けるようにしていただければよろしい。つまり、騎馬武者相応の処遇でよい。私には妻子などもなく、老体になったので、居宅・家財等のことは、どうでもかまわない――。
 文中、《自然、御出馬之時》とある、「自然」というのは、現代日本語での意味ではなく、「もしそうなったとき」「万が一」という意味合いである。また「乗替え馬の一疋でも牽かせて」というのは、騎馬武者の扱いということであるが、ふつう騎馬武者には乗替え馬は、一頭ではなく四〜五頭付けるから、これは謙退表現である。御陣人数の端くれにでも加えていただきたい、ということである。申すまでもなく、「一騎」に相当する武士には徒士足軽が十数人は附属するのだから、これはそれ自体戦闘単位としては一小隊である。
 むろん、この条りで不審なのは、遊客として滞在するだけなのに、家臣同様出陣する用意まであるというあたりである。そもそも宮本家は豊前小倉の家老だから、武蔵も隠居の身とはいえ、小笠原家への義理が優先であって、むろん小笠原麾下で出陣するのが道理である。これは有馬陣(島原役)のとき、武蔵が小笠原隊に属して戦場に出たのを見てもわかる。
 したがって、宮本家が小笠原家に属する以上、武蔵が細川麾下で出陣することなどありえないのだから、武蔵からこんな科白が出ようはずもない。このように武蔵を肥後へ引取ろうとする我田引水のポジションは、明らかに後世の人間の作文である。当時の周辺事情を知らないために、こういうホラ話になったのである。
 第二番目は、武蔵の戦功についてである。この文書によれば、――自分は若年のころから戦場に出たことは計六度あるという。そのうち四度は、その場において自分より先駈けした者は一人もない。つまり、先駈けは真っ先に敵陣へ突っ込むことで、一番槍だのどうのというところの、戦功の第一である。武蔵のこの戦功は、だれでも知っている周知のことで、当然、証拠もあるという。つまり、戦功証文の感状などがあることをいう。そうして述べる――しかしながら、このことをもって身上(待遇)について申立てるものではまったくないと。
 こうした戦功申立てなんぞは、まるで仕官就職を希望する者のようである。先ほども述べたように、武蔵は遊客として滞在するだけの身である。とすれば、このような戦功の言上などありえない。
 この文書は『二天記』にもそのまま同じ内容が収録されたところから、それを読んでこの内容を信じ込み、武蔵が細川家に仕官を希望したように錯覚した連中が出たのも、ある意味では当然である。要するに、たんに逗留する遊客としては、あるまじき内容である。
 次は、二つの項目で一つである。一つは、武具の持ち方、軍陣においてそれぞれに応じ、便利なる事とある。つまり武器道具の扱い方、そして戦場において実戦に役に立つこと。もう一つは、治国とあるから、その時々状況に応じた政治行政の話である。この二つのことは、若年のころから心にかけ、多年鍛錬したので、忠利からお尋ねがあれば申上げる、つまり軍事顧問なり、行政顧問なり、どちらも勤める用意があるというわけである。
 前者の軍事あるいは兵法指南のことはさておいても、大方の疑問とするところは、兵法者・武蔵がどうして治国の指南までできるのか、それは変じゃないかという点である。たしかに、従来の世間通有の武蔵イメージは剣客であり、儒者がするような治国の論客ではありえない。しかし、藤原惺窩や林羅山に近かった武蔵に、儒学の教養も経験もなかったとは思えない。そういう治国談義も武蔵がなしえただろうということの一端は、五輪書という兵法教本にも窺えるところである。
 ただ、『武公伝』が引用した形のこの文書に、軍事顧問もできるし行政顧問もできると記すとなれば、この文書自体の真贋にまで話が及ぶのである。果たして武蔵がこのような文書を書いたであろうか。なぜこんな文書が必要なのか、そもそもそれがまさに疑問である。
 さて最後に、この文書の日付のことである。寛永十七年(1641)二月とある。この年、忠利の帰国出発は五月であるから、この二月段階ではまだ江戸にいた。文書の宛先の坂崎内膳は忠利近習であるから、これも江戸にいたであろう。したがって、この文書はいづれにしても江戸でやり取りされたのである。つまり、このとき武蔵は江戸にいたということになる。
 ところが奇妙なことに、『武公伝』は別の箇処で、寛永十七年の春、武蔵が忠利の召しに応じて肥後に来たという。江戸で提出されたはずのこの坂崎内膳宛文書は「二月」という日付をもつ。これを提出してからまっすぐ肥後を目指して来れば、三月には肥後入りはできないことはない。ただ、『武公伝』のように寛永十七年の春に武蔵が肥後へ来たとするのは、話にちと無理がある。
 というのも、同じ寛永十七年のものと思われる長岡興長宛武蔵書状がある。こ書状の日付が「七月十八日」、書状の内容は、肥後へ来たから挨拶に行きたいという話だから、肥後へ来て早々のことのようである。すでに春に肥後へやってきていた武蔵ならば、四ヶ月も五ヶ月も経った秋になって、このような手紙を旧知の長岡興長宛に出すとは思えない。
 それゆえ、長岡興長宛武蔵書状によるかぎりは、武蔵が肥後へ来たのは、七月になってから、あるいは早くても六月下旬としなければならない。忠利が江戸から熊本へ帰りつくのは、六月中旬であったから、これで時期は合う。
 そうして改めて『武公伝』の坂崎内膳宛文書を見るに、武蔵が二月に江戸にいた可能性はなきにしもあらずだから、「二月に、江戸で」やり取りされた文書という時期と場所そのものは想定しうるのだが、その内容たるや、上に述べたように、こんな内容を武蔵が書いて出すかよ、という代物である。
 どのみち、この文書のオリジナルは見つかっておらず、ただ『武公伝』が最初に収録したものである。また、『武公伝』にはこの文書がどこから発掘されたか、それを記さないから、これは出所不明文書である。したがって、『武公伝』が書かれた十八世紀後半までに、この文書が作成されたとしか言いようがない。
 以上の件に関説していえば、、武蔵が寛永十七年春に肥後へ来て、忠利から岩間六兵衛を通じて質問があり、それに対しこの坂崎内膳宛文書を提出した、つまりはすべては肥後でのことと見るのが現在も一般的である。むろん、当の『武公伝』の筆者も、そのように解しているふしがある。このやり取りが江戸であったとは書いていない。もしそんな情報があれば、「江戸で」と特記したであろう。『武公伝』のこの話の舞台は、あくまでも肥後でのことである。
 『武公伝』の説話内部では、武蔵が肥後へ来たのは春で、坂崎内膳宛文書が二月、ということで、筋書きは一応辻褄が合うが、実際には、もし武蔵の肥後入国が春であるとすれば、肝腎の忠利はまだ江戸にいるから、これでは話にならない。忠利は肥後にいないし、近習の坂崎内膳も同様である。そして何より、仲介役の岩間六兵衛は、奥方千代姫付きの江戸詰で肥後にはいない人物だから、肥後へ来た武蔵も岩間六兵衛の仲介伝言を受けようがない。坂崎内膳宛文書を収録した『武公伝』の筆者には、この寛永十七年二月に、忠利をはじめ坂崎内膳や岩間六兵衛らがどこにいたか、彼らはすべて江戸にいた、という情報が欠落していたようである。
 しかも、次にみるように、武蔵への米支給を指示する奉書が八月十三日の日付である。武蔵が忠利の召しに応じて春にやってきて、半年以上も何の沙汰もないとは、召出した以上、それはありえないことである。武蔵が忠利の召出しに応じてこの年の春にやってきたとすれば、前後の状況の辻褄が合わないのである。
 かくして、『武公伝』が収録した坂崎内膳宛文書は、周辺事情の実態を検証してみれば、宙に浮いてしまう。つまりは、武蔵がこの年の春に肥後へ来て、岩間六兵衛を通じての下問に坂崎内膳宛の口上書ももって答えた、という状況は実際にはありえないのである。
 おそらくこの文書は、先にこういう内容の口碑伝説があって、そののち文書化されたものである。口上では返答しがたいという設定が、その文書化の理由にしてかつ原因である。オーラルなものからエクリチュールへという筋道を、この文書そのものが語っているわけである。
 オーラルなものからエクリチュールへというその事例は、『武公伝』と『二天記』の間にもみられる。それは既述のように、巌流島決闘の前日、下関にいた武蔵が長岡興長の使者に答えた場面である。『武公伝』では口頭の返事であったが、後継の『二天記』ではそれが書状に化けている。『武公伝』ではオーラルであったものが、『二天記』ではエクリチュールに転化しているのである。
 このことからすれば、おそらく『武公伝』の坂崎内膳宛文書に先立つものは、オーラルな口上であって、当初はそれが伝説内容であったが、『武公伝』の段階で文書に化けたようである。あるいは、『武公伝』には景英が手を入れた形跡が他にも多々あるので、『武公伝』改訂のさい、景英がここに文書を増補した可能性もある。ただし、そのあたりはさらに再考を要するポイントであり、次の記事にも関連することであろう。  Go Back



島田美術館蔵
宮本武蔵像部分








福聚寺蔵
小笠原忠真像




*【二天記】
《武藏肥後ニ逗留有ヘキコトニツキ、忠利公ヨリ岩間六兵衛ヲ以テ御尋アリ。口上書ヲ以テ、取次役坂崎内膳迄達ス。
我等身上の事、岩間六兵衛を以御尋に付、口上にては難申分候間、書附懸御目候。
一 我等事、只今迄奉公人ト申候テ居候處ハ、一家中モ無之候。年罷寄、其上近年病者ニ成候ヘバ、何ノ望モ無御座候。若逗留イタシ候樣ニ被仰付侯ヘバ、自然御出馬之時、相應ノ武具ヲモ持チ參リ、乘替ノ一疋モ率セ参候樣ニ有之候得バ、ヨク御座候。妻子迚モ無之、老躰ニ相成候得バ、居宅家財等ノ事思ヒモヨラズ候。
一 若年ヨリ軍場ヘ出候事、以上六度ニテ候。其内四度ハ、其場ニ於テ拙者ヨリ先ニ懸候者一人モ無之候。其段ハアマネク何レモ存ル事ニテ、尤モ證據モ有之候。乍然此儀ハ全ク身上ノ申立ニ致シ候ニテハ、無之候。
一 武具ノ拵樣、軍陣ニオイテ夫々ニ應ジ便利ナル事。
一 時ニヨリ國ノ治メ樣ノ事
右者、若年ヨリ心ニ懸、數年致鍛錬候間、御尋ニオイテハ可申上候。以上。
 寛永十七年二月    宮本武藏
   坂崎内膳殿 》




*【武公伝】
《寛永十七年[庚辰]之春、武公忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ來[五十七歳]。其時小倉城外山上ニ壽藏ヲ営ミ、蹤ヲ遺シテ肥後ニ赴ク》



長岡興長宛武蔵書状 八代市立博物館蔵

*【長岡興長宛武蔵書状】
《一筆申上候。有馬陳ニ而ハ、預御使者、殊御音信被思召出処、過當至極奉存候。拙者事、其以後江戸上方ニ罷在候が、今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ罷越候。逗留申候ハヾ、祗候仕可申上候。恐憧謹言
 七月十八日    玄信[花押]》









武蔵関係地図
 
 (3)月俸十七口現米三百石ヲ賜
 武蔵に対する細川家の待遇である。記されているのは、支給された給与(米)と、いかなる身分として処遇されたか、そして居宅として提供された屋敷の所在、この三点である。
 まず、給与のことでいえば、「月俸十七口現米三百石」とある。十七口とは十七人扶持のことで、これが月給だというが、年間では三十石ほどの扶持米である。もう一つは、現米三百石とあってこれは年間三百石の現物支給ということである。
 『二天記』は、「十七人扶持に現米三百石」とあって内容は同じだが、「月俸」の文字は抹消している。なぜ『武公伝』が「月俸」の文字を入れたか不明だが、十七人扶持の分は毎月支給だという意味かもしれぬ。
 肥後における武蔵の給与について言及した伝記は、『武公伝』『二天記』という肥後系伝記のみである。したがって、これ以外に史料がなければ、この記述を鵜呑みにするほかないのであるが、実は、細川家の公文書(奉書)に武蔵への給与を記した文書が残っていたのである。
 奉書は主君の決裁および指示を書いた文書、それゆえ、武蔵の給与に関してはこれが一次史料である。とすれば、この奉書と照合することで、『武公伝』の記事内容の信憑性を評価しうる。
 まず第一は、八月十三日の奉書である。これは、武蔵が肥後へ来た早々のものらしく、当座の決定で支給したようである。「七人扶持合力米拾八石」とあるのがそれである。これを、八月六日から「永く」支給するように、ということであるから、これこそ月俸のようである。武蔵はこの段階では、いつ肥後を去るか知れない遊客だから、滞在費は月極めということなのだろう。
 ところで、奉書は「七人扶持合力米拾八石」と記し、『武公伝』『二天記』は十七口(十七人扶持)と記す。この相違は如何。これは『武公伝』が間違っているのではないかという見方もあったが、必ずしもそうとは云えまい。というのも、どちらにしても年換算約三十石の支給だから、奉書の内容が流伝して「十七人扶持」になったものと思われる。だから、これは伝説通有の節約が働いたのである。
 ところで、この奉書で興味深いのは、武蔵に対し大いに気を使っていることである。つまり、忠利の決裁文書(御印)は、長岡佐渡守興長から申請があって阿部主殿〔とのも〕を通じて下された。支給にあたり、「この奉書は武蔵には見せず、支給担当者には事情を十分呑み込ませ、武蔵への給米の渡し方まで注意しろ」という忠利の指示があったとある。ようするに、武蔵に対し失礼にならないように、支給米を渡せ、ということなのである。
 ちなみに、この奉書に出てくる「阿部主殿」は、忠利の近習・阿部主殿助(1621〜78)、もともと大坂で忠利に召出された人で、小倉へ随行して児小姓、以来小姓御伽衆をつとめ、忠利側近として順次出世して知行五百石である。主殿助は寛永十七年の当時二十歳、この奉書が彼を通じて長岡興長へ手渡されたところからすると、主殿助は秘書役の側用人を勤めていたようである。
 なおいえば、忠利の死後、阿部主殿助は、勘定方奉行、崎御番代などを勤めていたが、寛文十二年(1672)に至って「乱心」、知行召上げとなった。しかし召放ちはされず、捨扶持を給されて、六年後病死した。かくして阿部主殿助の家は一代で断絶したが、子孫があって河井氏を名のり、細川家に仕えたようである。
 話をもどせば、この奉書は阿部主殿助を通じて長岡興長へ渡された。この奉書を勘定奉行に提示すれば、勘定方は奉書にある給米を武蔵に支給するというシステムである。ところが、奉書は武蔵には見せず、給米の渡し方まで細心の注意を払え、という忠利の指示である。このことからすれば、支給の名目を知れば、そのようなものは受け取れないと、武蔵が給米を辞退するかもしれない恐れがあったのである。
 言い換えれば、武蔵はこれには関知させず、さながら「天から」給米が下されるように、どこかから沸いてくるように、そのような具合にしろということである。このあたり、一切は長岡興長が取り持ったらしい。このことは後で別に見ることにして、次の奉書を見てみよう。
 こんどは、同じ年の暮、十二月五日付の奉書である。宮本武蔵に「八木三百石」とある。「八木」とは一字を二字にして記す形態で、殿様の自分米のことである。三日後の十二月八日の日帳にも《宮本武蔵ニ御米三百石被為拝領候事》と記されている通りである。「御米」というのは、主君忠利の蔵米。家臣の知行地とは別に、主家の取り分があって、そこから自家の諸費用を支出するのだが、このケースのように、個人へ支給する給与もあった。
 これで、武蔵への給米は年間三百石ということに本決まりになったようである。つまり、この年の暮までに、武蔵は長期滞在することになった、ということである。それまでは、武蔵はいつでも肥後を去るつもりであったようであり、まさか自分が肥後で客死するなど思ってもみなかったであろう。
 武蔵への米三百石支給は、忠利死後も変らず、毎年支給された。ところが、先ほど見たように『武公伝』に、「月俸十七口現米三百石」とあり、後継の『二天記』は、「十七人扶持に現米三百石」とするのだが、この「十七人扶持プラス現米三百石」は奉書のいづれにも見えない内容である。おそらく伝聞伝承のうちに話が違ってしまったのである。肥後系伝記のこの記載から、多くの武蔵評伝などがこれを記すのだが、奉書に照らせば、これは正確な記録ではない。このことは知られてよかろう。
 十二月五日付の奉書には、「佐渡(長岡興長)の指図にしたがって支給するように」とあって、忠利はこれまた細かい指示をしている。つまりは、武蔵に給米を渡すのに大いに気を使っているわけで、勘定方奉行どころか、家中一番の重臣・筆頭家老の長岡興長が直接指図しなければならなかったという有様なのである。
 その後毎年武蔵への支給が続いたのだが、寛永十九年十一月八日の奉書には、合力米とは云わず、ただ「堪忍分の合力米」だといって支給しろという指示がある。合力米は、家士ばかりではなく、京大坂の公家や商人にも出している。どのみち細川家に何か役に立つ者だから支給する。しかし「堪忍分の合力米」とは、見返りを期待しない報酬、無償の贈与だということである。
 とすれば、武蔵へのこの給与は何か、ということになるが、ようするに、客として逗留する滞在費である。武蔵が肥後に滞在するとなると、豊前小倉の小笠原忠政への面子もあって、細川忠利は構わずにはおれず、武蔵へ滞在費を出したのである。滞在費を出すということは、客として処遇することである。
 言うまでもないことだが、武蔵は素浪人ではなく、小倉宮本家四千石のご隠居の身である。細川家からの給与がなければ生活に窮するわけではない。むしろ、武蔵が細川家からの給米を辞退することもありえた。したがって、武蔵に給米を受け取らせるために細かく気を使っているわけだ。
 しかし他方、武蔵の方も、細川忠利の面目を潰すようなことはできない。細川家からの滞在費支給を「いらない」といって無下に断わるわけにはいかないのも確かである。細川家は武蔵に滞在費を出さざるを得ないし、武蔵の方も実はそれを受け取らざるをえない。そういう双方の義理があったということは知られてよい。
 そして以上のような前後事情からすれば、『武公伝』の記すような、忠利の召出しに応えて武蔵が肥後へやってきたとはなしえない。むしろ、この年七月の長岡興長宛武蔵書状からすると、武蔵は事前の予告もなしに肥後へ現われたようである。
 興長は筆頭家老であるから、すでに春の段階で忠利から武蔵へ招致の話があったとすれば、それを知っていたはずなのだが、書状内容からすると、その興長でさえ、武蔵がなぜ武蔵が肥後へ来たのかは「不審」で承知していない。それゆえ、旧知の興長も知らなかったとすれば、事前のお膳立ては何もなかったということである。武蔵が肥後へ来たのは、忠利が武蔵を肥後へ招いたからではないのである。
 おそらく武蔵は、私的な旅行で肥後へ来たのだが、旧知の長岡興長に挨拶もなしにいることはできない。それで上掲の書状を送ったところから、興長から忠利に、武蔵が来ていると報告され、結局細川家につかまってしまい、興長が一切を取持ち、客分として処遇されるようになった、――それが実際のところであろうと思われる。
 そうして改めて、既出の『武公伝』の坂崎内膳宛文書のことを考えるに、武蔵の肥後逗留を取り持ったのは長岡興長であり、しかもそれが七月以降のことであるとすれば、およそこのような文書を、しかも同年二月に、武蔵が提出するようなことはありえない。
 この文書の内容共々勘案すれば、これは後世になって武蔵に仮託されて作成された文書、さらに特定して云えば、豊田景英の世代までに肥後のだれかが捏造したものであろう。おそらく、正脩段階の『武公伝』にはなかった記事で、景英がこのくだりを増補して書いた。――これが我々の当面の所見である。




















*【奉書】
(寛永十七年八月十三日)
《宮本武蔵ニ七人扶持・合力米拾八石遣候、寛永十七年八月六日より永可相渡者也
    寛永拾七年八月十二日御印
       奉行中
右ノ御印、佐渡守殿より阿部主殿を以被仰請、持せ被下候。右之御印を武蔵に見せ不申、御扶持方御合力米ノ渡様迄を、能合点仕やうニ被仕候へと被仰出旨、主殿所より佐渡殿へ奉書を相渡候を、佐州より被仰聞候也》




寛永十七年十二月五日付奉書

《宮本武蔵ニ八木三百石遣候間、佐渡さしづ次第ニ可相渡候、以上
    寛永拾七年十二月五日御印
       奉行中       》

(寛永十八年九月二六日)
《宮本武蔵ニ米三百石遣候間、可相渡者也
    寛永拾八年九月廿六日御印
       奉行中       》

(寛永十九年十一月八日)
《宮本武蔵ニ御米三百石、岡平兵衛ニ三百五拾俵、岡金衛門ニ弐百俵、毎年被為拝領候、当年も可被為拝領哉、奉得御諚候、已上
  十一月八日   御奉行中
    竹内七郎衛門殿
    蒔崎喜八郎殿
 宮本武蔵ニ米三百石遣候間、可相渡者也
    寛永拾九年十一月八日御印
       奉行中
宮本武蔵ニハ、御米被遣候時、御合力米と不申、唯堪忍分之御合力米として被遣候由、可申渡旨、奉七郎衛門》












八代市博物館蔵
長岡興長宛武蔵書状

*【長岡興長宛武蔵書状】
《一筆申上候。有馬陳ニ而ハ、預御使者、殊御音信被思召出処、過當至極奉存候。拙者事、其以後江戸上方ニ罷在候が、今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ罷越候。逗留申候ハヾ、祗候仕可申上候。恐憧謹言
 七月十八日    玄信[花押]》

 ところで、武蔵の待遇に関わることだが、『武公伝』には他に、身分のこと、そして支給住居としての屋敷のことが、記されている。
 武蔵は遊客、つまり一時的に滞在する客人である。したがって、諸士の列に配せず、つまり身分は客分で、当然家中諸士の列に入らない。
 ここまではよいが、これに割註があって、人持着座の格だと記す。この「人持着座の格」というのは備頭格ということで、細川家中なら知行数千石を食む重臣並みということであろう。
 いづれにしても、「人持着座の格」とは、武蔵を偉く見せたい武蔵流末孫の仕業である。しかし、この割註の記事がどこから出てきたのか、根拠不明である。それに、諸士の列に配せずと記しながら、人持着座の格だと注記するのも矛盾した話である。
 『二天記』は例によって、『武公伝』の割註記事を本文化している。したがって、『武公伝』に割註を入れたのも景英であろう。
 ともあれ、原状回復してみれば、この文は、武蔵は遊客だから、諸士の列に配せず、という記述で完結していたはずだ。にもかかわらず、割註が入って以来、その意味がシフトされて、『二天記』のような内容になったのである。








武公伝 正脩 武公伝 景英 二 天 記
忠利公ヨリ月俸十七口現米三百石ヲ賜。蓋シ遊客タルヲ以テ、諸士ノ列ニ不配。居宅ハ熊本千葉城ノ高キ所也。
忠利公ヨリ月俸十七口現米三百石ヲ賜。蓋シ遊客タルヲ以テ、[扶持方ノ]諸士ノ列ニ不配[人持着座ノ格ナリ]。居宅ハ熊本千葉城ノ高キ所也。
忠利公ヨリ、十七人扶持ニ現米三百石賜リ、御客分ニテ、座席ハ大組頭ノ格合ナリ。居宅ハ、熊本千葉城ト云所ニ屋舖アリ。
 『二天記』では、そもそも「諸士の列に配せず」という文字が抹消されている。むしろ逆に、座席は大組頭の格合だというところへ文脈が変容してしまっている。かくして、このあたり、景英の作為は明白である。これも『武公伝』をよく読み込んではじめて判ることであり、『二天記』だけを見ていては気づかれもしないことである。
 さて、もうひとつは、武蔵の居宅として支給された屋敷のことである。『武公伝』は、それを千葉城の高い所にあったとする。これも、『武公伝』を初出とする記事で、他に傍証史料がない。
 この千葉城というのは、熊本城の東にあった戦国時代の古城である。菊池氏の代官・出田〔いでた〕山城守秀信の居城であったという。次いで代官になった鹿子木〔かのこぎ〕三河守親員は、別に隈本城を築いて、それに拠った。この段階で千葉城の役目は終っている。後に加藤清正が茶臼山に新城を築いたのが現在の熊本城。古地図をみるに、千葉城址は城内に取り込まれたもようである。
 『武公伝』の記事では、武蔵の屋敷は熊本千葉城の「高い所」にあったとある。「熊本」千葉城とするのは、熊本の人間ではなく八代の人間の筆だからだが、「高い所」にあったというのは高台だからである。これは熊本をよく知る者の叙述である。
 これに対し、『二天記』の方は、記述のポジションがかなり遠ざかっていて、居宅は「熊本千葉城という所」に屋敷があったという書き方である。武蔵の屋敷は高台にあったという『武公伝』の情報は削除されている。これは意図的なものではなく、つい脱落したものであろう。
 さて問題は、『武公伝』の話の通り、武蔵が千葉城址の高台に屋敷を与えられていたかどうか、ということであるが、これは傍証する史料がない。したがって、その真偽のほどは判断停止にして、これは肥後八代における武蔵伝説とみておくほかない。ただし、この件に関し、以下のことは我々の武蔵研究の現段階として開示しておくことにする。
 寛永頃の肥後国熊本城廻絵図をみるに、千葉城址の高台に屋敷地あるし、肥後国熊本城廻普請仕度所絵図(寛永十一年・1634)では、高台の周囲に四〜五区画ほどの屋敷地があって、真中の高台の上には屋敷地が二区画ある。
 この千葉城の高台という場所にこだわってみれば、従来の武蔵研究では知られなかった興味深い事実が判明する。
 すなわち、時代は飛ぶが、武蔵死後十年ほど経った明暦の頃(一六五十年代)の二ノ丸之絵図をみるに、千葉城の高台にある2区画の屋敷地に具体的な名が記入されている。一人は「吉田庄右衛門尉」、もう一人は「松野善右衛門尉」とある。これは、吉田少右衛門と松野善右衛門親茂であろう。とすれば、彼らはどういう人物なのか。
 家臣のクラスでいえば、二人とも知行五百石である。ところが興味深いことに、吉田は大友宗鱗(義鎮 1530〜87)の子孫であり、松野もまた同様である。とくに松野は、細川家中に、松野右京進正鎮(千五百石)、松野八郎左衛門親治(千石)、松野亀右衛門親政(千三百石)など一門数家あり、ともに大友宗鱗の子孫である。
 周知のごとく、宗鱗の子・義統(1558〜1605)は、秀吉に領国を剥奪されたあと、関ヶ原戦争のとき再興を期して豊後へ攻め入ったが、黒田如水らによって石垣原に敗北した。当時細川氏は丹後の他に豊後臼杵にも領地があり、城代松井康之らが籠城して大友軍と戦ったという経緯がある。戦後、細川氏が丹後から豊前豊後へ転封入部したあと、これら大友氏一門を召抱えたのである。
 したがって、この松野善右衛門や吉田庄右衛門という二人は、たんなる五百石の家臣なのではなく、大友家末裔というブランド付きの者たちであった。それゆえ彼らが、城下の武家屋敷地ではなく、千葉城の高台に屋敷を与えられているのも、理由があることなのである。この松野善右衛門や吉田庄右衛門の前に、同じ千葉城の高台に武蔵が屋敷を与えられていたとすれば、おそらくこれはある種の特別待遇を意味する。
 それゆえ、この件に関して必要なのは、『武公伝』の記事を訳もなく鵜呑みにするのではなく、この千葉城址の利用状況を洗い直す実証的研究である。武蔵が肥後に滞在した寛永末期、この屋敷地がどのように利用され、だれが住んでいたか、それを探り出すことである。目下は地元の研究の出現を俟つというところであるが、そうした地道な研究の積み重ねこそが武蔵研究を前進させる、これは申すまでもなかろう。

 さて、この段の分析は以上のような事どもであるが、すでに述べたように、武蔵の口上書の部分は、景英の細工であろうというのが我々の所見である。これに関連して若干補足しておく。
 まず、『武公伝』と『二天記』では、この段の配置が異なる。つまり、『二天記』ではこれを氏井弥四郎との秘密試合の話の前に措いている。このような順序の変更は、景英の判断で前に出したということだが、それは正脩の『武公伝』にはなかった増補をこの条りに加えたため、全体の意味が変ってしまい、それゆえ前へ出すということになったものらしい。
    (武公伝) 秘密試合 → 武蔵の口上書
    (二天記) 武蔵の口上書 → 秘密試合
 すなわち、正脩段階の『武公伝』には、武蔵が口上書を提出したという話はなくて、ただ、武蔵への待遇――つまり、月俸十七口現米三百石、遊客であるから諸士の列に配せず、居宅は熊本千葉城の高い所にあり――を記す記事のみであっただろう。これなら、氏井弥四郎との秘密試合が十二月以前のことだとすれば、それが前にあっても不都合はない。月俸十七口云々は別にして、現米三百石支給は十二月に決まったからである。とすれば、当初の『武公伝』がこの待遇記事を後に措いたのは、むしろ当然であろう。
 しかるに、景英が武蔵口上書を挿入したために、事前の質疑応答という場面が出てきて話が変った。つまり、こういう事前の質疑応答があるというのも、まだ忠利は武蔵と会っていないという前提だから、秘密試合の後の記事としては、順序が逆である。秘密試合には忠利が立ち会っているからである。景英は『武公伝』に口上書の記事を挿入したものの、それでは配置の具合が悪くなったので、新たに書き下ろす『二天記』では、順序を入れ替えてこれを秘密試合の前にもって行ったということであろう。
 したがって、正脩の『武公伝』に、もしこの口上書の記事があれば、『武公伝』も『二天記』と同じく、「武蔵の口上書」→「秘密試合」という順序であったはずである。そうでない以上、正脩段階の『武公伝』には、武蔵が口上書を提出したという話はなかった、としなければならない。
 ただし、岩間六兵衛や坂崎内膳のような名は、景英段階では初出はありえないから、これに類する説話が別にどこかに伝承されていたのだろう。それは八代の伝説ではなかった。というのも、先に奉書でみたように、武蔵の肥後逗留に当たって世話を焼いたのは長岡興長である。しかるに、八代の長岡家臣団には、そうした肝腎の事実関係は、伝説としてすら残らなかった。『武公伝』『二天記』には、武蔵肥後逗留にあたって長岡興長が世話を焼いたというような記事はない。
 そのことは、肥後系武蔵伝記のポジションが、いかに事実から遠く離れているかを示す。『武公伝』『二天記』は、肥後の武蔵に限ってでさえ、正確な伝承をもたなかったのである。
 おそらく、岩間六兵衛や坂崎内膳が登場するこの話は、八代の伝説とは異系列の熊本の伝説であっただろう。その「新情報」を仕入れた景英は『武公伝』に増補した。仕入先の伝説には、こんな口上書まではなかったかもしれない。だが景英は、巌流島決闘記事と同じく、それを文書化した。――『武公伝』のこの段の記事が生れた経緯は、おおよそそのようなことであろう。
 そこで、正脩段階の『武公伝』を復元想定してみると、ここは、武蔵の待遇に関する記事のみであったとするのが妥当である。つまり、月俸十七口現米三百石、遊客であるから諸士の列に配せず、居宅は熊本千葉城の高い所にあり、という三点の記述である。
 ようするに、景英は『武公伝』に中途半端な介入をしたため、前後の辻褄が合わなくなり、それを放置したまま、『二天記』執筆へ移ったのだが、あたかも打ち捨てられた廃墟のごとく、その痕跡は、まさにこういう部分にある。その意味で、口上書記事が景英による作為だということ以上に重要なのは、『武公伝』個別記事の成り立ちに関して、ここがそれを示唆する急所だということである。  Go Back





旧千葉城の位置
肥後国熊本城廻絵図



千葉城址現況


千葉城の屋敷地
肥後国熊本城廻普請仕度所絵図


熊本県立図書館蔵
二ノ丸之絵図 千葉城部分
吉田庄右衛門尉・松野善右衛門尉


 
  12 肥後での日常
一 武公、平居閑静シテ、毎ニ泰勝寺ノ住持春山和尚ニ參禅シ、連歌或ハ書畫小細工等ヲ仕テ、日月ヲ過了ス。故ニ武公作ノ鞍、楊弓、木刀、連謌、書画、数多アリ。(1)
朱印形
         大抵ケ様ノ形ヲ用ラル

  花押 (図形)  タシ筆ナシ、一筆ナリ (2)

一 武公は、平穏で閑静な暮らしで、つねに泰勝寺の住持・春山和尚に参禅し、連歌あるいは書画小細工等をして、月日を過した。ゆえに、武公作の鞍・楊弓・木刀・連歌・書画が、多数あり。
 朱印形
         大抵この様な形を用られた

  花押 (図形)    加筆なし、一筆である

  【評 注】
 
 (1)武公、平居閑静シテ
 肥後における武蔵の日常である。平穏で閑静な暮らしで、いつも参禅したり、連歌あるいは書画、工芸細工等をして、月日を過した。ゆえに、武蔵作の鞍・楊弓・木刀・連歌・書画など作品が多数のこっている、という話である。
 これも誰それの話というのではないから、武蔵作と伝えられる作品が多く残っていることから、武蔵の日常生活はこういうことだろうと推測される、というところであろう。叙述は倒置されている。この点に関するかぎりにおいて、現代の我々のポジションとそう大して変わりがあるわけではない。
 武蔵晩年の肥後時代の作品は現在でもかなり残っている。これも、物持ちのよい肥後だから残ったのであって、上方や江戸ならそういうわけにはいかない。骨董マーケットを通じて武蔵作品は散佚してしまったのである。
 後に出るように、『武公伝』の筆者は、自家所持のものもふくめ武蔵作品とその所在を記録している。十八世紀中期において、肥後でどのような作品がどの家で持ち伝えられていたか、それが知れる資料である。ところが、いまの部分でもそうだが、武蔵作の鞍・楊弓・木刀・連歌・書画など作品が多数のこっている、という話を含めて、後継『二天記』は武蔵作品の具体的な記述を割愛している。これは『武公伝』と『二天記』の関心の志向が異なっていることを示す。
 ところで、この部分で問題なのは、武蔵がいつも泰勝寺の住持・春山和尚に参禅していた、という記事である。結論から先にいえば、これは『武公伝』を初出とする武蔵関連伝説とするほかない。
 改めて云えば、この「泰勝寺の住持・春山和尚」というのは、春山玄貞(1618〜73)のこと。大淵玄弘(1588〜1653)の後嗣で、泰勝院第二世である。泰勝寺は細川家菩提寺、武蔵生前は泰勝院と称していた。現在は立田自然公園(熊本市黒髪四丁目)として霊廟墓所と遺跡が保存されている。
 ちなみにいえば、細川忠利が菩提寺として泰勝院を建立したのが、寛永十四年(1637)、そして忠利の死後になるが、細川光尚の招聘に応じて、大淵玄弘が京から肥後入りして泰勝院の開山となったのが、寛永十九年(1642)秋のことである。大淵玄弘は以後肥後にあったが、正保二年(1645)、武蔵が死んだとき泰勝院で葬儀を執行した。大淵の死去は承応二年(1653)である。
 以上のことから、武蔵生前の泰勝院住持はこの大淵玄弘であって、春山玄貞ではない。『武公伝』の伝説は、大淵玄弘を春山玄貞と取り違えたというよりも、大淵玄弘の名は一切出ないから、そもそも大淵を知らなかったのだろう。ただし、『武公伝』の伝説はそれ以上のことを演じている。
 『武公伝』には大淵玄弘の名は見当たらず、あるのは春山和尚の名のみである。しかも、後出のように、武蔵は春山から二天道楽という道号をもらうわ、春山に五輪書の序文の添削を依頼するやら、武蔵の死に際して春山が引導を渡すわ、はては小倉碑文まで春山撰述にしてしまう。武蔵に関して、まさに春山和尚は大活躍なのである。
 むろん事実は、春山はまだ「泰勝寺の住持」になっていないし、泰勝寺の名もまだ泰勝院である。大淵玄弘の名を知らず春山を語るのは、『武公伝』の情報がオリジナルのものをもたず、後世の口碑伝説をもとにしていることを示す。これは、言い伝えが不確かというよりも、もっと積極的な「春山和尚伝説」というべきものであり、そうした伝説が『武公伝』の肥後八代周辺に形成されていたことを示す。
 とすれば、武蔵が春山のもとで禅に参学したというのも、その春山和尚伝説の一つである。老齢の武蔵に対して、春山玄貞は宮本伊織と同世代の文字通りの若僧、とはいえ、すでに二十代後半の年齢だから、在家衆に参禅指導できないことはない。だがそれも、肝腎の大淵玄弘という存在がなければ、という仮定条件のもとでの話である。
 しかし、もう一点、かりに春山ではなく大淵であるとしても、武蔵が日常参禅するようなことがあったか、という問題もある。
 そもそも五輪書の記述を読めばわかるように、この期に及んで武蔵が禅に参学したとは思えない。語彙が違うのである。禅というより宋儒の影響が強い。柳生宗矩の『兵法家伝書』と比較すれば知れることだが、武蔵の文体、その記述スタイルには、禅に入れこんでいたという痕跡はない。したがって、『武公伝』の武蔵参禅記事は、明らかに後世の伝説なのである。
 今日の武蔵評伝に通有なのは、武蔵は晩年禅に深く参入していた、春山和尚は武蔵の親友であった、という類の記述だが、それは『武公伝』の春山和尚伝説に淵源して、『二天記』を通じて出来上がった謬説に発するところの、まさに俗説にすぎない。
 現在泰勝院(泰勝寺)跡には、「伝」武蔵供養塔と春山和尚墓の卵塔が隣り合わせに仲良く並んでいる。「武蔵の親友、春山和尚」説が物質化されていおり、これもまた、肥後における武蔵伝説の一端を示す奇妙な光景ではあるだろう。  Go Back















*【二天記】
《武藏平居閑静ニシテ、或ハ連歌茶書畫細工等ニテ、日月ヲ過了ス》



春山玄貞頂相 永青文庫蔵
春山玄貞


大淵玄弘頂相 永青文庫蔵
大淵玄弘


*【武公伝】
《老年ニ及肥後ニ來テ、泰勝寺春山和尚ニ參学シテ道號ヲ二天道樂ト云》
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ推黄ヲ乞フ》
《兼テノ約束ニテ、泰勝寺ノ前杉馬場ノ内ニ棺ヲ舁居〔据〕ヘ、春山和尚出迎テ引導也》
《承應三天[甲午]四月十九日、宮本伊織ノ碑ヲ立此。碑銘肥後國泰勝寺住持春山和尚書之。前出》



泰勝寺跡 伝武蔵供養塔と春山卵塔
立田自然公園

 
 (2)朱印形 花押
 武蔵が用いた朱印形と花押の記録である。しかし、花押模写はあっても、写本(もしくは写本の写本)ゆえか、印形は見えなかった。したがって、どの印がここに記録されていたのか、不明である。
 花押は、見たものを模写したのが原本にあったのだろうが、これも写しであるから、正確なものではなく、むしろかなり崩れた下手くそな花押が描かれている。
 ちなみに、武蔵が用いた朱印および花押の例を挙げておけば、以下のようなものである。他方、この『武公伝』を書写した田村秀之は、五輪書も書写編集しているが、そこには朱印を模写して描いている。
 これを見るに、二天印と武蔵印の二顆を記載している。とすれば、この文政の頃の認識として、武蔵の使用印章は如斯ということはあったのである。しかし、この印判二顆はいかにも余計である。  Go Back

永青文庫蔵
紅梅鳩図
永青文庫蔵
鵜 図
久保惣美術館蔵
枯木鳴鵙図
八代市立博物館蔵
長岡興長宛武蔵書状
吉川英治記念館蔵
有馬直純宛武蔵書状

個人蔵
武公伝 当該部分




田村家本五輪書 朱印模写



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