宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   1  Back   Next 

 
  01 新免武蔵守藤原玄信先生
一 新免武藏守藤原玄信先生(1)ハ、若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケ、國々所々ニ於テ天下ニ聞エアル兵法者ニ對シ、真劍木刀ノ勝負數度及トイヱドモ、一度モ不失其利、其程歳十參ヨリ廿九迄也。三十ヲ越テアトヲ思見ルニ、兵法至極シテ勝タルニハ非ズ、自ラ道ノ器用在テ天理ヲ離レザル故カ、又ハ他ノ兵法不足ナル處ニヤ。其後猶モ深キ道理ヲ得ント朝鍛夕練シテ見レバ、自兵法ノ道ニアフ事五十歳ノ比也。夫ヨリ以来ハ可尋入道モナクシテ光陰ヲ送リヌト。
 兵法ノ利ニマカセテ諸稽*〔諸藝〕諸能ノ道トナレバ、万事ニ於テ明ラカ也。則チ二刀ノ一流ヲ立テ、實相圓満之兵法逝去不絶二天一流ト名號スト也。(2)
一 新免武蔵守藤原玄信先生は、若年のころから兵法の道に心を懸け、諸国諸処において、天下に名を知られた兵法者を相手に、真剣や木刀の勝負を数多く行ったが、一度も勝利を得ないということはなかった。その間、年十三歳から二十九歳までのことであった。三十歳を越えて、振りかえって思い見るに、これは自分の兵法が究極に達していたので勝ったということではなかった。おのづから道の働きがあって天の理を離れざるゆえか、あるいは、他流の兵法に欠陥があったからであろうか。その後、なおも深き道理を得ようと、朝に夕に鍛錬してみれば、おのづから兵法の道に叶うようになったのは、50歳のころである。それからのちは、尋ね入るべき道もなく、時を送ってきたという。
 兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となれば、万事において明らかである。そこで、二刀の一流を立て、「実相円満之兵法逝去不絶二天一流」と名号したとのことである。

  【評 注】
 
 (1)新免武藏守藤原玄信先生
 この「新免武藏守藤原玄信」というのは、武蔵のフォーマルな名のりである。これに対し今日の我々がいう「宮本武蔵」は通称である。
 「宮本武蔵」なのに、どうして「新免」なのか。これは武蔵が、若年のころ、新免無二の兵法家(十手の家)を嗣いだからである。家名を嗣いだのだから、新免氏を名のるわけである。
 つぎに、「宮本武蔵」なのに、どうして「武蔵守」なのか。これについては、何だか国司大名みたいで偉そうな名じゃないか、という声が出そうだ。じっさい、「武蔵守」を名のるなんて、武蔵はとんでもないやつだ、頭がおかしいのじゃないか、などという無知な反応があったし、またそれとは逆に、そんな大名しか使わない名を武蔵が使うわけがない、きっと武蔵流門弟の末孫が、武蔵を尊敬するあまり、武蔵を「武蔵守」にしてしまったのだろう、というこれまた別の阿呆な憶測もある。
 ところが、これはどちらも間違いである。天皇制官位システムでは、「武蔵守」は朝廷から任命される官職。ようするに「武蔵守」は職名である。ところが戦国時代には「○○守」を称する者は無数にいた。彼らは朝廷から「○○守」を任命されなくても、慣例として擬制職名のそれを名のっていた。
 戦国末期の作州竹山城主新免氏のケースでも、当主の「新免伊賀守」以下、数百石クラスの家老連に「新免備前守」「新免備後守」「新免伊予守」などを名のる者らがあり、「○○守」を名のるのは大して珍しいことではない。彼らは朝廷から「○○守」に任命されたわけではない。また、たとえば「伊賀守」を名のる者は全国には他にも多数いたはずだから、「○○守」は排他的な名ではない。
 あるいはまた当時の習俗では、「○○守」は職人の称号であった。兵法者にかぎらず、刀工や神職など職人の類に属する者らに「○○守」を名のる例が多い。これはある手続きを踏んで、そういう官職を名のるのだが、それにしても「○○守」が、大名しか使わない名だという誤解への反証になるだろう。
 武蔵が「新免武蔵守」を名のったとすれば、これは戦国遺制とも言うべく、新免無二から受け継いだ家職称号なのである。それは新免無二の名跡が「新免武蔵守」であったというにすぎない。
 本書『武公伝』が「新免武藏守藤原玄信」とするのは、五輪書の中身を知っているからである。つまり、そこには、
   《生国播磨の武士、新免武藏守藤原玄信》
と記されているのである。本書のタイトル『武公伝』の「武公」とは、「武蔵」に対応する名ではなく、まさに「武蔵守」に対応した名である。「武蔵守」だから「武公」なのである。
 また筑前系の武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産》とあって、この「新免武蔵守玄信」は五輪書の字句を知っている者の記事である。『丹治峯均筆記』本文には「武州」とあるが、これも同じく、「武蔵」に対応する名ではなく、「武蔵守」に対応した名である。「武蔵守」だから「武州」なのである。出雲守を「雲州」と呼ぶが如し。
 武蔵生前、日常的には、他人は武蔵のことを「武州」と呼び、武蔵自身もしくは伊織のような身内は、「武蔵守」という称号を避ける恰好で「武蔵」と記した。これは武蔵の死の前後伊織と肥後側の重臣たちとの往復書簡で知れる。伊織が建碑した小倉の武蔵碑のタイトルは「新免武藏玄信二天居士碑」で、これも同様にして「武蔵守」という称号を避ける恰好である。そして碑文は「武蔵」と記す。これは孝子が亡父を呼ぶかたちなので、身内側からする名称である。ただし、五輪書冒頭のようにフォーマルな名のりが必要なばあいは、やはり「新免武蔵守」なのである。
 このかぎりにおいて、『武公伝』は五輪書に忠実なのだが、それに対して『二天記』は、「新免武藏藤原玄信」と記す。五輪書に依ったとすれば、厳密に言えば、これでは正しいとはいえない。むしろ小倉碑文の「新免武藏藤原玄信」に依ったともみえるが、上述のように小倉碑文は「孝子」のポジションで記した文なので、それをそのまま自分の用法とはできない。
 後世になると、「武蔵守」と記す意味が忘れられて、「武蔵守」とするのを憚るようになってしまったらしい。しかし、『二天記』本文では一貫して「武蔵」と記している。そのスタンスは、小倉碑文のそれではなく、むしろ今日の我々のそれに同じである。そのことは前掲「解題」で触れられている。
 さて、次に、「新免武蔵守」ときて、こんどは「藤原玄信」である。「新免」が氏(うじ)であるのに対し、この「藤原」は姓(かばね)である。なぜ「藤原」姓かといえば、新免氏が、藤原北家の徳大寺実孝(1293〜1322)をその元祖とするからである。日本の家系の多くは源平藤橘の四姓のどれかであるが、そのうち、新免氏は藤原系統だというわけである。したがって、氏姓を示すフォーマルな名のりには、この「藤原」姓が入るのである。
 次に「藤原玄信」の「玄信」の方は、諱〔いみな〕である。したがって、藤原実孝が「さねたか」と読むように、玄信は「もとのぶ」と読む。本書にはこれを「はるのぶ」と振り仮名する例があるが、これは後人推測の読みである。「玄信」は、これが諱ではなく法号なら「げんしん」と読む。俗名なら「げんしん」とは読まない。
 以上のように、武蔵のフォーマルな名のりは「新免武蔵守藤原玄信」である。ようするに、この文字列の構成は、「新免」は氏、「武蔵守」は職名、「藤原」は姓、「玄信」は諱である。
 『武公伝』はこれに「先生」をつけて、「新免武蔵守藤原玄信先生」と記す。「先生」は「師」と同じだが、この「先生」という語には当時、漢流の新味があって、十八世紀中期の肥後での流行が反映されている。筑前なら、「先生」とはせずに「武州師」である。
 ところで、この「先生」を付けたのは、どうみるか。時代的なことをいえば、志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』(寛保二年・1742)が近いのであるが、これにも「新免武蔵藤原玄信先生」とあって、「先生」が付いている。とすれば、これは当時肥後での風潮流行であって、『武公伝』もそれに效ったもの、としておく。
 ただし、正脩の『武公伝』は基本的に「武公」と記すから、「玄信公」はありえても、「先生」とは記さない。それゆえ、正脩段階では、冒頭書き出しは「新免武蔵守藤原玄信公」とあったと思われる。それを「先生」に変更したのは景英あろう。  Go Back







新免武蔵守藤原玄信



九州大学蔵
吉田家本五輪書
新免武藏守藤原玄信




*【丹治峯均筆記】
《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族》

*【二天記】
《新免武藏藤原玄信、其先村上天皇ノ皇子具平親王ノ後胤、播磨國佐用ノ城主赤松二郎到官則村入道圓心ノ末葉也。故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム。又兵書等ニハ新免ト書セリ。天正十二年甲申年暦三月、播州ニ生ル》




















*【兵法二天一流相伝記】
《兵法二天一流元祖、新免武藏藤原玄信先生は、生國播州の英産、宮本無二の男》
 
 (2)實相圓満之兵法逝去不絶二天一流
 この記述は、五輪書冒頭の武蔵自序部分をほぼそのまま引き写している。五輪書を参照してこう書いたのは正脩であろう。
 すなわち、若年のころから兵法の道に心を懸け、諸国諸処において、天下に名を知られた兵法者に対し、真剣や木刀の勝負を多数なしたが、一度も勝利を得ないということはなかった。その間、年十三歳から二十九歳までのことであった。三十歳を越えて、振りかえって思い見るに、これは自分の兵法が究極に達していたので勝ったということではななかった。おのづから道の働きがあって天の理を離れざるゆえか、あるいは、他流の兵法に欠陥があったからであろうか。その後、なおも深き道理を得ようと、朝鍛夕錬してみれば、おのづから兵法の道に叶うようになったのは、五十歳のころである。それからのちは、尋ね入るべき道もなく、時を送ってきた。兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となれば、万事において明らかである、云々。
 『武公伝』はこのように、典拠について何も言わず、いきなり記しているが、『二天記』の方は、いちおう《流書ニ曰》として引用し、それが当流兵法書(五輪書)によるものであることを記す。
 ここで問題の一つは、武蔵の勝負六十回以上の無敗履歴において、五輪書では《其程歳十三より廿八九迄の事なり》とあるのを、『武公伝』は、それを「二十九歳」までのことだとしている。これは後で見るように、巌流島決闘を二十九歳のときの事績としてしまう操作と軌を一にしている。巌流島決闘を二十九歳のことにしたから、ここは《廿八九迄》という曖昧な記述を葬り去って、「二十九歳まで」としたのである。
 この書換えは、正脩のものか、というと確証がない。『二天記』は《流書ニ曰》として五輪書をそのまま引用し、「其程歳十三ヨリ二十八九迄ノコト也」としている。この部分だけみると、『武公伝』にのみ逸脱があるようにみえる。ところが、後で巌流島決闘の記事にみるように、慶長十七年四月とまで、期日を決定してしまったのは景英の方だから、この「二十九歳まで」は景英による改訂の痕跡である可能性もある。
 もうひとつの問題は、『武公伝』が、「二刀の一流を立て、実相円満之兵法逝去不絶二天一流と名号した」という部分であろう。『二天記』もこの説を踏襲している。
 これによれば、いわゆる「二天一流」のフルネームは、「実相円満之兵法逝去不絶二天一流」であるらしい。この「実相円満之兵法逝去不絶」という冠語は、周知のように小倉の武蔵碑の頭冠部に掲げてある「天仰実相円満兵法逝去不絶」、武蔵遺偈である。だが、この偈文が「二天一流」の冠語になった例は他にはないから、これは肥後武蔵流兵法末孫の考案によるものだろう。
 武蔵は「実相円満之兵法逝去不絶二天一流」などと称さなかった。五輪書は《兵法の道二天一流と号し數年鍛練の事、初て書物に顯さんと思ふ》という書き出しである。しかし、五輪書のなかでさえ、「二天一流」と「二刀一流」が混在しているところをみると、「二天一流」という流儀名は、武蔵生前に確定していたとはみえない。
 小倉碑文にあるのは、武蔵は死の時、自ら「天仰実相円満之兵法逝去不絶」の字を書し、この言葉を以て遺像とするとした、という記事である。それが、『武公伝』では、「二刀の一流を立て、実相円満之兵法逝去不絶二天一流と名号した」という。これが武蔵遺偈だとする、小倉碑文の記事に合わぬ話になってしまっている。これはむろん事実とは異なり、後世の伝説なのである。
 それでも、「実相円満之兵法逝去不絶」を冠するのは、仰々しいだけではなく、いささか無理があるというものである。それよりも、小倉碑文には「兵法天下無双」とも大書しているのだから、「兵法天下無双二天一流」とした方が、当時ありそうな流派名だとは云えよう。言い換えれば、『武公伝』はありそうもない流派名を記すことで、これが後世の改竄たることを証言しているのである。
 『武公伝』冒頭の以上の記事は、基本的には正脩が書いたとみてよいが、景英が手を加えた部分もある、という種類の文章である。たんに二天一流ではなく、「実相円満之兵法逝去不絶二天一流」と書いたのも、『二天記』と照合すればわかることだが、景英の仕業であろう。正脩段階では、この部分は、五輪書そのままに、「二刀の一流を立て、二天一流と名号した」とのみあったであろう。  Go Back



*【五輪書】
《我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして初めて勝負を爲す。其の間、新當流有馬喜兵衛と云ふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬國秋山と云ふ兵法者に打勝つ。廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者に會ひ數度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云ふ事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行逢ひ六十餘度迄勝負を爲すといへ共、一度も其利を失はず。其程歳十三より廿八九迄の事なり。我三十を越て過去を思ひ見るに、兵法に至極して勝つにはあらず。をのづから道の器用有りて天理をはなれざる故か。又は他流の兵法不足なる所にや。其後尚も深き道理を得んと朝鍛夕練して見れば、自ら兵法の道に合ふ事我五十歳の頃なり。夫より以来は尋ね入べき道なくして光陰を送る。兵法の理にまかせて諸藝諸能の道を學べば、萬事に於て我に師匠なし》




*【二天記】
《流書ニ曰、我若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケテ、國々所々ニ於テ名高キ兵法者ニ對シ…》
《一流ヲ實相圓満ノ兵法逝去不絶二天一流ト稱スルナリ》



武蔵碑 頭冠部分
天仰實相圓満兵法逝去不絶



*【小倉碑文】
《於肥之後яイ時自書於天仰實相圓滿之兵法逝去不絶字以言爲遺像焉》

 
  02 天正十二年甲申三月、播州に生る
一 玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之。(1)
 天正十二年甲申三月、播сj生ル。(2)
 少名ハ辨介ト云。(3) 老年ニ及肥後ニ来テ、泰勝寺春山和尚ニ參學シテ、道號ヲ二天道樂ト云。(4)
一 玄信公は、播州赤松の家族*である。赤松は貴族であるため、(玄信公は)常には謙退して、宮本と云った。けだし、兵書等にはこれを避けない。
 天正十二年(1584)三月、播州に生まれた。
 幼少の名は弁介という。老年に及んで、肥後に来て、泰勝寺春山和尚に参学して、道号を二天道楽という。

  【評 注】
 
 (1)玄信公、播州赤松ノ家族也
 まず、「玄信公」とあるのは、冒頭の「新免武蔵守藤原玄信」という武蔵の名のりに対応させたものである。新免武蔵守だから、「公」というわけである。これは筑前系武蔵伝記の「兵法大祖武州玄信公伝来」(丹治峯均筆記所収)というタイトルに、「武州玄信公」とあるのも同じ心である。
 しかし、『武公伝』の爾余の記事は「武公」で一貫しているから、本書ではこの「玄信公」は異例である。
 正脩も景英も使いそうにない「玄信公」だから、したがって、これは正脩以前、つまり豊田正剛の手稿にあった記事であろう。
 しかるに、この段すべてが正剛の記事とも思えない。むしろ、大半が正脩あるいは景英の記事であろう。おそらく、「玄信公は播州赤松の家族である」という部分のみが、正剛に帰しうる記事である。
 筑前系の『丹治峯均筆記』には、新免武蔵守玄信は播州の産、赤松の氏族、とある。これらはいづれも小倉碑文の記事による知識である。すなわち、小倉碑文には、「播州赤松末流」あるいは「播州英産、赤松末葉」と記している。
 しかし、『武公伝』はこの玄信公が「播州赤松の家族」だったという。これは小倉碑文の記事から逸脱した、奇怪な説である。肥後の人間には、播磨の事情が分からないので、こんな話になったのであろう。
 ここで『武公伝』がいう「家族」は、末葉・末流ではなく、赤松一族の意である。ようするに、小倉碑文の「赤松末葉」「赤松末流」が、肥後ではいつのまにか「玄信公、赤松の家族なり」という説、しかも貴族・赤松のファミリーだという珍説に変身したものらしい。
 そこで、なぜ武蔵が宮本氏を名のったのか、という話になって、それは赤松が貴族だから、その氏名を憚って宮本と称したのだという。これが伝説の演じるところの解釈である。武蔵は赤松のままでよいのに、赤松が貴族の名だからそれを謙退して、宮本と称したというわけだ。
 ところが、これだと話は終らない。つまり、『武公伝』が冒頭に掲げた「新免武蔵守藤原玄信」という名のりにある「新免」の方はどうなんだ、ということである。「けだし、兵書にはこれを避けず」というから、赤松の名を避けなかったという話で、これだけを読めば、武蔵は兵書では赤松氏を名のっていることになるが、そういうことでもない。
 何をどう勘違いして『武公伝』のこの文言があるのか、明らかではないが、どうもこれは赤松ではなく、新免氏のことである。おそらく、新免武蔵守という名のりが、「貴族」を連想させ、その貴族であることは赤松氏を想起させ、新免を赤松と混同している気色がある。
 そうすると、このあたりは、正脩の書いた記事らしい。どこからが正脩の記事かというと、どうやら、播州赤松の「家族である」というあたりからのようである。正剛は、『丹治峯均筆記』のように、せいぜい「播州赤松の氏族なり」という程度のことしか書かなかったが、以下の一連の記事との関係でみると、正脩はこれを「赤松の家族」と改めたものらしい。
 『二天記』の方は、ここをもう少し研究して、小倉碑文の「赤松末葉」という語句について、武蔵は村上源氏の赤松円心(則村)の末葉だという話を増補している。「赤松末葉」なら、赤松円心の末葉だとしても、意味には違いはないから、この増補記事は冗語である。
 しかるに、『二天記』は、武蔵は事情があって、宮本という外戚の氏姓に改めたとする。これも珍説である。『武公伝』はたんに赤松が貴族だから、その氏名を憚って宮本と称したのだというのだが、『二天記』は、何か事情があって、宮本という外戚の氏姓に改めたとするわけで、ここでは宮本氏は外戚(母方)の氏姓だということになっている。つまり、肥後ではこのように『武公伝』と『二天記』間でさえ伝説が発展しているのである。
 宮本は外戚の氏名だという『二天記』の説は、景英もしくはその周辺の憶測である。父の名を負う家が没落したとき、母方の家名を名のるというケースは少なくない。そこで、宮本を名のった武蔵のケースもそれであろうと考えたのである。
 武蔵が赤松の家族、ゆえに赤松円心の末裔としたから、これは村上源氏である。しかし、それでは、武蔵の名のりに「藤原」玄信とあるのと整合しない。このあたりで景英は躓いたはずだが、それを記していない。
 『二天記』には、「また、兵書等には新免と書いている」とあるから、ここでは赤松・宮本・新免の三つの氏姓の区別はついているようである。『武公伝』の方は、武蔵は赤松を名のるのを憚ったが、兵書にはこれを避けていないとあるから、赤松と新免と区別は曖昧にしている。ようするに『武公伝』は胡乱なことを書いているわけである。『二天記』はその誤りに気づいて訂正を試みているのである。
 ようするに、小倉碑文には「赤松末葉」「赤松末流」とのみ記すのだが、肥後ではそれがかなり脱線してしまった。『武公伝』の、武蔵は赤松の家族、しかし赤松氏は貴族だから、武蔵は赤松を名のることを憚って宮本を名のるようになったという説、あるいは、『二天記』の、武蔵は赤松円心の末葉だが、故あって外戚の氏姓である宮本氏に改めた、という説は、どちらも後世肥後で発生した伝説である。
 武蔵は、新免無二の家名を相続して、新免氏を名のるようになった。新免氏は徳大寺実孝を元祖とする家系だから、藤原姓である。これに対し、赤松氏は村上源氏だから、そもそも系統が違うのである。
 これに対し、武蔵の出自は、小倉碑文が記すように「赤松末葉」「赤松末流」の家であったと思われる。「生国播磨の武士」である武蔵の産地が、播州揖東郡宮本村だとすれば、これは龍野城主・赤松氏に属した武家であろうと見当がつく。ただし播磨は、「赤松末葉」「赤松末流」がゴマンとある地域なので、どれと特定はできない。
 ちなみに、喜多村信節の『瓦礫雑考』(文政元年刊)には、猪狩氏所蔵「赤松武蔵肖像」というものを模写した下手糞な絵が収録されている。そのように、じっさいに、武蔵を「赤松武蔵」と記す文書が登場するのは十九世紀のことであるが、それは巷間に現れた伝説であって、武蔵の兵書(五輪書)を知っている武蔵流末裔とは無縁のことである。  Go Back












*【丹治峯均筆記】
《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族》

*【小倉碑文】
《播юヤ松末流、新免武藏玄信二天居士碑》
《播чp産、赤松末葉、新免之後裔、武藏玄信、号二天》




*【二天記】
《新免武藏藤原玄信、其先村上天皇ノ皇子具平親王ノ後胤、播磨國佐用ノ城主赤松二郎到官則村入道圓心ノ末葉也。故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム。又兵書等ニハ新免ト書セリ》


宝林寺円心館蔵
赤松円心坐像























赤松武蔵肖像
喜多村信節『瓦礫雑考』所収

 
 (2)天正十二年甲申三月、播сj生ル
 ここで武蔵が播州産だというのは、五輪書地之巻冒頭にある「生国播磨の武士」という記事からして問題はない。あるいは、武蔵が天正十二年(1584)生まれだというのも、同じく五輪書に、寛永二十年(1643)十月に「歳つもりて六十」だというのだから、そこから計算すれば、生年が確定できるから、これも問題はない。
 ところが、問題なのは、この天正十二年の「三月」に生まれたと、生れ月を特定するところである。
 もちろん、武蔵が何月に生まれたか、そんなことを記した一次史料はない。また筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』にも見当たらない話である。『武公伝』はどこからこんな情報を仕入れたのか、となると、話はとたんにあやしくなる。
 筑前系の武蔵伝記『丹治峯均筆記』では、小倉碑文を踏襲して、武蔵の生年すら記さないが、これに対し肥後系の武蔵伝説は、一般に物事を特定したがる傾向がある。それは、後出のごとく、吉岡一族の続柄をあれこれ規定してみたり、小次郎を富田勢源の家人にしてしまったりするのと、同軌のふるまいである。肥後の伝説は具体性を欲望する傾向が強かったものとみえる。  Go Back



*【五輪書】
《時寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拜し觀音を禮し佛前に向ふ。生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、歳つもりて六十》


*【二天記】
《天正十二年甲申年暦三月、播州ニ生ル》
 
 (3)少名ハ辨介
 武蔵の幼少の時の名の話である。
 ここにある「辨介」は、『二天記』では「弁助」。これは「べんすけ」もしくは「べんのすけ」と読んだものであろう。筑前の武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、「童名ハ弁之助」とある。とすれば、一次史料には当該記事はないものの、筑前と肥後の武蔵伝記が共通して、このように「少名ハ弁介」「童名ハ弁之助」だというのだから、九州では十八世紀前期からこの伝説があったということになる。
 しかし小倉碑文のような一次史料にはその記事がなく、どこにも武蔵童名の慥かな記録はないことは念頭においておかねばならない。武蔵の童名が「弁介」「弁之助」だという事実はない。
 武蔵童名=弁之助説は、九州ローカルの後世の伝説である。実はこの名の初出は、武蔵諸伝記とは別の文書である。すなわち、十七世紀後期の筑前の海事文書『江海風帆草』(立花重根序文は宝永元年)がそれである。そこには、巌流島決闘のとき、武蔵は十八歳で、名は弁之助だったとする記事がある。とすれば、「弁之助」説は、武蔵流兵法内部の伝承ではなかった。それは、巌流島伝説に発する巷間口碑が最初なのである。
 『江海風帆草』に、《此時まで武藏の名を弁之助といひし也》とあるところをみると、少なくとも十八世紀初めの筑前では、武蔵=弁之助説は発生していたことが知れる。おそらく『峯均筆記』の「弁之助」説は、この『江海風帆草』の説に拠ったものであろう。ただ、『江海風帆草』が、この巌流島決闘のときの武蔵の名は弁之助だったとするのに対し、『丹治峯均筆記』はこれを一歩進めて「童名」にしてしまう。これは踏み外しである。
 つまり、「弁之助」が童名だというのも妙な話で、通例「○○弁介」「○○弁之助」は成人が使用する通称。「弁之助」が初名だとするのならともかく、童名というのは不審である。ようするに、童名らしくない名である。初出の『江海風帆草』にも、これが童名だとは記していない。
 武蔵は巌流島決闘のとき弁之助と名のっていたという巷間口碑に対して、それを一歩進めて、武蔵の童名・少名は弁之助だということにしてしまったのが、武蔵伝記なのである。
 そこで、この名の生成過程を再構成すれば、武蔵→(武蔵坊弁慶→弁慶→弁)→弁之助というワードプレイで、実は「武蔵」名から「弁之助」は導出されるのである。こういう換喩的シフトは伝説形成にはよくある言語ゲームのパターンである。
 ところで、興味深いのは、寺尾求馬助の息子に、新免弁助信盛(1666〜1701)がいたことである。寺尾の息子なのに「新免弁助」である。これは、求馬助が武蔵の家名を息子弁助に嗣がせたということらしい。志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』に、武蔵が生前、求馬助に、「男の子ができたら、我が流儀を相伝して、新免の名跡を継がせてもよいぞ」と言ったので、四男弁助に武蔵の名跡を継がせ、「新免弁助」と名のらせたという。
 武蔵がそんなことを寺尾求馬助に言ったとは、いささか眉唾のところがあって、俄かには信じられないが、とにかく、志方半兵衛のような新免弁助の門流では、そのようなことを言い伝えていたのである。志方半兵衛は後に、自分の息子の一人に武蔵の名跡を継がせ、これが「新免弁之助」を名のった。
 武蔵が寺尾求馬助に「男の子ができたら新免の名跡を継がせてもよいぞ」と言ったかどうかは別にして、実際に求馬助は弁助に武蔵の名跡を継がせ、「新免」を名のらせた。すると、新免弁助の「弁助」はこれも武蔵の初名を継いだかもしれず、したがって、そのかぎりにおいて、「新免弁助」の名そのものが、武蔵の初名が「弁助」であったこと、あるいは少なくとも、武蔵の初名は「弁助」だという伝説のあったこと、それを証言するとみなしうるか。
 しかし、それは話は逆さまである。つまり、弁助はもともと「弁助」という名であった。寺尾家系図には、新免弁助について、《信盛 寺尾辨助、後改新免》とあるし、前掲の志方半兵衛も、《四男寺尾辨助、天性兵法萬人に越…》と書いている。つまり、寺尾弁助が新免に改めたのであって、弁助ははじめから弁助という名であった。
 そうすると、「新免弁助」の名は、武蔵の初名が「弁助」であったことを証言するものではない。むしろ逆に、寺尾弁助が「新免弁助」を名のったところから、武蔵の初名は「弁助」であったのではないかという憶説が生じ、これが流布して伝説化した、というコースの方がありうる話である。
 ようするに、武蔵の初名が弁助だという説は、志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』にはない、ということに注意されたい。武蔵が寺尾求馬助に「男の子ができたら新免の名跡を継がせてもよいぞ」と言ったという話は、志方半兵衛が同書に書いた記事であり、弁助が武蔵の名跡を継いで新免を名のったことを強調している。というのも、そのことが、志方半兵衛が武蔵流兵法正統を主張する根拠になっているからだ。
 その志方半兵衛が、武蔵の初名は弁助だなどという説は記載していないのである。自身は「新免弁助」から一流相伝をうけ、また自分の息子に武蔵の名跡を継がせ「新免弁之助」とした、そんな志方半兵衛だから、「弁助」「弁之助」という名には格別の縁がある。しかし彼は、武蔵の初名は「弁助」だとは書いていない。
 とすれば、もともと肥後には、武蔵の初名は弁助だという説は存在していなかった、という結論になる。志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』が書かれたのは、寛保二年(1742)。少なくとも、この時期までは、肥後の武蔵流末裔の伝承には、武蔵の初名は弁助だという説は存在していなかった、と確認しうる。
 初名弁助説はなかった。ならばむろん、「少名」、つま幼年期の名が弁助だという説もなかったはずである。したがって、『武公伝』が記す、《少名ハ弁介ト云》、つまり幼少時の名は弁介という、とする説は、肥後では異例の説で、しかもかなり新しい時期の説だったと言える。
 他方、筑前系の伝説では、17世紀後期の『江海風帆草』に「弁之助」名が現れ、そして享保十二年(1727)の武蔵伝記『丹治峯均筆記』に、武蔵の童名は弁之助だという説が現れる。
 上述のように、これは肥後の武蔵流内部では存在しなかった説である。しかるに『武公伝』にこれが現れるということにつき、考えられるのは、巌流島伝説の肥後への伝播である。その巌流島伝説の中に、筑前系伝説と同じく、武蔵を「弁之助」とする説があった。これを『武公伝』は拾った、ということである。
 ともあれ、『武公伝』の《少名ハ弁介ト云》という説は、肥後ではかなり新しいものであった。これは正脩が新しい伝聞も入れたということの一端であろう。もちろん、これを書いたのは、新免弁助に近い世代の豊田正剛ではなく、息子の正脩であろう。  Go Back



*【二天記】
《幼少ノ名ハ弁助ト云フ》

*【丹治峯均筆記】
《武蔵、童名辨之助ト云》




*【江海風帆草】
《武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、弁之助[此時まで武藏の名を弁之助といひし也]只今立のくぞ」といひければ、死せる宗入又立あがり、海上を見て、「弁之助いづくへ行ぞ」と、一聲よバゝつて忽死す》


個人蔵
元祖宮本辨之助肖像




*【兵法二天一流相伝記】
《四男寺尾辨助、天性兵法萬人に越、其道元祖武藏に不負、獨歩の器量、流儀の有徳、二天流奥儀、不殘傳授して、武藏の名跡を繼せ、新免辨助と號す。二天流二代是也。武藏存生の内、「信行男子あらば、我流儀を相傳して、新免の名跡を繼可申」由、大望任契約者也。辨助流儀を相繼で、専門弟に指南致す處に》








*【寺尾家系】
《信盛[寺尾辨助、後改新免。兵法師範被仰付。拾人扶持弐拾石。元禄十四年七月廿五日卒。法号郎法辨得居士。庶母同勝明]》
 
 (4)道號ヲ二天道樂ト云
 武蔵の幼少の時の名が弁介だという話に続いて、こんどは晩年の道号の話である。
 『武公伝』によれば、老年に及んで、肥後に来て、泰勝寺春山和尚に参学して、道号を二天道楽という、とするから、肥後に来て春山という禅僧に参学して「二天道楽」の号を得たという話のようである。『二天記』も、この説をそのまま承継している。
 肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』のこの記事は、肥後における後世の伝説である。道号は「二天道楽」ということだが、小倉の武蔵碑のタイトルが、《播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑》であるところから、「二天」が居士号だということは知れるが、「二天道楽」という名号は確認できない。また、小倉碑文の本文中には、《播чp産、赤松末葉、新免之後裔、武藏玄信、号二天》とあって、これも「二天」を号したとあって、「二天道楽」ではない。
 本書『武公伝』は、小倉碑文を収録しているが、そこでも、《播州赤松末流新免武藏玄信二天居士碑》《播州英産赤松之末葉新免之後裔武藏玄信、號二天》とあって、「道樂」字はない。
 『武公伝』は『本朝武芸小伝』を参照している。この『武芸小伝』では、「宮本武藏墓志曰」として小倉碑文を書写しているが、《播州赤松末流新免武藏玄信二天居士碑》《播州英産赤松之末葉新免後裔武藏玄信、號二天》とし、「二天道楽」とはしない。『武芸小伝』は《赤松末葉新免後裔》を《赤松末葉新免後裔》としたり、あるいは本文に、「法名玄信二天」と記して不正確な面はあるが、碑文タイトルは正確に伝えている。
 ところが、『二天記』が末尾に収録している碑文には、《播州赤松末流新免武藏玄信二天道樂居士碑》とあって、「守」「道樂」の増補がある。ということは、この「道楽」字の増殖は、『武公伝』と『二天記』の間に生じたものらしいと見当がつく。
 周知の如く、小倉碑文に「二天道楽」と書いてあるという妄説が、近年まで信じられていた。これは、顕彰会本『宮本武蔵』(明治四十二年)が小倉碑文を引用して、この「二天道楽」を堂々と記していたからである。顕彰会本の悪影響はさまざまであるが、この「二天道楽」もその一つである。ただそれも、さらに遡れば、肥後系武蔵伝記『二天記』にあるこの碑文誤写に淵源するのである。
 ところが、「二天道楽」が肥後だけのことかというと、そうでもない。筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』にも、「二天道楽」という法号記載があって、《天仰実相円満兵法逝去不絶、二天道楽居士》とする。「天仰実相円満兵法逝去不絶」とは、小倉武蔵碑の頭冠部に掲げられた武蔵遺偈であり、これだと、それが「二天道樂居士」号の冠語としてあることになる。同じ筑前系の『兵法先師伝記』もこれを踏襲している。これは、小倉碑文の頭冠部遺偈と居士号との結合である。
 ここで逆に面白いのは、『武公伝』には、「実相円満兵法逝去不絶」を二天一流の名に冠していたことである。
   (武公伝) 実相円満兵法逝去不絶二天一流
   (丹治峯均筆記) 天仰実相円満兵法逝去不絶二天道楽居士
 肥後系伝記は、兵法流儀の名にこれを冠し、筑前系伝記は、居士号にこれを冠する。というわけで、「実相円満兵法逝去不絶」の使用法も、この二つの地域的特性を示している。
 ともあれ、ようするに筑前系も肥後系も同じく、「二天道楽」という法号を記すわけで、そうしてみると、これは九州の武蔵流兵法の伝承だということである。「二天道楽」という号は後世になって流通したものらしい。ただし、どこからこの「二天道楽」という法号がでてきたのか。それは不明である。
 『武公伝』の筆者の一人は、武蔵の位牌なるものを見て、それを記録しているが、その位牌には、
   《新免武蔵藤原玄信二天道楽先生神儀》
とあったという。ここでも、武蔵の法号は「二天道楽」だということになる。これは位牌銘のスタイルから、後世のものだと知れる。武蔵の位牌なるものはいくつも残っている。ところが、法号はすべて違っている。ようするに、位牌は後世の人間が勝手に製作できたもので、法号でさえその都度命名されたのである。これに対し、最古の武蔵位牌とみなしうるのは、やはり小倉碑文の墓誌部分である。そこにある「新免武蔵玄信二天居士」が武蔵の法号である。『武公伝』作者が見たという武蔵位牌も、後人の製作物である。
 『武公伝』後出記事に、武蔵の書蹟という「戦氣」の記事がある。現存の書「戦氣」には、二天朱印と道楽の落款がある。また、近年は見ないが、同じ書「戦氣」に、二天道楽の落款のあるものがあった。これらが武蔵真筆かという問題は残るが、『武公伝』によれば、「戦氣」は豊田家に所持されていた。こうしたことから、たぶん、十八世紀中期までに「二天道楽先生」が再発見されたということであろう。

 『武公伝』の記事をみると、この問題の法号は、武蔵が肥後へ来て、泰勝寺の春山和尚に参学して得たという伝説があったらしい。結論を先に言えば、これは「二天道楽」が生れた後の、十八世紀中期の伝説である。
 「二天道楽」は、武蔵が春山和尚に参学して得た道号だとする『武公伝』の説には、いくつかの点で問題がある。
 第一点は、武蔵は「二天」号を、肥後に滞在するようになる以前から使っていたことである。これは、寛永十七年のものと想定しうる長岡興長宛書簡(七月十八日附)に「二天」と署名していることから知れる。つまり、武蔵は肥後時代春山和尚に参学して以後、「二天」を名のるようになったというのは誤りである。
 第二点は、この「泰勝寺春山和尚」なる存在が問題である。『武公伝』では、この春山和尚に武蔵が禅の参学をしたことになっているが、『二天記』も同様で、ようするに『武公伝』の伝説では、どうもこの「春山和尚」が大活躍のようすである。
 この春山和尚とは春山玄貞(1618〜73)のこと、大淵玄弘の法嗣で泰勝院二世。武蔵死去時は二十六歳、世代的にいえば宮本伊織より若い。武蔵とは親子以上の年齢差がある。武蔵からすれば、字義通りの若僧である。むろん、武蔵生前当時はまだ「泰勝寺」とは呼ばず、「泰勝院」と呼んだのだが、しかもその住持は、春山玄貞ではなく、彼の師匠・大淵玄弘(1588〜1653)である。当時の長岡監物宛宮本伊織書状(五月二十九日付)によれば、武蔵の葬儀を執行したのは、大淵玄弘である。
 『武公伝』は、春山の名を出しても、肝腎の大淵の方を知らないようで、その名が出てこない。すると、これは、大淵を春山と誤認したというよりも、どうやら、およそ春山和尚伝説というべきものを経由して出た話のようである。武蔵といえば春山、というパターンの伝説ができあがっていて、『武公伝』はそれを取り込んだのである。
 こうした誤伝が明らかな伝説は、事情不通の地域で発生する。とすれば、同じ肥後でも熊本の伝説とは思えない。おそらく八代で発生したローカルな伝説であろう。
 この春山和尚伝説では、春山は(事実とは異なり)すでに泰勝寺の住持であり、武蔵生前に引導を頼まれるだけではなく、五輪書序文の推敲を頼まれたり、はては宮本伊織に小倉の武蔵碑の碑文まで頼まれたり、いろいろ武蔵のために働いたことになっている。そのため、肥後系伝記のこの春山和尚伝説を信じた近代の武蔵評伝は、「武蔵の親友、春山和尚」などと書いてしまったのである。
 武蔵が晩年の肥後時代、禅に参究していたという説も、霊巌洞伝説と同様、この肥後の春山和尚伝説に発するとすれば、たんなる口碑の域を出ない。逆に言えば、武蔵参禅説は、春山和尚伝説が武蔵を我田引水したというにすぎず、そういう肥後の武蔵伝説を、『武公伝』が取り込んだということである。
 興味深いことに、筑前系の『丹治峯均筆記』は、肥後の伝説とはまるで違った話を収録している。すなわち、武蔵が臨終に及んで和尚(名不明)に引導を頼んだ。和尚の云うに、「武州はすでに悟道の人である。どうして、いまさら引導が必要か」といって辞退した。二天道楽居士というのは、引導がなかったので、自称の号である、という。この「コレ自ノ称号也」というあたりは、上記の興長宛書状の署名にすでに「二天」と記しているのと呼応する。




*【二天記】
《老年ニ及ビ肥後ニ來リ居住セリ。立田山泰勝寺二世之僧春山和尚ニ縁リ、道號ヲ二天道樂ト號ス》


*【小倉碑文】
《播юヤ松末流、新免武藏玄信二天居士碑》《播чp産、赤松末葉、新免之後裔、武藏玄信、号二天》

*【武公伝引用碑文】
播州赤松末流新免武藏玄信二天居士碑》《播州英産、赤松末葉、新免之後裔武藏玄信、號二天》

*【本朝武芸小伝】
《播州赤松末流、新免武藏玄信二天居士碑》《播чp産、赤松末葉、新免【★】後裔、武藏玄信、號二天》
《正保二乙酉年五月十九日、於肥後熊本城下死。法名玄信二天

*【二天記引用碑文】
播州赤松末流新免武藏玄信二天道樂居士碑》《播州英産、赤松末葉、新免之後裔武藏玄信、號二天》






*【丹治峯均筆記】
《天仰實相圓満兵法逝去不絶二天道樂居士》

*【兵法先師伝記】
《行年六十二歳。肥後侯ノ宰臣以下諸役人來リツドヒテ、弔礼ヲ厚フシ、太守ノ命ニ依テ岩戸山ニ葬ル。右石碑名號、天仰實相圓満兵法逝去不絶二天道楽居士》



泰巌寺旧蔵武蔵位牌

*【武公伝】
《熊本鍛冶屋町ニ養寿院ニ即詣ケルニ、武公ノイハイ〔位牌〕在、爰ニ記
 兵法二天一流祖
 新免武藏藤原玄信二天道樂先生神儀
 正保二[乙酉]天五月十九日》



八代市立博物館蔵
長岡興長宛武蔵書状
左下封書署名に「二天」



*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候。此段乍恐、至江戸岩間六兵衛方江、以書状申上候。乍慮外、弥従貴殿様も可然様被仰上可被下候。随而書中之印迄、胡桃一箱并鰹節一箱弐百入致進上候。恐惶謹言》(5月29日付)

*【武公伝】
《武公、平居閑静シテ毎ニ泰勝寺ノ住持春山和尚ニ參禅シ、連歌或ハ書畫小細工等ヲ仕テ、日月ヲ過了ス》
《武公ノ石碑豐前小倉ノ城下ニ在。春山ノ作、左ニ記》
《其后、承應三天[甲午]四月十九日、宮本伊織ノ碑ヲ立此。碑銘肥後國泰勝寺住持春山和尚書之。前出》
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ推黄ヲ乞フ。春山、コレニハ斧鑿ヲ加フル寸ハ却テ其素意ヲ失ン事ヲ愁テ、更ニ文躰法度ニ不拘、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換、且ツ義理ノ近似ナル古語ヲ引用テ潤色之ト也》

*【丹治峯均筆記】
《和尚ニ引導ヲ頼ム。和尚ノ云、「武州ハ悟道ノ人ナリ。ナンゾ引導ニ及バンヤ」トテ辞退ナリ。天仰實相圓満兵法逝去不絶、二天道樂居士。コレ自ノ称号也》
 ここで、この冒頭部分において以上二条の『武公伝』の記事は、『二天記』においていかに書き換えられているか、それを見ておくことが必要であろう。『武公伝』と『二天記』の相違は、早くもここで現れているからである。
 まずすぐに目に付くのは、『武公伝』では文体も異なる冒頭二条を、『二天記』では一つにまとめていることである。
武 公 伝 二 天 記
一 新免武藏守藤原玄信先生ハ、若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケ、國々所々ニ於テ天下ニ聞エアル兵法者ニ對シ、真劍木刀ノ勝負数度及トイヱドモ、一度モ不失其利〔その利を失はず〕其程歳十三ヨリ廿九迄也。三十ヲ越テアトヲ思見ルニ兵法至極シテ勝タルニハ非ズ、自ラ道ノ器用在テ天理ヲ離レザル故カ、又ハ他ノ兵法不足ナル處ニヤ、其後猶モ深キ道理ヲ得ント朝鍛夕煉シテ見レバ、自兵法ノ道ニアフ事五十歳ノ比也。夫ヨリ以來ハ可尋入道モナクシテ光陰ヲ送リヌト、兵法ノ利ニマカセテ諸稽〔諸藝〕諸能ノ道トナレバ、万事ニ於テ明ラカ也。則チ二刀ノ一流ヲ立テ、實相圓満之兵法逝去不絶二天一流ト名號スト也。

一 玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之。天正十二年甲申二月、播州ニ生ル。少名ハ弁介ト云。老年ニ及肥後ニ來テ、泰勝寺春山和尚ニ參學シテ、道號ヲ二天道樂ト云。
一 新免武藏藤原玄信、其先村上天皇ノ皇子具平親王ノ後胤、播磨國佐用ノ城主赤松二郎判官則村入道圓心ノ末葉也。故有テ外戚ノ氏姓宮本ニ改ム。又兵書等ニハ新免ト書セリ。天正十二年甲申年暦三月、播州ニ生ル。幼少ノ名ハ弁助ト云フ。老年ニ及ビ肥後ニ來リ居住セリ。立田山泰勝寺二世之僧春山和尚ニ縁リ、道号ヲ二天道樂ト号ス。
 流書ニ曰、我若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケテ、國々所々ニ於テ名高キ兵法者ニ對シ、眞劔或ハ木刀ノ勝負六十餘度ニ及ブト云トモ、一度モ其利ヲ失ハズ。其程歳十三ヨリ二十八九迄ノコト也。三十ヲ越テ跡ヲ思ヒ見ルニ、兵法至極シテ勝タルニハ非ズ。自ラ道ノ器庸〔器用〕有テ天理ヲ離レザル故カ、又ハ他ノ兵法不足ナル處ニヤ。其ノ後尚モ深キ道理ヲ得ント朝鍛夕錬シテ見レバ、兵法ノ道ニ遇フコト、五十歳比也。夫ヨリ以來ハ、尋ネ入ルベキ道モ無クシテ、光陰ヲ送ル。扨兵法ノ理ニ任セテ諸藝諸能ノ道ト爲セバ、萬事ニ於テ我ニ師ナシト、書セリ。一流ヲ實相圓満之兵法逝去不絶二天一流ト稱スルナリ。
 一読比較対照して明らかなように、『二天記』の方が叙述が整序されている。『二天記』は、《其先村上天皇ノ皇子具平親王ノ後胤》云々と、武蔵の出自から記述を起こす。これが伝記としては通例正式な書式である。『武公伝』はまず五輪書から武蔵の自伝部分を引用しているが、『二天記』はそれを後へ送って、流書に曰く、として参考資料扱いである。
 このことは、『二天記』が、世間一般の人々にも読ませる書物として書かれたということである。これに対し、『武公伝』は未完成原稿であり、それじたい資料拾遺集のごとき体裁をとどめている。したがって、最初の条には、「新免武藏守藤原玄信先生ハ」と書き出し、次条では、「玄信公、播州赤松ノ家族也」と書き出す。さまざまなレベルの文章が混在しているのが『武公伝』である。
 この冒頭部分について、『武公伝』『二天記』を比較対照すれば、『二天記』作者が何をしたかが明らかであろう。『二天記』は『武公伝』を校訂するというより、『武公伝』の記事を材料に、このように新たに書き下ろされた一書である。
 ところで、このように二書を対照させても、『武公伝』は正脩の作、『二天記』は景英の作、と単純に振り分けることはできない。
 たとえば、冒頭書き出しの、《新免武藏守藤原玄信先生ハ》とあるあたりは、すでに景英の手が入ったものであろう。この「先生」は正脩の使用しないものである。正脩段階では、書き出しは「新免武藏守藤原玄信公」とあったと思われる。とすれば、本文冒頭の記名から、景英の変更があったことになる。
 正脩は五輪書等の文書を引用したという(凡例)のだから、この部分は正脩段階ですでにあったものであろう。しかし、二天一流に関して、「實相圓満之兵法逝去不絶二天一流」と大仰なものにしたのは景英であろう。
 あるいは、次条の《玄信公、播州赤松ノ家族也》とあるのは、小倉碑文に依拠した記事だが、赤松は貴族だから謙退して宮本と称したとある『武公伝』の説と、ゆえあって外戚の氏姓である宮本に変えたという『二天記』の説と、両者は明らかに違うから、『武公伝』の記事を景英が改稿したものとみえるが、実はそのあたりは確実なことは言えないのである。
武公伝 正脩 武公伝 景英
一 新免武藏守藤原玄信公、若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケ、國々所々ニ於テ天下ニ聞エアル兵法者ニ對シ、真劍木刀ノ勝負数度及トイヱドモ、一度モ不失其利。其程歳十參ヨリ廿九迄也。三十ヲ越テアトヲ思見ルニ兵法至極シテ勝タルニハ非ズ、自ラ道ノ器用在テ天理ヲ離レザル故カ、又ハ他ノ兵法不足ナル處ニヤ。其後猶モ深キ道理ヲ得ント、朝鍛夕煉シテ見レバ、自兵法ノ道ニアフ事五十歳ノ比也。夫ヨリ以來ハ可尋入道モナクシテ光陰ヲ送リヌト、兵法ノ利ニマカセテ諸稽〔諸藝〕諸能ノ道トナレバ、万事ニ於テ明ラカ也。則チ二刀ノ一流ヲ立テ、二天一流ト名號スト也。

一 玄信公、播州赤松ノ家族也。天正十二年、播сj生ル。少名ハ辨介ト云。
一 新免武藏守藤原玄信先生ハ、若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケ、國々所々ニ於テ天下ニ聞エアル兵法者ニ對シ、真劍木刀ノ勝負数度及トイヱドモ、一度モ不失其利。其程歳十參ヨリ廿九迄也。三十ヲ越テアトヲ思見ルニ兵法至極シテ勝タルニハ非ズ、自ラ道ノ器用在テ天理ヲ離レザル故カ、又ハ他ノ兵法不足ナル處ニヤ、其後猶モ深キ道理ヲ得ント朝鍛夕煉シテ見レバ、自兵法ノ道ニアフ事五十歳ノ比也。夫ヨリ以來ハ可尋入道モナクシテ光陰ヲ送リヌト、兵法ノ利ニマカセテ諸稽〔諸藝〕諸能ノ道トナレバ、万事ニ於テ明ラカ也。則チ二刀ノ一流ヲ立テ、實相圓満之兵法逝去不絶二天一流ト名號スト也。

一 玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之。天正十二年甲申三月、播州ニ生ル。少名ハ辨介ト云。老年ニ及肥後ニ來テ、泰勝寺春山和尚ニ參學シテ、道號ヲ二天道樂ト云。
 つまり、『武公伝』の、赤松は貴族だから謙退して宮本と称したという説も、実際は景英が書いていたもので、それを『二天記』を書いたとき「改訂」したということもありうるのである。赤松関係のことは景英は少し勉強したようで、武蔵がなぜ宮本へ改姓したかという宿題を、景英は抱えていて、あれこれ考えていたようである。したがって、『武公伝』『二天記』の二つの異説も、景英一人のものだったかもしれない。
 そして、《老年ニ及肥後ニ來テ、泰勝寺春山和尚ニ參学シテ道號ヲ二天道樂ト云》というあたりも、『二天記』と突きあせてみれば、文言が似ており、景英の書き込みのようにみえる。
 ともあれ、『武公伝』の記事は他にも随所に景英の手が入っていることは知れるのだが、景英の改訂は中途半端なところで中断したので、一貫性を得るには至っていない。それゆえ、それがどこまで、ということは、一つ一つ個別に検討を加えることではじめて判明する。多くは今後の研究課題である。正脩段階の想定復元に関し、現段階の一例を挙げておく。  Go Back

 
  03 新免無二ノ介信綱/吉岡庄左衛門兼法
一 武公、父ハ新免無二ノ介信綱、即チ十手二刀ノ祖タリ。号シテ當理流ト云。(1)
 曾テ扶桑第一ノ劔術者、公方義昭公ノ師、洛陽ノ士、吉岡庄左衛門兼法ト云。公方命ニテ無二ト雌雄ヲ決セシム。限ル相交ル事三分ヲ以ス。吉岡一度利ヲ得、無二兩囘勝之。因テ日下無双兵法術者ノ号ヲ無二ニ賜フ。(2)
 兼法ハ、厥后歴年テ、禁庭御能興行ノ時、同士ト争闘シ刃下ニ八人ヲ斬弑シ、築地ヲ跳リ越テ遁ントス。袴ノ裳、築地ノ覆ノ釘頭ニ係リテ倒レ懸ル、邏卒長鎗ヲ以刺貫テ斃ス。夫ヨリ以来迄今、禁裏御能拜見ノ者帯劔ヲ禁ズトナリ。(3)

一 武公の父は、新免無二ノ介信綱、すなわち十手二刀の祖である。号して当理流という。
 かつて、扶桑第一の剣術者、公方(将軍)義昭公の師、洛陽(京都)の武士、吉岡庄左衛門兼法という。公方の命で、無二と雌雄を決せしめた。試合は三本勝負であった。吉岡は一度勝利を得、無二は二回勝った。よって、日下無双兵法術者の号を無二に授与した。
 兼法はその後、年をへて、禁庭(宮中)御能興行の時、同士と争闘し、刃下に八人を斬殺し、築地を跳り越えて逃げようとした。(そのとき)袴の裳が築地の忍び返しの釘頭に引っかかって倒れかかった。警固の士卒が長鎗で刺貫いて(兼法を)殺した。それ以来今まで、禁裏御能拝見の者は帯剣を禁止することになったそうだ。

  【評 注】
 
 (1)武公、父ハ新免無二ノ介信綱
 まず、ここから「武公」の登場である。「武公」とあるのは、この伝記の主人公・武蔵のことで、武公は武蔵守に対応する名である。『武公伝』において「武公」と書く記事は、基本的には正脩に帰しうるものである。
 『二天記』になると、「武公」と尊称では呼ばず、たんに「武蔵」である。これは元祖武蔵と距離がとれるようになって、既述のように「武蔵守」の意義を無視できるようになり、世間並みのニュートラルなスタンスを得ているからである。
 さて、ここでの話は、武蔵の「父」だという「新免無二ノ介」のことである。武公の父は、新免無二ノ介信綱、すなわち十手二刀の祖である、号として当理流という、とある。短いが、この『武公伝』の記述に関し、問題がいくつかあるだろう。
 ひとつは、武蔵の「父」について、むろん『武公伝』は、この「新免無二ノ介」が武蔵の実父だとして話を進めている。武蔵が新免無二の家を相続した義子だという情報は、肥後には入っていない。
 そして問題は、新免無二ノ介の諱を「信綱」だとするところ。『二天記』は新免無二之介「信綱」として、『武公伝』の説を踏襲している。しかし、これは他地域の伝説にはない名である。もちろん、小倉碑文は、《父新免、無二と号し、十手の家を爲す》とあって、また、名の情報は「新免無二」というだけである。したがって、『武公伝』の「新免無二ノ介信綱」名は、後世の伝説流通過程で発生した名である。どこがどう変成したか、それを追ってみよう。
 まず、新免無二が十手の家をなしたことは、小倉碑文の通りであるが、『武公伝』では、ここに「当理流」という流儀名が登場している。ここが「新免無二ノ介信綱」のポイントであろうと見当がつく。
 それというのも、当理流目録(免許状)なるものが残っていて、そこに「新免無二ノ介」と関係のありそうな名がある。
 現存当理流免許状には三種あって、いずれも発行年は慶長年間を記し、発行者名には、
     「宮本無二助」(生駒宝山寺本)
     「宮本無二斎」(肥後安場家本)
     「宮本无二介」(肥後朽木家本)
という相互に統一性を欠く記名と、「藤原一真」という共通名を有するものである。




















*【小倉碑文】
《父新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼に知れり…》




*【当理流免許状】
《宮本無二之助 藤原朝臣一真》(慶長二年発行・生駒宝山寺蔵)
《宮本無二斎 藤原一真》[天下無双宮本無二助十印](慶長三年発行・肥後安場家蔵)
《宮本无二介 藤原一真》(慶長十二年発行・肥後朽木家蔵)》
安場家蔵
安場家本当理流目録 慶長三年二月二十四日 水田無右衛門宛 宮本無二斎/藤原一真
 話を先取りしておけば、むろん手跡が異なるから、これらは写本もしくは後世の製作物である。とくに肥後の二点は写しというよりも、後世の模造物であろう。
 上掲安場家本当理流目録は、水田無右衛門宛だが、日付は「慶長三年黄梅廿四日」とある。「黄梅」とは迎春花で、二月の季語である。しかし、黄梅が日本に入ったのは、江戸初期で、これが二月の季語として定着するのは、少なくともそれ以後である。したがって、慶長三年(1598)の文書に「黄梅廿四日」という類いの日付を記すはずがない。ようするに、これは十八世紀の流儀である。
 同じく当理流の水田無右衛門名の伝書といえば、右掲のようなものがあって、これは慶長八年に水田無右衛門正勝が三宅勝介へ発行したという文書の写しである。末尾に、《天下無双宮本無二助/當理流我等一流令相傳者也》とあって、宮本無二助の当理流を相伝せしめるという体裁である。
 この水田無右衛門の名には「播州無双」と冠する。水田も三宅も播磨に多い氏名〔うじな〕である。とすれば、宮本無二助から水田無右衛門正勝への相伝の舞台は、播磨ということになる。これは新免無二が播磨にいて、播磨人の弟子があったという痕跡かもしれぬが、しかし、播州に「当理流」という名の流派が興行されていたという話はない。後世の写しの段階で、当理流云々の文言を書き加えたようである。
 これら免許状の「宮本無二助」の原型になったと想定しうるのは、おなじみの「宮本武蔵守」たちの名がある、鉄人流の青木鉄人系統の文書(円明実手流家譜并嗣系)にみえるところの「宮本無二之助一真」(1570〜1622)であろうが、この人物は河内国錦郡(現・大阪府)の人で、世代も異なり、新免無二とは明らかに別の人物である。したがって、当理流免許状の発行者・宮本無二之助がかりに実在の人物だとしても、新免無二と同一視しうる余地はない。
 肥後の当理流小具足の伝系は、宮本無二斎一真に発し、新免武蔵玄信を経て、寺尾求馬助信行→新免弁助信森→村上平内正雄→平内正勝→八郎右衛門正之へ次第し、そこから野田一渓の野田派へ展開する系統のものだが、じつは塩田浜助清勝以後、途中百数十年間断絶していたのを、十八世紀後期に野田一渓が再興したというから、この伝系そのものは十八世紀の伝説にもとづいて事後的に再構成されたのである。それゆえ、当理流元祖の「宮本無二斎一真」という名も根拠はなく、また「当理流」という名称を、新免無二や武蔵が使ったという事実もない。
 肥後系武蔵伝記の『武公伝』『二天記』をみるに、肥後では当理流の伝書なるものがすでに出ていたようで、筆者はそれによって武蔵の「父」を当理流の兵法者と誤認している。しかし、当理流免許状では、発行者は宮本氏であって新免氏ではない。これでは、小倉碑文の「父新免」という記事に違背するから、『武公伝』の「新免無二ノ介」は、あきらかに当理流免許状の「宮本無二助」名を新免氏に修正した名である。すなわち、
   「宮本無二助」 → 「新免無二ノ介」
 またさらに後世の事例だが、宮本伊織子孫の小倉宮本家系譜(十九世紀中期)には、なんと「新免無二之助一真」と記し、かの「宮本無二助一真」をそのまま新免に修正した名がみえる。すなわち、こちらは、
   「宮本無二助一真」 → 「新免無二之助一真」
とあって、修正の痕跡がより濃厚である。いかに当理流免許状に「宮本無二助一真」とあっても、小倉碑文に「父新免、号無二」とある以上、「宮本」無二助一真では具合が悪いのである。
 ところで、『武公伝』の「新免無二之介信綱」に話をもどせば、この「信綱」という諱の出所あるいは典拠は、従来の武蔵研究では、それを指摘したものがなく、不明とするほかなかった。では、これをどう探るかというに、当時の肥後の状況をみればよい。
 『武公伝』の当理流記事は、十八世紀後期、野田一渓(1735〜1802)が当理流を「再興」したとき。それに影響されて生れた新説なのである。後にみるように、豊田景英は村上八郎右衛門の門弟であり、同じ門下から野田一渓が出ている。豊田景英からすれば、野田一渓は六歳ばかり年長の兄弟子というところである。それだけではなく、野田一渓は理論家として強力な影響を周囲に与えた人であった。豊田景英が野田一渓の影響を蒙ったのは申すまでもなかろう。
 そこで、野田一渓二男・種勝による塩田松斎(浜之助)の石塔銘文(天明二年)をみれば、「宮本無二斎信綱君」とあって、『武公伝』の「信綱」という諱の出所が知れるのである。つまりは、塩田松斎の当理流小具足を再興した野田一渓による「宮本無二斎信綱」という名こそが、『武公伝』の記事のソースである。
 しかしこの「信綱」の典拠そのものは不明である。「信綱」という名は、武蔵の諱が「玄信」であるところから、「信」字の継承があったと見たものであろう。これは子の名による父の名の遡行的構成である。つまり、「玄信」から「信綱」が生れたというわけだ。
 しかし、これが新免氏一族の諱だとすれば、ふさわしくない名である。作州あるいは播州の新免氏のことを多少知っておれば、「信綱」などという諱は出そうもない。もしこれが「信貞」もしくは「貞信」とでもあったら、多少信憑性も増そうが、「信綱」ではまったく筋違いの諱である。新免故地から遠く離れた九州で、戯作された名だという他ない。
 ともあれ、景英は、「再興」当理流の所説から、「無二ノ介信綱」なる名を得て、それを『武公伝』に書いた。ただし、上述のごとく、無二ノ介の姓を「宮本」ではなく、「新免」と書き換えたところが、『武公伝』の独自性である。
 また、野田派の上記石塔銘によれば、「当理流」という流名由来は、武蔵が塩田松斎に「手縛一流祖師」の称号を与え、このお墨付きを得て、松斎が「天下無双当理流」と称したということである。石塔銘には「宮本無二斎」は当理流を称したとは記してはいない。当理流の元祖は、塩田松斎なのである。
    《仰願顯當理流祖不朽之光耀而己》
 すなわち、この石塔そのものが、「当理流祖」たる塩田松斎の不朽の光耀を顕彰するために建碑されたものである。言い換えれば、この石塔銘が証言するのは、当理流とは「宮本無二斎」を始祖とするものではなく、塩田松斎を始祖とする流派だということである。
 これは、とくに、新免無二は当理流という根拠なき説を妄信している今日の諸君に、注意を喚起しておくべきポイントである。その当理流という名を「新免無二ノ介」にまで遡らせたのは、野田派の野田一渓らではなく、同じ肥後でも、村上派の系統の人々のようである。
 かくして、『武公伝』の新免無二ノ介と当理流との結合は、野田一渓の当理流「再興」運動から派生した不正確な伝承もしくは改竄であり、それが生じたのは十八世紀後期のことである。つまり、『武公伝』のここでの記事は、豊田景英の改訂増補によるものである。









西湖文庫蔵
当理流秘術目録




*【円明実手流家譜并嗣系】

○宮本大蔵大輔家元┐
┌────────┘
├宮本武蔵守吉元―宮本無二之助一真
│    ┌───────────┘
│    └宮本武蔵守正勝 武蔵?

├青木常右衛門吉家―青木鉄人金定┐
│ ┌─────────────┘
│ └青木鉄人金家 鉄人実手流開祖

└青木常右衛門家直―青木常右衛門真継


*【当理流小具足伝系】

宮本無二斎一真─新免武蔵玄信┐
┌──────────────┘
├寺尾求馬介信行─新免弁助信森┐
│┌─────────────┘
│└村上平内正雄┬村上平内正勝
│       │
│       └村上八郎右衛門┐
│       ┌───────┘
└塩田浜助清勝…┴野田三郎兵衛種信
    松斎       一渓  │
┌────────────────┘
└野田三郎兵衛種勝─大塚庄八照博→










*【当理流伝系】

○宮本無二斎信綱─新免武蔵玄信┐
┌──────────────┘
│当理流祖
塩田浜之助清勝─(仙勝院)─┐
    松斎         │
┌……………(途 絶)…………┘

野田一渓種信─野田三郎兵衛種勝


*【塩田清勝先生石塔銘】
《鹽田清勝先生石塔銘  野 田 某
鹽田濱助、藤原清勝先生、號松齋、播州之産也。爲人果毅雄俊、廉潔正直也。游新免武藏玄信二天一流道樂先生神祇之門、而學其父日下無双兵術者宮本無二齋信綱君捕縛之道、鍛之錬之、未至精妙焉。(中略)武藏~祇謂清勝先生曰、我闢二天一流之兵法、爲本朝二刀兵法之權輿、抑手縛於我道雖旁技、驀面向劔刄上者、生死存亡之所係、世以爲難、此道亦不可虧也。以茲付囑爾手縛一流祖師之稱祖耳。自是而後、爲天下無双當理流手縛之祖、又爲鹽田流祖也。清勝先生、仕三齋公於丹後國、賜食禄、賞賜備前道永刀。常辱懇情、移豐前、移肥後、仕忠利公、仕光尚公。於是、此道偃然行于國、赫然鳴于世矣。以慶安元戊子夏六月初二日、卒于岩楯之荘。享年七十餘。游先生之門者若干、有修驗者仙勝院某者、雖得其宗傳脉絶矣。遺書亦罹火災亡、嗚呼豈不惜哉。碑銘字滅而不辨姓名也。因茲武藏~祇兵法六世道統、誠心直通、傳授之隱士、野田種信入道一渓居士、兼傳當理流手縛之道、幸而得鹽田先生之自書數軸、而考正焉。云云。我輩者種信之徒、而武藏~祇所傳七世之流脉也。乃議命石工、新刻灯燈一雙、奉供清勝先生塚前、刊姓名與事實、仰願顯當理流祖不朽之光耀而己。時天明二壬寅夏六月初二日建焉。銘曰、燈籠百尺、巖巖層層、有明有闇、萬古一燈》
武公伝 正脩 武公伝 景英 二 天 記
武公、父ハ新免無二、即チ十手二刀ノ祖タリ。
武公、父ハ新免無二ノ介信綱、即チ十手二刀ノ祖タリ。號シテ當理流ト云
武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也。
 正脩の段階の『武公伝』には、おそらく、当理流関係の記事はなかったであろう。新免無二ノ介に「信綱」という諱を与えたのは、景英である。以上のことから、正脩段階の『武公伝』記事を復元してみれば、
  《武公、父ハ新免無二、即チ十手二刀ノ祖タリ》
 ようするに、「無二ノ介信綱」も、「当理流」もなかった。『武公伝』にこれら二つの要素を加えたのは景英である。つまり、武蔵の父は、新免無二ノ介信綱、十手二刀の祖である。号して当理流というと。これが、景英段階での、小倉碑文の書き換えである。
 小倉碑文には、無二に関して「十手の家」と十手が強調されている。武蔵が十手術を改めて、二刀を発明したという説明である。ただし、これは必ずしも十手のみを用いる兵法だとは限らない。十手は小具足も含み、剣術のみならず棒術・体術まで含む総合戦闘術である。「十手二刀」とは、右手に刀を、左手に十手をもつのである。小倉碑文もそのような意味合いで「十手の家」としているはずである。
 しかし、小倉碑文が、武蔵を二刀兵法の元祖だとするのは、誤解を生じやすい。それというのも、二刀流元祖をここで排他的に主張しているように読めるからである。
 新免無二の兵法から「無二流」という流派が後に残ったが、これは二刀である。したがって、無二の流儀には二刀術はあった。また無二→武蔵の伝系に限らず、二刀術は、あちこちにあったようである。たとえば、下掲図の陰流伝書には、明らかに天狗が二刀を使っている。






京都嵐山美術館蔵
円明流実手三学真
東京国立博物館蔵
愛洲陰流目録(天正年間)

山本勘助伝 軍法兵法記劔術之卷
 もう一つの例は京流伝書のこの「軍法兵法記剣術之巻」で、これも一刀対一刀、鑓対一刀の中に、二刀対一刀の対戦がある。これは天正十五年の日付と山本勘助の記名があるが、明らかに後世の偽書で、山本勘助に仮託したものである。ただし、武蔵と同時代の近世初期に、京流でもかような兵法書があったということである。
 二刀術は、今日の我々が想像するよりも、かなり一般的なものであった。中国や朝鮮をはじめ、東アジア全体からすれば、単刀を両手で持って戦う日本人の剣術の方が異例であった。刀は片手で振るものであった。これは五輪書の武蔵の言説にも共通する原理である。
 だから、無二が二刀術をすでに使っていたとしても、それは無二の発明ではない。ただそれが十手術との関連においてあるとすれば、そこに何がしかの創意工夫があったのである。それゆえまた、二刀流兵法は武蔵の発明ではない。いわば武蔵は、無二流の二刀術を洗練させたのである。
 小倉碑文が武蔵を二刀兵法の元祖だとするのは、この種の顕彰碑ゆえの修辞的表現であるようにみえるが、そうではなく、二刀流兵法を今のようなかたちにしたのは武蔵だ、と記しているのである。二刀術それじたいの元祖だというのではない。このあたりは、誤読しないように注意が必要である。武蔵以前には二刀流はなかったと誤解してしまうのは、一刀を両手で持って戦う日本人の剣術の方が異例であったという事実を忘却した時代の偏見である。
 それに対し、『二天記』は、無二之介は「剣術」を得道した者であり、「十手二刀」の達人だとする。つまり、無二之介は、十手ばかりではなく、二刀の剣術達人でもある。
 これは、筑前系の『丹治峯均筆記』に、無二は十手の妙術を得て、その後二刀に移し、とあって、無二が十手術を二刀へ発展させたと述べている。これは、当時の無二流の存在を考えれば、実態に即したものであろう。新免無二の流儀に二刀術のあったことは、円明流が存続した尾張の文献でも確認しうる。
 改めていえば、十手も二刀術も無二以前からあった。したがって、『武公伝』の「十手二刀」は事実関係として正しいが、「十手二刀の祖」というのは正確ではない。それよりも、無二の流儀が「当理流」だというのは、それこそ当理ではない。上述のごとく、十八世紀後半の肥後で発生した「再興」当理流では、当理流元祖は塩田松斎であって、「宮本無二斎」ではない。したがって、景英の『武公伝』の説は、これを不正確に変形した謬説なのである。
 『丹治峯均筆記』は、無二免許の弟子として、青木條右衛門の名を挙げている。この人物は武蔵に叱責される役で別項記事にも登場する。あるいは、同じく『丹治峯均筆記』の「追加」に筑前二天流四祖・吉田太郎右衛門実連(1638〜1709)の事蹟を記すなかで、吉田実連が小河半蔵という者と仕合した話が出てくる。
 そこでは、この小河半蔵は、「無二流の二刀」であり、「無二流免許の人」と紹介されている。すなわち、筑前では、無二は当理流などという説はなく、「無二流」である。これは尾張の『昔咄』などに「新免無二流」あるいは「無二流」とあるのと同じ話である。肥後以外では、新免無二の兵法は「無二流」なのである。これは改めて確認しておくべき点である。
 肥後では、当理流に関する情報は、十八世紀後期の「再興」当理流以前には遡れない。当理流免許状は後世の製品である。もともと、無二が当理流を称したなどという説は、肥後におけるローカルな伝説である。
 なかでも、「無二ノ介」と「当理流」の結合は、野田一渓ら「再興」当理流のものではなく、『武公伝』の景英によるものである。それをあたかも事実であるかのように錯覚した説が今日流行しているが、それは物事の歴史性を欠落させた謬説である。この点は、塩田浜之助に関する『武公伝』の後出記事において再説するであろう。  Go Back




京都嵐山美術館蔵
鉄人流絵伝書






*【丹治峯均筆記】
《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族、父ハ宮本無二ト号ス。邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也。無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ無二免許ノ弟子也》
《亦或時、御國自分ノ宅ニテ、小河半藏ト試闘アリ。半藏ハ無二流ノ二刀也。常ニモ實連所ヘ入来ス。實連家頼ニ何ノ藤兵衛ト云者アリ。半藏ト試闘ス。半藏二刀ノ時ハ勝。藤兵衛モ二刀ニナレバ勝。實連ガ云ク、「何レモ二刀ニテハ勝。一刀ニテハ負ル。二刀一刀差別ナキモノナリ。自分ニ可致」トテ、小太刀ニテ立合ルヽ。半藏ハ二刀ナリ。数本之内、一本モ不當。半藏、甚セキテ強ク打所ヲ、小太刀ニテ入込、身ヲ以テアタル。座敷ノ壁ヲ打貫、半藏タヲルヽ。其比マデハ、予、未稽古セズ。コノ試闘ヲ見ズトイヘ共、打貫タル壁ハ、後マデモ押ハメ繕ヒテ有シユヘ、見シナリ。ケ様ノ事、マヽアリシカト、書ノスベキ程ノ事ニテモナク、モラシヌ。半藏ハ、無二流免許ノ人也》

*【昔 咄】
《《(福留)其次男三郎右衛門也。柳生流の兵法をよく遣ひ新御番に被召出ぬ。鎗・長刀・居合・組討・棒等の業芸みな以て其奥秘まで習ひ、(中略)後に山田左近が門人彦坂愚入[始八兵衛]が弟子になりて、新免無二流の二刀を習ひぬ。ゆへに柳生家と不和也》
 
 (2)吉岡庄左衛門兼法
 これは、周知の、京都の吉岡憲法のことらしい。『武公伝』の記事は、右の小倉碑文の記事によって、それをリライトしたものである。
 かつて、扶桑第一の剣術者、公方義昭公の師、洛陽ノ士、吉岡庄左衛門兼法という。公方の命で、無二と雌雄を決せしめた。試合は三本勝負であった。吉岡は一度勝利を得、無二は二回勝った。よって、日下無双兵法術者の号を無二に賜う、と云々。
 しかるに、ここに注目すべき増補があって、「吉岡庄左衛門兼法」という名が出ている。小倉碑文では、新免無二の相手は、「吉岡」とのみあって、「庄左衛門」も「兼法」もない。『武公伝』は何を見て、こう記したのであろうか。
 「兼法」の方は、吉岡憲法、建法、兼房、拳法その他、諸書にあって知られていたし、『武公伝』の著者は『本朝武芸小伝』を読んでいる。そこからの情報知識もある。したがって、これはとくに問題とすべき点はない。
 問題は、「庄左衛門」という通り名の方である。さきの新免無二の「新免無二ノ介信綱」もそうなのだが、『武公伝』はあれこれ具体的な情報を持ち込む傾向があるのだが、どれも根拠は不明である。
 『本朝武芸小伝』には、「吉岡」とのみあって、むろん「庄左衛門」などいう名は記さない。吉岡側の文書『吉岡伝』(福住道祐著・貞享元年)にも、この「庄左衛門」という名はない。世代上該当しそうな人名は、「祖父直光、父直賢」とのみあって、「庄左衛門」というような通称は記さない。吉岡兄弟に関してはじめて、「兄源左衛門直綱、弟又市直重」と通称まで記している。
 『武公伝』にみられるのは、由来の知れない「庄左衛門」である。『武公伝』のネタ元である小倉碑文や『武芸小伝』には「吉岡」としかなく、また筑前系伝記『丹治峯均筆記』にもみえないことから、「庄左衛門」は肥後で発生した伝説と知れる。ディテールの増殖は、伝説の新しさを示すものである。おそらくこれも、肥後で後世物語が反復される中で発生した口碑伝説によるものだろう。
 しかし問題は、正脩の『武公伝』に、「庄左衛門」名があったかどうか、である。これを『二天記』と比べると判明するが、『二天記』では「吉岡」よりも「庄左衛門」多用する特徴がある。すると、『武公伝』の「庄左衛門」名は景英段階での増補ではなかったかと見当がつく。


*【小倉碑文】
《先是、吉岡代々爲公方之師範、有扶桑第一兵法術者之号。當于霊陽院義昭公之時、召新免無二、与吉岡令兵術決勝負。限以三度、吉岡一度得利、新免兩度決勝。於是令新免無二賜日下無雙兵法術者之号》

*【本朝武芸小伝】
《○吉岡拳法
吉岡者平安城人也。達刀術、爲室町家師範、謂兵法所。或曰、祇園藤次者、得刀術之妙。吉岡就之、相續其技術也。或曰、吉岡者鬼一法眼流而京八流之末也。京八流者鬼一門人鞍馬僧八人矣。謂之京八流也云々。吉岡與宮本爲勝負。共達人而未分其勝負》

*【吉岡伝】
《于茲洛陽有吉岡兄弟、得兵法者流之名、而古今未曾有之妙術也。兄源左衛門直綱、弟又市直重也。謂憲法兄弟。元方季方之流西而、佐藤鈴木曾我之遺風也。其家素好古守義法律正直也。故世人稱之憲法。曾組父直元、事于萬松相公、有軍勞。祖父直光、父直賢、亦能其術。雖然、到于兄弟、其術日新月盛、超過前代》
武公伝 正脩 武公伝 景英 二 天 記
一 武公、父ハ新免無二、即チ十手二刀ノ祖タリ。曾テ扶桑第一ノ劔術者、公方義昭公ノ師、洛陽ノ士、吉岡兼法ト云。公方命ニテ無二ト雌雄ヲ決セシム。限ルニ相交ル事參分ヲ以ス。吉岡一度利ヲ得、無二兩囘勝之。因テ日下無雙兵法術者ノ號ヲ無二ニ賜フ。
一 武公、父ハ新免無二ノ介信綱、即チ十手二刀ノ祖タリ。號シテ當理流ト云。曾テ扶桑第一ノ劔術者、公方義昭公ノ師、洛陽ノ士、吉岡庄左衛門兼法ト云。公方命ニテ無二ト雌雄ヲ決セシム。限ルニ相交ル事參分ヲ以ス。吉岡一度利ヲ得、無二兩囘勝之。因テ日下無雙兵法術者ノ號ヲ無二ニ賜フ。
一 武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也。將軍義昭公ノ御師・吉岡庄左衛門兼法ト云者、洛陽ノ士・扶桑第一ノ剣術者也。將軍ノ命ニ依テ庄左衛門ト無二ト雌雄ヲ決セシム。庄左衛門一度利有テ、無二兩度カチヲ得タリ。因テ無二ニ日下無雙ノ号ヲ賜フナリ。
 前項も景英の増補があることは、すでに見た通りである。併せて対照させてみると、この新免無二ノ介記事に関して、『武公伝』の段階で、景英はかなり手を加えていると知れる。正脩は、『武芸小伝』により、「吉岡兼法」と記したにすぎないが、景英は、どこかから仕入れた「庄左衛門」を『武公伝』に書き込んだのである。  Go Back


 
 (3)禁庭御能興行ノ時
 新免無二と対戦した吉岡兼法の後日談である。
 『武公伝』によれば、新免無二ノ介に一勝二敗で負けた吉岡兼法は、その後、年をへて、禁庭御能興行の時、同士と争闘し、刃下に八人を斬殺し、築地を跳り越えて逃げようとした。しかしそのとき、袴の裳が築地覆いの釘頭に引っかかって倒れ落ちた。警固の士卒が長鎗で刺貫いて兼法は死んだ。それ以来今まで、禁裏御能拝見の者は帯剣を禁ずということになったそうだ、という。
 さて、これは慶長十九年(1614)六月の方広寺大仏殿竣工を祝う禁中能興行の一件であるが、小倉碑文にはない記事で、『武公伝』の著者が研究して書いた部分である。典拠は世間に流布していた『本朝武芸小伝』であって、武蔵流兵法末孫の固有伝説によるものではない。――そう思っていると、じつは違った。
 『武芸小伝』の吉岡記事では、武蔵と対戦した吉岡の子に「又三郎」という者があり、これが吉岡の流儀を嗣いで、名声があったという。禁中で騒ぎを起したのは、武蔵と対戦した吉岡の子・又三郎である。すると、新免無二と対戦した吉岡の孫にあたるというわけであろう。
 ところが『武公伝』は、何を勘違いしたものか、《兼法ハ、其后年ヲ歴テ、禁庭御能興行ノ時、同士ト争闘シ刃下ニ八人ヲ斬弑シ》と記し、まるで、ほぼ半世紀後の慶長十九年に、吉岡兼法が再登場したかのごとくである。たぶん『武芸小伝』を参照したが、うろ覚えであったので、慶長十九年の事件とは知らず、こんな話になったものであろう。
 それに対し、『二天記』はその誤謬を放置できず、《或説ニ曰、慶長十九年六月、禁庭ニテ御能興行有シ時》と記して、これが慶長十九年の事件としている。これは『武芸小伝』を参照したのである。しかし、この「吉岡」がだれなのか、というところまで話は行かない。
 そうしてみると、『武公伝』の作者は、『武芸小伝』をよく読んではおらず、この禁中狼藉事件が巷間伝説となった局面での説話を拾っているようである。たしかに、吉岡兼法が刃傷沙汰を起して築地塀を跳り越えて逃げようとしたが、袴の裳が築地覆いの釘頭に引っかかって倒れ落ち、警固の士卒が長鎗で刺貫いて兼法は死んだ、というあたりは、『武芸小伝』にはない記事である。
 おそらくこの場面のディテールは、備前の湯浅常山の『常山紀談』に同じような記事があるから、当時そんな巷間伝説があったものであろう。それを正脩は収録した。しかしこれは一時的な記事であったようで、『二天記』になると、こういう話は抹消されている。

 さて、この段は、新免無二の記事であった。肥後には、本来は小倉碑文を越える情報はなかった。「新免無二ノ介信綱」や「吉岡庄左衛門兼法」という名が新味であるが、これは正脩の作文ではなく、景英の改訂によるものである。
 肥後では、新免無二の情報は、本来小倉碑文以上のものはなかった。しかるに、景英の世代になって、塩田浜之助の当理流小具足再興運動が生じ、それによって当理流への関心が大いに高まったようである。そこへ当理流・宮本無二之助一真という円明十手流の伝説が上方から流伝した。そして、需要に応じるように当理流伝書が出現し、当理流・宮本無二之助という肥後特有の謬説が形成された。景英はその影響を蒙って『武公伝』と『二天記』の記事を書いたのである。しかも無二の新免氏について、何も知らず、それを書いたのである。
 しかし、武蔵がその家を嗣いだ新免無二の実態たるや、いまだにほとんど不明である。無二流は十八世紀まで行なわれていたことは確認できるが、新免無二に関する言い伝えは、後世の変形を大きく受けたもの以外はのこらなかった。依拠すべき文献資料は、一部を除いてほとんどない。
 では、今日我々は、新免無二について、いかなることを語りうるか。以下は我々の仮説である。
 一つは、武蔵が無二の兵法家を嗣いだことである。世代も異なる無関係な者が家名を嗣ぐわけがなかろうから、無二は武蔵の親族と比較的近い関係と場所にあった人物とみなしうる。つまり、新免無二は播州に居た、もっと言えば、西播磨に住居て、武蔵の家と交際があったと思われる。
 新免氏は、もともと美作国吉野郡に勢力をもった武家である。しかし戦国末期の激動の時代、多くの美作人が西播磨へ流入した。新免無二の家もその一つであっただろう。まずは宍粟郡長水山城に拠る宇野氏、これは美作吉野郡の竹山城主・新免宗貫の実家である。そして南の龍野城に拠る赤松氏の揖東郡・揖西郡あたりが新免無二の居留地とみなしうる。
 とくに龍野城主・赤松政秀は、京都の将軍義昭に娘を出仕させる云々という話など、義昭と縁があったようだから、そのラインからすれば、新免無二が義昭の命で京都の吉岡と対戦したという小倉碑文の伝説に順接するものがある。新免無二の家が龍野城主赤松氏に属したとすれば、同じく龍野城主に属したと想定しうる武蔵の実家との縁が想定できるし、あるいは揖東郡嘴崎にいた官六之助の家とも縁がありそうである。
 しかし、赤松広秀の代になって龍野城は秀吉の軍門に下り、以後広秀は秀吉の麾下に入る。龍野城の家臣団も秀吉の軍勢に入った。なかでも多くは、黒田官兵衛の部隊に組織され、黒田勢の九州下向とともに豊前へ移った。その人口移動の中に、新免無二もいただろう。ただし、黒田家に仕官したというのではない。
 しかし、伊織の泊神社棟札によれば、新免無二は天正年中に筑前秋月城で死んだとある。とすれば、九州へ移った無二は、ほどなく死去したことになる。後嗣なく死んだとあるから、新免無二の家はそこでいったん断絶したということである。
 その断絶した新免家を後に嗣いだのが、武蔵である。武蔵と無二はついに一度も会っていない可能性がある。しかし、無二と武蔵周辺の大人たち同士の約束でもあったか、武蔵は成人の十六歳前後に、その遺を承け新免家を嗣いで、新免氏を名のるようになった。
 ――新免無二に関して、数多くの僻説のなかで、当面想定しうるのは、以上のような仮説である。  Go Back






*【本朝武芸小伝】
《吉岡與宮本爲勝負。共達人而未分其勝負也。其子吉岡又三郎傳箕裘術、大有美名。慶長十九甲寅年六月廿二日、於朝廷有猿楽興行、使洛人許見是興行。吉岡又在其席。于時雑色者、誤而當杖於吉岡。吉岡怒而潜出禁門、携刀於衣服之下、入而斬殺雑色。故其席騒動。雑色等大勢、欲殺吉岡。吉岡不敢騒、登舞臺、吐息屏氣、及雑色等群進而、飛下斬之。又飛登舞台。如此者度々、雑色多殞命。後袴襭解散、誤而跌仆。衆皆幸之斬殺矣。于時吉岡一族多雖在其庭、不敢騒、皆束手而見其働。事終而京尹侍從板倉勝重、感吉岡一族之静而、無敢罪之。又三郎之勇威、可謂、施誉于一時、流勇名於千歳矣》
《駿府政事録曰、慶長十九年六月廿九日、今日從京都伊賀守注進申曰、今月廿二日、禁裏御能。然處狼籍者乍立見物。警固之者制之門外追出。件者註D之下竊拔刀匿脇、又入御門、截殺警護之者。則其者被殺當座、御庭流血。故晴天俄曇雷雨云々。右之狼籍者云建法剣術者、京之町人也云々》

*【二天記】
《或説ニ曰、慶長十九年六月禁庭ニテ御能興行有シ時、其席ニ於テ吉岡押ヘノ雑色ドモト口論シ、遂ニ身ヲ果スト云ヘリ》










*【二天記】
《新免無二之介劍術ヲ修シ得テ、自ラ新免ト改ム、又吉岡ト勝負ヲ決シテ日下無双ノ号ヲ賜フ、此ノ時ヨリ新免ト改ムトモ云ヘト、未詳》





戦国末期の播磨諸城主





新免無二関係地図

 
  04 新当流有馬喜兵衛/但馬国秋山
一 武公箕裘ヲ継テ、藍ヨリモ猶青シ。慶長元年丙申季十三ノ時、始テ播州ノ劔術者新當流有馬喜兵衛ト勝負ヲ決シテ勝之。(1)

一 慶長四年己亥之春、但馬國強力之兵法者秋山ト云者ニ打勝ツ。十六歳時也。(2)

一 武公、(無二の)箕裘ヲ継いで、藍よりもなお青し。慶長元年(1696)十三歳の時、はじめて播州の剣術者・新当流有馬喜兵衛と勝負を決し、これに勝つ。

一 慶長四年(1599)年の春、但馬国の強力の兵法者・秋山という者に打勝つ。十六歳の時である。

  【評 注】
 
 (1)播州ノ劔術者新當流有馬喜兵衛
 冒頭の《武公箕裘ヲ繼テ、藍ヨリモ猶青シ》は一種の常套句である。箕裘を継ぐは、「礼記」の、鍛冶の子は必ず鞴の皮袋を作ることを学び、弓作の子は、必ず矢を入れる箕を作ることを学ぶ。そこから転じて、子が父の遺業を継ぐこと。藍よりも猶青しは、周知の「荀子」から出たところの、ステロタイプ化した表現である。青は藍より出て藍より青し、氷はこれを為して水より寒し。出藍の誉れともいう。
 武蔵は新免無二ノ介の兵法の家を継いだが、父=師(Father-Master)の無二よりも優れていたという意味である。
 さて、ここから武蔵の兵法者としてのキャリアがはじまる。ここでは、有馬喜兵衛と但馬国秋山の記事二つをみておく。
 まず、有馬喜兵衛であるが、これは武蔵の最初の決闘相手である。五輪書に、《我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす》とあって、新当流の有馬喜兵衛の名を出している。この決闘相手の名は、次の但馬国秋山という名ともに、五輪書ではめずらしく名を残している。どちらも具体的なことは何もわからない。後年の巌流島決闘の岩流や吉岡一門の名を出さないのだから、これは珍しいことである。
 伊織が建立した小倉の武蔵碑をみると、伊織もこの五輪書の内容以上の情報をもっていなかったようである。したがって、後世の武蔵伝記たる『武公伝』も具体的な情報をもっていない。五輪書あるいは小倉碑文の記事を反復するのみである。
 ところが、これに対し、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』の方は、むやみに具体的なディテールを有する説話を記録している。こちらは、明らかに筑前で後世形成された伝説である。それに関しては、『丹治峯均筆記』読解研究のページ(宮本武蔵伝記集・所収)を参照していただきたい。
 興味深いことに『武公伝』には、有馬喜兵衛を播州の剣術者とする。有馬喜兵衛が播州の剣術者だとは、肥後系伝記のみの話だが、これには理由がある。
 つまり、『武芸小伝』の小倉碑文の写しではなく、それを転記した『武公伝』の小倉碑文が間違っていたのである。《方年十三而始同州與新當流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》というのが、『武公伝』の小倉碑文の写し。「方に年十三にして、始めて、同州新當流有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決し、忽ち勝利を得たり」。そこでは、有馬喜兵衛は同州(播州)の剣術者だということになっている。後継の『二天記』もこれをそのままひきついでいる。
 ただし、小倉碑文の《方年十三而始到播юV當流与有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》をよめば、「方に年十三にして、始めに、播юV當流・有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決するに到り、忽ち勝利を得たり」とあって、文意には大差はない。
 これに対し、筑前系武蔵伝記『丹治峰均筆記』では、武蔵十三歳の時、新当流の兵法者有馬喜兵衛という者が播州にやって来た、という話である。こちらは、上記の如く伝説増殖が著しいから、小倉碑文を逸脱して、こんな話になったのである。どちらも決闘場所は播磨なのだが、筑前系は、有馬喜兵衛は播磨へやって来た異国人、肥後系は、有馬喜兵衛は播磨の剣術者なのである。
 なお、『武公伝』に、慶長元年(1695)十三歳の時、とあって、この有馬喜兵衛戦の年を記すが、これはむろん「慶長元年」という年の伝承があったのではない。五輪書あるいは小倉碑文に、十三歳という年齢が記されているから、そこから計算してこれを慶長元年としたまでである。したがって、この記述は現代の我々がするのと同じ条件である。『武公伝』に「慶長元年」とあるから、そういう言い伝えがあったとみなすのは誤りである。
 また『二天記』は、《武藏箕裘ヲ繼テ、藍ヨリシ》をはじめ、文章はそっくり『武公伝』を引き継いでいるが、注意されるのは、これを「慶長元年丙甲三月」とすることである。つまり、年ばかりか、その月まで記す。この「三月」に典拠があるわけではないから、これは景英の恣意的な増補である。景英の記述には、年ばかりか、その月まで記したがる傾向がある。したがって、この特徴から、他例では景英が『武公伝』へ書き入れた跡を発見することもできるのである。
 加えて、『二天記』は注記で、《~道流ヲ新當流ト書ク》として、研究の跡を示す。ただし、これは飯篠長威齋の流儀を、後世の塚原卜伝の新当流と混同したもので、いわば余計な誤謬である。しかも、有馬喜兵衛は、有馬流の有間大和守の「家族」だという説を記す。どのみち、有馬喜兵衛に関する情報が欠如していたものだから、当時肥後の兵法者たちの社会では、こういう話が出るようになっていたのであろう。  Go Back




*【礼記】
《良冶之子必学為裘、良弓之子必学為箕》(学記)
*【荀子】
《学不可以己、青出之藍而青於藍、冰水為之而寒於水》(勧学)





*【五輪書】
《我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝…》



*【小倉碑文】
《方年十三而始到播新當流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》






*【武公伝引用碑文】
《方年十三而始同州與新當流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》


*【丹治峯均筆記】
《十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ来リ、濱辺ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス》



有馬喜兵衛 武稽百人一首


*【二天記】
《武藏箕裘ヲ繼テ、藍ヨリシ。慶長元年丙甲三月十三歳ノ時、播州ノ劔術者新當流有馬喜兵衛ト云者ト、初メテ勝負ヲ決シテ勝之。
~道流ヲ新當流ト書ク。有間大和守學之、有間流ト云フ[一本作有馬]。有間豐前守トモ云フ。聞エアル人ナリ。有間喜兵衛ハ其家族ナルヨシ。常陸國飯篠長威齋ト云者、鹿島ノ香取~ヨリ其技術ヲ受。天眞正傳ト書ス。是~道流ナリ》

 
 (2)但馬國強力之兵法者秋山ト云者
 これも五輪書もしくは小倉碑文の記事内容をこえる情報はない。むろん、慶長四年(1599)の春、とあるが、これも「慶長四年」という伝承があったのではない。武蔵十六歳のときという情報から計算して慶長四年としたまでのことである。季節を「春」とするのは、五輪書ではなく小倉碑文であって、『武公伝』はこれに拠ったのである。
 但馬〔たじま〕というのは、播磨の北、日本海側に面した地域である。この秋山という兵法者は、但馬国住人であったようだが、氏姓しかわからず、その名を含めて詳しいことは不明。というのも、そもそも五輪書には、《十六歳にして但馬國秋山と云兵法者に打勝》という情報しかないからである。ふつうは、後世に成長した枝葉があるのだが、この但馬国秋山なる兵法者については、そうした枝葉が繁殖する余地は皆無だったようである。
 したがって、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』の著者は言う、武蔵が十六歳の時、但馬国秋山という強力の兵法者に打ち勝ったことは、五輪書地之巻に載せられている。けれども、武蔵が決闘でどんな働きをしたか、その具体的な内容については語り伝えを聞かない、と。
 ただし、『丹治峯均筆記』は直前に、有馬喜兵衛戦のあからさまな伝説を記したばかりで、それと対比して、秋山について具体的な伝説がないと強調しているのである。
 また『丹治峯均筆記』は、総計六十余度の試合、これらが口碑に洩れているのは惜しむべきことである、百のうちやっと一つか二つしか語り伝えがない、と嘆いている。
 こういう口碑伝承の評論は、『丹治峯均筆記』にはあっても、肥後系伝記にはないものである。いうならば、批評をしないで、真偽不問で伝説をどんどん盛り込むのが、肥後系伝記の特徴である。
 本来の五輪書の記述に関していえば、この但馬国秋山と有馬喜兵衛のみその名を記している。したがって、武蔵が十代半ば、この二人との対戦が、武蔵のその後の人生を決定する重要な事件であったらしい。具体的なことは不明だが、五輪書に彼らの名を記すことで、武蔵は何ごとかを記念したのである。
 そしてもう一つ、この「但馬国秋山」に関連して、当時の但馬竹田城主と武蔵との所縁があること、それを指摘しておく。すぐ後で見るように、思いがけないことに、『武公伝』は但馬竹田城主だったこの人物に、それとは知らず、言及しているのである。  Go Back


*【五輪書】
《我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打勝》

*【小倉碑文】
《十六歳、到但馬國。有大力量兵術人名秋山者、又決勝負。反掌之間、打殺其人。芳声満街》


播磨と但馬


*【丹治峯均筆記】
《十六歳ノ時、但馬國秋山ト云強力之兵法者ニ打勝玉フ事、地ノ巻ニ載ラルヽトイヘドモ、働之事、語リ伝ヘヲ不聞。惣ベテ六十餘度之ノ試闘、口碑ニモレタル事可惜。漸ク百ニシテ一二ヲ語リ傳フ》

 
  05 関ヶ原合戦
一 同五稔庚子七月、伏見城ヲ蹈。十七歳。
 
一 同年八月、濃州岐阜ノ城攻。
 
一 同年九月十五日、關ケ原合戦。(1)

   播州大守、赤松左兵衛督廣通没ス。(2)

一 同(慶長)五年(1600)七月、伏見城を踏む。十七歳。
 
一 同年八月、濃州〔美濃〕岐阜城攻め。
 
一 同年九月十五日、関ヶ原合戦。

    播州大守・赤松左兵衛督広通没す。

  【評 注】
 
 (1)關ケ原合戰
 慶長五年(1600)は関ヶ原合戦の年である。『武公伝』に記す「稔」は、穀物が稔るであるが、収穫の年周期から「年」の意も出た。「五稔」は五年のことである。
 周知の如く、秀吉死後、覇権の帰趨定かならざるおり、対立する石田三成勢と徳川家康勢の天下分け目の決戦があったということである。しかし、こういう要約は不正確な話で、たしかに家康はすでに重要なポジションを握っていたが、この関ヶ原合戦は、徳川対豊臣の決戦ではなく、あくまでも豊臣秀吉麾下の武将間の抗争である。家康を中心にした反三成勢のいわゆる「東軍」の武将たちが勝利したのである。
 さて、このとき武蔵は十七歳。彼は、すでに新免無二の家を相続し、兵法者として活動し始めていたはずなのだが、この関ヶ原の年、どこでどうしていたか。これについては、五輪書自伝部分に何の記述もないし、また養子伊織の建てた武蔵碑にも具体的なことは何も記されていない。したがって、後世の武蔵伝記が、関ヶ原の年について何ごとか語るとすれば、それらはいづれも後世の伝説なのである。
 『武公伝』は、伏見城と岐阜城の戦闘、および関ヶ原合戦の三つに言及している。だが、これが何を意味するのかほとんど不明の記事である。
 まず、「慶長五年七月、伏見城を踏む」とある。伏見城は秀吉が築いて居城とした城である。秀吉死後、豊臣秀頼は大坂城へ移り、伏見城は徳川家康が居城としていた。
 家康は六月関東出陣、長年の側近・鳥居元忠に伏見城守備を命じた。七月、反家康で決起した西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂城を出陣、伏見城に至り大軍四万で城を包囲、七月十九日には攻撃を開始した。伏見城は要塞堅固でもちこたえたが、八月一日炎上落城した。
 ところで、『武公伝』のいう《伏見城を踏む》が、この七月下旬の攻防戦だったとしよう。この「踏む」というのは、伏見城を攻撃落城せしめた側のことで、つまりは、西軍だということになる。これは奇態な話である。
 次に、「同年八月、濃州〔美濃〕岐阜城攻め」とある。岐阜城は金華山山頂にある山城で、もとは稲葉山城といった。織田信長が斉藤龍興を倒して奪い、名を岐阜城と改め居城とした。当時の岐阜城主は、信長の嫡孫・織田秀信、二十一歳である。彼はむろん西軍に与した。慶長五年八月、岐阜城は、福島正則や池田輝政ら東軍の大軍に包囲された。同二十三日の総攻撃で降参した。秀信は福島正則らの助命運動があって、その後出家して高野山に入ったが、五年後死亡した。
 かくして岐阜城を攻撃し降したのは、東軍である。『武公伝』は、「岐阜城攻め」とするから、こんどは東軍の側である。とすれば、伏見城では西軍、岐阜城では東軍。これは一体どうなっているのか。『武公伝』の記述は混乱しているとしか言いようがない。
 とはいえ、『武公伝』を読んだはずの武蔵研究が、この矛盾を指摘しているのを見たためしがない。ということは、『武公伝』はこれまでまともに読まれたためしがない、という不遇な条件に置かれた書物なのである。関が原戦争の記事において、このように矛盾を露呈していることさえ、知った者がいなかったのであるから、何をか謂わんや、である。
 武蔵研究の方面ではそんな体たらくであったが、ところが、これを小説書きの方からみると、そんな矛盾が実は面白いアイディアなのである。つまり武将の中には寝返った者が実際にあったから、武蔵は、七月の伏見では西軍、八月には逆に東軍に与して、岐阜城攻めに加わったという設定で、少しは面白い展開ができそうである。しかし、それは小説家の妄想の領分のことであり、武蔵研究とは無関係の話である。
 さて、『武公伝』には、「同年九月十五日、関ヶ原合戦」とある。決戦の日である。しかし、そこで武蔵がどうしたとも記していない。ようするに、実際には、武蔵がこの関ヶ原合戦の年、どこでどうしていたか、何も情報がなかったのである。
 それゆえ、「伏見城を踏む」、「岐阜城を攻める」という『武公伝』の記述にかろうじて記事らしきものがあるのだが、上記のように、これすら矛盾に満ちたもので、まともな伝説とも思えない代物である。繰り返せば、「伏見城を踏む」、「岐阜城を攻める」とあるのをみれば、伏見城では西軍、岐阜城では東軍の行動である。
 むろん十八世紀半ばの肥後の伝記『武公伝』作者に確かな情報があろうはずもないから、七月に伏見城を踏み、八月に大垣城を攻めた、という自身の記事の矛盾に気づかなかったにすぎない。だから、『二天記』ではそれがあっさり削除されているのである。
 『二天記』は、『武公伝』の難点を知ってか、伏見城も岐阜城も言わず、ただ、武蔵の働きは抜群で、諸軍士の知るところであると、はなはだ曖昧な方へ後退している。
 では、じっさい武蔵はこのとき、どこでどうしていたか。これについては、具体的な情報はないとしておくべきである。
 唯一の例外は、筑前系伝記『丹治峯均筆記』の記事である。肥後系伝記が何の情報も欠くのに対し、こちらはかなり具体的な伝説を述べている。しかも、武蔵の場所は、かの主戦場ではなく、意外なことに、九州なのである。
 関ヶ原戦のおり、黒田家は東軍に属し、黒田勢主力は長政とともに関ヶ原にあった。一方、九州にいた隠居の黒田如水(1534〜1604)がこのとき挙兵したのである。中津には軍勢はあまりいなかったので、黒田如水は平生より貯えていた金銀や米をここぞと用いて兵を募り浪人を集めたという。その俄か仕立ての軍勢を率いて、西軍に属した九州近隣の諸城を次々に攻略した。如水は諸大名が東方に出兵して空き家同然の九州を撫で切りにして、この地方を掌握し、関ヶ原戦後の帰趨に対応しようとしたという説もある。
 『丹治峯均筆記』は黒田家臣ならではの書きぶりで、筑前の伝説である。武蔵伝説論の観点からすれば、この説話は、当時無数にあった武辺談のカテゴリー内に納まるものであって、「苦痛を知らぬ勇者」の説話類型である。こういう説話は定型として反復されたものである。
 ただし、関ヶ原合戦のおり、九州で黒田如水麾下で参戦したというこの筑前の伝説は、あながちたんなる伝説として却下できない。というのも、武蔵の故郷・播磨国揖東郡の歴史状況からすれば、こういう局面もありえないことではない。武蔵の故郷周辺は黒田家中と縁が深く、また武蔵が幼時豊前で育った可能性もあるからだ。
 ともあれ、筑前系の『丹治峯均筆記』は他にはない伝説口碑を有しているが、肥後系伝記の方は、上記の通り、具体的な情報は何もないらしく、いかにも書くのに難渋している風である。
 しかしながら、これが箇条書きだけであることから、『武公伝』が草稿状態にあったことを示す部分だもとみえる。『武公伝』は正脩が作業の途上で没したのであって、決して完成稿ではなかった。しかし、『二天記』の景英にしても同様で、この関が原戦争の時の武蔵の事績について、『武公伝』以上の情報はもたなかったのである。新たな伝聞伝説もなく、このあたり、肥後系武蔵伝記は貧寒なかぎりである。  Go Back





関が原戦争関係地図




伏見城址 京都市伏見区




岐阜城址 岐阜市金華山








関ヶ原合戦絵巻







*【二天記】
《同五年庚子關ケ原合戦。武藏働キ群ヲ抽シ、諸軍士知ル處也》



*【丹治峯均筆記】
《慶長五年庚子、石田治部少輔三成、邪謀ヲタクミ、濃州関ヶ原ニ於テ家康公ト決雌雄、三成一戦ニ打負生捕ラル。九州ニテ、如水公、東軍之御味方トシテ、中津川ノ御居城ヲ御發騎有テ、石垣原ニテ大友義統ヲ擒ニセラレ、安岐・冨来ノ二城ヲ責破リ玉フ。御出陣前、辨之助中津ヘ下リ、父ガ勘氣ヲモ赦免シ、父子一所ニアリ。是、弁之助十七歳ノ時ナリ。(中略)其後出陣シテ冨来城乘ノ節、黒田兵庫殿先手ヨリ二町ホド先ニ、三ノ丸ノナラシニ乘アガリタル所ヲ、矢狭間ヨリ鎗ヲ以テ辨之助ガ股ヲツキカスル。辨之助甚忿テ、立並ビタル者ドモニ向ヒ、「此狭間ヨリ鎗ニテ吾ヲ突鎗トツテ見スベシ」ト云ヒテ、股ヲ矢狭間ニサシ當テヽ待ツ。案ノ如ク又鎗ニテ股ヲ貫ク。突通サレナガラ鵜ノ首ヲヒシト取テ、鎗ヲ奪トラントス。敵モトラレジト引合フ。辨之助、股之骨ニアテヽ、「ヱイ」ト云テ、ウノ首ヨリ二尺余ヲヲイテ鎗ヲヽル。「朋友ドモ、コレヲ見ヨ。鎗ヲトリタリ」トテ、少モ疵ヲ被リタル事ヲイハズ。各驚キ、血止メナント騒ギシヲ、馬糞ヲ取テ疵口ニ推入レ、少モ痛ム面色ナク、城ヱ乘リアガリ能働キ、其後小屋ヘ帰テモ、朋友ノ手負ヲ見廻ニ、杖ニスガリ、痛メル色ナク徘徊セラレシトイヘリ》
 
 (2)播州大守・赤松左兵衛督廣通没ス
 これもまた、意味不明のゆえに、従来の武蔵研究では、敬遠され無視されてきた記事である。武蔵論において、『武公伝』の関ヶ原戦記事に言及されることはしばしばあったが、そこに記されているこの一文に注目して言及した例はない。まさに、これが書かれていることすら語られず、一向これを無視して論じられてきたのである。
 つまりは、従来の武蔵研究においては、これはまさにアンタッチャブルな記事だった。論者たちはこの「赤松左兵衛督廣通」を知らないようで、これに觸れるのを避けたというかっこうであった。
 この一文についていえば、おそらく、これも、上述のように『武公伝』が草稿のままで、完成稿ではなかったことを意味する部分である。「播州大守・赤松左兵衛督廣通没す」とのみ記して、筆は先に進まなかったようである。情報がなかったからである。
 しかし、この「播州大守・赤松左兵衛督廣通」とは何者か、そして彼の名はなぜここに書き留められたのか。
 では、赤松左兵衛督広通とは何者なのか、そこから話を進めよう。まず、この赤松左兵衛督広通とは、赤松広秀(1562〜1600)のことであろう。すでに[サイト篇]龍野城下のページで言及されているが、広秀は龍野城主赤松政秀の二男。通称弥三郎、別に広英・広通・則継ともいう。のちに左兵衛佐、従五位下。
 赤松広秀(広通)は最後の赤松氏大名家である。十五歳のとき兄の跡をうけて城主となったが、豊臣秀吉の播磨侵攻にさいし、天正六年(1578)十七歳、龍野城を開城降伏し、城下近郊の斎村(佐江村)に隠棲した。居住地の名をとって「斎村」姓を称した。
 このとき、赤松宗家の置塩城主・赤松則房も開城して、この赤松広秀と同じく織田方についた。同年、三木城の別所氏、長水山城の宇野氏、御着城の小寺氏などは、信長に叛旗を翻し毛利方についた。したがって、播磨の戦国諸大名は織田方・毛利方に分かれて戦ったのである。その結果は、天正八年(1580)織田方の完勝となって、播磨全域は秀吉の手に落ちた。
 宗家の赤松則房は、秀吉に与したものの、天正九年置塩城破却後、四国阿波に流れて蜂須賀家に屬し一万石を与えられて飼い殺しのまま、やがて滅亡した。その滅亡の末路は明かではないが、阿波の一隅で赤松宗家は消滅したのである。つまり、こちらが宗家筋だから、これをもって赤松氏滅亡とすべきである。
 これに対し、龍野系の赤松広秀は大名に返り咲くのである。すなわち、龍野城開城後、隠棲していた広秀は、一武将として再起を図ったか、新しく龍野城主となった蜂須賀正勝の麾下にあって秀吉の中国攻略に従い、そしてその後の戦陣にも秀吉の下で従軍した。天正十三年(1585)二十四歳、四国攻略戦後の論功行賞で、秀吉は広秀に但馬竹田城二万二千石を与えた。これにより、広秀は但馬に領地を得たのである。
 以後、広秀は若き大名として、また藤原惺窩と親交のある文化人として、そして何より、朝鮮人儒者・姜との交際から可能になった「四書五経倭訓」の出版事業において学名を馳せた。領地の但馬に孔子殿を建立し、儒教の釈奠を復活させたという点では、近世儒学の黎明を開いた一人であった。
 関ヶ原役のときは、最初西軍に属し、丹後の田辺城包囲戦に参加し、知友の細川幽斎を攻める破目になった。その後東軍に寝返って、亀井茲矩とともに鳥取城を攻め、これを落としたが、家康に命じられ鳥取で切腹自害した。この赤松広秀の自害により、最後の赤松氏大名家は消えたのである。
 さて、こういうことからすれば、『武公伝』に思いがけず書かれた「赤松兵衛督広通」という名に理由があったのである。たぶん、この一行は、赤松氏を調べていた様子のある、景英の書き込みであろう。
 しかし、この記事についていえば、赤松広通が「播州太守」、つまり播磨国を一円支配する大名であったとするのは誤りである。戦国末期は、置塩城の赤松氏宗家をはじめ、御着城の小寺氏、長水山城の宇野氏、三木城の別所氏など、諸城主割拠状態であったから、「播州太守」と呼べる大名はいない。置塩城に拠った宗家の赤松則房でさえ、中播磨の北部が支配地であったにすぎない。
 龍野城主・赤松広秀(広通)も、「播州太守」どころではなく、父祖以来の西播磨海岸部約十万石を支配する大名であったにすぎない。しかも、赤松広秀はその城さえ秀吉に明渡し、のちにようやく但馬国に二万余石の小さな領地を得たわけだから、その段階で播磨から離れている。したがって関ヶ原戦後広秀が自害して死んだとき、むろん「播州太守」ではありえない。
 それゆえ、『武公伝』の記事には、事情不通からする事実誤認がある。そもそも最後の赤松氏大名である赤松広秀(広通)を、赤松円心嫡流の赤松宗家と勘違いしたらしく、そこから、広秀を「播州太守」にしてしまったものらしい。いづれにしても、遠い九州での空想の所産である。
 ともあれ、『武公伝』がここに「赤松左兵衛督広通」の名を記すのはなぜか、それはわかる。つまり、『武公伝』は武蔵を「播州赤松の家族」であるとし、赤松は貴族であるため、武蔵は常には謙退して、宮本姓を名のったという。ここからすれば、「播州赤松の家族」という話は、「播州赤松左兵衛督広通の家族」ということになろう。しかし『武公伝』の著者には、それ以上の話を展開する材料がなく、《播州大守・赤松左兵衛督廣通没ス》とのみ書いて、記述は中絶したようである。
 景英は、当然この「赤松左兵衛督広通」を処理できず、また言及するにも情報がないので、それゆえこれを展開できなかったとみえて、『二天記』では、この《播州大守・赤松左兵衛督廣通没ス》という一文を抹消している。そんな景英の右往左往の跡を、ここで確認しておくべきであろう。
 しかし、『武公伝』に「赤松左兵衛督広通没す」と書いた景英は、ここできわどいニアミスを演じ、惜しいところでチャンスを逸したというべきであろう。それというのも、武蔵が十六歳の慶長四年(1599)当時、この「赤松左兵衛督広通」が但馬国竹田城主であったという事実を知らなかったため、五輪書地之巻冒頭にある、武蔵十六歳のとき「但馬国秋山」という兵法者と勝負して勝った、という記事にリンクさせることができなかったのである。
 しかしそれは、今日の武蔵研究者とて、同様の蒙昧状態にあるのは明らかである。だれでも知っている五輪書地之巻冒頭にある、「但馬国秋山」なる兵法者との対戦記事を、当時の但馬国竹田城主・赤松広秀と関連付けて論じた事例は、従来皆無である。なぜここで、「但馬国秋山」なる兵法者の名を武蔵が書き留めたか、それに注目した者はいなかった。
 しかしながら、我々の研究プロジェクトの過程で炙り出されたところによれば、「但馬国秋山」とは、武蔵と赤松広秀との関係を跡づけるという意味において、重要な証言をする名である。  Go Back


武公伝 当該部分


*【戦国期赤松氏略系図】

 置塩城
 政則┬義村┬晴政─義祐─則房
   |  |
   │  │上月城
   ├真龍└政元─政範
   |
   │龍野城
   └村秀―政秀┬広貞
         |
         └広秀


戦国末期播磨諸城図


竹田城址 兵庫県朝来市竹田


赤松広秀関係地図


赤松広秀墓碑 法樹寺
兵庫県朝来市和田山町竹田



*【武公伝】
《玄信公、播州赤松ノ家族也。赤松ハ貴族ナル故ニ常ニハ謙退シテ宮本ト云フ。蓋シ兵書等ニハ不避之》

*【二天記】
《同(慶長)五年庚子關ケ原合戦。武藏働キ群ヲ抽シ、諸軍士知ル處也》





*【五輪書】
《我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打勝》(地之巻)



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