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五輪書
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小倉碑文
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武公伝
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二天記
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二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし
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後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ
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同九年[甲辰]、廿一歳ニテ都ニ上リ天下兵法者[吉岡父子參人]ニアイ、數度ノ勝負ヲ決ストイエドモ、勝利ヲ得ズト云フナシ。初吉岡兼法ガ嫡嗣清十良ト、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。吉岡ハ眞劔也。武公木刀ヲ以一ビ撃之。吉岡斃テ息絶フ。豫メ一撃ノ約アルニ依テ命根ヲ輔弼ス。彼門生等板ノ上ニ助乘テ家ニ歸、藥治浴湯シテ本復ス。遂ニ兵法ヲ棄テ薙髪シ畢ヌ
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同九年辛丑春、二十一歳ノ時都ニ上リ、天下ノ兵法者吉岡庄左衛門ガ嫡子清十郎ト、洛外蓮臺野ニ於テ雌雄ヲ決ス。清十郎ハ眞劔、武藏ハ木刀テ以テ撃之、清十郎忽斃レ息絶ル。渠カ門弟等板上ニ助ケ乘セテ、家ニ歸リテ薬治シ本復ス。其後兵法ヲ棄テ剃髪ス
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而後、吉岡傳七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す
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然後其家弟傳七郎亦洛外ニ出テ雌雄ヲ決ス。傳七郎五尺餘ノ木刀ヲ袖ニシ來。武公頓ニ彼ノ木刀ヲ奪テ撃之、立處ニ僵死
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其後弟傳七郎ト洛外ニ出デ勝負ヲ決ス。傳七郎ハ豪兵ニテ五尺餘ノ木刀テ持チ來ル。武藏頓ニ其木刀テ奪テ、一打ニ撃之。立所ニ斃レ死ス
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吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外、下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法なり
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因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ辺ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之。武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル。於是、吉岡兵法家泯絶ス
(別稿あり)
角左衛門曰、武公徒然ノ打話ニ云、事ニ莅テ心ヲ不變事、實ニ難シ…
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依テ吉岡門弟恨ミヲ含ミテ、清十郎ガ子又七郎ト組シ、數十人兵仗弓箭ヲ携へ、下リ松ニ會ス。武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル。於斯吉岡ガ家断絶ス
(別稿あり)
武藏或時打話ニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト、實ニ難シ…
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其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也
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凡そ、十三より壯年迄、兵術の勝負六十余場、一として勝たざる無し
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其後國々處々ニ到リ、諸流ノ兵法者ニ行合、六十餘度マデ勝負ヲ決ストイヱドモ、一度モ其利ヲ失ハズ。其程年十參ヨリ廿八九歳迄ノ事也
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流書ニ曰、我若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケテ、國々所々ニ於テ名高キ兵法者ニ對シ、眞劔或ハ木刀ノ勝負六十餘度ニ及ブト云トモ、一度モ其利ヲ失ハズ。其程歳十三ヨリ二十八九迄ノコト也
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