宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   2  Back   Next 

 
  06 吉岡一門との対戦
一 同九年[甲辰]、廿一歳ニテ都ニ上リ、天下ノ兵法者[吉岡父子三人]ニアイ、數度ノ勝負ヲ決ストイヱドモ、勝利ヲ得ズト云事ナシ。(1)
 初吉岡兼法ガ嫡嗣清十良ト、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。吉岡ハ眞劔也。武公木刀ヲ以一〔ひとた〕ビ撃之。吉岡斃テ息絶フ。預〔豫〕メ一撃ノ約アルニ依テ命根ヲ輔弼ス。彼門生等板ノ上ニ助乘テ家ニ帰、藥治浴湯シテ本復ス。遂ニ兵法ヲ棄テ薙髪シ畢ヌ。(2)
 然後、其家弟傳七郎亦洛外ニ出テ雌雄ヲ決ス。傳七郎五尺餘ノ木刀ヲ袖ニシ來。武公頓ニ彼ノ木刀ヲ奪テ撃之、立處ニ僵〔タヲ〕レ死。(3)
 因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト、事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ邊ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之。武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル。於是、吉岡兵法家泯絶ス。(4)
 其後國々處々ニ到リ、諸流ノ兵法者ニ行合、六十余度マデ勝負ヲ決ストイヱドモ、一度モ其利ヲ失ハズ。其程年十參ヨリ廿八九歳迄ノ事也。[以上、武公碑銘亦ハ五輪書ノ内ヨリ抄シ出ス](5)
一 同(慶長)九年(1604)、二十一歳にして都に上り、天下の兵法者[吉岡父子3人]に逢い、何回も勝負を決したが、すべて勝利を得た。
 はじめ、吉岡兼法の嫡嗣・清十郎と、洛外蓮台野において勝負を決した。吉岡(の道具)は真剣である。武公は木刀をもって、ひとたび撃つ。吉岡は倒れて気絶した。あらかじめ一撃の約束があったので、(吉岡の)命は助けた。かの門生等が板の上に助け乗せて、家に連れ帰り、投薬治療して回復した。(しかし吉岡清十郎は)結局兵法を棄て、剃髪(出家)してしまった。
 しかる後、吉岡の家弟・伝七郎が、また洛外に出て(武公と)雌雄を決した。伝七郎は五尺余の木刀を携えてやって来た。武公は、ただちに彼の木刀を奪って撃つ。(伝七郎は)たちどころに倒れて死んだ。
 これにより、吉岡の門弟らは恨みを抱き、清十郎の子・又七郎と、兵術(演習)にことよせて、洛外下り松のあたりに集合し、かの門生数百人、兵仗弓箭をもって(武公を)殺害しようと欲した。武公はこれを察し、又七郎を切り殺し、かの門弟を追い散して、威を震うて洛陽〔京の町〕に帰った。これにより、吉岡兵法家は絶滅した。
 その後、(武公は)国々所々に行って、諸流の兵法者に相遇し、六十余度も勝負を決したが、一度も負けなかった。それは、十三歳から二十八、九歳までのことである。
  以上、武公碑銘または五輪書の内から抄出した。

  【評 注】
 
 (1)廿一歳ニテ都ニ上リ
 以下、吉岡一門との対戦の記事である。この部分は、ほぼ、五輪書と小倉碑文の内容そのままである。
 『武公伝』に、「同(慶長)九年(1604)、二十一歳にして都に上り」とあるが、再三言うように、この「慶長九年」というのは一次史料になく、武蔵二十一歳というところから、著者が割り出したものである。
 他方、後継の『二天記』では、同じく「同九年」とするのは『武公伝』と同じだが、「辛丑」という干支がまちがっている。辛丑は慶長六年。これは「甲辰」とする『武公伝』の方が正しい。『二天記』諸写本はどれも同じく「同九年辛丑春」と記すから、この誤りは『二天記』原本にあったものであろう。この点、諸君の注意を喚起しておきたい。
 さらに、『二天記』は「春」という季節の記載をしている。『武公伝』にない記事が『二天記』に登場するわけだから、肥後系伝記の展開経路からすると、これは景英が仕入れた追加情報である。すると、景英はどこからその情報を得たのか。
 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、武蔵二十一歳の「春」上京したという記事がある。『峯均筆記』に「春」の文字がある以上、筑前では武蔵二十一歳春上京という伝説があったらしい。『二天記』はこれより半世紀のちの著述だから、筑前系伝承の影響があったとみえないこともない。
 ここで五輪書にいう「天下兵法者」は、日本有数の兵法者の意味。しかし、『武公伝』が「天下兵法者」に割注して、「吉岡父子参人」とするところは、五輪書あるいは小倉碑文にはない記事で、しかも他の武蔵伝記にもない話である。
 小倉碑文の記事は、武蔵死後九年後のもので、五輪書にはない記事であり、吉岡一門に関する最初の伝説史料である。ここには、吉岡以外にもありえた今日の天下の兵法者との対戦を、吉岡一門に限定して具体的に記している。
 ところが、『武公伝』は小倉碑文の内容をさらに規定して、武蔵の対戦相手を吉岡父子三人とするわけである。なるほど、これにつづく記事をみれば、肥後系伝記は続柄を規定しないではおけない傾向があったものらしい。以下に順を追って見ておこう。  Go Back

 
 (2)吉岡兼法ガ嫡嗣清十良
 最初の対戦相手は、吉岡清十郎。これは小倉碑文には「彼家の嗣清十郎」とある。
 『武公伝』の方は、「吉岡兼法の嫡嗣・清十郎」とあって、ここに「吉岡兼法」という名を出している。この「吉岡兼法」という名は小倉碑文には出ない名である。つまり、『武公伝』がどこかから仕込んだ情報である。
 「兼法」の方は、吉岡憲法、建法、兼房、拳法その他、諸書にあって知られていたし、『武公伝』の著者は『武芸小伝』を読んでいるから、そこからの情報知識もあっただろう。ようするに、この「吉岡兼法」は外挿情報なのである。
 『二天記』の方は、清十郎のことを、「吉岡庄左衛門ガ嫡子清十郎」と記し、少しだけ変えている。「吉岡庄左衛門」とあるのは、新免無二が対戦した相手の名として、『武公伝』に記す名である。これは、肥後の伝説過程で生じた名であろうとは、既述の通り。
 小倉碑文との間のもう一つの相違点は、吉岡清十郎の道具を記すことである。小倉碑文は「勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ」として、武蔵が木刄をふるったとのみ記すのに対し、『武公伝』は「吉岡は真剣也」とわざわざ記す。『二天記』もそれを承継している。吉岡は真剣、武蔵は木刄、これはいかなることであろうか。
 おそらくこれは、同じく小倉碑文の巌流島決闘記事に、岩流は真剣、武蔵は木刄という対照があるから、この記事が紛れ込んだものであろう。肥後系伝記は、説話のディテールにおいて、しばしば巌流島の一件と吉岡との対戦を混同している。これは、肥後系武蔵伝記が口碑伝説の過程をくぐってきたものだからであろう。
 『武芸小伝』は、清十郎に大木刀を持たせ、武蔵には二刀ないしは一刀、つまり太刀をもたせている点が注目される。これは、武蔵伝記の構図とは逆である。つまり、武蔵伝記では、木刀は武蔵の道具である。とくに肥後系伝記『武公伝』『二天記』では、清十郎は真剣、武蔵は木刀とするのである。『武芸小伝』を参照した肥後系伝記があえてその逆を示しているのが興味深い。
 おそらく『武芸小伝』が拾った伝説では、小倉碑文に清十郎の次に武蔵の相手になったという伝七郎の道具(五尺の木刀)との混同があったのであろう。さすがに九州の伝記だけあって、『武公伝』は小倉碑文の武蔵の木刄という記述を無視できなかったようである。しかし、小倉碑文には清十郎の道具に関する記事はない。それゆえ、『武公伝』の「清十郎は真剣」という記述は、一種の逸脱なのである。
 ともあれ、「吉岡兼法の嫡嗣・清十郎」と「清十郎は真剣」という要素以外は、『武公伝』の記事内容は、小倉碑文を引き写したもので、とくに新味はない。すなわち、――清十郎と、洛外蓮台野において勝負を決した。吉岡の道具は真剣である。武公は木刀をもって、ひとたび撃つ。吉岡は倒れて気絶した。あらかじめ一撃の約束があったので、吉岡の命は助けた。吉岡の門生らが板の上に助け乗せて、清十郎を家に連れ帰り、投薬治療して回復した。しかし吉岡清十郎は結局兵法を棄て、剃髪(出家)してしまった、云々。
 こういうところからみると、『武公伝』には、吉岡清十郎との対戦に関し、あまり情報はなかったようである。これに対し、筑前系の伝記『丹治峯均筆記』の方は、かなり伝説の枝葉を広げている。
 つまり、なぜ武蔵が京に上って吉岡と雌雄を決することにしたか、まず、その理由を述べる。それは、吉岡が諸国武者修行の許可権を独占していたから、この吉岡を打倒して自由に廻国修行できるようにしよう、ということだったとする。これが英雄伝のやり口であり、筑前のローカルな伝説口碑によるものであることは明らかである。
 しかし、以下はそれとは違う伝説である。『丹治峯均筆記』によれば、武蔵は仕合当日になって病気になり、体調が思わしくないという理由で、仕合を断わった。しかし清十郎は、勝負すべしと、しきりに仕合を催促する使いを何回も武蔵のもとへ走らせた。武蔵は清十郎との勝負を避けた。しかし清十郎が強いて対戦を望むので、これに応じたかっこうである。武蔵は、病気で起居安からずという体で竹輿(駕籠)に乗り、大夜着を着込んで、決闘場所まで行く。
 さて、決闘現場でのこと。武蔵がやってきたのを、清十郎が出迎えて、「病気はどんな具合だね」と乗物を覗き込む。すると、武蔵は竹輿の戸を押し明け、ふっと外へ出て、いきなり枕木刀でただ一撃で打ち倒した。清十郎は気絶してしまう。門生等は清十郎を介助して戸板に乗せて連れ帰り、薬を与え、ようやく回復した。清十郎は結局兵術を棄て、剃髪して出家してしまった――。
 これが『丹治峯均筆記』の記録した伝説である。小倉碑文よりも説話内容がかなり進展しているのがわかる。別掲の丹治峯均筆記読解のページで述べられているように、おそらくこれは、地元京都の伝説を反映した内容であろう。
 つまり、武蔵は、病気を口実に吉岡との試合を避けた、吉岡の再三の要求があって仕方なしに決闘現場に赴く武蔵、そこで病気と聞いて油断した吉岡を不意打ちにして倒す。これらのことは、吉岡贔屓の、京都の地元伝説の姿を垣間見せるものである。
 これに対し、『武芸小伝』はじめ諸書には、吉岡は武蔵と引き分けたという話が多い。武蔵諸伝記は小倉碑文によって、むろん武蔵の勝ちとするが、他は違っている。『武芸小伝』では、吉岡は武蔵の鉢巻を切り落し、武蔵は吉岡の皮袴を切ったとあるが、それだけではカタはつかないはずなのに、勝負の結果の話はない。要するに、その代わりに、武蔵と吉岡の双方相手の額に打ち込んで、相打ち=引分けというふうな別の伝説も拾っているから、吉岡は武蔵の鉢巻を切り落し、武蔵は吉岡の皮袴を切ったというこちらの方も、引分け説であろう。
 もう一つの『古老茶話』の方は、武蔵は吉岡左の小鬢を打ち、吉岡は武蔵の左の肩の後を打ったとあって、これも相打ち=引分けということのようである。実際の勝負は、むろん、この程度で引分け、終了になるものではない。『武芸小伝』や『古老茶話』の勝負結果は、おそらく地元京都の伝説によるもので、吉岡贔屓の筋からは、「吉岡は負けなかった」、ということを強調して、こういう相打ちという結果になったらしい。
 この『古老茶話』の話では、《吉岡に気を屈せさせるとての延引也》と批評があって、要するに、吉岡を待たせて戦気を殺がせる作戦だという話である。これは巌流島決闘における肥後系武蔵伝記の語るところと軌を一にする説話素である。すると、肥後系伝記の巌流島伝説は、京都の伝説からこの武蔵延引という説話素を借用した可能性もある。
 しかし、そのことよりも、『古老茶話』の話では武蔵はわざと遅刻したことになっているが、地元京都の伝説祖形では、武蔵は病気と称して仕合を避けようとして断わった、あるいは、臆して仕合を躊躇した、という説話内容であったはずである。その点、内容はかなり稀釈されているが、『丹治峯均筆記』の記事の方が伝説祖形に近い。
 ともあれ、京都での吉岡との対戦については、筑前の『丹治峯均筆記』もふくめて、諸説花盛りとなった。これに対し、肥後系伝記『武公伝』の方は、この件についてはさして情報がなかったもののようである。  Go Back



*【五輪書】
《廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者に會ひ數度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云ふ事なし》

*【小倉碑文】
《後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ》

*【二天記】
《同九年辛丑春、二十一歳ノ時都ニ上リ、天下ノ兵法者吉岡庄左衛門ガ嫡子清十郎ト、洛外蓮臺野ニ於テ雌雄ヲ決ス》

*【丹治峯均筆記】
《武州二十一歳ノ春、上京セラル》




吉岡憲法 武稽百人一首




*【小倉碑文】
《彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ》

*【武公伝】
《武公、父ハ新免無二ノ介信綱。即チ十手二刀ノ祖タリ。號トシテ當理流ト云。曾テ扶桑第一ノ劔術者、公方義照公ノ師洛陽ノ士、吉岡庄左衛門兼法ト云。公方命ニテ無二ト雌雄ヲ決セシム。限ルニ相交ル事參分ヲ以ス。吉岡一度利ヲ得、無二兩囘勝之。因テ日下無雙兵法術者ノ號ヲ無二ニ賜フ》

*【二天記】
《天下ノ兵法者吉岡庄左衛門ガ嫡子清十郎ト、洛外蓮臺野ニ於テ雌雄ヲ決ス。清十郎ハ眞劔、武藏ハ木刀テ以テ撃之、清十郎忽斃レ息絶ル。渠カ門弟等板上ニ助ケ乘セテ、家ニ歸リテ薬治シ本復ス。其後兵法ヲ棄テ剃髪ス》


京大谷村文庫蔵
本朝武芸小伝

*【本朝武芸小伝】
《又一説有。此時吉岡はいまだ前髪有て二十にたらず。武藏より先達て、弟子一人召つれ仕合の場に來たり。大木刀を杖につきて武藏を待。武藏は竹輿にて來たり、少しまへかど(前角)にて竹輿よりおり、袋に入たる二刀を出して袋にて拭ひ、左右に携へて出る》

*【丹治峯均筆記】
《武州二十一歳ノ春、上京セラル。其奥意ハ、其比、兵法天下第一吉岡ト云者アリ。吉岡ガ免状ヲ不持シテハ武者修行トシテ回國スル事叶ハズ。武州ヲモヘラク、「禁裏公方ヨリノ被仰付ナラバ、縱ヒ吉岡下手ニモセヨ、彼ガ一筆ヲ申請ベシ。自分トシテ左様ノ非法可致様ナシ。先吉岡ヲ打ヒシギ、心安ク回國スベシ」トテ、京ヘ登リ試闘ヲ望マル。吉岡清十郎、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。武州、其日ニ至リ病臥、起居不安ノ由ニテ、断ニ及ブ。清十郎、頻ニ可致勝負旨、數度使ヲ走ラシム。武州竹輿ニ乘リ、大夜着ヲ着シ、場所ヱ至ラル。清十郎出迎、「病氣何分ノ事ニヤ」ト乘物ヲノゾク所ヲ、戸ヲ押明ケ、フツト出テ、枕木刀ヲ以テ只一打ニ打倒シ、息絶ス。門生等、戸板ニ助ケ乘セテ持帰リ、藥ヲアタヱ漸ク復ス。遂ニ兵術棄テ薙髪ス》

*【本朝武芸小伝】
《吉岡者平安城人也。達刀術、爲室町家師範、謂兵法所。或曰、祇園藤次者、得刀術之妙。吉岡就之、相續其技術也。或曰、吉岡者鬼一法眼流而京八流之末也。京八流者鬼一門人鞍馬僧八人矣。謂之京八流也云々。吉岡與宮本爲勝負。共達人而未分其勝負也
《武藏吉岡と仕相の事、武藏は柿手拭にて鉢巻す。吉岡は白手拭にて鉢巻したり。吉岡が太刀武藏がひたいに當る。武藏が太刀も又吉岡がひたひにあたるに、吉岡は白手拭故血はやくみえ、武藏は柿てのごひ故しばらくして血見ゆるとなり》
《吉岡大木刀を以て武藏を打。武藏是を受るといへ共、鉢巻きれて落たり。武藏しづんで拂、木刀にて吉岡がきたる皮ばかまをきる。吉岡は武藏が鉢巻を切て落し、武藏は吉岡が袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすと也》

*【古老茶話】
《京北野七本松に於て武蔵、吉岡兼房と仕合、其刻限双方朝五時と約束す。兼房はやく起て刻限に北野に到る。武蔵遅参、昼時に及ぶ。使を遣し候処、武蔵平臥也。「急出られ候へ」と申、「心得候」とて、まだねてゐる。従者「いかに」といふに、「かちを考ふるに、いまだ気不満。おしつけ出ん」とて、はかまかたきぬにて北野に至る。吉岡、「まちかねたる」と也。武蔵、「不快にて遅参」とこたへ仕合、吉岡木刀、武蔵竹刀あいうち、吉岡はちまきの内左の小びん、武蔵左のかたぎぬかたのうしろの所也。是武蔵了簡、吉岡に気を屈せさせるとての延引也》
 
 (3)弟傳七郎亦洛外ニ出テ雌雄ヲ決ス
 ここでもまた『武公伝』は、「弟」伝七郎である。伝七郎が弟であるとは、小倉碑文には見えないが、『武公伝』は伝七郎を清十郎の弟にしてしまうのである。
 これは後継の『二天記』にも踏襲されている。『二天記』には「伝七郎は豪兵で」などという講釈が入るが、それ以外には、肥後ではとくに新しい伝説進展の要素はなかったようである。
 肥後系伝記が「弟」伝七郎とするのは、どこかに根拠があってのことではなく、小倉碑文に清十郎が「嗣清十郎」とあるのを見て書いた、『武公伝』筆者の解釈である。つまり、清十郎が嫡子なら、その次に出てきた伝七郎は、その弟であろう、と推測しているのである。これは、武蔵が二十一歳だから、その年は慶長九年だとするのと同じ算段ではない。「弟」の方はたんなる作者の憶測である。
 ちなみに云えば、清十郎、伝七郎という名である。兄が清「十」郎で、弟が伝「七」郎というのも、奇妙な話である。名前による限りでは、伝七郎は清十郎の弟だとは見えない。
 吉岡との対戦を明記した最初の史料・小倉碑文の記事では、清十郎と伝七郎の兄弟関係は認められない。同じ吉岡姓であり、その一族の者としか知れない。ここは注意を喚起しておくべき点である。
 伝七郎との対戦について、武蔵諸伝には小倉碑文以上の口碑等材料はとくになかったものらしい。伝七郎との対戦について別途情報がない以上、おそらく京都の伝説口碑は、この第2の対吉岡戦を、すでに忘却していたのである。『武芸小伝』など他の諸文献にも、この第2の対戦の記録はないのは、そのためであろう。したがって、吉岡伝七郎との対戦は、小倉碑文が記録して、それでかろうじて残存したのである。

 とはいえ、別の伝記の話もあろう。つまり、今日の通俗武蔵本にも必ずといってよいほど言及される『吉岡伝』(貞享元年(1684)福住道祐作)のことである。
 この書物は、染物屋吉岡の由来記であり、そこに先祖の記事がある。染物屋吉岡の先祖は吉岡憲法という有名な兵法者であって、大坂陣のおり豊臣方に味方して敗残、その後唐人から染色技術を習って、その事業が成功したという家伝である。
 この家伝において、父祖をも凌ぐ隆盛を実現した兵法者として、「憲法兄弟」、つまり兄が源左衛門直綱で、弟は又市直重という兄弟の逸話が出てくる。
 『吉岡伝』の吉岡兄弟の記事によれば、西国の「天流の朝山三徳」、関東の「新当流の鹿島林斎」、そして第三に、北国の「無敵流の宮本武蔵」をことごとく打破った、それこそ天下一の兵法者なのである。
 さて、ここで「宮本武蔵」なる者が出てくることから、これが大いに世間の注目されるところとなった。しかも吉岡兄弟はこの「宮本武蔵」を負かしたらしい、というので、よけいにこれが関心の的になった。
 なかでも、宮本武蔵の偶像破壊が流行した時期には、この『吉岡伝』の記事によって、じつは武蔵は吉岡に勝ったのではなかった、それは五輪書や小倉碑文をはじめ武蔵側の事実歪曲であって、武蔵は本当は吉岡に敵わなかったというのが事実である、という珍説まで登場するようになったことがある。
 ところで、これはすでに武蔵伝記集『丹治峯均筆記』読解において明らかにされていることだが、『吉岡伝』の「宮本武蔵」は、じっさいの武蔵とは似ても似つかないまったくの架空の人物なのである。
 『吉岡伝』の「宮本武蔵」は、無敵流と号し、北陸奥羽方面で有名な兵法者で、松平忠直の家臣である。これらの諸要素、すなわち、「無敵流」「北陸奥羽方面で有名な兵法者」「松平忠直の家臣」という諸要素はすべて、武蔵とは無関係なものである。また、無敵流は実在の流派だが、そこに武蔵と同名のそんな兵法者があったという記録もない。
 となると、『吉岡伝』の「無敵流の宮本武蔵」は、誤伝というより、フィクションとして創作された人物である。ちなみに、この「宮本武蔵」の前に弟の又市直重が打倒した西国の「天流の朝山三徳」、関東の「新当流の鹿島林斎」なる人物も、現実には存在しない架空の人物である。
 従来、『吉岡伝』の記事に言及するさい、この「宮本武蔵」と並んで登場する西国の「天流の朝山三徳」、関東の「新当流の鹿島林斎」なる人物について検証されたためしはなく、したがって、その存在の架空性も明言されたことはなかった。そしてこの「宮本武蔵」だけが採り上げられて、現実の武蔵と混同してはばからない言説が横行してきたのである。
 そこでまた、『吉岡伝』の憲法兄弟を、武蔵側史料である小倉碑文のいう清十郎・伝七郎と混同するという傾向も生じた。小倉碑文の清十郎は兄の源左衛門直綱、伝七郎は弟の又市直重、というぐあいである。本来無責任な時代小説ならいざ知らず、巷間流布された武蔵評伝にさえ、こういう対応関係が前提となっている始末である。
 ともあれ、このようなフィクションとしての『吉岡伝』の「宮本武蔵」記事に依拠するということが、そもそも方法論的錯誤なのである。むろん、史実を競うどころの話ではない。これに気づかれないかぎりは、謬説が繁殖する一方であろう。  Go Back


*【小倉碑文】
《而後、吉岡伝七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す》

*【二天記】
《其後弟傳七郎ト洛外ニ出デ勝負ヲ決ス。傳七郎ハ豪兵ニテ五尺餘ノ木刀テ持チ來ル。武藏頓ニ其木刀テ奪テ、一打ニ撃之。立所ニ斃レ死ス》


*【本朝武芸小伝】
《吉岡者平安城人也。達刀術、爲室町家師範、謂兵法所。或曰、祇園藤次者、得刀術之妙。吉岡就之、相續其技術也。或曰、吉岡者鬼一法眼流而京八流之末也。京八流者鬼一門人鞍馬僧八人矣。謂之京八流也云々。吉岡與宮本爲勝負。共達人而未分其勝負也



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吉岡伝

*【吉岡伝】
《于茲洛陽有吉岡兄弟、得兵法者流之名、而古今未曾有之妙術也。兄源左衛門直綱、弟又市直重也。謂憲法兄弟》
《是故劔客甚多、爲師ヘ弟子者不可勝計。本邦諸人推之以爲妙術者、只可四五人。所謂朝山三徳者號天流、鳴西筑九國。鹿島林齋者稱新當流、鳴關東八州。宮本武藏者號無敵流、鳴北越奥羽者也
《亦復宮本武藏者、越前少將忠直君之家士而、弄二刀之良手也。忠直君師之、日日習熟、不離左右。忠直君在聚樂第日、問武藏曰、「吉岡數回之名譽、可謂得兵法之骨隨者也。若對汝如何」。武藏謹言曰、「直饒彼兄弟一時競來、亦不較不肖之一刀」。忠直君大悦、報之板倉伊賀守勝重。勝重即召兄弟云、「宮本氏、與汝有欲決勝負之望。速分是非、宜備高覧」。兄弟敬受其命。於是直綱先出、兩方相互竭心力、暫移時剋、武藏遂被撃眉間、血出最甚。直綱却後、皆言、「直綱之勝也」。他言、「相撃也」。直綱怒云、「然則明白一決」。武藏言、「與直綱已決了。所願與直重宜相撃」。於是定日、重相待之。武藏忽晦迹去、不知所之。是以舉世皆云、「直重座得勝矣」》
 
 (4)清十郎ガ子又七郎
 第三の対吉岡戦であるこの記事に関するかぎりは、基本的に小倉碑文の範囲内にとどまり、それを反復しているにすぎない。ただし、ここでもまた『武公伝』は逸脱を示し、吉岡又七郎を「清十郎の子」にしてしまっている。
 とにかく、続柄について書いてしまうのが肥後系伝記の特徴だが、これに何らかの典拠があったわけではなく、肥後での伝説過程で、吉岡又七郎は「清十郎の子」になったらしい。この点は後継の『二天記』にも踏襲されている。
 『武公伝』が吉岡又七郎は「清十郎の子」というのは、おそらく、『武芸小伝』に「其子吉岡又三郎」という文言のあることから、それをみた『武公伝』の作者が、小倉碑文の「又七郎」も吉岡の息子だろうと解釈したものらしい。とすれば、これは『武公伝』作者による憶説であって、元を糺せば、この説には何の根拠もないのである。
 『武公伝』の記事は、ここでは小倉碑文よりも短く、省略されている。ところが、その反面で、この短い一文には看過できない重要な変更点がみられる。
 すなわち、吉岡の門弟らは恨みを抱き、清十郎の子・又七郎と、兵術(演習)にことよせて、洛外下り松のあたりに集合し、かの門生数百人、兵仗弓箭をもって(武公を)殺害しようとした。武公はこれを察し、又七郎を切り殺し、かの門弟を追い散した――というまさにここで、武蔵が「又七郎ヲ切弑シ」たというのである。
 これは、むろん、小倉碑文には存在しない記事である。また、他の筑前系武蔵伝記にも見えない話である。『武公伝』は文章を省略した反面で、じつは又七郎殺害という場面を増補しているのである。
 これがいかなる経路で発生した伝説なのか、それは不明であるが、他地域の伝説にないことから、これは肥後で生まれた伝説であろう。清十郎と伝七郎との対戦については、『武公伝』は小倉碑文以上の情報をもたなかったようだが、まさに後出記事にみるように、この第三の対吉岡戦について、肥後系伝記にのみ存在する一連の説話が語られるのである。それについては、後ほど詳しくみることにしよう。
 なお、やや瑣末にわたることが、『武公伝』を種本とする『二天記』には、おもしろい変更がみとめられる。すなわち、小倉碑文を承けて、『武公伝』でも、吉岡門弟の人数は「数百人」とするのだが、『二天記』はこの人数を「数十人」と、一桁削減してしまっている。これは「数百人」では非現実的と考えたためのようだが、『二天記』が必ずしも『武公伝』に忠実ではなく、随意に改竄しているという一例である。  Go Back


*【小倉碑文】
《吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法なり》


*【肥後系伝記による吉岡家続柄】

○吉岡兼法
  庄左衛門┬清十郎―又七郎
      │
      └伝七郎





*【二天記】
《依テ吉岡門弟恨ミヲ含ミテ、清十郎ガ子又七郎ト組シ、數十人兵仗弓箭ヲ携へ、下リ松ニ會ス。武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル。於斯吉岡ガ家断絶ス》
 
 (5)六十餘度マデ勝負ヲ決ス
 ここは、五輪書そのままの記事である。つまり、その後、国々所々に行って、諸流の兵法者に相遇し、六十余度も勝負を決したが、一度も負けなかった。それは、十三歳から二十八〜九歳までのことである、云々。
 この部分に関しては、『武公伝』後継の『二天記』も同様だが、こちらは吉岡戦の次ではなく、冒頭の部分ですでに入れてしまっている。
 また『二天記』では、別の箇処に武蔵が対戦した相手として、南都(奈良)で宝蔵院覚禅坊法印胤栄の弟子・奥藏院という日蓮の僧、伊賀国で宍戸何某という鎖鎌の上手他を挙げて、対戦を記録しているが、むろんこれは五輪書にも小倉碑文にもない話であり、しかも種本の『武公伝』にもない逸話である。この『二天記』の対戦記事は、どうやら十八世紀後期に肥後で発生した話らしい。
 『武公伝』には、以上の記事につき、武公碑銘または五輪書の内から抄出したという。この「武公碑銘」とは小倉の武蔵碑の碑文、つまり小倉碑文のことである。ここで「五輪書」という文字が見えるのが注目される。この注記部分を含めて、この段も正脩の手によるものであろう。
 ともあれ、武公碑銘または五輪書の内から抄出したという。ならば、ここで、『武公伝』の当該箇処について五輪書と小倉碑文、および『二天記』とを並べて、いかなる伝説変異と増殖があったか、それらの差分に注目してみてみよう。


*【二天記】
《同年南都寶藏院覺禪坊法印胤榮ノ弟子ニ奥藏院ト云日蓮ノ僧アリ。鎗術ノ達者ナリ。武藏彼僧ニ遇ヒ、鎗術ヲ試ム。僧鎗ヲ以テ立向フ。武藏ハ短キ木刀ヲ持テ立會ヒ、兩度勝負ヲナスニ、僧利ナシ。依テ武藏ガ技術ヲ感賞シテ、院ニ停メ饗應アリ。其夜談話スルニ、巳ニ曙ントス。武藏去リヌ》
《武藏伊賀國ニテ、宍戸何某ト云者、鎖鎌ノ上手也。野外ニ出テ勝負ヲ決ス。宍戸鎌ヲ振出ス處ヲ、武藏短刀ヲ拔キ、宍戸カ胸ヲ打貫キ、立所ニ斃レシヲ進テ討果ス。宍戸ガ門弟等拔連レ、各斬テ懸ル。武藏直チニ大勢ヲ追崩セハ、四方ニ逃去ス。武藏悠然トシテ引去ル》
五輪書 小倉碑文 武公伝 二天記
二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし 後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ 同九年[甲辰]、廿一歳ニテ都ニ上リ天下兵法者[吉岡父子參人]ニアイ、數度ノ勝負ヲ決ストイエドモ、勝利ヲ得ズト云フナシ。初吉岡兼法ガ嫡嗣清十良ト、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。吉岡ハ眞劔也。武公木刀ヲ以一ビ撃之。吉岡斃テ息絶フ。豫メ一撃ノ約アルニ依テ命根ヲ輔弼ス。彼門生等板ノ上ニ助乘テ家ニ歸、藥治浴湯シテ本復ス。遂ニ兵法ヲ棄テ薙髪シ畢ヌ 同九年辛丑春、二十一歳ノ時都ニ上リ、天下ノ兵法者吉岡庄左衛門ガ嫡子清十郎ト、洛外蓮臺野ニ於テ雌雄ヲ決ス。清十郎ハ眞劔、武藏ハ木刀テ以テ撃之、清十郎忽斃レ息絶ル。渠カ門弟等板上ニ助ケ乘セテ、家ニ歸リテ薬治シ本復ス。其後兵法ヲ棄テ剃髪ス
而後、吉岡傳七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す 然後其家弟傳七郎亦洛外ニ出テ雌雄ヲ決ス。傳七郎五尺餘ノ木刀ヲ袖ニシ來。武公頓ニ彼ノ木刀ヲ奪テ撃之、立處ニ僵死 其後弟傳七郎ト洛外ニ出デ勝負ヲ決ス。傳七郎ハ豪兵ニテ五尺餘ノ木刀テ持チ來ル。武藏頓ニ其木刀テ奪テ、一打ニ撃之。立所ニ斃レ死ス
吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外、下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法なり 因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ辺ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之。武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル。於是、吉岡兵法家泯絶ス



(別稿あり)
角左衛門曰、武公徒然ノ打話ニ云、事ニ莅テ心ヲ不變事、實ニ難シ…
依テ吉岡門弟恨ミヲ含ミテ、清十郎ガ子又七郎ト組シ、數十人兵仗弓箭ヲ携へ、下リ松ニ會ス。武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル。於斯吉岡ガ家断絶ス



(別稿あり)
武藏或時打話ニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト、實ニ難シ…
其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也 凡そ、十三より壯年迄、兵術の勝負六十余場、一として勝たざる無し 其後國々處々ニ到リ、諸流ノ兵法者ニ行合、六十餘度マデ勝負ヲ決ストイヱドモ、一度モ其利ヲ失ハズ。其程年十參ヨリ廿八九歳迄ノ事也 流書ニ曰、我若年ヨリ兵法ノ道ニ心ヲ懸ケテ、國々所々ニ於テ名高キ兵法者ニ對シ、眞劔或ハ木刀ノ勝負六十餘度ニ及ブト云トモ、一度モ其利ヲ失ハズ。其程歳十三ヨリ二十八九迄ノコト也
 まず、五輪書と小倉碑文。五輪書には、《廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者に會ひ數度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云ふ事なし》と記すのみであったものが、小倉碑文では、具体的な内容をもつ記事となって出現している。この小倉碑文の記事が、武蔵死後九年という段階における伝説であり、吉岡一門に関する最初の史料であることはいうまでもない。言い換えれば、この小倉碑文の記事によって、すべては始まるのである。
 すでにみたように、『武公伝』は肥後における伝説形成の跡を示している。つまり、まず第一に続柄の規定である。小倉碑文に登場する、清十郎・伝七郎・又七郎という名の人物について、伝七郎は清十郎の弟、又七郎は清十郎の子だとする。ただし、小倉碑文にはそのような続柄を規定する情報はない。また他の筑前系伝記にもそんな記事はない。これは、肥後で生じた伝説変異の一つなのである。
 次に、第二点として、清十郎との対戦において、清十郎は真剣という道具の記述をしていること。これも小倉碑文にはないことで、肥後での伝説増殖である。これは、巌流島決闘において、《岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと、堅く漆約を結ぶ》とある小倉碑文の記事との混同があったのかもしれない。
 ただし、それよりも、『武公伝』の後出記事において、こんな話が出ているのと関連のある話であろう。すなわち、――ある年の正月三日、御謡初めの晩、会の始まるのを待って列席者たちが雑談している時、御備頭の志水伯耆が武蔵にたずねた、「先年、吉岡清十郎と仕合の節、吉岡が先〔せん〕を打ったと風聞いたしておりますが、実際はどうだったのですか」と。それに対し武蔵は何も返答せず、ズンと立って、燭台を把って、志水伯耆の前にどかりと座し、「私は幼少のころ、頭に疥癬〔はす〕が出来て、月代を剃ると見苦しいので、惣髪にしております。(吉岡)清十郎との仕合の時、彼は真剣で自分は木刀でした。真剣で先を打たれますと疵痕があるでしょう。とくとご覧なされ」と、左の手に燭台をとり、右の手で髪をかき分けて、頭を伯耆殿の顔につきつけた、云々。
 とすれば、この逸話に相応させる記事が、吉岡は真剣だったというこの一文なのだろう。つまり、まず武蔵が志水伯耆をヘコませたというこの逸話があって、それに対応する補足としてこの部分で「吉岡は真剣なり」という記事ができたことになる。言い換えれば、テクスト内部で整合性をもたせるための操作である。
 これに対し『二天記』の方は、志水伯耆をヘコませたというこの逸話の内容が変化して、吉岡との対戦ではなく巌流島での話にしてしまっているから、『武公伝』がこの部分に措いた「吉岡は真剣」という記事が宙に浮いた恰好になってしまっている。
 さらに肥後系伝記における変異の第三点として、清十郎の子だという又七郎を、武蔵が斬り殺したという場面をあげることができる。これもオリジナルの小倉碑文にはない記事で、また筑前系伝記『丹治峯均筆記』にもない場面である。肥後における後世の伝説形成であろう。
 しかるに、この又七郎を頭目とする第三の対吉岡戦については、おそろしく具体的な説話を示すのが『武公伝』なのである。これについては、以下にみてみよう。  Go Back




蓮台野現況 京都市北区紫野







*【武公伝】
《或年正月參日、御謡初ノ晩、御備頭衆ヲ初トシテ着座衆何レモ列座ニテ、武公モ其席ニアリ。御矩式未始ニ何カト打話ノ時、志水伯耆殿[時御備頭ナリ]武公被申候ハ、「先年吉岡清十郎ト仕合ノ節、吉岡先ヲ打タル由致風聞候ガ、如何ニテ候哉」トアリ。武公、兎角無返答、ズンド立テ燭臺ヲ把テ、伯耆殿ノ膝元ニツカト座シ、「私幼少ノ時、頭ニハス〔疥癬〕出來テ、月代ヲ剃リ候得バ見苦シク候ニ附、惣髪ニテ居候。清十良仕合ノ時、彼ハ眞劔自分ハ木刀ニテ候。眞劔ニテ先ヲ打レ候ハヾ疵痕在ベシ。得斗御覧候」ト、左ノ手ニ燭臺ヲ把リ、右ノ手ニ髪カキ分テ、首ヲ伯耆殿ノ顔ニツキ附ラル。伯耆殿、ノツケニソリテ、「疵痕見ヘ不申」トアリ。「シカト御覧候哉」トアリ。「ナルホド得度見届候」ト云トキ、直ニ立チ上リ、燭臺ヲ直シ、モトノ座ニツキ、髪カキナデテ自若タリ。一座ノ諸士、手ニ汗ヲ握リ、一人モ鼻息ヲスル者ナシ。伯耆殿一生ノ不覚也ト、其比批判在シト也。胆氣豪発ノ事ナリ》

 
  07 事にのぞんで心を変えざる事
一 道家平蔵宗成[武公ノ直弟寺尾求馬ノ弟子也。綱利公ノ士、家厳ノ師]ノ父、角左衛門[後ニ徹水ト云]ハ武公ノ直弟也。(1)
 角左衛門曰、武公徒然ノ打話ニ云、
 「事ニ莅〔のぞみ〕テ心ヲ不変事、實ニ難シ。我先年吉岡又七郎ト、洛外下リ松[一乘寺村藪里ニアリ]ニ會シテ勝負ヲ決セント約ス。(2)
 我門弟等皆云、「又七郎、公ヲ以テ父叔ノ仇也トス。定テ清十良以來之門弟大勢ヲ率ヒ來リ、挾撃テ冤ヲ報ゼント〔スル事〕必セリ。公ハ是就死地者也、誠ニ危矣。請フ願クハ各相従テ拒之」。武公云、「不然。我生等数輩ヲ率ヒ出テ、戦闘ニ及ブ時ハ、則チ是徒黨ヲ結ンデ戦ヒヲ催スナリ。惟公義ノ固ク禁止スル所ノ号令ナリ。不可不以慎也。若一人モ慕来ル者アラバ、却テ我ヲ罪科ニ陥ルニ非ヤ。(3)
 謂ニ渠レガ戦術何ゾ懼ニ足ン。嚮ニ彼ガ父清十良及叔傳七郎ニ會スルヤ、我其期ニ後レ凝滞シテ勝之。這囲ハ可反之ト、鶏鳴ニ獨歩シテ洛ヲ出。(4)
 路ニ八幡ノ社前ヲ経、憶、「我幸ニ不圖シテ神前ニ來レリ。當祈勝利」ト、及詣社壇、恭テ鰐口ノ紐ヲ執テ將ニ打鳴サントス。忽チ思フ、「我常ニ佛~ヲモ不信仰、而今此難ヲ憚テ頻ニ敬祷ス。神其受ヤ、諸吁怯矣」。即チ其紐ヲ措テ、孜々トシテ下壇、慙ヂ愧ヂ汗流レテ踵ニ至ル。(5)
 直ニ驅テ到下松。夜未曙、寂々トシテ松陰ニ佇ム。少焉テ、又七郎門弟数十人ヲ將ヒ提燈來リ、行々言フ、「定テ知ンヌ、彼レ又遅々トシテ約ヲ脱セン」ト。時ニ我忽爾トシテ起テ迎ヒ、「武藏待得タリ」ト高声ニ呼フ。
 又七郎駭テ、刀ヲ眞シグラニ切ル。我又七良ガ斬處ヲ下ヨリ中リ上ルニ、又七良ヒルミナガラ切付ルヲ、乘替ツテ一撃ニ斬弑ス。[刀ハ大原ノ眞守三尺余ノ大刀也]
 門徒等スカサズ拔連テ切テカヽル。或ハ半弓ヲ以射矢、一筋ワガ袖ニトマル。我進ンデ追崩スニ、狼狽シ縦横ニ走散ス。竟ニ全勝ヲ得タリ。(6)
 彼ノ~前ノコトヲ思ニ、所謂莅事不變心事、實ニ難シ」トナリ。
武公自誓ノ書ノ中ニ、佛~ハ尊シ仏~ヲ不憑ト在リ。武公打話ハ、寛永十七八年ヨリ正保一二年コトナルベシ。(7)

一 道家平蔵宗成[武公の直弟子寺尾求馬の弟子である。綱利公の士であり、家厳の師]の父、角左衛門[後に徹水という]は、武公の直弟子である。
 角左衛門曰く、「武公がつれづれの談話に語った――、
 「事に臨んで心を変えないことは実に難しい。おれが昔、吉岡又七郎と、洛外下り松[一乗寺村藪にあり]で会して勝負を決しようと約束したときのことだ。
 我が門弟らは皆云う、「又七郎は、あなたを父・叔父の仇だとしています。きっと清十郎以来の門弟を多勢率いて来て、(包囲)挾撃して恨みを報ぜんとするに決まっています。あなたは死地に就く者です。まことに危険です。お願いです。我々があなたに従って(戦いに参加し)彼らを撃退させてください」。武公が云う、「それはいかん。我が門生ら何人かを率い出て、戦闘に及べば、これ則ち徒党を結んで戦さを起すことになる。これは公儀の固く禁止じている命令である。それは慎しまずにはおれない。もし一人でもついて来る者があれば、それはかえっておれを罪科に陥れることになるぞ。
 いわば、吉岡の戦術など、懼れるに足りないのだ。前に、彼(又七郎)の父清十郎や叔父伝七郎と対戦したとき、おれはその時間に遅れ、凝滞して勝った。今度は。その逆にしてやろうと、鶏鳴〔夜明け前〕に一人で京の町を出た。
 途中、八幡の社前を通った。思うに、「おれは幸いにも、思いがけず神前に来た。まさに勝利を祈るべし」と、社檀に詣るに及び、恭々しく鰐口の紐をとってまさに打ち鳴らそうとして、突然思った、「おれは、常づね仏神を信仰せず。しかるに今、この難を憚って頻りに敬祷しようとしている。神はそれを受けるだろうか。ああ、おれはひるんだのか」。そこで、鰐口の紐をおいて孜々として社壇を下りた。慙愧の汗が流れて踵に達した。
 ただちに走って、下り松にやって来た。夜はまだ明けず、寂々として松陰に立っていた。しばらくして、又七郎が門弟数十人を率い、燈火を提げてやって来て、歩きながら言っている、「わかっていることだが、きっとあいつは、また遅れて来て、約束を守らないだろう」と。そのとき、おれは突如として起って、彼らに向い、「武蔵は待っていたぞ」と大声で声をかけた。
 又七郎は驚いて、刀をまっしぐらに切りかける。おれは、又七郎が斬ってくるところを、下から突きあげる。又七郎はひるみながら切りつける。それを乗りかわって一撃に斬り殺した[刀は大原の真守、三尺余の大刀である]。
 門徒らはすかさずみな刀を抜いて切りかかってくる。あるいは半弓で矢を射る。一本の矢がおれの袖に当った。おれが突進して追い崩すと、(彼らは)狼狽して縦横に逃げ去った。(そうして)ついに完全な勝利を得た。
 かの神前のことを思うに、いわゆる「莅事不變心」〔事にのぞんで心を変えない〕ことは、本当に難しいことだ」――とのことである。
武公自誓の書の中に、「仏神は尊いが、仏神をたのまず」とある。武公の話は、寛永十七、八年(1640〜41)から正保元年か二年(1644〜45)のことであろう。

  【評 注】
 
 (1)道家角左衛門
 ここではじめて豊田正剛の聞書らしきものの登場である。従前の条々は正脩あるいは景英の文章である。しかし、はじめに予告しておくが、『武公伝』のこの段は実は一筋縄ではいかない構成をもつ。したがって、解析はやや複雑になるが、一通り説明しておきたい。
 さて、これは、武蔵の直弟子だったという道家角左衛門なる者が武蔵から聞いたという咄だという。
 まず、この道家〔どうけ〕角左衛門と何者かというに、その先祖附によれば、角左衛門祖父の道家帯刀のとき、関が原戦後まもない慶長七年(1602)、豊前で細川忠興に召抱えられた。そのとき松井佐渡(康之)が斡旋して仕官できるようにしたらしい。道家帯刀は知行千石を与えられた。それが道家氏のスタートである。道家帯刀は、細川氏肥後入国後の寛永十年(1633)加増千二百石で、先知とも合計二千二百石になった。帯刀は寛永十九年(1642)まで生きた。つまり武蔵が肥後に滞在していた頃まで存命であった。
 帯刀嫡子が道家左近右衛門である。角左衛門の伯父である。この人は家督以前に、自分千五百石の知行を与えられていた。寛永十九年に父の帯刀が死去すると、父の家督二千二百石に、左近右衛門自身の千五百石のうち、有馬陣褒美の五百石を加えて、二千七百石が左近右衛門の知行高である。彼が死亡したとき倅は三才だったが、親の跡式二千七百石を相続した。ところが、この子がまもなく死んでしまう。それで、この帯刀嫡系は断絶である。
 角左衛門の父・道家七郎右衛門は、帯刀二男である。元和元年(1615)細川忠興に召出され、知行三百石。忠興・忠利・光尚の三代に仕え、慶安四年(1651)死去。跡目は長男の次右衛門が嗣いだ。
 そして、道家角左衛門。七郎右衛門の二男である。忠利に召出され、五人扶持。二男はこういうところからスタートである。角左衛門が二百石の知行取りになるのは、正保三年(1646)、武蔵が死んだ翌年のことである。その後、寺尾求馬助と同じように鉄砲頭を勤めて、元禄四年(1691)隠居し、息子の道家平蔵に家督を譲った。隠居して号徹水。
 したがって、道家角左衛門が武蔵に学んだとき、彼はいづれにしてもまだ若年であっただろうが、二男の身軽な境遇ゆえ、兵法修行に打込むことができたものと思われる。
 『武公伝』の記事が興味深いのは、武蔵に直接学んだ弟子の話を記録していることにある。道家角左衛門隠居の年、豊田正剛は二十歳である。角左衛門曰く、の話は、道家角左衛門が晩年語った話であろうと思われる。それを若き豊田正剛が聞いたのである。
 ちなみに、ここに名が出ている道家平蔵は、角左衛門嫡子で、元禄四年父が隠居して二百石の家督を相続。これは綱利の時代である。『武公伝』のこの記事の割註に「綱利公の士」とあるのは正しい。家督のとき、道家平蔵はもう若くはなかっただろう。それまでは、出仕もしていないから、部屋住の気楽な身の上で、若い頃から寺尾求馬助に学んだのである。家督後は二十年ばかり諸役勤務して、正徳二年(1712)病気のため御役御免、同年死亡した。
 割註の文字に「家厳ノ師」とある。「家厳」とは、ここではだれかの名ではなく、家父の意。『二天記』冒頭「凡例」に、道家平蔵は豊田正剛の剣術の師だとある。これを参考にすれば、豊田正剛=家厳であり、つまりこれは正脩が我父のことを「家厳」と書いたのである。
 道家平蔵は正剛の剣術の師だとして、しかし道家平蔵は熊本にいて、正剛は八代にいたはずだから、いつ正剛は道家平蔵に学んだのか。
 豊田正剛は十五歳のとき出仕した。豊田家の主家、長岡直之に召出されたのである。翌年、直之嫡子の寿之御部屋附きになった。これで、正剛は熊本勤務となる。そのころ、正剛の祖父・豊田高達は熊本詰奉行役で熊本にいたから、それも都合がよかった。正剛が直之の側に召し返されるのは十八歳のときである。したがって、正剛十六歳から十八歳のあたり、彼は熊本にいたようなので、そのころ道家平蔵の教えを受けたのであろう。
 それ以後は、直之の側付き勤務があるから、熊本へ出るとしても機会は限られる。それゆえ、豊田正剛が道家角左衛門の話を聞く機会があったとすれば、それはおそらく、十代の頃、寿之側付で熊本に居た頃であろう。そのころは、角左衛門はまだ現役で、嫡子平蔵は部屋住である。
 そしてあるいは、正剛は道家平蔵に学んだから、この道家角左衛門の話は、道家平蔵経由の伝聞の可能性もある。『武公伝』には、「角左衛門曰く」とあって、誰がそれを聞いたか記していないからである。角左衛門がこんな話をしていた、というのを、道家平蔵から正剛が伝え聞いたという状況もありうる。どちらとも断定しがたいが、豊田正剛がまだ十代の頃、道家平蔵に学ぶとともに、その父・道家角左衛門から話を聞く機会はあったことを念頭におかれたい。
 ただし、この記事を書いたのは正剛だとするわけにはいかない。正剛の草稿があって、おそらくこの説話の本体部分の記事は、子の正脩がリライトしたものであろう。それでも、「角左衛門曰く」という情報ソースは保存されている。
 他方、後継の『二天記』になると、いきなり《武藏或時打話ニ》とはじまり、『武公伝』にあった話の出所を抹消している。そうして『二天記』は『武公伝』の記録性を抹消しているのだが、それは、伝聞ソースという繋留点を外して、説話としての一般性を獲得するための必然であろう。この段階では、もはや伝説の体裁である。  Go Back








*【道家氏略系図】

○道家帯刀一成─┐
┌───────┘
├左近右衛門―太夫(断絶)

└七郎右衛門┬次右衛門―次右衛門
      │
      └角左衛門┬平蔵宗成
           │
           └甚右衛門
             岡田養子


永青文庫蔵
先祖附 道家角左衛門


*【道家兵法伝係図】

○新免武蔵守玄信┐
 ┌──────┘
 ├寺尾求馬助―道家平蔵―豊田正剛
 │
 └道家角左衛門





*【二天記凡例】
《先師直弟老健ニテ、正剛ニ對シ物語有リシ人々ハ、熊府ノ士道家角左衛門[後ニ徹水ト號ス]、正剛剣術ノ師・平藏ノ父ナリ》
















*【二天記】
《武藏或時打話ニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト、實ニ難シ。我先年、吉岡又七郎ト洛外一乗寺村藪ノ郷下リ松ト云フ處に會シ、勝負テ決センコトヲ約ス…》
 
 (2)洛外下リ松
 ここから武蔵の談話だというものになる。話の内容は、吉岡一門との対戦のうち、第三の決闘のさいのことである。つまり、これは前段の記事の一部と重複している。この記事重複には意味がある。前段は正脩の書いた記事だが、こちらは正剛の聞書が本体部分をなす。したがって本来は別の記事である。
 ではなぜ、吉岡清十郎や伝七郎が相手の決闘ではなく、この第三の決闘に焦点があるのか。それは、「事に臨んで心を変えないことは実に難しい」という教訓譚の具体例としてこの話があるからである。
 つまりこれは、おれが昔、吉岡又七郎と、洛外下り松で決闘したときのことだと、武蔵が一人称で語る体裁の物語である。一人称で語る形式については、いうまでもなく、この物語が十分に説話化された構造を有し、それに相応した内容を示している。いわば、道家角左衛門の講談としてこれがあるということである。
 なお、ここで、決闘場所について、洛外下り松[一乗寺村藪里ニアリ]とある。つまり、割注して「一乗寺村藪里ニアリ」というのだが、この地理情報の出所は不明である。
 小倉碑文の記事には、《吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外下松邊りに彼の門生数百人を會し》とあるごとく、「洛外下松」という以上の地理情報はない。さらにまた筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』では、場所は「洛外下リ松ノ辺」とあるのみである。『武公伝』にしても、この第三の決闘に言及した前出記事には、「洛外下松ノ辺」とあって、小倉碑文記事の範囲を出ていない。これが正脩の段階である。
 我々の所見では、『武公伝』割注の「一乗寺村藪里」にはあまり根拠はない。洛外というには、場所が一乗寺村では、離れすぎている。京都には「洛外下り松」に相当するものは複数あって、どれとは特定できないが、北野神社近辺の一条下り松(七本松)が有名である。この「一条」下り松が、肥後系伝記では「一乗寺村」に化けたというのが、おおよその口碑伝承の筋道だと思われる。
 そうしてみると、「一乗寺村藪里ニアリ」という割注は、正脩ではなく、景英の記入によるものであろう。景英が得た「新情報」なのである。
 『二天記』には、《我先年、吉岡又七郎ト洛外一乗寺村藪ノ郷下リ松ト云フ處に會シ》とあって、『武公伝』では割注であった記事が、本文に組み込まれている。つまり、この地理情報は、この段階では注記の留保条件が外れて、いわば既定の事実に昇格している。
 もとよりこれは景英の作為であって、景英は『武公伝』に割註して、一乗寺村藪里にありと記したのだが、『二天記』を書くにあたり、この注記を本文化したのである。
 周知の如くこの「一乗寺下り松」は、『二天記』へのゆえなき信仰とともに、既定事実と成り上り、しかも作家たちが武蔵小説で採用し、また映画やドラマなどで有名である。ところが、我々の『武公伝』『二天記』研究からすれば、これは豊田景英が『二天記』に本文に記入した当時の新情報である。つまり、もともと肥後で十八世紀後期になって発生した新説によるもので、根拠のない現場設定である。  Go Back





京都吉岡関係地図




*【小倉碑文】
《吉岡門生、含寃密語云、以兵術之妙非所可敵對、運籌於帷幄。而吉岡又七郎、寄事於兵術、會于洛外下松邊。彼門生數百人、以兵仗弓箭、忽欲害之》

*【武公伝】
《因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト、事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ辺ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之》

*【二天記】
《武藏或時打話ニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト、實ニ難シ。我先年、吉岡又七郎ト洛外一乗寺村藪ノ郷下リ松ト云フ處に會シ、勝負テ決センコトヲ約ス》
 
 (3)又七郎、公ヲ以テ父叔ノ仇也トス
 以下、物語は野放図に語られるが、一応ここまでを一区切りにして、説話の内容をみてみよう。
 武蔵の門弟らが皆いう、「又七郎は、先生を父の仇、叔父の仇としています。きっと大勢で挾撃して恨みを報じようとするでしょう。まことに危険です。我々が先生と共に戦いましょう」と。しかし、これだと、決闘の意味が失われている。
 決闘は負けても恨みを残さないと約束して行なう。したがって、決闘は敵討の復讐連鎖をあらかじめ切断している。ところが、この話だと、敵討復讐という位置づけである。
 これがまず、ありえない話である。おそらくは、小倉碑文の「吉岡門生、寃を含み密語して云々」という文言から発展したものであろう。もともと子が親たちの敵を討つなどという文脈ではないのに、ここでは話が復讐譚に流れてしまっているのは、十八世紀以降の復讐譚の巷間流行という状況を反映したものである。それゆえ、この説話の新しさが露呈している。
 さらに、武蔵は門弟等が加勢しようというのに対し、「それはいけない。私の門弟らが参加して戦闘に及べば、これは、徒党を組んで戦さを起すことになる。これは公義が固く禁止する行為だ。そんなことをするのは慎まねばならない。もし一人でも私について来る者があれば、むしろそれは私を罪科に陥れることになるぞ」と云って制止する。
 これもはなはだ奇妙なことで、徒党禁止という、大坂陣後の武家諸法度の発想が持ち込まれている。《惟公義ノ固ク禁止スル所ノ號令ナリ。不可有不慎也》とは、秩序内の言説で、いわば十八世紀の思考である。これも後世の説話化の特徴である。
 肥後系伝記のこの段は、小倉碑文にあるところの、「おまえたちは関係ない人間だ。速やかにここを退け」と門人らに言ったという武蔵の退去命令が、なぜ出てくるのか、という講釈である。伝説が解釈する。その解釈を講釈する説話が成長する。それが『武公伝』のこの物語である。
 その点、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』も同じこと――解釈伝説――を演じているが、かなり違う。すなわち、武州の味方も門人十余人がいた。中でも十七八歳の若者が一番に進む。武州は後から声をかけ、「こんな場でたじろぐと命を落とすものだぞ。少しもたじろぐな」といって、後から帯を把って真先に推し立て進んだ。ところがかの若者は矢に当たって負傷してしまった。そこで武蔵は門人らに云う、「全員落着いて立退きなさい。おれが一人踏み留まり、大勢を追払って、後から追いつくから」と、門人を現場から退去させた、云々。
 つまり『丹治峯均筆記』では、最初、武蔵は門人らといっしょになって戦ったのだが、この若者が弓矢に射られて負傷したので、武蔵は、これはダメだと思ったのか、門人らを撤退させ自分一人で戦うことにした、というわけである。
 これに対し『武公伝』の方は、武蔵の言い分は演劇の登場人物が語りそうな通俗講談の科白なのである。――我が門生ら何人かを率い出て、戦闘に及べば、これ則ち徒党を結んで戦さ起すことになる。これは公儀の固く禁止じている命令である。それは慎しまずにはおれない。もし一人でもついて来る者があれば、それはかえっておれを罪科に陥れることになるぞ――と、まったく読本講談調である。説話環境は明らかに十八世紀後半であり、説話スタイルが『丹治峯均筆記』よりもかなり新しい。
 『二天記』でも、この『武公伝』の伝説をほぼそのまま反復している。とすれば、この一段の説話は、『武公伝』オリジナルのものではなく、豊田景英の段階のものであろう。  Go Back










*【小倉碑文】
《吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す》




*【丹治峯均筆記】
《吉岡ガ門人等、冤ヲ含ンデ密ニ相議シテ曰、「兵術ヲ以テハ敵シ難シ。大勢取圍ンデ打果スベシ」トテ、吉岡又七郎、事ヲ兵術ニヨセ、洛外下リ松ノ邊ニテ會ス。門人等數百人、鎗薙刀弓箭ヲ取テ出向フ。武州ノ味方モ門人十餘輩アリ。中ニモ十七八歳ノ若者、一番ニ進ム。武州、跡ヨリ声ヲカケテ、「加様ノ場ニテタルメバ命ヲ墜スモノゾ。少モタルムナ」トテ、ウシロヨリ帯ヲ取テ、真先ニ推立進マル。彼者矢ニ當テ疵ヲ被ル。武州、門人等ニ曰、「何レモ心閑ニ立退キ候ヘ。我等一人蹈留リ、大勢ヲ追拂ヒ、跡ヨリ可追付」トテ、門人ヲ先ダテ、多敵ノ位ニテ打拂々々退カル》


*【二天記】
《武藏或時打話ニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト實ニ難シ。我先年、吉岡又七郎ト洛外一乗寺村藪ノ郷下リ松ト云フ處に會シ、勝負テ決センコトヲ約ス。然ルニ、我門弟來リ告テ云、「又七郎ハ、公ヲ父叔父ノ仇トス。清十郎以來ノ門弟大勢ヲ引率シ、公ヲ差シ挟ミ、討テ仇ヲ報ゼント企ル由ヲ聞キヌ。是公死地ニ着也。誠ニ危キ所也。願バ我々モ相從テ倶ニ拒之」。武藏云、「各數輩ヲ引出テ戦闘ニ及ブ時ハ、是徒黨ヲ結ンデ戦ヲ催スナリ。是公義ノ固ク禁止スル處ナリ。愼マズンバ有ルベカラズ。若一人モ從ヒ來ル者アラバ、却テ我ヲ罪ニ陷ルヽニアラズヤ。思フニ渠ガ賊術、奈何ゾ懼ルヽニ足ン」ト云テ、門弟ヲ返ス》
 
 (4)這囲ハ可反之
 この部分は、まさしく仕立てが講談調である。武蔵は一人称で考える。我思う、である。――思うに、吉岡の戦術は、まったく懼れるほどのものではない。又七郎の父清十郎や叔父伝七郎と対戦したとき、おれはその時間に遅れ、凝滞して勝った。それならば、今度は逆にしてやろうと、夜明け前に一人で京の町を出た、云々。
 《獨歩シテ洛ヲ出》とわざわざここに記しているのは、前段とのつながり――つまり、武蔵に加勢しようという門人らの言を斥け、たった一人で吉岡一門を相手に戦うという設定による。むろん筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』では、話が違っていて、すでに戦いが始まってから武蔵は門人らを撤退させるのである。
 さて『武公伝』によれば、武蔵は、さきの対清十郎戦、対伝七郎戦の両度の対戦において、武蔵は遅参して勝った、というのである。この武蔵遅参という説話素は、もとより小倉碑文にはない話である。正脩による前出の対吉岡戦の記事にも、遅参の話は見当たらない。これは正剛の草稿を写した正脩も関知しない話で、他の箇処と同じく、景英が手を入れたらしい。
 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、――吉岡清十郎が、洛外蓮台野で武蔵と勝負を決することになった。武蔵は当日になって、病臥して起居安からずという理由で、試合を断わるに及んだ。しかし清十郎は、勝負すべしと、しきりに勝負を催促する使いを何回も武蔵のもとへ走らせた。 武蔵は、病人らしく、竹輿に乗り大夜着を着込んで、約束の場所へ到着された。清十郎が出迎えて、「病気はどんな具合か」と乗物を覗き込んだところを、武蔵は戸を押し明け、突如外へおどり出て、枕木刀でただ一撃で打ち倒した、という話である。
 こういう武蔵遅参譚は、京都の伝説としてあったものらしい。それを『丹治峯均筆記』は取り込んでいる。ただし、京都の伝説は伝七郎との試合を忘却しているから、具体的な逸話は存在しない。したがって『丹治峯均筆記』には、対伝七郎戦で武蔵が遅参したという話もない。
 これに対し、『武公伝』は、吉岡清十郎・伝七郎との二回とも、武蔵が遅刻戦術に出て勝ったとする。これは他に見えない話なので、肥後での説話拡張であろう。つまり、二度あることは三度ある、という話で、こんども武蔵はきっと遅れてくるに違いないと、吉岡方が思ってしまうという、後出の場面に接続する伏線なのである。したがって、この武蔵遅参という要素は、説話構造からする必然によって生じたもので、とくに史実を云々するまでもない話である。
 これはむしろ、巌流島伝説との流用関係があるのに注意したい。肥後の伝説では、巌流島で武蔵の鉢巻が切られて落ちたことになっているが、それは本来、京都での吉岡戦の折の場面であり、『本朝武芸小伝』の記事を巌流島に流用したのである。筑前系の伝説を参照すれば知れるが、武蔵の鉢巻はもともと巌流島伝説にはなかったアイテムである。
 武蔵遅参の話も、上述のように、もとは吉岡戦の京都の伝説である。これを肥後の伝説は、巌流島へ流用している。それを巌流島へ送ってしまったから、肝腎の吉岡戦では語ることがなくなってしまったという格好なのである。ただその痕跡は、『武公伝』の《彼ガ父清十良及叔傳七郎ニ會スルヤ、我其期ニ後レ凝滞シテ勝之》という台詞に残ったということである。
 さて、『武公伝』によれば、武蔵は前二回は遅刻して勝った、そこでこんどは、裏をかくという戦術に出る。こんども武蔵はきっと遅れてくるに違いないと、吉岡方が思って油断するだろうから、こんどは逆に彼らより早く行って待ち構え、そうして先制攻撃してやろう、というわけである。
 武蔵は敵の裏をかく、というこの説話素は、『二天記』にもそのまま継承されている。というか、すでに『武公伝』にあるこの記事も景英の増補であろう。この一段の説話が新しいものであることは、景英の段階での増補だという標識である。  Go Back















*【丹治峯均筆記】
《吉岡清十郎、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。武州、其日ニ至リ病臥、起居不安ノ由ニテ、断ニ及ブ。清十郎、頻リニ可致勝負旨、數度使ヲ走ラシム。武州竹輿ニ乘リ、大夜著ヲ著シ、場処ヱ至ラル。清十郎出迎、「病氣何分ノ事ニヤ」ト乘物ヲノゾク處ヲ戸ヲ押明ケ、風ト出テ、枕木刀ヲ以テ只一打チニ打倒シ、息絶ヌ。門生等、戸板ニ助ケ乘セテ持帰リ、藥ヲアタヱ漸ク復ス。遂ニ兵術棄テ薙髪ス》








*【本朝武芸小伝】
《吉岡大木刀を以て武藏を打。武藏是を受るといへ共、鉢巻きれて落たり。武藏しづんで拂、木刀にて吉岡がきたる皮ばかまをきる。吉岡は武藏が鉢巻を切て落し、武藏は吉岡が袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすと也》




*【二天記】
《先年、渠ガ父清十郎及叔父傳七郎ト會セシ時ハ、我期ニ後レ凝滞シテ勝之。這囘ハ、是ニ引替へ我先達テ行ベシト、鶏鳴ヨリ獨歩シ洛ヲ出ル》
 
 (5)我常ニ佛~ヲモ不信仰
 ここは有名なシーンであり、この一段の教訓譚、「事にのぞんで心を変えないことは実に難しい」という話の具体的場面である。したがって、道家角左衛門の咄にあったのは、この段を本体とする短いものであったと思われる。豊田正剛の草稿の段階では、さして長いものではなかったはずである。前後の話はそれより後世の別の伝説であり、景英が編集して増補したものである。
 決闘現場に向かう途中、八幡の社前を通りかかったという。八幡社は武勇の神。それに、八幡社はどこにでもあるから、これは差し障りのない設定である。
 吉川英治の武蔵小説で「一乗寺下り松」が有名になって、近隣の八大神社が、武蔵が祈願しようとした神社だという話になっているそうだが、これは八幡社ではないし、だいいち、洛外下り松が一乗寺村のそれであるはずもないから、これは、微笑ましいご愛嬌、というにとどまる。
 さて、『武公伝』の武蔵が思うに、「おれは幸いにも、思いがけず神前に来た。まさに勝利を祈るべし」と、社檀に参詣。だが、恭々しく鰐口の紐をとってまさに打ち鳴らそうとして、突然思った、「おれは、常づね仏神を信仰せず。しかるに今、この難を憚って頻りに敬祷しようとしている。神はそれを受けるだろうか。ああ、何ということだ、おれはひるんだか」。そこで、鰐口の紐をおいて、社壇を下り、ひたすら慙愧の念、汗が流れ踵に達するほどだった。
 ――というわけで、八幡神に勝利祈願しようとして、それを思いとどまったという話であるが、これは武蔵が語った話とするには、いささかできすぎた話で、口説の重層を経たものである。
 門人らの加勢を却下して、たった一人で決闘現場に向かう英雄武蔵。だが、鬼神かと思わせるほど強い武蔵でも、この時ばかりは、ついつい神仏に頼ろうとした。しかし、そこはさすがに武蔵のこと、自分の非に気づいて、その「依存性」を断ち切った、というわけだ。
 おそらくこれは、もともとネタが割れた話なのである。この一段の最後に注記してあるが、武蔵自誓の書(いわゆる「独行道」)の一条に、
   《佛~は尊し、佛~をたのます》
とあって、肥後の伝承環境ではこれがよく知られていた。そこで、この一文の解釈について講話するうちに、こうした説話が解釈伝説として出来上がったものらしい。
 言い換えれば、この一段のテーマは、《莅事不変心》(事にのぞんで心を変えない)ことである。この主題は、自誓書の《仏神は貴し、仏神をたのまず》、仏神は貴いと思うが、仏神には頼らない、というテーゼの具体化なのである。
 かくして、「独行道」の《仏神は貴し、仏神をたのまず》の解釈から、《莅事不変心》(事にのぞんで心を変えない)というテーマが派生し、この骨格に肉付けされたのが、この一段の説話である。『武公伝』では、《莅事不変心》という同じテーマでもう一つ、道家角左衛門は語っている。都甲太兵衛の話である。そちらはごくシンプルな逸話であるが、この吉岡との決闘譚にからんだ道家角左衛門の話は、豊田正剛が聞いた段階で、潤色がすでに進んでいる。そのことに注意したい。
 なお、『武公伝』に「我常ニ佛~ヲモ不信仰、而今此難ヲ憚テ頻ニ敬祷ス。神夫受ヤ、諸吁怯矣」とあるところの「吁怯矣」についていえば、『武公伝』参照本には、これに「アア、ツタナシ」とルビをふるが、ここは字義通り「ああ、怯めり」で、つまりは、ああ、怯んだな、何となさけない、というほどの意味である。
 それに対し、『二天記』はこれを「吁誤レリ」と記して、説話のテーマをより明確にしている。同じ慚愧の念でも「ああ、なさけない」が「ああ、間違っていた」に転じる、このような明確化は、むろん後継のスタンスからするものである。  Go Back





武蔵ゆかりの(?)八大神社





一乗寺下り松周辺マップ













*【二天記】
《路ニ八幡ノ社アリ。因テ思フ、「我幸ニ~前ニ來レリ。正ニ勝利ヲ祈ルベシ」ト。社壇ニ至テ、愼ンデ鰐口ノ紐ヲ把テ、將ニ打鳴ラサントス。忽チ思フ、「我常ニ~佛ヲ信仰セズ、今此難ヲ憚テ敬祷ストテ、~夫レ受ムヤ。吁誤レリ」ト。即チ其紐ヲ措テ、孜々トシテ壇ヲ下ル。慙愧汗流レテ踵ニ至ル。直チニ馳テ下リ松ニ至ル》
 
 (6)武藏待得タリ、ト高声ニ呼フ
 ここから決闘現場の具体的な場面である。本来は、「莅事不変心」というテーマの説話とは別のものである。ただし、この場面が近代の小説や映画などで有名になってしまったのは、ある意味では歴史の皮肉である。
 まず、《夜未曙、寂々トシ松陰ニ佇ム》とある。情景が読み込まれていて、物語の語りがなかなか調子よい。ただし、いかさま、こういう講談調の一文――夜はまだ明けず、寂々としていて、おれは松陰に佇んでいた――のあるところからすれば、だれも武蔵の直話だとは思うまい。武蔵を一人称で語らせるこの話は、まったく無理な講談噺である。
 しばらくして、吉岡又七郎が門弟数十人を率い、燈火を提げてやって来る。未明の闇だから照明が必要であるのだが、これも情景叙述である。彼らは歩きながら話している、「我々にはわかっていることだが、きっとあいつは、また遅れて来て、約束を守らないだろう」。つまり、吉岡方は、またまた武蔵は遅参戦術をとるだろうから、まだ現れるはずはないと、油断している。武蔵の敵の裏をかくという戦術は当ったというわけである。流派内伝説というより、これは大衆向けの講釈である。
 ところで、吉岡の門弟の数がここでは「数十人」となっていて、これは『武公伝』前段の「洛外下り松のあたりに集合し、かの門生数百人、兵仗弓箭をもって武公を殺害しようとした」とあるのと数が一桁違っている。これは、『二天記』作者の景英が、この記事を書いたという指標である。
 『武公伝』の武蔵は語る。――そのとき、おれは突如として起って、彼らに向い、「武蔵は待っていたぞ」と大声で声をかけた。「呼フ」は「呼ばう」で、声をかけるの意。戦闘開始に当って、まずは声をかけるのである。声をかけないのは闇討ちである。武蔵を待つつもりが、武蔵が待っていた、というので、敵は不意をつかれて混乱するという次第。
 頭目の吉岡又七郎は、武蔵の予期せざる出現に驚いて、刀をまっしぐらに切りかける。おれは、又七郎が斬ってくるところを、下から突きあげる。又七郎はひるみながら切りつける。それを乗りかわって、つまり体勢を入れ替えて、一撃で斬り殺した。
 又七郎を斬られて、数十人の吉岡門徒らは全員、すかさず抜刀して切りかかってくる。あるいは半弓で矢を射る。一本の矢がおれの袖に当った。おれが突進して追い崩すと、彼らは狼狽して縦横に逃げ去った。そうして、ついに完全な勝利を得たのだ――。
 以上が『武公伝』の武蔵が語る戦闘シーンである。見て来たような具体的な場面叙述だが、本人が言うのだから間違いない、などと言うなかれ。これは、あくまでも、武蔵に一人称で語らせた講談噺なのである。
 『武公伝』は、武蔵が吉岡又七郎を斬殺したシーンに割注して、刀は大原の真守、三尺余の大刀であるという。つまり、吉岡又七郎を斬殺した太刀の解説である。大原真守〔さねもり〕は平安時代の伯耆の刀匠、伯耆安綱の子とされる。大原真守は今日では国重文もある名刀である。
 しかも『武公伝』は、後出の記事にみるごとく、吉岡又七郎を斬殺したこの「大原真守」を武蔵が沢村宇右衛門友好に贈与したという話を伝える。すると、武蔵がこの「大原真守」を、少なくとも二十一歳のとき以来四十年以上もずっと所有していて、晩年肥後時代まで保持していたことになる。つまり、そこで、だれしも「?」となるのである。
 すなわち、第三の決闘に関する『武公伝』のこの説話は、どうやら、武蔵佩刀の大原真守にまつわる伝説だったのである。
 『武公伝』の後出記事によれば、この刀には何かと奇瑞あって、神霊ありとされ、注連縄を張って護持されたという刀なのである。ならば、この神霊的刀剣はただではすまない。武蔵の特別な道具である。そういうわけで、この沢村家伝来の刀剣は、いつのまにか、武蔵のキャリアにおいて重要な意義を有する対吉岡戦と結びつけられ、吉岡又七郎を斬った刀だという、かような伝説発生をみた、というのがその筋道であろう。
 『武公伝』において、吉岡清十郎や伝七郎との対戦記事は、さして独自な内容をもたないのに、どうして、又七郎相手のこの第三の対戦がかくも具体的内容を増殖せしめているのか、それが判明する。すなわち、武蔵佩刀の大原真守にまつわる伝説として、これが別に独立して存在していたということなのである。
 したがって、道家角左衛門が武蔵から聞いたという『武公伝』の枠組は、それ自体の信憑性を喪失する。『二天記』は、『武公伝』のように道家角左衛門という話の出所を記さない。それはもうどうでもよくなって、『二天記』では武蔵伝記は純粋に伝説過程を歩みはじめたのである。なるほど、《又七郎ヲ眞二ツニ斬殺シ》などという『二天記』の武蔵の語りは、『武公伝』の段階よりますます講談調を示すようになっている。景英は『二天記』では、もはや『武公伝』本来の制約から解放されているのである。  Go Back









一乗寺下り松
京都市左京区一乗寺花ノ木町
















*【武公伝】
《武公所持ノ大原直守作ノ刀、澤村故宇右衛門殿友好ニ贈ラル。今ニ澤村家ノ重宝トナレリ。長サ三尺餘在ト也。二代宇右衛門殿ノ時、何與奇瑞ノコトアリシヨリ、神霊アリトテ、常ニ筥ニ納メ注連ヲ張、ミダリニ指料ニセラレザル由。當時參尺餘ノ刀ヲ指コナス人モ亦稀也。至極スルト〔鋭〕ニ見事ナル刀ノ由》






*【二天記】
《夜未明、寂々トシテ松陰ニ彳ム。暫ク有テ、又七郎數十人ヲ引率シ、燈ヲ提テ來リ云、「定メテ武藏又遅々シテ、期ニ後レンコト、必セリ」トテ、松根ニ近ヅク時、「武藏、待得タリ」ト高聲ニ呼テ、大勢ノ中ニ切リ入ル。又七郎駭キ、同(ク)拔合ントスル處ヲ、又七郎ヲ眞二ツニ斬殺シ、徒黨ノ者共、周章切懸ル。或ハ鎗ヲ以テ突キ懸リ、半弓ニテ射ル。其ノ内矢一筋我袖ニ留ルノミニテ、幸ニ疵ヲ蒙ラズ。我前後左右ノ者ドモヲ斬崩シ、追立レバ、大勢崩タル息(ニ)踏留ル者モ無ク、狼狽シ、竟ニ我全勝ヲ得タリ》
 
 (7)武公自誓ノ書ノ中ニ
 ここは、この一段の総括の部分である。「かの神前のこと」というのは、この決闘現場に向かう途中の八幡社で、ついつい神憑みしたくなったという一件である。
 これについて、『武公伝』の武蔵は、いわゆる「莅事不變心」〔事にのぞみて心を変えざる〕ことは、本当に難しいことだ、と語ったとのことである。これで、この一段の主題が要約されている。
 ところが、改めていえば、これは、日ごろ神仏を信仰しない者でも、窮地に立つと神憑みしたくなる、という世間によくある話なのである。およそありふれたことで、とくに武蔵に帰すべき特別なことではない。話は、誰しも窮地に立つと神憑みしたくなるところを、さすがに武蔵はその依存傾向への誘惑を切断した、ということ以上の内容ではない。
 したがって、よく言えば、わかりやすい話、悪く云えば、通俗凡庸な話である。こういう説話特徴からすれば、これは武蔵末流の兵法講話の中で形成された教訓譚であろう。つまり、道家角右衛門が講話するうちに、これがいつのまにか武蔵直話のスタイルに変身してしまった。豊田正剛が話を聞いた頃には、それがすでに出来上がっていたのである。
 ところが、そのままでは終らず、この教訓譚が、上記の大原真守の太刀にまつわる伝説と結合した。その結合操作をして増補したのは、ようするに豊田景英である。祖父の正剛による最初の段階の手稿にあったのは、道家角右衛門が聞いたという、八幡社頭で思いとどまったという「莅事不變心」という教訓譚のみであっただろう。
 『武公伝』の記事はつづいて、注記している。それは、武公自誓の書の中に、「仏神は尊し、仏神をたのまず」とある、この武公の話は、寛永十七、八年から正保一、二年のことであろう――ということである。
 「仏神は尊いが、仏神をたのまず」、これはいわゆる武蔵自誓書(独行道)にある文言である。この武蔵自誓書の文言は有名であったらしく、おそらく肥後の武蔵流末の兵法講話の中で講釈されていたのであろう。むろん、『武公伝』後出記事にあるように、この自誓書は何と豊田家にあるという。したがって、『武公伝』にことさら、自誓書云々が強調されているわけである。
 この記事の注記に、武蔵から道家角右衛門が聞いたこの話は、寛永十七、八年から正保一、二年のことであろう、と推測しているが、これは後智恵である。その期間は武蔵の肥後滞在の全幅(1640〜45年)であり、ようするに、時期を特定するものではない。武蔵が晩年の肥後時代に語った、という以上の情報ではないから、まったく無内容な追記である。これは道家角右衛門が聞いた話で、その時期はこうだ、ということを記して、著者は、より事実性を強調したかったのかもしれない。
 これは、正脩によるものであろう。『二天記』では、この時期特定が無内容と反省したか、これを削って、その代りに、大原真守がいま沢村家にあると記入している。このことからすれば、景英は『武公伝』では割註して書いたのを改めて、ここへ移したということである。
 この段の説話は、半分以上が大原真守の刀にまつわる伝説であり、それが道家角右衛門の説話本体と混合されたということである。いま、改めてその説話構成を示せば、以下のようになろう。














*【自誓書】(21ヶ条版)
一、世々の道をそむく事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに依枯の心なし
一、身をあさく思、世をふかく思ふ
一、一生の間よくしん思わず
一、我事において後悔をせず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いずれの道にもわかれをかなしまず
一、自他共にうらみかこつ心なし
一、れんぼの道思いよる心なし
一、物毎にすきこのむ事なし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、身ひとつに美食をこのまず
一、末々代物なる古き道具を所持せず
一、わが身にいたり物いみする事なし
一、兵具は格別よの道具たしなまず
一、道においては死をいとわず思う
一、老身に財宝所領もちゆる心なし
一、仏神は貴し仏神をたのまず
一、身を捨て名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず




*【二天記】
《武藏自誓ノ書ノ中ニ、佛~ハ尊シ佛~ヲ不頼トアリ。猶奥ニ出ス。此ノ時帯セシ刀、三尺餘。大原眞守ノ作。今澤村家ニ傳レリ》
説話本体(道家角左衛門の咄) 増補説話(大原真守刀関連)
道家平蔵宗成ノ父、角左衛門ハ武公ノ直弟也。角左衛門曰、武公徒然ノ打話ニ云、事ニ莅テ心ヲ不變事、實ニ難シ。我先年吉岡又七郎ト、洛外下リ松ニ會シテ勝負ヲ決セント約ス。
 
 
我門弟等皆云、「又七郎、公ヲ以テ父叔ノ仇也トス。定テ清十良以來之門弟大勢ヲ率ヒ來リ、挾撃テ冤ヲ報ゼントスル事、必セリ。公ハ是就死地者也、誠ニ危矣。請フ願クハ各相從テ拒之」。武公云、「不然。我生等數輩ヲ率ヒ出テ、戰闘ニ及ブ時ハ、則チ是徒黨ヲ結ンデ戰ヲ催スナリ。惟公義ノ固ク禁止スル所ノ號令ナリ。不可有不慎也。若一人モ慕來ル者アラバ、却テ我ヲ罪科ニ陥ルニ非ヤ。憶ニ渠レガ戰術何ゾ懼ニ足ン。嚮ニ彼ガ父清十良及叔傳七郎ニ會スルヤ、我其期ニ後レ凝滞シテ勝之。這囲ハ可反之」ト。
鶏鳴ニ獨歩シテ洛ヲ出。路ニ八幡ノ社前ヲ経、憶「我幸ニ不圖トシテ神前ニ來レリ。當祈勝利」ト、及詣社壇、恭テ鰐口ノ紐ヲ執テ將ニ打鳴サントス。忽チ思フ、「我常ニ佛~ヲモ不信仰、而今此難ヲ憚テ頻ニ敬祷ス。神夫受ヤ、吁怯矣」。即チ其ノ紐ヲ措テ、孜々トシテ下壇、慙愧汗流レテ踵ニ至ル。
 
 
直ニ駆テ到下松。夜未曙、寂々トシテ松陰ニ佇ム。少焉テ、又七郎門弟數十人ヲ將ヒ提燈、來リ行々言フ。「定テ知ンヌ、彼レ又遅々トシテ約ヲ脱セン」ト。時ニ我忽爾トシテ起テ迎ヒ、「武藏待得タリ」ト高声ニ呼フ。又七郎駭テ、刀ヲ眞シグラニ切ル。我又七良ガ斬處ヲ下ヨリ中リ上ルニ、又七良ヒルミナガラ切附ルヲ、乘替ツテ一撃ニ斬弑ス[刀ハ大原ノ眞守三尺餘ノ大刀也]。門徒等スカサズ拔連テ切テカヽル。或ハ半弓ヲ以射矢、一筋ワガ袖ニトマル。我進ンデ追崩スニ、狼狽シ縱横ニ走散ス。竟ニ全勝ヲ得タリ。
彼ノ~前ノコトヲ思ニ、所謂莅事不變心コト實ニ難シトナリ。
 
 これに明らかなように、説話本体は限られた部分にすぎない。しかし、本体として抽出した部分だけで十分独立した説話になる。それは正脩が、父正剛の手稿から採取して書いたものであろう。これに対し、右側は景英による増補部分である。
 増補部分は二つに分かれるが、一つは武蔵が門弟の戦闘参加を却下する話、二つめが、決闘シーンである。この二つを接合するのが、遅参戦術云々の逸話である。本来は一つの説話だったであろう。ただし、道家角左衛門の咄と混合させたとき、説話本体に合わせて文体を変えて、直話風にしたものと思われる。
 さて、このような操作は、『二天記』作者の景英によるものである。すでにみたように、前条の対吉岡戦記事は、正脩の手になるもので、吉岡一族の続柄を設定するほかは、さして新味はない。しかし、この段の増補説話はそれとはまったく違ったもので、具体的な説話になっている。もし、こちらも正脩が書いたとみれば、記事の重複もあって、それはまずありえない。したがって、これは正脩のあずかり知らぬところで、景英の作文なのである。
 つまりは、武蔵が門弟の戦闘参加を却下する話、遅参戦術云々の話、そして決闘現場の話、これら3つからなる話を、景英は新たに仕入れたが、重複させないとすれば、その置き場がない。そこで、豊田正剛の聞書手稿にあった、「莅事不変心」(事にのぞんで心を変えない)というテーマの話と、これを混合して一つの話にしてしまったのである。
 しかし、この混合は無理だったようで、「莅事不変心」なるテーマが霞んでしまっている。これは重複しても、別立てにしたほうがよかったのであり、景英は少し余計なことをしてしまったのである。





宮本吉岡決闘地碑
京都市左京区一乗寺花ノ木町

 この段の分析は以上であるが、この部分に関連して述べておきたいことがある。
 すでに述べたように、『武公伝』は、武蔵が対戦した吉岡一門の者たちの続柄を提示している。つまり、吉岡庄左衛門の嫡子が吉岡清十郎、伝七郎は清十郎の弟、又七郎は清十郎の息子、という具合である。こうした続柄設定は、肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』に特徴的なものだが、既述のように、こういう続柄設定は、小倉碑文はじめ他の史料、たとえば筑前系の『丹治峯均筆記』にはなく、後世肥後で発生した伝説である。
 もうひとつは、武蔵が吉岡又七郎を斬殺したという『武公伝』の話で、これも小倉碑文はじめ他の史料にはない話であり、明らかに肥後で後世になって生じた伝説である。
 しかるに、こういう肥後系武蔵伝記を信じた説が近代になって出てきたところから、話は混乱してきた。つまり、第3の決闘で吉岡又七郎が一門の頭目となったのであるが、その又七郎が清十郎の子だという設定から、又七郎は少年、あるいは、年端もいかない児童だとイメージされるようになった。そうなってしまえば、たとえば直木三十五の右掲ような道徳的非難が生じるわけである。つまり、少年を虐殺するような武蔵は残忍な男だと。
 直木が読んだ「武蔵伝」とは宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』(明治四十二年)のことである。この明治末の武蔵伝記は、主として肥後系の『二天記』の伝説をもとにあれこれ潤色しつつ書かれている。直木は「武蔵伝」というから、武蔵を槍玉にあげるにさいし、恰好の攻撃材料をこの少年斬殺シーンに見出したのである。
 ところが、その顕彰会本には、直木の云うような「僅か十七歳」「少年」「幼少」などという年齢記述はない。あるのは、『二天記』によって「清十郎の子、又七郎」とする文言のみである。顕彰会本にないとすれば、これは直木の頭から発生した妄想であって、又七郎が清十郎の子というなら、彼は少年に違いないと思い込んだのである。
 小説書きというものは、時折こんな思い込みで間違いをやらかすのだが、それが大衆文芸である以上、世間に対する影響は大きい。巷間流布されたかようなイメージが、それが他の作家等によって繰り返し書かれて、いつの間にか、それが動かせぬ事実であるかのような錯覚に陥る。
 たとえば戦後の司馬遼太郎の武蔵小説(『宮本武蔵』)も、この直木の妄想(少年又七郎)をそっくり頂戴して反復している。しかも司馬武蔵になると、又七郎は少年どころか、「幼童」である。話はますます極端になって行く。司馬によれば、その幼童がおどろいたとき、その首は天にむかって飛んだ、ということらしいが、もちろんそんな話は、『二天記』は申すまでもなく、明治の顕彰会本にもない。むしろ顕彰会本は、真二つに斬殺したと、『二天記』の文言に忠実である。
 ようするに、その話がデタラメであっても、小説書きはこれはフィクションだという居直ることができる。読者にしても、それが事実だと思って読む阿呆はまず少ない。ようするに娯楽なのである。だから、いちいち目くじらを立てる必要はないのだが、それを承知で、無粋ながら、誤謬は誤謬、妄説は妄説として、世間に注意を喚起しておく必要はあろう。
 直木・司馬の路線では、まず直木が、又七郎を少年に仕立てて、こんな少年を殺したといって道徳的な非難をする。戦後の司馬になると、直木が少年に仕立てた又七郎を、もっと幼い児童にしてしまい、武蔵がこの幼童の首をすっ飛ばしたことにする。司馬は、道徳的非難をする直木ほどナイーヴではないが、武蔵の戦略戦術の残忍無情さを強調するという具合である。
 どのみち作家の妄想は自由なのだが、吉岡又七郎が少年あるいは幼童だという設定がなければ、こういう武蔵像は描けない。しかし、吉岡又七郎が少年あるいは幼童だという設定が、そもそも根拠のない話だとすれば、直木や司馬のこんな武蔵像には何の意味も必然もないのである。
 しかも、直木や司馬は、『二天記』しか知らず、武蔵が吉岡又七郎を斬殺したというこの話が、後世肥後で発生した伝説であることは知らない。もとより、小説書きにそこまでの探求考証を要求することはできない。ただ、これまでの武蔵研究が杜撰であったため、こういう頓珍漢な武蔵小説を野放しにしてしまった、という責任はあろう。
 ともあれ、『武公伝』の吉岡又七郎記事から発してのことで、以上のような蛇足の論を追加したのは、たんに武蔵小説の惨状を看過できないという理由からである。しかし、唖然とするほどもっとお粗末なのは、小説ではなく武蔵評伝に、直木や司馬のような小説家の口真似をするものがあることだ。それらは埒もないタワ言にすぎないが、やはり看過できない悪しき傾向であり、これを機会に諸氏に注意を喚起しておきたい。  Go Back






*【直木三十五】
《武蔵伝に伝えられている如くならば、吉岡家の兄弟三人と試合をして、僅か、十七歳の少年を討ちとり、遂に、吉岡家を断絶させたなど、残忍極まる話である。兄弟二人を討つなら、わかっているが、幼少の又七郎を討ったとて、少しも武蔵の勇武に、価値を加えるものではない。それに、この少年を討って、吉岡家を断絶させる義も情もない、と云われても、弁解の辞はあるまいとおもう》(「上泉信綱と宮本武蔵」『文藝春秋』昭和7年12月号)

*【顕彰会本宮本武蔵】
《吉岡家にては重ね重ねの不首尾を、いかに悔しとおもひけむ、門弟等相集り議して、清十郎の子、又七郎といふを押し立てゝ、更に武藏に向ひ、洛の東北一乗寺藪の郷下り松のほとりにて試合せむことを申込みぬ、(中略)夜いまだ明けず、四方寂々たり、依て松蔭に暫く休らひて待つ處に、又七郎案のごとく門弟數十人を率ゐ、提燈を照らし歩み來りつゝ打笑ひながら、武藏は此度も亦遲れて來るべし、心にくき彼の松蔭、いざやいこはむなといふいふ近づき來るを、武藏やあ又七郎待ちかねたりと大聲にいひざま、大勢の中に割つて入る、又七郎驚きあはてゝ、拔き合せむとする處を、眞二つに斬殺す》

*【司馬遼太郎】
《さきの当主清十郎の子に又七郎という者がいる。まだ幼童である。これに腹巻、陣羽織を着せ、采を持たせ、これを仇討名目人として繰りだしてゆく。従う一族・門人は百人内外であった。打物は太刀だけでなく、槍、薙刀、鉄砲組、弓組までつくった。(中略)剣は、鍔先三尺八分という、この長身の男にふさわしい大大刀であった。かれは幼童の前に立ちはだかり、小声で、/「吉岡どの、遅かった、すでに先刻から待っていた。自分は武蔵である」/幼童がおどろいたとき、その首は天にむかって飛んだ。(中略)その将がたとえ幼童でも、吉岡の一軍が将と仰いでいるかぎり将である。将を斬れば戦いは勝ちというのが古来の法であるかぎり、武蔵の論理にくるいはない。/無能ほどむざんなものはないであろう。吉岡方はむしろ武蔵のために懸命のお膳だてをしたようなものであり、武蔵はその武略をもって事実がそのように変質するようつとめた。ただの兵法使いではない。》(『宮本武蔵』昭和四十二年週刊朝日連載)



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