宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   8  Back   Next 

 
  24 武蔵の位牌
一 熊本鍛冶家〔屋〕町ニ養壽院ニ予詣ケルニ、武公ノイハイ〔位牌〕在。爰ニ記。
 
兵法二天一流元祖
新免武藏藤原玄信二天道樂先生 神儀
正保二[乙酉]天五月十九日 (1)
 
兵法二天一流二代
新免辨得居士源信森先生
元禄十四年[辛巳]七月廿五日
 
右ハ熊府鍛冶屋町養壽院ニアリ。(2)

一 熊本鍛冶家〔屋〕町で養寿院に私が詣でたところ、武公の位牌があった。ここに記す。
 
兵法二天一流祖
新免武蔵藤原玄信二天道楽先生 神儀
正保二年(1645)五月十九日
 
兵法二天一流二代
新免辨得居士源信森先生
元禄十四年(1701)七月二十五日
 
右は熊本鍛冶屋町養寿院にあり。

  【評 注】
 
 (1)武公ノイハイ在
 武蔵の位牌が、熊本鍛冶屋町の養寿院にあったという話である。「熊本鍛冶屋町」とわざわざ「熊本」というのは、『武公伝』の記述のポジションが八代にあるからである。筆者は八代から熊本へ行ったおり、養寿院という寺院を訪ねて、そこで武蔵の位牌に対面したというわけである。
 この養寿院は寺尾家の菩提寺であったようだが、その所在はどうか。これを探ってみる。
 その養寿院という寺院は現存しない。また、『武公伝』の記事によって、「鍛冶屋町」の養寿院とあるのをたよりに古絵図で探してみても、見当はずれである。たしかに鍛冶屋町の通りがある古町ゾーンは寺院が並ぶ区域だが、鍛冶屋町にあるのは往生院であって、養寿院ではない。
 これとは別に、寺尾家記に、寺尾藤次玄高(享保十六年歿)を宝町養寿院に葬るとあるから、養寿院は山崎の「宝町」にあったらしい。しかし山崎の宝町そのものは、通り丁の町屋整理で、寛永二十年頃白川対岸へ移って迎宝町。したがって、「鍛冶屋町養寿院」と同じく「宝町養寿院」では場所を特定できない。このあたりにあったのだろうと言えるだけである。
 そこで、考えなおして、寺尾家菩提寺というからには、寺尾求馬助の屋敷に近いはずとすれば、まず寺尾求馬助の屋敷の所在地をつきとめることから始めるとよかろう。ところが、寺尾求馬助の屋敷がどこにあったか、そんなことはこれまで誰も示した者がいない。
 というわけで、仕方がないのでそれを探したところ、高田原之絵図(万治寛文頃・一六六〇年前後)に「寺尾求馬」という名を記した屋敷が確認できた。これによれば、右掲図のように高田原のゾーンのほぼ真中に寺尾求馬助の屋敷がある。そうして、同図で養寿院を探すと、高田原の南西端、白川端にそれがある。城外居館・御花畑につづく馬場の南端に近いあたり。

高田原之絵図 熊本県立図書館蔵
養寿院周辺

 養寿院前の町屋の通りは新鍛治屋町といったらしく、とすれば、『武公伝』のいう「鍛冶屋町」は、実はこの新鍛治屋町を指して言ったものらしい。また寺尾求馬助生前に養寿院は高田原にあるから、寺尾家記の「宝町養寿院」では不都合のようだが、これは旧町名が残ったのかもしれない。かくして、養寿院の場所は、現在地名で云うと、熊本市紺屋今町の交差点あたりということになる。
 『武公伝』は、その養寿院に武蔵の位牌があるとして、その銘を記録している。「兵法二天一流祖」とあるから、これは二天一流末孫が作って奉じたもののようである。位牌銘は、
    「新免武藏藤原玄信二天道樂先生神儀」
とあって、やけに大層な銘である。これは神仏習合の位牌であるが、「神儀」は霊位の一つで、尊儀・台霊・神儀などは皇族貴族諸侯の位牌にみられる。したがって、新免武蔵守という職名を誤解した武蔵流末孫が、霊位を神儀格にしたようである。他例を挙げれば、前出の塩田清勝先生石塔銘である。そこには、
    「新免武藏玄信二天一流道樂先生~祇」
とあって、銘文中武蔵は「武蔵神祇」と呼ばれている。このように「神祇」となると、神道系霊位ともみえるが、とくにそうとは限らず、やはり「神儀」と同様のものらしい。
 しかし武蔵の「神儀」は、家康の「東照大権現神儀」などという事例からすれば神儀がディスカウントされるようになった時代の代物である。位牌は後世作製のものが多いが、武蔵のケースでもそれは同じことで、現存の武蔵位牌なるものはすべて後世の作物である。










*【寺尾家記】
《寺尾藤次玄高 慶安三年庚寅年生る。母柿迫f右衛門女。享保十六辛亥年八月十九日歿、年八十二。法號自照院大徹無樂居士、寶町養壽院に葬る》

高田原之絵図 熊本県立図書館蔵
寺尾求馬助屋敷と養寿院の位置


養寿院比定地


*【塩田清勝先生石塔銘】
《鹽田濱助藤原清勝先生、號松齋、播州之産也。爲人果毅雄俊、廉潔正直也。游新免武藏玄信二天一流道樂先生~祇之門、而學其父日下無双兵術者宮本無二齋信綱君捕縛之道、鍛之錬之、未至精妙焉。於是武藏~祇、責清勝先生曰、後昆透得此道者可慕我而來也。儻不悟妙旨。假令雖歴生涯乎、勘當絶師弟之道耳。機輪轉處、達者猶迷、清勝先生謝師命去矣》
 戦前まで、これが武蔵の位牌だ、というものがあった。戦災で焼失して現存しないが、それが熊本の泰巌寺にあった。泰巌寺は、養寿院の当時でいうと、養寿院の東にあった安養寺の位置にある寺院である(現・熊本市下通二丁目)。養寿院が廃され安養寺に合併されたが、明治維新後、その安養寺も廃されて、その跡へ八代の泰巌寺が遷ってきたというのが、その後の変遷である。このあたりの寺院に異動があったのである。
 その泰巌寺にあったという武蔵位牌は現存しないが、さいわい大正期の位牌写真(宮本武蔵遺墨集所収)がある。それを見るに、上部に陰輪の紋のような円寂印を記し、その下に、「兵法二天一流元祖」「新免武藏藤原玄信二天道樂先生之神儀」と記し、そして命日を、右に「正保二[乙酉]天」、左に「五月十有九日」と記すものである。
 ただし、この位牌の場合、「兵法二天一流元祖」の文字配置が悪く、いかにも後で記入したようにみえる。それを云えば、当初は「兵法二天一流元祖」のタイトルはなかったが、後でそれを無理やり記入したために、レイアウト上バランスを欠くものになったようである。
 さて、『武公伝』の位牌記事と、戦前まで泰巌寺にあったという位牌を付き合わせてみれば、下記の通りである。

 【武公伝記載位牌銘】
 
     兵法二天一流元祖
     新免武藏藤原玄信二天道樂先生 神儀
     正保二[乙酉]天五月十九日
 【泰巌寺旧蔵位牌銘】
 
    兵法二天一流元祖  正保二[乙酉]天
     新免武藏藤原玄信二天道樂先生之神儀
              五月十有九日

 位牌銘だけをみるに、両者の間には差異のあることが知れる。泰巌寺旧蔵位牌の、五月十「有」九日という命日記載を見るに、『武公伝』の記事にある位牌とは少し違っていて、後世の製作にかかるものとみなしうる。明治の『肥後先哲偉蹟』には、養寿院にあったのを、そのまま伝来したように書いているが、おそらくは、養寿院が廃されるかどうかして、行方不明になっていたのを、新しくつくり直して、安養寺に納めたということであろう。
 泰巌寺旧蔵位牌には、中央上部に陰輪の紋があり、『武公伝』にはその記載はない。この紋は、武蔵の家紋ではない。新免氏なら三つ巴紋だが、これはそうではない。むしろ家紋の陰輪紋というより、一般的な円寂印である。旧弓削村の武蔵塚(現・熊本市龍田弓削)に建つ「新免武蔵居士石塔」には、頭冠部に大きくこの陰輪紋=円寂印が刻まれている。武蔵塚のこの石塔の建立時期は不明だが、すでにその段階では、この様式が生まれていたということである。
 以上要するに、『武公伝』の記事にある位牌と、泰巌寺旧蔵位牌とを同一のものだとみなすことはできない。通説と違って、両者は別の物と見るのが妥当なところであろう。

 なお、『武公伝』の位牌名号には「二天道楽先生」とある。また、前記の塩田清勝先生石塔銘では「二天一流道樂先生~祇」とある。どちらも「道楽先生」である。十八世紀の中後期には、武蔵は「道楽先生」になっていたようである。
 これに対し、武蔵養子の宮本伊織が、武蔵死後10年忌に、小倉に建てた武蔵碑の銘は「二天居士」である。居士号は禅宗系の法号である。ところが、旧弓削村武蔵塚に建つ碑の銘は「新免武蔵居士石塔」である。居士号を記すなら、小倉の武蔵碑のように「二天居士」としなければならないから、この武蔵塚石塔の碑銘は規矩正しいものとは云えない。これも後世の建立になることを証言するしるしである。しかも、一般にこれを武蔵の墓と伝えるが、これは「新免武蔵居士石塔」という銘の示すごとく、武蔵記念碑の類である。誤認伝説がいまだに生きているという事例である。
   (小倉碑文) 新免武藏玄信二天居士碑
   (武蔵塚)  新免武藏居士石塔
   (養寿院位牌) 新免武藏藤原玄信二天道樂先生神儀
   (塩田石塔銘) 新免武藏玄信二天一流道樂先生~祇
 これらの諸段階を整理していえば、武蔵塚の石塔銘では、すでに「二天居士」の本義があやしくなってしまった段階である。「武蔵」は居士号ではないのに、「武蔵居士」と記すからである。そしてここは陰輪紋=円相紋を頂戴している。つぎに、『武公伝』の武蔵位牌記事をみるに、そこでは、すでに法号としての居士号を記さない。その代わりに「神儀」という霊位をもって位牌銘としている。しかも「二天道楽先生」とあって、居士号は完全に撤去されているのである。
 これは天明期の塩田清勝先生石塔銘においても同じ、「道楽先生」は「神祇」という霊位とセットになっている。神儀・神祇系統の霊位をもつものに「道楽先生」の号があったとすると、これは仏教的というよりも、儒教的な思想が滲透した後の先生祭式なのである。言い換えれば、『武公伝』が採取した「二天道楽」も仏式の居士号ではなく、儒教的な祖先祭祀の影響を蒙った名号と云えよう。
 そういう局面からすると、小倉碑文に「二天居士」とあったものが、肥後系武蔵伝記の小倉碑文引用文において、「二天道楽居士」に変化しているのも、原因のあることである。ようするに、武蔵の号が「二天道楽」だと思い込んだ世代のものであるのだが、これは「道楽先生」が出てきてからの誤写であろうから、十八世紀半ばを遡るものではあるまい。
 こうしてみると、「二天道楽先生」という名と「神儀」という霊位のある『武公伝』記載の位牌は、国学が滲透した後のかなり新しいスタイルである。おそらく、次にみる新免弁助の位牌とともに作られたものであろう。
 もっとも、「道楽」号そのものは武蔵が用いていた可能性もある。たとえば、有名な書「戦氣」(松井文庫蔵)には、二天朱印と「道楽」の落款がある。また、大正期の『宮本武蔵遺墨集』(森大狂編)に記載された写真を見るに、寺尾家旧蔵の別の書「戦氣」があって、そこには「二天道楽」の落款が記されている。
 しかし後出記事に関連して述べられるであろうが、松井文庫蔵「戦氣」のばあい、二天朱印は別にして、その落款「道楽」は後入れである。またとくに後者の寺尾家旧蔵「戦氣」は、書そのものが贋作のようで、「二天道楽」の落款と香炉形印章もその折に入ったものである。とすれば、こうした落款に関する限り、武蔵自身が「道楽」または「二天道楽」の号を用いたという可能性は霧散消滅する。
 書「戦氣」は、後出記事にみるように、豊田家にも所持されていたらしい。ただし落款印章の記録はない。書「戦氣」の落款のような「道楽」「二天道楽」は、武蔵位牌に「道楽先生神儀」が記された後の発生であろう。つまりこれは十八世紀後半の流行なのである。言い換えれば、武蔵は、十八世紀中期に「道楽先生」として再発見されたのである。  Go Back



宮本武蔵遺墨集所収
泰巌寺旧蔵武蔵位牌





武蔵塚 新免武蔵居士石塔







小倉武蔵碑 墓誌部分拓本

*【小倉碑文】
《兵法天下無雙 播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑》







松井文庫蔵 宮本武蔵遺墨集
戦氣 印章落款
左;松井文庫蔵 右:寺尾家旧蔵

 
 (2)兵法二天一流二代 新免辨得居士源信森先生
 ここで『武公伝』はもう一つの記事を記している。「兵法二天一流二代 新免辨得居士源信森先生」とあるから、これは元禄十四年に三十六歳で歿した新免弁助信盛(1666〜1701)のことである。これを武蔵のそれに並べて記録しているのである。ただし、武蔵の位牌と違って、「神儀」という霊位が付かない。大きな差別であるというよりも、後に述べるように、これは位牌記事ではないのである。
 さて、この新免弁助は、寺尾求馬助の四男である。弁助は武蔵の新免氏を嗣いだので、新免姓を名のった。寺尾家記によれば、弁助は、父・求馬助信行を師として、当流の奧旨を究め、武蔵の姓を継ぎ、新免と称したとある。そこに割註して、武蔵かつて曰く、「当流に達し、直通の境に至る者があれば、おれの姓(新免)を継げばよい」と。そう武蔵から言われていたので、求馬助は、息子の弁助が新免姓を継ぐのをゆるした、というような話である。
 これは寺尾求馬助系統の伝説であろう。武蔵が求馬助にそんなことを言ったかどうか、また、求馬助がこの一件に関与したか否か、それは不明である。しかし、慥かなのは、求馬助は武蔵から新免姓を継ぐことを許されなかったことである。そして、息子の弁助が武蔵の名跡新免氏を襲ったのは事実である。父の求馬助からそんな話を聞かされていたよと、弁助が言っていたということかもしれない。この件は後世のことなので、もちろん、武蔵自身はこの新免姓継承については何も関与していない。
 興味深いことに、『武公伝』作者が見た位牌には、新免弁助を「兵法二天一流二代」と記している。武蔵が兵法二天一流祖で、新免弁助がその第二代だというわけである。いささか奇体なことである。これはどういうことであろうか。

 新免弁助は寺尾求馬助の息子で、武蔵死後二十年以上経って生まれた。弁助は、求馬助の教えを受けたことはあっても、武蔵から面授されたわけではない。だから、武蔵流二代目を称するのは、そのままでは明白な虚偽行為になる。
 しかしながら、無嗣、つまり跡継ぎのないまま死んだ新免無二の家を、武蔵がその後相続して再興したという例がある。このかぎりにおいて、武蔵は無二の兵法の家を継いだ二代目である。無二→武蔵のケースでは、武蔵は無二の生前生まれているが、武蔵は無二に直接会っていない可能性がある。それゆえ、求馬助が弁助に武蔵の新免姓を継がせたというのは、そんな武蔵の先例に倣ったものかもしれない。
 ところが、それは家名継承の話であって、兵法師資相伝のケースでは面授は必須である。しかも、武蔵から直接教えを受けた父の寺尾求馬助がいるのだから、「兵法二天一流二代」というのは、かなり無理な話である。兵法は三代目だが、家名は新免氏二代目、というのが実際であるが、ここには意図的な混同があるようだ。
 熊本西郊・旧飽田郡島崎村の霊樹菴寺尾家墓所(現・熊本市島崎)には、新免弁助(即法辨得居士)の墓もあるが、それは通例の墓碑であって、とくに「兵法二天一流二代」という記載はない。また寺尾求馬助(妙音信行居士)の墓碑も同様である。
 もう一つの寺尾家墓所が、三角半島の旧宇土郡中村の八久保(現・熊本県宇城市三角町中村)にあって、これは島崎村の寺尾家墓所とは違って、知行地に設けた旧墓であろう。寺尾求馬助はこのあたりに知行地を与えられ、屋敷もあってここに住んだらしい。
 宇土半島の墓所は、石打ダム建設工事(一九七九〜九二年)で水底に沈むことになったが、墓地と墓石群は移設され残っている。こちらにも、寺尾求馬助や新免弁助の墓がある。新免弁助(即法辨得居士)の墓には、「信之四男新免弁助信盛」と俗名記載あるが、これもとくに「兵法二天一流二代」とは記さない。これに対し、寺尾求馬助(妙音信行大居士)の墓には、「二天流兵法二代」と刻んでいる。


*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助 勝永 ─┐
 ┌───────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之丞 信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛─┐
 ┌───────────┘
 ├佐助 信形 ―助左衛門 勝春
 |
 ├新助 信景
 |
 ├藤次 玄高 ―半兵衛 志方之経
 |
 ├弁助 信盛 後改新免
 |
 ├加賀助 勝明
 |
 └郷右衛門 勝行


*【寺尾家記】
《新免辨助信盛[求馬助四男]、父信行を師として當流奧旨を究め、武藏姓を繼ぎ、新免と稱す[武藏嘗曰、當流に達し直通の境に至る者あらば、吾姓を繼ぐべしと。而して信行之を免せり]。當流師役となる[上命なり]》



*【二天一流系統図】

○新免武蔵藤原玄信─┐
 ┌────────┘
 ├寺尾孫之丞勝信 夢世 →
 |
 ├寺尾求馬助信行 →
 |
 └新免弁助信盛┬志方半兵衛之経
        |
        └村上平内正雄



元禄国絵図
関係墓所地図


八久保寺尾家墓所 
熊本県宇城市三角町中村

八久保寺尾家墓所
寺尾求馬助墓
「二天流兵法二代」妙音信行大居士

 この求馬助の墓は、碑銘によれば寛政四年(1792)の建立であり、かなり後のもので、早期とは言えない。明らかに『武公伝』の新免弁助位牌記事より後のものである。この段階では、新免弁助ではなく、その父・寺尾求馬助が「二天流兵法二代」だという認識は、寺尾子孫にあったということを証言している。新免弁助死後その新免家が断絶したということもあって、弁助の事跡伝承が稀薄になったのであろうが、やはり事実は、寺尾求馬助が「兵法二代」であって、新免弁助は新免氏二代なのである。
 しかしながら、新免弁助に学んだ甥の志方半兵衛は、『兵法二天一流相伝記』において、こう記している。――「二天流二代、是也」と。つまり、八久保の求馬助墓碑と同じことを、新免弁助について言うのである。
 志方半兵衛は同書のなかでやや詳しい伝説を語っている。要するに、求馬助が弁助に新免の家名を嗣がせたのだが、それには前段の話があった。というのも、武蔵死後のこと、武蔵流の書物や帯刀など武蔵の遺品を、小倉小笠原家の家老・宮本伊織方へ送った。
 ここに、《伊織は武蔵本名を継ぎし子なり》とあるが、その伊織の宮本姓が武蔵の「本名」だというのは誤伝である。「本名」というのは、父祖の姓名である。だが実際には、武蔵は、三木之助や伊織を養子にして宮本家を創設した播州時代から、自身も宮本氏を通称として名のるようになった。
 これについては、武蔵は神免(新免)の家を嗣いだが、武蔵の代から宮本と称するようになった、自分は武蔵の義子になったので、いま宮本を名のっていると、伊織自身が記している(泊神社棟札)。したがって、ここでは「本名」は不適切な語であり、志方半兵衛の伝承の誤りである。「宮本」武蔵が有名になって、その結果、宮本姓が武蔵の本名と誤認されたのである。
 それはともかく、ここでは、武蔵遺品を送りつけられた伊織の返答まで伝えられている。曰く、「私は武蔵の本名を嗣いだが、兵法の事は一切相伝しなかった。寺尾求馬助は幸いに武蔵の流儀を相伝した。武蔵の遺品はそちらで受用なさるがよい」と。そうして、武蔵の遺品を寺尾求馬助方に返してきた。そういうことなので、しかたがなく、寺尾求馬助がこれを持ち伝えて、年暦を経たというわけである。
 実際にこういうやり取りが、宮本伊織と寺尾求馬助の間であったとは、ただちには考えられないが、伊織が寺尾求馬助のことを知っていたことは、長岡監物宛伊織書状(五月二十九日付)などでうかがえる。求馬助は、主君細川光尚から武蔵の病床に付け置かれた。武蔵の看病や身の回りの世話をしろというわけである。したがって、寺尾求馬助が武蔵の病中死後、あれこれ仕切る役まわりであったと推測しうる。となれば、求馬助が、武蔵の遺品を小倉の伊織方へ送ったということは大いにありうる。しかし、上記のような返答をもって、伊織が遺品を返送してきたというのは、かなり説話化の進んだ伝説である。
 文字通り読めば、伊織は兵法関係の遺品を返送してきたにすぎない。ところが、これが新免弁助が武蔵二代目となったという話に接続されるから、武蔵遺品の帰属の話には、別の意味合いが発生している。すなわち、伊織は、自分は武蔵から宮本家を嗣いだが、兵法の家・新免家は継いでいない、新免の家名も含めて、武蔵流兵法関係は、そちらで勝手になさるがよろしい、という言質を得たという格好の成り行きで、新免の家名をどうするか、伊織から寺尾求馬助に託されたというのが、ここでの文脈である。武蔵の兵法関係遺品を持ち伝えるというのは、三種神器と同じく、ようするに新免家を継いだという証なのである。
 かくして、寺尾求馬助は、息子の弁助に武蔵の名跡を継がせた。どうしてそんなことをする権利が求馬助にあったかというと、武蔵が生前、求馬助に男子があれば、わが流儀を相伝して、新免の名跡を継がせるがよい、という話があったとのことで、これは《契約に任ずる》とあるから、武蔵と求馬助の契約(約束)があったというのが、志方半兵衛の伝説記事である。むろん『武公伝』にはそんな話はない。
 ここまで志方半兵衛が云うのは、むろん自身の系統が正統だという主張があるからである。二天流にあまたありといえども、武蔵二代目の新免弁助と寺尾藤次が流儀を相伝された、これ以外に以心伝心の相受の者はない。新免弁助と寺尾藤次この両人だけが一流正統である。こう主張する志方半兵衛は、実は寺尾求馬助三男・藤次玄高の息子で、志方半七之高のに養子になって志方家を相続して二百石。そして彼は、実父の弟、つまり叔父の新免弁助に相伝を受け、弁助病死以後、実父の藤次に再伝を受け、二天一流の奥儀、全て相伝した、と自ら語る人物なのである。
 そうすると、新免弁助は、武蔵の新免名跡を継いだにすぎなかったかもしれないが、志方半兵衛の代には、それが武蔵流正系の主張根拠となったようである。
 志方半兵衛の相伝記には、むろん寺尾孫之丞の名はない。それは、筑前系二天流の立花峯均の『丹治峯均筆記』に、寺尾求馬助の名が出ないのと、ちょうどシンメトリックな格好である。しかし、志方半兵衛の主張は、むしろ寺尾求馬助系統の中でも自分が正統だという主張なのである。
 寺尾求馬助系統には多くの支流が発生するし、また求馬助の息子たち、つまり新免弁助以外にも志方半兵衛の叔父たちがいて、求馬助に学び師役に任ぜられたのだが、志方半兵衛にとっては、それらも以心伝心の相受の者ではない。新免弁助と寺尾藤次この両人だけが相伝正統である。この排他的言説にはローカルな正統性争いが背景にある。
 ともあれ、新免弁助は元禄十四年(1701)、三十六歳で死んだ。志方半兵衛の相伝記に、《元禄十四年辛巳七月二十五日、四十五歳にて病死畢》とあるのは、誤伝もしくは写本の誤記である。新免弁助は嗣子なく死んだので、その新免家は絶えた格好である。
 そこで、志方半兵衛は、自分の五男・玄直にその名跡を嗣がせた。これは弁助ではなく、新免弁之助である。こんどは手続きは簡単で、半兵衛は武蔵の墓に弁之助を連れて行って、新免の家名を称すると報告したにすぎない。志方半兵衛の没年は宝暦六年(1756)であるから、それ以前ということになる。
 志方半兵衛の嫡男が半七之連、半兵衛の後を嗣いで、時習館の兵法師役になったが、弁之助はこの兄の跡を継いで師役になった。それ以前、弁之助は廻国修行の望みをもっていたが御免不可得、宝暦十一年(1761)に境界の禁を犯して出奔した。翌年帰国したが、咎めを受けて、兄半七に御預となり蟄居、法会特赦で赦免され、以後弟子を集め教えたようである。安永六年(1777)弁之助は死ぬが、やはり嗣子はなかったらしい。要するに、正統たるべき志方半兵衛の兵法道統は、息子の志方半七と新免弁之助に相伝されたのである。

 ここで、話を戻せば、『武公伝』にその所在を示す新免弁助の位牌は、志方半兵衛が納めたものである。というのも、その位牌背面文は他ならぬ志方半兵衛によるものであるからだ。明治の『肥後先哲偉蹟續』(巻一)からの孫引きになるが、それによれば、寛延三年(1750)、新免弁助五十回忌に際し、志方半兵衛が位牌を製作して納めたのである。
 かくして、位牌に、新免弁助を「兵法二天一流二代」と記した人物が志方半兵衛なら、そのわけは以上のことから明らかであろう。志方半兵衛の法脉は、まさに新免弁助を基点とするのである。言い換えれば、志方半兵衛自身の正統性は、新免弁助という存在によるのである。志方半兵衛が過剰なまでに新免弁助を語るのは、まさにそのためである。
 そうしてみると、『武公伝』のこの記事を書いた者はだれか。志方半兵衛が位牌を納めたのは寛延三年、したがって位牌を見ることができるのはそれ以後のことである。豊田正剛は、その前年に死去しているから、位牌を見ることはできない。とすれば、明和元年(1764)卒の橋津正脩がこれを書いたとみることができる。
 しかしながら、もう一つの可能性は、豊田景英である。というのも、正脩は寺尾孫之丞系統の法統に属する人で、志方半兵衛設置の新免弁助の位牌まで記録するには、すこし関係の距離がありすぎる。すると、後に述べるように、村上八郎右衛門正之の弟子であった景英の手によるものとみなしうる。
 村上派は新免弁助を尊重する。この伝系では、新免弁助が兵法二代であり、三代目が村上平内正雄、四代目が正雄の息子の平内正勝である。つまり、この数え方では寺尾求馬助の場所がない。というのも、新免弁助が「兵法二天一流二代」ということになっているからである。豊田景英は師匠の村上八郎右衛門から、熊本へ行ったら鍛治屋町の養寿院を訪ねてみろ、先師武蔵の位牌だけではなく新免弁助の位牌もあるぞと、教えられたのかもしれない。
 かくして、熊本鍛冶屋町の養寿院に参って、武蔵の位牌と対面して、それを記録したのは、正脩かもしれないが、同じく養寿院の新免弁助位牌の所在を記録したのは、豊田景英であろう。
 というのも、不思議なことに『武公伝』は、新免弁助の記事のあとに、「右は熊府鍛冶屋町養寿院にあり」と、冒頭の「熊本鍛治屋町養寿院」という記述を繰り返しているのである。なるほど、もしこの条り全体が最初から書かれていたとすれば、こうした反復記述はありえない。また、新免弁助の位牌もあると冒頭に記したはずである。
 そのことからして、この条りの記事は二つの部分からなるもので、新免弁助の記事とこの「右は熊府鍛冶屋町養寿院にあり」は、景英による加筆であろうと思われる。とすれば、『武公伝』のここにも景英の増補記事があるということになる。
 しかし、また奇妙なのは、『武公伝』が記す新免弁助の銘である。「新免弁得居士源信森先生」と記している。寺尾家記に記す新免弁助の法号は、「即法辨得居士」である。旧飽田郡島崎村の寺尾家墓所の墓碑も同様である。とすれば、『武公伝』のここにはその法名が記されるべきであるが、如上の奇妙な銘である。もしこれが位牌であれば、「新免弁得居士源信森先生」だけではなく、その下に霊位を付してあったはずである。したがって、これは新免弁助の位牌銘を記録したものではない。
 つまり、景英は新免弁助の命日は知っているが、正確な法名を知らない。また、「新免弁得居士源信森先生」が位牌銘ではありえないから、熊本の養寿院にあった新免弁助の位牌は実見していない。おそらく村上八郎右衛門から、養寿院には新免弁助の位牌もあるぞと聞いただけで、この記事を書いたのである。







*【兵法二天一流相伝記】
《武藏死後に至り、一流の書物、竝帯刀共、豐州小倉城主小笠原家の家老、宮本伊織方へ遣す。伊織は武藏本名を繼し子なり。伊織の曰、「我武藏の本名繼と雖も、兵法の事、曽て相傳せず、信行幸流儀相傳せり、受用可有」由にて、右の品求馬方に差返す。依然無據持傳、年暦を經。四男寺尾辨助、天性兵法萬人に越、其道元祖武藏に不負、獨歩の器量、流儀の有徳、二天流奥儀、不殘傳授して、武藏の名跡を繼せ、新免辨助と號す。二天流二代是也。武藏存生の内、「信行男子あらば、我流儀を相傳して、新免の名跡を繼可申」由、大望任契約者也。辨助流儀を相繼で、専門弟に指南致す處に、不幸にして、元禄十四年辛巳七月二十五日、四十五歳*にて病死畢。惜哉》










*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候…》(5月29日付)















*【兵法二天一流相伝記】
《二天流數多有之と雖、新免辨助・武藏二代、寺尾藤次流儀令相傳より外、以心傳心の相受の者無之、此兩人に限る。外を以て求る事なし。予實は寺尾藤次の嫡子、伯父辨助に、一流の相傳受、辨助病死以後、實父藤次に再傳を得、二天一流の奥儀、全雖令相傳、不敏にして其徳を不得。雖然、爲後來、其記を誌し、祖流の傳無誤、所任天照鑑者也》


*【二天一流相伝記系統図】

○新免武蔵玄信─寺尾求馬助┐
 ┌───────────┘
 ├寺尾藤次┐
 |    ├志方半兵衛之経┐
 └新免弁助┘┌──────┘
       ├志方半七之連
       |
       └新免弁之助玄直




八久保寺尾家墓所
新免弁助墓
信行四男 圓寂即法辨得居士
元禄十四年七月二十五日 三十六歳






*【新免弁助位牌背面文】
《新免辨得居士、實寺尾氏男、有故新免武藏先生之繼家名、號新免辨助信森、二天一流二代是也。元禄十四年辛巳七月二十五日卒。于時寛延三庚午年七月二十五日、當五十有年、依此志方之經手位作。之經實寺尾氏男、信森甥、有故二天一流之奥儀、口受盡信森傳授畢。誠師恩厚偉哉。于時寛延三庚午年七月二十五日、志方半兵衛尉源之經建焉》






*【豊田氏先祖附追加】 守衛
《私儀、御馬廻組ニて、御式台御番相勤居申候処、安永元年正月、御台所頭被仰付候。同二年九月、御台所頭御断奉願候処、被差免、御式台御番被仰候。同三年四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門代見ニ被仰付、同年十二月、為稽古料毎歳金子百疋被為拝領候。同四年九月、奉願名を守衛と改申候。同九年五月、二天一流の師役被仰付、御式台御番相勤居申候》


*【村上派系統図】

○新免武蔵玄信―(寺尾求馬助)┐
┌──────────────┘
新免弁助信盛―村上平内正雄┐
┌─────────────┘
├村上平内正勝―村上平内正則

└八郎右衛門正之┬村上大右衛門
        │
        └野田一渓種信




*【寺尾家記】
《辨助信盛、寛文六丙午年某月生、母柿迫氏、元禄十四辛巳年七月二十五日歿、年三十六、法号即法辨得居士、飽田郡島崎靈樹院に葬る、辨助、兵法師範、十人扶持二十石》
武公伝 正脩 武公伝 景英 二 天 記
一 熊本鍛冶屋町ニ養壽院ニ即詣ケルニ、武公ノイハイ〔位牌〕在、爰ニ記。
 
兵法二天一流元祖
新免武藏藤原玄信二天道樂先生 神儀
正保二[乙酉]天五月十九日
一 熊本鍛冶屋町ニ養壽院ニ予詣ケルニ、武公ノイハイ〔位牌〕在、爰ニ記。
 
兵法二天一流元祖
新免武藏藤原玄信二天道樂先生 神儀
正保二[乙酉]天五月十九日
 
兵法二天一流二代
新免辨得居士源信森先生
元禄十四年[辛巳]七月廿五日
 
右ハ熊府鍛冶屋町養壽院ニアリ。

削  除
 『二天記』では、この記事はない。武蔵位牌記事を含めて全体を削除している。これも『二天記』の著述傾向を示すものである。すなわち、武蔵の位牌云々というのは、流派内部のマニアックな話題であって、教衛場のような公衆相手の講義には不向きと見たのであろう。それに第一、景英は位牌を見ていないのである。
 かくして豊田景英は、『武公伝』に新免弁助の位牌の所在を加筆したが、『二天記』では、武蔵塚のことは温存しても、養寿院の位牌記事は抹消したのである。これは、景英自身が加筆しておきながら、『二天記』には掲載しなかった記事の一例である。  Go Back





 
  25 志水伯耆
一 或年正月三日、御謡初ノ晩、御備頭衆ヲ初メ着座衆何レモ列座ニテ、武公モ其席ニアリ。(1)
 御規式未始ニ何カト打話ノ時、志水伯耆殿[時御備頭ナリ]武公ニ被申候ハ、「先年吉岡清十良ト仕合ノ節、吉岡先ヲ打タル由致風聞候ガ、如何ニテ候哉」トアリ。
 武公、兎角無返答、ズント立テ燭臺ヲ把テ、伯耆殿ノ膝元ニヅカト座シ、「私幼少ノ時、頭ニハス*出来テ、月代ヲ剃リ候得バ見苦シク候ニ付、惣髪ニテ居候。清十良仕合ノ時、彼ハ真劔自分ハ木刀ニテ候。真劔ニテ先ヲ打レ候ハヾ疵痕在ベシ。得斗*御覧候ヘ」ト、左ノ手ニ燭臺ヲ把リ、右ノ手ニ髪カキ分テ、首ヲ伯耆殿ノ顔ニツキ付ラル。
 伯耆殿、ノツケニソリテ、「疵痕見ヘ不申」トアリ。「シカト御覧候哉」トアリ。「ナルホド得度見届候」ト云トキ、直ニ立チ上リ、燭臺ヲ直シ、モトノ座ニツキ、髪カキナデテ自若タリ。一座ノ諸士、手ニ汗ヲ握リ、一人モ鼻息ヲスル者ナシ。
 伯耆殿一生ノ不覺也ト、其比批判在シト也。膽氣豪發ノ事ナリ。[徹水家ノ書在リ](2)

一 ある年の正月三日、御謡初〔おうたいぞめ〕の晩、御備頭衆をはじめ、着座衆がみな列座して、武公もその席にいた。
 (謡初の)儀式がまだ始まらず、(列席者たちが)何かと雑談している時、志水伯耆殿[その時備頭であった]が武公に申されるには、「先年、吉岡清十郎と仕合の節、吉岡が先〔せん〕を打ったと風聞いたしておりますが、本当はどうだったのですか」と訊かれた。
 武公は、何も返答せず、ズンと立って、燭台を把って、伯耆殿の膝元にヅカと座し、「私は幼少のころ、頭に疥癬〔はす〕が出来て、月代を剃ると見苦しいので、惣髪にしております。(吉岡)清十郎との仕合の時、彼は真剣で自分は木刀でした。真剣で先を打たれますと疵痕があるでしょう。とくとご覧なされ」と、左の手に燭台をとり、右の手で髪をかき分けて、頭を伯耆殿の顔につきつけられた。
 伯耆殿は、身をのけぞらせて、「疵痕は見えません」との返答。(武公)「しかとご覧なされ」。(伯耆)「たしかに、とくと見届けました」と云うと、(武公は)直ちに立ち上り、燭台を(元の場所に)戻し、自分の席に着座して、髪をかきなでて平然としている。一座の諸士は、手に汗を握り、一人も鼻息をする者もなかった。
 「伯耆殿、一生の不覚だよ」と、そのころ世評があったそうな。(武公の)胆気豪発の事例である。[徹水家の書がある]

  【評 注】
 
 (1)或年正月參日、御謡初ノ晩
 これは、有名な話で、武蔵小説や解説書が必ずとりあげる逸話でもある。ただし、それは後継『二天記』の方の逸話であって、原型の『武公伝』の逸話の方ではない。後述のように、同系の両者の話に食い違いがあるという興味深い結果がみられる。
 さて『武公伝』の話は、ある年の正月三日、御謡初の晩、とある。のっけから物語めいた語りである。御謡初とあるのは、大名の新春祝祭儀礼で、通例は謡初(うたいぞめ)之式と云う。正月三日の謡初めとあれば、これは特別な儀式である。その起源は別にすれば、これは近世、江戸城で正月三日に行われた新春の儀式で、諸大名の国許でも施行されるようになったらしい。
 細川家のケースならすでに研究があるだろうから、儀式の具体的内容はそれらに譲るとして、ここでは少しだけ謡初之式について述べておく。謡初めというと、新春祝宴のたんなる余興のように誤解する向きもあるので、この儀式の意味を取り違えないためである。
 大名はこれを主立った家臣列座のなか執り行う。将軍家なら江戸城大広間に諸大名を集めて行う。酉の刻、つまり日没時からだが、まず新春の祝杯をあげる。それが終ると謡初のはじまりで、老職が出て、謡いませい、と声を発する。そこで進み出た楽頭の太夫(能役者)が、平伏したまま「四海波」〔しかいなみ〕の部分を謡う。それは謡曲「高砂」の一節、小謡の《四海波、静かにて、国も治まる時つ風…》とあるところ。これは見ての通り、王権賛美の祝歌である。これが平伏したままの無理な姿勢で謡われるのも、わけがあるゆえんである。ただし、これを民俗学的にみれば、巫覡が神下しするさまに似ているから、祖形はそういうものだったのだろう。
 四海波が終ると、次に太夫が「老松」「東北」「高砂」の囃子を演じる。「老松」は能では初番目物、神の顕現と祝福の宗教的な舞曲である。神が白髪をたれた老人の姿で登場し荘厳な真ノ序ノ舞を舞う。《げにめづらかに春も立ち 空すみわたる神かぐら 舞楽を備ふる宮寺の 声も満ちたるありがたや 是は老木の神松の 千代に八千代にさざれ石の 厳となりて苔のむすまで》とあって、君が代と同じ詞章が織り込まれているが、能楽では新春を祝ぐ曲である。
 「高砂」は云うまでもなく、謡曲では最も有名なものであろう。これも松と神にまつわる祝祭舞曲で、《神と君との道直に、都の春に行くべくは、それぞ還城楽の舞。さて万歳の、小忌衣、さす腕には、悪魔を払い、納むる手には、寿福を抱き、千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ。相生の松風颯々の声ぞ楽しむ、颯々の声ぞ楽しむ》という祝言で結ばれる。
 「老松」「高砂」は、周知の通り、武蔵が五輪書の中で言及している曲である。「東北(とうぼく)」は、「老松」「高砂」と同じく世阿弥作である。和泉式部の霊が登場して、旅僧に在りし日の東北院のことを語り、軒端の梅の由来を説く趣向だが、梅にちなむ新春祝歌、「老松」と「高砂」に並んで演奏されるのである。
 しかしながら、これだけでは、新春祝賀儀礼というわけで、とくに武家の儀式としては言うべきことはない。ところが、もう一つ、最後に、「弓矢立合」という演目がある。太夫たちは拝領の時服をそれを素袍上下の上に着してこれを舞う。
 詞をみれば、釈尊をはじめ愛染明王、文殊までは仏教だが、養由が出てきて弓矢、軍事の方へ流れて石清水八幡大菩薩となる。そうしてみると、弓矢立合によって、この謡初の一連の儀式も武家儀礼となる。
 この弓矢立合が終ると、主君は自ら肩衣を脱いで大夫に与える。それを皮切りに列座の諸士はいっせいに肩衣を大夫に投げる。このときの肩衣は太夫が持ち帰るが、翌日使いが来て取り返す。むろんこれは質草で、太夫には代物返済に金子が支払われるから、能役者は一年を食える。こういうあたりも古い民間祭祀儀礼の反映があろうかと思われる。
 この謡初之式が終わるまで、もちろん市中の庶民も音曲停止。儀式の終了をもってはじめて音曲開始となる。越年の物忌みを含む新年祭が、このように変化したものとみえる。
 以上のようなプロセスがこの謡初の式次第であるが、諸大名の国許でこの通りに執行されていたかどうか不明である。しかしながら、たとえ略式であれ、これが大名家の新春儀礼として重要なものであったことには変わりはない。したがって、新春祝賀の余興などではないのである。
 細川家と能楽との関わりを云えば、とくに中村勝三郎(少兵衛正長、勘解由・鞆負)の存在がある。勝三郎は秀吉の小姓だったが、金春八郎安照の弟子となって能楽修行、そして勘気を蒙ったか、大坂を出奔して加藤清正を頼って肥後へ行き、そこで家臣として召抱えられた。武家太夫、つまり能役者で、かつ五百石の武士なのである。勝三郎は隠居してその跡を二代目中村左馬進(伊織正辰、鞆負)が継いだ。その後、勝三郎は大坂に住んだが、加藤忠弘は合力米三百石を支給していた。
 この中村勝三郎に入門した大名は少なくない。なかでも、細川忠利・小笠原忠政・木下延俊といった武蔵に関係のある大名があるし、式部少輔時代の長岡興長の名もある。彼らが入門起請文を出したのが寛永四〜五年(1627〜27)、そのあたりから縁が深くなったものとみえる。細川三斎と忠利は中村勝三郎を贔屓にして、ときどき豊前に招いていたようである。
 寛永九年(1632)加藤氏改易のことがあって、細川家は肥後へ移るのだが、忠利はこのとき、加藤家旧臣の中村左馬進を千石で召抱えた。忠利は彼を他にはやるまいとして、加藤家旧禄五百石を倍増したようである。中村左馬進を召抱えるについて、その仲介をしたのは長岡興長である。かくして中村左馬進は、主は変われども、改めて肥後で仕えることになったのである。
 こうした武家太夫のありようというのは、芸能をもって仕えるたんなる能役者ではないから、現代の通念ではわかりにくいところがある。彼らは戦場にも出て武功を挙げる。その点では他の家臣同様である。ただ、それは兵法の芸能者にしても同じで、剣の達人でも、仕官すれば鉄砲頭などの軍役に任じたものである。
 武蔵が肥後に逗留した頃、中村勝三郎は大坂に居て、中村左馬進は熊本で仕えていた。武蔵の謡曲好みからして、彼らと何らかの交渉もあったと思われる。正月三日謡初の儀式には、この中村左馬進が出演したであろう。
 『武公伝』に話を戻せば、その謡初の儀式が始まるのを待つ諸士の中に、客分の武蔵もいた。これは『武公伝』の記事では、《御備頭衆ヲ初トシテ着座衆何レモ列座ニテ》とあるから、この場にいたのは、家老に次ぐ重臣である備頭衆をはじめ、着座衆の上級武士たちである。この逸話は、『武公伝』には珍しい荘厳華麗な世界を垣間見せる場面である。むろん謡初の儀式は、『武公伝』の作者のような八代の陪臣である豊田家の者には、天上世界のような想像するしかない場であり席ではある。
 なお、『武公伝』には、ある年の正月三日、御謡初の晩、とあって、これが忠利のときのことなのか、それとも光尚の代になってのことなのか、明らかにしない。説話化が進んだ伝説だから、時はあいまいになっているようである。
 それと、もうひとつ、『武公伝』には、正月三日、御謡初の晩とあって、この正月三日は謡初の通例に叶うものだが、別に奇異とすべき史料もある。それによれば、謡初の儀式を、正月三日ではなく、二日と記すようなのである。
 綿考輯録(巻五十二)によれば、寛永十八年(1641)の正月二日の細川忠利は、まず、城中で礼帳の順序通り家臣たちが居並ぶところを一通り歩いた。一種の観閲式だが、家臣としては正月恒例の御目見である。それから次に、奥書院で新年を祝っている。奥書院へ呼ばれたのは、足利道鑑はじめ息子の西山左京や孫たち一族、それに「神免武蔵」の名もある。客分の者らを奥書院へ招いて、年賀をうけたのであろう。
 さらにその後、忠利は表御殿へ出て、年賀をうけ、昼すぎに城中から御花畑(忠利居館)へ下がった。そこで、晩になって、謡初の噺子が二番まですぎたところで、忠利は、皆の者に肴をもらおうと言って、家老中や人持衆など重臣たち以下、小姓頭衆や御側御物頭衆など、五人三人ずつ御前に出て、酒を給わったとある。すると、この年の謡初の儀式は、正月二日にあったことになる。
 不審とすべきはそこである。綿考輯録は後世の記録文書なので、必ずしも信をおくことはできないが、正月二日の謡初の儀式という点が不審である。ともあれ、これは地元の研究を俟つというところである。  Go Back





熊本城




*【四海波】
《四海波静かにて、国も治まる時つ風、枝を鳴らさぬ御代なれや、逢ひに相生の、松こそめでたかりけれ。げにや仰ぎても、ことも愚やかゝる世に、住める民とて豊なる。君の恵ぞ有難き、君の恵ぞ有難き》



京都 大江能楽堂
能舞台鏡板の老松





*【弓矢立合】
《釈尊は、釈尊は、大悲の弓の智慧の矢をつまよつて、三毒の眠を驚かし、愛染明王は弓矢を持つて、陰陽の姿を現せり。されば五大明王の文殊は、養由と現じて、れいを取つて弓を作り、安全を現して矢となせり。八幡大菩薩、水上清き石清水、流の末こそ久しけれ》








*【中村氏先祖附】
《先祖中村靭負儀、秀吉公御児小姓被召出相勤、秀吉公御逝去後、加藤清正公え知行五百石にて被召仕、忠廣公代迄相勤隠居、其子伊織、家督、忠廣御改易以後、妙解院様是非豊前に罹越候様にと被仰越、寛永九年九月豊前へ罹越候處、段々難有御意にて、御直に御知行千石被為拝領、靭負には忠廣より被下候通、現米三百石御蔵米にて被為拝領候》
《秀吉公御児小姓ニ被召出、中村勝三郎ト申候。(中略)為御慰金春大大夫ニ能ノ稽古被仰付、家之大事迄不残相伝仕候処、不慮之儀有之大坂立退肥後ニ罷下リ、清正公ニ御頼申上候処ニ、亡父勘解由ニ鑓御稽古之筋モ御座候ニ付、御かくまい被召置、其後知行五百石被為拝領、高麗陣之節モ御共仕、数度之励武勇、忠広公御代迄相勤隠居仕候。嫡子中村左馬進正辰ニ家督無相違被為拝領、名をも靭負ト改申候。正長ニハ御合力米現米三百石被拝領、大坂に居住仕、名を少兵衛と改申候。三斎様、忠利様、御懇意被仰付、豊前へも折々伺御機嫌参上仕候。忠広公御改易以後、嫡子正辰、忠利様御預り可被成由、長岡佐渡守殿より度々被仰下、正辰下関へ参候段被御聞付、橋本角右衛門と申す仁を被差越、御船とも被指越、正辰儀是非豊前江罷越候様ニと被仰下候ニ付、寛永九年九月豊前へ罷越、佐渡殿御宅江落着、佐渡殿被召連、御城江罷出、佐渡殿御相伴に而御料理被為頂戴、御前江被召出、段々有難御意ニ而御直ニ千石之御折り紙被為頂戴、大組附に被召加、御熨斗被為頂戴 正長ニは忠広公之被下置候通現米三百石、大坂御蔵米ニ而被拝領、身楽ニ病気養生仕候様ニ被仰渡候。折々之伺御機嫌ニ者罷下り申候》






*【綿考輯録】 寛永十八年正月
《一 二日、御礼帳の通り次第々々並居御通被下候事、元日御鉄炮頭のごとく也。道鑑老[公方義輝公御落胤之由]、西山左京[道鑑子]、同勘十郎[左京子]、同山三郎[勘十郎弟、後八郎兵衛と云、今の西山先祖なり。左京勘十郎ハ御家を御断申、京に被相越候由]、神免武蔵[剣術者也]、源次郎[不詳、追而可考]、春田又左衛門[具足之下地師、子孫今に御知行被下、奈良に居申候]などハ、奥書院ニて御祝被成候候而、扨御表へ御出被成候。昼過御花畑江御さがり、晩に御謡初の御噺子二番過候而、何も御肴を給候へと御意にて、御老中、人持衆、御小姓頭衆、御側御物頭衆、五人三人罷出御酒給候》(巻五十二)
 
 (2)志水伯耆殿、武公被申候ハ
 話の本体である。謡初の儀式が始まるのを、列席の面々が待っている。武蔵もそのなかにいた。その場の者たちが雑談している時、備頭の志水伯耆が武蔵に訊ねた、「先年、吉岡清十郎と仕合の節、吉岡が先〔せん〕を打ったと、風聞いたしておりますが、本当はどうだったのですか」。
 これは京都での対吉岡戦のことで、先を打ったというのは、先に吉岡が武蔵に一撃を加えた、ということである。武蔵は吉岡に勝ったというが、実際には吉岡の方が先手を打ったという噂があるが、本当のところ、どうだったのだ、というわけである。
 すると、武蔵は何も答えず、無言でずんと立って、燭台を手にとると、志水伯耆の前にヅカっと座った。このあたり、「左の手に燭台をとり、右の手で髪をかき分けて」とあり、また、「ズント立テ」「ヅカト座シ」とあって、口に膾炙した説話としてコナれているようである。この調子では、この説話の武蔵は、志水伯耆の失礼な問いかけに少々腹を立てている様子である。
 志水伯耆の目の前に座った武蔵は言う。「私は幼少のころ、頭に疥癬〔はす〕が出来て、月代を剃ると見苦しいので、惣髪にしております。吉岡清十郎との仕合の時、彼は真剣で自分は木刀でした。真剣で先を打たれますと疵痕があるでしょう。とくとご覧なされ」と、左の手に燭台をとり、右の手で頭の髪をかき分けて、自分の頭を伯耆殿の顔につきつけた。
 この燭台という小道具も説話になじんだものである。謡初の儀式が始まるのは、昼間ではなく夜である。燭台がそばになければ、物はよく見えないのである。こうしたディテールの詰めは伝説の説話化段階がかなり進行していることを示す。
 ここにはいくつかの説話素が組み込まれている。一つは、武蔵が月代を剃らず髷も結わず惣髪にしているのは、幼少の頃頭に疥癬〔はす〕が出来て、その痕を隠すためだった、という話。疥癬は微小なダニの一種が寄生して皮膚を荒らす症状である。武蔵が髪を掻き分けて志水伯耆の顔につきつけたのは、疥癬痕か刀痕か確認させるためということになるが、これは、後世に発生した説話であろう。
 武蔵異相伝説は、『丹治峯均筆記』のような筑前系伝記では、「一生髪を梳かず、爪を切らず、風呂に入らない武蔵」というパターンになった。そこで、武蔵は惣髪どころか、長髪で、壮年時は髪は腰まであった、老年になっても肩まであった、という見てきたような姿を描く。これは伝説の自動的更新の産物である。
 これに対し、肥後では、武蔵の惣髪姿について、このように「疥癬病みの武蔵」という方向へ展開しているのである。これは、肥後系伝説の特徴、すなわち解釈したがる伝説という傾向の一例である。なぜ武蔵は惣髪だったか、――それは疥癬の痕を隠すためだった、という説話型である。伝説はそれ自体思考するものである。
 しかし武蔵が、頭皮の痕を確認させるために、髪を掻き分けて、頭を突き出してみせたというこのシーンに、ひとつ奇怪な齟齬があって、物事に馴染まないのは、むろん、晩年の武蔵にそれほど多量の頭髪が残っていたのか、ということである。
 周知のごとく、晩年の武蔵肖像はどれも髪が薄く、あるいは髪が後退して頭頂まで禿げあがっている。これでは月代を剃っているのと変わりがないから、髪を掻き分けるまでもない。ようするにこの話は、武蔵肖像画とは別の筋道で発生した伝説であろう。
 吉岡に先を打たれたということで、話が頭部のことになる。どうしてその傷痕が頭部にあるというようなことになっているのか、これも唐突な成り行きである。これは説話の一貫性が、武蔵の惣髪→頭部の傷痕という線に沿って動いているためである。しかしながら、『武公伝』の作者が日夏繁高『本朝武芸小伝』を見ていることから、これはどうやら、そのあたりの話が混入したものらしいと見当がつく。
 『武芸小伝』は武蔵吉岡決闘伝説をいくつか採取しているが、そのうちこれに関連するのは、吉岡が武蔵の鉢巻を切り落とし、武蔵は吉岡の皮袴を切ったという伝説。つまり、吉岡は大木刀をもって武蔵を打つ。武蔵はこれを受けとめたけれど、鉢巻が切れて落ちた。武蔵が身を沈めて横に払う。その木刀が吉岡の皮袴を切った。――こういうわけで、武蔵は吉岡に鉢巻を切り落とされたので、頭部には傷痕があろう、ということになる。
 もうひとつは、武蔵は柿手拭で鉢巻、吉岡は白手拭で鉢巻、という構図の説話である。これによれば、吉岡の太刀が武蔵の額に当たった。武蔵の太刀もまた吉岡の額に当たった。これは相打ちのようだが、吉岡は白手拭なので、出血がみえたのが早く、武蔵は柿手拭なので、しばらくして出血が見えたそうな、という話である。つまり、吉岡の方が出血が早くみえ、これにより武蔵が先を打ったとみえるが、実は、武蔵は柿手拭なので出血がみえたのが遅かっただけだ、つまりは、先を打ったのは吉岡の方だ、という説話なのである。
 ということは、吉岡の方が先を打ったのじゃないかと志水伯耆に問わせる、まさにここに、後年の伝説発生の標識がある。十八世紀はじめの『武芸小伝』(享和元年刊)を読みうる環境条件があってはじめて、この逸話が生まれるのである。『武公伝』の時期までに『武芸小伝』が流布していて、先を打ったのは吉岡の方だ、という異説が知られていた。『武公伝』のこの逸話は、同時代のそんな異説に対抗する、武蔵流末が仕立てた説話だったようである。
 説話素のもう一つは、吉岡清十郎との対戦のとき、両人の道具は、吉岡は真剣で武蔵は木刀だったという話。この道具図式も、後世発生の伝説のようである。
 小倉碑文には、《触木刄之一撃、吉岡倒臥》とあって、武蔵の道具は「木刄」つまり木刀だが、吉岡の道具については記述はない。このことがあってのことかどうか知れないが、筑前系の『丹治峯均筆記』は、吉岡の道具を記さず、それよりも、病気のため竹輿に乗って決闘現場に現れた武蔵が、枕木刀で吉岡を不意打ちにしたという、京都系の伝説を記している。この説話では、むしろ吉岡は道具を持ち出すまでもなく倒されているのである。
 それに対し、前に吉岡戦の記事に見たように、『武公伝』は、《吉岡ハ眞劔也。武公木刀ヲ以一ビ撃之》と記しており、肥後ローカルな伝説を記している。『武芸小伝』には、武蔵・吉岡両方とも太刀、あるいは吉岡は大太刀、武蔵は二刀というように諸説を記録している。『武公伝』は、その点を承知のうえで、肥後特有の異説を記したとみえる。
 しかし、これも出所不明の話である。小倉碑文では、相手は真剣で武蔵は木刀というのは、むしろ巌流島のときの道具である。伝説というのはひどく融通のきくものだから、おそらく小倉碑文の記事によってこの図式が出たものらしい。相手は真剣で武蔵は木刀というこの説話素は、のちに『二天記』段階で対戦相手が変更される要因となったであろう。
 さて『武公伝』の話にもどれば、武蔵にその(汚い?)頭を突きつけられた志水伯耆は、閉口して身をのけぞらせ、「疵痕は見えません」との返答。武蔵、「しかとご覧なされ」。伯耆、「なるほど、とくと見届けました」。武蔵の頭部に刀創痕がないのを、伯耆が無理やり確認させられた格好である。この辺のやり取りも説話的完熟を示している。
 そうして志水伯耆に認めさせたので、武蔵は燭台を元の場所に戻し、自分の席に着座して、髪をかきなでて平然としている。その場にいて一部始終を見ていた諸士は、手に汗を握り、誰も鼻息をする者もなかった、云々。息を詰めて鼻息さえしなかったというわけで、これも緊迫した空気をうまく表現している。際限のない暴力性を秘めた鬼神のような武蔵だけに、その振舞いに皆が圧倒されてしまったということである。
 そして『武公伝』が記すのは、「伯耆殿、一生の不覚だな」と、そのころ世評があったそうな、ということである。武蔵を挑発して、逆にやり込められて恥をかいた、ということらしい。『武公伝』の作者の評は、武蔵の胆気が豪発したことであった、となる。つまり、志水伯耆という人物に、こういうあしらいができる武蔵を称賛していることになる。
 志水伯耆は実在の人物であって、実名も出されているから、この逸話のダシにされた恰好である。他方、説話主体からすれば、余人にあらず、志水伯耆が相手だ、というところが肝腎なのである。相手が志水伯耆でなければ、武蔵の胆気豪発とは云えないらしいのである。















ヒゼンダニ



*【丹治峯均筆記】
《武пA一生髪ケヅラズ、爪トラズ、浴セズ。老年ニ至テ、在宿ノ節ハ無刀ニテ、五尺杖ヲ平生携トイヘリ。夏日ニハ、手拭ヲシメシテ身ヲ拭ハレリ。「吾、仕官ノ望ナシ。タトヘバ、手桶一ツノ湯ニテハ身ノ垢ハ洗ベシ。心裡ノ垢ヲスヽグニイトマナシ」トノ玉フ。壮年之時ハ髪帯ノ辺迄タレ、老年ニ及テハ肩ノ辺迄下リタリトカヤ》



武蔵肖像頭部


*【本朝武芸小伝】
《又武藏吉岡と仕相の事、武藏は柿手拭にて鉢巻す。吉岡は白手拭にて鉢巻したり。吉岡が太刀武藏がひたいに當る。武藏が太刀も又吉岡がひたひにあたるに、吉岡は白手拭故血はやくみえ、武藏は柿てのごひ故しばらくして血見ゆるとなり。又一説有。此時吉岡はいまだ前髪有て二十にたらず。武藏より先達て、弟子一人召つれ仕合の場に來たり。大木刀を杖につきて武藏を待。武藏は竹輿にて來たり、少しまへかどにて竹輿よりおり、袋に入たる二刀を出して袋にて拭ひ、左右に携へて出る。吉岡大木刀を以て武藏を打。武藏是を受るといへ共、鉢巻きれて落たり。武藏しづんで拂、木刀にて吉岡がきたる皮ばかまをきる。吉岡は武藏が鉢巻を切て落し、武藏は吉岡が袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすと也》




*【小倉碑文】
《後到京師。有扶桑第一之兵術吉岡者、請決雌雄。彼家之嗣清十郎、於洛外蓮臺野、爭龍虎之威。雖決勝敗、触木刄之一撃、吉岡倒臥于眼前而息絶。豫依有一撃之諾、輔弼於命根矣。彼門生等助乘板上去、藥治温湯、漸而復。遂棄兵術雉髪畢》

*【丹治峯均筆記】
《吉岡清十郎、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。武州、其日ニ至リ病臥、起居不安ノ由ニテ、断ニ及ブ。清十郎、頻リニ可致勝負旨、數度使ヲ走ラシム。武州竹輿ニ乘リ、大夜著ヲ著シ、場処ヱ至ラル。清十郎出迎、「病氣何分ノ事ニヤ」ト乘物ヲノゾク處ヲ戸ヲ押明ケ、風ト出テ、枕木刀ヲ以テ只一打チニ打倒シ、息絶ヌ。門生等、戸板ニ助ケ乘セテ持帰リ、藥ヲアタヱ漸ク復ス。遂ニ兵術棄テ薙髪ス》

*【武公伝】
《初吉岡兼法ガ嫡嗣清十良ト、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。吉岡ハ眞劔也。武公木刀ヲ以一ビ撃之。吉岡斃テ息絶フ。豫メ一撃ノ約アルニ依テ命根ヲ輔弼ス。彼門生等板ノ上ニ助乘テ家ニ歸、藥治浴湯シテ本復ス。遂ニ兵法ヲ棄テ薙髪シ畢ヌ》
 それでは、この志水伯耆という人物はいかなる人か。
 これについては本サイトの諸処で話題に出ているように、早い話が、志水伯耆守元五(1573〜1649)、日下部(草辺)与助の名で知られた伝説的英雄である。有名な武功は、加藤清正麾下で朝鮮に戦い、あるいは関ヶ原戦争当時、小西行長の居城肥後宇土城攻めで一番鑓、というわけで、志水伯耆の高名は加藤清正の名とともにある。
 先祖附によれば、父の志水新之允清元(1539〜1629)は近江の佐々木承禎に仕えていたが、佐々木家を立ち退き、山城の領地に居たところを、細川藤孝の仲介で足利将軍義昭に属するようになった。信長は義昭を奉じて上洛する過程で佐和山城の佐々木承禎を粉砕したが、その時には、志水新之允は佐々木家を離れていたらしい。
 足利義昭と信長の対立が深まると、細川藤孝は信長に付いたが、志水新之允は足利義昭に従い、天正元年(1573)の槇嶋城籠城戦で義昭が敗れると、志水新之允は浪人。その後細川藤孝に属するようになり、天正八年(1580)細川家が丹後に移ると新之允も従い、同国で知行千石を給される。このとき志水伯耆と名を改めた。細川藤孝に属して各地に歴戦、小牧合戦までに挙げた首級十五という猛者であった。
 しかるに、その後トラブルがあって、志水伯耆は細川家を立ち退き京都へ行き、その時、息子の志水九左衛門と草辺(日下部)与助の両人を、加藤主計頭清正に預け、自身は剃髪し宗加と号し、しばらく京都で浪人していた。
 ここで草辺(日下部)与助が登場する。与助は加藤清正に属し、朝鮮の役で武名を挙げ、また慶長五年(1600)の宇土城攻めで戦功があった。上述のように、与助の高名は、加藤清正麾下でのことである。
 細川忠興は、関ヶ原戦後、丹後から豊前へ移封された。そのとき、慶長七年(1602)八月京都に居た志水宗加を細川家へ召し返し、知行二千石を与え中津城を預けた。また、細川忠興は、加藤清正に、草辺与助は譜代の者だと談判して、与助を取り返した。清正からすれば、細川家もずいぶん勝手なものである。とにかく、三十歳になっていた与助は細川家に帰参し、これも知行二千石を給された。名も志水主水と改めた。
 細川忠利の代になって、父の志水宗加は隠居し、息子の志水主水は、父宗加家督の二千石を相続し、自分と合わせて都合四千石。そのとき伯耆と名を改め、備頭となった。その後八百石加増されて四千八百石。寛永九年、細川家肥後移封に際し、志水伯耆は熊本城を請取りに行った。肥後入国後さらに加増されて都合六千石。寛永十四年秋に天草島原一揆勃発、志水伯耆も出陣したが、さすがに六十五歳、病気になって、息子の新之允に志水組の指揮を取らせた。
 ともあれ、武蔵が肥後に居た当時、志水伯耆は細川家重臣、老職三家を除けば、家臣筆頭格である。右掲の二ノ丸之絵図はやや後のものだが、これをみるに、志水家の屋敷は長岡帯刀(直之)の屋敷より一段下だが、面積はかなり大きい。『武公伝』が、志水伯耆殿と「殿」付けにして記すわけである。
 それはともかく、志水伯耆は武蔵より十歳以上年長で、当時少なくとも七十歳になっている。毛並みも戦績も備わった、細川家中を代表する老いた英雄である。加藤家改易で浪人になった連中が細川家に召抱えられるよう奔走もした、なかなかの人物。そんな彼が、武蔵を挑発して逆にやりこめられたというのは、これはどうも、タメにする説話としか言いようがない。
 志水伯耆は、柳生流兵法者の仲介をするなど、とくに柳生流と関係があった。しかし『武公伝』の伝説はそれとは無関係の後世のものである。つまりは、勇者としての武士の格では、武蔵は志水伯耆より上だった、と言いたいがための説話である。
 志水伯耆は細川家中屈指の英雄、しかし武蔵の前ではいとも簡単にやりこめられる。これは、痛快伝説の一種で、胆気比量のために説話内部に志水伯耆が召喚されたというにすぎない。言い換えれば、これは英雄対決の一種の試合であって、世間で有名な豪傑が、武蔵にかかっては手もなくひねられる、そういうパターンと同類の伝説である。
 これが発生したのは、肥後の武蔵流裔の間であろう。肥後ローカルの伝説だから、まさに志水伯耆が登場して、武蔵のために下手な役回りを演じさせられた、というわけである。
 しかも、正月三日の謡初之式という、その荘厳華麗な儀式を前に、武蔵の口から出たのは、なんと疥癬のことである。このあたりの涜聖の突出は、謡初之式のようなそんな雲の上の光景を見たこともない中下級武士には、大いにウケたことは想像に難くない。この説話が、『武公伝』の物語中でもよく熟成した説話であるというのも、これが人の口に膾したことが多く、それゆえ練り上げられた物語だったからである。
 なお蛇足ながら、志水伯耆の家はそのまま子孫も代々重臣格であったわけではない。元禄八年(1695)孫の新之允の代に、六千石の知行と家屋敷を召上げられてしまうのである。曾孫の主水克元は、三十人扶持を支給されていたが、享保十九年(1734)になって、ようやく新知千石を与えられた。それまで志水家は、四十年ほども扶持米取りの身分だったことになる。主水は新知千石を得たが、それでも、かつての知行六千石、備頭という家格とはほど遠い。それが『武公伝』の時代の志水家であった。
 そうしてみれば、『武公伝』の志水伯耆の逸話の出現理由の他の一端もわかる。もし志水家が依然として知行六千石で備頭の家でありつづけていたなら、少なくとも肥後では、こういう志水伯耆をダシにしたタメにする説話は生じなかったであろう。子孫没落という時期があったから、こういう伝説が生じたのである。世間というものはシニカルなものなのである。

 なお、本サイトの他処ですでに言及されたことであるが、『二天記』はこの『武公伝』と同じ記事を収録しながら、実は根本的なところで改変を加えている。武蔵が先を打たれたという相手が変わっているのである。
 すなわち、それは、『武公伝』では、武蔵の相手は吉岡清十郎なのだが、『二天記』では相手が岩流(小次郎)になってしまっている。この変更はいかがしたものであろうか。
    (武公伝) 先年吉岡清十郎ト仕合ノ節
    (二天記) 貴方先年岩流ト勝負アリシ時
 『二天記』の奥書で作者の豊田景英は、《如其文猶未脱藁、唯取明事実耳。恐致毫釐過千里、是以不敢改之》と書いているが、これはその言を裏切るものである。あるいは、何か理由があって、景英は武蔵の相手を変更したのだろうが、それもいまひとつ明らかではない。
 考えられるのは、上に述べたように、小倉碑文には、《触木刄之一撃、吉岡倒臥》とあって、武蔵の道具は「木刄」つまり木刀だが、吉岡の道具については記述はない。ところが『武公伝』は、《吉岡ハ眞劔也。武公木刀ヲ以一ビ撃之》と記しており、肥後ローカルな伝説記事を記している。
 『武公伝』の著者が参照している『武芸小伝』には、武蔵・吉岡両方とも太刀、あるいは吉岡は大太刀、武蔵は二刀というように諸説を記録している。『武公伝』は、その点を承知のうえで、肥後特有の異説を記したとみえる。しかし、これも出所不明の話である。
 小倉碑文では、相手は真剣で武蔵は木刀というのは、むしろ対巌流戦のときの道具である。相手は真剣、武蔵は木刀、というこの説話素は、巌流島決闘にあるもので、それゆえ、『二天記』の作者は、これを『武公伝』の単純な誤りとして、これを「訂正」してしまったということかもしれない。
 あるいは当時世間では、巌流島決闘をハイライトとする武蔵物演劇や読本が流行していたこともあって、肥後の武蔵流内部でも、この話は相手は吉岡ではなく巌流だ、というトレンドが形成されて、作者もそれに従ったということかもしれない。『二天記』は、八代の兵法稽古所・教衛場で、豊田景英が武蔵流兵法を講義する中で生まれたという背景があるから、そういう公衆世論流行の影響を蒙った可能性がある。
 それをやや具体的に云えば、父正脩の『武公伝』までの段階では、この志水伯耆の質問における武蔵の仕合相手は吉岡となっていたが、景英の師匠とみなしうる村上八郎右衛門の伝承口碑では、これが巌流であり、村上八郎右衛門が武蔵流師役をつとめる八代の教衛場では、すでにそのような異説が語られており、景英は、『武公伝』の伝説よりも師匠の伝説を採択したということかもしれない。
 理由はさまざま考えられるものの、ようするに、これらは肥後における伝説遷移である。『武公伝』のそれより、『二天記』の伝説の方が新型であることは申すまでもなかろう。しかし、これも『武公伝』を知らず、『二天記』しか見なかった者には分からなかったことである。それで、我々の研究プロジェクトが世に出る以前は、志水伯耆は、巌流との試合について武蔵を揶揄したことになっていたのである。





日下部與助元五(志水伯耆)
続英雄百人一首



*【志水氏略系図】

○志水対馬守元久─伯耆守清久┐
           号宗加|
┌─────────────┘
├九左衛門清治―九兵衛清宣

伯耆守元五―新之允―新之允┐
  草辺与助        |
     ┌────────┘
     └主水克元―七之允





熊本県立図書館蔵
重臣たちの屋敷 明暦頃
熊本城二ノ丸之絵図
















*【沢村氏先祖附】
《志水新之允儀、貞享二年七月家督無相違被爲拝領、着座被仰付相勤申候處、病氣罷成候ニ付、御知行家屋敷返上申度段奉願候処ニ、元禄八年四月願之通被仰付、引込居申候。右新之允儀、御暇被下候節、同四月新之允親江百五拾人扶持被爲拝領、同十四年十一月、主水江三拾人扶持被爲拝領候。霊雲院様御代、享保三年二月大組付ニ被召加、沢村衛士組ニ召加候。隆徳院様御代、享保十九年正月新知千石被爲拝領、着座被仰付、木下三郎左衛門組ニ被召加》




*【二天記】
《或年正月三日ノ晩、御花畠ニ於テ御謡初ノ時、各座列ニテ武藏モ有リ。規式未始、潜カニ聲有リ。然ルニ、志水伯耆殿[于時大組頭ナリ]、上座ヨリ武藏ニ曰ク、「貴方先年岩流ト勝負アリシ時、岩流先ニ打タル由、風説如奈。其通リノ様子ニテ有リシヤ」ト尋ラル。武藏トカクノ言ナク、立テ燭臺ヲ取リ、伯耆殿ノ膝本ニツカト座シ、「我幼少ノ時、蓮根ト云腫物致シ、其痕有テ月代難成、惣髪ナリ。岸流ト勝負ノ時ハ、渠ハ眞劔、我ハ木刀ナリ。眞劔ニテ先ヲ打レシナラバ、疵跡アルベシ。能ク御覧可有」ト、左ノ手ニテ燭臺ヲ取リ、右ノ手ニテ髪ヲ掻分ケテ、頭ヲ顔ニ突カヽル。伯耆殿、後ロニ反リテ、「疵見エ不甲」トナリ。(武藏)「聢〔しか〕と御覧有べシ」ト云。(伯耆)「成程得度見屈ケ申シタリ」ト。(武藏)其ノ時ニ立テ、燭臺ヲ直シ、本ノ座ニツキ、髪掻撫テ自若トシテ在リ。眞(ニ)一座ノ諸士、手ニ汗ヲ握リ、鼻息スル者モナク見エタリ。是伯耆一生ノ麁卒也ト、其頃批判有シト也》
 最後に、「徹水家ノ書在リ」とある。
 ここに徹水家とある、その「徹水」とは、前に出てきた道家角左衛門のことである。道家角左衛門は武蔵から教えを受けた人物。その息子の道家平蔵に学んだのが、豊田正剛である。
 すると、この一行はだれが書いたか、といえば、「徹水家」というからには、道家角左衛門のことを知っている人物であり、そうなると、世代からすると、橋津正脩ではなく、父親の豊田正剛であろう。
 つまりは、徹水家の記録文書に、武蔵が志水伯耆をやり込めた話がある、ということになる。この逸話については、徹水道家角左衛門家の書きものがある、といわけである。
 だとすれば、豊田正剛はこの逸話のソースを示していることになる。正剛は、この話を道家角左衛門から聞いたのではなく、角左衛門の家にあった書附を見たというわけである。
 これはこれで、よさそうな解釈である。ところが、やはり問題が残るのであって、「徹水家の書あり」とあるところの「書」を、書附・記録文書とみなすという条件が満足されなければならない。しかも『武公伝』の他例では、道家角左衛門かく語りきという談話ばかりだから、これだけが文書というのも解せない話である。
 しかのみならず、この説話の文体からすれば、文書化されていたものとは思われず、口碑伝承の重層をくぐってきた物語である。したがって徹水道家角左衛門家の文書にあったものが流出して、説話化されたものが、この『武公伝』で採取記録されたとみるべきである。  Go Back


*【武公伝】
《道家平蔵宗成[武公ノ直弟寺尾求馬ノ弟子也。綱利公ノ士家厳ノ師]ノ父、角左衛門[後ニ徹水ト云]ハ武公ノ直弟也》

 
  26 村上八郎右衛門正之先生
  合志郡妻越村在宅
 安永[丙申]年龝*七月廿九日卒
 村上八郎右衛門源正之先生
      舎兄村上平内正勝云
              兵法四代爲師範
 法名
   兵法二天一流五代
   法誠院新滿義得居士 (1)
   合志郡妻越村に在宅
 安永[丙申]年〔安永五年・1776〕秋七月二十九日卒
 村上八郎右衛門源正之先生
      舎兄は村上平内正勝と云い
              兵法四代、師範となる
 法名
   兵法二天一流五代
   法誠院新満義得居士

  【評 注】
 
 (1)村上八郎右衛門正之先生
 村上八郎右衛門の命日法号に関するメモのような記事である。すでに本サイトの[坐談武蔵]で述べられているが、第一巻末尾に記されたこの記事は、実は『武公伝』の成立に関して、大きな問題をはらんでいる。そのことに関わる前に、まず、記事内容を検分しておかねばならない。
 村上八郎右衛門正之は、ここに「兵法二天一流五代」とあるように、武蔵流末裔である。そして八郎右衛門は、村上平内正雄の二男である。ここに「舎兄村上平内正勝」とあるのは、村上八郎右衛門の兄で、村上平内正雄の嫡男・平内正勝である。
 この村上氏について若干説明をしておく。先祖附によれば、村上先祖は、伊予国能嶋城主・村上氏、つまり村上水軍の一つ、能島〔のしま〕村上氏である。
 ルイス・フロイス『日本史』によれば、フロイスは能島にも立ち寄ったらしく、「やがて我ら一行は、ある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や領地や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の人々は、彼によって破壊されることを恐れるあまり、毎年、貢物を献上していた」とある。
 能島村上氏は、戦国末期毛利氏に属し、瀬戸内海を舞台に信長方と対戦した。秀吉が毛利氏と和睦すると、因島・来島の村上水軍は秀吉方についたため、村上水軍内部で抗争が生じ、のち能島村上氏は海賊禁止令による犯罪集団に貶められ滅亡する。
 村上平内先祖は村上弾正少弼隆重、つまり能島村上氏五代村上大和守武吉(1533〜1604)の叔父である。隆重は備中笠岡山城主、笠岡掃部とも称した。のち小早川隆景に属した。村上隆重嫡子が村上八郎左衛門尉、後東右近太夫と改む。隆重二男が村上縫殿介、細川忠興が豊前で召出し、細川氏肥後入部後、八代で長岡河内と改め、細川三斎の家老をつとめた。村上氏先祖附に知行三万石とあるが、これでは三斎の家計が成り立たない。
 東右近太夫の子が村上吉之允正重(1606〜38)。父病死後、幼少のため豊前にいる叔父縫殿介方で養育された。忠利が児小姓に召出し、知行二百石。のち、有馬陳(島原役)に出陣するも鉄砲で撃たれて負傷、帰国し養生したがついに絶命、享年三十三。
 この村上吉之允が、二階堂流の松山主水の高弟で、主水死後並ぶ者なき名人として、備前の『撃剣叢談』に出てくる。そして、なんと、かの宮本武蔵が、村上吉之允に恐れをなして、試合をする前に敵前逃亡したという逸話を記す。これは備前岡山で記録された伝説で、論評外のまったくの笑話なのだが、十八世紀後期になると、こんな反武蔵伝説が現われていたのである。そして、この村上吉之允正重が、八郎右衛門には曽祖父なのである。八郎右衛門もこんな伝説が後に出てくるとは思いもしなかったであろう。
 吉之允正重の子が吉之允正之(1633〜97)。寛永十五年(1638)父吉之允正重が若死にしたので家督相続、この節はまだ六歳であった。正保四年、武蔵が死んだ翌々年だが、ポルトガル船長崎来航という事件のおり、吉之允正之は出陣、年齢は十五歳、元服前であった(村上氏先祖附は、正保三年七月、吉之允十四歳とするが、これは誤記であろう)。その後は、江戸・長崎・天草・鶴崎ほかに勤務し、あるいは郡奉行、御番方組脇役、鉄炮頭、作事頭等々諸役を歴任して、元禄四年(1691)隠居、そして家督二百石を相続したのが、村上平内正雄である。すなわち、村上八郎右衛門の父である。
 この村上平内も家督するまで年月があったから、それまでに兵法修行の期間は十分にあっただろう。平内は新免弁助の門弟だという。村上平内の生年は墓誌になく不明である。しかし、新免弁助の生没年(1666〜1701)からすれば、村上平内は新免弁助と同世代か、あるいは年上の可能性もあろう。村上平内が家督したとき、新免弁助は二十六歳である。
 先祖附には、村上平内は元禄四年(1691)父吉之允の家督を相続して、勤務するうちに、「内存の儀」があって、元禄七年(1694)致仕を願い出たが、許されなかったとある。そして三年後の元禄十年(1697)、平内が、「世間出合宜しからず、ことのほか手荒き打合などして風聞宜しからず」という旨で、知行家屋敷を召上げられたという。
 このあたり、先祖附の記事は曖昧で、何かあったと思われるが、よくわからぬ事件である。平内正雄は、兵法修行のために、わざと仕組んで、先祖以来の二百石の知行召上げを蒙り、以後浪人として自由な身分になった、と思えないこともない。実際、それから死ぬまで四十年、平内正雄は合志郡妻越村の田舎へ引っ込んで、門弟を教えながら自由な日々を送ったらしい。そういう生き方の武士もあったのである。
 たとえば、寺尾孫之丞にしても同じである。孫之丞は武蔵に長年隨仕修行していたようだが、武蔵死後は肥後に留まり、門弟を教えた。孫之丞は生涯浪人のまま、仕官しなかった人である。武士はだれもかれも仕官を望んだわけではない。むしろ、浪人の身を選んだ者もいたのである。
 余談になるが、元禄十年村上平内が知行家屋敷を召上げられるまで、その屋敷がどこにあったか、探してみたことがある。途中の経緯は省くが、結論を云えば、京町にあった。これについて興味深い点が二つあり、一つは村上平内の屋敷が、他の屋敷地(図中白色)から離れて、鉄炮組子のゾーンの中に一つだけ孤立してあることだ。これは何か訳があるのか、地元の研究を待ちたい。
 もう一つは、京町筋の方に本庄喜助の屋敷がみえることである。この本庄喜助は、筑前二天流を派生した柴任三左衛門美矩の甥の子である。柴任三左衛門の晩年は播州明石に居たが、当時その実家がこの本庄喜助である。宝永七年(1710)死の年、柴任は自分の遺品を明石から肥後熊本の喜助に送った。そのとき中間の藤次郎という者を荷に付けて行かせたという(別冊本庄家系譜)。
 村上平内と柴任三左衛門。この二人は武蔵門流の中でも興味深い人物だが、考えてみれば、元禄十年という年には、まだ柴任は存命で、『丹治峯均筆記』の立花峯均は、元禄十四、十六年の二回、江戸往還の途中、明石の柴任を訪ねて教えを受けている。元禄十四年には新免弁助が三十六歳で死んだ。この頃、播州赤穂の浪人たちが江戸で吉良の首を取った。そういう元禄時代のことである。
 話を戻せば、村上氏先祖附によれば、村上平内の知行召上げにさいし、親類中には平内を粗略に扱わぬように指示があり、また、平内が他国の仕官を望むようなことがあれば、「一類中へ迷惑仰付」、つまり親類中に累が及ぶぞ、という警告恫喝もあったとのことである。あるいは、他国へ出て廻国修行したいために、わざと粗暴な振舞いをして、知行を召上げられ浪人になったが、それを見透かされて出国を禁じられた、というのもありそうな話である。
 ともあれ、村上平内は浪人して田舎に蟄居したかたちだが、兵法修行とという念願の生活に入ったわけで、後には彼の兵法指南は公認され、その功労を褒美されている。言い換えれば、平内の浪人生活のおかげで、十八世紀中期以降の武蔵流兵法の余命が更新されたのである。
 村上平内に男子二人あり、長男が平内正勝、二男が八郎右衛門正之である。両人とも父平内正雄に学び、やはり浪人であったが、後に、熊本の学校・時習館の兵法稽古所で武蔵流の師役を勤めた。平内正勝は、宝暦五年(1755)召出されて、五人扶持で剣術師役。同六年、米二十俵を毎年支給されるようになり、同八年、米十俵加増され、学校時習館への出榭料(師役料)として、毎年銀五枚を給されるようになったとある。このように兵法師範の役料はささいなものだが、村上家のケースでは門弟をとって指南していたから、仕官しなくとも生計に困ることはないのである。
 弟の八郎右衛門は兄の相役として、時習館で教えていた。先祖附に《二天流劒術指南いたし、榭相役被仰付、門弟召連、出榭いたし候由》とあるように、妻越村から門弟を引き連れ、熊本へやってきて、時習館で教えたのである。村上平内正勝は安永二年(1773)死去した。八郎右衛門も、三年後の安永五年(1776)に死去した。『武公伝』の記事はこれに関わるものである。
 平内正勝の子・平内正則も師役を勤めた。また八郎右衛門の子・大右衛門正保は、父の門弟に推挙されるかたちで、時習館の師役になった。どちらも、剣術の家として立つようになったのである。
 他方、八郎右衛門門弟に野田一渓種信があることは、既述の通りである。こちらは、居合・剣術・小具足三流の師役を勤める家になった。このように村上平内正雄からいわゆる村上派が生じ、それがさらに村上八郎右衛門を介して、野田一渓種信の野田派を生む。十八世紀中期からは、実質的には村上平内系統の門流が武蔵流兵法の主流になると申して差し支えない。

 あるいはこれに関連することだが、村上派の祖である村上平内正雄について、他派からさまざまな伝説も生じた。
 宝暦五年の時習館創設のとき、東西榭という兵法稽古所ができた。そのうち武蔵流の師役には、村上平内と志方半兵衛の二人の名がみえる。云うまでもなく、このときすでに村上平内正雄は歿しているから、この「村上平内」は、息子の平内正勝である。時習館の師役となると、これが当時肥後における武蔵流の代表者である。それが、志方半兵衛之経と村上平内正勝の二人なのである。
 いわば、寺尾(志方)派と村上派がライバル関係にあった。それも同じ新免弁助から出た門流である。志方半兵衛にはことのほか正統意識が強いが、それは彼が寺尾求馬助の孫であり、しかも武蔵二代の新免弁助の相伝者だからである。しかし、志方半兵衛がことさら正系を主張するのも、村上派とライバル関係にあったからである。そこから、いろいろと面倒な話が出てくる。
 つまり、そのうち、村上平内正雄は新免弁助から一流相伝をうけたのではない、という説が生じた。ようするに寺尾家記などによれば、村上平内はたしかに新免弁助の門弟だったが、「弟子さり」、つまり破門された人間だということになった。これは、排他的な党派性のなすところであって、村上平内は正統性をもたないと云うにとどまらず、新免弁助から破門された者だ、と貶める伝説が生じたのである。
 しかもその破門説話に枝葉が伸張して、ほとんど講談じみた逸話へ発展した。村上平内は、師匠の新免弁助さえいなければ自分が日本一の称号を得ることができると考えて、隙を狙って新免弁助を殺そうとするが、はたして、逆に弁助に取り押さえられ、破門されたというわけである。
 さらに話は続く。――その後、村上平内は知行召上げにあって、妻越村へ逼塞するのだが、そこで近村の者を集め、兵法指南をして口を糊した。しかるに、二天流兵法指南と称したので、新免弁助は高弟二人(そのうち一人は、のちの志方半兵衛)を派遣し、それを止めさせた。平内が云うに、知行を召上げられて生活に困っている。どうか兵法指南は許してほしいと。高弟二人が帰って報告すると、新免弁助は村上平内を憐れんで、指南することを許した。ただし、二天流・武蔵流を称することは許さないという条件付きであった、云々。
 こうした伝説は、『二天記』に末尾に付された友成正信の奥書(天保十五年孟冬)にも記されているのだが、明らかに、派閥間の近親憎悪じみた排除のメカニズムの所産である。勢力を伸張してきた村上派に対抗するための、寺尾(志方)派の伝説である。村上派には二天流・武蔵流を称することは許さないというネガティヴな感情は、そもそも新免弁助が村上平内にそれを禁じたという説話の生産に至るのである。とはいえ、こうした寺尾(志方)派の伝説形成をみれば、その後村上派がいかに勢力を伸張させたか、それを証言するものだと云える。
 しかしながら、村上平内正雄の時代はむろんのこと、平内正勝・八郎右衛門正之兄弟の代でも、そんな荒唐無稽な伝説はまだ発生していない。村上平内正雄(正緒)の墓には、「新免武藏守藤原玄信三代之門弟」とあるし、安永二年(1773)歿の村上平内正勝の墓にも同様に「新免武藏守藤原玄信四代之門弟」と銘記されている。この三代・四代という数え方は、いづれも「武蔵二代」新免弁助を経由していることを示す。もし村上平内正雄が実際に新免弁助から破門されておれば、こんな墓碑銘はありえないのである。
 ところで、その兵法伝系のことになるが、村上平内正雄は、新免弁助の弟子であった。新免弁助は、武蔵の新免家名を嗣いだ者だが、他に述べられているように、武蔵の死後生まれた人物だから、武蔵の面授相伝はありえないのに、「兵法二天一流二代」とされる特異な存在である。
 新免弁助が二代目なら、その門弟・村上平内正雄は三代目になる。新免弁助が学んだ父・寺尾求馬助が勘定に入っていないから、順番数字が一つずつ繰り上がっているのである。そして、村上平内正雄が三代目で、四代目が嫡男・平内正勝となる。そこで、『武公伝』の記事に、「舎兄、村上平内正勝と云い、兵法四代、師範をなす」とあるというわけである。ここで師範とあるのは、村上平内正勝が、熊本の時習館で武蔵流兵法を教えた事績を指すのであろう。
 『武公伝』の記事では、村上八郎右衛門を「兵法二天一流五代」とする。つまり、兄の平内正勝の跡を継いで五代目ということらしいが、実際には父の平内正雄の教えを受けていたから、兄と同じく四代目なのである。平内正勝が四代目なら、五代目はその息子・平内正則である。弟の八郎右衛門は、兄と相弟子だから同じく四代目で、分岐して息子の大右衛門以下の別系統の門流を生むのである。それゆえ、八郎右衛門の現存墓碑には、「兵法新免武藏四代之門弟」とある次第である。兵法何代というのは、あちこちで数え方が違うのである。








今治市村上水軍博物館蔵
村上水軍旗幟

*【村上家略系図】

○村上弾正少弼隆重┬東右近太夫┐
         │     │
         └縫殿介  │
           長岡河内│
┌──────────────┘
└村上吉之允正重―吉之允正之┐
┌─────────────┘
平内正雄─┬平内正勝―平内正則
│     │
└吉之允正房└八郎右衛門正之┐
      ┌───────┘
      └大右衛門正保─貞助




*【村上氏先祖附】
《村上平内儀、元禄四年、父吉之允に被下置候御知行家屋敷無相違被爲拜領、相勤居申候処ニ、内存之儀御座候而、元禄七年、御暇奉願候得共、不被爲相叶、相勤申候処、同十年、右平内儀、世間出合不宜、殊之外手荒打合なとニ懸り風聞不宜旨ニ而御知行家屋敷被召上候段、被仰渡候》

*【村上氏先祖附】
《然る處、平内病身に罷成、御奉公難動、御知行差上度、奉願候處、叶はせられず、無構其儘罷在候樣仰付られ候。(元禄)十年、平内儀世間出合不宜、殊の外手荒打合等に懸り、何も悪き風聞致候間、御知行召上られ候段仰渡され候。其後監物殿宅にて、三宅藤兵衛を以、平内御知行召上られ、難儀可致間、一類中より麁末に不致候樣、一類中へ申渡に相成、且又平内他國を望共にては無之歟、若左樣の儀有之節は、一類中へ迷惑仰付られ候段、申渡に相成、前々の通、思召の筋も在せられ候間、身を崩不申、押移候樣仰付らる。其後金子御米等拝領、元文四年十二月病死。四代平内正勝、劔術指南仕、延享元年武藝上覧の節、門弟引廻罷出候處、鍛錬の御褒美として、金子二百疋下さる。寶暦五年二月、五人扶持下され、劔術師範役仰付られ、六年二十俵増、八年十俵増、安永二年九月病死》


熊本県立図書館蔵
村上平内屋敷



*【北岡御記録】
《村上平内儀、二百石下し置れ候處、手荒所行有之、元禄十年八月、御知行召上られ、其後平内五代の孫、村上孫四郎儀、豊前以來の家筋に對せられ、天保十二年十二月、五人扶持御中小姓に召出され候事》

*【村上氏先祖附】 平内正雄
《宝暦五年二月、御奉行所江被召出五人扶持被爲拝領、劔術師役被仰付、同六年七月、御米弐拾俵充毎歳被爲拝領候。同年九月、於奉行所御紋附御上下被爲拝領、同八年十一月、御米拾俵被増下、并爲出榭料毎歳御銀五枚充被爲拝領候。相勤居申候処、安永二年九月病死》

*【村上氏先祖附】 八郎右衛門
《村上八郎右衛門儀、元禄十年御暇被下候村上平内二男之由。二天流劒術指南いたし、榭相役被仰付、門弟召連、出榭いたし候由ニ候》


*【村上派系統図】

○新免武蔵玄信―寺尾求馬助信行┐
 ┌─────────────┘
 └新免弁助信盛―村上平内正雄┐
 ┌─────────────┘
 ├村上平内正勝―村上平内正則
 │
 └八郎右衛門正之┬村上大右衛門
         │
         └野田一渓種信












*【寺尾家記】
《或曰、(新免辨助信盛)門弟に、村上平内正雄なる者あり。深く此の技に志し奥旨を究む。然るに、心常に兵法天下一の號を立んことを欲すれども、師信盛あるを以て、未だ之を遂ること能はず。是に於て、遂に之を撃殺さんことを圖る。或日巨大の木刀を携來り、之を窺へば、信盛方に餘念なく書を窓下に讀む。平内潜に忍て室に入り、後より之を撃つ。信盛引迦し飛で其手を抑へ、大に怒て木刀を奪取り、子細を問へば、恐入一々白状す。信盛因て弟子差離せり。其木刀は無用の品なれども、今當家に有す。其後、平内御暇を蒙り、合志郡妻越村に引入浪人し、近村の者を集め平方をヘへ、自ら二天流兵法指南と稱す。信盛之を聞き、高弟二人[小崎孫右衛門、志方半彌]を遣し、云しめけるは、「其地に於て二天流兵法御指南候由、拙者門弟差離候上は、當流指南と稱すべからず」と之を停止す。依て平内兩人に對し、仰せ下され候儀は、「萬々奉恐入候。然るに平内當時御知行召上られ、活計の術なきに由り、伏て乞ふ、指南は許されんことを」。兩人歸報す。信盛憐み、之を許し、重て二天流・武蔵流と稱することを禁ずと云》

*【二天記奥書】
《或曰、村上平内正雄者、學兵法於新免辨助之門。其派存于今者二家。子今作武藏流傳統系圖。而外之者何耶。曰、余甞聞正雄學兵法於辨助師之門久矣。藝既成。以爲天下唯師勝已也。心竊害之、乃携四尺餘木刀、撃其不意。師徒手奪其刀、叱而逐其門。後數年、正雄授劍法於人、師之姪志方之經聞之、以書責其僭。正雄答謝曰、浪士無由糊口、用所自給耳。然所授于人非所受師也。之經恕不問。是以遂興一家、名曰村上流。其謝書存于志方氏。木刀存于寺尾氏。皆歴々于今。然而世人以村上大塚二家出于正雄者、混志方山東二家出于武藏守者、而共稱武藏流。余恐眞僞之辨久而u癈也。故作武藏流系圖、別附以村上流、掲之於二天記之末。以示後人矣。
 天保十五甲辰歳孟冬 友成正信識》




*【村上派系統図】(再掲)

○新免武蔵玄信―寺尾求馬助信行┐
 ┌─────────────┘
 └新免弁助信盛―村上平内正雄┐
 ┌─────────────┘
 ├村上平内正勝―村上平内正則
 │
 └八郎右衛門正之┬村上大右衛門
         │
         └野田一渓種信
 そこで、『武公伝』の記事にもどれば、これは村上八郎右衛門の法名命日の記録である。「合志郡妻越村在宅」というのは、この地に住んだということである。八郎右衛門の父・村上平内正雄が知行を召上げられて後、村上家はこの妻越村に住むようになったのだった。
 しかし「在宅」とは、より厳密にいえば、城下町の熊本ではなく、在郷に住むという意味である。知行取りでも、皆が皆、城下に住まねばならなかったわけではない。それも、必ずしも知行地に屋敷を構えて住んだのでもない。ようするに、細川家臣なら熊本に屋敷を与えられて住むのが基本だが、必要がなければ、在郷に住居をもってそこで生活した。これが「在宅」である。
 そういうことからすれば、村上八郎右衛門の「在宅」も、城下ではなく在郷に住んだという意味である。ただし、ここはやや意味が違っている。八郎右衛門の村上家は、父の代から浪人しているから、細川家臣の知行取りが在宅だというのと同じ話ではない。しかし『武公伝』の記事は、浪人の村上家を家士同様に扱っているわけである。
 ところで、村上八郎右衛門が在宅したというこの「合志郡妻越村」とはどこか。これは熊本から遠く東北方向に五里ほど離れた村である(現・熊本県菊池市旭志新明)。妻越村に在宅というが、おそらくここに親類の知行地でもあったのであろう、村上平内正雄はここに居着いて、息子たちを育てたのである。同地には村上家代々の墓が残っている。


元禄国絵図
関係墓所地図

村上家墓所
熊本県菊池市旭志新明


村上家墓所

村上八郎右衛門墓
法誠院心満義得居士

 ここに八郎右衛門の墓もあって、それによれば、法号は「法誠院心滿義得居士」で、命日記載は右に没年「安永五[丙申]」、左に命日「七月廿九日」と刻まれている。裏面には、
    兵法新免武藏四代之門弟
           村上八良右衛門源正之墓
とあって、『武公伝』の記事とほぼ一致する。ただし、すでに述べたように、『武公伝』の記事では、村上八郎右衛門を「兵法二天一流五代」とする。つまり、兄の平内正勝(四代)の跡を継いで五代目という位置づけだが、上述のごとく実際には、兄正勝が四代目、弟正之が五代目というリニアな関係ではない。むしろ、八郎右衛門の村上家墓碑には、「兵法新免武蔵四代之門弟」とあるから、村上家の位置づけでは、正勝弟の八郎右衛門は兵法五代目ではなく、四代目なのである。
 もう一つ違いを云えば、八郎右衛門の法号である。すなわち、
    (武公伝記事) 法誠院新滿義得居士
    (村上家墓碑) 法誠院心滿義得居士
とあるごとく、『武公伝』の記事と村上家墓碑では文字が違っている。この「新滿/心滿」の相異は誤記と言うべきであろう。これが写本の誤写でなければ、『武公伝』の筆者は、位牌等を実見して書いたのではない、八郎右衛門死後早々に伝聞で書いたというところであろう。景英はこの段階では、妻越村へ行っていないと思われる。
 したがって、改めて村上八郎右衛門を「兵法二天一流五代」とする『武公伝』の記事を見れば、八郎右衛門墓誌からすると誤りということになるが、実はこちらは必ずしもそうではない。
 この『武公伝』の記事は、村上八郎右衛門没後まもなくの記事と思われる。つまり、村上平内正勝は安永二年(1773)卒去、八郎右衛門はその三年後に歿、そこでこの三年間、四代目の兄正勝の跡を継いだ格好で、五代目を称した可能性がある。すると、『武公伝』の「兵法二天一流五代」とは、この当時の八郎右衛門の位置づけを記録した資料だということになろう。
 言い換えれば、のちに、兄の平内正勝系統と八郎右衛門正之の系統が確立し、明確に分岐するようになって、八郎右衛門を兵法系譜上、五代目ではなく、村上平内正雄から相伝をうけた四代目と位置づけることになったのである。それゆえ、「兵法新免武蔵四代之門弟」とある八郎右衛門の墓碑は、『武公伝』の記事より新しいと見なければならない。


妻越村上家墓所
村上八郎右衛門墓石背面刻字
「兵法新免武藏四代之門弟 
  村上八良右衛門源正之墓」


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 ところで、不審とすべきは、武蔵伝記であるはずの『武公伝』の、こんなところに、唐突にも「村上八郎右衛門源正之先生」の法名命日、いわば鬼籍が記されているのはなぜか、ということである。村上八郎右衛門は『武公伝』と同時代の人であって、武蔵流兵法末孫である。そんな村上八郎右衛門の法名命日が出てくる、この記事の明らかな唐突さ、それには理由がなければならない。
 この記事には実は大きな問題がある。それというのも、『武公伝』という書物の成立に関わることなのである。解題に述べられていることなので重複するが、結論に達する以前の当初の我々のプロセスをたどれば、以下のようなものであった。
 そもそもこの村上八郎右衛門記事の問題点は武蔵研究では看過されてきた。また、この法号命日の記事を書いたのは誰なのか、という設問があってしかるべきなのだが、そんなことは武蔵研究史において誰も問わなかったことである。
 『武公伝』に関して、これまで武蔵研究において語られてきたことは、豊田正剛(1672〜1749)の覚書をもとに、息子の正脩(1706〜64)が書いた、宝暦五年(1755)の著作だということである。
 このように成立時期を宝暦五年とするのも、後継『二天記』に、冒頭凡例として、「寶暦五乙亥年二月 橋八水正脩著」とある覚書を掲載しているのを見てのことである。ここにある「橋八水正脩」とは、橋津八水正脩のことで、漢流に橋津姓を「橋」一文字に書いたのだが、なぜ橋津なのかというと、元文二年(1737)に豊田から橋津へ改姓したから、当時は豊田家は橋津姓なのである。八水は正脩の隠居号である。つまり、正剛の息子・正脩の覚書を、孫の景英が『二天記』冒頭に引用したという形である。
 これに追い書きして豊田景英が、この書は『武公伝』とあったのを『二天記』と改めたと記している。このため、『武公伝』と『二天記』を混同して見境がつかないという蒙昧な有様で、かつては『二天記』の成立をこの宝暦五年とする説が支配的であった。それは明らかな謬説で、さすがに最近では影をひそめたようである。それに代わって近年修正説として出てきたのが、『武公伝』の成立を、この八水正脩覚書の期日、すなわち宝暦五年とみなすものである。問題の宝暦五年は、『二天記』ではなく『武公伝』の成立年とされるようになったのである。
 ところが、『武公伝』の方には、「寶暦五乙亥年二月 橋八水正脩著」とする凡例記事はない。期日著者名がないから、『武公伝』写本によるかぎりは、成立時期と著者名は直接には知れない。だからといはいえ、このように『二天記』という別の書物の凡例をもって、一書の成立時期確定に流用するのも、書誌学的に云えば、まことに杜撰と云うべき仕儀である。ところが、今日では、『武公伝』成立をこの期日記名によって、「宝暦五年(1755)豊田正脩(橋津八水)著」とするのが通説と化してしまったのである。
 しかしながら、『武公伝』を「宝暦五年(1755)豊田正脩(橋津八水)著」とする通説論者は、明らかに『武公伝』を見ていなかったのである。もし読んでおれば、ここに村上八郎右衛門の法号命日の記事が出ていることの矛盾に気づくはずだからである。つまり、
    宝暦五年(1755) 「寶暦五乙亥年二月 橋八水正脩著」
    明和元年(1764) 橋津正脩隠居、号八水。同年卒
    安永五年(1776) 村上八郎右衛門正之卒
というわけで、村上八郎右衛門の死は、宝暦五年の二十一年後、『武公伝』の著者とされる橋津八水正脩の死後十二年である。論を俟つまでもないが、宝暦五年に成立した『武公伝』が村上八郎右衛門の法号命日を書けるわけがないし、また、安永五年に死んだ村上八郎右衛門の法号命日を、明和元年歿の橋津八水正脩が記録できるわけもない。
 したがって、この記事を書いたのは、橋津正脩ではなく、正脩死後も生存していた他の何者かだ、という当然の結論に至るのである。我々はそれを、『武公伝』に加筆することのできたほぼ唯一の人物、つまり正脩の息子、豊田専右衛門景英とみなした。
 このことからすれば、『武公伝』は決して橋津正脩著だと云えないのである。しかも、『二天記』の作者・豊田景英は、なんと『武公伝』の筆者の一人である。『武公伝』こそ、正剛・正脩・景英の豊田氏三世の作なのである。また、村上八郎右衛門正之の法名命日記事がある以上、『武公伝』を宝暦五年成立の書だとはみなしえない。これらは従来の通説を転覆せしめる諸事実である。
 言い換えれば、正脩は『武公伝』を完成させて死んだのではなく、草稿のまま息子の景英に遺した。はじめ景英は『武公伝』に改訂増補していたが、途中でそれを棚上げにして、新しく『二天記』を書き下ろしたものらしい。しかし、景英があちこちに手を入れた『武公伝』は残ったが、正脩がある程度まで仕上げて景英に遺した八水版『武公伝』は存在しない。言い換えれば、『武公伝』は『二天記』著者・豊田景英段階の原稿としてしか存在していないのである。

 ところで、もう一つ残る問題は、『武公伝』に、なぜ村上八郎右衛門のこの記事が書き込まれたのか、このように唐突にもここに出てくるのか、ということである。村上八郎右衛門は武蔵流兵法流末であって、寺尾孫之丞や寺尾求馬助ら武蔵直弟子は別にしても、村上派なら新免弁助や村上平内正雄あたりの鬼籍を記すのならともかく、ここでなぜ村上八郎右衛門なのか。
 これについて云えば、この記事では村上八郎右衛門を「村上八郎右衛門源正之先生」と記すことに注意すべきである。このように「先生」と記す以上、この記事を書いたのは、村上八郎右衛門の弟子筋であろうと推測がつく。
 他に述べたように、豊田景英は村上八郎右衛門の弟子であった。『武公伝』の他の箇処にも、「村上八郎右衛門正之先生」が登場する。たとえば、『武公伝』の寺尾求馬助の息子たちの記事だが、それが「村上八郎右衛門正之先生」の話なのである。これも景英が書いた『武公伝』記事であると見当がつく。景英は村上八郎右衛門の門弟後生だから、「先生」と記したのである。もしそうでなければ、「先生」付けにはしない。たんに「村上八郎右衛門」である
 では、豊田景英が村上八郎右衛門の門弟だったのかどうか、それを傍証する資料はあるのか。もとより相伝証書の類いは現存していない。ところが、これには幸い、豊田景英自身が書いて提出した文書がある。すなわち、豊田家の奉公由来を記した御給人先祖附がそれである。
 景英は明和七年(1770)二月にこれを提出した。また十一年後の天明元年(1781)閏五月には、豊田守衛名で覚書を提出しており、明和七年以後の追加記事がそこにある。
 豊田氏先祖附を見るに、明和元年(1764)五月、父の正脩が隠居して、景英は百五十石の家督を相続した。二十五歳のときである。ところが父の正脩は隠居後まもない同年十月死去、享年七十八歳。橋津家を相続した景英は御馬廻組に配属され、式台御番をつとめた。その後、景英は、「武蔵流兵法稽古見締」を命じられたとある。つまり家士たちが兵法稽古をする監督である。これは家督相続して間もない二十六歳頃であろう。
 当時八代城二ノ丸には学校があった。文学稽古所は「伝習堂」と呼ばれ、兵法稽古所は「教衛場」という名で、同じ場所に並んで設置された。これは八代城内にあった文武二道の学校で、宝暦七年(1757)の創立。むろん周知のごとく、肥後における学校設立は細川重賢(1720〜1785)のいわゆる宝暦の改革の一環であり、熊本にはこれより早く宝暦五年(1755)に学校「時習館」が開設されている。その時習館には、「東榭・西榭」と呼ばれる兵法稽古所が設置された。創立当初の師役リストには、武蔵流関係では、志方半兵衛と村上平内の二人の名があることはすでに述べた。
 豊田景英が「武蔵流兵法稽古見締」を命じられたのは公務であって、八代の兵法稽古所・教衛場で教えたということだろう。しかし「稽古見締」だから師範ではない。まだ師範代でもない、いわば助手である。一時蔵米管理の役にも付いたが、三十歳のときには「武蔵流兵法出精仕候様被仰渡候」とあるから、二十代後半からは景英は教衛場で兵法稽古の助手をつとめていたらしい。
 すると、八代の教衛場での武蔵流兵法の師役はだれだったか。同じく景英が天明元年に提出した先祖附追加文書によれば、安永三年(1774)四月、景英は「二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見」を仰せ付られ、同年十二月、稽古料として毎年金子百疋を支給されることになったようだ。ようするに我々は、ここでかの「村上八郎右衛門」の名に遭遇するというわけである。
 熊本の時習館の兵法稽古所では、その創立当初から、八郎右衛門の兄・村上平内正勝が武蔵流師役になり、弟の村上八郎右衛門もその相役を勤めた。他方、八代の教衛場で武蔵流師役をつとめたのは、村上八郎右衛門であろう。そして安永三年といえば、豊田景英は35歳、多年の功を積んで、あるいは教衛場で村上八郎右衛門の助手を十年来つとめ、ここに至って「二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見」を命じられたということであろう。
 村上八郎右衛門の兄・平内正勝は前年死去、八郎右衛門はその後継であるから、八代に下ることもあまりできなくなったようである。また、八郎右衛門はその頃老齢で、八代へ来るのも大儀になっていたのであろう。代見の必要はあったのである。
 しかし、その代見となると、これは八郎右衛門の門弟であったはずで、しかも師範代だから、八代では門弟筆頭格ということらしい。村上八郎右衛門の門弟には村上大右衛門と野田一渓があって、これが道統歴史に残る主流だが、当時の八代に関する限りは、村上八郎右衛門の代見を勤めたという豊田景英が門弟代表だったようである。
 その後、村上八郎右衛門歿後のことになるが、安永九年(1780)五月、四十一歳の景英は二天一流の師役を命じられる。これは村上八郎右衛門が師役をつとめたその後任ということであろう。それまで、村上八郎右衛門の死の前後六年、景英は八代教衛場で師範代をつとめ、その役料も支給されていたということである。ただし、二天一流師役になったその役料については先祖附に記載はない。
 かくして、我々の所見では、『二天記』の豊田景英は、村上八郎右衛門の門弟であっただろうという結論である。とすれば、『武公伝』に「村上八郎右衛門正之先生」なる表現が出てくるわけである。村上八郎右衛門を「先生」と書くのは、豊田家三代ではまさに景英以外にありえない。
 『二天記』の宇野惟貞序の日付記名は《安永丙申仲冬 宇貞識》とあり、また『二天記』の奥書に豊田景英自身が記した日付記名は、《安永[丙申]仲冬日 豊田景英子俊書》。つまり、ともに安永五年(1776)の十一月である。これをもって『二天記』成立の時期とするのが当然であり、我々もまたそれに同意している。しかし、他方、『二天記』が成ったこの年の七月に、村上八郎右衛門が死去しているのである。
 申すまでもなく、法名・命日を記せるのは、卒後のことである。それゆえ、『武公伝』の村上八郎右衛門記事が書かれたのは、それ以後でなければならないが、豊田景英がことさらにこれを『武公伝』に書き込んだとすれば、それは村上八郎右衛門卒後間もなくのことであろうと思われる。巻末に及んで、ここで豊田景英は、死んだばかりの師匠の村上八郎右衛門の法名命日を記録加筆した。ここに何か奥書でも書くつもりだったかもしれない。
 以上のことから、『二天記』が書かれる直前まで、『武公伝』が書かれていた可能性がある。おそらく安永五年(1776)の秋までには、景英は『武公伝』を増補する筆を入れていた。教衛場での武蔵流兵法講義のためである。村上八郎右衛門の記事を書き入れたのも、そのためであろう。しかし間もなく、『武公伝』の修正加筆を放棄して、新たに書き下ろしたのが『二天記』。後記に《如其文猶未脱藁、唯取明事実耳。恐致毫釐過千里、是以不敢改之》とあるが、むろんその言とは違って、まったく別の書物を書き上げたのである。
 さて、『二天記』の豊田景英が『武公伝』の記事も書いていた。――これは、武蔵伝記研究においてきわめて重要な事実である。言い換えれば、自分の師匠・村上八郎右衛門の記事を書き記したことで、豊田景英は『武公伝』の成立について、まさに看過すべからざる重要な標識を刻印してくれたのである。その標識を見過ごしてきたのが従来の武蔵研究であるが、それが認識されるべき時期が到来しているのである。
 『武公伝』にあって、『二天記』にはない記事は多い。それはおおむね、豊田景英が拾わなかった父祖の記事である。ところが、この村上八郎右衛門の法名命日の記事のように、明らかに豊田景英が書いたと思われる記事にしても、『武公伝』にはあるが、『二天記』にはない。このことは『武公伝』『二天記』比較研究において、注意すべきポイントを示唆する事実である。
 『二天記』を書いたとき、景英は、『武公伝』の記事を取捨選択している。そこで、『二天記』には収録されなかった『武公伝』の記事も多々ある。また記事は収録しても、削除加筆してしまった例も多い。しかし、このように自分で書いた記事も、『二天記』には入れなかった例もある。おそらく他にもあるだろう。それが『武公伝』読解の工程を複雑にする。
 また云えば、『武公伝』写本は、オリジナルの橋津正脩版ではない。すでに豊田景英の手が入った変形版である。そうしたテクストから、オリジナル版『武公伝』を復原しうるか。そのようなことを含め、この未開拓の分野をさらに切り開く後学諸君の研究に期待したい。  Go Back





二天記凡例(武公伝覚書)
「宝暦五乙亥年二月 橋八水正脩著」



*【二天記凡例】
《一 此書ハ豫め先師一生の事を録す。家父卜川正剛、若年の頃、老健成りし直弟の人々の物語ニ、先師徒然の折節、自然打話有し事也。或ハ先師自筆の文書等抄出する也。
一 先師勝負のことは、数十度のことなれば、世説に謂ふ所、或は相手の違ひ、或は別人の勝負、或は其手技乃違ひ、區説多し。最も洩たること多し。
一 先師直弟老健にて、正剛に對し物語有し人々ハ、熊府ノ士道家角左衛門[後ニ徹水ト號ス]、正剛剣術の師・平藏の父なり。或ハ代城の士山本源五左衛門[後に土水ト号す]、中西孫之允、田中左太夫等の噺なり。是等は先師に從て、各大形相傳も有し門弟なり。殊に中西ハ、先師病中ニ松井寄之主より付置れし人なり。
一 岩流勝負の事は、長岡興長主其事を取計ひ在りし故、于今精く聞傳る處なり。又正徳二年の春、豊州小倉之商人村屋勘八郎ト云者、八代に來る。正剛遇之、岩流嶋乃事を問ふ。勘八郎委しく其事を語る。勘八郎親族に、小林太郎左衛門と云者、長州下ノ關の問屋なり。則先師其時宿せし処なり。彼家に老人あり、其者先師舟渡りの時之梢人也。勘八郎度々出會し其噺を聞に、毎囘一言も不違と(云)。故に此度委く知れりと語る。
一 此書の文體は、其人々の噺を直に書留置し覺書の儘にて、文言を不改書するなり。猶五輪の書等の中より少々書き加へ、一書と為す者也。
 寶暦五乙亥年二月  橋八水正脩著
此書武公傳と有しを二天記と改て、宇野惟貞に序を乞ふて全書と爲す者也。  豊田景英校》

























*【武公伝】
《寺尾求馬信行[後ニ改七郎右衛門]子息五人、嫡子左介[家督參百石、御鉄鉋頭]、二男吉之介[御中小姓、藤次ト改]、參男加賀介[新組ニ被召出、後ニ御暇ナリ]、四男辨介信明[後ニ新免信森ト號ス]、五男縫殿介[御中小姓、初合太兵衛、後ニ合右衛ト改ム]。右村上八郎右衛門正之先生ノ話也》




*【豊田氏先祖附】 景英
《私儀、同年五月、父彦兵衛家督無相違被為拝領、御馬廻組被召加、御式台御番被仰付、其後、武蔵流兵法稽古見締をも被仰付、其比は橋津甚之允と申候処、同三年十二月、奉願豊田専右衛門と改申候。同四年四月、御近習被仰付、同年八月、永御蔵御目付被仰付、同六年十二月、御式台御番被仰付、武蔵流兵法出精仕候様被仰渡候》


八代市立博物館展示
八代市立博物館展示
二ノ丸の教衛場と伝習堂
八代城城郭模型



*【豊田氏先祖附追加】 守衛
《私儀、御馬廻組ニて、御式台御番相勤居申候処、安永元年正月、御台所頭被仰付候。同二年九月、御台所頭御断奉願候処、被差免、御式台御番被仰候。同三年四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門代見ニ被仰付、同年十二月、為稽古料毎歳金子百疋被為拝領候。同四年九月、奉願名を守衛と改申候。同九年五月、二天一流の師役被仰付、御式台御番相勤居申候》










*【二天記後記】
《此書、本祖父ト川甫所艸、而雜在故書篋中。蓋以説二天師之事者、当時已紛然、無由取眞。是以得故老證話、則筆之、備其忽忘。已至父八水甫、以上去先師之世愈遠、夫人區説不分眞偽、不辨溢美、附会復滋多、於是採輯祖父所録、讀之、其信而明無有、若此者、因以爲、學此流者、不知先師之事、固不可也。況於聽誤以爲眞者乎。是以抄書其所録、加之以自所傳聞。書未成、會不幸病歿矣。景英傷其事不卒、且先師之跡茅塞焉。故謹校之。如其文猶未脱藁、唯取明事実耳。恐致毫釐過千里、是以不敢改之。幸我同志之人垂裁焉
  安永[丙申]仲冬日
        豊田景英子俊書 》

 以上が、二巻本『武公伝』(牧堂文庫本)の第一巻である。原本は不明だとはいえ、写本において、このようになぜ二巻に分けたかその理由は不明である。あえて特徴を分ければ、巻之一は主として武蔵物語である。これに対し、次の巻之二は、続篇で拾遺集というべき内容をもつ。おそらくこういう振り分けは、正脩の段階ではまだなかったかもしれない。



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