宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   10  Back   Next 

 
  29 連歌の会
一 寄之主モ連謌ヲ嗜マレ、熊本二ノ丸屋鋪歌仙ノ間ニテ度々連哥ノ會アリ。長岡右馬助重政主、武公、森嵜玄三ナド會衆也。其外ニモ連中アリ。(1) 何角ト物声次ノ間ニ聞ユレ共、武公ノ聲ハ一向ニナカリシト、其比近習ノ者何モ云アヱリ。[中西孫之亟話、中西角之進云](2)

一 (長岡)寄之主も連歌を嗜まれ、熊本二ノ丸屋敷の歌仙の間で、度々連歌の会があった。長岡右馬助重政主、武公、森崎玄三などが会衆であった。そのほかにも(連歌の)連中があった。あれこれ物声が次の間に聞えたけれど、武公の声は一向になかったと、そのころ近習の者の誰もが言い合っていた。[中西孫之丞の話だと、中西角之進が云う]

  【評 注】
 
 (1)歌仙ノ間ニテ度々連歌ノ會アリ
 武蔵と連歌というテーマの話で、これも長岡寄之関係の逸話ということになる。
 長岡寄之も連歌を嗜んで、熊本二ノ丸の屋敷で度々連歌の会があったという。二ノ丸は長岡(松井)家はじめ細川家重臣の屋敷があった一等地、寄之の屋敷もその二ノ丸にあったらしい。いまは熊本城公園になっているあたりである(現・熊本市二の丸)。
 その屋敷に歌仙の間というのがあったという。これは三十六歌仙を襖絵に描いた部屋であろう。そこで寄之を亭主として連歌の会を行ったのである。連歌の会なら、よくあるように、床の間には天神=菅原道真の肖像画を掛けたりしたものであろう。その場合、天神図は武蔵作画ということもありえないものでもない。
 寄之の連歌の会に武蔵も出た。となると、その時期は限られる。つまり、前述のごとく寛永二十一年の夏あるいは秋に武蔵は発病したのだが、そのときは熊本ではなく近郊の村に住んでいた。したがって、寄之の連歌の会に出たのは、それ以前である。しかも、五輪書執筆開始の寛永二十年十月以前のことであろう。他方、寛永十八年三月に細川忠利が死去して、その後忌明けまでしばらくはこういう連歌の会をすることもなかろうから、どのみち寛永二十年あたり(1643)ということになる。とすれば、寄之は二十八歳、武蔵は六十歳のころである。
 寄之は細川三斎(忠興)の子である。むろん幽斎以来の歌の道を叩き込まれていたであろう。そういう基本的な素養の上に、連歌も嗜んだということである。連歌は、本来和歌のように制約が多くなく、戦国時代以来武家にも愛好された。戦陣に茶頭や連歌師を同行するのも、無聊をなぐさめる娯楽が必要であったからだ。
 連歌というのは、いわば集団的な芸術である。五〜六人が集まって、発句にはじまり次々と別人が付句していく。かの心敬(1406〜75)の言うごとく、《前句と我句との間に、句の奇特、作者の粉骨はあらはるべし》、前の句との付合いをズラす絶妙の冴えを競うのが連歌の感興。百句あるいは三十六句が連続するプロセス、それがどうなって行くか、挙句が出て終るまで、だれにもわからない。春の句が五六句あとには秋の夕暮れの句になっているかもしれない。その座の感興の成り行きで進行する主体なき集団的詩作行為である。したがって、個人的行為としての西洋の詩作行為からみれば、おそろしく前衛的な言語芸術なのである。

 『武公伝』によれば、寄之の連歌の会に出た連衆に、まず長岡右馬助の名がある。これは長岡(山名)右馬助重政(1588〜1657)。細川藤孝(幽斎)の甥であり、知行三千石で備頭、隠居して号道伯。
 寄之との関係は、彼の妻・古保(1625〜1712)の父であり、寄之にとっては舅である。また、寄之は長岡右馬助には妻の甥でもある。つまり、右馬助の妻は、長岡興長の妹・たけ(?〜1668)である。長岡右馬助夫婦の娘が、寄之の妻・古保である。
 改めて言えば、長岡右馬助重政は、細川藤孝(幽斎)実弟・長岡(山名)伊賀守好重(1561〜1617)の息子、つまり藤孝には甥であり、忠興の従弟にあたる。藤孝や好重の父、晴員(1500〜1570)は三渕氏の養子になった人である。晴員の長男・三渕藤英は将軍義昭に最後まで従い、天正二年信長に切腹を命じられて自害した。二男藤孝は、いったん将軍義晴の養子になった上で、伯父の細川元常(和泉半国守護)の嗣子になった。そうして足利幕府末期から、信長・秀吉・家康の覇権過程をサヴァイヴァルしてくぐりぬけた。藤孝弟に出家あり、大徳寺高桐院の玉甫紹j、南禅寺悟心院の梅印元冲である。そして、末弟・好重は母方の山名氏を名のり、その兄に従い、また甥の忠興に従って、細川家豊前転封にも随行して、小倉で没した。
 長岡右馬助は、細川忠利(1586〜1641)より二歳年下で、同世代と云える。関ヶ原合戦の慶長五年には十三歳で、幽斎とともに丹後田辺城に籠城した。慶長十年(1605)、忠興は江戸に証人(人質)として出していた三男忠利を呼び寄せ、代りに二男興秋を江戸に送ったが、途中興秋は出奔して京都で出家したため、またその代りの証人としてこの長岡右馬助を江戸に送ったという経緯がある。したがって右馬助は江戸屋敷で暮らしたから、初期の江戸も知っている。
 忠興は末子の寄之を松井興長の養子にして長岡姓を与え、従弟の長岡右馬助の娘・古保と娶わせたのである。かくして、長岡右馬助は寄之の舅として連歌の会に登場、というわけである。右馬助は年齢からすると、武蔵より四歳年下で、ほぼ同じ世代の人である。
 余談になるが、一番隊長岡右馬助組に属した武士に古橋惣左衛門がいる。二百石を食んだが、承応二年(1653)八月に致仕した。この古橋惣左衛門は、狩野文庫本五輪書や、武蔵相伝という「十智」などが伝承されて、武蔵研究史上物議が多い人物。だが、実態は不明であり、またそれゆえ古橋関係の伝説を安易に反復することはできない。
 狩野文庫本五輪書奥書に、古橋惣左衛門が「古越中守殿」(細川三斎)の右筆だったとあって、これもよく引用される記事である。古橋惣左衛門が寺尾孫之丞・求馬助兄弟に次ぐ第三の弟子だったということを却下する論者も、この三斎右筆という記事は鵜呑みにする。だが、これは他と同様後世の古橋伝説である。
 それよりも、古橋惣左衛門は長岡右馬助組所属というのが正しかろう。細川三斎の右筆なら、八代に居なければならないが、実際には、熊本の武家屋敷ゾーンの一つ山崎の南部に屋敷があった。屋敷割絵図を見るに、屋敷地面積も二百石相当で、付近には、尾池伝左衛門や出田宮内の屋敷もあって、致仕する前、古橋惣左衛門がここに住んだことが確認できる。
 奇書「十智」も、風流人長岡道柏(右馬助)と古橋惣左衛門の関係と照合すれば興味深い。いづれにしても、武蔵と古橋惣左衛門の関係は、長岡道柏(右馬助)を抜きにしては語れない。従来の武蔵研究では、この点が看過されてきたので、これを指摘して諸氏の注意を喚起しておきたい。

 ところで、『武公伝』に会衆としてもう一人名が出ている森崎玄三は、御医師で、御伽衆・御茶道衆をつとめたというから、文化人として仕えたようである。先祖附によれば、肥後に居住して牢人していたところを、寛永十四年(1637)忠利に召抱えられ、知行百石である。以後、光尚・綱利の代まで仕え、明暦元年(1655)卒。先祖詳細は不明だが、ようするに『武公伝』の時代まで名が残ったとすれば、細川家中を代表する知識人・文化人の一人というところであろう。
 屋敷割絵図を見をみると、森崎玄三の屋敷は、上記古橋惣左衛門の屋敷と同じ山崎地区にある。ただしそれも北部で、沢村宇右衛門の大きな屋敷の南側に接したところで、西隣に天神があって格好の場所である。長岡右馬助の屋敷からも近い。ちなみ、東隣の久野角大夫は御詰衆で三百石。森崎玄三の屋敷面積は久野と大差ないから優遇されていたのであろう。ちなみに久野角大夫はその後、万治元年(1658)に召放ちに遭ったが寛文七年(1667)に帰参、という有為転変である。
 森崎玄三の家督は長男の喜左衛門が嗣いだが、これは医師でも芸能者でもなく普通の武士である。寛永十七年光尚の児小姓に召出されて、江戸詰であったが、光尚が当主となって肥後へもどり、父玄三の死後家督百石を相続仕、鶴崎や菊池郡の郡奉行など諸役つとめた。山崎の屋敷は玄三一代であったらしく、寛文延宝頃の屋敷割図では、沢村宇右衛門屋敷の一部に取り込まれている。
 森崎玄三の医業の方は、次男の三木之助が継いだらしい。最初は綱利の児小姓に召し出され、江戸へ出た。六年ほど綱利の側に仕えたが、その後命により京都に留学した。京都遊学中の寛文四年(1664)、当時の医師のお決まりで剃髪して、名を森崎玄幸と改めた。延宝三年(1675)法橋位。それまで御医師として五人扶持二十石であったが、宝永二年(1705)百五十石の知行給人となった。
 森崎玄幸の子の弾四郎が、正徳六年(1716)父の家督を相続して知行百五十石、御番方などつとめていたが、元文三年(1738)隠居。これが定春で、連歌師である。森崎玄三の三代目に連歌師が出たのである。この森崎定春は『武公伝』の時代に近い人であるから、『武公伝』に森崎玄三の名が残ったのかもしれない。
 其外にも連中あり、とのみあって『武公伝』の記事では名は出ないが、このとき長岡右馬助や森崎玄三のほかに、連歌の会衆は数名いたらしい。とすれば、寄之と武蔵も含めて、六〜七人程度の連歌会である。連衆としては、まずは標準的な人数であり、プライベートな遊興の席である。その連中に古橋惣左衛門も入っていたかもしれない。  Go Back




松井文庫蔵
長岡寄之像



熊本二ノ丸屋敷


*【心敬】
《此道は前句の取樣にて如何なる定句も玄妙の物となり、如何ばかりの秀逸も無下のことになるといへり。前句と我句との間に、句の奇特、作者の粉骨はあらはるべしと也》(老のくり言)






*【三渕細川略系図】

○細川元有┬元常=藤孝
     │
     └晴員 三渕養子
┌――――――――――――┘
├三渕藤英―秋豪―藤利―尚正

細川
├藤孝┬忠興┬忠隆 内膳
│  │  │
│  └興元├興秋
│     │
├玉甫紹j ├忠利─光尚─綱利
│     │
│     ├立孝─行孝─有孝
│     │
├梅印元冲 ├興孝 刑部
│     │
│     └寄之 長岡
山名     ├─直之―寿之
└好重─重政┬古保
      │
      └之直┬之政
         │
         └重澄




山崎之絵図
古橋惣左衛門屋敷

*【十智奥書】
《右十智と名づけんや、古橋氏某予をしたひ、剣術兵法の利を確かに言ひ教んやなどゝ奉公の余には他事をすてゝ二刀を尊み、精涙数行みちをつとめんのこゝろざし黙しがたく、空風火水地の書に顕然たりといへども、品をかえ雪夜の茶話に書きつけ、長き片身とやならん。抑武士たらんもの兵法をまなばんと思はゞ、小身は知行になし、知行は一城になし、一城は一国になし、一国は十国、二十国、二十国は天下に目をつけ、天地とともに名を長くせん事を、二刀一流兵法剣術の道とするものなり。
  神免武蔵玄信在判 》






山崎之絵図
森崎玄三屋敷




*【森崎氏略系図】

○森崎玄三┬喜左衛門―小左衛門
     │
     └三木之助─弾四郎
        玄幸  定春
 
 (2)武公ノ聲ハ一向ニナカリシト
 ここは『武公伝』の記事の中でも出色の部分、興味深い箇処である。それというのも、連歌の会だから、連衆の声がするのだが、武蔵の声は一向聞こえなかったとするからである。これはかなり面白い伝説であるが、従来の武蔵研究では、この記事について言及はしても、その内容にまで立ち入って論じた例はない。したがって、ここでこれを読み解いておくことが必要である。
 連歌の座では、一人ずつ順番に付句していくのを「膝送り」といい、順番に構わず早く出した者の句を採るのを「出し勝ち」という。他の者の声は聞こえても、武蔵の声は聞こえなかったとあるから、この寄之の連歌の会は、膝送りではなく出し勝ちでやっていたらしいと見当がつく。
 膝送りの場合はじっくり考える時間があるが、百句であれ三十六句であれ一巻巻くのにそれだけ時間もかかる。連歌の経験がある人ならご承知であろうが、出し勝ちでやっていたとすれば、早い者勝ちだから短時間で巻けるが、付句する者が偏る弊がある。
 連歌は当意即妙の即興性が生命である。人には即興が得意の人もあれば、熟考するタイプもある。出し勝ちでやっていたとすれば、即興が得意の人の声があがるのは当然である。武蔵の声は聞こえなかったとあるから、武蔵はたぶん熟考するタイプであり、あれあれという間に連歌は進行してしてしまうという場面である。
 ここは、連歌に付け遅れる武蔵、出遅れて先を取れない武蔵、といういささか滑稽なシーンが見えて、それゆえ興味深い記事である。言い換えれば、この場面そのものが「誹諧」なのである。
 ようするに、武公は芸能百般何でも上手だったが、実は連歌だけは苦手だったのだよ、という伝説である。しかしながら、それだけなら、どういうことはない。
 もう少し立ち入って云えば、もし武蔵は連歌も苦手でなかった、即興の才もあったとすると、この話はどうなるか。むろんこの場面の意味は変わってくる。つまり、背景を見てみれば、もう一つ別の相が現れるから、この場面は興味深いのである。
 寛永の頃の連歌は、基本的には松永貞徳(1571〜1653)の貞門俳諧の影響下にあったものと思われる。いわゆる寛永の新風である。その貞徳のことをすこし見てみよう。
 松永貞徳の祖父は摂津高槻城主・入江政重、妻は冷泉藤原氏。政重騒乱で歿して、その子・永種(1538〜1598)は祖母・妙精とともに播磨へ流れた。永種の妻・妙重は、播磨の宇野氏の娘で、父は宗清という名だから、これは宍粟郡長水山城主宇野政頼の長男・宗清だとみなしうる。あるいはまた、この「播磨の宇野氏」は、赤松広秀の父・政秀(1510〜1570)が「宇野下野守」を称したから、龍野城主の方である可能性もある。
 ともかく、永種の妻・妙重は、播磨の宇野氏の娘である。永種は、祖母の家名を継いで松永氏を称し、京に戻って連歌師・書家として生きた。松永貞徳はこの永種を父として京都に生れた。九条稙通に源氏物語秘伝を受け、和歌を細川幽斎に学び、連歌を里村紹巴に習った。ただ慶長中期になると、従来の連歌にあきたらず、俳諧への方向を開眼する。寛永になると「式目歌十種」(寛永五年)で定式化し、「新増犬筑波集」(寛永二十年)は、オリジナルの「犬筑波集」に付句してみせて、俳諧のポジションを明らかにした。
 武蔵と松永貞徳が通交の可能性は、藤原惺窩(1561〜1619)を交差点とするものである。松永貞徳は惺窩の姻戚にあたる。つまり、貞徳の祖母・妙忍は為孝の娘であり、惺窩の大叔母にあたる。それもあって、貞徳は惺窩と親しく交わり、歌学を学んだ。また貞徳の息子・昌三(尺五・1592〜1657)は、惺窩に儒学を学び、惺窩門流を代表する一人となった。尺五は、寛永五年には春秋館(西洞院二条下ル)を、また講習堂(東堀川二条下ル)を開設している。親子二代にわたり藤原惺窩と深い縁があった。
 武蔵と藤原惺窩の縁を媒介するのは、赤松広秀(1562〜1600)、播州龍野城主で、退転してのち、但馬竹田城主。少年の頃から藤原惺窩と親交があった人である。武蔵の父は赤松末葉(小倉碑文)で、龍野赤松氏に属したようである。五輪書に記す武蔵の上京は二十一歳のとき、つまり慶長九年(1604)だが、これが最初の上京かどうか不明だが、武蔵の京都における人脈は赤松広秀が遺したもの、とりわけ藤原惺窩を基点とする人脈であっただろう。
 武蔵の文化芸術の素質は京都で教養された。松永貞徳は、藤原惺窩の親戚(またイトコ)で、その父はしばらく播州に居たこともあり、母は播磨の宇野氏である。これが上述のように、宇野下野守を称した龍野城主赤松氏だとすれば、貞徳の母は武蔵の父祖と関わりのあるごとくである。惺窩の人脈には前述の赤松広秀や木下長嘯子のほか、賀古宗隆や那波活所ら門弟に播磨人がいるが、松永貞徳もまた武蔵に近い環境要素のある人である。
 そのことからすれば、俳諧連歌は、武蔵が若い頃、京都で松永貞徳あるいはその周辺人物に手ほどきを受けた可能性がある。細川家は当時、三斎が存命であり、まだまだ京都文化の臍の緒がついている時期である。武蔵を肥後に滞在せしめるについては、細川家のそういう京都風の文化環境というのも一つの誘因であっただろう。
 さて、長岡寄之の熊本二ノ丸屋敷での連歌の会だが、そこに出ていた長岡右馬助は、上に見たとおり細川藤孝(幽斎)の弟であり、兄弟には大徳寺高桐院の玉甫紹j、南禅寺悟心院の梅印元冲がいる。長岡右馬助は和歌の心得があって、手すさびとして連歌もよくするというところであろう。ゆえに、寄之の連歌の会のメインゲストである。
 これに対し、武蔵の芸風が松永貞徳の俳諧連歌のそれであったとすれば、これは長岡右馬助ら細川家の芸風とは異なるであろう。たしかに松永貞徳の俳諧は、のちの西山宗因の談林俳諧に比すれば、古典的教養に根ざした保守的なものである。連歌師の子として世に出た貞徳が既成の連歌と縁を断ち、むしろ細川幽斎らに和歌の道を学んだという経緯もある。その点では細川家の連歌芸風とは大差ないようにみえるが、もうすこし込みいったものである。つまり、前句の詞に、縁語・掛詞を用いて我句を付ける、その物付(詞付)の手続きが複雑微妙なのである。
 しかも、貞徳の言うように連歌も俳諧も根本的な相違はないが、連歌がやさしき詞、つまり優美な和語を用いるのに対し、俳諧は漢語や俗語をも駆使し、謡いや舞い、雜猥の仮名草子まで採り込む。これが前代の正風連歌と一線を画する貞門の流儀である。とはいえ、のちに池田是誰の語るように、優しきを体として、をかしきを用とするもので、正風体に根ざして狂言を花とする風であったとすれば、やはり連歌の優美を失わない。ようするに、それが上方流である。
 武蔵が実際にどんな連歌を詠んだか、確かな史料はない。従来その存在を指摘されてきたのは、わずかに数首、すなわち『到来集』(坂部弥堅編、延宝四年・1676)あるいは『鉋屑集』(岡本胤及編、万治二年・1659)にそれぞれ収録されたものである。『到来集』巻五雜部に、
  兄弟のなど不快なるらん
梅と菊時分相違のはなざかり
  月の明暮軍をぞする
という連句が続いて、これに、
楊貴妃の遊びはことも夥し
と付句したのが、「宮本武蔵 玄信」という名の連衆である。かたや『鉋屑集』にあるのは、「宮本武蔵无何」という名で、
鑓梅のさきとをれかな春三月 (巻一)
あみだ笠やあのくたらたら春の雨 (巻二)
の二首がある。いづれも、それなりのユーモアやウィットがあるが、それ自体取ってみればどういうことのない句である。これは、『鉋屑集』と『到来集』全体を通覧してみなければ、そのレベルのほどは判断できない。これは武蔵研究の宿題としておき、後人の研究を待ちたい。
 それとともに、ここに、小倉の住なる「宮本武蔵」には「无何」〔むか〕とある。ただし武蔵に「无何」という俳号があったとするには、上記二首だけでは心許ない。今後、連歌誹諧史料から「无何」という号の作品が発掘される可能性もあろうから、その上で考証すればよかろう。とくにかく、武蔵の誹諧連歌という方面は、現在手つかずの未開拓の領域である。
 ともあれ、『鉋屑集』は北村季吟序、その編者は、松永貞徳門下の岡本胤及(1615〜76)である。胤及は宗因の談林派誹諧にも近い、貞門ニューウェーヴである。そういう意味で、胤及が編んだ『鉋屑集』に武蔵の句が入っていることには注目しておきたい。

 さて、話を戻せば、武蔵の連歌は当世上方流ではないか、というのが我々の見当である。そうしてみると、寄之の連歌の会は従来の連歌、それに対し、武蔵のそれは連歌とは異なる、貞徳のいう俳諧之連歌、ということになると、どうやら、連歌の会での武蔵の寡黙は、芸風の根本的相異というところに起因するがごとくである。
 周知のごとく、二条良基(1320〜88)は連歌の地平を開いた人だが、会衆について、右のような面白いことを言っている。下手に交じっては、いかなる上手も下手になると。連歌は環境を選べと云うわけである。連歌は独吟ではないから、一人でも修行できる剣術とは違うのである。
 これが太刀の勝負なら、流儀の相違は問題ではなく、現実の結果が優劣を決める。しかるに連歌を巻くとなると、これはまさに対立ではなく、会衆の共同作業であって、一座の流儀に合わせる必要がある。武蔵の苦手とするところは、まさにこの迎合雷同であって、それゆえの寡黙であろう。
 武蔵が寄之邸の連歌の会に招かれたのは、武蔵が連歌をよくするからである。その武蔵からすれば、細川家の連歌は、決して田舎風ではなく、むしろ正統古典的な京風であるが、それはすでに時代遅れのスタイルであった。武蔵の芸風は当世上方流の仕込みである。武蔵の沈黙は、その違和を何よりも雄弁に語っているのである。
 『武公伝』の記事からイメージされるシーンは以上のようなことであるが、寄之の近習は皆、武蔵の声がないのを面白がっていたようである。武蔵先生は、兵法は申すまでもなく、書画も細工も上手だが、こと連歌に限っては苦手のようだ、と。『武公伝』の場面は、そのような暗黙の意味づけから書き記されている。瑕疵不足があってこそ人間的だ。そういう視点は、この江戸中期の書物にはすでにあったのである。
 しかしながら、武蔵が連歌は苦手だというのは近習らの誤解である。当世上方流の武蔵からすれば、田舎者のたわ言であろう。しかし、九州の田舎で武蔵が孤独だった、というのでもなさそうである。ある意味では、武蔵はこの環境を楽しんでいる。そうでなければ、寄之の連歌の会に招かれても出席はしなかっただろう。


禅文化研究所蔵
渡唐天神図
伝宮本武蔵画 大淵玄弘賛








松永貞徳


*【松永貞徳関係略図】

○入江盛重―政重 摂津高槻城主
      │
      ├―松永永種
      │   │
      │   ├貞徳―尺五
      │   │
     ┌妙忍  妙重 宇野氏
     │
○冷泉為孝┴為豊─為純─惺窩



藤原惺窩銅像 兵庫県三木市細川町


早大図書館蔵

松永貞徳 誹諧御傘

*【松永貞徳】
《はじめは誹諧と連歌のわいだめなし。其中よりやさしき詞のみをつゞけて連歌といひ、俗言を嫌はず作する句を誹諧といふなり》(誹諧御傘序)

*【池田是誰】
《貞徳老人の誹諧は、やさしきを体としてをかしきを用とす。正風体を根ざしとして狂言を花とす。されば花實そなはりて一偏なる事なし》(玉くしげ)


















*【二条良基】
《會者ことに堪能を選ぶべし。不堪両三に過なばまことに難治と可謂。但し初心の人たりといふとも、詞細く具足少なからむ連歌は一座の妨に及ぶべからず。詞強く景物多き連歌をたびたび返されぬれば、風情を失ひて更に寄所なし。かやうの人はまことの魔障なるべし。又異義異論uなし。いかにも堪能一人の批判をあふぎて同心の思ひをなすべし。又善惡黒白を辨へざる者の中にてはいかなる上手も連歌の仕にくきなり。秀逸をば謗り荒句をば褒む。かやうになりぬれば我ながら是非にまどひて、すべてその勇みなし。さればいかなる堪能も、田舎邊土の下手にのみ交りてすれば、やがて連歌の損ずる也。ことに上手を集めて感興を催すべし》(僻連抄)
 この興味深い話を、『武公伝』の作者はどこから仕入れたか。これは、中西孫之丞の話だと、中西角之進が云う、とあるから、中西角之進が中西孫之丞から聞いた話である。
 この中西角之進は、中西角之進重春(1636〜1710)、長岡家家臣・中西孫之丞の養子に入った人である。中西氏先祖附によれば、中西角之進は、初名柴山金弥、宇都宮城主・松平下総守の家臣、柴山五兵衛友実の五男。奉公の望みがあって江戸へ出ていたのを、、長岡寄之が児小姓に召抱え肥後へ連れてきた。それが正保四年(1647)、十二歳の時。
 しかし、それでは「宇都宮城主松平下総守」とあるのは、ちと不審があろう。宇都宮城主で松平下総守というから、これは松平(奥平)忠弘(1631〜1700)のことである。忠弘は播州姫路城主・松平忠明の嫡子で、正保元年(1644)父の死により家督相続して姫路城主となった。ところが、幼少のこととて、間もなく慶安元年(1648)に姫路から出羽の山形へ移封された。忠弘が下野宇都宮城主になるのは寛文八年(1668)、さらに天和元年(1681)に陸奥白河へ転封、最後の封地は再度出羽山形である。
 とすれば、柴山金弥(のちの中西角之進)が江戸で長岡寄之に召抱えられたとき、松平忠弘は下総守に叙任されたばかりで、しかもまだ姫路城主である。したがって、ここは正確に言えば「宇都宮城主」ではなく、「姫路城主」松平下総守である。松平忠弘の父・忠明が大和郡山から播州姫路に移ったのが寛永十六年(1639)、柴山五兵衛が大和郡山時代から松平家臣であったとすれば、息子の柴山金弥は大和郡山生れで、播州姫路育ちということになろう。
 しかし、部屋住みの五男では将来に望みがない。どこかに仕官の口を見つけなければならない。それで、少年金弥は就職先を求めて江戸へ出た。しかし、当時姫路城主である松平忠弘の家臣の五男が、どうして肥後の長岡寄之に召抱えられる機縁があるのか。
 それは、細川忠利の娘・藤が、松平忠弘に嫁したからである。これで肥後熊本の細川家と播磨姫路の松平家が姻戚関係になったところから、両家中に知り合いができ、長岡寄之が松平家家臣の息子を召抱えるという縁もできたのであろう。
 さて、長岡寄之に召抱えられ、肥後にやってきた柴山金弥は、中西孫之丞の養子となる。というのも、中西孫之丞には嫡子・又兵衛がいて、寄之の児小姓に召抱えられていたが、これが病死したため、寄之が柴山金弥を中西孫之丞の養子にさせたのである。かくして、柴山金弥改メ、中西角之進である。
 万治元年(1658)中西孫之丞が隠居して、角之進は家督知行百三十石を相続した。寛文元年(1661)長岡興長が死去、寄之が家督を相続して当主となり、八代城へ移ったとき、中西角之進もこれに従い、同年二十石加増で計百五十石の知行である。以後中西家は八代に住む。中西角之進は、寄之・直之・寿之の三代に仕え、宝永元年(1704)中風を患って隠居、宝永七年(1710)歿、享年七十五歳であった。
 この中西角之進の卒年、宝永七年には豊田正剛は三十九歳である。息子の正脩はまだ幼児だから、この話を中西角之進から聞いたのは、豊田正剛であろう。
 中西角之進は、これを中西孫之丞から聞いたという。中西孫之丞は角之進の養父である。では、この中西孫之丞はいかなる人物か。――それについては、すでに前出の《武公兵法ツカイ至極静ニシテ、譬エバ江口湯谷ナドノ仕舞ヲ見ル如シ》の条で、縷々述べてある。詳しくはそれを参照していただくとして、ここでは念のため以下のことだけ再説しておきたい。
 まずは、この中西孫之丞(1604〜1700)が明石右京進=大西道也の息子だったこと。伯父には、明石但馬守(桂立)や、関白秀次事件で連座して切腹した明石左近太夫もいる。豊臣時代以来、細川幽斎や忠興とも縁が深い。従兄の明石助兵衛重方は、岩千代(寄之)御付となって長岡家へ配属され、妻は岩千代の乳人である。細川忠興は大西道也を召抱えようとしたが、これを断わった。その代りに息子の熊市を明石助兵衛に預けた。道也は摂津の大江という所に住んだ。明石助兵衛は、従弟・熊市を小倉で養育した。熊市は元和年中に長岡興長に出仕、そのとき、中西孫之丞宗昌と名のるようになったのである。
 中西孫之丞が大西道也の息子だったということは、芸能の道に素養があったことをうかがわせる。前出の《武公兵法ツカイ至極静ニシテ、譬エバ江口湯谷ナドノ仕舞ヲ見ル如シ》という話も、中西孫之丞の話である。そちらは仕舞の話だが、こちらは連歌の話である。これがどちらも中西孫之丞の話だというのも、孫之丞が芸能の道に嗜みがあったゆえに彼に帰せられた逸話である。
 先祖附によれば、武蔵が臨死の病床で、見舞いに行った長岡寄之に武蔵が頼んだので、中西孫之丞は病気中より武蔵に付けられ、万事取計うように寄之から命じられた、とのことである。
 そのとき孫之丞は四十二歳である。武蔵が孫之丞を病床に付けて欲しいと頼んだとすれば、それは肥後逗留以来の最近の付合いではあるまい。既述のように、武蔵は、中西孫之丞の父である茶人・大西道也と旧知の間であり、孫之丞が子供の頃から知っていた可能性がある。そういう親しい間柄ゆえに、寄之の連歌の会で、武蔵の声はなかったと、半分冷やかしのようなことが言えたのである。
 この中西孫之丞は元禄十三年(1700)歿、九十七歳という長命の人であった。それゆえ、豊田正剛が直接接した可能性のある人物である。しかしこの連歌の逸話は、中西孫之丞ではなく、その養子・角之進から『武公伝』の作者は聞いたのである。年齢からするすると、聞いたのは豊田正剛であり、したがって『武公伝』のこの記事は、正剛の覚書にあったものを採録したのである。
    (中西孫之丞 → 中西角之進) → 豊田正剛
 この説話の伝承伝聞経路は、このようなラインである。しかるに、『二天記』は、この説話を承継しているが、中西孫之丞や角之進の名を記さない。言い換えれば、その担い手なしに伝説が一人歩きして物語化する段階が、『二天記』の段階である。  Go Back



*【中西氏先祖附】 角之進
《曽祖父中西角之進重春儀、初名柴山金弥と申候。下野国宇都宮城主松平下総守様御家来、柴山五兵衛友実五男ニて、奉公望江戸え罷出居候を、正保四年十二歳の時、要津院様御児小姓ニ被召抱御国ニ被召連候。孫之丞嫡子・中西又兵衛宗㻇儀、要津院様御側被召仕候処病死仕候ニ付、柴山金弥を孫之丞養子被仰付、中西角之進と改申候。万治元年孫之丞隠居仕候付御知行百三拾石角之進え被為拝領、直ニ要津院様御側御馬乗ニ被仰付、寛文元年八代御入城の節山田源次跡屋敷被為拝領候、同年八月角之進儀若年より御奉公手全相勤候旨ニて、玉名郡群村の内弐拾石御加増被為拝領候、此御書出別紙目録共所持仕候。(中略)元禄三年御昇頭被仰付御馬被為拝領候、其後御側御者頭ニて御取次役被仰付、同五年覚雲院様御参府御留守中熊本御屋敷え相詰申候、同年邀月院様御家督一巻御入城御用被仰付候、同六年六月御鉄炮頭被仰付候、宝永元年中風相煩候付御断申上候処隠居被仰付、同七年閏八月七十五歳ニて病死仕候》



姫路城







*【武公伝】
《武公兵法ツカイ至極静ニシテ、譬エバ江口湯谷ナドノ仕舞ヲ見ル如シ。[常ニツカハズト、中西孫之亟話]》


*【明石・中西氏略系図】

○明石左近太夫─────┐
 ┌──────────┘
 ├但馬守 桂立 ────┐
 |┌─────────┘
 |└助兵衛重方――五郎兵衛重武
 |  妻寄之乳人
 |
 ├左近太夫 関白秀次事件連座切腹
 |
 └右京進 大西道也 ──┐
  ┌─────────┘
  └中西孫之丞宗昌=角之進重春


*【中西氏先祖附】 孫之丞
《正保二年五月、新免武蔵病死の節、病中ニ要津院様御見廻被成候処、武蔵遺言の趣付て、孫之丞儀病中より御附被成、萬事取計候様ニ被仰付》







*【二天記】
《武藏平居閑静ニシテ、或ハ連歌茶書畫細工等ニテ、日月ヲ過了ス。寄之主ノ亭ニテモ、連歌(ノ)會度々有リ。長岡右馬助重政、森崎玄三等、執筆有リ。連衆物聲次ノ間ニ聞ユレドモ、武藏ノ物聲許リ一向ナカリシト、其頃寄之主ノ近習申シ合ヘリトナリ》

 
  30 武蔵老体
一 武公、寄之主ノ二ノ丸ノ第ニ来ラル時、山本源五左衛門[後ニ土水]ヲ初、其外ノ門弟中、何レモ玄關マデ出迎ヒシト也。(1)
 或時、武公、玄關ノ箱段ヲ上ラルトテ、左ノ手ニテ腰板ヲ押ヘテ、「ヱイ」ト声ヲカケテ上ラル。源五左衛門出迎ヒ、「御手ヲ引可申哉」ト云。武公道フ、「危イ乎。手ヲ引ニハ不及」ト也。
 此方ニテノ家士中ノアヒシライハ、當時御備頭衆ナドヲアイシラウ程也。[右八代ニテノ*] (2)

一 武公が、(長岡)寄之主の二ノ丸の屋敷に来られる時、山本源五左衛門[後に土水]をはじめ、そのほかの門弟連中がみな玄関まで出迎えたそうである。
 ある時、武公が、玄関の箱段を上られようとして、左の手で腰板を押えて、「えい」と声をかけて上られた。(山本)源五左衛門が出迎え、「お手を引きましょうか」という。武公がいう、「危いか。(だが)手を引くには及ばず」と。
 こちら(長岡家)での家士連中の(武公への)応対は、今でいえば、御備頭衆などに対するのと同じほど(鄭重)であった。[右は八代での]

  【評 注】
 
 (1)山本源五左衛門ヲ初、其外ノ門弟中
 これも長岡寄之の二ノ丸屋敷でのことだという。寄之の二ノ丸屋敷については、前に述べた。武蔵の熊本屋敷は千葉城址の高台にあった。これは城の東である。これに対し、二ノ丸は城の西で、こちらが大手で、そこに細川家重臣らの屋敷地があったのである。
 武蔵が寄之の屋敷へやってくる。すると門弟らが総出で玄関まで出迎える。武蔵の門弟たちが寄之の屋敷に集まっていたということは、前のような連歌の会ではなく、兵法稽古を寄之邸でやるという状況かもしれない。
 山本源五左衛門をはじめ、そのほかの門弟連中が、とあって、この山本源五左衛門が武蔵の門弟だとわかる記事である。では、この山本源五左衛門とはどういう人物か。――これについては、前に武蔵の門弟に関する記事で、「土水伝えて云う」として名が出ていた人である。他にも次の段でも出てくる人だから、重複するが、それをいとわず改めて述べておくことにする。
 山本氏先祖附によれば、先祖・山本対馬守秀勝は、生国山城の人、足利将軍義輝に仕えた。足利家没落の後、鞍馬の東の谷筋、山城国愛宕郡静原(現・京都市左京区静市静原町)に牢居して、山本山入と号す。天正元年(1573)信長の命により、明智光秀の家臣となった。天正十年(1582)光秀が信長を討ち、東上した秀吉軍と決戦となった山崎合戦で戦死した。
 細川家は明智光秀と親戚であったから、このとき窮地に立ったが、藤孝が即座に剃髪し難を避けた。山本秀勝(山入)の子・山本源太夫勝則(後に対馬、号宗斎)は、勝則戦死の後、松井康之(春光院)にひそかに召し出され、丹後久美浜で仕えた。その後、松井康之が豊後木附(杵築)城を預かることになったとき、これに供して九州へ行った。
 勝則(宗斎)嫡子・山本源左衛門勝行は、長岡興長に仕えた。慶長十一年(1606)豊後国東郡で知行百石、その後順次加増され、肥後入国後には都合三百石になった。有馬陣(島原役)では嫡男・四郎太夫勝守が戦死した。勝行はその後も順調に加増を受け、寛永十八年に百石加増、同二十一年に百石加増で、都合五百石の家督となった。源左衛門勝行は鉄砲頭、御奉行御側支配兼役を勤めた。長岡家は三万石の所帯なので、五百石知行なら重臣の部類である。
 さて、この話に出てくる山本源五左衛門は、山本源左衛門勝行の二男である。二男であるから、生地甚左衛門の養子になり、百五十石の家督を相続し、生地武右衛門といった。寛永十五年の有馬陣(島原役)のとき、橋津又兵衛の添頭(副隊長)で、原城総攻撃のおり二の丸で一人を鎗で仕留め、蓮池の上で一人を討ちとった、組頭(隊長)の橋津又兵衛と尾崎伊右衛門の二人とも負傷したので、代りにその鉄砲隊二組の足軽を指揮して戦った。その戦功で、戦後行賞で百石加増され、知行二百五十石となった。
 しかし実家の兄・四郎太夫勝守が戦死したので、実家山本家を嗣ぐことになり、生地から山本へ復姓し、山本源五左衛門と改め、鉄炮頭・奉行兼役となった。その後百石加増、知行は三百五十石になった。山本源五左衛門が武蔵の門弟になったとすれば、家督相続以前、山本家の嫡子であったこの頃である。
 承応元年(1652)、父親の源左衛門が死んだので家督相続、父親の本知五百石を与えられた。興味深いのは、このとき源五左衛門の旧知三百五十石は召上げられるのではなく、三人の弟に分配されたことである。五十石は三男山口伝左衛門勝成に加増、残り三百石のうち百五十石は四男山本金右衛門勝為の新知、百五十石は五男山本弥左衛門金重の新知である。かくして山本一族に新知の家が二つ増えたのである。そうして、さらに源五左衛門は二度の加増で知行七百石となった。いかにも山本源左衛門が優遇されていたことを示す措置である。
 興長死後、寄之と直之の二代に仕え、番頭〔ばんがしら〕にまで昇進した。長岡家は細川家の家老だが、源五左衛門はその長岡家の家宰、つまり家老相当の重臣である。
 源五左衛門は隠居して号土水。隠居しても百俵(四十石相当)、のち二百石を隠居料として支給された。『武公伝』の割註に《後ニ土水》とあるのは、こうして先祖附で確認されるところである。
 源五左衛門が隠居した時期は先祖附では不明である。直之の代にも仕えたようだから、寛文六年(1666)以降も現役である。ともかく、嫡子・源助がいて、源助は出仕して、合力米百俵を支給され、御側支配・中小姓頭・鉄炮頭上座等をつとめていた。源五左衛門が隠居し、源助家督相続して、山本源左衛門勝秀を名のる。ところが、源左衛門勝秀は病気になり、治療のため京都にまでやったが、そのかいもなく京都で死去。
 そうなると、隠居の山本土水(源五左衛門)は後嗣を失ったわけで、山本家存続のために、土水弟の弥左衛門が跡目を嗣ぐことになった。
 ところで、京都で病死した源五左衛門の嫡男・源左衛門勝秀は初名が「源助」である。この山本源助は、実は寺尾孫之丞の門弟であったようである。それというのも、今日最も流布している細川家本五輪書記載の宛先が「山本源介殿」である。寛文七年(1667)二月五日という日付と寺尾夢世勝延の記名がある。寺尾孫之丞は寛文十二年(1672)歿だから、これは孫之丞晩年の相伝である。そうなると、父親の源五左衛門は武蔵から直接教えをうけ、息子の源助は寺尾孫之丞に学んだということである。
 寺尾孫之丞は宇土郡松山手永に住んだ(寺尾家系図)ということだから、晩年、八代からは熊本より手前のかなり近いところにいたのである。山本源五左衛門は、息子を宇土郡松山にいた寺尾孫之丞に学ばせた。山本源助は早死にしたけれど、細川家本五輪書を今日に遺す契機になったというわけである。ただし、細川家本五輪書は、寺尾孫之丞が山本源助に伝授した現物ではなく、それじたい写本であり、また後世の編集物である。
 さて、山本源助が死んで、家督相続したのは叔父の弥左衛門である。弥左衛門は五男で、上述のように兄源五左衛門が家督相続したとき、源五左衛門旧知から百五十石を配分され新知を得ている。寄之の子・直之に仕え、新知百五十石を与えられ、鉄炮頭。追々加増されて三百石になり、御側中小姓頭・奉行兼役。
 そうしているところに、本家の源左衛門勝秀(源助)が病死して、そちらを嗣ぐことになった。弥左衛門は家督相続して番頭になった。長岡家重臣である。このとき名を源太左衛門と改めた。家督は、源左衛門勝秀がうけていた七百石ではなく、父親の源左衛門勝行の本知五百石である。差引きの二百石は、兄土水(源五左衛門)加増分なので、土水の隠居料に直された。
 山本土水(源五左衛門)は弟弥左衛門を後嗣としたが、家名存続の保険として、別に養子をとっている。これは、弥左衛門(源太左衛門金重)の方が先に死んでしまったためか。しかし源太左衛門家は嫡子岡右衛門が嗣いで、無事五百石の家督を相続できた。源太左衛門好勝である。こちらが本家筋となる。
 土水が養子にとったのは、宇土の細川和泉守有孝の家来・見崎弥兵衛の次男である。初名奥之助・源五郎・源太夫と称したが、源五左衛門死後、その隠居料二百石を家禄に直されて、山本源左衛門勝命。これは別の山本家として存続した。
 ところで、この山本弥左衛門は、豊田家先祖附にその名が登場する人である。というのも、豊田正剛の父・専右衛門高達が、延宝七年(1679)、《掘口庄右衛門と出入の儀有之》という事件を引き起こす。出入というから喧嘩があったのである。掘口庄右衛門は奉行役であり、豊田専右衛門は勘定根取役(堀口氏先祖附では勘定頭)である。このとき、豊田専右衛門の身柄を預かり詮議役を勤めたのが、山本弥左衛門である。結果は、豊田専右衛門の勝訴で、掘口庄右衛門は直之の勘気を蒙り致仕した。
 山本弥左衛門はこのときまだ本家を嗣いでいない。この事件は延宝七年(1679)であり、そのことからすれば、御側中小姓頭・奉行兼役のときであろう。これには、山本弥左衛門の兄で、長岡家中の有力者、山本源五左衛門勝安が関与したふしがある。とにかく豊田専右衛門が訴訟に勝たせてもらったとすれば、山本源五左衛門や弥左衛門は豊田家の恩人である。逆になっておれば、豊田家はないし、『武公伝』『二天記』もこの世に出ることはなかっただろう。
 そういう意味で、この山本氏は武蔵研究にとっても重要な人々である。改めていえば、
(1)山本源五左衛門勝安(土水)は熊本時代武蔵門弟であった。
(2)源五左衛門嫡子・源助(源左衛門勝秀)は寺尾孫之丞から五輪書相伝をうけた。その名は細川家本五輪書記載の宛名として残った。
(3)源五左衛門弟・弥左衛門(源太左衛門金重)は、豊田高達出入事件で、豊田家の危機を救った。
 かくして、『武公伝』に山本源五左衛門勝安(土水)が関わった逸話があるわけである。土水は元禄十一年(1698)卒去、その年、豊田正剛は二十七歳である。正剛は元禄七年(1694)二十三歳のとき、父専右衛門高達が隠居して、家督百石を相続、御馬乗組に召加えられた。翌八年、父が死去し、同九年、正剛は目付役になったところである。
 それゆえ、年齢からすれば、豊田正剛は山本土水生前に会っていた可能性がある。また、山本土水の弟・弥左衛門(源太左衛門金重)やその子・源太左衛門好勝、あるいは土水晩年の養子・源左衛門勝命といった周辺人物からも話を聞いていただろう。  Go Back




*【山本氏先祖附】
《私先祖・山本対馬守秀勝儀は、新羅三郎源義光の末葉、生国山城の者ニて足利将軍義輝公ニ仕申候。然処、三好松永叛逆ニて足利家没落の後、城州愛宕郡静原ニ牢居仕申候て山本山入と改居申候。天正元年依信長公命明智日向守光秀の家臣と罷成、同十年六月十三日城州山崎合戦の節、光秀の為先手戦死仕候。山入子・山本源太夫勝則儀、後ニ対馬と改又宗斎と申候。親戦死の跡春光院様密ニ被召呼、於丹後久美御切米被下、御作事方御納戸役杯被仰付候。其後豊後木附御供被仰付、大坂合戦の節は木付御留守居ニて二丸御門御預被成候。此時は宗斎と申候。木付御城内屋敷を被下、此屋敷ニ櫓御座候を対馬櫓と申候由。宗斎嫡子・山本源左衛門勝行、始の名太郎助又源太夫と申候。智海院様御側被召仕、慶長十一年十一月豊後国東郡ニて御知行百石被下候。春光院様・智海院様御連名の御書出所持仕候。同十九年十月同郡の内ニて五拾石御加増被下候。元和二年十一月五拾石御加増、寛永二年十月五拾石御加増、同十一年十月肥後国玉名郡ニて五拾石御加増被下候。同十四年要津院様天草御渡海の節、軍奉行ニて御供被仰付、有馬御陣の節は智海院様御供被仰付、御側ニ能附居候旨ニて御陣の上為御褒美白銀五枚被為拝領候。同十八年十一月玉名郡ニて百石御加増被下、同廿一年同郡ニて百石御加増被下都合及五百石、御鉄砲頭御奉行御側支配兼役被仰付候。右御知行御書出何も所持仕候。源左衛門嫡子・山本四郎太夫勝守儀は、無足ニて有馬御陣の御供仕、城乗の節二の丸大篭戸ニて戦死仕候》

*【山本氏略系図】

○山本対馬守秀勝 山入 ┐
┌――――――――――┘
└源太夫勝則―源左衛門勝行┐
    宗斎       |
┌――――――――――――┘
├四郎太夫勝守 有馬陣戦死

源五左衛門勝安┬源左衛門勝秀
│    土水 │    源助
│       │
│       └源左衛門勝命
│            養子

├伝左衛門勝成 山口氏へ養子

├金右衛門勝為─源太左衛門好勝

└源太左衛門金重─源太左衛門好勝
    弥左衛門    岡右衛門

*【山本氏先祖附】
《高祖父・山本源五左衛門勝安儀は、右の源左衛門二男ニて、生地甚左衛門養子ニ相成百五拾石家督仕、生地武右衛門と申候。有馬御陣の節、橋津又兵衛添頭ニて、城乗の節二の丸ニて鑓を合敵一人突留、蓮池の上ニて又一人討取、橋津又兵衛・尾崎伊右衛門両人共手負候故、二組の足軽武右衛門下知仕鉄炮能打せ候旨ニて、御帰陣の上ニて為御褒美御知行百石御加増被下、兄四郎太夫討死仕候付て、源左衛門嫡子ニ被仰付、苗字を山本ニ改候様被仰付、山本源五左衛門と改、御鉄炮頭御奉行兼役被仰付候。其後百石御加増被下、及三百五拾石申候。親源左衛門承応元年八月病死候付、家督被仰付、本知五百石被為拝領、源五左衛門え被下置候初の御知行三百五拾石の内、五拾石は源左衛門三男山口伝左衛門勝成ニ御加増ニ被下、百五拾石は同四男山本金右衛門勝為ニ新知被下、百五拾石は同五男山本弥左衛門金重ニ新知被下候。源五左衛門儀は両度ニ弐百石御加増被下七百石ニ及申候。要津院様八代御入城の節は右の役儀相勤、覚雲院様八代御入城の節御番頭被仰付候。其後隠居被仰付候付、山本土水と改申候。為隠居料百俵被為拝領、其後御加増知弐百石を隠居料被下候。源五左衛門嫡子山本源左衛門勝秀、初名ハ源助と申候。御合力米百俵被為拝領、御側支配・御中小姓頭・御鉄炮頭の上座被仰付置候。其後家督七百石被下候。然処病気ニ付て、為養生上京仕候処、本復不仕京都ニて果申候。因茲右源左衛門本知五百石を土水弟山本弥左衛門被為拝領候。土水儀は元禄十一年十月病死仕候》



細川家本五輪書奥付
《寛文七年
  二月五日  寺尾夢世勝延[花押]
     山本源介殿 》


*【山本氏先祖附】
《曾祖父山本源太左衛門金重儀、初名は弥左衛門と申候。源左衛門五男ニて覚雲院様御側被召仕、新知百五拾石被為拝領、御鉄炮頭被仰付、追々御加増被下三百石ニ相成、御側御中小姓頭・御奉行兼役被仰付候処、親源左衛門本知五百石被為拝領御番頭被仰付候。此節源太左衛門と改申候。元禄二年十二月病死仕候》


*【豊田氏先祖附】 専右衛門高達
延宝七年御奉行役掘口庄右衛門と出入の儀有之、専右衛門は山本弥左衛門え御預被成御詮議被仰付、事相済被成御免御役儀如本被仰付、同年八月御合力米弐拾石被為拝領、御馬乗組被召加御台所頭被仰付、天和元年正月直之公御参府の節御供被仰付、同二年正月御作事奉行被仰付、貞享三年九月御知行百石被為拝領、熊本詰御奉行役御長柄頭兼帯被仰付、同十一月熊本え引越申候》
 
 (2)武公、玄關ノ箱段ヲ上ラルトテ
 長岡寄之の二ノ丸の屋敷に武蔵が来ると、山本源五左衛門をはじめ、そのほかの門弟連中が、みな玄関まで出迎えたそうである、という話だった。あるとき、武蔵が玄関の箱段を上がろうとして、左の手で腰板を押えて、「えい」と掛け声をかけて上がった。
 日本家屋は床上住居だが、昔の御殿となると、玄関土間から床上までかなり高い。玄関の箱段というのは、中間に踏み段になる箱階段を何段か設けて、それを踏んで床上に上がる。老人になれば実感されることだが、足腰が弱って、ささいな踏段でも、よっこらしょと上がらねばならない。手すりがほしくなる。武蔵がこのように腰板を左の手で支えて「えい」と気合を入れて上がったとすれば、武蔵はかなり老体であるようで、しかも具合がよろしくないらしい。
 そこで、出迎えていた山本源五左衛門が気をきかして、「お手を引きましょうか」と声をかけた。源五左衛門はこのときから半世紀以上も生きているから、このときはむろん、壮年というか、今日の言葉でいえば青年であろう。老いぼれの武蔵に「お手を引きましょうか」と声をかけたというあたりが、源五左衛門の気配りであり、家督以前とはいえ、その後の出世を予期せしめる場面である。
 現存記録では、かの豪傑武蔵に、「手を引きましょうか」と声をかけるなんぞということをやった人物は、他にはいない。その意味で、山本源五左衛門は、《武蔵に「手を引きましょうか」と声をかけた人物》として歴史に名が残るのである。
 源五左衛門の親切な申し出に、しかし武蔵は、「危いか。されど、手を引くには及ばず」と断わった。危なそうかい? いやいや、ありがたいが、手を引いてもらうほどではないよ、というのである。
 これが、武蔵が源五左衛門に手を引かれたとなると、ほとんど漫画のような場面で、それはそれなりに面白いのだが、武蔵は老いぼれても豪傑、門弟とはいえ、他人に手を引かれるようなことはしなかった、というのがこの説話のポイントである。
 武蔵に対しては、山本源五左衛門のような長岡家中の者はみな鄭重に対応していた。文中の「あいしらひ」は、相手に接する応対・処遇の仕方の意である。能楽でも「あいしらひ」というが、それは、共演者の動きに応じて動くこと、あるいは、共演する相手をいう。連歌でも「あいしらひ」は同様の意味で、他人の前句に対する付句の取り合わせをいう。連理秘抄に、《又一文字、二文字にて何のあひしらひもなけれども、付くる事もある也》とあるごとくである。
 さてここでは、武蔵に対する「あいしらひ」、それは、たとえていえば、《當時、御備頭衆ナドヲアイシラウ程也》、とある。武蔵に応接するときの鄭重さは、どれほどだったかといえば、「いま」土水たちが、御備頭衆に対するのと同じほどであった、というのである。備頭は、前備・中備・後備など布陣一翼の指揮を取る者であり、既述の例で云えば、志水伯耆や長岡右馬助のような人物である。家老ではないが、細川家中ではそれに次ぐポジションの重臣である。そんな御備頭衆(細川家重臣たち)に対するのと同じくらい、武蔵を鄭重に扱っていたというわけである。
 この文はやや文意が錯綜しているので、読むに注意を要する。問題は、「当時」という一語である。この「当時」は現代語の意味ではなく、いま、現在、の意である。つまり武蔵がいた時代ではなく、これが語られている時点の「今」である。これも、武蔵の手を引こうとした山本源五左衛門の話の端かもしれないが、「当時」=今日というリアルタイムの表現が入っているのである。この部分は『武公伝』作者の解説ではなく、これを語った者、山本土水のコメントであろう。
 したがって、この語「当時」の時点は、武蔵の当時、言い換えれば、山本土水が武蔵の手を引こうとした当時ではない。そうではなく、山本土水がこれを語っている当時である。つまり、この場面からほぼ半世紀後の「今」なのである。
 最後に、ややわかりにくい註記がある。《右八代ニテノ》とのみ記す。
 これは、「右は八代での云々」と続く文があったとすれば、ここに脱文があるということになる。それが原文の書きさしなのか、それとも写本段階での脱落なのか、判然としない。
 しかしながら、もう一つの読みでは、この割註はそのまま《右八代ニテノ》でよい。つまり、右は八代でのケースだ、というわけである。これが対応するのは、直前文「当時御備頭衆などをあいしらう程也」の「当時」という語である。したがって、この補註は「八代にての」と場所を補足するのだが、これは、「現在、八代で」、という時代と場所の特定なのである。
 どうして八代でという場所なのか。これはこの説話のポジションを指す。山本土水が若い頃武蔵に「手を引きましょうか」と声をかけた。それは土水が、そして長岡家とその家臣団がまだ熊本にいた時代である。これに対し、それからほぼ半世紀の現在、八代城を預かる家として長岡家とその家臣団は、熊本ではなく八代にいる。したがって『武公伝』の補註は、《右、八代ニテノ》、つまり「これは、八代での」と記したのである。
 そこでこの部分は、いま八代で、備頭衆=細川家重臣たちに対して、どんな「あいしらひ」をしているか、知っている者らに向けて語られている。備頭衆は細川家重臣であるから、鄭重に扱われるであろう。しかし、八代の長岡家臣は陪臣だから、八代での備頭衆に対する応接は、熊本の人々よりも鄭重だったかもしれない。だから、そういう事情を呑み込んで、この《右、八代ニテノ》という補註は読まれなければならない。
 つまりは、八代という局所性を示すことで、この記事の具体性がある。この補註は、正脩によるものであろう。「当時」と書いて、時制を現在にしたが、後にさらに、《右八代ニテノ》と加筆したのである。これは、そのままだと文脈上「現在熊本で」と受け取られかねないから、《右八代ニテノ》と書いて、「現在八代で」となるべく正確を期したというところであろう。正脩が『武公伝』に何度も手を入れていた痕跡である。
 『二天記』は同じ記事を継承しているが、そこには武蔵に対する「あいしらひ」というエピソードはない。『二天記』の作者はこれを削除してしまったということになる。それは、「現在八代で」という時点場所の限定を、景英が避けたということであろう。『二天記』は、『武公伝』にあったノンフィクションのアンカーをはずして、話を一般化する傾向が顕著である。
 『二天記』は、この後に八百屋町の火事の一件を記し、そのあとに、いきなり、武蔵はいつも供廻りは侍六人ほどで、鎗持・挟箱に騎馬だったそうだ、大組頭は今日でいう備頭であると、文章整理の行き届かない記事を挟み込んでいる。
 そこにある《大組頭ハ今日備頭ナリ》という文が、おそらく『武公伝』と『二天記』の記事を繋ぐブリッジであろう。つまり、『武公伝』には、いまの記事のごとく、武蔵に対する長岡家士の扱いは、現在八代で備頭衆に対するのと同じほど鄭重だったとあるのだが、『二天記』はその記事から、まったく別の記事を生産したのである。
 前出記事に関連して見たように、『二天記』の記事では、《座席ハ大組頭ノ格合ナリ》とあって、武蔵は細川家から備頭(大組頭)並みの待遇を受けたということになっている。武蔵の待遇の話が出たところで既述の通り、この話は、『武公伝』の最初の記事にはないことである。
 すると、『二天記』の豊田景英がどこからこの話を仕入れたかというに、そんな「新情報」などありえない。おそらく、景英がヒントを得たのは、『武公伝』のこの記事、すなわち――此方(長岡家)での家士連中の武公への扱いは、今でいえば、御備頭衆などへの応対と同じほど鄭重であった――という記事なのである。ここから、景英は、座席は大組頭(備頭)の格合なり、という方へ話を発展させた、悪く言えば改竄したのである。
 つまり、『武公伝』では、長岡寄之の家士連中が武蔵をどれほど鄭重に扱ったか、という趣旨の話である。これに対し、『二天記』では、それを、細川家が武蔵を大組頭(備頭)並みに処遇したという話に変えたのである。
 幕末の荻角兵衛昌国(1813〜62)の『新免武蔵論』(嘉永四年・1851)には、武蔵が備頭同列の取扱いで、擬作三千石を支給されたという話が出てくる。もうこの頃には、備頭格どころか、「擬作三千石」という具体的な数字まで出るようになっている。奉書にある米三百石より一桁多い。伝説は放置すれば、このようにどこまでも話を大きくするものである。
 かくして、後世の「当時」、すなわち今日の我々の時代、武蔵本のことごとくが、『二天記』のこの改竄記事を鵜呑みにして、武蔵は細川家中で大組頭(備頭)並みに扱われた、と書くのである。しかし、以上のように『武公伝』まで遡及してみれば、これは根拠なき謬説であることが判明しする。
 つまりは、これは『二天記』を書く筆の端から生じた空想であるが、もとより『二天記』のみを見ていては、その空想たることすら判らない。『武公伝』の研究が進んではじめて問題化され、訂正されるべき事項になったのである。  Go Back





旧細川刑部邸玄関
熊本市古京町


東京都立中央図書館蔵
江戸西丸仮御殿御玄関御正面建地割
元治元年
















八代城址








元禄国絵図
肥後関係地図






*【二天記】
《武藏、或時興長ノ亭ニ至ル。詰合ノ者ドモ何レモ玄關ニ出迎フ。武藏筥段ヲ上ルトテ、足元ヨロメキ、袴腰ニ手ヲ掛ケ、ヤツト聲ヲ出シテ上ル。興長主ノ士山本源吾左衛門進出テ、「手ヲ添可申哉」ト云。武藏、「ヨシヨシ、夫ニハ及ズ」ト云テ通リヌ。(中略)平日氣ヲ包ミ、極老體ノ如ク、既ニ興長主邸ニテハ、脇ヨリ手ヲ添ヘント云程ノ躰ニテ、又如斯輕捷ナル事アリ。平日供廻リハ侍六人程、鎗持挟箱馬ナル由。大組頭ハ今日備頭ナリ。門弟ハ長岡式部寄之主、澤村宇右衛門友好主ヲ始メ、諸士千人ニ及ブ。寺尾孫之丞勝信、同求馬信行、此ノ兩人ニ流儀相傳アリ。孫之丞、後夢世ト號ス》
《忠利公ヨリ、十七人扶持ニ現米三百石賜リ、御客分ニテ、座席ハ大組頭ノ格合ナリ。居宅ハ、熊本千葉城ト云所ニ屋舖アリ》












*【新免武蔵論】
《或問曰、新免武蔵は、名高き兵法者にて、御坐候へども、御客分にして、御備頭同列の御取扱にて、御擬作三千石被為下置と申は、中々重き御取扱にて御坐候哉。角曰、武蔵は世の兵法者にては無御坐候、当時第一等の聰明の士にて、即ち妙恵沢奄か別面に為出者にて御坐候。夫故妙解公の御明鑑、其器量を被重候て、内々御政道の御相談相手に、被為召置者にて、中々他の芸能の士の、御取扱にては無御坐候》

 
  31 屋根を飛んで渡る
一 熊本新壹丁目ニ火事アリ。時ニ八百屋町ノ狭キ丁並ノ屋ノ上ニ梯子ヲ横ニ打渡シ、其上ヲ二足蹈ンデ飛渡ル者アリ。諸人コレヲ見テ、「是ハ/\、イカナル人ゾ」ト尋ルニ不知、何モ驚クバカリ也。後ニ聞バ武公也。平日氣ヲ包ミ沈静ニシテ、極老躰ノ如ク、既ニ二ノ丸玄關ニテハ、腰ニ手ヲ添ヘ可申哉ト云程ノ体佩ニテ、軽捷如是。誠ニイカントモ難評。[中西話之] (1)
一 熊本新壱丁目に火事があった。そのとき、八百屋町の狭い町並の屋根の上に、梯子を横に渡して、その上を二歩踏んで飛び渡る者があった。人々はこれを見て、「これはこれは。何者だろう」と尋ねるが、だれも知らず、ただ皆驚くだけであった。後になって聞けば、これは武公であった。日ごろ(武公の様子は)、活発ではなく沈静であり、ごく老体のように見え、前にあったように、二ノ丸の(寄之の屋敷の)玄関では、腰に手を添えましょうかという程の体の様子であったのに、その身軽で素早いことは、この如くであった。まことに、どうにも評しがたい。[中西がこれを話した]

  【評 注】
 
 (1)屋ノ上ニ梯子ヲ横ニ打渡シ、飛渡ル者アリ
 これは前段の話とは一変して、よぼよぼの老体であるはずの武蔵が、信じられないようなことをやってのけたという逸話である。
 熊本新壱丁目に火事があったという。「熊本」とあるのは、『武公伝』の発話のポジションが八代にあるからである。それでわざわざ熊本と言うわけである。前例では、たとえば「熊本鍛冶屋町」というのがあった。
 この新壱丁目のある新町は、熊本城南西にあり、肥後入部以前の加藤氏時代に開かれた町人町である。蔚山〔うるさん〕町をはじめ、そのころから通りの名称もほぼ変わっていない。
 この新壱丁目は、加藤領時代末期の熊本屋舗割下絵図には「新町一丁目」とある。細川氏入部以後いつの間にか、それを新一丁目と呼ぶようになったらしい。この通りは新町の北部にあり、当時のメインストリートの一つである。城下町の例にもれず、現在でも町筋の位置はそのままである(現・熊本市新町一丁目)。
 『武公伝』には、この新壱丁目に火事があったとき、八百屋町の狭い町並の、とある。これも注釈ぬきの八百屋町で、古地図を開かなければわからないのだが、新壱丁目の筋の北端に、西へ入る通りがあって、それが八百屋町である。加藤領時代末期の熊本屋舗割下絵図には「やおや町」とあるから、以前から八百屋町の名があったようである。
 その八百屋町の狭い町並みとあるが、たしかに狭い横丁にみえる。宝暦寛政頃の新町絵図でみると、町屋の間口寸法が記してあるから、それを参照すれば、八百屋町の幅は二間(三・六m)ほどである。新壱丁目筋が幅員三間(五・四mm)ほどのようだから、八百屋町の通りの幅は狭いといえば狭い。これは、現在残っている八百屋町の通りでも確認できる。
 さて、新壱丁目の火事のとき、この八百屋町の狭い町並の屋根の上に、梯子を横に渡して、その上を二歩踏んで飛び渡る者があった。
 よくわからぬ話である。火事のときに、こんなことをするのは、火消しの徒輩か、それとも盗賊であろう。あんまり鮮やかに飛び渡ったので、あれは何者か、と騒ぐが、それが誰かわからなかった。ただ皆驚くばかりであったという。
 後になって聞くと、なんとこれは武蔵であった。『武公伝』の話では、武蔵の日ごろの様子は、活発ではなく沈静であり、ごく老体のように見えたし、前に話にあったように、二ノ丸の寄之の屋敷の玄関では、山本源五左衛門が「腰に手を添えましょうか」という程の体であったが、その身軽で素早いことはこの通りであった。まことに、どうにも評しがたい、云々。
 しかし、再び云えば、かりにそんなことをやった者が武蔵だったとして、どうして武蔵がそんな離れ業をする必要があったのか、どうにも解せない話である。それについて、『武公伝』には何のコメントもない。武蔵が火事から避難するために、あるいは、だれかを救助するために、さらにあるいは、単に火事見物をするために、火事場近くを飛んで渡ったという話でもない。ただ、この八百屋町の狭い町並の屋根の上に、梯子を横に渡して、その上を飛び渡る者があった、それが武蔵だったと記すだけである。
 この逸話の語り手は、『武公伝』によれば《中西話之》である。中西がこれを語ったというわけだが、この「中西」は、先に出た名で云うと、中西孫之丞かそれとも息子の中西角之進というところかと、一応見当をつけることはできる。ただし、たんに「中西」とあるところをみれば、これは事情が違うかもしれない。『武公伝』の記述における現時点、「当時」を考慮しなければならない。
 すなわち、中西孫之丞や角之進という固有名を挙げる豊田正剛の記録とは違って、「中西」とのみ記すところをみると、これは正脩段階での採録のようである。おそらくは中西家の伝説で、中西角之進の子か孫か、そのあたりが語った話であろう、中西角之進の子なら、養子だが中西五三右衛門昌晴(1680〜1741)、孫であれば、中西孫右衛門昌免(1714〜66)で、この孫右衛門の方が『武公伝』作者の橋津正脩(1706〜64)と世代が近い。
 中西孫右衛門は、宝暦の頃八代にできた兵法稽古所・教衛場で、寺見流指南役をつとめている。武蔵の病床に付けられた中西孫之丞の家も、曾孫ともなると、武蔵流ではなく寺見流なのである。熊本時習館では寺見流師役は中島源之丞だが、八代の教衛場では、この中西孫右衛門が寺見流師役であることが、この先祖附で知れる。
 中西孫右衛門のように師範役ではないが、橋津正脩も、稽古見締とかで武蔵流兵法を八代の教衛場で教えた。そんな教衛場での兵法指導方面の関係もあって、中西孫右衛門は橋津正脩と親しく、また年下でもあり、それゆえ「中西」と記したのであろう。
 そのように、ここでの「中西」が、中西孫之丞や息子の角之進ではなく、子孫の孫右衛門だとしたら、中西家の伝説として、火事場でこんなアクロバットをする武蔵、という話ができていたのであろう。それを聞いて書きとめたのが、橋津正脩である。
 しかし『武公伝』の記事をみると、前段の武蔵老体の話とこれを結びつけている。そうすれば、武蔵は老体の様子だったが、それと同時期に、屋根を飛び渡る離れ業をみせた、ということになる。
 かくして問題は、この二つの話が同時期のことなのか否か、もっといえば、順序はこの通りなのかどうか、である。二つの説話を、
     武蔵老体 → 離れ業
という順序にすれば、可逆性がないので、これは驚異ということになる。しかし、説話の順序が、
     離れ業 → 老体
ということであれば、たんに、軽捷であった武蔵が老いたということで、大して驚くべき話ではなくなる。むしろ、あれほど軽捷であった武蔵が老いぼれたというマイナスの話である。
 結論から先に言えば、この説話には順序の作為があって、編集によって生み出された効果であろう。本来別々の二つの説話をこういう順序にすると、新たな説話が生れるのである。つまり、あれほど老いぼれたふうにみえた武蔵が、一方で信じられない軽捷さをみせた、という説話である。
 ところが、武蔵老体の話が豊田正剛の段階にあり、そして火事場の離れ業の話は正脩が中西某から聞いたとすれば、採録時期が異なる。そうすると、この配置形態は、もともと橋津正脩の段階では別々の説話であったのを、結び付け対照させたところから生じた産物である。
 すると、二ノ丸の寄之の屋敷の玄関では、山本源五左衛門が「腰に手を添えましょうか」という程の体であったが、新一丁目の火事のおりは身軽で素早いことはこの通りであった、まことに、どうにも評しがたい、云々の批評は、どうやら正脩段階の記事ではなさそうである。
 他方、『二天記』ではもっと説話操作が進展している。つまり、武蔵老体の話と、火事場で屋根を飛び渡る話と、この本来別々の二つの話を接合して一連のものとして語るのである。となると、『武公伝』の記事を操作したのも景英であろうと、見当がつく。




「熊本新壱丁目」の位置

新町絵図 個人蔵
新壱丁目筋と八百屋町通りの位置


八百屋町現況


*【明石・中西氏略系図】

○明石左近太夫─────┐
 ┌──────────┘
 ├但馬守 桂立 ────┐
 |┌─────────┘
 |└助兵衛重方―五郎兵衛重武
 |
 ├左近太夫
 |
 └右京進 大西道也 ─┐
 ┌─────────┘
 └中西孫之丞宗昌─角之進重春┐
 ┌─────────────┘
 └五三右衛門昌晴―孫右衛門昌免


*【中西氏先祖附】
《養父中西孫右衛門昌免儀、初名土岐四郎大四郎と申候。五三右衛門四男ニて御座候。嫡子中西孫之丞周徳、享保十年六月大山様御側御中小姓被召出、同組脇役被仰付候処、病身ニ罷成難相勤御暇奉願候処、同十六年三月如願被成御休候。依之四男大四郎儀、嫡子奉願候処、(中略)延享二年四月御台所頭被仰付候。其後御役儀御断申上候処、御式台御番被仰付候。同年九月御作事奉行被仰付候。此時孫右衛門と改申候。宝暦二年七月御作事奉行被指除、同六年七月御馬屋御目附被仰付、同年十一月教衛場寺見流指南被仰付、御者頭列被仰付候。然処達方間違の儀御座候付、右の御役儀差除、御式台御番被仰付候。同十三年二月御式台御番無懈怠相勤候段被聞召上、御満悦被遊候旨、御月番宅ニて御褒詞被仰渡候。明和三年中風相煩、五十三歳ニて病死仕候》
武公伝 正脩 武公伝 景英 二天記
一 武公、寄之主ノ二ノ丸ノ第ニ來ラル時、山本源五左衛門[後ニ土水]ヲ初、其外ノ門弟中、何レモ玄關マデ出迎ヒシト也。或時、武公、玄關ノ箱段ヲ上ラルトテ、左ノ手ニテ腰板ヲ押ヘテ、「ヱイ」ト声ヲカケテ上ラル。源五左衛門出迎ヒ、「御手ヲ引可申哉」ト云。武公道フ、「危イ乎。手ヲ引ニハ不及」ト也。此方ニテノ家士中ノアヒシライハ、當時御備頭衆ナドヲアイシラウ程也。[右八代ニテノ]
同 左
一 武藏、或時興長ノ亭ニ至ル。詰合ノ者ドモ何レモ玄關ニ出迎フ。武藏筥段ヲ上ルトテ、足元ヨロメキ、袴腰ニ手ヲ掛ケ、ヤツト聲ヲ出シテ上ル。興長主ノ士山本源吾左衛門進出テ、「手ヲ添可申哉」ト云。武藏、「ヨシヨシ、夫ニハ及ズ」ト云テ通リヌ。或時一丁目八百屋町ニ火事有リ。町幅狭キ町ニ、屋根ヨリ屋根ニ梯子ヲ打渡シ、其ヲ走リ通ル者アリ。下ヨリ見者、「何者成ゾ」ト驚ロク許ナリ。何レモ誰ト云フコトヲ不見知。後武藏ナルコトヲ知レリ。平日氣ヲ包ミ、極老體ノ如ク、既ニ興長主邸ニテハ、脇ヨリ手ヲ添ヘント云程ノ躰ニテ、又如斯軽捷ナル事アリ
一 熊本新壹丁目ニ火事アリ。時ニ八百屋町ノ狭キ丁並ノ屋ノ上ニ梯子ヲ横ニ打渡シ、其上ヲ二足踏ンデ飛渡ル者アリ。諸人コレヲ見テ、「是ハコレハ、イカナル人ゾ」ト尋ルニ不知、何モ驚クバカリ也。後ニ聞バ武公也。軽捷如是。誠ニイカントモ難評。[中西話之]
一 熊本新壹丁目ニ火事アリ。時ニ八百屋町ノ狭キ丁並ノ屋ノ上ニ梯子ヲ横ニ打渡シ、其上ヲ二足踏ンデ飛渡ル者アリ。諸人コレヲ見テ、「是ハコレハ、イカナル人ゾ」ト尋ルニ不知、何モ驚クバカリ也。後ニ聞バ武公也。平日氣ヲ包ミ沈静ニシテ、極老躰ノ如ク、既ニ二ノ丸玄關ニテハ、腰ニ手ヲ添ヘ可申哉ト云程ノ体佩ニテ、軽捷如是。誠ニイカントモ難評。[中西話之]
 最初の武蔵老体の話は、山本源五左衛門(土水)あるいはその周辺から豊田正剛が聞いて書き留めた話としておく。それを正脩が『武公伝』に採録した。景英も、これには手を入れなかったようである。
 というのも、『二天記』をみれば、玄関で山本源五左衛門が武蔵を介助しようとした場面は、寄之の屋敷でのことではなく、興長の屋敷でのことにして舞台設定を変えているからである。また「山本源吾左衛門」の名は出すが、居合わせた連中は武蔵の門弟ではなく、詰合の者たちで、とくに門弟とはしていない。
 この変更にはさして根拠はない。当時の長岡家当主はまだ興長なので、「山本源吾左衛門」が興長の家士だというのは当然だが、源五左衛門はじめ武蔵門弟が寄之の屋敷へ集まっていたという『武公伝』の設定を変更する理由にはならない。『二天記』は、「山本源吾左衛門」が興長の家士だから、舞台は興長の屋敷だと思い込んで、整合性をもたせようとしたにすぎない。これは余計な配慮と措置であった。
 そのように景英は『二天記』で設定を変更をしている。そのため、かえって、『武公伝』の記事はそのまま放置されて、正脩段階の記事が残ったとみなしうる。
 次に、八百屋町で屋根に梯子をかけて飛び渡るという離れ業を武蔵が演じたという話は、上述のように、正脩が同僚の中西某から聞いた話で、これを『武公伝』に記録した。ただし、この段階では、武蔵老体の話と、武蔵が離れ業を演じた話は、それぞれ別々の逸話であった。また、その配列も、「武蔵老体→離れ業」という順序であったとは限らない。「離れ業→武蔵老体」という逆の順序であったかもしれない。
 これに対し、景英による操作は、記事の配列を「武蔵老体→離れ業」の順序にすること、そして後段の離れ業の条りに、この二つを結びつけるコメントを入れることである。つまり、日ごろ武蔵の様子は、活発ではなく沈静であり、ごく老体のように見え、前にあったように、二ノ丸の寄之の屋敷の玄関では、腰に手を添えましょうかという程の体であったが、その身軽で素早いことはこの通りであった、という講釈である。
 しかし、正脩の段階ですでに《誠ニイカントモ難評》というコメントがあった。これは《中西話之》とあるから、中西某の論評である。つまりは、武蔵が火事場で屋根を飛び渡る離れ業を見せたという伝説に対し、まことに何とも論評しがたい、という論評なのである。言い換えれば、そんなことを実際に武蔵がやったとは思えぬ、というネガティヴな含みのある《誠ニイカントモ難評》である。
 これに対して、上記のような評釈を挿入して、中西某の論評の意味を変えてしまったのが、景英である。この結果、あれほど老体だった武蔵が火事場で屋根を飛び渡る離れ業を見せた、それが《誠ニイカントモ難評》なのである。
 ただし、この部分は、挿入がうまく行っていない。つまり、二ノ丸の(寄之の屋敷の)玄関では、腰に手を添えましょうかという程の体であったが、その身軽で素早いことはこの通りであった、という講釈が、中西某の論評になってしまうからである。中西某の論評が、山本源五左衛門が老体の武蔵を介添えしようとしたという話までカヴァーしてしまうとなると、これは記事が混乱してしまう。それに何より、武公老体の話の本来の趣旨は、武蔵が老いぼれたということではなく、周囲の武士たちが武蔵をいかに鄭重に扱ったか、という「あいしらひ」の話なのである。
 そういう話の筋を混乱させたまま放置されたのが、景英の『武公伝』である。そこで、景英は『二天記』を書く段階で、上掲のようにこの混乱を収拾した。具体的には、『武公伝』にあった「中西話之」という情報源のアンカーを抜き去って、《誠ニイカントモ難評》というその論評を抹消し、本来独立した別の逸話であったものを、ご覧のように編集して一連のものにしてしまったのである。
 これにより、景英が『武公伝』に対しどんな方向で操作したか、それが知れる。つまり、武蔵に対する長岡家士の丁重な「あいしらひ」の話を、火事場の逸話と一連のものにして、武蔵はあれほど老体なのに屋根を飛び渡るという離れ業を演じた、という驚異譚に変換してしまうことである。『武公伝』の記事はその中途半端な操作の産物であるが、『二天記』は景英の編集意図の実現形態である。
 ここにそうした一連の作為があることは、『二天記』だけを見ていてはわからない。それは、説話として整序されてしまった後の形態しか知れないからだ。しかし『武公伝』を十分読み込めば、もともとの話はそういうものではなく、別々の独立した逸話だったことが知れる。
 景英は『武公伝』を編集するにさいし、この二つの説話を関連づけてコメントを入れたが、それによって生じた記事の混乱があった。それを収拾して見えなくしたのが『二天記』の記事である。『武公伝』と『二天記』の間の改訂もしくは改竄の操作には、こういう編集パターンもあるということである。
 しかしながら、その『二天記』にしても、この段は未整理の文章である。というのも、見ての通り、この説話に続いて、平日供廻りは侍六人程、鎗・挾箱・馬なる由、大組頭は今日備頭なり、門弟は長岡式部寄之主、沢村宇右衛門友好主を始め諸士千人に及ぶ、云々とあって、いまの説話とは直接関係がない記事が並ぶのである。
 これは、どういうわけであろうか。『武公伝』はここで、武蔵に対する家中諸士の丁重な応接ぶり、「あいしらひ」は備頭に対するのと同様だったことを語る。それに釣られて『二天記』も書き始めたのだが、平日供廻りは侍六人程、鎗・挾箱・馬なる由、大組頭は今日備頭なり、とわけの分からぬ文章になっている。
 ということは、あれほど老いぼれたふうにみえた武蔵が、一方で信じられない軽捷さをみせた、という説話を組み立ててしまったので、武蔵に対する「あいしらひ」の話が宙に浮いてしまい、大組頭は今日備頭なり、という文意が通じないことになったようである。このあたり、『二天記』にしては、未整理が目立つところである。
 つまりは、『武公伝』の第二巻に含まれる記事は、景英が改訂するに十分な時間がなかった記事群なのである。『二天記』の執筆に移っても、書き下ろしに時間の余裕がなかったと見えて、これに対応する部分は、このように覚書草稿状態で、整理の行き届かないものもあるという状態になったようである。  Go Back





二ノ丸長岡屋敷












































*【二天記】
《武藏、或時興長ノ亭ニ至ル。詰合ノ者ドモ何レモ玄關ニ出迎フ。武藏筥段ヲ上ルトテ、足元ヨロメキ、袴腰ニ手ヲ掛ケ、ヤツト聲ヲ出シテ上ル。興長主ノ士山本源吾左衛門進出テ、「手ヲ添可申哉」ト云。武藏、「ヨシヨシ、夫ニハ及ズ」ト云テ通リヌ。或時一丁目八百屋町ニ火事有リ。町幅狭キ町ニ、屋根ヨリ屋根ニ梯子ヲ打渡シ、其ヲ走リ通ル者アリ。下ヨリ見者、「何者成ゾ」ト驚ロク許ナリ。何レモ誰ト云フコトヲ不見知。後武藏ナルコトヲ知レリ。平日氣ヲ包ミ、極老體ノ如ク、既ニ興長主邸ニテハ、脇ヨリ手ヲ添ヘント云程ノ躰ニテ、又如斯輕捷ナル事アリ。平日供廻リハ侍六人程、鎗持挟箱馬ナル由。大組頭ハ今日備頭ナリ。門弟ハ長岡式部寄之主、澤村宇右衛門友好主ヲ始メ、諸士千人ニ及ブ。寺尾孫之丞勝信、同求馬信行、此ノ兩人ニ流儀相傳アリ。孫之丞、後夢世ト號ス

 
  32 幡指物竿の試し方
一 或時寄之主、武公ニ尋ラルヽハ、「番〔幡〕指物竿、如何シテ試ガ能候ヤ」トテ、未拵竹数本、玉名知行所ヨリ切セ置候由也。
 武公、「其竹ヲ御見セ候ヘ」トテ、右ノ竹ノ本ヲ取、片手ニテ打振ラル。其内ニ中ヨリ折ルヽモ在、折レザルヲ撰除テ、「是ガ能候」ト也。
 寄之主感笑シ玉ヒ、「ナルホド試ハタシカナル事ナレドモ、誰カ貴公ノ如ク、其竹ヲ片手ニテ難〔能*〕打振」(ト)アリ。膂力モ尋常ノ非人。[土水話] (1)

一 あるとき(長岡)寄之主が、武公にお尋ねになった、「幡指物の竿は、どのようにして試すのがよろしいでしょうか」と。まだ拵えていない(材料の)竹を数本、玉名の知行所から切らせて(運ばせ)置いてある由である。
 武公は、「その竹をお見せください」といって、(竹をもって来させて、)その竹の根もとの方を握って、片手で打ち振られた。そのうちには中ほどから折れるものもあった。折れなかったのを撰り分けて、「これがよろしいでしょう」と云われた。
 寄之主は呆れ入って笑われ、「なるほど、その試し方は確実な選別方法ですが、だれが貴公のように、その竹を片手で打ち振ることができますか」と云われた。(武公は)膂力も尋常の人ではなかった。[(山本)土水の話]


東京国立博物館蔵
さまざまな幡指物と母衣  大坂冬の陣図屏風
  【評 注】
 
 (1)幡指物竿、如何シテ試ガ能候ヤ
 これは、武蔵の尋常ではない膂力、人並みはずれた強力を物語る逸話である。
 これも舞台は、長岡寄之の屋敷でのことであろう。あるとき寄之が、武蔵に尋ねた、「幡指物の竿は、どのようにして試すのがよろしいか」と。
 幡指物〔はたさしもの〕というのは、幡指し、指物とも云い、上掲図のように、戦場で用いる自他識別の旗である。ふつう幡指物と云うのは、後胴の受筒に竹棹を挿して立てた小型の旗である。幡指物の代りに母衣〔ほろ〕という袋状の目印もあった。これも大小ある。これに対し、武将が近習に持たせて動く丈の高い幡も幡指物である。このケースでは、寄之が云うのだから長岡家の旗幟であろう。とすれば、長さ二間(三・六m)以上はある。
 『武公伝』の記事では、まだ拵えていない、材料の竹を数本、玉名の知行所から切らせて置いてあるとのことである。ここは口語体であるから文意がスムースに通らないが、ようするに、長岡家が熊本北方の玉名郡に知行地を持っていたから、「玉名の知行所」。幡指物の竿に使えそうな竹を、彼地で伐採させて運ばせ、寄之の屋敷に置いてあるという話である。
 寄之が武蔵に尋ねたのは、幡指物の竿に用いるのによい竹は、どうやって見分けたらよいか、という質問である。寄之は当時、長岡家三万石の嫡子で、しかも自身は給米五千石の若年寄である。こういう若殿が、幡指物の竿がどれがよいか、その識別方法を人に尋ねるというのも、後世と違って、これが江戸初期のことであるからだ。その点、話の背景にはリアリティがある。
 武具軍装のことについては、細川忠興(寄之の実父)などは、越中流といって、その道の権威であった。歴史に詳しい学者でもあったから、他の武将からいろいろ教えを請われることがあった。甲冑の意匠についても同様で、諸将にあれこれ教えている。
 また面白いのは、「越中ふんどし」の名が三斎に帰せられることである。これは喜多村信節の『嬉遊笑覧』にみえる話だが、戦場で戦死者の下帯(ふんどし)がなくなっているのを、これは取られたのではないかと勘違いした医者が、「甲冑や刀剣を取るのはわかるが、下帯を取るとは合点がいかぬ」と云うのに対し、それを訊かれた三斎が、「医者ならよく覚えておくことだ。戦死の体は出血して細るから下帯が外れてしまうことがよくある、だから巧者の心得として、下帯が取れないように、首にかけた「もつこうふんどし」という物をつけるのだ」と説いたという伝説もある。後世、「越中ふんどし」の名が三斎に帰せられるようになったのは、そもそも彼が「越中流」と呼ばれた武具軍装の権威であったからである。
 そんな家筋だから、軍備おさおさ怠らず、という雰囲気があったのだろう。ただ、寄之は、幡指物の竿にするのによい竹は、どうやって見分けたらよいか、八代城に居た三斎(忠興)から教わっていなかったらしい。
 そこで、――かどうかは知らぬが――寄之は武蔵に尋ねた。すると、武蔵は、その竹を見せてくれ、といって、竹を持ってこさせた。武蔵はどうやって、幡指物の竿によい竹を見分けるのか。その識別法はいかなるものか。武蔵の薀蓄を傾けた講義が始まると思っていると、はたして、実はそうではなかった。
 武蔵は竹の根元の方を握って、竹を片手で振った。この竹は、ふつう謂う幡指物の、五尺や六尺の短い細竹ではないのは、上述の通りである。二間以上はある丈高い幡竿にする太くて長いもの。そんな長大な物だと常人なら両手でもってしか扱えない。だから、『武公伝』の記事は、ここを、両手ではなく、わざわざ「片手」で振ったというわけである。
 武蔵が根元を握って片手でブンブン振ると、真中から折れる竹もあったという。しかし、ご存知のように、竹は木材と違って柔軟で撓む材質だから、振ってもなかなか折れないものだ。じわっと曲げていけば、撓みの限界を越えて、折れる。それを振っただけで折るというのは、まずできないことで、もしそれが可能なら、尋常のパワーではない。
 竹は折れたり折れなかったりで、結果、武蔵は折れなかった竹を撰り分けて、寄之に向かい、「これがよろしいでしょう」。竿竹の選別方法を具体的に示したというわけだ。
 それに対し寄之は、感笑、というから、呆れて笑って、『武公伝』によれば、こう云った。――「なるほど、その試し方は確実な選別方法ですが、だれが貴公のように、その竹を片手で打ち振ることができますか」。これが話のオチである。
 この説話は、寄之が、幡指物の竿にする竹の試験方法如何を問うたのに対し、武蔵が竹を片手でブンブン振って、その選別法を示した。それはたしかに一番確実な材料試験法だが、問題は、それが武蔵以外の誰にもできない選別法だった、という一種の笑話である。これは、話のオチもきちんとあって、『武公伝』の中では比較的上質な説話である。
 笑話としては、寄之が呆れて笑い、「なるほど、その試し方は確実な選別方法ですが、だれが貴公のように、その竹を片手で打ち振れますか」と云ったところで、話のオチがついているが、『武公伝』のこととて、武蔵の膂力は尋常ではなかった、という蛇足じみた結語を加えているのである。
 話のソースも明記してあって、「土水話」とある。この土水は既述の山本源五左衛門である。この名は三度目の登場であるから、説明は繰り返さない。豊田正剛が山本土水から聞いた話であり、正脩がそれを『武公伝』に採録したのである。
 ただし、これは土水がこの場面を目撃したという話ではない。前出の玄関で武蔵に「お手を引きましょうか」と声をかけたような場面の登場人物でもない。したがって、これは土水の伝聞かもしれない。
 しかも、これを備忘のため記録したのは、正剛の晩年であろう。話を聞いてからから記録するまで、何十年という時間が経過していることを念頭において読むべきである。その間、正剛はこの話を何度も人に語っただろうし、それゆえ説話としてよく練れているのである。
 武蔵が尋常の人ではなく「非常人」だったことは、さまざまに伝説されているところである。『武公伝』のこの、竹を打ち振って折ってしまうという強力譚などもその典型例の一つである。しかし問題は、寄之の科白にもあるように、そんなことは誰ができますか、ということである。
 言い換えれば、武蔵のような超人の兵法/戦闘術が、たとえ弟子であっても継承されるわけはない。この笑話に潜む、ブラックユーモアは、つまりはそういうことなのである。『武公伝』の結語のように、たんに武蔵の膂力非常なるを賛嘆するというのは、そのポイントを外している。
 これと類似の話は、筑前系の『丹治峯均筆記』にもある。五尺杖の仕道(操法)は、寺尾孫之丞信正が練り上げたものである。武蔵は五尺杖を片手で自由に扱えた。それゆえ、特別にこれという技法はなかった。寺尾孫之丞に至って、片手では振りがたいので、仕道(操法)を確立したそうだ、という言い伝えを記す。
 つまり、常人には片手では扱えない五尺杖を、武蔵は片手で自由自在に振り回した、ということである。そして、そんな非常人・武蔵の術は天資のものだが、それを継承するには、寺尾孫之丞のように、それを両手で操作する仕道(技法)を発明する必要があった。
 おそらくそれが事実であろう。言い換えれば、非常人武蔵の兵法は、常人にも可能な技法として凡庸化されないかぎり、伝承しえない。しかし反面、そのような凡庸化は、すでに武蔵自身の兵法ではない。つまりは、この矛盾こそが、武蔵流兵法伝承のアポリアなのである。

 ところで、後継『二天記』は、この説話をどう扱っているか。
 これも『二天記』だけを見ていてはわからないことだが、作者は、下に示す如く、『武公伝』の三つの条項を一つに編集している。






松井文庫蔵
細川寄之肖像
後は猩々緋鍬形指物の兜





*【嬉遊笑覧】
《明良洪範に、伊藤三白と云老医、細川三斎公に物がたり、「深手負又は討死せし者下帯なきよし諸人申候。何共合点参らぬ事」と申上候へば、「なる程其事実正なり。医者などは其理心付べき事也。死候へば肉落る。分て戦死は血も多く出、結び付し物たまるべきやうなし。夫故巧者心がけの者は、下帯の結めと前の方とに緒を付て首へかけ、もつこふどしと申て用ひ候。これ死後脱落ぬ用心」と被申候有。是等の物語より越中ふんどしの事もいふ歟。又製作は異なれどももつこふどしの名はこれなり》
《按に茶事指月集に、三斎翁、亡洋に物語の内、腋ざしの鞘形を予が鞘は越中流とて人のゆるしつるに云々あり。又貞徳が歌林雑話に、彼殿は何事も[幽斎翁を云]古風に掟給ふとあれば、このふんどし恐らくは彼越中流ならむ歟》































武蔵の五尺杖


*【丹治峯均筆記】
《五尺杖ノ仕道、信正鍛錬也。武州公ハ片手ニテ自由セラシユヱ、別段ニワザハナシ。信正ニ至リ、片手ニテハ振ガタキユヘ、仕道ヲ付ラレシト也》
武公伝 二天記
一 武公、平居閑静シテ、毎ニ泰勝寺ノ住持春山和尚ニ參禅シ、連歌或ハ書畫小細工等ヲ仕テ、日月ヲ過了ス。故ニ武公作ノ鞍・楊弓・木刀・連歌・書画、數多アリ。
一 武藏、平居閑静ニシテ、或ハ連歌茶書畫細工等ニテ、日月ヲ過了ス。寄之主ノ亭ニテモ、連歌ノ會度々有リ。長岡右馬助重政、森崎玄三等、執筆有リ。連衆物聲次ノ間ニ聞ユレドモ、武藏ノ物聲許リ一向ナカリシト、其頃寄之主ノ近習申シ合ヘリトナリ。或時寄之主、「差物竿ハ、如何タメシテ可然哉」ト有シニ、武藏云、「竹有之バ、出シ玉へ」ト。寄之主近習ニ命ジテ、頃日知行所玉名郡ヨリ能キ竹ヲ取リ寄セ置タリ。「是ヘ」トテ、則近習モチ出ス。武藏其竹ノ根ノ方ヲ把リ、椽端ニ出テ、強ク打振ル。其勢ニシハシハシテ、中ヨリ割ルヽモアリ、節ヨリ折ルヽモアリ。數本把リテ、「右ノ如クシテ不折ヲ、是ガ能候」トテ差置キヌ。寄之主感賞有テ、「是ハタシカナル試ナレドモ、貴方ノ如キ力量ノ人ニテナケレバ、此試出來マジ」ト笑ヘリ。
一 寄之主モ連謌ヲ嗜マレ、熊本二ノ丸屋鋪歌仙ノ間ニテ度々連歌ノ會アリ。長岡右馬助重政主・武公・森嵜玄三ナド會衆也。其外ニモ連中アリ。何角ト物聲次ノ間ニ聞ユレドモ、武公ノ聲ハ一向ニナカリシト、其比近習ノ者何モ云アヱリ。[中西孫之亟話、中西角之進云]
一 或時寄之主、武公ニ尋ラルヽハ、「幡指物竿、如何シテ試ガ能候ヤ」トテ、未拵竹數本、玉名知行所ヨリ切セ置候由也。武公、「其竹ヲ御見セ候ヘ」トテ、右ノ竹ノ本ヲ取、片手ニテ打振ラル。其内ニ中ヨリ折ルヽモ在、折レザルヲ撰除テ、「是ガ能候」ト也。寄之主感笑シ玉ヒ、「ナルホド試ハタシカナル事ナレドモ、誰カ貴公ノ如ク、其竹ヲ片手ニテ難打振」トアリ。膂力モ尋常ノ非人[土水話]。
 これをみると、『武公伝』の「武公、平居閑静シテ」の段は、寄之の二ノ丸屋敷の連歌の会の話の前説として構成し直されている。そして、この話は、幡指物の竿を逸話を誘発して、ごらんの通りの一段の説話となる。
 『二天記』作者の編集意図は明らかで、ここは軽いユーモアのある逸話を二つ輯めて構成されている。一つは、連歌の会で武蔵は物声がなかった(武蔵は連歌が苦手だったらしい)、そしてもう一つは、この指物竿の材料試験法の教示で、寄之から「だれがそんなことができますか」と笑われたという逸話である。
 『二天記』の物語は、説話効果を図っているので、連歌の話が中西孫之丞の咄だとか、指物竿の話が山本土水の咄だとか、そういう伝聞ソースに関する情報はない。要するに、『二天記』の記事は、固有名つきの伝聞情報が、名から自由になって伝説として一人歩きしている段階のものである。『武公伝』にあったノンフィクションへの繋留を外して、説話としての興趣を優先させている。
 これは、豊田景英が教えた、八代の兵法稽古所・教衛場での公衆向けの講話内容であって、もうそのころには、中西孫之丞や山本土水の名よりも、説話そのものの喚起力がどうであるか、そのことに作者の関心が向かっているのである。その意味で、『武公伝』と『二天記』の相違がよく顕われた部分である。
 すでに見たように、武蔵老体の話と火事場で屋根を飛び渡る武蔵の話は、『二天記』においては、一つの段に接合されている。そしてまた、この段のように『武公伝』の三つの記事を一つに編集してしまうこともやっている。『武公伝』から『二天記』へ、という肥後系武蔵伝記の改版過程は、この一段に典型的に現れている。
 したがって、景英は『武公伝』を校訂しただけではない。またそれを変更もせずに『二天記』と改題しただけというのは、明らかに事実に反する。景英は、編集者の範囲を逸脱して、その内容を書き換えたし、場合によっては、別々に独立した説話をこのように一つの段にまとめるという操作もやっているのである。ようするに、『武公伝』を『二天記』と改題したのではなく、それとは別の『二天記』という一書を書き下ろしたのである。
 こうしたことは、我々の『武公伝』読解作業を通じてはじめて体系的に明示された事柄である。従来の武蔵研究は、『二天記』冒頭凡例に付記された記事を、そのまま鵜呑みにして、『二天記』を解説するという愚行の繰り返しであった。というのも、『武公伝』をまともに読んでおらず、『二天記』を『武公伝』と校合するなどという作業は、これまで何人も為さなかった。そういう研究上の怠惰のゆえに、『二天記』は引用されても、いまだにその内容は読まれていないに等しいのである。  Go Back
















稼堂文庫本二天記

*【二天記凡例付記】
《此書は武公傳と有しを二天記と改て、宇野惟貞に序を乞ふて全書とする者也。  豊田景英校 》

 
  33 武蔵作の鞍
一 武公作ノ鞍、中西孫之亟ニ贈ラル。彼家ニ傳ル。
  金ニテ黒漆也。  附  焼失ス。(1)

一 武公作の鞍があり、中西孫之丞に贈られた。中西家に伝わっていた。
  金で黒漆である。 (図形) が附いている。
           (しかし)これは焼失してしまった。

  【評 注】
 
 (1)武公作ノ鞍、中西孫之亟ニ贈ラル
 ここから三段連続して、武蔵が死に臨んで形見分けした遺品の話である。まずは、鞍である。
 武蔵作の鞍があったというから、自作の鞍である。《金ニテ黒漆》というから、これは豪華なものであって、実用のものではない。現在、武蔵作と伝える「黒漆金銅牡丹文鞍」が残っている(松井文庫蔵)。おそらくは、これに近いものであっただろう。
 ところで、『武公伝』は、四つ目菱の紋を記録している。『武公伝』の作者は、このブランド(家紋)に注目して、わざわざ図形を写しているのだから、これは看過すべきではない。これは一体どういうことであろうか。
 しかし、従来、『武公伝』が記したこの図形について、問題にした者もいないし、それゆえ考えを明らかにした者もいない。そこで、以下若干当方の所見を披瀝しておく。
 まず考えられるのは、これは、四つ目菱の家紋をもつだれかのために作ったものであろう、ということ。しかし、むろん武蔵のブランドは、赤松氏にしろ新免氏にしろ、三つ巴なので、これは武蔵自用のものではない。また、『武公伝』が写したこのような四つ目菱そのまま、という家紋もない。そうなると、この家紋らしき図形は宙に浮いてしまう。しかしまた、よくみれば、これは四つ割菱を描いたようにもみえる。いわゆる武田菱である。
 武蔵周辺にいた武田氏末裔といえば、岩間六兵衛である。岩間六兵衛は武田信玄の孫であり、武田氏滅亡前後、小笠原家に身を寄せ、仕えるようになった。その六兵衛が細川家へ来たのは、小笠原忠政の妹・千代姫が細川忠利に嫁したとき、その御付衆の一人として随行してきたという縁である。
 しかし、当時小倉城主であった小笠原忠政と武蔵の間に長年の親密な関係があったとしても、武蔵がそのように、細川家臣の岩間六兵衛のために、黒漆に金というそんな美々しい鞍を作ったとは考えにくい。
 となると、もう一つ考えられるのは、この紋が武田菱ではなく、板垣菱ではないか、ということ。つまり、武田菱を黒に染めた地黒菱である。『武公伝』が記録した図形には、こちらの方が近似性がある。ただし、この板垣菱の専用を許されたという板垣氏は、武田信玄の重臣・板垣信方あたりまでしか事績は杲らかではない。武田氏滅亡とともに板垣氏も消滅した。
 とすれば、これは武田氏枝流であった小笠原家に関係するものかもしれない。つまり、播州明石以来親縁のある小笠原忠政との話の中から生れた作品ではないか、ということ。すなわち、板垣菱紋専用許可の証拠として、武田信玄が板垣信方に与えた鞍があって、それを、いわば考古学的に復元したもので、滅亡した板垣氏を記念する作品でもある、というわけである。
 そうだとすれば、武蔵は以前に作ったこの鞍を、小倉から熊本へ取り寄せてたと考えられる。それは、自身お気に入りの作品だったというよりも、たとえば細川忠利の所望でこれを見せる必要があったためであったろう。しかし、武蔵の死期が迫って、それまで看病してくれた中西孫之丞に、これを形見として贈った。こういう工芸作品は理解できる者に贈与するにかぎる。中西孫之丞は明石一族・大西道也の息子であり、いわば聚楽第に象徴される京都文化の余流であるからだと。
 ただし、以上のことにもかかわらず、別の筋道が問題を解決してくれる。というのも、いづれにもせよ、細川家には武田流騎射の伝承があったからだ。これは安芸武田氏の武田信直から、細川藤孝(幽斎)が伝授されたもので、それを忠興が受け継ぎ、さらにそれが細川家臣の竹原市蔵惟成に伝授されて、以後竹原家の家伝として代々伝えられ、現在も熊本で武田流騎射流鏑馬として伝承保存されている。
 このことからすれば、『武公伝』が記録した四つ目菱紋は、細川家に伝承のあった武田流騎射と関係するもので、やはりこれは武田菱ではないかと思われる。『武公伝』の図形は線描だから、それを四つ目菱に描いたものであろう。
 武蔵が肥後に滞在した当時、細川三斎(忠興)はまだ存命中だから、この武田流騎射流鏑馬の道具として武蔵がこの鞍を製作した可能性はある。『武公伝』の記事のように、これが黒漆金銅の鞍だとすれば、日用の鞍ではなく、流鏑馬神事に供したもので、しかも細川家伝来の武田流騎射流鏑馬だとすれば、武田菱が付いたのも首肯しうるところである。武蔵自らも元気なうちは流鏑馬に出るようなこともあったかもしれない。
 そういうわけで、この『武公伝』記事は、武蔵と武田流騎射との関係を証言するものであろう。それが我々の当面の見解である。
 この鞍を、上記のように武蔵は中西孫之丞に遺贈した。中西孫之丞は長岡家から武蔵の病床に付け置かれた人である。ところが、『武公伝』によれば、この武蔵作の鞍は焼失してしまったという。いつそうなったか『武公伝』には記載はないが、とにかく中西孫之丞に遺贈された鞍は、その後、火事で灰燼に帰したのである。したがって、この鞍は現存しないということになる。
 しかるに他方、『二天記』には、武蔵が死の七日前の例の「五月十二日」に、長岡寄之と沢村友好に、遺物として腰の物(太刀)と鞍を譲渡したとある。ところが、すでに見たごとく、『武公伝』には当該箇処にそのような記事はない。つまり、「五月十二日」に譲渡儀式があったのは、寺尾孫之丞へ五輪書を、寺尾求馬助に三十九ヶ条の書を、それぞれ相伝したとあるのみで、長岡寄之と沢村宇右衛門友好に、太刀と鞍を譲渡したという話はないのである。したがって、これは『二天記』の作者の増補記事である。
 武蔵が沢村宇右衛門に太刀を遺贈したことは、『武公伝』のこのすぐ後の段に記されている。武蔵が所持していた大原真守作の刀、とまで明記してある。にもかかわらず、武蔵がこの太刀を「五月十二日」に沢村宇右衛門に譲渡したとは書いていない。どうやら、この五月十二日遺贈説は、『二天記』作者の筆から生じたもののようである。
 『二天記』の記事だと、《寄之主、友好主へ、爲遺物、腰ノ物并鞍ヲ譲リアリ》とあるから、沢村宇右衛門に太刀の他に鞍も贈与したようだが、『武公伝』には沢村宇右衛門に鞍を譲渡したという記事はない。
 同じく、この「五月十二日」に寄之に太刀と鞍を遺贈したというのも、『二天記』の作為である。しかも、これがその日付だけではなく、「遺物として寄之に太刀と鞍を譲った」という記事そのものが信憑性を欠く。なぜなら、他ならぬ主家先祖の寄之に、武蔵が遺贈した物があったという伝説があれば、『武公伝』はそれを真っ先に記すだろうからだ。そんな伝説は、『武公伝』段階では存在しなかった。それゆえ、「遺物として寄之に太刀と鞍を譲った」という記事がないのである。
 ようするに、正脩の『武公伝』の段階では、武蔵が寄之に太刀と鞍を遺物として贈ったという事実も伝説もなかった。これは『二天記』の段階で発生した説話である。『武公伝』が記すのは、武蔵が自作の鞍を、(寄之にではなく)中西孫之丞に譲ったということである。武蔵遺品の鞍に関して、『武公伝』の記事にはそれ以外の遺贈先はない。
 そうなると、現在松井文庫所蔵の「武蔵先生自作鞍」という鞍が、上記の黒漆金銅牡丹文鞍はじめ、三点あるが、それらは一体どこから沸いて出たのか、ということになる。
 松井文庫所蔵の「武蔵先生自作鞍」はそれなりに出来のよいもので、「武蔵先生自作鞍」という箱書の文字を裏切らない代物である。しかし、それらは別人の作品で、おそらく、後世のあるとき「武蔵先生自作鞍」として長岡(松井)家に所蔵されるようになったものであろう。それは『二天記』の記事より早くはなく、それ以後の所為であって、いわば『二天記』が書いて以来流布した伝説の実体化/物質化であろう。
 こうしたことは、『二天記』だけを見ていては分からない。『二天記』には、武蔵が「五月十二日」に寄之に太刀と鞍を贈ったとあって、しかも現在「武蔵先生自作鞍」が松井文庫に伝わっているとすれば、この二つのことから、松井文庫所蔵の「武蔵先生自作鞍」は、武蔵が寄之に遺贈したものだと、信じるのもやむなし、というところであろう。
 しかしながら、先入見を排し、『二天記』を『武公伝』と照合しつつ読むならば、そのような信憑には根拠がないことが知れる。文献資料を読解するとは、行間に隠された秘密を探査することではなく、まさにその書物が公然と露呈している事柄をそのまま受け取ることに他ならない。  Go Back




松井文庫蔵
黒漆金銅牡丹文鞍





武公伝記載の四つ目菱紋



武田菱



板垣菱





武田流流鏑馬と武田菱








*【二天記】
《同五月十二日、寄之主、友好主へ、爲遺物、腰ノ物并鞍ヲ譲リアリ。寺尾勝信ニ五輪ノ卷、同信行ニ三十五ケ條ノ書ヲ相傳也。其外夫々ノ遺物アリ。増田惣兵衛・岡部九左衛門ト云者、武藏譜代ノ者ノ由ニテ、シカモ手ニ合ヒシ者故、被召使可給由頼テ、亡後ニ寄之主召抱ラル。物事カタツケ極メラレテ、自誓ノ心ニテ書セラル》

*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス。[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》

 
  34 大原真守作の刀
一 武公所持ノ大原真守作ノ刀、沢村故宇右衛門殿[友好]ニ贈ラル。今ニ澤村家ノ重寶トナレリ。長サ三尺余在ト也。二代宇右衛門殿ノ時、何與奇瑞ノコトアリシヨリ、神霊アリトテ、常ニ筥ニ納メ、注連ヲ張、ミダリニ指料ニセラレザル由。當時三尺余ノ刀ヲ指コナス人モ亦稀也。至極スルド〔鋭〕ニ見事ナル刀ノ由。(1)
又明和七[庚寅]年七月廿五日、熊本坪井ヨリ火發、夫ヨリ火飛移、京町焼失。其時、沢村大九郎居家財、不残焼失矣。時ニ此太刀出ス事難成間、火事場ニモ人々ニ云テ曰、「金銀財宝ハ少モ不吝、真守ノ太刀焼失シ事、是ノミ吝シヽ」ト、焼失後マデモ申サレシトナリ。然ニ寶藏、是ハ不焼在ケリ。此藏ハ二重ニシテ、鎖モ又二重也。家司ヨリ外入ル事ヲ禁ズ。後四五日アリテ、二重ヲ開キミルニ、フシギヤ真守ノ刀、二重奥ノ櫃ノ上ニ在。誠ニ言語ニ盡シガタシ。予思、武公ノ帯シ玉ヒケル故ニヤ。亦、眞守ノ心ヲ入レ、ウチタル故ヤ。此両端難評。後人之ヲタヾセ。
右、豊田権内、予ニ語ル。(2)

一 武公所持の大原真守作の刀は、沢村故宇右衛門殿友好に贈られた。今も沢村家の重宝となっている。長さは三尺余あるという。二代目宇右衛門殿の時、何かと奇瑞のことがあったので、(その刀に)神霊があるとして、いつもは筥に納めて、注連縄を張り、みだりに指料になさらなかったそうだ。今日では三尺余の刀を差しこなす人もまた稀れである。(この刀は)至極鋭利で、見事な刀であるそうだ。
また、明和七年(1770)七月二十五日、熊本坪井から火事が発生、そこから火が飛び移り、京町が焼失した。そのとき、沢村大九郎の屋敷と家財が、のこらず焼失してしまった。そのときこの太刀を持ち出すことができなかったので、(沢村大九郎は)火事の現場でも人々に、「金銀財宝は少しも惜しくはないが、真守の太刀を焼失したこと、これだけは惜しい」と云われ、消失後もずっと言われていたそうな。ところが、宝蔵が焼け残っていた。この蔵は二重の造りで、錠もまた二重であった。家司以外には立入ることを禁じていた。火災後四五日して、二重の中を開いてみると、不思議や、真守の刀、二重の奥の(武具)櫃の上にあった。まことに言語に尽しがたい。私が思うに、これは、武公が帯びておられたからであろうか。また、(刀匠の)真守が心をこめて、打ったからであろうか。このどちらかは評しがたい。後世の人よ、これを究明してほしい。
以上は豊田権内が私に語ったことである。

  【評 注】
 
 (1)武公所持ノ大原真守作ノ刀
 武蔵が沢村宇右衛門に、自身所持の大原真守の刀を遺贈したという話である。
 宮本武蔵が大原真守作の刀を所持していた。――というと、多少とも刀剣に知識のある御仁ならば、ホホウと身を乗り出すことであろう。
 大原真守〔さぬもり〕は平安後期を代表する刀匠の一人である。その作品は現代にも遺っており、国重文指定のものも数点ある。大原真守は伯耆の人で、大原(伯耆)安綱の子だという。伯耆大山の東に倉吉という町がある。その近くに大原がある(現・鳥取県倉吉市下田中)。古来刀鍛冶が住み、刀剣の産地であった。大原真守はその大原という地名によって呼ばれる。
 安綱は『太平記』にも出てくる「童子切」で有名な刀匠、「童子切」は国宝である(東京国立博物館蔵)。また、大原真守の方も、『平治物語』には、「抜丸」という大原真守の刀が登場する。いづれも名工として後世に語り継がれた人物である。
 さて武蔵が所有していたという大原真守作の刀が真物だとすれば、これは今日で云えば重文級である。いわゆる平安古刀で、現存作品は讃岐松平家や徳川家など大名家旧蔵のものがあり、また尾張の津島神社(現・愛知県津島市神明町)などはこれを宝剣として所蔵している。
 武蔵が大原真守を所有していた、それは細川家重臣・沢村宇右衛門に遺贈したというのだから、『武公伝』がこれを記録するわけである。沢村宇右衛門なら、大原真守を遺贈されるに相応しいというところである。





伯耆國大原物之系圖
讃岐松平家旧蔵
大原真守 重文 銘真守造
長二尺五寸三分

徳川家旧蔵
大原真守 重美 銘大原真守
長二尺三寸二分

東京国立博物館蔵
伯耆安綱 国宝童子切 銘安綱
長二尺六寸四分

 沢村宇右衛門友好(1607〜67)については、『武公伝』には前に武蔵の門弟の一人としてその名が登場している。その段で述べたからここでは繰り返さないが、松井仁平次元常の四男で、沢村大学吉重(1561〜1650)の養子となった人である。つまり、松井康之の姉孫であり、長岡興長には叔母の孫にあたる。のちに知行一万三千石に達するが、この当時、養父の沢村大学が存命中で、まだ家督相続はしていない。
 この武蔵所持の真守は長さは三尺余あるという。長剣である。小倉碑文は、巌流島決闘のとき、武蔵の相手・岩流が三尺余の白刃をふるったという伝説を記録しているが、武蔵もこういう長剣を所持していたということになる。
 『武公伝』は、今日では三尺余の刀を差す人もまた稀れである、この刀は至極鋭利で見事な刀だそうであるという。ただし、『武公伝』の筆者はこれを実見していない。伝聞である。
 それは、沢村家が本府熊本の重臣であり、『武公伝』の筆者が容易に近づける相手ではなかったし、それに沢村家ではこの刀を秘蔵するようになった話を『武公伝』そのものが記しているからである。
 二代目宇右衛門のとき、とあるから、これは沢村宇右衛門友好の息子・宇右衛門友雅である。寛文五年(1665)、宇右衛門友好が死去して、万石家老の跡目を相続した。この二代目のとき、何かと奇瑞のことがあったので、刀に神霊があるとして、いつもは筥に納めて、注連縄を張り、みだりに取り出して腰に差すことはしなかったという。いわば神聖な霊剣として祀るようになったということらしい。
 宇右衛門友雅のとき何かと奇瑞のことがあった、というのだが、その奇瑞の具体的なことはここでは知れない。しかし、これは後出記事にみえる、大原真守の刀にまつわる不思議譚と関連があろう。それは、斬首刑にこれを持ち出して斬らせたが、うまく斬れず、しかも太刀は鞘へ納まらなくなった。ところが、これを清祓祭祀すると、不思議や、元の鞘へ納まった、という話である。
 ともあれ、沢村家では、二代目宇右衛門のとき、これを霊宝として斎くようなったらしい。ただし、宇右衛門友雅は、貞享二年(1685)閉門を命じられ知行召上となった。何か不行跡があったのであろう。しかし名門沢村家が潰されるわけがなく、翌貞享三年、息子の大九郎友朗に知行は返された。かくして沢村家は存続し、大九郎の代にはむしろ知行も一万八千石に加増されたのである。とすれば、奇瑞云々もこうした沢村家の遷移を背景にしたことかもしれない。
 ところで、この段の最後に、こう記されている。
   《右、豐田権内、予ニ語ル》
つまり、以上は豊田権内が私に語った話である、と記されている。この「予」は豊田正剛かそれとも正脩であるが、ここにある「豊田権内」という人物が不明である。しかし、豊田権内が私に語ったと、この人物のことを分かりきったように説明抜きで記しているから、これは豊田家の人間であろう。ただし、先祖附に豊田権内という名がないので、これは推測する以外にはない。
 この「豊田権内」は後に別の段でも出てくる名である。このばあい、「予」が豊田正剛だとすれば、豊田権内は正剛の父・高達ではないか、と推測しうる。元禄七年(1694)高達が隠居して、二十三歳の正剛が家督を相続した。翌年、高達は死去した。こういう経緯からすれば、これは正剛が元禄前期に聞いた話だということである。
 またもし「予」が橋津正脩だとすれば、高達は正脩が生れる以前に卒去しているから、高達ではありえない。また正脩は父正剛を「橋津卜川」と記すから、豊田権内は正剛ではない。もう一つの可能性は、正剛の弟・正敬であろう。正脩には叔父にあたる正敬も該当者であるが、元文二年豊田一族が橋津姓に改姓したとき、正敬も橋津源右衛門と改名しているから、これもわざわざ豊田姓をかぶせることはありえない。
 そうすると、豊田権内はやはり、正剛の父・高達であろう、という結論になる。高達の頃、沢村家当主は二代目沢村宇右衛門友雅である。彼が貞享二年に閉門を命じられ、知行を召上げられて失脚し、またその翌年家督が息子の大九郎に許されたのを、リアルタイムで知っているのも、豊田高達である。高達は貞享三年、長岡家熊本屋敷詰になり、以後五年ほど熊本に住んでいる。沢村家の話を伝聞する環境条件は揃っている。
 とすれば、ここに「予」とある人物は、他ならぬ豊田正剛で、例によって伝聞の情報ソースを記したのである。  Go Back
















*【沢村家略系図】

○沢村大学吉里=宇右衛門友好┐
 ┌――――――――――――┘
 └宇右衛門友雅─大九郎友朗┐
 ┌――――――――――――┘
 └岩三郎友恒=大九郎友隼―┐
 ┌――――――――――――┘
 └大九郎友顕=宇右衛門友輔
















*【豊田氏略系図】

○豊田甲斐正信─甚之允高久┐
 ┌───────────┘
 │岡田四郎次郎  橋津卜川
 ├専右衛門高達┬又四郎正剛─┐
 │      │      │
 └信房    └源右衛門正敬│
  頼藤浅右衛門       │
 ┌─────────────┘
 │ 橋津八水
 └彦兵衛正脩┬某
       │
       │復姓豊田
       ├専右衛門景英
       │
       └仙九郎
        高野平右衛門



 
 (2)フシギヤ真守ノ刀、二重奥ノ櫃ノ上ニ在
 明和七年(1770)七月の熊本大火のときの話である。もとより、明和七年には豊田正剛はむろん、正脩も生きてはいないから、これは景英の作文である。本文ではなく、ここは補註の体裁をとっていて、後入れであることを明らかにしている。
 坪井から火事がはじまり、京町まで焼けた。このとき、沢村大九郎の居宅と家財が、のこらず焼失してしまったという。この大火では、実際には京町・岩立・新堀・龍迫谷まで焼けたのである。
 沢村家は、このとき京町にあった。以前は御花畑の向いに屋敷があったが、この時代までには京町口の方へ移っている。京町口は、豊前街道の出入口で、熊本城下の重要な関門の一つである。ここに勢屯をはさんで、東西に小笠原家と有吉家の下屋敷があって構口を固めていた。その後、沢村岩三郎友恒の代に、小笠原家に代わって沢村家がここに配置され、下屋敷だけではなく、本宅もここへ移転したのである。
 話は明和七年の大火のときのことだから、ここにいう沢村大九郎は、大九郎友隼の子の大九郎友顕(1749〜1800)のことであろう。大九郎友隼は前年の明和六年に死んで、友顕が家督相続したからである。
 この火事で、沢村大九郎の屋敷も家財も、のこらず焼失してしまった。そのとき家宝の大原真守の太刀を持ち出すことができなかった。火事の現場で大九郎は、人々に、「金銀財宝は少しも惜しくはないが、真守の太刀を焼失したこと、これだけは惜しい」と云っていたし、その後も悔しがることしきりであった。
 ところが、宝蔵が焼け残っていた。この蔵は二重の造りで、錠もまた二重であった。家司(執事)以外は、蔵に立入ることを禁じていた。火災後四五日して、蔵の二重の中を開いてみると、不思議や、かの刀は二重の奥の櫃の上にあった。この櫃は鎧櫃など武具道具を入れた箱である。その上に大原真守の太刀はちゃんと残っていたのである。
 これについて筆者(つまり『武公伝』に加筆した豊田景英)が云うには、まことに言語に尽しがたいことだ、そこで思うに、これは、武公が帯びておられたからであろうか。また、刀匠の大原真守が心をこめて刀を打ったからであろうか。このどちらかは評しがたい。後世の人よ、これを究明してほしいと、これはかなり大げさな物言いである。
 大火でも蔵が焼け残ることはあるし、それに第一、蔵はそのためにあるもので、火災に耐えるような造りにしてある。沢村家の宝蔵も二重構造だというから、防火のことを考えて造ってある。したがって、事実は、この蔵が火災に焼け残り、中に収蔵した物品が無事だった、というにすぎない。この刀が櫃の上にあったというのだから、鎧櫃なども焼けずに残っていたのである。これが、丸焼けになった屋敷の灰燼の中から、この刀だけがそっくりそのまま焼けずに出てきたのなら、その無事に驚きもしよう。しかし、焼け残った蔵から出てきたのでは、景英が不思議やと驚嘆してみせるほどのことではない。読む者をして、いささか白けさせる文章である。
 思うに、これは、武公が帯びておられたからであろうか。また、大原真守が心をこめて打ったからであろうか。これでみるかぎり、景英は、これが武蔵所持の刀だったから、大火に焼け残るという奇蹟を示したのだと云いたいらしい。武蔵の威力は死後霊験を顕したというわけである。ただし、事があまりにも凡庸なので、奇瑞奇蹟とは謂いがたい。
 余談になるが、先祖附によれば、沢村岩三郎友恒(後改、衛士)の代に、紀州公から二度に亘って腰の物(太刀)を拝領している。寛保元年(1741)、細川宗孝が徳川宗直の女・友姫と結婚するにあたり、岩三郎がその結納の使者に出向いた折と、それから婚礼のとき輿請け役をつとめた折の二回である。さらに翌年、細川宣紀女・八代姫が松平讃岐守頼恭(讃岐高松城主)と結婚するに際し、輿渡し役をつとめ、このときも腰の物を拝領している。ちなみに、かの平賀源内は、この松平頼恭の家臣であった。そういう時代のことである。
 このように先祖附に特記する紀州公やら讃岐守から拝領の太刀となると、それなりの名刀であって、沢村家の重宝になっていたと思われる。それらもこの明和七年に火災に遭ったはずである。しかし、むろん『武公伝』の景英は、そんな他の太刀のことは一向お構いなしである。
 なお『二天記』に、補註記事であるが、この大原真守の刀について、『武公伝』にはない記事を他にも書いている。それは、《事ニ莅ンデ心ヲ不變コト難シ》というテーマの話で、かつて京都で武蔵が吉岡一門と対戦したとき、洛外下り松で又七郎を真二つにして勝利した、そのとき用いた刀がこれだという。
 云うまでもなく、これは『二天記』の新説である。『武公伝』と対照してみれば分かるが、《事ニ莅ンデ心ヲ不變コト難シ》というテーマの話は『武公伝』にオリジナルがあるが、そこの註記には、京都での対吉岡戦と関係づけるような記事はなかったのである。
 言い換えれば、この大原真守の刀については、『二天記』段階での伝説増殖があるということである。ただし、この明和七年の大火の記事は、大原真守の刀の神秘化には何の作用効果もない、言わば凡庸な話である。これに比すれば、後段に現れる『武公伝』の説話の方がよほどマシであると云える。こういう何の変哲もない話は、明和の大火のとき、武蔵が沢村宇右衛門に遺贈した大原真守作の太刀は、焼けずに残った、という事実のみを語ればよいのである。豊田景英の筆は余計な神秘化を加えようとしたにすぎない。

 なお、武蔵が所持して沢村宇右衛門に遺贈したという、この大原真守作の三尺余という長剣は現存しない。『武公伝』や『二天記』が書いたので、今日我々にそれが知られるばかりである。いわば、文献上にのみ存在する武蔵遺物の一つなのである。
 ところが、『二天記』写本のうち豊田家本などに、
    「大原真守 一本作伯耆安綱」
と割註しているものがある。これによると、大原真守を伯耆安綱とする「一本」があるとのことで、これは作者景英の書いたものではなく、『二天記』の写本過程で、「一本作伯耆安綱」が挿入されたのである。おそらく幕末以後の挿入記事であろう。なるほど、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』には、これに関し、沢村家に伝わった刀を、伯耆安綱としている。大原真守とは記さないのである。
 伯耆安綱は大原安綱、つまり上述のように、大原真守の父とされる人で、「童子切」で知られる刀匠である。この刀は東京国立博物館所蔵として現存し、国宝指定である。名物「童子切」は酒呑童子を斬った刀だという伝説によるものだが、そのようにして伯耆安綱は大原真守よりも世間では有名、いわば、メジャーな名であった。
 そこで、『武公伝』『二天記』の時代には大原真守だった刀が、その後の伝説展開過程で、伯耆安綱に「昇進」してしまったようである。顕彰会本『宮本武蔵』が典拠とした「八代聞書」なる文書は、現在不明であるが、『武公伝』『二天記』よりも後世の、十九世紀の文書である。
 ここには、武蔵の脇差は、遺言によって播州へ送り届けたという珍しい伝説もあって、それなりに興味深いものであるが、なにせ、この「八代聞書」なる文書に接していないのだから、我々も何とも評しがたい。
 ところで、その文書に拠って顕彰会本『宮本武蔵』が記すのは、武蔵は伯耆安綱を沢村宇右衛門友好に贈呈してしまったので、その後は、和泉守兼重を用いたということである。この和泉守兼重は武蔵とほぼ同時代の刀匠である。
 しかし、今日の武蔵本などに一般に、和泉守兼重を武蔵の愛刀とする記事が散見される。その説は、この明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の記事から出たもので、それ以上は遡れない伝説である。それに、近年の武蔵本が伯耆安綱の名を記さないところをみると、伯耆安綱を沢村宇右衛門に贈呈したので、その後は和泉守兼重を用いた、という顕彰会本の話は、今日ではきちんと伝わっていない。まさに現代の伝説である。
 顕彰会本『宮本武蔵』によれば、武蔵が用いたというこの和泉守兼重は松井家伝来とある。すると、それが松井文庫に残っていそうなものだが、それは存在しない。おそらく、武蔵が使った和泉守兼重が松井家に伝来しているという話そのものが、八代における巷間俗説だったのであろう。

島田美術館蔵
大磨上無銘金重 伝吉岡切

 他方、武蔵所持刀という「大磨上無銘金重」なる刀がある(現・島田美術館蔵)。細川刑部家伝来のものという。しかしこれが無銘、磨上げて短くなって銘が消えたということか、和泉守だか上総介だか不明だが、とにかく兼重だということである。
 ところが、これには「伝吉岡切」とあるから、京都での対吉岡戦のときに用いたという話らしい。しかし、『二天記』は、吉岡又七郎を斬った刀は大原真守だとしている。これからすると、伝説は『二天記』以後も変動したものらしい。
 この無銘金重の「伝吉岡切」というのは、後世付託された能書きである。『二天記』よりも後で、たぶん十九世紀のことであろう。この刀は、刃渡り二尺三寸ほど、『二天記』の大原真守作、三尺余の刀というにはむろん短い。したがって、対吉岡戦の武蔵に、この刀を持たせるわけにはいかない。そもそも武蔵所持という徴証資料もない。
 それに対し、顕彰会本『宮本武蔵』の巻頭写真に、鐔先三尺八分という長剣があり、これが吉岡又七郎を斬った刀だとある。ただし、そこには大原真守とも何とも記録がないから、『武公伝』のいう沢村家伝来の刀とは異なるものであろう。
 ともあれ、武蔵所持の刀というものが、後世あちこちに出現したようである。それに対し、『武公伝』の記事は、そうした武蔵所持刀伝説の嚆矢をなすものである。沢村家所蔵の大原真守の逸話は、豊田権内を情報源とする。この権内が、我々の推定のごとく豊田正剛の父・高達だとすれば、高達の頃の沢村家当主は、二代目沢村宇右衛門友雅である。そのように話の出処が明らかだから、他のどの伝説よりも確度においてまさっているのである。  Go Back



熊本関係地図


*【沢村家略系図】

○沢村大学吉里=宇右衛門友好┐
 ┌――――――――――――┘
 └宇右衛門友雅─大九郎友朗┐
 ┌――――――――――――┘
 └岩三郎友恒=大九郎友隼―┐
 ┌――――――――――――┘
 └大九郎友顕=宇右衛門友輔












*【沢村家先祖附】
《(前略)隆徳院様御婚禮御用ニ付而、寛保元年九月江戸江被召寄、同十一月十八日御結納被爲御使者、紀州様江被指越候。此節従紀州様御腰物被爲拝領、御盃被爲頂戴候。同月廿二日御婚礼ニ付、御輿請役被仰付相勤申候。同月廿七日御三ツ目之爲御祝儀、此方様より紀州様江被遊御出候付而御供被召連、此節又々従紀州様御腰物被爲拝領候。
一 寛保二年四月朔日八代姫様松平讃岐守様江御婚禮之節、衛士儀、御輿渡被仰付相勤申候。此節讃岐守様よりも御腰物被爲拝領候。右両御婚礼御用首尾好相勤申候由ニ而、御褒之御意を以御時服等々被爲拝領候。其外於御當地も度々拝領物被仰付候》



*【二天記】
《武藏自誓ノ書ノ中ニ、佛~ハ尊シ佛~ヲ不頼トアリ。猶奥ニ出ス。此ノ時帯セシ刀、三尺餘。大原眞守ノ作。今澤村家ニ傳レリ

*【武公伝】
《武公自誓ノ書ノ中ニ、~佛ハ尊シ~佛ヲ不憑ト在リ。武公打話ハ、寛永十七八年ヨリ正保一二年コトナルベシ》








*【二天記】
《武藏自誓の書の中に、佛~は尊し、佛~を不頼とあり。猶奥に出す。此時帯せし刀三尺餘、大原眞守の作、今澤村家に傳れり[大原眞守、一本作伯耆安綱]》



*【顕彰会本宮本武蔵】
《武蔵の常に佩きし刀は、伯耆安綱なりし由。然に熊本に來りて、澤村友好に世話になりたりとて、その刀を禮としておくりたり。今その刀澤村家に在り。夫より後は、刀は松井家傳來武州鍛冶(松井は即ち長岡佐渡の家、維新後本姓松井に復す)和泉守兼重を用ゐき。脇差は歿後遺言にまかせ、播州へおくり届けきといふ[八代聞書]》

































顕彰会本宮本武蔵所収
吉岡又七郎を斬たる刀
鐔先三尺八歩 津村氏蔵




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