宮本武蔵 資料篇
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[武蔵伝記集] 武   公   伝   6  Back   Next 

 
  17 塩田浜之助
一 塩田濱之助ハ、三齋公ヨリ五人扶持ニ十五石賜リ、捕手ノ師ナリ。(1)
 武(公*)ヲ一打撃テ見度願ニ付、ナル程相手ニナルベシトテ、立合ケレドモ、濱之助一向木刀打出事カナワズ。捕手モ、武公座シタモウ一間ヨリ内ニ、足ヲ蹈入タラバ武公ノ負タルベシトアリケレバ、濱之助大ニ怒テ業ヲナセドモ、一間ヨリ内ニ一寸モ入事ナラズ。濱之助、太甚感稱シテ、武公ノ門弟トナレリ。(2)
 捕手モ上手ナリシ故ニ、武公ノ弟子ニモ慣〔習〕ハセラレシト也。寺尾求馬ノ男・合太兵衛[初縫殿助、後合太兵衛]健ナル故、求馬ヨリ教ヱラレシト也。二天一流ニ捕手棒ナド在ト云ハ、塩田濱之助ガ餘流ナリ。(3)

一 塩田浜之助は、三斎公〔細川忠興〕から五人扶持に十五石を賜わり、捕手術の師範であった。
 (浜之助は)武公を一打ち撃ってみたくて、(立合いを)願い出たところ、(武公は)もちろん相手になろうとのことで、立ち合った。けれども、浜之助はまったく木刀を打出すことができなかった。捕手も、武公が座っておられる(場所の)一間〔1.8m〕以内に、(浜之助が)足を踏入れたら武公の負けにしようといわれたので、浜之助は大いに怒って、業をなしたが、一間以内に一寸も入ることができなかった。浜之助は、はなはだ感称して、武公の門弟となった。
 (浜之助は)捕手も上手だったので、武公の弟子にも習わせられたそうである。寺尾求馬助の息子・合太兵衛[初め縫殿助、後に合太兵衛]は強健なので、求馬から(捕手術を)教えられたそうである。二天一流に捕手棒などあるというのは、塩田浜之助の余流である。

  【評 注】
 
 (1)塩田濱之助
 まずは、塩田浜之助は、三斎公から五人扶持に十五石を賜わり、捕手術の師範であった、という話である。三斎公とは細川忠興(1563〜1645)、隠居して号三斎。塩田浜之助はしたがって、細川忠利ではなく、忠興の代に召抱えられた者ということになる。
 この塩田浜之助は捕手〔とりて〕の師範役であるという。捕手とは、本来のケースでは体術、つまり格闘術である。戦場で相手をねじ伏せ首を取るのだから、レスリングのようなものだと思えばよいが、空手や投げのような技もあった。これに棒など道具も用いて相手を制圧する。相手を殺傷するというよりも拘束する技術になったのは、武士が戦場から離れて以後のことである。
 塩田浜之助の給料は五人扶持十五石であるという。いづれにしても、塩田浜之助は、知行数百石取りクラスの家臣ではなく、この給料をみるかぎりにおいて、家中では下士の扱いである。ただし、兵法師範役では一般にその役料はこの程度のものである。
 したがってこの給料は、十八世紀の一般的相場から出たものかもしれない。塩田浜之助が細川家士だったのか、それとも師役料だけ支給される立場だったのか、傍証資料がないので、確かなことは言えない。『武公伝』では細川忠興の代に召抱えられたという以上の情報はない。また筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、武蔵門弟の塩田「浜之丞」とあって、その名の訛伝があるし、細川家に仕えたのも越中守(忠利)の代からだという。
 事ほどさように、『武公伝』や『丹治峯均筆記』といった武蔵伝記では、塩田浜之助の情報は限られたものである。他の伝記情報はないかとみるに、既に述べたごとく、熊本に「塩田清勝先生石塔銘」(天明二年建碑)があって、それを見れば塩田浜之助の伝記の一端が知れるのである。
 この石塔銘によれば、塩田浜之助は播州の産で、細川三斎に丹後で仕え、その後豊前へ、肥後へと転封に従い、忠利・光尚まで三代にわたって細川家に仕えたという。また、慶安元年(1648)に七十余歳で歿というから、生年は天正五年(1577)前後であり、武蔵より七〜八歳年長である。その年齢からすれば、細川氏丹後時代から、つまり関ヶ原役以前から仕えていたという話とも符号する。
 ようするに、石塔銘の誌すところでは、塩田浜之助は武蔵より七〜八歳年長で、播州生れ、丹後で細川忠興に仕えるようになった古参、ということである。
 ここから少し立ち入った話になるが、塩田浜之助が播州産だとして、とすれば播州のどこに生まれたか、という問いが出てくる。これについて云えば、「塩田」というその姓が何ごとか示すものとすれば、しばしば他に例があるように故郷産地を氏姓としたとみることができる。すなわち、塩田は浜之助の故地、すなわち彼が生まれた土地の名であるという見当になる。
 すると、浜之助は播州塩田の生れ。しかし、この播州の塩田ということから、その土地を特定しうるのか、となると、播磨には塩田という地名は複数あって、ただちには特定しがたい。この点については、[サイト篇]姫路城下のページに記事があるので、繰り返さないが、塩田浜之助の産地・播州塩田村に関して、我々はこれを飾西郡塩田村(現・姫路市夢前町塩田)に比定している。
 この播州塩田村は、赤松氏の居城・置塩城の近辺であり、そのことからすれば、彼の父祖まで赤松宗家に仕えていたものらしい。天正年間の播磨制圧戦争で、置塩城五代目城主・赤松則房(1559〜98?)は開城して、秀吉に従った。赤松宗家の則房は、龍野城主の赤松広秀とともに、織田方に服したのである。置塩城の破却は天正九年(1581)であるから、この段階までに赤松則房の家臣団は解散したようである。ただし、赤松則房は秀吉に従い播磨を出て各地に転戦しているから、家臣団の一部はそれに従ったであろう。塩田浜之助の親も播磨を出て他国で参戦していたのかもしれない。
 塩田浜之助が生まれたのは、天正五年あたりになる勘定だから、このとき彼はまだ幼児である。長じて塩田浜之助が細川忠興に仕えるようになったのは、彼の年齢からして天正末(一五九十年代半ば)より後、しかも細川氏の丹後時代からだとすれば、慶長五年(1600)以前であろう。
 とすれば、武蔵が揖東郡宮本村に生まれた頃、塩田浜之助はすでに播磨を出ていたことになる。揖東郡と飾西郡は隣接する地域、このように近くで生まれた両人が後に遭遇して、師弟となったというわけだ。塩田浜之助は出身地の塩田を姓とし、「松斎」を号した。この号に理由があるとすれば、それは、松斎の「松」とは赤松氏にちなんだものであろう。


















*【丹治峯均筆記】
《武門弟ニ塩田濱之丞ト云者アリ。仕物、取篭者ナド、節々イタシタル者也。細川越中守殿ニ有附、肥後ニ住居ス》


*【塩田清勝先生石塔銘】
《鹽田濱助藤原清勝先生、號松齋、播州之産也。爲人果毅雄俊、廉潔正直也。游新免武藏玄信二天一流道樂先生~祇之門、而學其父日下無双兵術者宮本無二齋信綱君捕縛之道、鍛之錬之、未至精妙焉。(中略)自是而後、爲天下無双當理流手縛之祖、又爲鹽田流祖也。清勝先生、仕三齋公於丹後國、賜食禄、賞賜備前道永刀、常辱懇情、移豐前、移肥後、仕忠利公、仕光尚公。於是、此道偃然行于國、赫然鳴于世矣。以慶安元戊子夏六月初二日、卒于岩楯之荘。享年七十餘》



置塩城址



塩田浜之助関係地図
 以上が石塔銘から帰結しうる塩田浜之助の出自産地概略であるが、ところで、この銘文には「野田某」なる撰述者名がある。この野田某は、《我輩者種信之徒、而武藏~祇所傳七世之流脉也》という銘文の内容からすれば、野田一渓(三郎兵衛種信)の二男・三郎兵衛種勝であろう。野田一渓(三郎兵衛種信、1734〜1802)は武蔵流兵法六代、建碑者の三郎兵衛種勝(1766〜1817)は七代である。
 先祖附によれば、野田一渓は《三藝之師役》とあり、また息子の三郎兵衛種勝も同様である。つまり熊本の学校・時習館で三種目の武芸を教えた師範役であった。この「三芸」は、先祖附によれば、居合・剣術・小具足の三芸である。このケースでは小具足は体術・柔術と目されている。ようするに格闘術である。野田派の内容はこの時期、居合は伯耆流、剣術は武蔵流、小具足は塩田流というわけである。
 ここでこの野田家の来歴をみておこう。野田氏先祖は、野田美濃という人で、天草伊豆守の家老であり、息子の野田喜兵衛も天草伊豆守に仕えたという。この天草伊豆守は天草諸島に勢力を張った国人、いわゆる天草五人衆の一、天草氏であろうが、さらに特定すれば、天草伊豆守種元と思われる。天草種元は秀吉の九州制圧後、領主になった佐々成政そして小西行長に属して、先祖以来の本渡城(現・熊本県天草市船之尾町)を預かった。天正十七年(1589)天草種元は他の国人らと結んで、小西行長に対し叛乱を起こしたが敗北、戦死した。先祖附に「伊豆守殿没落」というのはこれを指すものであろう。
 これによって野田喜兵衛は浪人し以後事蹟は不明だが、丹後へ行って細川忠興に召抱えられたという伝説があり、そのときの贈答歌も伝えられている。しかし先祖附では、喜兵衛は豊前で細川家に召抱えられ、中津で部屋住の嫡子・細川忠利御付になったとある。五人扶持十五石である。以後忠利に仕え、細川氏国替えにともない喜兵衛も肥後へやってきた。
 天草は切支丹の多い土地で、天草侍の喜兵衛の家も代々切支丹であった。その喜兵衛が転び切支丹となって転向するのは、ようやく寛永十三年(1636)である。忠利は喜兵衛が切支丹であることを承知で、召抱えていたのである。
 喜兵衛はその後病気になって切米十五石を返上、しかし五人扶持は給され、彦三郎を養子にした。寛永十八年(1641)細川忠利病死に殉死。古参譜代の者ではなく、五人扶持十五石という軽輩の殉死であるが、むしろ殉死者にはこちらの方が多かった。本サイト『丹治峯均筆記』読解のページにも述べられているように、柴任三左衛門美矩の父・本庄喜助もこのとき殉死した一人だが、このケースもやはり同じ、中津で召出され五人扶持十五石という身分であった。しかし、野田喜兵衛の殉死は、おそらく、切支丹転向者という彼の事情と何らかの関係があるだろう。
 養子彦三郎は有馬陣(島原役)に働き、その後「三郎兵衛」と改名。その後、江戸へ出向し綱利部屋付になり、十五年江戸定詰であった。綱利入国に随って肥後へ戻り、寛文元年(1661)新知百五十石、さらに十五年勤務するうち、五十石ずつ二回加増されて都合二百五十石になった。ようするに、この三郎兵衛種正の代に、綱利に取り立てられて、野田家は知行取りの身分になったのである。
 元禄四年(1691)種正は隠居し、跡目は養子の野田喜兵衛種長が嗣いだ。しかし、種長は元禄十四年に病死してしまった。養子の三郎兵衛種久はまだ幼年だったので、宝永六年(1709)になって家督知行二百五十石を相続した。しかるに、享保九年(1724)種久は「御暇被下候」。知行は召上げられ、母と娘に五人扶持支給されることになった。後に種久は、細川忠利百年忌法会の特赦により、元文五年(1740)召し返されて十人扶持。野田家の不遇時代は続くのである。
 延享二年(1745)三郎兵衛種久は、何も奉公できないのに扶持米を頂戴するわけにはいかないと返上を申し出た。しかし先祖が殉死した訳有りの者というわけで、養子の喜兵衛種弘に跡目相続が許された。種弘も十人扶持からスタートである。しかし延享三年(1746)綱利三十三回忌法会に際し、先祖訳有りという理由で、三代前の知行二百五十石を回復された。宝暦十年(1760)種弘は病死、種弘嫡子が、野田三郎兵衛種信、かの野田一渓である。
 父が死んで三郎兵衛種信は、家督知行二百五十石のうち二百石を給された。このとき種信は二十七歳、それまでに兵法修行を積んでいただろう。村上平内正勝と八郎右衛門正之に十数年学び一流相伝。武蔵流兵法六世となる。しかるに、明和六年(1769)三十六歳のとき、死者=寺尾求馬助と夢で相会、問答数刻、師弟の約をなし、直通修行の術を伝授されるという秘蹟を得た。その後も求馬助との夢中相会は三度あった。種信は、夢中にまみえた求馬助の像を描いた。このあたり種信のカリスマ性の発露である。また種信は伯耆流居合を学び免許皆伝、さらには塩田松斎(浜之助清勝)の事蹟を調べ、長らく断絶していた当理流小具足を再興するという事業をなしている。まことに旺盛な活動ぶりである。
 安永三年(1774)四十一歳のとき、病気を理由に隠居、一渓と号す。これにより、野田一渓は兵法指南に専心できるという体制である。寛政四年(1791)には「三芸の師役」を多年勤めたというので褒美を頂戴している。つまり、野田一渓は隠居後、熊本の学校・時習館で、武蔵流剣術・伯耆流居合・塩田流(当理流)小具足の三芸師範役を勤めていたのである。
 父が隠居して、嫡男の野田喜兵衛種行が跡目を嗣ぐ。父の家督知行二百石のうち百五十石を給された。野田家の知行が代々割引かれているのが興味深い。しかるに種行は寛政元年(1788)に病死してしまう。そこで弟の野田喜学が兄の養子になったかたちで、翌年正月跡目を相続した。
 喜学はそのとき二十五歳である。それまで父野田一渓に、剣術・居合・小具足の三芸を叩き込まれ、さらに軍学を伊藤儀太夫に学んだ。父一渓も、喜学が二男だからそれだけの準備をして養子にでも出すつもりだったのだろうが、嫡男種行が死んでしまったので、結果としてこの二男が家督したのである。
 寛政三年(1791)野田喜学は、父野田一渓の名跡を襲名して三郎兵衛種勝。居合・剣術・小具足兵法数年出精で褒賞されている。そうして享和二年(1802)父野田一渓が死去すると、その後任で、剣術・居合・小具足三芸の師役となった。以後文化十四年(1817)五十二歳で没するまで、師役を勤めた。跡目は養子の野田波吉(二十六歳)が嗣いだ。波吉は祖父以来の居合・剣術・小具足の他に、馬術を宮崎又左衛門に学んでいた。波吉は養父の死の翌年襲名し三郎兵衛種養。しかし、いわゆる野田派は種勝の門弟・大塚庄八以下の伝系である。
 さきに述べた「塩田清勝先生石塔銘」は天明二年(1782)、野田一渓はすでに隠居で四十九歳、建碑者の「野田某」こと種勝が十七歳である。明らかに種勝の将来を見て、父野田一渓が建碑させたものである。なお、野田派相伝物品の中に「塩田流小具足流祖塩田先生之像」という画軸があり、その箱書に、「維時天明六年正月吉祥日/野田三郎兵衛尉平種信入道一渓」とある。つまり、天明六年(1786)だというから、石塔銘よりも四年後である。とすれば、このころ野田一渓は、流祖塩田浜之助の画像を作成させていたらしい。









天草伊豆守ゆかりの本渡城址
熊本県天草市船之尾町
切支丹殉教公園





*【野田家略系図】

○野田美濃―喜兵衛重綱┐
┌──────────┘
└三郎兵衛種正─喜兵衛種長┐
┌────────────┘
└三郎兵衛種久―喜兵衛種弘┐
┌────────────┘
三郎兵衛種信┬喜兵衛種行
       │
       └三郎兵衛種勝→




















*【野田派系統図】

○新免武蔵守玄信┐
┌───────┘
├寺尾求馬介信行─新免弁助信森┐
│┌─────────────┘
│└村上平内正雄┬村上平内正勝
│       │
│       └村上八郎右衛門┐
当理流祖   ┌───────┘
└塩田浜助清勝…┴野田三郎兵衛種信
    松斎       一渓  │
┌────────────────┘
└野田三郎兵衛種勝┬野田三郎兵衛種養
         │
         └大塚庄八照博→


*【野田家記録】
去歳明和六己丑之冬十二月二十五日夜、種信夢信行、問答数刻、卒約師弟、種信問之數條、信行以心傳心、而又傳直通修行之術。種信寤以為奇夢也、為記之、以寒夜未明、乃寫夢中問答終始、於枕上之小屏。其後數夢三度、種信乃畫信行之像》




熊本県立図書館蔵
時習館の武芸稽古所・東西榭
 ところで、この石塔銘は、『武公伝』『二天記』とは異なる伝説を記す点で興味深い武蔵周辺資料である。その内容を見るかぎりにおいて、塩田松斎(浜之助)の当理流小具足は、いったん断絶したようである。修験者・仙勝院なる者が流儀を相伝したが伝脉は絶え、遺された伝書も火災で焼亡、碑銘の文字は摩滅して仙勝院の姓名も明かではないという有様である。そこで、武蔵流兵法六代の道統にあたる野田一渓種信が、「当理流手縛之道」を兼修して、幸にも塩田浜之助の自書数軸を発掘し、校正して資料を整備したのである。
 かくして野田一渓は、塩田浜之助の当理流小具足の流脉の断絶していたのを再興した。言い換えれば、塩田浜之助を流祖とし、自身は中興者となって、これを伝えたのである。したがって、当理流=塩田流はいわば野田一渓による遡及的構成の所産である。
 この頃には、肥後における当理流伝説が出来あがっていたようである。塩田浜之助が「捕縛之道」を学んだとあるのは、小倉碑文の新免無二のいわゆる「十手の家」の兵法である。小具足・棒術を含む総合戦闘術が、武蔵が受け継いだ新免家の兵法である。無二流はすでに二刀流であり剣術を含む芸術であって、十八世紀後半の野田一渓の当理流再興の試みは、本来そのように総合的芸術であった無二→武蔵の兵法を復元しようとしたものである。
 ただし、塩田浜之助が新免無二から直接学んだとするのは後世の伝説である。というのも、浜之助が天正五年前後の生れだとすれば、天正後期には丹後へ行っており、他方、新免無二は、泊神社棟札によれば、天正年中に九州で歿しているから、二人の相遇には難がある。
 この石塔銘には、塩田浜之助が宮本無二斎の捕縛之道を学んだとあって、無二斎から学んだとは記していない。言い換えれば、塩田浜之助は無二流を学んだ、その流儀の伝承者であったと述べるにすぎない。したがってこの石塔銘から、塩田浜之助が「宮本無二斎」の弟子であったと帰結することはできない。
 しかも、後にみるごとく、塩田浜之助の芸術を認証し、「手縛一流祖師」の称を授けたのは、無二ではなく、武蔵なのである。塩田浜之助は武蔵の弟子であって、無二の弟子ではない。これは改めて確認しておくべきだろう。
 なお、野田一渓は『二天記』の豊田景英より6歳ばかり年長にすぎない。石塔の建碑が天明二年(1782)だとすれば、『二天記』(1776)とほぼ同じ頃の作文なのである。この点を念頭におく必要があろう。  Go Back




*【塩田清勝先生石塔銘】
《游先生之門者若干、有修驗者仙勝院某者、雖得其宗傳脉絶矣。遺書亦罹火災亡、嗚呼豈不惜哉。碑銘字滅而不辨姓名也。因茲武藏~祇兵法六世道統、誠心直通、傳授之隱士、野田種信入道一渓居士、兼傳當理流手縛之道、幸而得鹽田先生之自書數軸、而考正焉。云云。我輩者種信之徒、而武藏~祇所傳七世之流脉也。乃議命石工、新刻灯燈一雙、奉供清勝先生塚前、刊姓名與事實、仰願顯當理流祖不朽之光耀而己。時天明二壬寅夏六月初二日建焉。銘曰、燈籠百尺、巖巖層層、有明有闇、萬古一燈》




 
 (2)武公ノ門弟トナレリ
 ここは、塩田浜之助が武蔵の門弟になった機縁を記す。塩田浜之助は、細川忠興の代から細川家に仕えていた捕手術の師役であったが、この『武公伝』の記事によれば、武蔵と試合してまったく歯が立たず、武蔵の兵法に感服して門弟となったというわけである。
 記事を見てみよう。塩田浜之助は武蔵との試合を希望して願い出た。武蔵は相手になろうとのことで立合うことになった。けれども、浜之助はまったく木刀を打出すことができなかった、――とするところをみれば、まず木刀で試合をしたのである。
 次に、浜之助得意の捕手術はどうか。これは体術・柔術といった格闘術で、相手を取押さえる術である。武蔵は云う、「自分は座っているから、浜之助はおれを捕えろ。もし浜之助が一間〔1.8m〕以内に接近できたら自分の負けにしよう」と。武蔵がそんなことを云うので、浜之助は大いに怒って、捕手にかかったが、一間以内にまったく入ることができなかった。その結果、浜之助は大いに感称して、武公の門弟となった、という次第。
 この逸話は『二天記』に継承されたので、近代の武蔵評伝では周知のごとくなっている。『二天記』では話はこうだ。――ある時、塩田浜之助は武蔵を相手にしたいと申請した。武蔵は直ちに承諾して、短刀(小太刀)をもって立合った。これに対し、浜之助は六尺八寸の棒を持って立向った。浜之助の道具は長い棒だが、武蔵は短い木刀という対照的構図である。武蔵は、浜之助がその長い棒を振出そうとするその頭を抑えて働かせない。そうして浜之助が振出すと、その攻撃の後を打った。これで武蔵の勝ちである。そこで次に武蔵が云う、「自分は何も道具を持たず、無手で居よう。私の間〔ま〕――これは『武公伝』のごとく、一間というところ――の内に足を踏み入れたら、浜之助の勝ちとしよう」と。浜之助は大いに怒って、棒を捨て武蔵を手捕りにかかる。武蔵は間の外から、これを突き倒すので、浜之助は間の内に寄りつくことができなかった。この結果、浜之助は武蔵に拜伏して、流派を改め門弟になりたいと願った。武蔵はただちに浜之助を門弟にした。
 このように話の筋は同様だが、細部は『武公伝』とはかなり違っている。まず道具は、『武公伝』では二人とも木刀だというにすぎないのに、『二天記』では、武蔵の短い木刀に対し、浜之助は六尺八寸の棒、というようにディテールが増殖している。また『武公伝』が、浜之助はまったく木刀を打出すことができなかったとするに留まるのに対し、『二天記』では、浜之助がその長い棒を振出そうとする頭を武蔵が抑えて働かせず、浜之助が棒を振出すと、その攻撃の後を打った、というようにこれまた場面は具体化している。
 さらに捕手術も同様に、『武公伝』が、浜之助は技を仕掛けたが、一間以内にまったく入ることができなかった、とするのに対し、『二天記』では、浜之助は棒を捨て武蔵を手捕りにかかるが、武蔵は間の外から、これを突き倒すので、浜之助は間の内に寄りつくことができなかった、と話は具体性を帯びる。ようするに、後世の説話ほど細部が増殖し、場面の語りが具体化する、という典型的なケースである。
 ともあれ、このようにして塩田浜之助が武蔵に歯が立たず、敬服して門弟になったという話だが、ここで問題は、では、その時期はいつか、ということであろう。『武公伝』の説話ではその時期を明記していない。ただ記事の叙述順序によるかぎりは、これはどうやら、武蔵が肥後に来て客分として逗留するようになった後の事蹟とするもののようである。
 したがって、これを武蔵が熊本に来て後の事蹟とみなす武蔵評伝が今日一般である。しかし、果たしてそうであろうか。
 いまかりに、これを武蔵が熊本に来て後のことだとすれば、武蔵は寛永十七年(1640)五十七歳のとき肥後へ来ているし、塩田浜之助はすでに六十代半ばである。とすれば、塩田浜之助は老人になって武蔵とはじめて試合をして、負けて門弟になったということになる。これはかなり難のある状況設定である。
 これに対し筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』は、武蔵が肥後へ来て滞在するようになる以前、門弟の塩田浜之丞(浜之助)の家へ宿泊したと述べる。この話は、細川忠利の近習に望まれて試合をしたということで、肥後の殿様は武蔵のことをまだよく知らないという設定である。いづれにしても、武蔵が細川家の客分として肥後に滞在する以前に、塩田浜之助は武蔵の門弟であったという話である。年齢からして、こちらの条件の方が無難である。
 ちなみにもう一つ伝説例をみれば、前出の「塩田清勝先生石塔銘」では、話はより明解である。すなわち、それによれば、
 ――まず塩田浜之助は武蔵の門に游んだ、つまり武蔵の門弟になった。そうして、武蔵の父「日下無双兵術者・宮本無二齋信綱」の捕縛術を学び、これを鍛錬した。つまり、浜之助は武蔵に入門したが、無二流捕縛術を選んで修行したというわけだ。このことは、武蔵の周囲では無二流兵法が学ばれていたということを示す。むろん塩田浜之助は無二本人に学んだのではなく、無二流兵法を学んだのである。
 だが、それでも浜之助は未だ精妙に至らなかった。武蔵は浜之助を責めて曰く、「後人はこの道を透得しようとすれば、私に従って来るべきだ。君はその妙旨を分かっていない。ならば、勘当(破門)だ、これから一生の間、師弟の縁を切るしかない」と。これによれば、浜之助は武蔵門下で、武蔵の指導に従わず、独自の工夫を重ねていたものらしい。ただ、機の輪転するところ、達者なお迷う、である。
 浜之助は師命を謝して武蔵の元を去った。それから早朝から夜まで熱心に独修して、ますます境位は深く厚くなった。そしてある日、浜之助は頓然大悟し、その術は神業の域に入った。こうしてみれば、浜之助も独悟の人である。
 そこで、浜之助は武蔵に再び会おうとした。浜之助がまだ戸口を入らない先に、武蔵は彼の術が精妙に至ったのを直知し、物を隔てて姿を見ないまま、大声で浜之助の名を喚んだ。このあたり説話は両雄相会シーンを盛り上げている。武蔵はただちに勘当を免じ、堂奥へ召した。そうして呵呵大笑、師弟の仲は以前の通りであった。
 武蔵は浜之助に曰く、「私は二天一流の兵法を開き、本朝二刀兵法の始祖となった。そもそも手縛(捕手術)は我が道においては傍技であるとはいえ、素手で剣の刄上に面と向えば、生死存亡に関わるところ、だれでも難しいとする。それゆえ、この道はまた不可欠である。いまここに手縛一流祖師の称号を付嘱しよう」と。つまり、捕手術について武蔵の印可を得たのである。
 これより後、浜之助は「天下無双当理流手縛の祖」となり、また塩田流の祖となった。――くりかえせば、ここがポイントである。当理流の流祖は、「宮本無二斎」でも「新免無二ノ介」でもなく、塩田浜之助なのである。したがって「宮本無二斎」「新免無二ノ介」が当理流を称することはありえない。現在一部で信憑されている宮本無二斎(無二助)一真発行の当理流目録(免許状)なるものは、この点からすれば、明らかに後世製作の偽書である。
 石塔銘によれば、浜之助は、丹後国で細川三斎(忠興)に仕え、食禄を賜り、備前道永の刀を賞賜されたという。どこから得た伝説か不明だが、話は具体的である。この「備前道永の刀」とあるのは備前清則、法号道永である。浜之助は常に三斎の懇情を受け、豊前に移り、また肥後に移り、忠利と光尚にも仕えた。こうして、この道は偃然として国中に行われ、赫然として名声が世に鳴った、云々。
 こうしてみると、『武公伝』の記事と比べて、こちらはよほど格調の高い話である。浜之助は武蔵と試合して歯が立たず、それで武蔵に敬服して門弟になった、というようなタメにする講談咄ではない。ましてや、《濱之助拜伏シテ、流ヲ改メ、門弟ト成ンコトヲ願フ》と『二天記』の述べるような、自流を捨てたという経緯でもない。塩田浜之助は武蔵に入門し、無二流兵法を学んだが、師の武蔵からいったん絶縁されるという試練を受け、独修独悟して、そうして改めて武蔵から兵法を認証されたというのである。
 この石塔銘の記事では、浜之助は武蔵から「手縛一流祖師」の称号を付囑されて、天下無双当理流手縛の祖となり、また塩田流の祖となったのであり、三斎(忠興)の代にすでに、その流儀は偃然として国中に行われ、赫然として名声が世に鳴った、という有様である。
 したがって、老年に至って、はじめて武蔵と試合をして負けて門弟になったというわけではない。それは『武公伝』の周辺環境にあった伝説であり、これほど話が違うのは、後述のように肥後武蔵流内部での派閥対立が背景にあったことによる。  Go Back















*【二天記】
《鹽田濱之助ト云者、棒捕手ノ上手也。忠興公ヨリ五人扶持十五石賜リ、諸士ニ指南ス。或ル時、武藏ヲ相手ニ爲シ度由ヲ請フ。武藏直チニ短刀テ以テ對ス。濱之助ハ六尺八寸ノ棒ヲ持チテ立向フ。武藏、濱之助ガ棒ヲ振出サントスル頭ヲ抑ヘテ働カセズ、又振出ス後ヲ打ツ。武藏云、「吾無手ニテ居ベシ。吾間ノ内ニ足踏ミ入レバ、濱之助可爲勝」ト。濱之助太ダ怒テ、棒ヲ捨テ手捕ニカヽル。武藏間ノ外ヨリ、是ヲツキタホス。依テ間ノ内ニ寄附事不能。依之濱之助拜伏シテ、流ヲ改メ門弟ト成ンコトヲ願フ。武藏則門弟トナス》























*【丹治峯均筆記】
《武門弟ニ塩田濱之丞ト云者アリ。仕物取篭者ナド節々イタシタル者也。細川越中守殿ニ有附、肥後ニ住居ス。武州或時肥後ヱ下向、濱之丞ガ宅ヘ旅宿セラル。(中略)武州被申ハ、「誰人ニテモ打合テ試ラレ候ヘ。少モ不及遠慮」ト有ケレ共、堅ク断ヲ申テ、三人一同ニ退出ス。直ニ登城シテ、右之趣演説ス。越中殿被聞召、「左程ニハ無之モノカ。不審ナリ。兎角、自身試ミズシテハ知レ難シ」ト被仰。コレハ、武州老年肥後ヱ被下シ時ヨリ前ノ事ト云ヘリ》


*【塩田清勝先生石塔銘】
《鹽田濱助藤原清勝先生、號松齋、播州之産也。爲人果毅雄俊、廉潔正直也。游新免武藏玄信二天一流道樂先生~祇之門、而學其父日下無双兵術者宮本無二齋信綱君捕縛之道、鍛之錬之、未至精妙焉。於是武藏~祇、責清勝先生曰、後昆透得此道者可慕我而來也。儻不悟妙旨。假令雖歴生涯乎、勘當絶師弟之道耳。機輪轉處、達者猶迷、清勝先生謝師命去矣。退而夙夜匪懈、獨參也愈深愈厚、而他日清勝先生頓然大悟、而其術入~、當是非交結處、雖聰明叡智不能知、及逆順縦横時、以頓漸權實不能辨、嗚呼玄哉妙哉。如清勝先生、可謂絶世超倫之妙手、英雄豪傑之士也。既再欲見武藏~祇、清勝先生未跨開捩子、武藏~祇直知至于其術之精妙、隔物而高聲喚、乃免勘當召於堂奥、呵呵大笑、而師弟猶舊、武藏~祇謂清勝先生曰、我闢二天一流之兵法、爲本朝二刀兵法之權輿、抑手縛於我道雖旁技、驀面向劔刄上者、生死存亡之所係、世以爲難、此道亦不可虧也。以茲付囑爾手縛一流祖師之稱祖耳。自是而後、爲天下無双當理流手縛之祖、又爲鹽田流祖也》(『續肥後先哲偉蹟 巻一』所収)
 
 (3)二天一流ニ捕手棒ナド在ト云ハ…
 ここは、塩田浜之助が武蔵と試合して負けて門弟になったという話の後日談である。
 つまりここでの話は、塩田浜之助は、捕手術も上手だったので、武蔵は他の門弟たちにもそれを習わせた、ということである。また、寺尾求馬助の息子・合太兵衛は強健なので、求馬助から捕手術を教えられたとのことである、という伝説話が続く。寺尾求馬助は武蔵門弟だから、塩田浜之助から捕手術を学んだということであろうし、求馬助はこれを息子の合太兵衛に教えた、という設定である。
 ところが、寺尾求馬助の息子だという「合太兵衛(初名・縫殿助)」という名の者が不明である。しかし、『武公伝』の別の箇処に、寺尾求馬助の息子たちの記事があり、そこには「五男縫殿介」とあって「御中小姓、初合太兵衛、後ニ合右衛門ト改ム」という割註がある。したがって、『武公伝』のいう「合太兵衛(初名・縫殿助)」とは六男の郷右衛門勝行(1673〜1747)のことである。『武公伝』はこれを五男としているが、二男の新助信景が脱落しているから順番が一つ繰り上がっているのである。
 たとえば豊田正剛なら、六男の寺尾郷右衛門勝行よりも一歳年上で同じ世代である。とすれば、豊田正剛なら求馬助の息子たちの名を間違えることはない。また、同じく息子の正脩にしても、寺尾郷右衛門の没年にはすでに四十二歳である。これもまず、間違えようはない。『武公伝』のこの「合太兵衛(初名・縫殿助)」は正脩の記事であろう。
 このように「合太兵衛(初名・縫殿助)」が、六男の郷右衛門勝行のことだとすれば、しかし、それはそれで、また問題が発生する。
 寺尾郷右衛門勝行(1673〜1747)は、寺尾求馬助(1621〜88)五十三歳のときの子、求馬助もかなり旺盛な人である。父の求馬助が死去した貞享五年(1688)、寺尾郷右衛門は十六歳、もとより若年である。兄たちをみれば、この年、三男の藤次玄高(1650〜1731)が三十九歳、四男の新免弁助信盛(1666〜1701)が二十三歳である。『武公伝』は合太兵衛=郷右衛門が健(したたか)だったので、求馬助から捕手術を教えられたというが、三男の藤次玄高は別にしても、四男の新免弁助や五男加賀助のを差し置いて、少年の合太兵衛=郷右衛門の強健ぶりを語るのは、間尺に合わない話である。
 さらに加えて云えば、寺尾家記の逸話がある。それによれば、郷右衛門は生来不器用で、父や兄の稽古に堪えられず、ついに家出をして奥山に閑居、それから三年ほどたったある日、突然開悟して帰還すれば、以前と様変わりして芸術上達であったという。この話を真に受ければ、少年は後世に語り伝えられるほど不器用だったわけで、しかも求馬助の死の年の十六歳までに、そんな変身ぶりを見せたとは思えない。求馬助から合太兵衛(郷右衛門)への捕手術の伝授、という『武公伝』の話には、鵜呑みにできないところがある。
 ただ、実際には、寺尾求馬助は塩田浜之助から捕手棒を学び、それを息子たちに教えたということはありうる。したがって寺尾郷右衛門が年少で父から直接それを学ぶことはできなくとも、兄たちから教えられたという状況が考えられるから、郷右衛門の系統に捕手棒が伝わったということであろう。
 寺尾郷右衛門の系統は武蔵流棒術をよくした。そのため、郷右衛門が父求馬助から直接教えられたという伝説が生じたものらしい。これは、郷右衛門門弟の吉田如雪あたりで生じた伝説であろう。それを『武公伝』が記事に取込んだのだが、それは文脈が違っていた。つまり、ネガティヴな意味合いの記事に変化しているのである。
 それは最後の一文――「二天一流に捕手棒などあるというのは、塩田浜之助の余流である」――によって規定される意味づけである。つまり、我々は捕手棒などはしないが、他派にそれを為すものがある、それは本来の武蔵流ではなく、塩田浜之助が持ち込んだものだ、という排他的な意味づけなのである。
 この最後の一文は、橋津正脩の段階の『武公伝』にはなく、豊田景英が書き加えたものらしい、というのが我々の見当である。以下、この点に関して立入ってみよう。




*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助 勝永 ─┐
 ┌───────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之允 信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛─┐
 ┌───────────┘
 ├佐助 信形
 |
 ├藤次 玄高 ―半兵衛 志方之経
 |
 ├新助 信景
 |
 ├忠四郎 勝明 後加賀助
 |
 ├弁助 信盛 後改新免
 |
 └郷右衛門 勝行


*【武公伝】
《寺尾求馬信行[後ニ改七郎右衛門]子息五人、嫡子左介[家督參百石、御鉄鉋頭]、二男吉之介[御中小姓、藤次ト改]、參男加賀介[新組ニ被召出、後ニ御暇ナリ]、四男辨介信明[後ニ新免信森ト號ス]、五男縫殿介[御中小姓、初合太兵衛、後ニ合右衛ト改ム]。右村上八郎右衛門正之先生ノ話也》




*【寺尾家記】
《寺尾郷右衛門勝行[信行六男、母柿迫氏]は、其性極めて不器用。煙管に煙草をつむることすら遂に能せざる程なり。兵法稽古の時進むこと能はず、故に後より推し前より援けて進ましむ。漸く進めば眼を閉づ、父兄張るを苦み、遂に避けて家を出、久して流水を視て忽ち悟る所あり、還て稽古を乞ふ。父兄喜で立合けるに、實に前日の勝行に非ず。是よりu鍛錬して遂に其技を極むと云》
《勝行君若年より不器用にあられ、兵法の修行仕玉ふに、毎も思召の如ならず。嘆きて俗事を離れ獨劔理を究めんとて、田浦の奥山間にいやしき家をしつらひ三年程閑居し玉ふに、時しも冬枯の寒き夜、渓間を流るゝ岩瀬の音、獨坐幽靜の耳に響きしより、不圖兵法の奥意を悟り、夫より宿に歸り玉ふに、藝術以前に替れる上達にて、後には兵法師範をも仰付られしなり》
 これはおそらく、豊田景英が師匠の村上八郎右衛門から受け伝えた話であろう。村上八郎右衛門は村上平内正雄の二男である。そこで、これは村上派内の見解であろうと、いちおう目星はつく。
 そもそも村上派は寺尾郷右衛門の系統とは違う伝系である。つまり、求馬助四男の新免弁助信盛から出た伝系で、新免弁助→村上平内正雄→村上八郎右衛門正之と次第する。豊田景英は、安永三年(1774)から、八代の教衛場で二天一流師範・村上八郎右衛門の代見をしているし、村上八郎右衛門が安永五年(1776)に死亡、その四年後の安永九年(1780)、豊田景英は二天一流の師役に任命された。
 そういう立場の豊田景英の筆は、寺尾郷右衛門の系統に対し明らかにネガティヴである。この系統は、寺尾郷右衛門→吉田善右衛門正弘(如雪)→山東彦右衛門清秀と次第して、いわゆる山東派となる。吉田如雪も山東彦右衛門(1756〜1831)も揚心流柔術兼修、というところが他派とは異なる。柔術は格闘技で、これは捕手術・小具足と一体のものであるから、塩田浜之助の小具足捕手が、寺尾郷右衛門を介してその道統へ展開したというのも、事後的な説話としてはありうることである。山東彦右衛門は、柔術・剣術の師役となり、また游術師役もつとめた。
 したがって、捕手棒の記事はみられないが、『武公伝』が寺尾郷右衛門の伝系にそれを帰するのをみれば、吉田如雪あたりまでは確かにそれがあった、ということであろう。
 しかしながら、豊田景英の世代にはもう一つ、前述の野田一渓種信の事業というものを忘れてはなるまい。すなわち、野田一渓は村上八郎右衛門から二天一流を学び、他に居合・小具足を兼修した。つまり、剣術は武蔵流、居合は伯耆流、そして小具足は塩田流である。そしてこの三つの流儀を教えた。なかでも塩田流は、塩田浜之助の小具足を野田一渓が工夫して再興したものである。
 とすれば、二天一流に捕手棒などあるというのは、塩田浜之助の余流である、という『武公伝』の記述は、ある種のバイアスがかかったものと見なければならない。




*【武蔵流系統図抜粋】

○宮本武蔵―寺尾求馬助信行┐
┌────────────┘
├新免弁助信盛―村上平内正雄┐
│┌────────────┘
│├村上平内正勝―村上平内正則
││
│└村上八郎右衛門┬村上大右衛門
│        │
│(塩田浜之助)…├野田三郎兵衛種信
│    松斎  │     一渓
│        └(豊田景英)

└寺尾郷右衛門勝行―吉田善左衛門正弘┐
               如雪 │
 ┌────────────────┘
 └山東彦右衛門清秀―山東半兵衛清明


武公伝 正脩 武公伝 景英 二 天 記
塩田濱之助ハ三斎公ヨリ五人扶持ニ十五石賜リ、捕手ノ師ナリ。武公ヲ一打撃テ見度願ニ附、ナル程、相手ニナルベシトテ立合ケレドモ、濱之助一向木刀打出事カナワズ。捕手モ、武公座シタモウ一間ヨリ内ニ、足ヲ踏入タラバ武公ノ負タルベシトアリケレバ、濱之助大ニ怒テ業ヲナセドモ、一間ヨリ内ニ一寸モ入事ナラズ。濱之助、太甚感称シテ、武公ノ門弟トナレリ。捕手モ上手ナリシ故ニ、武公ノ弟子ニモ慣〔習〕ハセラレシト也。寺尾求馬ノ男合太兵衛[初、縫殿助、後、合太兵衛]健ナル故、求馬ヨリ教ヱラレシト也。
塩田濱之助ハ三斎公ヨリ五人扶持ニ十五石賜リ、捕手ノ師ナリ。武公ヲ一打撃テ見度願ニ附、ナル程、相手ニナルベシトテ立合ケレドモ、濱之助一向木刀打出事カナワズ。捕手モ、武公座シタモウ一間ヨリ内ニ、足ヲ踏入タラバ武公ノ負タルベシトアリケレバ、濱之助大ニ怒テ業ヲナセドモ、一間ヨリ内ニ一寸モ入事ナラズ。濱之助、太甚感称シテ、武公ノ門弟トナレリ。捕手モ上手ナリシ故ニ、武公ノ弟子ニモ慣〔習〕ハセラレシト也。寺尾求馬ノ男合太兵衛[初、縫殿助、後、合太兵衛]健ナル故、求馬ヨリ教ヱラレシト也。二天一流ニ捕手棒ナド在ト云ハ、塩田濱之助ガ餘流ナリ
塩田濱之助ト云者、棒捕手ノ上手也。忠興公ヨリ五人扶持十五石賜リ、諸士ニ指南ス。或ル時、武藏ヲ相手ニ爲シ度由ヲ請フ。武藏直チニ短刀ヲ以テ對ス。濱之助ハ六尺八寸ノ棒ヲ持チテ立向フ。武藏、濱之助ガ棒ヲ振出サントスル頭ヲ抑ヘテ働カセズ、又振出ス後ヲ打ツ。武藏云、「吾無手ニテ居ベシ。吾間ノ内ニ足踏ミ入レバ、濱之助可爲勝」ト。濱之助太ダ怒テ、棒ヲ捨テ手捕ニカヽル。武藏間ノ外ヨリ、是ヲツキタホス。依テ間ノ内ニ寄附事不能。依之濱之助拜伏シテ、流ヲ改メ、門弟ト成ンコトヲ願フ。武藏則門弟トナス。濱之助棒捕手ノ上手ナルヲ以テ、門弟中ニ是ヲ習ハシム。世ニ武藏流ノ棒ト云ハ塩田流ノ事也
 すなわち、豊田景英の筆はここで、同じ村上八郎右衛門門下の野田一渓に対して差し向けられているようである。二天一流に捕手棒があるというのは、まさに野田一渓の工夫なのである。それを、塩田浜之助の余流にすぎないと、ことさらに云うのは、同門の野田一渓の流儀に対する批判指弾と見てよい。
 言い換えれば、ここで豊田景英が「塩田浜之助の余流」にすぎないと、排他的言辞に及んでいるその相手は、寺尾郷右衛門の門流というよりも、同時代の野田一渓なのである。
 そうすると、「二天一流に捕手棒などあるというのは、塩田浜之助の余流である」と書き加えたことにより、『武公伝』のこの記事は文脈が混乱してしまったというべきであろう。
 おそらく、塩田浜之助が武蔵と試合をして負けて門弟になったという前段の逸話は、豊田景英以前からあったものであろう。つまり、父の正脩が『武公伝』に書いた伝説である。そうしてまた、「浜之助は捕手も上手だったので、武公の弟子にも習わせられたそうである。寺尾求馬助の息子合太兵衛[初め縫殿助、後に合太兵衛]は強健なので、求馬助から捕手術を教えられたそうである」というところまでは、正脩の記事であろう。
 その限りにおいて『武公伝』の記事は、捕手棒に対してネガティヴだとは言えない。むしろニュートラルな記事である。塩田浜之助の棒術は、武蔵の門人が教習するものになった、寺尾郷右衛門は父求馬助から棒捕手を教えられた、とするからである。
 しかるに景英がこの一文を書き加えたため、ネガティヴな矢は寺尾郷右衛門の門流に差し向けられた格好なのである。それでは、景英の批判の的は違ってしまう。したがって、『二天記』では、寺尾求馬助の息子合太兵衛[初め縫殿助、後に合太兵衛]は強健なので、求馬助から捕手術を教えられたそうだという『武公伝』の部分を削除している。そうして、より明確に、「世に武蔵流の棒というのは塩田流のことだ」と書いた。そして云うまでもなく、「塩田流」小具足を称するのは、まさに野田一渓とその門流なのである。
 おそらく豊田景英が受け継いだ村上派二天一流は、剣術に特化したものであっただろう。そのために棒術や小具足という芸術に対し排他的になっていたのである。十八世紀後半にはその偏向は強くなっていた。前述の「塩田清勝先生石塔銘」でも、「そもそも手縛(捕手)は我が道においては傍技であるが」と武蔵に言わせている。塩田浜之助の当理流を再興した野田派でさえ、そういう共通の認識は当時あったのである。
 しかしながら、武蔵流は本来総合的戦闘術である。何も剣術に限ったことではない。それは、武蔵が新免無二の兵法の家を嗣いだときから変っていない。筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』によれば、武蔵に五尺杖の芸術のあったことが語られており、寺尾孫之丞がそれを工夫して独自の操法を編み出したという話を語る。また、これが取籠者を相手にするときに格別の効果があるなどとしているところをみれば、この五尺杖は捕手棒なのである。
 そうしてみると、明らかに寺尾孫之丞は「武蔵流の棒」を継承しており、また、『武公伝』に寺尾求馬助が息子の郷右衛門にそれを教えたと記しているように、寺尾求馬助も「武蔵流の棒」を学んだという伝説があった。
 本来武蔵流は、新免家の兵法であり、剣術だけではなく、棒捕手をはじめ諸芸兼修であった。とすれば、野田一渓は本来総合的な芸術たる武蔵流の復興を図ったとみてよい。それに対し、豊田景英は、剣術に特化した村上派に属する者として、「武蔵流の棒」を異端として斥けるポジションにあった。そのため、このような『武公伝』の記事になったのである。
 以上要するに、『武公伝』の原型は、塩田浜之助が武蔵と試合して負けて門弟になった、塩田浜之助は武蔵門下で捕手棒を教えた、寺尾求馬助は息子にそれを教えた、という伝説記事である。ここには、寺尾孫之丞が武蔵の五尺杖を工夫して独自の仕道をつけた、という情報はない。ということは、寺尾孫之丞→堤次兵衛という伝系を嗣いだ橋津正脩は、それを知らなかったのである。肥後では、早々に「武蔵流の棒」はその本来の意義は忘却されていたのである。逆に、武蔵流の棒術は異端視され、塩田浜之助がそれを持ち込んだという伝説が生じた。
 しかし、筑前系伝記『丹治峯均筆記』はそのようには記さない。武蔵流の棒術はすでに流祖・武蔵が行なっていたのである。岩流との対戦において、小倉碑文のいう「木戟」とはまさに棒のことであろう。それをだれでも使えるように工夫したのは、寺尾孫之丞である。
 武蔵流の棒術は流祖・武蔵に帰すべきもので、それをだれでも使えるように工夫したのは、寺尾孫之丞であって、塩田浜之助ではない。『丹治峯均筆記』には塩田浜之丞(浜之助)が再三登場するから、浜之助を知らないのではない。しかもこの筑前系伝記によれば、五尺杖の棒術は、塩田浜之丞に帰せられるのではなく、寺尾孫之丞が工夫したのである。
 こうした異伝と突き合わせてみれば明らかなように、武蔵流の棒を塩田浜之助に帰するのは、肥後で後世生じた伝説である。しかも、塩田浜之助の捕手術は武蔵には歯が立たなかった、その結果浜之助は武蔵の門弟になった、というタメにする伝説も、後世のものである。少なくとも、塩田浜之助の当理流を再興した野田派の伝説には、そういう話はなかった。したがって、塩田浜之助に関する『武公伝』のこの記事は、ローカルな伝説以上のものではない。

 なお、ここで一つだけ付け加えておきたいことがある。それは『武公伝』の次の記事との関連である。
 この塩田浜之助の記事の次には、なんと、慶長の大坂陣の記事が現われるのである。晩年の肥後の話からうって変って、ここに慶長の大坂陣の記事が出てくるとは、時代順序が混乱している。順序のこうした前後は、『武公伝』の草稿状態にあったことを示す特徴である。
 『二天記』は、大坂陣の記事を巌流島決闘の後に配置している。肥後系伝記は、巌流島決闘を慶長十七年のこととするのだから、そのかぎりにおいて順序に整合性がある。しかるに『武公伝』のこの記述順序はいかなることか、それに注目する必要があろう。
 後に見るように、『武公伝』では、この大坂陣の記事の次は、武蔵が小倉から肥後へやってきたときの話で、寿蔵(生前墓)を残してきたという話である。これも順序としては、すでに出た岩間六兵衛や坂崎内膳の名がある話の前にあってしかるべきである。そうすると、
    大坂陣 → 小倉の寿蔵
という一組の記事を書いた紙片をここに挿入したことになるが、『武公伝』がいかに草稿だったとしても、この配置の不都合はそれだけでは説明できない。そこで、もう一つ考えられるのは、大坂陣の記事の前段の話、つまり塩田浜之助の記事と大坂陣のことを記した紙片があった可能性である。すなわち、
    塩田浜之助 → 大坂陣
という二つの記事を書いた紙片があって、それがここへ挿入されたということである。つまり、塩田浜之助を記事をここへもって来て、順序を差し替えたために、大坂陣の記事もここへ来てしまったのである。となると、この不都合な配置は、豊田景英が『武公伝』の順序をいじった跡を示すものであろう。
 正脩の『武公伝』では、塩田浜之助が武蔵の門弟になったのは大坂陣の前だということになっていたかもしれない。その可能性を示唆するのは、まさに大坂陣の記事のこの不都合な配置なのである。
 この見方によれば、正脩の『武公伝』では、塩田浜之助の記事は大坂陣の記事の前にあった。言い換えれば、塩田浜之助が武蔵の門弟になったのは、大坂陣の前、慶長のころのことだとしていたのである。これなら、野田派の石塔銘の記事とも矛盾しない。塩田浜之助は、その年齢からしても、比較的早期の武蔵門弟である。それを、寛永末期の肥後時代のことに変えたのは、景英段階の作為である。
 このことも、従来の武蔵研究では『武公伝』をまともに読解したものがなかったために、問題にすらされたことがない一件である。ここにそれを指摘して、後学の諸君のさらなる研究深化を待ちたい。  Go Back



































*【丹治峯均筆記】
五尺杖ノ仕道、信正鍛錬也。武州公ハ片手ニテ自由セラシユヱ、別段ニワザハナシ。信正ニ至リ、片手ニテハ振ガタキユヘ、仕道ヲ付ラレシト也。隅ニ蟠リタル敵亦ハ取篭リ者等ニ別而利アリ。コレ皆中段スミノカ子ヨリ事發レリ》



武蔵提五尺木刀像


 
  18 大坂の陣
一 慶長十九年[甲寅]十月大坂陣、三十一歳。

一 翌元和元年[乙卯]五月八日大坂落城。(1)

一 慶長十九年(1614)十月、大坂陣、三十一歳。

一 翌元和元年*(1615)五月八日、大坂落城。

  【評 注】
 
 (1)大坂陣
 これは、慶長十九年(1614)の冬の陣と、翌慶長二十年の夏の陣と、両度にわたる大坂戦争のことである。この記事で夏の陣について「元和元年五月」としているが、元和元年は七月十三日改元ではじまるから、「元和元年五月」は実在しない。正しくは「慶長二十年五月」である。
 しかし、ご覧の通り、肥後時代の記事が連続するなかに、突然慶長の大坂陣の記事が出てくるのである。時代順序の混乱があるこの不都合は、上記のように、編集上の作為で、景英が塩田浜之助の記事を動かしたために生じたものであろう。
 さて、大坂陣のことだが、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、政治状況は大坂と関東の二重権力状態にあった。大坂陣は、これを最終的に清算すべくなされた決戦である。このときの合戦では、史上稀な数十万人という最大規模の動員がなされた激戦であった。結果は、周知の通り、徳川幕府方の勝利、豊臣秀頼は自害して、豊臣家は滅亡した。
 ところで『武公伝』において、大坂陣の記事は、ご覧の通り内容は何もない空白状態である。要するに、武蔵の大坂陣における武蔵の事蹟を書こうにも、その材料がなかったのである。
 まず、武蔵の書いたもの、たとえば五輪書にはまったくその記事がない。また、武蔵養子の宮本伊織が建碑した小倉碑文にも、「攝州大坂に於て秀頼公兵乱の時」と大坂陣への言及があるものの、具体的な記事をまったく欠いている。「武蔵の勇功佳名、縦ひ海の口、渓の舌有るとも、寧んぞ説き盡くさんや。簡略して之を記さず」というのは、語ることが多すぎるから、これを省略するということなのだが、要するにこれは遁辞で、小倉碑文にも話のネタがないのである。とすれば、武蔵流末孫には打つ手なしで、こうした内容を欠く記事にしかならないのである。
 これは、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』でも同様である。そこに記すのは、武蔵が、伝来の薙刀で多数を薙ぎ倒した、という一点である。この「伝来の薙刀」は立花峯均に連なる筑前二天流立花派において伝えられた薙刀のことであろう。つまり、これは一流伝承の武蔵所用とされる薙刀に関する伝説なのである。
 また『峯均筆記』は、武蔵がどの大名の下で出陣したのか、そのことを忘れてしまったという。筆者はこれを聞いたのだが、それを忘れたというわけだが、本当にそれを聞いたのかどうか、不明である。聞いたか、聞かなかったか、それすら忘れた、ということかもしれない。要するに、あやふやな雲をつかむような話なのである。
 関ヶ原戦争時の武蔵事蹟なら、筑前の黒田家中に伝説があって、『峯均筆記』は、武蔵が黒田如水麾下で従軍した逸話をいろいろ語っている。しかるに、大坂戦争時の事蹟は、黒田家中には伝説がなかったらしく、記事の中身は無内容である。
 したがって、筑前系も肥後系も九州の武蔵伝記は、大坂陣のことについては語る材料を欠いているのである。それゆえ『武公伝』後継の『二天記』も同様で、内容は空白である。ただ、《軍功證據アリ》とは記すが、遊客で滞在した武蔵のことだから、実際にそんな証拠となる感状の類が肥後に遺されるわけはないのである。
 九州系の武蔵伝記には、しばしばこういう伝説の欠落がある。若き武蔵の慶長期における六十余度の勝負すら、ほとんど言い伝えをもたないばかりか、以後数十年の事蹟も欠落しているのである。ということは、晩年の武蔵に接したはずの肥後の門弟ですら、ほとんど武蔵の事蹟を聞かされていないということである。むろん、武蔵その人が自身を語ることはなかったし、肥後の門弟たちが武蔵にそんなことを訊ける雰囲気でもなかったのであろう。
 ところで、すでに本サイト「武蔵伝記集」の『丹治峯均筆記』読解のページにおいて述べられているので、そちらを参照されたしというところだが、大坂戦争当時の武蔵の動向については、別の資料がある。
 一つは、後に水野日向守勝成(1565〜1651)が城主となった備後福山の史料中に、大坂夏の陣当時の参戦者名簿(大坂御陳御人数附覚)の写本があり、その中に「宮本武蔵」の名が記されているのである。これは、堀正平が『大日本剣道史』(昭和九年)で紹介したものである。そこには、大坂夏の陣のとき武蔵が水野勝成麾下で出陣したことを明記し、しかも「水野家記録」と史料の所在を記していた。堀正平は『大日本剣道史』を著すにあたり、全国の協力者に歴史調査を仰いでいたし、これは堀正平の地元広島県のことだからこの「水野家記録」を見ていたのである。
 さらに、戦後になって小場家文書が刊行され『広島県史』にまで「大坂御陳御人数附覚」が収録されたことから、一九七〇年代には周知の資料となり、以後あれこれ武蔵本に記されるようになった。しかし、ようするに、水野家関係史料に、武蔵が水野勝成の麾下で参戦したとあることは、堀正平の『大日本剣道史』によって、昭和九年(1934)の段階ですでに知られていたことである。
 もう一つは、これも戦前、森銑三(1895〜1985)が尾張の伝説を紹介していた。それは松平君山(秀雲 1697〜1783)の「黄耈雜録」が収録した伝説で、武蔵は水野日向守の手についた、つまり水野隊に属したとする記事である。森銑三は蓬左文庫に勤務していたから、尾張文献は彼の領分なのである。直木三十五もこの尾張の伝説を知っていたようだが、直木が見たのはそれではなく、おそらく「趨庭雜話」の方で、こちらは「黄耈雜録」を種本とした十九世紀初めの作である。
 いづれにしても、明治末の宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』が、武蔵が豊臣方で参戦したのだろうという憶測を記したところ、それを鵜呑みする亜流が多く現われて、これが通説になってしまっていた。それに対し、森銑三は松平君山の「黄耈雜録」を挙げて、それに異を唱えたのである。
 松平君山は、豊田家三代で云えば正脩の世代の人であり、「黄耈雜録」は『武公伝』と同時代の著作である。尾張には武蔵道統の円明流が存続していた。それゆえ柳生流からする対抗的な、タメにする武蔵伝説が多々ある。したがって、尾張の伝説には信をおくことはできないのだが、『武公伝』と同時代の尾張に、武蔵の大坂陣参戦伝説が記録されたことは興味深い。
 ちなみに、尾張円明流とは別の円明流だが、「宮本武蔵守義輕」名のいわゆる「兵道鏡」なる写本がある。この文書は十八世紀中期に現れたもので、オリジナルなきコピーの類いの偽書である。この兵道鏡写本はいくつかあるが、そのうちの一本に、「水野日向守殿」と宛名したものがある。つまり、慶長十三年に、「宮本武蔵守義輕」が水野勝成に相伝したという体裁の相伝書なのである。
 慶長十一年の落合忠右衛門宛兵道鏡写本はすでに周知のことだが、それに対し、この水野日向守宛兵道鏡写本のことは、研究者にもまだほとんど知られていない。かねて云っていることだが、落合宛兵道鏡に対してこれが劣るわけではない。それゆえ、これはある意味で「不遇」な資料だが、むろん偽書の写しである点では、両方とも同じである。(サイト篇「龍野城下」参照)
 ただ、興味深いのは、こうした水野日向守宛兵道鏡が発生する背景には、水野勝成と武蔵の関係がよく知られていたという環境条件があること。慶長十三年というと、大坂陣の前年である。ちょうど頃合もよかろうというわけである。つまり、こんな偽書が出現するほど、水野勝成と武蔵の関係は周知のものだったということである。
 上記の尾張の伝説では、武蔵は水野日向守勝成の麾下で参戦したという。荒唐無稽な要素の多い伝説記事だから、これだけではむろん話にならない。だが、『吉備温故秘録』所収の宮本家書上によれば、後に武蔵が養子にして姫路の本多家へ仕官させた三木之助が、水野家中の中川志摩之助の三男であり、そこから、武蔵と水野勝成との関係の浅からぬことが知れる。というわけで、これを一種の状況証拠として、大坂陣の当時、武蔵が水野隊に属したという森銑三の説に、我々は留保付きながら同調したのである。
 他方、福山から出た「大坂御陳御人数附覚」は、我々の想定によれば、原本の作成時期は水野勝成没後まもなくの一六五〇年代前半あたり、したがって、これの想定原本は武蔵関係一次史料と同時期のものである。ただし、想定原本でさえ大坂夏の陣当時のものではなく、このように四十年ほど後の文書なので、「宮本武蔵」の名がこの段階で後入れされた可能性がある。また、この文書はオリジナルではなく、宝暦二年(1752)の写本を、虫食いがあるので文政元年(1818)に写しなおしたというもので、いわば写本の写本である。それゆえに史料的価値はいま一つであり、この種の資料には写本段階で後入れの可能性もあるから、一概には信憑できない。
 そうした難点を含むものゆえ、この文書は一次史料として採択できない代物だが、上述のごとく、武蔵が養子にした宮本三木之助の出自のことがあって、大坂戦争時、武蔵が水野隊に属して参戦した可能性が高い、というのが我々の所見である。
 ともあれ、『武公伝』の記事に話を戻せば、このように内容を欠いた記事の形式に表出されているのは、肥後では武蔵の大坂陣参戦に関して伝説口碑は何もなかった、という事実である。豊田正剛の聞書の跡を留める記事にも記録がないところをみると、武蔵の直弟子たちも、そのあたりのことは聞かされておらず、知らなかったのである。このことは、改めて確認されるべきポイントであろう。  Go Back




出光美術館蔵
大坂夏の陣




*【小倉碑文】
《武藏常言、兵術手熟心得一毫無私、則恐於戦場領大軍又治國豈難矣。豐臣太閤公嬖臣石田治部少輔謀叛時、或於攝州大坂秀頼公兵乱時、武藏勇功佳名、縱有海之口溪之舌寧説盡。簡略不記之》

*【丹治峯均筆記】
《慶長十九年、翌元和元年、攝州大坂両度ノ御合戦ニモ、軍ダチシテ佳名ヲアラハシ、傳来ノ薙刀ヲ以テ數人薙ギ倒シ玉フトイヘリ。[但シ、イヅレノ手ニツキ出陣アリシヤ、其事ヲ忘ズ]》










*【二天記】
《慶長十九年大阪陣、軍功證據アリ。三十一歳。翌元和元年落城ナリ》










賢忠寺蔵
水野日向守勝成


*【黄耈雜録】
《宮本武藏ハ兵法之名人也。十四五の時分剣術を得。父ハ無二と云、是又一流の遣ひ手也。是をバ古流と云。武藏我代に仕へしとぞ。十八歳にて吉岡清十郎と仕相し名を發し、廿余にて岩石と仕合、名を發す。大坂の時、水野日向守が手ニ付、三間程の志ないの差物に「釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者」と書ける、よき覚ハなし。何方にて有けん、橋の上にて大木刀を持、數人を橋の左右へなぎ伏ける様子見事なりと人々誉ける》

*【趨庭雜話】
《宮本武蔵は拾四五歳の頃より剣術を得徳〔会得〕す。父ハ無二といふ。是又、一統の達人也。是を古流といふ。武蔵十八歳にて吉岡清十郎と仕合ひし、名を顕はし、二十五にて岩石と仕合し、弥々名を顕はしぬ。大坂の役、水野日向守が手に属し、三間程のしなへの差物に「釈迦者佛法之爲知者、我者兵法之爲知者」と書きける由。させる功もなく、何方にてか橋の上にて大木刀を振廻し、數人を橋の左右へ薙伏せける有様見事なりたりしとぞ、人々誉めけるとなむ》


藤田文庫蔵
水野日向守宛兵道鏡奥書



*【三木之助関係系譜】
 
○中川志摩之助┐
 ┌─────┘ 水野日向守家中
 ├刑部左衛門
 |
 ├主馬 後改志摩之助
 |
 ├宮本三木之助 武蔵養子 殉死
 |
 │兄跡目宮本
 └九郎大夫┬弁之助 大和郡山
      |
      └小兵衛 岡山池田家中

 
  19 小倉城外山上に寿蔵を
一 寛永十七年[庚辰]之春、武公忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ来。[五十七歳](1) 其時小倉城外ノ山上ニ壽藏ヲ営ミ、蹤ヲ遺シテ肥後ニ赴ク。
其后、承應三天[甲午]四月十九日、宮本伊織碑ヲ立。此碑銘肥後國泰勝寺住持春山和尚書之。前出。(2)
一 寛永十七年(1640)の春、武公は(細川)忠利公の召しに応じて、肥後に来た[五十七歳]。そのとき、小倉城外の山上に寿蔵を造営し、跡を遺して肥後へ赴いた。
その後、承応三年(1654)四月十九日、宮本伊織が碑を立てた。この碑銘は、肥後国泰勝寺住持・春山和尚が書いた。前出。

  【評 注】
 
 (1)武公忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ来
 慶長の大坂陣から話が戻って、こんどは寛永十七年、武蔵が肥後に客分として滞在する直前の話である。したがって、順序としては、武蔵が小倉へやってきたという前出の話の後に布置されるべき記事である。橋津正脩は『武公伝』を未完成の草稿のまま遺したのだが、それはこういう順序未整理のかたちにも現われている。
 これはすでに前に話が出ていたから、重複する要素があるが、ここで改めてみてみよう。
 ここの記事は、寛永十七年(1640)の春、武蔵が細川忠利の召しに応じて、肥後に来た[57歳]ということである。これは、肥後へ滞在するにあたって、細川忠利から岩間六兵衛を通じて武蔵へ照会下問があり、武蔵は坂崎内膳宛に口上書をもって答えたという前出の話と重なる。
 当該部分ですでに述べられているように、武蔵が寛永十七年の「春」に肥後へやってきたというのは、坂崎内膳宛口上書の寛永十七年「二月」という日付と対応するものである。つまり、武蔵が寛永十七年の「春」に肥後へやってきて、殿様の細川忠利が岩間六兵衛を通じて下問、武蔵は「二月」に坂崎内膳を介して口上書をもって答えた、というわけである。二月は旧暦では仲春である。
 このような状況設定は、むろん、細川忠利はじめ岩間六兵衛も坂崎内膳も肥後にいる、ということでなければならない。しかるに、寛永十七年の「春」には、細川忠利はじめ岩間六兵衛や坂崎内膳は、肥後にはいない。どこに居たかというと、彼らは江戸に居るのである。
 細川忠利は前年から江戸に出府しており、当地で年越しである。側近の坂崎内膳はむろん細川忠利に付いて江戸に来ているし、岩間六兵衛はもともと江戸詰めだから、この三人が出揃うのは江戸なのである。武蔵が肥後へ来ても、彼ら三人は居ない。
 そうなると、恠しいのは、武蔵が寛永十七年の「春」に肥後へやってきたという『武公伝』の話である。この話の出所は明らかではないから、たぶん後世の伝説口碑であろう。あるいは、坂崎内膳宛口上書の日付「寛永十七年二月」と整合性をもたせたものであろうとも考えられるが、この口上書のやり取りがあったとすると、これは江戸以外のことではありえないので、逆に、武蔵が寛永十七年の「春」に肥後へやってきたという『武公伝』の説は否定される。
 しかしまた逆に、武蔵が寛永十七年の「春」に肥後へやってきたという伝説が先にあって、それに合わせて、坂崎内膳宛口上書が捏造された可能性もある。それに、口上書の原本は存在せず、しかもその内容たるや、とうてい武蔵が書きそうにない代物である。
 となると、「寛永十七年の春、武蔵が細川忠利の召しに応じて、肥後に来た」という『武公伝』の記事全体が疑問に付されるべきであろう。
 他方、武蔵がたしかにこの寛永十七年に肥後へやってきたことを傍証する資料がある。それは、既述の通りの奉書、すなわち細川家が客分として処遇する武蔵に対し滞在費を提供したおりの公文書である。これは寛永十七年八月十二日付の細川忠利決裁文書である。したがって、これはすでに秋のことである。
 もう一つは、同じ寛永十七年のものと思われる「七月十八日」付の長岡興長宛武蔵書状である。この書状には、肥後へ来たから挨拶に行きたいとあるから、肥後へ来て早々の書簡のようである。とすれば、この長岡興長宛武蔵書状によるかぎりは、武蔵が肥後へ来たのは、七月になってから、あるいは早くても六月下旬としなければならない。五月に江戸を発した細川忠利一行が熊本へ帰りつくのは六月中旬、これで武蔵が細川忠利に会う環境条件が出来上がるのである。
 しかしながらもう一点、「細川忠利の召しに応じて」武蔵が肥後へやってきたという記述にも問題がある。それというのも、「召しに応じて」ということなら、事前に召出しの交渉話があったはずであるし、武蔵召出しが家中でも公式に決定されていなければならない。ところが、七月十八日付の長岡興長宛武蔵書状を見るに、そういう経緯でもなさそうである。
 この書状において、武蔵はまず、島原乱の原城攻略(有馬陣)のさい、長岡興長から使者や音信を受けたことの礼を述べ、自分はその後、江戸や上方に行っていたこと、そして今、所用があって熊本へ来ているので、そのうち挨拶に行きたいという内容である。
 ここで注目すべきは、《今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ罷越候》という文言である。いま私がこちらへ来ておるのを不審に思われるでしょうが、少々用がありまして…ということである。
 これを見るに、長岡興長は、なぜ武蔵が肥後へやって来たのか、知らないのである。それに対し、少々用があって来ていると武蔵が述べているところを見れば、武蔵は私用でたまたま肥後へやって来たということである。
 このように見極めが付くと、問題はむろん、「細川忠利の召しに応じて」武蔵が肥後へやってきたという『武公伝』の伝説である。細川忠利の召出しに応じて武蔵が肥後へやって来たのなら、筆頭家老の長岡興長がそれを関知していないはずがない。七月十八日付書状のこのとき、長岡興長が、なぜ武蔵が肥後へやって来たのか、知らなかったとすれば、ようするに、武蔵が肥後へやってきたのは、「細川忠利の召しに応じて」ではなかったのである。
 このことは、従来の武蔵研究では看過されてきたポイントである。長岡興長宛武蔵書状に言及するものは多いが、《今爰元へ参申儀、御不審申可被成候》という文言の意味するところに注目したものはなかった。ここで改めて諸氏の注意を喚起しておきたい。
 かくして、武蔵が肥後へやってきたのは「細川忠利の召しに応じて」ではなかった、とすれば、前出の坂崎内膳宛口上書(寛永十七年二月)も当然ありえないことになる。この武蔵口上書は、まさに後世の捏造物であり、それを景英が『武公伝』に収録したのである。むしろ、既述のごとく、この口上書を捏造したのは景英であった可能性がある。
 周知のごとく、「細川忠利の召しに応じて」武蔵が肥後へやってきた、とするのが今日通説になっているが、それはこの『武公伝』をはじめ肥後系武蔵伝記の記述を無批判に鵜呑みにしたものにすぎない。この点、もはや認識を根本的に変更すべき時期に来ているのである。
 武蔵への支給を決裁する奉書をみれば、長岡興長がいろいろ世話を焼いていることが知れる。つまり奉書にみるかぎりにおいては、武蔵が客分として肥後に滞在するのを取り持ったのは、まさしくこの長岡興長なのである。
 とすれば、事実関係はこうだろう。すなわち、前にも述べたところであるが、――武蔵は私用で、たまたま肥後へやって来た。前出の寺尾孫之丞が案内する私的な旅行であり、また塩田浜之助はじめ弟子たちも肥後にいたからであろう。それで武蔵はしばらく肥後に滞在するつもりでいたが、旧知の長岡興長に何の挨拶もなしにというわけにはいかない。そして興長へ上記の書状を出した。それが七月十八日。すると、いきなり大事になってしまった。というのも、おそらく長岡興長は主君の細川忠利に、武蔵が肥後へ来ていることを報告した。すると、武蔵が来ているのなら、何の構いもせずに放っておくわけにはいかぬ、細川家の客分として処遇しよう、となった。それが八月十二日付の細川忠利決裁を記す奉書(八月十三日条)。つまり、
    七月十八日  長岡興長宛武蔵書状
    八月十二日  武蔵への支給に関する細川忠利決裁
 このひと月足らずの間、あれよあれよという間に、武蔵は細川家の客分として処遇され滞在費を支給される、ということになってしまったわけである。その取り持ちをしたのが旧知の長岡興長で、養子の寄之とともに、以後あれこれ世話を焼くことになる。
 すでに前に見たごとく、武蔵への年額三百石支給が決裁されるのは、この年の暮である。秋の段階ではまだ暫定的な措置である。武蔵も当初、長期滞在するつもりはなかったようである。ところが、結果的には武蔵はその後5年も滞在してしまう、しかも肥後で発病して客死したのである。
 この結果を原因=理由に反転したのが、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』である。つまり、武蔵は肥後を死に場所に選んだというわけである。武蔵は命終の地を選ぶのについて、筑前の黒田家と肥後の細川家の二つのうち、後者に決めたというのであるが、これは、武蔵が肥後で死んだという意味を解釈した説話である。もちろん、武蔵は結果として肥後で発病し客死しただけであって、肥後を死に場所に選んだというわけではない。
 肥後系伝説では、肥後を死に場所に選んだという、こうした話はないが、それとやや似た逸話が以下の部分である。  Go Back












*【武公伝】
《武公御國ニ逗留ノコト、岩間六兵衛[御聞番役御城使トモ云。今御留守居ト云]ヲ以テ御尋アリ。則御側衆坂崎内膳殿マデ口上書ヲ以テ言上在》





武蔵関係地図










*【奉書】(寛永十七年八月十三日)
《宮本武蔵ニ七人扶持・合力米拾八石遣候、寛永十七年八月六日より永可相渡者也
    寛永拾七年八月十二日御印
       奉行中
右ノ御印、佐渡守殿より阿部主殿を以被仰請、持せ被下候。右之御印を武蔵に見せ不申、御扶持方御合力米ノ渡様迄を、能合点仕やうニ被仕候へと被仰出旨、主殿所より佐渡殿へ奉書を相渡候を、佐州より被仰聞候也》


長岡興長宛武蔵書状 八代市立博物館蔵

*【長岡興長宛武蔵書状】
《一筆申上候。有馬陳ニ而ハ、預御使者、殊御音信被思召出処、過當至極奉存候。拙者事、其以後江戸上方ニ罷在候が、今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ罷越候。逗留申候ハヾ、祗候仕可申上候。恐憧謹言
 七月十八日    玄信[花押]》








松井文庫蔵
長岡興長















*【丹治峯均筆記】
《武州、老年ニ至リ、命終ノ處ヲ可極ト被存立。古郷ト云、武勇ト云、黒田ノ御家カ、又ハ、兵法数寄ニテアル間、細川ノ家カニ可致トテ、先筑前ニ被下。(中略) 其後、肥後ニ至ル。越中守殿、甚悦喜ニテ、「何分ニモ望ニ任セラルベキ」ト也。武州御答ニ、「曽而仕官ノ望ナキ段ハ、異ナル貌ニテモ御察可被成。肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ参ルマジ。御知行ハモトヨリノ事、御米ニテモ極リテ被下不及。兵法ニ直段ツキテ悪シ。鷹ヲツカイ候様ニ被仰付候ヘ」ト也》
 
 (2)小倉城外ノ山上ニ壽藏ヲ営ミ
 武蔵は肥後へ行くに際し、小倉城外の山上に寿蔵を造営し、跡を遺して肥後へ赴いた、というのがここでの話である。この「寿蔵を営む」というのは、生前に自分の墓を造っておくことを意味する。このように生前墓を造って遺跡をのこす、そういう用意のよいことをして、武蔵は肥後へ向かったというわけである。
 ここまで『武公伝』の解析をたどってきた読者なら、「これは変な話だ」と気づいておられようが、蛇足ながら改めてこの説話を検証してみよう。
 すでに見たように、長岡興長宛武蔵書状によれば、有馬陣(島原役)の後、武蔵は江戸や上方に行っていた。そして今、所用があって熊本へ来ている、というわけだから、上方から豊前小倉へ戻って、それから、熊本へやって来たのであろう。
 小倉はこの当時の武蔵の住所である。つまり、小倉には養子の宮本伊織(1612〜78)が小笠原家老職として居て、武蔵はその小倉宮本家のご隠居である。この年、寛永十七年(1640)には、伊織は二十九歳である。
 そこで問題は、どういうかたちで武蔵は小倉から熊本へ行ったか、である。前に見たように、長岡興長宛武蔵書状には、《今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ罷越候》とある。いま私がこちらへ来ておるのを不審に思われるでしょうが、少々用がありまして、来ております、ということである。こう武蔵が述べているところをみれば、私用でたまたま肥後へやって来たということである。
 ところが、『武公伝』の話では、このとき、武蔵は寿蔵を造営し、跡を遺して肥後へ赴いた、というのである。この所業には、武蔵はもう帰らないつもりで小倉を出たという含みがある。しかるに、実際は、武蔵は少々所用があって肥後へ行っただけだから、わざわざこのように寿蔵を造営し、「跡を遺して」行くはずがない。要するに、前後の状況を勘案すれば、これは肥後で後世発生した伝説なのである。
 武蔵は当初、肥後に長期滞在するつもりはなかったようである。ところが、長岡興長の取り持ちがあって、武蔵は細川家の客分になり、その後五年も滞在し、しかも肥後で発病して客死したのである。
 この結果(武蔵は肥後で死んだという事実)を、原因=理由へと反転すれば、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』のように、武蔵は肥後を死に場所に選んだという解釈説話になる。それと同様なのが、『武公伝』のこの話――武蔵は小倉を去るにあたり、寿蔵を造営し、跡を遺して肥後へ赴いた、という説話である。
 もとより、武蔵は小倉を去るにあたり、寿蔵を造営し、跡を遺して肥後へ赴いた、というこの話に発生根拠がないわけではない。つまり、武蔵が寿蔵を造営したと『武公伝』のいう「小倉城外の山」とは、後に宮本伊織が武蔵記念碑を建立した赤坂山(現・小倉手向山公園)のことであろうから、これは行為の遡及的反復である。承応三年に宮本伊織が武蔵碑をここに建立する以前に、武蔵は寛永十七年にすでに自身の寿蔵をここに造っていたというわけである。後の行為を事前に反復させる説話論的操作がここに見られる。
 武蔵生前に小倉に寿蔵を設けていたということは、実際にはなきにしもあらずで、無下に否定はできないが、それを肥後行きと関係づけて、武蔵は小倉を去るにあたり、寿蔵を造営し、遺跡をのこして肥後へ赴いた、とするのは、まさに話が出来すぎているのである。
 それに、生前墓たる寿蔵が小倉にすでにあったのなら、細川家が肥後に武蔵の墓所を用意するようなこともなかったであろう。武蔵の遺骸を小倉の墓へ運んで埋葬するのが当然だからだ。したがって、武蔵が死んだとき、生前墓などどこにもなかった、としなければならない。
 いづれにしても、前後の状況からして、この小倉の寿蔵の話は、肥後で後世発生した伝説であるが、それを橋津正脩が『武公伝』に採録したのである。ところが、『武公伝』のこの部分には、補註があって、その後、承応三年(1654)四月十九日、宮本伊織が碑をここに建てたという記している。この補註は、その碑の銘文は例の春山和尚が書いたと繰り返し、「前出」とも記すから、これは『武公伝』オリジナルの文ではなく、おそらく豊田景英による補註であろう。



九州関係地図





小倉手向山周辺図





武蔵顕彰碑
北九州市小倉北区赤坂

武公伝 正脩 武公伝 景英 二 天 記
一 寛永十七年[庚辰]之春、武公忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ来。其時小倉城外ノ山上ニ壽藏ヲ営ミ、蹤ヲ遺シテ肥後ニ赴ク。
一 寛永十七年[庚辰]之春、武公忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ來[五十七歳]。其時小倉城外山上ニ壽藏ヲ営ミ、蹤ヲ遺シテ肥後ニ赴ク。
其后、承應三天[甲午]四月十九日、宮本伊織碑ヲ立此。碑銘肥後國泰勝寺住持春山和尚書之。前出
一 同十七年ノ春、忠利公ノ召ニ因テ肥後ニ來ル。于時五十九歳*ナリ。小倉ヨリ肥後ニ來ル時、城外ノ山ニ壽藏ヲ建テ、跡ヲ残シテ肥後ニ來ル。其後承應三年四月伊織石碑ヲ建テ、其ノ銘ヲ春山和尚ニ請フ。此ノ書ノ書奥ニ出ス
 『二天記』はこの補註部分を本文へ取り込んでいる。景英は、『武公伝』に補註を書き加えたが、『二天記』を書いた段階で、その註記を本文化したのである。景英の改訂行為の典型の一つである。
 なおまた云えば、『二天記』は、このときの武蔵の年齢を「于時五十九歳」とする写本がある。つまり、他にはみられない誤記がある。豊田景英の原本『二天記』は存在しないから照合の手立てがないが、現存複数写本も同様の間違いをしているから、これは早期の写本に生じた誤記であろうと思われる。  Go Back



 
  20 兵法の書三十九箇条
一 寛永十八年[辛巳]二月忠利公ノ命ニ依テ、始テ兵法ノ書三十九箇条ヲ録シテ献之。(1)

一 寛永十八年(1641)二月、忠利公の命によって、(武公は)はじめて兵法の書三十九箇条を撰録して、これを(忠利公に)献上した。

  【評 注】
 
 (1)兵法ノ書三十九箇条
 このように、『武公伝』は「兵法の書三十九箇条」という。今日一般に知られているのは、「兵法三十五箇条」という書名である。そこで、「三十九」は「三十五」の誤りではないかという意見も出ようが、それは『二天記』が「三十五ヶ条」と書いたのが世間に知られ、また岩波文庫など流布本が、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』所収の三十五ヶ条ヴァージョンの書を孫引きしているだけのことで、『武公伝』の云う「三十九箇条」が誤りだとは、決して言えないのである。
 むしろ、同じ『武公伝』の別の箇処には、武蔵が、死の間際の正保二年(1645)五月十二日に、五輪書を寺尾孫之丞に相伝し、「三十九ケ条の書」を寺尾求馬信行に相伝したと記しているところをみれば、『武公伝』では「三十九ケ条」で一貫しているのである。したがって、
     「三十九箇条」 → 「三十五箇条」
という変化と相違が『武公伝』と『二天記』の間に生じたということである。これが意味するのは、同系統の『武公伝』と『二天記』の間でさえ伝説の揺動があるということだが、『二天記』の筆者(景英)の世代では、くだんの兵法書は「三十五箇条」と呼ばれるものへ変化していたことが確認できる。これが三十九ヶ条から三十五ヶ条への減数簡略化であったのか、それとも古型復元作業を通じて、本来は三十五箇条であった、ということになったのか、そのあたりは不明である。そのあたりも含めて、ここで若干考察してみよう。
 いま、五輪書および両者を比較対照してみれば、以下のようになる。






*【二天記】
《寛永十八年ニ命有テ、初メテ兵法ノ書三十五ケ條ノ覺書ヲ録シテ差上ラル。于時三月十七日、忠利公御逝去ナリ。御歳五十四。御法號妙解院殿臺雲宗伍大居士》

*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ》
五 輪 書 兵法書三十九ヵ条 兵法書三十五ヶ条
 此一流二刀と名付る事(地之卷)
 諸処(地之卷・火之卷)
 太刀の持ち樣の事(水之卷)
 兵法の身なりの事(水之卷)
 足つかひの事(水之卷)
 兵法の目付と云事(水之卷)
 五方の構の事(水之卷)
   五つの表 第一の次第の事
   表 第二の次第の事
   表 第五の次第の事
   表 第四の次第の事
   表 第三の次第の事
   ――
 兵法心持の事(水之卷)
   ――
   ――
 太刀の道と云事(水之卷)
 打つと當ると云事(水之卷)
 三つの先と云事(火之卷)
 渡を越すと云事(火之卷)
 太刀にかはる身と云事(水之卷)
 足つかひの事(水之卷)
 けんをふむと云事(火之卷)
 影を抑ゆると云事(火之卷)
 かげをうごかすと云事(火之卷)
   ――
   ――
 (水之巻 諸処)
 ねばりをかくると云事(水之卷)
 枕をおさゆると云事(火之卷)
 景氣を知ると云事(火之卷)
 敵になると云事(火之卷)
   ――
 縁のあたりと云事(水之卷)
 しつかうの入身と云事(水之卷)
 しうこうの身と云事(水之卷)
 たけくらへと云事(水之卷)
   ――
 將卒を知ると云事(火之卷)
 有構無構の教への事(水之卷)
 場の次第と云事(火之卷)
 多敵の位の事(水之卷)
 岩石の身と云事(火之卷)
 直通の位と云事(水之卷)
   ――
  1 此道二刀ト名付ル事
  2 兵法ノ道見立所ノ事
  3 太刀取樣ノ事
  4 身ノカ丶リノ事
  5 足フミノ事
  6 目付ト云事
  7 五方ノ構ノ次第
    一 喝咄切先返 中段
    二 儀段ノ構 上段
    三 ウチヨクノ構 右脇
    四 重氣ノ構 左脇
    五 スイケイノ構 下段
  8 間積ノ事
  9 心持ノ事
 10 兵法上中下ノ位ヲ知事
 11 糸カ子ト云事
 12 太刀ノ道ノ事
 13 打トアタルト云事
 14 三ツノ先ト云事

 15 太刀ニカハル身ノ事
 16 陰陽二ツ足ト云事
 17 劔ヲフムト云事
 18 陰ヲヲサユルト云事
 19 影ヲ動カスト云事
 20 弦ヲハツスト云事
 21 尾櫛ノヲシヘノ事
 22 拍子ノ間ヲシルト云事
 23 子バリヲカクルト云事
 24 枕ヲ押ユルト云事
 25 景気ヲシルト云事
 26 敵ニ成ト云事
 27 残心放心ノ事
 28 縁ノアタリト云事
 29 シツカウノツキト云事
 30 シウコウノ身ト云事
 31 タケクラヘト云事
 32 扉ノ教ヘト云事
 33 將卒の教ノ事
 34 有構無構ト云事
 35 場ノ次第ト云事
 36 多敵ノ位ノ事
 37 岩尾ノ身トナル事
 38 期ヲ知ト云事
 39 萬理一空ノ事
  1 此道二刀と名付事
  2 兵法の道見立処の事
  3 太刀取樣の事
  4 身のかゝりの事
  5 足ふみの事
  6 目付の事






  7 間積りの事
  8 心持の事
  9 兵法上中下の位を知る事
 10 いとかねと云事
 11 太刀の道の事
 12 打と当ると云事
 13 三ツの先と云事
 ☆ 渡を越すと云事
 14 太刀に替る身の事
 15 二ツの足と云事
 16 剣を踏むと云事
 17 陰を押ゆると云事
 18 影を動かすと云事
 29 弦をはつすと云事
 20 小櫛のおしへの事
 21 拍子の間を知ると云事

 22 枕の押へと云事
 23 景気を知ると云事
 24 敵に成ると云事
 25 残心放心の事
 26 縁の当りと云事
 27 しつかうのつきと云事
 28 しうこうの身と云事
 29 たけくらへと云事
 30 扉のおしへと云事
 31 将卒のおしへの事
 32 うかうむかうと云事


 33 いはをの身と云事
 34 期をしる事
 35 万理一空の事
 これによってみれば、五輪書と兵法書の対応性はほぼ確認できる。五輪書の水之巻と火之卷にある条々が兵法書の本体をなしている。五輪書に対応箇処をもたない条々は、やや専門的な記述内容のものである。兵法書に比すれば、五輪書は入門書であり、初級者にもわかるように懇切丁寧に書かれている。したがって、五輪書に対応見出しがある場合でも、兵法書では記述内容が異なる。しかも、武蔵が書きそうにない文章が随所にある。つまり、これが五輪書を祖述した文書だとしても、その内容からして後世別人の手になる兵法書である。
 ところが、五輪書と兵法書の関係については、一般に通念となっているのは、兵法書を発展させた(もしくは増補潤色した)のが五輪書だ、というような理解である。しかし決してそうは云えないのである。本サイトの五輪書読解研究にも述べられているように、兵法書の方が五輪書より後に――つまり、武蔵死後に――編纂されたというのが実際のところである。
 ともあれ、この件について『武公伝』の記述に注目すれば、上記のように『武公伝』と『二天記』では兵法書の条目数が異なる。その場合、『武公伝』→『二天記』という順序からすれば、「三十九ヶ条」→「三十五ヶ条」という成立順序になる。ところが奇怪なことに、「三十九ヶ条」は「三十五ヶ条」の増補版だという説が以前から興行されてきた。しかし、それはさして根拠のない憶説である。というのも、『武公伝』に「三十五ヶ条」とあり『二天記』に「三十九ヶ条」とあるのならまだしも、実際にはその順序は逆である。『武公伝』→『二天記』という順序からすれば、「三十九ヶ条」→「三十五ヶ条」という成立順序以外にはありえないのである。
 そうしてみると、「三十五ヶ条」は「三十九ヶ条」の減数ヴァージョンであって、とくに五方の構の次第の条が抜けているのが注目される。五輪書ではこれは「五方の構の事」(水之卷)に対応するもので、この種の剣術教本には省略できないはずの、不可欠のコンテンツである。しかるに、「三十五ヶ条」でこれが脱落して不完全な形になっている。これはどうしたことであろうか。
 再度云えば、「三十五ヶ条」が先にあって、これを増補して「三十九ヶ条」になったのではない。「三十五ヶ条」の内容は、五方の構の次第を欠く以上、それは剣術兵法書としてはまことに不備なものである。そのような不完全なものが最初に編纂されたということはありえない。そうすると、「三十九ヶ条」を「三十五ヶ条」にしたとき、その残りの不足分、とくに剣術兵法書として肝腎な五方の構の次第はどこへ行ったのか?――そのように問いを立てた方がよい。
 それは、おそらく、この五方の構の部分を別書にしたものであろう。それゆえ「三十五ヶ条」は、その五方の構を別書にしたところの剣術書――たとえば「五方太刀道」というような題名の――と一組のものであり、その運用上は実際にはそれ自体では独立完結したテクストではなかった。言い換えれば、五輪書では本来「表」であった五方の構の次第を、独立して扱うようになった段階のものであろう。
 
   「三十九ヶ条」兵法書―┬―>「三十五ヶ条」兵法書
              |
              └―> 五方の構の次第他
 
 それゆえ「三十五ヶ条」は「三十九ヶ条」の原型ではなく、「三十九ヶ条」から分化したものである。その派生時期は、『武公伝』と『二天記』の間、橋津正脩の世代と豊田景英の世代の間であり、少なくとも十八世紀後期のことである。
 三十五ヶ条兵法書において奇怪なのは、「三十五箇条」と呼びながら、その実は、どのヴァージョンも三十六ヶ条であることだ。後世の武蔵流末孫のかような仕業は種々あって、後人を惑わすに十分である。
 しかし、「三十九ヶ条」と対比すれば、中ほどの「渡を越すと云事」という条項が余計に入っている。とすれば、「三十五箇条」というタイトルがオーソライズされた後に、「渡を越すと云事」が後入れされた可能性がある。つまりは、分化派生したものの、編纂の腰がまだ定まっていないのである。
 あるいは、後世の野田派伝書のように、「兵法三十五箇条」とタイトルしながら、中身は三十九ヶ条ヴァージョンであるケースもある。とすれば、これは名のみの問題かもしれない。つまり、「五」「七」の三十五の吉数を題名にしただけであろう。
 とすれば、景英の『二天記』がいう「三十五ヶ条」も実際は三十九ヶ条だったかもしれない。ただし、『武公伝』には「兵法ノ書三十九箇条」とあるから、少なくとも景英父の正脩の世代までは、この兵法書は「三十九ヶ条」であった。
 したがって、死病の床にある細川忠利に武蔵が献上したという「兵法三十五箇条」なる文書は、その当時まだ存在していないのである。しかも、柳生宗矩から『兵法家伝書』を伝授されたほどの細川忠利に対し、五方の構の次第を欠く、そんな不備で間の拔けた「三十五ヶ条」を、武蔵が献呈するわけがなかろう。それは瀕死の相手に対する無礼というものである。それゆえ、それが「三十五ヶ条」であるかぎりにおいて、「兵法三十五箇条」を忠利に献上したという伝説は却下されるべきである。
 むろん、読者諸氏がお気づきのように、こうしたことは従来の武蔵研究において指摘されたことがなかった。慶長十八年二月に忠利がどんな状態にあったのか、それさえ知らずに、この「兵法三十五箇条」の一件が語られてきたのである。そういうお粗末な研究史であるからこそ、我々はあれこれメルクマールを示して注意を喚起し、後学の諸君の研究を期待するというわけである。




二天一流秘伝 熊本県立図書館蔵
三十九ヶ条版兵法書 冒頭










二天一流秘伝 熊本県立図書館蔵
三十九ヶ条版兵法書 「五方ノ構ノ次第」












熊本市立博物館蔵
二天一流兵法三十五箇條
寺尾信行五法技解併ニ奥書
これも三十九ヶ条版兵法書

 それでは、さらに話を進めよう。『武公伝』のいう「兵法書三十九箇条」とはいかなるものであったか。三十九ヶ条ヴァージョンの写本諸書を参照すれば、この段階における兵法書の内容構成は、
     (1)序文
     (2)三十九ヶ条の本文
     (3)寺尾求馬助による奥書
というものであろう。この序文は漢文であり、後出のように、『武公伝』では「五輪書序」と想定されているものである。これを、後に編集者が兵法書へ取り込んで、序文とするようになったものか、あるいはこの序文は、もともと出所不明の文書で、それを十八世紀中期には五輪書の序文とみなすようになったのか、いづれにしても、それは後で検討するであろう。
 兵法書本文は、寛永十八年(1841)「二月朔日」付で、「新免武藏守 藤原玄信 判」とある。これは、武蔵が細川忠利へ献上したという伝説を踏まえての体裁であろう。忠利は三月中旬に死去してしまうから、これはどうでも前月の二月でなければならないわけだ。
 寺尾求馬助の奥書は、寛文六年(1666)八月中旬に、長男・佐助信形に伝授した体裁である。むろん信形は長男で、求馬助の家督を相続した人だが、弟たちのように兵法師範を勤めていない。しかし、その信形に与えた「師伝の書」が残ったのである。つまり寺尾家の「兵法家伝書」として。
 豊田正剛は、宝永四年(1707)三十六歳のとき、この兵法書序文に注釈を書いている(「二天一流兵法書序鈔」)。これにより、当時いかなる解釈がこの序文に対しなされていたか、それが知れるのである。また、豊田正剛が文献研究者であり、講義などしていたらしいことを窺わせる資料である。しかし、この序文は当時すでに偽書とみなされていたらしい。それは豊田正剛の抗弁において言及されていることである。
 話を戻せば、武蔵が細川忠利に兵法書を伝授したという『武公伝』のこの記事は、すでに豊田正剛の段階であったであろう。寺尾求馬助奥書を見ているはずだからである。
 この求馬助奥書によれば、武蔵が肥後へ来て、それまで柳生但馬守の流儀を信仰していた細川忠利と試合をして、感服せしめ、兵法書を書いて忠利に与えて、兵法の道を説教したということである。それまでは、武蔵は兵法書を書いたことがなく、これが初めての兵法書著述だという。
 そうして、忠利に兵法の智があったので、彼は武蔵の説を即時に道理通達した。忠利曰く、「おれは若年の頃から剣術に志し、諸流を試み鍛練してきたのだが、一つとして真の道ではなかった。多年修行してきたが、ここに敗し、無とする哉」と、感悦至極の体であったという。
 これらはいづれもいかにも伝説じみた話である。この兵法書をことさらに特権化しようということであろう。あるいは、自流の兵法書を「前肥之太守苧ム忠利公」によって権威づけようという意図が透けて見える。(「前肥之太守」は先代の肥後の太守、「苧ム」は近衛府の漢流官職名で、忠利が寛永三年(1626)に、従四位下・左近衛少将に補任されたことによる。通例の越中守と書かぬところが、書き手の味噌である。)
 しかしながら、武蔵が兵法書を細川忠利に伝授したという、この寛永十八年(1841)二月という日付があって、この時点では、武蔵が肥後へ来てまだ半年足らず、もし授与先があるとすれば、なるほど『武公伝』の記事にあるごとく、忠利以外にはなかろう。
 改めて『武公伝』を見れば、そこにあるのは、寛永十八年(1641)二月、細川忠利の命によって、武蔵は初めて「兵法の書三十九箇条」を書いて、これを忠利に献上したということである。つまり、『武公伝』の伝説情報を分解してみれば、
   ・寛永十八年二月
   ・細川忠利の命によって
   ・武蔵は初めて「兵法の書三十九箇条」を書いて
   ・これを忠利に献上した
 まず、細川忠利の命によって、武蔵は初めて――かどうかは恠しいが――この兵法書を書いて、忠利に献上したという。寺尾求馬助奥書では、忠利は武蔵に、「吾不敏ナリト云共、此道ヲ傳受セン」と、武蔵流兵法の伝授を申し入れたのに対し、武蔵はこの兵法書を作って与え、(これを教材にして)兵法の道を教えた、という話である。君命によって作成献上したというのとは少しニュアンスが異なる。
 次に、上述のごとく、この一件の時期に問題がある。というのも、寛永十八年(1641)二月とあるが、細川忠利はこのころ病床にあったのである。したがって、結論を言えば、忠利は兵法稽古して一流伝受する状況にはなかった。
 実は忠利は、四年ほど前から体調が思わしくなかった。これを細川家史料(大日本近世史料・東大史料編纂所)によってたどってみると、以下のような具合である。
 天草島原で一揆が起きる前の九月、忠利は江戸で発病して激しく痩せ、登城さえできない有様になった。十月半ばから鎌倉で療養生活に入ったが、十一月四日江戸に戻った。すると、天草島原に反乱勃発の報があって、江戸は大騒ぎになった。幕府は十一月九日に反乱鎮圧上使に板倉重昌らを任命した。忠利の嫡子・光尚にも帰国の命が下った。忠利は病気どころではなくなった。
 反乱を重く見た幕府は、十一月下旬、重ねて鎮圧上使として松平信綱・戸田氏鉄を派遣した。年が明けて一月十二日西国大名に参陣命令が下り、忠利も九州へ発進、同月二十六日には有馬に着陣した。戦陣で忠利は数万の細川隊を指揮した。二月末に原城が落ち、戦闘は終った。忠利は熊本へ帰り、嫡子・光尚は報告のため江戸へ向かう。忠利は五月に家臣の論功行賞を行った。それとともに戦費をはじめ膨大な戦後処理の仕事があった。しかし忠利の体調は思わしくなかった。先年江戸にいたとき起きたのと同じ症状であった。
 忠利が再び江戸へ出府したのは、翌寛永十六年三月である。このときから翌年五月まで、忠利が江戸に居たのは既述の通り。寛永十七年六月中旬熊本へ帰還。これと前後して父の三斎も帰国し、八代へ落ち着いた。この年の後半は、忠利はこの十年来なく体調がよかった。暮には雪の日にも鷹狩りをするほどだった。これは、武蔵が肥後にやって来て客分として滞在するようになった頃である。
 年が明けて寛永十八年正月、忠利は発作が起きて病に倒れた。舌がすくみ手足が痺れるという症状もある。三斎は気がかりで、京都から医師を呼ぶ手配をしようと書いて寄こしたが、忠利はことさら元気な風を返事に書いている。しかし三月に入ると下血が続くようになった。
 絶筆として有名な光尚宛忠利書状は、何とかして二十日には江戸へ発ちたい、田舎では療養もできないから、できれば参府したいと思う、と述べているが、すでに手が萎えて、花押を記すこともできなくなっている。そうして、三月十四日夜、病状急変、そのまま十七日に死去した。享年五十六歳である。
 こうしてみると、寛永十八年二月という時期には、忠利は病床にあったようである。あれこれ手紙も書いているから、まだ重篤というほどではない。したがって、病床の気晴らしに、武蔵に兵法書を書いてくれないかと頼むほどの気力はあっただろう。しかし、それは可能性のことで、実際に忠利が武蔵にこれを頼んだかどうか、それは不明である。
 以上のような背景状況を勘案すれば、「寛永十八年二月」という兵法書の日付は、疑問に付すべきであろう。言い換えれば、寺尾求馬助奥書を根拠に、本文に後世記入された日付なのである。すなわち、この兵法書が「師伝の書」として求馬助の道統に伝承されるうちに、これを忠利と関係づけるより具体的な証拠として、こうした日付特定の作為を生じたのであろう。
 ともあれ、以上のことは、『武公伝』が記した三十九箇条兵法書の伝説に寄り添って、それを検証してみたたまでのことである。もとより、我々の所見では、五輪書以前に書かれた兵法書が存在するということ自体が、信憑性のない伝説なのである。
 なぜなら、五輪書の冒頭には、「兵法の道、二天一流と号し、長年鍛練してきたことを、始めて書物に顕さんと思う」とあり、これをふくめて五輪書には再三、武蔵が兵法論を書物に書くのはこれが初めてだという記述があるからである。
 五輪書は武蔵の著述であり、何は差し置いても、武蔵事蹟の一次史料である。これ以上のもの他にははない。したがって、その五輪書に、一度ならず、再三にわたって、兵法論を書物に書くのは初めてだと書かれている以上、五輪書以前には「書物」としての兵法書は、武蔵には存在しないのである。  「書物」としての兵法書は五輪書がはじめてだとしても、もちろん、口頭での教説はあっただろう。釈尊や孔子に限らず、著作のない思想家の例は多い。武蔵はそのようなスタイルで通してきたが、死を前にして、寛永二十年十月に、書物としての兵法書を執筆し始めた。それが初めての書物著作だと、五輪書に再三述べているのである。
 とすれば、五輪書以前に書かれ、しかも細川忠利に献呈されたという兵法書など、そもそも始めから存在しないのである。それを作り出したのは後世の伝説である。それを記す史料としては、この『武公伝』が最初である。このことから、十八世紀前半には、すでにそのような伝説が成立していたということが知れるのである。
 問題は、『武公伝』の伝説を鵜呑みにし、また三十九箇条であれ三十五箇条であれ、その後世武蔵に仮託された文書の奥書を、ナイーヴにも信じるという、今日なお残存する傾向である。こうした史料批判の欠落した信憑は、もとより研究以前の問題である。そういうレベルに低迷しているのが、現今の武蔵研究である。
 五輪書にあれほどまでに明言してしていることを見ない。その真実は明白であるにも関わらず、おのれの先入見を去ることができない。そういう研究者が多すぎるのである。  Go Back




二天一流秘伝 熊本県立図書館蔵
三十九ヶ条版兵法書 序文


*【寺尾求馬助奥書】
《此書タル事、玄信先生、若年ヨリ此道ニ志シ、諸能諸藝ニ渡リ、其道々ニオヒテモ、兵法ノ道理ヲ以テ其道ノ得、道ヲ得、天下ニ名ヲ發スル兵法者ニ打勝チ、其後日本國於所々、對兵法之達者、眞劔木刀ノ勝負六十余度ニ及ト云共、一度モ不失其利。弥深遠ニ至ラント、朝鍛夕練シテ、歳五十ニシテ直通至極ニ到リ、是ヨリシテハ尋入ベキ理モナク光陰ヲ送ル。此時マデハ兵法ノ書タル事ヲ不顕也。于茲、前肥之太守苧ム忠利公、此道数寄玉フ故、諸流ノ兵法稽古シ玉ヒテ、其比天下無双ノ聞へアル劔術ノ兵法、柳生但馬守一流ノ奥義ヲ極メラレ、恐ラクハ此理ニ誰カ如ク者アラント自賛シ玉ヒ、先生〔武蔵〕ト刀ヲクラベラルヽニ、一度モ利ナシ。因茲初テ驚テ、兵法ヲ先生ニ尋玉フ。先生ノ曰、兵法ノ心、何レノ流ニヨラズ、至誠ノ道ハ、我ナス所ニ隨ハザレバ、非眞道。公曰、吾不敏ナリト云共、此道ヲ傳受セント。因茲、初テ此書ヲ作、奉授與、公ニ兵法ノ道ヲ説。公幸ニ兵法ノ智在ニヨリ、即時ニ道理通達シ、吾若年ヨリ劔術ニ志シ、諸流ヲ試ミ鍛練セシ事、一ツモ眞ノ道ニアラズ。多年ノ修行、此ニ敗シ、無トスル哉ト、感ジ悦ビ玉フ事不斜》





細川忠利像




柳川古文書館蔵
嶋原御陣図







永青文庫蔵
細川忠利絶筆書状

*【光尚宛忠利書状】
《右のてくびより、手なへ申すばかりに候。しに申すべき様にはこれなく候。心安かるべく候。以上》(書状裏面書付)



熊本市立図書館蔵
野田派伝書
三十九ヶ条版兵法書諸本
寛永18年2月朔日の日付



*【五輪書】
《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ。時寛永二十年十月上旬の比》(地之巻・自序)
《右、一流の兵(地之巻)法の道、(中略)多分一分の兵法として世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、これ五巻なり》(地之巻・後書)
《右、書付る所、一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ、云顕し置もの也。今始て此利を記すものなれば、跡先と書紛るゝ心ありて、こまやかには、いひわけがたし》(火之巻・後書)



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