*【長岡(松井)家略系図】
○康之┬興之
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└興長=寄之┬直之┐
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└正之│
┌──────────┘
├寿之┬豊之┬営之┬徴之→
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└祐之├直峯└庸之└誠之
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└弘之
*【豊田氏先祖附】 正剛 《祖父豊田又四郎正剛は、右豊田専右衛門嫡子ニて、初名杢平と申候。貞享三年五月直之公御側被召出、同年十一月勤方被為叶御意候旨ニて、御小袖被為拝領、同四年七月寿之公御部屋え被成御附、元禄元年三月額を直候節、寿之公御前え被召出、御小柚被為拝領、同年十二月執前髪候様被仰付、寿之公於御前長御上下被為拝領、御中小姓被召加、同二年閨正月直之公御側被召返、同三年七月御納戸方・御書方御書物支配御取次役、御側御番等も被仰付、同五年三月直之公御参府の節御供被仰付、同六月於江戸御帷子被為拝領候。然処同十月上旬より直之公御大病ニ付、御遺書御調被遊候得共、御直被遊候所御座候ニ付、執筆被仰付、同十二月御遺骸の御供仕罷下申候。同七年三月家督無相違被為拝領、御馬乗組被召加、同九年七月御目付役被仰付、同十年六月騎馬早打ニて宇土え被差越御用相勤申候。同十二年六月名を又四郎と改候様ニ被仰付、同十三年十二月寿之公熊本御出府御留守中、桂光院様御部屋出火ニ付、騎馬早打ニて熊本え罷出言上仕候。同十五年十二月御目付役被指除、式台御番被仰付、同十六年正月騎馬早打ニて宇土え御使者被仰付、宝永二年六月御作事奉行被仰付、正徳元年十二月御役料現米七石被為拝領、其比壱人役ニて相勤申候。同四年二月御奉行役被仰付、同五年十月宣紀公御光駕の節、御目見被仰付白銀弐枚被為拝領候。享保十一年六月為御加増五拾石被為拝領、同十二年閏正月御用人被仰付、同十三年十月豊之公武蔵流兵法御稽古被遊候付、御指南申上候様被仰付、九曜御紋付御上下被為拝領候。同十七年十月癰腫〔ようしゅ・腫れ物〕相煩候節、鶴田桑庵・野田玄悦両人を熊本より被召寄、後藤宇大夫をも被差添人参等被為拝領、段々御懇ニ被仰付候処、同十二月御役儀被差除隠居被仰付候。其後名を橋津卜川と改申候。延享二年二月寿之公御卒去被遊候節、為御遺物御硯の台被為拝領、今以所持仕候。寛延二年八月病死仕候》
*【豊田氏先祖附】 正脩 《亡父橋津彦兵衛[正脩]は、豊田又四郎子ニて、初名豊田助三郎と申候。豊之公御代享保八年十一月御中小姓被召出、御切米八石三人扶持被為拝領、同十五年八月別禄弐拾石御役料現米五石被為拝領、御小姓頭役被仰付、同十七年十二月父又四郎隠居被仰付、家督無相違御知行百五拾石被為拝領、御者頭列ニて御式台御番被仰付、元文二年二月名字橋津と改申候。同十月寿之公御部屋御小姓頭被仰付、同三年十一月宗孝公御光駕の節御目見被仰付候。右御光駕の以前浜御茶屋御腰懸出来ニ付支配被仰付、数日出精相勤候由ニて、従豊之公為御褒美金子百疋被為拝領、従寿之公於御前御小袖被為拝領候。同年十一月座配持懸ニて御作事奉行被仰付、同五年二月又々寿之公御附被仰付、同七月御作事奉行帰役被仰付、寛保二年四月御役儀被差除、御馬乗組被召加、同年七月上原儀兵衛組足軽松田弥之助殺害ニ付、御穿鑿奉行被仰付、右儀兵衛同役ニて数日相勤申候。寛延元年正月奉公人支配被仰付、宝暦元年三月御町奉行役被仰付、名を平左衛門、後彦兵衛と改申候》
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このころのことだが、豊田高達の息子・正剛は、十五歳のとき長岡直之に召出され児小姓、十七歳のとき元服、中小姓組に配属された。翌年(元禄二年)閨正月、直之の側に召返され再度直之の近習になった。以後、直之の側に仕え、元禄五年(1692)直之が江戸で病死したときも側にいて、遺書を書くのを手伝うまでしていたのである。
『武公伝』によれば、長岡直之は寺尾孫之允門弟に数えられているから、若い頃、寺尾孫之允に学んだようである。また、直之は兵法書注解を書いたらしく、直之近習であった豊田正剛は、直之が書いた著書を写させてもらっている。
『武公伝』の記事では、豊田正剛は道家平蔵の門弟であったという。道家平蔵は寺尾求馬助の弟子である。先祖附によれば、道家平蔵は元禄四年(1691)家督相続して二百石、以後正徳二年(1712)病死するまで、諸役を勤めた。豊田正剛が道家平蔵に学んだとすれば、直之に召出された後の十代からであろう。この頃は、正剛は熊本に居たようだから、道家平蔵に学ぶことができたであろう。なお、道家平蔵の父・角左衛門は、武蔵に直接学んだ人であり、彼が言い伝えたという話が『武公伝』にいくつか収録されている。
直之の死後、正剛は寿之に仕えた。元禄七年(1694)三月、高達は病気で隠居して、二十三歳の正剛は家督知行百石を相続した。正剛は、御馬乗組に配属された。翌年、高達は病死した。その後正剛は諸役を勤め、作事奉行をしていたころ、宝永三年(1706)三十五歳の正剛に嫡男が生まれた。これが正脩である。
宝永四年(1707)正剛三十六歳のとき書いた「二天一流兵法書序鈔」という注釈書がある。正剛で興味深いのはその文才であり、武蔵流兵法伝書の研究者であったことだ。言い換えれば、正剛はもっとも早期の武蔵研究者であった。
あるいは、正剛に収集熱があり、『武公伝』によれば、豊田家に、五輪書序、武公奥書、寺尾孫之允ヘの相伝書、自誓書、あるいは武蔵の書画作品などがあるという。これらは、正剛の蒐集によるものであろう。
これまでの武蔵研究では、豊田正剛が『武公伝』のもとになる聞書を遺した、とは述べているが、それ以外のことは知らず書けずという有様であった。豊田正剛が遺したのは聞書だけだと思っていると、それは大きな間違いである。
豊田正剛は早期に現れた武蔵研究者であり、彼は自覚的に武蔵関連の文物を収集していた。言い換えれば、正剛の聞書は、武蔵に関する情報収集の一端であったと思われる。正剛は、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』の著者・立花峯均(1671〜1745)と同じ世代である。おそらくこの世代に、武蔵研究に向わせる共通の時代背景があったのである。
ただし、それだけではなく、武蔵死後半世紀もたった元禄の頃には、肥後の武蔵流兵法は師範役から遠ざけられて久しく、柳生流はじめ他流派に対し明らかに劣勢であった。そのような冬の時代に、豊田正剛のこうした仕事があったことは、ある意味で解るような気がするのである。
正徳二年(1712)春、正剛四十一歳のとき、小倉の商人で村屋勘八郎という者が八代に来て、正剛はこの者から興味深い話を聞いた。それは巌流島決闘の話で、それまで正剛が知っていた肥後の伝説とは違って、微に入り細に入る詳しい話であった。
正剛は晩年聞書をまとめるとき、それを収録した。これが後に『武公伝』に取込まれて一連の物語となり、さらにそれが改訂され『二天記』に収録されることによって、今日でさえ支配的な巌流島決闘伝説になったのである。
正徳四年(1714)、四十七歳の長岡寿之が隠居した。嫡子・豊之(1704〜71)が十一歳で家督相続。隠居の寿之はその後三十年以上も存命であった。享保八年(1723)正剛の嫡子・正脩は十八歳で、中小姓に召出され、切米八石三人扶持。正剛はすでに五十二歳。跡継息子の正脩も出仕するようになったのである。享保十一年(1726)正剛五十五歳の年、五十石を加増されて、都合知行百五十石になった。翌年正剛は御用人になり、これが正剛の奉公履歴の到達点である。
享保十三年(1728)正剛は五十七歳、主人の豊之が武蔵流兵法を稽古したいというので、豊田正剛は指南を命じられ、そのさい九曜御紋付御上下を拝領したという。「武蔵流兵法」と、ここにあるのが気になる人もあろう。肥後なら「二天一流」ではないかと。しかし、それは現代の先入見からする勘違いである。肥後でも武蔵の流儀は、一般には「武蔵流兵法」である。「二天一流」もしくは「二天流」というのは流派内部での呼称である。
先祖附に、豊田正剛が豊之に武蔵流兵法を教えたとあることから、正剛が豊之の師範役になったと錯覚する者があるが、それは誤りである。先祖附には正剛が師範役になったという記事はない。師範役は公的な役儀だから、それがあれば、師役を拝命した、役料はいくら、などと先祖附に記すものである。正剛のこのケースは、豊之に武蔵流を指南するという栄誉にあずかり、紋付上下を頂戴した、というにすぎない。
これは、継続的な師範役ではなく、豊田正剛が武蔵研究者であり、武蔵流兵法に詳しい正剛が、一種の文化伝承者として、若殿らにこれを教えたというのが実態であろう。
享保十七年(1732)正剛六十一歳、腫物を煩い隠居、号は卜川。これにより、嫡子・正脩二十七歳、父の家督知行百五十石を相続した。元文二年(1737)、苗字を橋津と改める。これは、正剛弟の正敬も橋津姓に変えているから、正脩家だけのことではない。おそらく、隠居卜川(正剛)の意向であろうが、このあたりの経緯は不明である。これ以後三十年ばかり、明和三年(1766)孫の景英が復姓するまで、豊田氏は橋津姓を名のることになる。「豊田氏三世」とはいうものの、その間の長期にわたって橋津姓であった。
正脩は家督相続後諸役を勤め、主家の隠居である冬山(寿之)の側勤めもしている。元文七年(1742)正脩三十五歳のこの年、作事奉行の正脩に次男が生まれた。長男がいたが病弱のため、次男がのちに嫡子となった。これが豊田景英である。
延享二年(1745)、隠居の冬山(寿之)が死去、享年七十八歳である。七十四歳の橋津卜川(正剛)は、冬山遺物として硯台を拝領。正剛は十五歳で直之に召出されて、翌年の貞享四年(1687)、正剛十六歳で直之嫡子・寿之の御部屋附となって以来、この主従は五十八年の長い関係であった。
寛延元年(1748)正脩は奉公人支配に任命される。その翌年、寛延二年(1749)、父の正剛が病死した。享年七十八歳。正脩が四十四歳のときである。のちに正脩は、父の遺品の本箱から、聞書を発掘した。それを読んで、武蔵伝記を書こうと思い立った。
宝暦五年(1755)正脩は五十歳。この年の二月の日付をもつ文書、すなわち、『二天記』冒頭所収の「凡例」がある。この文書について言うべきは上記の通りである。署名は「橋八水」とあり、これが橋津八水であり、その八水号の時期については疑義があるのも、既述のごとくである。
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