【註 解】
(1)兵法の病と云物になる也
目付〔めつけ〕とは、現代日常語でも「目の付けどころ」というが、注意・注視点のことである。
この場合、もちろん太刀での戦闘であるから、相手の心の動きや身体の動き全体に注意して戦うのは言うまでもない。が、それでは教えの具体性に欠けると思われたのか、具体的にどこに注意/注視すべきかを教えた。
現代剣道でも、相手の切先と拳に注意しろと言ったり、他には相手の目の動き、肩の動きに注意しろとも言う。動作の起こり、攻撃意志の起動がどこに表出されやすいかを教えるのである。
周知の通り、縄田忠雄『剣道の理論と実際』(六盟館 昭和十三年)では、目付けを八つ提示している――「二星の目付」(二星、両目)、「谷の目付」(目の色とともに顔つき、表情)、「二つの目付」(剣の切先と拳)、「楓の目付」(切先と拳のうちでも、とくに拳を「楓の目付」という)、「蛙の目付」(肩の表情)、「遠山の目付」(遠くの山を見るがごとく、相手の搆え全体を見る)、「有無の目付」(相手の全体を見て心底を見抜く)、「観見二つの視様」(相手の動きの全体と部分が自然に目に入るように見る)。
さて、武蔵の教えに目を向ければ、――その流派により、敵の太刀に目を付けるものもあり、または手に目を付けるものもある。あるいは顔に目をつけ、あるいは足などに目を付けるものもある――という。そうしてみると、太刀(切先)、手(拳)、顔については共通するところがあるが、足については現代剣道では目付けを言わないらしい。
ともあれ、武蔵は、目付そのものに対し否定的である。つまり、そのように、目や顔や切先や手といった特定部位に、とくに目を付けようとするのは、まぎれる(大事なことを見失う)心があって、「兵法の病」というものになる、――というのである。いわば兵法の症候群である。
どうして兵法の病になるのか。そのわけは、二つの例えで示される。
一つはこうだ。――蹴鞠の上手は、鞠によく目を付けないけれど、さまざまな曲芸をして自由自在に蹴る。ものごとに慣れるというところがあるのだから、蹴り慣れていれば、しっかり鞠を見るまでもないのである、云々。この話は、現代の蹴鞠たるサッカーのことを想起すればいい。
蹴鞠は古代からの遊戯であった。蹴鞠については、難波・飛鳥井両系統や、御子左流や賀茂流の伝承がある。戦国期から武蔵の時代まで、能と並んで武将に人気があった遊戯である。
織豊期の記録として興味深いルイス・フロイス(1532〜97)の「日本覚書」のなかに、「我々の間では球戯は手でする。日本人は足を使って遊ぶ」という記事がある。これは蹴鞠のことで、当時ヨーロッパではまだ蹴球技はなかったらしい。
武蔵には蹴鞠の逸話がある。それは、当流七代の丹羽信英が越後で書いた『兵法先師伝記』にみえるところである。――筑前の箱崎宮へ参詣した武蔵が、門前で鞠を借り受けて、鞠を蹴って楼門を飛び越し、武蔵は宮内にすばやく入って、拝殿の前でその鞠を片膝折って受けとめた。その話を聞いた鞠の名人が、それはすごいと感嘆した――という話。
なお、この部分について注意が必要なのは、「びんずり」「おひまり」という語である。武蔵がここで例に挙げているのは、「鬢ずり」「負鞠」という蹴鞠の技名である。おそらく飛鳥井流、御子左流、あるいは賀茂流の曲足のことであろう。江戸中期の難波宗城(1724〜1805)の『蹴鞠名足類聚』でその名を確認できるところをみると、もちろんそれより早い江戸初期の武蔵の時代では、流行の技であったかもしれぬ。
ただし、武蔵の時代には、蹴鞠の曲足が大道芸になっていたふしもある。時代は下がるが、松浦静山『甲子夜話』には、浅草の蹴鞠芸人の話が出ているが、負鞠は、高く蹴上げた鞠を背中で受け止め、その鞠を背中でポンポン跳ねさせる芸である。他には、蹴り上げた鞠を体で受け、襷を掛けるように体に添わせて鞠を転がす「襷掛」、蹴り上げて落ちてくる鞠を肩で受けとめて腕の方へ流し、またこれを跳ね上げて額の上で弾ませ、さらに頭頂部でも衝いて鞠を跳ねさせる「八重桜」という業、その他、右足で鞠を蹴上げながら左足の足袋を脱ぐ「足袋脱」、鞠を蹴上げながら紙に字を書く「文字書」、鞠を蹴上げながら乱杭の上を渡る「乱杭渡」等々の曲芸を記録している。蹴鞠芸人にはこれに類似にいろいろな業があったものらしい。
武蔵が、もう一つ挙げているのは、「ほうか」(放下)という曲芸のことである。
もともと「放下」は、仏教語である。放下は「ほうげ」と読み、諸縁を捨てて執着しないことを言う。日本の仏教習俗に「放下僧」があるが、これは、曲手毬や輪鼓を操る芸人のこと、もとは諸国を回って法を説き、人寄せにさまざまな芸を見せた説教僧である。仏僧と芸能は大衆的次元では容易に混淆した。
武蔵がこの放下の例を挙げるについては、謡曲「放下僧」のことも念頭にあったと思われる。それよりも、五輪書の説き方としては、当時だれでも知っているこうした大衆芸能にことよせて、分かりやすい話をしているということである。
先の蹴鞠の例と同じく、ここでも武蔵は――曲芸などする者の術〔わざ〕でも、その道に慣れると、扉を鼻先に立て、刀を何本も手玉にとるなどするが、これはすべて、確かに目を付けることはない。ふだん手に慣れているから、おのづから見えるのである――と語る。
特定の身体部位に目付をしろと教えることに対しては、武蔵は批判的である。
この箇処に関して、語釈の問題がある。それは、やはり、
《びんずりをけ、おひまりをしながしても、けまわりても》
とある箇処である。この「びんずり」「おひまり」については、上述のごとく、蹴鞠の技名であることを知っておかねばならない。
この部分に関連することでは、――岩波版に、「おいまりをしながしてもけ、まわりてもける事」という具合に句読点を入れて読ませているが、これは不適切な作為である。
これでは、負鞠を背中で仕流しても蹴り、ということになって、何のことだか意味不明である。これは、「おいまり」を「追い鞠」と錯覚したらしく、鞠を追って蹴りまわるものと誤解釈に及んだものらしい。ただし、戦前の石田外茂一訳を見れば、同じ句切りをしており、この岩波版の句読点は、戦前からの読み方を、何の考えもなくそのまま踏襲したものと思われる。
ところで、この部分は、「びんずり」「おひまり」など、見慣れない蹴鞠用語があって、従来から問題の部分である。だれもこれまで正しい語訳をしたことがないという、いわくつきの箇所なのである。
戦後の現代語訳を見ると、案の定、神子訳は、語の意味が解らなかったとみえて、語訳から逃げ、何の断りもなしに、右掲のごとき省略訳文を出している。このように神子が翻訳から逃走してしまったので、神子訳以後の大河内訳も鎌田訳も、詮方なく、ご覧のとおり、不細工な反復を演じている。
こうした訳者の振舞いは、細川家本を底本とすると称する以上、テクストと読者に対し不誠実な仕儀である。これに対し、昔の石田訳は(間違いながら)一応、一字一句訳そうとしている点、まだ誠実な訳文であろう。
もちろん、石田訳が「追ひ鞠をし流しても蹴り、廻っても蹴る」としたのは誤訳である。ここは我々の語訳のように、「負鞠を背中で仕流しても、蹴りまわっても」とすべきところである。
この箇所もそうだが、我々の語訳を除いては、現代語訳にはまともなものがない、というありさまである。
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○此条諸本参照 → 異本集

武蔵像

蹴鞠奉納 藤森神社 京都市伏見区深草鳥居崎町
*【兵法先師伝記】
《先師小倉ニ居ラレシ時、筑前ノ國ヘモ來リテ博多ノ津ニ逗留セラレ、大宰府天満宮ニモ参詣有、箱崎八幡宮ヘモ度々參詣アリシトゾ。此八幡宮ハ本ヨリ故有社ニテ、今筑前ノ一ノ宮ナリ。樓門ハ小早川隆景卿ノ造立ニテ、其高サ數丈ナリ。先師或時又參詣アリシニ、社僧樓門辺ニテ鞠ヲケテ居タリケルニ、先師其鞠ヲ乞借テ、樓門ノ前ニ行、高足ニ鞠ヲアゲテ、樓門ヲ越サセ、静ニ入リテ、拜殿前ニテ片膝ヲ折シキ、其鞠ヲ止メラレケルトゾ。今筑前ノ鞠役ノ者三木惠次郎トテ、鞠ヲヨク蹴ル者アリ。先師樓門ヲ蹴コサレケルトテ、惠二郎、先師ノ事大ニ感ジタリケル》

謡曲「放下僧」 下野国の牧野兄弟は放下僧に 身をやつして父の仇を探す
ツレ「某がきつと案じ出したる事の候。この頃人の玩び候ふは放下にて候ふ程に。某は放下になり候ふべし。御身は放下僧に御なり候へ。彼の者禅法に好きたる由申し候ふ程に。禅法を仰せられうずるにて候。

祇園祭山鉾「放下鉾」 京都市京区新町通四条上ル 鉾の名は「天王座」に放下僧の 像を祀るのに由来する
*【現代語訳事例】
《蹴鞠をする人は、鞠に目を付けてゐないけれども、ひんすりを蹴り、追ひ鞠をし流しても蹴り、廻っても蹴る》(石田外茂一訳)
《蹴鞠をする人は、鞠に目を付けているわけではないのに、さまざまな蹴鞠の技法において、たくみに蹴ることができる》(神子侃訳)
《鞠をける人は、鞠に目をつけているわけではないのに、さまざまな難しい鞠を、巧みに蹴ることができる》(大河内昭爾訳)
《鞠をける人は、鞠に目をつけていないのに、難しい蹴鞠の曲足を、たくみに蹴ることができる》(鎌田茂雄訳)
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