それゆえ、戦前流行した「剣禅一如」の発想は、武蔵的ではない。それは近代になって発生した一種のイデオロギー的解釈にすぎない。この空之巻で明らかなように、武蔵は「禅」を語ったのではなく「空」を語ったのである。「剣禅一如」とは、武蔵の戦闘思想の逆行である。せっかく武蔵が周到に脱色したのに、それを禅仏教に戻しては、五輪書の思想史的地歩が台無しである。
言い換えれば、空というこのリアルな深淵は、行為によって顕現するものであるとすれば、そこには知の彼岸としての倫理的次元が露頭していなければならない。要するに、リアルな真理、リアルなもの(the Real)としての空である。
それに対し、右掲の柳生宗矩の「空と云ふ事、仏法の眼也」の方は、どうであろうか。先に引用した部分に続いて語られた部分であるが、「空」とは、前述のごとく隠し言葉でもあって、「剣禅一如」を珍重にしたがる近代人の「心」をぶち壊しにするものである。そのかぎりにおいて、これは評価すべき文言なのである。
心のうごかぬは空也、空のうごくは心也。――とするところは、例の不動心であるが、ご本家の沢庵宗彭『不動智神妙録』においては、不動智とは、一心の動かぬところを云い、心を動転せぬことだ、動転せぬとは、物に心をとどめぬことだとする。
これは『金剛般若経』の、「応無所住而生其心」〔おうむしょじゅうじ(に)しょうごしん〕――まさに住する所無くして、その心を生ず――というテーゼの改版に他ならない。要するに、「応無所住而生其心」とは、仏教教学のスコラ哲学、またその厖大な思弁の書庫とは無縁なところでの、「心を執着から解き放て」というシンプルな教えに他ならない。これに対し沢庵は、《留ればうごき候。とまらぬ心は動かぬにて候》といった逆説を語って、洗練を示すのである。
「空」というのが究極曖昧であれば、『二入四行論』『絶観論』以来の「無心」という概念に倚って語ってもよかろう。すなわち、沢庵流に言えば、無心とは、
《どつこにも置かぬ心なり。石か木かの様にてはなし、留る所なきを無心と申すなり。留まれば心に物があり、留まる所なければ心に何も無し。心に何もなきを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候。此の無心の心に能くなりぬれば、一事に止らず一事に欠かず、常に水の湛へたるやうにして、此の身に在りて用の向ふ時出でて叶ふなり。一所に定り留りたる心は、自由に働かぬなり》(不動智神妙録)
という次第である。無心の心とは言え、一貫して無所住の自由である。おそらくこの部分を指して、鈴木大拙は以下のように英文で書いている。いきなり異国語になってしまうが、母国語でさえも難解な概念を、異国語で紹介した大拙の意気を見てみよう。すなわち、
In this letter to the great master of sword manship, Takuan strongly emphasizes the significance of mushin, which may be regarded in a way as corresponding to the concept of the unconscious. Psychologically speaking, this state of mind gives itself up unreservedly to an unknown "power" that comes to one from nowhere and yet seems strong enough to posses the whole field of consciousness and make it work for the unknown. Hereby he becomes a kind of automaton, so to speak, as far as his own consciousness is concerned. But, as Takuan explains, it ought not to be confused with the helpless passivity of an inorganic thing, such as a piece of rock or a block of wood. He is "unconsciously conscious" or "consciously unconscious." With this preliminary remark, the following instruction of Takuan will become intelligible. (Daisetz T. Suzuki, Zen and Japanese Culture; New York, Princeton University Press 1959)
日本語訳文(北川桃雄訳)は右掲のごとくで、上記原文とはかなり違う。これは、北川訳が一九三八年の大谷大学版に拠っているためであろう。とくに「此目も昏むばかりの逆説以外に、此心的状態を敍述する道はない」といったやや大仰な表現は戦後のプリンストン大学版英文にはない。
しかし、「無意識に意識する」と逆説のかたちでしか言えないのだが、それよりも、無心を「無意識(的なもの)」(the unconscious)というものに対応させてしまうのは、いかがなものか。無意識(的なもの)という概念は、言うまでもなく通俗精神分析によって至極手垢にまみれたもので、この対応づけには難点があるはずである。
どうせ異国には見慣れぬ「無心」という概念である。直訳して《no-mind》で押し通すか、我々の用語のように、これを造語して《deconsciousness》とでもしておけばよかったのである。
ともあれ、ここで鈴木大拙を出したのは、本書の東洋神秘主義風な紹介を好んだせいではなく、また本書で宮本武蔵の名を出しているからでもなく、我々がここにある、極めて興味深い一語に注意を惹かれたからである。すなわち、それは――《automaton》という語にほかならない。
オートマトンとは、自動的に作動するものの謂である。自動人形とあるが、自動装置の意である。我々なら、大拙のいうオートマトンを、さらに「戦闘機械」(fighting machine)とするところである。無心とは、そんな自動的に作動するオートマトンになってしまうことだ。これは本来の意味からすると、一見、極めて逸脱した意味であるようだが、実はそうではない。十分「無心」を知っている者にして、はじめて述べうる説明である。
武蔵の教えから、すでに見たところから拾えば、水之巻「無念無相の打ちと云事」に、こういう話があった。すなわち、――敵も打ち出そうとし、自分も打ち出そうと思う時、身も打つ身になり心も打つ心になって、手はいつとなく空〔くう〕から遅ればせに強く打つこと。これが無念無相といって、重要な打ちである。この打ちは度々使える打ちである、云々と。
これが武蔵流のオートマトンの姿である。要するに、武蔵流の空とは何かと問われたとき、我々の応答は、この水之巻「無念無相の打ちと云事」を示して、自動的に作動する戦闘機械になることだ、とするのである。
ここまで来て、水之巻に戻っているのだから、さらにもっと初心の教えに回帰してよかろう。すなわち、同じ水之巻の初めにある教えである。
《兵法の道において、心の持ち方は、常の心と変ることがないように。常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにして、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず少しもたるまず、心の偏らぬように心をまん中に置いて、心を静かにゆるがせて、そのゆらぎの刹那も、ゆらぎやまないようにすること》(兵法心持の事)
空之巻まで読み進んで、我々が驚くべきは、要諦ともいえるこうした教えが初歩の初歩に語られていたことである。太刀の持ち方を教える以前に、この心持の事が提示されていたのである。
繰り返せば、先に地之巻で《すでに空という時は、何を「奥」と云い何を「入口」と云うのか、そんな区別などありはしない。道理を得てしまえば、道理を離れ自由になる》と述べられていたのである。
我々の読んできた五輪書のプロセスはループを描き、かくして、禅家のしばしば描くところの「一円相」――というよりも、むしろ二つのねじれた輪環を描くもののごとくである。
いわば、ここで五輪書の構造体としてのウロボロスは、二体のものとなり、あるいは太極図の陰陽二元のからみ合った「二天」一流の、そのトポロジカルな構造を現出するのである。

Ouroboros
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太極図
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*【兵法家伝書】
《空と云ふ事、仏法の眼也。空に、虚空と真空との差別あり。虚はいつはりとよむ、真はまこととよむ。然れば、虚空とはいつはりむなしき空にて、何もなき事のたとへに引く也。真空とは、真実の空也。即ち心空也。心はかたちなき事は、虚空のごとくなれ共、一心は此身の主人にて、よろづのわざをする事、皆心にあり。其心うごきてはたらく事、心のする所也。心のうごかぬは空也。空のうごくは心也。空がうごひて、心となりて手足へはたらく也。太刀をにぎつたる拳のうごかぬ時、はやうつ程に、空をうてといふ也》(捧心の心持の事)
*【不動智神妙録】
《然ば不動智と申すも人の一心の動かぬ所を申し候。我心を動転せぬ事にて候。動転せぬとは、物に心をとどめぬ事に候。物に心が留り候へば、色々の分別が胸に候て、的の中色々動き候。留ればうごき候。とまらぬ心は動かぬにて候》
*【金剛般若経】
《是故須菩提。諸菩薩摩訶薩応如是生浄心。不応住色生心。不応住声香味触法生心。応無所住而生其心》
*【鈴木大拙】
《澤庵はこの傑れた劍士に與へた書翰の中に、無心の一意義を極めて強調してゐる。無心は、或點において、「無意識」の概念に當ると見てよい。心理的に云へば、この心の状態は絶對受動のそれで、心が惜しみなく他の「力」に身を委ねるのである。この點で、人は意識に關する限り、いはば自動人形になるのである。然し、澤庵が説くやうに、それは木石などの非有機的な物質の無感覺性及び頼りない受動性と混同してはならぬ。「無意識に意識すること」、此目も昏むばかりの逆説以外に、此心的状態を敍述する道はない》(「禪と日本文化」昭和十五年・岩波版『全集』第十一巻)

鈴木大拙 1953年フライブルクで 右の人物はあのハイデガー
*【無念無相の打と云事】
《敵もうち出さんとし、我も打ださんとおもふとき、身もうつ身になり、心も打心になつて、手は、いつとなく、空より後ばやに強く打事、是無念無相とて、一大事の打也。此打、たび/\出合打也。能々ならひ得て、鍛錬有べき儀也》(水之巻)
*【兵法心持の事】
《兵法の道におゐて、心の持様は、常の心に替る事なかれ。常にも兵法のときにも、少も替らずして、こゝろを廣く直にして、きつくひつぱらず、すこしもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中に置て、心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし》(水之巻)

白隠慧鶴筆 一円相

伝宮本武蔵作 左右海鼠透鍔
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