武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 風之巻 1  Back   Next 

他の流派の事をよく知らずしては、自らの理解は成りがたい。武蔵流兵法がいかに他と違うか、それを知るためには、世間の兵法がどんなものか知るべきである。この風之巻は、一言にしていえば稀有な他流批判である。

1 風之巻前文  (兵法、他流の道を知る事)
2 他流批判1・大太刀の流儀  (他流に大なる太刀を持つ事)
3 他流批判2・強力の太刀 (他流におゐてつよみの太刀と云事)
4 他流批判3・小太刀の流儀 (他流に短き太刀を用ゆる事)
5 他流批判4・太刀数が多い (他流に太刀かず多き事)
6 他流批判5・太刀の搆え (他流に太刀の搆を用ゆる事)
7 他流批判6・目付けのこと  (他流に目付と云ふ事)
8 他流批判7・足づかいのこと  (他流に足つかひ有る事)
9 他流批判8・早いはよいか (他の兵法に早きを用ゆる事)
10 他流批判9・奥と表 (他流に奥表と云ふ事)
11 風之巻 後書

 
   1 他流の道を知る
【原 文】

兵法、他流の道を知る事。
他の兵法の流々を書付、
風之巻として、此巻に顕す所也。
他流の道をしらずしてハ、
一流の道、慥にわきまへがたし。(1)
他の兵法を尋見るに、
大きなる太刀をとつて、強き事を専にして、
其わざをなすながれも有。
或は小太刀といひて、みじかき太刀をもつて、
道を勤むるながれも有。
或ハ、太刀かずおほくたくみ、太刀の搆を以て、
表といひ奥として、道を傳ふる流も有。
これミな實の道にあらざる事也。
此巻の奥(内*)に慥に書顕し、
善悪利非をしらする也。
我一流の道理、各別の儀也。
他の流々、藝にわたつて身すぎのためにして、
色をかざり、花をさかせ、うり物に
こしらへたるによつて、實の道にあらざる事か。
又、世の中の兵法、劔術ばかりに
ちいさく見立、太刀を振ならひ、
身をきかせて、手のかるゝ所をもつて、
勝事をわきまへたる物か。
いづれもたしかなる道にあらず。
他流の不足なる所、一々此書に書顕す也。
能々吟味して、二刀一流の利を
わきまゆべきもの也。(2)
【現代語訳】

 兵法、他流の道を知る事
 他の兵法の諸流派(のこと)を書きとめ、風之巻として、この巻にあらわすところである。
 他流派の道〔方法〕を知らずしては、我が流派の道〔方法〕をたしかに弁えることはできない。
 他(流)の兵法を尋ねて見てみると、大きな太刀を取って、強きことを専〔第一〕にして、その業をなす流派もある。あるいは、小太刀といって、短い太刀をもって修行する流派もある。あるいは、太刀数を多く案出して、太刀の搆えをもって、「表」といい「奥」として、道〔流儀〕を伝える流派もある。
 これらはすべて、真実の道にあらざることである。
 (それを)この巻のなかに明確に書きあらわし、(諸流派の)善悪理非を教えよう。我が流派の道理は、(それらとは)まったく違うのである。
 他の諸流派は、武芸で世渡りし身すぎ〔生計〕のためにして、見た目を飾り、派手にして、売物にこしらえたものであるから、真実の道ではありえないことか。また、世の中の兵法は、剣術のみに小さく見立て、太刀を振り習い、身体をうまく動かし、手を駆使するところをもって、勝つ事をわきまえたものか。
 いづれにしても(それらは)たしかな(間違いのない)道ではない。
 (そのような)他流派の短所を、一つひとつ(挙げて)この書に書きあらわすのである。よくよく吟味して、(我が)二刀一流の利〔長所〕をわきまえるべきである。
 
  【註 解】

 (1)他流の道をしらずしては、一流の道慥わきまへがたし
 この巻は、全体が、一言でいえば他流批判である。
 前の火之巻後書において、すでに批判は開始されていた。そこでは文の終りが唐突であり、また、この風之巻冒頭に、《兵法、他流の道を知る事》とあって、他の条々では見出しと同じようであって、これまでの各巻の冒頭とは書き出しが異なる。おそらく、この前後、完成稿ではなかったと見なしうるのである。
 さて、風之巻は全体が他流批判である。しかしながら、こういう他流批判を掲載する兵法書というのも、珍しいことである。日頃、口では批判をしていながら、その言を書巻にして文字にすることは例が少なかろう。他流批判をするなという流派もある。それだけ、五輪書という書物が特異な性格を有しているということである。すでに述べたように、五輪書には状況批判がたっぷり含まれている。
 なぜ、そんな他流批判は必要なのか。「他流の道を知る事」というこの節は、それを説明して、他流派のやり方を知らずしては、我が流派のやり方を確かにわきまえることはできない、とするのである。
 言うならば、他者との差異を知ってはじめて、自身が知れるのである。自身を知るための批判である。これは他者を反面教師として自身を知ることである。
 もう一つ言えば、こうした批判は、批判のための批判ではなく、初心者のための便宜である。武蔵流が他とどう違うのか、それを教えて修学の手引きとする、ということである。
 しかしながら、こうしたことを越境して、武蔵の他流批判は、おのづから状況批判になってしまうもののようである。

――――――――――――

 ここで、校異の問題に関して指摘すべきところがある。すなわちそれは、筑前系諸本に、
《他流の道をしらずしてハ、一流の道慥わきまへがたし》
として、《一流》と記すところ、肥後系諸本には、たいてい、これを《我一流》として、「我」字を入れる。つまり、「我」字の有無という相違である。
 ただしこの「我」字については、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。富永家本には、「我」字を付けず、《一流》とする。富永家本は、肥後系の中でも早期に派生した系統の子孫である。したがって、肥後系でも早期には、《我一流》ではなく、《一流》と記した可能性がある。
 この校異については、筑前系諸本に共通して、「我」字を付さないのであるから、これまでの前例と同じく、筑前系諸本の字句を古型として採るべきである。
 また、《我一流》という語句は、後文に登場する。《我一流の道理、各別の儀也》とするところである。おそらく、それとの整合で、ここに「我」字を入れたものらしい。何れにしても、肥後系でも早期には存在せず、後に発生した肥後ローカルの異変である。肥後系現存写本の多くは、この操作以後の写本の子孫である。
 したがって、我々のテクストでは、「我」字を付さず、これを《一流》としている。しかるに、《一流》という語の現代語訳には、便宜上「我が流派」とするのである。   Go Back

○此条諸本参照 →  異本集 





*【火之巻後書】
《我若年より以來、兵法の道に心をかけ、劔術一通りの事にも、手をからし、身をからし、いろ/\さま/\の心になり、他の流々をも尋みるに、或は口にていひかこつけ、或は手にてこまかなるわざをし、人めによき様にみすると云ても、一つも實の心にあるべからず。勿論、かやうの事しならひても、身をきかせならひ、心をきかせつくる事と思へども、皆是道のやまひとなりて、のち/\迄もうせがたくして、兵法の直道、世にくち、道のすたるもとゐ也。劔術、實の道になつて、敵と戦勝事、此法聊かはる事有べからず。我兵法の智力を得て、直なる所を行ふにおゐては、勝事うたがひ有べからざるもの也》








*【吉田家本】
《他流の道をしらずしてハ、一流の道慥わきまへがたし》
*【伊丹家本】
《他流の道を知らずしてハ、一流の道慥に辨へがたし》
*【渡辺家本】
《他流の道をしらずしてハ、一流の道性わきまへがたし》
*【猿子家本】
《他流の道をしらずしてハ、一流の道慥わきまへがたし》
*【楠家本】
《他流の道をしらずしてハ、我一流の道、慥にわきまへがたし》
*【細川家本】
《他流の道をしらずしては、我一流の道、慥にわきまへがたし》
*【富永家本】
《他流の道を不知してハ、一流の道、慥にわきまへがたし》

【諸流派兵法家一覧】
 以下に、武蔵所論の時代的背景として、諸流諸祖はじめ兵法に関連する人物の一覧を掲げる。ただし、各人ほとんど事蹟不明の者が多い。よって記事は確かなものではないが、いちおうの目安と心得、参考にされたい。

名  前
生国 生没年
事   蹟
 念阿弥慈恩
  俗名相馬四郎義元
 奥州相馬(1351〜?)
 念流祖。鞍馬山の異人から、鎌倉寿福寺の神僧から
 剣の秘術を授かったという伝説的人物
 飯篠長威斎家直  下総(1387〜1488?)
 香取神道流祖。鹿島七流中興の祖
 愛州移香斎久忠  伊勢(1452〜1538)  陰流祖。日向鵜戸岩屋で神猿より伝授
 松本備前守政信  常陸(1467〜1523)  鹿島(神陰)流祖。飯篠長威斎門下
 塚原卜伝 新右衛門高幹  常陸(1490〜1571)  新当流祖。飯篠長威斎弟子塚原安幹養子
 山本勘助貞幸 道鬼  三河(1493?〜1561)  京流。鈴木流軍学。『軍法兵法記』他著述
 竹内中務大夫久盛  美作(1503〜1596)  竹内流祖。神人伝授。多種目の総合武芸
 上泉伊勢守秀綱
  のち武蔵守信綱
 上野(1508?〜1577)  新陰流祖。鹿島神陰流・陰流を学ぶ。柳生
 新陰流、疋田流、神影流、タイ捨流等派生
 富田勢源 五郎左衛門  越前(1520?〜1590?)  富田流祖。中條流を学ぶ。小太刀の名人
 川崎鑰之助時盛  越前(?〜1555)  東軍流祖。富田勢源、叡山東軍僧正から伝授
 吉岡憲法直元
   憲法直光(直元弟)
 京都(不 明)  京流。新当流末流とも。足利将軍師範。兵法所
 宮本武蔵の相手・吉岡兄弟は直光の孫か
 宝蔵院胤栄 覚善房  大和(1521〜1607)  宝蔵院流槍術祖。上泉秀綱より新陰流印可
 柳生石舟斎宗厳  大和(1529〜1606)  柳生新陰流祖。新当流・中條流を学ぶ。
 上泉秀綱から新陰流印可。
 疋田豊五郎景兼  加賀(1536?〜1605)  疋田流祖。上泉秀綱から新陰流印可
 奥山休賀斎公重  三河(1526〜1602)  神影流祖。上泉秀綱から新陰流印可
 北畠三位具教  伊勢(1528〜1576)  塚原ト伝から一太刀伝授。伊勢国司、中納言
 丸目蔵人佐長恵  肥後(1540〜1629)  タイ捨流祖。上泉秀綱から新陰流印可
 林崎甚助重信  相模(1548〜?)  神夢想林崎流祖。抜刀術創始者
 田宮対馬守重正  関東(不 明)  田宮流祖。林崎甚助に学ぶ。居合術開祖
 樋口又七郎定次  上野(1550?〜?)  馬庭念流祖。念流中興の祖
 鐘捲自斎道家  遠江(不 明)  鐘捲流祖。富田勢源弟景政門下。中太刀
 伊藤一刀斎景久  不明(1560?〜1653?)  一刀流祖。伝不明。鐘捲自斎に学ぶとも。
 門弟小野忠明以下一刀流隆盛
 東郷肥前守重位  薩摩(1562〜1643)  示現流祖。タイ捨流、自顕流印可
 富田越後守重政  加賀(1564〜1625)  富田流。富田勢源弟景政養子。名人越後
 小野次郎右衛門忠明
   神子上典膳
 上総(1565〜1628)  一刀流。伊藤一刀斎門人。将軍秀忠師範
 小笠原源信斎長治  三河(1570〜?)  真新陰流祖。奥山休賀斎印可。門下三千人
 柳生但馬守宗矩  大和(1571〜1646)  江戸柳生新陰流祖。石舟斎五男。家康に仕えて旗本
 将軍秀忠・家光師範。『兵法家伝書』他
 小幡勘兵衛景憲  甲斐(1572〜1663)  甲州流軍学祖。『甲陽軍鑑』補撰。弟子二千人
 沢庵宗彭  但馬(1573〜1645)  禅僧。東海寺開山。著述『不動智神妙録』『大阿記』
 片山伯耆守久安  美作(1575〜1650)  片山伯耆流祖。京愛宕社で神人伝授。抜刀術
 林崎甚助門人。長太刀。竹内久盛弟ともいう
 柳生兵庫助利厳  大和(1579〜1650)  尾張柳生新陰流祖。石舟斎孫。尾張徳川家師範
 新免武蔵守玄信  播磨(1584〜1645)  通称宮本武蔵。新免無二の家を継ぐも無師独覚
 兵書五巻(五輪書)著述。書画作品あり
 高田又兵衛吉次  伊賀(1590〜1661)  宝蔵院流高田派祖。宝蔵院胤栄弟子
 針ヶ谷夕雲 五郎右衛門  上野(1593〜1662)  無住心剣流祖。小笠原玄信斎より真新陰流印可
 松林左馬助 蝙也斎  常陸(1593〜1667)  願立(願流)祖。仙台伊達家師範。
 荒木又右衛門保知  伊賀(1598〜1638?)  柳生新陰流。伊賀上野鍵屋辻決闘で有名
 柳生十兵衛三厳  大和(1607〜1650)  但馬守宗矩嫡男。『月之抄』他著述
 川崎次郎太夫宗勝  武蔵(?〜1671)  東軍流中興の祖。鑰之助四世孫
 北条安房守氏長  武蔵(1609〜1670)  北条流軍学祖。甲州流軍学小幡景憲に学ぶ
 旗本。大目付。『士鑑用法』他著述
 山鹿素行 子敬
   甚五左衛門高興
 奥州会津(1622〜1685)  山鹿流兵学祖。林羅山、甲州流軍学小幡景憲に学ぶ
 『聖教要録』『中朝事実』等著述多数
 小田切一雲 恕庵  奥州会津(1630〜1706)  無住心剣流。針ヶ谷夕雲門人。『夕雲流剣術書』著述

*【諸流系統図】
 
神道流系統
 
神道流(飯篠長威斎)
 |
 ├新当流(塚原ト伝)
 | |
 │ ├ 一羽流(師岡一羽)
 | |  |
 │ │  └微塵流(根岸兎角)
 | |
 │ ├霞流(真壁暗夜軒)
 | | |
 │ │ └夢想流杖術(夢想権之助)
 | |    |
 │ │    └願立流(松林蝙也斎)
 | |
 │ ├ … 天 流(斎藤伝鬼坊)
 | |
 │ └ ……?…┐
 |     
 │ ○京八流―吉岡流(吉岡憲法)
 |
 ├鹿島神流(松本備前守)
 | |
 │ └有馬神道流(有馬大和守)
 |
 ├ …… 示現流(東郷藤兵衛)
 |
 ├ …… 心形刀流(伊庭是水軒)
 |
 └ …… 天然理心流(近藤内蔵助)
 


陰流系統
 
陰 流(愛州移香斎)
 |
 ├新陰流(上泉伊勢守)
 | |
 │ ├柳生新陰流(柳生石舟斎)
 | |
 │ ├タイ捨流(丸目蔵人佐)
 | |
 │ ├疋田流(疋田豊五郎)
 | |
 │ ├神後流(神後伊豆守)
 | |
 │ ├宝蔵院流(宝蔵院胤栄)
 | |
 │ ├ …… 神道無念流(福井兵衛門)
 | |
 │ ├ …… 浅山一伝流(浅山一伝斎)
 | |
 │ └神影流(奥山休賀斎)
 |   |
 │   └真新陰流(小笠原源信斎)
 |     |
 │     ├直心影流(山田平左衛門)
 |     |
 │     └無住心剣(針ヶ谷夕雲)
 |
 └猿飛陰流(愛州小七郎)
中条流系統
 
中条流(中条兵庫頭)
 |
 └富田流(富田九郎右衛門)
   |
   ├ … 鐘巻流(鐘巻自斎)
   |   |
   │   └ 一刀流(伊藤一刀斎)
   |      |
   │      ├小野派一刀流(小野次郎衛門)
   |      |
   │      ├伊藤派一刀流(伊藤典膳)
   |      |
   │      ├水戸派一刀流(伊藤孫兵衛)
   |      |
   │      └古籐田流(古籐田俊直)
   |
   ├心極流(長谷川宗喜)
   |
   ├ …… 鏡新明智流(桃井八郎式衛門)
   |
   └ …… 東軍流(川崎鑰之助)
念流系統
 
念 流(念阿弥慈音)
 |
 ├馬庭念流(樋口又七郎)
 |
 ├宝山流(堤山城守)
 |
 ├丹石流(衣斐丹石入道)
 |
 └ …… 二階堂流(二階堂出羽守)
 
抜刀居合系
 
神夢想林崎流(林崎甚助)
 |
 ├ 一宮流(高松勘兵衛)
 |
 ├田宮流(田宮平兵衛)
 |
 ├伯耆流(片山伯耆守久安)
 |
 └水鴎流(三間与一左衛門)
 
 (2)我一流の道理、各別の儀也
 他流にどんな流派があるのか。それを武蔵は、代表例としてまず三つにまとめている。すなわち、
・大きな太刀を取って、強きことを第一にして、その業をなす流派
・小太刀と云って、短い太刀をもって修行する流派
・太刀数を多く案出して、太刀の搆えをもって、「表」と云い「奥」と云って、道を伝える流派
 何れも慥かなる道にあらず――として、武蔵はこれから、《他流の不足あるところ、一々此書に書顯すなり》とするわけである。ここで「不足」とは現代語の「不十分」というよりも、短所、欠陥、欠点のこと、平たく言えば、ダメなところという意である。
 それを関西では、今日でも「アカン」というが、これはもとは「飽かぬ」ということ、つまり、飽き足りないという意味である。そこから、「アカン」、ダメだという語意になる。つまり、武蔵のいう「不足」も、それと同じで、「アカン」、ダメだという語意である。
 さて、《他流の不足なる所》と云って武蔵が、不足、「アカン」としてダメ出しをするところ、それが具体的にどの流派を指すのか、それは名を出さずとも、当時の人間なら読めばすぐに解ったことであろう。
 つまり、――武蔵の意向に反して、後世の読者たる利を活用して――具体的に名を挙げれば、第一の強い太刀の流派とは、鹿島・香取両社神人に発する神道流、塚原卜伝以来の新當流のそれであろうし、第二の小太刀の流派とは富田勢源の富田流、及びその流れを汲む諸流のことであろうし、あるいは第三の太刀数の多い流派とは上泉信綱に発する新陰流諸流を指しているであろうとは、一応は言える。
 しかし、武蔵が後に記すように、特定流派を批判することが問題なのではない。むしろ、諸流派に内在するさまざまな偏向を批判することが、ここでの主眼である。特定流派というよりも、武蔵にとって是非とも批判しておかねばならない偏向であり、この三つの傾向は、当時のおそらく代表的なものであろう。
 これらはすべて、真実の道ではない、と武蔵は否定する。そこが面白いところである。自説を述べるのが兵法書の普通の記述であり、ここまで具体的に批判を展開しているのは稀である。
 さて、我一流の道理、各別の儀也。――我が一流とは武蔵の流派のことである。そして、「道理」は、「無理が通れば道理が引っ込む」という場合の道理、正しいことの意もあるが、ここでは、「兵法の道の理」ということである。意訳すれば、ここでの「道理」は、「兵法論」といった限定された意味合いである。安易に現代語の「道理」とは読めない語句である。
 かくして、我一流の道の利は、他流とはまったく違うとする。では、他の流派は、いかにと見れば、兵法を世渡り身すぎのためにして、――つまり世俗的な利益のためにして、色を飾り、花を咲かせて、――つまり、見た目を飾り、派手なものにして、売物にこしらえたものだ、云々。
 これは、前にも地之巻(兵法の道と云事)で出た批判であり、ここでも反復されている。あるいは、世の中の兵法は、剣術のみに小さく見立て、――こうあるのは、剣術中心主義批判である。太刀を振り習い、身体を効かせて、手を駆使するところをもって、勝つ事をわきまえたものだ、――というのは、剣術流行の時代への批判である。
 ただし、繰り返し云うが、武蔵の批判は、個別の特定流派を批判するものではない。近世初期の当時、偃武の後に、まさに戦後に、仇花のように満開するようになってきた「剣術」というものに対する批判である。
 さまざまな流派があるということは、特定の戦法を得意とし、それを売り物にするさまざまな流儀があるということである。しかし、搆えあって搆えなしというのが武蔵の流儀であった。そのことからすれば、戦法においても、戦法あって戦法なし、臨機応変というのが武蔵流兵法なのである。
 言い換えれば、特定の流派を批判するなど徒労なことで、それよりも、その戦法のどこがダメなのか、それをを具体的に指摘する方が生産的であろう、――というのが武蔵のスタンスなのである。そこで、欠陥の典型的なところを、九つに絞って、以下、批判が進められるわけである。

――――――――――――











上泉秀綱


塚原卜伝





*【兵法の道と云事】
《近代、兵法者と云て世をわたるもの、これは劔術一通りの儀なり。常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り人に傳事、近き比の事也。いにしへより十能七藝とあるうちに、利方と云て、藝にわたるといへ共、利方と云出すより、劔術一通りにかぎるべからず。劔術一ぺんの利までにては、劔術もしりがたし。勿論、兵の法には叶べからず。世の中を見るに、諸藝をうり物に仕立、わが身をうり物の様に思ひ、諸道具に付ても、うり物にこしらゆる心、花實の二つにして、花よりも実のすくなき所也。とりわき此兵法の道に、色をかざり花をさかせて、術をてらし、或は一道場、二道場など云て、此道をおしへ、此道を習て利を得んと思事、誰か謂、なまへいほう大きずのもと、誠なるべし》(地之巻)

 ここで、校異の問題に関して指摘すべきところが若干ある。すなわちその一つは、筑前系のうち越後系諸本に、
《大きなる太刀をとつて、強き事を専して、其わざをなすながれ有》
とあり、《専として》として「と」字にするところ、あるいは《ながれも有》として「も」字を入れるところ、これが問題箇処である。
 すなわち、《専として》とするところは、同じ筑前系でも異系統の吉田家本・中山文庫本には、これを《専にして》として「に」字に作る。このいづれが正しいかは、肥後系諸本を参照すればわかる。筑前系/肥後系を横断して共通する語句が古型であるからである。このケースでは、筑前系/肥後系に共通するのは、《専にして》の方である。したがって、越後系諸本の《専として》は誤記である。
 また、《ながれも有》として「も」字を入れるについては、これはまず筑前系諸本に共通している。しかるに、肥後系諸本には、これを《ながれ有》として、「も」字を欠くものがある。つまり、「も」字の有無という相違である。
 ただし、この「も」字については、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。富永家本には、「も」字を入れて、《ながれもあり》とする。あるいは円明流系統でも、多田家本や稼堂文庫本では「も」字を入れる。富永家本などは、肥後系の中でも早期に派生した系統の子孫である。したがって、肥後系でも早期には、《ながれ有》ではなく、《ながれも有》と記した可能性がある。
 この校異については、筑前系諸本に共通して、《ながれも有》とするのであるから、これまで見た例と同じく、筑前系諸本の字句を古型として採るべきである。
 また、もう一つ校異箇処を挙げれば、筑前系諸本に、
《これミな実の道にあらざる事也。此巻の奥に慥(たしか)に書顕し、善悪利非をしらする也》
とあって、《あらざる事也》として、文を止めるところ、肥後系諸本には、これを《是皆、實の道にあらざる事、此巻の奥に慥に書顕し》として、「也」字を欠いて、文を次へ接続するかたちである。つまり、「也」字の有無という相違である。
 ただしこの「也」字についても、肥後系諸本すべてがこれを付すわけではない。例外は稼堂文庫本であり、そこには、「也」字を入れて、《実の道に有ざること也》とする。
 これを除けは、肥後系諸本は、ほぼ「也」字を欠く。これはいかにと見れば、次のようなことであろう。
 すなわち、これに続く文が、《此巻の奥にたしかに書顕し、善悪利非をしらする也》とあるところからすると、此巻に書顕すのは、他流のやり方の《実の道に有ざること》である。とすれば、「也」として、文を切断するのは、文意が通らぬ。書写者はそう思って、この「也」字を衍字と見て、これを抹消したのである。
 たしかに、ここに「也」字があっては、文に躓きがある。だから、「也」字を認知しないのも当然だが、テクスト分析の方ではそうは簡単には事は運ばない。というのも、筑前系諸本に厳然と「也」字が残っているからである。
 こういうわけで異変発生のプロセスが知れるのだが、これが比較的早期に発生したため、肥後系ではこの語句書記が多いのである。しかしそれも、肥後で後に発生したローカルな変異であって、本来は、「也」字のあったものであろう。
 ともあれ、この校異については、筑前系諸本に共通して、《あらざる事也。此巻の》として、「也」を有するのであるから、これまでの例と同じく、筑前系諸本の字句を古型として採るべきである。
 ところで、以上の校異はさして難しいものではない。筑前系諸本をみれば、何れが正しいか、判明するからである。しかし、次はもう少し難題である。すなわち、上記箇処にすでに出ているところであるが、
《此巻のにたしかに書顕し、善悪利非をしらする也》
 すなわち、この「奥」字が、筑前系/肥後系の諸本を横断して、共通して存在するのである。とすれば、最初の判断として、《此巻の奥に》として「奥に」とするのが正しいと見ることができる。
 しかし、「奥」というのが通常の意味ならば、「此巻の奥」というのは、この巻の末尾ということになる。だが、他流の《實の道》にあらざることは、巻末に語られているのではなく、この巻の以後の条々全体にわたって述べられている。
 とすれば、この「奥」という語が、本巻の叙述には適合しないのである。そこで、この「奥」が、外部に対する内部、つまり「内」「中」の意味だと読めないことはない。その限りにおいては、ここは「奥」でさしつかえない。
 しかるに、五輪書ではしばしば登場する「奥」という語の意味は、それではない。表に対する奥である。現に、本条の直前に、《太刀かずおほくたくみ、太刀の搆をもつて、表といひ奥として、道を傳流も有》とある通りである。
 したがって、そのように直前にそう書いたのだから、直後のここで、武蔵が《此巻の奥に慥に書顕し》と記したとは思えない。これはおそらく、《此巻の内に》とあったものであろう。つまり、筆写者は、直前に《表といひ奥として》とあるところから、それに引かされて、つい「内」を「奥」と誤写したのである。
 しかるに他方、これが筑前系/肥後系諸本を横断して、共通に存在するところからして、この誤写は、寺尾孫之丞の段階に遡りうるのである。つまり、寺尾孫之丞が編集段階で誤写したもので、それが寺尾版の底本となって、門人に相伝した五輪書にも書かれ、そして、ついには現存写本すべてに「奥」と書かれているということになった。
 かくして、この「奥/内」は、武蔵草稿の復元という問題に関わるのである。ここでの文脈からして、オリジナルは「奥」という文字ではなく「内」という文字であった、というのが我々の所見である。
 というわけで、我々のテクストでは、諸本の「奥」字に付して、( )に入れた「内」字を記している。   Go Back

*【吉田家本】
《強き事を専して、其わざをなすながれ有》
*【中山文庫本】
《強き事を専して、其わざをなすながれ有》
*【渡辺家本】
《強き事を専して、其わざをなすながれ有》
*【近藤家丙本】
《強き事を専して、其わざをなすながれ有》
*【楠家本】
《つよき事を専して、其わざをなすながれ【】有》
*【細川家本】
《つよき事を専して、其わざをなすながれ【】あり》
*【富永家本】
《強き事を専して、其わざをなすながれあり》
*【多田家本】
《強き事を専して、其業をなす流有》


*【吉田家本】
《これミな実の道にあらざる事。此巻のにたしかに書顕し》
*【中山文庫本】
《これミな實の道にあらざる事。此巻のにたしかに書顕し》
*【渡辺家本】
《これミな實の道にあらざる事。此巻のにたしかに書顕し》
*【近藤家丙本】
《これミな實の道にあらざる事なり。此巻のにたしかに書顕し》
*【猿子家本】
《是ミな實の道にあらざる事。此巻のにたしかに書顕し》
*【楠家本】
《これ皆、實の道にあらざる事【】、此巻のおくに慥に書顕し》
*【細川家本】
《是皆、實の道にあらざる事【】、此巻のに慥に書顕し》
*【富永家本】
《是【脱字】、実の道にあらざる事【】、此巻のに慥に書顕し》
*【稼堂文庫本】
《是皆、実の道に有ざること、此巻のに慥ニ書顕し》





近藤家丙本 当該箇処

 
   2 他流批判・大きな太刀
【原 文】

一 他流に大なる太刀をもつ事。
他に大なる太刀をこのむ流あり。
我兵法よりして、是を弱き流と見立る也。
其故は、他の兵法、いかさまにも人に勝と云利
をバしらずして、太刀の長きを徳として、
敵相とをき所よりかちたきとおもふに依て、
長き太刀このむ心有べし。
世の中に云、一寸手増りとて、
兵法しらぬものゝ沙汰也。
然に依て、兵法の利なくして、
長きをもつて遠くかたんとする。
夫ハ心のよはき故なるによつて、
よはき兵法と見立る也。
若、敵相ちかく、組合程の時ハ、
太刀の長きほど、打事もきかず、
太刀もとをりすくなく、太刀をににして、
小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也。
長き太刀このむ身にしてハ、
其いひわけは有ものなれども、
夫ハ其身ひとりの利也。
世の中の實の道より見る時ハ、
道理なき事也。
長き太刀もたずして、みじかき太刀にてハ、
かならずまくべき事か。或ハ其場により、
上下脇などのつまりたる所、
或ハ脇ざしばかりの座にても、太刀をこのむ心、
兵法のうたがひとて、悪敷心也。(1)
人により、少力なる者も有、
其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。
昔より、大ハ小をかなゆるといヘば、
むざと長きを嫌ふにはあらず。
長きとかたよる心を嫌ふ儀也。
大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。
みじかきハ小人数也。小人数と大人数と、
合戦ハなるまじきものか。
小人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。
むかしも、小人数にて大人数に勝たる例多し。
我一流におゐて、さやうにかたつきせばき心、
嫌事也。能々吟味有べし。(2)

【現代語訳】

一 他流で大きな太刀をもつ事
 他流で、大きな太刀を好む流派がある。我が兵法からすれば、これを弱い流派と見立てるのである。
 そのゆえは、他流の兵法は、どんなことをしてでも人に勝つという利〔理〕を知らず、太刀が長いのを徳〔得、有利〕だとして、敵相〔敵との距離〕が遠いところから勝ちたいと思うから、長い太刀を好む気持があるのだろう。(これは)世の中にいう、「一寸手まさり」といって、兵法を知らぬ者の行いである。
 しかるによって、兵法の利〔理〕がないのに、(太刀の)長いの利用して、遠く(離れて)勝とうとする、それは心が弱いゆえである。だから、弱い兵法と見立てるのである。
 もし敵相〔敵との距離〕が近く、(互いに)組み合うほどの時は、太刀が長いほど、打つこともうまくできず、太刀が役に立つこと*は少なく、太刀(の大きさ)が邪魔になって、小脇ざしや手ぶら*〔素手無刀〕の人に(さえ)劣るものである。
 長い太刀を好む身としては、(いろいろと)その弁解はあるものだろうが、それは、その身一人の利〔理屈〕である。世の中の真実の道から見るときは、道理なきことである。
 長い太刀を持たずして、短かい太刀では、必ず負けるのか。あるいは、その場によっては上下や脇などに余裕がない所、あるいは脇ざししかない席であっても、(どうあっても、長い)太刀を好む心は、兵法の疑い〔不信・惑い〕といって、悪しき心である。
 人によっては力の弱い者もある。その身によっては、(体が小さくて)長い刀を(腰に)差すことができない身体もある。
 昔から、「大は小をかなえる」*と云うから、(太刀の)長いのをむやみに嫌うのではない。長い方がよいと偏る心を嫌うのである。
 大分の兵法〔合戦〕の場合、長い太刀とは大人数のことであり、短いのは少人数のことである。小人数と大人数では、合戦は成り立たないものか。小人数で勝つことこそ、兵法の徳〔すぐれた働き〕であろう。昔も小人数で大人数に勝った例は多い。
 我が流派においては、そのように偏った狭い心を嫌うのである。よくよく吟味あるべし。
 
  【註 解】

 (1)我兵法よりして是を弱き流と見立る也
 ここでの話は、ごく解りやすいから、余計な注釈は必要ではなかろう。ただ、以下の諸点だけ指摘しておきたい。
 これは冒頭から話が皮肉である。――《他に大なる太刀をこのむ流あり。我兵法よりして、是を弱き流と見立る也》、つまり、大きな太刀を好む流派があるが、武蔵流兵法、その戦闘術からすれば、これを弱い流派と見立てる、というのである。
 ふつう、大太刀を持つのは強力な者である。刃渡り三尺(90cm)の太刀もあれば、四尺(120cm)といった長大な太刀もある。あるいは伝説的な真柄十郎の七尺の大太刀をはじめ、軍記には七尺という数字もよくある。
 七尺大太刀の一貫目二百匁(4.5kg)はともかくとして、長い太刀となると、かなりの重量である。通常の刀の数倍もあって、力の弱い者では振り回せない。だから、大太刀を振るう者は、たいてい見るからに大力で強そうな連中である。
 ところが武蔵が言うのは、その逆なのだ。見た目にはどうかは知れないが、大太刀を持ちたがる奴ほど、本当は(心が)弱いのだ、と。
 その理由は、長い太刀をもっていると、敵の太刀の届かない遠くから攻撃ができると思っているからだ。自身は安全な場所にいて、勝ちたい。――これは勇気のない証拠である。
 「一寸手まさり」というのは、一寸(3cm)でも長い方が有利だということである。斬り合いでは、一寸の差が生命にかかわる。大太刀をもつ流派の中には、そう言って理由づけをしていた例があったのかもしれない。
 しかし武蔵に言わせれば、それは兵法を知らぬ者の行いである。兵法の術によってではなく、太刀の長さの有利をもって「遠く勝とう」とする。それははじめから腰が引けているのであって、心が弱いゆえである。だから、弱い兵法と見立てるのである。
 じっさい、有利不利というであれば、太刀が長いと逆に不利な場合がある。それは身体がぶつかるほどのせめぎ合いでは、手元に隙ができやすいし、また、かえって太刀の大きいのが負担になって、短い脇差を振るう者や、手ぶら(無刀)の者にさえ、劣ることがある。
 短かい太刀より長い太刀の方が有利だという根拠はない。太刀の長きを好む気持は、兵法の「疑い」として、悪しき心である、とする。この「疑い」という語は、仏教からきた言葉だが、要するに懐疑・不信・惑いのことで、自分の兵法を確信していないことである。確信なくして勝てるわけがない。――というのが武蔵の説教である。
 さて、この長大な太刀ということでは、武蔵伝説の末端に位置する現代人なら、だれしも連想してしまうのは、かの巌流島で武蔵と対戦した巌流(岩流)のことであろう。今日一般には、「佐々木小次郎」として知られているが、この人物を佐々木姓にしたのは歌舞伎・浄瑠璃等演劇界である。本来彼の姓は不詳である。
 巌流島決闘の記録は、武蔵養子の宮本伊織が建碑した武蔵碑の碑文(小倉碑文)が初出である。そこには、武蔵の対戦相手・巌流が長い太刀をもって戦ったという記事がある。
《岩流、三尺の白刄を手にして來たり》
とある。この「三尺の白刄」とは、刃渡りが三尺(91cm)ということだとすれば、通常の太刀よりは、かなり長い――七寸(21cm)ほども長いということである。つまり、通常刃渡りは二尺三寸(70cm)前後であろうから、三割がた長いのである。
 しかし、そうとも云えず、「三尺の白刄」という語句は、当時の常套句「三尺の長剣」と連動したものであり、長大な太刀というところを、そのように修辞したのかもしれない。ただ、それでも、「三尺の白刄」は長いのは確かである。
 しかし、小倉碑文のいう武蔵の「木戟」にしても、「戟」というからには、ただの木刀ではなく、これは長尺物である。武蔵がそのときの道具を、後に復元して長岡寄之に授与した、という説のある木刀は四尺二寸(127cm)である(松井文庫蔵)。これは後世の人が伝説にもとづいて制作したものであろう。
 筑前系伝記『丹治峯均筆記』には、刃の方に二寸釘を隙間なくぎっしり打ち込んだ四尺の木刀とあり、それより前の海事文書『江海風帆草』には筋鉄で補強した五尺の棒とある。巌流島決闘では武蔵は長尺の道具を用いたという伝説があったものらしい。
 しかし他方、『丹治峯均筆記』に、武蔵が五尺杖を常用した話もあるし、寺尾孫之丞がその五尺杖の仕道(操法)を工夫したという話も伝えている。この五尺の長尺物は、隅に蟠る敵や取籠り者などに有効だともある。
 それは伝説かと思っていたら、越後の門流では五尺木刀の術が伝承されていた。その現物を、平成二十年にはじめて越後で発掘できたのである。それによって、長五尺という武蔵の長尺道具の実際がはじめて判明した。
 越後道統の伝書「五尺木刀伝来之巻」よれば、武蔵は天然の業で片手で五尺木刀を振ったが、寺尾孫之丞の段階でそれを技法化したとある。これは『丹治峯均筆記』の記事と一致する。武蔵の長尺道具の伝統は、越後で生き続けていたのである。
 とすれば、これは興味深いことである。むやみに長い太刀を好む流派を批判する武蔵だが、自身はこんな五尺もある長尺物の術も残したのである。しかもそれを、この五輪書を編集した寺尾孫之丞が受継いで、凡人にも仕えように技法化したのである。
 ようするに、そんな特大の道具も用いた武蔵にすれば、長い道具を好む流派の長さなど中途半端な長さなのである。ちなみに、その五尺木刀がどんなに長大なものか、それを示せば下のごとくである。


上から、二刀木刀大小(三尺・二尺)、五尺木刀、枕木刀(二尺)

――――――――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 











真柄十郎左衛門直隆
姉川合戦図屏風



真柄十郎七尺大太刀 熱田神宮蔵













*【小倉碑文】
《爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ》(原文漢文)



*【丹治峯均筆記】
《舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]》

*【江海風帆草】
五尺の棒に筋鉄を打て持之》


*【丹治峯均筆記】
五尺杖ノ仕道、信正鍛錬也。武州公ハ片手ニテ自由セラシユヱ、別段ニワザハナシ。信正ニ至リ、片手ニテハ振ガタキユヘ、仕道ヲ付ラレシト也。隅ニ蟠リタル敵亦ハ取篭リ者等ニ別而利アリ。コレ皆中段スミノカ子ヨリ事發レリ》

*【五尺木刀伝来之巻】
《今用る五尺木刀ハ、 先師玄信の作らしめられし處にして、則是を常の木刀のごとく、片手にて自由を得られし所、仕方を極めらるゝ事なかりしかども、二代寺尾信正、後年此木刀を片手に振る人稀なるべきをはかりて、今の仕方を極めらし也》


武蔵提五尺木刀像
 
 なお、語釈の問題として挙げるべきは、
《太刀もとをりすくなく、太刀をににして、小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也》
とするところである。この「もとをり」は「徊り」〔もとほり〕、自由自在にできる、役に立つ、という意味がある。
《もとおらぬ三味線鳴らしてゐやう程に》(傾城禁短気)
《もとをらねへことをいったっても、始まらねへ》(早変胸機関)
とあるのが語例である。前者は、「うまく弾けない三味線を鳴らして」ということであり、後者は、「役に立たぬことを言っても、はじまらない」という意である。五輪書のここでの《もとをりすくなく》というのは、もちろん、後者の意味であって、「役に立つことが少ない」という語義である。
 もう一つの《小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也》の「手ぶり」は、今日でも「手ぶら」という語で生きている。これを当時、「てぶり」と言ったらしいことは、日葡辞書の記載例で知れる。ここでは「手ぶり」は、手ぶら、空手〔くうしゅ〕、つまり、太刀をもたぬ無刀のことである。
 かくして、《小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也》は、長い太刀をもっていても、短い脇差や素手無刀の人にも劣るものだ、ということである。
 既成現代語訳事例を見るに、このあたり、どうも難しかったらしい。戦前の石田訳は、《もとをりすくなく》を「振り廻すことも出來ず」と解した。これはまったく的外れである。ここは、太刀を振り回せないということではなく、たとえ太刀を振り回しても、懐に入り込まれては、太刀は役に立たない、という文脈なのである。それが誤りで、以後の誤訳の路線を敷いた。
 戦後の岩波版注記は、これを「太刀を自由に振り回すこともできず、太刀を荷厄介にして」との語訳を示しているが、これは戦前の石田訳そのままである。
 神子訳は、「もとをり」を回転と解釈し、また、「手ぶり」が、細川家本では「手振」となっているところから、そのまま字義通りに受け取り、「手で振る」ことと誤解している。しかし、細川家本の「手振」は当て字なので、そもそも誤訳の原因は細川家本にある。
 戦前の石田訳が「てぶり」を訳出していたのに、戦後出たこの神子訳の誤りが、その後の大河内・鎌田訳の後二者にも継承され、「手ぶり」(素手)という語が抹殺されて、御覧の如き誤訳を呈している。そしてむろん、「もとをり」については岩波版注記が石田訳の誤りを反復しているのを、後二者がそのまま頂戴して、誤訳を再生産していることは言うまでもない。創意というものがないのか、まことに見苦しい光景である。

――――――――――――











Teburi(てぶり)
長崎版日葡辞書 1603年

*【現代語訳事例】
振り廻すことも出來ず、太刀が却つて荷厄介になって、小脇差を持つた人や素手の人に負けるものだ》(石田外茂一訳)
《太刀の回転はきかず、太刀が荷厄介となって、短い脇差をふるう人よりも不利となるものである》(神子侃訳)
《太刀を自由に振りまわすこともできず、太刀が荷になって、短い脇差を使う人にも劣るものである》(大河内昭爾訳)
《太刀を自由に振り廻すこともできず、太刀が荷厄介になって、短い脇差をふるう人にもおとるものである》(鎌田茂雄訳)

 次に、諸本校異の問題について、ここでは、指摘すべき箇処がいくつか存在する。それを以下にまとめて示しておく。

*【吉田家本】
《敵相とをき所よりかちたきと思ふに依て、長き太刀【】このむ心有べし。(中略)若、敵相ちかく、くミ合程のときハ、太刀長きほど、打事もきかず、太刀【】もとをりすくなく、(中略)或ハ、脇ざし斗の座にても、太刀をこのむこゝろ、兵法のうたがひとて、悪敷こゝろ也》

*【渡辺家本】
《敵間とをき所よりかちたきとおもふに依て、長き太刀【】このむ心有べし。(中略)若、敵相ちかく、組合程の時は、太刀長きほど、打事もきかず、太刀【】もとをりすくなく、(中略)或ハ脇指ばかりのにても、太刀をこのむ心、兵法のうたがひとて、悪敷心也》
*【楠家本】
《敵相遠き所よりかちたきと思ふによつて、長き太刀このむ心有べし。(中略)若、敵相ちかく、くミやうほどの時は、太刀長きほど、打事もきかず、太刀もとをりすくなく、(中略)或ハ、わきざしばかりの座にても、長きをこのむ心、兵法のうたがひとて、あしき心也》

*【細川家本】
《敵相遠き所よりかちたきと思ふによつて、長き太刀【】このむ心あるべし。(中略)若、敵相近く、組あふほどの時は、太刀【】長き程、打事もきかず、太刀もとをりすくなく、(中略)或は、脇差ばかりの座にても、長きをこのむ心、兵法のうたがひとて、あしき心也》
*【富永家本】
《敵合遠き所より勝度とおもふに依て、長き太刀好心有べし。(中略)若、敵相近く、組合程の時ハ、太刀長きほど、打事も聞ず、太刀【】もとふり少なく、(中略)或ハ、脇差斗の座にても、太刀を好心、兵法のたがひとて、悪敷心なり》

*【狩野文庫本】
《敵相遠所より勝度と思ふに依て、長き太刀好心有べし。(中略)若、敵相近、付逢程の時は、太刀長程、打事もきかず、太刀模通少ク、(中略)或ハ脇指斗の座ニ而も、長き】好こゝろ、兵法の疑とて、悪キ心也》
 まず、特異箇処の方を先に見ておけば、渡辺家本や赤見家乙本など越後系諸本に、《或ハ脇指ばかりの時にても》とあって、「時」字を記すところ、他の諸本は筑前系/肥後系を通じて、これを「座」字に記す。したがって、これは簡単に判断できる。
 つまり、越後系諸本の「時」字を記すのは誤記であり、正しくは「座」字である。この誤字は、越後系写本の赤見・渡部双方の系統にみられるから、おそらく立花系固有の誤記であろう。
 ではさらに、他の校異を以下順を追って見ることにするが、まず、筑前系諸本に、《長き太刀、このむ心有べし》とするところ、肥後系諸本には、《長き太刀を》として、「を」字を付すものがある。ゆえにこの相異は、「を」の有無である。
 肥後系諸本のうち、細川家本では、この「を」字を付さない。あるいは円明流系統の多田家本も同前である。したがって、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、この「を」字を付さないパターンだと言えないことはないが、そうは行かない。この二本のばあいは、爾後の偶発的な脱字の可能性もあるからである。
 したがって、肥後系写本のうちには筑前系と同じパターンもあるが、「を」字の有無が筑前系/肥後系を区分するものであったかもしれない。しかし仮にそうだとしても、ここは、筑前系に共通するのが、「を」字を入れない方だということを押さえておきたい。
 次には、筑前系において、《敵相ちかく、組合程の時は、太刀長きほど》として、《太刀の》として「の」字を付すところ、肥後系諸本もたいていは同様である。ただし、参照事例では、細川家本のみ、この「の」字を落す。これは、楠家本や丸岡家本にはみられないもので、細川家本・常武堂本系統のみの脱字であり、もとより後発的な誤記である。
 さらに校異の箇処を言えば、筑前系諸本には、《太刀の長きほど、打事もきかず、太刀もとをりすくなく》とあるところ、肥後系諸本には、たいてい、これを《太刀もとをりすくなく》として、《太刀の》と記し「の」字を入れる。
 しかし、肥後系のうちには富永家本のように、「の」字を入れないケースもある。したがって、肥後系にも筑前系と同じパターンが見られるのであるが、富永家本は早期に派生した系統の子孫であることから、肥後系早期にこれがあったみなしうる。それが、後にここに「の」字を入れる写本が発生したのである。
 さて、ここで挙げる校異の最後は、以上のような脱字衍字の類いではなく、もうすこし難しいところである。すなわち、筑前系諸本に、
《脇ざし斗の座にても、太刀をこのむこゝろ》
とあって《太刀》とするところ、肥後系諸本にはたいてい、《長き》と記す。つまり、《太刀》と《長き》の相異である。
 ところが、ここについても、肥後系のうちには富永家本のように、《太刀》と記す例もある。したがって、肥後系にも筑前系と同じパターンが見られるのであるが、上述のように、富永家本は早期に派生した系統の子孫であることから、肥後系早期にこれがあったみなしうる。それが、後にここれを《長き》と変更した写本が発生した。
 この変更は、「長き太刀」というのを強調するための措辞で、たしかに《長き》とした方が文意は通りやすい。しかし、直前に《或ハ、脇差斗の座にても》とあって、続いて《太刀》とくるのだから、この《太刀》は、脇差との対比で示されたものである。大小二刀の「大」の方であるから、必ずしも「長き太刀」ということではない。そのことを見失った後世の者が、《長き》という語を付してこれを改竄したのである。
 これは筑前系には見られぬ字句であるから、肥後において後に発生した改竄異変である。それに対し、肥後系のうち《太刀》という字句を保存した富永家本は、早期形態を伝えるのである。先祖が早期に派生分岐したため、もとより写し崩れのある一本だが、その一方で、しばしばこうした古型を温存しているのである。
 それゆえまた、ここに《長き》と記す肥後系現存写本はすべて、改竄以後の写本の子孫である。楠家本・細川家本・丸岡家本など、従来古型を示すと見られた諸本にしても同類である。前の《太刀のもとをり》も合わせてみれば、これら諸本は書写過程をいくつか経た後の写本である。   Go Back




吉田家本 校異箇処




渡辺家本 校異箇処




富永家本 校異箇処
 
 (2)長きとかたよる心を嫌ふ儀也
 武蔵は、大太刀の流派を批判するのだが、それは太刀の長いのを有利だとする誤認錯覚に対しての批判であった。
 そうして、力が弱くて、あるいは背が低くて大太刀を持てない奴だっているじゃないか、というあたりは武蔵の軽いジョークである。武蔵自身は当時としては、かなり巨大な体躯の強力の者である。ただ、本書は兵法教本であるから、力が弱い、背が低いなどのために、大太刀をもつことが物理的に不可能な者の側に立って言及することもあったのである。
 自分のような大男でも、大太刀を持つ必然性があるとは認めない。まして、背が小さく力の弱い者が大太刀を持つ必要はまったくないのだよ、というところである。むろん、
《昔より、大は小をかなゆるといヘば、むざと長きを嫌ふにはあらず》
 この、昔から「大は小をかなえる」と云う、――とあるのは、現代語では「大は小を兼ねる」と言うようになっている。これはもとは「かなへる」(適る、叶る)であったことが、この五輪書の用例で判るというわけだ。この「かなへる」は英語なら《serve》に相当する。つまり、「大は小をかなえる」は《A large thing will serve for a small one.》と訳しうるのである。このあたりの記述は、初心者への講話といった調子である。
 武蔵は言う、――だから、太刀の長いのをむやみに嫌うのではない。長い方がよいと偏る心を嫌うのだ、と。要するに、
《長きとかたよる心を嫌ふ儀也》
ということである。長大な太刀を無下に否定するのではない。太刀は長いほうがよいとする、そういう偏向する心を否定するのである。――それが、ここでの結論である。
 さらに、もう一つ譬えを出して、大分の兵法〔合戦〕の場合、長い太刀とは大人数のことであり、短い太刀は少人数のことである。少人数と大人数では、合戦は成り立たないというのか。少人数で勝つことこそ、兵法の徳、その効能、すぐれた働きであろう。昔も少人数で大人数に勝ったという例は多い、とする。
 これは、前巻火之巻で縷々説かれた教えとも関連する。少数でも多数の敵を撃破する兵法、いささか武蔵流の遊撃戦も含めて、小が大に勝つ兵法である。それを分別承知すれば、やはり、教えは、
《さやうにかたつきせばき心、嫌ふ事也》
ということである。この「かたつきせばき」は、「偏付き、狭き」ということである。太刀は長い方が有利である――などという道理はない。それは単なる偏向であるにすぎない。だから、初心の者らよ、そういう話に乗せられるな、ということである。

――――――――――――











大太刀
 さて、ここで校異に関して指摘するとすれば、とくに肥後系諸本における異変のことである。
 すなわち、肥後系の楠家本・細川家本などに、相当量の脱落がある。これは明らかに誤写である。
 下掲のごとく、楠家本には、《小人数にて》と《大人数にかちたるれいおゝし》との間に脱落がある。細川家本も同じ箇処に脱落がある。それだけではなく、細川家本では、《人により、少力なるものもあり》と《むかしより、大は小をかなへるといへば》の間に脱落がある。丸岡家本にも、他の箇処に脱字がある。
*【吉田家本】
《人により、少力なる者も有、其身により、長かたなさす事ならざる身も有。昔より、大ハ小をかなゆるといヘバ、むざと長きを嫌にハ非ず。長きとかたよるこゝろを、嫌儀也。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。ミじかきハ少人数也。少人数と大人数と、合戦ハなるまじきものか。少人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。むかしも、少人数にて大人数に勝たる例多し》

*【渡辺家本】
《人により少力なる者も有、其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。昔より、大は小をかなゆるといヘバ、むざと長きを嫌ふにはあらず。長きかたよる心を嫌ふ儀也。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。みじかきハ小人数也。小人数と大人数と、合戦なるまじき物か。小人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。むかしも、小人数にて大人数に勝たる例多し》
*【楠家本】
《人により、小力なるものも有、其身により、長かたなさす事ならざる身も有。昔より、大ハ小をかなへるといへば、むざと長きをきらふにはあらず。長きとかたよる心を、きらふ儀也。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也、みじかきハ小人数なり。小人数と大人数にて合戦ハなるまじきものか。小人数にて【***********】大人数にかちたるれいおゝし》

*【細川家本】
《人により、少力なるものもあり、【***************】むかしより、大は小をかなへるといへば、むざと長きをきらふにはあらず。長きとかたよる心を、きらふ儀也。大分の兵法にして、長太刀は大人数也、短きは小人数也。小人数と大人数にて合戦はなるまじきものか。少人数にて【*************】大人数にかちたる例多し》
*【丸岡家本】
《人により、少力なる者もあり。其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。昔より、大ハ小をかなへるといへば、むざと長きを嫌ふにはあらず、長とかたよる心を、きらふ義也。大分の兵法ニして、長太刀は大人数なり、【********】小人数と大人数にて合戰ハなるまじきものか。少人数にてかつこそ、兵法の徳なれ。昔も小人数にて大人数に勝たる例多し》

*【富永家本】
《人により、少力成者も有り、其身により、長かたな差事ならざる身も有。昔より、大ハ小をかなゆるといえバ、むざと長きをきろふにハ非ず。長きとかたよる心を、きろふ儀なり。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数なり、みじかきハ少人数なり。少人数と大人数にて合戦ハ成間敷者か。少人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。昔も少人数にて大人数に勝たる例多し》
 上記のうち、細川家本の脱落箇所は、同系統の常武堂本も同じである。したがって、この二箇所の脱文は、両者の祖本の段階ですでに存在していたのである。
 さて、楠家本と細川家本が、同じ箇処に、他の諸本にはない脱落を有するのは、両者がある段階まで共通の先祖をもっていたということである。
 また、このケースのように楠家本にはない脱落が細川家本にあり、また他に見るケースでは、逆のこともある。ということは、楠家本・細川家本両本の分岐後に写し崩れが発生した部分もあり、その点では同レベルの写本だということである。上記の箇処に関していえば、細川家本には楠家本にない脱落があるだから、両者の系統分岐後、細川家本に至るまでにこの脱落があったということである。
 また、上掲例のごとく、楠家本・細川家本の両者が脱字を示すところ、丸岡家本は正しく記していることがある。これは、楠家本・細川家本の両本共通の先祖より以前に、丸岡家本の先祖が分岐したことを示す。その一方で、丸岡家本のみ脱落を示すところもある。これはむろん、丸岡家本が、楠家本・細川家本の系統とは異なる系統の写本だということである。
 あるいは、楠家本・細川家本が正しく記すところを、丸岡家本と田村家本の系統に脱文があるケースがここにみられる。つまり、それは、丸岡家本系統が分岐派生した後に発生した誤写である。
 以上のように、ここに偶然、三種の誤写が集中して見られるので、それに注目して整理すれば、
    (脱文A) 楠家本と細川家本に共通
    (脱文B) 細川家本・常武堂本のみの誤写
    (脱文C) 丸岡家本・田村家本・山岡鉄舟に共通
 この三つの誤写により、これら諸本の系統が析出される。つまり、脱文Aは楠家本と細川家本が、系統発生上近縁関係にあることを示す。脱文Bは、楠家本と細川家本に派生系統の分化があったことを示す。そして、脱文Cは、丸岡家本の系統が、楠家本と細川家本の系統分化以前に派生した別の系統であったことを示す。
 ところが、この丸岡家本の系統も、他の系統の諸本とくらべると、楠家本・細川家本に近縁のものである。というのも、同じ肥後系でも、この三本が脱落を示すところを、富永家本や円明流系諸本は、脱落のない文言を記している。ということは、富永家本や円明流系諸本の先祖の系統派生は、早期の段階にあったということである。
 したがって、楠家本・細川家本・丸岡家本三本の系統発生をいえば、先に丸岡家本の先祖が派生し、その後、楠家本と細川家本のそれぞれの先祖が派生したということになる。
 以上のような系統派生関係から、いかなることが知れるであろうか。まさにこれによって判明するのは、肥後系諸本の派生回数、つまり、当該写本が少なくとも何回の書写を経たものか、というプロセスである。そこで、系統発生図を模して肥後系諸本の派生関係を示せば、以下の如きものであろう。

○寺尾孫之丞―早期写本…流出…┐
  ┌――――――――――――┘
  ├……………………………富永家本 脱文無
  |  脱文A発生
  ├……┬◎…┬…………楠家本 脱文A
  |  |  |
  |  |  |脱文B発生
  |  |  └◎…┬……………常武堂本 脱文AB
  |  |     |
  |  |     └…細川家本 脱文AB
  |  |脱文C発生
  |  └◎…┬…………丸岡家本 脱文C
  |     |
  |     └…┬………………山岡鉄舟本 脱文C
  |       |
  |       └…………田村家本 脱文C
  |
  └…流出……………………円明流系諸本 脱文無

 この系統発生のプロセスを追えば、まず、門外に流出した写本がありそれが写されていた。これは肥後系早期写本である。
 そこから最初の分岐は富永家本の系統と円明流系統である。円明流系統はその後諸国に流出し派生した。この二つの系統は早期に分岐し派生したから、写し崩れがかなり多いが、楠家本・細川家本・丸岡家本などに誤記脱落があるところを、正しく書いているケースがしばしばある。それゆえまた、肥後系諸本のなかで、筑前系諸本に類似する字句があるのも、早期派生系統の子孫だからである。
 その次の分岐は、丸岡家本・田村家本・山岡鉄舟本の系統で、楠家本・細川家本が脱落している箇処には脱落はなく、それら二本とは異なる箇処に脱字を示している。つまり、楠家本・細川家本の系統に対し、それより以前に派生したものである。
 最後の分岐は、楠家本と細川家本の系統の分岐である。これは、楠家本にはなく、細川家本・常武堂本のみにある脱落によって知れる。また、他の箇処では、その逆のパターンもある。
 以上のようにして、系統発生論からすれば、楠家本・細川家本・丸岡家本のポジションが知れるであろう。すなわち、これら三本は、寺尾孫之丞段階の写本に「直接」するものではなく、この系統発生図に示したように、門外流出後、少なくとも複数回の書写を経た段階の後発的写本である。
 楠家本・細川家本・丸岡家本は、早期に分岐した系統の諸本よりも相対的に正確な写本であるが、それが何度の書写を経たものか、という点に注意すれば、そのポジションは明かであろう。したがって、楠家本はじめこの三本を、理由もなく早期の写本として思い込むのは誤りであり、この点、従来の諸説は根拠なきものである。五輪書研究に必要なのは、客観的な史料評価である。   Go Back


楠家本 脱落箇処


細川家本 脱落箇処


丸岡家本 脱落箇処


田村家本 脱落箇処


富永家本 非脱落箇処

 
   3 他流批判・強みの太刀
【原 文】

一 他流におゐてつよミの太刀と云事。
太刀に、強き太刀、よはき太刀と云事ハ、
あるべからず。強き心にて振太刀ハ、
悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし。
又、強き太刀と云て、人を切時にして、
むりに強くきらんとすれバ、きられざる心也。
ためし物などきる心にも、強くきらんとする事あしゝ。
誰におゐても、かたきときりあふに、
よはくきらん、つよくきらん、と思ものなし。
たゞ人をきりころさんと思ときハ、
強き心もあらず、勿論よはき心もあらず、
敵のしぬる程とおもふ儀也。
若ハ、強みの太刀にて、人の太刀強くはれバ、
はりあまりて、かならずあしき心也。
人の太刀に強くあたれバ、
我太刀も、おれくだくる所也。
然によつて、強ミの太刀などゝ云事、なき事也。(1)
大分の兵法にしても、強き人数をもち、
合戦におゐて強くかたんと思ヘバ、
敵も強き人数を持、戦強くせんと思ふ。
夫ハ何も同じ事也。
物毎に、勝と云事、
道理なくしてハ、勝事あたはず。
我道におゐてハ、少も無理なる事を思はず、
兵法の智力をもつて、いか様にも勝所を得る心也。
能々工夫有べし。(2)
【現代語訳】

一 他流において強みの太刀という事
 太刀に、「強い太刀」「弱い太刀」ということは、あるはずがないことだ。強い心で振る太刀は、よくないものである。荒いばかりでは、勝つことはできない。
 また、強い太刀といって、人を切るとき、無理に強く切ろうとすれば、切れないものである。試し物など切る〔試し斬り〕心持にしても、あまり強く切ろうとするのは、よくない。
 誰であろうと、敵と切り合う場合に、弱く切ろう、強く切ろうと思う者はない。ただ人を切り殺そうと思う時は、強い心もなく、もちろん弱い心もなく、敵が死ぬほど(切ろう)、と思うだけである。
 あるいは、強みの太刀で、相手の太刀を強く張れば、張りすぎて、必ずよくないのである。相手の太刀に強く当れば、自分の太刀も折れ砕けることがある。
 そういうことであるから、強みの太刀などということは、(本来)存在しないことである。
 大分の兵法〔合戦〕にしても、(我が方が)強い軍勢を持ち、合戦において強く勝とうと思えば、敵も強い軍勢をもち、戦いを強くしようと思う。それはどちらも同じことである。
 どんなことでも、勝つということは、道理なくしては勝つことはできない。我が(兵法の)道においては、少しも無理なことを思わず、兵法の智力をもって、どのようにでも勝つところを得るのである。よくよく工夫あるべし。
 
  【註 解】

 (1)あらき斗にてハ勝がたし
 この強みの太刀ということは、前条の「大なる太刀を持つ事」と連続する教えである。
 前条では、長い刀を持ちたがる、その心の偏向、あるいは弱い心の所在を指摘したのであるが、さて、それでも強力なる者は、大太刀も軽く振れるものであるから、とくにそれを否定するものではない。その上で、この条では、そういう者にありがちな、強い心からする強力な戦いぶりについて武蔵は論評するのである。
 したがって、こんどは弱い心ではなく、それとは逆の、強い心を問題にする。自身の強力を恃んだ強い戦法は、よくない。武蔵に言わせれば、「荒い」だけのことである。大太刀を持ちたがるのが「弱い兵法」だとすれば、それとは反対の「強い兵法」であるこちらは、「荒い兵法」である。しかし、荒いだけでは勝てない、と武蔵は言う。
 強い太刀とかいって、人を切るとき、無理に強く切ろうとすると、うまく切れないものである。これは太刀の軌道という合理的な法則に逆らうからである。それを武蔵は「無理」という語で語っている。
 以前、水之巻「太刀の道と云事」で、太刀を早く振ろうとすると、かえって太刀の軌道が逆らって、振れないものである。太刀は振りよい程に靜かに振れ、という教えがあった。それと一連の教訓である。
 「ためし物」など切る場合の心持にしても、あまり強く切ろうとするのはよくない。この「ためし物」とは、既述のように、実際に人間の身体を切って、人を切る技術を練習することである。そのとき使用された素材は、罪人である。屍体の場合もあれば、生体の場合もある。
 こういう「ためし物」ができない連中は、「辻斬り」ということをやった。近世初期、武蔵の時代には、この辻斬り流行の記録がある。行き会った人間を理由もなく切るのである。理由もなく、というのは、強盗などの目的があってのことではない、ということである。単に人体を切る練習のためである。まさに荒い危ない時代だった。
 ちなみに日本人は、かつて人も馬も左側通行だった。これは刀の鞘が当ってのトラブル、いわゆる鞘当てを避けるためという俗説があるが、これは間違いである。むしろ逆に、いつでも抜き打ちに相手を切るためである。そのために相手を右方向におくのである。腕試しに辻斬りなどする連中もあるのは、これがためである。辻斬りは、切られた方が悪い、油断があったという受取り方もあった。
 さて、そんな荒い危ない時代の人間として、武蔵は、斬り合いで人を切るについて、強いも弱いもあるまい、と言う。目的は敵を殺すことである。弱く切ろう、強く切ろうと思う者はない。人を切り殺そうと思う時は、強い心もあらず、もちろん弱い心もあらず、ただ敵を殺すという合目的性があるだけである。
 それに、できるだけ太刀を強く打てという教えにしたがって、相手の太刀を強く張れば、張りすぎて、これは決してよくない。相手の太刀に強く当れば、自分の太刀が折れ砕けることがある。
 このあたりは、読者は承知しておかねばならない。岩や兜を断ち割ったりする名刀名人伝説があるが、もちろん太刀はそんなことをするために作られてはいない。つまり、太刀は、実戦において人を切るための道具であり、それゆえ、さして頑丈な武器ではなく、太刀を打ち合えば、折れたり曲がったりすることもある道具である。そういう武器で戦うとき、強く打つことは、逆に自身の道具を失うという結果になることもある。むやみに強く打っては、具合が悪い。
《然によつて、強みの太刀などゝ云事、なき事也》
と、武蔵の結論は合理的である。強みの太刀など本来存在しない、というのである。
 強みの太刀ではうまく切れないし、荒いばかりの戦法では勝てない。それが武蔵の所見である。

 語釈のことで云えば、いろいろあるが、ここでは以下の箇処を問題にしておく。
《若は、強みの太刀にて、人の太刀強くはれば、はりあまりて、かならずあしき心也》
 ちなみに、細川家本を底本とする岩波版注記は、これに対応する文、《ハりあまりて、必あしき心なり》を、「張り余って体勢が崩れ、必ず悪い結果が生ずるものだ」とする。これは明らかに誤訳である。これでは「あしき心」とあるテクストの訳文になっていないばかりか、張り余って「体勢が崩れ」るという、原文に存在しない文言まで勝手に追加しているからだ。
 《ハりあまりて》とは「張り方が強過ぎて」という意味であり、体勢が崩れるなどという話ではない。そのように強く張りすぎて具合が悪いことになるのは、続く文に明記されている。すなわち、自分の太刀が折れたり砕けたりするからである。
 岩波版注記は、どうやら《ハりあまりて》を、「勢い余って」と勘違いしたもののようである。同注記にはこういう粗忽な語釈が少なくない。あるいは、原文に存在しないことを勝手に妄想してしまうのが解釈の心だとすれば、それは悪しき心なのである。あまりたるは足らざるに同じ、である。
 この箇処につき、既成現代語訳を見るに右掲の如くである。大河内訳・鎌田訳は、岩波版注記のパクリで、何の工夫もない。これに比べれば、戦中の古田訳や戦後の神子訳などの方が、余計なことを盛り込まないだけ、まだ正しい。近年のものほど誤訳の度合が増して、云わば事態が悪化しているという例である。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 















*【太刀の道と云事】
《太刀をはやくふらんとするによつて、太刀の道さかひて振がたし。太刀ハ、振よきほどに、静に振心也》(水之巻)


*【鸚鵡籠中記】
《十四日、晴、空燭烏。今朝五つ過ぎに予、師の猪飼忠蔵、同忠四郎に随つて星野勘左衛門下屋敷にて様し物を見物す。(中略)様し物胴三つ。是は昨日迄、広小路に晒されし惣七、新六、三郎衛門なり。首は獄門にかゝる。尤も首は打て来る。浅井孫四郎御馬廻役、一の胴を斬る。これ惣七が胴なり。(中略)余も股の肉を切落とす》
*【葉隠】
《勝茂公御若年の時分、直茂公より、御切習ひに御仕置候者を御切りなされ候様にと御座候に付、今の西の御門内に十人並べ置き候を、続け切りに九人まで御切りなされ候》






刀身破損状況 折れ・曲り















*【現代語訳事例】
《若し強みの太刀で敵の太刀を強く張り叩けば、力餘って悪いものだ》(石田外茂一訳)
《強力いってんばりの太刀で、相手の太刀を強く打てば、必ず打ち過ぎてしまい、悪い結果となろう》(神子侃訳)
《強い太刀使いで、相手の太刀を強く打てば、張り余って体勢が崩れ、必ず悪い結果を生ずるものである》(大河内昭爾訳)
《強い力をこめた太刀で、相手の太刀を強くうてば、張り余って体勢が崩れ、悪い結果が生じるものである》(鎌田茂雄訳)

 ところで、この部分で校異はいくつかあるが、問題にすべきは、次の箇処であろう。すなわち、筑前系諸本には、
《強きこゝろにて振太刀ハ、悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし》
とあって、《悪敷》(あしき)とする所であるが、肥後系諸本はこれを、《あらき》(荒き)とする。この字句の相違は、筑前系と肥後系を分つ指標的差異の一つである。
 これも、筑前系に共通するところから、《悪敷》(あしき)が、筑前系初期の字句であったと知れる。これが古型である。
 しかるに、文章の流れをみると、《あらき》とあった方が、同じ語句が重畳するリズムの効果があって滑らかである。それゆえ、この《あらき》(荒き)の方を採りたい気になるところであろうが、そうは問屋が卸さないのである。
 《あらき》という仮名と《悪敷》という漢字とは、直接変換する可能性はない。云うまでもないが、筑前系において初期は、すでに《悪敷》という漢字であった。したがって、これが誤写されることはない。
 ところが、肥後で門外流出後に伝写を繰り返すうちに、《悪敷》を《あしき》と仮名書きにするようになった。肥後系の伝写では、ある時期、仮名に変換する傾向があった。さらに次の段階で、「し」字が「ら」字に誤写されて、《あらき》に変化したというプロセスがあった。書字も場合によっては、「ら」と「し」は字形が近似するので、誤写を生じやすい。
 そのように、誤写があったのは、直後の文に《あらき斗にてハ》と続くからである。前の文字に引かされることも、逆に後の文字に引かされるのも、誤写ではよくあることである。
 肥後系では、めずらしく、円明流系統の多田家本に、《あしき》と記す例があるが、思うにこれは、底本が《あらき》と仮名であったのを、《あしき》と誤写したものであろう。その結果、誤写の円環が閉じて、原型に復帰したのである。つまり、誤りの誤りは、つまり誤謬の自乗は、――正解というわけである。
 以上のことから、我々のテクストでは、筑前系諸本の《悪敷》(あしき)の方を採択したのである。
 なお校異としては、他にもある。筑前系諸本に、《ためし物などきる心にも》とあるところ、肥後系諸本のなかには、《ためしものなどきる心にも》として、「に」字を入れるケースがあり、また、筑前系諸本に、《強き心も非ず、勿論、よハき心もあらず》とあるところ、肥後系諸本は、《つよき心もあらず、勿論、よハき心もあらず》として、これも「に」字を入れる。
 これらについては、書写段階の誤記衍字とみておく。「に」字をつい入れてしまう書写者が、肥後系早期にあったものであろう。
 前者の《ためしものなどに》の「に」字は、肥後系諸本のうちにも丸岡家本など「に」字を記さないものがあるが、それらは、一度発生した衍字「に」を脱字せしめてしまったものであろう。これも前例と同じく、誤りの誤りは正解、というケースである。   Go Back

*【吉田家本】
《強きこゝろにて振太刀は、悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし》
*【中山文庫本】
《強きこゝろにて振太刀は、悪敷ものなり。あらき斗にてハ勝がたし》
*【渡辺家本】
《強き心にて振太刀ハ、悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし》
*【近藤家丙本】
《強きこゝろにて振太刀ハ、悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし》
*【赤見家乙本】
《強きこゝろにてふる太刀ハ、悪敷者也。あらきばかりにてハかちがたし》
*【楠家本】
《つよき心にてふる太刀ハ、あらきもの也。あらき斗にてハかちがたし》
*【細川家本】
《つよき心にてふる太刀は、あらき物也。あらきバかりにてはかちがたし》
*【富永家本】
《強き心にてふる太刀ハ、あらきもの也。あらき斗にてハ勝がたし》
*【多田家本】
《強き心にて振太刀ハ、あしき物也。あらき斗にて【】勝がたし》



楠家本 「あらき」
 
 (2)道理なくしてハ勝事あたはず
 強いだけでは勝てない。大分の兵法〔合戦〕にしても、こちらが強く当ろうとすると、敵も強く出る。強い軍勢を持ち、合戦において強く勝とうと思えば、敵も強い軍勢をもち、戦いも強くしようと思う。こちらが強くなれば敵も強くなる。
《夫ハ何も同じ事也》
 それはどちらも同じことである。戦闘の暴力的空間において、敵と我は相似の双生児であり、お互いに相手を模倣し合って無差異化する。そうして強さの競り合いは終わりがない。なぜなら、我が強くなると敵も強くなる、つまり強い敵を生産するのは、我自身であるからだ。そういう暴力性の悪無限的循環について武蔵は自覚的である。
 勝つということは、強いから勝つのではない。強みの太刀ではうまく切れないし、荒い戦法では勝てない。道理なくしては勝つことはできない。武蔵のいう「道理」とは、物理法則に適った合理性のことである。
《道理なくしてハ勝事あたはず》
 これが「武蔵的」というところである。道理なくしては勝つことはできない。少しも無理なことをしようとは考えず、兵法の智力をもって、どのようにでも勝つこと、その合理性(rationalism)が武蔵流なのである。
 もう一つ云えば、この武蔵的な「道理」は、敵対する敵と我が無差異化し、自分自身が強力な敵を生産してしまう、といった無理(irrational)の構造から離脱したところにあるポジションである。
《我道におゐてハ、少も無理なる事を思はず》
 この徹底した合理主義こそ、武蔵的なもののありかである。言い換えれば、不条理な美学へ傾斜する後世の武士道とはまったく違った、異質な精神の運動であり、それが、近世初期にいったんは芽吹いていたことを、五輪書は証言しているのである。日本の思想史において稀な合理の精神である。

――――――――――――






 
 校異の問題に立ち入れば、この部分で指摘すべきは、次の箇処である。ここは、肥後系諸本しか見ていない者には、難しいところであろう。すなわち、筑前系諸本には、
《敵も強き人数をもち、戦強くせんと思ふ》
とあって、《人数》とし《戦強く》とするところ、肥後系諸本は、《人数》を《人》として「数」字を欠くものがあり、また《戦強く》を《戦も強く》と「も」字を入れるものがある。
 ただし、肥後系諸本すべてがそうだというわけではない。この字句の相違は、筑前系と肥後系を分つ指標的差異ではない。
 たとえば、前者の《人数》については、丸岡家本や円明流系統では、筑前系と同じく《人数》と記す。したがって、肥後系諸本また後者の《戦強く》も多田家本に見られるところである。このように肥後系にも類似事例があることからすれば、肥後系諸本を一色にみることはできない。
 しかしながら、筑前系諸本に共通して同じ表記があるということは、それが筑前系初期からあったということを示す。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝した五輪書に、そのように記されていた可能性が高い。とすれば、筑前系現存写本の当該文言は、寺尾孫之丞前期の相伝写本の表記を伝えているわけである。
 したがって、肥後系諸本の《敵もつよきを持、戦つよくせんと》という箇処は、《人数》の「数」字の脱字があり、また逆に《戦も》とあるのは、「も」字が衍字だということである。
 他に、たとえば文意の点で、積極的に肥後系の文言を採る理由もない。むしろ、《戦も》とするのは、直前の《敵も強き人数をもち》の《敵も》につられた誤記であろう。《戦もつよくせん》では、文意は弱くなるだけではなく、ここに「も」字が入るべきではない。文脈からしても、これは明らかに余計な文字、衍字である。
 おそらく、肥後系において門外流出後早期にこうした文言の写本が現れたのであろう。諸本広範にこれを見るのである。それゆえ、肥後系諸本のみを見ていても、字句の正誤判断がつかない。むしろ、楠家本や細川家本を中心に据えたパースペクティヴでは、それらの書字が正しいと錯覚してしまう。しかし、筑前系諸本まで参照すれば、はじめてそれが誤りだとわかる。観の目を養うには、遠くを見て、視野を広げればよいのである。

 ところで、ここには、肥後系の他の諸本にはない、丸岡家本の系統に特有の脱字箇処がある。それは、《合戦に於て強くかたんと思へバ、敵も強き人数を持》の部分の脱落である。田村家本と山岡鉄舟本も、そっくり同じ部分を落としているから、田村家本と山岡鉄舟本は、丸岡家本と同系統であり、その近縁子孫だと知れるのである。
 なおまた云えば、細川家本には、一字空白にした箇処がある。それは、楠家本なら《わがにおゐてハ》と記す、その「道」字である。これは細川家本と同系統の常武堂本も同様である。したがって、この両本の祖本の段階で、この空白が発生したのである。

○寺尾孫之丞―初期写本…流出…┐
 ┌―――――――――――――┘
 ├……………………………富永家本
 |
 ├……┬…┬…………楠家本
 |  | |
 |  | |空白発生
 |  | └◎…┬…………常武堂本 文字空白
 |  |    |
 |  |    └…細川家本 文字空白
 |  |脱文発生
 |  └◎…┬………丸岡家本 脱文
 |     |
 |     └…┬…………山岡鉄舟本 脱文
 |       |
 |       └……田村家本 脱文
 |
 └…流出………………円明流系諸本

 脱字は不注意にすぎないが、このように空白にするのは、書写者がその文字を読めなかったからである。他の諸本に読めているところが、常武堂本と細川家本の系統に限って読めていないのである。それはなぜだったのか、興味深いところであるが、こうした判読不能を示す空白を有するのは、細川家本系統の祖本が、事情不通の門外者による書写本だったという徴しである。
 しかし問題は、こうした明らかな非正規性の刻印をもつ後世の写本が、寺尾孫之丞が山本源介へ伝授した五輪書の「直接の写し」と誤認されたこともあった、今も一部にその誤認がある、という事実である。
 こうした過去の錯誤は、しかし今日の武蔵研究のレベルを見るとき、決して嗤えたものではない。同様同種の迷蒙が支配している点では、今日も大差がないのである。それゆえ、後学の諸君は、こうした錯誤の研究史を知っておくべきであるし、それら迷蒙を乗り越えていかねばならないのである。   Go Back


*【吉田家本】
《敵も強き人をもち、戦強くせむと思》
*【中山文庫本】
《敵も強き人をもち、戦強くせんと思》
*【渡辺家本】
《敵も強き人を持、戦強くせんと思ふ》
*【近藤家丙本】
《敵も強き人を持、戦強くせんと思ふ》
*【猿子家本】
《敵も強き人を持、戦強くせんと思ふ》
*【楠家本】
《敵もつよき人【】を持、戦もつよくせんとおもふ》
*【細川家本】
《敵も強キ人【】を持、戦つよくせんとおもふ》
*【富永家本】
《敵も強き人【】を持、戦強くせんとおもふ》
*【狩野文庫本】
《敵も強人を持、戦強せんとおもふ》
*【多田家本】
《敵も強き人を持、戦強くせんと思ふ》











*【楠家本】
《大分の兵法にしても、つよき人数を持、合戦におゐてつよくかたんとおもへバ、敵もつよき人【】を持、戦もつよくせんとおもふ》
*【丸岡家本】
《大分の兵法にしても、強キ人数を持、【********************】、戦つよくせんと思ふ》
*【田村家本】
《大分ノ兵法ニシテモ、強人員ヲ持、【********************】、戦強クセント思》
*【山岡鉄舟本】
《【*******】、強キ人数ヲ持、【********************】、戦モ戦ハセント思》






細川家本 当該箇処



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