武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 水之巻 1  Back   Next 

太刀の握り方さえも解説する超入門篇から高度な技法まで、他流でいえば「表」から「奥」まで、武蔵流太刀道を分りやすく解説する水之巻。戦闘術・殺傷術を学ばんとする者への具体的指南あり。本巻内容は以下のごとし。下記の各条見出しから直接ジャンプ可。
1 水之巻序  水之巻の前文
2 心の持ち方  (兵法心持の事)
3 目つき・顔つき・姿勢 (兵法の身なりの事)
4 観と見、二つの眼付け (兵法の眼付と云事)
5 太刀の持ち方 (太刀の持樣の事)
6 足のつかい方 (足つかひの事)
7 五方〔ごほう〕の搆え  (五方の搆の事)
8 太刀の軌道  (太刀の道と云事)
9 表第一 中段の搆え (五つの表、第一の次第の事)
10 表第二 上段の搆え (表、第二の次第の事)
11 表第三 下段の搆え (表、第三の次第の事)
12 表第四 左脇の搆え (表、第四の次第の事)
13 表第五 右脇の搆え (表、第五の次第の事)
14 搆えあって搆えなし (有搆無搆の教の事)
15 一つ拍子の打ち (一拍子の打の事)
16 二つのこしの拍子 (二のこしの拍子の事)
17 無念無相の打ち (無念無相の打と云事)
18 流水の打ち (流水の打と云事)
19 縁の当り (縁のあたりと云事)
20 石火の当り (石火のあたりと云事)
21 紅葉の打ち (紅葉の打と云事)
22 太刀に替わる身 (太刀にかはる身と云事)
23 打つと当るの違い (打とあたると云事)
24 手を出さぬ猿 (しうこうの身と云事)
25 漆膠の身 (しつかうの身と云事)
26 たけくらべ (たけくらべと云事)
27 粘りをかける (ねばりをかくると云事)
28 体当たり (身のあたりと云事)
29 三つの受け (三つのうけの事)
30 敵の顔を刺す (面をさすと云事)
31 敵の胸を刺す (心をさすと云事)
32 喝咄〔かつとつ〕 (かつとつと云事)
33 張り受け (はりうけと云事)
34 一人で多数と戦う (多敵の位の事)
35 打ち合いの利 (打あひの利の事)
36 一つの打ち (一つの打ちと云事)
37 直通〔じきづう〕の位 (直通の位と云事)
38 水之巻後書

 
   1 水之巻 序
【原 文】

兵法二天一流の心、
水を本として、利方の法をおこなふに依て、
水之巻として、一流の太刀筋、
此書に書顕すもの也。(1)
此道、何れもこまやかに
心のまゝにハ書分がたし。
たとへ言葉ハつゞかざると云とも、
利ハおのづから聞ゆべし。
此書に書付たる所、
一こと/\、一字/\にて思案すべし。
大かたに思ひてハ、
道の違ふ事多かるべし。(2)
兵法の利におゐてハ、
一人と一人との勝負の様に書付たる所なりとも、
万人と万人との合戦の利に心得、
大に見立る所、肝要也。(3)
此道にかぎつて、すこしなりとも道を違、
道の迷ひ有てハ、悪道におつるもの也。
此書付斗を見て、兵法の道に及事にハあらず。
此書に書付たるを、我身にとつて、
書付を見るとおもはず、習とおもはず、
にせものにせずして、
則、我心より見出したる利にして、
常に其身に成て、能々工夫すべし。(4)

【現代語訳】

 兵法二天一流の心は、水を手本として、利方の法〔勝利法〕を実践するにある。よって、水之巻として、我が流派の太刀筋を、この書に書きあらわすのである。
 この道〔兵法の道〕は、何れも思う通りを詳細に書いて表現することはむずかしい。(しかし)たとえ言葉は通じないとしても、(その)利点はおのづから理解されるであろう。
 この書に書いていることは、ひと言ひと言、一字一字、じっくりと考えることだ。いい加減な理解では、道を間違えることが多いであろう。
 兵法の利〔戦い方〕においては、一人と一人との勝負のように書いているところでも、万人と万人との合戦のことだと心得て、大きく見立てるところが肝要である。
 この(兵法の)道に関するかぎり、少しでも道を間違え、道の迷いがあっては、悪道〔誤った道〕へ堕するものである。
 この文書を読んだだけでは、兵法の道に達することはできない。この書物に書いてあることを、自分のことだと受け取って、読むと思わず、習うと思わず、模倣物にしないこと、すなわち、(それを)自分の考えで発明した(自分の)利〔戦い方〕にしてしまうことだ。つねにその身〔立場〕になって、よくよく工夫すべし。
 

 【註 解】

 (1)水を本として利方の法ををおこなふに依て
 水之巻冒頭の前文である。この巻から、具体的な太刀の技法解説の開始である。
 後に見るように、筑前二天流初期のやり方では、地之巻よりもこの水之巻の方を先に伝授したものらしい。それも、入門して間もなく、である。ようするに、水之巻はこの道における入門篇なのである。
 さて、「水を本として利方の法をおこなう」というのは、すでに地之巻で、概要が説明してあった。
 心を水になすこと、水の心になること。水は、容器の形にしたがって四角になったり円形になったりする。水はわずか一滴であることもあれば、広大な滄海ともなる。方円同一、滴水即大海である。大小自在、形態自由である。このトポロジーが水の心である。
 「太刀筋」というのは、現代にも伝わる語で、その語感は生き残っている。太刀の使い方、太刀を使う手筋、素質といったことである。ここでは、武蔵流の太刀の使い方が解説される。五輪書は教本という役割を演じようとするのである。
 なお、この《水を本として》について、思い起こされるのは、『孫子』の、
《兵の形は水に象る》(虚実篇)
とあるところであろう。右掲引用部分を読めば――そもそも、戦いの形は水とモデルにすればいい。水の流れは高い所を避けて低い所へと行く。戦いの形も敵の堅固な「実」の部分を避けて隙のある「虚」の部分を攻撃する。水は地形によって流れがきまる。戦いも敵によって勝利がきまる。それゆえ、戦いには定まった勢いなどなく、水には定まった形などない。――という話である。とすれば、武蔵は、それとは言わずに、誰でも知っているこの孫子の有名な章句を喚起しているのであり、まずは、戦闘論の基調を「如水論」として明確にしたのである。
 ここは、孫子兵法との無益な比較論をする場所ではない。ただし、一つだけ言えば、その形を変化してきわまりない水という比喩としてなら、武蔵の立論もその同じ軌道上にあるのだが、他方、あまりにも周知の「孫子」の、その通俗理解に対して、以下、随所で異を立てることになろう。武蔵の、あまりにもラディカルな、戦いには固定した定型などないというテーゼは、必ず形式化する通常の兵法論・軍学の傾向にたいする根本的な異物となる。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 










*【此兵法の書、五卷に仕立事】
《第二、水の巻。水を本として、心を水になす也。水は、方圓の器にしたがひ、一てきとなり、さうかいとなる。水にへきたんの色あり。清き所をもちゐて、一流の事を此巻に書顕也》(地之巻)





*【孫子】
《夫兵形象水。水之形、避高而趨下、兵之形、避實而撃虚。水因地而制流、兵因敵而制勝。故兵無常勢、水無常形》(虚実篇)



 
 (2)何れもこまやかに心のまゝにハ書分がたし
 太刀の使い方を説明するとなると、いきなり問題にぶつかる。それは、言語表現の問題である。太刀筋のような具体的な話は、それが具体的であればあるほど、言葉で説明するのがむずかしいからである。
 言語は一定の抽象性のレベルにあってはじめて他人に伝わる。言い換えれば、言語は、一定の具体性を犠牲にし捨象してはじめて、内容物を他人に手渡せる。しかし、それを受けとった相手は、具体性を割り引かれた内容物を、それぞれにおいて復元しなければならない。その復元が理解ということである。
 ところが、その具体性の復元たるや、実は遡及的に構成することであって、人は自分のポジションから思い思いに再構成するしかない。このため、理解できないだけではなく、誤解もまた生じるのである。言うならば、誤解こそが言語伝達の根源的形態なのである。言葉が通じるとは奇蹟のようなものであって、我々は本当はそれに驚かねばならないのである。
 しかし、ここで武蔵が語っているのは、そういう言語のシンボリックな次元の限界ということではなく、いわばインストラクションと身体言語の問題なのである。太刀の使い方を指導するような場合、身体を動員することなくして、理解は出来ない。
 逆に言えば、この教える/理解するという言語関係は、その中間に「学ぶ・練習する」という非言語的な身体的行為を含んでいる。
 たとえば車を運転するという技能は、口で教えられても、理解できない。また他人が運転しているのを見ているだけでは理解できない。実際に自分でハンドルを握って車を運転してみて、はじめて、言われたことが「これか」と理解できる。
 実際に自分が実行してみてはじめてわかる、「これか This is it!」と理解できる。そのときの「これ」が、まさしく具体的内容なのである。言語は具体性については、そのような「これ」としか表現できないのである。言い換えれば、上記の遡及的復元的構成とは、まさにこの「これ」の習得なのであり、それは「学ぶ・練習する」という非言語的な身体的行為の所産なのである。
 たとえ言葉は通じないとしても、利はおのづから理解されるであろう、と武蔵がいうときの「おのづから」は、言語関係ではなく非言語コミュニケーションとしての身体言語の次元の働きのことを指している。

 なお語釈のことでいえば、「言葉はつゞかざると云とも」の部分が問題のようである。
 戦前の石田訳は、これを「不充分」としている。これは意訳だが、不充分な語訳である。戦後の神子訳は、これをうけたかたちで、「行きとどかなくとも」と訳しているが、この意訳が原意に近そうだが、やはり行きとどかないものである。
 というのも、この場合の古語「つづく」は、つながる・通じる・接する・連絡するの意味であるからだ。
《鳴りとどろきて、おはしますにつゞきたる廊に落ちかかりぬ》(源氏物語 明石)
 つまり、ここでの意味は、言葉が続かないということではなく、言葉が相手に通じる・通じないというコミュニケーションの話である。したがって、神子訳の「行きとどかない」では、語意がはずれているのである。
 さらに後の大河内訳は、これを「足りなくとも」とするが、これは石田訳と神子訳を下敷きにしたものである。次の鎌田訳は「つづかなくとも」として、原文をなぞっているように見えるが、さにあらず、これは、現代語の「つづかない」という意味に解釈したものである。これを「言葉が続かない」という現代語に訳してしまうと、言葉がつづかない、通じないのである。
 またこの部分、細川家本は《兵法の利におゐて》として、他の諸本と同じく「利」という語を用いている。むろん「利」と「理」は当時の用法では互換性がある文字だが、これは「利」と限定した方がよい。「兵法の利」であるし、前に「利方の法」という語句も出たことである。
 したがって、ここは「理」ではなく、武蔵的語彙の「利」である。そのことからすると、石田訳が「理」とするのは故なきことであるし、神子訳がこれをさらに「道理」と訳すのにも根拠はない。鎌田訳のように無理に訳さずに、「利」としておいた方がまだマシである。   Go Back


 (3)一人と一人との勝負の様に書付たる所なりとも
 ここの記述もまた、すでに地之巻で、その趣旨が説明してあった。――剣術一通りの理を定かに見分け、一人の敵に自由に勝つときは、世界中の人の誰にでも勝つのである。人に勝つというのは、千人万人の敵についても同じ意味である。武将たる者の兵法は、小さいものを大きく行うことであり、それは尺のかね〔曲尺〕を使って大仏を建てるのと同じことである。こうしたことは、詳細には説明しがたいが、一をもって万を知ること、それが兵法の利である。(そこで)我が流派のことを、この水の巻に書き記すのである、云々。
 武蔵流兵法の心は、水をモデルにする。水は、大小自在、形態自由である。この水のトポロジーが、水の心である。
 武蔵によれば、兵法の利においては、一対一の勝負のように書いてあるところでも、万人と万人の合戦の利だと心得て、大きく見立てるところが肝要である。
 この一見短絡とみえる論理のことは、既述したように、トポロジカルに読む必要がある。   Go Back


























*【現代語訳事例】
《たとへ言葉は不充分であつても理は自ら通ずる筈だから》(石田外茂一訳)
《たとえ言葉は行きとどかなくとも、その道理は自然と理解できるであろう》(神子侃訳)
《たとえ言葉は足りなくとも、その道理はおのずからわかるであろう》(大河内昭爾訳)
《たとえ言葉はつづかなくとも、その利は自然と分かるであろう》(鎌田茂雄訳)
















*【此兵法の書、五卷に仕立事】
《劔術一通の理さだかに見分、一人の敵に自由に勝時は、世界の人に皆勝所なり。人に勝といふ心は、千万の敵にも同意なり。将たるものゝ兵法、ちいさきを大になす事、尺のかねを以て大佛をたつるに同じ。か様の儀、こまやかには書分がたし。一を以万を知る事、兵法の利也。一流の事、此水の巻に書記すなり》(地之巻)



 
 (4)書付を見るとおもはず習とおもはず、にせものにせずして
 この記述は、上記と同様に、教える/学ぶ/理解するのインストラクション・プロセスの問題である。しかし、武蔵はユニークなことを言っている。
 すなわち、この教本を読んだだけでは兵法の道に達することはできない。ここに書いてあることを、自分のことだと心得て、読むと思わず、習うと思わず、模倣物にしないこと。言い換えれば、自分の工夫で見出したものにしてしまうのだと。
 世間でいうところの「我が物にする」ということであろうが、それがこれほど端的に書かれた例はみたことがない。
 まず、「読むと思わず、習うと思わず」というところが面白い。読むと思わず、習うと思わず、であれば、この兵法教本は、教本たることを自己否定してしまう教本である。こんな教本は空前絶後であろう。
 《にせものにせず》とあるのは、「贋物にせず本物にして」と現代語訳してしまうのよくある誤訳であるが、この「にせ物」は、真贋のことではなく、似せ物、模倣物のことである。習う=效うと思うな、と言うほどの教本であるから、モデルとなって模倣されることさえ否定するのである。これは、おそろしくラディカルなポジションである。
 ようするに、教本としての五輪書は、読むと思うな、習うと思うな、これをモデルとして真似もするな、というとんでもない教本なのである。では、その心はどういうことか。
 武蔵によれば、それは《我心より見出したる利にして、常に其身に成て、能々工夫すべし》ということである。教えられようと思うな、ということにとどまらず、さらに進めて、自分が自分自身で発明発見したものにしてしまえ、ということ。
 まさしく実はコミュニケーションとは、ディスコミュニケーションのことなのだ。太刀の道の修得は、断絶なくして伝達はありえないのである。
 前述の「これか」(This is it!)の話で言えば、前もって与えられた、所与の「それ」はあるもしれないが、自分が達する「これ 」があらかじめ存在するわけではない。自身の修行に先立って存在する「これ」はないのである。
 《我心より見出したる利》だというのは、ある意味では、自身が発明者となるようでなければ、いわば自身が流祖となるものでなければ、武蔵流ではないからである。
 このあたりのところ、禅家の師承関係に深い伝統があることは言うまでもない。とくに禅家における二祖慧可断臂説話は、ディスコミュニケーションとしての修学がその主題である。
時に神光なる者あり。昿達の士なり。久しく伊洛に居す。群書を博覧して、善く玄理を談ず。毎に嘆じて云く、孔老の教は礼術の風規、荘易の書は未だ妙理を尽さずと。其の年十二月九日夜、天大いに雪を雨らす。神光堅く立ちて動かず、明に到る。積雪膝を過ぐ。磨、憫みて問て云く、汝久しく雪中に立つ、當に何事をか求むべき。光、悲涙して云く、惟願わくは和尚、慈悲甘露の法門を開き、広く群品を度したまえ。磨云く、諸仏無上の妙道は、曠劫に精勤し、行じ難きを能く行じ、忍び難きを能く忍ぶ、豈に小徳小智、軽心慢心を以て、真乗を冀んと欲するは、徒に労し勤苦するのみと。光、磨の誨励を聞き、潜かに利刀を取り、自ら左の臂を断ちて、磨の前に置く。磨、是れ法器なることを知り、名を易て慧可と云ふ。(大川普済『五燈会元』)


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二祖調心図 伝石恪筆 南宋
東京国立博物館蔵




慧可断臂図 雪舟筆
愛知県常滑市大野町 斎年寺蔵

 ここで、校異の問題として指摘すべき箇所がいくつかあろう。それは、筑前系諸本と肥後系諸本を截然と区分する指標的差異である。すなわち、一つには、筑前系諸本に、
《此道にかぎつて、すこしなりとも道を、道のまよひ有てハ、悪道おつるもの也》
とあって、《道を違》《悪道に》とするところ、肥後系諸本には、《道を見ちがへ》《悪道へ》としている。ただし、後者の《悪道へ》は、肥後系円明流系統に《悪道ニ》とする例があるから、助詞表記のゆれとみなすことができる。問題は、筑前系が「道を違」とするのを、肥後系では「見」字を付して「見ちがへ」とするところである。
 もう一つは、筑前系諸本に、
《此書付斗を見て、兵法の道及事にハあらず》
とするところ、肥後系諸本には、《兵法の道には及事あらず》として、「には」と「に」が前後入れ替わっている。これも筑前系/肥後系を区分する特徴的な相異である。
 このように、ここに校異が集中しているので、いわば指標的差異の典型として、これを検討してみよう。
 従来の肥後系(とくに細川家本)中心主義的な見方からすれば、筑前系諸本の《道を違》は、たんに「見」字を脱落せしめたもので、正しいのは、「見ちがへ」だということになろう。また、筑前系が《兵法の道「に」及事「にハ」あらず》とするのは、《兵法の道「にハ」及事「に」あらず》とあったのを、誤って前後入れ替えてしまったのだ、ということになろう。
 しかるに、すでに各所で述べたように、現存肥後系諸本は門外流出後の写本の末裔なので、それをスタンダードとするわけにはいかない。しかも、筑前系写本において、新たに立花峯均系の越後諸本の発掘があったことにより、そんな肥後系写本中心の見方はできなくなった。
 つまり、筑前系諸本の早川系と立花=越後系に共通して同じ表記があるということは、それが筑前系初期からあったということを示す。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝した五輪書に、そのように記されていた可能性が高い。とすれば、筑前系現存写本の当該文言は、寺尾孫之丞前期の相伝写本の表記を伝えているわけで、肥後系諸本の文言よりもプライオリティがある。
 かくして、従来の見方は転覆される。すなわち、――筑前系諸本に《道を違》とあるのは、「見」字を脱字したものではなく、逆に、肥後系の《見ちがへ》の方が「見」字を錯入したものである。また、《兵法の道「には」及事「に」あらず》とする肥後系は、もともと《兵法の道「に」及事「には」あらず》とあったものを、「には」と「に」を誤って書き入れたものである、と。
 しかも、筑前系のこの《兵法の道「に」及事「にハ」あらず》は、肥後系の富永家本にも同じものが見られる。つまり、肥後系早期にこれがあったのである。富永家本は、肥後系諸本のうち、早期に派生した系統の子孫であって、たまたまこのように肥後系初期の字句表記を残していたとみなしうる。この表記をもたない肥後系諸本は、何れも富永家本の先祖が派生分岐した後の写本である。
 また、前者の《見ちがへ》は、内容分析においても、誤記として却下されよう。というのも、「道を見ちがへ」とは、いかにも後人の書記法である。本来は「道を違〔たがへ〕」とあったものである。ようするに、「道をはずれ」ということである。「外道」という語も前に出た通りである。ここは、「悪道におつる」という警告であるので、「道をたがへ」とあったところである。肥後系諸本のケースでは、この文意が見失われて、「見ちがへ」と変異したものである。これは寺尾孫之丞段階での字句ではない。
 肥後系におけるこの変異は、その早期に発生したものであろう。というのも、早期に派生した系統の子孫たる富永家本や円明流系統の諸本も、この肥後系の特徴を示すからである。
 言い換えれば、門外へ流出した後の早期の写本で、こうした変異が発生したのである。その後、肥後系の写本はこれをそのまま伝写して行ったので、現存写本にそれが殘ったのである。
 以上は、筑前系/肥後系を区分する指標的差異をいかに見るかについての、一つのパターンである。他には、同じく両系統を分ける指標的差異について、寺尾孫之丞段階の前期/後期の書記変異というパターンもある。しかし、ここでの校異は前者のパターン、寺尾孫之丞に帰することはできない、門外流出後に発生した誤記なのである。
 こうした所見は、我々の五輪書研究以外には見られないことである。したがって、これを読み進めている読者諸君は、まさに研究の最前線に立ち会っているわけである。   Go Back

*【吉田家本】
《此道にかぎつて、すこしなりとも道を、道のまよひ有てハ、悪道おつるもの也。此書付斗をミて、兵法の道及事にハ非ず》
*【中山文庫本】
《此道にかぎつて、少なりとも道を、道のまよひ有てハ、悪道おつるもの也。此書付斗をみて、兵法の道及事には非ず》
*【赤見家丙本】
《此道にかぎつて、すこしなりとも道を、道の迷ひ有てハ、悪道おつるもの也。此書付斗を見て、兵法の道及事あらず》
*【近藤家甲乙本】
《此道にかぎつて、すこしなりとも道を、道の迷ひありてハ、悪道おつるもの也。此書付斗を見て、兵法の道及事にハあらず》
*【石井家本】
《此道にかぎりて、すこしなりとも道を、道の迷ひありてハ、悪道おつるもの也。此書付斗を見て、兵法の道及事にハあらず》
*【楠家本】
《此道にかぎつて、少なりとも道を見ちがへ、道のまよひありてハ、悪道おつるもの也。此書付ばかりをミて兵法の道にハ及ことあらず》
*【細川家本】
《此道にかぎつて、少なり共道を見ちがへ、道のまよひありては、悪道落るもの也。此書付ばかりを見て、兵法の道には及事あらず》
*【富永家本】
《此道にかぎつて、少成共道を見違へ、道のまよひ有てハ、悪道落るものなり。此書付斗を見て兵法の道及ぶ事ニハ非ず》
*【狩野文庫本】
《此道にかぎツて、少成共道を見違、道のまよひ有てハ、悪道落るもの也。此書付斗を見て、兵法の道ニハあらず》




石井家本 当該校異箇処

 
   2 心の持ち方
【原 文】

一 兵法、心持の事。
兵法の道におゐて、心の持様ハ、
常の心に替る事なかれ。
常にも兵法のときにも、少も替らずして、
心を廣く直にして、
きつくひつぱらず、すこしもたるまず、
心のかたよらぬやうに、心をまん中に置て、
心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、
ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。(1)
静なるときも、こゝろハしづかならず、
何と早き時も、心ハ少もはやからず。
心ハ躰につれず、躰ハ心につれず、
心に用心して、身には用心をせず。
心のたらぬ事なくして、心を少もあまらせず、
上の心はよハくとも、底の心を強く、
心を人に見分けられざる様にして、
少身なるものハ、心に大なる事を残らず知り、
大身なるものハ、心にちいさき事を能知りて、
大身も小身も、心を直にして、我身の
ひいきをせざる様に、心をもつ事肝要也。(2)
心の内にごらず、廣くして、
廣き所に智恵をおくべき也。
智恵も心も、ひたとみがく事専也。
智恵をとぎ、天下の利非をわきまへ、
物毎の善悪をしり、
万の藝能、其道々をわたり、
世間の人にすこしもだまされざるやうにして、
後、兵法の智恵となる心也。
兵法の智恵におゐて、
とりわきちがふ事、有もの也。
戦の場、万事せわしき時なりとも、
兵法、道理を極め、うごきなき心、
能々吟味すべし。(3) 
【現代語訳】

一 兵法、心持ちの事
 兵法の道において、心の持ち方は、常の心と変ることがあってはならない。
 日常(の時)にも戦闘の時にも、少しも変らないようにして、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず少しもたるまず、心の偏らぬように心をまん中に置いて、心を静かにゆるがせて、そのゆらぎの一瞬も、ゆらぎやまないようにすること。これを、よくよく吟味すべきである。
 静かな時でも、心は静かではない。いかに早い時でも、心は少しも早くない。心は体〔たい・身体〕に連動せず、体は心に連動しない。心に用心して、身には用心をしない。
 心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、上〔表面〕の心は弱くとも、底の心を強く、心を人に見透かされないようにする。
 体の小さい者は、心に大いなることを残らず知り、体の大きい者は、心に小さいことをよく知って、体の大きい者も小さい者も、心をまっ直ぐにして、自分の身体を基準にしないように。そういう心を維持することが肝要である。
 心の内が濁らず、心を広くして、広いところへ智恵を置くべきである。智恵も心も、しっかりと磨くこと、それが専〔せん・第一〕である。
 智恵を研ぎ、天下の理非をわきまえ、あらゆる物事の善悪を知り、すべての武芸のそのさまざまな道を(広く)経験して、世間の人〔師匠〕に少しもまどわされないようにして、その後、はじめて兵法の智恵となるのである。兵法の智恵においては、とくに違う〔外れる〕ことがあるものだ。
 戦場では、万事慌しい時であっても、兵法において、道理を極め、動揺しない心、これをよくよく吟味すべし。
 

 【註 解】

 (1)其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに
 心の持ちようである。武蔵の教えでは、太刀の持ち方を教える前に、心の持ち方なのである。
 さて、まずは、心の持ち方は常の心と変ることがないように、常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにして…というわけである。
 何だ、それでは、「平常心」を説くのに終始する、よくある凡庸な精神論ではないか――という反応もあろう。ところが、五輪書はそんな話はしない。
 第一、なぜ常と変らぬ平常心が必要なのか。それは、わかりきったことだ――敵に勝つためである。
 凡庸な精神論が説くところでは、平常心そのものが目的みたいな話になるが、平常心そのものが目的ではない。だから、太刀を持つことを教える前に、心の持ち方を教える。それは初歩の初歩であって、目標ではない。このことは、五輪書を読む時、よく頭に入れておかなくてはならないことだ。
 太刀をどう持つか、ということと同じレベルで、この心の持ち方が語られるのである。心はもうひとつの道具にすぎない。だから、これを精神論と誤解してはならない。武蔵は、心というものに関してマテリアリスト(唯物論者)なのである。
 それゆえに、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず少しもたるまず…というような、物理的表現になるのである。これは比喩ではなく、道具としての心の扱い方、心の用い方を言っているわけだ。
 なかでも面白いのは、
《心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに》
とあるところ。「ゆるがせる」というのは、たんに「揺るがす」「動揺させる」という現代語の意味ではなく、ゆたかにゆったりと、という意味合いがある。だから、このゆるがす、ゆるぎというのは、ゆったりとしたゆらぎのことである。
 心を静かにゆったりとゆるがせる、そしてそのゆるぎの一瞬もゆるぎやまぬ、そういう状態が心の持ち方である。物を揺るがせていると、どうしても揺るがせる支点というもので出来て、それが動かないことがある。それでは揺らいでいることにはならない。そのゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬように、とは、ゆるぎの不動点そのものまでゆったりとゆるがすのである。
 これで、太刀を扱うのと同じレベルの話であることがお分かりだろう。ここでは心は物なのである。こうした「ゆるぎ」は、単なる平常心・不動心を語る言説では、決して出てこない言葉である。
 武蔵の五輪書よりも十数年先にできた柳生宗矩の『兵法家伝書』は、常の心について、
《常の心と云は、胸に何事をも残さず置かず、あとははらりはらりと捨てて、胸が空虚になれば、常の心なり》(活人剣)
という。よくある話である。平常心とは無心だというやつである。平常心のこういう通俗解釈には困ったものである。ようするに、何となく解る、という精神の共同体に依存しているだけのことである。
 平常心という言葉は手垢が着きすぎて、いまや口にするのが恥かしいほどである。むろん、禅門でいう「平常心」から来ているのだろが、この禅家の平常心〔びょうじょうしん〕は、通俗的教訓としての平常心〔へいじょうしん〕とは根本的に違う、というほどのことは知っておいてよい。
 武蔵の場合、「無心」などとは言わない。心は戦闘の道具であり、またそのようなものとして、心は物である。ここが、武蔵が「常の心」というとき、まさに肝腎なのである。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 










妙心寺東海庵
東海庵書院庭園










*【不動智神妙録】
《不動とは、動かずと申文字にて候、智は智恵の智にて候、動かずと申て、石か木かのやうに無性なる義理にてはなく、向へも、左へも、右へも、十方八方へ心を動き度様に動きながら、卒度も留ぬ心を不動智と申候》

*【無門関】
《南泉、因みに趙州問ふ「如何なるか是れ道」。泉曰く「平常心是れ道」。州云く「還って趣向すべきや」。泉曰く「向はんと擬すれば即ち乖く」。州云く「擬せずんば、争〔いかで〕か是れ道なることを知らん」。泉曰く「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶を太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非す可けんや」。州、言下に頓吾す》(平常心是道)

 
 (2)心に用心して、身には用心をせず
 ここの記述は、ほとんど現代語訳を要しない。そのまま原文を読めるであろう。またその方が、武蔵の語り口に直かに接することができるし、これが諸君に「つづく」(通じる)かどうか、それもまた実験である。
 蛇足に等しい若干の語釈を加えるなら、まず、「躰」〔体・たい〕は、ここでは心に対立する概念である。もともと「体」は、本体という意味であり、「用」〔ゆう〕という働き・作用の概念に対立するものである。このように、心を体に対立するのは、心が伝統的な「心」〔しん〕ではなく、心〔こころ〕というごく平凡な口語的概念になっているからである。したがって、「体」はここでは、身体という日常言語の意味へと降下している。
    《心に用心して、身には用心をせず》
というあたりも面白い。剣術の教本なら、まず身体に注意することを教えるだろう。ところが、身体に意を用いるより、まず心に用心しろというわけだ。このあたりも常識的な教説をひっくり返している。
 柳生宗矩『兵法家伝書』には、いわゆる無刀取りについて、取る事をはじめから本意とはしないこと、間の積りをよく心得るためだ、敵とわが身の間にどれ程あれば、敵の太刀が当たらないという事を見積もるのだ、という。
 この間の積りということは、一般的に言われることである。このような思考環境では、武蔵の《心に用心して、身には用心をせず》というテーゼは、際立って異質であろう。
 また、肥後兵法書には、その間の積りを、《間を積心あれバ、兵法居付もの也》として、批判している。しかしその前に、《大形は、我太刀人にあたる程の時は、人の太刀も我にあたらんと思ふべし。人をうたんとすれば、我身をわするゝものなり》とあって、攻撃の最中、わが身に太刀の当たるのを忘れるな、という教えを述べる。すると、これはまた、《身には用心をせず》という五輪書の趣旨とは違う話である。
 したがって、五輪書の《心に用心して、身には用心をせず》は、ある意味では後継をもたない孤立した教義である。武蔵の門流でさえ、これを敷衍するものがないのである。
 さて、五輪書の教えに戻って、続いては、
    《上の心はよはくとも、底の心を強く》
ともいう。「上の心」「底の心」とは何か。どうやら武蔵によれば、「心」は上(表面)と底に分裂しているという心的モデルの図式のようである。そこから表面の方を弱くして、底の方を強くするという、心の操作を語る。
 だから、本心は奥に潜んでいて、その本心を強化しろ、と武蔵が言っているのだというような解釈は間違いである。ここでは、上も底も二つの心を操作するポジションを語っているのである。すると、この二つの心を操作する心は、どこにいるのか。どこにもいないのである。場所をもたないのである。主体とは本来、場所なきものである。
   《心を人に見分けられざる様にして》
つまり、心を人に見透かされないように…というのは、心は内面のことだと思っていると間違う。人の心ほど外面的なものはない。したがって、武蔵において心が道具である以上、この外面に露呈した心を道具として使えるということになる。




伝武蔵筆 直指人心


*【兵法家伝書】
《無刀はとる用にてもなし。人をきらんにてもなし。敵から是非きらんとせば、取べき也。取事をはじめより本意とはせざる也。よくつもりを心得んが爲也。敵とわが身の間何程あれば太刀があたらぬと云事をつもりしる也》

*【肥後兵法書】
《 間積の事
一 間を積ること、他には色々あれども、今傳るところ、別の心あるべからず。いづれの道なりとも、其事になるれバ、能知るゝものなり。大形は、我太刀人にあたる程の時ハ、人の太刀も我にあたらんと思ふべし。人をうたんとすれば、我身をわするゝものなり。間を積心あれバ、兵法居付もの也。能々吟味すべし》



赤見家丙本
 こうした五輪書の思考からすると、肥後兵法書の対応箇条「心持の事」は、まったく内容が薄い。
 つまり、心の持ち方について、まず、「めらず、からず」という。この「める」「かる」は、「めりかり」という語にあるごとく、漢字で書けば「減る」「上る」ということ、つまり気勢が縮退する、高揚することである。――異本に、この「からず」を「かゝらず」に作るのは誤写。「める」「かる」という語を知らぬ者のようである。――「め(減)らず、か(上)らず」は、気持ちが消極的になるのでもなく、積極的になるのでもないということ。そこまでは、まあよかろう。
 次の「たくまず、おそれず」となると、これはいかがか。「たくむ」は計略を仕懸ける積極性、「おそれる」は逆に敵を恐怖する気分の縮退である。五輪書は、いわば「たくみ」満載の兵法書であるから、「たくまず、おそれず」というポジションそのものが武蔵的ではない。
 このあたり、五輪書本条では、前に、《心の持様ハ、常の心に替る事なかれ。常にも兵法のときにも、少も替らずして、心を廣く直にして、きつくひつぱらず、すこしもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中に置て》とあって、心の物理学を語り、常の心と変わりなくあれ、というわけである。肥後兵法書では話がズレている。
 また肥後兵法書には、「意の心をかろく、心の心を重く」とある。これは、五輪書にはない文言で、本条では《上の心はよハくとも、底の心を強く》にやや類似がみられるところだが、それにしてもこれは、《心を人に見分けられざる様にして》という文脈である。
 また、右掲のごとく、同書の別の一條に「残心放心の事」とあって、武蔵以後の思考の特徴が示されているところである。
 すなわち、常の時は、「意」の心を放ち、「心」の心を残す。これに対し、戦闘時、敵を打つ際には、「心」の心を放ち、「意」の心を残すという。こうした「意/心」の思弁図式は、もちろん五輪書にはないもので、後に肥後武蔵流で発生した新義である。
 五輪書の教えには、そんな常時/戦時の心の使い分けはない。むしろ、《心の持様ハ、常の心に替る事なかれ。常にも兵法のときにも、少も替らずして》と明確に述べている。
 肥後兵法書の「心持の事」には、「心を水にして、折にふれ、事に應ずる心なり。水に碧潭の色有。一滴も有、滄海も有。能々工夫すべし」とある。地之巻に記す水之巻概説の文言を流用して、話がいわば心法論へ変形されている。もとより、これが「心持の事」だとすれば、五輪書本条の強い内容とは違って、まさに軟弱で稀薄な話のなりゆきである。
 これは一例だが、五輪書と肥後兵法書を対照させてみれば、武蔵の書きそうもない内容が肥後兵法書には散見される。「心持」といっても、五輪書のそれは、かなりハードな教えである。

 次もかなり意表を衝く話である。
《大身も小身も、心を直にして、我身のひいきをせざる様に》
 すなわち、武蔵は、体の大小、大男・小男のそれぞれのケースのあることに言及して、身体サイズという、これまたフィジカルな、物理的な話になるのである。
 ちなみに、語釈に関してのことだが、この「大身・小身」について、これは社会的身分のことではないか、という質疑があろう。つまり、同じ武家でも、「大身」とは知行高の大きい上級武士で、「小身」とは下級の武士だろうと。
 しかし、ここでの文脈では、武蔵は一貫して心と身体の話をしているのであって、社会的ステイタスがどうのという話はしていない。もしこれが社会的ステイタスの高い低いの話なら、ここでは武蔵の言説はたんなる道学者流でしかない。そうではなく、武蔵はフィジカルな身体サイズの話をしているのだと知るべきである。ここでの話は、モラルではなく、ハードなのである。
 なぜ、身体の大小が問題なのか。通常、武道なら自分の身体特性を認識するのが先決事項であろう。相手のことより、まず自分がどういうものか、きちんと認識すること。しかし武蔵の話では、まず相手のことを知れということだ。
 体のサイズの似たもの同士ならまだしも、たしかに大男は小男のことが理解できないし、小男は大男のことを理解できない。だから、小男は大男のことを、大男は小男のことを、知悉しなければならないとする。身体サイズという物理的条件は、戦闘術においてある意味で絶対的な条件である。それゆえに、自身のサイズを基準にして戦ってしまう。それではいけない。
 人は無意識のうちに、自身の身体図式を作りあげてしまっている。まず自身の身体図式を解体し、《我身のひいきをせざる様に、心をもつ事肝要也》、つまり、自分の身体図式を基準とした偏った動きをしないこと、そのように心を維持することが大事だと云うのである。諸個人それぞれの身体図式こそ、偏見の根源である。この根源的シェーマを、訓練によって解体すべきなのである。
 これが武蔵のしばしば言う「相手の身になって考える」ということである、つまりその相手を殺すために。   Go Back



*【肥後兵法書】
《 心持の事
一 心の持やうハ、めらず、からず、たくまず、をそれず、直に廣くして、意の心をかろく、心の心を重く、心を水にして、折にふれ、事に應ずる心なり。水に碧潭の色有。一滴も有、滄海も有。能々工夫すべし》













*【肥後兵法書】
《 殘心放心の事
一 殘心放心は、事により時に隨ふものなり。我太刀を取て、常には意の心を放ち、心の心を殘すものなり。又敵を慥かに打時は、心の心を放ち、意の心をのこす。殘心・放心の見立、色々あるものなり。能々工夫すべし》


















大男と小男

 
 (3)廣き所に智恵をおくべき也
 ここの記述も、ほとんど現代語訳を要しないであろう。
 語釈ということでは、ここでいう「智恵」は、仏教教学でいう智慧から発するが、ここでは、日常言語で用いる智恵である。つまり、単なる知識ではなく、実践的な智恵、「策略」という意味もふくめた智恵である。
 兵法の智恵である。心の内が濁らず、心を広くして、広いところへ智恵を置くべきである。智恵も心も、しっかりと磨くこと、それが専〔せん・第一〕である。とはいえ、武蔵は精神修養を目的とするのではない。兵法の智恵を獲得するのが目的である。このあたり、近代、誤解が多い。
 広いところへ智恵を置くというのは、狭い了見からではなく、物事を客観的に判断しろ、というほどの意味である。この客観性が実は難しい。人間の判断はいつも、主観的偏見の色眼鏡に左右されているからだ。しかし武蔵は、これを認識論として言っているのではない。敵を倒すためには、どんな時でも、物事を客観的に判断するだけの、「うごきなき心」をもつ必要があるというわけだ。
 これを「不動心」と云えばいえなくもないが、武蔵はここでわざとその語を回避している。「不動心」ではなく、「うごきなき心」なのである。
 智恵を研ぎ、天下の理非をわきまえ、あらゆる物事の善悪を知ること。――武蔵は何を言いたいのか。天下の理非というところからすれば、公儀政事のことまで、その理非曲直を自分で判断できるようになれ、ということである。これは当時の権威主義的な秩序からすれば、かなり危ない教訓である。武蔵の思想的スタンスを示すところである。
 そうして、云う。――すべての武芸のその道々を広く渉って、さまざま経験をすること、世間の人に少しも欺かれないようにして、その後、はじめて兵法の智恵となるのだ、と。
 面白いことに、ここで武蔵は、
《世間の人にすこしもだまされざるやうにして》
という。この、世間の人にだまされるな、とはどういうことか。しかも、人にだまされないことが、兵法の智恵を獲得する条件の一つのようなのだ。
 もちろん、これは、詐欺にひっかからないよう用心しろ、ということではない。他人を信じるな、という話でもない。五輪書が肥後で書かれたというその執筆環境からすれば、親心があったのかもしれない。武蔵は、上方文化の中で人となった。そんな人物からすれば、見てはおれない、田舎武士の子弟に、《世間の人にすこしもだまされざるやうに》とつい言ってしまう場面もあろう。前に《花をさかせ色を飾り》という話も出ている。
 ただし、これは、万事、善悪理非を自分で判断できるようになれ、ということの別の側面である。世間の通念に惑わされるな、ということでもある。「不動心」ではなく「うごきなき心」である。
 言い換えれば、他人の判断に頼ることがなければ、人にだまされることもない。あくまでも武蔵は、思考と判断において、他人に依存しない自立した人間になれ、と教えているのである。
 こうした言説を見るに、武蔵は、武士の子弟を相手に、武士としての生き方の根本を教えている格好である。これは太刀筋を教える兵法教本としては異例のことである。それだけではなく、武蔵の教えは、当時においては、ある意味で至極古典的な武士の道である。個として自立した武士、主従関係の中にありながら、それを双務契約とする、古き武士の独立したポジション、それを教えるのである。
 これが、後世のいわゆる「武士道」とは違う、「武士の道」だということは申すまでもない。それは我身を助け名を助ける道である。権力の集中ではなく分散、集団よりも個という意味では、戦国武士の気風である。戦うのは死ぬためではなく、勝つためだ。兵法の智恵とは、その勝つための道具なのである。
《智恵も心も、ひたとみがく事専也》
 智恵を研ぎ、心を磨く。これは、智恵も心も、太刀や鑓と同じく、兵法の道具だからだ。それを日々に研ぎ磨くのである。
 もちろん、禅坊主が教えるように、心の修養ができなければ、剣も強くなれないということではない。武蔵の教えは逆である。心を磨くのは、ほかならぬ、その心が「物」であり、戦闘の道具だからだ。大工が不断自分の道具を磨くように、武士は日々武器を磨かなければならぬ。その武器の一つが心なのである。だから、心の修養はそれじたい手段なのである。心法に偏った教えは本末顛倒である。悟り澄ますことは武士の道ではない。
 それゆえ、武蔵は兵法の心持について、兵法の智恵ということをかぶせてくる。それは心法主義への歯止めである。
 心の内濁らず、水のように清らかであれとは、曇りなき心で物事を客観的に判断できるようになれ、ということである。武蔵が教えるのは、悟り澄ますことではなく、道理を極め、善悪理非を自分で判断できること。ようするに武蔵の教えは、あくまでも合理主義的であり、その合理性のために、心を濁らせるな、と教えるのである。
 このあたり、戦前戦後を通じて世間に誤解があるので、あえて言っておいた。武蔵の言のごとく《智恵も心も、ひたとみがく》ことがなければ、五輪書は読めないのである。











近藤家甲本





















 
――――――――――――

 ここで諸本校異について、指摘すべきところが一つある。すなわち、それは本条末尾、筑前系諸本に、
《戦の場、万事せわしき時なりとも、兵法、道理を極め、うごきなき心、能々吟味すべし》
とあって、《兵法、道理》とするところである。ところが、同じ筑前系でも、早川系の中山文庫本には、《兵法の道理》として「の」字を入れる。また、越後系の猿子家本や澤渡家本も同前である。
 他方、肥後系諸本は共通して、これを《兵法の道理》として「の」字を入れる。そうすると、筑前系/肥後系を横断して共通なのは、「の」字を入れるかたちだから、これが古型である。筑前系では中山文庫本や猿子家本等が正しく、他の諸本は、《兵法の道理》の「の」字を脱字したのである、――そういう結論になろう。
 ところが、まさにそんな具合には結論できないところが面白いのである。筑前系諸本のポジションを勘案すれば、それとは逆の結論に到るのである。
 つまり、諸本の先後をみればよろしい。同じ早川系でも、比較的早期とみなしうる伊丹家水之巻甲本では、《兵法、道理》として「の」字を入れないが、後期写本の伊丹家水之巻乙本では、《兵法の道理》として「の」字を入れる。また、立花=越後系諸本でいえば、「の」字を入れる猿子家本は後期写本であり、したがって写し崩れが多い。同じく、越後村上系の赤見家丙本は《兵法、道理》として「の」字を入れないが、再写本である澤渡家本には、「の」字を入れる。
 こうした事情を勘案すれば、筑前系において、立花系・早川系とも、古型は「の」字を入れないものであり、後の写本になって「の」字が現れるのである。
 そうすると、筑前系/肥後系を横断して共通すると言えるものが消えてしまった。言い換えれば、《兵法の道理》の「の」字は、筑前系/肥後系の両方で別箇に発生した後発的誤記である。筑前系の本来の字句は《兵法、道理》であり、肥後系の《兵法の道理》とは異なるのである。
 とすれば、いかなる結論に至るか。――筑前系の初期形態は、《兵法、道理》の方である。そして、既出例と同様にして、筑前系の初期形態は寺尾孫之丞段階に遡りうるかたちであり、これが古型である。
 かくして、上記の結論は転覆される。すなわち、この箇処の古型は、《兵法の道理》ではなく、むしろ「の」字を缺く《兵法、道理》である。肥後系諸本の《兵法の道理》は、筑前系の一部写本と同じく、後になって発生した誤写による衍字である。
 以上のように、従来の所見が変更されたのは、越後系諸本の発掘がその契機である。広く諸本を比較照合しなければ判断を誤る、という例がこれである。
 肥後系諸本ばかりを見ていては判断を誤ることはもちろんだが、筑前系も従来のように早川系しか知らぬようでは、このケースのように正誤判断を誤る。それゆえ、五輪書研究には、異系統の諸本を広く漁渉して比較照合することが必要なのである。   Go Back



*【吉田家本】
《兵法、道理を極め、うごきなき心》
*【伊丹家甲本】
《兵法、道理を極め、うごきなき心》
*【中山文庫本】
《兵法道理を極め、うごきなき心》
*【近藤家甲乙本】
《兵法、道理を極め、うごきなき心》
*【石井家本】
《兵法、道理を極め、うごきなき心》
*【伊藤家本】
《兵法、道理を極め、うごきなき心》
*【猿子家本】
《兵法道理を極め、動きなき心》
*【赤見家丙本】
《兵法、道理を極め、うごきなき心》
*【澤渡家本本】
《兵法道理を極め、うごきなき心》
*【楠家本】
《兵法道理をきわめ、うごきなき心》
*【細川家本】
《兵法道理をきわめ、うごきなき心》
*【富永家本】
《兵法道理を極め、動きなき心》
*【狩野文庫本】
《兵法道理を究、うごきなき心》



石井家本 「兵法、道理を極め」

 
   3 目つき・顔つき・姿勢
【原 文】

一 兵法、身なりの事。
身のかゝり、顔ハうつむかず、あをのかず、
かたむかず、ひずまず、
目をミださず、額にしわをよせず、
眉あひにしわをよせて、
目の玉のうごかざる様にして、
またゝきをせぬやうに思ひて、
目を少しすくめる様にして、うらやかにみゆる顔。
鼻筋直にして、少おとがひに*出す心也。
首ハ、うしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、
肩より惣身はひとしく覚え、
両の肩をさげ、背筋をろくに、尻を出さず、
膝より足先まで力を入て、
腰のかゞまざるやうに、腹をはり、
くさびをしむると云て、脇ざしのさやに
腹をもたせて、帯のくつろがざる様に、
くさびをしむる、と云おしへ有。(1)
惣而、兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、
兵法の身を常の身とする事、肝要也。
能々吟味すべし。(2)
【現代語訳】

一 兵法、身なりの事
 身のかかり〔搆え〕は、顔は、俯〔うつむ〕かず、仰向かず、傾かず、歪ませない。
 目を剥くような目つきはせず、額に皺を寄せず、眉の間に皺を寄せて、目の玉が動かないようにして、瞬きをせず、目を少し細めるようにして、のどかな感じのする顔。鼻すじはまっ直ぐにして、頤〔おとがい〕については、少し(前に)出す感じである。
 首は、後ろの筋をまっ直ぐにして、頸〔うなじ〕に力を入れて、肩から全身にかけては均斉を心がけ、両肩を下げ、背すじを真っ直ぐにし、尻を出さず、膝より足の先まで力を入れて、腰の屈まないようにして、腹を張る。楔を締めるといって、脇差の鞘に腹を持たせ、帯の弛まないように、楔を締めるという教えがある。
 総じて、兵法の身(なり)において、常の身〔日常身体〕を兵法の身〔戦闘身体〕とし、兵法の身を常の身とすること、これが肝要である。よくよく吟味すべし。
 

 【註 解】

 (1)身のかゝり
 ここから具体的な身体技法の話である。
 ここでいう《身のかゝり》の「かかり」とは、体勢、搆えのことである。「門のかゝり」というと、門構えのことである。かくして、《身のかゝり》とは戦闘の体勢のことである。
 ここで、武蔵が「身の搆え」とは云わず、「かかり」という語を用いているのは、そのように、戦闘にとりかかる体勢だからであるが、またもうひとつは、ここが入門篇の入口だからである。「かかり」には、入口という意もある。ようするに、とっかかり、手はじめ、というニュアンスも含んでいる。そんな武蔵のポリフォニックな修辞法にも留意されたい。
 ――おいおい、まだ太刀を持たせてもらえないのかい、という声が聞こえそうだが、残念ながらその前に習い覚えることがある。顔をどうつくるか、全身をどう整えるか、これをマスターしないとまだ初歩の初歩から出ないのである。
 太刀は道具であるが、前述のように、武蔵のばあい、人間の身体も心も道具である。心は根本的(fundamental)な道具で、次のステップとして身体の話になるという次第である。
 ここでは、「身のかゝり」をどうするか、つまり太刀を持つ手足より先に、顔や全身をどう搆えるかという話である。
 身の「なり」というのは、形姿のこと。関西語では「なりが悪い」といった表現で残っている「なり」である。つまりは外面的な体裁のことだが、この外面に現れる諸要素を武蔵は問題にするわけである。
 心が内面の問題ではなかったように、むろん身体も内面的なものではない。戦闘身体の可視的体裁をどう整えるか、これは、武蔵の教え方が、徹底して外面に露呈するものを問題にしているということである。

 さて、武蔵のいう「身のかゝり」だが、文中では分かりにくそうだから、以下に、箇条書きにして列挙してみよう。
・顔は俯かない、上を向かない、傾けない
・顔を歪めない
・目を剥かない
・額に皺を寄せず、眉間に皺を寄せる
・目の玉を動かないようにして、瞬きをしない
・目を少し細めるようにして、のどかな感じのする顔つき
・鼻すじはまっ直ぐにして、頤には少し前に出す気持
・首は後ろの筋をまっ直ぐにして、頸に力を入れる
・両肩を下げ、背すじをまっ直ぐ伸ばす
・尻を出さず、膝より足の先まで力を入れる
・腰が屈まないようにし、腹を張る
 これはかなり具体的な話である。それぞれについて、読者も試してみるといい。こんな顔や姿勢のことですら、実際に体でやってみないことには、わからない。そういうものなのである。

 ところで、ここではやはり語釈の点で問題があろう。一つは、諸本に《目をミださず》とあるところ、これは富永家本や狩野文庫本などに記すごとく、《目を見出さず》ということである。
 岩波版は細川家本の《ミださず》を変えて「みださず」とするが、このことから戦前から現代語訳は奇怪なことになった。
 つまり、この岩波版の「みださず」を、「見出さず」ではなく、「乱さず」と読んでしまったのである。そうして意訳して、「目を(きょろきょろ)動かさない」という誤った現代語訳が生れることになった。これは却下すべき馬鹿げた誤訳である。
 それは、戦前の石田訳が、「目をキョロキョロさせず」と訳したのが皮切り、そして戦後の神子訳がこれをそのまま踏襲した。ところが、次の大河内訳と鎌田訳になると、これが「目を動かさず」と変る。これは神子訳の言い換えにすぎないが、ようするに原文《目をミださず》からかけ離れてしまった。「見出さず」が「動かさず」になってしまったのである。これも現代語訳の珍訳の典型である。
 「目を見出さず」とはつまり、戦いになると目を剥いて、アグレッシヴな目つきになるが、そんな目の玉が飛び出すような目つきをするな、ということだ。だから、武蔵の肖像で右のようなものがあるが、これはあまりにも武蔵流ではない顔である。
 他に、現代語では少しわかりにくそうなのが、「背すじをろくに」という部分である。この「ろく」は、武蔵流ではよく用いられる語であるから、少し立ち入って見ておく。
 まず、「ろく」というのは、「陸」の呉音から来たものらしい。もとの意味は、大地のように水平であるということ。現代語でも、「陸屋根」という建築用語があり、これは水平な屋根、ということである。
 また、「ろく」は「直」とも書く。つまり、まっ直ぐな、という意味である。そこから、姿形が正しいこと、正立である。「ロクでもないやつ」というのは、まっ直ぐ立っていない人間のことである。
 ただし、真っ直ぐといっても、硬直があっては「ろく」ではない。平らかにゆったりとしているのが「ろく」である。かくして、こうしたコノテーションもあわせて、武蔵流の「ろく」は、真っ直ぐという意味である。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 







九州大学蔵
吉田家本






丹羽信英像







*【現代語訳事例】
目をキョロキョロさせず》(石田外茂一訳)
《目をきょろきょろさせず》(神子侃訳)
《目を動かさず》(大河内昭爾訳)
《目を動かさず》(鎌田茂雄訳)

島田美術館蔵
二天兵法元祖像
うらやかな顔ではないが

 また、ここでは校異の点で問題があろう。若干それを指摘しておきたい。
 まず一つは、《眉あひにしわをよせて》という部分、肥後系楠家本は、これを、「しわをよせず」と否定形で書いている。しかし、筑前系/肥後系諸本に共通してある通り、ここは「よせて」が正しい。なぜなら、額に皺をよせず、皺は眉間の方によせた方がよいという教えだからだ。
 これは肥後系他本にはない誤記である。では、この点、楠家本のポジションはいかに。この「よせず」という誤記は、越後系諸本のうち、写し崩れの多い猿子家本にそれがある。ということは、これに関するかぎり、楠家本も同じような後発性を示すということである。内容もよく見ないで、楠家本が古いなどとするのは誤りである。
 ところで、興味深いのは、数多い粉本の先師武蔵像である。その顔は目を剥いた醜悪な顔つきだが、むろん「うらやかにみゆる顔」どころではない。それをみると、五輪書の教えとは逆なのだが、ことほど左様に、極端に眉間に皺をよせたかっこうである。奇妙なことではある。
 もう一つは、ここのタイトル、《兵法、身なりの事》である。筑前系諸本は「の」字を入れないのであるが、肥後系は《兵法身なりの事》として「の」字を入れる。
 肥後系の例外は、田村家本と多田家本である。これらは何れも後期写本であるから、肥後系に「の」字を入れない早期写本があったとは見なしえない。前後の条々を勘案して、整合性のある《兵法、身なりの事》としたもののようである。肥後系では、早期から「の」字が入ったのである。
 ところで、肥後系諸本は、前条の「兵法、心持の事」では「の」字を入れないのに、ここでは入れる。いささか恣意的であるが、こうした「の」字の出没は、書写段階でいつも発生することである。
 たとえば、《目の玉うごかざる様にして》の箇処でも、肥後系諸本のうちの、楠家本・富永家本などは、筑前系諸本と同じく「の」字を入れるが、細川家本・丸岡家本・田村家本では、「の」字を落としている。
 こうした肥後家諸本の間の表記のばらつきは、門外流出後の写本の子孫だから、あって当然のことだが、ここは細川家本・丸岡家本・田村家本が誤りで、楠家本・富永家が正しい。そういう判定がつくというのも、筑前系諸本との照合が可能になったからである。肥後系諸本だけを見ていては、甲乙正誤の弁別がつかないのである。
 またこのように富永家本が正しいということは、すでに一連の校異で見たように、富永家本が早期に派生した系統の子孫であって、肥後系早期のかたちをしばしば保存している「こともある」という一例である。もちろん富永家本自体は後期写本なので、写し崩れがかなりある。この箇処でも、後の《して》という二字を落としている。
 次の校異は、以上の偶発的な誤記よりも、ある意味で重要な相異である。すなわち、筑前系諸本に、
《鼻すぢ直にして、少おとがい出すこゝろ也》
とあって、《おとがいに》と、「に」字を記すところ、肥後系諸本では、《おとがい出す》として、これを「を」字に作る。
 これは、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的な相異である。つまり、筑前系諸本は共通して「に」字を書くのに対し、肥後系諸本は共通してこれを「を」と記す。
 筑前系諸本が、吉田=早川系だけではなく、立花峯均系の越後諸本でも、共通して同じ字句を記すばあい、これは筑前系初期からあったものとみることができる。したがって、これの古型は「に」という文字である。
 しかし、「頤に」というよりも、「頤を」とあった方が文意がストレートに通りやすい。それは当時の人々も同じだったと見えて、「に」(尓)字を「を」字にあっさり誤読したらしい。これは訂正の意識があったというよりも、たんなる誤読であろう。門外流出後の肥後系初期に、この文字変異が生じた。そうして、以後の写本はみな、ここに「を」字を書くようになったのである。
 ところが、寺尾孫之丞段階では、ここは《少おとがい「に」出すこゝろ也》だった。その文意は、「頤〔おとがい〕については、少し前に出すという感じ」ということである。筑前系諸本は、この《少おとがひ「に」出すこゝろ也》という文を正確に伝えたが、肥後系はその早期に、この「に」字を「を」字にあっさり変えてしまったのである。
 これも、肥後系諸本だけを見ていては、分らぬことである。しかも、とりわけ現代語の感覚では、「少し頤を出す感じ」という方が分りやすいので、これが「頤を」ではなく「頤に」だったことに気づかない。そのため、これまで誤記が放置されてきた箇処なのである。
 これは、現代の言語感覚では、あっさり滑らかに文意が通らず、抵抗のあるところ、そこに古型があったという例である。史料批判も「我身のひいきをせざること」という武蔵の教訓に学ぶのである。   Go Back




*【楠家本】
《ひたいにしはをよせず、まゆあいにしわをよせず

*【猿子本】
《額にしハをよせず、眉あいにしハよせず



*【吉田家本】
《兵法、身なりの事。(中略)目の玉うごかざる様にして》
*【伊丹家甲本】
《兵法、身なりの事。(中略)目の玉うごかざる様にして》
*【赤見家丙本】
《兵法、身なりの事。(中略)目の玉うごかざる様にして》
*【近藤家甲乙本】
《兵法、身なりの事。(中略)目の玉うごかざる様にして》
*【石井家本】
《兵法、身なりの事。(中略)目の玉うごかざる様にして》
*【楠家本】
《兵法身なりの事。(中略)めの玉うごかざるやうにして》
*【細川家本】
《兵法身なりの事。(中略)目の玉【】うごかざるやうにして》
*【丸岡家本】
《兵法身なりの事。(中略)目の玉【】不動やうにして》
*【富永家本】
《兵法身なりの事。(中略)目の玉うごかざるやうに【】》
*【田村家本】
《兵法、身ナリノ事。(中略)目ノ玉【】動ザルヤウニシテ》


*【吉田家本】
《少おとがひ出すこゝろ也》
*【伊丹家甲本】
《少おとがひ出す心也》
*【赤見家丙本】
《少おとがい出すこゝろ也》
*【近藤家甲乙本】
《少おとがい出すこゝろ也》
*【石井家本】
《少おとがい出すこゝろ也》
*【伊藤家本】
《少おとがい出すこゝろ也》
*【楠家本】
《少おとがい出す心也》
*【細川家本】
《少おとがい出す心なり》
*【富永家本】
《少しおとがひ出す心なり》
*【狩野文庫本】
《少しおとがひ出す心也》


少おとがいに出すここゝろ
 
 (2)常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事
 身の持し方についての心得である。
 前に心の持ち方のところで、兵法の道において、心の持ち方は常の心と変ることがないようにすること。常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにすること――とあったが、こんども同様に、兵法の身、戦う身においては、常の身(日常身体)を兵法の身(戦闘身体)とし、その戦闘身体を日常身体とすること、これが肝要であるというのである。
 ただし、若干注意すべきことを言えば、これは心ではなく身体のことである。精神論ではなく、道具・武器の一部としての身体の話である。
 前に引いた柳生宗矩の『兵法家伝書』は、「常の心」を言うにとどまる常識的なところである。すなわち、「平常心是道」を解説する右掲の箇処で見れば、――道とは何かとの問いに、常の心がそのまま道であると答えられた。まさに究極のことである。これは心の病をすべて捨て去り、常の心となって、病とまじりあっても病ではないという状態である。これは仏法のことだが世俗のことで言えば、弓を射るとき、弓を射るぞという心があれば、弓先が乱れて定まるまい。太刀をつかうとき、太刀をつかうぞという心があれば、太刀先が定まるまい。物を書くとき、書くぞという心があっては筆先が定まるまい。琴を弾くにしても、琴を弾くぞという心があっては曲が乱れよう。弓を射る人は、弓を射るぞという心を忘れて、何事もしていない常の心で弓を射るならば、弓が定まるであろう。太刀をつかうのも、馬に乗るのも、太刀をつかわぬとき、馬に乗らぬときの心で、また物を書くのも、琴を弾くのも、物を書かぬとき、琴を弾かぬときのように、すべて何事もしないときの、常の心になって行なえば、すべてのことは、難なくするすると行くものである、云々――。
 心の病とは本来、世俗的執着心のことで、それを去って聖なる境位へ出るばかりか、仏教はむしろ、俗塵に混じって汚れない聖なる境位を説くものであった。そこから凡聖一如、禅家では「平常心是道」というテーゼが出てくる。ついで、これを世俗側から「転用」して、上記の柳生宗矩のような通俗解説が出てくるのだが、これが「常の心」を語る当時の常套句であった。
 ところが武蔵は、むろんそれを知っていて、「常の身」を言うわけである。武蔵は当然、寛永九年(1632)の柳生宗矩『兵法家伝書』は知っていて、「常の身」ということを書いているのである。これは柳生宗矩の「平常心論」のパロディとして機能する。言うならば武蔵は、
 ――常の心と云うなら、常の身ではどうかな。
という具合なのである。
 なるほど、心持ちを常の心と変ることがないようにすること、というのは分かる気がするが、常の身(日常身体)を兵法の身(戦闘身体)とすること、というのは難しい。
 戦闘のとき身体はアドレナリン分泌でエキサイトしてしまう。その興奮を抑えるのは難しい。まして、戦闘身体を日常身体とすることは、なおさら難しい。なぜなら、「日常身体を戦闘身体とすること」ができないと、戦闘身体を日常身体とすることはできないからだけではない。戦闘身体は凶器としての身体である。こんなものを日常身体にするというのは、まったく難題なのである。
 しかし、こんな難題をケロリと言ってしまうのが、武蔵流である。だから話は、不意に武蔵の本質が露呈するところへ走る。   Go Back








*【兵法家伝書】
《僧問古徳、如何是道。古徳答曰、平常心是道。
 右の話、諸道に通じたる道理也。道とは何たる事を云ぞととへば常の心を道と云也とこたへられたり。実に至極之事也。心の病皆さつて、常の心に成て、病を交りて、病なき位也。世法の上に引合ていはば、弓射る時に、弓射とおもふ心あらば、弓前みだれて定まるべからず。太刀つかふ時、太刀つかふ心あらば、太刀先定まるべからず。物を書時、物かく心あらば筆定るべからず。琴を引とも、琴をひく心あらば、曲乱べし、弓射る人は、弓射る心をわすれて、何事もせざる時の、常の心にて弓を射ば、弓定るべし。太刀つかふも馬にのるも、太刀つかはず、馬のらず、物かかず、琴ひかず、一切やめて、何もなす事なき常の心にて、よろづをする時、よろづの事難なくするするとゆく也》


芳徳寺蔵
柳生宗矩坐像



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