さて、五輪書に肥後系諸本しかないのかといえば、実はそうではない。それらとは別系統の筑前系諸本がある。
以前から知られていたのは、中山文庫本である。吉田家本が世に出る以前では、筑前系五輪書は中山文庫本しか知られていなかった。そういう環境条件では、中山文庫本の位置づけはできず、それゆえ、中山文庫本を異端例外として無視し、数の多い肥後系諸写本を中心にした五輪書の見方しかできなかった。
しかし、筑前系吉田家本が知れるようになって、既知の中山文庫本が、単なる例外文書ではなく、むしろ逆に、筑前系五輪書相伝の姿をそれなりに伝えている史料だということが、ようやく判明したのである。また、中山文庫本は、字句の点でも吉田家本に近似しており、両者は近縁関係にあることも、我々の内容分析により判明した。
筑前系の伝書は、肥後系諸本とはちがって、空之巻に代々相伝証文が備わっており、身元のたしかな門流内の相伝文書である。
なかでも、吉田家本空之巻冒頭文書に限っていえば、それは延宝八年(1680)に柴任美矩が吉田実連に伝授したもので、五輪書としては、これが現存最古の写本である。十七世紀の五輪書写本と確実に認めうるのは、現在までのところ、この吉田家本空之巻のみである。それ以外は、筑前系・肥後系ともに現存写本はすべて十八世紀以降のものである。
この吉田家本にしても、その空之巻以外の四巻は、柴任美矩→吉田実連の段階のものではなく、後世の書写によるものである。内容を比較照合すると、吉田治年が実連から預かったというものとはどうやら違うらしい。吉田実連の甥・早川瀬兵衛実寛の系統から、後に逆輸入されたものともみえる。我々は後にこれを、中山文庫本とともに筑前早川系として括るようになる。
他方、吉田実連から立花峯均へ伝わった五輪書は、いまだ発見されていない。吉田家本空之巻に、立花峯均系の相伝証文が付されているが、それは寛政年間に立花増昆が吉田経年へ一流相伝するさい、吉田家本空之巻に継ぎ足されたもので、吉田家本の地水火風四巻とは別系統の文書である。柴任による空之巻は別にして、他の諸巻については、既出の吉田家本・中山文庫本だけでは、筑前系写本と云うには偏りがある。それゆえ、立花峯均系の五輪書を発掘するまでは、筑前系について明確なことは言えないのであった。
しかし、以後当分の間はそれが出ないままだった。同じ筑前系でも、主流たる立花峯均系統の写本が出ないかぎり、筑前系五輪書を論ずるには時期尚早であり、それゆえ、我々は五輪書研究における確言を控えていたのである。
そうこうするうちに、我々は、九州から遠い越後で、立花峯均系統の五輪書と遭遇することになった。つまり、立花峯均の孫弟子にあたる丹羽信英が越後に伝えた二天流の道統があって、その越後で、五輪書の「子孫」たちを発掘できたのである。
これは、まさに平成二十年のことで、地元関係者の協力と案内を得て、あちこちの旧家で調査をした結果である。まことに地元関係者と所蔵者の諸氏には感謝しなければならない。
かくして、我々は立花峯均系の五輪書の一端にふれることができるようになった。それら諸本を吉田家本と比較するに、写し崩れがややあるものの、一方で、吉田家本四巻が誤記するところを、越後の伝書が正しく記している箇処も少なくない。
我々の所見では、吉田家本の空之巻以外の四巻は、筑前系最初期のものではなく、後世の書写によるものである。しかし、それが明確に判明したのは、立花峯均系統の越後系諸本を現地で発掘調査した結果であり、それも最近のことなのである。
ようするに、同種史料ばかりが増えても仕方がない。異種史料の数が増えないかぎりは、既存史料の位置づけもできないわけである。
しかるに上記のように、越後のあちこちから、さらには信州まで廻って、ご子孫諸家で五輪書写本を発掘するに至って、越後系諸本が立花峯均系統の五輪書たることが確認できた。そうして、既知の中山文庫本・吉田家本と比較照合し、その結果、同じ筑前系でも相異のあることが判明し、また、それにより逆に中山文庫本・吉田家本の位置づけも可能になった。そうして、これらを区分して、「立花=越後系」、「早川系」と呼ぶことにしたのである。
しかも、越後系諸本の発掘を一通り進めるうちに、平成二十一年年秋になって、待望のものが発見できた。すなわち、立花系五輪書そのものである。
拝見するにこれは、丹羽信英が、宝暦十一年に師匠立花増寿から伝授された地水火三巻のうちの、地火二巻であった。まさに丹羽信英は、諸国漂泊のあげく越後へ到来したとき、師伝の五輪書を携帯していたのである。
これが出たことにより、筑前から越後へと当流が伝播した物証を得たことになる。また、(明和四年相伝の風空二巻も含め)他の諸巻は未発掘であるが、近い範囲に現存するものと目星を付けている。
五輪書の一部とはいえ、何よりも、立花系五輪書を発掘できた意義は大きい。筑前系と越後系の失われた環が、ここに発見できたからである。とりあえず、これを「立花隨翁本」と呼んで、他の越後系諸本と区別することにした。すなわち、これは筑前二天流立花系の五輪書であり、また、越後系諸本の祖本であるからだ。
このように立花=越後系諸本の一連の発掘により、従来既知の早川系諸本と照合して、筑前系五輪書の内訳がほぼ判明した。それによって、筑前系五輪書に共通する特徴を把握することが可能になったのである。
すなわち、筑前系は、五巻兵書(五輪書)を門流内部で嗣資相伝してきた。とくに空之巻の相伝にあたり、代々相伝証文を付した。また、道統内部の相伝文書であるから、伝写を繰り返しても、同時期の肥後系諸本と比較して、意外なほど写し崩れはすくない。
したがって、このことにより、相伝五輪書の重要性を改めて認識する必要がある。従来、五輪書研究において看過されてきたのは、まさにそのことであった。
それというも、肥後系諸本しか知らない環境では、その非正規の形態しか見知っていないから、五輪書はそのようなものだと思い込んでしまっていた。しかも、肥後系諸本が、相伝文書の体をなしていない海賊版であるという事実にも気がつかないのである。
寺尾孫之丞段階で、五輪書がどのような体裁であったか、それを問う問題意識すらないから、たとえば、楠家本や細川家本などの現存写本が、寺尾孫之丞が寛文年間に槇嶋甚介や山本源介といった門人らに与えた姿をそのまま伝えていると思い込む。しかし、筑前系諸本を参照すれば、そうした肥後系写本が、寺尾孫之丞段階の相伝文書としての体裁を備えておらず、それが崩壊し去った後に作成された模擬文書だということに気づくはずである。
肥後系諸本は、門外へ流出した写本が繰り返し伝写され派生したものである。それだけに寺尾孫之丞段階の祖形から遠い。肥後系諸本には、寺尾孫之丞の名さえ記さないものがある。また、門人宛て奥書のある楠家本・細川家本にしても、相伝文書としての体をなさない。事情不通の後人の手による編集物である。何れも門外者の仕業であるから、形式体裁の崩れ方が大きい。
それゆえ、五輪書における史料評価にあたって、その写本がどれほど寺尾孫之丞段階の体裁を保持しているか、この形式の相異が重要な指標になる。このポイントを外せば、正しい史料評価をすることはできない。
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吉田家本 五輪書
*【筑前系五輪書伝系図】
○新免武蔵守玄信―寺尾孫之允┐
┌――――――――――――┘
└柴任美矩―吉田実連―┐
吉田家本空之巻 |
┌――――――――――┘
├立花峯均―立花増寿―┐
|┌―――――――――┘
|├立花種貫―立花増昆―┐
||┌―――――――――┘
||└吉田経年 吉田家本相伝証文
||
|└丹羽信英…→(越後門流)
| 越後系諸本
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├(吉田治年)…吉田家本四巻
| ↑?
└早川実寛―月成実久―┤
大塚家本|
┌―――――――――┘
└大塚重寧―大塚藤郷―┐
┌―――――――――――┘
└大塚重庸―大塚重任―大塚重正
中山文庫本 伊丹家本

石井家本 三巻兵書 巻子本と冊子本

立花隨翁本発見状況

近藤家本兵法文書

猿子家本兵法文書

丹羽信英口授状
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