武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 火之巻 1  Back   Next 

水之巻が太刀の扱い方を説明したのに対し、この火之巻は実戦における戦術や掛引きを教える戦闘術応用篇。勝つためにいかにすればよいか、個人戦から集団戦を横断する兵法の要諦を具体的に指南する。内容は以下のようなものである。
1 火之巻序  火之巻の前文
2 場の次第  (場の次第と云事)
3 三つの先〔せん〕 (三つの先と云事)
4 枕をおさえる (枕をおさゆると云事)
5 渡〔と〕を越す (渡を越すと云事)
6 景気を知る (景氣を知ると云事)
7 けんを踏む  (けんをふむと云事)
8 崩れを知る  (くづれを知ると云事)
9 敵になる (敵になると云事)
10 四手〔よつで〕を放す (四手をはなすと云事)
11 陰を動かす (かげをうごかすと云事)
12 影を抑える (影を抑ゆると云事)
13 感染させる (うつらかすと云事)
14 むかづかせる (むかづかすると云事)
15 おびやかす (おびやかすと云事)
16 まぶれる (まぶるゝと云事)
17 角にさわる  (かどにさはると云事)
18 うろめかす  (うろめかすと云事)
19 三つの発声  (三つの聲と云事)
20 間切る  (まぎると云事)
21 押しつぶす  (ひしぐと云事)
22 山海の変り  (山海の變りと云事)
23 底をぬく  (底をぬくと云事)
24 新たになる  (新たになると云事)
25 鼠の頭、午の首  (鼠頭午首と云事)
26 我は将、敵は卒  (將卒を知ると云事)
27 束をはなす  (束をはなすと云事)
28 岩石の身  (岩石の身と云事)
29 火之巻 後書

 
   1 火之巻 序
【原 文】

二刀一流の兵法、戦の事を火に思ひとつて、
戦勝負の事を、火之巻として、
此巻に書顕す也。(1)
先、世間の人毎に、兵法の利を
ちいさくおもひなして、或ハゆびさきにて、
手くび五寸三寸の利をしり、或ハ扇をとつて、
ひぢより先の先後のかちをわきまへ、
又ハしなひなどにて、わづかのはやき利を覚へ、
手をきかせならひ、足をきかせならひ、
少の利のはやき所を専とする事也。
我兵法におゐて、数度の勝負に、
一命をかけてうち合、生死二つの利をわけ、
刀の道を覚へ、敵の打太刀の強弱を知り、
刀のはむねの道をわきまへ、
敵をうちはたす所の鍛練を得るに、
ちいさき事、弱き事、思ひよらざる所也。
殊に六具かためてなどの利に、
ちいさき事、思ひいづる事にあらず。(2)
されバ、命をはかりの打あひにおゐて、
一人して五人十人ともたゝかひ、
其勝道をたしかにしる事、我道の兵法也。
然によつて、一人して十人に勝、
千人をもつて万人に勝道理、
何のしやべつあらんや。能々吟味有べし。
さりなから、常/\の稽古の時、
千人万人をあつめ、此道しならふ事、
なる事にあらず。獨太刀をとつても、
其敵/\の智略をはかり、
敵の強弱、手だてを知り、兵法の智徳をもつて、
萬人に勝所をきはめ、此道の達者となり、
我兵法の直道、世界におゐて、たれか得ん、
又いづれかきはめんと、たしかに思ひとつて、
朝鍛夕錬して、みがきおほせて後、
獨自由を得、おのづから奇特を得、
通力不思儀有所、
是兵として法をおこなふ息也。(3)

【現代語訳】

 二刀一流の兵法においては、戦いのことを火に思いとる。そこで、戦い勝負のことを火の巻としてこの巻に書きあらわすのである。
 まず世間の人は、だれでも、兵法の利〔勝ち方〕を小さく考えてしまう。ある者は、指先で(わずか)手首五寸三寸の利を知り、ある者は、扇を(手に)とって、肱から先〔小手先〕の先だ後だという勝ちを心得る。または、竹刀などで、僅かばかりの早い利を覚え、手を利かせ習い、足を利かせ習い、少し(ばかり)の利の早いところを第一とするものである。
 (これに対し)我が兵法では、度々の勝負において、一命を賭して(太刀を)打ち合う生死二つの利の分かれ目を知って、刀の軌道を覚え、敵の打つ太刀の強弱を知り、刀の刃棟〔はむね〕の使い方をわきまえて、敵を打ち果すための鍛練を修得する。それゆえに、些細なこと、弱いことは、思いもよらないところである。ことに、甲冑を装着して(戦場に出るばあい)の利に、些細な(相違の)事を発想することはありえない。
 されば、命がけの打ち合いにおいて、一人で五人十人とも戦い、その勝つ道を確実に知ること、それが我が道の兵法である。したがって、一人で十人に勝ち、千人で万人に勝つ道理に、何の相違があろうか。(これを)よくよく吟味あるべし。
 しかしながら、日常の稽古の時、千人も万人も人をあつめて、この戦法を演習するわけにはいかない。一人で太刀をとっても、その敵それぞれの智略を推測し、敵の強弱や作戦を察知し、兵法の智徳〔智恵の効能〕をもって、万人に勝つところを極め、この道の練達者となり、我が兵法の直道〔じきどう〕を、世の中で(自分以外の)だれが得るというのか、また、だれが極めるというのか、と確かに思いとって、朝にタに鍛練して、みがくこと。それをやり遂げれば、その後は、ひとりでに自由を得て、おのづから奇特〔奇跡的効験〕を得て、神通力の不思議が生じる。ここが、まさに兵法を修行する息〔精粋〕である。
 
  【註 解】

 (1)戦の事を火に思ひとつて
 火之巻冒頭の前文である。前巻・水之巻が太刀の扱い方を説明した基本篇であるのに対し、この火之巻は、勝つためにいかにすればよいか、実戦における戦術や掛引きを教える戦闘術応用篇である。大分一分の兵法、個人戦から集団戦を横断する兵法の要諦を、具体的に指南するのである。
 戦いのことを火に思いとる。――このことについては、すでに地之巻で、概要が説明してあった。
 火には際立って派手なところがある。派手に燃え立ち、地獄図を現出し、一切を殲滅する。武蔵流は火のように燃えて戦う破壊的な戦闘術である。戦いを火に思いとって、とはこのことである。
 水は大小自在形態自由だが、火もまたその形態は変幻自在である。火は風にしたがって、大きくなったり小さくなったりする。合戦の道において、一人と一人の戦いも、万人と万人の戦いも、同じ道である。それは火は風にしたがって、大きくなったり小さくなったりするのと同じである。こうしたアナロジーは、バシュラール流の自然学と相同だと見立ててよい。
 この火之巻前文では、以下のように状況批判を演じて、まず、武蔵流の基本思想、その実戦主義のポジションを明示しているところが注目される。

――――――――――――

 諸本校異の点では、ひとつ、筑前系のうち越後系諸本に特徴的な変異が見られる。それは、冒頭、《二刀一流の兵法、戦の事を火に思ひとつて》とあるところ、その《二刀一流》を《二一流》として、「二刀」を「二天」に誤記している。
 興味深いのは神田家本や石井家本の冊子本である。巻子本では、他の越後系諸本と同じく、「二天」に錯記するのだが、それに対し両家冊子本は、はじめ《二刀一流》と書いており、これが正しいのだが、その「刀」字を「天」と修正している。
 これは冊子本が、誤記に気づいて訂正したというところだが、実際は、誤記が正しく、訂正が間違っているのである。
 そのように(誤)訂正があったところをみると、越後系は諸本共通して「二天」と誤記したようだが、これは、立花峯均系の誤記というよりも、おそらく越後に入って以後の誤記であろう。丹羽信英の他の門人系統の五輪書が未発掘な段階では、明確なことは云えなかったが、最近、越後村上系伝書・赤見家本を発掘して、この件がようやく判明した。
 すなわち、丹羽信英が赤見俊平に与えた火之巻には、正しく《二刀一流》と書いている。それゆえ、「二刀」を「二天」に誤記するようになったのは、たぶん八代渡部信行以来のものであろうというのが、当面の見当である。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 





長岳寺蔵 奈良県天理市柳本町
狩野山楽筆 極楽地獄図 部分







個人蔵
神田家冊子本 「刀」を「天」に修正
 
 (2)ちいさき事、弱き事、思ひよらざる所也
 ここでの趣旨は、武蔵流の実戦主義。世間では人はみな、小さな些細な差異に拘泥するようになってしまっている、しかし武蔵流はそれとは違うということである。
 些細な差異に拘泥するというのはどういうことか。武蔵は具体的に語っている。事例が具体的だから、そのままでは、現代人にはかえって解りにくいようなので、少し解説しておく。
 たとえば、それは手わざの些細な違いである。《ゆびさきにて手くび五寸三寸の利をしり》というところ、「手首五寸三寸」とは、指を伸ばして五寸(15cm)拳に握って三寸(9p)のことである。
 あるいは、《扇をとつて、ひぢより先の先後のかちをわきまへ》とあるのも、同じように小手先の早い遅いの差異である。すでに見たように、《或は扇、或は小刀などつかふ様に、はやくふらんとおもふに依て、太刀の道違ひて振がたし。夫は、小刀きざみといひて、太刀にては人のきれざるもの也》(水之巻)とあるように、「小刀きざみ」でしかない。この「小刀きざみ」とは「小刀細工」に同じ、いわゆる小細工のことである。したがって、ここは小細工で先後の勝を争って「はやくふらんとおもふ」のである。
 また、《しなひなどにて、わづかのはやき利を覚へ》とあるのは、さきの「扇」と同じことで、実際の太刀ではなく、練習用の竹刀で些細な速さの差を重大視することである。
 話がわき道に逸れるが、この「しなひ」は竹刀。割竹を束ねて袋に入れた模擬刀(袋しない)で、竹の柔軟性があるから撓う。そこで「しなひ」「しなへ」になったのだと謂われているが、これも甚だ心許ない語源説明である。
 撓(しない)は、もともと旗指物を云った言葉らしい。「しない」の文字にしても、「撓」だけではなく、「試会」「竹蹈」「品柄」「竹袋」「皮袋」「革刀」「竹袋」「順(刀)」「指南柄」など、実にさまざまである。「しない」の語源はまだ突き止めてられはいない。
 注目されるのは、ここで武蔵が竹刀に言及していることだ。なぜなら、これは歴史的に云えば、竹刀流行のほとんど最初期の証言だからである。
 従来、練習用には木刀であった。これに対し、竹刀のメリットはどこにあると思われたか。
 まず第一に、木刀で打ち合えば打撃の負傷はあり、死ぬこともある。そこで、竹刀を使えば重傷を負うことはない(安建正寛『兵術要訓』寛政二年)。第二に、重傷を負わせることがないから、竹刀なら思い切り打てる。木刀では思い切り打てない。実戦では躊躇なく思い切り打たねばならないから、思い切り打つ勘どころを練習するには、竹刀の方がよい(木村久甫『劍術之本識』宝暦二年)。ほぼこの二点が竹刀のメリットだと考えられたもののようである。
 これに対し、こうしたことは全く実用的なものではない、竹刀は竹刀である、竹刀では実戦的訓練にはならない――という批判は根強かった。歴史的に云えば、竹刀が一般化するのは、十八世紀に入ってからのことだという話もある。とすれば、武蔵死後半世紀以上後のことである。しかし、武蔵が五輪書で竹刀に言及しているところを見れば、すでに当時無視できないほど流行していたのである。たしかに『柳生流新秘抄』など見れば、武蔵の同時代人・柳生宗矩も竹刀を使っていたようである。
 竹刀では実戦的訓練にはならないとする点では、武蔵はコンサヴァティヴである。すると武蔵は木刀派なのか、というと、そうではない。上記本文のように、武蔵流は、太刀で打ち合う実戦鍛練である。すなわち、
《我兵法におゐて、数度の勝負に、一命をかけてうち合、生死二つの利をわけ、刀の道を覚へ、敵の打太刀の強弱を知り、刀のはむねの道をわきまへ、敵をうちはたす所の鍛練を得るに》
とあるところからすると、武蔵流は刀(真剣)での実戦訓練である。
 あるいは逆にいえば、武蔵にとって木刀は練習道具ではない。これが真剣以上の殺傷力をもつ武器だったことは、武蔵の決闘履歴の示すところである。武蔵は木剣の一撃で相手を何人も撲殺したのである。
 さて要するに、武蔵に竹刀批判があるとすれば、それは「弱い」という一言であろう。本文にある《小さき事、弱き事、思ひよらざる所なり》の「小さき事」とは先ほどの小手先のことでり、「弱き事」とは、具体的には竹刀使用のことである。「弱い」とは軟弱なこと、気の弱いことである。武蔵流は他流とは違って、タフでハードな流派だ、ということである。

――――――――――――


















高杉晋作
高杉晋作 写真像
幕末の竹刀と防具

*【兵術要訓】
《試会刀は竹に皮をきせたるものにして、討れても突れても、深疵を受る程の事はなし》

*【劍術之本識】
《柳生流はしなひにて劍術ならふ也。毎日幾度の仕相成べし。しなひは真劍の味也。真劍は不惜討、しなひも不惜討、是同意也》《(他流は)木太刀を以教るなり。木太刀の上計を打て手にあてず、手の際迄木太刀にてつめて早能詰りたるとて誉て置、真の味ひ何としてか手に覺ん哉》

*【柳生流新秘抄】
《宗矩の撓は、長さ三尺三寸に切り、柄七寸、小太刀は一尺九寸に切り、柄四寸にして、各竹と袋革のさきに三部ほど間を置かれしとなり》

 なお、語釈の点に関して若干注意をしておけば、
《殊に六具かためてなどの利に、ちいさき事、思ひいづる事にあらず》
とある部分である。この「六具かためて」というのは、甲冑装着のことである。「六具」〔りくぐ/ろくぐ〕とは六つの具足の略である。「具足」はもともと仏教用語であるが、ここでは、戦闘用防具一式のことである。
 むろん、岩波版注記に「甲冑に付属する六種の武具」とあるが、これは正確ではない、というより誤りである。「六具」とは付属品のことではない。装備一式の意味である。
 装具の付属品を算えればそれこそ何十となり、六つどころではないのである。本来、兜・袖・身甲(胴)の基本三点に、腕の防具である籠手〔こて〕、大腿部の佩楯〔はいだて〕、脛の脛当〔すねあて〕を合わせて、六具とする。あるいはさらに加えて顔面を防護する面具(面頬など)があり、実質七種とすべきであるが、中国流に「六」という数字で整序した言葉である。そこで「六具」といえば、完全装備の戦闘用防具一式ということになる。
 甲冑は古代からあったが、こうした戦闘用防具が最も発達したのは十六世紀後期である。隙間なく身体を防護しながら、なおかつ軽くて運動性能があるという、相互に矛盾する命題を可能なかぎり解決したものである。その結果、戦闘者はさながら昆虫のような姿になったのである。
 ここで《六具かためて》と武蔵がいうのは、甲冑を装着して戦場に出た場合のことである。既成現代語訳には、これを字義通りに「甲冑に身を固めた場合」とする例があるが、《六具固めて》は修辞的表現である。ここでは「実際の戦場では」という意味である。   Go Back




「六具固めて」 戦闘用防具一式
 
 (3)一人して十人に勝、千人を以万人に勝道理
 かくして、タフでハードな戦闘術としての武蔵流兵法は、一人で五人十人とも戦って勝つ戦闘術である。これは五人十人だろうが十人二十人だろうが、要するに多数を敵にしての戦いに勝つということである。
《然るによつて、一人して十人に勝、千人を以万人に勝道理、何の差別あらんや》
とあって、ここでも、水之巻の序で示されたテーゼが反復されるのである。すなわち、
《兵法の利におゐては、一人と一人との勝負の様に書付たる所なりとも、万人と万人との合戦の利に心得、大に見立る所、肝要也》
 この反復は水と火の対照的な形態にも関わらず、まさに一貫して変らぬ原理、繰り返していえば武蔵流のトポロジカルな発想である。
 次に笑いを誘うところがある。武蔵流のハードでタフな訓練を、戦場でもないのに千人万人集めて演習するわけにはいかない。泰平の世でそんなことができるわけがないのである。こういうことを書くのは武蔵流のブラック・ユーモアと言うべきである。
 そこで、武蔵は一転、一人でもそれはできるではないか、という。つまり武蔵流のトポロジカルな論理は、千人万人の合戦規模から一気に反転して独習まで縮小する。千人万人でも一人でも、これも構造原理は同じことである。
 こうした伸縮自在のロジックは、あきらかに難解だから俗耳には入りにくい。逆に、武蔵の話は無茶苦茶だ、という見解が今でも存在する。要するに、そうした反撥は無教養なせいで、このあたり、武蔵という知性の背景にある禅家のロジックを十分知った上でないと、理解は難しかろうかと思われる。まさに、「能々吟味有べし」と武蔵のいうところである。

――――――――――――










岐阜市歴史博物館蔵
関ヶ原合戦図屏風
 ここで語釈上若干の説明が必要なのは、以下の部分であろうか。
《獨自由を得、おのづから奇特を得、通力不思儀有所、是兵として法をおこなふいき也》
 ここでいう「自由」は、本書で随所に登場する言葉である。「獨」は「ひとり」と読み、現代語では、「ひとりでに」の意味である。
 「奇特」〔きどく〕は不思議なミラクルな効験、「通力」〔つうりき〕は神通力、神的な力のことである。これらはいづれも当時の宗教的概念であり、またポピュラーな言葉であった。
 ただし、そんな奇特通力不思議があると云っても、武蔵は、神仏のお蔭だと述べているのではない。武蔵流兵法は、他の呪術的流派のように神仏をたのみにしない。ただ武蔵は、修練して得る効能の不思議には、驚異的なものがあると語るのである。ここに云う、奇特通力不思議があるとは、驚異的な現象というばかりの比喩である。
 つきに、《兵として法をおこなふ》とあるのは、これもレトリカルな措辞である。たんに「兵法をおこなふ」と言うところを、「兵として法をおこなふ」と云って、気どった表現にして文体を締めているというわけだ。したがって、それ自体の内容に意味はなく、修辞上の言回しである。
 あるいは、《兵として法をおこなふ也》とするところ。諸本は「息」と表記している。「息」となると、これは字義通りには呼吸のことであるが、本書で頻出する「心」という語と同じく、語の弱い意味では、「息」は「意味」と訳してよいかもしれない。ここでは、それでも文意は通じないことはない。
 しかしながら、もう少し厳密にすれば話は違う。この「息」は、梵語でいう「プラーナ」(prana)、すなわち、気息のことである。ギリシア語にしても、同類の「プネウマ」 (pneuma)だが、ラテン語(spiritus)を介して英語の「スピリット」(spirit)となる。
 これがまさに「火」の巻であり、また、《おのづから奇特を得、通力不思儀有所》とミラクルな効験を述べるここでの文脈から、武蔵はわざわざ「息」という語を召喚している。「プラーナ」(気息)という霊的な語義で用いているのである。それを念頭において読むことだ。
 そしてこれを、さらにせり詰めてみれば、「息」(いき)は、その霊的なニュアンスに重ねて、語の強い意味では、「粋」のこと、つまり技芸の精粋、要諦、こつ、要点といった意味の語である。かくして、我々はこの後者の語意をうけて、如上の訳文に示したとおり、「精粋」としたのである。
 ところで、細川家本の《兵として法をおこなふ息》を、岩波版注記は、
「武士として兵法を修行する気合、心意気」
としてしまう。これは、明白な誤りである。それは第一に、「兵として法をおこなふ」という修辞法に無知であり、「兵」を武士と訳してしまう誤訳である。第二にこれは、「息」という写本の漢字を、ナイーヴにも字義通り「呼吸」と読んでしまい、さらにその誤読を「気合、心意気」などと根性主義に誤訳して、二重に誤っているのである。
 かくして、岩波版注記は、武蔵が、兵法修行の奇跡的効験をアピールするこの箇所で、「気合、心意気」などという、文脈を外れた語義をつかんで、それでも変だと気づかない。つまり、五輪書を読めていないことを露呈しているわけである。
 そして既成現代語訳となると、神子訳は、岩波版注記よりマシと言えるが、その後生じた岩波版注記をパクった現代語訳(大河内訳、鎌田訳)は、右掲の如く、いづれも誤謬をそのまま複写しているのである。ようするに、既成現代語訳のレベルとはこんな程度なのである。   Go Back

大覚寺蔵
降三世明王像 大覚寺蔵


青蓮院蔵
青不動明王二童子像 青蓮院蔵


*【現代語訳事例】
《自然と思うままになり、非常な力量を発揮し、神通力をもつことができるようになるのである。これが勝負の原則を実践する呼吸である》(神子侃訳)
《自然に思うままとなり、おのずから奇跡をあらわし、神通力を得ることができるのである。これが、武士として兵法を修行する気合い、心意気である》(大河内昭爾訳)
《ひとり思うままになり、自然に奇特な力を得て、自由自在の神妙な力をもつことができるようになるのである。これが武士として兵法を修行する心意気である》(鎌田茂雄訳)


 
   2 場の次第
【原 文】

一 場の次第と云事。
場の位を見分る所、場におゐて、
日をおふと云事有。
日をうしろになして搆る也。
若、所により、日をうしろにする事
ならざる時ハ、右の脇へ日をなす様にすべし。
座敷にても、あかりをうしろ、右わきとなす事、
同前也。うしろの場つまらざる様に、
左の場をくつろげ、右脇の場をつめて、
搆へたき事也。
よるにても、敵のミゆる所にてハ、
火をうしろにおひ、あかりを右脇にする事、
同前と心得て、搆べきもの也。
敵を見おろすと云て、
少も高き所に搆るやうに心得べし。
座敷にてハ、上座を高き所と思ふべし。(1)
さて、戦になりて、敵を追まはす事、
我左のかたへ追まハす心、
難所を敵のうしろにさせ、
何れにても難所へ追かくる事、肝要也。
難所にて、敵に場をみせず、といひて、
敵にかほをふらせず、油断なくせりつむる心也。
座敷にても、敷居、鴨居、戸障子、椽など、
又、柱などの方へ、おひつむるにも、
場をみせずと云事、同前也。
いづれも敵を追懸る方、足場のわろき所、
又ハわきにかまひの有所、何れも場の徳を用て、
場の勝を得と云心専にして、
能々吟味し、鍛錬有べきもの也。(2)

【現代語訳】

一 場の次第という事
 場の位*を見分けるについて、その場において「日を負う」ということがある。(つまり)太陽を背後にして搆えるのである。もし、場所によって太陽を背にすることができないときは、右の脇の方に太陽がくるようにすべし。
 座敷〔屋内〕でも、あかりを背にし、右脇にすること、前に同じである。後方の場が詰まらないようにし、左の場を広くとり、右脇の場を詰めて搆えるようにしたいものである。
 夜間でも、敵の見える所では、火を背にし、あかりを右脇にすること、前に同じと心得て、搆えるべきである。
 「敵を見下ろす」といって、少しでも高い所に搆えるように心得ること。座敷では、上座〔かみざ〕を高い所と思えばよい。
 さて、戦いになって、敵を追い廻す場合、自分の左の方へ追い廻す感じで、難所を敵の後にくるようにさせ、どんな場合でも難所へ追い込むことが肝要である。
 難所では、「敵に場を見せず」といって、(それは)敵に顔を振らせず、油断なくせり詰めるという意味である。座敷でも、敷居・鴨居・戸障子・縁側など、また柱などの方へ追い詰める場合にも、「場を見せず」ということ、前に同じである。
 どんな場合でも、敵を追い込む方向は、足場の悪い所、または脇にさし障りのある所、いづれにしても、その場の徳〔得、優位〕を利用して、場の勝ちを得るという心を専〔せん、第一〕にして、よくよく吟味し、鍛練あるべきものである。
 
  【註 解】

 (1)日をうしろになして搆る也
 ここから具体的な戦術の話が始まる。まずは、場の「位」を見分けるということ。この「位」は、ポジションである。戦いの場では有利なポジションを占めろという教訓である。
 その第一は、太陽を背にして戦うべし、という教訓である。太陽を背にすれば逆光になって、敵には我が方が見にくいから有利である。夜間などでも照明を背にすることも同じ話だとする。
 太陽や照明など光源を背にできない場所では、これを我が右方にとるようにする。この右方に光源が来るようにするとは、これは何ゆえか。
 これは、攻撃の旋回方向からくる原則である。すなわち、右から左方向へ、攻撃の流れは左手方向へ動くのが基本である。敵も同じように運動する。だから、敵にとっては攻撃方向に光源があることになり、これも見づらい。そこで、光源が右手にくるように場所取りをする方が有利である、という理屈である。
《うしろの場つまらざる様に、左の場をくつろげ、右脇の場をつめて、搆へたき事也》
とあるのは、上記と同軌のことで、攻撃は左手方向へ展開するのが基本であることから、左手に空間をとり、右手は詰めるのである。
 むろん、後方が詰まらないように余裕をとるのは、追い詰められてしまわないためである。壁などを背にして戦うのは、よほど切羽詰ったときのことである。
 次に、場の位置は高いところがよいというのは、これも敵を見やすい/見づらいという話であろう。位置が少しでも高い方が、相手の様子を見やすい。座敷などでも上座がよいというのは、上段の間、下段の間とか言って、フロアレベル、床高が違うからである。話はごく合理的である。
 このあたり、左手に空間をとり右手は詰める、高い場所に位置取りする、等々の場の次第は、合理的であると同時に、兵法の原則であろう。
 『孫子』(行軍篇)にも、位置取りを高い処にせよということに始まる教訓がある。あるいは、右背を吉、左背を凶とするのは何も兵法に限ったことではないが、『孫子』はこの伝統的な配置関係を兵法にも適用している。ここでいう「死」を前に「生」を後にするとは、前方で戦い、後方は活路とする、そんな位置取りのことである。
 同じく、低い位置よりは高いところを選好すること、あるいは陽を貴んで陰を賤しむとするのは、これも位置・配置の相の吉凶がからむのであるが、いづれにしても合理性に裏づけられてのことである。易学は、蒙昧な先験主義とは限らない。
 この場の優位ということに関していえば、とくに武蔵の場合、太陽を背にして戦うべし、という教訓が、ことのほか有名である。そのため、武蔵小説や映画では、必ずこの太陽を背にして戦う武蔵が登場するほどである。
 しかし、太陽を背にしろという教えは、武蔵に限ったことではない。それは世界中のどこにでも教訓のあることであろう。日本でも、たとえば『日本書記』に、神武の軍が太陽を背にする敵軍と戦って敗北し、太陽に向かって攻める非を反省する場面が出てくる。
 これなどは、太陽を背にして戦うべし、という教訓が古代から存在したことの証言であろうし、さらに云えば、『日本書記』の記事は、こうした戦場での基本的教訓が説話化されたものであろうと思われる。
 ところが、太陽を背にして戦うべし、という教訓を武蔵の専売特許のように思いなす錯覚が以前から存在し、またそう解説するものがある。それは間違いである。これは、どこでも、大昔から、言ってきたことなのである。
 したがって、この節に説く場所の優位論を、武蔵の独自説だと思うのは、贔屓の引き倒しである。むしろ、ここで武蔵は、戦闘場面での自身のポジションをどこにおくか、光源を背にあるいは右にとるべし、という極めて初歩的で基本的なことを教えている、と読むべきところである。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 





光源を背にする


光源を右方にする



*【孫子】
《孫子曰、凡處軍相敵、絶山依谷、視生處高、戰隆無登、此處山之軍也、絶水必遠水、客絶水而來、勿迎之於水内、令半濟而撃之利、欲戰者、無附於水而迎客、視生處高、無迎水流、此處水上之軍也、絶斥澤、惟亟去無留、若交軍於斥澤之中、必依水草、而背衆樹、此處斥澤之軍也、平陸處易、而右背高、前死後生、此處平陸之軍也、凡此四軍之利、黄帝之所以勝四帝也》(行軍篇)



*【日本書記】
《則ち尽く属兵を起して、孔舎衙坂に徼へ、与に会戦す。流矢有りて、五瀬命の肱脛に中り、皇師進み戦ふこと能はず。天皇憂ふ。乃ち神策を冲衿に運らして曰はく、今我是日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つは、此れ天道に逆ふなり。退き還り弱きを示し、神祇を礼祭して、日神の威を背に負ひて、影に随ひて圧ひ躡まんに若じ。如此らば則ち曾て刃に血ぬらずして、虜必ず自から敗れん。僉曰はく、然り》(神武紀)

 
 (2)敵に場をみせず
 ここは、敵を追い廻し、追い詰める、その戦法の教えである。これも前記同様、ごく基本的な教訓である。その要点は、
《敵を追まはす事、我左のかたへ追まはす心》
《難所を敵のうしろにさせ、何れにても難所へ追かくる事》
ということである。敵を自分の左の方へ追廻すのは、攻撃の基本である。もう一つは、敵を追い廻すとき、どんな場合でも難所へ追い詰めるのである。
 難所というのは、足場の悪いところ、障碍のあるところで、敵にとって戦うに不利な場所である。そうして、もはや後方に余裕なき場へ追い詰める。そのためには《敵に場をみせず》というのがポイントである。
 この《敵に場をみせず》とは、相手が自分の周囲の状況を把握する余裕を与えない、ということである。《敵に顔をふらせず、油断なく、せりつむる》のである。このあたり説明は、懇切で明快である。

 ここに関連して、語釈の点を言えば、この「油断なく」は、現代語でも使用されている言葉である。我が方が油断せず攻め詰める、という意味にはなる。しかし実はこの場合、「油断」の語義にこだわってみるのも、おもしろいのである。
 現代語では、油断しないとは、「手抜かりなく慎重に注意して」という意味がある。しかし「油断なく」とは「間断なく」の意味であるという説もある。これによれば、敵に余裕を与えないほど間断なく攻め詰めるという意味になるのである。
 しかし、さらに言えば、これは敵が周囲を見回すほどの余裕も与えない、必死にさせるということである。かくして、要するに、油断しないのは我か敵か、という極めて興味深い問題が浮上する。
 というのも、「油断」の語源の一つとされるものに、『涅槃経』にある逸話、王がある臣に油鉢を持たせ、「それをひっくり返すなよ。もし一滴でもこぼしたら、お前の命を断つぞ」と言ったという話を出すのが通例である。この「油」をこぼしたら命を「断つ」から、「油断」という言葉ができたというわけである。これは恠しい説である。
 しかし、この語源の当否は別にして、もともと油断には「必死にさせる」という意味はあったようである。ただし、右掲の『雜阿含経』の、いわゆる「四念処」の修行を述べる油鉢の譬えによって、正確に補完すべきであろう。すなわち、これは、美女の色香でさえ、殺害の恫喝の前には無力である、脇目もふらず必死になって油をこぼさないようにするであろう、という譬喩なのである。美女こそ、男性修行者の最大の障害なのである。
 こういうことからすると、油断は「必死になる」というよりも「必死にさせる」という意味である。《油断なくせりつむる》のであるが、この場合必死になるのは、自分ではなく相手なのである。脇目もふらないほど必死になって戦う、そうでないと自分の命が断たれるからである。
 そうだとすれば、ここでいう《敵に顔をふらせず、油断なく、せりつむる》の、「油断なく」の主語は我が方ではなく、実は「敵」なのである。要するに、我が方は、自分が油断せず追撃するのではなく、相手に油断なくさせる、必死にさせて、脇目もふらせない、つまりは「敵に顔をふらせず」ということなのである。言葉は偶然のように、真の意味を露出させる。
 「油断なく」の通常の意味、「手抜かりなく慎重に注意する」というのは、いわば弱い意味であり、これに対して「脇目もふらないほど必死にさせる」という方は、強い意味である。もともと相手の「油断なく」が自分のことになり、言い換えれば「油断」は主体化されてしまったのである。「油断」の意味を相手から譲渡されてしまったというのが、この語の変遷である。
 言うまでもないが、ここでの武蔵自身の「油断なく」の用法も、「手抜かりなく」という通常の意味である。こんな余談めいた話を出したのは、戦闘空間における敵我の相似性と相互移行性という問題のためである。主体が客体と入れ替わる、互換性があるというは、敵我が似てしまい、おのづから相互に相手を模倣してしまうミメーシス構造が発生するからだ。
 武蔵が五輪書で一貫して説いているのは、まさにそうした敵我の相似性と無差異化の悪循環を断つ方法である。武蔵において「勝つ利」とは、畢竟、相似性と無差異化の悪循環を断つことである。五輪書読みには、このことを念頭に読み進むことが必要である。

 また語釈の点で若干付け加えれば、《わきにかまひの有所》の「かまひ」というのは、構い。さしつかえ、さしさわりのあるところ、ということである。
  《此娘にはかまひ有て、嫁入はさせぬ》(五十年忌歌念仏)
 現代語では、「かまわない」という否定形でこの語の用法は残っている。たとえば、「煙草を喫ってもかまわない」というように、さしつかえがない、さしさわりがないということである。
 動詞形で「かまう」となると、さしつかえる、さしさわるということだが、これも、さしつかえる、さしさわるから、「気にする、気をかける」という意味があり、これは英語の《care》の意味に近い。現代語でも「そんなことは、かまっておれない」という場合の「かまう」である。
 これを要するに、かまいのある所というのは、さしつかえ、さしさわりあって、敵がそれに気をとられて、戦いに専心できないような場所という意味である。一部の解説にあるように、障害物がある所と訳してしまっては、少し的外れになる。
 すでに気づかれているように、ここ火之巻は、太刀の扱い方を述べた水之巻と違って、同じ戦闘術でも戦術面の教えを語るのである。

――――――――――――



吉田家本「敵に場を見せず」





*【涅槃経】
《譬如世間有諸大衆満二十五里。王敕一臣持一油鉢経由中過莫令傾覆。若棄一滴当断汝命。復遣一人抜刀在後随而怖之。臣受王教尽心堅持経歴爾所大衆之中。雖見可意五邪欲等心常念言。我若放逸著彼邪欲当棄所持命不全済。是人以是怖因縁故乃至不棄一滴之油。菩薩摩訶薩。亦復如是。於生死中不失念慧。以不失故雖見五欲心不貪著。若見浄色不生色相唯観苦相。乃至識相亦復如是。不作生相不作滅相不作因相観和合相》(北本巻22・南本巻24)

*【雑阿含経】
《爾時。世尊告諸比丘。世間言美色。世間美色者。能令多人集聚観看者不。諸比丘白仏。如是。世尊。仏告比丘。若世間美色。世間美色者。又能種種歌舞伎楽。復極令多衆聚集看不。比丘白仏。如是。世尊。仏告比丘。若有世間美色。世間美色者。在於一処。作種種歌舞伎楽戯笑。復有大衆雲集一処。若有士夫不愚不痴。楽楽背苦。貪生畏死。有人語言。士夫。汝当持満油鉢。於世間美色者所及大衆中過。使一能殺人者。抜刀随汝。若失一滴油者。輒当斬汝命。云何。比丘。彼持油鉢士夫能不念油鉢。不念殺人者。観彼伎女及大衆不。比丘白仏。不也。世尊。所以者何。世尊。彼士夫自見其後有抜刀者。常作是念。我若落油一滴。彼抜刀者当截我頭。唯一其心。繋念油鉢。於世間美色及大衆中徐歩而過。不敢顧眄。如是。比丘。若有沙門.婆羅門正身自重。一其心念。不顧声色。善摂一切心法。住身念処者。則是我弟子。随我教者。云何為比丘正身自重。一其心念。不顧声色。摂持一切心法。住身念処。如是。比丘。身身観念。精勤方便。正智正念。調伏世間貪憂。受・心・法法観念住亦復如是。是名比丘正身自重。一其心念。不顧声色。善摂心法。住四念処》(巻24)

 なお、興味深いことに、狩野文庫本にのみ見られる特異箇条がある。これは近年、存在を無視されているようなので、それを示せば、右掲の如くである。
 内容は、屋外屋内のどこであれ、自分の場の得失を認識すること、あるいは、山川の地形状況にしても、たんに眺めるのではなく、常に軍事的に認識するよう心がけること。――これは、常識的なほど、基本的な教えである。五輪書のこのあたりにあっても奇異とはみえない内容である。
 しかるに、この一条は、他の諸本にはない。筑前系写本にもないところを見ると、もちろんオリジナルにはなかったもので、後世にだれかが「追加」したした条文である。つまり、どこかから降って湧いた断片を、ここに挿入したものらしい。
 狩野文庫本は、「円明流覚書」と題のあるもので、写し崩れの多い派生的な一本である。ただし、他にはないこういう「特異箇条」まであるところを見ると、尾張円明流系統のものではないかと思われる。
 同じ武蔵流でも、九州の筑前・肥後系と異なり、尾張系は独自の変異進化を生じた。それは派生分化が早期にあったからである。早期に分化した系統だから、武蔵晩年の五輪書などないはずだが、それがあるのは、古橋惣左衛門の流れを汲むという伝承の一派があったからである。
 その一派の五輪書が、狩野文庫本である。おそらく幕末あたりの写本であろう。ただ、尾張円明流そのものは、明治まで存続した。  Go Back

*【狩野文庫本特異箇条】
《一 兵法の道を行ふ者ハ、常に其道に心を付て、座敷に居ても其座の損徳を知り、座の道具に付けても、其理を得、又外面にても、山を見て其山の理を知り、川を見てハ、其徳を覚、沼ふけまでも、兵法の利を受る心、肝要なり》





*【狩野文庫本後記】
《右三人之内にても、古橋惣左衛門は、兵法少おとりニ而有之候。我等ハ、此古橋之ながれニ而御座候》



 
   3 三つの先〔せん〕
【原 文】

一 三つの先と云事。
三つの先、一つハ我方より敵へかゝる先、
けんの先といふ也。又一つハ、
敵より我方へかゝる時の先、
是ハたいの先と云也。
又一つハ、我もかゝり、敵も
かゝりあふときの先、躰々の先と云。
これ三つの先也。
何の戦初にも、此三つの先より外ハなし。
先の次第をもつて、はや勝事を得ものなれバ、
先と云事、兵法の第一也。
此先の子細、さま/\有といへども、
其時々*の理を先とし、敵の心を見、
我兵法の智恵をもつて勝事なれバ、
こまやかに書分る事にあらず。(1)
第一、懸の先。我懸らんとおもふ時、
静にして居、俄にはやく懸る先、
うへを強くはやくし、底を残す心の先。
又、我心をいかにも強くして、
足ハ常の足に少はやく、
敵のきハへよると、早もミたつる先。
又、心をはなつて、初中後同じ事に、
敵をひしぐ心にて、底まで強き心に勝。
是、何れも懸の先也。
第二、待の先。敵我方へかゝりくる時、
少もかまはず、よはきやうにミせて、
敵ちかくなつて、づんと強くはなれて、
とびつくやうにミせて、敵のたるミを見て、
直に強く勝事。これ一つの先。
又、敵かゝりくるとき、
我もなを強くなつて出るとき、
敵のかゝる拍子の替る間をうけ、
其まゝ勝を得事。是、待の先の理也。
第三、躰々の先。敵はやく懸るにハ、
我静につよくかゝり、敵ちかくなつて、
づんとおもひきる身にして、
敵のゆとりのミゆる時、直に強く勝。
又、敵静にかゝるとき、
我身うきやかに、少はやくかゝりて、
敵近くなつて、ひともミもみ、
敵の色にしたがひ、強く勝事。
是、躰々の先也。(2)
此儀、こまかに書分けがたし。
此書付をもつて、大かた工夫有べし。(3)
此三つの先、時にしたがひ、理にしたがひ、
いつにても我方よりかゝる事にハ
あらざるものなれども、
同じくハ、我方よりかゝりて、
敵を自由にまはしたき事也。
何れも先の事、兵法の智力をもつて、
必勝事を得る心、能々鍛錬有べし。(4)

【現代語訳】

一 三つの先という事
 三つの先〔せん〕、一つは我方から敵へかかっていく先、これを「懸〔けん〕の先」というのである。また一つは、敵の方から我方へかかってくる時の先、これは「待〔たい〕の先」という。もう一つは、こちらもかかっていき、敵もかかってくる仕懸け合いの時の先、これを「躰々〔たいたい〕の先」という。これが三つの先である。
 どんな戦いでも、最初はこの三つの先より外はない。先の状況次第で、すでに勝つことを得るものだから、先ということが、兵法の第一である。
 この先の子細には、さまざまあるとはいえ、その時々の理〔ことわり、判断〕を先とし、敵の心を見(抜き)、我が兵法の智恵をもって勝つことであるから、細かく説明することはしない。
 第一、懸〔けん〕の先。こちらから仕懸けようと思う時、(まず)静かに〔急がずに〕いて、突然素早く仕懸ける先。うわべ〔表面〕は強く早くするが、底を残す心の先。また(逆に)、自分の心をできるだけ強くして、(ただし)足は平常の足より少し早い程度で、敵の間際へ寄るやいなや、猛烈に攻めたてる先。また、心を放捨して、初めも中間も最後も同じように、敵を挫ぐ〔ひしぐ・押し潰す〕気持で、底まで強い心で(出て)勝つ。これらは何れも「懸の先」である。
 第二、待〔たい〕の先。敵が我が方へ仕懸けてくる時、(それには)少しもかまわず、(こちらの攻勢が)弱いように見せ(かけ)て、敵が近づくと「づん」と強く(攻勢を)変えて、飛びつくように見せ、敵の(攻勢の)弛みを見て、一気に強く出て勝つこと、これが一つの先である。また、敵が仕懸けてくる時、こちらもそれよりも強くなって出て、その時、敵の攻勢の拍子の変化する隙間をとらえて、すぐさま勝ちを得ること。これが「待の先」の理〔利、勝ち方〕である。
 第三、躰々〔たいたい〕の先。敵が早く仕懸けてくる場合、こちらは静かに〔急がずに〕強く応戦し、敵が近づくと、「づん」と思い切った体勢になって、敵のゆとり〔遅滞〕が見えると、一気に強く出て勝つ。また、敵が静かに〔ゆっくりと〕かかってくる時、我身は軽く浮きやかに(なって)、少し早くかかっていき、敵が近くなると、ひと揉み争ってみて、敵の様子に応じて、強く(出て)勝つこと。これが「躰々の先」である。
 以上の事は、細かく説明することはできない。ここに書いてあることから、(自分で)大かたを工夫してみなさい。
 この三つの先は、時にしたがい、理〔利〕(の有無)にしたがって(行うもので)、どんな場合でもこちらから(先に)仕懸けるということではないが、同じことなら、我が方から仕懸けて、敵を廻し〔翻弄し〕たいものである。
 何れにしても、先〔せん〕のことは、兵法の智力によって必ず勝ちを得るという心持、(これを)よくよく鍛練あるべし。
 
  【註 解】

 (1)三つの先
 ここでいう「三つの先」の先〔せん〕という言葉は、特種な兵法語彙であるから、そのまま使って、とくに訳さない。
 現代剣道でも「先」という語を使う。「先をとる」ともいう。要するに、敵に対しリードする、戦いのイニシアティヴをとるということである。
 武蔵はこれを、三つのケースに分類しており、
(1)我方から、敵へ仕懸けていく先
(2)敵の方から、我方へ仕懸けてくる時の先
(3)敵も我も、同時に仕懸け合う時の先
 ここでは、武蔵はこの三つの先に対し、それぞれ「懸〔けん〕の先」「待〔たい〕の先」「躰々〔たいたい〕の先」と呼んでいる。
 ただし、五輪書諸本には表記の相違がある。「躰々」(体々)は、筑前系・肥後系共通の表記だが、その一方で、同じ肥後系でも、丸岡家本などのように、「對々」(対々)と書くものがある。また円明流系諸本のような派生系統でも、「對々」である。
 筑前系は共通して「躰々」であるから、これが古型である。肥後系諸本では、「躰々」から「對々」へ変異したのである。それゆえ、「對々」という表記は、肥後系のなかでも後期写本の指標とみなしうる。
 丸岡家本はこの「對々」である。とすれば、一部で早期写本とみなされてきた丸岡家本は、実際には後期写本なのである。内容分析なしに、時期を想定するから、そんな誤認も生じるのである。
 しかし、この「躰々の先」は、当時一般の語法をみれば、「對々の先」と言うべきものであろう。
《此は善彼は悪と、善悪対対の善と見るゆへに》(都鄙問答 三)
という具合の用法である。あるいはまた、男女対々というのは「男と女は五分と五分」ということであるが、それとは違う意味である。ここでの対々は、両者が相対し対立していることである。
 したがって、「たいたい」は一般には「對々」であったはずだが、兵法用語では「躰々」と造語して差異化したものらしい。「躰々」という語の方が、両者の肉体が激突するという場面を、より喚起するものである。
 しかるに、如上の肥後系後期写本でこれを「對々」とするについては、世間一般の表記に「修正」してしまったということである。
 ところで、ここに《こまやかに書分る事にあらず》とあるが、以下を読めば、そうでもないとわかる。
 肥後兵法書では、同じく「三つの先」を語っても、五輪書の「懸の先」「待の先」「躰々の先」という用語もなければ、とりたてて詳しい説明はしない。どちからというと、戦法というより、心持を中心に説いている。そういう心法に偏流するのが肥後兵法書の後発的特徴である。しかし、五輪書の説明は戦法を具体的に分類説明している。
 事実、五輪書の以下の解説は、何も秘すべきものはないというスタンスで、兵法理論を明解に述べる。この点でも、五輪書が初心の読者を念頭に置いたものだとわかる。
 つまり、こうした「懸」〔けん〕、「待」〔たい〕という語彙は、当時も昔から使われてきた兵法用語でもあって、当時の読者なら、すぐさま理解できた言葉なのである。だれも知っている言葉を使い、またそれを改めて分類整理して解説しているという点では、五輪書は初歩からの教本として書かれているのである。
 こうした「三つの先」の分類は、当時一般的なものであり、またその後も存続し、さらには近代剣道でも継承された発想であったらしく、たとえば、大日本帝国剣道形制定主査の一人、小野派一刀流の高野佐三郎(1863〜1950)は、「先々の先(懸りの先)、先(先前の先もしくは對の先)、後の先(先後の先もしくは待の先)」と分類している(『剣道』剣道発行所、大正四年)。
 名称はさまざまであるが、どんな場合でも「三つの先」であることには変りがないのである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 













*【吉田家本】 《躰々の先と云》
*【中山文庫本】 《躰々の先と云》
*【赤見家甲本】 《躰々の先といふ》
*【近藤家甲乙本】 《躰々の先といふ》
*【石井家本】《躰々の先といふ》
*【楠家本】 《躰/\の先といふ》
*【細川家本】 《躰/\の先と云》
*【丸岡家本】 《對々の先と云》
*【富永家本】 《躰々の先と云》
*【狩野文庫本】 《對々の先といふ》




*【肥後兵法書】
《 三ツの先と云事
一 三ツの先と云ハ、一ツにハ、我敵の方へかゝりての先也。二ツには、敵我方へかゝる時の先。三ツには、我もかゝり、敵もかゝる時の先。是三ツの先也。我かゝる時の先ハ、身ハかゝる身にして、足と心を中に殘し、たるまず、はらず、敵の心をうごかさず、是懸の先なり。又敵かゝり來る時の先ハ、我身に心なくして、程近き時、心を放ち、敵の動にしたがひ、其まゝ先になるべし。又互にかゝりあふ時、我身を強く、ろくにして、太刀にてなりとも、身にてなりとも、足にてなりとも、心にてなりとも、先に成べし。先を取事肝要なり》


剣道形制定主査の面々
後列左から
高野佐三郎・内藤高治・門奈正。
前列左から 辻真平・根岸信五郎

 なおここで、校異の点で問題があるとすれば、まず一つは、細川家本のみ特異な字句を示すところである。すなわち、他の諸本、むしろ近縁の楠家本や丸岡家本にさえ、《敵へかゝる》として、「先」と漢字で記すところ、細川家本のみ、「せん」と仮名文字で表記している。
 これは、漢字を仮名に変換したということではない。おそらく、これは、「先」という漢字を、「せん」と二文字に読み間違えたのである。というのも、「先」という漢字は、字体によっては、「せん」という仮名二文字に似たケースがあるからだ。
 これは常武堂本も同じであるから、細川家本系統の特徴的誤写の一つである。それは、楠家本系の祖本と分岐した細川家本の祖本の段階で、この読み取りの誤りがあったものである。この誤写の意味するところは、細川家本の後発性である。
 それよりも、他に問題とすべきは、以下の箇処である。
 すなわち、筑前系の中山文庫本、あるいは筑前=越後系の赤見家甲本をはじめ諸本には、いづれも、
《先と云事、兵法の第一也。此先の子細、様々有といへども、其時々の理を先とし》
とあって、《其時々の》とするのだが、同じ筑前系の吉田家本と鈴木家本、肥後系の楠家本・細川家本をはじめ他の諸本は多く、これを《其時の》と記す。
 筑前系/肥後系を横断して共通するということからすれば、ここは《其時の》が妥当となるが、実はそうではない。筑前系諸本をきちんと見る必要がある。
 というのも、筑前系諸本を通覧するに、吉田家本と鈴木家本が《其時の》と記すが、同じ早川系の中山文庫本では《其時々の》である。越後系諸本は、すべて《其時々の》である。越後系諸本全体の祖本たる立花隨翁本には、前部欠損がありこの部分が確認できないが、丹羽信英による赤見家甲本以下の越後系諸本がすべて《其時々の》とするから、筑前の立花系は、《其時々の》と記していた可能性が大きい。したがって、あながち、この《其時々の》を無視することはできない。
 そこで、内容分析の審問が必要となる。すなわち、五輪書のこの部分は、「この先の子細には、さまざまあるとはいえ、その時その時の理を優先して、敵の心を見(抜き)、我が兵法の智恵をもって勝つことであるから、細かく説明することはしない」という話である。要するに、状況それぞれに対応した臨機応変の判断という文脈で語られている。要するに、この場合の、「理」〔ことはり〕は状況次第でさまざまだというのである。
 こうした武蔵のロジックにしたがえば、前後の文脈からして、ここは《其時の理》というよりも、状況の多様性を示す《其時々の理》としたほうが妥当であろう。よって、我々のテクストでは、この《其時々の》を採用している。

――――――――――――

*【楠家本】 《わが方より敵へかゝる
*【細川家本】 《我方より敵へかゝるせん
*【丸岡家本】 《我方より敵へかゝる









*【吉田家本】
《此先の子細、様々有といへども、其の理を先とし》
*【中山文庫本】
《此先の子細、様々有といへども、其時々の理を先とし》
*【鈴木家本】
《此先の子細、様々有といへども、其の理を先とし》
*【赤見家甲本】
《此先の子細、さま/\有といへども、其時々の理を先とし》
*【近藤家甲乙本】
《此先の子細、さま/\有といへども、其時々の理を先とし》
*【石井家本】
《此先の子細、さま/\有といへども、其時々の理を先とし》
*【楠家本】
《此先の子細、さま/\ありといへども、其の理を先とし》
*【細川家本】
《此先の子細、様々ありといへども、其の理を先とし》
*【富永家本】
《此先の子細樣々有といへども、其の理を先とし》
 語釈の点をいえば、この「三つの先」の条文では、一つ特徴的な文字使用があることに注意される。
 それは上記の校異箇処にも出てきた「理」という文字である。諸本をみるに、「利」ではなく「理」に統一している。五輪書では、「理」を「利」に書くことは少なくないが、ここでは「利」という文字はなく、「理」である。筑前系/肥後系に通有の書字例であるから、これは、寺尾孫之丞段階に遡るものである。
 本条では以下に「理」字が二つ出てくるところをみるに、本条にかぎって、「理」字ばかり書いてあったのである。これは、他の用例では、「利」字にしているケースでも、ここでは「理」字に書いたということである。
 他の用例をみれば、《其時々の理を先とし》についても、《其時々の利を先とし》と記してあっても、とくに異とするべきではない。おそらく、武蔵の草稿には、ここを「利」字ではなく、「理」字を書いていたものであろう。
 ただし、この文字使用の特徴に有意性を認めるとすれば、この「理」は本書通例の「利/理」ではなく、「ことわり」と読ませたものかもしれない。つまり、語義は「道理、真理」ではなく、「判断」の意である。
 とすれば、ここは、「その時々の判断を先とし」との語訳が導かれる。これを意訳すれば、「その時々の判断を優先し」といったところであろう。これもありうるだろうということで、我々の訳文では、ここに限って、異例の語義を提示している。
 この点について既成現代語訳を見るに、やや難題であったらしく、戦前の石田訳は、「其の時の形勢によつてどの先をとるかを決定し」と訳して、工夫の跡を示している。「理」という文字については、「形勢」と意訳している。ただし、これは「理」字の語義としては誤りである。
 戦後の神子訳は、これを「その時々の事情によって有利なようにきめる」と意訳している。これも石田訳の工夫をうけ継いで、「理」字に腐心したもののようだが、訳文はむしろ逸脱してしまっている。他方、これが底本とする細川家本では、《其時の》であるから、これは厳密に言えば正確な語訳ではない。しかるに結果として、「その時々の」として、正しい原文と同じところに落着した、というケースである。原文を裏切ることが正解を生むこともある。
 その後出た岩波版注記は、これを「その時々の理に適合するものを第一とし」と語釈している。「その時々の」は神子訳を頂戴したものである。ところが、ここでは「理」という文字をそのまま訳文に入れている。
 この「理」字は、先行の石田訳も神子訳も腐心したところである。ところが、そんな先行訳の苦労を無に帰してしまったのが、この岩波版注記である。言語に対するセンスがないのである。
 それは以下の箇処の語釈にも現れている。《先とし》とあるところを、この注記では、「第一とし」と意訳しているが、それは誤りである。ここがもし、《専とし》とあったなら、それで正解だが、ここはやはり《先とし》と書いているのである。「三つの先」というテーマの条だから、ここで「専」を「先」と当て字するわけがない。しかもその直前には、《先と云事、兵法の第一也》と記して、「専」と書くところをわざわざ避けて、「第一」という語を用いているのである。
 岩波版注記はかように安易な誤訳を示しているが、その後の現代語訳(大河内訳、鎌田訳)はともに岩波版注記をパクっただけの、独自の工夫も何もない怠慢な訳文である。石田訳や神子訳が試みた苦心も、あるどころではない。ようするに、この点でも、近年のものほど五輪書訳が劣悪化していることは明らかであろう。   Go Back


其時々の理を先とし
石井家本



*【現代語訳事例】
《この先については詳しく述べねばならぬ事が澤山あるが兎に角、其の時の形勢によつてどの先をとるかを決定し》(石田外茂一訳)
《この「先」の内容にはいろいろのことがあるが、その時々の事情によって有利なようにきめるものであり》(神子侃訳)
《この「先」の内容にはいろいろあるが、その時々の理に叶ったものを第一とし》(大河内昭爾訳)
《この「先」の内容にはさまざまあるが、どの先をとるかは、その時々の理に適っているものを第一とし》(鎌田茂雄訳)

 
 (2)懸の先・待の先・躰々の先
 ここは「三つの先」の説明である。懸〔けん〕の先・待〔たい〕の先・躰々〔たいたい〕の先と名づけたものを、具体的に解説する。
 まず、懸〔けん〕の先は、こちらから先に仕懸けようとする場合である。これにはいくつかあって、
(a)最初は静かにしていて、それから突然素早く仕懸ける。
(b)表面では強く早くするが、底を残す心。
(c)逆に、我が心をいかにも強くして、ただ、足は平常の足より少し早い程度で、敵の間際へ寄るやいなや、猛烈に攻めたてる。
(d)心を放捨して、初めも中間も最後も同じように、敵を押し潰す気持の、底まで強い心で攻撃に出て勝つ。
 これらはいづれも「懸の先」である。肥後兵法書には、
《我かゝる時の先ハ、身ハかゝる身にして、足と心を中に殘し、たるまず、はらず、敵の心をうごかさず、是懸の先なり》
とあって、身体は攻撃態勢だが、足と心は中に「残す」というわけで、前に水之巻にあった身心分裂操法の一種である。これは上記(b)の残心の先に近いが、何とも言えない。
 むしろ、五輪書では「懸の先」を具体的に分析して、さらなる分類をしているので、必ずしも肥後兵法書の記述とは符合しない。言い換えれば、肥後兵法書の記述は要約的だが、五輪書の方は、分析的に述べて、四つの懸の先があるという話である。
 第二の待〔たい〕の先は、逆に、相手から先に仕懸けてくる場合の先である。これには二つあるようで、
(a)敵の方が仕掛けてくる時、それには少しも相手にならず、こちらの攻勢が弱いように見せて、そして敵が近づくと対応を一変して「づん」と強く出て、飛びつくように見せる。と、敵の攻撃の弛みが生じる、それを見て、一気に強く出て勝つ。
(b)敵が仕懸けてくると、――こんどは逆に――こちらは敵よりも強く出る。その時、敵の仕懸ける拍子の変化する隙間を捉えて、そのまま勝ちを得る。
 これをみると「待の先」にも、積極的なものと消極的なものがあるようである。肥後兵法書の当該部分には、
《敵かゝり來る時の先ハ、我身に心なくして、程近き時、心を放ち、敵の動にしたがひ、其まゝ先になるべし》
とあって、これは上記の前者の方に近い内容である。しかし、後者の積極的な応戦の方の記述はない。五輪書のほうが説明が詳しいのである。
 第三の躰々〔たいたい〕の先。これは、敵我双方が同時に仕懸け合いの場合である。これにも二つあるようである。
(a)敵が早く仕懸けてくるとき、こちらは静かに、つまり急がずに、強く応戦し、敵が近づくと、「づん」と思い切った体勢になって出る、そこで敵のゆとり〔遅滞〕の見えるところを、一気に強く出て勝つ。
(b)また逆に、敵が静かに、ゆっくりと懸かってくる時、我身は軽く浮いたようになって、敵より少し早く仕懸けていき、敵が間近になると、ひと揉み争ってみて、その敵の様子に応じて、強く出て勝つ。
 これはまた、相手の出方の動静によって、こちらは逆の動静で応じるが、様子を見て強く出て勝つということでは同じである。
 肥後兵法書の当該部分には、
《互にかゝりあふ時、我身を強く、ろくにして、太刀にてなりとも、身にてなりとも、足にてなりとも、心にてなりとも、先に成べし》
とあって、この記述は、五輪書のように具体的ではない。これではほとんど内容は不明である。
 肥後兵法書はこの「三つの先」において、五輪書のような、「懸」「待」「躰々」という用語も使用しない。形式・内容ともに、記述が簡略化、悪く言えば、貧弱化しているようである。

――――――――――――












*【肥後兵法書】 (再掲)
《 三ツの先と云事
一 三ツの先と云ハ、一ツにハ、我敵の方へかゝりての先也。二ツには、敵我方へかゝる時の先。三ツには、我もかゝり、敵もかゝる時の先。是三ツの先也。我かゝる時の先ハ、身ハかゝる身にして、足と心を中に殘し、たるまず、はらず、敵の心をうごかさず、是懸の先なり。又敵かゝり來る時の先ハ、我身に心なくして、程近き時、心を放ち、敵の動にしたがひ、其まゝ先になるべし。又互にかゝりあふ時、我身を強く、ろくにして、太刀にてなりとも、身にてなりとも、足にてなりとも、心にてなりとも、先に成べし。先を取事肝要なり》

*【水之巻参考箇所】
 
《敵を打拍子に、一拍子と云て、敵我あたるほどの位を得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、いかにも早く、直にうつ拍子なり。敵の太刀ひかん、はづさん、うたん、と思ふ心のなきうちを打拍子、是一拍子也》(敵を打つに一つ拍子の打の事)
 
《我うちださんとするとき、敵はやく引、はやくはりのくる様なる時は、我うつとみせて、敵のはりてたるむ所を打、引てたるむところをうつ、これ二のこしの拍子也》(二のこしの拍子の事)
 
《敵もうち出さんとし、我も打ださんとおもふとき、身もうつ身になり、心も打心になつて、手は、いつとなく、空より後ばやに強く打事、是無念無相とて、一大事の打也》(無念無相の打と云事)
 
《流水の打といひて、敵あひに成て、せりあふ時、敵、はやくひかん、はやくはづさん、早く太刀をはりのけんとする時、我身も心も大になつて、太刀を我身の跡より、いかほどもゆる/\と、よどみの有様に、大に強くうつ事也》(流水の打と云事)
 ここで、語釈の問題では、まず、《静に》という語がある。これはむろん、静かに、騒々しくなく、という意味ではない。急がずに、ゆっくりと、という意味である。動静の緩急拍子を変えるのである。
 次に、第二、「待の先」のところで、《敵我方へかゝりくる時、少もかまはず、よはきやうにみせて、敵ちかくなつて、づんと強くはなれて、とびつくやうにみせて、敵のたるみを見て、直に強く勝事》とあるところ、《づんと強くはなれて》の「はなれて」というのは、敵から離れる、距離をとる、という意味ではない。
 これは後の、「第三、躰々の先」のところで、《敵はやく懸るには、我静につよくかゝり、敵ちかくなつて、づんとおもひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直に強く勝》とあるところの、《づんとおもひきる身にして》と平行関係にある表現である。
 つまり、まず、《よはきやうにみせて》、次に、敵が接近してくると、《よはきやうにみせる》ことから「はなれて」、急に対応を一変して、思い切って強く出ることを述べているのである。ここは、字面を漫然と見ていては読めないところである。
 しかるに、既成現代語訳を見るに、戦前の石田訳は、これを「ヅンと強く離れて飛び付く」と、わけの解らぬ訳を示している。「はなれて」を、敵から離れることと誤解したのである。その結果、「強く離れて飛び付く」という誤訳に至ったのである。
 しかし、戦後の神子訳になると、もっとひどい誤訳になった。それは石田訳のように「強く離れて飛び付く」とすると、わけが解らぬと思ったか、「飛び付く」を「とびのく」という逆の表現に勝手に改竄してしまったのである。
 神子訳が底本にした細川家本では、むろん《づんとつよくはなれて、飛付やうに見せて》とあって、ここは「飛び付く」であって、「飛びのく」ではない。神子訳は明らかに恣意的な改竄である。
 ところが、以後の現代語訳を見るに、これは神子訳だけの改竄ではなかった。というのも、大河内訳・鎌田訳ともに、「飛びのく」「とびのく」としている。この両者とも神子訳をパクる例が多いが、ここはようするに、訳者が岩波版原文にすら当たっていないことを暴露している。両者の原文は、岩波版細川家本どころか、神子訳なのである。まったく恐れ入った次第であるが、目に余る劣悪な仕業である。
 さて、また語釈の問題では、いまの関連箇処で、《敵ちかくなつて、づんとおもひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直に強く勝》とあるところ、この「ゆとり」という語である。
 この「ゆとり」は、むろん、「余裕」という現代語の意味ではない。「ゆとる」という動詞があって、意味は、「おくれる」「グズグズする」ということである。「ゆとり」はその名詞形で、「遅滞」の意である。
 ここを、既成現代語訳はどう訳しているかと見れば、戦前の石田訳が、「ゆとり」を類語の「たるみ」と読み替えたのを皮切りに、神子訳以下戦後の訳に「たるみ」と読み違える傾向が生じたようである。岩波版注記もこれを頂戴し、「たるみ。ゆるみ」と書いているが、これが誤りであるのは申すまでもない。
 しかし、大河内訳のように「油断」と意訳するのは、たしかに「ゆとり」を「たるみ」と読み替えるのを躊躇した模様であるが、いかんせん、まったく的外れの誤訳でしかない。鎌田訳は例によって、言わずもがな、先例を孫引きするだけである。少しは自分で努力してみせろ、と言いたい代物である。   Go Back















*【現代語訳事例】
《敵が近付いて來てからヅンと強く離れて飛び付くやうに見せて》(石田外茂一訳)
《敵が近づいてきたならば、ぐんと大きく離れ、とびのくように見せて》(神子侃訳)
《敵が近くなったら、ぐんと大きく離れ、飛びのくように見せて》(大河内昭爾訳)
《敵が近づいてきたならば、ぐんと大きく離れて、とびのくように見せて》(鎌田茂雄訳)











*【現代語訳事例】
《敵のたるみの見える時、直ちに強くかゝつて》(石田外茂一訳)
《敵のたるんだすきを一気にせめ》(神子侃訳)
《敵が油断した瞬間、一気にせめて》(大河内昭爾訳)
《敵のたるみが見えるとき、一気に強くせめ》(鎌田茂雄訳)

 
 (3)此儀こまかに書分けがたし
 以上、三つの先の説明である。この説明は、肥後兵法書と比較すると、かなり詳しく書いている。武蔵の説明しようという苦心のあるところである。
 以下に示すのは、五輪書と肥後兵法書の説明文の対照一覧である。これによってみれば、内容の基本点は同じであるものの、五輪書では、説明が具体的で懇切なものであるか、一目瞭然であろう。

五 輪 書 肥後兵法書
第一、懸の先。我懸らんとおもふ時、静にして居、俄にはやく懸る先、うへを強くはやくし、底を残す心の先。又、我心をいかにも強くして、足は常の足に少はやく、敵のきはへよると早もみたつる先。又、心をはなつて、初中後同じ事に、敵をひしぐ心にて、底まで強き心に勝。是何れも懸の先也。
我掛る時の先は、身は掛る身にして、足と心を中に殘し、たるまず、張(ら)ず、敵の心を動かさず、是懸の先なり。
第二、待の先。敵我方へかゝりくる時、少もかまはず、よはきやうにみせて、敵ちかくなつて、づんと強くはなれて、とびつくやうにみせて、敵のたるみを見て、直に強く勝事。これ一つの先。又、敵かゝりくるとき、我もなを強くなつて出るとき、敵のかゝる拍子の替る間をうけ、其まゝ勝を得事。是待の先の理也。
敵かゝり來る時の先は、我身に心なくして、程近き時、心を放ち、敵の動きに隨ひ、其儘先になるべし。
第三、躰々の先。敵はやく懸るには、我静につよくかゝり、敵ちかくなつて、づんとおもひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直に強く勝。又、敵静にかゝるとき、我身うきやかに、少はやくかゝりて、敵近くなつて、ひともミもみ、敵の色にしたがひ、強く勝事。これ躰々の先也。
双方一時に懸り合ふ時、我身を強く、ろくにして、太刀にてなりとも、身にてなりとも、足にてなりとも、心にてなりとも、先になるべし。
 このように説明が詳しくなっても、武蔵はまだ説明が足りないと感じたらしく、《此儀、こまかに書分けがたし。此書付をもつて、大かた工夫有べし》としている。
 ようするに、実技は何でもそうなのだが、言葉で説明するには限界がある。それは各自それぞれが工夫すべきものなのである。ひとから与えられるのではなく、自ら把握し体得する部分が大きい。言葉はいわば中途半端な導きをするにすぎない。
 なお、上記の高野佐三郎の著書(『剣道』)では、このあたりを、
(先々の先) 彼我相対し勝敗を争ふ時、敵の起りを早く機微の間に認めて、直ちに撃込み機先を制するをいふ。
(先) 隙を認めて敵より撃込み来るを、敵の先が効を奏せざる前に早く先を取りて、勝を制するをいふ。
(後の先) 隙を認めて敵より撃込み来たるを、切落し太刀を凌ぎて後に敵の気勢の痿ゆる所を見かけ、強く撃込みて勝つをいふによりて、之を待の先と称す。
というように説明している。このうち、「先々の先」が武蔵のいう「懸の先」、「先」が「躰々の先」、「後の先」が「待の先」に相当するわけである。
 現代人には、おそらく高野の説明の方が解りやすいであろう。それは我々の近代言語が一定の抽象レベルにあるからである。武蔵の話のような具体的な教えになると、却ってわかりにくくなるのは当然である。
 しかし、あるところまで実際に練習すると、むしろ五輪書の記述の方がしっくり身についてくる。これによってみると、五輪書は兵法教本としてなかなか優れたものはないかと気づくのである。
 言うならば、五輪書は目と頭で読むものなのではなく、身体を動員しなければ読めたとは言えない書物なのである。  Go Back


昭和四年 御大礼記念昭和天覧試合
このとき高野佐三郎は中山博道と
大日本帝国剣道形を披露した
 
 (4)敵を自由にまはしたき事也
 兵法の智力という言葉は、五輪書で好んで使われている言葉であるが、戦闘における戦い方の戦術的洗練については、とくにこの火之巻の随所に語られることである。
 いづれにしても、この「三つの先」は、敵に対し戦いの「先」をとる、つまりイニシアティヴをとる、という教えである。したがって、同じことなら、我が方がリードする形で、敵を翻弄したいものだね、と武蔵は言うのである。
 ここに出てくる「敵をまわす」という言葉は、五輪書にしばしば登場するが、敵を翻弄すること、我が方の思い通りに敵を動かすことである。猿廻しの「廻し」である。これは「先をとる」ということの効果(effect)である。
 この「まわす」という語に関し、我々はこれを兵法用語として扱うから、とくに現代日常語に変換しない。まわすは、廻すである。五輪書読みなら、これを自身の語彙に加えていただきたい。
 むろん、この「先をとる」「敵をまわす」テーマについて、我々は『孫子』のテーゼを思い起こすのである。それは、
《善く戦ふ者は、人を致して、人に致されず》(虚実篇)
 すなわち、この「致す」も戦いのイニシアティヴを握ることであり、五輪書の「まわす」と同じく、相手を自分の思い通りすることである。それゆえ、戦さ上手は、敵を思い通りにはしても、敵の思い通りにはさせない、というのが「人を致して、人に致されず」の意味である。

――――――――――――




*【しやうそつをしると云事】
《将卒を知るとは、何れも戦に及ぶとき、我思ふ道に至ては、たへず此法をおこなひ、兵法の智力を得て、わが敵たるものをば、みなわが卒なりと思ひとつて、なしたきやうになすべしと心得、敵を自由にまはさんと思ふ所、我は将也、敵は卒也。工夫有べし》(火之巻)



*【孫子】
《孫子曰、凡先處戦地、而待敵者佚、後處戦地、而趨戦者労、故善戦者、致人而不致於人、能使敵人自至者、利之也、能使敵人不得至者、害之也、故敵佚能労之、飽能饑之、安能動之》(虚実篇)

 ここで、諸本間に校異のある点について問題を提起しておきたい。それは、我々のテクストにおいて、
《同じくは、我方よりかゝりて、敵を自由にまはしたき事也》
とするところ、これは筑前系諸本に依拠したものである。つまり、早川系の諸本、そして立花=越後系の赤見家甲本以下の諸本にも、この《自由に》という語がある。
 これは筑前系諸本に共通するところから、《自由に》とあるのが古型である。筑前系初期の柴任美矩の段階にすでにあったと思われる。その想定すべき初期性から、これを我々のテクストに採用したのである。
 しかるに、肥後系諸本には、《自由に》という語句が欠落している。早期派生系統の富永家本や円明流系諸本も含め、共通して、この《自由に》という語句が見当たらない。とすれば、この語句の有無は、筑前系/肥後系を截然とわける指標的相異である。
 筑前系にあって肥後系に欠けている場合、既述のように、それは二通りのケースがある。寺尾孫之丞の段階では存在したが、門外流出後の伝写過程で、脱落が生じたケース。もう一つは、寺尾孫之丞前期にはあったが、後期写本では寺尾自身がこの語句を落としてしまったケース。この《自由に》という語句の有無も、その両方の可能性がある。
 これは、肥後系伝写過程の早期に、この《自由に》という語句が脱落した可能性が強いが、ただし、かりに後者のケースであるとしても、柴任美矩に伝授された寺尾孫之丞前期写本には存在したのだから、武蔵のオリジナルには《自由に》という語句はあったとみるべきである。
 さらにいえば、ここは、《我方よりかゝりて、敵を自由にまはしたき事也》という文言のあるのを知れば、《我方よりかゝりて、敵をまはしたき事也》では、文勢が弱い。水之巻の「将卒をしる」条でも、《敵を自由にまはさん》とあったところである。ここは《自由に》という語句がなければならない。
 これも、ひろく諸本を通覧しなければ、わからなかった校異である。肥後系諸本のみを見ていては、その欠落にすら気がつかないということがある。まさにそれが、このケースである。後学の諸君の注意を喚起しておきたい。   Go Back

*【吉田家本】
《敵を自由にまはしたき事也》
*【中山文庫本】
《敵を自由にまはしたき事也》
*【鈴木家本】
《敵を自由にまハしたき事也》
*【赤見家甲本】
《敵を自由にまわしたき事也》
*【近藤家甲乙本】
《敵を自由にまわしたき事也》
*【石井家本】
《敵を自由にまはしたき事也》
*【楠家本】
《敵を【】まはしたき事なり》
*【細川家本】
《敵を【】まハし度事也》
*【富永家本】
《敵を【】まわしたき事也》
*【狩野文庫本】
《敵を【】廻し度事也》



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