武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 風之巻 4  Back   Next 

 
   9 他流批判・兵法の早さ
【原 文】

一 他流にはやき事を用る事。
兵法のはやきと云所、実の道にあらず。
はやきといふ事ハ、
物毎のひやうしの間にあはざるによつて、
はやき遅きと云こゝろ也。
其道上手になりてハ、
はやく見ヘざるもの也。
たとへバ、人にはや道と云て、
一日に四十五十里行者も有。
是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。
道のふかんなるものハ、
一日走様なれども、はかゆかざるもの也。
乱舞の道に、上手(の*)うたふ謡に、
下手のつけてうたへバ、おくるゝこゝろ有て、
いそがしきもの也。
又、鼓太鼓に老松をうつに、静なる位なれども、
下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろ也。
高砂ハ、きうなる位なれども、
はやきといふ事、悪し。
はやきハこける、と云て、間にあはず。
勿論、おそきも悪し。
これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、
間のぬけざる所也。
諸事しつけたるものゝする事ハ、
いそがしくみヘざるもの也。
此たとへをもつて、道の利をしるべし。(1)
殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。
是も、其子細は、所によりて、
沼ふけなどにてハ、身足ともにはやく行がたし。
太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し。
はやくきらんとすれバ、扇小刀の様にハあらで、
ちやくときれバ、少もきれざるもの也。
能々分別すべし。
大分の兵法にしても、はやく急ぐ心わるし。
枕を押ゆると云心にてハ、
すこしもおそき事ハなき事也。
又、人のむざとはやき事などにハ、
そむくと云て、静になり、
人につかざる所、肝要也。
此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也。(2)

【現代語訳】

一 他流で早い事を用いる〔重視する〕事
 兵法の早いというところ、(それは)真実の道ではない。
 早いということは、何ごとでも、拍子の間〔ま〕に合わない〔はずれる〕ということで、そこから、早い遅いというわけである。その道の上手になると、(動作は)早く見えないものである。
 たとえば、人によっては、「はや道」〔飛脚〕といって、一日に四十里五十里行く者もある。これも、朝から晩まで(一日中)早く走るのではない。道〔はや道〕の不堪〔未熟〕なる者は、一日中走るようであっても、捗が行かないものである。
 乱舞*の道では、上手がうたう謡曲に下手が付けてうたうと、(下手は)遅れる心があって、急がしいものである。
 また、鼓太鼓で「老松」〔おいまつ〕を打つとき、ゆっくりした曲であるのに、下手はこれも遅れ、(焦って)先立とうとするのである。「高砂」〔たかさご〕は(リズムが)急速な曲であるけれど、早いということはよくない。「早きはこける」といって、間に合わない。もちろん遅いのもよくない。
 これは、上手のすることは、ゆるゆるとみえて、間が抜けないというところである。どんなことでも、手慣れた者のする事は、急がしく見えないものである。この喩えをもって、道の利〔正しいやり方〕を知るべし。
 とくに、兵法の道において、早いということはよくない。これも、そのわけは、場所によって、沼、ふけ〔湿原〕などでは、身も足も共に早く進めないからである。
 太刀はなおさら、早く切ることはよくない。早く切ろうとすれば、扇や小刀のようにはいかず、ちゃくと*〔素早く〕切れば、少しも切れないものである。よくよく分別すべし。
 大分の兵法〔集団戦〕にしても、早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」というつもりになれば、少しも遅いことはないのである。
 また、相手がむやみに早くする場合などには、「背く」といって、(逆に)緩慢になって、(早い)相手につかない〔同調しない〕こと、そこが肝要である。この心、工夫、鍛練あるべきことである。
 
  【註 解】

 (1)兵法のはやきと云所、実の道にあらず
 前節とやや連続して、こんどは、早さ、スピードを重視することに対する批判である。ここもかなり興味深い教えである。
 というのも、戦国期から何ごとも、スピード、機動性というところが重視され、この行動における速度が重視されてきた。それは合戦など戦闘においてもそうであるし、また築城など工事においてもそうである。
 幕藩体制の政治秩序が固定し、身分社会が安定してしまうと、運動は緩慢になってしまうが、それより以前の近世初頭、武蔵は、なかなか忙しい性急に運動する時代を生きたのである。
《兵法のはやきと云所、実の道にあらず》
という武蔵の、スピードに対するネガティヴなテーゼは、世の中がスピードを信奉するなかで、太刀使いも速度を重視するようになってしまったことへの批判である。速さへの強迫観念というものがあって、何ごとも早いのが優れているという信仰があったのである。
 これに対し武蔵は、スピードだけでは勝てないぞ、あるいは、速度信奉者に勝つにはこうすればいい、という話をするわけである。
 その前に武蔵は、そもそも「早い」とはどういうことか、という省察(reflection)をしてみせる。すなわち、「早い」ということは、何ごとでも、拍子の間〔ま〕に合わないということから、早い遅いということがあるわけだ、とする。
 現代語では、「間に合わない」というのは、「遅れる」という一方的な意味になっているが、武蔵の時代には、字義通りの「間に合わない」、「はずれる」という意味である。つまり、早すぎるのも「間に合わない」のである。
 そこで、ようするに、拍子の間に合わない、拍子外れのあることから、早い、遅いということがあるだけだ。――これが武蔵的な定義である。
 これは注意されるべき思考である。なぜなら、この「早い」の定義によれば、早いということそのものが存在しない。その道の上手になると、(動作は)早く見えないものである、――と武蔵は言う。
 言い換えれば、武蔵によれば、拍子の間に合わない(はずれる)のが、早い、遅いということであり、「早い」ということもまた、拍子の間に合ない、拍子の外れたことである。こうした指摘は、速度のイデオロギーのなかで、「早い」ということに絶対的な価値を置く風潮への批判であるが、武蔵の方から言えば、早くても早く見えない、それが上手のすることなのである。
《其道上手になりてハ、はやく見ヘざるもの也》
 ここで武蔵は、二つ事例を挙げる。一つは「はや道」(飛脚)、もう一つは乱舞(能楽)である。いづれも、速度やリズムが肝心である。
 武蔵の話では、当時「はや道」といって、一日になんと四十里五十里(160〜200km)も走る者があったらしい。これは、遠距離走破であるのみならず、かなり早い。
 マラソンの世界記録でも、平均時速20km程度である。五十里(200km)走るとなると、これでも十時間は走らなければならない。二時間と少し走って力が尽きるマラソン選手では、これは無理であろう。現代の通念からすれば、不可能事だが、武蔵が言うのだから、当時はそんな人間が事実居たし、そんな「はや道」という走行術があったのである。
 武蔵の言うには、これも、朝から晩まで、ずっとその間、早く走るのではない。彼らがどうやって走っていたか、見たいものだが、この「はや道」の伝承者は、もういないだろう。
《是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。道のふかんなるものハ、一日走様なれとも、はかゆかざるもの也》
 この道の達者は、朝から晩まで、ずっとその間、早く走るのではないが、四十里五十里を走破する。道の「ふかん」なる者は、一日中走っても、一向に捗が行かない。これが「早い」「遅い」ということである。
 この「ふかん」〔不堪〕は、芸術技術の未熟なることである。語例は、
《不堪の藝をもちて堪能の坐につらなり》(徒然草)
とあるごとくである。ちなみに、古文書に見える「不堪田」〔ふかんだ〕とは、農作できない荒れ田のことである。
 武蔵が挙げる事例のもう一つは、乱舞である。この「乱舞」という語は前にも出たが、必ずしも「らんぶ」ではなく「らっぷ」ともよむ。現代語の「乱舞」とは意味が違って、能の一節を謡い舞うことである。
 武蔵は、上手がうたう謡いに下手が付けて謠うと、遅れる心があって急がしいものである、という。遅れまいとして、急がしくなるのである。
 この「乱舞」のことで、武蔵が次に例に出しているのは、「老松」〔おいまつ〕と「高砂」〔たかさご〕、ともに世阿弥の作である。また、ともに祝言の舞曲で、正月に演じられた。ともに最も有名な謡曲であるから、武蔵はここでも、だれでも知っている分かりやすい例を出しているのである。それが五輪書の教えのスタンスである。
 「老松」について、武蔵は、ゆっくりした曲であるのに、下手はこれにも遅れて焦る気持になる、と言っている。こちらは、厳粛で閑雅、緩速の曲である。
 もう一つの「高砂」については、急な曲であるけれど、早いということはよくない、と評している。「高砂」は全て急な曲というわけではない。急な曲という部分は、真之神舞のところであろうか。ここは、いくら囃子が速くなっても、シテはそれに合わせなければならない、ともいうほどの急所である。
 このように「老松」「高砂」の緩急二つの例を出して、いくら緩慢な曲でも下手は遅れて焦ってしまうものだし、一方でいくらでも急であってよい曲でも、早いというのはよくない、とするのである。要するに、拍子の間に合う/合わないということが問題なのである。
 武蔵は云う、――「早きはこける」といって、間に合わない。この「こける」は、現代でも関西などで現存語法にあるが、転〔ころ〕ぶ、倒れることである。「こけつ、転〔まろ〕びつ」というのは、倒れたりころんだりして、そんな調子で急いで走る様子である。ただし、この《早きはこける》の「こける」のばあいは、「逸れる、外れる」の意であり、拍子が外れるということである。だから、武蔵は《間にあはず》と云うのである。
《これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、間のぬけざる所也。諸事しつけたるものゝする事ハ、いそがしくみヘざるもの也》
 これが、武蔵の解説ポイントである。上手のすることは、ゆるゆるとみえて、間が抜けない。「間が抜けない」とは、間に合うことである。「間抜け」というのは、阿呆、頓馬と同様、人の愚鈍を罵って云う罵倒語、「間に合わない」は現代語では遅れることをいうが、もとは拍子の間に合う/合わないという話だったのである。
 なお、また語釈上の問題では、前出の《はやきハこける》の「こける」である。これは「逸れる、外れる」の意あり、拍子が外れるということである。ここは拍子の間についての成語であるから、「こける」は通常の「転ぶ、倒れる」という意味ではない。
 これについて既成現代語訳を見るに、戦前の石田訳は、「早いのは倒〔こ〕ける」として、すでに「倒れる」という方向を出している。戦後の神子訳になると、「急げば転ぶ」と「間にはずれてしまう」を出しているが、転ぶと間にはずれるの食違いをそのままにして、文意不通の訳文となっている。
 その後の岩波版注記では、《はやきハこける》を「はやく走れば転倒することが多い」と語釈している。これは上記の意味において誤りである。《間にあはず》には、「拍子の間にぴたりと合わず、外れてしまう」と語釈しているから、神子訳と同じく、転倒すると外れるの喰い違いをみせたままにしている。
 大河内訳は、神子訳と岩波版注記の翻案であり、さして工夫はない。鎌田訳もその点同様であつが、例によって岩波版注記をそのまま転記したもので、しかも《はやきハこける》が警句であるのを無視した訳文である。
 ところで、細川家本は、《此たとへをもつて、道の理をしるべし》として、道の「理」としているが、これは、筑前系諸本を参照すれば、道の「利」とすべきところである。楠家本は、肥後系の中では珍しく、道の「利」と書いているが、他はおおむね道の「理」に作る。
 当時は「理」「利」二字の互換性があって、「理」を「利」に宛て字し合うことがよくあるのだが、肥後系諸本の傾向として、「利」を「理」に書き換えてしまう例が多い。この道の「理」もその一例である。
 ところで、細川家本が他の諸本と同じく、道の「理」と書いたことにより、既成現代語訳に理解しがたい珍訳が生じた。
 戦前の石田訳は、「道の理」として、語字通り読ませようとしているが、問題は、戦後の神子訳である。ご覧のごとく、これをなんと「道理」としてしまったのである。「道の理」だから、「道理」。しかも「この道理」である。どの道理というのか、呆れた「翻訳」である。
 道理ならはじめから「道理」とあるだろうに、どうして「道の理」と書いてあるのか、それに思い至らなかったのである。もちろん、これが「道の利」であることは、訳者は知らないのである。
 しかし、さらに問題は、大河内訳・鎌田訳である。両者は神子訳を頂戴して、「その道理」「この道理」としている。神子訳の創意にかかる珍訳は、かくして再生産されているわけである。
 ついでに、ここでもう一つ珍訳を挙げることができる。これも、神子訳の創意によるものである。
 つまり、順序は後先になったが、彼らが依拠した細川家本に、《人にはや道といひて、四十里五十里行ものもあり》とあるところ、石田訳はそのままの訳であるが、戦後になると、神子訳が「一日に」と入れた。
 もちろんこの語句は、細川家本(岩波版)原文にはないものである。原文にない語句を入れるのは、直訳ではなく意訳だからだが、この「一日に」という神子訳の発明は、以後の大河内訳・鎌田訳にも引き継がれ反復されている。だから、原文を知らぬ読者は、細川家本にこの「一日に」という文字があるものと錯覚するのである。
 しかし、細川家本には、「一日に」四十里五十里行くとは書いていないから、三日で行くことも、五日で行くこともあるはずである。石田訳はそういう理解であろう。したがって、細川家本に依拠するかぎりにおいて、意訳とはいえ、この「一日に」は原文に不忠実な逸脱なのである。
 ところが、以下の校異に見るごとく、筑前系諸本には、《一日に四十里五十里行者も有》とあって、「一日に」と確かに書いてあるのである。もちろん神子が、筑前系五輪書まで見ているはずはないから、これは知らずに勝手に付け足したのである。つまりは原文から脱線してしまったのだが、そうした逸脱が、結果として正解を得たというわけである。これもまた、五輪書翻訳史上の珍事の一つと謂うべきであろう。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 






墨俣一夜城 歴史資料館
「一夜城」速度神話の揺籃地















*【赤穂事件文書の早道】
《一、十四日、赤穂えの注進として、原惣右衛門、大石瀬左衛門両人え、采女殿、大学殿より被仰付候処、惣右衛門申候は、上野殿死生不分明候。(中略)実否不承しては発足成かたき由之候へば、左候者、其跡より、承届次第、早道を以可申達由申に付、左あらば可。罷登由にて、夜に入、子の刻前発足仕る也》(不破数右衛門母方曾孫恵輪記)




早道飛脚
葛飾北斎「富士百撰暁ノ不二」部分








能「老松」



能「高砂」







*【現代語訳事例】
早いのは倒〔こ〕けるといつて間が合はない》(石田外茂一訳)
《すべて早くしようとすれば、「急げば転ぶ」というように、間にはずれてしまうものである》(神子侃訳)
《「早きは転ぶ」といって、拍子の間にぴたりと合わない》(大河内昭爾訳)
早く走ろうとすれば、転倒することが多いように、拍子の間にはずれてしまうものである》(鎌田茂雄訳)









*【現代語訳事例】
《以上の例によって、道の理を知れ》(石田外茂一訳)
《このたとえによって、この道理を理解できよう》(神子侃訳)
《このたとえによって、その道理を知るべきである》(大河内昭爾訳)
《このたとえによって、この道理を知ることができよう》(鎌田茂雄訳)




*【現代語訳事例】
《早道と言つて、四十里五十里と行く人があるが》(石田外茂一訳)
《早道といって、一日に四十里・五十里をも歩む人があるが》(神子侃訳)
《はや道(飛脚)といって、一日に四〇里も五〇里も行く人があるが》(大河内昭爾訳)
《早道といって、一日に四十里・五十里も行く人があるが》(鎌田茂雄訳)

 この箇処に関して、少なからず校異がある。指摘しておくべきは、以下の諸点である。
 まず、冒頭タイトル部分、筑前系諸本に、
他流にはやき事を用る事》
とあって、《他流》とあるところ、肥後系諸本には、《他の兵法》とするものがある。また、同じ肥後系でも、早期派生系統の子孫、富永家本や狩野文庫本などは、《他流の兵法》としており、いわば中間形態を示す。
 ここは、風之巻諸条の体裁からして、筑前系諸本のように《他流》とするのが妥当であろう。肥後では、「兵法」という語が紛れ込む写し崩れが、早期にあったものらしい。
 次に、筑前系諸本に、
《物ごとひやうしの間にあはざるによつて》
とあって、《物ごと「の」》とするところ、肥後系諸本には、細川家本のように、《物毎「に」》とするものがある。また、同じ肥後系でも、楠家本や富永家本など、これを《物毎「の」》とするものがある。
 このように筑前系諸本だけではなく、肥後系にも「の」字のあるところからすると、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、「の」字であり、それが古型である。これを「に」字に作るのは、肥後系で後に発生した誤写である。
 ところで、ここに「に」字を記すのは、細川家本や丸岡家本だが、それらは従来古型を示す写本だと想定されてきたものである。しかし、明らかにこうした後発性を示す誤写を有するものである以上、細川家本や丸岡家本が古型を示す写本であるわけがない。そうした謬見は却下すべきである。
 また次には、「早道」への言及箇処で、筑前系諸本に、
《たとへば、人にはや道と云て、一日に四十里五十里行者も有》
として、《一日に》とあるところ、肥後系諸本には、この語句がない。これは、筑前系と肥後系に分かれて明確に分布しているから、両者を区分する指標的相異である。
 しかし、申すまでもなく、眼力のある人士でなくともすでに気づかれておることだろうが、ここに《一日に》という語句がないと、文意が曖昧である。というのも、四十里五十里行く者もあるとして、それがたとえば三日や五日のことでは、早いとは云えないからである。ここは、「一日に」四十里五十里行く者もある、という文章でなければならない。
 肥後系諸本は共通して、この「一日に」という語句を脱落せしめているから、これは肥後系早期に発生した異変であろう。ただし、それも単純な脱字誤写ではなく、一日で四十里五十里行くなど、そんなことは荒唐無稽ではないかと考えた者が、これを削除したもののようである。
 とすれば、肥後系諸本によるかぎり、「一日に」四十里五十里行く者もあるということ自体が抹消されているわけで、その文脈では、決して、「一日に四十里五十里行く者」など存在しないのである。
 しかし、そういう抹消ができるというのも、無条件にはできない。つまり、ここに《一日に》という語句の偶発的な「脱字」ではなく、「抹消」の作為があるとすれば、それは五輪書相伝という環境ではありえないことで、門外流出後の操作とみなすべきである。
 そして、もう一つ、――これは重要なポイントであるが――そうした脱落=抹消を示す箇処が、肥後系諸本に共通して存在するとすれば、それは、肥後系現存写本はすべて、門外流出後に発生した海賊版写本の子孫だということになる。この点は、肥後系諸本の史料評価における肝心である。
 さて、校異箇処としては、次に、筑前系諸本間の相異のあるところ、すなわち、乱舞の道に言及したあたり、筑前系諸本のうち、早川系の吉田家本・中山文庫本に、《乱舞の道に、上手うたふ謡に、下手のつけてうたへば》とあるが、それに対し、同じ早川系でも伊丹家本には、《上手うたふ》として「の」字を入れ、また立花=越後系諸本でも、「の」字が入るところである。
 つまり、筑前系諸本間には、この「の」字の有無という相違がある。しかも、早川系の伊丹家本に「の」字があるだから、これは立花系/早川系の相異ではない。
 肥後系諸本をみるに、同じく「の」字を入れるものがあるし、また、肥後系にも、富永家本のように、「の」字を欠くものがある。それゆえ、その両方が、筑前系/越後系を横断して存在するという格好である。筑前系/越後系を横断して共通するばあい、それは寺尾孫之丞の段階に遡りうる語句であるが、これはどちらもその資格があるということである。
 したがって、この筑前系諸本間の相異、「の」字の有無に関しては、未決事項としておくべきである。またさらに新しい史料が発掘できれば、この問題の解決に進むこともできよう。したがって、当面、我々のテクストでは、その未決状態を示すために、《上手(の)うたふ》と記している。
 ところで、まだ校異箇処がある。このあたり校異が連続しているので、以下、さらに順序を追って示しておく。
 すなわち、一つは、筑前系諸本に、
《老松をうつに、静なる位なれども、下手ハ、これおくれ、さきだつこゝろなり
として、《これも》《こゝろなり》とあるところ、肥後系諸本には、《これにも》《心あり》として、双方相違がある。しかもこれらは、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的差異である。
 ただし、筑前系諸本には共通して存在するところから、前出例と同類のことであり、これらにある語句は、まずは初期性を有するものである。ただし、一応、個別に差異を検分しておくべきである。
 このうち、《これも》/《これにも》は、「に」字の有無であるが、これは肥後系に見られる文意強調のパターンである。しかし、これが寺尾孫之丞段階に遡る可能性もある。つまり、寺尾孫之丞後期、《これにも》という語句を記した五輪書を発給したということもありうる。
 ただし、その場合でも、筑前系の《これも》の初期形態たることは動かない。こちらは寺尾孫之丞前期の可能性があるからである。
 次に、《こゝろなり》/《心あり》の相異であるが、これは「なり」/「あり」の相異であり、いづれかの誤記である。つまり、漢字「也」/「有」の誤記ではなく、仮名「な」字と「あ」字の類似から生じた誤写である。
 これについては、筑前系の初期性からして、本来は「なり」であったとみえる。これに対し、肥後系の「あり」は、諸本共通するとはいえ、これは寺尾孫之丞段階に遡りえない。なぜなら、これは文意が変ってしまう変更なので、寺尾本人が、前期/後期で、「なり」と「あり」を書き分けることはないからである。
 「心なり」と「心あり」とでは文意が異なる。「心あり」ならば、その心がある、ということである。このばあいでは、先立つ心がある、ということである。それに対し、「心なり」であれば、その心である、ということ。では、「心あり」に対して「心なり」は異例かというと、そうではない。「心なり」の語例は多い。右掲のごとく、この風之巻でも、少なからず登場している。
 このうち、本例「先立つ心なり」と同じようなネガティヴな意味合いをもつのは、《きられざる心也》、《役にたゝざる心也》、《まよふ心也》などの語例である。したがって、「心なり」の語例は少なくない。
 このことから、ここは本来、「なり」であって不都合はない。《さきだつこゝろなり》である。しかし、注意したいのは、上記事例において、《心也》として、仮名「なり」ではなく、漢字「也」が多いことである。とすれば、ここに誤写の要因もあるわけである。
 つまり、寺尾孫之丞はここを「なり」と仮名で書いた。筑前系では、これをそのまま伝えたが、肥後系は、門外流出後に、この「なり」を「あり」と誤写した写本が発生した。そのために、後の写本はこれを伝えて、あるいは漢字「有」とも書くようになった。
 この誤写は門外流出後早々のことであろう。なぜなら、早期に派生した系統の子孫たる富永家本や円明流系諸本にも、この「あり」「有」が見られるからである。
 とすれば、肥後系諸本は、門外流出後早期にこの誤写をした写本の末裔である。言い換えれば、肥後系現存写本の先祖は、この誤写をした海賊版写本である。そして、誤写という偶然が同所に同時に発生することが稀だとすれば、肥後系諸本は複数の先祖を個別に有するのではなく、特定の元祖一本に帰一するものであり、その元祖が生れた後、諸系統に派生したのである。
 その肥後系諸本の元祖とは、むろん、寺尾孫之丞が門人に伝授した五輪書ではない。また、この元祖一本は、門外へ流出した写しでもなく、その子か孫である。つまり、五輪書相伝とは無縁な門外者が作成した写本なのである。
 かくして、肥後系写本のこの《心あり》の示すところは、決して小さくはないことが知れよう。こうしたことは、写本の一字一句を精査し照合してはじめて析出される事実である。諸本奥書の宛名しか見ていないようでは、わからないことである。
 あるいは、後の別の箇処で、筑前系諸本に、
《はやきハこけると云て、間にあはず。勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々とミヘて、間のぬけざるところ也》
とあって、《これ》とするところ、肥後系は共通して、《是も》として、「是」と漢字で記し「も」字を付す。この相違もまた、筑前系と肥後系に分かれて分布しているから、両者を分つ指標である。
*【吉田家本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々とミヘて》
*【中山文庫本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》
*【伊丹家本】
《勿論、遅きも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》
*【渡辺家本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》
*【近藤家丙本】
《勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて》
 
*【楠家本】
《勿論、おそきもあしゝ。是も、上手のする事ハ、ゆる/\とみえて》
*【細川家本】
《勿論、おそきも悪シ。是も、上手のする事は、緩々と見へて》
*【丸岡家本】
《勿論、遲キもあしゝ。是も、上手のすることは、緩々と見えて》
*【富永家本】
《勿論、おそきも悪しゝ。是も、上手のする事ハ、緩/\と見て》
*【狩野文庫本】
《勿論、遲も悪し。是も、上手のする事は、緩々と見へて》
 これについて言えば、筑前系諸本に共通するところから、前例と同様に、《これ》を初期形態とみなしうる。寺尾孫之丞段階まで遡りうる可能性がある。
 それだけではなく、寺尾孫之丞が《これ》と仮名書きしたのは、漢字《是》が、ついつい「も」字を付されがちなので、ここは特に仮名書きにして、予防線を張ったものらしい。ところが、後に肥後系では、この仮名を漢字「是」に作り、そうしてその後に、案の定「も」字を付す写本が出たということである。
 そうしてみると、《これ》と《是も》の間には、「是」と漢字変換する段階があったらしい。つまり、
    「これ」 → 「是」 → 「是も」
というプロセスである。門外流出後、まず「是」と漢字変換されて、その後に、「も」字を付して、文意を強調する操作がなされ、《是も》と化したのであっただろう。
 この《是も》という語句も、肥後系諸本の共有するところである。前記諸例と同じく、元祖一本に帰せられるものとすれば、その元祖一本は、寺尾孫之丞の五輪書からすれば、少なくとも「孫」であって「子」ではない。言い換えれば、門外流出後に発生した写本の子か孫である。
 以上のように、肥後系早期の写本は位置づけられるであろう。現存写本は、そこから派生した諸系統の末裔である。誤記という遺伝子を共有することから、それらは同祖子孫である。先祖が複数存在したわけではないのである。   Go Back


*【吉田家本】
他流にはやき事を用事。(中略)はやきと云事ハ、物ごとひやうしの間にあはざるによつて、はやきおそきと云こゝろ也。(中略)人にはや道と云て、一日に四拾里五十里行者も有》
*【伊丹家本】
他流に早き事を用事。(中略)早きと云事ハ、物ごと拍子の間にあはざるによつて、はやきおそきと云こゝろ也。(中略)人にはや道と云て、一日に四拾里五拾里行者も有》
*【渡辺家本】
他流にはやき事を用る事。(中略)はやきといふ事ハ、物毎ひやうしの間にあハざるによつて、はやき遅きといふこゝろ也。(中略)人にはや道と云て、一日に四十里五十里行者も有》
*【近藤家丙本】
他流に早き事を用る事。(中略)早きと云事ハ、物毎拍子の間にあハざるによつて、はやき遅キといふこゝろ也。(中略)人に早道と云て、一日に四十里五十里行者も有》
*【楠家本】
他の兵法にはやきを用る事。(中略)はやきといふ事は、物毎拍子の間にあわざるによつて、はやきおそきといふ心なり。(中略)人にはや道といひて、【】四十里五十里行ものも有》
*【細川家本】
他の兵法にはやきを用る事。(中略)はやきと云事は、物毎拍子の間にあハざるによつて、はやきおそきと云心也。(中略)人にはや道といひて、【】四十里五十里行ものもあり》
*【富永家本】
他流の兵法にはやきを用る事。(中略)はやきと云事ハ、物ごと拍子の間に合ざるによつて、はやきおそきといふ心なり。(中略)人ニはや道といふて、【】四十里五十里行者【】あり》



伊丹家本 校異箇処

*【吉田家本】
《上手【】うたふ謡に、下手のつけて》
*【中山文庫本】
《上手【】うたふ謡に、下手のつけて》
*【伊丹家本】
《上手うたふ謡に、下手のつけて》
*【渡辺家本】
《上手うとふ謡に、下手のつけて》
*【近藤家丙本】
《上手うたふ謡に、下手のつけて》
*【猿子家本】
《上手うたふ謡に、下手のつけて》
*【楠家本】
《上手うたふ謡に、下手のつけて》
*【細川家本】
《上手うたふ謡に、下手のつけて》
*【富永家本】
《上手【】うたふ謡に、下手のつけて》
*【狩野文庫本】
《上手うたふ謡に、下手の付て》

*【吉田家本】
《老松をうつに、静なる位なれども、下手ハこれをくれ、さきだつこゝろなり
*【中山文庫本】
《老松をうつに、静なる位なれども、下手ハこれおくれ、さきだつ心
*【伊丹家本】
《老松をうつに、静なる位なれども、下手ハ是おくれ、さきだつ心
*【渡辺家本】
《老松をうつに、静なる位なれども、下手ハ、これおくれ、さきだつこゝろ
*【猿子家本】
《老松をうつに、静なる位なれども、下手ハ、これおくれ、さきだつこゝろなり
*【楠家本】
《老松をうつに、静なるくらゐなれども、下手ハ是にもおくれ、先だつ心
*【細川家本】
《老松をうつに、静なる位なれ共、下手は是にもおくれ、さきだつ心あり
*【富永家本】
《老松を打に、しづかなる位なれども、下手ハ是にもおくれ、先立心あり
*【狩野文庫本】
《老松をうつに、静なる位なれ共、下手は是にも後レ、先立心


*【風之巻語例】
《人を切ときにして、むりに強くきらんとすれバ、きられざる心也》(他流につよみの太刀と云事)
《ミじかき物にて敵へ入、くまむ、とらんとする事、大敵の中にて役にたゝざる心也》(他流にみじかき太刀を用る事)
《人をきる事、色々有と思ところ、まよふ心也》(他流に太刀数多き事)
《物毎に、搆といふ事は、ゆるがぬ所を用る心也》(他流に太刀の搆を用る事)
《はやきと云事ハ、物ごとのひやうしの間にあはざるによつて、はやきおそきと云心也》(他流にはやき事を用事)




楠家本 校異箇処



吉田家本 校異箇処
 
 (2)殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し
 早いというのは、拍子の間の問題である。前段での話では、どんなことでも、その道の上手のすることは、ゆるゆるとみえて、間が抜けない。手慣れた者のする事は、急がしく見えないものである、――ということであった。
 そこで、武蔵は言う。――とくに兵法の道において、早いということはよくない。そのわけは、場所によって、沼、湿原などでは、身も足も共に早く進めないからである…。これは前条「足つかい」で出た「さそく」(左足)とも関連することであろう。
 これは戦う場所の条件によって、いくら急ごうとしても制約があるという話である。こんな分かりきった話をするのは、むろん武蔵のユーモアである。そんなに急いでも、沼やふけ(湿地)ではどうにもなるまい、という笑いである。
 では太刀は、となると、どうか。太刀さばきは、早いに越したことはないのではないか。
 願立(願流)祖、蝙也斎松林左馬之助(1593〜1667)は、武蔵と同時代の人である。彼の逸話(「東藩野來」)に、その昔、源義経が柳を枝を斬って八断、なお水に落ちなかった、その伝説を聞いて蝙也斎試行するに、柳の枝が水面に落ちるまでに十三回切断した。その太刀の早きことを称賛されたという。毎日千回の抜刀を欠かさず、七十五歳で死ぬまでこれを廃さず、ともいう。
 ともあれ、太刀さばきは早い方がよいのではないか?――ところが、武蔵の教えは、その反対である。
 太刀となると、これはなおさら、早いのはいけない。太刀は早く切ることはよくない。早く切ろうとすれば、扇や小刀を振るようには行かず、ちゃくと(素早く)切れば、少しも切れないものである。むろん、柳枝を切るのと人を斬るのとでは、話がおのづから違う。
 これと類似の話は水之巻にもあった。――太刀を早く振ろうとすると、かえって太刀の軌道が逆らって、振れないものである。太刀は振りよい程に靜かに振るという感じにする。扇や小刀などを扱うように、太刀を早く振ろうと思うのはよくない。それは「小刀きざみ」といって、人など切れないものである。――というのが、その教えである。
 また、大分の兵法〔集団戦〕にしても、同じであって、早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」という心になれば、少しも遅いことはない、と武蔵は云う。この「枕をおさえる」という教えは、前に火之巻で出てきたところである。
 すなわち、枕をおさえるというのは、何ごとであれ敵が思うきざしを示さぬ内に、こちらはそれを察知して、敵の「打つ」というその「う」の字の頭を抑えて、その後をさせないこと、これが枕をおさえるという意味である。
 有名な《敵の打と云、うの字のかしらをおさへて》という一節のあるここは、――既述のように――意図と行動の隙間ではなく、むしろ「打つ」という意図の起動する頭を抑えるという話である。敵の「行動」の頭を抑えるのではなく、その「意図」の頭を抑えてしまうのである。しかし、枕を抑えろとはいえ、敵のしようとすることを抑えよう、抑えようとすると、後手になる。意図すること自体がすでに遅いのである。まず、敵の業をしようとする頭を抑えて、何ごとも役に立たせず、敵を自在に扱う(こなす)ところ、そこが兵法の練達者の鍛練の成果である、云々。
 そういう「枕をおさえる」という心になれば、急くことはないし、少しも遅いことはない、と武蔵は云うわけである。もはや遅いことすら存在しないのである。
 もう一つ、武蔵の言うのは、相手の拍子を外すこと、むしろ「背く」ことである。相手のむやみと早い拍子に対しては、「背く」といって、背反することをする。つまり、こちらは逆に緩慢な拍子になる。
 要するに、相手の拍子に同調追随しないところが肝要である。謡曲ではないのだから、戦闘は相手と拍子を合わせるのではなく、相手の拍子を外し、その拍子とは反対の拍子をとる。拍子の早い相手には、拍子に背いて勝つのである。
 というわけで、武蔵は兵法における速さへの信仰を批判するだけではなく、これを打ち破って勝つ方法まで教える。批判は言葉の次元だけではなく、行為の次元において実証可能である。

 ところで、かつて我々の長く親しんだ岩波旧版(高柳校訂)五輪書では、
はやくときれば、少もきれざるもの也》
とあった。この「はやくと」は、「ち」を「は」と読んだ校訂ミスで、正しくは「ちやくと」である。戦後の岩波新版(日本思想大系版 昭和四七年)では、これを「ちやくと」と正しく直している。
 そこまではよいが、この岩波新版の注記に、これを「小手先で」と語釈したのは誤りである。用例を挙げれば、
《忠常ちやくと思案を出し》(浄瑠璃・百日曾我)
《斯うすれば、すぐもうちやくと出来るのぢやが》(坪内逍遥『桐一葉』)
 この「ちやくと」は、言うまでもなく、「素早く、ただちに」の意である。転じて、あまり性急にすぎて「無思慮に」「手軽すぎる」というニュアンスもないではない。しかし「小手先で」という語義はない。岩波版注記は典拠を示さないから、これは当て推量であろう。
 現代語訳事例を見るに、戦中の石田訳と戦後の神子訳は、岩波旧版の「はやくと」の世代である。石田訳は「早く」とし、神子訳も「早く」として、これを重複と見て省略している。後二者の大河内訳と鎌田訳は、岩波版注記の「小手先で」という語釈を頂戴している。むろん、これは誤りである。
 したがって、後二者が正しいテクストに依拠しているのに誤訳し、誤ったテクストに依拠した前二者の語訳の方が結果的には正しい、という皮肉な姿になっている。これも、五輪書翻訳史上の珍事の一つである。

――――――――――――








松林蝙也斎 武稽百人一首



*【太刀の道と云事】
《太刀の道を知ると云は、常に我さす刀を、指二つにて振る時も、道筋よくしりては、自由に振もの也。太刀をはやくふらんとするによつて、太刀の道さかひて振がたし。太刀は、振よきほどに、静に振心也。或は扇、或は小刀などつかふ様に、はやくふらんとおもふに依て、太刀の道違ひて振がたし。夫は、小刀きざみといひて、太刀にては人のきれざるもの也》(水之巻)

*【枕をおさゆると云事】
《枕を押ると云は、我実の道を得て、敵にかゝりあふ時、敵何事にても思ふ氣ざしを、敵のせぬうちに見しりて、敵の打と云、うの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也。(中略)これも、敵のする事をおさへん/\とする心、後手なり。先、我は何事にても、道にまかせてわざをなすうちに、敵もわざをせんと思ふかしらをおさへて、何事も役にたゝせず、敵をこなす所、是兵法の達者、鍛錬の故也》(火之巻)






















*【現代語訳事例】
《早く切らうとしても、扇か小刀を使ふやうなわけには行かない。早く切らうとすれば少しも切れないものだ》(石田外茂一訳)
《もし早く切ろうとすれば、扇や小刀を使うようなわけにはいかないから、少しも切ることができないであろう》(神子侃訳)
《早く切ろうとすれば、扇や小刀を使うようなわけにはいかないから、小手先で切ってもまるきり切れないものである》(大河内昭爾訳)
《もし早く切ろうとすれば扇や小刀を使うようにはいかないから、小手先だけで切れば、少しも斬れないであろう》(鎌田茂雄訳)

 この箇処の校異に関して、指摘しておくべきは以下の諸点である。
 まず、筑前系諸本に、
《殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。是も、其子細は、所によりて》
とあって、《是も、其子細は》と記すところ、肥後系諸本にはいろいろ異変がある。諸本によって相違がある。楠家本などは、この《是も》という字句を欠く。しかるに、細川家本は、《是も》という語句を記すが、《其子細は、是も》として語順が入れ替わっている。あるいは、狩野文庫本では、《是も》は所定の位置にあるが、《其子細は》という語句は後文の頭に移動している。
 しかし、同じ肥後系の丸岡家本や富永家本には、筑前系諸本と同様に、《是も、其子細は》と記す。これらを見るに、肥後系も早期には、《是も、其子細は》と記したものらしい。それが、その後、系統派生するうちに、さまざま写し崩れがあって、現存諸写本のような様相になったものである。
 もとより、《是も、其子細は》とあるのは、筑前系諸本に共通するところであり、また同時に、筑前系/肥後系を横断して存在するのであるから、これは寺尾孫之丞段階にあったとみなしうる語句である。それが、後にまで存在していたが、さらに後になって、《是も》という字句が脱字を蒙り、あるいは語順を誤写されて伝わったのである。
 したがって、ことに楠家本・細川家本は、この《是も、其子細は》について脱字変異を生じている点では、後発性を示している。これに対し、写し崩れが多く写本時期が遅いとみえる富永家本は、しばしば、こうした早期の痕跡を残していることがある。それは、これまでに挙げた他の諸例によっても知れるであろう。
 また続いて、次の校異では、筑前系諸本には、
《太刀ハ、弥(いよ/\)はやくきる事悪し。はやくきらんとすれバ》
とあって、《悪し》とするところ、肥後系諸本には、《なし》と記す。この字句は、肥後系に共通するところであるから、筑前系/肥後系を区分する指標的差異の一つである。
 他方、筑前系諸本において、《悪し》が共通するところから、これは筑前系初期に存在した字句である。そして、これは柴任美矩が伝授された寺尾孫之丞前期に遡りうる語句である。
 他方、肥後系諸本に共通して、《なし》と記すところからすれば、これが肥後系早期にすでに発生していた変異である。とすれば、これは寺尾孫之丞前期ではないにしても、その後期に遡りうるものなのか。
 しかしながら、《悪し》と《なし》では、文意が違ってしまう。寺尾孫之丞が前期に《悪し》と記し、後期になって、それとは違う語の《なし》と記すことはありえない。
 もちろん文脈の上でも、ここは《なし》ではなく《悪し》とあらねばならない。というのも、前出文との相関関係があるからだ。
《殊に、兵法の道におゐて、はやきと云事悪し
《太刀は、弥(いよ/\)はやくきる事悪し
 兵法の道において、早いということは「悪し」、太刀は、なおさら、早く切ることは「悪し」、である。この「弥(いよ/\)」という措辞をみれば、この連文構成において、あるべきは《なし》ではなく、《悪し》である。
 したがって、寺尾孫之丞の段階では、ありえない変異である。そうすると、この《なし》は、寺尾孫之丞以後の発生であり、しかも文意の変更にかかわる異変であるから、これは門外流出後に生じた誤写である。そのプロセスを想定してみれば、これも前例と同じく、仮名「あ」字と「な」字の類似による誤読である。
   「あしゝ」→「なし(ゝ)」→「なし」
 つまり、そのプロセスは、仮名書き《あしゝ》の「あ」字を「な」と誤読して、その結果《なし》に至ったものである。
 肥後系現存写本に共通して、この《なし》を記すとすれば、肥後系諸本は、門外流出後早期にこの誤写をした写本の末裔であり、肥後系現存写本の先祖は、この誤写をした海賊版写本である。そして、既述例と同じく、ここでも読み取るべきは、肥後系諸本は複数の先祖を個別に有するのではなく、特定の元祖一本に帰一するものであり、その元祖が生れた後、諸系統に派生したということである。
 さて、もうひとつ、校異を指摘しておく。それは本条末尾、筑前系諸本に、
《人のむざとはやき事などにハ、そむくと云て、静になり、人につかざる所、肝要也。此こゝろ、工夫鍛練有べき事也》
とあって、《此こゝろ》とするところ、肥後系諸本には《此心の》とするものがある。あるいは、丸岡家本のように《此心、能々》とするものもある。
 そのように肥後系諸本の中には、変異を示すものがあるが、他方、富永家本などのように、《此心》として、筑前系諸本と同じく「の」字その他を入れない事例もみられる。つまり、肥後系にも、筑前系と共通するケースがある。とすれば、筑前系/肥後系を横断して共通の、この《此こゝろ》《此心》が、古型であり、寺尾孫之丞段階まで遡りうる語句である。
 したがって、《此心の》とするかたちは、肥後で後に発生した、肥後ローカルな衍字誤記である。この発生プロセスは、おそらく、ここに珍しく《工夫鍛練》という二語が連なるところに釣られて発生した変異であろう。
 ただし、《此心》が、直接《此心の》となるわけではない。最初の変異は、他の箇処にあるように、《此心、能々工夫有べき事也》《此心、能々鍛練有べき事也》という結語のパターンに引かされて、つい《能々》と入れてしまったのかもしれない。これは、丸岡家本などが伝えるかたちである。
 まず最初に、粗忽にも《能々》を入れてしまった写本があり、さらにその後、この《能》字を仮名「の」(能)に誤読して、《此心の》とするようになった。このプロセスでは、《此心の》は二次的変異である。
 あるいは逆のパターンも考えられる。《此心工夫鍛練有べき事也》では、漢字が続いて読みにくかったか、《此心の工夫》と「の」字がつい入ってしまった。その写本が祖本となって、以後系統派生を経て伝わったのが、現存諸写本のかたちである。
 そのうちに、丸岡家本のように、《此心、能々》とするものが生じた。この《能々》は、《此心の》の「の」(能)字を、仮名ではなく漢字に読んだもので、はじめは「此心、能工夫鍛練有べき事也」であったが、「能」一字では不足と見えて、それがさらに《能々》と化したと。
 いづれにしても、これは肥後ローカルな後世の変異であり、後発的な二次的誤記である。寺尾孫之丞の段階では、「の」字も「能々」という語句もなかった。肥後系でも流出後早期には、まだ《此こゝろ》あるいは《此心》という字句であった。――それが我々の所見である。   Go Back

*【吉田家本】
《殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。是も、其子細は、所によりて、(中略)太刀は、弥はやくきる事悪し
*【中山文庫本】
《殊に兵法の道に於て、はやきと云事悪し。是も、其子細は、所によりて、(中略)太刀は、弥はやくきる事悪し
*【伊丹家本】
《殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。是も、其子細ハ、所によりて、(中略)太刀ハ、弥はやくきる事悪し
*【渡辺家本】
《殊に兵法の道におゐて、はやきといふ事悪し。是も、其子細は、所により、(中略)太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し
行者も有》
*【猿子家本】
《殊兵法の道におゐて、はやきといふ事悪し。是も、其子細は、所により、(中略)太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し
行者も有》
*【楠家本】
《殊に兵法の道におゐて、はやきといふ事あしゝ。【】其子細ハ、所によりて、(中略)太刀ハ、いよ/\はやくきる事なし
*【細川家本】
《殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪シ。【】其子細は、是も所によりて、(中略)太刀ハ、いよ/\はやくきる事なし
*【丸岡家本】
《殊ニ、兵法の道におゐて、速キと云事あしゝ。是も、其子細は、所ニよりて、(中略)太刀は、弥はやく切ことなし
*【富永家本】
《殊に兵法の道におひて、はやきといふ事あしゝ。是も、其子細ハ、所に寄て、(中略)太刀ハ、弥はやく切事なし
*【狩野文庫本】
《殊に、兵法の道におゐてハ、早き【】事悪し。是も】、所ニよりて、(中略)其子細は、太刀ハ、弥早く切事なし


吉田家本 校異箇処


*【吉田家本】
《此こゝろ、工夫鍛練有べき事也》
*【中山文庫本】
《此こゝろ、工夫鍛練有べき事也》
*【渡辺家本】
《此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也》
*【近藤家丙本】
《此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也》
*【猿子家本】
《此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也》
*【楠家本】
《此心の工夫鍛練あるべき事也》
*【細川家本】
《此心の工夫鍛練有べき事也》
*【丸岡家本】
《此心、能々工夫鍛煉有べき事也》
*【富永家本】
《此、工夫鍛練あるべき事也》
*【狩野文庫本】
《此心の工夫可有鍛練事也》



丸岡家本 校異箇処

 
   10 他流批判・奥と表
【原 文】

一 他流に奥表と云事。
兵法の事におゐて、
いづれを表と云、いづれを奥といはん。
藝により、ことにふれて、
極意秘傳など云て、奥口あれども、
敵とうちあふ時の利におゐてハ、
表にて戦、奥を以てきると云事にあらず。
わが兵法のおしへ様ハ、
始て道を学ぶ人にハ、其わざのなりよき所を、
させならはせ、合点のはやくゆく利を、
さきにおしへ、心のおよびがたき事をバ、
其人の心のほどくる所を見わけて、
次第/\に、深き所の利を、
後におしゆるこゝろ也。
されども、おほかたハ、
こと*に對したる事などを、覚さするによつて、
奥口といふ所なき事也。(1)
されバ、世の中に、山の奥をたづぬるに、
猶奥へゆかんと思へバ、又、口へ出るもの也。
何事の道におゐても、
奥の出合ところも有、口を出してよき事も有。
此戦の道におゐて、
何をかかくし、いづれをか顕さん。
然によつて、我道を傳ふるに、
誓紙罸文などゝ云事をこのまず。
此道を学ぶ人の智力をうかゞひ、直なる道をおしへ、
兵法の五道六道のあしき所を捨させ、
おのづから武士の法の實の道に入、
うたがひなき心になす事、我兵法のおしへの道なり。
能々鍛錬有べし。(2)
【現代語訳】

一 他流で奥表という事
 兵法の事において、どれを「表」と云い、どれを「奥」というのか。芸能によっては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥と入口はあるけれども、敵と打合うときの利〔戦い方〕においては、「表」によって戦い、「奥」をもって切るということではない。
 我が兵法の教え方は、初めて道を学ぶ人には、その業の習得しやすいところを練習させ、納得の早く行く利〔理〕を先に教える。心の及ばない〔理解できない〕ことは、その人の心がほどけるところを見分けて、次第次第に深いところの利〔理〕を、後で教えるのである。
 けれども、たいていの場合、こと〔状況〕に対応した(実際的な)ことなどを覚えさせるから、奥だ入口だと区別することはないのである。
 されば、世の中には、山の奥を尋ねて行くに、もっと奥へ行こうと思うと、また(山の)入口ヘ出てしまうことがあるものだ。
 何ごとの道においても、「奥」が役に立つ場合もあり、「口」を出してよいこともある。(しかし)この戦いの道において、何を隠し、何を表に出そうか(そんな奥も入口も本来存在しない)。
 したがって、我が道を伝えるに、誓紙罸文〔せいしばつぶん、入門誓詞〕などということを好まない。
 (そんなことよりも)この道を学ぶ人の智力を見抜いて、真っ直ぐな道を教え、兵法の五道六道*の悪いところ〔悪趣〕を捨てさせ、おのづから武士の法〔兵法〕の真実の道へ入り、疑いなき心にすること、これが我が兵法の教えの道である。
 よくよく鍛練あるべし。
 
  【註 解】

 (1)兵法の事におゐて、いづれを表と云、いづれを奥といはん
 ここは五輪書の一要諦とみるべき文である。この一文だけでも、五輪書を読む値打ちがある。まさしく武蔵の思想的ポジションを要約する文章である。それだけに、しっかり、きちんと読んでおきたいところである。
 まず冒頭、武蔵は、
《兵法の事におゐて、いづれを表と云、いづれを奥といはん》
という。この反語法で、「表」だ「奥」だと言う剣術諸流派一切を否定するのである。
 芸能によっては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥と入口を差別する風習はあるけれども、兵法の道、敵と打合うときの利においては、「表」によって戦い、「奥」をもって切る、などということはない。――と云って、たぶん武蔵は一笑するのである。
 つまり、《敵とうちあふ時の利におゐてハ、表にて戦、奥を以てきると云事にあらず》。――ほほう、敵と切り合うとき、「表」で戦い、「奥」で切るとでも言うのかね?――武蔵のあからさまな皮肉である。しかし、これは単なる皮肉ではなく、相手を死に至らしめるほどの斬り方である。
 奥と表(あるいは入口)を分別するのは、偽りのパースペクティヴを導入し、極意秘伝が存在するという錯覚を生産するという点で、まさしく倒錯的な振舞いである。武蔵にしてみれば、その秘密の「極意秘伝」なるもののあるところ、実は空っぽな空洞しかないのである。
 ちなみに、この「表」と「奥」という言葉は、家屋の表と奥からきた隠喩である。家の「表」というのは外部のことではなく、入口に近い接客の間であり、「奥」というのは内奥の私的空間である。「大奥」などというのは、まさにそれである。
 「奥」は外に秘す空間である。「私」というのは現代語ではプライヴェート(private)という意だが、もとは、秘密(secret)・内証(confidential)の意であって、「私に」という字句は「ひそかに」と読むのである。それゆえ、右掲のような陰流伝書(平沢氏家伝)に「陰之流 私」というタイトルの一書もありうるのである。
 かくして、兵法の道に「表」も「奥」もないという武蔵は、それだけでも、転覆的(subversive)な思考を示すのであるが、一方で、極めてオープンな世界を、兵法の道に構想しているのである。
 我が兵法の教え方は、――と武蔵は云う――初めて道を学ぶ人には、その業の習得しやすいところを練習させ、納得の早く行く利〔理〕を先に教え、心及ばず、理解できないことは、その人の心がほどけるところを見分けて、次第次第に深いところの利〔理〕を、後で教えるのである、と。
 心の及び難き事とは、理解の及ばないこと、理解できないこと、その人の心がほどける所とは、その人が理解できそうなところ、というほどの意である。この「心がほどける」は、興味深い表現である。理解するためには、理解を妨げている心が解ける必要があるというわけで、現代の理解概念とはかなり違うのである。
 さて、こうした教えを、教育学的(pedagogical)に読むことは可能であろうし、兵法教本という五輪書の性格からして、実際そのように読めるところである。しかし武蔵は、いわば仏教の「対機」、相手の機根に応じて教え方もさまざまある、とする伝統に沿っているにすぎない。これ自体は武蔵的とは謂えない。
《されども、おほかたハ、ことに對したる事などを、覚さするによつて、奥口と云所なき事也》
 武蔵は云う、――けれども、たいていの場合、こと(事態)に対応したことなど、実際的なことを覚えさせるから、奥だ入口だと差別〔しゃべつ〕することはないのである、と。ここが武蔵のロジックの面白いところである。
 というのは、教育学的な「対機」であれば、相手の機根に応じて徐々に次第を追って教えていくという順序があるわけだが、武蔵の言うのは「対機」ではなく、「対事」なのである。
 ここで見逃してはならないポイントは、武蔵の実戦主義からすれば、敵と切り合うときは、たとえ初心の者であっても勝つべき方法はあって、それを教えるということなのである。
 たとえば、初陣の若年であっても、戦場では、熟練の達者と遭遇して戦うことがある。そのとき、私は若年未熟ですので…と言訳をしてはおれまい。若年未熟であっても、敵を何とか打殺すことができなくてはならない。
 ようするに、上達者でなくては、相手を殺せないようでは、実戦的な教えとは言えないのである。初心者でも戦場へ出る。すぐさま戦闘に参加する。そうであってみれば、そのとき、腕前の上手下手は論外である。「戦場へ出るのは十年早い」などと悠長なことは言ってはおれない。初心者でも敵に勝たねばならない。それが、兵法勝負の道、戦場の掟である。
 この点では、たとえば柳生宗矩『兵法家伝書』に、――門(入口)と家を間違えるな、家は門を通ってその奥にあるものだぞ、という入口と奥の弁別とは異なっている。武蔵はそういう口と奥の区別、――偽りのパースペクティヴによる奥行き・深み――を嗤うのである。
 ともあれ、ここでは武蔵は、「対機」ではなく、「対事」の教えによって、実践主義的な行為論の側に立って、いわば頓悟法門のそれに似た、プロセスなきプロセス(process without process)を示している。それが武蔵のオープンな道の具体的な姿である。と同時に、奥だ入口だと差別/区別する、そういう振舞いをもたらす錯覚の、偽りのパースペクティヴを断ち切って、その幻想を根こそぎ崩壊させるのである。
 その意味で、五輪書は、平易な入門書の顔つきをしていながら、時おり、このように他に比肩するものがないほどラディカルである。もちろん、武蔵の思考が根源的だからこそ、そのように言説がラディカルなのである。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 






高野山 奥の院







平沢宗道 陰之流私
陰流 平沢氏家伝




高上・極意・神妙劔
新陰流兵法目録

《高上
 極意
 神妙劔
高上とハ、打太刀より中の清眼にてかゝる時、十字に付を見込、なをさんとする所を、分目向上と、萬事を捨打落。口傳
極意とハ、打太刀より中の清眼、獅子の太刀のごとくに、おつとりつるつると用捨もなくかゝり入時、活人にかまへ懸るやうにして、右の足をひらき、折しき、左の足をのべて下に居る、とをしてうしろよりしたゝかに切勝。口傳
神明(*神妙)劔とハ、打太刀より活人にかまへ候時、相位におつとり、つるつるとかくるとき、打太刀極意とはつしひらき候を、付てまハり、太刀を胸板におしあて上、両足の間へ左の足を踏込はたらき候へば、膝にて打太刀の膝を押付ひしぐ也。口傳》

*【兵法家伝書】
《凡家に至るには、まづ門より入者也。然者、門は家に至るしるべ也。此門をとおりて家に入り、主人にあふ也。学は道に至る門也。此門をとおりて道にいたる也。しかれば、学は門也。家にあらず門を見て、家也とおもふ事なかれ。家は門をとおり過ておくにある物也》

 この箇処の校異について、指摘しておくのは以下の諸点である。
 まず、筑前系諸本に、
《こゝろのおよびがたき事をバ、其人の心ほどくる所を見わけて》
とあって、《心の》とあるところ、筑前系では渡辺家本と肥後系の狩野文庫本が、「の」字を落としている。これは単なる脱字であろう。肥後系諸本でも、「の」字の方を記している写本がある。
 しかるに、問題は、肥後系写本の中には、これを《心》として「を」に作るものがあることである。この点はいかがか。
 むろん、筑前系には《心を》とする例がない。筑前系/肥後系を横断して共通するのは、《心の》の方である。したがって、肥後系でも本来は「の」字であったが、後々になって、「の」字を「を」字に誤記するものが現れたということである。これは誤写のたぐいである。
 この誤写を有するのは、楠家本と細川家本である。これはいわば、孤立例であり、両者は系統発生からして近縁関係にあり、「の」字が「を」字に変異した後の写本である。したがって、この「を」という一字が明示するのは、肥後系諸本のなかでも後発性を示す楠家本・細川家本のポジションである。
 校異に関して、もう一つは、筑前系諸本に、
《おほかたハ、ことに對したる事などを覚さするによつて、奥口と云所なき事也》
とあって、《ことに對したる事》として、《こと》と記すところ、肥後系諸本には、《其こと》として「其」〔その〕という字を付する。問題は、この相異に関して、どう見るか、である。
 ひとつは、筑前系諸本が越後系まで共通するところから、《こと》は筑前系初期にすでにあったものとみなしうること。言い換えれば、これは寺尾孫之丞段階の前期写本にあったもので、本来はこれが古型であること。
 それは、肥後系富永家本の字句をみればわかる。というのも、富永家本では、この箇処を《殊に》と記しているからである。つまり、これは「ことに」とあったものを「殊に」と当て字したものであろう。これも、《こと》という語に異を感じた者が、別の修正を試みたのである。
 したがって、富永家本の《殊に》という字句は、異字に置換した後発的変異だが、他方、これは、当初の写本には、「ことに」とあった痕跡を示すものである。肥後系でも、早期には《こと》と記すヴァージョンがあったのである。
 言い換えれば、ここに「其」字を付加するのは、肥後系早期にはなかった文言である。つまり、寺尾孫之丞段階以後のものであるのは勿論、既出例と同じく門外流出後しばらくあっての作為である。肥後系諸本の多くはそれを承けて、「其」字を付したものを伝えた子孫なのである。
 しかし、どうしてこの「其」字を挿入するようになったのか。それは、この部分が《ことに對したる事》とあって、「こと」と「事」という字句が重複するのに異和を感じた者が、そのようにしたのである。ところが、「そのこと」とすると、それが「どのこと」なのか、かえって文意が不通になってしまう。
 もとより、最初の「こと」と後の「事」では、その語の意味が違う。前の「こと」は、たとえば、「折にふれ、ことに随ひ」などという場合の「こと」である。つまり、《ことに對したる事》とは、「状況に対応した事」という意味合いである。「その事」ということではない。
 したがって、武蔵草稿のオリジナルもそのような意味で書かれたものであろうし、少なくとも、寺尾孫之丞が発給した段階では、それが保全されていた。寺尾孫之丞は、ここに「事」という字句が重複するのに注意して、わざわざ前を「こと」と仮名書きにして、間違いなきことを期したのだが、これも案の定、肥後系の子孫は、肝心のところを間違ってしまったのである。しかも、そればかりか、後に、余計なことを考える者が出て、ここに「其」字を挿入するようになったのである。
 ともあれ、以上のことから、我々のテクストは、むろん「其」字のないヴァージョンである。

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*【吉田家本】 《其人の心
*【中山文庫本】 《其人の心
*【渡辺家本】 《其人の心【】》
*【近藤家丙本】 《其人の心
*【赤見家乙本】 《其人の心
*【猿子家本】 《其人の心
*【楠家本】 《其人の心
*【細川家本】 《其人の心
*【丸岡家本】 《其人の心
*【富永家本】 《其人の心
*【狩野文庫本】 《其人の心【】》
*【稼堂文庫本】 《其人の心



*【吉田家本】
《おほかたハ、ことに對したる事などを覚さするによつて》
*【中山文庫本】
《おほかたハ、ことに對したる事などを覚さするによつて》
*【渡辺家本】
《おほかたハ、ことに對したる事などを、覚へさするによつて》
*【近藤家丙本】
《おほかたハ、ことに對したる事などを覚さするによつて》
*【猿子家本】
《おほかたハ、ことに對したる事などを覚さするによつて》
*【楠家本】
《大かたハ、其ことに對したる事などを覚へさするによつて》
*【細川家本】
《大形は、其ことに對したる事などを覚へさするによつて》
*【富永家本】
《大かたハ、に對したる事などを覚へさするによつて》
*【狩野文庫本】
《大かたハ、其事に對したる事抔を覚さするに依て》


吉田家本 「ことに對したる事を」
 以上の解析結果をふまえて、語釈の問題を片付けておくことにする。まずは、上記の箇処――つまり、《おほかたハ、ことに對したる事などを、覚さするによつて、奥口と云所なき事也》とある部分である。
 岩波版注記は、「こと」を「其こと」と記す細川家本の文字にしたがって、「其こと」とは何かを考えたらしく、これを「敵と打ち合う時の理」だと解しているが、これは誤りである。
 そもそも、細川家本を頭から信仰しているから、ここに「其」字がなかったなどということに気づきもしない。だから、「其こと」とは「どのこと」かと考えたわけである。そうして、捻出したのが、「敵と打ち合う時の理」である。
 しかし、本来ここには「其」字などはない。実際は「こと」であって、上述のように、状況に対応した事、つまり実際的なこと、という意味合いである。
 岩波版注記は、五輪書の数多い写本を通覧比較するという必須の前提作業をしていないから、こんな誤読をすることになる。こういうことでは、岩波版が「五輪書」を称する資格はない。
 さらに、この部分の現代語訳事例を見るに、それらはどれも細川家本(岩波版)しか知らないから、この「そのこと」に難渋したようである。
 まず、岩波版注記以前の、戦前の石田訳と戦後の神子訳をみれば、石田訳は、「實戰に當つての事を覺えさせる」としており、これはいかにも意訳であって、「そのこと」という誤記を訳さずに、かわしている。戦後の神子訳も同様の仕儀であって、「実際に体験したことを通じて、理解させている」としている。もちろん「通じて」などという文意はここにはない。神子訳特有の超訳である。
 この事例で、訳者にとって、ここがいかに難所であるか判るであろう。もともと「其」字がなくても、意味が通じる文だから、結局「其」字を無視して、石田訳や神子訳のような意訳になるしかない。
 問題は、岩波版注記以後の後二者であって、大河内訳は、石田訳と神子訳からそれぞれ頂戴しているが、「敵と打ち合うときに体験したこと」と記すところをみるに、岩波版注記の誤りにかなり侵食されている。次の鎌田訳は、神子訳をパクリつつ、岩波版の誤釈も頂戴したというところである。これもまた、近年のものほど誤訳の度合が増幅されているという事例である。
 また、別の問題箇処を見れば、《藝により、ことにふれて、極意秘傳など云て、奥口あれども》というくだりである。
 このあたり、既成現代語訳は、いかに訳しているか。戦前の石田訳は、「奥もある」として、「口」という語を抹消している。戦前から、この「奥口」には異を感じるケースがあったとみえる。これに対し、戦後の神子訳は意訳だが、正しい。
 しかるに、その後出た岩波版注記は、この「奥口」を「おくぐち」と一語に読み、「奥儀に通ずる入口」と解しているが、これも明らかな誤りである。タイトルに「他流に奥表と云ふ事」とあるように、これは、「奥と表」と同じく、「奥と口」、奥/入口という二項対置である。
 岩波版注記がこのように「奥儀に通ずる入口」とするのは、上述のような、奥も口もないという武蔵の話の筋が解っていない証拠である。
 続く大河内訳は、さすがに岩波版注記の明白な誤釈は採らずに、神子訳を頂戴しただけのものだが、鎌田訳は、例によって何の考えもなしに、岩波版注記の「奥儀に通ずる入口」を流用して、誤りを再生産している。
 いかにも、こんな明確な文脈でも、語釈がねじひねって、意味が歪曲されるのである。ここは、武蔵の言にあるごとく、直に、つまりまっすぐに、字義通り正しく読めばよいところなのである。   Go Back















*【現代語訳事例】
《大局より見れば實戰に當つての事を覺えさせるのだから》(石田外茂一訳)
《大抵の場合、実際に体験したことを通じて、理解させているのであるから》(神子侃訳)
《たいていは、敵と打ち合うときに体験したことを覚えさせるのであるから》(大河内昭爾訳)
《大抵は、実際に敵と打ち合うときの道理を通して理解させているのであるから》(鎌田茂雄訳)






*【現代語訳事例】
《遊藝には[???]極意秘傳などといつて奥もあるが》(石田外茂一訳)
《芸によっては、ときおり、極意秘伝などと称し、奥儀だ、初歩だなどといっているけれども》(神子侃訳)
《芸によっては、[???]極意秘伝などといって、奥儀だ、初歩だだのといっているが》(大河内昭爾訳)
《芸によっては、ときおり、極意、秘伝などといって、奥儀に通ずる入口があるけれども》(鎌田茂雄訳)

 
 (2)此戦の道におゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん
 最前は、奥だ入口だと差別する、そういう振舞いをもたらす錯覚の、偽りのパースペクティヴを根柢から切り崩す、そういうラディカルな言説が提示されるところまで話が進んだ。
 されば、――と武蔵は云い――山の奥を尋ねて行くに、もっと奥へ行こうと思うと、また山の入口ヘ出てしまうことが、世間にはある、という。奥へ進入しようとして、奥のほうへ行ってみると、実はそこはもとの入口だった――。これは、山行にはしばしばある、ミステリアスな体験である。だれでも経験しそうな不思議である。そのことを前提に武蔵は語っているのである。
 しかしここで武蔵が示唆しているのは、道の修行も、それと同じ構造をもっている、ということである。それは決して、奥行きのあるパースペクティヴの中のリニアなプロセスではない。奥も入口も無差別だというこの空間とは、言わばトポロジカルな平面空間である。
 このようなことは、昔から言われてきたことである。とくに仏教の修行論にはこの種の教えは多くあった。武蔵と同時代の人でも、沢庵宗彭なら――あたかもフーガのごとき――右掲のような向上即反復の構造を語るであろう。同型の構造は、柳生宗矩『兵法家伝書」でも敷衍され語られている。
 しかしながら、これが心法論に還元されてしまうことには、武蔵は同意しなかったに違いない。ある意味で、奥と入口の無差異・無差別を語ることは、当時すでに通俗的な紋切り型言説であった。
 前に見たように、五輪書冒頭、地之巻自序部分において語られていたのは、――三十を越して我が過去を振り返ってみると、これは兵法が極まっていたので勝った、ということではなかった。自然と兵法の道の働きがあって、天の原理を離れなかったせいであろうか。あるいは、相手の他流の兵法に欠陥があったからだろうか。その後、なおも深き道理を得んとして、朝に夕に鍛練してきたが、結局、自身が兵法の道にやっと適うようになったのは、五十歳の頃であった。それより以来は、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきたのである、云々。
 五輪書冒頭の文章にみえるこのループ構造は、五輪書本文末尾のここにおいて、山奥と山口のループ構造として反復されているのである。五輪書が構造的に読まれる必要がある所以である。それゆえに、この「他流に奥表と云事」の一文は、風之巻末尾の文であるが、五輪書の教え全体の末尾を締め括るにふさわしい内容となっている。
《此戦の道におゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん》
 この「戦いの道」おいて、秘匿し隠すべき何ものもない。これは極めて「武蔵的」な宣言内容である。兵法、戦いの道に、密教も顕教もない。すなわち、戦いの道の合理性は普遍的なもので、何人にも隠されてはならず、明らかにすべきだ、というのが武蔵のポジションである。
 この恐るべき開き方、徹底した開放性(openness)は、それまでの剣術諸流派の密教性、その中世的な密教性を根元から切り崩すはずのものだった。
《然によつて、我道を傳ふるに、誓紙罸文などゝ云事をこのまず》
 道を伝えるに、誓紙罸文〔せいし・ばつぶん〕などという事を好まない、と武蔵は云う。すなわち、これで武蔵は奥も入口もないと、本気で言っているのがわかる。
 奥も入口もないというのが、当時の知的ファッションである。そう言いながら、実際には入門から奥義へ至る奥行きのあるパースペクティヴを表象演出しているものがほとんどだった。こうした言行不一致は、しばしばあるもので、まさに、行為が言葉を裏切っているのである。
 もうひとつは、奥も入口もないと言いながら、伝承の秘密性を保持することである。これに対し、戦闘原理のうちに秘匿し隠すべき何ものもないという、武蔵の「秘密なし」のポジションは、転覆的(subversive)かつ革命的(revolutional)なものである。このポジションに対応して、さきほどの、誓紙罸文など好まない、という一言がある。
 まさに、この「誓紙罸文」こそ、剣術諸流派の密教性の証文なのである。
 入門の時、あるいは印可を受ける時、弟子は起請文(誓詞)――誓約条項を明記し、もしそれを破ったら、神罰を受けてもかまない、という内容の所定の文書――を師匠に提出する。「誓紙罰文」とあるのは、諸条項を諸神にかけて誓い、「右の條々於相背者……神罰冥罰各可罷蒙者也。仍起請文如件」と宣言する形式であるからだ。一流相伝において、とくに「奥」については秘密厳守で、親子といえども他言せざること、これが重要項目である。
 右掲の徳川家康の新陰流誓紙(文禄三年五月三日 柳生但馬入道宗厳宛)を例にとれば、新陰流相伝の事、印可無き以前、親子と雖も他言すべからざる事、宗厳に対して疎意あらざる事、この三条項について、もしこの誓いが偽りであれば、日本国中の大小の神々、ことに摩利支天〔まりしてん、武芸の神〕の神罰を自分は蒙るべきである、という内容である。
 この風習は、武芸にかぎらず、どんな芸能でも、あるいは学問においても、重要な儀式であったし、これは武蔵以後も、近世を通じて存続したのである。
 それは、「他流」のことばかりではなかった。武蔵死後、時が経過し、武蔵流兵法が伝播し広まっていくにつれ、武蔵が嫌った誓紙罸文慣行が、武蔵流内部でも行われるようになった。たとえば、越後の二天流ではそれが行われていた。近年我々が発掘確認した史料のなかに、いくつかの事例がみられる。

個人蔵
二天二刀流 誓約書 元治二年

 上掲の「誓約」は、越後黒川のもので、兵法二天二刀流と称した武蔵流末葉の文書である。幕末の元治二年(1865)に、師匠の箙〔えびら〕銀平に宛て、門人六名が連名で提出した入門誓約書である。門人名の下にそれぞれ血判を押している。
 この誓約の内容をみるに、相伝をかたじけなしと感謝するにはじまり、忠孝の二字を大切に守るべき事、相伝内容を他へ洩らさない事、師の免許なき内は、相弟子といえども、又伝(重伝)しない事、師に対し、いささかも廉臨(安直に接する)心得のあるまじき事、兵術の剛強をもって慢心の言動をしない事、大酒をしない事、――以上の条々にもし背く場合は、梵天帝釋、四大天王、惣じて日本国中の大小の神祇、とくに自分の氏神の御罸を蒙りますように。よって神約、件の如し。――というわけで、神に誓っての誓約である。
 この中身を見るに、相伝内容を他へ洩らさない事、師の免許なき内は、相弟子といえども、又伝(重伝)しない事、師に対し、いささかも廉臨(安直に接する)心得のあるまじき事、とあるのは他流の入門誓詞と変りない。
 しかも、忠孝の二字を大切に守るべき事という道徳的な条文もあれば、兵術の剛強をもって慢心の言動をしない事、大酒をしない事、という日常の行動規範もある。これは近世初期の誓詞罸文にはなかったが、幕末になるとこういうこまで盛り込むようになったらしい。
 ともあれ、これは一例だが、武蔵流兵法の末裔になると、こうした事態であったことが知れる。先師武蔵は、奥も口もないとして、誓紙罸文さえ嫌ったのに、それを裏切る慣行が生じたのである。
 しかし、こういう誓紙罸文は他流では普遍的慣行であって、武蔵流末裔もそれに同化したまでである。これを逆に云えば、武蔵の五輪書の言説が、いかに異例で突出したものであったか、それが知られるのである。それは武蔵流道統内部ですら維持不可能な、ラディカルな反措定であった。先ほど、武蔵流の恐るべき公開性は、中世的な密教性を根元から切り崩すはずのものだったと述べた、その「はずのものだった」とは、このことである。
 つまり、武蔵はさまざまな局面で、中世と近世の間の不可能な空間を開いた、消滅する媒介者(vanishing mediator)のポジションを示す。まさにこの、中世的な密教性を根元から切り崩すはずのものだったが、その可能性の開口を封鎖して、不可能にしてしまったのが近世の歴史だった。
 それゆえ、武蔵の思想を読むとは、まさしく中世と近世の間に一瞬出現した、ある可能性の、ありえざる光景を目撃することに他ならない。五輪書こそ、そうした不可能性へと封印された可能性の所在を示唆する点、比類なき史料なのである。

 ここで語釈の問題をあげれば、《兵法の五道六道のあしき所を捨させ》とある「五道六道」のことである。
 この「五道」とは仏教語で、衆生が生前の業因によって生死を永劫反復する迷いの諸世界、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の五つとなれば五道、これに阿修羅が加わって六道。五趣、六趣ともいう。これに四つの悟りの世界(声聞、縁覚、菩薩、仏界)を合わせて十界と呼ぶ。
 ここでいう「五道六道」がこうした仏教的伝統を踏まえた言葉であることは明らかであるが、とくに「兵法の五道六道」とは、兵法における迷いの諸世界という意だとしても、これはなかなか意味深長なる表現である。
 というのも、武蔵は前に誓紙罸文のことを記しているわけだから、誓約を破れば神仏の罰を受けようという誓詞に対して、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣を含む業因果の「五道六道」なる語をちらつかせているからである。
 「五道六道」のようなどっぷり人間の情念を含んだ歴史的民俗的伝統を背景にしたスペシフィックな語である。だから、この文脈では、「五道六道」という毒のある語は無視できない。
 しかるに、既成現代語訳事例を見るに、それどころではない。逆に、肝心の「五道六道」から逃げているのである。
 戦前の石田訳は、《兵法の五道六道のあしき所》を、たんに「様々な缺點」と訳して、毒抜きにかかった。これで、「五道六道」の語意を抹消する現代語訳の路線が敷設されたようである。戦後になると、神子訳は「五道六道」を、「世間のさまざまな流儀」と歪曲して誤釈した。
 すると次に岩波版注記は、《兵法の五道六道のあしき所》について、「兵法を学ぶうちに身につく欠点、固癖」と解釈した。これは「五道六道」という措辞を無視した語釈で、むしろ明らかな誤訳である。もちろん、大河内訳・鎌田訳は、この岩波版注記のパクリで、神子訳よりむしろ誤りを拡幅しているのである。

――――――――――――














*【不動智神妙録】
《日を重ね年月をかさね稽古するに従ひ、後は身の搆へも太刀の取り様も、皆心のなくなりて、唯最初の何も知らず習はぬ時の心の様になるなり。是れ初めと終りに同じやうなる心持ちにて、一から十までかぞへまはせば、一と十と隣りになる申し候。調子なども一の初めの低き一をかぞへて、上無しと申す高き調子へ行き候へば、一の下と一の上とは隣りに候》

*【地之巻自序】
《我三十を越て、跡をおもひみるに、兵法至極して勝にはあらず。をのづから道の器用ありて、天理をはなれざるゆへか、又は、他流の兵法不足なる所にや。其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比也。それより以來は、尋入べき道なくして光陰をおくる》










摩利支天像 高野山霊宝館蔵



徳川家康 新陰流誓紙
柳生宗厳宛 文禄三年



徳川家光 新陰流誓紙
柳生宗矩宛 寛永六年





*【誓約】
《一 兵法二天二刀流御相傳辱奉存
   候事
 一 忠孝之二字大切可相守事
 一 相傳之儀他江申間敷事
 一 師免無之内雖爲相弟子又傳仕
   間敷事
 一 對師聊廉臨之心得有之間舗事
 一 以兵術剛強我慢之言有之間敷事
 一 大酒仕間敷事
右之條々於相背者、梵天帝釋、四大天王、惣而日本國中大小之神祇 別而氏神御罸可相罷蒙者也。依而神約如件 》




















大津市比叡辻 聖衆来迎寺蔵
国宝 絹本著色六道絵
聖衆来迎寺蔵


*【現代語訳事例】
種々の缺點をなほさせ》(石田外茂一訳)
世間のさまざまな流儀の悪影響をとり除き》(神子侃訳)
兵法を学ぶうちに身につく色々な流儀の欠点をすてさせ》(大河内昭爾訳)
兵法を学ぶうちに身につくさまざまな流儀の欠点を除き》(鎌田茂雄訳)

 さて、校異について、ここで指摘しておくべきは次の点である。
 すなわち、筑前系諸本に、
《此戦のにおゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん》
とあって、《戦の道》として、「道」とあるところ、肥後系諸本には、《戦の理》として、「道」ではなく「理」(または「利」)という字を用いている。これは、筑前系と肥後系を区画する明確な一線を示す相異の一例である。
 このばあい、肥後系諸本は、富永家本や円明流系諸本に至るまで、「理」または「利」という字であるから、これは肥後系早期にあったものであろう。他方、筑前系諸本も、越後系まで含めて、これを「道」とするから、筑前系初期にあった語である。しかも寺尾孫之丞が柴任美矩へ伝授した前期五輪書にあったとみなしうるところである。
 したがって、この「道」と「理」の相異については、筑前系の初期性がまず先である。ただし、これが寺尾孫之丞前期と後期の相異とみなしうるか、となると、その可能性はない。それは、「理」が適切な語であるか、文脈をたどればわかる。
 すなわち、ここで武蔵が云っているのは、まさに「道」の修行のことである。――この戦いの「道」において、何を隠し、何を表に出そうか(そんな奥も入口も本来存在しない)。そういうわけで、我が「道」を伝えるに、誓紙罸文などということを好まない。――ということなのである。ここには、「理」あるいは「利」という語の入る余地はない。
 それゆえに、文意からしても、《戦の理》が寺尾孫之丞による後期の変更だすることはできない。むしろ寺尾以後、そして門外流出後の早期にに発生した変異である。
 むろん、これは偶発的な誤写である。肥後系諸本がおしなべてそんな偶発的な誤記を受継いでいるところをみると、やはり肥後系諸本の元祖一本というものの存在を、ここでも想定せざるをえないのである。
 つまり、繰り返せば、肥後系諸本は複数の先祖をもつのではなく、ある元祖に還元しうるのである。その元祖は、門外流出後早期に発生した一写本なのである。
 ともあれ、ここで語釈の問題に移行すれば、細川家本をはじめ肥後系写本ばかりを見て、他の諸本との比較照合を怠っているようでは、これが《戦の道》だとは気がつかない。しかるに、そのように《戦の理》とする細川家本(岩波版)しか知らぬはずの既成現代語訳に、奇体な現象が生じているのも面白いことである。
 つまり、戦前の石田訳において、《戦の理》という語句がどこかへ消えて、「兵法の道」としているのである。これはおそらく石田訳の意訳というよりも、文脈を忠実すぎたために生じた偶発的な錯誤であり、つい「兵法の道」と書いてしまったのだろう。
 しかし奇体というのは、この「兵法の道」という語が、戦後の神子訳に再現されていることである。神子訳は、これも《戦の理》を意訳して「兵法の道」としたとも思われない。たんに、石田訳など戦前訳の語句を再生産したにすぎないようである。
 大河内訳は、ここでは、神子訳を頂戴することはなく、岩波版テクストに沿って、「戦いの道理」とした。もちろんこれでは文意不通だが、それには一向お構いなしである。鎌田訳は、例によってこれも神子訳のパクリで、「兵法の道」とする。大河内訳のように岩波版原文を見ることさえせずに、神子訳を「底本」にして翻案しているのである。
 ともあれ、細川家本の《戦の理》という語を、無視してはばからぬ、という現代語訳の傾向がある。ただし、五輪書テクストにまで遡れば、《戦の理》は誤りで《戦の道》が正しいのだから、ここでも誤訳して正しきに至るという逆説が演じられているのである。それも、まさしく五輪書翻訳史上の珍事の一つであろう。   Go Back

*【吉田家本】
《此戦のにおゐて、何をかかくし、いづれをか顕さむ》
*【中山文庫本】
《此戦のに於て、何をかかくし、いづれをか顕さん》
*【渡辺家本】
《此戦のに於て、何をかかくし、いづれをか顕さん》
*【近藤家丙本】
《此戦のに於て、何をかかくし、いづれをか顕さん》
*【赤見家乙本】
《此戦のにおゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん》
*【猿子家本】
《此戦のに於て、何をかかくし、いづれをか顕ん》
*【楠家本】
《此戦のにおゐて、何をかゝくし、何をか顕ハさん》
*【細川家本】
《此戦のにおゐて、何をかかくし、何をか顯ハさん》
*【富永家本】
《此戦のにおゐて、何を【】かくし、何をか顯さん》
*【狩野文庫本】
《此戦のにおゐて、何をか隠し、何をか顯さん》







*【現代語訳事例】
兵法の道においては、奥と表に區別して一方を秘しかくし他方を公開してヘへたりするのはよくない》(石田外茂一訳)
《とりわけ、兵法の道にあっては、何はおおやけにし、何は秘伝とするなどということができるであろうか》(神子侃訳)
《とりわけ、戦いの道理においては、何を秘伝とし、何を公開することができようか》(大河内昭爾訳)
《この兵法の道にあっては、何をかくし、何をおおやけにすることなどあるであろうか》(鎌田茂雄訳)


 
   11 風之巻 後書
【原 文】

右、他流の兵法を九ヶ条として、
風之巻に有増書附所、
一々流々、口より奥に至迄、
さだかに書顕すべき事なれども、
わざと何流の何の大事とも名を書記さず。
其故ハ、一流々々の見立、其道々の云分、
人により心にまかせて、
夫/\の存分有物なれバ、
同じ流にも、少々心のかはるものなれバ、
後々迄のために、何流の筋とも書のせず。
他流の大躰、九つにいひ分、
世の中の人のおこなふわざを見れバ、
長きにかたつき、みじかきを利にし、
強きとかたつき、あらき、こまかなると云事、
ミなへんなる道なれバ、
他流の口奥とあらはさずとも、皆人のしるべき儀也。
我一流におゐて、太刀におくくちなし、搆に極りなし。
只心をもつて、其徳をわきまゆる、
是兵法の肝心也。(1)
【現代語訳】

 以上、他流の兵法を九ケ條として、風の巻にその概要を書き付けたのであるが、諸流派のそれぞれについて、入口から奥義に至るまで、定かに書いて明らかにすべきだろうが、わざと何流のどういう大事〔奥義〕とも、名を書き記さなかった。
 そのわけは、流派おのおのの見方、その道それぞれの言い分は、人により、(また)心にまかせて、それぞれに考えがあるものだから、同じ流派でも少々意味が変るものである。それゆえ、後々までのために、何流の筋とも書き載せなかったのである。
 他流の概略を、九つに分類して、世の中の人々の行う業を見れば、長い(道具)に偏向したり、短かい(道具)を重視したり、強いことへ偏向し、荒い細かいということ、(これらは)すべて偏った道であるから、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて人の知っているはずのことである。
 我が流派においては、太刀に奥も入口もなく、搆えに究極はない。ただ、心をもってその徳〔太刀の効能〕をわきまえること、これが兵法の肝心である。
 
  【註 解】

 (1)我一流におゐて、太刀に奥口なし、搆に極りなし
 以下は、この風之巻の後書である。ここでは、武蔵は自身の批判における視座を語っている。それが、
  《わざと何流の何の大事とも名を書記さず》
ということである。諸流派のそれぞれについて、入口から奥に至るまで、定かに書いて明らかにすべきだろうが、わざと何流のどういう大事〔奥義〕とも、その具体的な名を書き記さないのである。
 これについて、武蔵に何か遠慮せざるをえないことがあって、それで名指しの批判をしないのだろう、といった臆測があるが、それは間違いである。むしろ、武蔵からすれば、名指しの他流批判など無意味であるからだ。
 その理由は、――と武蔵は云う――流派おのおのの見方、その道それぞれの言い分は、人により、(また)心にまかせて、それぞれに考えがあるものであるだから、同じ流派でも少々意味が変るものである。それゆえ、後々までのために、何流の筋とも書き載せなかったのである、と。
 つまり、同じ流派の内部でもさまざま異見がある、そうなると、その流派全体をこうだと批判しても、それは当っているようでいて当っていないことになる。
 それは、たとえば、我々日本人に属する者でも、それぞれ考えも性格も異なっていて、まるでまちまちなのだが、「日本人はこうだ」と云って批判されると、どうも的外れな感が強いのと同じ話である。「日本人」というカテゴリーに属するのは認めるが、謂われるところの「日本人」なるものが、自分のことだとは思えないのである。この特殊と一般の差異、差額が、偏見の根源である。
 となると、武蔵はどういう批判の仕方をしたのか?――特定流派を批判するのではなく、さまざまな欠陥そのものを批判するという方向を選んだわけである。
 その欠陥は、武蔵によれば九項目に集約されるのであり、それはすべての流派が、それぞれ、その多少はあれ幾分かもっている欠陥である。
 武蔵は云う。――他流の概略を、九つに分けて分析して、世の中の人々の行う業を見れば、長い道具に偏向したり、短かい道具を重視したり、強いことへ偏向し、荒い細かいということも、すべて偏った道であるから、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて周知であるはずだ、云々。
 かくして、他流の欠陥とは、要するに、かたつき、偏向である。真っ直ぐな道からの逸脱であるにすぎない。それを九つに分けて分析してみれば、諸流派が自家の独自性として売り物にしている特徴それじたいが偏向でしかない。したがって、武蔵の他流批判は、他流のアイデンティティもその「名」も無化してしまうものである。そのかぎりにおいて、徹底した批判である。
 そしてまた、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて周知であるはず、云う。とすれば、そこでは、奥だ入口だという差別は消滅してしまうのである。隠しても、周知のことであるとすれば、隠したことにはならないのである。奥儀秘伝は、まさに原理的に不可能である。――このあたりのロジックは、かなり面白いところである。
 こうして見ると、他流批判において、何流の何の大事と名を挙げて、排他的に批判するというやり方を、武蔵が選ばなかったのは、武蔵の批判が内在的であり原理的であるからだ。武蔵の他流批判の「他流」は、個別の特定流派ではなく、自余の全て、いわば兵法の状況全体に対する批判、しかも九つの偏向として分析するところの、具体的で内在的な批判なのである。このスタンスは一貫している。
《同じ流にも、少々心のかわるものなれバ、後々迄のために、何流の筋とも書のせず》
 この「後々迄のために」というところが、武蔵の意外な優しさである。後々迄のために、ということは、若いうちは書かない。それは老いた武蔵の、不意の素顔のような気がする。人は変りうるという将来への期待である。
《我一流におゐて、太刀におくくち(奥口)なし、搆に極りなし》
 これは結語としてのテーゼである。これに武蔵の兵法思想が集約されていると云ってよかろう。
 ――我が流派においては、太刀に奥も入口もなく、搆えにも極りはない。ただ、心をもってその徳、つまり、太刀の効能、そのすぐれた働きをわきまえること、これが兵法の肝心である。
 まさに、過不足なくぴたりと極まった文である。これに何ごとか付け加えるのは、蛇足というものであろう。

――――――――――――
○此条諸本参照 →  異本集 











 








*【他流、九つのかたつき】
・他流に大きなる太刀を持事
・他流につよみの太刀と云事
・他流に短き太刀を用る事
・他流に太刀数多き事
・他流に太刀の搆を用る事
・他流に目付と云事
・他流に足つかひ有事
・他流にはやき事を用る事
・他流に奥表と云事





 さて校異の問題をあげれば、ここには指摘すべき相異箇処がある。すなわち、筑前系諸本には、
《おなじ流にも少々心のかはるものなれバ、後々迄のために、何流の筋とも書のせず。(中略)世の中の人のおこなふわざをミれバ、長きにかたつき》
とあって、《何流の筋》、《世の中の人のおこなふわざをミれバ》とするところ、肥後系諸本では、かなり字句が異なっている。つまり、肥後系では、
《同じ流にも少々心の替るものなれバ、後々迄のために、ながれ筋共書のせず。他流の大躰、九ツにいひわけて、世の中の道、人の直なる道理よりミせバ、長きにかたつき》
とあって、《ながれ筋》、《世の中の道、人の直なる道理よりミせバ》とするわけである。これは、肥後系諸本に基本的に共通するところであるから、肥後系早期にはあった字句のようである。
 まず、肥後系の《ながれ筋》という語句であるが、これは、「流れ筋」ということである。しかし、つづく「共」字と連続して読めば、「流れ筋とも書きのせず」となって、いささか文意があやしくなる。前に、《わざと「何流の」何の大事とも名を書しるさず》とあるから、ここは「何流の筋」とあるのが妥当である。
 ようするに、これは、脱字と誤写とが重なって、《ながれ筋》になったようである。たとえば、《何流の》という語句の「何」字が脱落し、仮名「の」(能)字を仮名「れ」(礼)に誤写して、「流れ」と化し、次に「ながれ」と仮名表記するようになった、と。
 ともあれ、これは写し崩れであるから、寺尾孫之丞段階のものではない。その後の誤写である。それよりも、筑前系諸本に共通してこの語句のあること、そのことからすれば、《何流の筋》という語句は筑前系初期にすでにあった語句である。
 また、次の問題箇処、《世の中の道、人の直なる道理より見せバ》と肥後系諸本にあるのも、よくわからぬ文言である。強いてこれを訳せば、「世の中の道を、人の直なる道理から見せれば」ということだが、「道理から見せる」となると、文意が通らない。《見せハ》ではなく、「見てハ」ならまだしも、なのであるが。
 それよりも、これがかりに、《世の中の道、人の直なる道理より見てハ》だったとしても、ここは、「人の」という語句が無用である。つまり、《世の中の道、直なる道理より見てハ》でよかろうからである。あるいは、さらに云えば、「道」字も不要文字とみなしうる。というのも、五輪書の他の文例からすると、《世の中の直なる道理より見てハ》で、ここは意味が十分通じるからである。
 肥後系のうち、富永家本は、《世の中の【★】人の直成道理より見せバ》として、「道」字がない。これを別ヴァージョンとみれば、おそらく肥後系早期には、この語列はまだ固定していなかったと思われる。
 したがって、肥後系諸本に《世の中の道、人の直なる道理より見せバ》とするここは、難点が多く、そのままであったはずはない。おそらく、何らかの誤写のあった結果生じた語列と思われる。その原型は修復不可能だが、肥後系早期に、《世の中の直なる道理より見てハ》に類似する語列が発生したらしいことが推測できるのみである。
 かようなことであるから、我々のテクストでは、肥後系諸本の字句は採らず、《世の中の人のおこなふわざをみれば》という筑前系諸本の語列に従う。こちらの方が文意も難なく通るのである。
 あるいはまた、別の校異では、筑前系諸本に、
《長きにかたつき、ミじかきを利にし、強きとかたつき、あらき、こまかなると云事、ミなへんなる道なれバ》
として、《強きと》とするところ、肥後系諸本には、《つよきよはきと》として、「つよき」だけではなく「よはき」(弱き)という字句を入れている。
 しかるに、同じ肥後系でも、富永家本では、これを《強きと片付》として、「弱き」という字句を入れない。おそらく、肥後系早期には、この字句は存在しなかったのである。したがって、これは後に発生した誤記である。
 もとよりここは、「かたつき」「へん〔偏〕なる道」という偏向の話である。長い大太刀、短い小太刀、強みの太刀などに偏ることはあっても、殺し合いの戦闘に、「弱き」に偏向する者がいるわけがない。したがって、これはまさに余計な字句である。
 おそらくは、その後に《あらき、こまかなると云事》とあるのに引きずられた対句なのであろう。荒いというのは、強みの太刀の事である。こまかいというのは、目付の事や、太刀数が多い事に関連する話であろう。しかし、兵法のことである、まさか、「弱き」に偏る者があるはずもない。それゆえ、強き、弱きという対句は、文脈上はありえない。ここは偏向の話なので、《つよきとかたつき》で、過不足はないのである。
 以上のこのあたり、既成の語釈・語訳をあげつらうことは無用である。それらが肥後系細川家本に依拠している以上、底本そのものに欠陥がある。それを、無理やり釈義、現代語訳してはいるが、そもそもテクストが間違っている以上、論ずるに値しないのである。
 こうした事態を救済するには、諸本を比較して厳密な史料批判を実行する必要があるが、そういうファンダメンタルな作業は、これまで行われたことがなかったのである。その結果、細川家本という後発的誤記の多い一本が、ほぼ野放し状態で世の中に横行してきたのである。
 また、続いて別の校異にわたれば、筑前系諸本に、《あらき、こまかなると云事》とあるところ、肥後系諸本には、《云事》に「も」字を付して、《云事も》とするものがある。
 これも肥後系諸本のうちには、早期派生系統の子孫たる富永家本には、その「も」字を付さない。したがって、肥後系早期には、《云事も》と記すものではなかった、そしてその後、「も」字を入れる衍字誤記が発生したのである。
 これは、本条末尾、筑前系諸本に《只、心をもつて、其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》とするところ、肥後系諸本に《其徳をわきまゆる》として「事」字を付することも同前であって、やはり富永家本には、その「事」字を付さない。
 したがって、肥後系早期には、《わきまゆる》と記して、「事」字を付すものではなかった、そしてその後、「事」字を入れる衍字誤記が発生した。そういう偶発的な事後の異変なのだが、これが伝わり派生して、現存諸本の書記に反映されている。
 これらの校異のこうした位置づけは、従来肥後系諸本ばかりを見てきた五輪書研究では、思いもよらなかったことである。というのも、肥後系諸本の多くが同じ語句を記すことから、富永家本の諸字句は例外もしくは誤記とみなされてきたのである。しかし、肥後系諸本まで広く視野を広げ、厳密に語句を照合するならば、事実はその逆だったと知れるのである。
 しかるに、こうしたレベルの議論は従来の五輪書研究には存在しない。いわば、肥後系五輪書に偏向する悪弊、その「かたつき」「へん〔偏〕なる道」、とりわけ細川家本を理由もなく信仰する蒙昧、これらを、いまだに矯正し啓蒙する必要がある、というのが五輪書研究の現状なのである。   Go Back


*【吉田家本】
《後々迄のために、何流の筋とも書のせず。(中略)世の中の人のおこなふわざをミれば
*【中山文庫本】
《後々迄のために、何流の筋とも書のせず。(中略)世の中の人のおこなふわざをミれバ
*【渡辺家本】
《後々迄のために、何流の筋とも書のせず。(中略)世の中の人のおこなふわざを見れバ
*【近藤家丙本】
《後/\迄のために、何流の筋とも書のせず。(中略)世の中の人のおこなふわざを見れバ
*【猿子家本】
《後々迄のために、何流の筋とも書のせず。(中略)世の中の人のおこなふわざを見れバ
*【楠家本】
《後々迄のために、ながれ筋共書のせず。(中略)世の中の道、人の直なる道理よりミせバ
*【細川家本】
《後々迄の為に、ながれ筋共書のせず。(中略)世の中の道、人の直なる道理より見せバ
*【富永家本】
《後々までの為に、ながれ筋とも書のせず。(中略)世の中の人の直成道理より見せバ
かくし、何をか顯さん》
*【狩野文庫本】
《後々迄の為メに、流の筋とも書キのせず。(中略)世ノ中の道、人の直成道理より見せば



吉田家本 校異箇処

*【吉田家本】
《強き【】とかたつき、あらき、こまかなると云事【】、ミなへんなる道なれば》
*【中山文庫本】
《強き【】とかたつき、あらき、こまかなると云事【】、ミなへんなる道なれバ》
*【渡辺家本】
強き【】とかたつき、あらき、こまかなると云事【】、ミなへんなる道なれバ》
*【楠家本】
《つよきよはきとかたつき、こまかなるといふ事、ミなへんなる道なれバ》
*【細川家本】
《つよきよハきとかたつき、あらき、こまかなると云事、ミなへんなる道なれば》
*【富永家本】
《強き【】と片付、悪敷、細成と云事【】、皆へんなる道なれバ》
*【狩野文庫本】
《強き弱きと片付、あらき、こまか成と云事、皆へん成道なれば、》



細川家本 校異箇処


*【吉田家本】
《其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》
*【中山文庫本】
《其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》
*【渡辺家本】
《其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》
*【近藤家丙本】
《其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》
*【楠家本】
《其徳をわきまゆる、これ兵法の肝心なり》
*【細川家本】
《其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》
*【富永家本】
《其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也》




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