武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈

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五輪書 地之巻 1  Back   Next 

五輪書全体の地ならしをする地之巻。兵法を学ばんとする者へのガイダンス、武蔵自身が本書の案内をおこなう。内容は以下のようなものである。

1 自  序  五輪書全体の序文にあたるもの
2 地之巻序  地之巻の前文
3 兵法の道とは (兵法の道と云事)
4 兵法の道を大工に喩える (兵法の道大工にたとへたる事)
5 士卒たる者 (兵法の道士卒たる者)
6 地水火風空五巻の概略 (此兵法の書五卷に仕立る事)
7 二刀一流という名  (此一流二刀と名付る事)
8 太刀の徳  (兵法二字の利を知る事)
9 武器を使い分ける (兵法に武具の利を知ると云事)
10 拍子ということ (兵法の拍子の事)
11 地之巻後書

 
   1 自 序
 【原 文】
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兵法の道、二天一流と号し、(1)
数年鍛練の事、始て書物に顕さんと思、(2)
時、寛永二十年十月上旬の比、
九州肥後の地岩戸山に上り、
天を拜し、觀音を礼し、佛前に向。(3)
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、
年つもりて六十。(4)
われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、
十三歳にして始て勝負をす。(5) 
其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者(6)
にうち勝、十六歳にして、
但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、(7)
二十一歳にして、都へのぼり、
天下の兵法者に逢、数度の勝負をけつすと
いへども、勝利を得ざると云事なし。(8)
其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、
六十餘度迄勝負をすといへども、
一度も其利をうしなはず。
其程、年十三より二十八九迄の事也。(9)
われ三十を越て、跡をおもひミるに、
兵法至極してかつにハあらず。
をのづから道の器用ありて、天理をはなれざる故か、
又ハ、他流の兵法不足なる所にや。(10)
其後、猶も深き道理を得んと、
朝鍛夕錬して見れバ、をのづから
兵法の道に逢事、我五十歳の比也。
それより以來は、
尋入べき道なくして光陰を送る。(11)
兵法の利に任て、諸藝諸能の道となせバ、
万事におゐて、われに師匠なし。(12)
今此書を作るといへども、
佛法儒道の古語をもからず、
軍記軍法のふるき事をも用ひず。
此一流のミたて、實の心を顕す事、
天道と觀世音を鏡として、(13)
十月十日の夜、寅の一天に
筆をとつて、書始るもの也。(14)

 【現代語訳】



 兵法の道を二天一流と名づけて、長年修行してきたことを、初めて書物に記述しようと思い、時に寛永二十年(1643)十月上旬の頃、九州肥後の地にある岩戸山〔いわとのやま〕に登って、天を拜し、観音を礼拝し、仏前に向った。
 生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年齢は積み重なってもう六十(になってしまった)。私は若年の昔より兵法の道を心がけ、十三歳にして初めて決闘勝負をするようになった。その相手、新当流有馬喜兵衛という兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国の秋山という強力な兵法者に打勝った。二十一歳にして都へ上り、天下(有数)の兵法者に出会い、何度も決闘勝負を行なったが、勝利を得ざるという事がなかった。
 その後、諸国各地へ行って、さまざまな流派の兵法者と遭遇し、六十数回まで勝負を行なったけれども、一度もその利〔勝利〕を失うことがなかった〔負けたことがなかった〕。それは十三歳より二十八九歳までのことであった。
 私は三十を越して我が過去を振り返ってみると、これは兵法が極まっていたので勝った、ということではなかった。自然と兵法の道の働き*があって、天の原理を離れなかったせいであろうか。あるいは、相手の他流の兵法に欠陥があったからだろうか。
 その後、なおも深き道理を得ようとして、朝に夕に鍛練してきたが、結局、兵法の道にやっと適うようになったのは、私が五十歳の頃であった。それより以来は、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきた。
 兵法の利〔勝利〕にまかせて諸々の芸能〔武芸〕の道としてきたので、万事において私には師匠というものがなかった。
 これから、この書物を書いていくのだが、仏法や儒道の古き言葉を借りたり、軍記軍法の古き事例を用いたりはしない。この流派の見立て(考え)や真実の心を明らかにすること、天道*と観世音を鏡として、十月十日の夜、寅の刻の一天*(午前四時前)に筆を執って書き始めたのである。
 

 【註 解】

 (1)兵法の道、二天一流と号し
 五輪書第一巻、地之巻。地・水・火・風・空という五蘊に准えて名づけた五巻の最初の巻である。その冒頭に、武蔵は自身の来し方を振り返って、ごく簡単な兵法自伝を記す。
 以下のこの自序部分を五巻全体の前に置く編集もあるが、「自序」として独立した巻は存在せず、地之巻冒頭に含まれている文であることから、ここでは、それに準じる配置とする。
 ここで《兵法》とあるのを、「ひょうほう」と読んでいる者があるが、それは妥当ではない。近世初期の武蔵の時代、これはまだ「へいほう」と読んだ文字である。後出の条に、《なまへいほう大疵のもと》とある。生兵法大疵のもと、である。ここで《兵法》とあるのを、「ひょうほう」と読むのも、その「なまへいほう」の類である。
 《兵法》というのは、ここでは、現代の語感にある軍事的戦略もしくは戦術ということではないのに注意。当時の《兵法》の意味は、戦闘術の意味である。
 武蔵を剣術家、剣豪と見るのは、後世の偏向した見方である。この五輪書を通じて言えることだが、後世の意味での剣術・剣道という概念はまだ発生していない――そのことを確認されたい。
 とくに「兵法者」という場合、仕官している一般の武士と違って、武芸者、戦闘術の専門家の意味である。しかし、これは武蔵のような戦闘術の「理論家」を指すものではなく、あくまでも武芸者、現役の戦闘者という意味が強い。
 さて、《兵法の道、二天一流と号し》ということだが、その二天一流の「二天」とは何か、について、武蔵研究史を通覧するに正しい説明を見たことがない。それだけでも、武蔵研究の従来のレベルが知れるのである。
 我々の所見では、「二天」とは太陽と月という二つの天体を指し、陰陽二元のことである。したがって「二天一」とは、「二」にして「一」、つまりこの陰陽二項対立の止揚として「一」、というほどの意味である。
 それを、左右両手に剣をもつ二刀流の名にしているわけである。それゆえ、この名に深い意味のあることではなく、宇宙原理としての陰陽二元の太極という、当時の概念としては至極一般的なものである。ただ、神道流とか新陰流、念流あるいはタイ捨流等々といった当時の流派名と比較すれば、いささか「哲学的」な好みが出た名ではある。
 本書五輪書には「二刀一流」という名も出てくるから、「二刀一流」ともいったらしい。武蔵はこの五輪書のなかでは両方の名を併用している。兵法のうち剣術に限って「二刀一流」の名をを用いたのではないかとも思われるが、武蔵にとって、とくに区別はなかったようである。
 近世初期の朱子学者・林羅山の新免玄信像賛に、
《劍客新免玄信、一手毎に一刀を持ち、曰く二刀一流》
とある。これによれば、武蔵の流名は「二刀一流」であり、五輪書にある「二刀一流」の用例も、これで傍証を得る。つまり、五輪書にある「二刀一流」は「二天一流」の誤記ではない。武蔵自身が「二刀一流」と書いていたのである。
 「二天一流」も「二刀一流」も、とくに後期武蔵の使用名称であるか、というとそれは確証がない。五輪書は、兵法を道を二天一流と称して、多年修行してきた、とある。流派名称にそれほどこだわった気配もない。
 武蔵門流の中には、播磨や尾張に「円明流」、三河に「武蔵流」を称するものがあった。円明流の「円明」とは、読んで字の如く、日月の二天、円満具足である。筑前の武蔵道統では「二天流」という。これは、日月の二天からすると、円明流のシノニムである。またその「円明流」が、必ずしも武蔵固有の流派名称でなかったようで、それで、「二天一流」「二刀一流」をいうこともあったのだろう。これも、「二」にして「一」、陰陽二項対立の止揚として「一」、ということで、「二天」と「二刀」にさほどの意義相違があるわけではない。
 周知の左右海鼠透鍔という伝武蔵作品があるが、これは形状から「海鼠透鍔」と呼んでいるが、本来のデザインは、「二天一流」「二刀一流」のシンボルイメージである。
 しかし武蔵は、たとえば「円明流」を廃して「二天一流」に改名したのではない。武蔵が壮年期に「円明流」を称したという実証はない。むしろ、後年その門流の一部に「円明流」を称するものが出たという、逆のプロセスも考えられる。「二天一流」名を最も用いる肥後でも、豊田景英の書いたものをみると、一般には「武蔵流」と称していた(豊田氏先祖附)。
 したがって、「二天一流」をもって武蔵の剣法として排他的に考えるのは誤っている。あるいは、「二天一流」が武蔵の完成的剣法で、それ以前の円明流等々は、未完成のものだ、という認識も、明らかな誤認と云うべきである。恣意的な解釈である。
 それゆえ、そういう誤認が興行されている今日では、武蔵の遺産は現実には存在せず、存在するのは名のみの似て非なるものであり、それゆえある意味では、事実上の遺産は、こういう五輪書というテクストの内部にしか存在しないのかもしれない。   Go Back

 
 (2)始て書物に顕さん
 兵法の道を二天一流と名づけて、多年鍛練修行してきたのだが、その兵法の道のことを、ここではじめて、書物に書きあらわそうと思う、と武蔵は記す。ここで注意すべきは、これが、書物としての最初の兵法論だということである。同じようなことは、後にも再三述べている。
 ようするに、武蔵はこのときになって、はじめて兵法論を書いた。そして、本書を書上げない前に死亡したのだから、本書は遺稿でもある。つまり、この最初の著作は同時に最後の著作なのである。五輪書は、武蔵の最初にして最後の兵法書である。
 この記述は、ひとつの急所であるから、よく頭に入れておいていただきたい。武蔵には本書、五輪書以前には、書物としての兵法書著述はなかったのである。
 しかし、この《始て書物に顕さん》という字句が、まともに読まれた例がない。たとえば、三十九(三十五)箇条兵法書、我々の云う「肥後兵法書」を武蔵著作だと信じて疑わない蒙説が、今なお支配的である。ましてや、兵道鏡→兵法三十五箇条→五輪書という進化論的図式を掲げて、講釈する僻説が、昔から後を絶たぬ。これに至っては、歴史研究のイロハさえ心得ぬ者らのタワ言である。
 それよりも、このように五輪書に明記してあることを読めないとは、文盲と言うべし。しかしながら、近年に至っては、五輪書にこの《始て書物に顕さん》という字句のあることさえ知らずに、五輪書論を書くという徒輩まである。あるいは、上記の進化論的図式に固執するために、この語句を故意に無視する者らもある。まさに倒錯と言うべし。
 そのような今日の状況だからこそ、多年鍛練修行してきた兵法の道のことを、ここではじめて、書物に書きあらわそうと思う、と武蔵が記すこの箇処を、改めて確認しておくことを諸君にすすめる。
 もとより、武蔵がこの年になるまで、兵法論を一切語らなかったのではない。兵法講義において、口頭での教説があった。著作なき思想家は、「如是我聞」「子曰く」の東洋的伝統の中に多い。おそらく武蔵も、この五輪書を書かねば、「師曰く」という聞書だけが残ったかもしれない。
 また、この五巻の兵書(五輪書)に記述されているようなことは、武蔵在世中に世間に知られてもいた。それは本巻後書に、《多分一分の兵法として、世に傳る所》とある通りである。
 もとより、武蔵については、その二刀一流のほかにも、その「多分一分の兵法」「大分一分の兵法」という兵法論でさえ、上に言及した林羅山賛の背景にあって言及されているから、武蔵がどういう兵法理論をもつものか、世間周知のことであったようだ。
 しからば、なぜ武蔵は、ここで、はじめて、書物に書きあらわそうと思ったのか。
 そのことは、ある意味では、本書を最後まで通読してはじめてわかることだから、ここでは、あえて答えを隠しておくことにする。読者に、武蔵の記述と、じかに向き合っていただきたいからである。   Go Back
○此条諸本参照 →  異本集 






石井家本 地之巻巻頭














*【羅山文集】
《旋風打連架打者異僧之妄言也。袖裏蛇飛而下者方士之幻術也。劔客新免玄信、毎一手持一刀、曰二刀一流。其所撃所又捔、縦横抑揚、屈伸曲直、得于心應于手、撃則摧、攻則敗。可謂、一劔不勝二刀、誠是非妄也非幻也。庶幾進可以學萬人敵也。若推而上之、淮陰長劍、不失漢王左右手。以小譬大、豈不然乎》(新免玄信像賛)



二天一流シンボルイメージ

左右海鼠透鍔
左右海鼠透鍔 伝宮本武蔵作
熊本市 島田美術館蔵






石井家本 「始て書物に顕さん」








*【地之巻後書】
《右、一流の兵法の道、(中略)多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》
 
 (3)寛永二十年十月上旬の比
 以上がこの一段の枕、前置きに相当する部分である。
 寛永二十年(1943)十月は、武蔵の死の一年半前である。十月上旬という日付は、この節の末尾に、十月十日とあるのに対応する。序文であるから、日付を書いているのである。
 九州肥後の岩戸山というのは、岩殿山ともいう。岩戸山とは全国どこにでもある名だが、たいていは洞窟があって、「岩戸」の名はそれに由来する。ここに「岩戸観音」と呼ばれる観音霊場があって、いわば仏教的な聖地である。現在は雲巌禅寺という(現・熊本市松尾町)。
 岩戸山の名の通り、ここにも霊巌洞という窟があって、そこで武蔵はこの五輪書を書いたという伝説がある。これは明治末の武蔵伝記(宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』明治四十二年)が拾った地元伝説である。この書が依拠した『二天記』にはそれに該当する記事がない。しかるに、『武公伝』には、
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ雌黄ヲ乞フ》
とあって、「肥後巌門」とするから、これは岩戸山の霊巌洞のことである。すると、武蔵死後百年も経たないうちに、武蔵が霊巌洞で五輪書を書いた/書き始めた、という伝説ができあがっていたのである。
 しかし、『武公伝』にしても後世の伝説を拾ったものである。上記にある、龍田山泰勝寺春山和尚というのも誤りであり、この記事じたいが誤伝なのである。
 ともあれ、武蔵は、本書を書き始める前に、岩戸山に登った。天を拜し観音を礼しとあるところから、「天」と「観音」という二つの宗教的対象が武蔵にあることが知れる。
 この場合、天は儒教的存在であり、観音は仏教的存在であるとは一応言えるが、もう少しよく考えて見る必要があろう。武蔵における宗教という主題は、ここでは触れないが、我々のいう宮本武蔵における「至高悪」の問題を考えるとき無視できないポイントである。
 ところで、岩戸山に登り…とあるが、後にも述べるように、岩戸山で本書を書き始めたとは書いていない。十月上旬のある日、岩戸山に登った、天を拜し観音を礼拝し仏前に向った、ということだけである。したがってこの文章では、霊巌洞を五輪書執筆の場所とする材料はない。
 我々の所見では、この日岩戸山に登ったのは、武蔵が生涯はじめて兵法書を執筆するにあたって、その著述成就を祈願するためである。したがって、霊巌洞に籠って執筆したという話ではない。   Go Back




天保国絵図
岩戸山と熊本市中



岩戸観音 霊巌洞
熊本市松尾町 雲巌禅寺
 
 (4)生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十
 原文は改行無しであるが、我々はここで改行を入れてみた。筑前系五輪書では、これを「向ひ」とせずに、「向」としているのがヒントであった。
 他の五輪書刊本をみると、「歳つもりて六十」の後に改行を入れる例がほとんどである。しかし、この一文は履歴の開始文であるから、後文と一つである。また、《天を拜し觀音を禮し佛前に向》までが前文に相当する。ここで、文章の呼吸が変っている。ゆえに改行を入れるとすれば、ここしかない。
 こうした改行措置は従来なかったことである。こういう読みは、我々のテクストの内容分析よってはじめて可能になったのである。
 この一節――《生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十》――は、このサイトでは繰り返し引用される文である。それというのも、このわずかな行文に、武蔵という人物に関する情報が濃縮されているからである。

 まず、「生國播磨」。――武蔵の産地を播磨とする決定的な根拠はこの部分にある。これほどダイレクトに書かれていながら、これまで多くの研究者や小説家が、これを否認し、あえて美作出生説を採って来たという経緯がある。美作説にとっては、おそらく、これほど呪わしい一文は存在しないであろう。だが、それこそ、まさに倒錯的な事態なのであった。
 なお、ここで注意をひとつしておけば、五輪書写本に「播磨」の文字が「幡摩」や「幡磨」と記すケースがある。それを見て、五輪書校訂者がこれは誤字だと勘違いして、あるいは「播磨」と訂正に及ぶことがある。しかしそれは余計なことなのである。
 近世では、『黒田家譜』にも「幡磨」と記す。これは播州出身の黒田官兵衛を祖とする黒田家のことからすると、著者貝原益軒の誤字であるとみえる。『黒田家譜』に「幡磨」と記すから、筑前では「播磨」ではなく「幡磨」と記す例が多々ある。
 「播」は「幡」と音が同じで、古来「幡」字を用いる例は少なくない。また播磨の「磨」も同じように「摩」字を用いることも例が多い。「はりま」は「播磨」と記すに決まったことではない。古代では「針間」とさえ書いた。播磨国名はそもそも最初から宛字なのである。五輪書写本が「幡摩」や「幡磨」と記すなら、それはそれよいでのである。ただし、地元播磨では、やはり一般に「播磨」と書いていたことは知っておくべきである。

 次に、「新免武蔵守藤原玄信」。――これが武蔵の「兵法者」としての正式な名のりである。五輪書は兵法書なので、こういうフォーマルな名のりを記す。これに対し、「宮本武蔵」は通称、俗称というべき名である。
 この名のりに関して、少し解説しておけば、まず「新免」という氏名〔うじな〕がある。これは「しんめん」と読む。『本朝武芸小伝』など、これを知らずに「にいみ」とルビを振る例があるが、それは誤りである。
 新免氏は、戦国後期、美作国吉野郡の竹山城に拠った武家である。支配領域三千石ないし五千石ていどの国人であり、播磨、備前、因幡三国に囲まれて、それら諸勢力に翻弄された小領主であった。その家系の元祖を、徳大寺実孝とする。ゆえに新免氏は藤原姓である。
 むろん、これは貴種流離譚の一種であって、徳大寺実孝が実際に美作国へ流されたという事実はないし、まして同地に子を遺したわけでもない。ただし、そういう史実関係とは別に、新免氏は、その元祖を藤原北家・徳大寺実孝とする伝承を有し、藤原姓を名のってきたという「事実」はある。武蔵の「新免武蔵守藤原玄信」という名のりに、姓を「藤原」と記すのは、それゆえである。
 武蔵が新免氏を名のるのは、兵法者新免無二の家を嗣いだからである。無二が新免氏を名のる以上、おそらく美作国吉野郡の新免氏に連なる同族であろう。ところが、具体的にそれがどういう関係にあるのか、不明である。
 ただ、竹山城主・新免宗貫は、播磨国宍粟郡の長水山城主・宇野氏から養子に入った人で、新免氏は宇野氏の勢力下にあったらしい。また当時、戦国状況下、難を避けて、美作から隣接する播磨西部へ流れてきた家々が多くあった。そういう流出入があったことからすれば、新免無二の家も、そうした「播磨へ流れてきた家」の一つであったかもしれない。
 これに対し、武蔵実家は、小倉碑文が記すように赤松末葉、ようするに播磨に多数ある赤松系の家の一つである。赤松末葉なら村上源氏である。ただし、それが具体的にどの家であったか、氏が何であったか不明である。他方、宮本武蔵の「宮本」というのは、武蔵の代から名のり出した氏名で、当時多くのケースのように、自身の出身地を通称にしたにすぎない。
 そして、「新免武蔵守」。これは、武蔵の代に名のり出したというよりも、兵法家としての新免無二の家名であろう。新免無二の死後、武蔵がその兵法家を再興したとき、その家名「新免武蔵守」を受け継いだものとみえる。
 ところで、武蔵が「武蔵守」を名のることが理解できないらしく、武蔵は不遜にも国主の号を僭称したとんでもない奴だ、という論難がその昔あったし、近年でもそれを鸚鵡のごとく反復する者がいる。あるいは、その反対に、武蔵を擁護するために、武蔵は「武蔵守」を名のったのではない、武蔵がそんな不逞をするわけがない、武蔵の門人あるいはその流末が、先師を尊敬して「武蔵守」にしてしまったのだ、という珍説もある。笑止と言うべし。これらは当時の事情を知らぬ、無知をさらしているにすぎない。
 ようするに、武蔵の当時、武家には「○○守」を名のる者は無数にあった。おそらく「武蔵守」を名のる者も全国では多数あっただろう。たとえば、新免氏のケースでは、支配領域三〜五千石にすぎない竹山城主が新免伊賀守、しかも、その同族家老でおそらく知行数百石ていどの者までも、新免備後守、新免備前守を称していた。
 むろん、これは朝廷のお墨付きのある職名ではない。社会的慣習としての私称である。また武家に限らず、神職や刀工など職人にも「○○守」を名のる者が多かったのである。こうしたことは、本サイトではじめて注意を喚起するまでは、だれもかれも上記のような阿呆なことを書いていたものである。
 兵法者も一種の職人である。新免無二の場合、その「無二」というのは「無双」と同義の号であるが、兵法家としての家名は「新免武蔵守」を名のったようである。そうして、武蔵は新免無二の家名を嗣いで、そのブランド名「新免武蔵守」を名のった。それ以上でも、それ以下でもない。
 以上の諸点については、本サイトの諸論攷に詳しいので、それを参照のこと。
 最後に、「玄信」とあるのは、これは諱(いみな)である。諱のばあいは「げんしん」と音読みにはしない。ただし、この諱の読みは不明である。
 『武公伝』の田村秀之写本には、「ハルノブ」とルビをふるが、これは武蔵道統伝書には異例のことで、しかもその根拠は明らかではない。『武公伝』は、吉岡兼法の「兼法」を諱と誤解して、「カネノリ」とルビをふる。これは「憲法」「兼房」とも記されて、もともと号だから「ケンボウ」である。あるいはまた、『武公伝』は足利将軍・義昭に「ヨシテル」などという読みをする。「ヨシテル」なら義昭より前に十三代将軍・義輝という人がいるから、これは明らかに誤認である。そんな具合で、『武公伝』のルビは、誤謬も含めた恣意的なものである。よって、『武公伝』写本に「ハルノブ」とあるからといって、それを根拠とするわけにはいかない。
 他方、「玄」字は「もと」と読む例があるので、諱「玄信」は「もとのぶ」だった可能性もある。いづれにしても、まだ有力な傍証を得ないので、後人が勝手に決めるわけにいかない。したがって、「玄信」という諱の読みは未確定、としておくべきである。
 『本朝武芸小伝』に武蔵の諱を「政名」とし、《自ら日下開山神明宮本武藏政名流と号す》と書いているが、これも典拠不明である。「日下開山神明宮本武藏政名流」なんぞと仰々しく号した後世の一派が、そのように言い出したのかもしれない。
 以上のように、兵法者としての武蔵のフォーマルな名のりは「新免武蔵守藤原玄信」である。つまり、氏は「新免」、職名は「武蔵守」、姓は「藤原」、諱は「玄信」である。
 これが、兵法者としての武蔵の名のりであるから、武蔵諸流伝書に「宮本武蔵守」などと記すのは、後世発生の流派であることの印である。「宮本武蔵」が世間で有名になった後、本来の「新免」という氏名が忘却された結果、そうした流派伝書が発生した。
 宮本伊織(泊神社棟札)によれば、武蔵は、神免(新免)の遺家を継承したが、自身の代になって「宮本」氏を名のるようになった。おそらく、武蔵は、姫路で三木之助を養子にして一家を創設したとき、これを宮本氏としたのである。こちらは、兵法家ではなく、世俗的な家名として区別したということである。



吉田家本 地之巻 冒頭


楠家本 地之巻 冒頭
「生國幡摩」の文字




徳大寺実孝卿墓
岡山県美作市粟井



戦国末期播磨諸城地図




新免武藏守藤原玄信







牧堂文庫蔵
武公伝 当該箇処


*【本朝武芸小伝】
《宮本武藏政名者播州人、赤松庶流、新免〔にいみ・振仮名〕氏也。父號新免無二斎、達十手刀術。(中略)凡そ十三歳より、勝負を為すこと六十余度、自ら日下開山神明宮本武藏政名流と号す》







*【泊神社棟札】
《有作州之顕氏神免者。天正之間、無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武藏掾玄信、後改氏宮本。亦無子而以余為義子。故余今稱其氏》
 さて、《生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十》という一文が示すのは、武蔵が播磨産だということである。そして、次にもうひとつ重要なことは、これによって武蔵の生年が確定することである。すなわち、寛永二十年に六十歳だということから逆算して、生年は天正十二年(1584)と特定できるわけである。
 ただし小倉宮本家系譜では、武蔵の生年を天正十年とする。二年早いわけだ。これが何に拠ったかは不明だが、現存文書が、幕末に近い弘化三年(1846)と遅い史料であることからすれば、これをオリジナル資料と見なすわけにはいかない。小倉宮本家文書はその系図に見られる如く、干支を何箇所も間違っていたりして、かなり粗忽な者が作製した文書である。おそらく書記者に誤認があったのである。
 本サイトの他論考に明らかにされているように、宮本家伝書は制作が新しいだけではなく、他の内容も誤伝が少なくない。もとより、武蔵死後二百年たって書かれた文書と、武蔵自身の五輪書の記事を同列におく阿呆はいない。したがって我々は、この後世作成の記事を誤記として却下し、武蔵生年を天正十二年と特定するわけである。
 なお、この「六十」という数字に関して、これは修辞的概数であって正確にジャスト六十歳ということではない、だから天正十年生れという宮本家伝書を斥けえないという珍説もある。けれども、年齢において六十という数字は、特別な意味を有する。四十、五十などという数字は比較にならない。すなわち六十は、暦年循環サイクル(12×5=60年)の年であるからだ。
 これがもし、六十二歳であれば、この自序に通有のその書き方がある。すなわち――「六十二」、もしくは「六十有二」である。この自序では、以下に、十三歳、十六歳、二十一歳という数字を記すように、概数ではなく正確な年齢を記している。これに対し、《六十餘度迄勝負をすといへども》《年十三より二十八九迄の事也》とあるように、概数は「六十餘度」「二十八九」と記す。この用例からすれば、武蔵は六十歳だから、そのまま「年つもりて六十」と書いたにすぎない。修辞的概数ではないのである。要するに、
    《新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十》
    《六十餘度迄勝負をすといへども》
 この二ヶ所を対照させるだけでも、「六十」と「六十餘」の書き分けは明らかである。その点で「年つもりて六十」には何の問題もない。ところが、一部に、この「六十」を「六十二」だと強弁する説がある。それは、さまざま難点の多い宮本家文書を信じて疑わない蒙昧な説である。後世文書については、その史料批判をきちんとした上で物を言うべきである。
 かつては、武蔵美作出生説が、「生国播磨」という記事に対し同様の強弁をしていた時代があったが、近年ではさすがにそんな蒙昧は後退した。ところが最近では、「年つもりて六十」に対し、珍妙な強弁妄説を語る者が出てきたのである。かくして戦前も戦後も、五輪書の記事は、文字通りに読んでもらえないのである。
 ふつう、人は生れを干支で覚えるから、自分の年齢を間違えるわけがない。年改まって正月が来れば、今年で何歳になったと確認するものである。武蔵はこの年六十歳になって、初冬に至り還暦を間近に控えたのを機縁に、本書執筆を開始するつもりで、岩戸山に登って祈願したのであろう。
 かくして、この一節は、武蔵事蹟研究において、比類なき重要性を有している。すなわち、これによって我々は、武蔵の生国と生年を特定しうるのである。まさにこの五輪書に拠るかぎり、
  《武蔵は天正十二年(1584)、播磨国のどこかで生まれた》
のである。武蔵伝記研究において、これ以上のものはありえないプライマリーな史料である。これを否定する史料は、これまで出たことはなかったし、今後も出ることはないであろう。
 この出生地問題については、本サイト所収の《武蔵の出身地はどこか》と題する研究プロジェクトの成果を参照されたい。   Go Back






宮本氏歴代年譜
天正十年生れとする






「生国播磨」「年つもりて六十」
石井家本

 
 (5)十三歳にしてはじめて勝負をす
 武蔵自身が記すところのこの最初の決闘は、数えで十三歳、満で十二歳である。現在で言えば、中学一年生か。決闘するには、早過ぎると見る向きもあるが、必ずしもそうではあるまい。
 武蔵自身は、当時としては極めて巨大な体躯の持主であったと見なしうる。当時の日本人の成人男子の平均身長は一六〇cmに満たない、――そういうものだったらしい。武蔵は十三歳の頃にはすでに並の大人よりも大きな肉体をもっていたかもしれないという推測は成り立つ。十二歳の少年が並の大人よりも図体が大きいという例は、今日でもよくあることである。
 また、戦国末期とはいえ関ヶ原以前の当時の暴力的状況を勘案すれば、荒ぶる兵法者として、この少年が、いわば特異点(singular point)として出現したとしても不思議はない。
 周知のごとく、武蔵十三歳の折の肖像画というものが、いくつか残されている。そのうちの覚書のある「元祖宮本辨之助肖像」を見るに、池田甲斐守(旗本・池田長休か)組下の西番組頭・倉橋與四郎(小石川柳町馬場住)が所持して、一向他見を免さなかったのを、池田甲斐守がむりやり借り出して写させたものらしい。同じこの像は、《湯島天神下、神道平田大学所持》とあって、平田篤胤も別に所持していたようである。江戸ではそのようにして、この「十三歳」武蔵肖像画が再三写されていたのである。
 この宮本辨之助肖像を見るに、後世少年武蔵を想像して描いたというよりも、もともと武蔵をこんな毛深い豪傑に描いた絵があって、それを少年武蔵像と錯覚して写したものであろう。じっさい、上記肖像の覚書には後人が朱書して、これは十三歳の折の肖像だというが、本当は三十八歳の時の肖像だろうと記す。何をもって三十八歳なのか不明だが。
 あるいは、同種の「宮本武蔵肖像」(宮内庁書陵部蔵)の賛には、十三歳の折の肖像だという話はなく、尾張徳川家の家老成瀬が、武蔵を呼んで仕合をさせた折、武蔵の肖像を自ら描いたのがこれだ、というわけである。成瀬隼人正がこんな画を描くわけはないし、これは画像に勿体をつけた後世の付賛である。だがとにかく、このケースでは、これは「少年武蔵」の肖像ではないのである。
 しかし、この画は人気があったと見えて、あちこちで写されたらしい。とくにこれが十三歳の武蔵の姿だということで、人気が出たものらしい。五輪書は知らずとも、武蔵が初めて決闘したのは、十三歳のときだという話が巷間流布していたからである。上記二点より後のものだが、椿椿山〔つばきちんざん〕画という一点(島田美術館蔵)もその一種であろう。
 この一連の肖像画に共通する過度な異相ぶりには、現在伝わる武蔵の肖像の中でもとくに興味深いものがある。言うならば、武蔵は強い、少年の頃からこんな毛むくじゃらの物凄い怪物じみたやつだったというところか、十九世紀の武蔵イメージを伝える作画である。
 さらにまた、十三歳という年齢にこだわってみれば、これは、童形から結髪への、いわば大人の仲間入りの、イニシエーションの年齢である。したがって、武蔵の最初の決闘が、文化人類学的に言えば一種のイニシエーション儀礼としての意味を有することを考慮しなければならないのである。
 いうならば、この決闘は成人社会への参入の関門として行なわれる戦士的殺人(warrior murder)であった可能性がある。とすれば、きわめてアルカイックな民俗的意義をこの決闘はもつと云えよう。
 したがって、現代の常識とは異なり、この武蔵の「初戦」は、当時の何らかの武家慣行を背景にしていると想定しうるのである。  Go Back










個人蔵
元祖宮本辨之助肖像

宮内庁書陵部蔵
宮本武蔵肖像
 
 (6)新當流有馬喜兵衛と云兵法者
 有馬喜兵衛という人物は不明である。武蔵が五輪書にその名を記したので、後世にその名が残った人である。右の「武稽百人一首」にも登場する。
 現在、この有馬「喜兵衛」を「きへえ」と読むのが一般的だが、「武稽百人一首」にも振り仮名するように、これは「きひょうえ」と読むのが正しい。これが慶長期のことならば、なおさら「きへえ」ではなく、「きひょうえ」である。
 周知の人名では「黒田官兵衛」がある。これは播州から出た筑前黒田家の実質的な元祖、黒田官兵衛(如水)である。官兵衛は、小寺職隆の猶子となって、「小寺」官兵衛を名のっていた。当時の漢字の読みや音韻は、切利支丹文献で傍証できる。官兵衛はキリシタン大名としても有名で、フロイス『日本史』(Luis Frois, Historia de Iapam )のような切支丹文献にその名が登場する。これによれば、官兵衛は「コデラ・カンビョウエ」(Codera Quambioye)と名を記されている。つまり「官兵衛」は当時「かんびょうえ」と読んでいたのである。
 これと同様、有馬「喜兵衛」も「きひょうえ」である。武蔵もそういう読みで、この「喜兵衛」という文字を書いたはずである。したがって、ここで世間啓蒙のために、「きへえ」では正しくない、と強調しておく必要がある。
 五輪書の武蔵によれば、有馬喜兵衛は新当流の兵法者だという。ただし、五輪書では、有馬喜兵衛について、それしか判らない。
 新当流は当時有数の流派の一つである。この新当流に有馬の名のあることからして、徳川家康に有馬神道流剣術を印可した紀州の有馬満盛の一族だ、という説もあるらしいが、むろん何の確証もない。肥後系武蔵伝記『二天記』に、
《~道流ヲ新當流ト書ク。有間大和守學之、有間流ト云フ[一本作有馬]。有間豐前守トモ云フ。聞エアル人ナリ。有間喜兵衛ハ其家族ナルヨシ。常陸國飯篠長威齋ト云者、鹿島ノ香取~ヨリ其技術ヲ受。天眞正傳ト書ス。是~道流ナリ》
とあるが、かなりの部分が間違った記事である。これに「有間喜兵衛は其家族なるよし」とあるのは、「武稽百人一首」にもある通り、巷間伝説の閾を出ない。『二天記』の十八世紀後期には、伝説風説以外に語る材料がないのも確かである。多くの武蔵評伝が『二天記』のこの記事を引用しているが、それはそろそろやめた方がよろしい。
 なおまた、現在、この初めての決闘の地を、播州佐用郡平福村(現・兵庫県佐用町平福)の河原に比定する風が支配的である。しかし、それは、大正期の地元の郡誌が拾った、近代の伝説であるにすぎない。これが播州のどこかで行われたとまでは言えたとしても、平福と場所を特定する材料はない。
 江戸期の資料なら、享保十二年(1727)の『丹治峰均筆記』に、
《十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ来リ、濱辺ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス》
として、見てきたような講談話になるのだが、ここでは矢来を組んだ決闘場を河原ではなく「浜辺」としている。場所は海浜である。ただし、
《いつあふべきも定がたく、なを浜辺々々をさがし》(武家義理物語)
のように、上方大坂語で浜辺を河岸・川端とするケースもあるが、九州の『丹治峰均筆記』に上方語を擬する理由はないから、この「浜辺」はやはり海の浜辺であろう。とすれば、この記事は播州のどこか海岸部をイメージしているもののようである。
 この伝承からすれば、同じ播州でも佐用郡平福のような山間部ではなく、さしづめ、播磨灘に面した揖東郡興浜村あたり(現・姫路市網干区)ということになろう。とすれば、場所は宮本村の近所である。
 ただし、『丹治峰均筆記』の伝説記事に立ち入るのも、程ほどにしておいた方がよい。この記事には、もとより信憑性はないので、これも不確定としておくべきであろう。   Go Back




有馬喜兵衛 武稽百人一首
「法は釈迦、武道のことは、われに
問へ。天上天下、唯我獨尊」










武蔵初決闘の地?
兵庫県佐用町平福



播磨武蔵関係地図
 
 (7)但馬國秋山と云強力の兵法者
 有馬喜兵衛という人物相手の最初の決闘に続いて、武蔵十六歳のときの決闘である。ただし、これが武蔵第二回目の勝負だったか、となると、それは確言できない。武蔵はそうは書いていないからである。
 但馬国というのは、現在の兵庫県北部の日本海に面した地域である。南部の播磨は山陽側、但馬は山陰側で、そもそも言語も民俗も異なる。いわば生国播磨の少年にとって異国であった。つまり武蔵は、十六歳で異国修行を開始していたのである。
 ――というのが、今日の武蔵伝記のスタンダードな物語であるが、実は五輪書には武蔵が但馬へ行ったとは書いていない。「但馬國秋山」とするだけである。
 「但馬國秋山」とは、但馬国の住人、秋山という意味である。但馬で決闘が行われたということではない。しかし、小倉の武蔵碑では、武蔵は但馬へ行ったことになっている。となると、これは宮本伊織が武蔵から聞いた話だろう。しかし、どうして但馬国なのか。武蔵は、だれか但馬に縁故があったのか。
 ここから以下は、従来の武蔵研究では出たためしのない話になる。
 実は、武蔵は当時の但馬に縁故があった。これは、武蔵の出身地を考えれば、容易に想像がつく。というのも、武蔵十六歳の当時、但馬竹田城主は赤松広秀(左兵衛佐広通)であり、この赤松広秀こそ、龍野赤松氏最後の城主であった。武蔵の生地・播磨国揖東郡宮本村は、龍野赤松氏の領域であり、武蔵の実父が生前、赤松広秀に属した武士だった可能性がある。
 但馬の赤松広秀の家臣団には、龍野以来の譜代の武士たちがあり、それゆえ、武蔵縁故の人々がいたことであろう。播州生れの武蔵が、但馬に結びつくのは、まさにこのような環境条件である。
 勿論、少年武蔵を但馬へ向わしめる、そうした人的ネットワークに気づいた研究者はいない。謬説に惑わされ美作のことに気を奪われて、あまりにも播磨の武蔵について無知な話ばかりだったのである。
 少年武蔵は、但馬の竹田城下に居留して、そこで兵法修行する一方で、文芸を学んだと思われる。云うならば、武蔵の知と芸術の涵養の場所は、まず、この但馬竹田城下である。
 というのも、赤松広英は、龍野以来、藤原惺窩の旧い知友であり、当時は朝鮮朱子学者・姜を支援し、日本における最新の儒学興隆に尽力していた。広秀は、但馬竹田に孔子廟を建立し、日本では長く絶えていた釋奠〔せきてん〕の儀式を復活し、祭儀を執行した。そういう新しい知的なエネルギーに満ちた環境が、当時の但馬にはあった。
 但馬は、当時細川氏の領国だった丹後に接する。そして但馬は、丹波を経て、京都へ直結した地域である。いま、和田山あたりのスーパーマーケットの駐車場には、姫路ナンバーと京都ナンバーの車が並んでいる。しかも、ほとんどその二種ばかりである。これは神戸あたりでは見かけない光景である。
 この自序の次の記事には、武蔵が上京したことを書いている。なるほど、武蔵にとって、但馬は、播磨と京都を結ぶ中継点であったのである。播磨から但馬へ、但馬から京都へ。そのプロセスこそ、武蔵を育てるものがあった。
 したがって、武蔵が但馬へ行ったとしても、それは単に旅の途中、偶然に立ち寄ったということではない。武蔵はしばらく但馬竹田城下に居留して、最先端の知と芸術の薫陶を受け、そうして、京都へ伸びる人脈を得たものと思われる。
 その意味で、武蔵にとって、但馬という土地の意義は大きい。五輪書に、「但馬國秋山」のことを書いて、それを記念したのである。十六歳の武蔵は秋山という強敵と戦って勝った。伊織の小倉碑文は《芳聲、街に満つ》と記している。その街〔ちまた〕とは、但馬の竹田城下のことであろう。
 ともあれ、この但馬国の秋山は不明な人物である。五輪書に武蔵が記した六十回以上という決闘のうち、具体的な相手の名が書き込まれているのは、この秋山と前記の有馬、この二人だけである。いづれも武蔵が少年時の決闘相手であり、その名を記す以上、武蔵にとって意義深い決闘だったのであろう。
 しかるに、武蔵伝記の中で必ず特筆される、有名な小次郎や吉岡一門の名は出て来ない。これはどういうわけだろうと、だれしも思うのではないか。しかし、こういう後世の期待を裏切るあたりが、武蔵という人物の面白いところなのである。
 ほんとうは、晩年の武蔵にとって重要なのは、そうした後世有名になった決闘よりも、有馬や秋山という相手と戦った思い出である。秋山の名は、彼が強敵だったから、武蔵は書き残したのだろうが、もう一つ、但馬という土地の懐かしい記憶に結びついているからである。   Go Back




国制諸国地図


*【小倉碑文】
《十六歳春、到但馬國、有大力量兵術人名秋山者、又決勝負、反掌之間打殺其人、芳聲満街》





但馬竹田城址
兵庫県朝来市和田山町竹田





赤松広秀関係地図






「天空の城」竹田城
 
 (8)二十一歳にして都へのぼり
 武蔵は二十一歳のとき都(京都)へ上り、天下の兵法者に出会い、何度も決闘を行なったが、勝利を得ざるという事がなかったという。
 この「天下の兵法者」というのが、吉岡であろうと見当はつくが、武蔵はどこまでも韜晦を決め込んでいるものらしい。ところが武蔵死後、養子伊織が建てた小倉碑文では、かなり詳細な話になって出ている。武蔵対吉岡の対戦記事としては最古のものだから、一応見ておく必要があろう。原文は漢文だが、以下それを読めば、
《後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ》
 話はこうだ。京都へ行って、「扶桑第一之兵術」、つまり日本一の吉岡と称する吉岡一門の嫡嗣清十郎に勝負を申入れ、洛外の蓮台野で試合をした。清十郎は武蔵の木刀の一撃で倒れた。かねて、勝負は一撃だけでそれ以上は打たない、と取り決めてあったので、清十郎の命を取るまではしなかった。門弟らは彼を戸板に乗せて去った。清十郎は治療して回復したが、もう兵術を捨て剃髪して出家した――。
 こういう話が小倉碑文の出来るまでに存在していたものらしい。ところがこの武蔵対吉岡の記事はまだ続きがある。
《而後、吉岡傳七郎、又、洛外に出、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す》
とあって、今度は吉岡伝七郎が相手。しかし、小倉碑文には、伝七郎が清十郎とどんな関係にあるのか、記事はない。伝七郎を清十郎の弟とするのは、後世の肥後系武蔵伝記にしかなく、これは肥後で発生したローカルな伝説である。
 決闘場所はこれも洛外である。場所は不明である。五尺余というから一・五m以上、長大な木刀を手にした伝七郎だが、武蔵は何とその木刀を伝七郎から奪って、彼を撲殺してしまった。「立處死」というから即死である。
 かくして武蔵は、天下の兵法者、吉岡を二人ながら倒した。ところが、小倉碑文の記事にはまだ続きがあって、例の洛外下り松の決闘の話がここに出てくる。
《吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外、下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法也》
 というわけで、吉岡清十郎、伝七郎と、二人まで倒された門生らは怨恨を抱き、「兵術の業では武蔵には勝てない。作戦を練ろう」と企んだ。吉岡又七郎は兵術にことよせて、下り松の辺りに門生数百人を結集し、さまざまな武器を使って武蔵を殺害しようとした。武蔵は日ごろ先を見越す才があったので、この不正な動きを察知して、自分の門弟に指示した。「お前たちは関係ない人間だ。すぐに退去しろ。たとえ敵が群れをなし隊をなすほど多勢でも、俺の眼から見れば、浮雲みたいなものだ。どうして恐れることがあろうか」という。結果は、猟犬が猛獣を追い廻すに似ていた。武蔵は勝ち、威を震って市内へ帰った。人はみなこれを感嘆した――という次第である。
 吉岡一門数百人、対するに武蔵は一人、この記事自体が英雄譚の典型みたいなものだが、すでに武蔵死後十回忌の承応三年(1654)という早い段階で、ここまでの説話が出来上がっていたのである。これ以後さまざま尾鰭がついて、後の武蔵伝説のハイライトとなる吉岡一門との対決潭が形成されるのである。
 小倉碑文は、武蔵に敗北して吉岡兵法家が「泯絶」したとも誌す。ところが『本朝武芸小伝』では、吉岡は又三郎という者が後を嗣いでその後も存続しているし、その又三郎が慶長十九年の禁中能楽興行のさい刃傷沙汰の騒ぎを起こし、警護の者らに殺されたという話がある。
 ということは、慶長九年に武蔵に敗れて、いったんは「泯絶」した吉岡兵法家も、この又三郎を当主にして復興されたようだが、この禁中狼藉事件で、吉岡兵法家はまたまた危殆に瀕したはず。ところが、その後も、吉岡流は存続したようである。
 貞享元年(1684)の福住道祐『吉岡伝』には、他の諸書とはまったく異なる「宮本武蔵」が登場して興味深いが、同書は染物屋吉岡の由来を語る創作物語で、如何せん、そこに登場する「宮本武蔵」は、富田勢源と宮本武蔵のハイブリッド混合体でしかない。このあたりは、[資料篇]宮本武蔵伝記集の丹治峯均筆記読解を参照のこと。  Go Back







*【小倉碑文】
《後到京師。有扶桑第一之兵術吉岡者。請決雌雄彼家之嗣清十郎。於洛外蓮臺野、爭龍虎之威。雖決勝敗、触木刄之一撃、吉岡倒臥于眼前而息絶。豫依有一撃之諾、輔弼於命根矣。彼門生等助乘板上去、藥治温湯漸而復。遂棄兵術雉髪畢》


蓮台野現況 京都市北区紫野


*【小倉碑文】
《而後、吉岡傳七郎又出洛外、決雌雄。傳七袖于五尺餘木刄來。武藏臨其機、奪彼木刄撃之。伏地立所死》


*【小倉碑文】
《吉岡門生含寃密語云。以兵術之妙非所可敵對、運籌於帷幄。而吉岡又七郎寄事於兵術、會于洛外下松邊。彼門生數百人、以兵仗弓箭忽欲害之。武藏平日有知先之歳、察非義之働、竊謂吾門生云。汝等爲傍人速退。縱怨敵成群成隊、於吾視之如浮雲。何恐之有、散衆敵也。似走狗追猛獣、震威而帰洛陽。人皆感嘆之。勇勢知謀、以一人敵万人者、實兵家之妙法也》



宮本吉岡決闘之地碑
京都市左京区一乗寺花ノ木町
ただし小倉碑文の「洛外下松」が
この地であるという根拠はない
 
 (9)六十餘度迄勝負をすといへども
 京都で天下の兵法者に勝って後、武蔵は諸国各地を遍歴し、さまざまな流派の兵法者と相遇し、六十回以上も決闘勝負を行なったのであるが、一度も負けなかった。それは十三歳より二十八、九歳までのことであった――ということである。
 この無敗の記録は、今日の武蔵評伝の中で必ず特筆される事蹟である。この五輪書の記事を読めばわかるように、この六十回以上の仕合は、十三歳より二十八、九歳までのことだというのである。つまり、これは武蔵の十代から二十代までの間のことである。
 ところが、しばしば見受けられるのは、これを死ぬまでの生涯で六十回以上の試合と勘違いした説である。晩年の試合まで、この「六十余度」に加えてしまうのである。
 しかし明らかに、武蔵自身の記述では、これは十代から二十代までの間の十五、六年間のことである。その後の試合は数のうちに入っていないと見るべきである。だとすれば、この六十余度の勝負と、その後の試合とは、何が違うのか。答えはおそらく、生命と賭した決闘勝負と、そうではない試合との相違、ということである。
 とすれば、武蔵は若い頃の十五、六年間に六十回以上も決闘したのである。これだと、年平均四回は――単なる試合ではなく――決闘勝負をやっていることになる。いくら強い遍歴修行者だとしても、これは尋常のことではない。若き武蔵は、ある意味で無茶な男だったのである。
 ふつうは、一生一回きりの決闘でも、名を後世にのこすことがある。たとえば、武蔵同時代の者では、寛永十一年伊賀越鍵屋辻決闘で有名な荒木又右衛門がそれである。それに対し武蔵は六十回以上、そういう意味では、武蔵は本当に無茶で猛烈な武芸者だった。
 ところで、この「六十回以上も決闘して負けたことがなかった」という記述について、自慢たらしく何を書いているのか、といった評言がなされてきた。しかし、これは勘違いというよりも無知なのである。
 つまり、人は謙遜するのが当たり前で、こんな自慢話は鼻持ちならないとするのは、近代の日常的センスからする道徳的判断であって、そんなものは五輪書の記述とは無縁なのである。
 この記述が、五輪書という書物の自序部分として書かれていることに注意しなければならない。ここでは礼法として、自身の名のり、自分が何者か、何をしてきたのか、それを説明しなければならないのである。
 ようするに、フーテンの寅さんが「手前、生国と発しまするは…」と言って、仁義を切るのと同じ作法なのである。こういう民俗的儀礼空間の中に五輪書自序部分がある。
 したがって、こうした武蔵の仁義の切り様を、自慢話と誤解するのは無知に等しいのである。とくに武蔵の場合、どこそこの家中の誰それ、という名のりをするような秩序内存在ではない。これは武蔵が生涯、制外者としての兵法者であり続けた痕跡とみるべきである。
 話をもどせば、単なる試合ではない命がけの決闘勝負は、上記のように二十八、九歳まで。だから、その頃それも終りにしたらしい。この年齢からして、一般に最後の決闘とされるのは、『武公伝』『二天記』など肥後系伝記に慶長十七年(1612)のことする巌流島の一件である。もとより、これを慶長十七年とするのは肥後系伝記のみで、筑前の伝記『丹治峯均筆記』には武蔵十九歳のこととする。したがって、巌流島決闘の年は不明としなければならない。この件については、本サイトに別に論議されているので、それを参照されたし。
 また、五輪書には、吉岡の名も記さないし、こちらの、後世歌舞伎や浄瑠璃にまでなった有名な巌流島決闘のことも、武蔵は何も書いていない。つまりは、舟島で巌流を打ち殺した決闘も、六十回以上も勝負して負けたことがなかったという彼の戦闘者としてのキャリアの一つにすぎないもののようである。
 前に引いた小倉碑文には、この巖流との決闘の記事もすでにあり、数多い巌流島決闘譚の中でも、まさにこれが初出記事である。
《爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ》
 話はつまり、こうだ。――岩流という兵術の達人が居た。この記事では、勝負を挑んだのは武蔵である。岩流の方は受けて立ち、「真剣で勝負をしようじゃないか」という。これに対し武蔵は「あんたは真剣を振るって妙技を尽くせ。俺は木刀で秘術を見せよう」と答えた。堅く漆約を結びとあるから、このケースでは、決闘は契約を必要としたものらしい。両者は長門と豊前の間の海中にある舟島で勝負することになった。岩流は三尺の白刄だというから、これは長い太刀である。武蔵は木刀、しかし一撃で岩流を打ち殺した。
 ふつうは木刀と真剣なら、剣の方が有利とみなされる。それは剣の方が殺傷力があるからではない。木刀は断面形状からして真剣より運動速度において劣るからだ。しかし武蔵は木刀を使う。これは武蔵の膂力が尋常ではなかったことの証左である。
 むろん、実戦では、太刀は折れたり曲がったり、目釘が弛んで柄が外れたりで、実はさして実用に耐えるものではない。実戦的実用的な武蔵には、真剣に対する思い入れはない。
 それに加えて別のことがある。すなわち、木刀を使うのは、ある意味で最もプリミティヴな武器使用である。というのも、それは切るというより、粉砕すること、必殺の頭部壊滅を狙ったものである。撲殺である。
 この撲殺は殺人の原始形態であり、いわばこの道具、殺し方に、武蔵の戦闘思想の根本が垣間見えるのである。言い換えれば、武蔵には、心法論の通俗的哲学はないし、唯剣主義のある種の美学もない。もっと暴力の根源にまでアクセスした戦闘者であった。   Go Back




九州大学蔵
吉田家本地之巻 当該箇処






















*【武公伝】
《武公、從都來[慶長十七年壬子、二十九歳]故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ…》

*【二天記】
《于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]。長岡佐渡興長主ノ第ニ至ル》

*【丹治峯均筆記】
《辨之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。巖流ハ流義之称号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ。其比、弁之助ハ津ノ國邊ニアリ。隨仕ノ輩モアリトカヤ》



*【小倉碑文】
《爰有兵術達人。名岩流、与彼求決雌雄。岩流云、以眞劔請決雌雄。武蔵對云、汝揮白刄而尽其妙、吾提木戟而顕此秘。堅結漆約。長門与豐前之際海中有嶋、謂舟嶋。兩雄同時相會。岩流手三尺白刄來、不顧命尽術。武藏以木刄之一撃殺之。電光猶遲。故俗改舟嶋、謂岩流島》



巌流島 山口県下関市
 
 (10)われ三十を越て、跡をおもひミるに
 このあたり微妙なことを武蔵は書いている。
 決闘勝負を卒業した武蔵は、三十歳を越して、おのが過去を振り返ってみる。そして思い至る。自分の兵法、戦闘術が究極に達していたので勝ったのではなかった。自然と兵法の道の働きがあって、天の原理を離れなかったせいであろうか。あるいは、対戦相手の他流の兵法に欠陥があったからだろうか、と。
 誤解なきように注意しておくが、ここで武蔵が述べているのは、自分は無敗でやって来れたが、それは自分の力のせいではない、と謙虚に謙遜して言っているのではない、ということだ。
《をのづから道の器用ありて、天理をはなれざるゆへか、又は、他流の兵法不足なる所にや》
 案外見逃されているのは、この文が問いかけの疑問文であることだ。これを問いとして、それゆえ、以後の道の探究へと話が進むのである。
 ところが、もっとわけの判らぬ誤解は、《をのづから道の器用ありて》という箇処の語釈である。これについては、「生れつき才能があって」と訳す事例が戦前からあり、戦後もおおむねそれを踏襲した語釈が主流である。
 小林秀雄はこれについて少し違った見方をしている。少し長いが、かつてこれ以上の読みは出なかったという意味で、避けて通れぬ読解なので、右に掲げる。
 先ず最初に明らかにしておかねばならないのは、小林の語釈では、「器用とは、無論、器用不器用の器用」だということだが、これが間違いである。小林の理解は、「生れつき武芸の才能があって」という当時一般の語釈を超えるものではない。ただ、この文のように、「器用」という言葉に徹底して拘ってみせたところが、小林的なのである。
 「器用」が個人的な器用不器用の器用を指すことは当時すでにあったが、ここで武蔵のいう《道の器用》とは、その意味では無論ありえない。これは道の「はたらき」「作用」という意味での器用である。
 小林はこれを、個人的な器用さのことと誤釈して、「目的を遂行したものは、自分の心ではない。自分の腕の驚くべき器用である」と颯爽と語る。しかし武蔵の文をよく見るまでもなく、これは自分の腕の器用ではなく、「道の器用」なのである。
 小林は《をのづから道の器用ありて、天理をはなれざる故か》を、粗忽にもよく読んでみなかったらしい。そこで、「器用」を現代語の器用不器用の器用と錯覚し、そのまま突っ走って右のようなユニークな読解を展開してしまったのである。
 「必要なのは、この器用といふ侮蔑された考への解放だ」――颯爽たる文章はズッこけたとき、悲惨である、という事例がこの文である。
 小林は「器用」を、高級な考えではないがと貶めておいて、それを一転、優れたものとして救抜する、という手続を示す。いわば小林には常套手段であるが、自分で勝手な種を蒔いて、それを育てて収穫するだけのことである。読者はそれが常識の転覆であるような錯覚に到って、満足を覚える――そこが小林流である。
 結局、右の小林の読解において残しうるのは――「兵法は、觀念のうちにはない。有效な行爲の中にある」という、ある意味で平凡な思考だけである。残念なことに、「行為」「遂行」という概念にまで手をかけながら、小林は手を滑らせて、その概念の豊饒さを見ていない。小林の限界である。
 と同時にそれは、従来の武蔵論の限界でもある。最高の武蔵論ですら、従来はこのありさま、それゆえにこそ、新しい地平に立脚した武蔵論の期待されるところである。
 改めて言えば、ここで武蔵のいう「器用」は、おのれの個人的器用ではなく、「道の器用」なのである。道の作用、道のはたらきである。言うまでもないが、こうした道のはたらきという思考は当時新しいものだった。
 これについて以下のことを確認しておきたい。すなわち、これは勝利を神仏の加護として合理化する中世的思考とは違った、極めて新しい近世的といえる実際的思考の出現である。修道論としての道の思想は、仏教的色彩に染め上げられて、以前からあった。しかし、武蔵のいう「道」は、明らかに朱子学を通過した以後の合理主義的な思考であり、しかも実際的である。
 三十歳を過ぎて、武蔵は諸国を遍歴することもなく、生国播磨を拠点とするようになった。そこで、姫路・龍野・明石のあたらしい領主、本多家と小笠原家に親近し、兵法指南のかたわら、三木之助、ついで伊織を養子にして、それぞれ、姫路と明石に宮本家を創設した。
 しかし、五輪書の記述によれば、武蔵はまだずっと、修行を重ねていた。それは最強の兵法者となった後の、事後の修行であり、いわば武蔵にしか分らぬ境位での修行であった。   Go Back
















*【小林秀雄の読解】
 彼は、青年期の六十餘囘の決闘を顧み、三十歳を過ぎて、次の樣に悟つたと言つてゐる。「兵法至極にして勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて、天理を離れざる故か」と。こゝに現れてゐる二つの考へ、勝つといふ事と、器用といふ事、これが武藏の思想の精髄をなしてゐるので、彼は、この二つの考へを極めて、遂に尋常の意味からは遥かに遠いものを掴んだ樣に思はれます。器用とは、無論、器用不器用の器用であり、當時だつて決して高級な言葉ではない、器用は小手先きの事であつて、物の道理は心にある。太刀は器用に使ふが、兵法の理を知らぬ。さういふ通念の馬鹿々々しさを、彼は自分の經験によつて悟つた。相手が切られたのは、まさしく自分の小手先きによつてである。目的を遂行したものは、自分の心ではない。自分の腕の驚くべき器用である。自分の心は遂にこの器用を追ふ事が出來なかつた。器用が元である。目的の遂行からものを考へないから、すべてが轉倒してしまふのだ。兵法は、觀念のうちにはない。有效な行爲の中にある。有效な行爲の理論は、あまり精妙で、これを觀念的に極める事は不可能であるから、人は器用不器用などと曖昧な事で濟してゐるだけなのである。必要なのは、この器用といふ侮蔑された考への解放だ。器用といふものに含まれた理外の理を極める事が、武藏の所謂「實の道」であつたと思ふ。(「私の人生観」昭和24年)









播磨武蔵関係地図
 
 (11)兵法の道にあふ事、我五十歳の比也
 このあたりも武蔵が書いているのは微妙なことだ。
 自分はその後、なおも深き道理を得んとして、朝に夕に鍛練してきた。そうした結果、自分が兵法の道にやっと適うようになったのは、五十歳の頃であった。それより以来は、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきた、と。
 これはいわば「事後の修行」である。武蔵は、二十代まで六十数回の決闘に敗け知らず、文字通り天下無双、最強の兵法者としての名声を獲得し、しかもすでに決闘勝負を卒業した。武蔵は兵法者としての目的を達成してしまったはずだ。
 行為はある目的のために、それを実現するために行う、というのがスタンダードな行為理解だとすれば、この事後の修行はありえないことである。では、なぜこうした事後の修行が必要なのか。実は、ここには行為と達成との間の根本的逆説がある。
 おそらくこの事後の修行は、禅家などで言う「証上の修」、つまり悟りを得た後にまだ修行をするという「修証一如」の考えに近い。仏道修行の目的は悟達である。しかし悟達してしまった後は何があるか、といえば、まだ修行があるのだった。これにはまた、悟りに執着するな、それに捉われるなという禅家一流の志向があるが、とすれば、悟りそれ自体は存在しないと「悟る」わけで、これは、トポロジカルなループを描くプロセスである。
 別の言い方をすれば、武蔵は往還二道を経由したということである。
 凡人は、「そこ」へ到達しようと、あくせく努力する。ところが、武蔵のようなその道の天才にして、往相は無自覚なもので、気がついたら、すでに天下無双たる「そこ」に居たという境位である。
 武蔵は、京都で吉岡一門を打倒し、その上、諸国を廻って相手を求めて勝ち続け、結局、自分が無敵になってしまった。しかし、なぜ、自分が勝ってしまったのか、それが分からないのである。武蔵はその天下無双たる自身に納得できない。天才ゆえの孤独である。
 しかし、武蔵は妥協しない。自分に納得がいくまで、その道理を求める。いわば「対自」な帰り道の往相があってはじめて、「これ」という何かを得る。その道の天才にして、道はリニアな単線ではなく、往還二道なのである。
 武蔵の場合、なおも深き道理を得んとする事後の修行が最終的に完了するのは、自分が兵法の道にやっと相応するようになった時である。武蔵はそれは、五十歳の頃であったという。言わば武蔵は、二十年もこの事後の修行に時間を費やしたのである。
 そこで興味深いのは、道の道理を得たあとは、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきた、というくだりであり、ここが《武蔵的》と言えば言えるところである。
 もう探究すべき道はなくなった、というのは、つまりは原理としての「道」に一体化した、同一化したという、神秘主義的なものではない。むしろ、自身の目的としてのそうした「究極」そのものを無化しえたとき、「もう探究すべき道はなくなった」と語りえるのである。
 この点武蔵は、極めて自由な地点まで行ったということである。武蔵は自由という言葉を使用している。しかしそれは少し我々の用法とは異なる。
 つまり我々の用いる「自由」という言葉は明治以来の近代的な概念だが、この言葉自体は仏教に由来し古くからあった。しかし武蔵がこの「自由」という言葉を使うとき、それは原理としての「道」に則ってはじめて得る自由なのである。
 武蔵がようやく道に適うようになったと思ったのは、五十歳の頃。明石小笠原家の豊前小倉移封にともなって、武蔵が播磨から九州へ行くのが、寛永九年(1632)、そのとき四十九歳。だから、武蔵は、三十代〜四十代のほぼ二十年間、播磨時代を通じて、事後の修行に費やしていた。武蔵が壮年期、播磨を拠点とした時期が、その事後の修行の期間と重なるのである。   Go Back






桶居山






 
 (12)万事におゐてわれに師匠なし
 有名な一文である。五輪書の中でも五指に数えられるほど従来名高いテーゼで、解説本もこぞってこれに取り組む。
 しかしこれを、武蔵の「自信」とか、それと紙一重の「不遜」とか、そういう類の解釈をすべきではない。
 しばしば引用されて、手垢がついてしまっている言葉だが、「独行道」の、
   《佛~は尊し、佛~をたのまず》
がある。この「独行道」が武蔵の自誓だというのが、肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』以来の伝説だが、これが武蔵の著述だという確証はない。しかし、他の条々は別にしても、この言葉はいかにも武蔵の言いそうなことである。
 仏や神は貴い=尊いが、自分は神仏を頼りにしないというのである。このポジションはいわば中世から近世への過渡期の思想である。少なくとも、神も仏もない残酷な現世を生きて死んだ、無数の人々の屍体から生じた思想であるにちがいない。
 では、神仏ではなく、何に依拠するのか。まさにそれが実践原理としての「道」である。
 原理を自在に駆使して運用しうる時、まさに人間は自由なのである。この原理をたとえば物理法則としたとき、西洋近代科学が誕生した。ある意味で、近世初期はそうした可能性を有した時代である。
 武蔵は実践原理=法則を研究するという事後の修行を通じて《reflexive process》のトポロジカルな道程を歩んだ。無意識にやってしまった行為を改めて考える。それはたぶん可能世界でありえたかもしれないサイエンス(科学)としての知であった。
《兵法の利に任て諸藝諸能の道となせば、万事におゐてわれに師匠なし》
 兵法の「利」にまかせて、諸々の芸能の道としてきたので、万事において私には師匠というものがない、と武蔵は言う。ここは、有名な一文であるのに、従来まったく誤読されてきた箇処である。
 それゆえ、まず、この「利」という語に拘泥してみる必要がある。この五輪書で武蔵はこの「利」という語を本書全篇にわたって多用する。しかもそれぞれの文脈にまかせて、その語義は一律ではない。多義的な語である。
 ここでの、兵法の「利」、とはいかなることか。五輪書の「利」は、なかなか現代日本語にはぴったりくる訳語がない。英語の《merit》のニュアンスに近い。利点、長所、価値、功徳等々の語義を含む。そしてまた、利益〔りやく〕(benefit)ということである。実利(utility)、効用(effect)の意味もある。
 そういうことを念頭に置いた上で、これが「兵法の利」だということに注意する必要がある。つまり、「利」のもう一つの意味は、勝利(win)ということである。すなわち、この自序の条において、前に、
《其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず》
とあったところである。つまり、《一度も其利をうしなはず》の「利」である。ここでの「利」とは、ほかならぬ、勝利のことである。それゆえ、兵法の利に任せて、というのは、文意を酌んで訳せば、兵法において勝利を得るにまかせて、という意味合いである。
 武蔵は自分が、兵法の勝ちにまかせて、諸々の芸能(武芸)の道としてきた、というわけである。これは、一人の天才が、おのづからの道を歩んで勝ち続けてしまったが、年三十を過ぎて、その道を逆にたどり直すことで、ようやく二十年後に、兵法の道に適い、自身の勝ちに納得できるようになった、ということの反面である。
 武蔵は勝ち続けたその勢いのまま、諸般の武芸を修得していった。いわば実戦のなかで学びとった。そのことを云っているのである。今になって思うと、師匠なんて一人もいなかった。ようするに、武蔵は自身が自身の師匠になるしかなかった。それゆえ、武蔵は無師独覚の人である。「万事において我に師匠なし」というのはそのことである。
 そのことに武蔵の孤独な影を見るのは、むろん近代の感傷家の心である。そうではなく、ここに天才という一種の聖痕(trauma)を負った者の屹立を見れば済むことなのだ。
 武蔵の場合、兵法の利がもたらすものとは、つまりは、道に逢うところの独覚である。明らかに、非人称の、大文字の他者として「道」が存在する。それゆえに、これに依拠する無師独覚である。
 このかぎりでは「仏法」「仏道」を大文字の他者とする禅家とそう大した懸隔はない。ただし、禅家は師資相承である。やはり先師なくして道は立たない。であれば、ここでの武蔵の「無師」のポジションは、少なくとも何らかの禅家批判をも含むのである。
 こうも言えよう。――およそ、師匠なき者には弟子なしである。武蔵は五輪書を書くことによって、まさに自身の通過した勝ちにまかせた兵法独学へと誘うのである。逆に言えば、この五輪書を書いて遺すことこそ、「我に師匠なし」という無師のポジションの勧めなのである。未知の五輪書読者との不可能な関係をまさに実現するわけである。
 なお、この《諸藝諸能の道となせば》の部分につき、問題はこの「諸藝諸能の道」の方である。というのも、この芸能を兵法にかぎらず、これを「芸道の道」として、武蔵の書画はじめ多芸のアーティストの側面を想定して解釈する者がある。つまり、兵法の「道理」を極めておれば、あとはどんな道にでも応用が利く、書画でも能楽でも応用できる、だからどんな芸能でも自分にはいない師匠はいない、というような極めてヌルい解釈である。むろん、これは誤りである。
 第一の誤りは、ここでの語が「理」ではなく、筑前系/肥後系諸本共通して「利」であることを無視している点である。当時の語例では「利」は「理」と互換性があるが、ここはあくまでも「利」である。「兵法の理」ではなく、「兵法の利」なのである。この点では、岩波版注記をはじめ、従来見かける既成の語釈はほぼ誤りである。
 そうして第二に、この五輪書が兵法教本であり、それが言う「兵法の利」である以上は、諸芸諸能の「芸能」は、武芸のことである。書画や舞踊音楽、文芸など芸術一般のことではない。
 ここでの文脈は、「兵法の勝ちにまかせて、もろもろの武芸を習得してきたので、どんな武芸種目でも自分には師匠はなかった」ということである。武芸は何でもこなした。しかし独学独習で師匠はいないとするだけである。
 この点で、既成現代語訳はすべて落第である。戦前の石田訳は、いわば超訳の部類だが、兵法の「利」とあるのを、「道理」とすり替えている。戦後の神子訳は、諸藝諸能を「さまざまな武芸」とするのは正しいが、やはり「利」を「道理」と錯誤する点、前例と同様である。しかも、そのため「それを」と挿むが、その文脈では、兵法の「利」をさまざまな武芸の道としている、という文意のようで、これは原文を逸脱した誤訳である。
 ついで大河内訳は、神子訳をそっくり頂戴して新味のない訳だが、せっかく神子訳が「武芸」としているのを無視している。また鎌田訳は、兵法の「利」について、前例のように「道理」とはせず、その訳に工夫を示しているようにみえるが、「兵法の道で得たもの」と記すところ、「利」の意味を取り違えている。もとより、諸藝諸能を「もろもろの芸道の道」とするのは、あたかも馬から落ちて落馬したという等しい。余裕がなく推敲なしで刊行してしまったもののようである。
 ついでに、このあたり、右の小林秀雄の読みをみると、解釈のレベルでは他の追随をゆるさないが、またまた的外れと言わねばならない。武蔵がたんに諸般の武芸習得において無師であったというのを、例の「器用」とのリンクで、ここまで勝手な話を展開してしまうわけだ。要するに、「芸」や「芸能」、あるいは「器用」を現代語の意味で読んで錯覚してしまう初歩的誤りであるにもせよ、こういうところ、決して武蔵の思想に通達したものではないのである。   Go Back






小倉城








個人蔵
石井家本 「兵法の利に任て」










熊本城

















*【現代語訳事例】
《兵法の道理を應用して諸藝諸能の道をやつてみると何事でも師匠につかないで立派に出来る》(石田外茂一訳)
《自分は、兵法の道理にしたがって、これをさまざまな武芸の道としているのであるから、あらゆることについて師匠はない》(神子侃訳)
《兵法の道理にしたがって、それをあらゆる芸能の道としているから、万事にわたって自分に師匠はない》(大河内昭爾訳)
《自分は兵法の道で得たものにしたがってもろもろの芸道の道としているのであるから、あらゆることについて自分には師匠はない》(鎌田茂雄訳)

*【小林秀雄】
《器用といふ觀念の擴りは目で見えるが、この觀念の深さ、樣々な異質の器用の底に隠れた關聯は、諸藝にさはる事によつて悟らねばならぬ。武藏は、出來るだけ諸藝にさはらうと努め、彼の言葉を信ずるなら「萬事に於いて、我に師匠なし」といふ處まで行つた。今日殘つてゐる彼の畫が、彼のさはつた諸藝の一端を證してゐるのは言ふ迄もないが、これは本格の一流の繪であつて、達人の餘技といふ樣な性質のものではない。技は素人だが、人柄が現れてゐて面白いといふ樣なものではない。彼は、自分の繪の器用が、自分の劍の器用に及ばぬ事を嘆いたが、餘技といふ文人畫家的な考へは、彼には少しもなかつたと思ふ。それも、器用といふものの價値概念が、彼にあつては、まるで尋常と異つてゐたからだと思ふのです》(「私の人生觀」昭和24年)
 
 (13)此一流の見立、實の心を顕す事
 これは、前記の「万事におゐて、われに師匠なし」と連続する。
 今この書物を書くとはいえ、仏法や儒道の古語を借りたりしないし、軍記軍法の古き事例をも用いない。私のこの流儀の見立て、考え、真実の心を明らかにすることだけだ、とする。――ここは五輪書記述のポジションを言明しているところなので、注意して読まれたし。
 言うまでもなく、軍記軍法の古事を用いない、話題にしないとは、この五輪書の、兵法書としての根本的異質性を示す。言わば常識的な兵学、軍学の内部には納まらないのが五輪書である。それは他の兵法書一つでも繙いてみれば、歴然としていることである。
 おそらく、その軍記軍法の古事については、武蔵には語るべきことが山ほどあっただろう。当時の武士は夜咄にも、軍記軍法の評判、合戦論議に花を咲かせていた。しかし、武蔵はあえてそれをしないと言明する。それをしないのは「あえて」である。その「あえて」のポジションが武蔵的だと言える。
 しかるに、いまだに阿呆なことを書く者が跡を絶たない。曰く、――武蔵は剣術家であって、軍学者ではない。実戦で武将大将として合戦を指揮したこともない。そんな武蔵が合戦のことを五輪書に書いているのだが、陣形戦法など具体的なことは書いていない、抽象的な議論に終始している、云々。
 ようするに、こういうことをシタリ顔で書く者は、五輪書に軍学者流の教説を期待しているようだが、おのれの蒙昧をさらしているのに気がつかない。いわば、五輪書に何が書いてあるか解らない、と自分で宣伝しているようなものである。
 この点、看過できない妄説が再生産されているのが現状なので、以下に若干注意を喚起しておく。
 五輪書に「一分の兵法」というのが出てくる。これは一分〔いちぶん〕というのだから、一人で相手と戦うときのことである。しかしこの戦いの場所はどこかといえば、それは戦場なのである。合戦の場である。武蔵は五輪書で、「一分」の兵法について述べるときでも、戦場以外の場を想定していない。
 五輪書は一般向けの兵法教本だから、「一分」の兵法といっても、兵法者の決闘勝負や、不時の喧嘩ではないのである。まして況んや道場試合ではない。武士の働きどころは戦場である。合戦の現場を離れて「一分」の兵法もない。しかるに、そんなことさえ解らずに、五輪書をたんなる剣術指南書だと錯覚して解説を書く愚か者がいる。
 「一分」の兵法に対し、「大分(多分)」の兵法は、集団戦である。もちろん、これは合戦の最中の多人数同士の戦闘である。ただし武蔵の五輪書のユニークなところは、「一分」の兵法と「大分(多分)」の兵法が無差異化してトポロジカルに連接していることだ。その肝腎な道理を理解できない者が、上記のようなことを言うのである。
 しかし、たとえば軍事学の古典『孫子』のどこに、後世の兵書軍書のような陣形戦法など具体的な解説があるか。また孫子その人はどこで、大将として合戦を指揮していたというのか。むろん、そうでないにもかかわらず、『孫子』は今日いまだに戦争論の聖書なのである。上記のようなことを言う者は、だれでも知っている『孫子』の中身さえ知らないのである。
 大将として合戦を指揮する者でなくとも、武蔵当時の武士は、事あるごとに軍記軍法の古事について、陣形がどうの、戦法がどうのと論評していたものだ。それは、今日の我々がスポーツ試合の結果について、微に入り細に入り評論したがるのと同様である。それはしかし床屋談義というものである。
 武蔵はその種の合戦論には、我関せず、である。では、五輪書における合戦論のポジションはどういうものであったか。――それはどうみても、士卒の背後から采配を振るようなスタンスではない。
 戦場における武将の心得としてしばしば言われてきたのは、将たるもの、士卒に先立って働くべきで、士卒の背後から采配をふり廻すごときは、だれも勇将とは呼ばない。士卒の者どもの背後に控えて、采配を振っているようでは、武将はつとまらぬ。一軍の先頭に立って真っ先に敵陣へ突撃するのが武将というものだ。大将たる人の勇を借りて、士卒はようやく続くものなり、という話がある。
 武蔵が五輪書で「大分(多分)の兵法」として教えているのは、士卒の背後に隠れて采配を振るような安閑とした話ではない。むしろ自ら率先して戦う、実戦現場でのリーダーとしての心得である。五輪書における合戦論は、あくまでも戦場の現場に即したものである。
 同じようなことだが、細川忠興(三斎 1563〜1646)が軍事の話にはいつも、「平生も軍法も替る事なし」と言っていたという。そして、――軍法の八陣の図などといい、今、軍法者といって伝授するのは、それは異国の沙汰であって、本朝(日本)の戦争では無駄なことだ。ただ大将は、敵の様子を考えて備えを立て、その場の分別こそが第一に重要なのだ。おれなどは、先手二つの備を旗本にして、後備三段と決めて、敵が遠い時は広く備え、敵が近い時は円く備えるだけで、その無二の態勢で討入れば、勝利を得るのだ。大将が心弱くしては勝つ利を失う。士卒ともに、敵よりも大将を信用しなければ、人数(軍勢)を使うことはできない、と。
 ようするに、信長秀吉の時代から、関ヶ原、大坂陣まで、何度も合戦を経験した細川忠興にしてこうである。おれなどは、馬鹿の一つ覚えのような陣形一つで、それを広げたり丸めたりするだけだったが、こうして勝ち残っている。合戦における大将に必要なのは、臨機応変のその場の判断力と、そして勇気だ。それが士卒を動かす。軍法の八陣の図などといって、さも特別な理論ありげに売り込む軍法者流は、何の役にも立たない。それは異国のやりかたかもしれないが、少なくとも日本人のやることではない。細川家の言い伝えでは、忠興はこんなことを語ったというわけである。
 武蔵が繰り返し言うのは、兵法の「智恵」「智力」ということである。これは、「知識」の有無とは無関係である。いわば実践的な臨機応変の対応力であるが、動態的なその場の状況に対応するだけではなく、そういう状況変化そのものを生み出すこと。それは道理に「強く」なければできない。つまりは、そういう意味での「智恵」「智力」である。言い換えれば、武蔵の教えは、知識としての兵学軍学ではなく、もっと根本的な、戦闘者の思想というべきものである。
 また言えば、剣術勝負ならいざ知らず、本来、多人数で戦う合戦に「専門家」など存在しない。それは、今日、政治経済に専門家が存在しないのと同じことである。何れも「評論家」はいても、実は専門家などいないのである。
 武蔵が、軍記軍法の古き事例など話題にしないというのは、士卒軍勢の背後にいて采配を振り廻しているような軍学者流の議論を嫌ったのである。言うまでもなく、軍学者流は理論精密らしくみせているが、机上の空論である。
 むしろ武蔵の教えは、「大分(多分)」の兵法というより、「大分(多分)一分」の兵法とするところに、その特異性があった。リアルな戦場において戦闘者個々人が何をわきまえ知るべきかを教える。そこには武将も士卒もない。武蔵の教えのその場所は、個人としての武士が戦場でいかに戦うか、ということである。その具体的な個(concrete individual)の位相に立脚するというスタンスが類例のないものであった。
 しかるに、武蔵は剣術は知っていても合戦を知らない、一度も大将として合戦を指揮したこともない、だから武蔵は合戦を語る資格がない、などという阿呆な評論が、いまだに反復されている。これなど、まさに見当違いのタワ言にすぎない。無知と言うべし。林羅山でさえ軍事論を書いている。羅山は武蔵の知友だが、大将どころか、京都の町人出の儒者であった。
 他方、大将として合戦を指揮した経験がある者は、自分が関与した合戦しか知らない。それもたまたま勝ち残っただけである。しかも、自分がなぜ勝てたか、それを具体的に分析して語りえた者はいない。そんな書物があるなら是非拝見したいところだが、むろんそんなものはこの世には存在しない。
 ようするに、リアルな戦場には専門家など存在しない。戦場は毎度状況条件が新しく、歴戦の経験など役に立たない。過去の経験に固執すれば必ず失敗する。それが実戦の現場である。戦争におよそ縁のない現代の日本社会に生きる諸君にも、この事実は他所事にあらず、何がしか実感として、おおよそ首肯しうるところであろう。
 もとより武蔵は愚鈍な豪傑にあらず、リアルな戦場には専門家など存在しない、歴戦の経験知など通用しない、戦場はつねに新しいという戦争の本質を、十分に知り盡している者である。そして、その上で、戦場において個々人が最低限何をわきまえ知っておくべきか、実戦における基本的な教えを述べている。五輪書に書いていないことで、真実重要なことは他に何もないのである。

 ところで、ここにもう一つ、見落とせない記述がある。武蔵は、仏法や儒道の古語を借用しはしないという。
 もしこうなると、当時これは極めて難しい作業である。なぜなら日本語の隅々にまで、仏教儒教の言葉が滲透していたからだ。これを漢意として斥け、古語を再構成した国学の発生はまだ先の後世のことである。
 しかし、こうした言挙げが出現したのは、まさに武蔵の一文をもって嚆矢としなければならない。ここでも我々は、武蔵の垣間見た、仏教でもない儒教でもない、思想の可能世界に思い至るのである。
 これについて、小林秀雄は右掲のような見解を示している。《傳統を全く否定し去つて、立派な思想建築が出來上るわけはない。併し、彼の性急な天才は、事を敢行して了つたのである》などは、例によってカッコよすぎる小林秀雄節であるし、他にもやや的外れなところもあるが、基本的に同意しうる内容であろう。また、このあたりが、小林の読解の、凡百の武蔵論と違うところである。武蔵資料として引いてみたわけである。
 それにしても、武蔵はやはり、「天道と觀世音を鏡として」と書くのである。しかし、これを純粋な儒教仏教的理念対象としてみるべきではない。また、自分の見解言説は、天道と観音が保証人だということでもない。やはり「鏡」なのである。自身の道が真実かどうか、この鏡の反射像としてしてのみ見えるということだ。実体はないのである。それが、
《空を道とし、道を空と見る所也》(空之巻)
ということである。
 禅家は、神秀と慧能の偈の対位法をはじめとして、鏡と塵の比喩で多くを語ってきた。ならば、禅思想の文脈でこれを読めないこともないが、それは武蔵の本意ではあるまい。むしろ、この鏡は「鑑」字だとすれば、「天鑑私無し」という切支丹文献に見えるテーゼにも通じてしまうのである。言い換えれば、「天道と觀世音を鏡として」の意味は、当時通有の思想からすれば、要するに、「無私」ということにほかならない。とすれば、諸宗教を横断する意味合いでこの一節は読まれなければならない。それが、武蔵云うところの、「佛法儒道の古語をもからず」というポジションであろう。
 なるほど、この「天道」は、当時最新思想としての儒学的な「天」の意味ではなく、むしろ民間に流布した天道思想のそれでであろう。つまり「おテントウさま」という語に今なお残る意味の「天道」である。したがって儒教的というよりも民俗的観念なのである。
 もうひとつの「観世音」もまた、民間信仰習俗のなかで見るべきもので、武蔵が籠った岩戸山の観音信仰と対照してみるべきである。観音信仰は古来現世的であり、近世とくに観音霊場ブームとして盛況を迎えることになるのだが、武蔵の語りのポジションは、仏教的というより、世俗的民衆的である。
 ようするに武蔵は、禅であれ朱子学であれ、若年の頃から親しんで、骨髄に徹した素養としてあったが、この晩年に至り、当時最新の思想の言葉で語るのではなく、むしろ大衆的な民間信仰の方へシフトしたポジションで語ろうとしている。それが、仏法や儒道の古語を借用することはしないという彼の言挙げであった。
 なぜ、ことさら、そうなのか。その答えは明らかであろう。五輪書は奥義秘伝の書ではない。まさに万人向けの兵法教本なのである。初心者にも読ませる教本である。初学者なら少年である。そういう子供まで読者に想定したのが、このように、漢文ではなく、わざと和文で書かれたこの兵法教本なのである。   Go Back





故宮博物院蔵
宋版史記(明代 1534年)






京都大学 清家文庫蔵
重文 三略抄







武経七書 孫子






*【細川忠興】
《忠興公常に軍の御物語に、平生も軍法も替る事なし。(中略)軍法の八陣の圖などゝ云、今、軍法者と云て傳授するは、其ハ異國の沙汰ニて、本朝の戰ニせん無事也。たゞ大将ハ、敵の躰を考へ備を立て、其場の分別爲専要。我等ハ先手二の備を旗本にして、後備三段と極め、敵遠き時ハ廣く備へ、近きハ圓く備へ、無二の格ニて討入バ、勝利を得る也。大将心弱してハ利を失ふ物也。士卒共ニ敵より大将を思はざれバ、人数ハつかはれぬ物也、と被仰候由、老人語申候》(忠利公御年譜 有馬記)








増補武経七書直解







山梨県立図書館蔵
甲陽軍鑑










東大総合図書館蔵
朱子語類 明代 林羅山朱点校訂


*【小林秀雄】
《武藏は、自分の實地經験から得た思想の新しさ正しさについて、非常な自負を持つてゐたに相違なく、彼は、これを「佛法儒道の古語をもからず、軍記軍法の古きを用ひず」語らうとした。これは無論、當時としては異常な事だつたし、又、嚴密に言へば、不可能な事でもあつた。兩方とも「五輪書」が證明してゐます。傳統を全く否定し去つて、立派な思想建築が出來上るわけはない。併し、彼の性急な天才は、事を敢行して了つたのである。だから、「五輪書」は、作者が言ひたかつた事を、充分に云ひ得た書であるかどうか疑問だが、言はばその思想の動機そのものは、まことに的確な表現を得てゐる。さういふ文章になつてゐる樣に思はれる。それでよい。それが武藏といふ人物であつた、といふ意味では、思想の動機即ち彼の思想であつた、と言へるでせう。これは極めて獨創的なものであつて、無論、二天一流を相傳した剣術使ひ達とは何の關係もないものであります》(「私の人生觀」昭和二十四年)


千手観音立像 唐招提寺
国宝 千手観音立像
平安期 唐招提寺蔵

 
 (14)十月十日の夜、寅の一天に
 先に冒頭、武蔵は、寛永二十年(1643)十月上旬の頃、九州肥後の地にある岩戸山に登って、天を拜し、観音を礼拝し、仏前に向った、と記していたのである
 武蔵が住んでいたのが、熊本城東の千葉城址(武公伝)あるいは近郊の村(丹治峯均筆記)だとすれば、そこからこの岩戸山へやってきて、禊祓の水浴などして、天を拜し観音を礼拝し仏前に向った、ということであろう。
 しかしながら、十月上旬の頃というその日の岩戸山は、すでに述べたように、著述成就祈願のための登山である。そうして五輪書を書き始めたのは、それから数日後、この箇処に記す十月十日である。
 十月十日という日は、偶然その日になったということではなく、これは五月五日や七月七日と同じく十二節供の日である。武蔵は、本書を起稿するにあたって、わざわざ節供の日を選んだのである。これも武蔵研究史において従来注意されてこなかったことである。
 かくして、この記事により、五輪書執筆開始は、日時まで特定しうるものとなった。つまり、寛永二十年(1643)十月十日夜の寅の刻である。執筆開始をこれだけ精密に特定できるケースは珍しい。
 ところで、問題は「寅の一天」と諸本にあるところである。これが従来の五輪書読みには読めなかった語句であり、なかなかの難所であった。というのも、これは修辞的に「一天」としたもので、武蔵の詩的語法について行けず、置き去りにされた恰好のものばかりであった。
 まずだれでも言えるのは、この「寅の一天」が「寅の一点」という時刻を指しているらしいことである。ただし、その「一点」という語は、梵語の十二母音の第一、阿字のことでもあり、物事の始まりを意味する。つまり、五輪書の執筆開始と、この「一点」という語は修辞的に重なる。
 武蔵はここで、その「一点」という語の連想で言語遊戯をしている。というのも、「一点」という語が召喚する阿字には、たとえば阿字観、つまり一切の存在の不生不滅という空観、そこから当時の兵法ではとくに、阿字の利剣ということもあって、「一点」にはそういう連想を生むところがある。
 この「一天」は、また月のことであり、この十月十日の夜、十日夜〔とおかんや〕といって、月見をする民俗もあった。あるいは阿字観には、それにともなう月輪観という観法があって、そこでも「月」の連想が発生する。「寒流帯月澄如鏡」という詩句もある。武蔵は、そういうもろもろの意味の多重性を弄して、「一天」と書いたらしい。
 つまりは、日/月の「二天」のうちの一天、月である。「二天」を号した武蔵が「一天」と書く、その書字の快楽というものに感応できなければ、五輪書を読んだことにはならない。
 さて、時刻の「寅の一点」である。――明治までは日本人の生活時間は不定不等時、現在のように一日を等分した定時法ではなく、季節の日の出・日歿の時間の違いで時間は伸縮した。旧暦十月なら初冬で、夜が長かったから、同じ寅の刻でも、標準の午前四、五時よりも少し後へずれる。「寅の一点」だとすれば、一点は一刻(二時間)の四分一の、最初の意味である。つまり、旧暦同日肥後なら、初冬のことゆえ、時間が後へずれて午前四時よりすこし前、ということになるわけだ。
 この点につき、岩波版注記は「寅の一てん 午前四時三十分」と記しているが、何を根拠としてこの時間に特定したのか不明である。
 この「寅の刻」に関連して言えば、武蔵は徹夜して起きていたようである。前述のようにこの「十日夜」はいわば収穫祭の月見の夜であり、その流れで徹夜して起きていたのであろう。「十日夜」の月の沈むころ、丑の刻であり、月を見送った人々は寝床につくが、武蔵は寝ずにそのまま起きていた。
 そして、《十月十日の夜、寅の一天に》とあるのは、夜明けということではなく、あくまでも「夜」だということに注意したい。つまり古い日本の一日は、夜明けとともに始まるのであって、この寅の刻はまだ「夜」である。
 したがって武蔵の執筆開始は、十月十日の夜明け前ではなく、十月十日の夜である。これは現在の日取りでは、翌「十一日」の午前四時前になる。厳密に西暦太陽暦に置き直して言えば、一六四三年十一月二十二日の午前四時前、これが執筆開始の時点である。
 ちなみに言えば、異本には、丸岡家本のようにこれを「朝」〔アシタ〕と記すものがある。これは字句の改竄である。寅の刻だから暁だと、後知恵で解釈して、訂正してしまったのである。この「訂正」で、丸岡家本が実は書写を重ねた後の新しい写本だということが知れるのである。
 ようするに、ここで注意すべきポイントは、「十日」の夜明け前だと誤解すると、一日違う、ということだ。武蔵は「十月十日の夜」と書いているのである。この点、誤解している五輪書解説本があるので、注意しておきたい。
 さて、以上のように「寅の一天」を「寅の刻の一点」と、あえて不風流に解いたのだが、むろんこれは「一天」が「一点」の誤りだというわけではない。「一点」を「一天」として詩的に変換して表現してあるということだ。とくに、「十日夜」の月こそが、その「一天」である。ただし、西の空に沈んでしまった「十日夜」の月。その空〔くう〕なる不在の一天、時刻はもう寅の刻である。
 寅の一天。――この多義的で豊穣な背景のある武蔵の詩的語法は、これまで読み取られたためしがない。むしろ逆に、読み損なう者さえあるという始末である。世の中には、何でも字義通りにしか読めない硬頭の愚者がいて、「一天」は「一点」の誤りだとするのである。
 この点、諸本のうち細川家本のみ、「寅の一てん」と仮名で記している。これも、「一天」という文字に不審を覚えた書写者の書き換えである。丸岡家本の「朝」と似た仕儀で、明らかに後知恵による改変である。これが他の写本にはなく、細川家本のみに発生した表記であるところから、細川家本が後発的な写本だということを示す特徴の一端である。
 武蔵は、だれにでも読めるように、漢文ではなく和語で五輪書を書いたが、必ずしも何でも仮名で書いたわけではない。筑前系を含む諸本を照合すれば知れることだが、武蔵のオリジナルは、「一天」と漢字で書いたのである。
 さて、申すまでもなく、「寅の刻」には宗教的に特別な意味がある。つまり、夢告・顕現など瑞祥神秘体験が寅の刻にあるだけではなく、古来祭儀の開始や、参籠修行日々の始めは寅の刻という習慣であった。少なくとも寅の刻は、聖なる時間である。そこで、武蔵もわざわざ、寅という時刻を記しているのである。
 つまり、十月十日という特別な夜の、寅の刻という特別な時間を記しているところをみれば、これがある種の宗教的儀礼にかかわるところの、時間の選びである。言い換えれば、武蔵は生涯最初の兵法書の執筆開始にあたり、この特別な日時を選び、その成就祈願の願文として、この自序を書き下ろしたのである。
――――――――――――
 ところで、肥後の伝説を鵜呑みにすれば、五輪書執筆の場所は霊巌洞となるが、この五輪書の部分を見るかぎり、霊巌洞で書き始めたとも、書いたとも記していない。
 おそらく、執筆の場所は、――思い切り平凡な場面だが――熊本の居宅であろう。あるいは、そうでなければ、翌年の発病時点の事情から知れるように、熊本近郊の村にあった別荘であろう。小説などで、武蔵が霊巌洞で五輪書を執筆しているシーンがあるが、あれは話を面白くするためのフィクションである。この五輪書自序には、霊巌洞で書くと述べている部分はどこにもないのである。

 さて、この自序部分に関して、ひとつ言っておかねばならぬことがありそうだ。それは、この自序が本文と文体が違うという理由で、この自序部分を武蔵が書いたのではなく、後世の仮託とする説が、一部に流通していることである。
 これは我々の看過しえぬ謬説の一つであるが、まさに文体を語りながら、実は文章というものを知らぬ者の戯言である。すなわち、序文は本文と同じ文体でなければならない、という自身の前提の錯誤に気づいていないのである。
 歴史的に見れば、序文が本文と同じ文体になったのは、ごく最近のことである。それまでは、明治期でさえ、序文は本文と違い、おおむね改まった簡潔な文体で書いたものである。ときには、本文が和文なのに序文は漢文、という例もある。ようするに、序文と本文の文体が異なるのが普通であって、本文と文体が同じ序文という事例の方が稀なのである。
 およそ、こういう初歩的な知識さえない論者が、文体の差異をさも意味ありげに指摘するが、五輪書のような断片集となると、本文中にも文体のブレがあるという事実については、杜撰なことに、まったく気づかぬものらしい。
 この点につき、我々の分析からする所見を述べれば、五輪書の本文と序文には、別人のものとするほどの根本的な文体の相違はない。多少文章が書ける者なら、異なる文体で作文は可能である。まして、このケースでは、採択すべきほどの有意な差異(significant differences)は存在しない。
 言うまでもなく、この序文の内容を読めば、およそ武蔵の門弟ら余人に書けるようなものではない。それは明らかである。曰く、《其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。それより以來は、尋入べき道なくして光陰をおくる。兵法の利に任て、諸藝諸能の道となせバ、万事におゐて、われに師匠なし。今此書を作るといへども、佛法儒道の古語をもからず、軍記軍法のふるき事をも用ひず》云々。こんなことが書けるのは、武蔵本人以外にあろうはずがない。
 したがって、現存五輪書において、本文/序文の文体の差異を論じるのは無意味な所為である。それゆえ、あろうはずのない文体の差異を論じて、何事か憶測を得たがる者があるとすれば、それはそもそも前提の錯誤があるのだから、まったく的外れでしかないと断じてよいのである。

 さらに付け加えれば、この五巻の書については、その内容分析から、五巻をはじめから順に書き下ろしたとはみえない。原稿は切紙断簡のかたちで書かれてあったと思われる。武蔵は書き足し、削りして、以前にはなかったかたちの兵法書を作成していったのである。
 この寛永二十年(1643)十月から約一年半後、武蔵は死ぬ。しかも、武蔵が不治の病に倒れるのは、これより一年も経たぬうちである。武蔵が岩戸山に登って祈願したのは、すでにその時、死の予感があったからであろう。武蔵は死期の近いのを感じて、本書執筆に取りかかった。
 したがって五輪書とは、厳密な語の意味で、武蔵の「遺書」であり、また前述のように、まさしく武蔵が墓碑としてデザインした書物なのである。
 ただし、武蔵は五輪書を「完成」して死んだのではない。上述のように、執筆開始後まもなく武蔵は病に倒れ、本書を未完成のまま残して死んだのである。これから多くの箇処で確認するように、本書は未完の書とみるべきである。未定稿として遺された原稿を、門弟の寺尾孫之丞が編集し、武蔵の企画の通り、五巻本にして、門人にこれを伝授したのである。
 そのオリジナルは早期に失われたらしい。したがって、現代の我々のもとには、後世伝写された写本しか存在しない。しかもそれぞれに校異を有する不完全な写本しかない。こういう状況を承知の上で、これから五輪書の世界に入って行くことにするのである。   Go Back



熊本武蔵関係地




阿字観


月輪観







十二時刻図



*【吉田家本】
《十月十日の夜、寅の一天に、筆をとつて書始るもの也》
*【渡辺家本】
《十月十日の夜、寅の一天に、筆をとつて書初る物也》
*【石井家本】
《十月十日の夜、寅の一天に、筆をとつて書初る物也》
*【楠家本】
《十月十日の夜、寅の一天に、筆をとつて書始る者也》
*【細川家本】
《十月十日の夜、寅の一てんに、筆をとツて書初るもの也》
*【丸岡家本】
《十月十日の、寅の一天に、筆を採て書始る者也》




「十日夜」の月










霊巌洞内部

*【霊巌洞で五輪書を書く武蔵?】
 灯がまたたいている。武蔵はしばらくその灯を眺めてから、また筆に墨をふくませた。静かだった。窟の中の空気は硬く冷えているが、その静けさは、武蔵に母親の腹の中にいるような平安をもたらし、加えてすでに俗世と別れて来たという思いを誘う。たどりつくべき場所にたどりついたからだ、と思われた。たどりついたその先に、死が待っている気がしたが、それもあまり気にならなかった。それはひとつづきの平安にすぎないと思われて来る。
 六十余度まで勝負すといえども、一度もその利を失なわず、そのほど年十三から二十八、九までのことなり。三十を越えて跡を思いみるに……。
 武蔵は書きついだ。灯芯がじじと鳴ったが、もう顔を上げなかった。寒ざむと灯がゆらめくと、壁に映る武蔵の影も、躍るように動いた。(藤沢周平「二天の窟」昭和五十六年)
[註記] こういう感傷的で、ベタつくような湿った文体は、通俗作家の得意とするところである。だが――あるいは、それゆえにこそ――、霊巌洞に敷き詰められた乾いた砂のような文体の、武蔵小説を我々は待望している。




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