(8)二十一歳にして都へのぼり
武蔵は二十一歳のとき都(京都)へ上り、天下の兵法者に出会い、何度も決闘を行なったが、勝利を得ざるという事がなかったという。
この「天下の兵法者」というのが、吉岡であろうと見当はつくが、武蔵はどこまでも韜晦を決め込んでいるものらしい。ところが武蔵死後、養子伊織が建てた小倉碑文では、かなり詳細な話になって出ている。武蔵対吉岡の対戦記事としては最古のものだから、一応見ておく必要があろう。原文は漢文だが、以下それを読めば、
《後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ》
話はこうだ。京都へ行って、「扶桑第一之兵術」、つまり日本一の吉岡と称する吉岡一門の嫡嗣清十郎に勝負を申入れ、洛外の蓮台野で試合をした。清十郎は武蔵の木刀の一撃で倒れた。かねて、勝負は一撃だけでそれ以上は打たない、と取り決めてあったので、清十郎の命を取るまではしなかった。門弟らは彼を戸板に乗せて去った。清十郎は治療して回復したが、もう兵術を捨て剃髪して出家した――。
こういう話が小倉碑文の出来るまでに存在していたものらしい。ところがこの武蔵対吉岡の記事はまだ続きがある。
《而後、吉岡傳七郎、又、洛外に出、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す》
とあって、今度は吉岡伝七郎が相手。しかし、小倉碑文には、伝七郎が清十郎とどんな関係にあるのか、記事はない。伝七郎を清十郎の弟とするのは、後世の肥後系武蔵伝記にしかなく、これは肥後で発生したローカルな伝説である。
決闘場所はこれも洛外である。場所は不明である。五尺余というから一・五m以上、長大な木刀を手にした伝七郎だが、武蔵は何とその木刀を伝七郎から奪って、彼を撲殺してしまった。「立處死」というから即死である。
かくして武蔵は、天下の兵法者、吉岡を二人ながら倒した。ところが、小倉碑文の記事にはまだ続きがあって、例の洛外下り松の決闘の話がここに出てくる。
《吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外、下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法也》
というわけで、吉岡清十郎、伝七郎と、二人まで倒された門生らは怨恨を抱き、「兵術の業では武蔵には勝てない。作戦を練ろう」と企んだ。吉岡又七郎は兵術にことよせて、下り松の辺りに門生数百人を結集し、さまざまな武器を使って武蔵を殺害しようとした。武蔵は日ごろ先を見越す才があったので、この不正な動きを察知して、自分の門弟に指示した。「お前たちは関係ない人間だ。すぐに退去しろ。たとえ敵が群れをなし隊をなすほど多勢でも、俺の眼から見れば、浮雲みたいなものだ。どうして恐れることがあろうか」という。結果は、猟犬が猛獣を追い廻すに似ていた。武蔵は勝ち、威を震って市内へ帰った。人はみなこれを感嘆した――という次第である。
吉岡一門数百人、対するに武蔵は一人、この記事自体が英雄譚の典型みたいなものだが、すでに武蔵死後十回忌の承応三年(1654)という早い段階で、ここまでの説話が出来上がっていたのである。これ以後さまざま尾鰭がついて、後の武蔵伝説のハイライトとなる吉岡一門との対決潭が形成されるのである。
小倉碑文は、武蔵に敗北して吉岡兵法家が「泯絶」したとも誌す。ところが『本朝武芸小伝』では、吉岡は又三郎という者が後を嗣いでその後も存続しているし、その又三郎が慶長十九年の禁中能楽興行のさい刃傷沙汰の騒ぎを起こし、警護の者らに殺されたという話がある。
ということは、慶長九年に武蔵に敗れて、いったんは「泯絶」した吉岡兵法家も、この又三郎を当主にして復興されたようだが、この禁中狼藉事件で、吉岡兵法家はまたまた危殆に瀕したはず。ところが、その後も、吉岡流は存続したようである。
貞享元年(1684)の福住道祐『吉岡伝』には、他の諸書とはまったく異なる「宮本武蔵」が登場して興味深いが、同書は染物屋吉岡の由来を語る創作物語で、如何せん、そこに登場する「宮本武蔵」は、富田勢源と宮本武蔵のハイブリッド混合体でしかない。このあたりは、[資料篇]宮本武蔵伝記集の丹治峯均筆記読解を参照のこと。
Go Back
|
*【小倉碑文】 《後到京師。有扶桑第一之兵術吉岡者。請決雌雄彼家之嗣清十郎。於洛外蓮臺野、爭龍虎之威。雖決勝敗、触木刄之一撃、吉岡倒臥于眼前而息絶。豫依有一撃之諾、輔弼於命根矣。彼門生等助乘板上去、藥治温湯漸而復。遂棄兵術雉髪畢》

蓮台野現況 京都市北区紫野
*【小倉碑文】 《而後、吉岡傳七郎又出洛外、決雌雄。傳七袖于五尺餘木刄來。武藏臨其機、奪彼木刄撃之。伏地立所死》
*【小倉碑文】 《吉岡門生含寃密語云。以兵術之妙非所可敵對、運籌於帷幄。而吉岡又七郎寄事於兵術、會于洛外下松邊。彼門生數百人、以兵仗弓箭忽欲害之。武藏平日有知先之歳、察非義之働、竊謂吾門生云。汝等爲傍人速退。縱怨敵成群成隊、於吾視之如浮雲。何恐之有、散衆敵也。似走狗追猛獣、震威而帰洛陽。人皆感嘆之。勇勢知謀、以一人敵万人者、實兵家之妙法也》

宮本吉岡決闘之地碑 京都市左京区一乗寺花ノ木町 ただし小倉碑文の「洛外下松」が この地であるという根拠はない
|