実は従来の武蔵研究には問題があって、この殉死事件については、いわばあやしげな説しか語られていなかった。とりわけ、この事件の舞台である肝腎の本多家中の資料は死角とも言うべきところで、近年ではだれもそれを再検分した者がいないという始末であった。何ごとも検証もされないまま、孫引き・曾孫引きばかりでこの一件が語られてきたのである。
本多家系譜には家中のものも含めて多数存在するが、これは言わば正史なので、忠刻の事蹟記事において、その死去に際し殉死者があったことは記さない。しかし、野史のみこれを記すかというと、必ずしもそうではない。たとえば、代々家老を勤めた中根家文書のような本多家中の史料にその記事がある。それゆえ、ここで、そうした本多家中の史料には、この件がいかに記録されているか、それを再検証してみる。
以下に挙げるのは、いづれも十八世紀前期の文書もしくはその写しである。十七世紀後期の天和年間、本多家は忠国の代に二度目の姫路城主となって復帰するが、忠国が死去すると、越後村上へ移封された。これらの文書には、その十八世紀初期の宝永年間あたりまでの記録があるから、一応、そのあたりの記録と見てよい。
興味深いのは、これら諸文書の記事が、殉死事件に関する野史をも取り込んでいることである。その時期からすると、元禄後期の姫路の町において存在していた伝説を取り込んだものであろう。もう一点注意したいのは、そのように時期にさして隔たりのない文書であるが、それら記事には相違があることだ。そこに、この事件に関する伝説の、いわば発生状態の姿がある。それに注目して、以下に見ておくことにする。まず、「本多要櫃記」によれば、
《中務太輔忠刻公、生國上総。奉仕秀忠君。御入輿之時、於播州、新知賜拾万石。寛永三年五月七日、播州姫路之於城卒シ給リ。三拾壱歳。御法名、圓泰院殿前鳳閣黄山宗(異本「崇」「蒼」)雄大居士。同国書写山ニ葬、廟ヲ建ツ。家人伊原伊木左衛門、宮本三木之助、両人殉死ス。三木之助家来、宮田覚兵衛、同死ス。廟前ニ右三人之廟有リ》
というわけで、忠刻が死んで書写山に葬って、廟(墓)を建てた。そして、その「家人」伊原伊木左衛門と宮本三木之助の二人が殉死し、さらに、三木之助の家来である宮田覚兵衛が同死した。忠刻の廟前にこの三人の墓があるということである。
三木之助の家来である宮田覚兵衛のことは、後世の不慥かな伝説以外にはわからない。忠刻に殉死する主人三木之助を介錯して、追腹を切ったのであろう。したがって、宮田は忠刻に殉死したというよりも、三木之助に殉死したのである。
また、三木之助とともに名が挙がっているのは、「井原伊木左衛門」という者である。これは、分限帳にみえる伊原市左衛門のことか。すると三木之助と同じく七百石取りである。二人とも忠刻の寵愛をうけた者であろう。
本多家廟所古図 忠国の廟はまだないので忠国代の絵図か 忠刻の墓の背後に宮本三木之助ら殉死者の墓の記載あり
さて「本多要櫃記」の記事は比較的古いかたちをのこすものである。そこでは、上記のように、ごく簡潔に殉死の事蹟のみが述べられている。では、これより後の史料であれば、どう記述しているか。原本が十八世紀初期の著述と思われる「本多家系」の忠刻条の記事をみると、やはりこの殉死の一件が書かれている。
この系譜をみると、殉死者の二人の名は、伊原伊木左衛門と宮本右兵衛である。つまり、ここでは三木之助と記さず、「右兵衛」なのである。そのように三木之助が右兵衛と名のったという傍証は、前後の史料にはまだ見当たらない。したがって、これは何とも言えないのだが、宮本「右兵衛」と書いた本多家中の史料もある、ということに注意を喚起しておく。
興味深いのは、「本多家系」によれば、宮本「右兵衛」は、忠刻病死のころ、故あって家を離れ、蟄居して隠棲していた、とあるところである。これは「御家」と記さず、「家」と記すから、本多家を致仕して、ということではなく、宮本家を離れて蟄居していたということらしい。記事をそのまま読めば、親の武蔵との間に何か問題があったかのような話である。
そうして、宮本「右兵衛」は、忠刻死去の報を聞いて、(姫路へ)立ち帰り殉死したというのである。後のものほど話の尾ひれがつくものだが、十八世紀初期には本多家中では、そういうことになっていたらしい。
この話が、三木之助ではなく「右兵衛」と記す文書が初出だということがポイントである。要するに、右兵衛は故あって姫路を離れて蟄居していたが、主君死去を知って、姫路へ帰り追腹を切ったというのは、話としては面白いが、だれか別人の説話素と混雑した可能性もある。
ところで、この「本多家系」には、殉死の日と殉死者の行年を記す。それが、五月十三日。忠刻死去の初七日である。行年は井原が二十一歳、宮本が二十三歳、そして宮本の家来・宮田「角」兵衛が三十一歳である。これらの記事は、後出の宮本家の記録と一致する。おそらく墓誌を見たものであろう。
おもしろいのは、これが「本多家系」、主家・本多家の系譜であるにもかかわらず、ここではそのほかに、この殉死者二人の辞世まで記録するようになっていることである。主人の忠刻に辞世があったともなかったとも書かないのに、である。この文書は、本多家が二度目の姫路城主時代に書かれたものであり、前回の本多家城主時代をめぐる姫路の野史を取り込んだらしい。
その辞世にしても、伊原の《二世までとおもいしことのかないきて、きみもろともにゆくぞうれしき》や、宮本の《おもわずも、雲井のよそにへだゝりし、ゑにしあればや、ともにゆくみち》は、追腹を切った殉死者のものとして大かた妥当なものだが、宮本の第二歌、《龍田山峯の嵐に誘れて谷の紅葉も今ぞちりけり》となると、これは首をかしげる人もあろう
それも当然で、いうまでもないことだが、殉死の時は五月、季節は夏である。にもかかわらず、この歌は、「嵐ふく三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」という能因法師流の秋の紅葉である。季節があわないのである。しかも、本歌の「龍田」は「川」であって「山」ではない。
このあたり、いささか杜撰なところがあり、巷間伝説が生産した辞世の馬脚があらわれている。本多家が姫路を留守にしていた、かれこれ半世紀の間に、当地播州姫路では、三木之助らの殉死事件について、あれこれ伝説の開花があったようである。
もうひとつ、ここで挙げておく第三の史料は、前者よりやや後の、本多家が姫路から越後村上へ移封されたあたりのもので、系図や諸記録をまとめて編集した「本多家覚書」である。写本は誤記脱字もあってあまり善本とは言えないが、これにも殉死の一件を記録するから、見落とすわけにはいかない。
この文書の記事も大かたは前掲「本多家系」と同じである。しかしいくつか注意すべき記事もある。
ひとつは、伊原伊木左衛門を、伊原「牛之助」と記すところである。この「牛之助」が伊原伊木左衛門の初名であったか否か、確かめようはない。ただ、後の文書に出る「岩原牛之助」などの異名の原型になった名の初出がこれである。
三木之助についても、「本多家系」では、《有故離家、蟄居而隠》とあったところ、本書では、故あって浪人、と記す。宮本家を離れて蟄居、というのが、こんどは(本多家を去って)浪人、というわけだから、話がより進んでいるのである。
もうひとつは、前掲「本多家系」では、行年記事が現れていたが、ここではさらに法名を記す。三木之助の諒傳安志門などがそれである。後のものほど咄が詳しくなるようである。
しかし、もっとも興味深い増加記事は、なんと、三木之助の家来・宮田「角」兵衛にも辞世の句があったとするところである。
前にも「本多家系」について述べたように、これは本多家系譜中の忠刻の記事である。系譜には、忠刻について、秀忠の長女(千姫)を嫁にしたという以外にさしたる記事がない。にもかかわらず、この殉死事件を欠かさず記すばかりか、後のものになると、殉死者の辞世を記録するようになった。そのあげくが、三木之助の家来・宮田角兵衛の辞世まで収録するようになったのである。
ところで、この覚書では宮田の辞世は、「死タムナ、アラ死タムナ、サリトテハ、思ハ深臣ノナサケニ」とあって、「臣」は「君」の誤写であろう。この「死タムナ」は、「死にとむな」、死にとうない、ということである。ようするに、この歌は、死にたくない、死にたくない、けれども、思えば、深い主君の情けがあった、それに報いるには、やはり死ななければ…という戯れ歌である。
そのように一種の戯れ歌なのだが、本多家中には、実は宮田のこの辞世の「本歌」とでも云うべきものがあったようである。江戸後期の旗本で、勘定奉行などを勤めた根岸肥前守鎮衛(1737〜1815)の『耳袋』によれば、「梶金平辞世の事」(巻之五)に類似の歌がある。梶金平は、家康から本多忠勝に附属された武将である。その子孫は、代々「梶金平」を襲名して本多家中に家老として存続した。
その『耳袋』によれば、梶金平の辞世は、《死にともな、あら死にともな、死にともな、御恩に成し君を思へば》というものであった。
この辞世について、編著者の根岸鎮衛は、いささかも他人の批判や賞美をも顧ざる所が面白い、と記している。勇猛な武士は死ぬのを屁とも思わないのが当然、という通念があったとすれば、豪気無骨の豪傑・梶金平が、「死にたくない、死にたくない」と繰り返す、そこがおもしろい、というわけである。
しかし、この歌をよく見れば、御恩になった君を思えば、死にたくない、といっているわけで、云うならば、「恩を蒙った君に先立って死ぬのは残念だ、死にたくない」というのが、梶金平の辞世の句である。だから、たんに「死にたくない」といっているわけではない。
旗本の根岸鎮衛の聞書に、この辞世を拾っているところを見ると、これは本多家中のみならず、世間では有名な辞世だったらしい。そうしてみると、梶金平の辞世を本歌取りした、上記の宮田角兵衛の歌とされるようなものも発生するわけである。
ところが、おもしろいことに、同じ「死にとむな」の歌であっても、宮田のものは意味が逆転している。こちらは、まずは、「死にたくない」のである。しかし、「さりながら」である。死にたくないが、深い主君の情けを思えば、それに報いるには、やはり死ななければ…というわけである。
しかし、殉死に極まる武士道の本音、真情はこういうものだったと、安易に断じることはできない。それは個人心理を読みたがる近代人の感想である。むしろ、興味深いのは、ここには殉死に対するクリティシズムがあることだ。当時、赤穂浪人の義挙以来、忠臣への崇敬が世間では大きくなっていた。すでに稀になった殉死に対する賛美の聲も、むしろ世間では大きい。しかし、そんな世間の風潮に対する批判がここにある。
これを殉死者・宮田覚兵衛に帰したとすると、これは中々手だれの揶揄である。むろんそんなスタンスは、忠義を重んじるのが建前の武家の世界では発起しにくい。おそらく、姫路の町人社会の間から発生した揶揄の戯れ歌であろう。本多家中に「本歌」というべき梶金平の「死にとむな」の辞世が言い伝えられていたのだから、これは梶金平の「本歌」を知った上での、明らかな揶揄である。
したがって、殉死の辞世なら他にもいくらもありそうなのに、かなり訳ありのこうした戯れ歌が、本多家家老・中根家の文書に収録されているのが、興味深いところなのである。この覚書の筆者は、姫路の野史にあったこの宮田角兵衛作という辞世を、これは面白いと思って、捨てずに拾って収録したのである。これは一種の民俗学的スタンスであって、おそらく筆者は柔軟な思想のできるそれなりの知識人であろうし、それゆえこれを自家秘録として残したのである。
さて、以上一通り、本多家中の史料を見たので、ここで、この殉死事件に関する記事の相違を整理しておく。
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三木之助墓基壇 「平八供 宮本三木之助」の刻字

本多要櫃記

本多家廟所殉死者墓 左手前が三木之助、右が宮田覚兵衛
*【本多家系】 《○同十三日、家臣伊原伊木左衛門殉死。二十一歳。其言云、「人間萬事一日夢」。又、「今ぞとも誘ふにつるゝ杜鵑」。又、「二世までとおもいしことのかないきて、きみもろともにゆくぞうれしき」
○宮本右兵衛、二十三歳。有故離家、蟄居而隠處、聞忠刻卒去之旨、立歸殉死。其言云、「おもわずも、雲井のよそにへだゝりし、ゑにしあればや、ともにゆくみち」。又、「龍田山峯の嵐に誘れて谷の紅葉モ今ぞちりけり」。同宮本家人宮田角兵衛、右兵衛介錯而自殺。歳三十一》

姫路城下絵図
*【本多家覚書】 《同月十三日、忠刻家臣殉死。伊原牛之助、二十一。法名右覚道心門。○「人間萬事一日夢」○「今ゾ友サソフニツル丶時鳥」。「二世マデト思シ事ノ叶来テ、君モロ共ニ行ゾウレシキ」
宮本三木之助、故有浪人、卒去聞、立帰殉死。二十三。諒傳安志門。○「ヲモハズモ、雲井ノヨソニヘダ々リテ、ヱニシアレバヤ、供ニ行道」○「龍田山、峯ノ嵐ニサソハレテ、谷ノ紅葉モ今ゾチリケリ」。 宮本家人宮田角兵衛、爲介錯、自害。三十一。爲臣鑑道彼門。○「死タムナ、アラ死タムナ、サリトテハ、思ハ深臣(君?)ノナサケニ」》
*【耳袋】 《御當家御旗本の豪傑と呼ばれ、神君の御代、戦場にて數度武公を顯したる梶金平、死せる時、辭世の歌とて、人の咄けるが、豪氣無骨の人物、忠臣の心を詠じたるにハ、聊人の批判賞美をも顧ざる所、面白けれバ爰に記しぬ。
死にともな、あら死にともな、死にともな 御恩に成し君を思へば 》(巻之五)

本多家廟所 三木之助主従墓 左が宮田覚兵衛、右が三木之助
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