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宮本武蔵 サイト篇 Real and/or Virtual Sites Guide |
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揖東郡宮本村 赤松村 ■ 姫路城下 米田村 明石城下 平福村 作州宮本村 サイト篇 目次
| 現地徹底ガイド | 龍 野 城 下 1 （兵庫県たつの市） | Back Next |
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ここで案内する龍野は、姫路の西にある小さな町（現・兵庫県たつの市）。戦災で焼かれなかったので、古い町並みが残っていて、かつての近世城下町の名残がある。 ここへ鉄道で行く場合は、姫路を起点にすれば、JR姫新〔きしん〕線で、「本龍野」で下りる。車で行く場合は、山陽道で行くと「龍野」ICがあるので、そこで下りる。とくに細かい道案内は不要であるだろう。
武蔵と龍野の話題になると、武蔵関連諸本に採りあげられる例が多いので、ここはどうしても、まず、武蔵が龍野で、東軍流の三宅軍兵衛（もしくは軍太夫）と対戦したという伝説に言及しなければならない。 |
 龍野周辺案内図 |
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*【東軍流系譜】
○東軍僧正─川崎鑰之助─川崎五郎┐ ┌───────────────┘ └川崎太郎（太輔）―川崎次郎太夫宗勝┐ ┌─────────────────┘ ├川崎左左衛門壱重勝…丹波篠山藩 ├高木甚左衛門正則 虚斎 ├井沢源太左衛門良益 井沢流 ├小宅源太夫┬坂口八郎右衛門 東軍無敵流 │ ├田上三郎右衛門…今中源介流 │ └安食与五左衛門…対馬東軍流 ├落合杖友┬奥村権衛門勝清 奥村東軍流 │ 真流 ├金田源五郎定永 金田流達刀術 │ └丹波杢左衛門高直…豊後岡藩 ├藤井庄太夫 …対馬新刀流 ├酒巻図書 坂巻流 東軍直指流 ├不破修理─佐治栄軒…会津藩 ├秋山次郎兵衛─新井彦左衛門…三河吉田藩 └勢宮常之丞─板野九六 板野派
*【撃劔叢談】
《元東軍流は、表三十三本有りて、三十三天を表はせり。是は手足ならしと、志の浅深を試みんためとに習はせしと也。夫れより「切」と名付けて段々有り。無明切は今表とす。次に一尺八寸、五寸、微塵と伝ふ、構も上段、中段、下段、派によりて相違有る也。上段の「半体半眼の構」は、古へより勝負太刀に用ゐしとぞ。左の方を敵に見せ打つ所を、身を替はりて打ちひしぐ也。昔は身の替はりを第一とせしとなり。中段に至りては敵に構はず、速かに勝負するを主とす。以心伝心、水月、石火、或は無勝無負、無始無終、非強非弱、非無非有の理を説きて、口伝を先んずる流も有る也。近来河越侯に（松平大和守殿）此の術を以て仕を求めし蛭川彦九郎も上手成る由。又江戸に浅井幽斎と云ふ此流の師も頗る名高し。前に見へたる富田勢源と仕合せし梅津と云ひし者も、東軍流にて有りしなども云ふ也》（巻四） |
後述することだが、あらかじめ言っておけば、これを姫路での対戦と錯覚しているガイドブックが多い。ところが、これは播州龍野の城主「本多甲斐守政朝」の家中とあるように、この対戦の舞台はあくまでも政朝が城主時代の龍野である。 この「三宅軍兵衛」という名を見ると、これは実在の人物で、本多家中の人である。代々「三宅軍兵衛」を襲名している。また「三宅」は播磨にある氏姓であるから、この三宅軍兵衛は、地元の人間で、播磨に赴任してきた本多家に抱えられた者かもしれぬ。 東軍流というのは、川崎鑰之助が叡山の東軍僧正という神秘的な人物を開祖として創始した流派。しかし川崎鑰之助自身は数流派を複修して東軍流を称さず、ところが世人は彼を「東軍者」と呼んだ、という。しかもまた、鑰之助は東軍僧正から術を授かったが、自ら「東軍権僧正」と称し、東軍流を創始したともいうから、わけがわからない。 しかし、実質的な開祖は東軍流中興の祖、鑰之助四世孫の川崎次郎太夫宗勝であろう。彼に二十四人の門人があり、ここから繁栄する門流となったようである。有名どころでは、宗勝の弟子に虚斎高木甚左衛門正則がいて、徳川家に仕えて四千七百石。虚斎は元禄五年歿、八十七歳であるから、武蔵よりかなり世代が下である。そもそも川崎次郎太夫は寛文十一年（1671）歿というから、武蔵と同世代、というか武蔵より下の世代であろう。 ちなみに、赤穂義士の大石内蔵助良雄は、川崎次郎太夫からすると孫弟子の、奥村権左衛門重旧（奥村東軍流）の弟子である。元禄のころには、東軍流はかなり勢力をもっていたらしい。 さて、この東軍流の使い手がどんな剣術であったか。『撃劔叢談』によれば、東軍流では昔から上段の「半体半眼の構」を勝負太刀に用いたという。左の方を敵に見せて敵が打ち込んでくるところを、身をかわして打ちひしぐ。昔は、身のかわりを第一としたそうである。ただし、中段となると、敵に構わず、速かに勝負するを主とした、ということである。 ところで、この東軍流の三宅軍兵衛との対戦は、播磨伝来の武蔵伝説ではなく、尾張に伝承された円明流の周辺で伝えられて残った逸話である。三宅軍兵衛との対戦も、尾張円明流伝説のひとつである。 現在どの武蔵評伝でも書きたがるほど、この逸話を有名にしたのは、山田次朗吉の『日本劔道史』（大正十五年）であるから、むしろ、これに拠って話の内容を確認しておきたい。 |
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《元和の頃に、播州龍野の城主・本多甲斐守政朝の家臣、三宅軍兵衛ほか三名が、武蔵が当地にやって来たのを幸い、武蔵の居宅を訪れて、仕合を試みた。軍兵衛は、東軍流を極めた達人で、しかもたびたび戦場の実戦を経験してきた者である。 三宅軍兵衛が木太刀をとると、武蔵は二刀で円極の構（二刀を併せ組む形）で鼻先へ突きつけてくる。それを軍兵衛は、機を量って拜み打ちに打下ろす。すると武蔵は、組んだ二刀を分けて相手の攻撃を外し、また組合せて一足退く。ふたたび軍兵衛が打ちかかると、また二刀を分けて外し、一足退いて二刀を組み合わす。 そのとき、ちょうど戸口を背にして、もうそれ以上下がるべき余地がないところまでくる。ここだ、と軍兵衛は、三太刀目は取り込んで突きを入れようと、木刀を中取りにして、韋駄天の如く突きかける。そこを、すばやく、武蔵は「危ない」と掛け声して、左の小太刀で軍兵衛の頬を突いた。 鮮血が迸って、自分の直進の勢いにかえって身を傷つけられたのに、軍兵衛が閉口したのを、武蔵は微笑して、「まず、血を拭え」と控えて居る。残りの連れの者も、このさまを見て、武蔵が悠容迫らざるに、一同に歎服して、何れも門人となったという》。 ところで、この三宅軍兵衛戦があったと仮定しての話だが、これがいつごろ行われたか、について、若干言っておくべきことがある。 本多政朝が五万石で龍野城主であったのは、元和三年（1617）～寛永三年（1626）の間、その次が、小笠原忠政の甥・小笠原長次で六万石、 寛永三年（1626）～寛永九年（1632）である。本多政朝は、姫路城主本多忠政の二男、父の死後、寛永八年（1631）から姫路城主。政朝は寛永十五年（1638）に没し、その跡を従兄弟の本多政勝に家督相続せしめている。政朝嫡子の政長がまだ幼少であったからである。 政朝は、元和元年（1615）、叔父忠朝が大坂夏の陣で戦死しその嫡子政勝がまだ幼少だったので、忠朝の遺領五万石を与えられ、祖父忠勝以来の居城、大多喜城（千葉県夷隅郡大多喜町）に住した。元和三年（1617）、父忠政の播州転封とともに龍野城主となった。 池田輝政の時代は龍野藩はまだ存在せず、龍野城は枝城で代官をおいた。龍野城は山城で、鶏籠山（城山）の山頂にあったが、これを廃して、山麓に城を築いたのは本多政朝入部後ということらしい。ともあれ、山麓の城砦の方が現在の龍野城跡である。 政朝は九年ほど龍野城主であったが、寛永三年（1626）兄忠刻が死亡すると、嗣子となり、同年龍野から姫路城へ移り、旧知五万石はそのままで、領地を変更、忠刻旧領のうち五万石を領した。寛永八年（1631）、忠政が没すると遺領十五万石を相続し、姫路城主となった。 こうしてみると、武蔵と三宅軍兵衛との対戦は、元和の頃というから本多政朝が龍野城主であった時期である。政朝が龍野城主であった時期は、元和三年（1617）から寛永三年（1626）までの間に限られる。しかも姫路城主になるのは寛永八年以後である。 この話は、武蔵が姫路の本多忠政や明石の小笠原忠政との関係で、播州に居た時期に相当するので、「元和の頃」「播州龍野の城主」「本多甲斐守政朝」という三つの条件は整合性があって話が合う。 ちなみに云えば、武蔵に負けて現代に名を残したこの三宅軍兵衛、実在の人かと疑われる向きもあろうが、その後も子孫は本多家家臣として、「三宅軍兵衛」を襲名して存続している。本多家は政朝死後姫路を去り、大和郡山、奥州福島へ移封され、忠国の代に再び姫路へ還ってくるが、そうした転変にもかかわらず、三宅軍兵衛の家も主家に従って姫路へ戻っている。三宅軍兵衛の屋敷は姫路城の東のゾーン、下岐阜町にあった。 ともあれ、武蔵と三宅軍兵衛との対戦に話を戻せば、「元和の頃」「播州龍野の城主」「本多甲斐守政朝」という三条件からして、これは龍野での逸話である。武蔵評伝の類を見るに、この一件を姫路のことと誤解する例が多い。記事には、龍野城主本多政朝とあって、姫路城主とはしないのであるから、「当地」とあるのは、どうみても龍野である。姫路を舞台にするのは、後述の『尾参宝鑑』の「三宅軍太夫」の記事である。これは明治の書物で、むろん伝説変形がある訛伝、したがって、対三宅軍兵衛戦を姫路でのイベントとするガイドブックはどれも間違いである。この点、注意しておきたい。 もう一つは、この三宅軍兵衛戦を武蔵の決闘の数の中へ入れるがごとき誤解を招く書き方をしている評伝もある。武蔵が二十八～九歳までに六十回以上も試合をして負けたことがなかった、という無敗記録の中へこれを入れかねない記述ぶりである。 しかしこれは明らかに間違いである。上記の如く、この三宅軍兵衛の話は、元和年間、しかも元和三年以後（1617～1623）の間に限られる。つまり武蔵が三十四歳から四十歳までの間のことである。したがって、三十歳を過ぎて武蔵は、二十代までのような決闘勝負は卒業しているのだから、これは六十数回という決闘には入らないのである。 このことは、『海上物語』に語られる対無想権之助戦も同じである。これは明石時代というから、やはり元和三年（1617）以後のことである。いくら武蔵の決闘譚の材料がないとは言え、武蔵が決闘をやめた後の逸話をもって、「武蔵の全試合」とか名づけて話題にすることは間違いである。 いずれにしても、三宅軍兵衛との試合などは、ゲームなのである。命を賭けた決闘ではない。要するにお手並み拝見という程度の話である。武蔵がどれほど強いか、試してみたいという者に対し、武蔵が剣術のレベルを垣間見せたということである。 |
*【日本劔道史】
《元和の頃に播州龍野の城主本多甲斐守政朝の家中、三宅軍兵衛、外三名が武藏が當地に漫遊し來るを幸ひ、其居宅を訪れて試合を試みた。軍兵衛は東軍流の得意、且つ屡々戦塲を往來して心得ある者。木太刀を執れば、武藏も同じく二刀を執り、互に角と角とに退り、武藏圓極の構にて鼻先へ突き付くるを、機を量つて拜み打ちに打下ろす。武藏二刀を分けて敵刄を外づし、組合せて一足退く。二度び打かくれば復た二刀を分けて外づし、一足さがつて組合す。丁度戸口を負つてはや下がるべき餘地がない。爰なりと軍兵衛は三太刀目は取込んで突きを入れようと、木刀を中取にして韋駄天の如く突かくるを、此時疾し、武藏は危ないと掛聲して、左の小太刀で軍兵衛の頬を突いた。鮮血迸りて我直進の勢に却て身を傷られたに閉口したを、武藏は微笑して先づ血を拭へと控へて居た。殘りの者も此状を見て、一同に武藏が悠容迫らざるに歎服して何れも門人となつたといふ》
*【本多家略系図】 ○本多忠勝┬忠政┬忠刻 ｜ ｜ ｜ ├政朝―政長＝忠国→ ｜ ｜ ｜ └忠義―忠平 ｜ └忠朝─政勝─政利  鶏籠山 兵庫県たつの市    龍野城址 兵庫県たつの市 |
 野見宿禰神社 たつの市 龍野公園 |
もうひとつ別の話もあって、三宅が言うには、自分は生涯を通じて恐ろしいと思ったことが二度ある。これは逆に言えば、生涯を通じて恐ろしいと思ったことが二度しかない、ということである。豪胆な人であったのだろう。そのひとつは、大坂陳のおり両軍がじっと対峙しているその刹那ぞっとするような恐怖があった。もう一回は武蔵との試合のときである。武蔵は手並みを見せるだけの試合だが、そういう恐怖を与えるほどの何かがあったということである。 こうした逸話は、本人が書き残したものでないから、尾張に伝承された円明流の周辺で伝えられて残った伝説である。その信憑性については括弧に入れておいた方がよい。 書く材料に困って、手当たり次第何でも取り込んで、武蔵の像を捏造するというのは、小説家以外は、ルール違反である。こういう話も伝説としてある、という程度に留めておくべきである。 また、三宅軍兵衛は実在の実物で、本多家中の人だが、ただし、こういう伝説が本多家中にあったか、となると、それはあやしい。実際、後に見るように、龍野円明流の伝書には、この三宅軍兵衛を門人とする記事はないからである。 |
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ところで、この三宅軍兵衛戦のことにもう少しこだわってみれば、『尾参宝鑑』（小菅廉・伊東孝之助・笠原久保編 明治三十年）の話は上掲『日本劔道史』とはかなり内容が違う。舞台は本多忠政の姫路城下で、三宅は姫路藩士である。だいいち名前が違って、こちらは三宅は三宅でも「軍太夫」である。 しかし元和とも何とも言わないので時期は不明。しかも《宮本武藏又は無三四とも云ひ、豊前の人》とする如く、俗説が混入していて、わけがわからないし、話の内容は、『日本劔道史』の三宅軍兵衛との対戦の話と比較すると、かなり大幅な変形を蒙っている。 本多家はもともと三河岡崎が本地であり、諸国各地を転々したのちに、江戸中期に本多家は岡崎に戻るが、そちらには武蔵流の伝系が明治まで存続した。したがって、これは名古屋・岡崎といった尾参地方で育った伝説、それも新しいもののようである。 さて『尾参宝鑑』は武蔵に関する複数の逸話を収録しているが、それによれば、「三宅軍太夫」の話はこうである。 |
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岡崎の本多侯は播磨国姫路十五万石の領主となった。その本多家は徳川第一の武芸をもって誇る。忠勝の子忠政の時、宮本武蔵が姫路にやってきて剣術道場を開き、標札を掲げてそこに記したのは、「日本第一剣術之達人宮本武蔵」。姫路藩士はこれを聞き、怒って言った。 「四天王第一位に居る本多家の城下にやって来て、日本第一の達人と標札して道場を開くとは、無礼の極まりだ。あいつを攻撃して放逐すべし」と。あるいは「殺すべし」という声が囂々という状態。 本多忠政は、これを聞いて、「宮本が真に日本一の達人ならば、我が家臣にしよう。もしそうでなければ、試合して恥辱を与えて放逐するがよい」という。そこで、姫路藩士第一の剣客、三宅軍太夫を遣わして、武蔵の武芸を試験させることになった。 三宅は名刺を通し、武蔵に面会を求めた。武蔵は三宅を客間にあげて、待たせること一時間余。――明治の本だから「半刻」ではなく一時間なのである。 待たされる三宅は思った、自分は藩の物頭、大切な客のはずである。しかるに、武蔵は流浪の士なのに容易に面会しない、これは無礼ではないかと。 それからさらに、待つこと一時間。まだ武蔵は面会しない。三宅はまた思う、あいつはおれの名刺を見て、畏怖して面会を避けているらしいと。そうして武蔵はなおまだ面会せず、ついに五時間余りたって、三宅がひそかに武蔵の室をのぞくと、武蔵は碁を囲んで、悠々たるもの。三宅はとうとう頭にきて、大声で仕童を呼んで、面会を催足した。 三宅の怒気が充満したらしいとみて、武蔵は威容を正して出て来た。長い時間待たせたのを謝って、三宅の来意を問う。三宅は、そこで武芸の試合を申込んだ。武蔵笑って、「そういうことでしたら早く面会しましたのに。客と碁を囲んで閑つぶしをしておりました。まず庭へおいでなされ。それで、あなたの用具は、刀か木刀か、来賓のあなたの希望に任せましょう」という。 三宅はますます腹が立った。とはいえ、武蔵と試合してみろという主命であるから、武蔵の技がどれほどか試みるのみである。決して殺意はない。どうして刀を用いようか、というわけで、庭中の竹を裁って木刀代わりにした。武蔵は木刀を揮って庭で試合した。 軍太夫、敵する能わず――勝負は、軍太夫はまったく敵わなかった。『尾参宝鑑』の記事はそれだけ。『日本劔道史』のように、円極の構えでどうしたこうしたという話は一切なし。その代わりに前後の話が盛りたくさんなのである。 三宅は頭を下げて、武蔵の大言壮語、「日本第一」の号を自称するのも、当然だとして、帰って主君本多忠政に報告した。 忠政は武蔵を召して、おれの家臣になれというが、武蔵はそれを断って、「私には志望あり、藩士となる意志はない」と云った。結局、忠政は武蔵に二百石を給して、藩士の子弟を教授させた。――このあたり、姫路での武蔵の養子・三木之助の話題は知らないらしい。尾張三河の伝説だから、これはしかたがない。 藩の子弟が武蔵の門にあふれ、その技を学んだ。そのため東軍流の名がすたれ、武蔵の流派・円明流を藩の武芸とするようになってしまった。武蔵は姫路に在ること二年、弟子たちは大いに進歩した。――むろん、本多家中では「円明流」という名はない。これは尾張における円明流の状況からの類推であろう。本多家中では武蔵→石川主税の系統が存続して、「武蔵流」という。 『尾参宝鑑』のストーリーにもどれば、宮本武蔵が姫路を去るとき、三宅軍太夫は部下の足軽を率いて、松原で武蔵を迎え撃つ。――これは、どうやら、武蔵のおかげで東軍流が潰されたのを恨んでのことだと、『尾参宝鑑』はしたいらしい。ここでは、三宅は一貫して相当阿呆扱いである。 三宅はしかも、刀鎗ではなく鉄砲を持ち出したのである。武蔵を包囲しまさに撃とうとするそのとき、武蔵は深々と頭を下げて謝った。そこで、三宅は兵を率いて去ろうとする。すると、武蔵は扇を開き、一首の歌を書いて、軍太夫に授けていう、「家に帰ってから開け。これが私の謝状だ」と。三宅が扇を開くと、そこには、 世の中に弓鉄砲のなかりせば、吾兵法に誰か勝つべき （世の中に弓矢鉄砲がなければ、おれの剣術に勝てる者は だれもいない） とあったので、三宅は腹を立てて、「おれを侮辱しやがった」というが、また同時に賞賛もする、「おれは武弁一本やりだ。この武蔵の能書や文学技能は、武芸に比べると、まったくかなわない」と、かえって一層敬服した、云々。 ――こういうほとんど苦笑ものの通俗的な締め括りで、『尾参宝鑑』の「三宅軍太夫」の話は終るが、「世の中に弓鉄砲のなかりせば、吾兵法に誰か勝つべき」なる歌は、とくに大笑いである。 この説話の傾向からして、話者のポジションでは、姫路は三河由来の本多忠勝の子・忠政支配下の土地、武蔵は「豊前の人」で、播州にとって異人というわけで、武蔵は本多忠政の姫路城下に二年ほどしかいなかったことになる。 本多忠政が武蔵を家臣にしようとしたが、武蔵はそれを辞退したという話は、『尾参宝鑑』では名古屋でも繰り返される。 武蔵が尾張名古屋に来る。藩主徳川光友が武蔵の武芸を見た。光友は驚いていう、「宮本はほとんど神に入る」――神業だと。光友は武蔵を召抱えようとしたが、武蔵は辞退して曰く、「自分には宿望があり、藩士にはなれません」と。そこで、藩士の教授を依頼した。名古屋に止まること三年、弟子は上達した。 これも伝説であり、話半分にした方がよい。なぜなら、光友が藩主になるのは慶安三年（1650）、武蔵死後のことだからである。 |
 本多忠勝像 愛知県岡崎市 岡崎公園
*【尾参宝鑑】 《岡崎本多侯、十五萬石を以て播摩國姫路を領す。本多家は徳川第一の武藝を以て誇る。忠勝の子忠政の時、宮本姫路に至り、劍術道場を開き、標札を掲げて曰く、日本第一劔術之達人宮本武藏と。姫路藩士之を聞き怒て曰く、四天王第一位に居る本多家の城下に來り、日本第一の達人と標札して道場を開く、無禮の極、彼輩を攻撃して放逐すべし。或は云ふ、殺すべしと、囂々たり。忠政之を聞て曰、宮本眞に日本一の達人たらば我之を臣とせん。若然らざれば、試合して以て耻辱を與へ放逐すべしと。於是姫路藩士第一の劍客三宅軍太夫を遣して其藝を試しむ。 三宅刺を通して面會を乞ふ。宮本之を客席に請じて俟たしむる事、一時間餘、三宅自ら想ふ、吾は藩の物頭にして上賓たり。然るに流浪の士にして容易に面會せず、無禮なりと。猶俟つ事一時間、未だ面會せず。又思ふ、彼吾名刺を見て畏怖し面会を避るならんと。俟つ事一時【ママ】、猶未だ面せず。積て五時間餘、猶面せず。窃に其室を伺ふに、武藏碁を圍て悠々たり。三宅、心に十二分の怒を含み、大聲、童を呼て面會を催促す。其怒気の充るを圖り、宮本威容正しく出て來り、久しく俟たしめしを謝し、來意を問ふ。三宅武藝の試合を申込めり。武藏笑て曰く、來意斯の如くならば早く面すべかりしに、客と碁を圍て閑時を消せり。先づ庭上に來れ、而して其用具、刀か木刀か、來賓の希望に任すと。三宅益怒ると云へども、主命なれば、其技の如何を試みるのみ、決して殺意なし。何ぞ刀を用ひんと。庭中の竹を截て木刀に換ふ。武藏木刀を揮て庭上に試合す。軍太夫、敵する能わず、稽首して、其大言壯語、日本第一の号を自稱する、至當として、歸り藩主忠政に啓す。忠政、武藏を召して臣事せよと。武藏辞して云、吾志望あり、藩士となるの意なし。遂に二百石を給して、藩士の子弟を敎授せしむ。子弟門に充ち其技を學ぶ。故に東軍流の名を失し、武藏の流派圓明流を以て藩の武藝とするに至る。武藏は姫路に在る二年、弟子大に進む。 宮本武藏姫路を去るに當り、三宅軍太夫部下の足輕を率ひ松原に要撃し、鉄砲を用ひ圍み、將に撃んとす。武藏頓首稽桑して謝す。三宅兵を靡き過ぐ。武藏扇を開き、一首の歌を書して、軍太夫に授けて曰く、家に歸て開くべし、是吾謝状なりと。之を開けば云く、 世の中に弓鉄砲のなかりせば 吾兵法に誰か勝つべき と。軍太夫怒て曰く、吾を侮る。又賞して曰く、吾武辨一偏、此能書及文學技能は、武藝に比するに其及ばざる遠しとし、倍敬服す》 《尾張に來る。藩主光友、之が武藝を見る。驚て曰く、宮本は殆んど神に入ると。之を扶持せんとす。辞して曰く、吾宿望あり、藩士たらずと。其教授を依頼す。止る事三年、弟子上達す》 |
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『尾参宝鑑』の武蔵説話はいずれにしてもかなり恠しい。三宅の人物像からして、『日本劔道史』が収録した説話のスタンスとはかなり違うのである。『日本劔道史』が採録した話よりも、こちらは不正確でしかも新しいヴァージョンである。 ただしその反面、視点が新しすぎるというその難点が逆に、ホホウと思わせるものを含むことがある。それというのも、『尾参宝鑑』がいうには、武蔵は、
《兩刀を併せ用ひて特達の技能を天下に示す。京師に在て公卿を敎ゆ。公卿其門に遊び特達の武藝を賞美し、江戸將軍に快かざる輩、執奏して武藏守に任じ、關東に不快を示す。宮本、特技を以て武家を壓倒する至妙の機關となる》
武家を圧倒する至妙の機関、というあたりが、『尾参宝鑑』の新機軸である。言い換えれば、明治近代天皇制下の『尾参宝鑑』の新しさである。武蔵は京都で公家に武芸を教えた。公家たちは天皇に奏して、宮本武蔵を「武蔵守」に任じ、関東に、つまり江戸幕府に不愉快を示した。武蔵は何と反武家政権のシンボルとなるのである。それが「武家を圧倒する至妙の機関」という話である。こんな発想は、その後の武蔵小説家のだれも思いつかなかった荒唐無稽さで、かなり面白い。面白いが、筆者は『五輪書』を読んだことがないらしいのがわかる。 |
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*【昔咄】
《宮本武蔵がなごやへ来りしを召され、於御前兵法つかひ仕合せし時、相手すつと立合と、武蔵くみたる二刀のまゝ、大の切先を相手の鼻のさきへつけて、一間のうちを一ぺんまわしあるきて、勝負如此ニ御座候と申上し。又一人立合しも、これにも手もなく勝ちぬ。此仕合の御座席、さだかならず。虎の間共云。 其後長野五郎右衛門ハ柳生流の達人と聞て、仕合せばやとの内談ニて、五郎右衛門方へ推参せしかバ、五郎右衛門出迎ひ、兼々得御意度存ぜしに、よくこそ御出候へとてもてなし、扨くつろぎ咄す時ニ、何と武蔵殿、三十五ケ条と申書を致一覧候が、あれハ其元の御作ニ候哉と、問れし。武蔵、なるほど私が作りし書ニ候と答ふ。そこニて五郎右衛門、近比卒忽なる申分ニ候へ共、あの書ハ御書ぞこなひと存候。只今ニてハ嘸御後悔ニ候ハんといわれしかバ、武蔵、扨々御はづかしく候、未熟の時分作り出し、只今甚後悔に存候。然れども一天下に流布し、そこらまで御覧候程ニなり候故、今更いたしかたもなく、気の毒ニ存侯。扨も承り及びしより貴殿ハ上手、かんしんいたし侯。あの書を作りぞこなひと申ハ、天下に貴殿一人、さりとハ御頼母敷存候とて、仕合の事ハ不得申出、心よく物語し、繪など書きてかへり、それよりやがて御国を立出でし由。此時方々の仕合ニハかち、尾張ニハ兵法遣ひなしといわんと、 上にも御不快に思召候處、長野が一言ニて雌伏させし段、被 聞召、甚御悦びありし。か様の事ニて御かゝへなかりし由》（第二巻） 《宮本武蔵御かゝへなかりしかば、帰りは木曽路を経て何方へやらん行きしが、岐岨の御領分を見て、同伴の人へ語りしは、今度なごやへ入ると仕合をせず、あたまから柳生が弟子になりて尾張殿に仕へん事を、無分別にて大兵法を遣ひ、損しぬ。生涯の残念也といひし由。胸中にいかなる工夫か有りし、いぶかしゝとなん》（第八巻）  近松茂矩自筆本 昔咄  新免武蔵守玄信之碑 笠覆寺（笠寺観音） 名古屋市南区笠寺町上新町  新免政名之碑 半僧坊新福寺 名古屋市昭和区広路町松風園 |
三宅軍兵衛との対戦の話から、ついつい脱線して尾張方面へ話が行くのだが、尾張にはこのほかいろいろ武蔵の逸話が残っているが、なかでも尾張公仕官話は有名である。 つまり、寛永元年（1624）年、御前試合で尾張徳川家家臣の兵法者と立ち合って武蔵は二刀で勝った。その後、尾張徳川家重臣に武蔵を兵法師範に推挙する者があり、武蔵は尾張四観音の一、笠寺観音（笠覆寺）の宿院東光院に滞在することになったが、結局、仕官の話はつぶれたという。そのわけは、新陰流柳生家でさえ五百石であるのに、武蔵は千石以上を望んだからだという話である。 同じく尾張のものだが、近松茂矩『昔咄』には、かなりひどい武蔵像が語られている。それが面白い。 宮本武蔵が名古屋へ来たのを尾張公に召され、御前で兵法者と仕合をした。相手がすっと立合うと、武蔵は組んだ二刀のまま、大刀の切先を相手の鼻の先へつけて、室内を一巡回して歩いて、「勝負はこの如くにございます」と申上げた。またもう一人立合ったが、これにも手もなく勝った。 ここまではよい。面白いのはその次の話である。 その後、武蔵は、長野五郎右衛門という家臣が柳生流の達人だと聞いて、仕合したいと相談のため五郎右衛門方へ出向いた。五郎右衛門は出迎え、 「かねがねお会いしたいと思っていましたが、よくこそおいでなさった」 と、もてなし、さて、くつろいだ気分で話すうちに、五郎右衛門が、 「ところで武蔵殿、三十五ケ条という書を一覧致しましたが、あれはあなたのお作ですか」 と問うた。武蔵は、 「なるほど私が作った書です」 と答えた。そこで、五郎右衛門が、 「失礼なことを申すようですが、あの書は失敗作だと思います。今はさぞ、ご後悔のことでしょう」 というと、武蔵は、 「さてさて、お恥ずかしいことです。未熟の時分に作り出し、ただいまは甚だ後悔しております。されども、天下に流布し、あなたなどまでご覧になるほどですから、今さら致しかたもなく、困惑しています。さても、評判を聞いたところより貴殿は上手、感心いたしました。あの書を失敗作と申すのは天下に貴殿一人、たのもしいことです」 といって、仕合のことは言い出せずに、心よく話をし、絵などを描いて帰った。その後やがて御国（尾張）を出て行ったそうである。 このとき武蔵は方々で仕合に勝っていた。そこで、「尾張には兵法遣いなし」と武蔵が云うのではないかと、殿様も御不快に思われていたので、長野の一言で武蔵をへこませた話をお聞きになり、はなはだお悦びであった。こういうことなので、武蔵はお召抱えがなかったそうである、云々。 もう一つの逸話は、――武蔵が尾張徳川家での仕官ならず、帰りは木曽路を経てどこかへ行ったのだが、国境から尾張の領分を振り返り見て、同伴の人に語った。「今回は、名古屋へ来たら仕合をせず、はじめから柳生の弟子になって、尾張殿に仕えたらよかった。無分別に派手に勝って損をした。生涯の残念だ」と云ったそうな。武蔵の胸中にいかなる考えがあったのか、いぶかしいことだという、云々。 ようするに、近松茂矩の『昔咄』が拾った伝説のスタンスは、地元の柳生流への贔屓があって、強すぎる武蔵には反発を感じるといった類である。武蔵が長野五郎右衛門に口でへこまされたというのは、武蔵に勝てる藩士がいなかったという事実へのささやかな逆襲である。武蔵が尾張徳川家に仕官したくてもできなかった、という話も同じ軌道、同じ路線で、いわゆるバイアスのかかった「為にする」話である。 それに、この話では、「兵法三十五箇条」は武蔵が若い頃の作という設定である。同書は武蔵晩年の肥後での作というのが肥後の伝説。実際は、武蔵の著作ではなく、武蔵死後書かれた後人による偽書である。 話の前提が変なのは、尾張の話だから仕方かないが、「兵法三十五箇条」が書き損ないという批評は『五輪書』という武蔵の述作が知られているからである。このあたりは、「兵法三十五箇条」→『五輪書』という発展過程の進化論的図式が、十八世紀中期にはすでに出来上がっていたことを教えるのである。 ともあれ、武蔵は尾張には長居した気配はないが、武蔵滞在中に剣の指南をしたことから、その弟子がこの地にあり、武蔵の「円明流」として尾張で伝承された。尾張の円明流は、新陰流と並んで代々師範の家が複数あり、決して武蔵は尾張とは無縁ではないのである。 いまの名古屋市南区にある笠寺観音の武蔵の碑は、「新免武蔵守玄信之碑」、孫弟子の左右田邦俊の子孫門弟が武蔵百回忌の延享元年（1744）に武蔵を顕彰して建てたものである。これは以前露天であったが、最近屋根をつけたようである。 尾張の伝説によれば、武蔵は尾張を去った後、尾張徳川家家老・寺尾直政に書状を書いて依頼し、竹村与右衛門を名古屋へ送り込んだ。竹村は尾張に滞在して円明流を教え、林資源・林資龍親子や彦坂八兵衛など武蔵の弟子に免許を与えた。この林資龍の孫弟子にあたるのが左右田邦俊で、これが尾張円明流の系譜発生という話らしい。 尾張にはもう一つ武蔵碑があって、新福寺（名古屋市昭和区広路町松風園）にある。最初は南山町の新豊寺にあったが、これが廃寺となってここに移されたものらしい。ここの碑銘は「新免政名之碑」とあり、寛政五年（1793）の武蔵百四十九年忌の法要の際、円明流を伝えた左右田邦俊五代の門弟、市川長之がその門人とともに建碑した。 周知のとおり、武蔵は玄信という諱のほかに、「政名」という名を与えられている。これは本人がそう名のったという証拠がない以上、後世の付託であろう。日夏繁高『本朝武藝小傳』が武蔵の諱を「政名」と書いてしまったので、それが一般に広まり、「玄信」を駆逐してしまったのである。 『武藝小傳』に、宮本武蔵の流名を「日下開山神明宮本政名流」と書いている。享保の頃にはそういう話が流伝していたのであろう。しかし神明宮本政名流の「神明」は流派名でも例はなくはないが、このばあいは、どうやら「神免（新免）」が「神明」に転訛したものらしい。 ともあれ、円明流を伝えた尾張のこの二つの武蔵碑が、武蔵研究において重要なのは、「玄信」に代わって「政名」がいつごろ登場したかを教えるからである。すなわち、十八世紀半ばまでは武蔵は「玄信」であったが、十八世紀末までには「政名」とされるようになったのである。したがって、十八世紀後半が「政名」名が流布した時期とみなしうる。 |
| 多田円明流 |
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尾張の円明流にまで話が及んだので、そうなると、龍野の円明流のことを述べないわけにはいかない。武蔵の流派は「二天一流」というが、それは晩年のことであって、武蔵の若い頃、「円明流」といったという話である。それの証拠が龍野にあるというわけである。 こちらの円明流は、とくに「多田円明流」という。この多田というのは、武蔵に学んで印可を受けた多田半三郎頼祐に発するからである。そしてまた、この多田半三郎は、龍野の真宗寺院・円光寺住職・多田祐仙の弟であった。つまり多田円明流は、この円光寺の多田氏から出たものである。 かくして、ここから我々の武蔵関係地は、円光寺（たつの市龍野町下川原）と龍野歴史文化資料館（たつの市龍野町上霞城）である。これらは龍野の一般的な観光スポットに入っているので、ガイドマップはそちらを参照されたい。→ Link ただし、円光寺の「宮本武蔵修練之地」碑について一言しておけば、武蔵が龍野で修練したという伝承や伝説は、明治以前にはない。龍野は、以下にみるごとく、弟子を教えた土地である。とくに円光寺はそうであろう。したがって「修練の地」では不適切であり、それを云うなら、むしろ「教練の地」とすべきところである。円光寺の「修練之地」碑は、機会があれば刻字を訂正した方がよかろう。 なお、現在、多田円明流資料は多田家から龍野歴史文化資料館へ寄贈・委託され、同資料館が所蔵保管している。ただし、常設展示はしていないことを注意しておきたい。 さらに忠告すれば、ここからは武蔵マニア向けのディープなガイドとなるので、面倒な話は嫌いとか、急いでおるとか、そういう方はパスされてよかろう。 |
 円光寺 宮本武蔵修練之地碑 たつの市龍野町下川原 |
 龍野歴史文化資料館 たつの市龍野町上霞城 |
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さて、本題に入る。多田氏系譜によれば、円光寺の多田氏は、もと摂津多田（現・兵庫県川西市）から初代多田祐全が出たもので、蓮如に仕えて、その命により播磨布教に来たというのが始まりらしい。播磨の真宗布教の拠点は英賀（あが 現・姫路市飾磨区）であった。 しかし、多田氏系譜では、あたかも多田祐全が道場開設者のように記すが、ほんとうは、文明七年（1475）頃、蓮如の指示で下間〔しもつま〕空善という者が、英賀城下の一隅に道場を設けて布教したのが最初という。のちに永正十二年（1515）ここに本格的な堂宇が建立された。これを英賀御堂といったらしい。 英賀城は、永享年間の初めに赤松祐和によって築かれた。祐和の後、三木通近がこれを預かり、以後三木氏の代々の居城となった。英賀は夢前川の河口港だったらしく、これを中心に東西海岸部に英賀千軒と呼ばれる中世都市があったという。要するに、これは瀬戸内交易の商業都市として栄えたもので、三木氏はその交易海運の富を背景に、独立勢力をなしたのである。これはむろん、赤松氏以来の地域権力形成のしかたである。 大永三年（1525）には書写山僧衆数百人が英賀御堂へ押入るという事件があったところをみると、新旧勢力の抗争があった模様である。しかしこれは、宗派抗争というよりも、むしろ商業金融の利権をめぐる抗争なのである。寺社は伝統的に商業金融のセンターであった。 この英賀千軒の実態は未だ解明されてはいないが、泉州堺のように財力を背景にした町衆が自治権をもつ地域であったらしい。そういう「自治体」が武装していたというかたちである。それを組織したのが三木氏であり、その海上ネットワークは毛利の水軍や紀州の雑賀衆とも結びついていたのである。 上述の英賀御堂を中心とする真宗勢力、つまり一向一揆としての結束がこの英賀の特徴である。つまり、大坂の石山本願寺が強固な反信長勢力を維持したのに呼応して、播磨において一向衆の拠点は、この英賀御堂にあった。 天正八年（1580）初め別所長治の三木城落城して、なお抵抗を続けていたのは、英賀城と宍粟郡長水山城のみとなったが、同年四月五月の間に英賀城も長水山城も相次いで陥ちた。英賀城が播磨で最後の抵抗拠点になったのは、むろん一向衆の結束力による。大坂の石山本願寺も信長と講和して、一向衆の抵抗運動も消えた。 秀吉は英賀城を落とすのに数千人を殺したが、残りは助命して姫路へ移住させた。英賀の商業都市としての人的物的資源が、城下町姫路の形成基盤になったのである。 かくして、英賀の一向一揆も事実上解体、秀吉は適宜所領を与えて英賀の真宗寺院を分散せしめた。本徳寺は亀山に、円光寺は龍野に、というぐあいである。いづれにしても、播磨六坊というのは、この秀吉の一向衆仕置以後のことである。蓮如の時代にそれがあったわけではない。しかし、多田氏系譜によれば、龍野への移転は天正六年（1578）というから、英賀城陥落以前、つまり龍野城が降伏してほどなくのことである。 |
 龍野と英賀  英賀城域図  英賀城土塁跡 姫路市飾磨区清水町 |
 円光寺 たつの市龍野町下川原
【多田氏系譜】
○祐全―祐欣―祐妙―祐恵┬祐応┐ │ │ └祐閑│ ┌――――――――――――――┘ ├祐仙―祐山┬祐栄 │ │ ├頼房 ┌＝├祐久―勝久┬種久 │ │ │ │ ├頼祐―┘ └祐願→ └紀久→ │ └祐信 【多田円明流系譜】 ○宮本武蔵玄信┐ ┌――――――┘ ├落合忠右衛門光経 │ ├多田半三郎頼祐――――――――┐ │ │ ├山田淤泥入 │ │ │ ├石川主税清宣 │ │ │ ├市川江左衛門 │ │ │ ├寺尾孫之丞――寺尾求馬 │ │ │ └柴任道隨重矩┬吉田太郎右衛門 │ │ │ ├立花専太夫 │ │ │ ├河村弥兵衛 │ ┌―――――――――――――――┘ └三浦源七延貞┴多田源左衛門祐久→ （多田円明流祖）  多田嘉須馬道久続系図伝記 龍野歴史文化資料館蔵 |
かくして、こういう前史的状況を背景に、龍野の円光寺は登場する。四代多田祐恵は石山本願寺の顕如のもとで大坂での戦いに参加したらしい。武装一向衆としての働きである。天正八年石山本願寺が信長と和睦して、顕如は紀州雑賀庄へ立退き、祐恵は大坂から播州へ帰って九月に死んでいるから、これは英賀城の落ちた後である。 円光寺という宗教施設が、どうして武蔵あるいはその剣術と関係するのか、これは不審あって当然のことである。しかし、上述の円光寺前史にみるごとく、一向一揆のセンターとして真宗道場があったという歴史を考慮に入れるなら、寺院と武術の結合関係は理解されるだろう。それのみならず、すくなくとも戦国期一貫して宗教施設は武装していたという事実がある。おそらく武蔵の時代、まだ武装一向衆の残響があったはずである。 さて円光寺の話、四代多田祐恵の跡は祐応が嗣ぎ、弟・祐閑は福島正則に仕えた。というのも、福島正則は、天正十三年（1585）から天正十五年（1587）までの間、龍野城主であった。そして多田祐応の子の代が武蔵と関わるのである。 まず、多由祐仙（～1619）は円光寺の住職である。この系統が嫡流となる。慶長七年（1602）幕府の寺社政策による本願寺の東西分裂以後は東本願寺派に属し、龍野における真宗大谷派の中心寺院、「龍野御坊」として今日に至っている。 祐仙に弟があり、二男頼房（～1665）は小笠原忠政に仕えたという。だとすれば、ここにも明石の小笠原家と武蔵の関係が介在しているようである。頼房は致仕後、剃髪し祐賢と称し、龍野へ戻ってきたらしい。また、四男祐信（～1632）は松平越中守に仕えて、寛永九年に刃傷で死んだという。この「松平越中守」が松平定綱（1592～1651）だとすれば、定綱の封地は三河掛川や山城淀、大垣・桑名など転々としているが、寛永九年なら山城淀の時代である。 そして、もう一人の兄弟・三男の祐甫、すなわち半三郎頼祐（1600～1666）が武蔵に円明流の印可を受けたという人物である。多田氏系譜によれば、頼祐は、
《多田半三郎ト稱ス。備前岡山ニ住ス。元和元年出家、法名祐甫、圓光寺ノ住持トナル。寛文六年丙午四月三日卒。年六十七》
とあって、岡山に住んでいたというから、これはおそらく、池田輝政の子で岡山城主の忠継（1599～1615）あるいは忠雄（1602～1632）に仕えたものかもしれない。兄祐仙は元和五年（1619）に死んだが、祐仙の子・祐山がまだ稚かったので、半三郎は備前岡山からもどってきて、同年二十歳で出家し円光寺住持となったものらしい。たぶん半三郎が兄祐仙亡き後の円光寺を支えたのである。円光寺は祐山、そしてその子・祐願が嗣いで、多田氏が受け継ぐことになる。 この間、龍野城主は、本多政朝が元和三年（1617）から寛永三年（1626）、小笠原長次が寛永四年（1618）から寛永九年（1332）、岡部宜勝が寛永十年（1633）から寛永十三年（1636）、京極高和が寛永十四年（1637）から万治元年（1658）までと、それぞれ承継されたが、京極氏が讃岐丸亀へ転封した後は、幕府直轄領となって代官のみ駐在し、城は破却され無主の城下町は荒れ放題となった。その後、ようやく寛文十二年（1672）、脇坂安政が入部し、以後明治維新まで脇坂家が領主となった。 ところで、多田半三郎（祐甫）は子がなかったのか、のちに甥・祐山の子、祐久を養子にしている。この多田祐久（1651～1721）が、半三郎の弟子・三浦源七延貞から円明流を学んだ。三浦源七は江戸にいたというから、江戸で学んだものか。ともあれ、多田源左衛門祐久は、（帰郷して）脇坂家に仕え、龍野で円明流を教えたらしい。龍野脇坂家中に、家老以下多くの弟子があった。その後何か事情があって、多田祐久は、安芸広島の浅野家に仕官するようになった。そこで多田家は幕末まで代々、浅野家に仕えた。安芸に武蔵流の一派多田円明流が伝承されたというわけである。 いわゆる多田円明流資料は、この多田家に伝えられた文書である。広島藩は新政府軍で戊辰戦争を戦い、多田家は明治初めに屯田兵として北海道へ渡ったので、伝書もそれ以後北海道にあったが、平成になって、多田円明流資料は多田家から父祖の地のたつの市へ寄贈・委託され、同市立歴史文化資料館が現在所蔵保管している、という次第である。 |
 宮本流免許状 龍野歴史文化資料館蔵 |
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多田円明流の起源を証する文書は、三浦源七延貞から多田平之丞祐久に宛てた、延宝九年（1681）の宮本流免許状である。それによれば、次のようなことが記してある。
《宮本流二刀は、貴所の先氏・祐甫公、秘密の剣術と為すといへども、予懇望してこれを伝授せしむ。以来、これを試用するに、勝利を得ること、他流に異なれり。しかるところ、足下、累年御執心深く勤励さるるにより、予が所伝の薀奥、いささかも残らず妙術、相伝せしめ畢んぬ。今よりは、深志の輩あらば、御相伝あるべきもの也。宮本流許容の旨趣、よって件の如し》（原文漢文）
こうしてみると、多田祐甫は、武蔵から相伝された「宮本流二刀」を三浦源七へ伝え、そして三浦はこれを多田祐久へ伝えたのである。しかるに、ここでは「円明流」ではなく、「宮本流」であることに注意したい。しかも延宝九年の段階での相伝文書に、「円明流」ではなく、「宮本流」と記しているのである。つまり、初期武蔵の剣術の名は、必ずしも「円明流」とは限らなかったということである。むしろ、延宝年間当時、武蔵の流名は「宮本流」であること、しかもこれがとくに九州の「武蔵流」「二天流」「二天一流」という類の名ではなく、宮本武蔵の流派というにすぎないものであること、これに注意すべきである。武蔵は自身特別な流派名をもたなかったのではないか、「円明流」とは多田祐久以後の弟子たちによる命名ではないか、という所見も可能である。 多田祐久が龍野で教えた弟子に、脇坂弥五右衛門がある。脇坂弥五右衛門は代々弥五右衛門を称し、龍野藩奉行であった。この脇坂弥五右衛門系統の伝書では、「宮本流二刀」ではなく「円明流二刀」である。
《円明流二刀は、宮本姓武州先生、参学修練の妙術也。しかるに多田祐甫は、武州先生直伝の門葉也。祐甫、三浦延貞に伝へ、延貞、多田東助に伝ふ。予また東助よりこれを伝受す》
かくして、武州先生→多田祐甫→三浦延貞→多田東助（祐久）となるのであるが、祐久は水野流居合とあわせて「円水流」を創始したという。しかし、祐久以後の分岐でいづれも「円明流」となるのを観るに、たぶん「円明流」は多田祐久以来の流派名である。それ以前は、前出のように「宮本流」という用例もあった。それというのも、「円明」という言葉、これがいわゆる「四智円明」に出典があるとみなしうるとするのが綿谷雪説であり、それを反芻する者が今日もあるのだが、それは誤りである。武蔵が「二天」を號したのは周知のことだが、その「二天」とは日・月の二つの天体のことである。それゆえ、「円明流」の呼称は、「二天流」以後ともみなしうる。 それに対し、龍野の円明流は、たんに円光寺の「円光」と並べて観れば、その対偶関係は明らかである。したがって、「円明流」という呼称は、ここに関する限り、龍野多田氏に固有な命名であったと知れる。「円明流」そのものは武蔵以前からあった名稱であるが、案外それとは無関係に、ここで「宮本武蔵の円明流」が発生したという可能性もあろうというわけである。 |
*【宮本流免許状】
《宮本流二刀者、貴所之先氏祐甫公、雖爲秘密之劔術、予懇望而令傳受之。以來試用之得勝利、異于他流。然所、足下累年御執心深、依被勤勵、予所傳之薀奥、聊不殘妙術令相傳畢。自今於有深志之輩者、可有御相傳者也。宮本流許容之旨趣、仍如件。 三浦源七 延寶九辛酉 ［花押印］ 五月十四日 多田平之亟殿 》  龍野円明流免許状 部分 龍野歴史文化資料館蔵
*【円明流免許状】
《圓明流二刀者、宮本姓武州先生參學修練之妙術也。然多田祐甫者、武州先生直傳之門葉也。祐甫傳於三浦延貞、延貞傳於多田東助。予亦自東助傳受之》 |
 宮本武蔵守／藤原義輕 円明流許容之巻 部分 |
 宮本武蔵守／藤原義輕 円明流免許状 部分  宮本武蔵守藤原義輕 兵道鏡 部分 |
さて、ここでの問題は、これら龍野の円明流伝書に、宮本武蔵の名に異例の名称を記すことであろう。「宮本武蔵」とは今日我々も用いる通称であるが、武蔵の兵法者としてのフォーマルな名称は、『五輪書』に記すごとく、「新免武蔵守藤原玄信」である。そのことからすると、龍野の円明流伝書の名は、まるで違っている。 というのも、こちらでは、「新免武蔵守」ではなく、「宮本武蔵守」。そして諱を、「玄信」ではなく、「義輕」と記すのである。つまり、武蔵の記名は「新免武蔵守玄信」ではなく、「宮本武蔵守藤原義輕」なのである。 円明流資料のうち最も有名な「兵道鏡」――地元龍野では「ひょうどうかがみ」と訓む――は、何と慶長十一年（1606）の日付をもつものであるが、これにも、「宮本武蔵守義輕」という署名がある。 今日「兵道鏡」と呼ばれる文書には、もとより原本はなく、後世の写ししかないのだが、さしあたり、この史料の記事をそのまま鵜呑みにして受けとれば、武蔵は二十三歳ころに「宮本武蔵守義輕」と名のり、「兵道鏡」を書いたことになる。かくして、二十一歳で京の吉岡一門に勝った武蔵は、少なくとも一派を創設し、「宮本武蔵守義輕」と名のっていたという説が行われることになった。そういう意味で、この「義輕」名文書は、重要な根拠史料なのである。 しかし同時に、当然異論がある。「義輕」というのは、たとえ「よしかる」と読んでも、諱とするには何か変じゃないか、これは何かの間違いではないか、という直截な疑問である。もう一つは、「新免」なら藤原姓はわかるが、「宮本」でなぜ藤原なのか、このあたり、いろんな伝承が混淆した、後世生成の伝説記事ではないか、という疑惑である。 たしかに、「兵道鏡」には原本が存在しない、という根本的な難点がある。しかも、「兵道鏡」なる一書は、龍野の円明流では相伝されなかった。五輪書の例でわかるように、流祖師伝の書は、根本経典として、代々書写して弟子へ相伝されるものだった。ところが、「兵道鏡」はそうではなかった。その代わりに、「兵道鏡」とは称さぬ異本がいくつも存在する。 たとえば、十八世紀中後期、龍野円明流の脇坂彌五右衛門の類似文書には、「円明流奥儀」とあり、また「兵法教之書」と題する文書もある。名前がちがうのである。慶長十一年の年号を有する文書奥書にあるように、もし元祖武蔵がこれを「兵道鏡」と名づけて伝授したものなら、その後もその名で相伝されたであろう。ところが、武蔵直系の龍野の円明流でさえ、その名では呼ばない。上記の如く、「円明流奥儀」とか「兵法教之書」とかタイトルをつけている。 ということは、ようするに、これら類似文書群の元祖が「兵道鏡」なのではなく、むしろ「兵道鏡」そのものが、「円明流奥儀」や「兵法教之書」と同列の異本にすぎないということである。言い換えれば、江戸中期の龍野では、「兵道鏡」なる名の文書の認識はなかったのである。 そこで、ひとまず、類似諸文書の奥書を比較してみよう。 |
| 兵法教之巻 （十七ヶ条） | 兵道鏡甲本 （三十八ヶ条） | 兵道鏡乙本 （二十八ヶ条） |
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右十七箇之條々、圓明一流秘極也。縦、雖為親子兄弟、依其覚悟、不授之。寔抛他事、執心深妙之旨、此一巻相渡者也。 |
右條々、案圓明一代之秘術、積的傳之法、名兵道鏡、盡傳妙術第子印可免許之者授之。古今無雙之兵法、後々末々迄、為不可失絶、先跡無類之秘事等、書付令置者也。縦予雖有直筆免状之手形、無此秘巻者、更不可用必状。此條々不学者、争決勝負。予、雖為親子兄弟、依其覚悟、不授之。寔抛他事、執心神妙之旨、此一巻相渡者也。可秘々々。 |
右六七々八之條々、慶長九年初冬頃、勿然審積的傳之秘術、作明鏡之書、名兵道鏡、盡傳妙術第子印免之者授之。古今無雙之兵法、後々末々迄、為不可失絶、先跡無類之秘事等、書付令置也。縦雖有予直筆免状之手形、無此秘巻者、更不可用必状。此状々不学者、争決勝負乎。雖親子兄弟、依其覚悟、不授之。寔抛他事、執心神妙之旨、此一巻相渡者也。可秘々々。 |
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この三文書は任意に集めたもので、それぞれの特徴を示している。「兵法教之巻」は、龍野の脇坂一倫による十七ヶ条の伝書であり、時期は寛延年間、十八世紀中期である。次に「兵道鏡甲本」とあるのは、ここで仮にそう呼んでおくとして、慶長十三年に宮本武蔵守義輕が水野日向守に発行したという体裁の珍品文書の写しで、目録・奥伝の二巻本である。これは「兵道鏡乙本」二十八ヶ条の条々と較べるに、二ヶ条がなく、別の十二ヶ条があるから、都合十ヶ条多い。そのように条数は多いが、直通の位について、「兵道鏡乙本」のように冗漫な文章を綴ることはなく、「極秘」として口伝扱いである。その点は「兵法教之巻」と同じである。そうして、「兵道鏡乙本」というのは、慶長十一年に宮本武蔵守義輕が発行したという体裁の二十八ヶ条「兵道鏡」写本である。 では、これらの奥書を比較してみる。見れば明らかなように、十八世紀中期の「兵法教之巻」の奥書が最もシンプルである。「兵道鏡」と名づけたという話もない。それに対し、「兵道鏡」甲乙本ともに、分量が数倍している。 上掲「兵道鏡」甲乙両本を比較すると、それぞれ写し崩れのある写本だが、乙本にさらなる増量が見られる。とくに、慶長九年初冬頃に忽然として、とある奇妙に具体的な記事に注目される。これを事実として鵜呑みにする者はあるまいが、こうしたディテールの増殖は、それが後に発生した作文だということを示している。要するに、この奥書に関する限り、乙本の方が後発である。 それでは、「兵道鏡」甲乙両本に共通する記事はどうか。その内容を読めば、――つまびらかに的伝の秘術を積り、「兵道鏡」と名づけ、ことごとく妙術に伝えた第子、印可免許の者にこれを授ける。この今古無双の兵法が、後々末々まで失絶しないように、先跡無類の秘事等を書付けて、保存させるのである。たとえ私の直筆免状の手形（花押）があっても、この秘巻がなければ、決して信じてはならない。（「必状」は錯入誤記）この条々を学ばねば、どうして勝負を決することができようか――。 というわけで、これはいかにも陳腐な文章である。ようするに、この「兵道鏡」なる文書は極秘の根本経典だぞと強調したい者が、これを書いたのである。もし、元祖武蔵がかような事を書き置いたのなら、この奥書の内容が厳密に書写されて伝承されたであろう。しかし、上述のように、十八世紀中期の龍野の脇坂一倫などは、こんな文章の奥書を知らないし、見たこともないのである。言い換えれば、「兵道鏡」諸本にあるこの奥書の増幅部分は、十八世紀中期以後にどこかで捏造された文章なのである。 改めて奥書を見れば、「兵法教之巻」の奥書にある《雖為親子兄弟、依其覚悟、不授之。寔抛他事、執心深妙之旨、此一巻相渡者也》の部分が、そっくりそのまま、「兵道鏡」にある。つまりは、「兵道鏡」の奥書は、《圓明一流秘極也》という部分を大幅に書き換えたものである。そして最後に、ご丁寧にも、「可秘々々」と書き加えている。これは、「兵道鏡」を「秘巻」として値を高騰させたい者の仕業である。 ようするに、武蔵が五輪書に、兵法論を書くのはこれが初めてだと書いている。武蔵は晩年に至ってはじめて、兵法論を書いた。五輪書以前に、武蔵の著述なしである。本人がそう明記しているのだから、間違いない。むろん口頭での教授はあった。ただ、著書のない思想家というのは東洋的伝統であり、武蔵も晩年まで、それで通してきたのである。 近年に至るも、いまだになお、「兵道鏡」なる仮託文書が、「宮本武蔵」の著作だと妄信する者が跡を絶たない。しかし、むろん武蔵はそんな兵法文書は書かなかった。それが事実である。 とすれば、「兵道鏡」にもあるし、また龍野の円明流伝書にも記されている「宮本武蔵守藤原義輕」という名の人物は何者なのか。――というわけで、話は元へもどるのである。 |
 兵法教之巻 奥書  兵道鏡甲本 奥書  兵道鏡同様奥書 円明流秘術之巻
*【五輪書】
《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ。時寛永二十年十月上旬の比》（地之巻・自序） 《右、一流の兵法の道、（中略）多分一分の兵法として世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、これ五巻なり》（地之巻・後書） 《右、書付る所、一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ、書顕し置もの也。今始て此利を記すものなれば、跡先と書紛るゝ心ありて、こまやかには、いひわけがたし》（火之巻・後書） |
 宮本武蔵守／藤原義輕 円明流許容之巻 |
 宮本武蔵守／藤原義輕 兵道鏡甲本 |
 宮本武蔵守／藤原義輕 円明流印可状 |
 「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信」 吉田家本五輪書  円明流系統図 享保六年 |
上掲のうち、右二書は、「兵道鏡」甲本が慶長十三年・水野日向守宛、「円明流印可状」が慶長十一年・落合忠右衛門宛の文書である。ここでご覧のとおり、この二書は、花押のほかにわざわざ印判まで描いているが、まるで似ても似つかないものである。これは両者ともに写しだからではなく、この種のあからなまな捏造文書が世間に出回っていたのである。 発行者の記名をみると、上掲三点、どの文書も、「新免武蔵守」ではなく「宮本武蔵守」である。しかし、兵法者としての武蔵は、新免無二の兵法の家「新免」を相続したから、氏は「新免」を名のった。武蔵が生前、「宮本武蔵」という通称を用いたのは事実だとしても、最晩年の『五輪書』でも「新免」という氏を名のっている。武蔵の養子・「宮本」伊織が武蔵十回忌に豊前小倉に建立した石碑にも、その名を「新免武蔵玄信」と誌す。ようするに、私信書簡ならいざしらず、武蔵が兵法伝書に「宮本」と記すわけがないのである。とすれば、武蔵の名を「宮本武蔵守」とするのは、そういう事情を知らない無知による錯覚である。 武蔵と同時代の林羅山が、武蔵画像に寄せた賛には「劔客新免玄信」と記している。兵法者としての武蔵は、当時、「新免」氏で知られていたのである。ところが、後世になると、「宮本武蔵」という通称の方が一般に流布した。つまりは、「宮本武蔵守」というのは、武蔵が「宮本」氏だと思い込んだ時代の者たちの仕業である。 他方、ここで問題にしているように、武蔵の諱が「玄信」ではなく、円明流伝書では「義輕」なのである。ところが、同じ龍野の円明流伝書でも、享保六年（1721）の「円明流系統図」では、「玄信／宮本武蔵」として、諱「玄信」を明記している。そのことからすれば、四代多田祐久の段階では、龍野円明流では、武蔵の諱については、この「玄信」名を知っていたのである。 しかし、武蔵の諱「玄信」を書いた多田祐久にしても、「新免」と記さず、「宮本武蔵」という通称を記している。これは、前に見たように、彼の師匠・三浦延貞の免許状には「宮本流」とあったから、多田祐久にしては、元祖武蔵は「宮本」氏のはずだったのである。しかし、それでも、多田祐久は、「義輕」と記さず、「玄信」と明記している。そうなると、諱「義輕」のポジションはどう考えるべきか。 おそらく、多田祐久の代には、まだ「義輕」名文書は存在しなかった。もしそれが存在したなら、多田祐久は「義輕」という諱を掲げたであろう。それゆえ、「義輕」名が龍野円明流の門下で記されるようになったのは、享保六年の「円明流系統図」以後、つまり、四代多田祐久以後とみなすべきである。 それは、慶長年間の年号をもつ落合忠右衛門宛の「宮本武蔵守／藤原義輕」名の文書が、どこかから降って湧いたのである。いわば「新発見史料」たるその文書を信じて、龍野円明流五代目以下が「義輕」名を書くようになったというのが、その順序次第であろう。 |
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*【兵法先師伝記】
《又當流ノ兵書トテ世間ニ所持スル者有リ。或ハ江戸ノ古書物屋抔ニテ求メ來リタルコトモ有リ。是ヲミルニ、我五卷ノ書ノ如キ正シキ事ナク、成程空ノ事ヲアラハシ置レ、直通々々ト所々ニ記シ置レシ事アレ共、今傳來ノ五卷ノ書トハ格別ノ違ナリ。其時先師、名乗義經ト書キヲカル。先師ノ年若キ時、我武勇源義經ニ比ストイワレシガ、直ニ義經ト号セラレシト言傳フ。彼世間ニ有ル卷物ヲ見レバ、是ハ偽説ナラズト聞ユ》  「其時先師名乗義經ト書…」 兵法先師伝記 |
さて、「義輕」というのは、諱としては、かなりあやしい名なのだが、ここで考えうることは、「義輕」が書かれるようになる以前、もともと「義輕」ではない別の名があったのではないか、ということである。 まずは、「義輕」名を記す「兵道鏡」には、上述のごとく原本が存在しない、という事実を認識する必要がある。写本しか存在しないのである。とすれば、文字が崩してあるので、伝写過程で書き誤った可能性が大きい。 そこで、「輕」字をグラフィックに観じてみると、よく似た「經」という文字が炙り出されてくる。つまり、「義輕」の背後に「義經」という名が潜んでいるらしいというわけである。 こうした我々の所見を裏付けるのは、丹羽信英の『兵法先師伝記』（天明二年）の記事である。丹羽信英（1727～91）は、立花峯均の孫弟子で、筑前二天流七代、『兵法先師伝記』には十八世紀中期の認識と見聞を記している。 同書によれば、「當流ノ兵書」、つまり武蔵門流の兵法書だとして、世間に所持する者あり、という。面白いのは、江戸の古書物屋などで、それを購入できることもあったという話。武蔵流兵書は、丹羽信英の当時、江戸の古本屋に出回っていたのである。 丹羽信英はその武蔵流兵書を実見している。それは、「空ノ意」のことや「直通」と所々に記してあるが、「我五卷の書」（つまり五輪書）とは格別の違いだという。つまり、まるで違うというのだが、そもそも武蔵流の兵法書が、江戸の古本屋で買えるような偽書だとすれば、それは仕方ないことではある。 丹羽信英が見た武蔵流の兵法書には「義經」という記名があったという。丹羽信英によれば、先師（武蔵）が年若き時、我が武勇、源義經に比すと云って、そのまま「義經」と号したという伝説があったらしい。とすれば、この伝説の実体化／物質化が、「義經」名文書である。かくして、武蔵が「義經と号した」という類いの、「宮本武蔵」と「義経」を結合せしめる伝説があったのである。 丹羽信英が記すように、当時、兵書に「義經」という記名があったとすると、どうやらこれは、龍野円明流伝書の、「宮本武藏守藤原義輕」という名と関係がありそうである。つまり、現在円明流史料として残っている文書に近いものだったらしい。だが、丹羽信英は「円明流」だとは記していないから、また別種の武蔵流兵法伝書が出回っていたらしい。 かくして、我々の推測のように、「義經」名の文書は存在し、十八世紀中期には世間に出回っていたのである。すると、そんな「義經」文書と「義輕」文書はどうリンクするのか。 これについて、我々の所見をいえば、武蔵が「義經と号した」という伝説がまず発生し、次にそれを実体化／物質化した「義經」名文書が製作された。そうして、さらにその後、その「義經」名を「義輕」と記す文書が登場したのである。つまり、 「義經」 → 「義輕」 である。もとより、「義輕」は「經」字を単純に読みそこなった結果発生した名である。なぜ読み損なったか。それはいわゆる無意識的な抑圧のせいである。つまり、「義經」名を回避したのである。有名な「源義經」があるのだから、しかも「武蔵坊弁慶」という連想があるなか、「武蔵守義經」だと、いかにも冗談、という感じであるから、忌避された。そんなぐあいで、「義輕」名を「義輕」と読み損なわれたのである。 となると、問題点は次の二点に絞られる。ひとつは、かりに「宮本武蔵守義經」という人物が実在したとして、これが武蔵と同一人物なのかどうか。もう一つは、武蔵と同一人物ではないとすれば、この「宮本武蔵守」とは何者か、という問題である。 ところで、備前岡山池田家の家臣・三上元龍による『撃劍叢談』（寛政二年）という書があって、そこには「武蔵流」に関する記事がある。 |
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 撃劍叢談 巻之四 武蔵流 |
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『撃劍叢談』は宮本武蔵の流派を「武蔵流」と表題し、「円明流」とも、と記している。そのころには武蔵の流派は全国一般には「武蔵流」という名で知られていた。「円明流」ともいう、と三上が記すのは、とくに円明流伝書を見たからである。 彼が見たのは、多田円明流伝書ではなく、他の伝書であろう。「兵道鏡」類似文書も見ているようだ。《裏ハ、眼見色現、耳聞聲出、鼻入香顕…》と記すから、これは上掲三十八ヶ条「兵道鏡」甲本の類いであろう。 そこで、三上が記す名は、「宮本武蔵守義恆」である。これは、他の伝書に例を見ない名であるから、三上が「義輕」名を「義恆」に読み替えてしまったらしい。 しかし、「義恆」となると、これは「よしつね」であり、なんとここに抑圧された「義經」が姿を変えて回帰している。それが、兵書のグラマトロジーとしておもしろいところである。 誤読して、「義恆」と見てしまった三上だが、《諸書に皆政名に作る。今古免状ニ依て改之》という。この「政名」は『本朝武芸小伝』が記す諱である。つまり、みんな『武芸小伝』を読んで、武蔵の諱を「政名」だとしているが、自分が見た古い免状には「宮本武蔵守義恆」と記してある。だから、宮本武蔵守「義恆」に訂正すべきである、というわけである。 もちろん、そう云うところをみれば、三上元龍が見た資料は円明流に限られていて、しかも、享保年間の「円明流系統図」にある、「玄信／宮本武蔵」という諱「玄信」も視野の外にあるようだ。むろん、「新免武蔵守玄信」という名のある九州の伝書など、閲ていないようである。 ところで、『撃劍叢談』が円明流の代表者のように紹介している宮本角平なる人物は興味深い。『撃劍叢談』は、これを武蔵の子かとしているが、あるいはこの宮本角平、宮本武蔵守義輕その人であったかもしれない。 というのも、『撃劍叢談』は、《武藏子にして一家をなせしや。もしくハ弟子にて異姓なれども、名字を傳へて、流義にてハ宮本と称するにや、未詳》などと注記しているが、宮本角平が慶長十二年に出した免許状に、すべて円明流と見へたり、とあるように、この角平は、慶長十二年（1607）に免許状を発行する人物である。かたや、多田円明流の宮本武蔵守義輕が落合忠右衛門に出した印可状は慶長十一年である。 とすれば、宮本武蔵守義輕と宮本角平は同世代の師匠とみなければならない。そして、そこからもう一歩を進めれば、同時期に円明流の免許状を出す師匠は二人といない、ゆえに、宮本武蔵守義輕と宮本角平は同一人物であろうという推測も可能である。 ただしまた、別の話もある。宮本「角平」とあるが、これは「角兵衛」ではないか。探すなら、宮本「角平」ではなく、宮本「角兵衛」を探した方がよかろう、というわけである。 あるいはまた、「宮本角兵衛」の原型は、「宮田角兵衛」ではないか、という穿った見方もある。つまり、この［サイト篇］姫路城下において述べられるであろうが、宮田角兵衛というのは武蔵の養子・宮本三木之助の家来の名である。「覚兵衛」とも書く。寛永三年（1626）、三木之助が主人本多忠刻の殉死にした折、冥土へ同道した人である。 もちろん宮田角兵衛は、寛永三年に行年三十一歳だから、慶長十二年にはまだ十二歳。いくらなんでも、他人に免許状を発行するには年齢が足りない。 ところが、そんな事情を知らない後人の間で、三木之助家来のこの「宮田角兵衛」という名が、他の地方に伝播するうちに、「宮本角兵衛」に化け、さらには「宮本角平」に転訛した。そして、何者かが、この人物を武蔵直弟子と設定して、伝書を作成した。それを見たのが、『撃劍叢談』の著者である。――というわけであると。 それもありうる話で、あながち否定はできない。しかるに問題は、そのことよりも、宮本武蔵守義輕は、新免武蔵守玄信と同一視できないことである。円明流諸派には、「宮本武蔵守」という称は他に例がいくつもある。「圓明實手流家譜并嗣系」には、円明流権輿の宮本武蔵守吉元、その嗣にれいの宮本無二之助一真、そしてその嗣に宮本武蔵守正勝とくる。あるいは、鳥取の武蔵円明流の伝系前史に、岡本新右衛門義次の二男・岡本小四郎が宮本武蔵守義貞を名のったという。 かくして円明流諸伝系には「宮本武蔵守」は幾人も存在する。しかしこれらの「宮本武蔵守」たちは「新免武蔵守玄信」とは別人である。その別人というのも、なかには、実在の人物ではなく、「宮本武蔵守正勝」や「宮本武蔵守義貞」のごとく、武蔵をモデルにして、諸流伝説の中でそれぞれ思い思いに生み出された、イマジナリーな存在なのである。 しかし、龍野円明流の「宮本武蔵守義輕」が、それら円明流他派の「宮本武蔵守正勝」や「宮本武蔵守義貞」、あるいは神明武蔵流の「宮本武蔵政名」に対して、アドヴァンテージを有するかといえば、そうではない。要するに、各地の武蔵末流諸派の「政名」「正勝」「義貞」たちと同列の存在なのである。 ともあれ、これらはなかなかおもしろい伝説変異だが、本サイトで別に論及されるであろうから、ここでは問題点を指摘するにとどめておく。 |
*【撃劍叢談】
《武藏流ハ、宮本武藏守義恆［諸書に皆政名に作る。今古免状ニ依て改之］が流也。武藏守ハ、美作國吉野郡宮本村の産也。父ハ、新免無二斎と号して、十手の達人也》 《此流（圓明流）遣ひ方、表ハ、差合切、轉変はづす位、同打落さるゝ位、陰位、（喝）咄、陽位、同はづす位、定可當等也。裏ハ、眼見色現、耳聞聲出、鼻入香顕、舌嘗味分、心思触行、意悟法學等有。秘奥ハ、眞位、有無二劔、手裡劔打様、多敵の位、実手取、是極一刀、相太刀不相太刀、直道位など云傳有。又、印可秘傳之句に、 春風桃李花開日 秋露梧桐葉落時 此一聯を以、悟道の妙境とする也》（巻之四）  「宮本武藏政名」 本朝武芸小伝
*【撃劍叢談】
《武藏流ハ遍く称する所にして、此家にてハ流名を圓明流と称するにや。宮本角平［武藏子にして一家をなせしや。もしくハ弟子にて異姓なれども、名字を傳へて、流義にてハ宮本と称するにや、未詳。武藏嫡子ハ、伊織とて豊前小倉の小笠原家に仕へたり。代々家老の列に入也。今は主馬といふ。此家にも流を傳ふるにや、未聞。此角平武藏子ならんにハ庶子たるべし］、慶長十二年に出せる免許状に、すべて圓明流と見へたり》（巻之四） *【本多要櫃記】 《家人伊原伊木左衛門、宮本三木之助、両人殉死ス。三木之助家来、宮田覚兵衛、同死ス。廟前ニ右三人之廟有リ》
*【円明実手流家譜并嗣系】
┌────────┘ ├宮本武蔵守吉元―宮本無二之助一真┐ │ ┌────────┘ │ └宮本武蔵守正勝 │
├青木常右衛門吉家―青木鉄人金定──┐│ │
└青木常右衛門家真―青木常右衛門真継│┌─────────────────┘ └青木鉄人金家（円明実手流祖） *【武蔵円明流系譜】 宮本武蔵守義貞│ ┌────────────────┘ └岡本馬之助祐實―岡本助左衛門則宗┐ ┌────────────────┘ └岡本清八祐方―岡本新右衛門照方┐ ┌───────────────┘ └岡本勘兵衛正誼 （鳥取池田家臣・武蔵円明流祖） |
 円明流系統図 龍野歴史文化資料館蔵 |
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それで、話は次にうつる。龍野系円明流資料のみが記録した武蔵門流情報に、武蔵の弟子たちの記載がある。武蔵晩年の肥後での弟子たちについては九州に詳細情報があるが、一方、それ以前の弟子たちということになると、武蔵の弟子は諸国に数多いとされながら、明らかではない。しかるに、多田円明流資料には、円明流の前史を記録し、武蔵の初期の弟子たちを一覧しうる文書がある。それが、すでに言及した多田円明流伝書「円明流系統図」である。 この文書には、享保六年（1721）五月十三日の年号月日と多田源左衛門の記名がある。この「多田源左衛門」が多田祐久だとすれば、彼が卒年にこれを記したことになる。つまり、武蔵が本多家や小笠原家に親近していた播磨時代は、すでに九十年、百年昔のことだが、この十八世紀前期、どんな認識が龍野の者にあったか、それを伝える文書である。ここでは以下、それをじっくり閲てみたい。 上述のように、「円明流系統図」は、「玄信」宮本武蔵を二刀元祖とするものである。宮本武蔵守「義輕」ではない。この点で、年号を慶長年間とする義輕名文書（写本）よりも成立は古いかもしれない。後のものが先、そういうことは歴史資料ではよくある話である。 武蔵直弟子のうち、まず最初に名があるのは、落合忠右衛門光経である。他の門人には、どこの家中の者か明記しているが、落合にはそれがないから、仕官しない浪人であったようである。武蔵他流にその名が見えないから、委細不明であるが、この「円明流系統図」に名はあるところから、龍野に関係する者であろう。 この落合は、「義輕」名円明流印可状の宛名「落合忠右衛門」らしい。すると、この印可状によるかぎりにおいて、慶長十一年（1606）という早期の印可弟子である。もちろん、この落合宛の印可状は写しであって原本ではなく、また、「宮本武蔵守／藤原義輕」名の文書なので、上述のように、これを武蔵本人による印可状と認めるには根拠が不足している。 むしろ、「円明流系統図」にみえる落合忠右衛門光経という門人があったという情報から、この「義輕」名印可状が製作された可能性がある。それは、慶長十三年の年号をもつ水野日向守宛の、上記の「兵道鏡」甲本にしても同様で、水野日向守勝成が武蔵の印可門人だったという伝説をもとに製作された文書の写しなのである。 水野勝成（1564～1654）は家康の従弟で、慶長十三年当時は、三河刈谷城主、三万石の大名である。水野勝成が、武蔵の知友であったことは、武蔵養子・三木之助の存在や、さまざま事蹟史料から慥らしいとみなしうる。 しかしそれにしても、水野勝成が武蔵の印可門人だったというのは、明らかに眉唾だとして、この伝書は偽書扱いされている。それはそれで当然なのだが、他方、水野日向守宛文書が偽書で、落合忠右衛門宛文書はそうではない、とは言えないのである。落合忠右衛門宛文書も、それが「義輕」名文書である以上、水野日向守宛文書と同じく、後世製作された偽書である。 上述の『兵法先師伝記』の丹羽信英は、《先師廿五歳ノ比ヨリ、一流ヲ立ラル》と記す。つまり、先師（武蔵）が二十五歳の頃から一流を立てたというのだが、それはたぶん、武蔵が二十五歳の慶長十三年あたりの年号をもつ兵書を見たのであろう。それが、上記のような「義經」名文書だったらしい。 それが水野日向守宛文書であったかどうか、不明だが、とにかく、慶長十年代前期の「義經」名文書が出回っていたのである。言い換えれば、そんな偽書生産のブームの中で、水野日向守宛文書や落合忠右衛門宛文書も作成されたのである。時期は十八世紀中期である。 この偽書により、落合忠右衛門は慶長十一年に印可を受けた門人ということになってしまったが、享保六年の「円明流系統図」の多田祐久の段階では、むろんそんな話はなかった。多田祐久の段階では、まだ「義輕」名文書は存在しないからである。落合は、おそらく多田祐甫と同じように、元和寛永期の武蔵門人であろう。武蔵が本多家に親近して、姫路や龍野で教えた時期の門人と思われる。 さて次は、多田半三郎頼祐（祐甫）。この人が多田円明流のいわば元祖である。 ところで、多田半三郎は、落合忠右衛門と同じ時期、つまり慶長十一年あたりの印可相伝者であろうとする説が現在流布しているが、実は多田頼祐は慶長五年（1600）生まれである。いくらなんでも、六歳で印可は無理である。この点、現在流布している説は訂正を要する。 慶長五年生まれという世代を考慮すれば、多田半三郎は、少なくとも岡山から龍野へ帰ってきた元和五年（1619）以降の印可であろう。この時期武蔵は、慶長九年（1632）まで播磨を拠点としており、姫路城主・本多忠政や明石城主・小笠原忠政に親近していたし、むろん龍野城主の本多政朝とも同様であっただろう。 そして言えば、龍野城主は本多政朝が元和三年（1617）から寛永三年（1626）、小笠原長次が寛永四年（1618）から寛永九年（1632）まで、という次第なので、龍野は、姫路や明石と同じく、武蔵にとって所縁の町である。しかも、揖東郡宮本村が、その龍野領であったことは申すまでもない。元和五年以降、武蔵が龍野へ巡回して来て兵法を教えたということは、極めて確度の高いことである。 したがって、多田半三郎頼祐以下は、武蔵門人であると見なしうるが、前記のように、落合忠右衛門光経については、従来の説は問題が多い。 次の山田淤泥入は松平讃岐守に仕えたとある。この讃岐守が松平頼重（1622～1695）だとすれば、讃岐高松藩初代藩主（在任 1642～1673）で、勘定は合わないことはない。 しかしこれには少し疑問もある。山田治朗吉『日本劔道史』によれば、武蔵の姫路の門人・青木與右衛門泥入という者があったという。とすれば、この淤泥入は青木與右衛門のことか。しかし青木與右衛門が仕えたという松平（池田）政綱（1605～1631）は池田輝政五男で、赤穂藩の最初の藩主、着任は元和元年（1615）のことである。ただし松平政綱の方は右京大夫である。山田治朗吉の話には胡乱な情報が多いので、信憑するわけにはいかない。 あるいは、十八世紀後期の筑前二天流、大塚藤郷によれば、「深田泥入」という兵法者が、武蔵に試闘を望んだが、武蔵がたちどころに勝ってしまった。泥入は、すぐさまおのが術を棄て、武蔵の門弟となって修行した。後年に、師・武蔵の姓名を借りて、諸國を廻り仕合したという咄があったようである（世記）。 これなどは、山田でも青木でもない、「深田泥入」といういかにもという名であるが、この泥入が後年、姓名を借りて、つまり宮本武蔵守（？）と名のって、諸国を廻り試合して歩いたというから、話はより具体的だが、いづれにしても当面不詳とすべき話である。 |
*【円明流系統図】
○宮本武蔵玄信┐ ┌――――――┘ ├落合忠右衛門光経 │ ├多田半三郎頼祐―――――――┐ │ │ ├山田淤泥入 松平讃岐守仕 │ │ │ ├石川主税 本田出雲守仕 │ │ │ ├市川江左衛門 本田甲斐守仕 │ │ │ ├寺尾孫之丞――寺尾求馬 │ │ │ └柴任道隨重矩┬吉田太郎右衛門│ │ │ ├立花専太夫 │ │ │ ├河村弥兵衛 │ ┌――――――――――――――┘ └三浦源七延貞┴多田源左衛門祐久→ 多田円明流祖  慶長十一年 落合忠右衛門宛 円明流印可状 慶長十三年 水野日向守宛 兵道鏡甲本  近隣諸国関係地図
*【世記】
《或時ニ、深田泥入ト號ス兵法者、試闘ヲ望ム。武州立ドコロニ勝ヲ得タリ。泥入、即時ニ己ガ術ヲ廢テ、門弟トナリ執行セシガ、後年ニ師ノ姓名ヲ借テ、諸國ヲ廻リ仕合セシト聽ク》（藤郷秘函 巻之八） |
 姫路城天守閣
*【本多家略系図】 ○本多忠勝┬忠政┬忠刻 ｜ ｜ ｜ ├政朝―政長＝忠国→ ｜ ｜ ｜ └忠義―忠平 ｜ └忠朝─政勝─政利  石川主税・本多家関係地図
*【石川主税伝系図】
○宮本武蔵玄信―石川主税清宣┐ ┌―――――――――――――┘ ├由比正雪（？） │ └楠田圓石好政―国分九郎右衛門真恒→ |
その次の石川主税は、円明流系統図に「本田出雲守」に仕えたとある。これが本多出雲守だとすれば、本多忠政の弟の本多忠朝（1582～1615）。しかし忠朝は大坂陣で戦死している。安房大多喜城主だったから、石川主税はその頃からの家臣だったか。忠朝が死ぬと遺領は甥の政朝（忠政二男）が継ぎ、そして元和三年（1617）その政朝が最初の龍野藩主として龍野へ入部する。 もう一人の本多出雲守は、本多政利。姫路城主から大和郡山へ転じた本多内記政勝（1614～1671）の長男である。しかしこちらは大和郡山時代、本多政勝が死んだ年（寛文十一年）以後となるので時期が遅すぎる。とすれば、時期が合うという点で、やはり本多出雲守は本多忠朝、そうしてみると、出雲守忠朝は大坂陣で戦死しているから、石川は播州以前からの家臣である。忠朝遺領は甥の政朝が嗣いだから、石川は政朝に従って龍野へやってきたとみてよい。 龍野城主政朝は甲斐守。姫路城主・本多忠政の嫡子忠刻が死去すると、姫路城へ移った。本多忠政は二男政朝を後継に決めたのである。新しい龍野城主は、明石の小笠原忠政の甥・長次に変った。したがって、石川主税はこのとき政朝に従って姫路に移ったであろう。 そして寛永八年（1631）本多忠政が没すると、政朝が本多家を相続して姫路城主となった。ところが政朝が寛永十五年に死去してしまい、従弟の政勝が跡を嗣ぐことになった。政勝は、かの本多出雲守忠朝の遺児であり、ここで忠朝の系統が本多家を相続したのである。 本多政勝は姫路城主本多忠政の甥で、四万石を領したが、城持ちではなく姫路城に住んでいた。政勝は「鬼内記」「大内記」とあだ名されたほどの豪勇の者で、忠政を嗣いだ姫路城主本多政朝は、これを見込んで本多家の後を託したのである。寛永十五年、姫路城主政朝が死去し、その従兄の遺領十五万石を嗣いだが、翌年大和郡山へ転封した。あわただしいことである。 後述のように柴任道隨重矩（美矩）も大和郡山で本多政勝に仕えたが、政勝死後は出雲守の本多政利に仕えた。大和郡山では、政勝代の分限帳に、石川主税という名とともに、柴任に相当する名もある。両者は大和郡山で遭遇していた可能性がある。なお、本多出雲守政利は、その後明石へ転封、柴任重矩もそれに従って明石へ移ったが、のちにトラブルがあって、本多家を致仕している。本多政利は間もなく陸奥岩瀬へ改易され、まもなく除封となった。素行が原因という。 それよりも、石川とともに播州姫路から大和郡山へ移った武蔵関係者は、武蔵養子・三木之助の弟、九郎大夫である。三木之助は本多忠政長男・忠刻の死に殉死、弟の九郎大夫がその宮本家を継承した。ただし、大和へ移ってわずか三年して九郎大夫は死んでいる。 石川主税の伝系の一つは、石川主税→由比正雪と伝わったという説があるが、これは本多家臣の石川主税清宣を、『慶安太平記』等実録物の石川主税と混同したもの。近代の虚説である。 もう一つは、実際に存続した道統で、石川主税清宣→楠田圓石好政→国分九郎右衛門真恒…という系譜で、これが本多家中に伝承され、後に三河岡崎で存続した。岡崎に武蔵流が残ったのは、本多家が姫路を去った後、諸国転々して、明和年間に至って、最後にこの先祖の地の城主となったからである。伝書を見るに、不動剣、金剛剣という術名もあって、「武蔵流」と称した。 この武蔵流は、石川主税から楠田圓石好政へ、そして国分九郎右衛門真恒へ相伝して、以下本多家中において伝承され、明治まで存続した。十八世紀中期、本多家が三河に落着いてからは、尾張名古屋の円明流とも影響しあったものらしい。三十五箇条兵書など、尾張円明流伝書と共通するものがある。 |
 三河武蔵流免状 明治十二年 |
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さて、石川主税が江戸で、れいの林羅山賛新免玄信像というものを製作所持したという説がある。これはどういうことかというと、龍野円明流伝書あるいは三河武蔵流伝書の石川主税を、肥後系武蔵伝記にある「石川左京」と同一視したものである。 この林羅山賛武蔵画像について、肥後系武蔵伝記『武公伝』と『二天記』にそれぞれ次のように記している。
《武公門弟數輩ノ内、御旗本石川左京、武公ノ眞を寫シテ讃ヲ林道春ニ憑マル。板坂卜斎、价〔つかい〕タルヨシ。其語詞羅山文集ニ出、今コヽニ抄出ス》（武公伝）
ここにいう林道春が羅山（1583～1657）である。問題は、『武公伝』『二天記』にいう石川「左京」が、石川「主税」その人であったかどうか、ということである。石川左京＝石川主税というこの同一視が問題に付されたことはないが、一応ここでその根拠は洗い直す必要があることを注意しておきたい。《石川左京卜云人武藏ニ因テ道ヲ學ブ。武藏江府ニ別ルヽ時像ヲ書シテ是ヲ信仰ス。其讚ヲ林道春ニ請フテ書之、羅山文集ニ見エタリ。此ノ書ノ奥ニ出ス》（二天記） 参考までに、ひとつ資料をあげる。上述のように、寛永八年（1631）本多忠政が歿すると、二男政朝が本多家を相続して姫路城主となった。そのおり、甲斐守政朝が江戸から姫路の本多家重臣に送った書状の写しがある（本多要櫃記）。それを見るに、無事家督相続を認められたから安心してくれという内容であり、書状の宛先、本多家重臣ら列記の顔ぶれの中に「石川左京殿」という名がある。 本多家重臣らは、林・中根・梶・松下・都築ら忠政の家老連中以下重臣十四名。石川左京は武蔵当時、知行千百石である（御家中知行高附）。しかもこの左京家は、本多家中で後々までも存続する。 しかし、『武公伝』は石川左京を旗本だとし、『二天記』は彼を江戸住のように書いている。そこからすれば、この肥後系武蔵伝記の「石川左京」は、本多家家臣の石川主税あるいは石川左京とは無関係である。 むしろいえば、肥後系武蔵伝記の「石川左京」は、羅山文集所収「新免玄信像賛」の《石川左京某求之》とのみある記事から派生した臆説の所産である。したがって、諸資料との関連では、 ・龍野円明流伝書の「石川主税」 ・三河武蔵流伝書の「石川主税清宣（信）」 ・本多甲斐守書状の「石川左京」 ・羅山文集の「石川左京某」 ・肥後系武蔵伝記の「石川左京」 という五つの名があるのだが、前四者はそれぞれ関係を研究する余地がある。これに対し、肥後系武蔵伝記の「石川左京」については、これは実体のない臆説の人物であって、問題の埒外にあるというのが、我々の所見である。この辺りの諸問題については、本サイト［資料篇］の林羅山新免玄信像賛のページにおいて、研究が公表されているので、それを参照されたい。→ Link もう一人の市川江左衛門は、本多甲斐守に仕えたという。この甲斐守は、上述の本多政朝である。龍野城主、そして父忠政の跡を嗣いで姫路城主となった。市川江左衛門はその本多政朝に仕えたというところからすると、龍野と姫路で武蔵に学んだということになる。 ところで、ここまでの門人の印可／免許の別があって、前三者が「印可」だが、本多家中の石川主税やこの市川が「免許」である。免許に諸段階あり、それら諸段階をクリアして免許皆伝となって印可となる、ということもあるにはあるが、このこの系統図中の印可と免許の厳密な区別については不詳としておかねばならない。 ただし、武蔵がこのような印可・免許を授けたという点に関しては、これはそれを証する伝書が当時あったとしても、それは後世作成文書であろう。武蔵がだれかに印可したことを証する相伝証書は、写本でさえ見つかっていない。ようするに、他流のような相伝証書は、武蔵に関しては存在しない。この点は注意を喚起しておく。 ともあれ、本書「円明流系統図」にみえる以上の五人について整理すれば、 印可 落合忠右衛門 浪人？ 印可 多田半三郎 龍野円光寺住持 岡山城主池田忠雄家臣？ 印可 山田淤泥入 赤穂城主松平政綱家臣？ 免許 石川主税 姫路城主本多忠政家臣 免許 市川江左衛門 龍野城主本多政朝家臣 こうしてみると、これらは皆、播州に関わる者らである。少なくとも、多田円明流の系統図によるかぎりにおいて、武蔵の直弟子は播州に限られるのである。その時期としては、落合忠右衛門を含めて、おそらく本多家播州入部以後のことである。したがって、三木之助や伊織を養子にして、姫路と明石で二つの宮本家を設けた武蔵播州時代の門弟ということである。 |
 武公伝 当該記事
*【本多甲斐守書状】  円明流系統図 |
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