*【丹治峯均筆記】
《元禄十四年辛巳四月、東府ヨリ御下國ノ節、摂州兵庫御泊船、明石ヱノ御暇申上、鶏鳴ニ兵庫ヲ發足シ、明石ヘ相越、柴任面會、終日稽古セシナリ。柴任妻[大原惣右衛門妹。翌年卒ス]、此時迄ハ息災ニテ、夫婦悦ビニタヘズ。其外、婿ノ橋本七郎兵衛、同人一男善兵衛、二男柴任源太郎、三男大原清三郎、七郎兵衛婿弟等、一類中コゾリテ饗セリ。同夜半兵庫ヘ帰着ス》
*【柴任美矩子孫】
○本庄喜助┬本庄角兵衛
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└柴任三左衛門
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┌女 柴任妻
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大原勘右衛門┴惣右衛門┐
┌――――――――――┘
├惣右衛門 無嗣廃絶
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└女 柴任養女
├─――┬善兵衛
橋本七郎兵衛 ├柴任源太郎
└大原清三郎

柴任夫妻墓 側面背面 雲晴寺墓地
*【本庄家別冊家系譜】
《其後宝永七年閏八月廿日卒于明石領中ノ庄。子孫無シ。号一鑑道随》

明石城
*【本庄家別冊家系譜】
《其後[年月不分明]、大和郡山太守・本多内記殿ニ被召出、食禄賜四百石。同家中大原勘右ヱ門女ヲ嬰ル。無子ヨツテ、兄正薫妻ノ姪・浦上十兵ヱ女ヲ養女トシ、彼地ニ連越居住ノトコロニ、其女無程病死。本多侯モ身上被滅ニ依テ、暇ヲ乞、又々江戸エ趣ト云々。 寛文七年一族中見廻ノタメ肥後エ来、無程江戸エ趣ト云々》
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『丹治峯均筆記』の記事によれば、元禄十四年(1701)に立花峯均が明石の柴任宅へ行って、柴任から稽古をつけてもらったとき、これは摂津兵庫湊からの日帰りであったが、上述の水主町のはずれの柴任宅へ、一族の男たちが集って歓待してくれたという。
そのとき峯均を歓迎した人々は、柴任夫婦(柴任妻は翌年死去)、そのほかに「婿ノ橋本七郎兵衛」とその子どもらの名がある。ちなみに橋本の男子は三人、それに「七郎兵衛婿弟」まで来たというから、嫁にやった娘がいたのである。
『丹治峯均筆記』には、柴任妻は翌年卒と書いている。このときは、元禄十四年(1701)である。翌年というと、元禄十五年(1702)である。これは、上に見た雲晴寺の墓碑の刻字と一致する。すなわち、柴任妻の歿年は、雲晴寺の墓碑と『丹治峯均筆記』の記録とで一致する。
立花峯均は、翌々年明石を再訪するから、この間に死去した柴任の妻のことが印象深く記憶に残り、ここに割註して記したのであろう。
しかし他方、墓碑だけが記す情報もある。それは一つには、柴任妻の命終日が元禄十五年の十月十八日だったということである。もう一つは妻の名である。法名は別にして、女性の俗名は残らない時代だが、この墓石にはそれが記してある。柴任の妻の名は「岩」、つまりお岩さんなのであった。
他方、『丹治峯均筆記』には、橋本七郎兵衛の息子たちの名を記載している。
(長男) 善兵衛
(二男) 柴任源太郎
(三男) 大原清三郎
これをみるに、善兵衛は橋本七郎兵衛の嫡男で、橋本家の嗣子であろうが、二男と三男が、「柴任」源太郎、「大原」清三郎とあって、「橋本」ではない。つまり、橋本二男の源太郎は柴任の家を嗣ぎ、三男の清三郎が柴任妻の実家・大原家を嗣いでいるということである。
これを雲晴寺の墓碑で確認すると、柴任美矩の墓の建碑者として、「柴任右傳士重正」と「大原清三郎正矩」の連名がある。二男のこの「右傳士」というのは珍しい名である。柴任源太郎は後にこの名を称したのである。もう一つ注意したいのは、この両人の諱記載は、他の文献史料にはないことで、雲晴寺墓碑のみが伝える情報である。
柴任右傳士重正
大原清三郎正矩
しかも、こうしてみると、柴任の晩年の諱「重矩」を、二人それぞれ偏諱して与えている。これで、源太郎と清三郎、七郎兵衛の二男三男が、祖父母である柴任夫婦の養子になったという傍証を得る。
あるいはまた、大原清三郎が祖母・岩の墓に、「孝子」と記すのも、母を亡くした子としてである。養子は擬制の親子関係だが、養子になった以上は、こうして、祖母の墓に「孝子」と記すのである。
この建碑者の名を見るに、雲晴寺の柴任墓の建立時期がわかる。これは後の子孫が建てたのでなく、孫である二人の養子が、柴任歿後まもなく建てたものである。柴任は上記のように宝永七年(1710)卒であるから、そのころである。また、柴任妻の墓碑にしても、夫の墓と同じ様式のものであるから、おそらく夫婦両墓として同時に建碑したものであろう。
源太郎と清三郎はこの祖父母所縁の柴任・大原の両家名を継いだのである。言い換えれば、柴任は一族のゴッド・ファーザーとして、妻の実家・大原家も、そして自分の柴任家もちゃんと後嗣を設けていたのである。
しかるに、肥後熊本の柴任実家・本庄家の子孫は、柴任に子孫はなかったという誤伝を記している。つまり、本庄家別冊家系譜には、柴任美矩に「子孫なし」とする記事がある。おそらく、柴任死後は明石との関係が途絶したのであろうが、「子孫なし」と記すとは、この資料の信憑性のなさが窺われるというものである。
これに関説して云えば、柴任関係資料としての本庄家別冊家系譜の本文に関する限り、おおむね柴任最晩年の情報しかなかったようで、しばしば誤りが露呈されている。
たとえば、姫路本多家を致仕した柴任が明石へ戻って、橋本七郎兵衛宅に同居したとあるが、この橋本七郎兵衛を「松平左兵衛督家中」と記す。これは、柴任晩年ならいざしらず、姫路から明石へ立ち帰ったときのことだとすれば、これは「松平若狭守家中」と記すべきである。若狭守直明が隠居して嫡子の直常が家督相続して左兵衛督になるのは、まだ先の話である。これをみるに、別冊家系譜の本文は、最晩年の情報をもって遡行させる傾向にあると言える。
また、柴任が姫路から明石へ戻って、橋本七郎兵衛宅に同居して「中ノ庄」に住んだというくだりがあるが、これは柴任が最晩年橋本七郎兵衛宅に同居し、またその卒地が中ノ庄の橋本宅であったことから、このように記したものであろう。つまり、これも情報の欠落を埋める遡及的構成の一例なのである。
柴任の住所については、元禄十四年と同十六年に実際に柴任宅を訪問した『峯均筆記』の立花峯均の記事に分がある。すなわち、立花峯均が訪れた柴任宅は、「水主町のはずれ」にあったというから、これは中ノ庄、つまり中庄村とは別の場所である。
総じて云えば、本庄家別冊家系譜という柴任関連資料は、それが収録した柴任書状や宛行状(折紙)写しには一定程度信憑性があるが、家系譜の本文となると、憶測で記しており、信憑性に欠ける記事がみられる。
たとえば、『峯均筆記』で大原家家督問題から柴任が本多家を致仕したとある一件では、別冊家系譜はこれを「本多侯身上被減」、つまり本多家が家禄を削減されたためだ、と記している。しかもその時期たるや、前後の文脈からして、柴任が親族見回りのため肥後へ一時帰ったという寛文七年以前である。「本多侯身上被減」というのも事実ではないが、これをかりに例の九六騒動のことだとすれば、それは寛文十一年本多正勝が死んだ後のことで、当然時期が合わない。またこれが、本多政利が明石転封後改易されたことを指すとすれば、これは天和二年(1682)のことで、もっと時期がずれる。そうなると、別冊家系譜が記す「本多侯身上被減」は、どこにも該当する事件がないのである。
ところがその反面で、別冊家系譜が記す肥後に関係する記事には、無視できないものがある。たとえば、柴任が浦上十兵衛の娘を大和郡山へ連れて来て養女にした、というくだりである。この肥後から来た養女は、兄嫁の姪にあたるが、大和郡山に来て間もなく死亡したという。これは『峯均筆記』にはみられない記事で、柴任の兄嫁の実家・浦上家と関係がなければ書けない記事である。
このように本庄家別冊家系譜の本文記事には、信憑性のレベルにかなり幅がある。それを斟酌した上で、この柴任関係資料を通り扱うべきである。
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