宮本武蔵 サイト篇
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現地徹底ガイド 佐用郡平福村  (兵庫県佐用町平福)  Back   Next 
 通説によれば、佐用〔さよう〕郡平福〔ひらふく〕村(現・兵庫県佐用町平福)は宮本武蔵の関係地である。どういう関係地があるかというと、以下の諸スポットである。
 (1)武蔵初決闘之地碑
 まさに、武蔵が十三歳のとき初めて決闘したのがここだというわけである。たしかに武蔵の『五輪書』には、十三歳のとき新当流有馬喜兵衛なる者と決闘して勝ったとある。ところが、それがどこなのか、書いてはいない。
 したがって、初めて決闘した地が、ここ平福村であるというのは、後世形成された伝説に基づくものである。その史実性となると、これを決定する証拠は残念ながらない。
 (2)田住家
 さらに、当地が武蔵関係地だという話は、何と武蔵の母が後妻で再嫁してきたという家伝を有する家がここにある。すなわち、武蔵本のどれにでも紹介されている田住家である。その子孫が現存し、今も大きな屋敷を構えておられる。
 武蔵の母再嫁という記事のある田住家系図は、ふだん公開されていない。それが、今年(平成十五年)は地元の平福郷土館で公開されている。ぜひ見てみたい。
 (3)庵 村
 次に、これはあまり知られていないが、武蔵が生まれたのは、ここだ、という村がある。つまり、平福村から東北に約二キロほどの庵村(現・佐用町庵)に、作州宮本村の平田家の縁戚だった平田家あり、武蔵が生まれたのは、作州の平田家ではなく、ここ播州側の平田家だという伝承がある。
 そういうわけで、武蔵生家については、本来はこの両平田家が同等の権利を主張しうるはずであるが、美作出生説があまりにも強力で、こちらは影が薄い。地元の案内パンフさえ、これの伝承を無視している。
 それゆえ、この庵村へ行っても、ざんねんながら、ここが武蔵の生家だという標識さえない。
 とはいえ、その代わりにというわけでもなかろうが、少年武蔵が叔父で僧になった人のところへ身を寄せたという伝説の方は「公認」されているらしく、それで、庵村の「正蓮庵」こそ、その伯父のいたところ、武蔵はここへ身を寄せた、ここから平福の初決闘之地へ赴いたのだというわけである。

 したがって、佐用郡平福村に関しては、以上の三つの武蔵スポットを案内することにする。あわせて、ディープな必見スポットも紹介しよう。




播磨武蔵関係地マップ
佐用郡平福村:兵庫県佐用町平福

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 まず、兵庫県佐用〔さよう〕郡佐用町は、どこにあるか。
 大阪から西へ約百キロの姫路市からすると、北西の内陸部へ約五十キロほど入った県境の土地である。岡山県大原町へはここから入る。この道はむかしは因幡街道と言っていた。
 さて、どうやってこの佐用町へ行くか。鉄道か、車か。

 【鉄道利用のケース
 いちばん多いのが電車にのって行く人だろう。東から行く人で、新幹線なら「姫路」駅まで行く。そこで、在来線に乗り換える。
 姫路駅は、姫新〔きしん〕線の始発駅だから、この姫新線に乗れば、佐用まで行ける。しかし問題は、姫路から佐用まで到達する列車の便が、あまりよろしくないことである。
 そこでまず、本線(昔の山陽本線)で、岡山方面行きの電車に乗る。
 どこまで行くかというと、「上郡」〔かみごおり〕という駅である。姫路駅からは各駅停車で四十分ほどか。
 もし、姫路駅で「播州赤穂」方面行きというのに乗ってしまったら、上郡の手前の「相生」〔あいおい〕という駅で下りて、次の電車を待つ。そうしないと、忠臣蔵の方へ行ってしまう。
 西から行くばあいは、新幹線で岡山駅まで行き、同じように在来線に乗り換える。山陽本線で「上郡」まで行く。
 新幹線のばあい、東からでも西からでも、「相生」駅まで行ける。ただし、こだましか停まらないから要注意だ。
 さて、この「上郡」駅では、「智頭急行」という線へ乗り換える。「智頭」という字は「ちづ」と読む。
 智頭急行は、兵庫・岡山・鳥取の三県を通る第3セクターのローカル鉄道で、「上郡」が始点とすれば、その終点が鳥取県の「智頭」駅である。
 この鉄道に乗れば、途中「佐用」駅を通り、そのまま「平福」駅まで行けるのである。(むろん、次に紹介する予定の作州宮本村の「宮本武蔵」駅へも、そのまま行けるわけだ)
 姫路から姫新線で入った人、あるいは、岡山から津山経由で、やはり姫新線で行く人も、この「佐用」駅で下りて、智頭急行へ乗り換えると、「平福」まで行ける。
 鉄道利用のばあい、もう一つ、比較的乗り換えなしで、ここまで行ける方法がある。それは、京都あるいは大阪始発の「スーパーはくと」という特急があるので、これを利用することだ。この特急で「佐用」まで行って、そこで各駅停車の列車に乗り換えて、「平福」まで行く。
 この特急だと、「佐用」駅まで、大阪から一時間半、姫路から四十分弱で着く。で、関西方面から行く人には、この特急がおすすめ。もっと遠方から行く人なら、新幹線で姫路駅まで行って、この「スーパーはくと」に乗るというのが一番早い。
 しかし、特急であれ、各駅停車であれ、問題は本数が少ないことだ。時刻表をチェックして行かないと、予想外の時間がかかってしまうから注意。


鉄道マップ


智頭急行路線図
がんばれ、3セク智頭急行。


 智頭急行時刻表 
 【車で行く人の場合
 目的地が田舎なので、車で行けば機動力があっていい。それで、車で行く人も少なくあるまい。
 車で行く場合のポイントは、中国道の「佐用」インターまで行くということだ。
 ストレートに中国道で行けない人は、姫路近辺から播但道で「福崎」インターまで行って、そこで中国道にのるのがいい。
 少し田舎道をドライブしたいという人は、山陽道の「龍野」インターで下りて、国道179号で、龍野→新宮→三日月→佐用と行けばいい。途中、新宮町で左折ポイントがあり、南光〔なんこう〕町の徳久〔とくさ〕駅前交差点で右折ポイントがあるが、それ以外は一本道、のんびりドライブを楽しめる。
 この国道179号は、前掲・揖東郡宮本村(現・兵庫県太子町宮本)の近所から始まるから、こちらとセットで車で行けるだろう。
 岡山方面からは、国道53号で津山まで行って、「津山」インターで中国道にのり、「佐用」インターで下りる。
 この中国道「佐用」インターで下りて、料金所を出ると、すぐ国道373号。これを左折して北上、一キロ半ほど走れば、平福である。
 なお、山陽道に「播磨」ジャンクションが最近できて、播磨道という新しい高速道路が「三日月」インターまで開通した。この播磨道は、将来、佐用・大原・鳥取まで伸びる。そうなると、これが便利だが、現在は途中までしか開通していないから、まだあまり利用価値はない。


道路マップ

*【秘境情報】 とろろ飯
国道179号線ドライブの途中腹が減ったら、とろろ飯のうまい店がある。三日月駅前から志文川に沿って走ること約四キロ、真宗という村にある。ただし売り切れ御免で、午後は夕方までには閉まってしまうようなので、昼飯時に。

おもて家 三日月町真宗一五八
Tel 0790-79-2491
 【平福を歩く
 さて、平福である。小さな町だから、歩いて回るのがよい。
 智頭急行で来た人は、「平福」駅で下りる。駅は無人駅、目の前に田園が広がる。正面が平福の町である。佐用川に架る橋を渡って平福の街道町に入る。
 車で来た人は、国道373号沿いに「道の駅」があるから、そこの駐車場に車を入れる。ここでまず休憩するのもいい。平福のマップを入手して、お茶を飲みながら、散策の順序を検討するとよい。
 まずは、旧街道の十字路まで出て、本陣址を見て、それから街道筋を南へ行く。途中、案内表示が出ているから、平福を代表するイメージである川端景観保存地区を、橋から眺める。
 ここは文句なしの眺めである。
 むかし、篠田正浩監督映画「鑓の権三」で、京の伏見の湊のシーン、実はここの川端を撮ったのだった。懐かしの名画になるが、近松門左衛門原作、岩下志麻と郷ひろみが主演、観て損はない映画である。



平福ガイドマップ

川端の家並み景観
 ここをひとまず見たら、次に街道筋をさらに南へ下る。宮本武蔵初決闘之地碑のあるところまで行く。
 しばらくぶりに行ってみると、ここも整備されて、ずいぶん小奇麗になっている。大河ドラマ「武蔵」にあやかっての公園化らしい。昔は刑場跡であり、六地蔵が憂鬱に並んでいる墓地みたいな一角だったが。
 大正十五年(1926)の『佐用郡誌』(兵庫県佐用郡発行)には、十三歳の少年武蔵が有馬喜兵衛を切ったのは、ここだとしている。十三歳のとき武蔵が有馬喜兵衛を破ったことは『五輪書』の有名な記事だが、どうしたものか、その場所がここなのである。

平福村の松原
 平福村平福南端の川原、土地は宗行に屬す。
 田住村田住助兵衛政久は田住太郎左衛門定道の養子(實父は揖東郡神中城主大國半左衛門正俊)にして妻は定道の女なりしが、二男を殘して死す。その後別所左衛門林治(定道の弟)の女美作國宮本村平田無(又は武)二に嫁し一男を挙げし後ち無二死没せしを以て生家別所家に歸りて政久の後室となりしが、平田家に産みし一子幼名七之助または友次郎また傳 (後に武藏)實母を追慕し來りて別所家に食客す。其時平福町に博徒を以て暴行至らざるなき有馬喜兵衛なるものあり。新當流の達人といへども村内の平和を破り一般より蛇蝎の如く忌み嫌はれしかば、平田傳幼にして之を憎み、或時之れと口論し此松原に於て立會ひ、彼れ喜兵衛を一刀のもとに伐り伏せ其身は處定めず行衛を晦ましたり。此時傳齢十三歳なりと云ふ。(田住氏所有の書にあり)即ち平田傳は宮本武藏の幼名なり。或本に喜兵衛を劒客の如く記しあれども左にあらず浪人體のものなりしならん。 (佐用郡誌)





武蔵決闘之地碑








*【宮本村平田系図】
《平田武仁正家
真源院一如道仁居士 天正八年四月二十八日卒川上村岡屋敷、五十三才。霊陽院義昭公の時於帝都与吉岡扶桑瑞一者決勝負勝利得此号給記録有之略 妻者宇野新次郎宗貞ノ娘於政 天正十二年三月四日卒、四十八才 光徳院覚月樹心大姉》

*【川上村平田系図】
《平田武仁正家
真源院一如道仁居士 天正八年四月二十八日。光徳院覚月樹心大姉 於真佐》




*【江海風帆草】
《武蔵ハ、小舟に乗て、小倉の地江帰る。武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、弁之助[此時迄武藏が名を弁之助と云なり]只今立のくぞ」と云ひければ、死せる宗入、又立あがり》

*【丹治峯均筆記】
《弁之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。(中略)其比弁之助ハ津ノ國邊ニアリ。隨仕ノ輩モアリトカヤ》

個人蔵
元祖宮本辨之助肖像



有馬喜兵衛 武稽百人一首
「法は釈迦、武道のことは、われに
問へ。天上天下、唯我獨尊」



*【五輪書】
《われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者にうち勝》

*【丹治峯均筆記】
《十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ来リ、濱辺ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス。辨之助同輩ノ童ト手習ニ行キ、帰リガケニ其高札ヲ見、手習筆ヲ以テ高札ニ墨ヲヌリ、何町何方ニ居リ申ス宮本辨之助、明日試闘可致旨記之、菴ヘカヘル》



播磨武蔵関係地マップ(再掲)
 平福が武蔵初決闘の地だという話は、武蔵の評伝や小説がこぞって書いてきた。その話は元はといえば、この『佐用郡誌』の記事なのである。それゆえ、この記事を検証してみる必要があろうというものである。
 この記事によれば、田住定道の聟養子に田住政久という人があり、妻(定道の娘)が死んだので、後妻をいれた。この後妻は、別所林治(定道の弟)の娘で、美作国宮本村の平田無二に嫁して、一男をもうけたが、無二が死んだので、実家へ出戻った。そこで田住政久の後妻になった。
 ところで、この政久の後妻が、平田無二との間で産んだ一子が、要するに宮本武蔵その人だという。つまり、武蔵の実母は、別所林治の娘で、武蔵を産んで、平田無二の死後、平福の田住政久に再嫁したというわけである。
 もちろん、美作側にはそんな話はなくて、平田系図によれば、平田武仁正家の妻は、新免宗貞の娘で於政(於真佐)である。しかも同系図によれば、平田武仁は天正八年歿、五十三歳である。また、於政は天正十二年歿、四十八歳である。つまり平田武仁は、武蔵が生まれる四年前に死去している。平田武仁が死んだ時、武蔵はまだ生まれていないのだが、平田系図では、武蔵は平田武仁の子とするのである。それはともかく、平田武仁が死んだ後も於政という妻が天正十二年まで生きていたのである。
 ようするに、美作側の平田家では、平田武仁の妻が播磨平福の別所林治の娘だったという話はない。また、子供の武蔵が実母を慕って、平福へ行って別所家に居候した、というような話もない。この平福の伝説は、美作側の平田家では、容れる余地がなく却下されるのである。
 つまりは、美作サイドからすると、平福の人間が勝手にデッチ上げた虚説というわけである。近隣での我田引水合戦というところであろうが、平福の伝説は、美作側の平田無二を取り込んでいるから、二次的派生の伝説である。
 ところで、『佐用郡誌』の記事には、武蔵の幼名を「七之助または友次郎また伝」だという。これも伝説変異で、しかもあれこれ諸要素が複合している。「七之助」「友次郎」という名は、どちらも講談小説本の類にあるもので、筆者はそれを見て書いたらしい。もちろん、これらの名は平福の固有伝説ではない。「宮本無三四」と書かないだけ、まだマシという程度のことである。
 では、「伝」という方はいかがか。これは「でん」と読むとみえるが、なぜ武蔵の幼名が「でん」なのか。
 これは実は、伝聞の聴き誤りなのである。もともと江戸時代から九州に、武蔵の幼名は「弁之助」だという伝説があった。その「弁」(べん)が転訛して「伝」(でん)に変化したのである。これも、平福の固有伝説ではなく、大正期の筆者の段階での誤伝である。
 話がだんだんあやしくなってきたが、以下の有馬喜兵衛との話は、他では見ないことなので、どうやら平福の固有伝説らしい。
 つまり、『佐用郡誌』の話はこうである。――(武蔵が実母を慕って平福へ来て別所家に居候していた)そのころ、平福の町に、博徒で暴行至らざるなき有馬喜兵衛という者がいた。ようするに、乱暴者のやくざである。喜兵衛は新当流の達人だったが、村内の平和を破り、村中の者から蛇蝎のごとく忌み嫌われていた。「平田伝」(武蔵)は少年ながら、喜兵衛を憎み、あるとき、喜兵衛と口論し、そうしてこの松原で決闘をして、かの喜兵衛を一刀のもとに切り伏せた。
 なんと、新当流の達人、有馬喜兵衛は、平福では、乱暴者の博徒で、村中の鼻つまみ者なのである。その喜兵衛を退治した少年武蔵は、村内のヒーローのはずだろうが、どういうわけか、その身は所定めず行方をくらました。この時、「伝」少年は年齢十三歳という。これは「田住氏所有の書にあり」と筆写は記すが、それがいかなる文書か明らかではない。
 筆者いわく、「平田伝」は武蔵の幼名である。ある本に、喜兵衛を剣客の如く記しているけれども、そうではない。浪人体の者であると。
 というわけで、ここ平福では、九州の「宮本弁之助」が「平田伝」に変異したばかりか、新当流の兵法者・有馬喜兵衛はやくざ者にされてしまっている。これが伝説変異の最も大きいところである。武蔵が十三歳にして有馬喜兵衛を打ち倒したという話のネタは、すでに江戸時代から知られていたし、有馬喜兵衛にしても、幕末の『武稽百人一首』に掲載されるほどの存在であった。だが、平福では、この決闘を我田引水しただけではなく、なんと、その有馬喜兵衛を、地元のやくざ者にして貶めてしまったのである。
 これは、悪漢退治の英雄譚のパターンをなぞったものにすぎない。それに対して『武稽百人一首』には、有馬喜兵衛について、《この人、武人に有ながら、篤実温厚にして、朋友に信あり。実に古今の英士といふべし》とあって、平福の伝説とはまったく正反対である。それがおもしろい。いわば平福の伝説は、有馬喜兵衛についてのそうした一般のイメージを知らないところで発生した、ローカルな話なのである。
 言い換えれば、これが平福の固有伝説である。今日一般には、この平福で十三歳の武蔵が有馬喜兵衛を打破ったという話しか述べない通俗武蔵本がほとんどである。ところが、有馬喜兵衛は剣客どころか、地元のやくざ者だったという肝心の説話素を言わない。それは、『佐用郡誌』を読んだこともない連中だからである。
 ようするに、平福が武蔵初決闘の地だとするのなら、当然、有馬喜兵衛は、剣客どころか、地元では鼻つまみ者のやくざだったとしなければならない。平福が武蔵初決闘の地だという説と、有馬喜兵衛は博徒だったという説は、不可分なのである。一方だけを取って、他方を捨てるのは、固有伝説の破壊である。
 そしてむろん、そんなやくざ者に打ち勝ったことを、晩年の武蔵が『五輪書』に書くかよ、ということもある。だから、武蔵が『五輪書』に《新當流有馬喜兵衛と云兵法者》と書いたのならば、有馬は博徒ではなかった。そして同時に、その決闘の場所は、――この平福ではなかったのである。
 武蔵十三歳の最初の決闘について、小説をはじめ通俗武蔵本に話のネタを提供しているのは、『丹治峯均筆記』(享保十二年)である。同書によれば、武蔵が十三歳の時、新当流の兵法者で有馬喜兵衛という者が播州にやって来た。浜辺に矢来を結び、金磨きの高札を立てて、試合を望み次第いたす旨、それに書き記した。弁之助は、同輩の児童と手習に行った帰りがけにその高札を見て、手習筆で高札に墨を塗り、何町何方に居り申す宮本弁之助である、明日試合しようとの旨を記し、(叔父の)庵へ帰った、云々ということである。
 ここには、むろん決闘の地が平福だと書いていないし、有馬喜兵衛は播州にやって来たのであって、平福に住み着いていたという話ではない。それにそもそも、「浜辺に矢来を結び」とあるように、これは「浜辺」、つまり決闘地は、播磨の海辺なのである。
 平福は、歩けば海までまる一日はかかる山間の地、どうして海辺であろうか。武蔵は叔父である僧の庵に身を寄せて育ったという話もふくめて、『丹治峯均筆記』の物語からあれこれ説話素を引いて、ストーリーが捏ねまわされているのだが、この決闘地が播磨の海辺だったという肝心なポイントは、どういうわけか、無視されてきたのである。
 とにかく、十八世紀前期の江戸時代まで遡れば、この山間の平福が、武蔵最初の決闘の場所だったということはありえない話である。平福が武蔵初決闘の地だと言い出したのは、すくなくとも明治以後のことである。
 というわけで、埒もない話になってしまったが、伝説は地域の伝説として尊重しなければならない。武蔵について、平福ではこんな伝説が明治のころ発生していた、ということである。そういう意味で、武蔵関係地なのである。

利神城址の山

平福駅と利神城址

利神城址から平福の町を望む
 さて、平福の「武蔵初決闘地」のそば、ここに佐用川を渡る橋がかかっている。「金倉橋」という。これを渡って、対岸の田畑の中の道を回ってみよう。対岸から川端の町並みを眺めることができる。
 平福の町のどこからでも、東の山の上に、利神城址が見える。山上に登る時間と体力があれば、登ってみるのよい。急坂を三十分ほど、山頂である。
 山上からは平福の町が眺められる。戦国期の山城がどんなものだったか、よくわかる。平福は文字通り城下町だったのである。
 利神城址へ登る登らないは別にして、再び街道の十字路へ出て、こんどは北の方へ歩く。すぐに田住家の長屋門がある。
 この立派なお宅は現住住居である。公開されていない。門から中へ入ってはいけない。外から眺めるだけである。
 そこから北へ行くと、十字路に出る。ここを西へ左折すると、まもなく平福郷土館である。

平福郷土館 駐車場あり

平福郷土館の建物
 ここは昔、牢屋敷だったとか。しかし見ると民家みたいで、あまり役所らしくない、しっくり落ち着いたよい建物である。
 目当ての「田住家系図」が展示されているのを見る。なかなかお目にかかれなかった代物である。むかし福原浄泉が、見せてほしいと頼んでも見せてもらえなかった、という文書である。それが公開されるとは、まさに隔世の感がある。
 武蔵美作出生説では、武蔵の母は新免氏於政〔おまさ〕とするが、田住家系図では、別所林治〔しげはる〕の娘・率子〔よしこ〕とする。彼女が、田住政久に再嫁したのである。
 このことの史実性如何については、本サイトの[資料篇]の中で述べられている。年齢の点で、別所林治の娘が、天正十二年生れの人間の母になりえない。幼すぎるのである。
 平福郷土館の二階に、利神城の大きな模型があった。天正八年、別所林治は敗れてこの城を落ちのび、行方知れずになったという。同じ年、三木城の別所長治は一族全員自決した。いずれにしても、秀吉の播磨制圧過程で滅亡した一族である。
 郷土館を出て、そのまま街道筋をもどると、知る人ぞ知る、醤油の「たつ乃屋」がある。おばあさんが店番をしてなさる。旅の土産の穴場である。自家製の醤油・味噌・もろみなどよい品がある。



田住家長屋門


田住家系図(部分)
後妻は宮本武蔵の母なり




たつ乃屋(醤油)
 【庵村へ行く
 かくして、一通り平福の町を歩いたら、庵村へ行く。ここから先は、本サイト徹底現地ガイドの特徴として、話はややディープになる。
 庵へは、前掲のガイドマップで、平福郷土館の前の道を、川を渡って東へ行くのである。
 平福から約二キロ、田舎道を走ると、庵村である。前述のように、この庵村の平田家が武蔵の生家だという異伝がある。武蔵はいろいろなところに生家をもっているわけだ。
 しかし民俗学的関心からは、右に掲げるように、この平田家が「餅つかぬ家」だったところが、まず興味のあるところである。
 当時の平田家は少し小高い丘にあって、ずいぶん広い屋敷であったようだが、この屋敷は残っていない。もし残っていたら、それこそ「もうひとつの」武蔵の生家平田家であっただろう。観光地になるほど有名になるかならないかは、まさしく偶然によるのである。
 この庵村平田家については、もうひとつ伝説があって、それは正蓮寺という寺の移転にまつわる話である。
 庵村の奥の和正谷に行者山という山がある。その山上の洞窟にかの役小角〔えんのおづの〕の石像があり、行者の修行場だったらしい。今でも五月五日の行者講に法要を行っている。
 この山へ天竺の法道仙人が来て住し、また後に行基がやってきたという伝説があり、庵村に一寺を建立して正蓮寺とした。
 永禄の頃、この正蓮寺を平福へ移転することになった。国道の「道の駅」の脇にある正覚寺がそれである。つまり正蓮寺は現在の正覚寺の前身なのである。
 ところが、移転と決まって、正蓮寺の本尊・阿弥陀仏を平福へ持ち運ぶ道中、平田家の前まで来ると、本尊が急に重くなって動かなくなってしまった。それで、とうとう平福へ持って行くことを断念して、平田家の屋敷つづきに小庵を造り、動きたがらないこの本尊を納めた。これを正蓮庵と称した。

庵の集落

*【庵村平田家】
《平福の庵村平田家は作州竹山城家老平田将監の一門であり、八十石取りの武士であったが、慶長五年関ケ原の戦に西軍に属して主家が没落したため落ちのびて下庵の地に住みついたものである。武士をやめて百姓になったとはいえ、苗字帯刀を許され、広い屋敷には土塀をめぐらし、門を構えていた。下庵岡田宇吉家の前から山に通ずる道を登ると山裾に、平田家の古い墓地があって、苔むした墓がならんでいる。寛政六年の墓に庵村庄屋平田俊蔵としるされたものがあり、平田家が庄屋をしていたことを証明している。
 庵村では、お盆の十四日の朝、餅をついて小豆あんをまぶし、仏前にお供えするのがならわしになっているが、平田家の姓を継ぐ家ではお盆に餅つきをせぬことになっている。また、お精霊さまを川へ送るのは下庵では十五日の明け方であり、上庵では十五日の夕方であるが、平田家だけは十五日の十時頃に精霊流しをすることになっている。
 二百年あまり前の宝暦年間のことだという。村のならわし通り、十四日の朝お盆の餅をついていた庄屋の平田家では、火を取り放ち立派な邸宅を全焼し、村の人にたいへん迷惑をかけ自分の家も村の人も、お盆の餅を作ることが出来なかった。
 そのことがあってから平田家では、お盆がきても餅をつかぬことにして、村の人に迷惑をかけたことを思い出し、報恩感謝の一日を送るようにした。そのならわしが、平田の姓を継ぐ家にうけつがれ、現在もなお昔のままに行なわれているのだという。
 お精霊流しのことについては、何も言い伝がない》(井上隆基「お盆の餅」『文化時報』)
 この正蓮庵は永禄十年(1569)から大正まで平田家の傍にあった。大正十二年(1923)に庵神社を再建するになったのを機に、正蓮庵も、もと正蓮寺のあった寺屋敷にもどして新築移転した。それで今は、正蓮庵が庵神社と並んで建っているというわけである。
 道路沿いの丘の麓に、この庵神社(吾勝速日神社)と正蓮庵がある。平福から行くと、小さな谷あいの田畑の向うに見えてくる。
 ここに少年武蔵が身を寄せたという話がオーソライズされたのは、ここ半世紀のことである。それまでは、武蔵が庵村の平田家で生まれたという伝説と同様、ごくローカルな伝説であったにすぎない。
 しかも、大正十二年までは、正蓮庵は平田家の傍にあったのだから、かりに少年武蔵が正蓮庵に身を寄せたとしても、そこは少なくとも現在の正蓮庵の場所ではない。したがって、武蔵関係地をセールスポイントに村おこしをするなら、まず、元の平田家の屋敷を整備することであろう。
 現在の正蓮庵はむろん無住で、個人がボランティアで堂守りしている。これという特徴のない小庵で、大正期に建てた安普請。観光整備以前の段階である。しかも、平福へ行くのを嫌がって動かなくなったという仏像は、無惨にも「修理」されて金ぴかである。
 しかし、本当はどこもこんなものだったことを忘れてはいけない。金をかけて建物がそれ相応に立派なものになり、周辺が整備されると、本物らしく見える。しかし、本物らしく見える、ただそれだけなのである。

正蓮庵 現状

伝正蓮寺本尊 阿弥陀仏

庵神社・正蓮庵周辺



庵神社(吾勝速日神社)



元の正蓮庵に掲げてあった
という庵名扁額

もっとディープに武蔵サイト




佐用町周辺マップ
 「うーん、平福と庵村かあ。それじゃあんまり、ありきたりすぎる」――という武蔵マニアの声が聞こえそうだが、その種の人々向けのガイドは、実はここからである。
 まず、左のマップを見ていただきたい。平福の北方向の地域こそ、ディープな武蔵ゾーンなのである。
 もうここまでくると、兵庫・岡山県境である。つまり、播磨・美作国境である。したがって、この播磨側からみると、作州宮本村は指呼の間である。
 この国境地帯は、実は行政区域としては曖昧な地域であった。というのも、石井村・中山村など現在佐用郡内として兵庫県側に入っている北部諸村が、往時は美作国吉野郡のエリアだったからである。
 たとえば中山村は、現在兵庫県の領域だが、明治初期の線引き変更までは、下庄・宮本などと一体の作州分、吉野郡の一村であった。とすれば、武蔵ファンの間では少なくとも有名な鎌坂峠(釜坂峠)は、厳密に言えば、決して播磨・美作国境ではなく、この峠が武蔵出国のボーダーラインであるはずがなかった。
 つまり、後世に確定した国境をもってする以上、鎌坂峠をそのように描く武蔵評伝や武蔵小説は時代考証が間違っているのである。
 この事実は、武蔵マニアの知りたい欲望に程ほどは応えることであろう。鎌坂峠伝説というものに規定された物の見方で、この武蔵スポットを見てはいけないのである。
 さて、このディープな武蔵スポット、それは左図の「豊福」「末包」「中山」というゾーンである。地元の人以外で、この地名をすべて知っているのは、余程の「上級者」であると、播磨武蔵研究会は認定しよう。
 尤も、すでに本サイトの[資料篇]を一読すれば、なぜここがディープな武蔵スポットなのか、了解されるであろうが。
 ここで案内するのは、左図の当該地域の、末包村を通る薄い茶色の線である。このスポットを知らなければ、まさしく武蔵マニアとは言えないということになろう。
 もとより、我々がこのゾーンについて語るのは、武蔵産地は美作宮本村だという伝説がいかに近隣諸村に伝播し、あるいは逆にそれら諸村から養分を得てきたか、という問いのためである。

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 まず、平福から国道373号を北上し、まもなく、豊福方面の表示のある角で左折する。
 山あいの坂道を上がっていく。途中振り返ると、利神城址が遠くによく見える。逆に豊福から下りて来ると、まず目に入るのがこの山であろう。
 国道から約三キロほどで、豊福村(現・佐用町豊福)である。佐用から真っ直ぐ北上してくる道と交差する交通の要衝である。ここはどういう場所か。
 地名・豊福に残るように、ここは別所氏の枝流・豊福氏の故地である。天正八年の秀吉播州攻めのさい、播州の長水城の宇野氏与党で戦死したという「豊福日向守林治」なる者が、利神城の別所林治とみなしうるかもしれない。とすれば、利神城の別所氏はこの豊福から平福へ出て行ったことになる。
 ところで、豊福氏は滅び、あるいはこの故地を退散したが、その豊福を名のる裔が作州側で存続し、隣の美作市小原田に現存する。この豊福氏の伝承によれば、こういう話がある。
 最後の利神城主・別所林治は敗亡したが、彼に次男・三寿丸あり、この子は生き残った。作州豊福氏の系譜によれば、以下の次第である。
 父林治が利神城退散の時、三寿丸は二才、家臣矢野長次郎と共に作州竹山城に来たり、近在小原田の九郎右衛門という百姓家に隠れる。九郎右衛門は子なきを以て、三寿丸は養子となり、別所という姓を隠し、豊福九郎右衛門と改めた。寛永五年六月八日卒。松心院大誉宗禅居士。
 すなわち作州豊福氏の起源譚である。「いかにも」という伝説である。しかし、この伝説にかりに嵌ってみて、なぜ三寿丸が豊福を名のったか、というところに着眼すれば、豊福=別所氏という連接は窺えるのである。
 むろん、この豊福氏、武蔵伝説とは直接関係はない。ところが、平福の田住氏が、別所林治の兄の定道の末裔であるところから、話はリンクしてくるのである。
 田住氏系図によれば、林治の娘が武蔵の母で、従兄弟に当る田住政久の後妻に再嫁したとする。とすれば、三寿丸の豊福九郎右衛門の姉が武蔵の母になる。ところが、豊福氏の伝承では、こういう「おいしい」話を記録していない。
 つまり、別所・豊福氏の系統では、もともとこんな伝説は存在せず、平福の田住氏の系譜にのみあったということになる。林治の娘が武蔵の母であるという傍証は得られないのである。

豊福への道から利神城を望む





豊福村現況

江川神社の鳥居
佐用町大畠王子




末包村の集落


*【末包家由来】
《大職冠内大臣鎌足公―藤童殿(鎌足公の末子也) 御母堂懐妊の節光陰つもるまゝに身重せ給ふ。しかるに公病に臥し給ひ医療験なく、天智帝八年十月十三日山城国山科において薨じ給ふ。しかるに御母堂を嫉妬の事あり、公薨じ給う後、ひそかに害せんと致し給ふ事により、旧臣これを憂ひ遂に計りて館を出し奉り、播州に在りける旧臣に因りて居給ふ。翌天智九庚午二日朔日播磨国豊福庄に於て御誕生あり、藤童殿と称し奉る。大職冠の御末子にして閑居し給う故を以て、御継子の代に至りて末包を氏とし給ふ(初は末兼なりしを改めて末包を用ふ。末は末子、兼は鎌の字を分ち用ふ)。持統帝七癸己年正月二十一日薨し給ふ。御年二十四才、天応元年山の側に宮を造営して御廟とし、天応宮と称し奉る(勅号なりと云ふ)。実に光仁天皇の御宇なり。御男子三人あり、嫡男は勅命に因りて上京し給ふ。御次男の和秀御猛く御座して漁猟を好み給ふ縁によりて、和銅元戌申年讃岐国坂元郷へ移りて居住す。和秀従三位左近衛尉津の郷一円を領し給ふ。弟末包播磨国豊福庄に住居す。弟和敏坂本郷末包の祖なり》

*【弘化四年末包家由緒書】
《大職冠内大臣鎌足公の末子元祖善実故之有播磨国に誕生、時の人藤童殿と相唱其他に閑居、持統帝七癸己年正月二十一日病死則霊社有之候。
 附 苗字を末包と致、一族相伝永禄年中迄五千石の地を領し、且つ住居の地故苗字を以て地名相成、今の佐用郡末包村にて、同姓共十余軒只今に居住す》
 豊福から道を北上する。二キロほど行くと、大畠の王子というところへ来る。
 王子のバス停の脇に、江川神社の鳥居が建っているのが目印である。この鳥居のすぐ先に、左へ入る道がある。これが目指すディープロードである。
 この道を入って、しばらく走ると、末包村である。「末包」は「すえかね」と読む。ここはどういう土地か。
 地名というものは恐ろしいもので、土地の人々が忘れてしまったことでも、地名には刻印されていることがある。
 この地には末包氏という一族があった。それが武蔵伝説と関連を有しているのである。すでに本サイト[資料篇]の『東作誌』のページを見た人なら、この末包が、武蔵の生家とされる平田家の祖先として挙げられていることに気がつくことだろう。
 宮本村平田系図には、その起源部分に、徳大寺大納言実孝の名のある一方で、もうひとつ、「末包 西播の銘家、江川の長者」とあった。また川上村宮本系図には「末包 菅原之姓 西播の銘家」とあって、末包氏を菅家としているのが、付加情報である。
 この末包氏が、この末包村を中心に周辺に勢力を張っていた時期があるらしい。江川の長者とある「江川」はこのあたりを江川郷と呼んでいたから、そう言うのである。この地域の中心となる神社も江川神社という。
 ところが、この末包氏、前記平田氏系図が作られた頃には、もう分らなくなっていたらしい。したがって、どの時期まで末包氏が地元で明らかだったか、それを知れば平田氏系図の最初の作成時期がわかろうというものである。
 末包の地元には古文書は何も残っていない。ところが、思いがけないところから末包氏関係史料が出現するのである。
 つまり、この佐用郡末包村を故地とする末包氏が、なんと四国の讃岐に存在していたのである。しかも、その讃岐末包氏が末包の由来を伝承しており、それを文書にしていたというわけである。
 それによれば、藤原鎌足の末子に藤童殿あり、わけあって播磨国豊福庄にて出生し、当地で亡くなった。その廟所を「天応宮」と称した。この藤童殿に三子あり、兄二人は出郷したが末弟が豊福庄に住居したとある。播磨国豊福庄はやはりこの一帯の庄名である。次男の和秀が讃岐坂元郷末包氏の祖である。和秀の讃岐入りは和銅元年(708)というから随分古い話なのである。
 それはさておき、地元では何も文書伝承がなかったのに、讃岐末包氏の文書が発見され、この末包氏の由来が明らかになったわけである。
 この四国での伝承によって知れるのは、末包が鎌足の子に由来する以上、藤原氏であり、決して平田系図の伝える菅原氏ではなかったことだ。
 第二点として、弘化四年(1847)の末包家由緒書によれば、そのころ「今の佐用郡末包村にて、同姓共十余軒只今に居住す」とある。つまり、弘化四年ごろには佐用郡末包村に十軒以上末包氏末裔が現存していたのである。
 末包は上掲地図をみてもわかるように、宮本村にごく近い。とすれば、なにゆえ、平田系図はこの末包氏について、「西播の銘家、江川の長者」といった曖昧胡乱な記事、しかも藤原氏を菅原氏と間違えるようなことになったのか。
 この点は、実は、平田系図の信憑性如何に関わるだけはなく、その伝承自体の新しさを証言しているのである。
 末包村をそのまま北上する。道はしだいに細くなり、坂道になる。すると、目の前に小さな集落が現れる。
 これが小中山である。これは中山の名があるが、まだ末包村の中である。
 坂道の脇に朽ち果てた養蚕小屋が残っている。もう鎌坂峠は近い。県境の尾根の付近に来ているのである。
 小中山を通ってやがて坂道を下ると、ほどなく中山村の釜坂の集落である。左は作州宮本村へ行く鎌坂峠、右は中山村へ下りる分岐点である。鎌坂峠の方は、車では入れない道である。これがかつての国境の街道だった。
 そのまま坂道を下りていくと、旧国道へ出る。これを左に行けば、宮本村まで下りていく。右すれば、中山村から豊福、さらに佐用の町へ出る道である。

兵庫岡山県境地帯

末包村 小中山

小中山の養蚕小屋

中山村 釜坂
 この中山村は、どういう土地か。
 ここには、武蔵の乳母に出たという家の口碑があったのである。武蔵の乳母を勤めて、暇をもらって帰村するさい、形見に観音像をもらって帰ったという家があった。
 その煤けて真っ黒になった像がその家の仏壇に置かれて伝えられた。村でも家でもこれを観音と言い伝えてきたが、形は地蔵像である。
 その他には何も遺物はなく、ただ乳母に出たという言い伝えだけが残っていたのである。福原浄泉は、昭和三十年代にこの家の人の案内で、乳母の墓と伝えられたものを見ている。
《その人のお墓だというのが、岡家がもとあった家の裏にあるので、そこの墓地へ行って見た。二人の人をおまつりした五輪形のお墓で、今は他人の手に渡った地となっているので祀りてもないようすであった》
 まさしく、これがディープな武蔵スポットたるゆえんである。伝説は実体を生産する。武蔵が作州宮本村に生まれたという伝説が生じ、その派生体としてこうした形見の観音が発生する。しかも昭和三十年代まで、その乳母の墓がこれ、と伝えられたのである。
 なお、この像につき現時点で注目すべき事柄は、これが「武蔵の乳母の像」だといって、堂々と掲載する武蔵本が出てきたことである。
 少なくとも、昭和四十年代までは、地元の口碑の通り「形見の観音」であったが、それ以後いつのまにか、これを武蔵乳母像とする謬説が発生したのである。
 これが何者によって最初言い出されたか、これはここ数十年のことだから犯人は特定できるであろう。それも、武蔵マニアにとって興味深い捜査であるにちがいない。
 とはいえ、かように伝説は生長するのであって、現在でも武蔵伝説は進化し続けているのである。伝説は生き物なのである。
武蔵乳母の家 岡家
武蔵乳母の家 昭和30年代



岡家伝観音像

ついでに周辺ガイド

佐用町周辺マップ(再掲)
 当地の武蔵関連サイトは以上だが、ここまで来て、他に何も見なかったとなると、後悔が残るではないか、という人には、この地域のディープな見どころを教えよう。
 むろん、観光バスなど間違っても行かないスポットである。だいたいからして道が細いので、バスが入る気づかいはない。
 まず左の再掲マップを見ていただこう。豊福の南西に大木谷という村がある。これがお目当てのゾーンである。
 ここに何があるか?――なんと、安倍清明の塚と蘆屋道満の塚があるのだ。
 それが谷をはさんでごく近くに対峙している。こんな場所は全国どこにもない。
 ご存知の方があろうが、蘆屋道満は播磨陰陽師の流れを汲む。播磨陰陽師の拠点は広峰山(現・姫路市)であり、蘆屋道満は播磨から育って京へ出た。
 伝説では、蘆屋道満(道摩法師)は左大臣・藤原顕光の頼みをいれ、藤原道長の呪殺を試みる。だが、この企ては安倍晴明によって見破られ、道満は播磨国へ追放となった。その追放先が、ここ佐用だったというのである(『峰相記』)。
 この地に追放された道満は、なおも道長調伏を試みた。その暗殺呪法を行っていた場所が、乙大木谷にある道満塚の地点だった。かくして道満の咒法を阻止するために京から下って来た安倍晴明は、この地で道満と死闘を展開した、というわけである。
 ここでは、安倍清明塚と蘆屋道満塚を探索する。あわせて、道満塚のある乙大木谷の棚田まで行ってみる。この壮大な棚田は、もちろん「日本棚田百選」に選ばれているが、全国有数の規模で知られるところである。
 大木谷へは、豊福を起点にすると、まず江川小学校の脇から猪伏〔いぶせ〕の方へ入る。
 あるいは佐用から北上して行くなら、福沢の清水橋から入って西河内を通って往く。
 まず、安倍清明塚は、甲大木谷の大猪伏の集落のあたりから山へ上がる。山上の少し平らになって開けたところ、道端に宝篋塔が建っている。これが清明塚。様式から時代は室町前期のものらしい。
 また晴明塚の他に、天文博士安倍晴明公碑、詩碑、それに晴明堂がある。小規模なものだが覗いてみたい。ついでながら、近くの大撫山上には西はりま天文台という施設がある。→ Link 
 晴明塚の向かいの山に道満の首を洗ったという「おつけ場」というところがある。また「首洗い橋」というのもある。
 蘆屋道満は壇上に孔雀明王を祭り、悪木をもって護摩を焚き、その上に千年を経た古蟇を逆さに吊るして道長調伏を試みた。それに対し、安倍晴明が式神を飛ばして攻撃する。
 両者が放つ矢が、下の谷まで飛んできた。その地点がいまも「鑓飛」〔やりとび〕という橋の名に残っている。小さな橋である。

大木谷マップ

安倍晴明塚
佐用町甲大木谷

安倍晴明塚

おつけ場
 次の蘆屋道満塚は、車だと難易度は高い。
 まず、鑓飛橋近くの三叉路で乙大木谷の方へ曲がる。すぐに棚田が見えてくるが、直進せずに、右手に上がる山際の細い道へ上がる。かなり道が細いから注意だ。
 そのまま行くと、集落があり、右手に急坂のある三叉路に出る。この右手の坂はかなり急だから、ふつうの車で上がるのは無理である。そこで、この三叉路付近がすこし道が広くなっているから、車をおかせてもらい、歩いて坂を登る。
 集落の中の急坂を百mほど登ると、やや平坦になって、右手に畑がある。この畑の中の道を二百mほど行けば、道満塚である。
 こちらは整備されておらず、草むした藪の中にある。何か夢の跡、敗亡のムードがある。敗者道満の雰囲気が出ている。
 よく観ると、この塚は立派なものである。年代は新しいと見たが、やはり寛政九年(1797)に再建したものという。昔の土地の人もなかなかやるものである。

――――――――――――――――――

 道満塚を見極めたら、坂を下りて、棚田を眺めに行こう。これが、すばらしい。
 棚田は山あいの村ならどこにでもある。とくに珍しいものではない。しかし、ここの棚田は十町歩、千枚以上である。非常に規模が大きい。したがって、その景観たるや心を圧倒するものである。
 平野部で新田開発が進んだ近世以前、中世までの日本の稲作の原風景が、こうした山あいの棚田にあることを見逃してはならないだろう。
 さらに言えば、日本の棚田は中国雲南省の少数民族の村の風景にも酷似している。このことは、日本だ中国だという偏狭な民族国家の区別を軽々と超えて横断するものの所在を示す。つまりこれは「アジア的風景」なのではあるまいか。
 ビュースポットはいくらでもある。石段を上がって八幡神社の上から眺めるのもよい。季節は、田植えの終った時期、青々とした田が美しい。秋の収穫の前には黄金なす稲穂の海である。耳にはなにか賛歌のようなものが聴こえる気がする。
 なお、この佐用町乙大木谷から上月町田和へぬけると、そこにも素晴らしい棚田があることを付け加えておきたい。

蘆屋道満塚 佐用町乙大木谷


蘆屋道満塚




棚田へようこそ:  Link 
佐用町乙大木谷
初夏の大木谷
佐用町乙大木谷
秋の大木谷



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