*【宮本村平田系図】
《平田武仁正家
真源院一如道仁居士 天正八年四月二十八日卒川上村岡屋敷、五十三才。霊陽院義昭公の時於帝都与吉岡扶桑瑞一者決勝負勝利得此号給記録有之略 妻者宇野新次郎宗貞ノ娘於政 天正十二年三月四日卒、四十八才 光徳院覚月樹心大姉》
*【川上村平田系図】
《平田武仁正家
真源院一如道仁居士 天正八年四月二十八日。光徳院覚月樹心大姉 於真佐》
*【江海風帆草】
《武蔵ハ、小舟に乗て、小倉の地江帰る。武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、弁之助[此時迄武藏が名を弁之助と云なり]只今立のくぞ」と云ひければ、死せる宗入、又立あがり》
*【丹治峯均筆記】
《弁之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。(中略)其比弁之助ハ津ノ國邊ニアリ。隨仕ノ輩モアリトカヤ》

元祖宮本辨之助肖像

有馬喜兵衛 武稽百人一首
「法は釈迦、武道のことは、われに 問へ。天上天下、唯我獨尊」
*【五輪書】
《われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者にうち勝》
*【丹治峯均筆記】
《十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ来リ、濱辺ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス。辨之助同輩ノ童ト手習ニ行キ、帰リガケニ其高札ヲ見、手習筆ヲ以テ高札ニ墨ヲヌリ、何町何方ニ居リ申ス宮本辨之助、明日試闘可致旨記之、菴ヘカヘル》

播磨武蔵関係地マップ(再掲)
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平福が武蔵初決闘の地だという話は、武蔵の評伝や小説がこぞって書いてきた。その話は元はといえば、この『佐用郡誌』の記事なのである。それゆえ、この記事を検証してみる必要があろうというものである。
この記事によれば、田住定道の聟養子に田住政久という人があり、妻(定道の娘)が死んだので、後妻をいれた。この後妻は、別所林治(定道の弟)の娘で、美作国宮本村の平田無二に嫁して、一男をもうけたが、無二が死んだので、実家へ出戻った。そこで田住政久の後妻になった。
ところで、この政久の後妻が、平田無二との間で産んだ一子が、要するに宮本武蔵その人だという。つまり、武蔵の実母は、別所林治の娘で、武蔵を産んで、平田無二の死後、平福の田住政久に再嫁したというわけである。
もちろん、美作側にはそんな話はなくて、平田系図によれば、平田武仁正家の妻は、新免宗貞の娘で於政(於真佐)である。しかも同系図によれば、平田武仁は天正八年歿、五十三歳である。また、於政は天正十二年歿、四十八歳である。つまり平田武仁は、武蔵が生まれる四年前に死去している。平田武仁が死んだ時、武蔵はまだ生まれていないのだが、平田系図では、武蔵は平田武仁の子とするのである。それはともかく、平田武仁が死んだ後も於政という妻が天正十二年まで生きていたのである。
ようするに、美作側の平田家では、平田武仁の妻が播磨平福の別所林治の娘だったという話はない。また、子供の武蔵が実母を慕って、平福へ行って別所家に居候した、というような話もない。この平福の伝説は、美作側の平田家では、容れる余地がなく却下されるのである。
つまりは、美作サイドからすると、平福の人間が勝手にデッチ上げた虚説というわけである。近隣での我田引水合戦というところであろうが、平福の伝説は、美作側の平田無二を取り込んでいるから、二次的派生の伝説である。
ところで、『佐用郡誌』の記事には、武蔵の幼名を「七之助または友次郎また伝」だという。これも伝説変異で、しかもあれこれ諸要素が複合している。「七之助」「友次郎」という名は、どちらも講談小説本の類にあるもので、筆者はそれを見て書いたらしい。もちろん、これらの名は平福の固有伝説ではない。「宮本無三四」と書かないだけ、まだマシという程度のことである。
では、「伝」という方はいかがか。これは「でん」と読むとみえるが、なぜ武蔵の幼名が「でん」なのか。
これは実は、伝聞の聴き誤りなのである。もともと江戸時代から九州に、武蔵の幼名は「弁之助」だという伝説があった。その「弁」(べん)が転訛して「伝」(でん)に変化したのである。これも、平福の固有伝説ではなく、大正期の筆者の段階での誤伝である。
話がだんだんあやしくなってきたが、以下の有馬喜兵衛との話は、他では見ないことなので、どうやら平福の固有伝説らしい。
つまり、『佐用郡誌』の話はこうである。――(武蔵が実母を慕って平福へ来て別所家に居候していた)そのころ、平福の町に、博徒で暴行至らざるなき有馬喜兵衛という者がいた。ようするに、乱暴者のやくざである。喜兵衛は新当流の達人だったが、村内の平和を破り、村中の者から蛇蝎のごとく忌み嫌われていた。「平田伝」(武蔵)は少年ながら、喜兵衛を憎み、あるとき、喜兵衛と口論し、そうしてこの松原で決闘をして、かの喜兵衛を一刀のもとに切り伏せた。
なんと、新当流の達人、有馬喜兵衛は、平福では、乱暴者の博徒で、村中の鼻つまみ者なのである。その喜兵衛を退治した少年武蔵は、村内のヒーローのはずだろうが、どういうわけか、その身は所定めず行方をくらました。この時、「伝」少年は年齢十三歳という。これは「田住氏所有の書にあり」と筆写は記すが、それがいかなる文書か明らかではない。
筆者いわく、「平田伝」は武蔵の幼名である。ある本に、喜兵衛を剣客の如く記しているけれども、そうではない。浪人体の者であると。
というわけで、ここ平福では、九州の「宮本弁之助」が「平田伝」に変異したばかりか、新当流の兵法者・有馬喜兵衛はやくざ者にされてしまっている。これが伝説変異の最も大きいところである。武蔵が十三歳にして有馬喜兵衛を打ち倒したという話のネタは、すでに江戸時代から知られていたし、有馬喜兵衛にしても、幕末の『武稽百人一首』に掲載されるほどの存在であった。だが、平福では、この決闘を我田引水しただけではなく、なんと、その有馬喜兵衛を、地元のやくざ者にして貶めてしまったのである。
これは、悪漢退治の英雄譚のパターンをなぞったものにすぎない。それに対して『武稽百人一首』には、有馬喜兵衛について、《この人、武人に有ながら、篤実温厚にして、朋友に信あり。実に古今の英士といふべし》とあって、平福の伝説とはまったく正反対である。それがおもしろい。いわば平福の伝説は、有馬喜兵衛についてのそうした一般のイメージを知らないところで発生した、ローカルな話なのである。
言い換えれば、これが平福の固有伝説である。今日一般には、この平福で十三歳の武蔵が有馬喜兵衛を打破ったという話しか述べない通俗武蔵本がほとんどである。ところが、有馬喜兵衛は剣客どころか、地元のやくざ者だったという肝心の説話素を言わない。それは、『佐用郡誌』を読んだこともない連中だからである。
ようするに、平福が武蔵初決闘の地だとするのなら、当然、有馬喜兵衛は、剣客どころか、地元では鼻つまみ者のやくざだったとしなければならない。平福が武蔵初決闘の地だという説と、有馬喜兵衛は博徒だったという説は、不可分なのである。一方だけを取って、他方を捨てるのは、固有伝説の破壊である。
そしてむろん、そんなやくざ者に打ち勝ったことを、晩年の武蔵が『五輪書』に書くかよ、ということもある。だから、武蔵が『五輪書』に《新當流有馬喜兵衛と云兵法者》と書いたのならば、有馬は博徒ではなかった。そして同時に、その決闘の場所は、――この平福ではなかったのである。
武蔵十三歳の最初の決闘について、小説をはじめ通俗武蔵本に話のネタを提供しているのは、『丹治峯均筆記』(享保十二年)である。同書によれば、武蔵が十三歳の時、新当流の兵法者で有馬喜兵衛という者が播州にやって来た。浜辺に矢来を結び、金磨きの高札を立てて、試合を望み次第いたす旨、それに書き記した。弁之助は、同輩の児童と手習に行った帰りがけにその高札を見て、手習筆で高札に墨を塗り、何町何方に居り申す宮本弁之助である、明日試合しようとの旨を記し、(叔父の)庵へ帰った、云々ということである。
ここには、むろん決闘の地が平福だと書いていないし、有馬喜兵衛は播州にやって来たのであって、平福に住み着いていたという話ではない。それにそもそも、「浜辺に矢来を結び」とあるように、これは「浜辺」、つまり決闘地は、播磨の海辺なのである。
平福は、歩けば海までまる一日はかかる山間の地、どうして海辺であろうか。武蔵は叔父である僧の庵に身を寄せて育ったという話もふくめて、『丹治峯均筆記』の物語からあれこれ説話素を引いて、ストーリーが捏ねまわされているのだが、この決闘地が播磨の海辺だったという肝心なポイントは、どういうわけか、無視されてきたのである。
とにかく、十八世紀前期の江戸時代まで遡れば、この山間の平福が、武蔵最初の決闘の場所だったということはありえない話である。平福が武蔵初決闘の地だと言い出したのは、すくなくとも明治以後のことである。
というわけで、埒もない話になってしまったが、伝説は地域の伝説として尊重しなければならない。武蔵について、平福ではこんな伝説が明治のころ発生していた、ということである。そういう意味で、武蔵関係地なのである。
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