さて、上記の通り、米田村周辺は、武蔵の養子伊織の関係地である。近年、武蔵が米田村で生れたなどという新説=珍説が幅を利かすようになっているが、それは江戸時代の地元史料ではありえない珍説である。この点を最初に明確にしておきたい。
宮本伊織と地元史料ということでは、まず、泊神社の棟札であろう。棟札というのは、造営工事の記録を書いて棟木につける木札のことだが、それには年月・施主・工匠等を記す。今日でも上棟式の折にそれを掲げるケースが多い。
この泊神社棟札は、承応二年(1653)、伊織が、故郷の氏神である泊神社の社殿を、自身の兄弟たちとともに再建した折のものである。この棟札にも、造営記録として、願主や作事奉行人、あるいは大工棟梁などの名を記す。が、それだけではなく、一面に伊織の表白文を記載する。これは棟札としてはあまり例のない体裁である。
この泊神社棟札の記事は、武蔵を「父」とする宮本伊織が一人称(「余」)で述べる表白文であり、しかも武蔵死後最初のテクストである。したがって武蔵研究史上、この泊神社棟札の価値は極めて高い。現在までのところ、武蔵関係史料では、第一級の一次史料である。その史料的価値は、同じく伊織が翌承応三年(1654)に豊前小倉郊外の山上に建てた武蔵碑(北九州市小倉北区赤坂 手向山)にまさるとも思われる。我々はこれを「伊織棟札」と呼んでいる。
この棟札の文章には、伊織の「父」武蔵や、武蔵の「父」である新免無二のことが、ごく短く述べられている。それは、
作州の顕氏で神免なる者があったが、天正年間に、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。その遺を受け家を承けたのを武蔵掾玄信という。〔玄信は〕後に氏を〔新免から〕宮本と改めた。また、子が無いため私が義子〔養子〕になった。ゆえに、私は、今その氏〔宮本〕を称するのである。(原文漢文)
ということであり、つまりは、神免(新免無二)、武蔵掾玄信(武蔵)、余(伊織)の三代の関係を記す。この短い記事が、武蔵研究においてきわめて重要な意義をもつのは、本サイトの[資料篇]泊神社棟札の読解研究で述べられている通りである。
この記事から知れるのは、武蔵が新免無二の実子ではなく、また伊織が武蔵の養子になったことであるが、武蔵が新免無二の実子ではないことは、この棟札記事より他には記録がない。伊織は武蔵を「父」とする者である。したがって、これはきわめて重要な証言なのである。
しかも、無二と武蔵の義理の父子関係について、看過できない重要な証言を含んでいる。つまり、武蔵は無二の生前養子になったのではない、無二が嗣子なく死んで絶えたその家を継いで再興したということである。そして、ここに記されているように、無二が天正年間に九州の筑前秋月城で死去したのであれば、武蔵はそのときまだ児童であり、無二とは一度も会っていない可能性すらある。
したがって、伊織の棟札記事によれば、以下のようなことが言える。武蔵を無二の実子とする説は誤りである。また、武蔵が無二の生前養子になって、無二に養育されたとする説も同様に誤りである。双方とも近年興行されている説であるが、伊織の棟札記事はそれを事実無根と否定するものである。
また、伊織の棟札記事によれば、武蔵は新免無二の遺した家を継いだとあるから、それで、武蔵は新免氏を名のるようになったことが知れるが、それに対し、宮本姓は、武蔵の代になってから用いはじめたものである。したがって、新免無二を、「宮本」姓にしてしまう後世文書は、すべてこの事実を知らずに書かれたものである。たとえば、「宮本無二」「宮本無二之助」「宮本無二斎」などという名は、それが無二を指すとすれば、本来ありえないものであり、この種の名を記すものはすべて後世の伝説によるものとみなしうる。
このように、新免無二を宮本氏にしてしまうのは、無二が武蔵の実父だと思い込んでいるためである。武蔵が「宮本」武蔵なら、その実父は当然宮本氏だという臆測である。しかしこの臆測が始末に悪いのは、その主がこれが臆測だと気づかないところである。
かくして、後世さまざまな文書に「宮本無二之助」や「宮本無二斎」が登場することになったのだが、今日でもなお、この謬説を無定見に反復している者が多い。しかし、伊織の棟札記事をみれば、それが誤りであることが知れる。
伊織は、武蔵の養子になって、宮本氏を名のるようになった。そのときは、すでに武蔵は、宮本武蔵である。姫路で、三木之助を養子にして、宮本家を創設していたからである。
すでに、姫路城下の案内で述べられていることだが、三木之助の甥に宮本小兵衛という人物があり、彼が残した宮本家の先祖書が『吉備温故秘録』に収録されている。それによれば、三木之助は武蔵の養子となり、本多中務(忠刻)に近習として仕えたのだが、宮本家の家紋として「九曜巴紋」を付けるようにとの忠刻の「御意」で、それを付けるようになった、この九曜巴は本多家の「御替御紋」だと聞いている、とのことである。
つまり、三木之助は自家の家紋として、本多家の替紋を頂戴したというのである。この由来の当否はともかく、伊織の宮本家でも同じ九曜巴を用いた。とすれば、伊織の明石宮本家より早い成立の姫路宮本家から、九曜巴を用いはじめたということである。
ところで、九曜巴紋は泊神社にも用いられていることに注目したい。この紋の由来は聞かないが、おそらくこれは古くはなく、泊神社は承応二年(1653)の社殿再建を期に、伊織の宮本家の家紋を用いるようになったのであろう。とすれば、泊神社の九曜巴紋は、そもそも姫路宮本家以来の家紋だったということになる。とすれば、これも奇縁というべきであろう。
ただし、宮本家の家紋と同じものが泊神社に用いられているからといって、武蔵がこの地に生れたなどと、早とちりしないことだ。上述のように、泊神社は承応二年(1653)の社殿再建を期にそうしたのであって、それ以前には別の社紋であろう。しかもその九曜巴紋は、本多家の替紋を賜ったとすれば、武蔵の姫路以来の使用紋であり、それ以前ではない。
伊織から八代目の子孫、宮本貞章が書いた宮本家由緒書(弘化三年・1846)に、おもしろい記事がある。それによれば、幸左衛門実貞の代、元禄年間に、播磨から泊神社の社人が九州の小倉へやってきた。伊織の家来筋の者というから、そういう家来筋の子孫が播磨に居たらしく、その者一人同道で、泊神社の社人が小倉の宮本家へやってきたのである。
遠路はるばるの用向きは、泊神社が破損したので、補修の助成を願いたいとのことである。社人が言うに、「もし宮本家が少しも助成しないようであれば、社頭にある定紋の九曜巴を取り外し、別の紋を付けることにする」と。これは半ば脅迫である。子孫としては、先祖貞次(伊織)が再建した神社で、宮本家の紋が付いている。それを取り外されたら、先祖に申し訳が立たない。それでかどうか、白銀五枚を修繕費として与えたという話。
これによってみれば、泊神社の九曜巴紋は、やはり宮本家の紋を使ったものらしい。そうでなければ、「九曜巴を取り外すがよいか」という社人の言葉も駆け引きの手段にはならない。余談になったが、後世の興味深い逸話である。
ところで、周知のごとく、「泊神社棟札によって、武蔵が米田村に生れたとわかる」などという珍説が近年興行されている。しかし、上の引用記事をみればわかるように、当の棟札にはそんなことは一言も書かれていない。そして、武蔵がどこに生れたのかも記していないのである。
そうすると、武蔵や伊織がどこに生れたか、それを書いているのはどの史料なのか。
それは、本サイトでの読者にはおなじみの、言わずと知れた地元史料『播磨鑑』である。そこには、武蔵が揖東郡宮本村で生れたこと、武蔵養子の伊織が印南郡米田村に生れたことが、並べて明記してある。それ以外にはこの件の直接史料はない。そういう意味で、『播磨鑑』の記事は重要な意義をもつ。
他方、地元史料ではなく、伊織子孫が十九世紀半ばに書いた、九州小倉の宮本家系譜文書には、伊織が田原甚兵衛久光の二男で、この米田村に生れたと記している。これは地元史料『播磨鑑』の記事と一致するから、問題はない。
しかるに、問題は、その小倉宮本家系譜には、武蔵は「田原甚右衛門家貞二男」だと書いているところである。田原甚右衛門は伊織実家の祖父である。伊織の祖父の二男だから、伊織にとっては叔父にあたる人物にしている。
ところが、そんなことは泊神社棟札の伊織は書いていない。祖父の田原甚右衛門、父の甚兵衛の名は出しているが、武蔵が祖父の二男(叔父)だとは述べていない。
伊織が書いているのは、自分が武蔵の「義子」になったことである。これは養子縁組での義理の子である。ただし、通例、親類の子が養子になる場合は「猶子」と記す。もし、伊織が武蔵の甥ならば、ここは「義子」ではなく「猶子」と書いたはずである。そうでない以上、武蔵と伊織には親族関係はなかったとしなければなない。
しかも、米田村の田原家のことならよく知っている平野庸脩の『播磨鑑』にも、そんなことは書いていない。平野庸脩は米田村隣村の平津村住の学者である。ゆえに、宮本伊織のことは、一項を立てて詳しく書いている。伊織の父は甚兵衛だと記す。伊織の母についても書いている。しかし、武蔵が伊織の祖父・田原甚右衛門の二男だとか、伊織の叔父だとか、そんなことは書いていない。
もちろん、明確にしておくべきは、小倉宮本家系譜には、武蔵は「田原甚右衛門家貞二男」だと書いていても、武蔵が米田村の産であるとは書いて「いない」ことである。したがって、当節流行の武蔵米田村出生説は、実は根拠史料をもたない虚説にすぎない。
もし武蔵が隣村米田村の産なら、『播磨鑑』の平野庸脩がそれを書かないはずがない。しかし、庸脩は書いていない。むしろ、庸脩は武蔵は揖東郡宮本村の産だと明記している。
このように、九州の小倉宮本家系譜より一世紀早い『播磨鑑』の記事をみれば、十八世紀半ばには地元播磨、もっと言えば加古川下流域の地元では、武蔵が米田村に生れたなどという説は存在しなかった。また、武蔵が伊織の叔父だなどいう説もなかったのである。これは注意を喚起すべきところである。
遠い九州の伊織末孫が書いた記事と、それより一世紀前に、地元も地元、米田村隣村の平津村の学者が書いた記事と、どちらが信をおけるか、そのことは論を俟つまでもない。
かくして、結論を言えば、米田村あるいは加古川対岸の泊神社については、それは伊織関係地として意義があるのであり、武蔵関係地とみなすことはできない。
近年、「武蔵は印南郡米田村に生れた」などという珍説の興行があるが、以上のことから、それは根拠なき妄説だと断じてよい。そして、武蔵は米田村に生れて、美作の新免無二の「養子」になり、美作で養育されたという、播磨説と美作説を足して二で割ったような珍説も同様である。泊神社棟札によれば、武蔵は無二の生前養子になったのではないし、無二に嗣子として養育されたのではない。伊織が明記しているように、新免無二は「無嗣」で死んだのである。
これらの僻説は、泊神社棟札の記事を根拠にしていない。したがって、この棟札の記事から、武蔵が米田村で生れたことがわかる、などという虚説は、むしろ泊神社棟札の史料的価値を損傷するものにほかならない。言い換えれば、泊神社棟札の史料的価値を保全するためには、そうした虚説をあえて捨てる勇気が、顕彰会はじめ地元の人々になくてはなるまい。
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泊神社棟札 文は漢文で伊織の自撰
[資料篇] 泊神社棟札
【泊神社棟札】左の部分の原文
《有作州之顕氏神免者。天正之間、無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武藏掾玄信、後改氏宮本。亦無子而以余為義子。故余今稱其氏》

新免無二関係地図
*【吉備温故秘録】
《宮本三木之助 [中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候] 宮本武藏と申者養子に仕、児小姓之時分、本多中務様へ罷出、七百石被下、御近習に被召出候。九曜巴紋被付候へと御意にて、付來候、御替御紋と承候。圓泰院様〔忠刻〕寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》

九曜巴 宮本伊織家家紋

泊神社本殿の九曜巴紋
*【宮本家由緒書】
《實貞ニ至り元禄年中泊り大明神破損之時、彼地之社人、貞次家来筋之者壱人同道ニ而罷下、右修覆助成之義願來、此度少シニ而も手を懸不申候得は、氏子中より修補致候、然ル上は、社頭ニ有之候定紋九曜巴取除、外之紋付申候由、右之者共申出候。遥路罷下右之趣故、白銀五枚爲修補料遣之。於于今棟木ニ九やう巴金めつきニて付有之。貞次寄進之石灯籠数多有之、山門舞台等も有之、餘ほどの大社也》

宮本氏歴代年譜
*【宮本氏歴代年譜】
《玄信 田原甚右衛門家貞二男。新免無二之助一真ノ為養子。天正十壬午年ノ出生。号宮本武藏》
*【播磨鑑】
《宮本武藏 揖東郡鵤ノ邊宮本村ノ産也。若年ヨリ兵術ヲ好ミ、諸國ヲ修行シ、天下ニカクレナク》
《宮本伊織 印南郡米田村ノ産也。宮本武藏、養子トス》
《宮本伊織 米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す》
[資料篇] 播磨鑑

印南郡細見図(部分) 寛延二年
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