宮本武蔵 サイト篇
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現地徹底ガイド 姫 路 城 下 2  (兵庫県姫路市)  Back   Next 

姫路城下のつづきである。さらに探訪はディープなものとなろう。

柴任美矩と吉田実連
 話がそろそろディープになってきたので、そのついでにと言っては何だが、前に話に出した宮本三木之助家に関連して述べておきたいことがある。
 それは、大和郡山時代の宮本家のことである。寛永十六年(1639)姫路から本多政勝が転封したのに隨って、九郎大夫の宮本三木之助家も移住したわけだが、九郎大夫は寛永十九年(1642)同地で病死して、跡を嫡男弁之助が嗣いだ。それから弁之助が死亡するまで、ほぼ十五年間、宮本家は大和郡山に存続した。
 ところで興味深いのは、前出の柴任三左衛門美矩が、大和郡山の本多内記政勝の家臣であったという事実である。本多政勝は姫路城で育った人で、播州時代本多家一族に縁の深かった武蔵を知っていたであろう。武蔵が播州を去って九州へ移るのは、寛永九年(1632)であり、そのとき政勝は十九歳、姫路城に部屋住みである。武蔵の孫弟子だという柴任を、大和郡山に迎えるについては、もとより積極的であっただろう。これはむろん、柴任が宮本武蔵の道統を嗣ぐ者であり、しかも武蔵が政勝の伯父・本多忠政と縁の深い者であったからである。
 『丹治峯均筆記』によれば、柴任は黒田家を去って江戸にいたが、それと前後して本多家の家老・朝比奈某の斡旋で、政勝に四百石で召出されたのだが、その前に、宮本九郎大夫の嫡子・弁之助が、当地で宮本家を維持していた期間があった。弁之助は少なくとも、寛永十九年(1642)から明暦二年(1656)まで、宮本家の当主であった。
 これに対し、柴任がいつ大和郡山へ来たか明らかではないが、筑前二天流早川系の大塚藤郷が記録しているところによれば、柴任の黒田家致仕は、寛文四年(1664)二月十四日のことだという(藤郷秘函 世記)から、するとその後間もなく、おそらく寛文五年あたりに大和郡山の本多家に仕官したものと推測しうる。
 とすれば、大和郡山で宮本家が失禄した明暦二年(1656)以後のことであり、もちろん柴任はまだ当地には姿を現わしていない。そして、柴任が大和郡山へ来たのが寛文五年(1665)あたりとすれば、九年ほどのタイム・ラグがあり、大和郡山の宮本家と、柴任の居留期間は重ならない。柴任が来るかなり前に、宮本家は大和郡山から失せていたのである。
 本多政勝は、宮本三木之助の家を廃して、それからかなりたって、同じ武蔵所縁だが、こちらは武蔵三代目の武芸者、柴任美矩を四百石で召抱えたのである。もとより、本多家中には、武蔵から兵法を相伝した石川主税があり、当時まだ存命中かとも思われるから、ここで、新旧の武蔵流兵法が遭遇することになった。
   (古流) 武蔵 → 石川主税清宣 → 楠田圓石好政
   (当流) 武蔵 → 寺尾孫之丞信正 → 柴任三左衛門美矩
というわけで、家中でこの両派を併せもつという、いかにも稀な、いわば贅沢なことを、本多政勝は試みたのである。


*【三木之助系譜】(吉備温故秘録)
 
○中川志摩之助┐
 ┌─────┘ 水野日向守家中
 ├刑部左衛門
 |
 ├主馬 後改志摩之助
 |
 ├宮本三木之助 武蔵養子 殉死
 |
 │兄跡目宮本
 └九郎大夫┬弁之助 大和郡山
      |
      └小兵衛 岡山池田家中

*【丹治峯均筆記】
《サテ御國ヲ退ク刻、笠原三郎右衛門申ニハ、「江戸ヘ相コサレ候ハヾ、通リカケ和州郡山ヘ立寄、本多内記殿家老、朝比奈何某ヘ知人ニナラレシカルベシ、三郎右衛門ヨリ書状相添可申」由ニテ、一封ヲ渡ス。則、郡山ヱ相越、朝比奈面會、夫ヨリ東府ヘ罷越ス。其後、朝比奈ヨリ、「内記殿江申上、四百石被下ベシ。早々郡山ヘ可罷越」旨申來ル。柴任返答ニ、四百石ニテハ御請申難キ旨ヲ申ス。朝比奈再答ニ、「四百石ニテハ有附可申ト、内記殿ヘ申上、朝比奈御請合申置タリ。只今ニ至リ違変ニテハ、御主人ノ手前申分ケモナキ仕合也。弥、四百石ニテ成ガタキ趣ナラバ、朝比奈御暇申ヨリ外無之」旨、無拠申越スニ依テ、郡山ヘ四百石ニテ有附相勤ム》



柴任美矩関係地
渡辺家本
五輪書 奥書

武蔵流免状
 ところで、柴任が大和郡山に来て六年ほどして、本多政勝が死去する。その死後、大和郡山のお家騒動、いわゆる「九六騒動」があったのだが、その後も柴任は本多家に仕えている。
 大和郡山の「九六騒動」というお家騒動は、もともと姫路にその因がある。つまり、姫路城主本多政朝の死去直前の措置で、跡目のことにつき、政朝の従弟(叔父忠朝の子)の政勝をもって家督相続せしめたいと幕府に願い上げていた。本多家家訓に、馬の乗り降り自在ならぬ者は当主になることはできないとあり、政朝嫡子政長は幼少ゆえ、その資格を欠くという理由である。
 かくして政朝従弟の政勝が家督を相続したのだが、政長が成長の上は家督を嫡流に戻すという取決めがあった。しかしながら、政勝が逝去すると、相続をめぐって内訌が生じた。つまり、政勝の子・政利に家督を相続せしめようとする一派と、姫路でなされた本来の約束を履行して、家督を嫡流政長に返せという一派との対立である。
 このお家騒動の決着は、嫡流政長に九万石、政勝長男政利に六万石、という仕置であった。これは、家康側近以来の譜代、本多家の分割であり、その弱体化を狙った幕府の政略的措置なのである。そうしてみると、姫路城主本多政朝の遺志は裏切られたということである。
 『丹治峯均筆記』の記事によれば、柴任は「九六騒動」の後、嫡流の政長(中務大輔殿)ではなく、政勝長男の政利(出雲守殿)の方に仕えたようである。《柴任儀ハ、内記殿被召抱タル者ユヘ、出雲守殿ヱ相勤度旨願出、則、出雲守殿ニテ取来、四百石ニテ勤仕ス》とあるように、政勝に仕えたからその長男の政利の方に仕え、禄高四百石はそのままである。
 さて、こうして柴任はこの本多家に仕えて大和郡山に十数年住んでいた。柴任はその後、この大和郡山から播州明石へ移る。というのも、主君・本多出雲守政利が明石へ転封になったからである。この明石時代、延宝八年(1680)に前述のように吉田実連へ一流相伝している。
 しかるに、後述のように、柴任はこの本多家を致仕した。その理由は、妻の兄弟・大原惣右衛門が早世して、実子がないため家を存続せしめる方策を家老に願い出ていたが、それを反故にされてしまい、これに憤激して辞職したというわけである。
 柴任美矩という人は、すでに、肥後細川家、筑前黒田家を、処遇が気に入らぬと致仕しており、これで三度目の浪人である。あくまでも気骨のある旧式の武士なのである。




*【本多家略系図】

 ○本多忠勝┐
  ┌―――┘
  ├忠政┬忠刻
  |  |
  |  ├政朝―政長=忠国→
  |  |
  |  └忠義―忠平
  |
  └忠朝─政勝政利






*【丹治峯均筆記】
《其後、内記殿御家督、中務大輔殿ヘ拾三万石、出雲守殿ヱ六万石御分知アリ。柴任儀ハ、内記殿被召抱タル者ユヘ、出雲守殿ヱ相勤度旨願出、則、出雲守殿ニテ取来、四百石ニテ勤仕ス。但シ、内記殿ハ中書殿御幼少ユヘ、御人代也。出雲守殿ハ、内記殿御實子ノ由。其後、三左衛門外甥〔コジウト〕、大原物〔惣〕右衛門、早世ス。家督ノ儀三左衛門ヨリ願出ル。其趣ハ、惣右衛門儀相續致スベキ賎息〔倅〕ナシ。御譜代ノ者ニテ候間、家督ノ事何分ニモ被仰付被下ベシ。新参者ナガラ外ニ相願候親類無之ユヘ、三右衛門ヨリ御願申旨ヲ相達ス。(中略)以上三度マデ願候ヘドモ、何等ノ事ニ候哉。尤ノ由ニテ博〔捗〕ユカズ。シカレバ、新参者不埒ヲ申〔す〕ヤウニ何茂〔いづれも〕被存ト見ヘタリ。不埒ト存ラルヽ所ニ足ヲトメ可申様ナシトテ、暇ノ事申出、身退キ、江州大津ニ浪人ニテ罷有》


姫路城

*【丹治峯均筆記】
《其後、本多中務太輔殿、五百石ニテ被召出。家老梶金平取持ナリ》

*【兵法列世伝】
《夫ヨリ播сj行、姫路ノ城主、本多中務太輔忠國侯ノ家老、梶金平ニ遇レケルニ、金平モ兼テ美矩ノ事ヲ聞及シ事ナレバ、大ニ悦ビ、君上ヘ申テ直ニ五百石ニテ被抱ケル。姫路ニ居ラレシ時、他方ヨリ試合望テ來リシ者有ケルガ、本ヨリ手ニ足ル者ニ非ズ。早速逃帰リケルト云事ヲ聞シカ共、正シキ事ヲ不聞、真偽難斗。根元、美矩ニ對シ誰カ能敵セン。事ヲ求メテ聞ニ不及事ナリ》






忠国時代の姫路侍屋敷絵図





*【本多忠国関係図】

○徳川家康─(水戸)頼房┐
 ┌――――――――――┘
 ├頼重―綱條 水戸第三代
 |
 ├光圀 水戸第二代
 |
 | 小笠原忠政― 嘉禰
 |       |
 |       ├─頼貞→
 |       |
 ├――――――頼元 陸奥守山
 |       |
 ├頼利     ├─忠国
 |       |
 ├頼雄   辻氏女  |
 |          |
 └頼隆 常陸府中    |
            |
○本多忠勝┐      |
 ┌―――┘      |
 ├忠政┬忠刻     ↓
 |  |
 |  ├政朝―政長=忠国
 |  |
 |  ├忠義―忠平
 |  |
 |  └ 亀姫 小笠原忠政室
 |
 └忠朝─政勝─政利

 『丹治峯均筆記』によれば、大原家家督問題で本多家を去った柴任は、近江の大津で浪人していた。しかし、こんどは、姫路で召抱えられることになった。《本多中務大輔殿、五百石ニテ被召出》とあるところである。ただし、『峯均筆記』の記事だけでは、この本多中務太輔がだれのことか、それゆえ柴任がどこで本多家に仕えたか、わからない。しかもそれが、いつのことかというと、やはり『峯均筆記』にはその記事がなくて、不明である。
 要するに、我々の研究プロジェクト以前には、『峯均筆記』に関して、まだだれも研究を進めた先例がなかったので、当初、『峯均筆記』にいうこの「本多中務太輔殿」が不明。そこでまず、この本多中務大輔とはだれかについて、時期時代からアプローチした。
 時期からすれば、柴任が明石を立退いたのは、前述のように、延宝八年(1680)以後のことである。したがって、この一六八〇年代に「本多中務太輔」であった大名を突き止めれば、柴任が仕官した主君も場所も判明する。胡乱なことだが、当初は、そういう手順を蹈んで、この当時の「本多中務太輔」から、天和二年(1682)に播州姫路城主になった本多忠国(政武)をそれと特定したのである。
 その後、越後で丹羽信英が書いた『兵法列世伝』を発見するに至り、播州姫路城主・本多忠国という具体的な記述のあることを知った。立花峯均が『峯均筆記』で簡単に書いていることも、その孫弟子・丹羽信英の著作では、より正確な情報もなくはないというケースである。
 ちなみに、この丹羽信英は、黒田家家臣であって、実家先祖が黒田二十四騎の桐山丹波(孫兵衛信行)。ようするに、桐山丹波は黒田官兵衛「父」の美濃守職隆に仕えたというから、以来黒田麾下にあって最早期家臣の一人である。立花峯均とは違って、丹羽信英が播州姫路と書くとき、先祖由縁の土地という思い入れもあったのである。
 ところで、龍野の多田円明流伝書に記事があるように、柴任は龍野の多田氏と関わりがあったらしく、それはおそらくこの姫路居留期以来のことであろう。柴任について前出の円明流系図に、《本田中務太輔侯仕。其後浪人播明石在卒》とあるところである。この「本田」中務大輔は、姫路の本多忠国のことである。
 しかるに他方、本庄家別冊家系譜が引用する柴任関係文書に、柴任が姫路の中務太輔から五百石を与えられた宛行状の写しがある。そこには、貞享四年(1687)三月朔日の日付と「中務太輔/政武印」という名がある。この折紙の記事を見て書いたと思われる別冊家系譜本文には、貞享四年に「播州姫路太守」本多中務太輔殿へ召し出され云々とある。とすれば、この宛行状(折紙)写しの記事は正しい。姫路城主の本多中務大輔で、しかも、貞享四年当時の姫路城主といえば、本多忠国(政武)以外にはないからである。
 姫路と本多家のことで言えば、寛永十六年に本多政勝は大和郡山へ転封、その後、姫路城主は、松平、榊原、松平と変遷し、天和二年(1682)に本多忠国が福島から入部し、以後宝永元年まで二十年以上城主となる。ここでいう貞享四年当時の姫路太守本多中務太輔殿は、この忠国のことである。したがって、柴任は確かに姫路で本多家家臣であった時期があるというわけである。
 柴任の弟子が吉田実連だが、吉田が柴任から一流相伝をうけたのは明石で、それが延宝八年(1680)のことだから、姫路に来る前は、どうやら明石に住んでいたらしい。養女の聟・橋本七郎兵衛が明石で仕官していたから、明石に居着いたらしい。とすれば、柴任は明石から姫路へ召出されたということのようである。
 なお、本多忠国(1666〜1704)は松平頼元(水戸徳川家初代頼房の三男)の息子だが、幼少の頃、大和郡山の本多政長の養子となって跡を嗣いだ人である。ゆえに中務大輔(中書)殿である。忠国はこの当時「政武」であるが、後の名にしたがって忠国としておく。もう一人、大和高取城主で、同姓同名の本多政武(1598〜1637)がいたから、混乱を避けるためでもある。
 忠国は、本来は、徳川頼房の孫であり、家康の曾孫である。しかし、忠国が小笠原忠政の孫(娘の子)で、それゆえ本多忠政の外曾孫であるという話は、武蔵周辺研究でしばしば語られるガセネタの一つで、『姫路城史』の橋本政次の言を鵜呑みにしてしまった誤謬である。
 たしかに、小笠原忠政の妻亀姫は本多忠政の娘で、忠国の父・頼元の正室は、小笠原忠政・亀姫の娘嘉禰であり、嫡男頼貞を生んだのだが、二男・忠国の方の母は側室辻氏である。したがって、忠国は小笠原忠政の娘の子ではない。それゆえ本多忠政の曾孫でもない。後学ためにこの点を注意しておく。
 さて、ここで注目すべきは、柴任が姫路本多家で五百石を請けていたことである。大和郡山時代は、本多政勝に四百石で仕えた。これは殿様の道楽で召抱える者としては、かなり高禄である。
 ちなみに、宮本武蔵のケースは、肥後細川家の支給高は蔵米三百石で、四分免として知行高換算で七百五十石。これは別格としても、御三家尾張徳川家における兵法師範柳生家の知行高は五百石である。柴任はこれと同じ五百石、本多家における柴任の待遇がいかに異例だったか、知っておいてよい。
 『丹治峯均筆記』によれば、柴任の就職を斡旋したのは、本多家家老梶金平であった。梶金平は、もともと家康から本多家へ付けられた与力で、そういう由来もあって、代々本多家家老を勤め、名も「梶金平」を嗣いできた家である。
 梶金平家は、はじめ、梶淡路守勝忠の代、永禄九年に本多忠勝に附属された。その子・梶淡路守勝成は、本多忠政から政勝の代まで仕えた。勝成は本多家から二千五百石、その他に与力給として幕府から千五百石の給付を受けていた。この勝成までは、まだ梶家は、徳川家から本多家へ附属されたという関係が残っていたらしい。武蔵が姫路本多家に関与した頃というと、この梶勝成の代である。
 その勝成の子が、梶金平勝雄である。勝雄は、二千五百石の家老、本多政勝から忠国まで三代にわたって仕えた。柴任美矩は本多政勝に仕えた大和郡山時代、この家老・梶金平勝雄を知っていたはずである。ということは、もう数十年前からの知己である。
 推測するに、この梶金平勝雄が、柴任が明石にいて牢人していると聞いて、柴任に声をかけ、仕官を取りもったということであろう。柴任を寛永六年(1629)生れとすれば、貞享四年(1687)本多家再仕官のこのとき、柴任はすでに五十九歳である。

 ところで、柴任は、この姫路でどこに住んでいたか。中にはそんなマニアックな質問もあるので、こんどはその件を探究してみよう。
 しかし、当時の姫路屋敷割図がいくつかあるが、いまのところ、我々は柴任の名を記す絵図を発見していない。とすれば、発端でこの探求は頓挫ということになるが、しかし、それで諦めるわけにはいかない。
 手がかりは、柴任の屋敷が下岐阜町にあったという一点である。柴任の知行高が五百石というから、屋敷のあったゾーンとしては、妥当なところである。
 この下岐阜町というのは、家老・梶金平の屋敷あたりから、北へのびる通りである。通りの長さは約二丁、二百mほどである。ここに片側五軒、両側計十区画の屋敷が並んでいる。






*【梶金平家系図】

○梶淡路守勝忠─淡路守勝成┐
 ┌―――――――――――┘
 └金平勝雄―勝賢―勝任…


梶金平屋敷と下岐阜町周辺

下岐阜町周辺屋敷割 (北は右方向)

姫路城下町模型 柴任屋敷比定地
 下岐阜町の南端、梶金平屋敷の前は、町奉行の居宅である。したがって、それより北の八区画がさしあたり当ってみるべき屋敷である。
 ところが幸いなことに、この下岐阜町の通りの両側の住人にはあまり変動がない。つまり、通りの西側は、南から寺尾、平井、栗野、三宅、また通りの東側は、石田、井上、服部。この七軒は動いていない。そして、残りの一区画、下岐阜町北端の東側、これが住人が変る可能性のある区画である。
 そこで、この区画が柴任居宅ではないか、と目星をつけるわけである。ここは、竹田や林という者に割り当てられた例がある。おそらく、住人の変るこの一区画が、柴任の住居した屋敷ではないか、というのが我々の推測である。
 絵図では細長いように描いているが、地図にオトしてみると、実際の敷地はほぼ正方形、間口二十二間ほどの五百坪弱の土地、それが柴任美矩の姫路の屋敷である。
 ここは、現在地では、淳心学院という学校の敷地内である(姫路市本町)。そう云うと、あれ、それじゃあ三宅軍兵衛子孫の通り向いの屋敷ではないか、と気づかれる読者もあろう。その通りである。事の実否は別にして、東軍流の三宅軍兵衛、武蔵に負けて弟子になったという尾張の伝説がある。その三宅軍兵衛の子孫が、柴任の向かいに住んでいたわけである。
 また、三宅軍兵衛宅の三軒南、町奉行居宅の隣に、寺尾甚右衛門が住居しているが、これは、宮本武蔵直弟子・寺尾孫之丞の伯父の子孫の寺尾氏であろう。寺尾孫之丞は柴任美矩の師匠である。そうして見ると、大和郡山時代には、父などが見知りの相手なので、これまた再会ということであろう。


姫路城下町模型 柴任屋敷比定地

梶金平屋敷付近現況


柴任宅比定図


淳心学院 姫路市本町
道路左手が柴任宅比定地









*【武蔵流伝系図】
 
○宮本武蔵玄信―石川主税清宣┐
┌―――――――――――――┘
└楠田圓石好政―国分九郎右衛門真恒┐
┌――――――――――――――――┘
└国分九郎右衛門真昌―同三之丞真栄→











岡崎城 愛知県岡崎市康生町
 かくして、意外な発見があるわけで、これも比定地探索ゲームの余興である。ところが、すでに十分ディープなこうした柴任屋敷比定では満足せずに、もっとディープな探索を要求するのが武蔵マニア諸君である。
 要するに、本多家中なら、例の「武蔵流」の伝承があったはずで、姫路でその相伝者の屋敷など見つかるのか、というわけである。柴任屋敷比定だけでも前代未聞のことなのに、本多家中の武蔵流の相伝者となると、これは輪をかけた未聞のことである。
 この「武蔵流」は、すでにこの[サイト篇]の龍野城下のページで述べてあるように、後に本多家が三河岡崎へ移って家中で伝承されて、彼地で存続した武蔵門流である。宮本武蔵の門人に、本多家中の石川主税清宣あり、その石川主税から、楠田圓石好政→国分九郎右衛門真恒→国分九郎右衛門真昌以下の道統が発生する。
 本多家は、宝永元年(1704)本多忠国死去して三男の忠孝が家督相続したが、忠孝幼少のため、本多家は越後村上へ移封。ところが、忠孝は越後へ入国しないまま、宝永六年(1709)に十二歳で死去してしまった。そのため、本多家は無嗣断絶の危機に陥った。だが、本多忠勝以来の徳川譜代の家ということで、播磨山崎の分家・本多忠英の長男、本多忠良に跡目を嗣がせ、本多家は五万石の大名として存続することになった。以後、本多家は、越後村上から、三河刈谷、下総古河、石見浜田など、六十年間に各地を転々したが、明和六年(1769)に三河岡崎に居着いて、それからは明治維新まで同地にあった。
 本多家中の武蔵流は、この流転の過程でも失われず、三河に至り、明治まで同地で存続した。下に再掲する三河武蔵流伝書は、明治十二年の一流相伝書である。


三河武蔵流免状 明治十二年
 さて、すでに姫路本多家中にあった柴任美矩の屋敷を比定したのであるが、この伝書に名のある武蔵流相伝者のうち、柴任と同時代の者はだれか。その目星がつけば、その者の屋敷の探索もできようというものである。
 世代的に云えば、柴任は、武蔵晩年に肥後熊本で、武蔵その人を実見した人であり、武蔵直弟子・寺尾孫之丞信正から一流相伝を得た。武蔵から数えて三代目である。これに対し、武蔵流の方は、石川主税清宣が相伝した武蔵初期門流である。したがって、こちらは四代目の相伝者、つまり国分九郎右衛門が、柴任の同世代人であろう。
 これを、本多家臣略系譜によって確認すると、国分氏初代の九郎右衛門真定が、本多忠勝から政朝の代まで仕えて、百石である。したがって、武蔵が姫路で本多家に関与した頃、国分氏はこの真定の代である。
 次に、その子・九郎右衛門真成が、政朝、政勝、政長、忠国と長期に亘って仕えた。それゆえ、柴任が大和郡山で本多政勝に仕えた間、真成が国分家当主なのであり、むろん柴任も真成とその時代からの知人であろう。しかも真成は、貞享三年に加増五十石で、都合百五十石。さらに、元禄五年まで勤仕した。つまり、柴任が姫路で本多家に再仕官するようになったとき、国分家の当主は、依然として、この真成であった。
 しかし、上記の武蔵流相伝書の伝系に、九郎右衛門真成の名がないところをみると、真成は武蔵流兵法には関わりなかったようである。武蔵流の相伝者となったのは、息子の九郎右衛門真恒である。真恒は楠田圓石から武蔵流の相伝をうけた。
 国分九郎右衛門真恒は、初名甚内。家督は元禄五年だから、柴任が姫路にいた頃、まだ部屋住みである。この人は、寛保三年に隠居するまで、五十二年にわたって勤仕したというから、おそらく、柴任を見たのはまだ十代の若年だったかもしれない。
 かくして、この絞込みによって、姫路城下絵図でその国分九郎右衛門を探せば、該当するものがあった。すなわち、上岐阜町に、「国分九郎右衛門」あるいは「国分甚内」と記名のある屋敷がある。となると、これは間違いなく、武蔵流伝書にその名がある国分九郎右衛門の屋敷であろう。










*【国分家系図】
 
○国分九郎右衛門真定―真成┐
┌――――――――――――┘
└真恒―真昌―真栄―直恕→



上岐阜町 国分九郎右衛門屋敷


梶金平・柴任美矩・国分九郎右衛門 屋敷比定地 (右方向が北)
 国分九郎右衛門の屋敷があった上岐阜町の通りは、今は残っていない。その一帯は、現在は、(独法)姫路医療センター(旧国立姫路病院)の構内である。国分九郎右衛門の屋敷は、その姫路医療センター構内裏手、北側の道路に面した一角である。
 ところで、上述のように、当時、国分家の当主だったのは、九郎右衛門真成であり、真成と柴任は、大和郡山以来の旧知である。甚内名に変っても、国分家の屋敷は動いておらず、上岐阜町の同じ場所にあった。すると、柴任美矩が下岐阜町、国分が上岐阜町ということで、上図に示すように、両家は二百m足らずの距離の、比較的近所に住んでいたのである。
 真成嫡男の真恒は、後に武蔵流四代となるが、このころまだ若年である。柴任老人が、若年の国分真恒に、二刀流兵法の刺激を与えたであろうことは、申すまでもない。
 柴任は、武蔵晩年の兵法、二天流を伝える者、他方、本多家中には、石川主税―楠田圓石の系統で、初期武蔵流の道統があった。両者の兵法はすでにかなり異なったものになっていたであろう。それが興味深いところである。
 柴任は、龍野の円明流にも関与していた。多田源左衛門祐久に教えた。享保六年(1721)の「円明流系統図」には、多田祐久が、《古流之得免許後、柴任重矩ニ隨テ當流傳》とある。つまり、多田祐久はすでに、武蔵弟子・多田半三郎頼祐の兵法を、三浦源七延貞を介して学んでいた。これが「古流」である。そして柴任から「当流」、すなわち新しい武蔵流兵法を学んだ。
 おそらく、同様のことが、本多家中の武蔵流と柴任の間にもあったのであろう。国分九郎右衛門真恒は、「古流」としての石川主税以来の武蔵流を継承する以前、柴任が姫路に住んだことにより、「当流」としての新しい兵法を柴任から学んだと思われる。
 いうまでもないが、柴任は以前、大和郡山で本多家に仕えたことがある。しかもそれは約二十年もの長い間である。したがって、そのときにも、本多家中の武蔵流の者に「当流」を教えたはずだから、この姫路ではそれが二度目になる。その間、本多家は、延宝七年(1679)忠国家督直後、大和郡山から福島へ移封され、それもまもなく、天和二年(1682)に播州姫路へ復帰したのであった。
 かくして、柴任は、姫路で再び本多家中の武蔵流に関与することになり、ここで、武蔵の兵法は「古流」と「当流」の興味深い交流が生じるのである。国分九郎右衛門真恒以後、国分家は代々家伝として武蔵流を伝承する家となる。その端緒に、この柴任美矩が関わったとすれば、それは武蔵門流研究において看過すべからざるエピソードとなろう。



国分九郎右衛門屋敷付近現況
道路右手が比定地付近
姫路市本町 姫路医療センター





*【丹治峯均筆記】
《其後、本多中務太輔殿、五百石ニテ被召出。家老梶金平取持ナリ。然ル所、金平事、ヤウス〔様子〕有テ、本多ノ御家ヲ父子一同ニ立退。三左衛門ニ不限、金平口入ノ面々一同ニ暇申、退散ス。夫ヨリ、柴任播州明石ニ往居ス》

*【兵法列世伝】
《其後年數有テ、梶金平、何カ人ノ讒スル事有テ、押テ隠居ナサシメラル。然レ共、金平ハ本多家ノ功臣ノ家筋成ヲ以テ、其子家督相續スト云共、美矩ハ一筋成生質故、我ヲ吹〔推〕挙セシ金平、上ノ命ニ背ヌルニ、新参ノ身分、何ゾ其処ニ足ヲ止メンヤト、忽本多家ヲ立退、同國明石ノ城主、松平左兵衛督直常ノ家中ニ、美矩ノ親類有シニ、行テ同所ニ住居セン事望マレケレバ…》



梶金平(勝雄)屋敷付近
左脇に梶民部(勝賢)



*【本多家臣略系譜】(梶金平)
○勝雄 《忠国様御代、依願御免。貞享四卯十二月十四日、隠居。其後離散
○勝賢 《忠国様御代、貞享三寅八月十日御加増七百石、合千石、御職儀。其後、家督。同五辰六月四日、立退。正徳五未三月十八日、帰参。御職儀、二千五百石。元文元辰九月七日死去》
 柴任美矩は姫路本多家に仕官して、城下の下岐阜町の屋敷に居住していた。しかるに、それも間もなく、柴任は本多家を致仕するのである。
 『丹治峯均筆記』によれば、梶金平が本多家を父子一緒に立退くことになった。それで、柴任に限らず、金平が口入れした面々も皆、本多家を去ったという話である。
 ところがこの話、丹羽信英の『兵法列世伝』にも記事があり、その記述内容に接するに及び、話はもう少し現実味を帯びたものとなった。
 つまり、梶金平は讒言によって隠居を余儀なくされたが、金平は本多家の功臣の家筋なので、その子が家督相続した。しかし、柴任美矩は、一徹な性格なので、自分を推挙してくれた梶金平がこんなことになって、このまま本多家に居続けることはできないと、すぐに立退いたというのである。
 このあたりの記述も、著者丹羽信英が同じく《一筋成生質故》、播州姫路以来先祖代々仕えた黒田家を出奔、脱藩した人物だから、よけいに感興あるところである。
 しかし、これも事実はどうであったか。もちろん、我々の研究プロジェクト以前には、『丹治峯均筆記』のまともな読解研究がなかったし、丹羽信英の『兵法列世伝』も知らないという研究状況では、この件を明らかにした研究例はなかった。『姫路市史』や『姫路城史』等の一般図書しか見ていないようでは、分からぬのも当然だが。
 これは要するに、三河岡崎まで出向いて、本多家の家臣系譜を当たれば済むことである。前述の宮本家や大原家のような絶家や退去のケースは、家中の家臣系譜は殘らない。ところが、梶金平の家は存続したから、系譜はあったのである。
 家臣略系譜(岡崎郷土館蔵)によれば、梶金平勝雄は、政勝、政長、忠国の三代に仕えて、貞享四年(1687)十二月に隠居。しかしその後の記事に、「其後離散」とある。
 二千五百石の家老の家だというのに、「離散」とは穏やかな話ではない。金平の隠居も梶家離散も、上記の『峯均筆記』や『兵法列世伝』の記事に相応するものと思われる。
 これを息子の梶金平勝賢(始め民部)の記事で見れば、もう少し、話は具体的にわかる。つまり、勝賢は、家督以前に千石で勤めていたが、貞享四年十二月に、父金平勝雄が隠居して、二千五百石の家督を継いだ。しかし、翌年貞享五年(1688)六月四日に、本多家を立退いたのである。
 このように、勝雄の隠居から立退まで、半年という短期間であるから、おそらくこれは、家中の権力抗争の臭いがする。勝雄は失脚して隠居、しかしそれに留まらず、梶父子は本多家を退去してしまったのである。おそらく、柴任を世話した父の梶金平勝雄は、離散先で死亡したのであろう。
 しかしながら、この一件にはまだ続きがあって、梶勝賢は、それから二十七年後の正徳五年(1715)に帰参、元の二千五百石の家老職に復権する。それは、本多忠良の代、下総古河城主の時代である。本多家は、忠国死後、越後村上へ移され、忠良の代にも、三河刈谷、下総古河と転々したのだった。
 かくして、『丹治峯均筆記』や『兵法列世伝』が記した、梶金平の一件にからむ柴任美矩の本多家退去は事実であった。この話は、立花峯均が、明石で柴任本人から直接聞いた話のようである。峯均はそれを『峯均筆記』に書いただけではなく、門人に語り伝えた。それは『兵法列世伝』の記事でわかる。
 ただし、『峯均筆記』や『兵法列世伝』では、柴任が姫路本多家を退去したのはいつか、それがわからない。ところが、本多家臣略系譜の梶勝賢の記事によって、それが知れる。つまり、梶父子の退去は、貞享五年六月である。とすれば、それとほぼ同時に、柴任も本多家を退去したのである。
 すると、柴任美矩が本多忠国に仕えていたのは、ごく短い間である。前述のように、柴任の姫路本多家仕官は、貞享四年(1687)三月朔日である。そして、梶金平の退去が貞享五年六月である。したがって、柴任美矩が姫路本多家に仕えていたのは、一年と三ヶ月という短期間であった。
 ようするに、五百石の仕官にありついても、このように短期間であっさり辞めてしまう。それが柴任という武士であった。筋を通す人間であること、それは丹羽信英が、《美矩ハ一筋成生質故》と書いたゆえんである。
 ともあれ、柴任は、これで二回目の本多家退去である。そして、肥後熊本以来、四度目の浪人である。よくよく流転した人であるが、これが柴任の武士の道であった。
 柴任は姫路を去って、明石へ遷り、そこに住んで没した。このあたりは、[サイト篇]の明石城下のページで探索されるであろう。

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 話が柴任美矩まで行ったので、もう一つついでに、その弟子の吉田太郎右衛門実連のことを省くわけにはいかない。吉田実連〔さねつら〕は、筑前二天流第四祖で、『丹治峯均筆記』の記者・立花峯均の師匠である。
 『丹治峯均筆記』によれば、吉田実連(1638〜1709)は、筑前の直方(鞍手郡東蓮寺)の産、小兵ながら大力で、相撲取りにも負けないほどであった。十八歳のとき、江戸で浪人中の柴任美矩に会い師弟の契約をする。以来、二十五年修行の功を積んで、明石で柴任から一流相伝を受けたのである。その間、柴任は福岡だけではなく、諸方に流転しているから、教えを受けるのに苦労したことであろう。
 このように九州生れの吉田が、柴任から明石で印可をうけたとはいえ、この播磨の姫路と何の関係があるか?――と訝る向きもあろうが、そこはそれ、落ち着いて以下を読んでもらえばわかる。
 実連の父は、太郎右衛門利貞、島原の乱で戦死。その直前、五日前に実連は生れた。ところで、この吉田実連の祖父が六郎左衛門利昌。この利昌の兄が、黒田二十四騎の一人、吉田壱岐、六郎太夫長利(1547〜1623)である。筑前入部後は、吉田家は代々福岡藩で重きをなした。
 実連の世代の本家は、福岡藩家老の吉田増年(1638〜1702)である。その子・治年は『吉田家伝録』(享保十八年)の筆者であり、同書によれば実連に剣術を習いもしたらしい。経緯は省くが、いわゆる吉田家本五輪書(九州大学所蔵)、つまり『五輪書』の重要なヴァージョンが、この本家に遺されていたのである。そういうわけで、この吉田家は、武蔵を研究する者たちにとって格別の意義を有するのである。
 ちなみに、吉田治年の『吉田家伝録』に、「実連は長利の末葉なりし故」という記事があって、我々も最初はそのフレーズのみを鵜呑みにして、実連を吉田壱岐長利の子孫と勘違いしていたのだが、幸いなことに、吉田氏家系に連なるある読者からその誤りを指摘していただいて、改めて『吉田家伝録』を閲覧し、吉田実連を、吉田壱岐長利の弟の、六郎左衛門利昌の孫と訂正できた、という経緯がある。「実連は長利の末葉」と記すところの「末葉」は、『吉田家伝録』では長利の兄弟姉妹の子孫まで含むのであった。
 さて、吉田実連の生国はむろん、九州は筑前鞍手郡東蓮寺(のちに、直方)なのだが、その本国、すなわち先祖の地は、播州姫路なのである。――どうしてそういうことになるのか。
 これを理解するためには、筑前福岡の黒田家がもともと姫路に発することを思い起さねばならない。黒田家の実質的発起は、黒田官兵衛(1546〜1604)にある。
 播磨黒田氏は赤松庶流である。つまり、赤松円心則村の弟・円光を元祖とし、その子・重光を氏祖とし、以下代々多可郡黒田城に拠った武家だが、九代治隆の代に滅亡した。その弟・孝隆は、荘厳寺本黒田家系図及び播磨の伝承によれば、小寺美濃守職隆の猶子となって姫路にいた。
 小寺家の本城は御着城であった。官兵衛の「父」・職隆は、小寺則職の嫡子で、姫路城を預かり居城とした。ところが、則職の前に、姫路城を預かった者があったらしい。それが八代〔やしろ〕道慶、吉田実連の曽祖父である。
 八代六郎左衛門道慶〔みちよし〕は、享禄四年(1532)小寺則職が御着〔ごちゃく〕城へ移ったあと、姫路城の留守居役を勤めた。
 上記の九州末孫・吉田治年による『吉田家伝録』には、《道慶近隣ニ争闘シテ武勇ノ名有リ、中ニモ敵ニ眼ヲ射ラレ其ノ矢ヲ抜捨、終ニ其ノ敵ヲ伐ト見ユ》とあって、八代道慶の勇名を記す。八代六郎左衛門道慶まで行き着いたところで、道慶以前はどうかというに、当初は九州末孫には先祖のことは不明であった。十八世紀前期の享保年中に、子孫である吉田治年・栄年〔まさとし〕父子が、探査に乗り出した。
 ちなみに、治年(1659〜1739)は五千石の黒田家中老、子の栄年(1685〜1761)は同じく中老で二千石回復されて都合七千石。享保十一年(1726)、栄年の調査依頼を受けた姫路の心光寺の僧侶・郭誉が、「播陽ノ旧記」を抜書きして吉田栄年に送付した。
 その新情報によれば、八代内蔵允道重が八代村に采地を有し、その弟・八代藤三郎道嵩〔みちたけ〕が、置塩下町に居住し、八代村に二百貫の采地を有した。道嵩の子が八代六郎左衛門道慶で、小寺氏に附従して、天正年中八代村萱原というところに居を構え、八代村に采地四百貫。――こうして、道慶の先も子孫に知れた。八代氏の姓名は飾東郡八代村に由来するのである。
 八代道嵩は置塩城の赤松宗家に仕えていたが、道嵩の子六郎左衛門道慶になって小寺氏に仕えるようになったというから、これは置塩の赤松宗家が衰え、主家を乗り換えたということらしい。道慶はのちに出家して俗名のまま道慶〔どうけい〕と名乗った。ゆえに八代道慶は「どうけい」と読んでよい。


  【筑前二天流立花系伝来】
 
    大祖 新免武蔵守玄信
    二代 寺尾孫之允信正
    三代 柴任三左衛門美矩
    四代 吉田太郎右衛門實連
    五代 立花專太夫峯均



九州関係地図



*【吉田家伝録】
《予素劔術ノ名ヲ忌ムト云ヘドモ、実連ハ長利ノ末葉ナリシ故、時々実連ヲ招テ其術ヲ習へり》





*【播磨黒田氏系図】
 
○赤松円光┬敦光→別所氏
     │
     └黒田重光―重勝┐
 ┌───────────┘
 └重康─光勝─重貞─重昭┐
 ┌───────────┘
 └重範─重隆┬治隆
       │
       └孝隆
         小寺職隆猶子


*【吉田家略系図】

○┬八代内蔵允道重
 |
 └八代藤三郎道嵩―六郎左衛門道慶
 ┌―――――――――――――――┘
 ├六郎太夫長利┬与次
 |      |
 ├与三太夫  ├重政┬知年―増年┐
 |      |  |     |
 ├六郎右衛門 └利成└利安―利重|
 |               |
 ├九右衛門利直         |
 |               |
 └六郎左衛門利昌―利貞―実連  |
          ┌――――――┘
          └治年―栄年


*【吉田家伝録】
一 心光寺ヨリ十二月十日ノ報書ニ相添へ来ル伝記並ニ覚書写
 八代氏事
 一 八代内蔵允道重
  餝東郡出水構。八代邑之内采地
  白国彦四郎聟。姫路城主ニ附従
 一 八代藤三郎道嵩 道重弟
  始(ハ)重門。帰納不好而、
  小寺氏ヨリ道嵩ト改
  八代邑内二百貫采地
  母石原民部女、名藤波
  置塩下町居構
 一 八代六郎左衛門道慶 道嵩子
  小寺氏ニ附従
  八代萱原構居、天正年中
  家ノ紋藤、裏紋井桁。八代村ノ内
  四百貫采地

置塩城址(城山)
兵庫県姫路市夢前町町村


播磨古城と八代構
 吉田氏の本姓「八代」は、姫路城の北にある地名である。『播磨鑑』によれば、ここに八代構という構居があった。
 姫路城を守る小寺家臣は、八代に居住していたというから、近世のように城の南ではなく、北側に住んでいたのである。現在は裏側だが、昔はこちらが表である。古い山陽道はこちらを通っていた。
 ところで、八代道慶が姫路城を主家小寺氏から預かったということだが、これは当時姫山に「城」と言えるほどの規模の軍事施設があったかどうか不明であるから、姫路城代と言えるかどうかはあやしい。
 これは、八代道慶以前の「姫路城主」とされる者たちについても同様で、秀吉以前には城と呼べるほどの軍事施設はまだ存在しなかったとみてよい。小寺氏は御着城が本城で、姫山にあるのは出城とされるが、城と言えるようなものではなかったはずである。
 『播磨鑑』は八代道慶の事蹟を記録している。それは、大永二年(1522)八月、姫路執人八代構の八代六郎左衛門道慶が大歳神社で、「國中ノ祈祷」をしたという記事である。これは旱魃か何かで臨時の清祓を行ったということか。大歳神社(現・姫路市八代宮前町)は八代山南麓にある。
 この『播磨鑑』において、八代道慶は「姫路執人」とある。これは小寺家の、姫路城代家老というよりも、姫路担当重役というような意味である。そして「八代構の八代六郎左衛門道慶」とするように、根拠地構居は八代にあった。
 つまり道慶は八代構を本拠として、小寺氏から姫山を預かっていた。この当時の姫山は軍事的にみれば城砦たりえず、むしろ祭祀的な意味合いがあった山かもしれない。永禄四年(1561)に黒田官兵衛の「父」小寺職隆が、主君小寺政職の許しを得て姫山の城砦を改修したというあたりが、実質的な起源か。しかし、それにしても後述のように、小寺職隆は市川東岸の国府山城(妻鹿城)を居城としたのである。
 なお、八代道慶が姫路城代であったとする橋本政次説(姫路城史)に異を唱える説もある。
《『姫路城史』が八代道慶留守居を説く根拠とした「小寺政職家中記」は、さきの御着城永正十六年新築説の根拠となっている書であって、全く当てにはできない内容である。八代道慶の子孫の家にさえ留守居した伝承がないのだから、これは事実無根であったとしてよいであろう》(姫路市史第14巻・昭和63年)
 これは半分当たり、半分外れている。姫路城がまだ城と呼べるほどのものでなかったとするのは、正しいが、八代構を根拠地とする八代道慶が、すぐ南の姫路城留守居役だったことを否定するのは根拠のない臆断である。『播磨鑑』の記すように、八代道慶が「姫路執人」であったことを否定する材料はない。


姫路古地図


*【播磨鑑】
《大永二年八月、姫路執人八代構ノ八代六郎左衛門道慶、領中大歳ノ社ニテ國中ノ祈祷有リ》(附録)




大歳神社 姫路市八代宮前町


八代山と姫山(姫路城)


八代アクセスマップ
 さて、八代道慶の子に、黒田二十四騎の一人、吉田壱岐長利がある。長利は、小寺職隆に仕え、その「子」官兵衛の命で「吉田」姓を名のるようになったという次第である。しかしなぜ「吉田」なのか、子孫には不明なので、これも心光寺に調べてもらったらしい。
 ところが、《吉田氏、天正年中マデ播陽赤松家、別所家、英賀家、数多雖見有、系図分家未詳者也》という返事で、ついにどの吉田氏か分からなかったようである。
 吉田長利は、小寺(黒田)官兵衛に隨って転戦し、挙げた首級の数は五十余とか、武勇で知られた人である。三十三の首級を挙げると首供養というものをやったらしい。龍野の赤松氏と合戦していたころ、官兵衛麾下で首供養ができるほどの猛者は長利だけで、青山村(現・姫路市青山)の西の郡境に長利の首塚を築いたというが、すでに江戸時代中期には、それが所在不明になっていたようである。
 吉田実連の祖父・六郎左衛門利昌は、この吉田壱岐長利の年の離れた弟であり、さらにいえば「姫路執人、八代構ノ八代六郎左衛門道慶」(播磨鑑)の子にあたるわけで、我々播磨武蔵研究会は、吉田実連先祖の地として、上記大歳神社のある八代山をその比定地とみなしている。この大歳神社は、享保十一年(1726)長利の子孫が、先祖の氏神だということで、九州は筑前表糟屋郡柳ガ原の地へ勧進しているから、我々の比定におそらく間違いはない。
 この八代山(姫路市八代宮前町)は、姫路城の北方向、約半里のところにある小山である。
 八代山へのアクセスは、姫路駅北側からバスで「西高」まで行く。県立姫路西高という学校がある。そこで下車して、歩いて十分というところである。姫路城から歩いてもよい。このばあいは、城の西の堀、船場川沿いの道からアプローチして30分ほどである。
 車で行く人は、一方通行があって少しアクセスがややこしいが、迂回して県立大学キャンパス裏手の道へ入り、大歳神社の参道へ乗り入れる。
 門前に交番(八代交番)があって駐禁である。前の空いた場所へ駐車する。吉田実連先祖の地に来たのだから、神社にお賽銭をあげて参拝する。当面は、この神社が目印のモニュメントである。
 八代山にはすぐ登れるが、登ってもとくに何もない。山上は行者堂があるだけである。何の案内表示もないから、マニアックな感興をそそられる。要するに、この山と姫路城の間の土地、これが小寺氏時代の武家居留地だった、そして吉田実連の先祖の本拠地だったということである。
 以上のように、吉田実連はその先祖が姫路に由来する。しかし官兵衛自身を筆頭に、その兄弟一門をはじめ、筑前黒田家家臣には姫路周辺に由来する者が少なくない。黒田二十四騎と呼ばれる武将たちにしても、そのほとんどが姫路近辺もしくは播磨の産である。
 黒田兵庫助等、黒田一門は姫路産として、黒田二十四騎中、他の播州産の者を挙げれば、以下のごとくであろう。
  生歿年 知行高 出生地 現在地
 益田与助 1542〜1611 3000 石   印南郡益田村  加古川市東神吉町
 久野四兵衛 1545〜1592 5000 石   加東郡久野村  小野市新部町
 吉田六郎太夫 1547〜1623 1200 石   飾東郡八代村  姫路市八代
 竹森新右衛門 1550〜1621 3000 石   飾東郡大野村  姫路市大野
 三宅山太夫 1552〜1623 3600 石   飾東郡三宅村  姫路市手柄
 衣笠久右衛門 1552〜1631 3000 石   明石郡櫨谷庄  神戸市西区櫨谷町
 井上九郎右衛門 1554〜1634 16000 石   飾東郡松原村  姫路市白浜町
 桐山孫兵衛 1554〜1625 6000 石   飾東郡姫路村  姫路市本町
 小河伝右衛門 1554〜1593 5000 石   美嚢郡淡河  神戸市北区淡河町
 栗山四郎右衛門 1555〜1631 15000 石   飾東郡栗山村  姫路市手柄
 母里太兵衛 1556〜1615 18000 石   飾東郡妻鹿村  姫路市飾磨区妻鹿
 野村太郎兵衛 1560〜1597 3000 石   飾東郡妻鹿村  (母里太兵衛弟)
 野口左助 1559〜1643 3000 石   加古郡野口村  加古川市野口町
 後藤又兵衛 1560〜1615 16000 石   神東郡山田村  姫路市山田町
 村田兵助 1565〜1621 2000 石   飾東郡御着村  姫路市御国野町御着
 菅六之助 1567〜1625 3000 石   揖東郡越部村  たつの市新宮町船渡
 堀平右衛門  ? 〜1636 5000 石   (播磨産)  (本姓明石氏)

 黒田二十四騎の彼らは家臣とはいえ、大名並みの万石知行あり城主になった者もある。母里太兵衛や菅六之助という有名どころがあるが、なかでもユニークな存在は、後藤又兵衛であろう。筑前へ入部して大隈城を預かり、知行一万六千石。しかし藩主黒田長政と不和、それにより黒田家を去って、結局秀頼の大坂城に入り、大坂陣には豊臣方で戦い、道明寺川の戦闘で戦死したのである。
 このときちょうど、徳川方の水野勝成の軍中に客分で宮本武蔵がいて、前線に出たらしい。したがって、後藤又兵衛と宮本武蔵は、同じ戦場で敵味方に別れて戦っていたというわけである。
 宮本武蔵の少年期は不明であるが、幼少期に、多くの播磨生まれの者らとともに、黒田家に隨って九州へ行ったと推測させるものがある。それというのも、黒田官兵衛は秀吉から播磨制圧の恩賞として、まずは、揖東郡内に一万石の領地を与えられた、という事実がある。その後天正十二年に宍粟郡を与えられ、都合四万石。天正十五年に九州豊前中津へ転じるまでのこの間、官兵衛は山崎城主であるとともに、揖東郡内に領地をもっていたのである。
 このように、かりに武蔵が稚い頃、九州へ連れて行かれたとしても、武蔵が13歳で新当流有馬喜兵衛という者と戦って勝ったのが播磨であるとすれば、その頃までには播州へ舞い戻っていたのである。それから、関ヶ原役の折には、また九州へ行き、黒田如水の九州攻略の軍に参加したようである。
 かくして、武蔵は「生国播磨」だが、育ちは九州ではないか、さらに言えば豊前中津ではないか、との推測が可能である。それゆえ武蔵の幼少期の天正後期から慶長はじめにかけての状況として、黒田家が九州で地歩をきづく過程で、播州人が多く九州へ移住していたという史的事実を考慮する必要がある。
 黒田二十四騎ほど出世した者ではないが、黒田家家臣には多く播州人がいる。官兵衛旗本の臣もあれば、最初官兵衛に敵対した者もある。それらはともに黒田家に抱えられて九州へ行ったのである。なかでも、官兵衛の主人であった小寺政職〔まさもと〕の子氏職は、九州で黒田家に仕え、子孫は黒田家家臣として存続した。立場のこういう逆転もあった。
 思うに、戦後経済の高度成長期に、姫路近辺の海岸部に工場が出来て、そこへ九州から多くの人々が就職して、移住し居着いた。なかには、播磨由来の姓をもつ人々も少なからず、いうならば、彼らは知らぬ間に数百年ぶりに先祖の土地に還流してきたのである。
 さて話をもどせば、黒田二十四騎中、吉田六郎太夫は決して禄高は大きくないが、子孫は藩政の重鎮となった。吉田実連も傍系ながらその一族に連なる者である。『丹治峯均筆記』によれば、実連には息子の忠左衛門がいたが夭逝、養子をとって家督を相続させた。その養子の名が白国兵右衛門、この白国も姫路所縁の者である。増位山の麓に白国という地名が残っている。


姫路周辺黒田二十四騎出生地

黒田家前史遺跡

妻鹿へのアプローチ


国府山城址 姫路市飾磨区妻鹿


荒神社 妻鹿城址碑



黒田職隆廟 姫路市飾磨区妻鹿


職隆廟所案内図
 黒田二十四騎の話になったところで、武蔵マニア諸君は、姫路城などという誰でも行くところではなく、もっとディープなスポットを要求するわけで、こうなると、黒田官兵衛やその「父」小寺職隆が拠ったという国府山城址へご案内、ということになる。
 場所は、姫路駅からすると、南の海岸の方向である。電車なら、姫路駅前から山陽電車というローカル私鉄線があるので、それにのればよい。飾磨〔しかま〕という特急の停まる駅があり、その一つ先が「妻鹿」〔めが〕、ここで下車である。駅から市川沿いに川上へ歩くと、正面の山が国府山城址(姫路市飾磨区妻鹿)である。
 車で行く人は、国道250線まで出て、市川の橋を渡り、山陽電車「妻鹿」駅の側で、市川東岸の道を北上すればよい。
 城址の山の間際で、右手の細い斜路を降りると、妻鹿城址の碑がある荒神社がみえる。この荒神社から山上城址まで登ることができる。登れば播磨灘が一望、天気がよければ儲けものである。
 ここは「甲山」「功山」(こうやま)ともいうらしいが、国府山を「こふやま」と読んだなごりである。国府山城は妻鹿城ともいったから、現在山麓に建っている碑銘は「妻鹿城址」となっている。
 城の初めは、『太平記』(巻八・四月三日京戦之事付妻鹿孫三郎事)に登場してくる妻鹿孫三郎長宗が居城としたあたりらしい。長宗は赤松円心に与して戦功あり、日本六十余州に敵なしといわれたほどの怪力の持主だったとか。のち戦国時代、いろいろあったが、天正元年(1573)黒田官兵衛の「父」小寺職隆〔もとたか〕がここを居城とした。
 姫路城というものを小寺氏から与えられながら、それに拠らなかったのは、姫路城は実戦向きではないと考えられたらしい。ようするに現在ではイメージしにくいが、当時の姫路城は東西に川がある中州の平山で、城砦として難があった。だから、赤松貞範は姫路城のほかに庄山城(姫路市御国野)を築いて拠点とし、赤松政則は置塩城(姫路市夢前町)を築いてそれに拠ったのである。どちらも山城である。
 小寺職隆が姫路城よりもここ国府山を居城としたのは、見ての通り、市川に面した山城で、御着城西方の要塞たりえたからである。
 天正八年(1580)三木城が落ちて、秀吉の播州制圧が完了すると、小寺官兵衛は、姫路城を秀吉に明け渡し、自身は職隆が居たこの国府山城に拠ったという。この話は、地元姫路の古記には、こうある。――三木城を陥落させた後、官兵衛は秀吉に、三木城はよい城だが、場所が内陸で辺鄙である。それに引きかえ、我が姫山の城(姫路城)は、海に面し交通の便がよい。その姫路の城を提供するので、是非姫路へお移りなされ、と。
 こういうやり取りが実際にあったかどうかは別にして、秀吉は三木から姫路へ移って、ここを拠点にした。そのとき、差配したのが官兵衛、このときはまだ黒田ではなく小寺を名のっていた。
 秀吉は現在の姫路城の原型となる三層天守をもつ城を築いた。従来の弱点を土木的に克服してしまうやり方である。のちに、それを壮大に展開したのが池田輝政である。輝政は巨大な城を構築し、城下町を整備し、そして河川の流れまで変えてしまったのである。

 ところで、妻鹿でもう一つのスポットは、小寺職隆〔もとたか〕の廟所、「黒田職隆廟」である。
 職隆の廟所が妻鹿にあるのは、国府山城主として、ここが本拠だったから、というよりも、近世累代の姫路城主に遠慮したものとみえる。職隆は本来なら、姫路城のある姫山に廟所があってもよさそうな人物なのである。
 さて、いまも地元の人々は、この黒田職隆廟を「ちくぜんさん」と呼ぶ。これは筑前福岡の黒田家父祖のことを指す。天明四年に設けた廟所そのままではないが、住宅地の中に廟所は残っている。
 場所は、上記の山陽電車という私鉄の姫路駅から三つめの小さな駅、「妻鹿」〔めが〕駅の東、歩いてもすぐのところである。人に聞けば、「ちくぜんさん」の場所を教えてくれる。
 車で行くとなると、国道250号の市川架橋「永世橋」の東詰から川沿いに北上し、山陽電鉄の踏切の手前の道を右折し、200mほど行ったところで、左折して踏切を渡り、またすぐの三叉路を右へ入り、少し行くと「筑前さん参道」という職隆廟所の標識石がある。何れにしても、このアクセスは道が狭いので、要注意である。
 ところで、この職隆の墓は、江戸中期には所在不明になっていたらしい。官兵衛の「父」なのに、筑前福岡の黒田家では、職隆の墓所が播磨のどこにあるか、その伝承を喪失していたのである。
 それが再発見されたのは、なんと天明期である。江戸時代も後半になろうかという時期なのである。このあたりのことは、まだだれも明らかにした者がいないので、このページの附録「黒田家前史小論」にそれを述べて、先鞭をつけておいた。参考にされたし。これも、我々の武蔵研究の余禄である。
 以下、附録記事と重複するが、それを要約するかたちでフォローしてみる。
 職隆の墓が発掘されたのは、天明四年(1784)八月である。歿後約二百年ぶりに職隆の墓が陽の目を見たのである。これは『播磨古事』(福岡市博物館蔵)という書物に詳しく記している。本書の編著者、山口武乕は、福岡黒田家家臣であり、播磨に出張してきており、改葬工事普請方役人として、その現場にいたのである。
 その職隆墳墓発掘のきっかけは、その前年、天明三年に姫路の心光寺の入誉という住職が、福岡へ知らせたことによる。
 すなわち、妻鹿村の者が国府山城主の塚だと言い伝えているものがある。自分が行って調べてみたところ、宗圓様(職隆)の墓のようだ。心光寺にある位牌の法名年月日と一致する。《當寺御霊屋御位牌御法号年月と、相違無御座候》。したがって、これは職隆公の墓だと思うので、見分の者を姫路へ派遣してくれないか。――そんな内容の書状を、姫路の心光寺住職が、福岡黒田家の家老中宛に出したのである。
 すると間もなく、二ヶ月後の翌年正月、福岡から見分の役人が派遣されてきた。そして、当地の領主・酒井家の承認を得た上で、墓所譲渡を受け、八月には改葬のための工事に着手し、棺瓶(骨壷)を掘り出した。
 そして引き続き、普請方の指揮のもと、職隆の墓所を整備し、墓石を覆う霊屋を建てた。こうした工事には、福岡から大工や石工など職人たちを連れて行ったようである。つまり、畏れ多くも黒田家先祖の墓ということなので、職人らは現地雇用の者とはせず、福岡では、その人員を派遣してきたのである。廟所は十一月には竣工した。
 また家老衆からは、寄付が寄せられ、黒田一庸をはじめ、久野一親、野村祐房、浦上正昭、大音厚通、毛利元教、郡勇成、立花増昆らが墓前の灯台を寄進したかたちである。
 もちろん武蔵マニア諸君の中には、立花増昆の名を見て、オヤと思う人もあろう。立花増昆は四千石の黒田家中老だが、筑前二天流八代、そして、吉田経年に一流相伝して、そのとき吉田家本五輪書に関わった人物である。この立花増昆が、播州妻鹿の職隆廟の一件に関わる家老衆の連名の中に顔を出す。天明三年の心光寺入誉の書状の宛名、「立花徳太夫」という初名の時と、翌年、職隆廟の灯台を寄進した折の「立花平左衛門増昆」の名である。立花増昆は、四十四歳で兄から家督相続したが、ちょうどその頃である。
 余談になったが、かくして、歿後二百年、黒田官兵衛の「父」職隆(宗圓)の墓が発掘され、そして改葬されてその廟所が成ったのだが、不思議なことには、それまでは、黒田家先祖の位牌を守る姫路心光寺の住職ですら、その所在を知らなかったのである。
 官兵衛の黒田家は九州へ行って、筑前福岡でついに大大名になった。しかし、その福岡では、早々にその記憶も言い伝えも失われ、この天明期まで、官兵衛の「父」職隆の墓所のありかをだれも知らなかったのである。このことに、だれしも驚きを禁じえないだろう。 



附録「黒田家前史小論」 →  Enter 


*【播磨古事】
《天明四年甲辰八月、播磨國飾東郡[飾東飾西の両郡有]妻鹿村御塔御修補ニ付、紀山子[山口武乕、初進兵衛武厚と云]彼地へ罷越、滞留中、稀に公務のいとまのせつ、農長村老の物語を聞、又ハ長夜の寐覚に、古代の舊記を熟覧せしを、心覚に書留し事共、左に記す》


*【播磨古事】
《宗圓様御墓所之義、従先規、毎度御尋申上候様ニ被仰付候間、先々住、先住も、常々無油断心懸申候得共、一向相知レ不申候。然処、此度手懸り御座候而、古老の物語に、當御城下一里程南、妻鹿村と申村中に、國府山御城主塚と申傳候古墳の五輪御座候。右之場所、東西六間、南北八間之除地御座候由及承、不成一ト通、拙僧心掛りニ付、御地頭様、寺社御奉行所江も申立候而、彼地に罷越、吟味仕候処、所之者申候も、従古來墓所とて、東西六間、南北八間、御除地ニ有之候由申候。右五輪見申候処、蔦苔生茂、相知れ不申候ニ付、苔など少々落見申候ヘバ、別紙繪圖之通、相見江、當寺御霊屋御位牌御法号年月と、相違無御座候。数年經申候ニ付、文字抔闕損も御座候。勿論、御位牌の写も、奉入御覧候。相成候儀ニ御座候ハヾ、其御地御役人中様、為御見分御出、御吟味可遊候様ニ、仕度可致候》(心光寺入誉書状・天明三年十月三日)



黒田職隆廟墓石
法名 満誉心光宗圓大禅定門



御着城址碑 姫路市御国野町御着


*【播磨古事】
《宗卜様、長寿様、御墓所之儀、従先規毎度御尋申上候様ニ被仰付、猶又、去ル辰年八月中、山本喜右衛門殿御越被成候節も、御書ヲ以御尋申上候様ニ被仰付候ニ付、所々相尋候得共、一向相知レ不申候。然處、當國御著駅、天川久兵衛方屋舗内ニ、筑前様御部屋跡と申傳候処御座候。拙僧、甚心掛りニ御座候ニ付、御地頭様、寺社御奉行所江も申立、右久兵衛方江罷越、及掛合、右之場所、取退ケ、吟味仕候処、石蓋弐枚出申候。右石蓋、土杯落シ見申候処、別紙絵圖面之通、覧へ申候。尤、石蓋之下ニ瓶二ツ御座候。當寺 御霊屋御位牌年月と相違無御座候》(心光寺入誉書状・寛政五年七月十二日)
 妻鹿の黒田職隆廟は、地元の人々に「ちくぜんさん」と呼ばれている。ところで、別の場所にもう一つ、「ちくぜんさん」がある。それが、御着の黒田家廟所である。そこには、官兵衛の祖父重隆と生母の墓と云われるものがある。
 かくして、御着城址(姫路市御国野町御着)へも行かずばなるまい。これが黒田官兵衛の主家であり、当時この一帯を支配した小寺氏の居城だった。しかも、そこには官兵衛の「祖父と母」という両人を祀った黒田家廟所があるからである。
 実は、この御着の黒田家廟所も、前記の妻鹿の職隆墓と同じく、「再発見」された遺跡である。
 というのも、『播磨古事』によれば、寛政年間、やはり心光寺の入誉が、その所在を福岡へ報せて、はじめて分かったのである。妻鹿の職隆墓は天明期だが、その改葬が終って、それから十年ほどたった寛政五年(1793)に、心光寺の入誉がその発見を報せた。
 それ以前に福岡黒田家では、職隆廟所の改葬工事のあと、入誉に依頼して、宗卜(重隆)と長寿大師(職隆妻・明石氏)の墓を探索させていたし、山本喜右衛門ら役人を派遣してきてもいた。しかし、入誉が八方手を尽くしても、依然として分からなかった。
 しかるに、それがようやく発見できたのである。つまり、御着の本陣、天川久兵衛という者の屋敷内に、「筑前様御部屋跡」と言い伝えられてきたものがあった。それを聞きつけた入誉が、これは、と思って、姫路酒井家の役所にも話を通した上で、その天川久兵衛の家へ行って掛け合い、「筑前様御部屋跡」の場所を掘り返してみたのである。
 調べてみると、石蓋が二枚出てきて、さらに、その石蓋の下から棺瓶二つを見つけた。これがまた、心光寺にある黒田重隆(宗卜)、長寿大姉の位牌年月と一致した。つまり、この二人は御着に葬られていたのである。
 石蓋の銘文によれば、両方とも《天正十五丁亥年五月廿三日、改葬天川廓内》とあって、天正十五年(15787)五月に、佐土〔さづち〕からこの御着城址(天川廓内)に改葬したものらしい。
 かくして、天正十五年改葬の時から二百数十年、この両人の墓を、心光寺入誉が発掘したというわけである。
 そして、《享和二壬戌年十一月、播州御着宿本陣、天川久兵衛宅裏ニ、黒田下野守重隆公、同美濃守職隆公御内室長壽大姉御墓所、御再建》。つまり、入誉が墓所を発見して九年後の享和二年(1802)、両人の廟所が再建されたのである。それが、御着にある現在の黒田家廟所である。
 さて、問題はここからである。黒田官兵衛の先祖となると、これがよくわからないからである。そんなもの、分かりきっているではないかと思っている人は、以下を読んでみることだ。
 周知の『黒田家譜』(貝原益軒編著・貞享四年)によれば、本来は宇多源氏、近江の佐々木秀義の子孫・宗清が近江国伊香郡黒田村(現・滋賀県長浜市木之本町)に住んで黒田氏を称したという。これが黒田氏元祖である。重隆の「父」高政(官兵衛曽祖父)の代、故あって近江を退去し、備前福岡(現・岡山県瀬戸内市長船町福岡)に移り住み、重隆の代にはさらに播磨に流れてきたというわけで、これが一般に信じられている黒田氏前史である。
 ところが、『寛政重修諸家譜』(文化九年)では、黒田家が書き上げた先祖「高政」の存在を却下し、『寛永諸家系図伝』(寛永二十年)と同じく、高宗までの近江黒田氏と、重隆以下播磨の黒田氏との間がつながらないとする。つまり、高宗→高政→重隆という『黒田家譜』の黒田家前史は、公認されていなかったのである。このことを知る人は少ない。
 しかし、公認されなくてもいいじゃないか、という人もあろうが、それは現代人の発想である。『黒田家譜』の系譜は、客観性がない手前味噌だと却下されたのであり、ようするに、当時、広い世間では通用しなかったのである。ところが、不思議なことに、当時通用しなかった説が、いまや最も広く普及している。歴史の悪戯と謂うべし。
 他方、地元播磨の史料によれば、もっと話が違ってくる。これが、第三の黒田家前史で、たぶん今日ではほとんど知られていないことだろう。
 すなわち、播磨側の伝承では、黒田氏は重隆以前に遡れないし、黒田氏が備前経由で播磨へ来たという話もない。むしろ重隆は、備前どころか、播州多可郡黒田村に住していたと記録している。
 今日では『黒田家譜』がむやみに重んじられ、それに依拠した説しか流通していないが、少なくとも昔はそういう異説もあったことは、知っておいた方がよい。
 そこで、上記の『播磨古事』のことになる。筑前福岡の黒田家家臣、山口武乕が播磨に来て、当時播磨に残っていた史料を採取しているのであるが、その中に興味深い記事がある。
 たとえば、「播州古城旧跡」という文書の抜書(國府寺次郎左衛門藏書)に、官兵衛孝隆について、先祖は宇多源氏の後胤、黒田判官備前守高満の末葉で、下野守重隆が故あって当国(播磨)多賀郡黒田村に住み、嫡子・官兵衛孝隆は、姫路の城主・美濃守職隆の猶子となり、姫路を守る、とある。
 この「播州古城旧跡」抜書は、すでに『播磨鑑』に引用されていたものとほぼ同文である。この記事によれば、黒田氏は、遠祖は近江佐々木氏で、黒田高満の末葉という言い伝えがあったらしい。重隆は播磨多可郡黒田村住。この黒田村は、姫路近辺の村ではなく、十里も離れた、丹波国境に近い村である。黒田重隆はその黒田村に住んでいた。そこに黒田城という山城があって、それに拠ったらしい。
 そして、注目すべきは、官兵衛は、黒田下野守重隆の「孫」ではなく、「嫡子」である。官兵衛は、姫路城主小寺美濃守職隆の猶子になって、職隆の家を嗣ぐ。「猶子」には数種異なる語義があるが、ここでは義理の息子、義子の意味である。ようするに、『黒田家譜』の説と異なり、官兵衛は職隆の実子ではなかったのである。
 また『播磨古事』が収録した「心光寺旧記」(略文)によれば、小寺官兵衛は、姫路生れではなく、播磨多可郡黒田村の産だという。黒田重隆の子だからそういう話になる。
 加えて、この「心光寺旧記」にも、《孝隆ハ、美濃守の猶子也》とある。心光寺は、いわば黒田家前史にかかわる寺院で、重隆、職隆、そして職隆妻・明石氏の位牌を守ってきた。そういう寺に、このような言い伝えがあったのである。となれば、これは疎かに扱えない情報である。
 以上、播磨の伝承によれば、官兵衛は職隆の嗣子だが、実子ではなく、猶子である。官兵衛は重隆の子である。したがって、重隆→職隆→孝高という通説のリニアな三代嗣系とは異なる、二重の親子関係をここに得る。つまり、
    (実父)黒田重隆→孝隆 / (義父)小寺職隆→孝隆
というわけで、官兵衛は職隆の嗣子だが、実子ではなく、義子である。官兵衛の実父は重隆であり、職隆は官兵衛の義父である。
 となると、話は従来一般に流通している話とは大違いである。そこで、御着の黒田家廟所なのだが、そこにこの紛糾を解く鍵があるようである。




*【筑前黒田系図】
○佐々木秀義―[四代]―黒田宗清┐
 ┌─────────────┘
 └高満―宗信―高教―高宗┐
 ┌───────────┘
 └高政重隆―職隆―孝高

*【寛政重修諸家譜】
《寛永系圖、高宗より重隆まで其間中絶と記せり。今の呈譜、高宗が子右近大夫高政、其子を重隆とし、高政故ありて近江國を去、備前國邑久郡福岡に移り住すといふ。今前後の年暦をもて推考ふるに、代数なを足ざるに似たり。よりてしばらく舊きに從ふ》

*【寛政重修諸家譜による黒田系図】
 
○黒田宗満―宗信―高教―高宗 中絶
 
 重隆―識隆―孝高



多可郡黒田村

*【播磨古事】
《天正八年の比ハ、小寺官兵衛孝隆、居城。先祖ハ宇多源氏の後胤、黒田判官備前守高満が末葉にて、下野守重隆、故有て、當国多賀郡黒田村に住。嫡子官兵衛孝隆ハ、姫路の城主、美濃守職隆の猶子と成、姫路を守る》(播州古城舊跡抜書 国府城条)

*【播磨古事】
《小寺官兵衛祐隆[後改孝隆。氏改黒田。入道して如水といふ]、播磨國多可郡黒田村の産なり。其所の名に寄て、後、黒田氏に改て、當城に相續して居す[當城ハ姫路也]。(中略)秀吉是に應じて、則、姫山に移らる。其翌年、天正九年辛已、今姫路の城を築く。仍而黒田孝隆、同国妻鹿村国府山[功山共]の城へ退く。孝隆ハ美濃守の猶子也と云々》(心光寺舊記略文)


*【播磨伝承の黒田家前史】
 
   多可郡黒田村住
 ○黒田下野守重隆―孝隆
           ↓猶子
  小寺美濃守職隆=官兵衛孝高
    姫路城主



御着黒田家廟所
黒田重隆と長寿大姉の墓




*【播磨古事】
《或日、心光寺、紀山子に物語りの折から、此寺に昔より申傳へに、長政公御寄附なりとて、御霊位同形の造りにて、前野州太守善我宗卜大居士、松誉宗貞禅尼、龍光院殿如水圓清大居士の御位牌、寸尺共に同様の神主有[前文に此御位牌の寸尺、委敷有之]。(中略)此三ツの御位牌ハ、則如水公の御実父母子の神主にて、長政公、當寺に安置し玉ひたる由、前々より申送り候と、住職入誉、物語れり。故に紀山子も、此御位牌拜見し、又過去帳をも一見せしが、住職の物語にたがふ事なし》







*【播磨古事】
《然れ共、いまだ筑前国にて、松誉宗貞禅尼の御事、誰知人もなく、諸寺に右之御霊位を祭りし寺をきかず。紀山子、頻に此事を人に尋需むるに、或人の曰、此禅尼の御霊位ハ、紫野の龍光院に安置し玉ふよし。同院にてハ美濃守職隆公の御室といふよし。然れ共、濃州公の御室ハ長寿大姉の御位牌、心光寺又ハ本藩の大長寺にも安置なし置れたり。京都紫の龍光院のミに、松誉宗貞禅尼の御位牌を、濃州公御霊位と同敷安置し玉ふ事、不審》





黒田家墓所関係地図
 重隆は隠居して号宗卜、永禄七年(1564)卒、五十七歳。法号は善巌宗卜大禅定門。佐土(さづち・現姫路市別所町)の心光寺に葬られた。その後、心光寺は同地から移転し、さらに池田氏播磨領知の時代、姫路町割りがあって、慶長十三年に坂田町(下寺町)に移る。その過程で、天正十五年に御着に両人の墓が改葬されたのである。それがいつの間にか不明になり、再発見されたのが、上述のように十八世紀も終りの寛政年間、というわけである。
 ところで、御着の黒田家廟所の埋葬者は、黒田官兵衛の「祖父」重隆、そして「父」職隆(宗圓)の内室・長寿大姉だということである。それがあたかも夫婦墓のごとく、二基並んでいる。そういうことだが、それではいかにも奇体なことである。
 というのも、職隆の内室であれば、この長寿大姉の墓は、職隆の墓と対になってその傍にあるはずだろう。それが、そうではなく、黒田官兵衛の「祖父」重隆と並んで葬られている。
 では、御着の黒田家廟所では、なぜ職隆の室である女性の墓が、重隆と夫婦墓のように連立しているのか。かくして、この女性が黒田官兵衛孝高の生母だとして、そのあたりが、黒田官兵衛孝高の実父はだれか、という問題の急所である。
 上記『播磨古事』によれば、心光寺では各種位牌が祀られてきたようだが、その中に黒田長政寄附という言い伝えの位牌があった。《御霊位同形の造りにて、前野州太守善我宗卜大居士、松誉宗貞禅尼、龍光院殿如水圓清大居士の御位牌、寸尺共に同様の神主有》。これは、重隆(宗卜)、松誉宗貞禅尼、そして孝高(如水)の位牌である。
 ここで、重要なことは、宗卜(重隆)と宗貞禅尼は、《如水公御父母故、長政公、當寺に安置し給ひし》という言い伝えがあったことだ。とすれば、二人は孝高の実父母であり、長政にとって祖父母にあたる。孝高(如水)の子、黒田長政段階では、そういう認識があったということである。『播磨古事』の編著者・山口武乕は、心光寺で入誉からその話を聞き、同時にその位牌も過去帳も確認している。
 そうすると、この宗貞禅尼こそが、官兵衛孝高の生母である。位牌の命日は、没年記載なく九月五日とする。他方、長寿大姉の命日は、心光寺の位牌では十一月二十八日である。法名が異なるだけではなく、命日が違うのである。長寿大姉は宗貞禅尼とは別人である。とすれば、官兵衛孝高には、「母」なる人が二人あったのである。従来知られていなかったことだけに、ここに注意したい。
 では、なぜ長寿大姉(職隆室)が、御着の黒田家廟所では、宗卜(重隆)と並んで葬られているのか。その形態が示すように、もしこれが夫婦墓だとすれば、埋葬者は長寿大姉(義母)ではなく、松誉宗貞禅尼(生母)だということになる。
 すでに見たように、御着の黒田家廟所は、天正十五年に心光寺からここへ改葬されたのである。この天正十五年当時、官兵衛孝高は秀吉の九州制圧戦に従軍しており、播州には不在である。しかも孝高は熱心なキリシタン大名の一人であったから、おそらく仏事に関わらず、墓も心光寺の外へ出して御着城址に据えたということかもしれない。また、この年七月、孝高は秀吉から豊前国八郡のうち六郡を与えられて、黒田家は九州へ移る。
 こういうドサクサの年に、改葬がなされたのである。その時に宗貞禅尼が長寿大姉と間違われたという可能性はある。この種の混同は他にもあって、『播磨古事』によれば、京都大徳寺龍光院にも、宗貞禅尼の位牌があり、龍光院では、これを美濃守職隆室と言い伝えていたらしい。
 となると、御着の黒田家廟所のケースでも、宗貞禅尼は長寿大姉と混同されたのかもしれない。長寿大姉が職隆室だとすれば、彼女は孝高の生母ではなく、養母である。長寿大姉は永禄二年卒だから、孝高十四歳の時に死亡している。生母・宗貞禅尼は孝高幼年で死去したらしいから、長寿大姉は義母とはいえ、育ての親である。孝高の「母」といえば、この女性を指すことであっても間違いはない。ただ、生母/養母の区別からすれば、生母ではない。
 ようするに、二人の母の混同があった。宗貞禅尼(孝高生母、重隆室)と長寿大姉(孝高養母、職隆室)が混同されたのである。孝高のこの「二人の母」の析出により、同時に孝高の「父」という問題も明らかになった。
 上に見たごとく、黒田家前史に最も縁の深い姫路心光寺では、宗卜(重隆)と松誉宗貞禅尼は、孝高の実父母だという伝承があった。そして、御着の黒田家廟所の埋葬形態は明らかに夫婦墓である。とすれば、それは、宗卜(重隆)と宗貞禅尼は孝高の実父母だという心光寺の言い伝えを裏づける物証にほかならない。
 かくして、我々は重大な問題提起に相遇しているのである。この黒田家廟所の埋葬形態が示すところを、正当に読みとらねばならないというわけである。
 そこで、問題は黒田重隆という存在である。『江源武鑑』に着想を得た『黒田家譜』の「物語」を別にすれば、重隆の親が何者とも知れず、それを記す材料がない点では、『寛永諸家系図伝』も後の『寛政重修諸家譜』も同じである。
 他方、重隆がはじめ備前に居て、後に播州姫路へ移ったとする点でも『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』両者に変りはない。これは、黒田重隆を備前の住人と錯覚した『江源武鑑』の記事を、『寛永諸家系図伝』の段階で鵜呑みにした結果である。
 ただし、『寛永諸家系図伝』が、重隆を《生國備前赤坂郡福岡》として、重隆を備前生れとするのは、『江源武鑑』の記事を反復しただけで、とくに根拠があるわけではない。かたや『黒田家譜』は、重隆が近江伊香郡黒田村の生れだと訂正しているが、これも空想の域を出ない。「永正八年に近江を退去した高政」という筋書を導入したことによる副産物にすぎない。
 『寛政重修諸家譜』は、『寛永諸家系図伝』のように重隆を「生国備前」とはしない。ただし、重隆を近江生れとする『黒田家譜』の説も採らない。備前國邑久郡福岡に住んだとするだけである。この「邑久郡福岡」は、『黒田家譜』の訂正を承けて、『寛永諸家系図伝』の「赤坂郡福岡」を修正したのである。
 こうしてみれば、『黒田家譜』を中間において、『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』との間には記事内容に相違が発生している。ところが、それでも、『江源武鑑』が書き出した「備前の黒田氏」という僻説は検証されずに継承され、『寛永諸家系図伝』以来の、黒田氏が重隆の代に備前福岡から播磨姫路へ移ったというストーリーを反復しているのである。
 改めて云えば、地元播磨の史料にさえ、黒田重隆の親が何者か、その情報がないから、これは書きようがない。そして播州側には、黒田氏に関して、重隆が備前に居たという言い伝えはない。福岡の新製黒田系図まで知っている博覧の『播磨鑑』は別にして、本来、播磨の史料では、黒田重隆以前の先祖、高政の名は出ないし、また重隆その人が、姫路に居たのでもなく、播州多可郡黒田村根拠地にした武家だったとする点で共通している。
 すでに見たように、播磨の伝承によれば、黒田孝高は職隆の嗣子だが、実子ではなく、猶子である。孝高は重隆の子である。重隆→職隆→孝高という通例のリニアな系譜とは異なり、二重の親子関係があることになる。つまり、播磨のこの伝承によるかぎりにおいて、重隆と職隆の間には父子関係はない。言い換えれば、重隆→職隆→孝高という通例のリニアな系譜は、孝高の「義父」小寺職隆を黒田嗣系にとり込んだ結果、生じたもののごとくである。
     重隆→孝高 / 職隆→孝高 : 重隆→(職隆→)孝高
 何れにしても、播磨の旧記を傍らにおいて、家譜等のオフィシャルな記事をよくよく吟味すれば、黒田家の前史には未決の問題があるとしなければならない。その不確かさが黒田家の人物、とくにこの重隆を興味深い人物にするわけである。
 今日、ようやく黒田官兵衛「曽祖父」高政には「?」が付されつつあるが、問題は、孝高以前、「祖父」重隆からは黒田家の系譜は明らかだと、一般に錯覚されているところにある。上述のように、孝高以前は未詳とせざるをえない。地元播磨に異伝があり、また妻鹿や御着の黒田家廟所の埋葬者とその組合せをみるかぎり、孝高の「父」が確定できないからである。
 それゆえ、すでに見た『播磨古事』は、福岡黒田家中にあって、きわめて特異な資料と云える。
 ようするに、本書が、『黒田家譜』等のオフィシャルな歴史=物語を、あっさり転覆してしまうものであることは明らかである。少なくとも、黒田孝高の息子長政の段階までは、重隆は孝高の実父として認識されていたこと、そしてその重隆が、近江の黒田村ではなく、播磨の黒田村に住した人物だという情報を明記しているからである。
 黒田家の発端について、今日では、近江国伊香郡黒田村とするのが通説だが、『播磨古事』によれば、それは十八世紀の黒田継高の代に、そのように書き換えたということのようである。それ以前の古武鑑には、播州多可郡黒田村とあるという。これは継高先代、宣政の代までの武鑑を指すもののようである。
 かくして『播磨古事』は、《後世に至りて、博覧廣聞の君子、舊をたづねて、此一事を探索し、改訂し玉へ》と宿題を提起し、黒田家前史に関する『黒田家譜』の記述に、大いなる疑問符を付きつけた格好である。問題は、この宿題に、今日の我々がどう応答できるか、である。

*【寛永諸家系図伝】
生國備前赤坂郡福岡、後に赤松につき、播州姫路にあり》

*【寛政重修諸家譜】
《備前國邑久郡福岡に住し、後赤松家に屬し、播磨國姫路にうつる》

*【黒田家譜】
《黒田下野守重隆ハ高政の二男也。永正五年戊辰の歳、江州黒田の邑に生れ、いとけなふして父に從ひ備州福岡にうつらる。後に浦上村宗、備前國中をおかし掠めし時、重隆、其難をさけて幡州飾東郡姫路に移らる》



黒田氏関係地図



*【播磨伝承の黒田家前史】
 
   多可郡黒田村住
 ○黒田下野守重隆―孝隆
           ↓猶子
  小寺美濃守職隆=官兵衛孝高
    姫路城主


*【播磨古事】
《姫路府下心光寺に、長政公御寄附にて、宗卜様、松誉禅尼、龍光院殿の御位牌を安置なしおかれ、又ハ、心光寺住職入誉も、右之通、三對之御位牌ハ、如水公御父母故、長政公、當寺に安置し給ひしと物語せしうへ、多賀郡黒田村にて、古老の語り傳へ、彼是を以て勘考するに、各符号し侍れども、我本藩にて、国君の御家系、其外諸記録等に、此事見當り聞傳へ侍らず。筑前国におひて、松誉禅尼の御事を語り傳ゆる人もなし。後世に至りて、博覧廣聞の君子、舊をたづねて、此一事を探索し、改訂し玉へと爾云。
又曰、當時梓行せし武鑑ハ、御當家の御系圖の發端に、江州伊香郡黒田村と有。是ハ、筑前少将継高公御代に、書改給ひし也。其以前ハ、播州多可郡黒田村とあり。古武鑑を見て、察すべし》



多可郡黒田村



荘厳寺蔵
黒田家畧系圖 冒頭
赤松円光を元祖とする





*【荘厳寺本黒田系図】
 
○赤松円光┬敦光→別所氏
     │
     └黒田重光―重勝┐
 ┌───────────┘
 └重康─光勝─重貞─重昭┐
   ┌─────────┘
   └重範─重隆─┬治隆
     │     │
     │     └孝隆
  佐々木高信女




荘厳寺蔵
黒田家畧系圖 重隆・治隆・孝隆
 この宿題について言えば、その解答は、黒田氏本拠地の多可郡黒田村にあった。すなわち、その地には黒田家系図が伝わっていたのである。
 『播磨古事』に登場する関係者が遭遇の機会を逸して知らなかったこと、つまり重隆以前の黒田家前史の旧記のことだが、それはまさに黒田氏の本拠、多可郡黒田村に荘厳寺本「黒田家畧系圖」として、その一端が残された。そこには、赤松円心弟・円光を元祖とする黒田家の起源が明記され、以下累代の黒田氏事跡が記述されている。略系図とは云え、さしあたり、重隆以前の黒田家前史の記録としては、これ以上の史料はまだ出ていない。
 では、「黒田家畧系圖」によれば、黒田氏の由来はいかなるものか。これは従来一部でしか知られていなかった事績ゆえ、注意して以下を読まれたい。
 黒田氏元祖は、系図冒頭にある赤松円心(則村)の弟・円光である。その息子・七郎重光が多可郡黒田の城に拠って「黒田」を名のった。したがって黒田氏はこの重光をもって始祖とする。
 重光は円光の息子だから、赤松円心(則村)の甥であり、その兄が五郎敦光、別所氏祖である。したがって、系図によれば、播磨の黒田氏は赤松円光を元祖とする家系だから、世に云う佐々木末葉どころか、明らかに赤松氏末裔なのである。これが第一のポイントである。
 『播磨古事』収録の黒田村の絵図(中村直栄画)に、円光寺址とあるのは、重光が父円光のために造営した菩提寺があったということである。黒田氏元祖は赤松円光、氏祖はその子・重光である。よって、円光を播磨黒田氏元祖とし、重光を氏祖、黒田家初代として、以下を記す。
 この黒田氏祖の重光は、観応二年(1351)多可郡黒田城に移り、黒田庄五千貫を領し、以後三十二年在住、黒田七郎と称した。文和年間の合戦に武功あり、赤松軍の一翼をになったものらしい。官称は従五位下志摩守。永徳二年三月二十一日卒、法名は浄法院松元悟空大禪定門。妻は小寺相模守頼季の妹である。
 以下、黒田氏は代々黒田城主で、黒田庄を領知した。系図は、当主の命日・法名を明記し、また妻の出自もその命日・法名も記すから、これは系図奥書の云うごとく、たしかに原資料たる黒田家旧記が存在したことを窺わせる内容である。
 初代黒田志摩守重光以下、播磨黒田氏は、二代石見守重勝、三代丹後重康、四代下野守光勝、五代丹後守重貞、六代宮内少輔重昭、七代掃部頭重範と次第する。この黒田重範のとき、黒田氏は京都舟岡山合戦をはじめ将軍をめぐる幕府の内紛抗争に参戦している。
 重範の妻は佐々木高信女とある。この佐々木高信はどうやら近江の黒田氏らしい。そして、この重範が重隆の父である。つまり、重隆の母は近江黒田氏である。そうしてみると、黒田重隆を近江黒田氏に結びつける後世の着想の遠因は、このあたりにあったらしい。
 つまり、実際は、重隆の母が近江佐々木系黒田氏なのに、それを勘違いして、重隆の父を近江黒田氏にしてしまい、結局、黒田重隆を近江佐々木系黒田氏末裔にしてしまったのである。その錯覚の展開は、まず『江源武鑑』が下敷きをして、『黒田家譜』がその軌道上に物語を構成した格好である。
 ともあれ、播磨黒田氏は、上記の如く、赤松円光を元祖とする赤松末葉であって、近江の佐々木氏系黒田氏ではない。重隆の母が近江黒田氏だったというだけである。したがって、重隆を近江黒田村生れにしてしまい、その上備前に移動させ、最後に播磨へ来たらしむる『黒田家譜』の物語は、およそ荒唐無稽な筋書である。
 さて、播磨黒田氏の系図によれば、重隆の子は、治隆と孝隆である。この治隆が嫡子で、九代目城主・黒田左衛門尉である。治隆が戦死して、九代にわたり黒田城に拠った黒田氏は滅亡する。
 他方、弟の孝隆は、《小寺美濃守猶子トナリ姫路城ヲ守ル》。つまり、姫路の小寺美濃守職隆の猶子となった。これが後に歴史に名を残す小寺官兵衛孝高である。
 ここで、黒田村の系図記事は、姫路周辺の旧記と符号する。言い換えれば、黒田氏本拠地たる多可郡黒田村でも、孝高は小寺職隆の猶子になったとするのである。
 つまり、孝高は職隆の実子ではなく、養子である。孝高は重隆の孫ではなく、その息子である。要するに、播磨黒田氏の系図は、これを明記しているのである。
 それゆえ、『播磨古事』の宿題の解答は、黒田氏本拠地たる多可郡黒田村にあった、と我々が言うのも理解されるであろう。
 ここで再び『播磨古事』に関わって、話を姫路周辺にもどす。
 すでに述べたように、黒田(小寺)職隆の墓は、天明年間に妻鹿村で、そして黒田重隆と長寿院(孝高生母)の墓は、寛政年間に御着宿で、それぞれ再発見されて同場所に改葬されたのだった。
 官兵衛孝高以前は、黒田家前史ともいうべきところであるが、その遺跡が、江戸時代にはいったん見失われ、十八世紀も後期ないし末期になって、ようやくそれが再発見されたという次第である。発掘された棺瓶(骨壷)は、さながら、タイムカプセルである。
 この播磨の黒田家前史遺跡の再発見は、天明と寛政のころである。つまり、黒田斉隆が当主の時代である。この頃、治之、治高、斉隆と、すでに三代続いて孝高以来の血統とは無縁な当主が黒田家を相続していた。
 いわば、播磨の黒田家前史遺跡の再発見は、まさに福岡黒田家において、孝高以来の血統が断絶してしまった時期なのである。黒田家の家臣らが筑前福岡から播磨へ来て、妻鹿村や御着宿で黒田家父祖の骨壷を掘り出して、まさに黒田家の「起源」に遭遇した、そのとき、すでに黒田官兵衛孝高の嫡流子孫は絶滅していた。この事実には、だれしも、歴史というものの不思議な働きを覚えるであろう。
 さても、これら黒田家前史遺跡の発見は、姫路心光寺の入誉という人物の、熱心な働きがなければ、ありえなかったことである。入誉は、民間の言い伝えを真に受けて、実際に現地を掘り返してみる、という誰もそれまでやらなかったことを試みたのである。じっさい、心光寺のそれまでの歴代住職で、そんなことをやった者はいなかった。
 しかるに、その結果は、大当りだった。土地の者の言い伝えの通りに、それが黒田家先祖の墓だった。歴史研究において、民間口碑は疎略に扱われがちだが、そういう文献重視への偏向には決定的な陥穽があるという所以である。
 しかも、心光寺入誉は、遺跡発見を、一度ならず、二度までも繰り返したのである。もしこの入誉がいなければ、黒田家前史遺跡の発見はなかったであろう。言い伝えもそのうち忘却されてしまい、今日の我々もそれを知るすべはなかったことだろう。
 また、このように個人の偶発的な資質や行動に依存するということでは、我々の歴史認識は、いわば偶然の所産である。そのことに深く思いを致せば、歴史研究は謙虚であらねばならぬのは当然であり、野放図な史料解釈など、論外の振舞いなのである。
 入誉の働きで発掘されるまで、黒田家前史遺跡は、人々の視野の外におかれていた。それが不意に出現したのだが、あたかも冷凍保存されたもののごとく、本来のかたちを保っていた。つまり、重隆は孝高の「父」だと播磨の古記にある、その記事を裏づける埋葬のかたちである。
 御着の黒田家廟所の二基の連立墓は、まさにそうした物証である。にもかかわらず、この遺跡は今日なお正当な意味づけがなされていない。その設置形態が夫婦墓としてあるはずなのに、地元の案内でさえ、片方は黒田官兵衛の生母、片方は「祖父」重隆だとしているからである。その意味づけの奇怪さに、そろそろ気づかれるべき時であろう。そうでなければ、かの心光寺入誉がこれら黒田家前史遺跡を「発見/開被」(dis-cover)した甲斐がないというものである。



福岡城模型 しんわ本社




御着 黒田家廟所
黒田重隆と長寿大姉の連立墓





*【播磨古事】
《或日、心光寺、紀山子に物語りの折から、此寺に昔より申傳へに、長政公御寄附なりとて、御霊位同形の造りにて、前野州太守善我宗卜大居士、松誉宗貞禅尼、龍光院殿如水圓清大居士の御位牌、寸尺共に同様の神主有。(中略)此三ツの御位牌ハ、則如水公の御実父母子の神主にて、長政公、當寺に安置し玉ひたる由、前々より申送り候と、住職入誉、物語れり。故に紀山子も、此御位牌拜見し、又過去帳をも一見せしが、住職の物語にたがふ事なし》


御着城址へのアプローチ



御着城址付近図
 というわけで、ここまで話が来て、まだ現地案内が残っていた。小寺氏および黒田氏ゆかりのこの御着へはどう行くか。
 姫路城あたりを起点にすると、御着城址への行き方は、国道2号線をまっすぐ東へ、5kmほど行くのである。途中、市川という大きな河を渡り、やがて「御国野」〔みくにの〕という交差点を過ぎて、まもなく歩道橋がある。そこが御着城址である。
 鉄道利用なら、JR姫路駅からひとつ東隣が御着〔ごちゃく〕駅である。ここからなら、歩いて行ける。
 国道の歩道橋の両側が小さな公園になっている。まず、北側(左手)の公園南東隅に御着城址碑が建っている。この付近一帯が御着城の本丸跡である。現状ではほとんどイメージ不可能である。
 公園の隣に、かなりキッチュな公民館、姫路市役所東出張所が建っており、その左脇に黒田家廟所がある。石塀で囲われた小さな廟所で屋根は銅板葺き、すぐわかる。
 これは、既述のように、黒田重隆、それに官兵衛孝高の生母の墓である。これが夫婦のように仲良く並んでいるのである。職隆の墓は前述のように妻鹿にある。そこで、この御着の廟所に参詣して、この二つの墓石に対面し、黒田官兵衛の実父は誰か、その場でよく考えてみることを諸君にすすめる。
 それから、国道の向い側(南側)にも小さな公園があって、本丸跡地を記すもう一つの碑、天川城址の碑がある。この地区の西に、城の外堀にした天川〔あまかわ〕があり、御着城は別名「天川城」である。また、最後の御着城主・小寺藤兵衛政職(上誉縁玄居士)を祀った「小寺大明神」がある。こちらの方は国道の南側にあり、つい見落とすので注意。
 御着城は、三木城、英賀城と並んで、当時播磨では最も大きな城だったという。天川を外堀としし、四重の堀によって囲まれたプランであったというが、現状はまったくその面影はない。廃城は徹底したもので、姫路城の建設資材の一部になったのである。
 姫路城の派手な観光名所ぶりに比較して、こちらの御着城址の方は、ほとんど知られておらず、マニアックなスポットと言えよう。観光化以前の、何となく侘しいディープな雰囲気があって、それがよろしい。とりわけお勧めは、小寺大明神である。

御着城址に建つ市役所東出張所・公民館の建物
この左手が黒田家廟所



御着茶臼山城地絵図

天川城址碑
小寺城主の奥津城とある




小寺大明神

最後にもうひとつ、マニア向け武蔵スポット
 以上は、黒田家前史について大幅にかまけてみたわけだが、既述のように武蔵が揖東郡宮本村に生れたころ、そのあたりの領主は、「小寺」官兵衛孝高だったことからすれば、必ずしも脱線というわけでもない。当時の姫路周辺の事情について語るには、正確な黒田家前史を知る必要があるというものである。
 さて、御着まで来てしまったとしたら、武蔵マニアなら、どうしても外せない武蔵スポットが、この近所にある。御着城址の東北東約三kmのところにある、桶居山(おけすえやま・姫路市別所町佐土新)がそれである。
 どうして、こんなところの山が武蔵スポットかというと、なんとここで武蔵が天狗から剣術を習ったという伝説の山であるからだ。

 これは十八世紀中期の播磨史料に書いてあることで、何だかわからぬが、こんな伝説もあるよ、というスタンスで記されている。
 喬木堂・天川友親の「増補播陽里翁説」(宝暦8年)に、桶居山の天狗伝説を記す。別の箇処では「宮本武蔵ハ佐土〔さづち〕桶居山にて天狗に兵法を習ふ」とも書いている。佐土というのは、南麓の土地の名である。
 この喬木堂は天川友親の号、「天川」〔あまかわ〕と名のる。これは上記飾東郡御着村の人だということ。御着は桶居山の近所だから、よく知っているわけだ。
 平野庸脩『播磨鑑』には類似の伝説採集記事があるが、喬木堂のこの記事を知った上で書いている。桶居山について、「此山至テ嶮難ノ岩山也」とある。なるほど険峻で、写真でわかるように、桶居山の山容は槍ヶ岳みたいに突出したファリックな格好をしているのが特徴である。
 この山は姫路の方からもその尖形がよく見える。御着の方から桶居山をみると、山頂が一部見えるだけである。
 しかし、この桶居山は一部の武蔵ガイドブックにも掲載しているが、実は桶居山がどれかわかずに、いいかげんな山の写真を撮ったものばかりであるのは、困ったものである。いかにも天狗伝説が出そうなこの山の特異な山容は、きちんと世間に伝える必要がある。改めるべきであろう。



桶居山周辺マップ


桶居山の山容

姫路城東方に桶居山を望む

御着から桶居山を見る
 桶居山から峯伝いに縦走路を東の方へ行く――途中、山下にクレー射撃場があって流れ弾の危険あり、生命の保証はしかねるが――と、高御位〔たかみくら〕山。その麓には鹿島神社(高砂市阿弥陀町)がある。鹿島神社というのは、常陸の鹿島神宮が本拠、全国にフランチャイズされている。鹿島神社があるとすれば、剣術伝説があっても不思議はない。
 『五輪書』に、ちらりと言及されているが、武蔵当時は、剣術で有名であった。
 《近來兵法者と稱して世を渡る者あり、是は劍術一通りの事なり。近年常陸國鹿島香取の社人ども明~の傳へとして流々を立て、國々を廻り人に傳る事、近き頃の儀なり》
 鹿島は常陸国(現・茨城県鹿嶋市宮中)、香取は下総国の、それぞれ一之宮、古い神社である。祭神をみると、鹿島はタケミカツチ(建甕槌命)、香取はフツヌシ(経津主命)と、共に日本神話のハイライト、国譲りの段に登場する神である。
 両社はともに武剣の神社として古来伝統があり、鹿島神宮神宝の国宝直刀は、八尺を超える長大なもので、平安期の作刀とされる。家康以来将軍家の社殿造営があり、鹿島・香取ともに全国に末社が多い。『撃剣叢談』に、
 《鹿島流は常陸國鹿島に出づ。鹿島並に下總國香取の社の神宮等は、往古より剣術を業とす。夫故上手も多かりし。此鹿島神官等の門人に入て學び、鹿島流と稱へて世に傳ふる者往々有也》
とあり、「往古より剣術を業とす」と書いている。
 しかし、『五輪書』の話はこれとは逆である。そこには、鹿島・香取の社人が神授の剣術だと宣伝して売って歩くようになったのは、最近のことだ、決して古いことではないとある。この武蔵一流の揶揄から、我々は剣道史の常識とは違う証言を得るのである。
 すなわち、剣道史において、鹿島香取に由来する諸流派をもって重要な起点とされるところであるが、実際の歴史は決して鹿島香取を中心とするものではなかったことである。実はこれは家康が両社を保護した結果に過ぎず、江戸の幕府の威光を背景にして、この流派が全国展開に乗り出し、その宣伝を通じて、自らは剣の道の本家なり、元祖なり、とする歴史を捏造したものであった。
   《近來、兵法者と稱して世を渡る者あり》
と武蔵が書いているところをみると、天下泰平になって武芸を売る者は却って増えたのかもしれない。鹿島香取に由来する諸流派がその主体であった。ところがその武術が剣にのみ偏向したものである。武蔵はこれに異を称えるのである。
 「剣聖武蔵」などいうイメージからすれば、逆であろうが、実際は武蔵は剣への偏向、剣一元論を批判しているのである。
 そういう武蔵に、天狗から剣術を習ったという伝説が発生するのも皮肉なことだが、しかし一方で、伝説形成のマトリックスがあった。
 たとえば、それは、陰流始祖愛洲移香斎、九州鵜戸神宮に参籠し感霊を蒙り、念流慈音、同じく鵜戸神宮に参籠しまた筑紫の安楽寺に奥旨を感得したという。神道流始祖飯篠長威斎、鹿島・香取神宮に神授を得て、新当流塚原卜伝、鹿島神宮に祈願し霊夢を得る。天道流斎藤伝鬼坊、鶴岡八幡宮に参籠し霊夢の瑞を得て、また東軍流川崎鑰之助、上州白雲山に神旨を悟り、林崎甚助重信、林崎明神に祈って術を悟り、片山伯耆守久安、阿太古社に詣で霊夢を得て明悟という。竹内流始祖竹内中務大夫久盛は異人より業を教授されるという等々――その事例は多い。
 これに加えて、たとえば、新陰流目録の「天狗抄」にあるごとく、異相異形の鳥人たる天狗絵図と能書きがみられる。



鹿島神社
高砂市阿弥陀町




鹿島神宮 奥宮
茨城県鹿嶋市宮中




*【播陽里翁説】
《佐土深志野の堺なる桶居へ山に、播磨武蔵といふ兵法者住す。此山にて天狗に兵法習ふと云々、天正頃にや》
《宮本武蔵ハ佐土桶居山にて天狗に兵法を習ふ。
 武将感状記に、宮本武蔵ハ二刀を好む、細川越中守忠利に仕ふ》

*【播磨鑑】
《桶居山 佐土ノ地内北ノ山佐土新村ノ北、上ノ山嶺少シ平也。此山至テ嶮難ノ岩山也。  此山ニテ古へ宮本武蔵天狗ニ兵法ヲ習ヒシ處ト云。武將感状記ニ、「宮本武蔵ハ二刀ヲ好ム。細川越中守忠利公ニ仕へ五千石ヲ賜リテ家老職ト成。其前兵法修行ニ天下ヲ巡見セシ人也。又播磨武蔵ト云、明石ニテ兵法ノ仕合有」ト云。此武蔵ハ揖東郡鵤ノ宮本村ノ産ナル由、細川家ニ仕フルト有ハ非也。小笠原家ニテ客分トナリ無役ニテ五千石ヲ賜ハリシト也》

○高林坊
乱甲とは、たがいに上段の位にて、打太刀より切かくるを、遣方同じ位にて合、右の足を出し切かくるを、打太刀ふみこみ打を、遣方左へひらき、右の足をふみこみ、こぶしを切留。口伝


○太郎房
小村雲とは、打太刀より中の清眼にて、あやを取、ふみこみ、こぶしを切所を、遣方より身にて、うらより切とむる。口伝


○金比羅房
陰之霞とは、打太刀より陰のかすみに構かゝる時、同〔じ〕陰の霞にかまへ、一、二、と合上る時、たゝと打足をのばし、鞠などののべのごとく、くはしてつめ勝。口伝。
橋返とも云、又とうとう切とも申、細道の二人相とて、跡先よりはさまれたる時も、吉と申也。口伝
 天狗という異人は、中世的というよりも、むしろ近世にさかんな存在で、武蔵の天狗伝説も、剣豪にはなじみの主題だが、そう古いものではない。
 柳田國男の初期の「天狗の話」*は、武士道の要目は天狗道に於て悉く現れて居る、としてきわめて明解な四つのテーゼを示している。こういう特徴が近世の天狗道である。
 柳田は、天狗の話から山人、つまり山中先住民の残存を構想したが、我々は、この天狗の話から、武士のルーツとしての、山臥という山岳修行者の伝統の方へ関心が向う。
 ともあれ、その山容のファリックな形態、剣の神・鹿島神社の存在、天狗の鼻、そういうファルス(phallus)のコノテーションから、桶居山には天狗伝説が出る条件はそろっている。
 武蔵は新免無二の兵法家を相続して独自の二刀術を発明したが、無二の兵法は「無二流」という流派が後に残った。無二の流儀には二刀術があった。また、無二→武蔵の伝系に限らず、二刀術は、あちこちにあったようである。たとえば、下掲の愛洲移香斎系統の陰流伝書は天正年間のものと思われるが、明らかに天狗が二刀を使っている


*【柳田國男】
《元來天狗といふものは~の中の武人であります。中世以來の天狗は殆と武士道の精髄を發揮して居る。少なくとも武士道の要目は天狗道に於て悉く現れて居る、殊にその極端を具體してみせて居る。即ち第一には清浄を愛する風である、第二には我執の強いことである、第三には復讎を好む風である、第四には任侠の氣質である。儒教で染返さぬ武士道はつまりこれである。これらの道徳が中庸に止れば武士道で、極端に走れば即ち天狗道である》(「天狗の話」明治42年)

東京国立博物館蔵
愛洲陰流目録
 これを見るに、天狗と二刀という結合は、武蔵以前に存在したのである。そうして、桶据山の天狗伝説と、二刀流の武蔵という表象が結びついた時、武蔵が桶据山で天狗から剣術を習ったという伝説が生じたものらしい。
 そして、興味深いのは、「播磨武蔵」という名が出てくることである。天川喬木堂の話では、佐土と深志野の境にある桶居山に、播磨武蔵という兵法者が住んでいた、この山で天狗に兵法を習ったという、と記す。そして、別の記事で、宮本武蔵は佐土の桶居山で天狗に兵法を習ったと記す。
 こうしてみると、「播磨武蔵」と宮本武蔵の混同があるようだが、そうではない。どうやら、「播磨武蔵」というのが、宮本武蔵の伝説上の別名のようである。喬木堂の断片記事では伝説変態して何もわからないが、『播磨鑑』には、この「播磨武蔵」が明石で兵法の仕合をしたという記事を拾っている。平野庸脩が見た『武将感状記』は、現在我々の知っているテクストとは明らかに異なるヴァージョン。この「播磨武蔵」という名は、そこにあったらしいと知れる。
 ところで、その「播磨武蔵」というインパクトのあるとんでもない名前、これに、我々は感応するものがあった。面白いじゃないか、というわけで、これを「播磨の武蔵」を研究する会のネームとして頂戴したのである。
 したがって、武蔵天狗伝説があるこの桶居山は、我々「播磨武蔵研究会」のノミナリスティックな場所――というよりも、もっと厳密に言えば、インターネット上にのみ現場をもつ、唯一のリアルサイトなのである。武蔵マニア諸君のいうに、伝説のその場所こそ、武蔵マニアらが夜な夜な飛来して集うヴァーチャルな場所だというわけである。




桶居山



桶居山登山 →  Link 

姫路城の他になにかあるのか











姫路張り子
松尾隆工房
神崎郡香寺町田野1042-21
Tel 079-232-7762




姫山人形



大吟醸 酒造之助
灘菊酒造 限定100本
姫路市手柄1-121
Tel 079-285-3111
 地元の人に叱られそうだが、残念ながら、姫路は古い城下町なのに、ろくなものがない。戦前までは、金沢みたいな城下町の雰囲気があったけれど、戦災で丸焼けになって、それからは味気ない町になってしまったのである。これは地元のためにも悲しむべきことであろう。
 したがって市内には、伝統を残す旅宿や料亭も、これはというおすすめの和菓子もない。お土産にしてもらうにも、よいものがない。
 ただし、民芸・工芸の方面で伝統を維持してがんばっている人もある。それを特記しておくべきだろう。
 ひとつは、鉄器の工芸、明珍火箸。当代で52代という明珍家は、もともと甲冑師、上州前橋から姫路に移り、姫路藩主に仕えて甲冑を制作してきた職人の家。明治になって武具の用がなくなると、千利休からたのまれて茶室用の火箸を作ったという伝説により、火箸製作に転じた。茶人のみならず一般家庭用としても明珍火箸は愛用された。
 そのうち、その火箸も斜陽になり、こんどは火箸を組合せた風鈴やドアチャイムを考案した。その澄んだ音色が評判をとった。当代は、明潤琴(みょうじゅんきん)という楽器を作っている。他に古鉄を使った古代花器や火縄銃の銃身でつくった自在鈎などがある。土産物にはやや高価だが、火箸の風鈴などはおすすめ。
 それから、土産物にてごろなのが、姫路張り子、張り子細工の玩具である。明治初年、姫路城下に住む豊国屋直七が大坂で製作技法を学んで作り始めたのが創始という。直七の後は、その娘婿で刀鍛冶だった松尾熊吉と実弟の松尾常吉が張り子細工を継承して、今日に至る。
 姫路張り子の面には、牛若丸・弁慶・お多福・ひょっとこ・桃太郎、虎・狐・狸・犬・猿などがあり、あるいは河童・天狗・般若などのお面もいい。とくに、首振りの張り子の虎、ボテかつらなどがおすすめである。
 また郷土玩具には、姫路独楽がある。姫路独楽は、明治初め頃に作るようになったらしいが、最盛期には山陽地方一帯で広く愛好されていた。正月になると、子どもたちは独楽を買ってもらい、遊んだものである。いまは「飾り独楽」で、赤と緑に塗った大きな「鬼独楽」一対を箱に入れ、松竹梅の飾り物を添えて正月の床飾りとする。
 独楽の種類は、文七独楽(朝鮮独楽)、鉄輪付きのぶち独楽、紋入り独楽、源水独楽、鬼独楽、糸引き独楽など約十種類ほどある。すでに姫路独楽は制作者が一人しかいなくなってしまった。その意味で、これも貴重品である。
 そのほか、白木彫りの愛らしい姫山人形、白なめし皮製品の姫皮細工がある。
 以上の工芸品は、それぞれの工房まで訪ねなくても、書写の里美術工芸館で展示販売している。また美術工芸館で名人が製作実演をするので、日時があえば、実際に見ることができる。
 書写の里美術工芸館は、書写山ロープウェイの乗り場の少し先にある。書写山へ行ったついでに覗いてみるとよい。
 なお、姫路の酒造家は消滅してもうほとんど残っていないが、地酒では灘菊酒造がある。姫路の酒は山田錦がウリであるが、ここも同じ。武蔵マニアなら、灘菊酒造の「大吟醸 酒造之助」の名に目が留まるはずである。
 ところが、残念ながらこの酒造之助は、武蔵の養子ではなく、戦前、海外に柔道を広めた川石酒造之助の名をつけたとのことである。間違って高い酒を買って文句を言わないように。ただし名が同じというマニアックな珍重の仕方もあるようだが。
 もちろん武蔵の名をつけたモロ商品もある。ここまできたら、2003年のNHK大河ドラマに便乗して発売された「播磨の武蔵」関連商品を挙げて、マニアックな感興に応える記録資料としたい。









明珍火箸の風鈴  Link 
有限会社明珍本舗
姫路市伊伝居上ノ町112 Tel 079-222-5751






姫路独楽
西沢昌三
Tel 079-266-0032






書写の里 美術工芸館
姫路市書写1223  Link 
Tel 079-267-0301

灘菊酒造
ほろ酔い武蔵
本田商店
酔うたか武蔵
壷坂酒造
武蔵の夢
アリモト
武蔵せんべい
大 陸
食べたか武蔵 黒豆ケーキ
おのえ
たけのこ武蔵漬
まつおか食品工業
五輪書昆布巻
WeCan
武蔵の勝栗
島田商店
二刀流のやき麩
マエカワテイスト
武蔵の勇気(有機)だし

播磨の武蔵竹割箸

武蔵マッチ

あぶらとり紙 武蔵

郷土作家?の本

武蔵歌謡曲CD

播磨の武蔵コースター


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