宮本武蔵 資料篇
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[資料] 繪本二島英勇記  解 題 Go back to:  資料篇目次 



繪本二島英勇記 平賀梅雪自序
享和三年冬十二月

 現代、宮本武蔵を主人公とするいわゆる武蔵小説の生産は、引きも切らぬ有様である。我々の社会は、なぜかくも武蔵が大好きなのか、その理由は歴史的なものである。現在のみならず、すでに江戸時代の人々は武蔵物演劇を娯楽とし、また読本〔よみほん〕など大衆向け武蔵小説を愛読していたのである。
 本書は、『繪本二島英勇記』(えほん・にとう・えいゆうき)と題する読本で、現存の範囲では、江戸期の代表的な武蔵物小説である。平賀梅雪〔ひらが・ばいせつ〕作。十巻である。自序に享和三年(1803)冬十二月とあり、これをもって成立時期とする。時は十九世紀初頭、文化文政期の直前である。本書の作者は、随所に『源氏物語』のパロディを仕込んだりして、かなりの手だれであることは明らかだが、他に著作を知らない。
 梅雪山人の自序に「繍像」二島英勇記ともあって、これは絵本ゆえ、図版多数収録。画の作者は速水春暁斎〔はやみ・しゅんぎょうさい〕、同じ享和三年に『繪本亀山話』、前年に『繪本伊賀越孝勇傳』などがあり、他に絵本を多く手がけた人のようである。
 江戸時代には有名な事件や人物が演劇化されたものだが、宮本武蔵も演劇の主人公になって、大衆的ヒーローに昇華した。まず先に、元文二年(1737)上演という歌舞伎「仇討巌流島」(藤本斗文作)あり、宮本武蔵は「月本武蔵之助」として登場した。その後、延享三年(1746)には浄瑠璃『花筏巌流島』(浅田一鳥作)が出て、また安永三年(1774)に浄瑠璃「花襷会稽褐布染」(菅専助・若竹笛躬作)が上演され、少なくとも近世中期の十八世紀を通じて、武蔵物演劇は繰返し上演され、宮本武蔵は庶民の心意念頭に定着したようである。
 江戸期の宮本武蔵は、仇討ちのヒーローになったが、それでも当初は、他人の敵討ちを手助けする脇役にすぎなかった。それが、いつの間にか、武蔵自身が父の仇を討つ人物に転化した。こうした変化は、物語それじたいの発展過程の所産であり、いわば大衆的ヒーローとしての「宮本武蔵」はそうした運動の産物なのである。
 ただし本書『繪本二島英勇記』は、そうした演劇とは異なり、小説仕立てで、これも思うさまフィクションの世界を広げている。作者・平賀梅雪は、その自序で、《余、劇場ヲ好マズ。棋局ヲ善クセズ、藝ニ遊ブノ暇、野史氏ニ即ヒテ興ヲ遣ル》と記しているが、演劇も碁将棋も好きではない、そういうタイプの人が、こうした読本絵本を書きもし、読みもしたのである。
 また同じ娯楽なら、劇場へ行って一日潰すよりは、読書の方がよかろうとも述べる。《世間其ノ好ム所ヲ樂シム之諸君、請フ、此ノ繍像二島英勇記ヲ看ヨ。烟ヲ吹之間ニシテ、勇士父ノ爲ニ仇ヲ報スルノ始終ヲ知ル。戯臺ニ向ヒテ一日ヲ費シ一局中幾ク時ヲ移スト、孰レヤ》と。これは現代社会でいえば、映画よりは小説だ、という誘いである。
 なるほど、本書『繪本二島英勇記』を読めば、ことに戦闘場面など迫真の描写が誕生していることが知れる。当時明らかに感じられていた、演劇に対する小説における優位性は、一種のリアリズムにあり、平賀梅雪の序文にちらついているのも、その文学的自負である。
 しかしそれ以上に興味深いのは、観劇では勧善懲悪など誰も見ていない、みんな自分の好むところを楽しんでいるだけだと、演劇の娯楽性を揶揄しているあたりである。江戸時代の封建道徳、勧善懲悪は大衆の喜びとするところなりとする、現代の学者の誤解はこれで一蹴されよう。勧善懲悪というテーマは、実は観劇者のだれも見ていなかった。とすれば、いわゆる徳川イデオロギー論は、まさに近代のフィクションなのである。
 しかしながら、それでは読本は演劇に対して勧善懲悪の教訓を旨とするかというと、それは外見のことにすぎない。読本は道徳臭いとされるが、実はその内容たるや、勧善懲悪は体裁のみで、たとえば馬琴の長編伝奇小説など、まったくそれは悪行の残酷と過酷の数々を展開するところの悦楽にその特色があるとしなければならない。勧善懲悪はその悦楽によって内部からアモラルな様相を呈する。勧善懲悪の文言はいわば口実でしかない。当時の読者はこの二重性を愉悦したのである。
歌川国芳画 宮本無三四
本朝水滸傳剛勇八百人一個 宮本無三四
一勇斎歌川国芳画 19世紀中期
越前美濃飛騨の境穴間越の山中にて
山鮫魚を殺す図
(画題は繪本二島英勇記巻之七参照)

 さてこの当時、曲亭馬琴や山東京伝、それに十返舎一九や柳亭種彦といった連中の活躍するところであり、本書『繪本二島英勇記』上梓の享和三年だけをとってみても、馬琴に『月氷奇縁』『臍沸西遊記』、京伝に『復讐奇談安積沼』『捜奇録』が出ている。趨勢としては旺盛な創作熱があった時期である。というよりも、十八世紀なかば上方の都賀庭鐘・上田秋成にはじまったものが、この享和から文化にかけての数年に、馬琴・京伝らによる江戸読本の流行発現期を迎えて、新たな様相を呈するようになった。言うまでもなく、本書『繪本二島英勇記』もその一端を形成している。
 読本には二つの源流があり、一つは題材を歌舞伎浄瑠璃等の演劇からとったこと、もう一つは水滸伝その他、中国小説から小説手法を学んだことである。とくに後者の影響は読本においてはとくに大きく、濃厚な怪異性や伝奇性にノヴェルティ(新奇性)があり、それが当時人気を博したのである。むろん高等ないし高踏を気取る漢文調や擬古文は、ちょっと学のあるインテリの気分を満足させ、いわば知識文学で小説読みの知的需要にも応答したであろう。
 本書においてもそれは同様である。いたるところで、わざわざ和語を漢流語彙で語り、ルビもまた漢語読みを記したりする。ただし馬琴・京伝らとやや異なるのは、肥後風土記などを引いたりして国学の知識を瞥見させるところである。中国小説に通じ国学の知識もある、という作者像がちらりとかすめる。もちろん同時代の本居宣長ほどラディカルな国学ではないが。
 とはいえ、文化史年表にさえ『繪本二島英勇記』の登録は稀で、多産な絵師の速水春暁斎は知られていても、平賀梅雪について情報は少ない。しかし、本書『繪本二島英勇記』は、武蔵研究において、ユニークなステイタスをもつ史料である。それというのも、この作品は、十八世紀を通じて定型を完成させた英雄武蔵像の到達点を示すからである。
 さて、本書において、宮本武蔵をモデルにした人物は「宮本無三四」という名で登場し、親の敵・「佐々木巌流」を見事討ち果たすのである。この筋立てでは、無三四の実父は、吉岡太郎右衛門。実は無三四の本名は、「吉岡友次郎」だというわけで、作者は京都の吉岡一門と宮本武蔵の対戦を承知の上で、こういう設定にしているのである。これも端倪すべからざる諧謔ではある。
 もう少し内容を示せば、吉岡太郎右衛門は本国伊予で、若い頃京都に住し、また諸国を遍歴修行して、終には筑前名島城主・小早川隆景に仕えて秩禄三百石。宮本無三四こと吉岡友次郎は、吉岡太郎右衛門の次男である。しかるに、実父太郎右衛門の弟子に、宮本武右衛門という者があり、彼の懇望により、次男を宮本の養子にやったのである。それで、無三四は「宮本」姓となったという次第。宮本武右衛門は、佐藤(加藤にあらず)主計頭清正に召抱えられ、その家臣であったが、清正が肥後熊木(くまげ・熊本ではない)城主に転封となり、宮本父子も肥後へ行ったのである。
 無三四が宮本武右衛門を父かつ師として修業するうち、実父吉岡太郎右衛門は闇討ちの災難に遇って横死する。それというのも、先年吉岡が腰痛治療のため、摂津有馬温泉へ湯治に行き、その帰途に、播州姫路城下に立寄って一泊したところ、旅宿の隣地に道場を構える佐々木巌流一門とトラブルを生じ、その折吉岡が巌流を打ち負かしたのである。
 そこまではよいが、姫路城主・此下〔このした〕飛騨守高貞という、どうみても木下家定をパロったものとしか思えぬ姫路城主に、佐々木巌流は見込まれて、一国の師範役を勤めていたのである。それが、九州くんだりの武芸者に打ち負かされたばかりではなく、トラブルの原因がたかが飼い犬一匹のこととあっては、かの師範役も辞さざるをえなかった。それやこれやで、佐々木は意趣鬱憤、吉岡を殺さずにはおかぬと九州まで出張して、吉岡を闇討ちにして殺したのである。このあたり、浅野内匠頭の鬱憤に発する忠臣蔵の一件に対する作者の批評を読む者もあろう。
 実の親を殺された無三四だが、実家には嫡子たる兄がいたはず。しかしこの兄は、父親より早く同年春に病死していたので、吉岡家は断絶。それでも無三四は、主君清正の認可を得て、肥後熊本から筑前名島城下へ行き、親の仇は佐々木巌流らしいとの情報を得て、さしたる当てもなしに、武者修行の体で佐々木巌流を探す旅に出る。かくて諸国遍歴、数度の冒険の後、九州小倉で佐々木巌流と遭遇し、世に知られた巌流島の決闘となるのである。
 この筋書きは、本来の武蔵伝記からすれば荒唐無稽のものであるが、近世後続の実録本に継承され、近代に入っても、この骨格基本は動かず、宮本武蔵は吉岡太郎右衛門の子で、宮本武右(左)衛門の養子になった云々という設定は、明治から昭和にいたるまで踏襲されたのである。この『繪本二島英勇記』において定型を得た設定と筋立ては、長く効力をもったのである。
 人物設定のことで言えば、近世江戸期には、武蔵は若年で、対する巌流は老獪な中年である。現代では、その逆で、「佐々木小次郎」となると前髪白面の十代の若者に変化している。この逆転には興味深いものがあるが、そんな現代の反転設定にはとくに何の根拠もない。少なくとも、十八世紀以来数世紀、武蔵は若年/巌流は中年という設定であったことは、銘記しておいてよかろう。
 余談になるが、武蔵の相手「佐々木巌流」は演劇から発した名で、早期の武蔵史料には、「佐々木」姓は存在しない。小倉碑文では単に「岩流」と記し、姓を記さない。あるいは『本朝武藝小傳』でも「巖流」、『武将感状記』(碎玉話)では「岸流」である。今日では、巌流島の決闘の相手は「佐々木小次郎」だということになってしまっているが、それは明治末以来のこと。肥後系伝記の『二天記』が世間に知られるようになって以後の、ごく新しい設定なのである。それまでは、武蔵の父の仇「佐々木巌流」が流布していたのである。

繪本二島英勇記 巻之一
(左)巌流像賛/(右)宮本像賛

 武蔵伝記に岩流の姓が登場するのは、筑前系の『江海風帆草』が「上田宗入」、『丹治峯均筆記』が「津田小次郎」とするあたりである。一方、歌舞伎「仇討巌流島」において佐々木巌流が出現したのを嚆矢として、以後演劇では巌流島の武蔵の相手は佐々木巌流ということに定まった。『繪本二島英勇記』は十九世紀初頭の成立であり、十八世紀の演劇の設定を踏襲して、これも「佐々木巌流」を用いている。しかし佐々木姓のこの人名は、いわば無三四の父が吉岡太郎右衛門だという設定のフィクションと同列である。巌流が佐々木姓を得たのは、十八世紀以来のことで、したがって、巌流島の決闘相手を「佐々木」として疑わないのは、よほど安易でナイーヴな人々の所説である。
 とはいえ、宮本武蔵が宮本「無三四」であったり、姫路城主・木下家定を「此下」高貞とし、熊本城主・加藤清正を、熊本にあらず「熊木」城主「佐藤」清正とするなど、いづれもまだ憚りがあってのことで、自身の虚構性を主張するには、こうした変名が必要であった。この留保の残存が本書の初期性を示す指標である。言い換えれば、『繪本二島英勇記』は十八世紀の気分を遺しているわけである。
 ところが、これに続く十九世紀の武蔵物小説は、そうした憚りや留保を外して、宮本武蔵の実名で登場させ、また周辺人物も多く実名である。かくしてこのあらたな動きは「歴史小説」というもののの誕生を告知するが、また一方で、それが、十八世紀の物語がもちえた虚構性の自認を忘却するという、何とも安易なスタンスを生んでしまったのである。
 しかしながら、興味深いのは、そうした虚実皮膜の混乱が現代にまで持続し、埒もない他愛ない武蔵小説が多数再生産されていることではなく、むしろ、そうした虚構作品が、逆に宮本武蔵のイメージを支配してきたこと、すなわち、虚構が事実を凌駕するという事態である。これは、武蔵の実像やら史実やら真実を謳い文句にする現代の武蔵評伝についても言えることで、それらは、小説と大差ない虚構に陥っているのである。


繪本二島英勇記 参照刊本現状

 したがって、本書『繪本二島英勇記』は、武蔵論に関連してあれこれ話題をを提供しうるであろう。とりわけ、宮本武蔵が大衆的ヒーローとなった歴史的経緯の指標の一つとして扱いうる。かくして本サイトでは、[資料篇]に『繪本二島英勇記』を加え、武蔵史料の一端に列することにしたのである。
 ここでの参照史料は、当会会士所蔵の『繪本二島英勇記』である。本文十巻のほか、巻頭に自序惣目録を収める、合計十分冊の冊子本である。ただし伝来私蔵のものゆえ保存状態は決してよくないので、破損虫食い部分は、複数の異本で照合した。
 近代に入って活字刊行本は、周知の通りすでに「帝国文庫」版(博文館 1918/1929)があるが、たとえば吉岡太郎右衛門の秩禄が「三萬石」などと誤記したり、訂正したつもりで、佐藤とある清正を加藤に、文中地名・熊木(くまげ)を「熊本」に改竄したりと、難点が少なくない。これを機会に、手許にある史料から改めてテクストを起稿した。
 本サイトでは、とくに本文と掲載諸絵図の画像を上載し、そのままの姿で閲覧できるようにした。あわせて原文校訂テクストと、(原文は十九世紀初めの文章であり、明治の作文モードと大差ないので、さして必要はなかろうが)一通りの現代語訳を併示し、読者の便をはかった。
 なお、原文は改行なしであるが、校訂テクストは適宜改行した。また原文は読本の例に漏れずほとんど総ルビの様態であるが、これを必要部分のみ読みを〔 〕に入れて示し、さらにまた原文にはない句読点を入れ、近世文書特有の変体仮名はだいたい現代仮名に変換し、Web表示上の問題から一部漢字を普通文字に置換したのみならず、少なからずunicode tagを用いてある(それゆえ漢字表示できない仕様装備の人もあると思われる)こと等々、諸点につき、あらかじめ断わっておく。



梅雪自序
題繍像二島英勇記首 (自 序)

 
   自 序
 【原 文】

題繍像二島英勇記

凡人勤其業而餘暇、則絲竹書畫棋局酒茶、各從其所好以爲樂。或觀劇場以爲樂、亦何足尤焉。而好劇場者云。一演戯中存古今世界模樣。好人得福、不好人得禍。可謂勧善懲惡之具。此言也、固不足論。均之樂其所好而巳。余不好劇場、不善棋局。遊於藝之暇、即野史氏遣興。則喜足多知中古之事蹟・人情世體・且善事能成功、惡報終難避之理。豈俳優家所能及乎。世間樂其所好之諸君、請看此繍像二島英勇記。吹烟之間、知勇士爲父報仇始終。孰與向戯臺費一日、一局中移幾時。

  享和三年冬十二月
            平賀梅雪山人


 【現代語訳】

繍像二島英勇記のはじめに題す

およそ人は、その業を勤めて余暇あるときは、音曲(絲竹は弦楽器・管楽器)、書画、囲碁将棋に酒や茶など、おのおのその好むところにしたがって楽しみとしている。ところが、観劇をもって楽しみとするのは、またどうして求めるに足ろうか。しかし劇場を好む者の云うには、一演戯の中に、古今世界のありさまがある。よき人は福を得、よからぬ人は禍いを得る。勧善懲悪の道具と言うべきだと。この言たるや、もとより論ずるに足りない。(観劇では勧善懲悪など無関係に)皆ひとしくその好むところを楽しんでいるだけのことだ。私は劇場を好まず、棋局を善くせず、芸に遊ぶ暇があったら、野史氏(民間歴史家)の書いたものを読んで面白さをおぼえる。つまり、むかしの事蹟、人情、世のすがた、かつまた善事はうまく成功し、悪事の報いは結局避け難いという道理などを、多く知れば十分楽しめる。これは決して俳優連中が与えてくれないことだ。自分の好むところを楽しむ世間の諸君、この「繍像二島英勇記」を見てくれないか。煙草を一服している間に、勇士が父のために仇を報ずる事件の始めから終りまで知ることができるよ。劇場で舞台に向って日を費したり、碁の一局にしばらく時を過ごすのと、どちらがよいか(言わずと知れたことではないか)。

  享和三年(1803)冬十二月
                    平賀梅雪山人


惣目録 1
1 ・・ 繪本二島英勇記惣目録 ・・   

惣目録 1/2
2 ・・ 繪本二島英勇記惣目録 ・・ 1

惣目録 2/3
3 ・・ 繪本二島英勇記惣目録 ・・ 2

惣目録 3/4
4 ・・ 繪本二島英勇記惣目録 ・・ 3

惣目録 4
   ・・ 繪本二島英勇記惣目録 ・・ 4

 
   繪本二島英勇記惣目録
 【原 文】

繪本二島英勇記 惣目録

卷之一    Enter 
 
  佐々木巌流之事
    吉岡旅行海邊眺望の圖
  吉岡太郎右衛門の事
    吉岡姫路の客舎に泊るの圖
  吉岡佐々木巌流と争論之事
    旅店壯客等狗を打殺すの圖
    巌流之陪士土墻を距て客店主を撃の圖
    吉岡壯士の狼藉を怒るの圖
    吉岡衆士を挫くの圖


卷之二    Enter 
 
  吉岡佐々木巌流を打倒す事
    吉岡巌流を伏せしむる圖
    吉村沢田駅店の騒動を鎮むる圖
  巌流吉岡を闇殺之事
    吉岡帰国の圖
    巌流九州へ渡る圖
    巌流吉岡を闇殺の圖

卷之三    Enter 
 
  宮本友次郎難に逢ふ事難を脱るゝ事
    宮本武右衛門加藤氏に仕ふ圖
    宮本友次郎旅行發足の圖
    友次郎惡徒と郊外に闘ふ圖
  友次郎再難に逢ふ事二刀流の起原の事
    奸人野外に矢を放つ圖 其二
  名島の高弟書を熊木に遣す事
    宮本友次郎夢話の圖 其二


卷之四    Enter 
 
  宮本復讎〔かたきうち〕訴訟之事
    宮本父子訴状を書替て武者修行に出る圖
  友次郎熊木發足の事
      名島高弟宮本に曾する事
    宮本父子及門人別離を惜むの圖 其二
    友次郎亡父の靈を祀るの圖
    名島の高弟宮本に會ふの圖
  宮本無三四白倉源五左衛門と劔を試る事
    宮本竊に白倉之演武〔けいこ〕を視る圖
    無三四白倉之門弟を打倒すの圖



卷之五    Enter 
 
  宮本白倉源五左衛門と試合之事
    宮本白倉と武技比試〔しあひ〕の圖
    白倉師弟宮本に屈服の圖
  宮本無三四辭白倉事白倉師弟奸計の事
    宮本復讎を語る圖
    白倉竊に門人と會する圖
  白倉師弟宮本を饗饌之事
    同 圖
    熱湯を浴室へ流入る圖 其二


卷之六    Enter 
 
  宮本無三四危殆〔あやふき〕を遁るゝ事
    宮本無三四浴室を打破る圖
    無三四白倉を撃の圖
    白倉之妻子無三四と接闘の圖
    無三四籬を超て重圍を脱るゝ圖
  宮本兇賊〔ぬすびと〕を於山中討つ事
    兇賊火を焚の圖
    宮本盗賊を斬るの圖
    盗賊婦人を送還すの圖

卷之七    Enter 
 
  無三四美作を發足する事
    冨塚之家族無三四に禮謝する圖
  穴間山中に鮫魚〔さめ〕を殺す事
    同 圖
  無三四天狗山伏に遇ふ事
    無三四妖修験者と闘ふの圖
    妖道士原形を見し逃去る圖
  無三四笠原新三郎に遇ふ事
    無三四笠原が廬に投宿の圖
    笠原劒術の玄旨〔あうぎ〕を傳ふる圖

卷之八    Enter 
 
  無三四八人の壯士と爭競〔あらそひ〕を起す事
    無三四九州に着岸の圖
    七助過て壯士の飯筒を破る圖
    投鈎壯士怒て七助を嘖む
       無三四衆と闘ふ圖
    七助一箇大漢子に遇て絶意の圖
  七助名島に還る事
    七助無三四を引て旧里に帰る圖
    日下幸助巻女と奇縁を結ぶ圖

卷之九    Enter 
 
  無三四霹靂話の事
    震雷地に墜つ圖
    無三四吉岡が横死の話を聞く圖
        同 名島を發足の圖
  無三四佐々木官太夫を覗ふ事
    佐々木官太夫時服拝領の圖 其二
        家宅普請の圖
    無三四佐々木が宅を覗ふ圖

卷之十    Enter 
 
  無三四巌流に對面之事
    無三四巌流に面會の圖
        同 両人小嶋に渡る圖
  無三四巌流を討事
    官舩競ふて海を渡る圖 其二 其三
    山内堀の両士君命を奉て警固に出る圖
    無三四巌流と雌雄を決する圖
  山内堀の両士無三四を饗應護送の事
  宮本無三四始終之事
    無三四舎弟友之助に對面
      故武右衛門之門人等慶賀に來る圖


    惣目録終

 【現代語訳】

絵本二島英勇記 惣目録

卷之一
 
  佐々木巌流の事
    [絵]吉岡、旅行し海辺眺望の図
  吉岡太郎右衛門の事
    [絵]吉岡、姫路の旅館に泊るの図
  吉岡、佐々木巌流と争論の事
    [絵]旅館の男らが犬を打殺すの図
    [絵]巌流の若党が土塀を越えて
        旅館の主を撃つの図
    [絵]吉岡、武士らの狼藉を怒るの図
    [絵]吉岡、武士らを打ち挫くの図

卷之二
 
  吉岡、佐々木巌流を打倒する事
    [絵]吉岡、巌流を屈服せしむる図
    [絵]吉村と沢田、旅館の騒動を鎮める図
  巌流、吉岡を闇殺の事
    [絵]吉岡帰国の図
    [絵]巌流、九州へ渡る図
    [絵]巌流、吉岡を闇殺の図

卷之三
 
  宮本友次郎、難に逢う事
       ならびに、難を脱れる事
    [絵]宮本武右衛門、加藤氏に仕える図
    [絵]宮本友次郎、旅行出発の図
    [絵]友次郎、悪徒と郊外で闘う図
  友次郎、再び難に逢う事、
       ならびに、二刀流の起原の事
    [絵]悪漢ども、野外で矢を放つ図 同じく其二
  名島の高弟、書簡を熊本に送る事
    [絵]宮本友次郎、夢の話の図 同じく其二

卷之四
 
  宮本、敵討ちを訴訟する事
    [絵]宮本父子、訴状を書き替えて、
              武者修行に出る図
  友次郎、熊本出発の事
       ならびに、名島の高弟、宮本に会う事
    [絵]宮本父子及び門人、別離を惜しむの図
                同じく其二
    [絵]友次郎、亡父の霊を祀るの図
    [絵]名島の高弟、宮本に会うの図
  宮本無三四、白倉源五左衛門と剣の試合の事
    [絵]宮本、ひそかに白倉の稽古を視る図
    [絵]無三四、白倉の門弟を打倒すの図

卷之五
 
  宮本、白倉源五左衛門と試合の事
    [絵]宮本、白倉と武技試合の図
    [絵]白倉師弟、宮本に屈服の図
  宮本無三四、白倉を辞する事
       ならびに、白倉師弟、奸計の事
    [絵]宮本、敵討ちを語る図
    [絵]白倉、ひそかに門人と会する図
  白倉師弟、宮本を饗応の事
    [絵]同図(白倉師弟、宮本を饗応の図)
    [絵]熱湯を浴室へ流入る図 同じく其二

卷之六
 
  宮本無三四、危ういところをを遁れる事
    [絵]宮本無三四、浴室を打破る図
    [絵]無三四、白倉を撃つの図
    [絵]白倉の妻子、無三四と戦闘の図
    [絵]無三四、籬を超えて包囲を脱出する図
  宮本、兇賊を山中に討つ事
    [絵]兇賊、火を焚くの図
    [絵]宮本、盗賊を斬るの図
    [絵]盗賊、婦人を送り還すの図

卷之七
 
  無三四、美作を出発する事
    [絵]冨塚の家族、無三四に感謝する図
  穴間山中に鮫魚〔さめ〕を殺す事
    [絵]同図(穴間山中に鮫魚を殺す図)
  無三四、天狗山伏に遇う事
    [絵]無三四、妖修験者と闘うの図
    [絵]妖道士、本来の姿を現わし逃げ去る図
  無三四、笠原新三郎に遇う事
    [絵]無三四、笠原の廬に投宿の図
    [絵]笠原、劒術の奥義を伝授する図

卷之八
 
  無三四、八人の武士と争いを起す事
    [絵]無三四、九州に着岸の図
    [絵]七助、過まって武士の飯筒を壊す図
    [絵]釣りの武士怒って、七助を責める
         ならびに、無三四、多数と闘う図
    [絵]七助、一人の巨漢に遇って気を失う図
  七助、名島に還る事
    [絵]七助、無三四を連れて故郷へ帰る図
    [絵]日下幸助、巻女と奇縁を結ぶ図

卷之九
 
  無三四、雷の話の事
    [絵]雷が地に墜ちる図
    [絵]無三四、吉岡横死の話を聞く図
          同じく名島を出発の図
  無三四、佐々木官太夫をうかがう事
    [絵]佐々木官太夫、時服を拝領の図
          同じく其二 屋敷普請の図
    [絵]無三四、佐々木の屋敷をうかがう図

卷之十
 
  無三四、巌流に対面の事
    [絵]無三四、巌流に面会の図
          同じく両人小嶋に渡る図
  無三四、巌流を討つ事
    [絵]官船が競って海を渡る図
          同じく其二、其三
    [絵]山内・堀の両士、君命を奉じて
          警固に出る図
    [絵]無三四、巌流と雌雄を決する図
  山内・堀の両士、無三四を饗応、
            ならびに、護送の事
  宮本無三四、始終之事
    [絵]無三四、舎弟友之助に対面 ならびに
        故武右衛門之門人等、慶賀に来る図

    惣目録 終
蛇足ながら、目次に相当するこの惣目録にも現代語訳を並べる。お気づきのように、主計頭清正の本文中氏姓・佐藤が加藤になっていたりして、当該諸巻の項目見出しや絵図表題と少し食い違っているのがご愛嬌である。


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