【原 文】
宮本友次郎熊木發足の事
并名島高弟會于宮本事
宮本友次郎、天下武者修行の義を聴され、立帰れば、武右衛門あらかじめ旅行の用意をとりまかなひ、武右衛門が妻も歓〔よろこび〕のうちに、年頃の愛惜〔いつくし〕ミ淺からざるに、假初〔かりそめ〕の旅だにも、別〔わかれ〕となりてハ、かなしきならひなるを、まして何〔いつ〕の年月〔としづき〕とも帰るさしらぬ浮雲の、ゆくすゑ遠き旅の空、いかゞとおもひやられつゝ、先だつものハなミだ也。
幼弟友之助も今年六歳、年齢よりハおとなしく、庶兄〔あに〕の別〔わかれ〕に涙ぐミ、門弟もことごとく來り集り、離別の酒盃も終りければ、其日ハ未〔ひつじ〕の刻も下りければ、すべて敵討などの首途〔かどいで〕ハ、主人より暇〔いとま〕を賜りし日に發足する事、古実〔故実〕〔こじつ〕なればとて、友次郎も心を焦燥〔いらち〕立出れば、門弟友之助を誘ひ二里ばかり送り、むまのはなむけして帰りける。
却説〔さて〕友次郎、旅行速〔すミやか〕に名島に赴、先〔まづ〕実父太郎右衛門が墳墓に詣で、香花〔かうげ〕を手向、大きに歎き、若霊魂此下〔こゝ〕に在〔ましま〕さば、我心膽を照〔てら〕し見玉ふべし。われ襁褓のうちより父母の側〔かたハら〕をはなれ、一日も父の高恩を報ずる事あたハず、剰〔あまつさ〕へ他人のために討れたまひ、父母の葬礼をだに仕らず。これによつて心肺〔しんはい〕ともに破裂〔さきやぶ〕るがごとし。然れ共敵人〔かたき〕九天の上に隠れ九地の下に竄〔のが〕るゝといへども、さがし出し、其屍〔かばね〕を千万に切屠〔きりはふり〕て、父の怨恨〔うらミ〕を晴させ奉るべしと、牙〔きば〕を噛、眼〔まなこ〕をいからし、涙のくだる事雨のごとし。
次に母の塚を祀り、生〔いけ〕るがごとく掻〔かき〕くどき、其後高弟等の方〔かた〕に至り、一々に礼謝をなし、旅宿〔りよしゆく〕にかへれば、吉岡が門人ことごとく友次郎が旅店〔りよてん〕に會合して申けるは、
我儻〔ともがら〕さきに師父の横死の後、国中〔こくちう〕の者にこゝろを付て窺ひ探るといへ共、今に至りてそれぞと思ふ敵〔かたき〕の手がゝりを得ず。
扨〔さて〕師父の行状、尤〔もつとも〕謙損〔遜〕にして強傲〔たかぶら〕ず、餘の師範たる人を謗り侮慢〔あなどら〕ず、禮を厚〔あつふ〕して諸士に交り玉ふがゆへに、曾て人と諍ひを發されたる事をきかず。一國のうち知〔しる〕もしらぬも横死を惜まざる者なし。さればとて、恨なき者がかゝる嗚呼〔おこ〕のふるまひすべしとも覚へず。
是によつて熟〔つら/\〕考ふるに、去年八月上旬ねがひを上、摂州有馬の温泉に入湯し玉ひ、帰國の序〔ついで〕、播州姫路の城下におゐて一日逗留有し所、はからず云々〔しか/\〕の事ありて、佐々木巌流といふ者と口論發り、巌流かへつて師のために恥辱を蒙りしよし、承りおよびぬ。恐らくは這奴〔きやつ〕めが所爲〔しわざ〕なるべし。
其所以〔ゆへ〕ハ、われ/\共師父の横死の形状〔ありさま〕を見るに、慥に後方〔うしろ〕より切付たる体にて、右の肩の上より左の脇骨〔わきぼね〕の際〔きハ〕まで一刀に斬下たり。尤勝〔すぐれ〕たる剛刀〔きれもの〕とハ覚へたれども、拳〔こぶし〕も能定りたる者の所行ならんと、検使も區々〔まち/\〕に批判せり。其余〔よ〕にハ、とゞめを刺たる刀の疵のミ也。
此時鳴尾の荘〔やしき〕内より、刄音を聞付、侍共あまた駈出たるに駭〔おどろ〕き、敵は東西に分離〔わかれ〕て逃去しとの風説〔ふうぜつ〕也。これによつて諸人〔しよにん〕の評判〔へうばん〕とり/\にして、壹人の所爲にあらずと申す。
こゝを以て姫路の動静〔やうす〕をうけたまハらんがため、先日人を姫路に遣したれバ、五六日の間にハ播州の飛脚かへるべし。その様子によつて發足し玉へと、懇に慰〔なぐさむ〕るにぞ、
友次郎大きによろこび、残る所なき高弟がた乃芳意〔おんこゝろざし〕、然らバかの一左右〔さう〕によつて計較〔はかりごと〕あるべし。各〔おの/\〕の推察の如くハ、巌流がしハざに疑ひなしと、其日は皆々別れける。
斯〔かく〕て六七日を過しけるに、高弟等きたりて告けるハ、さて今日、播州へ遣す所の飛脚、かの地の模様うけ玉り帰りぬ。先年巌流、吉岡氏と不慮のあらそひを仕出〔しいだ〕し、門人の眼前に於て面目を失ひ、其後は姫路を出奔同様に辞し、何國〔いづく〕へ參りしや、踪跡〔そうせき〕さだかに知〔しる〕者無〔なし〕となり。いよいよ巌流が所爲に疑なし。此上は巌流が行方をさがして渠〔かれ〕を討て、尊父の讐〔あだ〕を報じ玉へ。
友次郎雀躍〔こおどり〕して申けるハ、誠に手がゝりの端〔はし〕を得たり。誰をさして敵〔かたき〕とすべきやと、はなハだ忙然たる所に、まづ其便〔たより〕を聞に於てハ、それと目的〔めあて〕定りぬ。さて我父を討たる者、巌流に相違なくば、變名〔へんめう〕したるも計がたし。父太郎右衛門が入湯の時、供〔とも〕に侍りし僕〔ぼく〕こそ、巌流が人物を見覚〔ミおぼへ〕つべし、是ハ何方〔いづかた〕に候や。
門人共申けるハ、其事にて候、この者ハ去年の冬、暇〔いとま〕をとりて在所に帰りしが、間もなく病死して、師父に先達〔さきだつ〕たり。友次郎、それハ殘念千万。しかれどもむかしより君父の仇〔あだ〕を討事、たやすき事にあらず。唯〔たゞ〕天の照覧に任せ本意を遂べし。
是より豫〔あらかじめ〕行李を収拾〔とりおさ〕め、諸高弟につとづとに礼謝〔れいしや〕を述、頓〔やが〕て吉日を撰びて、名島をぞ出にける。又懐ふ所ありて、宮本無三四と名乗ぬ。
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【現代語訳】
宮本友次郎、熊木發足の事
ならびに、名島の高弟、宮本に会う事
宮本友次郎は、天下武者修行の件を許可され、(家に)帰ると、武右衛門は、あらかじめ旅行の用意をととのえてやり、武右衛門の妻も(許可が出た)歓びのうちにも、長年のいつくしみは浅くはない(子である)、「一時の旅でさえ、別れとなっては、悲しいのがあたりまえなのに、まして帰るのはいつになるかわからない浮雲のようなもの、行く末遠き旅の空、(この子は)どうなることか」と思いやられて、先立つものは涙である。
幼弟・友之助も、今年六歳、年齢よりはおとなびて、兄との別れに涙ぐみ、門弟もことごとく来て集り、離別の酒盃(の儀式)も終ったので、その日は未の刻[午後二時]も過ぎたので、およそ敵討ちなどの門出[ルビによる。首途は義経ゆかりの首途八幡宮(京都)で有名]は、主人から暇をもらった当日に出発することが、古くからの先例だからと、友次郎も気が急いて出立する。門弟は友之助を誘い、二里[八km]ほど送り、馬のはなむけ[壮行儀礼]をして帰った。
さて、友次郎はすみやかに旅行して名島に到着、まず、実父太郎右衛門の墓に詣で、香花を手向け、大いに歎き、「もし(父の)霊魂がこの下におられるなら、我が心膽[胸中]をご照見したまえ。私は幼児のうちから父母のお側を離れ、一日も父の高恩を報ずることができず、そのうえ、人に討たれましたのに、(私は)父母の葬礼さえできませんでした。このため、心臓も肺もともに破裂しそうです。しかし、敵が九重の天の上に隠れ九重の地下に逃れていようとも、さがし出し、その屍体を千万に切り刻んで、父の怨みをお晴らしします」と、歯ぎしりし眼を瞋らし、涙の下ること雨のごとし。
次に、母の塚[墓]に参り、(まるで母が)生きているがごとくかきくどき[哀切に語りかけ]、そののち高弟らの家に行き、一人ひとりに感謝の礼をして、旅宿に帰った。すると、吉岡の門人がことごとく友次郎の旅館へ集まって来て、(友次郎に)言うには、
「我々は、さきに師父(吉岡)の横死の後、国中の者に気を付けて窺い探りましたが、今になっても、それぞと思う仇の手がかりを得ていません。
さて、師父の行状は、まったく謙遜にして傲ぶらず、他の師範たる人を謗ったり侮ったりせず、礼を厚くして諸士と交際されたから、かつて人と諍いをおこされたということを聞かない。この国のうちで、知る人も知らぬ人も、その横死を惜しまない者はない。さればとて、恨みなき者がこんな不敵な[意訳。原文は「嗚呼」。通例はをこ(嗚滸)は馬鹿げた、不届きなの意]ふるまいをするとも思えません。
そこで、よくよく考えるに、去年八月上旬(師は)願いを出して、摂州有馬の温泉に入湯なさって、帰国のついでに、播州姫路の城下で一日逗留されたところ、はからずもしかじかのことがあって、佐々木巌流という者と口論が起き、巌流は思いがけず師によって恥辱を蒙った、と聞いています。おそらくは、そいつのしわざでしょう。
その理由は、我々が師父の横死のありさまを見たところ、たしかに後方から切りつけたようすで、右の肩の上から左の脇骨の近くまで、一刀で斬り下げている。なるほど刀剣は勝れた剛刀とは思うが、拳がよく定まった者[達人]の所行だろうと、検使もそれぞれに判定しました。その(刀傷の)ほかには、とどめを刺した刀の疵のみでした。
このとき、鳴尾の屋敷内から、(刀の)刄音を聞きつけた侍たちが多数駈け出たのに驚いて、敵は東西に分かれて逃げ去ったとの風説です。これによって、諸人の噂はいろいろだが、一人のしわざではないと言います。
そこで(我々は)、姫路の(巌流の)動静を知るために、先日人を姫路に派遣しましたので、五、六日の間には播州の飛脚が帰るでしょう。その(報告の)様子によって、(播州姫路へ)ご出発なされ」
と、懇ろに慰さめるので、友次郎は大いによろこび、
「念の入った高弟がたの御こころざし(感謝します)。それでは、その一報[一左右は報せの意](の次第)によって、今後どうするか決めましょう。皆さんのご推察の通りなら、巌流のしわざに疑いなし」と、その日はそれで解散した。
かくて、六、七日が過きたところ、高弟らが来て知らせるには、「さて今日、播州へ送った飛脚が、彼地の様子を聞いて戻りました。先年、巌流は吉岡氏と不慮の争いを仕掛けて、門人の眼前で面目を失い、そののちは姫路を出奔同様に去り、どの国へ行ったのか、行方を定かに知る者はいない、とのことです。(とすれば)いよいよ巌流のしわざに疑いなし。このうえは、巌流の行方を探して彼を討ち、尊父の讐(あだ)を報じなされ」。
友次郎が小躍りして[ルビによる。喜んで]言うには、「まことに手がかりの端緒を得ました。誰を指して仇とすべきかと、はなはだ茫然としていたところへ、まずその情報を聞きましたので、それと目当て[ルビによる。目的は対象の意]が定まりました。さて、我が父を討った者が、巌流に相違なければ、変名しているかもしれません。(それに、私は巌流の顔を知らないけれど)父太郎右衛門が(有馬)入湯の時、供に付いて行った下男なら、巌流の人物[ここは容姿人相の意]を見覚えているでしょう。この者はどこにいますか」。
門人どもが言うには、「そのことです。この者は去年の冬、暇をとって在所に帰りましたが、間もなく病死して、師父より先に逝ってしまいました」。友次郎は(言う)、「それは残念千万。けれども、昔から君父の仇を討つことはたやすいことではありません。ひたすら天の照覧に任せて、本意を遂げることにします」。
それから(友次郎は)あらかじめ荷物をまとめ、高弟それぞれに感謝の礼を述べて回り、それから吉日を撰んで、名島を出立した。また、思うところがあって、「宮本無三四」と名乗るようになった。
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