【原 文】
友次郎再び逢難事
并二刀流の起りの事 (承前)
此たび友次郎、大勢の痴人〔しれもの〕と闘ふに及んで、二刀を以て防ぎしより、はじめて自得する所ありて、二刀の操方〔つかひかた〕を工夫し、自然と得た玄妙を顯し、普く天下に名を高ふしける。
本朝開闢より以降〔このかた〕、二刀を用ひることいまだ是をきかず。漢土にもまた聞くことなし。上古末代の壹人十手流〔じつてりう〕の開祖是也。
むかし建武年中の乱れ、左近衛中將〔さこんへのちうじやう〕新田義貞朝臣、攝州兵庫の浦に戦ひ敗れ、求女塚〔もとめづか〕の上にのぼり、鬼切鬼丸〔おにきりおにまる〕といふ靈劔を左右の手に抜持、あまたの矢を切たる事有といへども、是不慮〔ふりよ〕に發りたる事にして、自己一身〔じこいつしん〕を脱るゝのミにて、其態〔わざ〕を他人に傳ふる事能ハず。
宮本氏〔うじ〕の二刀に於るや、其流末代に教授し、数百年の後億兆〔おくてう〕の人の身を護るわざとなりしハ、称歎すべき事共也。
却説〔さて〕、この奸人〔わるもの〕ども一箇一箇〔ひとり/\〕阿曲〔くま/\〕よりはひ出、互に疵を蒙りたる事をミるに、多くは頭面〔づめん〕又は手足の表疵〔おもてきず〕、さし當りたる面目なさと後日〔ごにち〕の難義に胸ふさがり、人々互ひに助け合、その夜ハミな/\帰りける。
其後奸人どもの手疵癒〔いへ〕ても人前の交りもなりがたく、又何となく何某〔なにがし〕こそは大勢徒黨し、友次郎がためにかやうの恥辱を請しなどゝ、區々〔まち/\〕の取さた廣くなりしかバ、十六人の者共、なまなかなる事仕出して、今ハ後悔臍を噛〔かむ〕といへ共及ばず、若此事清正朝臣の耳に入〔いる〕ときハ、後難〔かうなん〕もはかりがたく、手疵こと/\く癒しかば、ひそかに熊木の城を出奔し、ゆくへなく成にける。後はいかゞなりしや、その終〔おハ〕る所をしらず。
私に曰、宮本幼稚の時よりの事共、説々〔せつ/\〕甚多しといへ共、事繁きがゆへに悉く記すにいとまあらず。此一条を出して余は畧しぬ。
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【現代語訳】
友次郎、再び難に逢う事、
ならびに二刀流の起源の事 (承前)
このたびの事件で、友次郎は大勢の馬鹿者ども[ルビの痴れ者は、狂人の意だが、ここは罵倒語]と闘うに及んで、二刀をもって防いだことから、はじめて自得するところがあって、(その後)二刀の使い方を工夫し、自然と得た玄妙[深遠絶妙の芸術]を明らかにし、天下にあまねくその名を高くしたのである。[ようするに、これが無三四の二刀流の起源だという話]
本朝開闢[紀記神話による国学的用語]よりこのかた、二刀を用いる例はまだ聞いたことがない。漢土にもまた聞くことがない。(二刀を用いたのは)上古から今日までただ一人、十手流の開祖がこれである。[これはフィクション。十手流の名が出るのは興味深いが、この十手流開祖=宮本無三四はここだけの説話。小倉碑文には十手は新免無二の家業という]
むかし建武年中の戦乱のとき、左近衛中将・新田義貞朝臣[南北朝内乱時の雄(一三〇一〜三八)。朝臣は官位正四位下による]が、摂津兵庫の浦で戦いに敗れ、求女塚[現・神戸市東灘区]の上にのぼり、鬼切と鬼丸という霊剣を左右の手に抜いて持ち、(自分を射かける)あまたの矢を切ったことがある[太平記巻十六・新田殿湊河合戦事による]とはいえ、これは思わずそうしたのであって、自分の身を守って逃げるだけのことで、その技を他人に伝えることはできなかった。
宮本氏の二刀においては、その流儀は現在でも教授し、(創始して)数百年の後、多くの人々の身を護るわざとなったのは、称歎すべきことがらである。[以上は語り手による宮本無三四賛]
さて、この悪漢どもは一人ひとりあちこち隅から這い出して、互に負傷したのを見ると、多くは頭部顔面または手足という表疵[人目に立つ、隠せない負傷]である。さしあたっての面目なさと後日の難義を思うと憂鬱になり、連中は互いに介助し合い、その夜は皆それぞれ帰宅した。
その後悪漢どもは、負傷が癒えても、世間での交際もなりがたく、また何となく「何某は、大勢徒党を組んで、友次郎にこんな恥辱を受けた」などと、さまざまな噂が広まったので、十六人の者どもは、半端なことをやらかして、今は後悔し臍を噛むとはいえ、もしこのことが(主君)清正朝臣の耳にでも入れば、どんな後難があるかも知れないので、負傷がすっかり癒えると、ひそかに熊木の城を出奔し、行方知れずになった。後はどうなったか、その最後はわからない。
私に曰く[作者の言]、宮本の幼い時からのことについて、いろいろと諸説がきわめて多いが、煩瑣になるがゆえに、全部を記す余裕がない。この一件だけを出して、残りは省略した。[これは省略の技法、残余の存在を空想せしめる]
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