【原 文】
無三四發足美作事 (承前)
年矢〔ねんし〕速に立て、其年もすでに暮、あら玉の年をむかへ、天正十九年*の春になりぬ。
正月十六日に、無三四申けるハ、われはからずも貴宅〔きたく〕に新春を迎へ、慌惚〔おぼへ〕ず幾許の日を過せり。明日より當所を發足し、伯耆國に立越、因幡但馬を經て、丹後より及び北陸道に趨〔おもむく〕べし。
三郎左衛門申けるは、世上いまだ余寒〔よかん〕も厳しければ、今一月〔いちげつ〕逗留し玉へ。其内にハ山々の雪も消、手足あたゝかにも成申べしと、頻りに輟〔とゞむ〕るといへ共、終に聽〔きか〕ず。
又三郎左衛門も、別れハ惜〔おし〕きならひなれども、一回〔たび〕ハ別るゝ道なれば、ぜひなきことにおもひ、多くの路費〔ろよう〕の金銀を用意し、すべて裘褐〔なつふゆ〕の衣量〔いるい〕を包袱〔ふろしき〕一隻〔ひとつ〕に拾収〔とりをさめ〕、無三四が前にさし置、申けるハ、愚妻が命を救ひ玉ひし厚恩に比〔くらぶ〕れバ、なを家財半〔なかバ〕を分て奉るとも謝し盡すに足らず。多くの衣量等〔いるいとう〕を参らせなば、この後も行末遠き長途〔ながたび〕、御艱難をはゞかりて、這些〔このすこし〕の衣量盤纏〔いるゐろぎん〕を参らする也。この後盤纏の絶〔たへ〕たる事あらば、いづれの所に在〔おハ〕すとも、一封の書をだに書玉ハゞ、早速遣〔まい〕らすべし。いさゝか輕微の所といへども、これを笑納〔しやうなう〕し玉ハゞ満足ならん。
無三四、押いたゞき、包裏〔つゝミのうち〕をひらき見るに、黄金〔きんす〕一百両、碎銀〔こまがね〕二三百粒、多くの衣量あり。
無三四、黄金十両、碎銀五十粒、衣服三ツをわけて、包袱〔ふろしきつゝミ〕に収め、その余ハこと/\く三郎左衛門に戻し、寔〔まこと〕に芳志〔ほうし〕千万かたじけなし。是にて我ためにハ十分の路用なり。
三郎左衛門、何故に人の志を空しうしたまふぞ。
無三四が曰、金銀多きときハ艱難を忍ばず。夫讐〔あだ〕を討〔うつ〕事の難きや、越王勾践〔ゑつわうこうせん〕ハ薪〔しん〕に臥〔ふし〕膽〔たん〕を甞〔なめ〕、晋の豫譲〔よじやう〕ハ漆〔うるし〕を浴〔ゆあミ〕し炭〔あかすミ〕を呑〔のむ〕。徒〔いたづら〕に腰に黄金を纏ひ、労〔つか〕れたる時は駕に乗り、倦〔うみ〕たるときハ馬に跨りなば、是ぞ遊参〔ゆさん〕の回国なり。此十片の黄金も、我ためにハ実〔じつ〕ハ過たる賜〔たまもの〕なり。しかれども、自然〔しぜん〕病患〔べうげん〕發りし時の用意なり。われいかでか人情をつとめて、そら辞義〔じぎ〕するものにあらずと、言〔ことバ〕潔白〔きつぱり〕と艶〔つや〕なかりしかば、三郎左衛門も深く感じ、強て言ず、旅行の支度ごと/\く調ひしかば、十七日の暁天〔げうてん〕に富塚が家を辞〔いとまごひ〕し、伯州さして急ぎけり。
編者曰、無三四富塚が家を出て後、伯耆を經て因州鳥取に至り、宮部是祥坊〔ぜじやうばう〕が家臣貝田玄蕃といふ者あり。これと比量〔しあい〕をなせしに、貝田玄蕃比量〔しやい〕にうちまけ、憤り怨ミ、密に無三四が旅宿〔りよしゆく〕へ押寄、門人大勢と倶に夜襲ふ。無三四憤激して、貝田を打殺し、因州を去、石見国へ趨き、そののち丹後を經て、所々に於て武術の玄妙〔げんめう〕を見せたる事多しといへども、繁〔しげ〕きが故に畧しぬ。
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【現代語訳】
無三四、美作を出発の事 (承前)
時は矢のように速やかに過ぎて、その年もすでに暮れ、あら玉の新年を迎え、天正十九年の春[前後の経緯からして天正二十年のはずだが]になった。
正月の十六日に[つまり松の内が明けて]、無三四が言うには、「私は思いがけず貴宅で新春を迎え、うっかりと多くの日々を過してしまいました。明日からは当所を発足し、伯耆の国へ越えて、因幡・但馬を経て、丹後から、さらに北陸道に向かいます」。
三郎左衛門が言うには、「世の中はまだ余寒も厳しいので、もうひと月ご逗留なさいますように。そのうちには山々の雪も消え、手足は暖かにもなりましょう」と、しきりに留めたが、(無三四は)ついに聞き入れない。
また、三郎左衛門も、別れは惜しいのが当然だが、一度は別れる道なので、やむをえないと思い、(無三四の)旅費に多くの金銀を用意し、夏冬の衣類をすべて風呂敷一つにとり納め、無三四の前に差し出して、言うには、「愚妻の命をお救いいただいた厚恩に比べれば、まさに家の財産半分を分けて差上げても、謝礼し尽くすには足りません。多くの衣類等を差上げると、この後も行末遠き長旅ですから、お困りになるのを憚って、こんな少しばかりの衣類と路銀を差上げるのです。こののち路銀がなくなるようなことがありましたら、どこにおられても、手紙一つさえ書いてくだされば、早速お送りします。いささか少なすぎるものですが、これを笑ってお受取りくだされば、(それがしの)満足になります」。
無三四はこれをおし頂き、包みの中を開いて見ると、金貨百両、碎銀[小粒の銀貨。上方では豆板銀(まめいたぎん)]二、三百粒、それに多くの衣類があった。
無三四は、金貨十両、碎銀五十粒、衣服三着を(別に)分けて、それを風呂敷包みに収め、その残りは全部三郎左衛門に返し、「まことに多大なご好意、ありがたいことですが、私にはこれだけで十分の旅行の用意です」。
三郎左衛門、「なぜ、人の好意をお受けにならないのですか」。
無三四が曰く、「金銀が多いと、艱難を忍ばない(ようになる)。讐を討つことが困難なのは、越の王・勾践が、薪に臥し膽を甞め[紀元前五〜六世紀の中国の故事、むろん有名な「臥薪嘗胆」の説話による]、晋の豫譲は漆を浴び炭を呑んだ[これも有名な刺客豫譲の故事。漆を浴びたのはハンセン病者を装うため、炭を呑んだのは声を変えるため、智伯の讎討ちのため豫譲が乞食に身をやつした説話による]。無駄に黄金を所持し、疲れたら駕籠に乗り、(歩くのに)倦めば馬に跨る、それでは行楽の国めぐりです。この十枚の黄金でさえ、私には実は過分の賜物です。しかしこれは、当然起こる病患の時の用意です。どうしてこの私が、世間通りの振舞いをして、儀礼的な辞退などしますか」と、言うことがきっぱりとして迎合がなかった[ここでは艶は迎合、追従の意]ので、三郎左衛門も深く感動して、強いて言わず、旅行の支度がごとごとく整ったので、(無三四は)十七日の明け方に、富塚の家を辞し、伯州を目指して急いだ。[このコースは、美作真庭郡から伯耆の大山へ抜ける米子道であろう]
編者曰く[作者補注である]、無三四が富塚の家を出て後、伯耆を経て因州鳥取に至り、宮部是祥坊[宮部善浄坊継潤(一五二八〜九九)のことらしい。継潤は近江の人で叡山の僧、秀吉に取り立てられ天正八年但馬豊岡、天正十年には因幡鳥取城主、文禄四年家督を譲って隠居]の家臣・貝田玄蕃という者あり。これと試合をしたところ、貝田玄蕃は試合に負けて、それに憤り怨み、夜ひそかに門人大勢と無三四の旅宿へ押し寄せ襲った。無三四は憤激して、貝田を打殺し、因州を去り、(西の)石見国へ行き、そののち丹後を経て、各地で武術の玄妙を見せたことが多くあるが、数が多いので省略した。[無三四についてはいくらでも説話があるということ]
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