【註 解】
(1)無念無相の打
ここに無念無相という語句がある。ところで、この「無相」というのは「無想」ではないか、「無念無相」ではなく「無念無想」ではないかという質疑もあるが、これは、「無念無相」でよい。というのも、慧能の『六祖壇経』に「無住為本、無相為體、無念為宗」というテーゼがあって、「無相」を體となすと記すように、禅家では「無念無相」という。武蔵の知的文化的なバックグラウンドからして、ここは、「無想」ではなく、「無相」なのである。
しかし、無念無相の打ち――である。さてさて、このあたりから、なんとなく神秘主義的な雰囲気が出てきて、いわばオリエンタリズムの好餌となる。何となく解ったようで解らない、茫漠とした気分というのが味噌である。
諸流のうちには、無想流、無相流、無念流なる名を称するものもなきしもあらず、そういうところからすると、無念無相は、近世ことさらに愛好された語だったようである。
武蔵もまた、此条において、《是無念無相とて、一大事の打也》と述べているのだから、これは重要なことなのである。しかも、他流、たとえば、時中流の伝書「諸流極意秘傳之巻」(享保十六年)などには、
一 青木休心居士ハ、常極眞ト察切
一 神明武藏ハ、無念無相ト打
一 戸田流ニハ、保論苔之長 短一身ト秘傳ス
一 柳生流ニハ、棒心清江水ト秘傳
一 一刀流ニハ、近代四ツノ切トテ秘スレ共、現在目ニ見ユル業太刀也
一 新影ニ、文五郎扇團ト秘メ、脇指ノ時左ニ扇又ハ何ニテモ持也
一 微塵流ニハ、大八相ノヒシキ打トテ秘傳ス
此外諸流家々ニ秘傳有トイヘ共、皆ハマグリノグリハマニテ、凡同ジ。
とあって、時中流の祖・青木休心をはじめ、諸流の秘伝を列挙するなかに、「神明武藏」の秘伝として、ほかならぬ無念無相の打ちを挙げているのもおもしろい。
ようするに、「神明武藏」は無念無相の打ちだというのは、武蔵流の数ある教えのうち、世間では、これが武蔵の極意秘伝として有名になっていたのである。
しかし、《是無念無相とて、一大事の打也》とは言っても、五輪書の教えからすれば、無念無相は、極意秘伝というような、そんなミステリアスなことではない。あきらかに、もっと明確な話なのである。
ようするに、身も打つ身になり、心も打つ心になって、手は、何時となく、空〔くう〕から遅ればせに強く打つ、というところがポイントである。身も心も打つ気になっているのに、肝心の手の方は、いつとはなく「空から」遅ればせに動くという。ここが武蔵の教えの妙味である。
しかし、ここでまず注意したいのは、これが最近までよく言われていた「一致」テーゼとは逆の、「分裂」テーゼを背景にしているということだ。すなわち、心気体の一致、気剣体の一致、心技体の一致、眼意足の一致、心形刀の一致…というような、一致論、三要素一体論があったが、それとはまったく違う「分裂」テーゼである。
この三要素一致テーゼの方は、近世後期から言われはじめた新しい観念である。この一致論への言説の転換は、幕末のあたりと特定しうる。それ以前には、むしろ逆に、右掲のごとき「心氣體の三つをつかい分ける」といった分析的な考えが基本であった。
このことを念頭において、ここでの武蔵の教えを読まねばならない。つまり、一致論から読めば間違うことがある。ここは徹底して武蔵の教えを分裂テーゼとして読む必要がある。
すなわち、まず第一に、身心と手が分裂している。ただ分裂しているだけではない。その分裂(splitting)において、分裂構造が尋常のものではない。これがふつうなら、分裂するのは、心と身体(手)である。心身二元論ならそういうことになる。ところが、武蔵の分裂構造は、身心と手の分裂なのである。
第二に、手が「いつとはなく、空から、遅ればせに」動くという点である。
ふつうなら、「空」にする(なる)のは心の方である。だから「無心」ということを強調する。ところが、武蔵は逆のことをいう。身心が打つ気でいるが、手が「空」だというのが無念無相だとするのである。
たとえば、柳生宗矩『兵法家伝書』には、
《手足身に所作はありて、心になくなり、習をはなれて習にたがはず、何事も、するわざ自由也。此時は、わが心いづくにありともしれず》
とある。いわゆる無心の境位である。
すなわち、――さまざま修行をし尽くして、修行が稽古の効果を蓄積すれば、手足身体に動作はあっても、心には動作がなくなり、修得したことが念頭を去っても修得したに違背せず、どんなことでも、する動きが自由自在になる。こうになると、自分の心がどこにあるかもわからなくなり、天魔外道でさえ、我が心を窺い知ることはできないのである。ようするに、このレベルまで達するための修行である、云々。
これは心を空にするという論理だが、武蔵の方は、先ほど見たように、身も心も先に行っているのに、手は遅れて、「いつとはなく、空から」動くのである。
こういうあたり、ほんの僅かの差異、紙一重の違いで、同じ無念無相といっても、武蔵のそれは他と異なるのである。むろん、従来の読み手はだれもそんな差異に注意せず、他と同類の無念無相だと錯覚してきたわけだから、我々のこういう指摘が必要なのである。
武蔵の無念無相は、たんなる無心ではなく、いわば道元の「身心脱落」というテーゼに近いのである。道元の身心脱落がいかに従来の禅思想史のなかでユニークな突出したものであったか、それが単に「空」や「無心」を語る思考とはいかに違っていたか、そのことは少しは理解されている。ところが、武蔵の無念無相は、通俗的解釈のなかで手垢にまみれている、というぐあいなのである。
それゆえここでは、内在的分析を通して、この「無念無相」を解析してみることにする。前々から引用している肥後兵法書の「拍子の間を知ると云事」の当該部分、無念無相のことを述べるところがある。
それを見るに、肥後系伝書のみならず、尾張円明流や三河武蔵流の伝書に至るまで、たいていの写本には、これが無念無「想」とあって、そのことからすると、肥後兵法書初期の段階ですでに無念無「想」と記していたものらしい。五輪書の「無念無相」に沿わない字句である点、肥後兵法書はやや杜撰な発足であったようである。
そのように、この無念無「想」という字句は、肥後兵法書に特徴的な伝承崩れであるから、これを無理に五輪書に合わせて訂正する必要はないし、その意味もない。「無念無想」は、武蔵なら書かない字句であるから、そのままにしておくべきである。
それはともかくとして、肥後兵法書では、見かけは少しだけだが、実際は説き方がかなり違っている。たとえば、
《又、無念無想と云は、身を打やうになし、心と太刀ハ殘し、敵の氣の間を、空よりつよく打つ、是無念無想也》
つまり、ここでは、分裂するのは、
身 × 心と太刀(手)
であって、それは五輪書の、
身と心 × 手(太刀)
という分裂構造とは異なる。心のポジションが五輪書では身の方にあるのに対し、肥後兵法書では、太刀(手)の方へ移項しているのである。
ここで改めて肥後兵法書をみると、前項「二のこし」には、《我身と心を打ち》とあって、残すのは太刀であり、「無念無想」の項には、《身を打やうになし、心と太刀は殘し》とあって、前述のように、残すのは心と太刀である。
したがって、五輪書の「無念無相」は、肥後兵法書の「二のこし」の打ちと、形式上は相似である。ここから言えることは、肥後兵法書の祖述には混乱があるということである。五輪書の教説を見直し自身の解釈で再構成しているというよりも、そもそも五輪書を理解していないのである。
上に見たように、無念無相の打ちに関して、肥後兵法書の段階では、心は太刀(手)の項にあるのだが、もともと五輪書では、心は身の項にあり、身心を一つにして、手(太刀)を空から動くものとする。――すなわち、心は動にして不動だということではなく、心は分裂の二項間を動くことによって、ポジションが「空」なのである。
五輪書では、手(太刀)を空に、太刀を残す、という点が強調される。そうして、通俗的な「残心」テーゼから離脱している。武蔵は、このようにして禅思想のディスクールに一般的な「無心」というクリシェを、わざと避けているふしがある。
ただ、通俗観念に染まった者には、「心と太刀は残せ」といった方が理解しやすいのであろう。肥後兵法書はその境位にある。逆に、五輪書のように、身も心も打つ気になって、しかし手(太刀)は気にするな、遅ればせでよい、と言うことで、難解になるのではない。むしろ、初心または非熟達者にとっては、その方が理解しやすいかもしれない。
すでに指摘してあるように五輪書は、説き方が懇切である。少なくとも、なるべく理解しやすいように、という対機説法なのである。
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○此条諸本参照 → 異本集
*【六祖壇経】
《若一念斷絶法身、即是離色身。念念時中、於一切法上無住。一念若住念念、即住名繋縛。於一切法上念念不住、即無縛也。以無住爲本。善知識、外離一切相、是無相。但能離相性體是清淨。是以無相爲體。於一切鏡上不染名爲無念。於自念上離鏡、不不於法上念生。莫百物不思、念盡除却、一念斷、即無別處受生。學道者用心、莫不息法意、自錯尚可更勸他人、迷不自見迷、又謗經法。是以立無念爲宗》(敦煌本)

諸流極意秘傳之巻

吉田家本
*【兵法家伝書】
《様々の習をつくして、習、稽古の修行功つもりぬれば、手足身に所作はありて、心になくなり、習をはなれて習にたがはず、何事も、するわざ自由也。此時は、わが心いづくにありともしれず、天魔外道もわが心をうかがひ得ざる也。此位にいたらん為の習也》

道元禅師像 永平寺蔵
*【肥後兵法書】
《心おそき敵には、太刀相になると、我身をうごかさず、太刀の起りを知らせず、早く空にあたる、是一拍子也。敵氣はやきには、我身と心を打、敵動きの跡を打事、是二のこしと云也。又、無念無想と云は、身を打やうになし、心と太刀ハ殘し、敵の氣の間を、空よりつよく打つ、是無念無想也》(拍子の間を知ると云事)

三河系伝書 武蔵流五七巻 「無念無想」当該箇処
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