宮本武蔵 資料篇
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 Q&A   史実にあらず   出生地論争   美作説に根拠なし   播磨説 1 米田村   播磨説 2 宮本村 

[資 料] 東 作 誌 讃甘庄下庄村之記 Go back to:  資料篇目次 


 
  1 平尾氏系図
【原 文】

平尾氏  家紋丸内二引兩在三巴 現名和助
赤松入道圓心三代平尾民部大夫、赤松没落して播州東本郷平尾村に居住して在名を稱す。後年作州吉野郡小原庄古町村の内照田に住し、英田吉野二郡の内を領す(1)

  系  圖

○平尾民部大夫───────────────┐
  住作州吉野郡小原庄照田         │
┌─────────────────────┘
├平尾五郎左衛門尉─────────────┐
└平尾新四郎                │
┌─────────────────────┘
├平尾五郎大夫
└平尾大炊介頼景──────────────┐
  下庄千原の搆に盾籠る明應八年己未竹山勢押│
  寄て大に奮ひ戰ふ頼景縣傳八と戰ひ新免治部│
  左衛門が放つ矢に中り終に同人に首を得らる│
  墓所鍋谷山にあり(2)           │
┌─────────────────────┘
太郎左衛門────────────────┐
[摯竅n平田の猶子となり平田無仁と稱して │
│ 新免氏に出仕し後新免無二齋と號す子武藏は│
│ 宮本又は新免を氏とす
(3)         │
└彌十郎                  │
┌─────────────────────┘
└與右衛門正重───────────────┐
  元和六年七月二十日死 月峯院松翁壽觀  │
┌─────────────────────┘
└九郎兵衛景貞───────────────┐
  明暦二年八月二十二日          │
┌─────────────────────┘
└七郎左衛門忠宣──────────────┐
   以上森家系圖改の時書上の寫也(4)    │
┌─────────────────────┘
九郎兵衛─────────────────┐
  寶永三年九月十八日死          │
┌─────────────────────┘
└九郎兵衛─────────────────┐
  元文四年十二月十二日死         │
┌─────────────────────┘
└次右衛門─────────────────┐
  享保六年八月十八日死 一説に與右衛門  │
┌─────────────────────┘
└重右衛門 享保十二年四月十四日死

與右衛門正重 一説に政家 本姓衣笠氏也(5)
             世系如左

  赤松播磨守頼範七代孫
  播州端谷城主
○衣笠豊前守政綱──────────────┐
┌─────────────────────┘
└衣笠若狭守政重──────────────┐
  妻者赤松播磨守頼範五女[元本のままとして│
  疑を在せり](6)             │
┌─────────────────────┘
│十一代孫
└衣笠五郎左衛門尉政氏───────────┐
┌─────────────────────┘
└衣笠新助政範(7) ─────────────┐
  播州上月太平山城主 仕赤松家      │
┌─────────────────────┘
└政春 政次嫡子[本のまま]──衣笠虎松──┐
┌─────────────────────┘
└政家 衣笠與右衛門尉 播州佐用郡平尾村住(8)


【現代語訳】

平尾氏  家紋は丸内二引両、三巴あり。現名和助
 赤松入道円心三代・平尾民部大夫が、赤松氏没落ののち播州東本郷平尾村に居住して、在所の名を称した。後年、作州吉野郡小原庄古町村の内照田に住し、英田吉野二郡の内を領した。

  系  図

○平尾民部大夫───────────────┐
  作州吉野郡小原庄照田に住む       │
┌─────────────────────┘
├平尾五郎左衛門尉─────────────┐
└平尾新四郎                │
┌─────────────────────┘
├平尾五郎大夫
└平尾大炊介頼景──────────────┐
  下庄千原の搆にたて籠り明応八年竹山城の軍│
  勢が押寄せた時大いに奮戦した。頼景は縣伝│
  八と戦い新免治部左衛門が放つ矢に当り終に│
  同人に首を取られた。墓所は鍋谷山にある。│
┌─────────────────────┘
├太郎左衛門────────────────┐
[増補]平田の猶子となり、平田無仁と称して│
│ 新免氏に出仕し、のち新免無二齋と号す。 │
│ 子武藏は宮本又は新免を氏とした。
    │
└彌十郎                  │
┌─────────────────────┘
└與右衛門正重───────────────┐
  元和六年七月二十日死 月峯院松翁壽觀  │
┌─────────────────────┘
└九郎兵衛景貞───────────────┐
  明暦二年八月二十二日          │
┌─────────────────────┘
└七郎左衛門忠宣──────────────┐
   以上は、森家による系図改めの時の書上の│
   写しである。             │
┌─────────────────────┘
└九郎兵衛─────────────────┐
  寶永三年九月十八日死          │
┌─────────────────────┘
└九郎兵衛─────────────────┐
  元文四年十二月十二日死         │
┌─────────────────────┘
└次右衛門─────────────────┐
  享保六年八月十八日死 一説に與右衛門  │
┌─────────────────────┘
└重右衛門 享保十二年四月十四日死

與右衛門正重 一説に政家。本姓は衣笠氏である
           代々の系統は左のごとし

  赤松播磨守頼範の七代子孫
  播州端谷城主
○衣笠豊前守政綱──────────────┐
┌─────────────────────┘
└衣笠若狭守政重──────────────┐
  妻は赤松播磨守頼範の五女[疑問があるが元│
  本のままとする]            │
┌─────────────────────┘
│十一代孫
└衣笠五郎左衛門尉政氏───────────┐
┌─────────────────────┘
└衣笠新助政範───────────────┐
  播州上月太平山城主 仕赤松家      │
┌─────────────────────┘
└政春 政次嫡子[本のまま]──衣笠虎松──┐
┌─────────────────────┘
└政家 衣笠與右衛門尉 播州佐用郡平尾村に住む

 
  【評 注】

 (1)平尾氏
 本書東作誌は下庄村之記の方が宮本村之記よりも先に出るが、ここではこちらを後回しにしたのである。この平尾氏については、宮本村之記にくりかえし出てきた。以下、下庄村之記では、平尾氏記事は系図が先に出てくる。
 平尾氏の家紋は「丸内二引両、三巴あり」という。「丸内二引両」は通常のものであるが、三巴ありというのはよくわからぬ。ちなみに赤松氏は、右のような二引両と三巴をアレンジしたものではある。
 赤松入道円心三代・平尾民部大夫が、赤松氏没落ののち播州東本郷平尾村に居住して、在所の名を称した。後年、作州吉野郡小原庄古町村の内照田に住し、英田吉野二郡の内を領した、というわけだが、まずこの「円心三代・平尾民部大夫」が問題である。
 となると、(東作誌には省いているが)平尾氏系図のように赤松円心(則村)→貞範→平尾民部大夫という筋目になろう。ところが、貞範の子に、平尾民部大夫という者がありそうにない。また、円心の孫の代には赤松氏盛期であり、赤松没落の記事は史実と合わない。赤松没落とは嘉吉の頃でである。この平尾民部大夫という者、もっと後世の者であろう。ありうるとすれば、後代の捻出であろう。
 これを後人の製造物として無視するのもよいが、ここは武蔵伝説に平尾氏がどう関わっているか研究する場なので、そうもいかない。そこで、別の方向からこの問題を攻略してみよう。ただし、この件では、しばらく我々と一緒に迷路をさ迷っていただかなくてはならない。
 まず、気づかれるのは平尾氏の過去帳が小原姓と混淆していることである。とすればこの小原氏の史料を当ってみることである。
 この点、地元の福原浄泉は、根気強く地元の史料を掘り起こした人である。福原が、小原家の過去帳を写したというから、それによって平尾小原両氏の過去帳を対比すれば、




二引両三巴
赤松氏紋章



庄田平尾福之助所蔵過去帳 小原家累代各霊
 清雲寺院殿宗円大居士 平尾治部太夫安親
     明徳四年三月二十九日 八十六才


 貞光院殿雲光大居士  小原大炊助保宗
     永享六年十二月十八日 五十三才
 金福寺院殿覚光大居士 小原大和守保貞
     康正二年五月十二日 七十四才
 雲峯院殿松緑大居士  小原加藤治安友
     文正元年十二月四日 七十一才
 蓮光院殿峯宗大居士  小原孫次郎入道安則
     明応五年七月十六日 八十八才
 清光院殿道円大居士  小原與茂太郎安定
     大永六年四月二十八日 五十八才
 春月雲間信士    小原武藏之助安近
     天文二年二月九日 四十九才
 岸松院清学居士  平尾五郎左衛門安春
     元亀三年八月十三日 十八才
 小原院清光居士  平尾五郎左衛門安房
     文禄四年十月十九日 六十七才
 乗林院殿可翁松雲大居士 赤松左兵衛
     慶長五年十月二十八日 三十三才
 月峯院松翁壽歓公居士 宮本與右衛門正重
     寛永元年十一月七日 六十七才
 清雲院殿宗円大居士 平尾治部太夫安親
          明徳四年三月二十九日
 真光寺院殿雲光大居士 小原和左衛門保弘
          永享元年三月二十八日
 貞光院殿雲光大居士 小原大炊助保宗
          永享五年十二月十八日
 金福寺院殿覚光大居士 小原大和守保貞
          康正二年五月十二日
 雲峯院殿松緑大居士 小原加藤治安友
            文正元年十月四日
 蓮光院殿峯宗大居士 小原孫次郎入道安則
          明応五年七月十六月
 清光院殿道円大居士 小原與茂太郎安定
          大永八年四月二十八日


 岩松院清覚居士 平尾五郎左衛門安春
          元亀三年八月十三日
 小原院清光居士  平尾五郎左衛門安房
          文禄四年十月十九日
 乗林院可翁松雲大居士 赤松左兵衛通高
          慶長五年十月二十八日
 松泉院昌山宗般居士 平尾五郎左衛門安宗
            正保元年七月四日
とあって、両者はほぼ一致する。相違は僅少であり、後世の伝写の過程で差異が生じたものと思われる。上記過去帳の下流をみれば、両氏の分岐は五郎左衛門安房の代以後であろう、とひとまず推測しうる。
 というのは、歿年齢のわかる平尾家過去帳でみると、孫次郎入道安則の没年は明応五年(1496)で八十八才、それゆえ生年は応永十六年(1409)。小原與茂太郎安定の没年は大永八年(1528)で五十八才、それゆえ生年は文明三年(1471)。ここではたぶん一代飛んでいる。
 次に、五郎左衛門安房の没年は文禄四年(1595)で六十七才、ゆえに生年は享禄二年(1529)。五郎左衛門安春の没年は元亀三年(1572)で十八才、生年は弘治元年(1555)、つまり過去帳の順序は逆だが、安春は安房の子であろう。
 赤松左兵衛の没年は慶長五年(1600)で三十三才、それゆえ生年は永禄十一年(1568)、これも五郎左衛門安房の子であるようだ。ただし、この赤松左兵衛は、要注意である。なぜか突然、ここで「赤松」左兵衛が出てくるのである。
 そして次に、平尾五郎左衛門安宗の没年は正保元年(1645)で年齢は不詳だが、五郎左衛門安春の子でありうる。平尾五郎左衛門の名を襲名するところからそうなのであろう。宮本與右衛門正重の没年は寛永元年(1624)で六十七才、それゆえ生年は永禄元年(1558)、彼は後に見るように養子で平尾氏に入ったのである。
 というわけで、整理をすれば、右のようになる。安房の子の長男が十八才で死んだ安春、次が赤松左兵衛、安春の子が五郎左衛門安宗ということか。あるいは赤松左兵衛の子でもあったかもしれない。むろん院殿大居士の法名をもつこの赤松左兵衛通高は、このままでは不明である。

 この人物は小原家累代各霊では赤松左兵衛通高とあり、ともに慶長五年(1600)十月二十八日卒。ということは、この赤松左兵衛は、同日鳥取で自害した赤松左兵衛督広秀ではないか。鳥取の記録では、法名は乗林院殿前左兵衛尉可翁松雲大居士。平尾小原家過去張の法名と一致する。
 赤松広秀(1562〜1600)は、播磨龍野城主・赤松政秀の子で、自身龍野城主であった。龍野赤松氏は、置塩城の赤松宗家からすると、傍系であるが、赤松大名の一つであった。天正五年信長の播磨侵攻のさい、赤松広秀は降伏して開城し、以後は秀吉の麾下に入って各地に歴戦した。後に、但馬竹田城主となり、豊臣大名として大名に返り咲いた。だが慶長五年の関ヶ原役において、始め西軍に属したが、東軍に寝返り、因幡鳥取城を攻め落とした。しかるに徳川家康から切腹を命じられ、鳥取で自害した。最後の赤松大名家である。
 となると、平尾氏の過去張に、この赤松広秀がなぜ登録されているのか。考えられるのは、因幡鳥取に散った赤松広秀は平尾家出自だ、という伝説が平尾家に一時あったらしいことである。その痕跡が過去張の記載である。
 このことは誰も注意を払っていないが、それこそ我田引水と云うべきであろう。興味深いのは、この平尾氏が古事帳の段階では、先祖の平尾与右衛門が宮本武蔵から家督を譲られたという伝説を有することである。
 武蔵の出生地は揖東郡宮本村で、これは龍野城主の領域である。武蔵の実父は龍野赤松氏に属したものと思われる。ということは、元龍野城主の赤松広秀と、その領域で生れた宮本武蔵を、ともに平尾氏の家系に導入していたのである。
 おそらく、元龍野城主の赤松広秀は平尾氏出自だという伝説は早期に脱落して、その後、先祖の平尾与右衛門が宮本武蔵から家督を譲られた、わが家系は武蔵の子孫だという伝説が、生じたものらしい。ともあれ、平尾氏の伝説には、播磨の龍野あたりの有名人物を我田引水するという特徴が認められる。この点は、美作の武蔵伝説の起源を考えるとき、看過できないポイントである。

 次に、過去帳記載の平尾氏先祖をみてみよう。上端をみれば、いずれも平尾治部太夫安親、明徳四年(1393)三月二十九日歿の人である。これは、山名氏清らが幕府に対して挙兵して敗北した、いわゆる明徳の乱(1392)の翌年である。この結果、赤松氏は美作守護職を得るのである。
 しかるに問題は、上記リストに反復される小原孫次郎という名であろう。すなわち、新免家記に、
《康正二年ニ宇野中務少輔家貞、播я髑ワ驍謔闕эャ原城ニ移る。此小原城ハ、康安元年七月諸国兵乱の時、播州赤松貞範旗下氏族赤松小原孫次郎入道居住の城也。山名伊豆守時氏軍勢を防、戦ふにより、小原城落去して退轉ニ及ぶを、赤松家貞山を築き居住す》
 小原孫次郎は、小原城に拠ったが、康安元年(1361)山名時氏に攻められて落城、退転したという記事である。この小原城は、吉野郡にあった城で(現・岡山県美作市古町)、のちに康正二年(1456)宇野中務少輔家貞(1436〜91)が播磨国宍粟郡の鷹巣城から移り居城とした。その小原城の家貞の養子になったのが、新免伊賀守貞重(1471〜1523)だというのが、新免家記の記事である。
 ともあれ、宇野家貞の居城・小原城は、元は小原孫次郎の居城だったということである。あるいはまた、吉野郡古城落去物語に、
《小原城 赤松筑前守之幕下大原孫次郎高家二百騎にて籠る。康安元年七月山名伊豆時氏二千騎にて瞥時に責落す。孫次郎先祖は、花山院の北面の侍高光入道義清法師、花山院入覚法皇奉附、因作両国の内所々に住す。高家の後、宇野弾正家貞、寛正年中之城主也。文明之頃新免伊賛守居城す》
とある。すると、小原城に拠ったというこの大原(小原)孫次郎高家について、何がしか考合するとすれば、これまた話が渾沌として来るのである。この記事によればまさしく、孫次郎先祖は北面の武士高光入道義清法師とあるから、つまり藤原高光(940〜994)でなければならない。三十六歌仙の一人で家集『高光集』がある。父は右大臣藤原師輔、母は雅子内親王。これまた藤原氏の中枢から出た者である。
 花山院(968〜1008)は史上有名な天皇である。永観二年(984)、十七歳で即位、第六十五代天皇。すぐさま寛和二年(986)退位して出家。『大鏡』によれば、藤原道兼が共に出家しようと誘い、欺かれての退位であったとあるし、『栄花物語』には寵愛した弘徽殿女御を失った悲嘆から出家を決意したとする。出家後は比叡山・熊野・播磨書写山などを遍歴して仏道修行、すぐれた法力を身につけたとされる。この諸国遍歴で花山院伝説が残っているわけだ。正暦四年(993)頃帰京して東院に住む。邸宅には数寄を凝らし風雅の暮らしを送る一方、『大鏡』には悪僧を周囲に侍らせて様々な奇行をなしたとある。寛弘五年(1008)四十一歳で病死。
 高光の方は、『栄花物語』『大鏡』などにも記事のあるように、天暦二年(948)、十歳で昇殿、侍従・左衛門佐・右少将。天徳四年(960)、父師輔が死去。応和元年(961)、従五位上に叙せられたが、同年十二月、妻子を捨てて出家、比叡山横川で受戒入道、翌年多武峯に移り草庵極楽房に住む(多武峯略記)。法名は如覚、新古今集には如覚の名で掲載されている。ある貴公子の突然の出家物語は『多武峯少将物語』(作者不詳)など伝説の人となった。
 伝説の流伝土着と人物の帰趨は同じ事蹟である。きわめて有名な花山院と高光を並べて伝説は美作に散種するのである。
 さて、小原孫次郎高家のことだが、これは何者なのか。こんどは、福原が示した小原家系図を参照してみよう。右欄はさきほどの小原家の過去帳の対応者である。






小原孫次郎安則
   1409〜1496 88才
小原與茂太郎安定
   1471〜1528 58才
小原五郎左衛門安房
   1529〜1595 67才
平尾五郎左衛門安春
   1555〜1572 18才
赤松左兵衛通高
   1568〜1600 33才
平尾五郎左衛門安宗
    ?〜1645 ?才
宮本與右衛門正重
   1558〜1624 67才









*【戦国期赤松氏略系図】

 置塩城
 政則┬義村┬晴政─義祐─則房
   |  |
   │  │上月城
   ├真龍└政元─政範
   |
   │龍野城
   └村秀―政秀┬広貞
         |
         └広秀




戦国末期播磨諸城地図









小原城址
岡山県美作市古町






花山院 東光山菩提寺
西国33ヵ所観音霊場番外札所
兵庫県三田市尼寺
花山院晩年の地・崩御地と伝える



藤原高光 三十六歌仙扁額
狩野重信筆 青蓮院尊純法親王書
多武峰談山神社 奈良県桜井市
小 原 家 系 図 小原家累代各霊対応者
○赤松円心入道──────────────┐
┌────────────────────┘
├範資 美作権守正四位
├貞範 赤松筑前守次郎雅楽之助──────┐
└則祐 赤松権律師播磨守         │
┌────────────────────┘
├持貞 赤松越前守────────────┐
│ 永徳二年和田正武の軍中に卒す     │
│ 樹下院殿円光大居士          │
│ 弟を子として美作会下搆に居住     │
└小原孫次郎高家[満貞]小原元祖────┐│
  西方神福伝椿齢大居士        ││
  康安元年山名伊豆時氏二千騎にて責落す││
┌───────────────────┘│
├小原孫次郎大炊助保宗          │
│ 貞光院殿               │
│ 応永三年茂満に従ひ比叡山に入り翌年卒す│
└小原大和守孫次郎保貞          │
  金福寺殿 応永十六年三月卒      │
┌────────────────────┘
└赤松筑前守頼則─────────────┐
  東光院殿定心居士 永享三年五月    │
┌────────────────────┘
└赤松筑前守則親─────────────┐
  松寿院殿昌通大居士          │
┌────────────────────┘
└小原和左衛門平尾孫次郎保弘───────┐
  長禄三卯年六月二十一日真光院常禧   │
┌────────────────────┘
└小原孫次郎安則─────────────┐
  蓮光院殿峯宗大居士 明応六年七月十日 │
┌────────────────────┘
├平尾五郎左衛門─────────────┐
│ 庄田住 岩松院殿清岳居士       │
│ 元亀三年八月十三日          │
└安秋平尾太郎右衛門 春月覚道居士    │
┌────────────────────┘
└平尾五郎左衛門
  庄田住 松泉院昌山宗般居士
清雲院殿宗円大居士 平尾治部太夫安親
         明徳四年三月二十九日

貞光院殿雲光大居士 小原大炊助保宗
         永享五年十二月十八日

金福寺院殿覚光大居士 小原大和守保貞
         康正二年五月十二日







真光寺院殿雲光大居士 小原和左衛門保弘
         永享元年三月二十八日

蓮光院殿峯宗大居士 小原孫次郎入道安則
         明応五年七月十六月

岩松院清覚居士 平尾五郎左衛門安春
          元亀三年八月十三日


松泉院昌山宗般居士 平尾五郎左衛門安宗
           正保元年七月四日
 以上の対照からすぐに気づかれるのは、小原孫次郎安則と平尾五郎左衛門安春の間が、小原與茂太郎安定と五郎左衛門安房の少なくとも二代は飛んでいることである。こうしたことは系図ならよくあることで、一般に系図をあまり信憑できないわけである。
 それはともあれ、ここで問題なのは、小原氏元祖が小原孫次郎高家、しかも赤松満貞として出てくるのである。とすれば、小原氏元祖・小原孫次郎高家は赤松満貞、そればかりか子孫はその兄・持貞から発する持貞→頼則→則親→という展開の系統である。
 ところが赤松氏の系譜をみれば、小原系図はいささか怪しいのである。なぜなら、赤松持貞・満貞の兄弟は、貞範の子ではなく、貞範の子・顕則の子、つまり貞範の孫であり、円心則村からすれば曾孫なのである。つまり、一代飛んでいるのである。
 系図に混乱がみられるのである。たしかに赤松氏系図にしても異伝が多いのは右の通りである。しかしいずれにしても、赤松持貞・満貞は貞範の孫である。
 それにつけても小原氏系図は驚くべき系譜である。なぜ、驚くべきことかと言えば、ここでもあの赤松持貞が生きていたからである。つまり、すでに本サイト[資料篇]泊神社棟札読解研究のなかで述べられているように、持貞は応永三十四年(1427)京都で自殺しているにもかかわらず、弟を子として――つまり持貞・満貞の兄弟であるはずの頼則が満貞の子となっている――美作会下搆(現・大原町古町)に居住とあって、持貞の亡霊的復活がここ美作にもみられるのである。
 系図中、赤松持貞の永徳二年(1382)和田正武の軍中に卒すとあるのは、和田・楠木の南朝方蜂起を幕府方の山名氏清が和泉国諸城に破ったときのことであろう。とすれば持貞は自殺する四十五年前に戦死していることになる。これを別人かと見るとそうでもない。持貞・満貞・頼則という名が一式勢ぞろいするからには、赤松顕則の子ら以外ではありえない。
 ところで、小原家系図によって小原孫次郎高家、つまり赤松満貞だとする。となると、小原孫次郎高家は藤原高光の子孫ではありえない。村上源氏の赤松氏なのである。つまり小原氏は系図において赤松氏を起源とするのである。
 系図過去帳を合わせてみれば、小原孫次郎を襲名する大炊助保宗と大和守保貞の前は、系図では小原孫次郎高家であり、過去帳ではそれに対応するのが平尾治部太夫安親である。とすれば、
    小原孫次郎高家=平尾治部太夫安親
という等号を引くのは可能か。小原孫次郎高家は康安元年(1361)山名伊豆時氏に攻め落された。平尾治部太夫安親は明徳四年(1393)歿、両者同一はありそうでなさそうな話である。
 註の枠を逸脱して長々検証して来たが、最後に、では平尾氏系図の平尾民部大夫とはだれか。
 結局、わからないのである。赤松入道円心三代・平尾民部大夫が、赤松氏没落ののち播州東本郷平尾村に居住して、在所の名を称した。後年、作州吉野郡小原庄古町村内照田(庄田)に住し、英田吉野二郡の内を領した、というわけだが、何もわからないのである。
 ありそうなことは、この平尾民部大夫は、小原平尾両氏の祖らしい平尾治部太夫安親の変形であり、また両者のモデルを提供したらしいのは、まさしく赤松持貞伝説のようである。  Go Back








【赤松系図】有馬系図 続群書類従
 
貞範┬顕則┬満貞┬貞村―教貞
  ├則頼├頼則├女子   
  └成則└持貞└貞祐―元祐
 
【赤松家系図】続群書類従
 
貞範―顕則┬満貞┬貞村―教貞
     ├則頼└貞祐―元祐
     ├成則      
     └持貞―家貞―政顕
 
【赤松系図】置塩系図 続群書類従
 
貞範―顕則┬満貞―貞村┬教貞
     ├則頼   └貞祐
     ├成則      
     └持定―家貞―政顕
 
【石野系図】続群書類従
 
貞範┬顕則┬満貞┬貞村―教貞
  └頼則├則頼└貞祐―元祐
     ├成則      
     ├家貞      
     └持貞      
 
【赤松諸家大系図】
              
貞範┬顕則┬満貞―貞村┬教貞
  └則頼├頼則   └貞祐
     └持貞┬家貞   
        └政顕   
 
 (2)平尾大炊介頼景
 平尾大炊介頼景は平尾民部大夫の孫で、明応八年(1499)下庄千原の搆にたて籠り、竹山城の軍勢が押寄せた時、大いに奮戦した。頼景は縣伝八と戦い新免治部左衛門が放つ矢に当り終に同人に首を取られた。墓所は鍋谷山にある。そういう話である。千草搆は判然としないが、鍋谷山は、下庄町の字に鍋谷他があるから、この現場はそのあたりであろう。
 この東作誌採取の平尾家系の記事は、新免家記と同じである。おそらく、新免家記からの引用であろう。
 これはまた、古城落去物語にある天文年間の話で、下庄の千原搆に平尾大炊助頼景が居城していたところ、竹山城主新免弾正大輔宗貞諸勢が押寄せ頼景を攻めた。頼景はかなわず播州の方へ落ち行く。宗貞の先手、船曳掃部佐、本位田駿河守、江道寺三左衛門、白岩左近、新免遠江以上五騎の兵、手勢五十人ばかりで頼景を追いかける。五騎の兵、川を渡った跡を見つけて、頼景を鍋谷山で仕留めたということである。
 これは平尾大炊助頼景を追駆けた五人の面子も異なるし、時代も天文年間、明応八年より四十年ばかり後のことである。新免宗貞が出てくるが、平尾家系の明応八年という年代からすれば、これは宗貞ではなく貞重のことになる。伝説によって登場人物は違うが、平尾大炊介と鍋谷山という要素だけは同じである。
 平尾氏系図によれば、この大炊介頼景は平尾民部大夫の孫である。大炊助は小原氏系図では、
  小原孫次郎大炊助保宗
    貞光院殿
    応永三年茂満に従ひ比叡山に入り翌年卒す
とある者のようであるが、応永三年(1396)という歿年からすれば、明応八年(1499)とは一世紀もちがう。しかし過去帳では永享六年(1434)歿、系図とも随分違う。
 したがって厳密に言えば、この大炊介頼景にも該当する者が見当たらない。ところが系図は、おそらく彼に仮託したものであろう。  Go Back

 
 (3)太郎左衛門
 平尾大炊介頼景の子が太郎左衛門である。ここで、明治の校訂者による突然の[増補]の内容がおもしろい。武蔵の父が何と「太郎左衛門」なのである。太郎左衛門、平田の猶子となり、平田無仁と称して新免氏に出仕し、のち新免無二齋と号す。その子武藏は宮本又は新免を氏とした――と、記してしまうのである。
 この記事は、系図そのものにはなく、しかも東作誌の正木オリジナル原稿にもない、後世の校訂者が記入したものである。この記事のソースは、後に見る平尾氏總領代々書付という文書である。
 ただし東作誌のこの部分は校訂者の[増補]であるが、正木は宮本村之記の方に、
 《或云ふ、平尾五郎左衛門の子・太郎右衛門、宮本村に浪人して宮本無二と號す云々》
と記している。この「或云ふ」が平尾氏總領代々書付のことである。
 ただし代々書付の方はそう書くが、この平尾氏系図にはそんな記事はない。平尾氏總領代々書付は後世作成の仮託文書である。ここではとくに、この平尾氏系図そのものには、無二も武蔵も一切出てこない、ということを重々確認しておく必要がある。この点、注意を喚起しておく。
 ともあれ、明応八年(1499)に鍋谷山で討ち取られて死んだ平尾大炊介頼景の子が、平田無二、後の新免無二斎だというのだから、この明治の校訂者の註記には恐れ入る。
 上に見た如く、明応八年(1499)平尾大炊介を鍋倉山へ追駆けた竹山勢の五人衆の中に、平田無二の名がある。つまり、平田無二は平尾大炊介を仕留める側にいたわけである。新免家記には、別段、平田無二は平尾大炊介の息子だとも記さないから、この解釈には滑稽な無理がある。
 しかも、この註記の説では、平田無二=新免無二斎は武蔵の父。明応八年(1499)にはすでに平田無二は戦場に出ている。ならば武蔵が生れた天正十二年(1584)には、少なくとも百歳以上の高齢、武蔵を生した父とするには年が合わない。
 またもし仮に、太郎左衛門が「宮本無仁」だとした場合も、話は成り立たない。平尾大炊助頼景は、明応八年(1499)に鍋谷山で戦死した。太郎左衛門はその子だから、少なくとも十五世紀中の生れである。したがって、この太郎左衛門を、武蔵父という「宮本無仁」とみなすことはできない。このケースでも、「宮本無仁」は九十歳近くで武蔵を生したことになるからである。美作説に特徴的な、年代に関するこうした杜撰さは、想像を絶するものがある。  Go Back

 
 (4)森家系圖改の時書上の寫
 九郎兵衛の子・七郎左衛門までが、津山城主・森家が系図改めをしたときの書上の写し、つまり平尾氏總領代々書付の写しだということであろう。これは元禄二年(1689)のときの文書であるはずだが、後に見るように根本的な問題がある。
 それにもう一つ、現在下庄村古事帳の写しとして遺っている文書(平尾家文書)では、与右衛門は衣笠九郎次郎の子である。つまり、太郎左衛門の子ではないのである。しかもこの与右衛門、他にも見たように、無仁の妹あるいは娘の子、武蔵の姉孫という種々の異伝がある。いずれにしても、焦点になる人物である。
 この与右衛門は、太郎左衛門の子である。太郎左衛門が武蔵の父なら、与右衛門は武蔵ではないか、などと半畳を入れてはいけない。
 ところが、与右衛門が武蔵であるという珍説は、それほど冗談めいた話ではない。美作説のなかで、こういう説を立てようと思えば立てることができる。それは既存美作説に比して遜色ないものになろう。
 真面目な話に戻れば、この平尾氏系図でも無二や武蔵の名は一切出てこない。それをきちんと念頭においておくべきである。ここで重ねて注意しておく。  Go Back

 
 (5)與右衛門正重
 以下は平尾与右衛門の異伝である。与右衛門は、平尾太郎左衛門の子ではなく、本姓が衣笠氏だというわけである。そこで、衣笠氏に連なる与右衛門の系図を以下に示す。
 衣笠氏は赤松氏の一族別所氏の枝流、赤松円心の弟円光の曾孫持則を祖とするとされる。それがここではどうなるだろうか。  Go Back




*【新免家記】
《明應八年、播щIノ一族・平尾大炊介頼景といふ者、播э繻獅謔闖柏ィを引率し、作ь]甘庄内千原の搆に諸勢引篭り、既に竹山城の透間を伺ひて乗取んとする所に、竹山城より大将新免遠江守、緒田彦四郎ニ二百餘人の勢を引率して発向す。(中略)平尾大炊介ハ元より小勢の一族、不残打死、(中略)鍋谷山に打上りて跡をミれば、平田無二、新免治部左衛門、緒田彦四郎、白岩左近、山田勘左衛門、以上五人平尾追駈るに、川にて我先にと争ひて追駈るによりて、五人の渡るに依て平尾の勢十騎斗鍋谷辟易して扣へざるによりて、竹山勢五六十人一度に鑓を揃へ弓を放ちて叫てかゝる。平尾の勢壱人も不残返し合返し合戦ふて打る。平尾は縣傳八と鑓を合す。互に暫戦ふ所、新免治部左衛門、松ノ木の陰より丁と放つ矢、平尾が首の骨に立て、新免治部左衛門に首を取る。平尾が墓所鍋谷山に有之》













平尾大炊介追討五人衆に
平田無二の名あり
新免家記

 
 (6)元本のままとして疑を在せり
 これは正木の註であろう。赤松播磨守頼範の七代子孫の衣笠豊前守政綱、その子である若狭守政重の妻が、八代前の先祖の娘を妻とするわけにはいかないからである。
 ところが、そもそも「赤松播磨守頼範の七代子孫・端谷城主・衣笠豊前守政綱」という設定じたいがすでに十分怪しいのである。
 端谷城主・衣笠豊前守政綱というのは、右の衣笠氏系図にある衣笠豊前守範弘でなければならない。彼のとき衣笠氏は端谷城主となったのである(端谷城は播磨明石郡の東端、現在は神戸市西区内)。とすれば、赤松播磨守頼範の七代子孫どころではない。もっと末の子孫である。あるいは始祖というなら持則であり、衣笠を名のる最初なら持則の曾孫上野介祐盛となろう。いずれにしても話は合わない。
 ここで衣笠氏の解説が必要だろう。満祐の絡んだ嘉吉の乱で赤松嫡流は滅んだが、のちに政則が赤松氏を再興した。政則は応仁の乱では東軍細川方に属して山名氏を盟主とする西軍と戦った。赤松氏は旧領であった播磨守護職に返り咲いた。持則の曾孫上野介祐盛は政則に仕えて数々の軍功あり、また山名の但馬勢との合戦の時に政則より衣を賜り祐盛はこれを笠印として戦い政則から衣笠姓を賜ったという説話がある。
 ところで赤松氏の実権はやがてその家臣である浦上氏の掌握するところとなり、赤松義村と浦上氏の確執の時期、衣笠範弘は義村腹心の三奉行の一人とされたようである。
 天正五年(1577)秀吉が播磨に入ると赤松一族の多くは帰順したが、翌年三木城の別所長治が秀吉に叛旗を翻し、このとき端谷城主・衣笠範景は別所長治に与して三木城に籠城して、秀吉軍と戦った。天正八年三木城落城とともに範景は戦死したという。
 衣笠氏の本貫地は、もと備前和気郡本庄村衣笠(現・岡山県和気町衣笠)だという。その後、播州に入って揖保郡松山城(現・姫路市林田町松山)に拠点をおき、祐盛の子、範弘の代から明石郡端谷城を築いてそれを根拠地にしたものらしい。
 衣笠氏の居城に関しては平野庸脩の『播磨鑑』に、他にはない十分な記事がある。すなわち、同書揖東郡の松山城の條に、
松山城 林田莊 在松山村
城主ハ衣笠長門守村氏、置鹽ノ幕下也。永正十五年、置鹽ノ執事浦上掃部介村宗、武威ニ募リ反逆ヲ企テ、三ツ石ノ城ニ籠リ、村氏ハ村宗カ聟姪ナル故一味同心シテ置鹽ヲ亡サントス。赤松政村怒ヲナシ、先衣笠ヲ討罰シ軍神ニ祭ラントテ、大將ニハ宍粟作五郎範高、宇野上月伊豆別所都合一千餘騎、同年五月上旬置鹽ヲ打立、松山ノ城ニ押寄、閧ヲ咄ト揚ケレハ、城ノ内ニモマチ設ケタリト云儘ニ我劣ラシト切テ出。置鹽ノ勢一足モ退クコトナク揉立々々透間モナク戰フ故、城ノ兵機モツカレ軍兵多ク討死シ衣笠ハ夜ニ紛レテ行方シレス落タリケリ。
とあって、連合離反著しい戦国期のこと、松山城の衣笠氏が浦上村宗に与して主家赤松義村に反逆して敗北、退転したことを記す。このあたりは、たしか谷崎潤一郎に未完の『乱菊物語』という異色作があったかと思う。また、『播磨鑑』明石郡の端谷城の條には、今度は逆に衣笠氏の赤松忠臣の時期で、
端谷城 竪六十間横五十間 櫨谷庄在寺谷村
城主ハ、衣笠五郎左衛門掾範弘長子同豊前守範景。父ハ、大永年中ニ置鹽赤松、浦上カ爲ニ衰ヘシ時、忠義ヲ盡セシ人也。範景は三木別所の幕下トナリ天正ノ亂ニ忠義ヲ盡シ討死ス
とある。
 端谷の衣笠氏は滅んだが、範景の弟・衣笠久右衛門(因幡守景延)は、のちに黒田二十四騎の一人となって筑前で三千石の知行を食んだという。寛永八年(1631)歿、享年七十九、兄と違って半世紀も長生きしたのである。
 そしてそれと同時に、播州での赤松持貞伝説が持ち込まれ、前述のような持貞以下の系譜が構成されたもののようである。
 ともあれ、東作誌の平尾与右衛門に関して出てくる衣笠氏の系譜は、近隣他村の同じく、天正八年の別所落城とともに播州を退転した衣笠氏の余流であり、古いものであるまい。
 とすれば、与右衛門の実父という衣笠九郎次郎の佐用郡平尾村への登場は、天正八年以後のことであろう。しかるに、他方、与右衛門の生年は、過去帳の歿年享年では永禄元年(1558)、この点疑義があり、ここでも混乱は収拾不能となるところである。 Go Back



*【衣笠氏関連略系図】
 
○頼則―則景―家範―久範┐
┌───────────┘
└茂則┬円心[則村]→赤松嫡流
   |
   │   別所
   └円光―敦光―敦範―持則┐
┌──────────────┘
│      三木城
└持祐┬祐則┬則治─則定─就治→
   │  │
   │  ├則正 安積
   │  │
   │  │利神城
   │  └光則─治光─治定→
   │
   ├祐利―則実 
   │
   └祐定┬祐光 
      │
      └衣笠祐盛─┐
 ┌──────────┘
 │端谷城        
 ├範弘┬範景┬政盛―政由
 │  │  │
 │  └景延└政次―政直
 │
 └範氏―氏綱―氏永―憲泰




衣笠氏関係地図







端谷城址
神戸市西区櫨谷町寺谷



端谷城址の満福寺
境内に衣笠範景公顕彰碑あり
 
 (7)衣笠新助政範
 これもよくわからない人物である。ここまで、赤松播磨守頼範七代孫・播州端谷城主の衣笠豊前守政綱が始祖、その子が衣笠若狭守政重で、それから十一代孫・衣笠五郎左衛門尉政氏となる。むろん、端谷城主は範弘以来のことで、それなら数代のことで、「十一代孫」などありえないわけだが、衣笠政氏の子が衣笠新助政範だという。
 しかし、もし太平山上月城の城主である「政範」とすれば、それは赤松義村の孫・政範しかいない(右掲関係系図参照)。これでは、衣笠氏の系譜に赤松氏が割り込んできた格好で、まさしく系統はもう混乱の極みである。
 置塩城主赤松義村の子・政元が上月城に入ったのは弘治三年(1557)である。上月城赤松氏は政元の子・政範のとき、滅亡の憂き目をみる。その間わずか二代である。
 天正五年(1577)信長の代官として秀吉が播磨に入ると、まずは播磨諸城主の多くは秀吉に帰順した。これには姫路城主小寺(黒田)官兵衛の策謀大いに働いたことのようである。いったん播磨国内の平定をほぼ終り、秀吉は帰って安土城の信長に復命した。
 播磨を手に入れた秀吉は、同年姫路城を発し但馬国を攻略平定したが、播磨では毛利勢なお強く残っていた。とくに西播の拠点上月城主・赤松蔵人大輔政範は西播磨殿と呼ばれ、佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領して十六万石の大きな勢力、秀吉は信長の教書に自分の添書を付け恭順を勧告した。
 一族の評定は意見が割れた。『佐用軍記』によれば、政範は、《近年一家の内、意見区々にして吾今思案もつかず、事ここに至りて毛利に背き信長に下るは本意なく、皆はいざ知らず政範はこの城を枕にしても信長に従へず》と主張し、抗戦へ踏み切る。
 秀吉はまず、竹中半兵衛重治・小寺官兵衛孝隆の三千余騎の軍勢を先鋒として佐用郡に攻め入った。佐用郡には赤松政範の上月城を中心として、佐用に福原藤馬允則尚の福原城、平福に別所太郎左衛門定道の利神城などがあった。
 政範は備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家は弟で政範の妹婿にあたる掃部介広維を大将に、家老の長船久右衛門・岡剛介らに三千の兵をつけてただちに救援に向かわせた。この宇喜多の援軍が入り、激戦となった。
 結局戦いは上月城落城、織田勢の勝利で終った。城主赤松政範は一族家臣とともに自殺して果て、このとき政範に殉じた将は高島右馬介正澄、早瀬帯刀正義、宇喜多掃部介広維、国府寺入道、中村伊勢入道らである。秀吉軍は城内に突入すると敗残兵の首を悉く刎ね、さらに残った城中の女子供を捕え、播備作三国国境で子供は串刺し女は磔にしたという、かなり残虐な話がのこっている。
 しかしその後も上月城は、奪回戦の的になる。上月城を落した秀吉は、この城に毛利の宿敵尼子勝久を入れて引き上げた。宇喜多直家は、家臣真壁彦九郎に命じて上月城を奪回した。尼子の忠臣山中鹿之介がまたこれを奪回し、さらにその後、宇喜田勢は再び大軍をもって上月城を攻めて奪回した。守備は上月十郎景貞である。
 天正六年三月、秀吉は再び佐用郡に入り、二度目の上月合戦となる。上月城は落ち景貞は討死。秀吉は再び尼子を守備に残して引き上げたが、毛利勢は上月城奪回の為に六万の大軍で城を囲み、最新の大砲がここで登場したという。秀吉方はこれに七万五千の兵で対抗し、上月城が織田毛利の大軍が激突する現場となろうとした、まさにこのとき、三木城主・別所長治が叛旗を翻し、信長は三木城攻めを秀吉に命じたため秀吉は撤退し、尼子の守る上月城は援軍なく毛利勢のために落城、尼子勝久も自害し、往時十数ケ国を支配した名門尼子氏も上月城に滅亡…という有様で、天正八年まで帰趨は知れなかった。
 さて、まさに上月城をめぐる戦闘は以上のような経過である。いま、平尾氏系図異伝の上月城主・「衣笠政範」という荒唐無稽な設定をみるとき、これが後世の附会であることは言うまでもない。
 順序として言えば、まず、天正八年の三木落城後、東播磨から佐用郡へ流れてきた衣笠氏の残党があった。彼らは衣笠氏を名のったが、平尾家元祖の民部大夫が上月城近くの平尾村にいたというから、後世いつのまにか、上月合戦の有名な赤松政範が見境なく取り込まれた、ということであろう。とにかく、系図というものは、有名な人物の名を取り込みたがるものである。 Go Back

 
 (8)衣笠與右衛門尉 播州佐用郡平尾村住
 播州上月太平山城主・衣笠新助政範という者の子が、政春とあって、政次嫡子とある。「本のまま」とあるのは正木の註である。政次嫡子とあるのに拘泥してみれば、衣笠正次という人物がある。
 東作誌に、吉野郡石井庄下石井村庄屋として衣笠武右衛門、英田郡英田保南海村庄屋として衣笠忠蔵などの名が出る。この衣笠氏は、範景の子政次が美作に退転して移った後の、その子・衣笠政直以来の家系であるようだ。
 とすれば、ここに出た「政次嫡子」とはその系統のことか。政次の嫡子が政春で、その子が衣笠虎松というのが、ここでの系譜である。
 平尾与右衛門は本姓が衣笠氏、この「衣笠」与右衛門尉政家は、播州佐用郡平尾村に住んでいたという。佐用郡平尾村は、かの平尾民部大夫が流れて住んだ土地である。赤松入道円心三代・平尾民部大夫が、赤松氏没落ののち播州東本郷平尾村に居住して、在所の名を称したと、冒頭にあった。
 いま、この平尾与右衛門が本姓衣笠氏だ、播州佐用郡平尾村に住んでいたという記事に関して言えば、これは与右衛門の異伝である。与右衛門は衣笠九郎次郎の子で、播州平尾村に住んでいた。それで、本姓は衣笠氏だが、平尾与右衛門と名のったというわけである。
 もし平尾与右衛門が本姓衣笠氏だとすれば、東作誌に記事のある吉野郡石井庄下石井村(現・佐用町下石井)の庄屋、衣笠武右衛門らの係累である。
 とすれば、三木別所落城とともに東播磨を退転した衣笠氏の美作での余流であり、決して古い由来ではない。異境で伝説が混淆した結果、前記のような、赤松嫡流に近い上月城主政範を衣笠氏にしてしまうような、荒唐無稽な系図が出来上がったのである。
 これは平尾与右衛門の異伝だが、与右衛門は衣笠氏だということで、衣笠九郎次郎の子だという下庄村古事帳の記事に沿うものだということ。しかしながら、この衣笠氏系図では、与右衛門の父は、衣笠虎松とあり、これが衣笠九郎次郎かというと、それは判然としない。つまり、
    衣笠虎松 → 与右衛門政家
    衣笠九郎次郎 → 与右衛門正重
この二つの父子系列を同一視できるか、ということである。衣笠九郎次が播州平尾村の者だという説が後に出るが、それは与右衛門政家を播州平尾村住とするこの系図によるものである。ただ、それも、衣笠虎松と衣笠九郎次を同一視できるという条件が必要になるが。
 ともあれ、もう一つ注意したいのは、以上の衣笠氏系図には、無二も武蔵も出てこないということだ。つまり、平尾氏系図から無二と武蔵の痕跡を見い出すことはできないと同じく、衣笠氏系図でも無二と武蔵の痕跡は存在しない。
 したがって、近代の武蔵研究の中で長く語られ続けた、武蔵の先祖は衣笠氏だという説は、少なくともこの東作誌が採取した段階では存在せず、ようするに、明治以後の憶測の産物なのである。   Go Back



*【上月城関係系図】

○赤松円心[則村]―則祐┐
 ┌─────────┘
 ├義房┬満祐―教康
 │  │
 ├義則├祐尚―則尚
 │  │
 ├満則├義雅―性存┐
 │  │     │
 └義祐└祐之   │
┌─────────┘
置塩城
└政則┬義村┬晴政―義祐―則房
   │  │
   │  │上月城
   │  ├政元┬正満―正澄
   │  │  │
   │  │  ├政範 戦死
   │  │  │
   │  │  ├政直 戦死
   │  │  │
   │  │  └政茂 戦死
   │  │
   │  └正澄―正友
   │龍野城
   └村秀―政秀┬広貞
         │
         └広秀






播磨美作国境地帯



上月城址
兵庫県佐用町上月













*【衣笠氏略系図】

 衣笠 端谷城
○祐盛┬範弘┬範景┬政盛―政由
   │  │  │
   │  └景延└政次―政直
   │
   └範氏―氏綱―氏永―憲泰




播磨美作国境



佐用郡平尾村 天保国絵図

 
  2 平尾氏總領代々書付
【原 文】

 平尾家相傳古書類寫

   平尾與右衛門子
    女  衣笠助左衛門妻
    男子 平尾九郎兵衛
    女  新免九右衛門妻 


  平尾氏總領代々書付(1)

赤松圓心三代平尾民部大夫。此人、赤松没落後、播州東本郷平尾村に浪人、在名を名乗り、平尾民部大夫と云ふ。其以後作州小原古町村の内庄田と申所に住居、英多吉野を領す(2)。其子五郎左衛門、其子五郎左衛門、其子太郎右衛門と申、此時に下町竹山城の新免伊賀守領分成に付、以後宮本へ浪人仕居侯、故在名を以て宮本無仁と申候(3)。其子武藏と申、此親子共に望有之に付、武藏姉と衣笠九郎次と妻合、家を繼し、其子與右衛門と申(4)、其子九郎兵衛、其子七郎左衛門、其子九郎兵衛、其子九郎兵衛、其子與右衛門、其子十右衛門。(5)
 前畧 九郎兵衛新宅仕居申候所へ、中将樣御初入[[増補]忠政侯初入は、慶長八年癸卯二月六日也]の時丹波路へ御通り被爲遊順路にて、下之庄村九郎兵衛方に御晝休被遊、御目見申上、其節忠政樣御判御書等頂載仕候處、二十年以前[寛文十年]七郎兵衛、不斗火難にて燒失仕候。(6)
[増補] 忠政侯、此時平尾九郎兵衛方に御晝休せらる、一本に次郎兵衛に作るは非なり。侯よリ九郎兵衛に刀一腰を賜へり。或は云ふ、此時一宿せりと。(7)
 右之七郎左衛門先祖與右衛門、少之内播州平尾村と申所に住居。 中畧 其後、九郎兵衛宮本搆に居(8)、其時七十年前[元和六年なり]天下御普請に、御郡中人足百二十計召連大坂へ罷出、御普請成就之砌、爲御褒美忠政公より鳥目拾貫文被下之候。七郎左衛門代廣光[本のまゝ。行光か]の刀・大進坊くりから切物所持仕、關民部様御尋に付、差上申候。其刻米九石被下之置候。(9)
一 當村仁右衛門兄七郎左衛門、唯今は影石村に居申候。此もの當村に住居、大庄屋仕候節、觸内の者盗賊捕へ申候處、其盗人他國者にて及難儀、其節七郎左衛門因州へ召連参、右の盗人相渡し、首尾能く仕舞候砌、爲御褒美銀三枚被下置、内記樣より右之筋目の者代々 殿樣の御目見仕來、近年二十年計其儀無御座候。(10) 以上
               宮本村
 元祿二己卯月四日     庄屋
                    甚右衛門
  長根村大庄屋
         又兵衛殿

以上家傳古書のまゝ是を擧く。
平尾與右衛門事跡、新免家記に見ゆ。可併見。(11)
輝雄云、平尾・衣笠・宮本・平田等、系譜混沌として甚だ分ち難しとす。猶可考合。(12)

【現代語訳】

 平尾家相伝の古書類の写し

   平尾與右衛門の子
     女子 衣笠助左衛門の妻
     男子 平尾九郎兵衛
     女子 新免九右衛門の妻

  平尾氏總領代々書付

赤松円心の三代、平尾民部大夫。この人、赤松氏没落後、播州東本郷平尾村に浪人して、在所名を名のり、平尾民部大夫という。それ以後、作州小原古町村の内庄田と申所に住居し、英多・吉野〔の二郡〕を領した。その子・五郎左衛門、その子・五郎左衛門、その子・太郎右衛門と申し、この時に〔所領が〕下町竹山城の新免伊賀守の領分になったため、以後宮本へ浪人して住みましたので、在所名をもって「宮本無仁」と申しました。その子を武蔵と申し、この親子共に〔出世の〕望みがあったため、武蔵の姉と衣笠九郎次と結婚させて家を継がせ、その子は與右衛門と申し、その子・九郎兵衛、その子・七郎左衛門、その子・九郎兵衛、その子・九郎兵衛、その子・與右衛門、その子・十右衛門。
 前略 九郎兵衛が新宅しておりましたところに、中将様(森忠政)が初めてお国入り[[増補]忠政侯の初入は、慶長八年二月六日である]の時、丹波路をお通りあそばされる順路で、下之庄村の九郎兵衛方でお昼休みをなさり、〔九郎兵衛は〕御目見申し上げ、その節、忠政様から御判御書等を頂載しました。ところが、二十年以前[寛文十年]七郎兵衛が、(中将様からの頂戴物を)はからずも火事で焼失してしまいました。
[増補] 忠政侯がこの時お昼休みをされたのは平尾九郎兵衛方であって、ある書に次郎兵衛とするのは間違いである。〔忠政〕侯よリ九郎兵衛に刀一腰を賜ったのである。あるいは、この時〔昼休みではなく〕一泊したのだとも云う。
一 右の七郎左衛門の先祖・與右衛門は、幼いうちは播州平尾村という所に住居し、中略 その後、九郎兵衛は宮本搆に居り、その時、七十年前[元和六年である]天下御普請のさいに、郡中の人足を百二十人ばかり召し連れて大坂へまかり出まして、御普請が完成したとき、御褒美なされ忠政公より鳥目十貫文を下されました。七郎左衛門の代に、広光[本のまゝ。行光か]の刀・大進坊くりから切物を所持しておりました。関民部様が〔その所持物を〕お尋ねになったので差し上げました。そのとき、米九石を下しおかれました。
一 当村の仁右衛門の兄・七郎左衛門は、ただ今は影石村に居ります。この者が当村に住居し大庄屋をしておりましたとき、領内の者が盗賊を捕えましたところ、その盗人が他国者で難しいことになってしまいました。そのとき七郎左衛門が因州〔現・鳥取県東部〕へ召し連れてまいり、右の盗人を〔先方に〕渡し、首尾よく始末しました。そのとき、御褒美なされ銀3枚を下しおかれ、内記様〔の代〕より、右の〔七郎左衛門の〕筋目の者は、代々、殿様の御目見をしてきましたが、近年二十年ばかり、そのことがないのでございます。以上
                     宮本村
  元祿二年(1689)四月四日      庄屋
                           甚右衛門
   長根村大庄屋
         又兵衛殿

以上、〔平尾家〕家伝古書のままを挙げた。
 平尾與右衛門の事跡は、新免家記に見える。併せて見るべし。
 輝雄云う(正木の評言)。平尾・衣笠・宮本・平田等、系譜は混沌として、はなはだ理解しにくいものである。なお考合すべきである。

 
  【評 注】

 (1)平尾家相傳古書類寫
 平尾家相伝の古書類の写しというわけで、東作誌の正木輝雄が書写したものである。
 最初に来るのは、平尾与右衛門の家族である。つまり、平尾家の実際の元祖は、この与右衛門なのである。
 与右衛門の子は、長女が衣笠助左衛門妻、男子は一人で、平尾九郎兵衛。二女は新免九右衛門妻とある。このうち息子の平尾九郎兵衛は、すでに古事帳文書でも話に出た人物である。長女が衣笠助左衛門妻とあるが、この衣笠助左衛門というのは、近隣の石井村他に衣笠氏があるからその内の一人であろう。二女は新免九右衛門妻とある。これは不詳である。男子の九郎兵衛は、川上村の新免喜左衛門貞次の娘を妻にしているから、川上村新免氏の一人かもしれない。
 ともあれ、この平尾家に関して、元祖与右衛門以前は言わば神話時代である。そして平尾家の起源神話に登場するのが宮本武蔵なのである。
 東作誌の正木輝雄の関心は、平尾家が宮本武蔵に関係があるという点にあり、そんな伝承を有するこの平尾家の史料を漁渉したというわけである。
 そのとき正木は、まさに彼にとって素晴らしい史料を発見した。それが平尾氏總領代々書付という以下の文書であった。  Go Back

 
 (2)赤松圓心三代平尾民部大夫
 赤松円心の三代、平尾民部大夫である。この人、赤松氏没落後、播州東本郷平尾村に浪人して、在所名を名のり、平尾民部大夫という。それ以後、作州小原古町村の内庄田と申所に住居し、英多・吉野〔の二郡〕を領したとある。平尾氏系図は、この書上文書を引き写して作成されたものである。
 すでに前掲平尾氏系図の検証過程で見た通り、この平尾民部大夫という人物が不明である。過去帳に対応する人物のない存在である。
 赤松没落後というのはいつを指しているのか不明だが、通例この表現が使用されるのは、赤松満祐の将軍義教弑逆から発する嘉吉の乱で敗北し赤松宗家が没落した事件(嘉吉元年・1441)に対してである。したがってこれは赤松円心三代より後のことである。
 すでに述べたように、ありそうなことは、この平尾民部大夫は、平尾小原両氏の祖らしい平尾治部太夫安親の変形であり、また両者のモデルを提供したらしいのは、まさしく赤松持貞伝説のようである。
 平尾民部大夫が住んだという播州平尾村に関しては、ここでは平尾民部大夫と平尾与右衛門の間の反復がありそうである。それは与右衛門が先祖の民部大夫を反復するのではなく、民部大夫が与右衛門を反復するのである。こうした逆向きの反復こそ遡及的構成の形式なのである。
 民部大夫はその後、播州平尾村から作州小原古町村の内庄田という所に移り住み、英多・吉野の二郡を領したという。これも平尾民部大夫が確定できないので、いつの頃のことか不明である。とにかく、先祖の平尾民部大夫は、古町に居て、英多・吉野の二郡を領したという伝説が、平尾家にあったとしか分からない。  Go Back

 
 (3)宮本無仁と申候
 これは平尾氏系図のところで見たが、東作誌の校訂者がこの書上から引用した部分である。よく見てみよう。
 平尾民部大夫は古町村の庄田に住んで英多・吉野の二郡を領したが、
   平尾民部大夫→五郎左衛門→五郎左衛門→太郎右衛門
ときて、平尾民部大夫の曾孫のこの太郎右衛門の時に、所領が竹山城の新免伊賀守の領分になったため、以後宮本へ浪人して住んだというのだが、これは竹山城の新免伊賀守が支配する以前、つまり「前新免期」に平尾=小原氏は小原城を拠点としてこの二郡を支配していたと云うもののようである。むろん、「前新免期」にこの二郡を平尾=小原氏が支配したという史実はどこにもない。
 そして、平尾民部大夫の曾孫の太郎右衛門のとき、新免伊賀守のために領地を失って退転し、浪人して宮本に住むようになった。この太郎右衛門が、在名から「宮本無仁」と称するようになった――そう云うのである。
 かくして、平尾家の系図過去帳には存在しない「宮本無仁」が登場するのである。これをどう理解すればいいのか。
 そこで、平尾家の過去帳と系図を、そしてもう一つの近縁系図、つまり小原氏系図とを並べて見てみよう。



平尾氏過去帳 平尾氏系図 補正小原氏系図
 小原孫次郎安則
    1409〜1496 88才
 小原與茂太郎安定
    1471〜1528 58才
 小原五郎左衛門安房
    1529〜1595 67才
 平尾五郎左衛門安春
    1555〜1572 18才
 (赤松左兵衛通高
    1568〜1600 33才)
 宮本與右衛門正重
    1558〜1624 67才
○平尾民部大夫───────┐
┌─────────────┘
├平尾五郎左衛門尉─────┐
└平尾新四郎        │
┌─────────────┘
├平尾五郎大夫───────┐
└平尾大炊介頼景──────┐
┌─────────────┘
太郎左衛門────────┐
└彌十郎          │
┌─────────────┘
└與右衛門正重─→(以下略)
○小原孫次郎安則──────┐
┌─────────────┘
└小原與茂太郎安定――?──┐
┌─────────────┘
└小原五郎左衛門安房────┐
┌─────────────┘

├平尾五郎左衛門安春────┐
│             │
└平尾太郎右衛門安秋    │
┌─────────────┘
└平尾五郎左衛門安宗
 我々がすでに見たように、平尾氏過去帳は小原氏過去帳とほぼ一致し、また小原氏系図も、適切な補正を行えば小原平尾両氏の過去帳ともかなり一致する。ところが、東作誌所収の上掲の平尾氏系図は、過去帳と一致しないのである。
 つまり、系図元祖の平尾民部大夫は平尾「治部」太夫で代替可能だとしても、最大の問題は、平尾氏系図において肝腎な「太郎左衛門」が過去帳に存在しないことである。
 ここから、小原氏系図の平尾五郎左衛門安春の弟らしい太郎右衛門安秋に注目すれば、実はこれが平尾氏系図の太郎左衛門ではないかという見当がつく。ところがこの安秋も、系図のみにあって過去帳にはない人なのである。
 東作誌所収平尾氏系図の、平尾大炊介頼景→太郎左衛門を、福原浄泉のように平尾五郎大夫→太郎右衛門と修正してみても事情はあまり変らない。小原系図や平尾小原両氏の過去帳にあるのは五郎左衛門という襲名であって、「五郎」左衛門が「太郎」左衛門にすり替わり、さらに太郎「左衛門」が太郎「右衛門」にとって替わったすれば、懸隔は大きくなるばかりである。この系図そのものが、
    平尾民部大夫→五郎左衛門→五郎左衛門→太郎右衛門
という平尾氏總領代々書付にまだ十分依拠していないのである。そしてもちろん、「太郎右衛門」なる者が「宮本無仁」を名のったことなど、この系図はまだ知らないのである。
 とすれば、以上のことから何が想定できるだろうか。
 まず第一に、東作誌所収平尾氏系図は、五郎左衛門という襲名が忘れられた段階での制作物だということである。それは少なくとも小原氏系図では、きちんと反復されている襲名である。
 さらに第二に、平尾氏總領代々書付は他の古事帳文書と同じ元禄二年の日付を記しているが、これはかなり後世の作成物だということである。おそらく正木が写した平尾氏系図は、この書上文書以前のものであろう。これが「五郎」左衛門を「太郎」左衛門に誤伝した段階であろう。
 したがって、ここまで参照してきた諸資料を――伝写時期ではなく――内容の点から、古い順に並べると、
    (1)小原・平尾両氏過去帳
    (2)小原氏系図
    (3)東作誌所収平尾氏系図
    (4)平尾氏總領代々書付
 この順序を念頭におけば、錯綜した史料間の諸関係はひとまず整理できる。すなわち、つまり、太郎右衛門が宮本無仁と名のったとする平尾氏總領代々書付という文書がなければ、平尾氏系図の方はまったく無二・武蔵とは関係がないわけだ。ましてや平尾小原両氏過去帳においては、それを言うまでもない。
 これに対し、すでに見たように平田系図の方は「平田武仁」、そしてご丁寧に後世の附会を露呈する「平田武蔵掾二天」という名を有するのである。これは現存系図の「宮本武蔵政名」という改竄より以前を記録しているという点では貴重なものだが、他方、地元伝承というよりも、明らかに当時の「後智恵」が入った名称である。
 ここで注意すべきは、この両者が武蔵死後百七十年、文化年間の書物・東作誌が収録した系図だということである。
 この段階では、平尾氏は無二・武蔵の名を取り込んだ系図をもたず、また他方、平田氏は「平田武蔵掾二天」という名を入れた系図を正木輝雄に提示したということである。
*【東作誌所収平田氏系図】

菅原姓系図
○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁──平田武藏掾二天

└平田武輔─────────┐
┌─────────────┘
├平田次郎左衛門
│ 宮本屋敷に住す。子孫多し
└平田次郎大夫
  子孫多し。下町村平田の祖


 平尾氏總領代々書付に戻れば、平尾民部大夫の曾孫の太郎右衛門のとき、新免伊賀守のために領地を失って退転し、浪人して宮本に住むようになった。この太郎右衛門が、在名から「宮本無仁」と称するようになった、という話であった。
 この「新免伊賀守」は、新免家記によれば、小原城主・宇野家貞の養子になり、後に竹山城主となった新免伊賀守貞重(1471〜1523)のことであろう。新免貞重が小原城から竹山城へ居城を移すのは、明応元年(1492)のことである。
 したがって、平尾太郎右衛門が、竹山城主・新免伊賀守に所領を逐われて浪人した、というが、時代が合わないのである。それに、新免家記によれば、この地域をまず支配したのは、新免貞重の舅、小原城主の宇野家貞である。太郎右衛門の所領退転があったとすれば、それは、竹山城主・新免伊賀守の代ではなく、もっと以前ということになるのである。
 平尾氏ということでは、新免家記に、明応八年(1499)平尾大炊助頼景という者が、播州上月から当地に侵略してきたのを、竹山勢が撃退したという記事を見るていどである。このケースでは、平尾氏は所領を逐われたのではなく、逆に播磨からの侵略者なのである。
 このとき、竹山勢が平尾大炊助頼景を鍋谷山に追いつめて首をとったのだが、その竹山勢の中に、平田無二の名がみえることは既述の通りである。新免家記では、平田無二は百年にわたり合戦に出陣している人物だが、この明応八年(1499)平尾大炊助頼景との合戦にも登場する。
 この平田無二を、平田氏系図の平田武仁と同一視する頓珍漢も居るまいと思うが、さにあらず、これが武蔵父の武仁だという僻説が、いまだに反復されている。
 ともあれ、平尾氏總領代々書付の平尾太郎右衛門は、竹山城主・新免伊賀守に所領を逐われて浪人したというのだが、平尾太郎右衛門が「前新免時代」の領主だったとするあたり、時代の混乱がある。ところが、この太郎左衛門、宮本村へ浪去して「宮本無仁」と名のったというわけだから、年代の混乱はますます嵩じて、ただ呆れるばかりである。
 他方、これとは異なる系譜を有するのが、前掲東作誌所収の平尾氏系図である。それによると、平尾大炊助頼景の子が、太郎右衛門ではなく太郎左衛門という名の者である。平尾大炊助頼景は、明応八年(1499)に鍋谷山で戦死した。太郎左衛門はその子だから、少なくとも十五世紀中の生れである。したがって、前に見たように東作誌の校訂者が、この太郎左衛門を武蔵父するのは誤りである。このケースでも、太郎左衛門は九十歳近くで武蔵を生したことになるからである。
 もとより、平尾氏系図には、「宮本無仁」は登場しない。平尾氏總領代々書付のこの「平尾太郎右衛門=宮本無仁」なる存在は、後世の解釈の産物である。それは古事帳記載の「宮本無仁」より新しい設定であり、伝説は新解釈を繰り入れて改訂され、変異していくのである。  Go Back
*【東作誌所収平尾氏系図】

○平尾民部大夫───────┐
┌─────────────┘
├平尾五郎左衛門尉─────┐
|             |
└平尾新四郎        │
┌─────────────┘
├平尾五郎大夫───────┐

└平尾大炊介頼景──────┐
┌─────────────┘
├太郎左衛門────────┐
|             |
└彌十郎          │
┌─────────────┘
└與右衛門正重─九郎兵衛─→

 
 (4)其子武藏と申、此親子共に望有之に付
 このあたりから話はますます恠しくなってくる。宮本無仁と名のった太郎右衛門の子を武蔵といい、この親子ともに出世を望んだので、出郷するにあたって、武蔵の姉と衣笠九郎次という者を結婚させて家を継がせた。この武蔵の姉の子、つまり武蔵の甥は与右衛門で…という次第である。
 これはまさしく後世の附会たることを露呈するものであろう。したがって、これをその原型である古事帳文書と対照すれば、とくにこの部分が後世附会されたものだとわかる。以下に示すように、下庄村古事帳(平尾家文書)には、そんなことは一言も書かれていない。

        写し覚
 
一、下庄村宮本在家中ニ、搆屋敷跡御座候。三拾間四方ニ見へ申候。古宮本無仁住居仕候。搆石垣ハ天草一亂之時分、 御公儀御意ニテ取崩申候。則、無二筋目当所ニ御座候。書上ケ申候。
 
        無仁子
一、宮本無仁  宮本武蔵
 
 衣笠九郎次郎妻 九郎次郎子   与右衛門子
  無仁妹    宮元与右衛門  同九郎兵衛┐
 ┌――――――――――――――――――――┘
 │九郎兵衝子    七郎左衛門子
 └ 七郎左衛門――┬七郎左衛門
          │
          └仁右衛門

というわけで、下庄村宮本の在家中に搆屋敷跡があって、むかし宮本無仁がそこに住んでいたということだけである。太郎右衛門が宮本無仁を名のったとか、親子で望みがあったので、武蔵の姉を結婚させて家を継がせたなどという余計な話はない。
 まさしくここでは、衣笠九郎次郎の妻は、武蔵の姉ではなく、無仁の妹と明記されているのである。下庄村古事帳では無仁の妹だったのが、平尾氏總領代々書付では、無仁の娘になってしまっているわけだ。オリジナルが古事帳なら、總領代々書付には明らかに改竄が認められる。
 これは、宮本村古事帳の筋目をみれば、それが知れる。そこでは、与右衛門は武蔵の姉孫であった。かくして、平尾氏總領代々書付では、古事帳の「姉孫」を「姉の子」に改竄したものとみえる。
 こういう改竄が生じる要因は、武蔵を当地に実在せしめるには、「無仁」の妹よりも「武蔵」の姉とした方が話としてインパクトがあるからだ。かくしてこの伝説の「姉」は、武蔵の実在化のために現れるのである。
 すでに宮本村之記において見たように、東作誌では、この「無仁筋目」部分の系譜は、与右衛門の母を無仁の「妹」から「娘」へと改竄されたものを「古事御改書上寫」としているのである。
 しかし、さらに問題があるではないか。それは、明敏な読者ならもう気づかれているように、この無仁の筋目の最初の人として出てくる与右衛門のことである。
 この与右衛門が、先に示した平尾家過去帳の「宮本與右衛門正重」であるなら、その生年歿年はわかっている。彼の没年は寛永元年(1624)で六十七才、それゆえ生年は永禄元年(1558)であった。
 ところで、武蔵の生年は天正十二年(1584)である。与右衛門の生年は永禄元年(1558)。したがって、与右衛門は武蔵よりも二十六歳年上なのである。武蔵の姉の子というには年長すぎる。
 したがって、与右衛門を無仁の妹の子とする古事帳文書の方が無理はないのだが、總領代々書付の方は「武蔵」をクローズアップするために、そういう諸条件をすでに忘れている。つまり後代の誤伝口碑を文字にしたものであろう。
 他方、川上村・宮本村の両平田系図とも、平田武仁正家の一女を「平尾与右衛門に嫁す」とする。となると、平尾与右衛門は宮本無仁の孫(娘の子)であり、平田武仁の娘婿である。このあたり妹・娘の混同がありそうな話である。ところがこの混同がポジティヴな意味をもたらすのは、「無仁」の妹よりも「武蔵」の姉とした方が、武蔵末孫伝説の構成要素になしうるからである。
 しかるに、近代の武蔵産地美作説は、宮本無仁と平田武仁を同一視する。すると、平尾与右衛門は宮本無仁の孫(娘の子)であり、平田武仁の娘婿であるのだから、宮本無仁=平田武仁とすれば、平尾与右衛門は、叔母を妻にしたことになる。また、もしこの女性二人を同一人とすれば、与右衛門は自分の母を妻にしたことになってしまう。
 これは何れもありえぬことで、ようするに、宮本無仁=平田武仁という等号は成立しない。その等置を却下するのが、この平尾与右衛門という存在である。そもそも平尾氏と平田氏の伝説には矛盾がある。どちらも、後世の生成してきた伝説であるからだ。
 平田氏系図はもっとも後発のもので、矛盾を生じるのは当然だが、以上の諸点から言えば、与右衛門の母が宮本無仁の娘だという平尾家總領代々書付もまた、古事帳文書よりも後世の改竄である。言い換えれば、宮本村庄屋甚右衛門から長根村大庄屋又兵衛へ提出したという、この元祿二年(1689)卯月四日付の文書は、矛盾の辻褄を合わせたもので、明らかに後世の改竄を含む文書なのである。  Go Back

 
 (5)其子九郎兵衛、其子七郎左衛門、其子九郎兵衛…
 平尾家の家系連鎖の記述である。随分あとの世代まで書いてあるのは、申すまでもない。注意深い読者ならすでにお気づきであろうが、ちょっと後まで書きすぎではないか、という問題がある。
 実はこれによって、元禄二年(1689)の文書だというこの平尾氏總領代々書付の実際の年代が知れるのである。前に、十九世紀の正木輝雄が採取した平尾氏系図が出ていたので、それと対照させてみよう。

平尾氏總領代々書付 平尾氏系図
與右衛門
其子九郎兵衛
其子七郎左衛門
與右衛門正重 元和六年(1622)歿
九郎兵衛景貞 明暦二年(1656)歿
七郎左衛門忠宣 歿年?
其子九郎兵衛
其子九郎兵衛
其子與右衛門

其子十右衛門
九郎兵衛 宝永三年(1706)歿
九郎兵衛 元文四年(1739)歿
次右衛門 享保六年(1721)歿
(一説に與右衛門)
重右衛門 享保十二年(1727)歿

 こうして見ると、両者には対応性がある。しかし、対応性があるから、前後世代に顕著な開きがあることが知れる。
 第一のグループ、与右衛門から九郎兵衛、七郎左衛門まで。以上は森家による系図改めの時の書上の写しである、と平尾氏系図に記すところである。
 次に、第二のグループは、それ以後の子孫であるが、ごらんのように、歿年は、宝永、享保から元文にまでわたっている。それゆえ、元祿二年(1689)提出のはずの平尾氏總領代々書付に、どうしてこんな世代の子孫まで書いているか、ということである。
 すくなくとも、正木が写した平尾氏總領代々書付は、提出が「元祿二年」とありながら、実際にはこうした後代の「増補」があったものなのである。時期は十八世紀半ばである。したがって、我々はそれを念頭においてこれを読まねばならない。  Go Back






宮本無仁・宮元武蔵・無二妹
下庄村古事帳写



*【下庄村古事帳による筋目】

宮本無仁――宮本武蔵

└ 無仁妹
   │
   ├与右衛門正重―九郎兵衛
   │
 衣笠九郎次郎


*【宮本村古事帳による筋目】

○宮本武仁┬姉―(姉の子)┐
     |       |
     └宮本武蔵   |
 ┌―――――――――――┘
 |姉孫
 └与右衛門┬九郎兵衛
      |
      ├七郎左衛門
      |
      └仁右衛門





武蔵姉の子孫平尾家
岡山県美作市宮本




*【平尾平田両氏関係図】

○平尾太郎右衛門
    宮本無仁―┐
 ┌―――――――┘
 ├宮本武蔵
 │
 └武蔵姉
   ├―平尾与右衛門―九郎兵衛
 衣笠九郎次   │
         │
平田武仁正家┬ 女子
       │
       └宮本武蔵政名 
 
 (6)九郎兵衛新宅仕居申候所へ
 ここで「中将様」というのは、美作津山城主初代の森忠政(1570〜1634)である。津山城とその城下町の建設は彼の行った事業であった。
 この森忠政が慶長八年(1603)はじめて入部するとき、丹波路から美作に入るコースだったその途中この下庄村に寄って昼の休憩した。そのときの九郎兵衛の新築の家が使われた。同時に九郎兵衛は新君主森忠政御目見えという栄誉を受け記念の品を下賜された。――というのは、すでに見たように古事帳にある記事である。
 森忠政は津山藩の伝説的始祖なので、これは九郎兵衛一代の名誉であるばかりではなく、末代までの誉れとなったものらしく、それが村の古事、家の歴史として繰り返し主張されたのである。
 平尾家はこの九郎兵衛の代に、商売が成功したのか急に富貴になったらしい。彼はいわゆる「やり手」の事業家だったようである。かくして森忠政美作入部のときに、九郎兵衛はすでに事業家として成功していたし、新しい君主を迎えるほどの豪邸を新築しえたとすれば、慶長八年(1603)には、それなりの年齢でなければならない。
 森忠政が慶長八年(1603)はじめて美作入国したとき、九郎兵衛宅で昼休みをとったという事蹟に関して言えば、このイヴェントでは、父与右衛門ではなく九郎兵衛がホスト役である。したがって平尾家はこの時期までに代替わりしていたのである。与右衛門は寛永元年(1624)で六十七歳歿とすれば、慶長八年には四十六歳、もう隠退して九郎兵衛に家督を譲っていたものであろう。
 ところで、そうすると、前述の年齢問題がある。
 すなわち、もし無仁が、家を継がせるために衣笠九郎次を娘の聟にしたのなら、その子・与右衛門は武蔵の甥である。先に見たように、平尾家過去帳の歿年齢によって逆算して与右衛門正重の生年は永禄元年(1558)である。武蔵の生年は天正十二年(1584)である。したがって、与右衛門は武蔵よりも二十六歳年上なのである。武蔵の姉の子というには年長すぎる。与右衛門どころか、その息子の九郎兵衛(武蔵の姉孫)も武蔵より年長の可能性がある。
 東作誌の平尾氏系図では「與右衛門正重 元和六年七月二十日死」とあって、歿年は元和六年(1620)である。すこし食い違いがある。ちなみに九郎兵衛の方も確かめると、東作誌の平尾氏系図では「九郎兵衛景貞」は明暦二年(1656)歿であって、福原の示した現存平尾氏系図の寛文元年(1661)歿よりこれも五年早い。
 しかし、こうした誤差を考慮しても、与右衛門どころか九郎兵衛も武蔵より年長の可能性があるという事実は残る。それは、慶長八年中将様御国初入りというイヴェントのホストを勤めたのが九郎兵衛だったということには相応するが、一方、衣笠九郎次を無仁女婿とする設定にはこの点でも無理があるわけだ。
 したがって、九郎兵衛が武蔵姉孫なら、慶長八年中将様御国初入りには間に合わず、その中将様御国初入りに遭遇とならば、武蔵姉孫ではありえない。平尾氏總領代々書付の記者は、その点の矛盾は放置したままである。
 けれども、九郎兵衛が武蔵姉孫でありえないとすれば、父与右衛門も武蔵姉の子ではありえず、それでは、宮本武蔵から家を継いだという平尾氏起源伝説そのものが、崩壊してしまうのである。ここは追求を避けて、さわらぬ神に祟りなしということで、頬かむりである。
 なお、森忠政美作入部のとき九郎兵衛宅で休憩があり、九郎兵衛は御目見、忠政から御判御書等を頂載したが、二十年以前(寛文十年・1670)七郎左衛門の代に、火事で焼失してしまったという。九郎兵衛の代に、武蔵の遺品を焼失するし、七郎左衛門の代には忠政からの御判書を焼失する。よくよく喪失の家系なのである。  Go Back



*【森家略系図】

○森可成┬可隆
    |
    ├長可 長久手合戦戦死
    |
    ├長定 蘭丸 本能寺戦死
    |
    ├長隆 坊丸 本能寺戦死
    |
    ├長氏 力丸 本能寺戦死
    |
    └忠政=長継―長武=長成




森忠政坐像
岡山県津山市 鶴山公園



*【平尾氏代々書付による筋目】

○平尾太郎右衛門
    宮本無仁―┐
 ┌―――――――┘
 ├宮本武蔵
 │
 └武蔵姉
   ├――平尾与右衛門┐
 衣笠九郎次      │
 ┌――――――――――┘
 └九郎兵衛―七郎左衛門┐
 ┌――――――――――┘
 └九郎兵衛―九郎兵衛―┐
 ┌――――――――――┘
 └与右衛門―十右衛門
   次右衛門 重右衛門
 
 (7)次郎兵衛に作るは非なり
 これは校訂者による記述である。「忠政侯、此時平尾九郎兵衛方に御晝休せらる、一本に次郎兵衛に作るは非なり」とある「一本」とはおそらく校訂者が見た平田氏系図のことであろう。現存平田系図では、
  (川上村平田系図)
    正常五代孫
    光清 幼名小十郎 平田次郎兵衛
      森美作守中将殿津山へ入國ノ節御宿
  (宮本村平田系図)
    平田次郎兵衛 小十郎
      森美作守中将御泊御太刀拝領
とある。この「正常」は、宮本武仁正家の弟・宮本武助正常のことである。前に見たように平田氏系では武助の子孫が相続するのである。以下に、両平田系図および平尾氏系図の当該部分を示せば、



川上村平田系図 宮本村平田系図 平尾氏系図
○平田将監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁正家─宮本武蔵政名 

└宮本武助正常───────┐
┌─────────────┘
└平田六郎左ヱ門──────┐
┌─────────────┘
└平田次郎太夫───────┐
┌─────────────┘
平田次郎兵衛
  森美作守中将御泊御太刀拝領
○平田将監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁正家─宮本武蔵政名 

└宮本武助正常───────┐
┌─────────────┘
│正常五代孫         
├光清 幼名小十郎 平田次郎兵衛
│ 森美作守中将殿津山へ入國
│ ノ節御宿         
└光将 平田與左右衛門
    下町平田氏ノ祖也
○平尾民部大夫─五郎左衛門尉┐
┌─────────────┘
├平尾五郎大夫───────┐
└平尾大炊介頼景──────┐
┌─────────────┘
└太郎左衛門――與右衛門正重┐
┌─────────────┘
└景貞 九郎兵衛
  慶長八年二月森右近太夫忠
  政公津山初入国之時景貞宅
  御昼休御懇命賜書
 したがって、平田平尾両氏で中将様御宿の名誉を争奪しているわけだ。校訂者の[増補]は平田氏の伝承を却下しており、平尾氏の九郎兵衛説に加担している。古事帳では与右衛門の子・九郎兵衛のこととするから、そう解釈したものであろう。
 しかし、《侯よリ九郎兵衛に刀一腰を賜へり。或は云ふ、此時一宿せりと》というのは、平田氏系図の記事である。この異伝のあることから、中将様御宿の伝説的一件は早期に恠しくなったのであろう。
 また同じ平田氏系図でさえ「次郎兵衛」が武助の曾孫であったり五代子孫であったりして、彼の系図中のポジションが異なるから、平田氏サイドのこの異伝は後世の伝説分岐であろう。  Go Back

 
 (8)九郎兵衛宮本搆に
 七郎左衛門の先祖・与右衛門は、幼いうちは播州平尾村という所に住居し(中略) その後、九郎兵衛は宮本搆に居り…という記事である。このあたりもよく判らないところである。この「中略」は何であろうか。
 まず与右衛門は幼いころ播州平尾村という所に住居していたというのは、衣笠九郎次の子だという話と関連するかもしれない。前掲、東作誌所収の別系衣笠氏系譜では、
  《政家 衣笠與右衛門尉 播州佐用郡平尾村住》
とあるからである。与右衛門は、この衣笠氏がいた平尾村で育ったということだろう。すでに見たように、下庄村古事帳では「宮本与右衛門」であり、平尾家過去帳では「宮本與右衛門正重」となっている。では、この与右衛門はいつから作州下庄村宮本に住むようになったのか。
 宮本村古事帳では、ようするに、この村の内に宮本と申す所に搆〔かまえ・砦〕の跡があり、その昔、宮本武仁が居たと申す者がいると記述し、これは宮本搆に関する口碑を伝える。そして武仁の子・武蔵までは、右の搆に居た、これは、天正より慶長までのように思われる、との推測を加える。その後、宮本搆の家は中絶していたが、元和九年(1623)に「武蔵末孫」が下庄村より上ってきて、搆の上の畑に居住した、というのである。
 この元和九年(1623)という具体的な時点に注目すれば、下庄村から来て宮本搆の上の畑に居住したのは、与右衛門ではない。息子の九郎兵衛の代であろう。というのも、与右衛門正重の歿年は、東作誌所収の平尾氏系図では「元和六年七月二十日死」となっているからだ(他方、前掲平尾氏過去帳では寛永元年(1624)六十七才卒とする)。与右衛門はこの年までには死んでいるとすれば、少なくとも与右衛門の代までは、宮本ではなく下庄村にいたのである。
 そこで、下庄村から来て宮本搆の上の畑に入植した「武蔵末孫」は与右衛門ではなく、息子たち。ただし、九郎兵衛を本家である下庄の屋敷に置き、二男の七郎左衛門、同じく弟の仁右衛門までは当地に居て「宮本武藏家」を相続した、というのが宮本村古事帳の記事。前述のように、慶長八年(1603)の忠政初国入りの時には九郎兵衛がホスト役をしているのだから、すでに九郎兵衛は家督を相続していたものとしなければならない。しかし、九郎兵衛は宮本搆に居り、となると、宮本村古事帳の記事とは矛盾するのである。
 おそらく、それまでしばらく無主だったらしいこの宮本搆を占有したのは、九郎兵衛の代であり、それが、「その後、九郎兵衛は宮本搆に居り…」という記事の背後にあったことであろう。まさしくこのアクションによって武蔵伝説が構成されるのである。
 武蔵伝説は、この占有の正当化のために発生したものらしい。九郎兵衛の子孫は、自分の先祖・与右衛門は、無仁の甥または妹孫で宮本武蔵から家を譲られた、当家は無仁の筋目だから宮本搆の権利を有すると主張したもののようである。とすれば、美作の武蔵伝説は、世俗的な必要があって発生したのである。  Go Back
















播磨美作国境地帯



下庄村と宮本村
 
 (9)七十年前、天下御普請に
 慶長二十年大坂夏の陣で大阪城は落城。七月十三日、元和に改元、戦争は終ったという元和偃武の年である。
 ここには七十年前[元和六年である]という注がある。すなわち、元和六年(1620)一月、幕府は大坂の陣で破壊された大坂城修築を諸大名に命じた。これを「天下御普請」と言ったものらしい。大坂城修築は、諸大名から物資人員を徴発動員し、元和六年から寛永六年(1628)まで三回十年にわたる大工事であった。
 九郎兵衛は、吉野郡中の人足を百二十人ばかり召し連れて大坂へ出てこの大事業に参加したのであろう、工事が完成したとき、褒美として藩主森忠政より鳥目10貫文を下された。
 鳥目〔ちょうもく〕というのは、貨幣、銭(ぜに)の異称。銭貨は円形方孔で鳥の目に似ている。中国で「鵝眼」〔ががん〕と俗称されていたが、それが日本では鳥目というようになったらしい。鳥目=銭十貫文がどれくらいの価値なのか。金銀銭公定換算率は江戸初期なら。金一両=銀六十匁=銭四貫文(四千文)というものだったらしい。大工の手間賃は月五〜十貫文、とすればこの褒美の額はかたちだけのものである。
 このように九郎兵衛は事業家としてやり手で、藩政に貢献するような実力者であったのだろう。ゆえに、九郎兵衛が宮本搆の権利を主張しても、誰にも文句を言わせず土地を占有することができた、ということのようである。ただし、その当時、九郎兵衛が、この土地はおれの親父与右衛門が宮本武蔵から譲られたものだ、とは主張したというのではない。
 これは、後世になってできた伝説である。九郎兵衛は世俗的な実力に物を言わせて、宮本搆の土地を占有したにすぎない。このアクションを正当化するために生じたのが、先祖平尾与右衛門が宮本武蔵から家督を譲られたという伝説であり、それは九郎兵衛ではなく、その子孫による後世の仕業なのである。
 この平尾氏總領代々書付では、九郎兵衛は武蔵の姉孫である。元和六年(1620)武蔵は三十七歳だから、武蔵の姉孫が大坂城普請に功があったとするには、やや難がある。しかし、先述のように九郎兵衛は武蔵より年長の可能性もあるから、そのかぎりにおいて、元和六年の大坂城普請には十分間に合う。
 したがって、九郎兵衛が武蔵の姉孫とすると、元和六年の大坂城普請に行くには間に合わず、大坂城普請に功があったとすると、武蔵姉孫ではありえない、というジレンマに遭遇するのである。これは、先ほどの森忠政御国初入りの件と同様である。

 もう一つの九郎兵衛に関する記事は、所持していた刀剣を関民部に献上した話である。これも古事帳にあった逸話である。
 この関民部についてはこうである。
 津山藩主・森忠政の息子はすべて早世してしまったので、子に継嗣がなく、そこで、家臣の関成次に嫁がせた忠政三女(於郷)の息子、つまり忠政の孫である家継を養子にして、嫡孫に相続させる形にした。家継は後に長継と改名し、二代目津山城主・森長継(1610〜98)である。
 長継は自分の実弟の関長政(1712〜98)に、津山森家領地から一万八千石を分知し、津山新田藩を立てた。平尾家總領代々書付に出てくる「関民部」は長継実弟のこの関長政であろう。津山森家はのちに森衆利の代に除封となる。しかし関家は存続し、美作新見藩として存続する。
 九郎兵衛は、おそらく大坂あたりで入手したのか、「広光・大進坊くりから切物」を所持していた。関民部がそれを尋ねたので、差上げたというのである。問いは要求である。「もっているそうだな」と尋ねられては、献上する以外にはないのである。タダで召上げるのではない、米九石を下賜されたという。広光や大進坊の眞物なら安いものである。これだと、タダ同然で召上げたのである。
 蛇足になるが、ここで一応訂正をしておくべきだろう。文中にある割註のことだ。その《広光[本のまゝ。行光か]》という割註は、正木によるものか、校訂者によるものか、いずれか知れないが、もとより明らかな誤りである。
 ここでいう「広光」と「大進坊」は刀匠の名である。広光は南北朝期相州伝を代表する刀工とされる。大進坊祐慶は鎌倉期の相州刀匠。林不忌の小説に、隻眼隻腕の丹下左膳、右手を欠くため右腰にあるのは「名刀相模大進坊・濡れ燕」ということになっている、その大進坊である。
 「くりから切物」とは密教法具の倶利伽羅剣で、不動尊に関係する。不動明王の右手にある剣は正しくは龍蛇が巻きついているもの、「倶利伽羅剣」という。龍蛇は魔を祓う力のシンボルである。
 倶利伽羅剣は刀身の彫物意匠に多く使われた。倶利伽羅不動・倶利迦羅龍王という名の遺蹟は多い。俗に刺青の事を「くりからもんもん」というが、正確にはこの倶利迦羅龍王の紋様の刺青のことである。
 九郎兵衛は、不動明王の倶利伽羅剣をアレンジした意匠の広光・大進坊の剣をもっていたということで、それを関民部に召上げられた。この召上げは、名誉のことであり、古事帳に記され、また後世のこの書付にも転記されたのである。  Go Back





大阪城天守閣





宮本搆とその周辺








*【森家略系図】

○忠政┬重政
   |
   ├忠広
   |
   ├──=長継┬忠継―長成
   |    ↑ |
   └女子┌長継├長武
     | |  |
     ├-┼長政├長治
     | |  |
   関成次└衆之└衆利





脇差 相模国住人広光
倶利伽羅剣彫物がある


丹下左膳 大河内伝次郎
この像は左右反転ではない。
右手がないので刀は右差し

不動明王像
右手に倶利伽羅剣

倶利伽羅龍王
こんな石像がよくある

刀剣の倶利伽羅彫物 国広
 
 (10)當村仁右衛門兄七郎左衛門
 七郎左衛門・仁右衛門兄弟は、九郎兵衛の子であろう。つまり、この文書では、《武藏姉と衣笠九郎次と妻合、家を繼し、其子與右衛門と申、其子九郎兵衛、其子七郎左衛門》云々とあるからだ。平尾氏系図でもそうであろう。
 ところが、宮本村古事帳(白岩家文書)に、《嫡子ハ九郎兵衛、本家下庄之屋敷ニ置、二男七郎左衛門、同弟仁右衛門迄ハ当地ニ居申》とあって、九郎兵衛は嫡男、七郎左衛門・仁右衛門は弟で、いずれも与右衛門の子である。しかるにまた、下庄村古事帳(平尾家文書)では右のような系図が示されている。これはいったいどうしたことか。
 そういう喰い違いがあることは、平尾氏總領代々書付の実際の記述時期を窺わせる。元禄はじめなら、与右衛門の孫・七郎左衛門の代である。七郎左衛門の代にこんな混乱があるはずがない。それが、近世平尾氏元祖あたりのことがはっきりしない、混乱があるというのは、記述が元禄二年よりもかなり後のものであるからだ。
 だとすれば、それより先の「宮本無仁」のことなど明確にできるわけがない。そして、異伝各種あってその漠然とした隙間こそ、武蔵伝説の生育つ温床だったのである。
 話を戻して、ここはこの代々書上のリアルタイムの記事である。当村の平尾仁右衛門、というから、この仁右衛門は現役である。これはその兄七郎左衛門の事蹟である。
 七郎左衛門は今は影石村に居るという。この影石村は、下庄村から因幡街道を北に約十キロほどの、現在の岡山県英田郡西粟倉村影石である。どうして彼がそこにいたかは不明である。七郎左衛門が当村に住居し大庄屋をしていたとき、領内の者が盗賊を捕えてトラブルになった時、それをうまく処理して、褒美に銀三枚頂戴したという話である。
 「内記様」とあるのは二代目津山城主の森長継である。寛永十一年に祖父・忠政の後を嗣ぎ、延宝二年隠居を願い出て認められ、隠居養老料として領内から二万石を与えられて退位、次男長武に家督を譲った。歿年は元禄十一年、八十九歳というから長命であった。
 やがて貞享三年(1686)長武は兄の子長成に家督を譲って隠居した。しかし、長成は元禄十年(1697)無嗣で死去。長継は、弟の関衆之の養子にしていた自分の末男・衆利(あつとし)を長成の後嗣とした。しかし同年、衆利乱心で津山城主森家改易。森長継はこれを経験した上で死んだのだから、長生きは必ずしも壽福とはなしえない。
 七郎左衛門はこの森内記長継の代に、前記の功あって殿様に御目見できる身となったが、近年二十年ばかりはそのことがない、と文書は申告している。元禄二年の段階では、すでに森長継の孫の長成の代である。忘れてくださるなと釘をさしているのだが、その効果の程は知れない。
 ともあれ、この記事は、もっとも近い時代のことで、元禄二年段階のものであろう。それに対し、以前の事跡記事ほど、逆に後世の改訂がある。そういう文書なので、いささか複雑面倒な読解処理が必要なのである。  Go Back



*【平尾氏系図】
 
○平尾与右衛門──九郎兵衛─┐
  ┌───────────┘
  ├七郎左衛門
  │
  └仁右衛門


*【宮本村古事帳】
 
○平尾与右衛門┬九郎兵衛
       │
       ├七郎左衛門
       │
       └仁右衛門


*【下庄村古事帳】
 
○平尾与右衛門──九郎兵衛─┐
  ┌───────────┘
  └七郎左衛門┬七郎左衛門
        │
        └仁右衛門





*【森家略系図】

○忠政┬重政
   |
   ├忠広
   |
   ├──=長継┬忠継―長成
   |    ↑ |
   └女子┌長継├長武
     | |  |
     ├-┼長政├長治
     | |  |
   関成次└衆之└衆利
 
 (11)平尾與右衛門事跡、新免家記に見ゆ
 正木輝雄は、「以上、平尾家家伝古書のままを挙げた」という。つまり、正木はこれを論評も解釈もせず、そのまま提示しておくというのである。考えるのは後の人間の役目である、とでも言うようである。
 正木が採取したこの平尾氏總領代々書付は、元祿二年(1689)提出のはずのに、その子孫は、歿年が、宝永、享保から元文にまで及んでいる系譜である。時期は十八世紀半ばである。それゆえ、どうしてこんな世代の子孫まで書いているか、ということである。
 元祿二年とありながら、実際にはこうした後代の加筆があった文書なのである。正木輝雄は、「以上、平尾家家伝古書のままを挙げた」という。これは調査者の証言とみておく。
 もう一つ、興味深い指摘がある。すなわち、平尾与右衛門の事跡は、新免家記に書いている。併せて見るべし、というのである。
 この「新免家記」というのは、正木が東作誌を書くにあたって援用した文書である。吉野郡川上村の新免喜左衛門所蔵のもので、正木は文化十年(1813)四月に、これを書写している(新免家古記寫)。著者は不明だが、上部を切り取られた奥書に「貞時」の署名と花押が記録されている。そのことからすると、「貞時」とは川上村に居残った新免貞弘の子孫の新免喜左衛門貞時のごとくである。
 貞時は、美作逸史によれば、寛永六年(1629)歿。そうなると、新免家記は早期の資料となるが、前述のように、三木之助記事など見るに、かなり後人の手が入ったものであり、この文書そのまま新免喜左衛門貞時の時代の作文とみなすことはできない。
 ちなみいえば、この文書記事の下限は、系図に記す、新免宗貫三男という弥太夫とその子の庄兵衛の記事であろう。弥太夫は、最初江戸に住んだが、後に播州宍粟郡山崎城主・松平備後守に仕え、そしてこの山崎家断絶に及んで、同所舟越山で卒とある。
 宍粟郡山崎城主・松平備後守とは、池田恒元(1611〜71)以外にはないが、この山崎池田家は恒元の子の政周が無子で、池田綱政の子・恒行を養子にして継がせたが、延宝六年(1679)恒行も七歳で夭逝、無嗣改易になった。
 ただし、もちろん、新免宗貫三男という弥太夫が、延宝六年の池田家断絶に遭遇するはずがない。新免家記のいうこの山崎池田家断絶は、それより前の寛永十七年(1640)、いわゆる「池田騒動」で御家断絶となった池田石見守輝澄(1604〜62)の事件との混同があるようである。
 となると、第二の山崎池田家断絶(延宝六年・1679)のこともあやふやであるから、それよりもさらに後代の人物による記事であろう。おそらく十八世紀の作であろう。寛永六年(1629)に死んだ新免喜左衛門貞時の著作をもとに、後人がさまざまに「改訂」したのがこの新免家記である。
 ところで、正木輝雄は、新免家記に平尾与右衛門のことがみえると書いている。なるほど、その通りで、新免家記に平尾与右衛門が登場している。
 それを見るに、前に述べた本位田外記之助事件との関連がある記事である。新免家記によれば、本位田外記之助は上意討ちで平田無二に殺されたということだが、この事件の前後に、平尾与右衛門が絡んでいるのである。
 本位田外記之助が上意討ちに遭う前年、天正十六年(1588)秋に、松茸狩の野遊びから帰る京女郎お捨の方が、立ったまま見物する無礼な二人の男を見咎め、それを新免宗貫に告げた。
 男の一人は、竹薮の陰から見ている五十がらみの大男で、これが在所の百姓・平尾与右衛門。もう一人は、本位田外記之助である。ただし、二人が並んで同時に見ていたのではなく、別の場所である。外記之助は城の入口で、これを見ていたのである。
 じろじろ見ていたというだけで、本位田外記之助が上意討ちに遭うわけはなく、こちらは前々から「我侭奇怪」という宿意があったということである。要するに、新免宗貫は本位田外記之助に不遜の素振りがあったのが気に入らなかったというわけである。
 しかるに、平尾与右衛門の方は、讃甘庄在所の百姓ということなので、彼がなぜここに登場するのか、新免家記ではよく分からないところである。ただし、これは推測しても無駄なことである。新免家記は伝説を記録しているだけなのだから。
 前に宮本村之記で見たごとく、天正十七年(1589)に、本位田外記之助が殺される。新免家記によれば、翌天正十八年、伊賀守から「讃甘庄与右衛門」も成敗してしまえと命令があって、捕手として尾神直右衛門に足軽二十人を付けて派遣した。与右衛門は、本位田外記之助が平田無二に上意討ちで殺されたのを聞いて、妻子を連れて、美作から逃げ出して、「因шヶ口」に浪人して住んでいた。
 この「因шヶ口」というのは、因幡国八上郡釜口村(現・鳥取市河原町釜口)のことであろう。浪人していたというのは、「浪人」はとくに武士に限ったことではなく、百姓でも在所を欠落して他所へ逃げると、浪人ということになる。とにかく、新免宗貫が本位田外記之助を殺したので、平尾与右衛門は、自分も命が危ないと、隣の因幡国へ逃亡したのである。
 追討役の尾神直右衛門が因幡に発向し、釜口村の与右衛門の家を包囲した。そうして見るに、家はもぬけの殻である。だれもいない。与右衛門はすでに逃げてしまっていた。尾神は戻って新免宗貫にこれを報告し、しばらくそのままになっていた。
 ところがまた、与右衛門が古郷を恋しく思って立帰っているということが、新免宗貫の竹山城に聞えたので、尾神直右衛門と横野甚三郎の両人が、与右衛門のいる讃甘庄に参着した。しかし、所の者が語るには、与右衛門は石井へ行っているという。この「石井」というのは、吉野郡石井庄、ここでは石井庄の石井村(現・兵庫県佐用町内)ということかもしれない。讃甘庄からは山一つ越えた東の地域である。
 与右衛門がその石井から帰るのを、途中の宮本塚の影に隠れて待ち伏せることにした。この「宮本塚」というのは不明である。今の宮本川を遡って行くと、何か塚のようなものがあったのかもしれない。記者には自明の遺跡であり、この伝説に格好の舞台となったものらしい。
 夜更けて与右衛門が帰ってくる。宮本塚に竹山城の捕手一団が待ち伏せている。他方、用心のため与右衛門の下人孫七が先に進んで偵察。すると塚の陰に騎馬の音がして、二十人以上が待ち伏せている。与右衛門に報告する。
 与右衛門は谷川を伝って、つまり宮本川の谷筋を北に引返して逃げる。そうして、再び因幡に戻った。こうして竹山勢は、その夜も与右衛門を何ともできず、城へ引返した。
 新免宗貫は、今度は讃甘庄の百姓に、与右衛門を赦免すると伝えた。もう帰って来てよろしい、というわけだ。ところが、これは罠で、因幡から与右衛門一家が帰ってくると、竹山城で与右衛門父子に縄をかけた。逮捕したのである。
 ここで、与右衛門父子というのは、与右衛門と九郎兵衛のことであろう。新免家記には、与右衛門のことを「五十ばかりの大男」と記すので、息子の九郎兵衛は、このとき(天正十八年)すでに青年であろう。
 漸々嘆きて父子謝免す――。つまり、竹山城で捕縛された与右衛門が、ようやく詫び言を申したので、宗貫は与右衛門父子を赦免した。これが分からない。物語が舌足らずなので、なぜ宗貫が与右衛門父子を赦免したのか、そのあたりが分からぬが、ようするにこれは民話レベルの伝説だと思えばよい。テーマは、
  ――与右衛門には、竹山城主も手が出せない。
という説話なのである。
 したがって、話はまだ続く。すなわち、また同年(天正十八年)に、新免宗貫が領内の百姓を呼び集めて川狩をした。川狩というのは、河川を利用した木材搬送作業で、上流から流した木材を綱場で水揚げするのをいうが、ここでは娯楽の川狩であろう。
 ようするに川に綱を張り渡し、魚を獲って遊ぶのである。桜狩・川狩・紅葉狩・鷹狩というように四季の行事で、これを領主主催でやったものらしい。この場面では、竹山城主催で、吉野川の川筋に綱を入れて、上下入り乱れて魚を取るのに興じたというところである。
 ところが、その日も、与右衛門を捕えよという宗貫の上意で、侍五人が発向する。与右衛門も、前々から覚悟をきめていたので、用心に怠りがない。大脇差をさして、れいの下人孫七とともに川に飛び込んだ。――このあたりも話はよく分からないところである。
 与右衛門が水に潜れば、孫七は浮き上り、孫七が水に潜れば与右衛門が水面にあがる。そんなわけで、上意をうけた侍たちも手が出せない。それを見て、与右衛門は渕の岸の竹を二十本ばかり、「この竹は(川狩の)綱の邪魔になる」といって根引にして捨てた。ようするに、大強力を見せつけたわけだ。そんなことで、その日も、竹山勢は成果なく城へ帰った――。
 この与右衛門をめぐる新免家記の逸話は、これで終りである。この話になにか決着が付くわけでもない。ただひたすら、「与右衛門には竹山城主も手が出せなかった」というテーマの説話なのである。
 つまり、新免家記の与右衛門伝説では、新免宗貫は上意討ちで本位田外記之助を殺させたが、平尾与右衛門には手が出せなかった、ということ。つまり、この逸話は、本位田外記之助殺害事件が本体なのではなく、むしろ与右衛門の話の方が主体なのである。したがって、新免家記の記事に関するかぎり、本位田外記之助殺害事件を単独で見るのは誤りである。
 となると、どうして新免家記に、そんな平尾与右衛門の逸話が収録されているのか、という次の問題になる。
 これを解く鍵は、実は平尾与右衛門の子・九郎兵衛の存在である。平尾九郎兵衛の妻は、新免喜左衛門の娘であった(美作逸史)。この九郎兵衛は、明暦二年(1653)歿とあるから、冒頭に挙げた平尾氏系図にみえる、与右衛門子の九郎兵衛景貞である。彼の妻(喜左衛門娘)は宝永三年(1706)歿である。そうしてみると、九郎兵衛歿後、半世紀以上も彼女は生きていたことになる。したがって、この記事は、九郎兵衛景貞孫の九郎兵衛との混同があるのかもしれない。
 ともあれ、九郎兵衛妻の父は、新免喜左衛門。これは川上新免氏で、代々喜左衛門を名のっているのだが、新免家記の奥書では、新免喜左衛門貞時がその著者らしい。むろん後代の人手が入った文書なのだが、このように川上村新免氏と平尾九郎兵衛との姻戚があるわけで、とすれば、新免家記に平尾与右衛門の逸話が採録されているという事情も呑み込めるのである。
 しかし、もう一点、新免家記にしては、この逸話のような新免宗貫を語るのは腑に落ちない、つまり、何度やっても平尾与右衛門を殺せない、こういう間抜けな新免宗貫を描くのはどういうわけか、という疑問があろう。
 それは川上新免氏が傍系だったからである。すなわち、川上新免氏は宗貞の弟・貞弘の筋目である。宗貞は、播州宍粟郡長水山城の宇野政頼の三男を婿養子にして、新免家を嗣がせた。これが新免宗貫である。宗貞の弟・貞弘は、宗貫に仕えた。宗貫は最後の竹山城主だが、要するにダメな婿養子で、新免家を潰してしまった人物である。とすれば、新免家記で、宗貫に対し点が辛いのは当然である。
 ともあれ、平尾九郎兵衛の妻は、新免喜左衛門の娘である。平尾家の伝説が新免家記に入るのは、それが機縁である。
 ただし、新免家記について、注意したいのは、「平田無二」と「平尾与右衛門」は登場するが、古事帳文書のような「宮本無仁」「宮本武仁」や「宮元武蔵」の記事がないことである。新免家記が美作資料のなかでも早期の形態を温存しているとすれば、「平田無二」は存在しても、「宮本無仁」「宮本武仁」は存在しない段階の文献資料なのである。  Go Back




東大史料編纂所蔵
新免家記 奥書
赤枠は切除部分





*【新免氏略系図】

○徳大寺実孝─新免則重─┐
 ┌──────────┘
 ├長重─?─貞重─?─┐
 |          |
 └則隆        |
 ┌──────────┘
 ├宗貞=宗貫┬宇右衛門
 |     |
 |     ├半左衛門
 |     |
 |     └弥太夫
 |
 └貞弘─貞頼―貞時―貞次




*【新免家記】
《同(宗貫子)三男 同(新免)弥太夫 始ハ江府に住、後ハ播ьウ粟郡山崎城主松平備後守殿ニ仕て、領知下し賜る。山崎家断絶に及て、同所舟越山にて卒す》




*【新免家記】
《天正十八年、伊賀守より讃甘庄与右衛門成敗可被成迚、捕手に尾神直右衛門ニ足軽廿人相添遣はさるゝ所、先達而外記事を聞より、妻子を引具し家を立退、因шヶ口に浪人仕るより、尾神直右衛門発向し、与右衛門家を取巻てミるに、人無之により、伊賀守に訴て其通になる所に、又古郷を与右衛門戀敷思て立帰る由、又竹山城に聞ゆるにより、尾神直右衛門・横野甚三郎両人、讃甘庄に参着す。与右衛門石井へ立越る由、所之者語るにより、又引返して宮本塚の影に相待所に、夜深て人静り与右衛門帰る所に、下人孫七先に進て見るに、塚の影に騎馬の音、廿餘人相待。与右衛門に云により、谷川を傳ひて又因рノ歸るに付、其夜も徒に竹山勢引返す。伊賀守より讃甘庄の百姓に被仰付、与右衛門謝免の由にて、又因州より引返すにより、竹山城にて与右衛門父子に縄をかける。漸々嘆きて父子謝免す。又同年に、伊賀守領内の百姓を呼て川狩をする。川筋に綱を入て、上下入乱て魚を取。又其日も与右衛門捕とて侍五人諚意を得而、与右衛門も兼て覺悟をきハめ、下人孫七ともに大脇差をさして川に飛つかり、与右衛門水に入ば孫七浮上り、孫七水にいれば与右衛門上にあがりてある故、竹山勢とる事成兼るを見て、与右衛門渕の岸の竹を廿本斗、此竹ハ綱の妨になるとて根引にして捨るを見て、其日もいたづらに引入る》




岡山県立図書館蔵
石井村 美作国絵図





竹山城周辺現況




国立歴史民俗博物館蔵
川 狩 江戸図屏風





岡山県立図書館蔵
平尾九郎兵衛妻 喜左衛門娘
美作逸史



*【新免氏略系図】

○徳大寺実孝─新免則重─┐
 ┌──────────┘
 ├長重─?─貞重─?─┐
 |          |
 └則隆        |
 ┌──────────┘
 ├宗貞=宗貫┬宇右衛門
 |     |
 |     ├半左衛門
 |     |
 |     └弥太夫
 |
 └貞弘─貞頼―貞時―貞次
 
 (12)系譜混沌として甚だ分ち難しとす
 たしかに問題は、当地の諸家系図古書の異伝の多いことである。東作誌の正木は言わざるをえない。平尾・衣笠・宮本・平田等、系譜は混沌として、はなはだ分りにくいものである。なお考合すべきである、と。
 問題は、こうした錯綜が実は矛盾だらけの伝説から生じたことである。正木輝雄より百二十年前の元禄年間にはもう不分明になっていた。その後の改竄もある。これでは収拾がつかないわけである。正木は匙を投げるかのように、これ以上踏み込んでいない。
 すでに述べたように、こうした漠とした曖昧さの中に伝説は生じる。明確であればそこに虚構の余地はないが、もし矛盾の土壌があればいくらでも想像は膨らむのである。美作の当地において武蔵伝説が生育繁茂したのも、こうした環境条件があってのことである。
 東作誌の正木輝雄は、どうなっているのか、わけが解らぬと、そういうポジションを保っている。少なくとも、正木は匙を投げるかのように、この渾沌の森の中にこれ以上踏み込んでいない。地元にある資料はこうだと示すだけである。それはそれで、正木の良識を示すものである。この地点に踏み止まっていたなら、あの猖獗を極めた武蔵産地美作説もいくらか形態は変ったかもしれない。
 この平尾氏總領代々書付には、宮本無仁が実は平尾太郎右衛門だとして出演し、武蔵もその名が出てくる。しかし、平尾氏系図の方には、宮本無仁も武蔵も登場しない。また、当地の資料は相互に矛盾して混乱している。東作誌の正木が確認したこの事実は、我々も再度確認しておくべきである。
 しかし、この混乱と矛盾を整理して、一貫したストーリーを創作しようという運動が生じるのは、まさしく東作誌以後なのである。我々はその動きを、次の項で、校訂者による注釈にみるであろう。  Go Back




 
  3 校訂者注記
【原 文】

[摯竅n 平尾・衣笠・宮本・平田四氏ノ事ニ關シテ、正木翁、猶可考合ト記シ、又平田系圖ノ條ニ執レカ是ナルカ不知ト載セテ、疑ヲ存セルヲ以テ、之レヲ解決セント欲シ、舊記ヲ参照シ又實地ヲ調査セシモ、遂ニ解決ヲ得ス。今其經歴ヲ略叙セハ左ノ如シ。(1)
元來下庄ノ稱ハ讃甘上庄下庄ト分別シタル名稱ニシテ、慶長九年九月ノ檢地帳始ニ、中山・小原田・下庄ノ三村之レニ屬シ、明暦三年ニ至テ始テ下庄村ヲ割テ宮本村ヲ置キシモノナレハ、慶長八年二月森侯入封ノ際、下庄村平尾九郎兵衛宅ニ休泊セテレシ地ハ、今ノ下庄ナルカ、宮本ナルカ、詳ナラズ。(2)
無二齋ハ、素ト平尾家ニ生レ、平田將監ノ猶子トナリテ、新免氏ニ出仕シ、遂ニ新免氏ヲ冐ス。壯年時代、屡次京都其他各地ニ出遊スルヲ以テ、女婿播州平尾村ノ衣笠九郎次ヲ邀テ家事ヲ執行セシメ、老後宮本ニ引退シテ武藏ヲ擧ク。武藏モ亦幼少ヨリ多ク他方ニ出テ、慶長五年新免氏ヲ逐テ九州ニ出發スルニ當テ、系圖什器等ヲ九郎次ノ子與右衛門ニ譲リテ後事ヲ託ス。與右衛門、平尾家ヲ相續シ、其子九郎兵衛之レヲ繼承シテ、宮本屋敷ニ居住セリ。(3)
九郎兵衛、家道殷富ナルヲ以テ、年代不詳今ノ下荘ニ別邸ヲ新築シ、一時之レニ轉居シ、元和九年、又宮本屋敷ノ上ノ畑ニ新邸ヲ建築シテ歸住シ、平尾家累代ノ塋域ヲ祀レリ。其子七郎左衛門相續シ、以後代々七郎左衛門テ以テ通稱トス。而テ下庄ハ七郎左衛門ノ子九郎兵衛之レニ居住シ、以後代々九郎兵衛ヲ以テ通稱トセリ。又下荘ノ平尾ハ寛永七年火災ニ罹リ、宮本ノ平尾モ亦寛文十年火難ニ遇ヒ、共ニ舊記ヲ焼失スト云フ。是テ以テ當時ノ事蹟ヲ証明スルモノナシ。(4)
今、両平尾家祀ル所ノ霊牌及ヒ過去帳を閲スルニ、與右衛門ヲ以テ元祖トシ、初代九郎兵衛ヲ以テ二代トシ、三代以後ハ各家ノ祖霊ヲ祀レリ。又墓地ヲ視ルニ、宮本ノ平尾ハ、與右衛門以前ノ墳墓存在スルモノヽ如ク、古塚累々トシテ並列シ、下荘ノ平尾ハ、與右衛門夫妻ノ墓ヲ一段高キ處ニ祀リ、而モ與右衛門ノ墓碑ハ其百年忌ニ當テ建設シタル塔ナリ。是レニ因テ之レヲ觀レハ、初代九郎兵衛ハ一旦下莊ニ仮住セシモ、中途宮本ニ歸住シ、其子孫ヲ下莊ニ分置シ、之レヲ相續セシメタルモノヽ如シ。(5)
本書ニ載スル各家ノ舊記系譜ハ、各家燒失後各家ニ於テ推測作成シタルモノナレハ、符合セサルモ亦已ムヲ得サルナリ。(6)

【現代語訳】

[増補] 平尾・衣笠・宮本・平田四氏の事に関して、正木〔輝雄〕翁は、なお考合すべしと記し、また平田系図の条りに、どちらが正しいのかわからないと記載して、疑問を残しているので、〔校訂者=矢吹は〕この問題を解決したいと思って、旧い記録を参照し、また実地を調査したが、遂に解決を得なかった。ここでその経過を略叙すれば、以下のようになる。
 元来、「下庄」の称は、讃甘上庄・下庄と分別した名称であって、慶長九年九月の検地帳の始めに、中山・小原田・下庄の三村がこれに属し、明暦三年に至って始めて下庄村を分割して宮本村を置いたものであるから、慶長八年二月の森侯入封の際、下庄村平尾九郎兵衛宅に休泊された場所は、今の下庄なのか、宮本なのか、明らかではない。
 無二斎は、もともと平尾家に生れ、平田将監の猶子となって新免氏に出仕し、ついに新免氏を襲名した。壮年時代、しばしば京都その他各地に出遊したので、女婿・播州平尾村の衣笠九郎次を迎えて家事を執行せしめ、老後は宮本に引退して武蔵を生した。武蔵もまた幼少より多く他方に出て、慶長五年新免氏を逐って九州に出発するに当って、系図・什器等を、九郎次の子與右衛門に譲って、後事を託した。與右衛門は平尾家を相続し、その子・九郎兵衛がこれを継承して、宮本屋敷に居住した。
 九郎兵衛は家業が栄えて金持だったことから、年代不詳だが今の下庄に別邸を新築し、一時これに転居し、元和九年、また宮本屋敷の上の畑に新邸を建築して帰住し、平尾家累代の墓域を祀った。その子・七郎左衛門が相続し、以後代々、「七郎左衛門」を通称とした。こうして下庄は七郎左衛門の子・九郎兵衛がそこに居住し、以後代々、「九郎兵衛」を通称とした。また下庄の平尾は寛永七年火災に罹り、宮本の平尾もまた寛文十年に火難に遇い、共に旧い記録を焼失したという。これにより当時の事蹟を証明するものはない。
 いま、〔下庄と宮本の〕両平尾家が祀る霊牌と過去帳を閲覧するに、與右衛門を元祖とし、初代九郎兵衛を二代とし、三代以後は各家の祖霊を祀ってきた。また墓地を視るに、宮本の平尾は、與右衛門以前の墳墓が存在するもののようで、古塚累々として並列し、下庄の平尾は、與右衛門夫妻の墓を一段高いところに祀り、しかも與右衛門の墓碑はその百年忌に当って建設した塔なのである。したがってこれを観れば、初代九郎兵衛は一旦は下庄に仮住したけれども、中途で宮本に帰住し、その子孫を下庄に分置し、これを相続せしめたもののようである。
 本書に掲載する各家の旧記系譜は、各家が焼失した後に各家において推測し作成したものであるから、〔両家の旧記系譜が〕符合しないのもまたやむをえないことである。

 
  【評 注】

 (1)遂ニ解決ヲ得ス
 東作誌の編述者・正木輝雄は、平尾・衣笠・宮本・平田四氏の記事に関して、上記のような所見を示し、疑問を残したのである。明治になって刊本の校訂者は、この課題に対しこれを解決したいと思って、研究調査を行った。ところが、遂に解決を得なかったという。
 この《遂ニ解決ヲ得ズ》という校訂者の言を、今日の美作説論者は率直に聞くべきであろう。この校訂者はどこまで正木を補足しえたのか。その検証したところを追ってみよう。  Go Back

 
 (2)下庄ナルカ、宮本ナルカ、詳ナラズ
 ここは、与右衛門の子・九郎兵衛が「中将様御国初入り」の際、新宅をその休憩所に提供した一件に関してであるが、三十二年前(つまり明暦三年)に下庄村から宮本村を分村したという宮本村古事帳の記事から、それ以前は下庄と宮本の区別はないから、下庄か宮本か、忠政休憩の場所は特定できないとするわけだ。
 下庄村というのは、吉野川(大川)対岸にある、宮本村の親村である。宮本村はこの親村から分村して出来た新しい村である。
 しかし、明暦三年(1657)にはじめて「宮本村」ができたとしても、殿様休憩所がどちらなのか判らない、と結論づけることはできない。これは下庄村古事帳の記事なのである。宮本村ではなく下庄村の伝説である。
 宮本村古事帳の方にはこうある。森忠政公当国御初入の時、丹波路をとった道筋で、「下之庄村九郎兵衛方本宅」に昼休み、そのみぎり御目見申上げ、その節御判御書等を頂載した。それが家に伝わっている、――こういう話である。したがって、殿様の休憩は、「下之庄村九郎兵衛方本宅」なのである。
 宮本村古事帳に誌すのは、元和九年(1626)に「武蔵末孫」が下庄村から上がってきて、宮本搆の上の畑に居ついたという話である。これは、九郎兵衛がこの地に入植して宮本村の開発地主になったということである。森忠政のお国初入りは慶長八年(1603)である。元和九年より二十年以上も前である。そのとき九郎兵衛が宮本村に住んでいるはずがない。
 しかし、それよりも問題は、森忠政入部のとき、九郎兵衛の宅で休息した、という伝説は信憑できるか、ということである。というのも、宮本村古事帳によれば、九郎兵衛は武蔵の姉の曾孫である。慶長八年(1603)武蔵は二十歳である。二十歳の武蔵に姉がいたとして、その姉に曾孫ができていたはずがないのである。
 これを「改訂」した平尾氏總領代々書付では、九郎兵衛は武蔵姉孫である。それでも、慶長八年(1603)武蔵は二十歳のとき、武蔵姉孫が自宅に殿様ご休憩を願うわけにはくまい。ようするに、九郎兵衛が森忠政のお国初入りのとき云々は、年代不問の後世の伝説なのである。
 古事帳文書によるかぎり、近世平尾氏の起源において、元祖与右衛門には、武蔵から家督を譲られたという伝説が生じ、そしてこの「初代」九郎兵衛には、「中将様御国初入り」の際、新宅をその休憩所に提供し、御目見えにあずかったという伝説が生じたのである。この伝説を事実と取り違えるのは誤りである。  Go Back

 
 (3)無二齋ハ素ト平尾家ニ生レ…
 ここは、校訂者の想像である。それらを裏づける資料は存在しない。
 まず、「無二斎」が生まれたのは、平田氏ではなく平尾氏だとする点である。「無二斎」というの名は、東作誌の正木が『武芸小伝』を見て書いた名である。美作にそんな伝承があったのではない。
 校訂者の想像によれば、その「無二斎」はもともと平尾家に生れたが、平田将監の猶子となった。つまり、平田家に養子に行ったとするのである。校訂者は、この養子縁組で、平尾太郎左衛門(宮本無仁)と平田武仁とを同一化しようとする。これは、東作誌にはない新解釈である。
 しかも、続いて、平田将監の猶子となった平尾改メ平田武仁は、新免氏に出仕し、ついに新免氏を襲名したという。これも東作誌にはないし、ましてやそれ以前にはない新説である。
 注意すべきは、武蔵父・無二は、ここではじめて、美作で「新免」無二として認知されたことである。東作誌以前には、武蔵も無二も、新免氏を名のったことは、美作の新免氏ご当地では知られていなかった。東作誌の正木は、『武芸小伝』掲載の小倉碑文でそれを知っていたが、その件は回避して一言もない。
 それゆえ、美作で無二・武蔵が新免氏たることが認知されたのは、明治の東作誌校訂者をもって嚆矢とする。『武芸小伝』掲載の小倉碑文が東作誌に全文引用されているのだから、校訂者はそれを無視できない。小倉碑文には、「父新免、無二と号す」とあった。それを見て、校訂者は、無二が新免氏を名のったと書いたのである。
 そうすると、平尾改メ平田武仁が新免氏に出仕したというのはどうか。これは新免家記に、「平田無二」が新免氏に属して百年にわたって合戦出陣している記事があるから、それによるものである。しかし、新免家記には、「平田無二」が新免氏を名のったとは書いていない。したがって、「新免氏に出仕し、新免氏を名のった」という校訂者の説は、美作の資料には根拠を得ないものである。筆者の空想である。
 では次に、壮年時代、平田武仁がしばしば京都その他各地に出遊した、という記事はどうか。これも美作の資料にはない話である。ありうるとすれば、東作誌掲載の小倉碑文に、新免無二が京都で吉岡と試合して勝ったという記事があるから、おそらくそれに依ったのであろう。つまり、近代の美作説論者は、これほど小倉碑文に依存しているのである。
 そうして、校訂者は云う、――しばしば京都その他各地に出遊したので、女婿・播州平尾村の衣笠九郎次を迎えて家事を執行せしめたと。これは、平田武仁が国を出ることが多かったので、家のことを女婿の衣笠九郎次にまかせたということらしい。このあたりは平尾氏代々書付の説の密輸だが、もちろん、平田武仁の平田家に、そんな女婿衣笠九郎次が登場するわけもない。これだと、衣笠九郎次が平田氏を継いだことになってしまう。新たな混乱である。
 それに、校訂者は、女婿衣笠九郎次が播州平尾村の者だとしているが、これにも直接の典拠はない。作州側の近隣諸村にも衣笠氏はあったから、衣笠九郎次が播州平尾村の者だとは特定できないのである。
 しかし、校訂者は、「女婿」衣笠九郎次を語るが、下庄村古事帳では、無仁妹の婿が衣笠九郎次郎である。下庄村古事帳記載の伝説の方が平尾氏代々書付のそれよりも古いが、そんなことは校訂者の想像する頭から抜けているらしい。空想は頚木を放たれたのである。
 そして、老後は宮本に引退して武蔵を生したという。無二が武蔵の実父だと思い込んでのことであるが、第一、平田武仁は系図墓碑に天正八年歿だというに、天正十二年生れの武蔵を生せるわけがない。この点の矛盾は見て見ぬふりのようである。
 続いて、武蔵の話である。武蔵もまた幼少より多く他方に出て、とある。これも東作誌所収の小倉碑文の記事によるものであろう。十三歳のとき有馬喜兵衛に勝ち、十六歳のとき但馬国秋山という兵法者を打勝ったという話があるからである。これを見て、武蔵もまた幼少より多く他方に出て、と書いたのである。
 それで次に、美作での場面になる。慶長五年(1600)新免氏を追って九州に出発するに当って、系図什器等を、九郎次の子与右衛門に譲って、後事を託したというのである。これは、下庄村古事帳に、《宮元武蔵九拾年已前ニ、當国出行仕候。其時分、家之道具・系圖・證文等、与右衛門ニ渡シ》とある記事によるものだろう。
 九十年前というのは、元禄二年からすると慶長五年あたり、それで九十年前に系図什器等を、九郎次の子与右衛門に譲って、後事を託したというわけだが、このとき、新免氏を追って九州に出発することにしてしまう。これも美作の資料のどこにもない記事で、もちろん、校訂者がしばしばつまみ食いする小倉碑文にもない話である。新免氏を追って九州に出発というのは、校訂者の空想である。
 宮本村古事帳では、《武蔵牢人之節、家之道具、十手・三ツくさり・すやり、家之系圖、姉孫与右衛門ニ渡し置候由》とあって、「武蔵牢人之節」とするだけで、武蔵の離国の時期を特定しないし、また「姉孫」の与右衛門に家を託したことになっている。資料間のそういう食い違いについては、校訂者は頬かむりして何も言及しない。ただ、自身の空想を展開するのみである。
 かくして、与右衛門は平尾家を相続し、その子・九郎兵衛がこれを継承して、宮本屋敷に居住したとする。これは平尾家の伝承である。平田武仁の平田家の話はどうなったのか、いつの間にか立ち消えになっている。諸書つまみ食いの空想説だから、そんなことは眼中にはないらしい。
 もともと、武仁は平尾氏だが平田将監の猶子になった、というあたりがすでに破綻しているのである。これは平尾・平田両氏が武仁(無仁)・武蔵の子孫たることを主張しているという「現状」を合理化するための方策なのである。平田氏には平田武仁の名が残されている、しかるに一方の平尾氏にはそれがない。だから、平田武仁の実家を平尾氏にして、武仁を平田将監の猶子、義理の子にすれば、丸く収まるというわけだ。
 ところがまさに問題は、平田武仁の生れる「前」にこの平田将監が死んでしまっていることだ。前にも指摘されているように、平田家系図では将監は文亀三年(1503)の歿である。他方、武仁は天正八年(1580)五十三歳卒だから、計算すればその生年は享禄元年(1528)となる。武仁が生れる二十五年も前に将監は死んでいるのである。
 したがって、平田武仁が平田将監の子であることはできない。というよりも、平田武仁の父を平田将監とはなしえない。平田氏系図はこの矛盾を露呈したままである。その点はどうかというに、校訂者の説では不問に付されている。
 そこで、校訂者の新奇手が、平田武仁は平田将監の猶子だという説なのだが、これは繰り返していえば、平田氏系図のどこにもない話である。分裂し矛盾する伝説を調停しようとして校訂者が捻出した和解案なのだが、ようするにどこにも根拠を求めることができない弥縫であるにすぎない。しかもそれが新たな破綻を招くのである。
 すなわち第一に、校訂者の案では、平田武仁は平尾家から平田家に入って家を嗣いだ。仮にそうだとすれば、衣笠九郎次が家事を託されたその家は平田家である。そんなことは平田氏家の伝承には存在しない。このあたりまったく筋の通らない空想である。
 平田系図では、平田武仁の弟・武助という者がいて、彼が平田家を嗣いでいる。だから、この場合、衣笠九郎次に家事を託す必要はどこにもない。実際、武助の子孫という家が今も宮本搆址にある。
 また、武蔵は出郷するに当って、系図・什器等を、九郎次の子・与右衛門に譲って後事を託したという記事である。平田の方からすれば、もしそうなら、なぜ父武仁の弟・武助に託さなかったのか、ということになろう。もし平田武仁が宮本搆に住んでいたなら、それを継承するのは平田氏を嗣いだ弟の武助であろう。したがって、この一件は平尾氏の伝説に依拠した勝手な伝説だということになる。
 第二点は、衣笠九郎次を女婿とすることである。これは「武蔵に姉あり」とする東作誌の記事による。しかしこの東作誌の記事は、平尾氏總領代々書付の記事による。しかし前述のように、下庄村古事帳では、衣笠九郎次郎の妻は、「無仁妹」である。話が違う。
 平尾氏總領代々書付は、元禄二年の日付を記しながら、享保元文のころの子孫まで書き込んでいるという後世文書である。下庄村古事帳の「無仁妹」を、「無仁娘」に改竄しているし、また同様にして、平尾太郎右衛門が浪人して「宮本無仁」と称したというのも、古事帳にはない新規伝説である。
 しかも、衣笠九郎次の子という与右衛門は、平尾氏系図によれば、寛永元年歿 六十七才。武蔵よりも二十六歳も年長で、いわば武蔵の父の世代である。与右衛門が武蔵の甥だとするには年齢が合わない。もとより平尾氏總領代々書付の無仁・武蔵記事は、18世紀後期とみなしうる制作物である。したがって、これに依拠することはできない。校訂者はこの難点を無視している。
 第三は、平田武仁は老後宮本に引退して武蔵を生したという話である。これは古事帳等にない記事で、校訂者の空想である。とくに論評に値しない。しかし、平田武仁が武蔵を生したとなると、武蔵は彼の実子である。ところが武仁は天正八年歿なのだから、またもや、武蔵という「実子」は、無仁の死後四年後の出生なのである。このように父の歿年と息子の生年に懸隔があるという事態が、反復されているわけである。
 この武仁歿年問題は尾を引いて、武蔵美作出生説の根本的な欠格性を露呈している。証拠が多いとはいうが、その証拠のどれもが、突き詰めてみるとこのように出鱈目なのである。
 以上のような点に限っても、平田平尾両氏の伝承には喰い違いがあり、校訂者はその矛盾点を解決することなく、ただ自身の想像を述べているにとどまる。  Go Back













森忠政像
岡山県津山市 津山城公園




*【宮本村古事帳】
《忠政公様當國御初入之時、丹波路へ御通り被爲遊筋にて、俄ニ下之庄村九郎兵衛方本宅ニ御晝休被遊、其砌御目見申上、其節御判御書等頂載仕申候。家ニ傳り候》


*【宮本村古事帳の筋目】

○宮本武仁┬姉―(姉の子)┐
     |       |
     └宮本武蔵   |
 ┌―――――――――――┘
 |姉孫
 └与右衛門┬九郎兵衛
      |
      ├七郎左衛門
      |
      └仁右衛門











*【東作誌所収平田系図】

○平田将監───────┐ 
 ┌──────────┘ 
 ├平田武仁─平田武蔵掾二天
 |
 └宮本武輔┬平田次郎左衛門
      │
      └平田次郎太夫





「新免」武蔵玄信
小倉碑文拓本












*【下庄村古事帳の筋目】

○┌宮本無仁―宮元武蔵
 |
 └無仁妹   宮元
    ├―――与右衛門―┐
 衣笠九郎次郎      |
 ┌―――――――――――┘
 └九郎兵衛―七郎左衛門―┐
      ┌――――――┘
      ├七郎左衛門
      |
      └仁右衛門





*【下庄村古事帳写】
《宮元武蔵九拾年已前ニ、當国出行仕候。其時分、家之道具・系圖・證文等、与右衛門ニ渡シ、其後、九郎兵衛請取、此者耕作勝手ニ而、宮本村ヨリ拾丁斗下へ罷出、農人仕居申候》

*【宮本村古事帳写】
《武蔵牢人之節、家之道具、十手・三ツくさり・すやり、家之系圖、姉孫与右衛門ニ渡し置候由》





宮本搆址 昭和30年代
岡山県美作市宮本






平田武仁夫婦の墓
天正八年の刻字がある






平田武助子孫の家
岡山県美作市宮本



*【東作誌】
《武藏姉あり。衣笠九郎治と云ふ者を、平田無二、養子として家を繼がす。委くは平尾系圖に見ゆ》

*【平尾氏總領代々書付】
《其子五郎左衛門、其子五郎左衛門、其子太郎右衛門と申、此時に下町竹山城の新免伊賀守領分成に付、以後宮本へ浪人仕居侯、故在名を以て宮本無仁と申候。其子武藏と申、此親子共に望有之に付、武藏姉と衣笠九郎次と妻合、家を繼し、其子與右衛門と申、其子九郎兵衛…》
 
 (4)事蹟ヲ証明スルモノナシ
 平尾九郎兵衛の話がまず来る。九郎兵衛は家業が栄えて金持だったことから、年代不詳だが今の下庄に別邸を新築し、一時これに転居し、元和九年、また宮本屋敷の上の畑に新邸を建築して帰住し、平尾家累代の墓域を祀った云々。
 これを見るに、校訂者は、元和九年以前に九郎兵衛が宮本に居たと想像しているらしい。これは古事帳の二つの記事、つまり中将様御宿と、元和九年下庄から来て宮本搆の上の土地占有という記事を二つ接合してストーリーを構成したわけで、もとの文書にこんなことが書かれているわけではない。
 元和九年の記事があるのは宮本村古事帳で、そこには、《其後中絶》とあって、武蔵以後、宮本搆には「中絶」のあったことを記している。したがって、校訂者の空想は、この「中絶」に反するのである。
 これは、平尾氏總領代々書付では、武蔵姉婿衣笠九郎次→与右衛門→九郎兵衛と、切れ目なく宮本搆に居たと思われることと、矛盾する。にもかかわらず、宮本村古事帳の元和九年の記事が捨てられないから、九郎兵衛は宮本と下庄の間を、下りたり上がったりさせられるわけである。
 ところで、ここでも平田氏の方はお呼びではない。校訂者は前に、忠政侯御国初入について、この時昼休みをしたのは平尾九郎兵衛方であって、ある書に次郎兵衛とするのは間違いであるとして、平田の「次郎兵衛」を却け、平尾の「九郎兵衛」を採る。その成り行きで、焦点は平尾家の方へ移ったままである。
 下庄の平尾家は、寛永七年火災に罹り、宮本の平尾家もまた寛文十年に火難に遇い、共に旧い記録を焼失したという話である。これは古事帳に、六十年前の九郎兵衛の代に武蔵からの証拠の品々を焼失したこと、そして二十年前、七郎左衛門の代に、忠政侯御国初入の折の御判御書を焼失したという記事による。こういう六十年前、二十年前という記事を、校訂者は具体的な年号にしてみただけである。
 武蔵離国が九十年前とか、この六十年前、二十年前前とか、こうも切りの良い数字が実際の年であったわけもなく、これは伝説のことで、寛永七年、寛文十年と云えるはずがない。これは校訂者の踏み外しである。
 ともあれ、この校訂者の言う如く、物証焼失して、当時の事蹟を証明するものなし、物証は存在しないのである。この点は、現今の美作説論者たちがよくよく聞いておくべき言葉である。  Go Back





下庄村と宮本村





下庄村旧景
 
 (5)初代九郎兵衛
 校訂者は、九郎兵衛が宮本から下庄へ出て再び宮本へ帰住したという前段の想像をもう一度繰り返すが、それよりもここで注目したいのは、平田氏が完全に脱落してしまっていることだ。
 近世平尾氏の始祖は与右衛門であり、与右衛門以前はいわば神話時代である。ところが実際には元祖たるこの与右衛門のことがはっきりしない。というのも、宮本搆に関する伝説の一切は「初代九郎兵衛」に始まるからである。
 新免家記には、平尾与右衛門が登場する。天正十六年(1588)に、与右衛門はすでに五十ばかりの年齢である。したがって、平尾氏系図の与右衛門正重よりもなお三十歳は年かさである。その二年後に、新免宗貫に殺されそうになって、妻子を連れて因幡へ逃亡するが、舞い戻って逮捕されたとき、与右衛門父子を謝免するという表現があるから、子の九郎兵衛は天正十八年(1590)には、もう幼児ではなく青年であろう。そうすると、九郎兵衛でさえ、武蔵より年長になってしまう。しかも新免家記では、平尾与右衛門の逃亡譚に宮本塚という名は出ても、宮本という地名は出てこない。
 ことほど左様に、平尾与右衛門については確定的なことは云えない。この東作誌校訂者の言によれば、下庄の平尾の方は、与右衛門夫妻の墓を別に祀り、しかも与右衛門の墓碑はその百年忌に当って建設した記念碑なのである。近世平尾氏の本拠は下庄であったということである。したがってこれを観れば、近世平尾氏の「元祖」は与右衛門であり、それ以前には、系図以外には記録はない。
 ここで注意すべきは、古事帳段階の初期の武蔵伝説は、平尾与右衛門が武蔵から家を相続したということが焦点であり、平田家はまったく無関係であることだ。そこに「宮本」武仁(無仁)は登場するが、それが「平田」武仁正家だという記事はない。
 ようするに、近世平尾氏の宮本搆の伝説に登場する「宮本」武仁(無仁)を、「平田」武仁正家と同一視するようになったのは、かなり後のようである。前出の平尾氏總領代々書付には、古事帳からの改竄が認められるが、この文書にしても、平尾太郎右衛門が「宮本無仁」と称したとするのであって、「平田武仁」とは云わない。
 「宮本」武仁(無仁)を「平田」武仁正家と同一視するようになったその時点は、東作誌の正木輝雄が現地調査に入った時期にそれを確認しうるが、文献上はそれ以前には遡れない。
 つまりは、近世平尾氏の宮本搆の伝説では、「平田無二」も「平田武仁正家」も無関係である。そこには、「平田」なる名は一度たりともまだ登場せず、あくまでも「宮本」武仁(無二)なのである。
 とすれば、平田武仁のことは宙に浮いたままである。というのも、校訂者が開陳したストーリーにみるごとく、平田武仁については語るべき資料がないのである。言い換えれば、平田武仁を語らずとも、美作の武蔵伝説は語りうるということである。このことを再確認しておこう。
 というのも、その後の美作説では、武蔵の父は平田武仁だという妄説が興行されているが、少なくとも明治の美作説論者が描くストーリーでは、平田武仁の影は薄い。それというのも、当時の美作説は、まだ資料に拘束されるところが多く、その後の美作説論者のような野放図な妄想展開には至っていないからである。  Go Back







平尾与右衛門墓
月峯院松翁壽歓居士
岡山県美作市下庄町蔭










左:武蔵墓 右:平田武仁墓
平田家墓地
岡山県美作市宮本

 
 (6)各家ニ於テ推測作成シタルモノ
 校訂者によれば、本書東作誌に掲載する各家の旧記系譜は、各家が焼失した後に各家において推測し作成したものであるから、両家の旧記系譜が符合しないのもまたやむをえないことである、という認識である。
 こうした認識を見るとき、我々は、武蔵美作出生説の初期では、まだ健全な認識が存在したことを確認するのである。
 まさしく、美作説の依拠する資料はすべて、「各家ニ於テ推測作成シタルモノ」であって、オリジナルは一つも存在しないのである。この事実は、この明治の校訂者とともに、今日の我々が確認しなければならぬ重要な急所なのである。
 冒頭に校訂者が述べているように、旧い記録を参照し、また実地を調査したが、遂に解決を得なかったのである。美作の諸資料の矛盾と混乱を収拾することは不可能である。それはこの矢吹のような明治の美作説論者の認識であった。
 この事実を忘れての妄説が、その後急成長し繁茂したことは、おそらくは東作誌にとっての不幸だったのである。  Go Back


宮本村現況

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総   括


 美作における武蔵伝説はいかにして発生したか。――これを我々はこの東作誌の読解を通じて確認しうると思われる。
 すでに述べたように、美作における武蔵伝説の発生点は、宮本搆跡の伝説にある。近世平尾氏の始祖は与右衛門であり、与右衛門以前はいわば神話時代である。ところが、実際には元祖たるこの与右衛門のことがはっきりしない。宮本搆に関する伝説の一切はまさに「初代九郎兵衛」に始まるからである。
 しかるに、比較的古型の伝承形態を温存する新免家記には、「平田無二」も「平尾与右衛門」も登場するが、「宮本武仁」「宮本無仁」あるいは「宮元与右衛門」は出てこない。もちろん、「平田無二」は百年にわたって超時代的に活躍するし、「平尾与右衛門」が登場するのは、平田無二が本位田外記之助を暗殺したという事件の前後であり、すでに当時かなり年配の者である。
 新免家記では、平田無二と平尾与右衛門は無関係である。むしろ、本位田外記之助暗殺事件をめぐっては、両者は対立関係にある。つまり、平田無二は本位田外記之助を殺したが、平尾与右衛門は本位田外記之助と同じように新免宗貫が派遣した捕手に殺されそうになって因幡へ逃亡する。
 宮本村古事帳では、与右衛門は「宮本」武仁の娘(武蔵の姉)の孫である。新免家記では、平尾与右衛門は天正十六年(1588)にはすでに五十ばかりの年齢である。そうでなくとも、平尾氏系図では、与右衛門正重は元和六年歿で享年記載がないが、異本系図では、宮本与右衛門正重は寛永元年(1624)六十七歳で歿だから、武蔵よりも二十六歳年長で、父親の世代である。これでは、与右衛門が武蔵の姉の孫にはなれない。要するに、宮本村古事帳の虚構がこれで判明する。
 他方、下庄村古事帳では、宮元与右衛門は、宮本無仁の妹の子である。無仁の妹は衣笠九郎次郎の妻、宮元与右衛門は衣笠九郎次郎の息子である。そうなると、宮元与右衛門は、宮本無仁の筋目を嗣いだとしても、もとは衣笠与右衛門のはずで、「平尾」与右衛門とは言いがたい。したがって、下庄村古事帳も平尾氏系図が逸脱した後世の作物である。
 東作誌が下庄村之記で収録している平尾氏總領代々書付は、この古事帳記事を織り込んだものだが、与右衛門以下、九郎兵衛、七郎左衛門に留まらず、九郎兵衛、九郎兵衛、与右衛門、十右衛門と累代子孫を書き込んでいる。享保元文の頃に死んだ者まで記入しているのだから、元禄二年提出という平尾氏總領代々書付は、むろん書写過程で後世の改訂=改竄を経た文書である。
 古事帳二文書が、平尾与右衛門を「宮本」(宮元)にしてしまっているとしても、それは宮本武蔵から家を相続したという伝説に終始しているだけで、その段階では当地の伝説的勇士「平田無二」を、「宮本」武仁(無仁)と同一視した形跡はない。両者の関係づけはない。古事帳段階では、「宮本」武仁(無仁)であって、平田氏は無関係である。

 しかし問題は、どのようにして武蔵伝説が導入されたか、ということの可能性の条件である。
 まず初期条件としては「宮本武蔵」という名の有名な兵法家が存在したことだ。彼は肥後熊本で死んだが、その後養子伊織の手で豊前小倉に武蔵碑が建てられた。そこには「父新免、無二と号す」と銘記されていた。それを十八世紀始めの『武芸小伝』が全文引用して、以後、全国的な知見となった。それまでも武蔵は播州生まれということは知られていたが、これによって武蔵の父は「無二」という名の者であったことが世に知られた。『武芸小伝』が投じた一石は、波紋をひろげ後世種々異伝を派生せしめた。
 作州では、宮本という地名から、平尾氏の伝説に宮本武蔵が取り込まれた。古事帳の宮本搆址に関する平尾氏起源伝説である。この段階では、武蔵の父は「むに」という名だという情報が入っている。それで、その父の名に「宮本武仁」「宮本無仁」という名を与えた。「宮本」武蔵の父なら、「宮本」姓のはずだという思い込みによる短絡である。
 しかし、この短絡は肝腎なことを知らなかった。『武芸小伝』を直接閲読したわけではないから、そこに引用されている小倉碑文に、「父新免、無二と号す」とあったのを知らない。もとより、そこに「新免武蔵玄信」という武蔵の名が記されていたことも知らない。それゆえ、武蔵とその父が新免氏を名のる人物だったという情報が、作州では欠如していた。
 これは、まことに遺憾なる事態であった。なぜなら、新免氏の本拠である吉野郡の伝説であるにもかかわらず、無二と武蔵が「新免」を名のる者であることを知らなかったのである。巷間伝説の「宮本」武蔵のレベルで伝聞が推移してしまったため、美作では、武蔵が「新免」武蔵であり、父が「新免」無二であるという肝腎な事実を知らなかったのである。
 かたや、作州には「平田無二」という名の伝説的人物が存在した。『美作太平記』によれば、天正五年の「平田七本槍」の一件について、
  《當家に於て二ツなき鎗の名人たるによりて、平田無二と君より名付られたり》
とある者である。当家において無二の槍の名人ゆえに、新免宗貫から「無二」と名づけられたという話で、これは当地のごくローカルな伝説である。足利将軍から「日下無雙兵術者」の称号を賜わったという新免無二のメジャーな伝説とは異なる。
 この作州の平田無二は、新免家記では、文禄の役に朝鮮まで行っていたようだが、平田氏系図では、平田武仁正家は、それより以前の天正八年卒である。平田氏系図の「平田武仁」は、むろん新免家記の「平田無二」とは別の存在である。
 「平田武仁」は、その名からすると、宮本村古事帳の「宮本武仁」の後継である。まず、「宮本武仁」が出て、後にこれを平田氏に取り込む形で、「平田武仁」なる名が出現した。しかしこれはもともと平尾与右衛門を元祖とする平尾氏起源伝説で、宮本武蔵とその父「宮本無仁」を取り込んだものである。それを後に平田氏の伝説がそれを取り込んだのである。
 この平尾氏と平田氏の伝説上の取り込みは、初代津山城主・森忠政入国のさい、休憩所を提供したという事跡にも反復される。もとは平尾九郎兵衛の伝説的事蹟だったのが、後に平田氏がそれを自家の事蹟に取り込んだのである。平田氏資料は後発のものだが、奇妙にも平尾家の伝説を掠取するのである。
 初期の古事帳伝説では、「宮本武仁(無仁)」とその子武蔵が宮本搆に居た、平尾氏元祖の与右衛門が武蔵から家督を譲られた、という話に尽きる。その「宮本武仁(無仁)」が何者なのかは問わないし、武蔵がそこで生れたとも記さない。
 ところが、次の段階では、平尾氏總領代々書付のように、先祖の平尾太郎右衛門が「宮本無仁」だという新説が現われ、ここに至って、武蔵の父は作州吉野郡産であり、その子武蔵も美作産だというストーリーが成立した。
 もちろん、美作の伝説は、武蔵は無二の実子ではないという事実を知らない。情報が貧困なそういう環境でこそ、伝説は無制約に発展するのである。
 かくして、宮本搆に居た宮本武蔵から家督を譲り受けたという平尾氏起源伝説は、重心をシフトされ、武蔵が当地に生れたという方が重要になった。つまり、武蔵の地域的共有である。こうなると、武蔵伝説は平尾氏占有ではなくなり、次の段階では、平田系の伝説が、武蔵は平田武仁正家の子だと主張し始めた。
 平尾氏總領代々書付は、平尾太郎右衛門=宮本無仁が武蔵を生したとするし、後発の平田氏系図は、武蔵は平田武仁正家の子だという。ここに至って、当地の武蔵伝説は分裂状態に陥った。

 この段階は、十九世紀前期の東作誌で確認しうる。東作誌の正木輝雄が、現地調査に入ったとき、武蔵は平田武仁の子だという話がすでに存在していた。正木が採取した平田氏系図には、まさに、
    平田武仁 → 平田武藏掾二天
という父子があったらしい。「平田武蔵掾二天」とは奇怪な名だが、ここでは、武蔵はあくまでも平田氏なのである。他方で、すでに述べたように、
    宮本武仁(無二) → 宮本(宮元)武蔵
と記す古事帳文書がある。順序としては、古事帳文書の方が先で、これは有名な「宮本」武蔵の我田引水だが、他方、宮本武仁(無二)が平田氏だという憶測による附会はまだ生じていない。むしろ、平田氏は無関係で、話は平尾与右衛門が武蔵から家を相続したというのを焦点にするのみである。
 しかし、平尾氏系図には、「武仁」も「無仁」も、そして「武蔵」もまったく登場しない。それゆえ、この「宮本武仁(無二)→宮本(宮元)武蔵」は、宮本搆の権利関係を主張するために外挿された伝説だと知れる。
 そうなると、武蔵から「宮本武蔵家」を相続されたという平尾家が「武蔵末孫」と称したのに、実際の家系図には、「無仁」も「武蔵」もまったく登場せず、逆に、宮本搆の相続伝説とは無関係な平田氏の系図には、「平田武蔵掾二天」なる珍妙な名で武蔵が登場する。これまた奇態なことになる。
 これはようするに、双方ともそれぞれ外挿があったに他ならず、平尾氏起源伝説の、「宮本武仁(無二)→宮本(宮元)武蔵」が先にあって、後に平田氏で、「平田武仁→平田武藏掾二天」と主張するようになったらしい。古事帳の宮本武仁(無二)を、平田氏へ我田引水したのである。
 しかも、なぜ当地伝承の「平田無二」でなくて、「平田武仁」なのか。平田「武仁」は、明らかに宮本村古事帳の宮本「武仁」を前提にした名である。したがって、「平田武仁」はそれじたい新作名称である。それゆえ、こういう前後展開順序を念頭におくべきである。「宮本武仁(無二)」=「平田無二」=「平田武仁」という共時的等式は、本来ありえないのである。
 前述のように、東作誌所収の平田氏系図をみると、正木が当地に調査に入ったとき、すでに「平田武仁→平田武藏掾二天」が出来上がっていたようである。正木は、『武芸小伝』を読んでいたから、そこに引用掲載されている武蔵墓誌(小倉碑文)を知っているし、事実、東作誌にはその全文を転記している。念の入ったことである。
 そうして、正木は、小倉碑文に「父新免、無二と号し」の文字を確認した。すると、武蔵の「父」、無二は、まさに新免家記等にある「平田無二」その人ではないか、と思い込んだ。きっかけは、それだけである。
 小倉碑文では、武蔵は「新免武蔵玄信」であり、「父新免、無二と号す」である。正木はそれを『武芸小伝』の掲載記事から知っている。しかるに、平田無二が新免を名のったという記事は、新免家記にはない。まあ、そんなことはどうでもよい、ここに「無二」とあるのが、何よりの証拠だと。
 無二は武蔵の実父か。小倉碑文は、「父新免、無二と号し、十手の家を爲す。武蔵、家業を受け、朝鑚暮研、」と記して、なるほどこれだけでは、無二は武蔵の実父と受け取っても致し方ない。伊織は、泊神社棟札では、もう少し情報を盛り込んでいる。
 無二は、天正年間、筑前の秋月城で無嗣にして卒。つまり、実子も養子もなく、跡継ぎがなくて死んだということである。後に武蔵は、その無二の新免家を相続した。となると、武蔵は無二の実子ではない。
 しかるに、小倉碑文にはそこまでは書いていないから、正木は、武蔵は無二の実子だと思い込んだ。そして平田無二を新免無二と同一視しているから、東作誌に、武蔵は平田無二の子だと書いたのである。

 その東作誌には、平田無二について、新免家に属し、驍勇万人に卓越し軍功は比類なく、刀術の達人で、延徳三年(1491)栗井近江守景盛との合戦以来、戦功は際立ち算えきれないと、述べている。
 これを不思議に思わない者はあるまい。延徳三年(1491)以来の勇士が、その九十年余後に武蔵を生す、その不条理は歴然としている。しかし、東作誌の正木も、明治の校訂者・矢吹も、その不都合に言及していない。
 正木は新免家記を参照して、そう書いた。新免家記によれば、「平田無二」はその通り、延徳三年以来の歴戦の勇士だが、新免宗貫の上意を請け、天正十七年に本位田外記之助を殺し、その後、文禄の役に朝鮮まで行って戦っている。まさに百年にわたって戦い続けた神話的人物なのである。
 むろん、文禄の役に出陣したという新免家記のこの「平田無二」を、天正八年卒の平田武仁正家と同一視できないのは云うまでもない。また、宮本搆に居たという武蔵の父「宮本」武仁(無仁)を、平田武仁正家と同一視できないのも論をまたない。天正八年卒では、天正十二年生れの武蔵を設けることはできないからである。
 そこで、近代の武蔵美作出生説にしばしば見られる倒錯は、ならば平田武仁の卒年の方が間違っていたのだ、とすることである。不利な条件を抹殺したい気持ちはわかるが、これは、定義されるべき対象(武蔵)を定義する存在にしてしまう転倒なのである。
 こうした倒錯は、そもそも平田武仁を、武蔵の父にしてしまったことに淵源している。この設定はそれ自体空想であるが、その真偽を確かめるには、平田武仁の卒年を確認すればそれで十分なのである。そこで、平田武仁が天正八年卒なら、天正十二年生れの武蔵父候補枠からは除外される。それがものの道理である。しかし美作説論者のように、平田武仁の卒年まで訂正しようとしてしまうのは、まさに倒錯なのである。
 もちろん、何ゆえそこまで平田武仁なる存在に固執するのか、理解に苦しむのだが、そういう論者にかぎって、実際、平田武仁が武蔵の父だという説は美作説の中でも後発の新伝説であることを、認識していない。またそれが後発の伝説ゆえに、先発の平尾氏起源伝説と矛盾することも知らない。
 これは一例に過ぎない。何れにしても、美作説はその出発の初期から、穴だらけ・矛盾だらけの伝説口碑だったのである。東作誌の正木輝雄は、まさしく当時の武蔵伝説の現場へ乗り込んで、その矛盾だらけの伝承に当惑し、どの伝承が正しいのか判らないと記している。その限りにおいて彼は正しかったのである。
 後世に発生し発展した伝説を、いくら整序しようとしても、それはできない相談である。収拾不可能なのだ。東作誌の正木の最終的認識は少なくともそれであった。武蔵に関する物証も存在しない。平尾九郎兵衛の代に焼失してしまった、という言い伝えがある古事帳を転記している。
 地域伝承に各家異伝を有するのは、むろん後世の推測による遡及的構成が各自なされたためだが、もう一つ踏み込んで言えば、各家いづれの伝承が正しいのかという問題ではなく、そもそもの最初から、武蔵はこの地に無関係だったのである。
 東作誌の校訂者は、本書に掲載する各家の旧記系譜は、焼失した後に、それぞれの家で推測し作成したものだと記している。ようするに、オリジナル史料は美作には皆無である。それが美作説を決定づける事実である。
 しかしそれも、事実の半ばであるにすぎない。真実は、喪失に先立つ所有なし、である。もともとオリジナル史料は存在しなかった。ゆえに伝説は、焼失してしまったと語る。諸家の旧記系譜は、後世になって繰り返し推測作成された製品なのである。その種の作物に依拠することはできないのは、論を俟たない。ただ、十八世紀から十九世紀にかけて、美作の当地でいかなる武蔵伝説が発生したか、それを知るのみである。
 結論として云えば、――先祖平尾与右衛門が「宮本武蔵」から家を相続した、我らは「武蔵末孫」だという家系が現われて、武蔵は当地に所縁を有するようになった。これが美作における武蔵伝説の起源である。それ以前には、武蔵伝説は当地には存在しなかった。まさしく必要なのは、この事実に覚醒することである。  



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