[Q] さて、武蔵は生国播磨。しかしその播磨のどこで生まれたのか。
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[A] 武蔵の産地を示す一次史料としては、『五輪書』の「生国播磨」という文字しかない。それ以上、具体的にどこかとなると、間接史料に拠る以外にはない。たとえば、地元播磨で、当時どんな伝承があったか、史料を当ってみることだ。地元のことは地元に聞け、というわけだ。
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[Q] 地元播磨に、なにか武蔵のことを記している史料があったのか。
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[A] たしかにある。それは『播磨鑑』〔はりまかがみ〕という書物で、平野庸脩という人物が遺した浩瀚な文書だ。この地誌は、武蔵死後七十年ほど後の享保年間から四十年以上にわたって書き続けられた。播磨のほぼ全体を網羅する史書で、当時の文献資料も広範に参照しており、播磨地方史の研究者にとってこれに優る史料はなく、必ず参照すべき基本史料である。
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[Q] その書物には、武蔵がどこで生まれたか、書いてあるのか。
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[A] 明確に場所を特定して書いてあった。それは、揖東〔いとう〕郡の「宮本村の産」という記事だ。それによると、現在の兵庫県揖保〔いぼ〕郡太子町宮本という地名になる。太子町というのは姫路城のある姫路市の西隣の町だ。
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[Q] その『播磨鑑』には、武蔵の産地について、他の場所を示唆する記事はないのか。
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[A] 武蔵は揖東郡宮本村産だと場所を特定していて、それ以外の土地の候補はない。著者の平野庸脩は、医師であるほか数学や天文学を修めた実証的な学者であったから、確かな異説があればそれを記す。したがって、『播磨鑑』によって知るかぎり、少なくとも十八世紀前半の地元播磨一帯では、武蔵はこの宮本村生れだというのが、だれにも周知の伝承であったようだ。
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[Q] ところが、近年になって、播磨の他の場所を、武蔵の産地とする説が出てきたが。
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[A] それは、武蔵の産地は印南〔いなみ〕郡米田村だという説のことだろう。これは、姫路東隣の高砂市の米田のことだ。しかし、この説には根拠はない。そのうえ、『播磨鑑』の記事を故意に無視しないかぎり成立しない謬説である。
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[Q] 武蔵の養子・宮本伊織による泊神社棟札に、武蔵が米田村に生まれたという記事があるとか。
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[A] それは、泊神社棟札を見たことがない者たちが、そう言っているにすぎない。この棟札のどこに、武蔵が印南郡米田村出身だと書いてあるか。そんなことは一字も記されていない。およそバカげた伝聞情報である。泊神社棟札については、本サイトに校訂済み原文と詳細な註解が公開されている。それを見れば、正確な知識が得られる。
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[Q] では、武蔵は印南郡米田村生れだと書いた史料は、どこにあるのか。
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[A] そんな史料はどこにもない。ただしそれに関連するものはある。それは、九州小倉の宮本伊織子孫による宮本家文書。そこには、武蔵を田原甚右衛門家貞の二男とする記事がある。ところが田原氏というのは、伊織の実家なのだ。どこかで混同混乱が生じたものらしい。これだと、伊織が叔父(父の弟)の養子になったことになる。
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[Q] それでは何か不都合なことがあるのか。
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[A] それは、地元播磨側の史料には、それを傍証する記事がないからだ。すなわち、『播磨鑑』は伊織のことを異例に詳しく書いているが、そこには、武蔵が伊織を見込んで養子にしたという記事はあっても、武蔵が田原甚右衛門家貞の息子だとか、伊織の叔父だとかいう記事は、一切ない。
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[Q] しかし、『播磨鑑』の編著者は、播磨の人であっても、印南郡米田村の田原氏のことはよく知らなかったのではないのか。
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[A] そこが急所のポイントだ。この平野庸脩は、知らないどころか、逆に、米田村のことも、田原氏のことも、とくによく知っていた人物なのだ。
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[Q] それは、どういうことなのか。
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[A] 平野庸脩は、米田村の北隣の平津村の住人である。歩いても十分とかからない、すぐ隣の村である。だから、米田村のことも田原氏のことも、よく知っているし、宮本伊織のことを詳しく書いているのだ。
庸脩によれば、田原氏は先祖代々米田に居ついていたのではなく、三木落城の後、伊織の父・甚兵衛の代に米田村にやってきたという。おそらくそれが事実だろう。というのも、庸脩の当時、田原氏子孫は現に米田村にいたからだ。庸脩は顔見知りだろうし、他の地域のように調査するまでもなく、子供の頃から隣村・米田村のことはよく知っていたのだ。
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[Q] そんな肝心なポイントなのに、これまで注目されたことがなかったのではないか。
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[A] たしかにその通りだ。これまで『播磨鑑』に関して言及した武蔵研究は少なくないが、平野庸脩その人について調べた研究はなく、たとえ庸脩は播州平津村の住人だとは記しても、米田村の隣村住人だというその事実の意義に気づいて、それを強調したものはなかった。これは、本サイトの研究プロジェクトのなかで、はじめて着目され提唱された論点だ。
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[Q] すると、武蔵が米田村生れで、田原甚右衛門の二男だという説は、地元播磨の史料では否定されるということか。
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[A] まさにその通り。もし武蔵が米田村生れだったとすれば、地元も地元、隣村の平野庸脩が、そんな「おいしい話」を書かないはずがない。庸脩がそれを書いていない以上、そういう事実はなかったとしなければならない。
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[Q] なるほど、地元では、武蔵は米田村生れという話はなかったのか。
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[A] しかも、武蔵は田原甚右衛門家貞の二男だと書いた、九州の宮本伊織子孫の文書でさえ、武蔵が米田村生れだとは書いていない。これも要注意のポイントだ。もしかりに、武蔵が田原甚右衛門の子だとすれば、田原甚右衛門は別所麾下の三木侍だから、武蔵は播州三木の生れとしなければならない。実際、伊織ら兄弟は、播州三木に祖父母や父母の墓を設けている。しかし、三木には武蔵の墓はない。
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[Q] では、武蔵が田原甚右衛門の二男だという、九州小倉の宮本家文書については、どう考えればよいのか。
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[A] 残念ながら、これはまったくの誤伝なのだ。伊織が武蔵の養子になったというのは事実だが、「親」の武蔵を逆に伊織実家の田原氏に引っぱり込んでしまったのは、伝説の混乱混同があったと見なければならない。それに、武蔵を田原甚右衛門の二男と書く文書は、弘化年間、つまり十九世紀半ばの幕末に近い頃の新しい作成文書だ。伊織の時代のオリジナル文書は存在しない。それゆえ、この説には信憑すべき根拠史料は存在しない。
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[Q] 播磨から遠い九州で、後の世に形成された誤伝だというわけか。
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[A] その通りである。米田隣村に住む学者・平野庸脩の記事と、はるか遠い九州小倉の伊織遠孫の作成した文書、これのどちらが信じうるかとなると、おのずから結論は明らかだろう。
しかも、この九州の宮本家の伝える系譜には、決定的な難点がある。伊織が兄弟と一緒に建てた祖先の墓が播州三木(箕谷墓地)や京都深草の宝塔寺(京都市伏見区)にあるが、その墓誌によれば、その「武蔵の実父母」ともに、武蔵が生まれる七年以上も前に死去している。死者から子が生れるという、こうした矛盾は一般に事実を無視した後世伝説の証拠である。したがって、結論として言えば、そもそも武蔵が田原甚右衛門の子として印南郡米田村に生まれたという説の根拠はない。
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[Q] 『播磨鑑』の重要性も含めて、この方向を明確に示した武蔵研究は、これまでに見たことはないが。
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[A] 要するに、その通りである。現時点(平成十五年初頭)までに発表されたすべての武蔵研究論文を見ればわかることだ。これらは、本サイトの研究プロジェクトのなかではじめて明らかにされた事柄だ。
これまで出た武蔵出生地説は、すべて否定してよい。美作説はいうまでもないが、播磨説のうち印南郡米田村説も同様だ。揖東郡宮本村説も、従来は『播磨鑑』のことをよく知らずに書いている例しかなかった。我々の研究プロジェクトでは、いったん白紙の状態から、諸説の根拠資料を再検討し、その史料批判の結果を踏まえて、最終的に、播州宮本村を武蔵産地としたわけだ。その詳細に関しては、このサイトに関係論文を公開しているので、それを参照すればよかろう。
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[Q] 最後になるが、武蔵が生まれたというその播州宮本村には、物証は一切存在しない。その点はどうか。
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[A] もちろん、現在と同様、十八世紀半ばの『播磨鑑』の時代でも、物証はなかった。それは明らかである。ただし、物証無きことに関しては、美作説も播州米田村説も同列である。武蔵遺跡は――小倉・熊本など九州の関係地を除けば――ほとんどが十九世紀以後の「新造遺跡」である。それに目がくらんではいけない。また、目くらましをするようなことはやってはいけない。
産地に遺跡等物証が現存しないということでは、たとえば、武蔵と同時代人の黒田二十四騎の人々も同様である。彼等の多くは播磨生れだが、たとえ筑前で知行五千石一万石の大身になったとしても、その産地には物証も痕跡がないのが通例である。そのように産地に物証が残っていないからという理由で、黒田二十四騎の人々を播磨それぞれの場所の生れではないと物申す阿呆は居ない。
武蔵産地に物証が現存しないと云って、それを否定根拠にするのは、これと同様の愚劣である。この時代の武士たちの播磨の出身地に遺跡があることの方が異例である。それを知らないから頓馬な論立てをする。ようするに、武蔵の出自に関しては、物証は存在せず、文献資料しか存在しない。――これが、武蔵研究における史学上の事実であり、根本条件である。
武蔵は「生国播磨」という以外に具体的な出自を書き遺してはいない。それは、遠い九州が終焉の地であったから、播州のどこそこと語る理由がなかったからであろうし、また武蔵のような狷介孤高なる人間のことを思えば、出自故郷へのそんな韜晦ぶりも理解できないことはなかろう。それは、武蔵とは何者か、という次なる問題へ展開されるべきことだ。
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