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『五輪書』は「ごりんの書」と「の」を入れて読む。「五輪」とは、何か。 もともとは仏教用語だが、スタンダードな辞書的解説ではこうだ。 「五」は五大(五つの宇宙元素)の「五」、「輪」は「円」、円満具足、一切の徳を具えるの意。したがって、五大が一切の徳を具備し、円輪周辺して欠けるところがないこと。これを基本にして以下のような意味となる。 (1)宇宙元素。「五大」。すなわち、宇宙万物を構成する五元素、地・水・火・風・空の五つをいう。「五智輪」とも。 (2)ミクロコスモスとしての身体。地・水・火・風・空を人体に配して、空を「頂輪」、風を「面輪」、火を「胸輪」、水を「臍輪」、地を「膝輪」とする。これはインド思想。 (3)「五体」。両臂、両膝、頭の5部位の、すべて円形なるところから、その五つを指していう。 (4)「五指」。五本の指を小指から順次に地・水・火・風・空に擬していう。 右図のような石の墓を見たことがあろう。五輪塔、五輪卒都婆〔ごりんそとば〕と呼ぶ。卒都婆とは梵語ストゥーパで墳墓のこと。 日本では大して旧くはなく、平安中期密教系仏教で導入された形態であり、鎌倉期以後になると、他の諸宗でも使うようになり、墓に限らず記念碑の形態として一般化した。 この形態の特徴は、単体ではなく、五つの構成部分に造ったものであること。すなわち、方(四角土台)・円(球形)・三角(笠形)・半月(半球)・団(擬宝珠形)の五つの形態要素、それを、それぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあて、下から組み建てる。多くはその表面に五大の種子〔しゅじ〕という梵字を刻む。「五輪」というと、まずこの五輪塔がイメージされなければならない。 『五輪書』はかくして、地〔ち〕・水〔すい〕・火〔か〕・風〔ふう〕・空〔くう〕の五巻からなる書である。これ自体に哲学的意味を見い出そうとする読みもあるが、そうではない。 この『五輪書』の名について言えば、もともとそういう名ではなかった。現在までに知られている早期の周辺文書には、五巻の書とか、兵書五巻とか記していて、『五輪書』という名を記さない例が多い。ここから、武蔵自身はこれを「五輪書」と呼んだのでもないし、考えたのでもでもない――という結論は、一応可能である。 ところが、本文に地水火風空の五巻にするとあるから、もともとこの地水火風空の五元素を各巻のタイトルにするつもりだったらしい。地水火風空ということになれば、当時の連想では五輪塔である。そういう連想のあることを前提にして、こんな五巻タイトルにしたのである。 宮本武蔵は死を前にして、五巻の兵法書を書き残すことにした。それゆえ、『五輪書』は、ある意味で武蔵の墓碑なのだ。書物としての墓である。こういうあたりは面白い人だった。 『五輪書』は兵法書である。むろん兵法とは、現代的に言えば、戦闘術(martial arts)のことである。兵法は、他の用例では戦略でもあるし戦術でもあるが、武蔵の語法では戦略でも戦術でもない、やはり戦闘術なのである。 したがって兵法書『五輪書』は、ずばり、戦闘術の教本である。哲学でも人生訓でもない、実戦/実践的な戦闘術の指南書、教本である。 この点、誤解があってはならない。武蔵は人生や哲学を説くためにこれを書いたのではない。いかにして敵を倒すか、相手を殺すか、という技術を教えるために書いたのである。 オリジナルの『五輪書』、武蔵自筆本は存在しない。他方、現存する写本は数多い。五巻の巻物の形態をした書物もあれば、他に、巻子本ではない冊子形態の写本もある。それぞれの写本の書写時期には前後がある。 しかしいづれにしても、地水火風空の五巻構成であり、他の兵法書と比べるに、分量はかなり多い。それだけに異例の兵法書である。 なぜ、分量の多い長いものになったのか。 通例は兵法書は基本的に目録要旨だけを記し、後は口伝である。そこから奥義という神秘的な秘密が存在するかのような風が生じた。しかし武蔵は、口伝も含むが、概ね、世間に秘匿すべき奥義など存在しない、というオープンなスタンスをとっている。したがって、この戦闘術教本も異例の長さになったのである。 さて、我々は以下、その『五輪書』を読んで行くことにする。 この書巻こそ「最後の戦闘者」としての武蔵の遺言であると同時に、稀有な戦闘思想家としての彼の肉声の聞かれる書物である。 武蔵から人生訓を引き出そうという、さもしい根性の解説書の多い現代、武蔵の思想はある意味で読まれていないに等しいのである。また、「男のロマン」といった目も当てられないほどセンチメンタルな無惨な読み方も後を絶たない。 我々の方法は、可能な限り武蔵の原思想に近いポジションで、これを読み通すことである。武蔵は何を考えていたか、そして畢竟、武蔵とは何者なのか――それが我々の読解の焦点である。 |
![]() 五輪塔の構成 ![]() 五輪塔 伝梶原景時墓 淡路島南淡町 ![]() 武蔵碑 宮本伊織建碑 北九州市小倉北区赤坂 ![]() 吉田家本五輪書 |