宮本武蔵とは何者か
五輪書の思想とその時代
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坐談武蔵

 宮本武蔵は、江戸時代初期の人だが、現代でさえ大衆的には「剣豪」の代名詞となっている。数え年十三歳という若さで最初の決闘勝負に勝利して以来、二十八〜九歳まで、六十回以上の決闘勝負に負け知らずであった。しかもその生前から、とりわけ、その二刀使い、「二刀流」という言葉は、宮本武蔵と切り離せないものとなっている。
 また、死の直前に著わした五巻の兵書、いわゆる『五輪書』は、兵法書、戦闘術教本としてのみならず、なぜか処世訓・座右の書として長く読まれてきた。この書物は、歴史の専門家のみ読みうる史料なのではなく、驚くべきことに、万人向けの文庫にさえ入っている。武蔵は、後世――というか、むしろ近代において――再発見された思想家であった。
 のみならず、武蔵には有名な絵画作品がある。当時の文人が文筆だけではなく、書画もよくしたことは周知のことだが、剣の達人・武蔵もそうした文人の顔があった。同時に兵法家として、明石の町割り(都市計画)にも参与し、造園作庭においても優れていたらしい。小堀遠州の名は美術史上有名だが、武蔵にもそうした相貌はあった。諸芸に通じ何でもできたという武蔵を、ルネサンス期のアーティストに擬する見方もある。
 ただし、それだけでは、まだ武蔵はわからない。
 彼が生きた時代は、まさに過渡期であった。諸国を渡り歩いて六十余度の勝負をし続けた青年期は、慶長時代、豊臣家が滅亡する大坂陣以前のこととて、まだ気分は戦国である。いつ大きな合戦が起きるか分らぬ不穏な時代である。そのとき、殺人の実践的訓練を積んだ暴力集団というのが、まだ武士の実態だった。
 これに対し、武蔵壮年は、戦国の時代が終り、武士が「殺人」という本来の技能を失っていく時代だった。武士は急速に役人化し、サラリーマン化していった。そのような時代に、彼は終生、主君をもたなかった。言うならば、兵法という芸能を思想化する時代錯誤な一種の「制外者」として生きたのである。
 同時に彼は、兵法を脱神秘化し実用主義的に理論化したが、そうすることで、間接的に、後世の武士道の先鞭をつけたと言える。この点を少し述べれば、以下のようなことである。
武蔵の五輪書を読む
五輪書研究会版テクスト全文
現代語訳と注解・評釈


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剣 の 物 神 化
 後世、剣は武士の心魂と言われ、また近代の日本人もそのように思い込んできたが、実は、剣は戦国の武士にとって武器の一つに過ぎなかった。
 とりわけ、軍団が激突する場面よりも、籠城・包囲戦の形態が多くなった時代からは、戦争は経済戦・土木戦(と言ってよい)の様相を呈する。むしろ、白兵戦に及んでさえ、鑓や長刀といった大道具こそ、戦場の命運を決するリアルな武器であり、太刀は「外物」〔とのもの〕といって中心的な武器ではなかった。武蔵門流の言い伝えでは、武蔵は戦場に出るに毎度長刀をもって臨んだという。
 これに対し、時代が戦争とは無縁になっていくという状況の変化があって、太刀が特別な道具になっていった。
 とすれば、剣があれほどまでに武士のシンボルと化すということには、ある種のフェティシズム形成を考慮しなければならない。
 つまり、世の中に貨幣経済が普遍化すると同時に、武士の間で剣のフェティシズムが広まっていったという事実に注意すべきである。貨幣とはマルクスが喝破したごとくフェティシズムの最たるものである。
 武士は貨幣経済の進展に取り残されていった。このとき、貨幣という物神(フェティッシュ)の支配という状況のなかで、いわばその反動形成として生れたのが、剣の物神化、剣のフェティシズムである。
 剣の「精神化」とは、この剣の物神化に他ならない。「剣禅一如」は沢庵宗彭の専売ではないが、そうした剣禅一如の言説が現れるのは、リアルな戦場を喪失した武士階級という土壌の上でなのだ。
 すなわち、禅と剣の結合・同盟こそ、剣の精神化の具体相であり、まさにそれが剣の武装解除を執行したのである。言い換えれば、刀狩は、農村であれ寺社であれ、一揆的共同体を武装解除するものだったが、この剣と禅の結合こそ、戦闘の観念化を通じて、武士の武装解除、刀狩を行った当のものだった。
 宮本武蔵が、若年以来十数年続けた決闘勝負を卒業したのは、二十代の終りころ、その数年後には大坂陣である。島原の乱が起きるのは、それから四半世紀後の寛永十四年(1637)である。その間に状況は変わった。
 武蔵は、この両方の内乱の戦闘に参戦していたらしい。大坂陣では徳川方の水野隊の与力となり、島原の乱の有馬陣では小笠原隊についた。しかしこの両陣の間の四半世紀に状況は変わったのあでる。
 リアルな戦場では、非本質的な武器でしかない剣こそが、武士のシンボルとなるとは、身分を示す記号的一物というより、剣の物神化が示す逆説である。おそらく、その「ポスト戦国」的状況のなかでこそ、剣の精神化、剣の極意が確信されたのである。
 剣は無用化したればこそ、物神化された。武蔵の『五輪書』は、そうした物神化の逆説をこの上なく示すことで、それ自体がパラドクシカルなテクストである。
 そして宮本武蔵は、そうした剣の物神化の逆説を、無比のカリスマとして体現することで、長い太平の世の武家イデオロギーの路線を敷設したのである。
 のみならず、我々の近代社会でさえ、剣のフェティシズムが再生されたことは、戦前の将校が軍刀を腰に下げ、また作家・三島由紀夫が日本刀で割腹自殺する「風俗」まで規定してきた。
 ことに吉川英治の小説『宮本武蔵』が、対中国戦争から日米戦争に亘る時期に国民に遍く読まれたことは、また、「愚挙」を肯定する一つの根拠となったためであったかもしれない。
 殺人の暴力性が「美学化」されるということには、死に心酔する気分がなくてはならない。日本浪漫派流の戦争の美学化・思想化以前に、大衆レベルでは吉川版「武蔵」が存在したのである。ある意味で国民は、一人ひとりが「死の求道者」として動員されたのだった。



槍と鉄砲
長篠合戦図屏風(部分)
徳川美術館所蔵





姫路城 国宝
江戸初期 池田輝政時代完成
支配秩序のシンボルデザイン





銘文 備前長船住長義
国指定重要文化財 妙国寺蔵


剣の芸能化から剣の精神化へ
 さて、以上のことは、宮本武蔵本人には、関係ないことであろう。歴史はいかようにも素材を加工する工場である。原料の武蔵は江戸期以来、どんどん伝説化され、また近代に入っては、メディアが講談から小説へと展開する過程で、近代的武蔵像が形成された。
 しかし問題は、相も変わらず、吉川英治流の求道者・武蔵が生きていることである。この退屈な光景には、いささかウンザリさせられてきた。もっと新しい武蔵像が形成されなければならない。
 そこで、言うべきは、剣の精神化の前段階として剣の芸能化があったことだ。武蔵はまず武芸者=剣術の芸能者だった。
 リアルな戦場を喪失した武士たちは、もはや暴力的存在ではなく、まず、支配秩序のメカニズムそのものと化す。それが大名への仕官、役人になるという武士の生き方だった。
 そうでない一群の戦闘者らは、芸能者になった。芸能者というが、とすれば、何の芸能者か。言うまでもなく、「剣術」の芸能者である。
 武蔵は、十代から二十代までに六十数度の決闘勝負をしたという。彼を有名にしたのは、武芸者=剣の芸能者として、決闘を見世物にしたからだ。それは、慶長期、戦国の暴力的な気分の中で、死の熱狂にとりつかれた観衆が望んだ「生死を賭けた実戦」という見世物だ。
 武蔵が有名になったのは、剣の芸能者としてである。彼は生涯大名に仕官しなかったが、それはこうした旧い芸能者としての生きかたをしたということだ。ある意味で、彼は最後の「剣の芸能者」だった。
 武蔵が生きたのは、十六世紀後期から十七世紀前半までである。この時期、何が変ったかといえば、戦国時代が終焉し、江戸幕府による中央集権的秩序が確立され、天下泰平になったことだ。
 武士の殺人技術は無用化する。そのとき、殺人技術者には、まず芸能者として生きる道しかなかった。『五輪書』の武蔵によれば、天下泰平になって、むしろ兵法者、つまり芸能者として世渡りする者が急増したのである。しかし、もうその頃には、武蔵が青年期にやったような、本気で命をやり取りする決闘勝負は行われなくなった。だから、兵法者として世渡りする者が急増したともいえる。
 そのような状況で、武蔵は芸能者のポジションを超えて行く。それが新しかった。では、どのようにして武蔵はそれを超えたか。すなわち、前述の剣の精神化によってである。
 剣の芸能化から精神化へ――この過程を媒介するのが宮本武蔵という存在である。彼は、前半生は芸能者、後半生は思想家、として生きたと言えよう。
 武蔵以後の剣の精神化は、周知のように「武士道」という観念化、もっといえば、イデオロギー化を結果した。
 これは、芸能化段階では「ファン」にしかなれない存在が、戦闘者という存在と同一化しうる方途だった。つまり、観念化によってのみ、だれでもヒーローとしての戦闘者に同一化できるのである。
 しかし、いうまでもなく、この観念的同一化は、戦闘を一種のヴァーチャル・リアリティにすることでのみ可能である。いつでも戦う覚悟・用意のある存在として自身を規定するのだが、当然ながら、その瞬間は遂に訪れない、決してリアルなものにならない、ということが、その可能性の条件である。
 武蔵は、死後六十年ほど過ぎると、一種の大衆的ヒーローになった。巌流島伝説がその中核になった。それと並行するように、『葉隠』はじめ、武士道というイデオロギー化が出現する。
 この並行関係は興味深いことである。歌舞伎の武蔵は、お定まりの敵討ちという定型化を被るが、一方、武蔵神話のこうしたヒーローとしての芸能化と並行して、剣の精神化は武士道という定型を得たのである。これはともに、武蔵の大衆化の二つの方向だった。
 ともあれ、武蔵という存在の面白いところは、後の「武士道」とはまったく異なった戦闘思想の可能性を示していることだ。その思想は、彼の剣の技能が彼一代のものであったように、彼一代で終ってしまった。



武稽百人一首 夢想権之助




巌流島の決闘
無三四は仇討ちをする二枚目





報讐忠孝伝 宮本武蔵
歌川国芳画

二 刀 流 武 蔵
 宮本武蔵は『五輪書』で、自身の流派を「二天一流」あるいは「二刀一流」としている。
 武蔵は通例「二刀流」で有名だ。ふつうは刀は一本だけ使う。二本は用いない。しかし武蔵は二刀を使うことを教える。――なぜか?
 刀剣を持ってみた人ならお分かりだろうが、真剣は一本でもけっこう重い。野球のバット以上の重さがある。少しの間なら振り回せるが、すぐに腕が利かなくなる。
 ボクシングでもそうだろう。はじめは軽快に手を出しているが、だんだん疲れてくる。ボクサーが15ラウンドも殴り続けられるのは鍛錬の賜物である。殴り合いの喧嘩をする素人なら、そうは長い時間殴り合いできない。
 空拳で、手に何ももたなくてもそんな有様だから、まして、重い刀剣を手にして、戦い続けるというのは、かなり体力を必要とするわけだ。
 その上、そんな刀を左右の手にもって戦うというのは大変なことである。つまり両手でも重い刀を片手で振り回せるというのだから、これは尋常のことではない。
 したがって「二刀流」本来の趣旨は、片手で太刀が振れるようにするためだ。常時二刀を使うわけではないが、いざとなれば、二本の刀を同時に駆使できるようにしておく。片手に太刀、もう一方に槍をもつ場合もある。
 それもあるが、実戦の現場では、胴を切るというよりも、まず手を狙って戦闘能力を失わせる方法が一般的である。そこで、片手を失った時でも、戦闘を持続できるようにしておく。それにしても、かなりの体力を前提にした流儀であることには変りない。
 これは武蔵だから可能だった技法ではないか。そんな気がする。たしかに「二天一流」は残ったが、一刀遣いの他流に勝るだけの遣い手が、武蔵以後現れた様子はない。
 武蔵は、孤独な天才だった。弟子は存在したが、彼の流儀を真に継承しうるだけの者はいなかった。武蔵に比すれば、いずれも凡庸な存在であるしかなかった。

 それはともあれ、「二天一流」というのは、「二刀一流」ともいう。林羅山の讚でもそんな特徴を強調している。だからこれは「二刀流」のことだと、世間では思われている。
 ところが、必ずしもそうではないのだ。
 時代劇映画をみれば分かるように、昔の武士は二本差しである。大小二本の刀を差している。もし使う刀が一本だとすれば、残りの一本、脇差は、切腹するための用意という俗説は正しいか、あるいは伊達の飾りであろうか。たしかに、実際は無用な形式になって行った。しかし、形態は本来の用法を伝えているのである。
 要するに、リアルな戦場では戦闘のためにいわば「何でもあり」なのだ。刀剣は一本と決まったルールはどこにもない。刀剣を振り回して切り殺す場合もあれば、刀を相手に投げて刺し殺すこともある。戦場のそういう何でもありの状況では、刀は一本と決まったわけではない。使える腕が二本あれば、刀も二本使えばいい。
 だから具体的な技術として、二本でも使えるようにしておくのが現実的だ。それだけの話である。どうしても刀は一本と決まったわけではあるまい、そんな執着、こだわりを捨てろ、というのが武蔵の「二刀一流」である。
 こだわりを捨てろ、それは現実的ではない。――これは『五輪書』全体に通底している武蔵の基本的なスタンスである。具体的な戦闘術を述べる『五輪書』は終始リアルな技術を語るのである。






新免玄信提二刀像









*【林羅山新免玄信像賛】
《旋風打連架打者、異僧之妄語也。袖裏青蛇飛而下者、方士之幻術也。劔客新免玄信、毎一手持一刀、稱曰二刀一流。其所撃、所又捔、縱横抑揚、屈伸曲直、得于心、應于手、撃則摧、攻則敗。可謂、一劔不勝二刀。誠是非妄也、非幻也。庶幾進可以學萬人敵也。若推而上之、則淮陰長劔、不失漢王左右手。以小譬大、豈不然乎》

『五輪書』とその時代
 しかしながら、『五輪書』が興味深い書物となるのは、この実用本がすでに時代遅れの教本だったことである。
 大坂陣後のいわゆる「元和偃武」。「偃」は伏せるの意、武器を伏せる、どこかに置いて、用いないこと。戦争をやめること。天下が泰平になること。徳川幕府とは内戦の終焉、戦争を一掃して出現した政治権力である。
 とすれば幕府支配が固定するとともに、戦闘術には実際的な価値は失われていった。だから――もう戦争は終りだ――という時代に、武蔵はまだ戦争のことを語り続ける存在だった。
 戦闘術、兵法とは、いかにして敵を倒すかという技術である。それは、もはや無用物と化したはずである。
 そこから、武蔵は歴史に乗り遅れた不遇の人物だった、という説が出てくるが、それは考えが不足している者の言うことである。
 実はそれほど事態は単純ではない。兵法は無用化したからこそ、逆に価値あるものになった、という逆説が実態なのである。つまりは武士道の謳歌、剣の精神化である。それにはどういう背景があったか。

 たしかに、寛永期を通じて、武士という存在は根本的に変質しようとしていた。というのも、天下泰平の時代に武士それ自体が無用物と化した。ところが、武士は支配階級と化すことによって、自身をサバイバルしたのである。
 なぜ無用化した武士が、支配階級として延命しえたのか。答えは、その軍事政権という政治システムの特徴にある。日本のばあい、明清の中国や朝鮮とは違って、軍事政権である。
 ひとつ特徴的なのは、支配を完成した徳川幕府は、決して諸大名を武装解除しなかったという点だ。逆にローカルな軍事政権として諸大名を存続せしめた。それは戦闘を禁止する一方で戦闘能力を温存するという自己矛盾である。
 すなわち、幕藩体制とは、本質的に戦時体制の凍結、固定化であった。戦争の凍結とはまさに戦時体制の固定化であった。二世紀にわたって列島に平和が続いたのは、軍事政権なるがゆえだった。これも日本史の逆説である。
 たとえば、参勤交替である。将軍に対する服属儀礼であり、大名行列は軍役としての行軍隊形を取った。これが各藩の財政を圧迫する原因だったが、参勤という形式の中央集権をたえず実現することばかりではなく、大名諸家の誰彼を人質に取るという戦国作法の温存された体制だった。これは幕藩体制が無力化するまで続いた。
 戦時体制を温存した軍事政権という権力システムの特徴を考慮する限りにおいて、単純に「偃武」や「天下泰平」を謳うわけにはいかない。むしろ、この戦時体制は「いつでも戦う用意がある」という待機状態にある存在として武士を再構成した。
 すなわち、リアルな戦闘者集団から、待機状態にある戦闘者集団へ――これが幕藩体制下での武士の存在変容である。
 武士道の謳歌、剣の精神化とは、こうした武士の存在変容を背景にもっている。戦国内乱というリアルな戦闘場面を喪失したからこそ、逆に声高に戦闘能力を主張しなければならない。それが「偃武」の後の武家の姿であった。
出光美術館蔵
大坂夏の陣






参勤交代の大名行列
尾張藩



鍋島三十六萬石大名行列まつり
 壮年期以後、武蔵はそういう変容プロセスを歩む武士の時代を生きた。それゆえ、武蔵が体現したのは、武士の存在変容とその矛盾である。
 武蔵は、『五輪書』で、他流批判を徹底して遂行している。それは兵法が形式化していくことへの批判である。この限りにおいて、武蔵は時代の流れに抵抗する反時代的存在であり、ラディカルな反動分子である。
 武蔵は生涯仕官しなかった。おそらく武蔵という存在自体が、幕藩体制の権力システムへの批判だった。というのも、武蔵が一貫して体現したのは、戦国期の、いわば人々が自由な存在でありえた頃の生き方であった。
 「ばさら」(婆娑羅)な「かぶき」(傾奇)者とは、まさしく戦国の暴力集団である武士の本質であった。豪勢で傍若無人な成り上がり者の欲望の肯定は、少なくとも太閤秀吉とともに竟った。
 徳川支配による秩序は、それとは逆に、武士に秩序と道徳を強いた。これはまったくの百八十度の逆転である。しかしこの逆転によって武家は、「ポスト偃武」に存続したのである。
 武蔵が体現したのは、まさしく「ポスト戦国、偃武の時代に、「武」を実行するという反時代性である。言い換えれば、秩序至上主義のイデオロギーが完成する時代に、反秩序的で不気味な暴力的存在としての武士を体現したのである。
 武蔵が一種のカリスマとしてもてはやされ、諸大名にファンをもったのは、彼が「天下無双」を自称しうる武芸者だったからだ。しかし、それだけでは言葉が足りない。もう少し付け加えれば、幕藩体制下の諸大名には、当時はまだ戦国の気風が残っていたからである。
 彼らが武蔵に見出したのは、無敗の武芸者というよりも、まさに戦国の暴力的存在である。それが反時代的でノスタルジックな存在であると同時に、まさしく彼らのアイデンティティ、すなわち「いつでも戦う用意がある」という待機状態にある戦時体制の存在としての武士を裏づける実証であったからだ。
 幕藩体制の権力秩序の中では、武蔵のような存在の場所はすでにない。兵法者武蔵は、それじたい厄介な存在なのである。しかし同時に、戦時体制の存在としての武士をシンボリックに体現したのである。つまり、武士が「いつでも戦う用意がある」待機状態にあるという虚構に依拠する形式的存在へと転化してしまう以前の、ある時期、いわばそれ自体が矛盾した存在として出現したのである。
 武蔵が興味深いのは、まさにそういう存在だからである。武蔵の『五輪書』は、それゆえ、いわば《vanishing mediator》として存在する武蔵の墓碑なのだ。

佐々木道誉
続英雄百人一首
風流人・ばさら大名の代名詞


  【信長のばさらな異装】
髪はちゃせんに巻立て、ゆかたびらの袖をはずし、のし付きの太刀、わきざし、ふたつながら長柄に、みごなわにて巻かせ、御腰のまわりには猿つかいのように、火燧袋、ひょうたん七つ八つ、つけさせられ、虎、豹皮の半袴を召す(信長公記)



前田利家
利家さまお若き時はかぶき御人

『 五 輪 書 』 と は
 『五輪書』は「ごりんの書」と「の」を入れて読む。「五輪」とは、何か。
 もともとは仏教用語だが、スタンダードな辞書的解説ではこうだ。
 「五」は五大(五つの宇宙元素)の「五」、「輪」は「円」、円満具足、一切の徳を具えるの意。したがって、五大が一切の徳を具備し、円輪周辺して欠けるところがないこと。これを基本にして以下のような意味となる。
 (1)宇宙元素。「五大」。すなわち、宇宙万物を構成する五元素、地・水・火・風・空の五つをいう。「五智輪」とも。
 (2)ミクロコスモスとしての身体。地・水・火・風・空を人体に配して、空を「頂輪」、風を「面輪」、火を「胸輪」、水を「臍輪」、地を「膝輪」とする。これはインド思想。
 (3)「五体」。両臂、両膝、頭の5部位の、すべて円形なるところから、その五つを指していう。
 (4)「五指」。五本の指を小指から順次に地・水・火・風・空に擬していう。
 右図のような石の墓を見たことがあろう。五輪塔、五輪卒都婆〔ごりんそとば〕と呼ぶ。卒都婆とは梵語ストゥーパで墳墓のこと。
 日本では大して旧くはなく、平安中期密教系仏教で導入された形態であり、鎌倉期以後になると、他の諸宗でも使うようになり、墓に限らず記念碑の形態として一般化した。
 この形態の特徴は、単体ではなく、五つの構成部分に造ったものであること。すなわち、方(四角土台)・円(球形)・三角(笠形)・半月(半球)・団(擬宝珠形)の五つの形態要素、それを、それぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあて、下から組み建てる。多くはその表面に五大の種子〔しゅじ〕という梵字を刻む。「五輪」というと、まずこの五輪塔がイメージされなければならない。
 『五輪書』はかくして、地〔ち〕・水〔すい〕・火〔か〕・風〔ふう〕・空〔くう〕の五巻からなる書である。これ自体に哲学的意味を見い出そうとする読みもあるが、そうではない。
 この『五輪書』の名について言えば、もともとそういう名ではなかった。現在までに知られている早期の周辺文書には、五巻の書とか、兵書五巻とか記していて、『五輪書』という名を記さない例が多い。ここから、武蔵自身はこれを「五輪書」と呼んだのでもないし、考えたのでもでもない――という結論は、一応可能である。
 ところが、本文に地水火風空の五巻にするとあるから、もともとこの地水火風空の五元素を各巻のタイトルにするつもりだったらしい。地水火風空ということになれば、当時の連想では五輪塔である。そういう連想のあることを前提にして、こんな五巻タイトルにしたのである。
 宮本武蔵は死を前にして、五巻の兵法書を書き残すことにした。それゆえ、『五輪書』は、ある意味で武蔵の墓碑なのだ。書物としての墓である。こういうあたりは面白い人だった。

 『五輪書』は兵法書である。むろん兵法とは、現代的に言えば、戦闘術(martial arts)のことである。兵法は、他の用例では戦略でもあるし戦術でもあるが、武蔵の語法では戦略でも戦術でもない、やはり戦闘術なのである。
 したがって兵法書『五輪書』は、ずばり、戦闘術の教本である。哲学でも人生訓でもない、実戦/実践的な戦闘術の指南書、教本である。
 この点、誤解があってはならない。武蔵は人生や哲学を説くためにこれを書いたのではない。いかにして敵を倒すか、相手を殺すか、という技術を教えるために書いたのである。
 オリジナルの『五輪書』、武蔵自筆本は存在しない。他方、現存する写本は数多い。五巻の巻物の形態をした書物もあれば、他に、巻子本ではない冊子形態の写本もある。それぞれの写本の書写時期には前後がある。
 しかしいづれにしても、地水火風空の五巻構成であり、他の兵法書と比べるに、分量はかなり多い。それだけに異例の兵法書である。
 なぜ、分量の多い長いものになったのか。
 通例は兵法書は基本的に目録要旨だけを記し、後は口伝である。そこから奥義という神秘的な秘密が存在するかのような風が生じた。しかし武蔵は、口伝も含むが、概ね、世間に秘匿すべき奥義など存在しない、というオープンなスタンスをとっている。したがって、この戦闘術教本も異例の長さになったのである。
 さて、我々は以下、その『五輪書』を読んで行くことにする。
 この書巻こそ「最後の戦闘者」としての武蔵の遺言であると同時に、稀有な戦闘思想家としての彼の肉声の聞かれる書物である。
 武蔵から人生訓を引き出そうという、さもしい根性の解説書の多い現代、武蔵の思想はある意味で読まれていないに等しいのである。また、「男のロマン」といった目も当てられないほどセンチメンタルな無惨な読み方も後を絶たない。
 我々の方法は、可能な限り武蔵の原思想に近いポジションで、これを読み通すことである。武蔵は何を考えていたか、そして畢竟、武蔵とは何者なのか――それが我々の読解の焦点である。

五輪塔の構成



五輪塔 伝梶原景時墓
淡路島南淡町




武蔵碑 宮本伊織建碑
北九州市小倉北区赤坂



九州大学蔵
吉田家本五輪書


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