宮本武蔵略伝年譜
武蔵の生涯とその時代を概観する

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生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。われ三十を越て跡をおもひミるに、兵法至極してかつにハあらず。をのづから道の器用ありて天理をはなれざる故か、又ハ、他流の兵法不足なる所にや。其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。それより以來は尋入べき道なくして光陰をおくる。(五輪書・地之巻)
 宮 本 武 蔵   略  伝    Next   総合年譜 

   出身・少年期   無敵の兵法者   大坂陣・播磨時代   晩年の九州   死とその後    文武二道   

 宮本武蔵(1584〜1645)は、どういうわけか、日本では史上最も有名な人物の一人である。なるほど、彼は、最強の兵法者の一人であり、同時にすぐれた芸術家であった。いわゆる「文武両道」の模範のような存在であった。それゆえ、彼を、いまや近代化によって喪失されてしまった、日本文化を体現した代表者の一人とする評価も依然としてある。
 彼の著作に『五輪書』〔ごりんのしょ〕(1645年)があり、この兵法教本は、戦前から手軽な文庫本にもなっていて、今なお広く読まれている。また、彼は絵画や書に長けた芸術家で、その作品は、現在に伝えられている。彼の絵画のうち三点は、国の重要文化財となっている。
 宮本武蔵は、18世紀以来、歌舞伎・浄瑠璃等演劇の主人公となり、大衆的人気を得た。また演劇が読本(よみほん・小説)に翻案されて、ひろく読まれた。その結果、武蔵は伝説的英雄となるに到った。今日でも日本人は宮本武蔵が大好きのようで、小説やコミック、映画やTVドラマなどさまざまなメディアで武蔵を主役にした物語が頻繁に製作されている。
 そのように、長らく、続々と新しい宮本武蔵物語が出現する状況であったから、人々の間では、武蔵について、虚構と事実の区別がつかなくなっている、という興味深い現象がある。虚構が事実を凌駕し、さらには虚構が物質化されて、新造の武蔵「遺跡」まで現れるという始末であった。
 ここでは、そのような虚構と事実の区別がつかなくなっているという状態から、宮本武蔵の伝記的事実を救抜し、現存する武蔵関連史料の範囲で、典拠に遡って、何が事実として認めうるか、何がたんなる伝説にすぎないのか、それを明確にして概略の伝記を記そう。とくに、約百年前に書かれた書物(『宮本武蔵』宮本武蔵遺跡顕彰会編・1909年)に発する謬説がいまだに無批判に信奉されている現状なので、以下に、我々の近年の研究成果に基づいて、それらの指摘と訂正を行なっておく。
 なお、ここで示すのは、別ページの「宮本武蔵総合年譜」とともに、あくまでも武蔵の生涯を概観するための「略伝」であって、我々の所説詳細については本サイトの諸論文を参照されたい。また、ここでは、一般向け武蔵案内という性格から、年号は西暦表示にしたが、月日は史料のまま当時の旧暦、年齢は数え年としたことをお断りしておく。

史的背景――戦国時代とその終焉
 日本は古代から天皇が統治する国であったが、12世紀末武家政権が誕生したことにより、以来7世紀にわたり、京都の天皇は傀儡となり、実権は将軍(武家の頭領)が掌握するようになった。
 その後、14世紀に、天皇方勢力が政権奪回を図ったが、短期政権に終った。その内乱の結果、新たに覇権者となった足利尊氏(1305〜58)が幕府を京都に開き、子孫代々将軍職にあった。
 しかし、足利将軍の政治権力は弱体で、有力な諸大名が独立勢力となって対立しあうようになった。1460年代には、諸大名がそれぞれ生き残りを賭け領土的野心をもって抗争する、百年に及ぶ内戦の時代に入った。これを「戦国時代」と呼んでいる。
 とくにこの時代に注目されるのは、「下克上」という動きである。家臣は主君に忠実ではなく、主君を排除して自ら主人になった。また、武士の家系ではない者でさえ、合戦戦略の才能があれば領主になることができた。このような実力主義の「下克上」は全国にみられ、古い武将の家系は滅び、成り上がりの新興の武将が多く出現した。
 そのなかでも最も才能と幸運に恵まれた者が織田信長(1534〜82)である。彼は尾張の小さな領主の家系であったが、長い戦国時代で疲弊した古い諸大名を次々に合戦で破り、次第に勢力を拡張した。
 しかし信長は、その野心を実現する事業を推進する途中で、部下のクーデタにより死亡してしまう。その後、信長に属した武将間で勝ち残りのための合戦があったが、最終的に信長の後継者になったのは、羽柴秀吉(のち賜姓豊臣 1536〜98)である。彼は農民階級出身であったが、軍略に長けた特別な才能を信長に認められて、大名にまで成り上がった人物で、いわば戦国時代の典型的なヒーローである。
 秀吉は、信長がやりのこした事業、すなわち全国統一に向けて動き出した。秀吉は有力諸大名と同盟し、かれらを味方につけた上で、四国、九州、関東を制圧し、実質的な覇権を確立した。秀吉は、大阪城に最大規模の壮麗な城郭を建設した。
 宮本武蔵が生まれたのは、秀吉が全国統一事業に向けて諸方に軍勢を派遣しようとする時代である。そのころ、武蔵が生まれた播磨国は、秀吉とその親族の領国になっていた。
 秀吉は、政権を掌握し独裁者となったが、将軍になることを避け、天皇制官職の最高位である関白、太政大臣に就任した。彼は非武士階級の出身であり、むしろ貴族となることを選んだ。それゆえ、このとき12世紀末以来の武家政権はいったん中絶したといえる。たしかにこのとき、幕府も将軍も存在しなかったのである。
 秀吉の領土的野心は日本に限定されなかった。彼は朝鮮半島へ軍勢を派遣し、まず朝鮮を掌握しようとした。しかしこの侵略プロジェクトは、朝鮮人の抵抗や明(中国)の軍隊の参戦により、早々に挫折し、日本軍は朝鮮半島から撤兵した。秀吉はそれに懲りずに、再度朝鮮へ派兵したが、その最中に彼自身が死んでしまう。この結果、日本軍はすぐさま朝鮮から撤兵した。諸大名はこのコストの大きい戦争を望んではいなかったのである。しかし、この秀吉による朝鮮侵略は、朝鮮人とその社会に甚大な被害をもたらした。
 秀吉没後、実権を握ったのは、徳川家康(1542〜1616)である。彼は秀吉の家老の一人であったが、政略に長けていた人物である。かつて秀吉に属した諸大名が、二派に分かれて決戦に及んだ関ヶ原合戦(1600年)では、家康は勝利をえた側のリーダー格であった。
 しかしこの戦争で、家康は実権を完全に掌握したわけではなかった。それは、15年後の大坂夏の陣(1615年)での勝利まで、待たねばならなかった。
 関ヶ原合戦から大坂合戦にいたる15年間は、大坂と江戸の二重権力状態であった。家康は秀吉と違って将軍職に就任し、江戸に幕府を開設した。しかしまだ大坂城には、秀吉の遺児・秀頼がいて、諸大名はいずれ秀頼がトップに立つと考えていた。その間に、家康は武家の頭領(将軍職)であることを活用して、次々に諸大名を味方につけたのである。
 1615年の大坂での戦争の結果、家康は勝利し、秀吉の息子とその母は自殺し豊臣家は滅亡した。ついに家康は実権を確立した。言い換えれば、長い戦国時代とその下克上は、ここに終焉した。家康は最後の下克上を演じたのである。大坂合戦の翌年、家康は死んだ。
 大坂戦後、諸大名の再組織化と配置転換が行われ、日本国内は平和と秩序の時代に入った。武士たちは、もはや「武」のみで生きる時代ではなくなった時代である。武蔵は、それゆえ、戦争と平和の二つの時代を生きた人である。
 宮本武蔵は、このとき年齢三十代はじめ、壮年である。彼は十代から二十代まで、多数の兵法者を相手に決闘勝負を行なってきた。彼は無敗のままだった。そうして大坂合戦の前に、彼はすでに決闘勝負は卒業し、以後は「事後」の自己修行につとめるようになった。五十歳頃、彼はようやく納得できるものをつかんだ。それから後は、もはや探求すべき道もなくなって…というのが『五輪書』の武蔵の回顧談だが、ともあれ、彼の生涯を最初から追ってみよう。武蔵はどんな人生を生きたのか?








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