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宮本武蔵略伝年譜
武蔵の生涯とその時代を概観する |
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夫、兵法と云事、武家の法也。将たるものハとりわき此法をおこなひ、卒たる者も此道を知べき事なり。今世の間に、兵法の道たしかにわきまへたると云武士なし。先、道を顕して有ハ、佛法として人をたすくる道、又、儒道として文の道を糺し、醫者と云て諸病を治する道、或は歌道者とて和歌の道をおしへ、或ハ数寄者、弓法者、其外、諸藝諸能までも、思ひ/\に稽古し心々にすくもの也。兵法の道にハすく人まれなり。先、武士ハ、文武二道と云て、二の道を嗜む事、是道也。(五輪書・地之巻)
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史的背景
出身・少年期
無敗の兵法者
大坂陣・播磨時代
晩年の九州
死とその後
総合年譜
上に掲げた『五輪書』引用部分で、武蔵は世の人々の「道」について述べている。仏家、儒家、医家に道がある。歌人、数寄者(これは茶人などをいう)、弓術者、その他、諸々の芸能にも道があり、思い思いに稽古し、それぞれ心に好く、つまり深く心を寄せる。
それがこれら諸々の職業のあり方、生き方である。専門家、職人としての道の姿である。仏家、儒家、医家も芸能の民だった。武士もまた本来そうした職人であり、芸能者の一種である。このことに注意したい。
ところが、ここから武蔵のアイロニカルな批評がはじまる。武蔵に言わせれば、そうした他の諸職業の人々とは違って、武家で兵法の道には「好く」人、その道に深く心を寄せる人は稀である。これは、今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない、という先にあった批判と対応する言説である。こうした武家の現状は、すでに戦乱終熄後数十年、いわば戦後状況の特徴だったのであろう。
武蔵が言うのは比較論である。他の職業の人々はおのれの道に熱心に努力し、またそれを好くものなのに、武士はそれとは逆ではないか。
そこで武蔵は言う。まず武士は、「文武二道」という二つの道を嗜むことが最も肝要である、と――なぜ文武二道なのか。
それは、通常の文武二道、両道の論とは違う。というのも、ふつうはこれは文化=教養(culture)を欠く武辺者に諭す話である――武張ってばかりいないで、文化的な教養も身につけろ、という話の筋道である。
最初の元和「武家諸法度」第一條、《文武弓馬之道専可相嗜事》とある「文武」の文字にしても、近世における文武二道論の根拠とされるが、「武」には「文」が必要だというほどのところである。
これに対して、武蔵の話の方位は反対である。つまり、「武」(militarity)の道を忘れた武士に対する説諭である。文武二道は、それゆえ、「文化」してしまった武士への警告である。
もともと「文化」とは、東アジアでは、暴力的手段に依らない統治、政治支配のことである。本質的に幕藩体制は軍事政権による支配であるが、偃武以後、武士は自身の本質から乖離することによって、文化官僚として生き延びる存在となった。言い換えれば、自身の本質を否定することによってのみ延命しうるという、はなはだ厄介な矛盾を生きる存在になった。
ここでの武蔵の批判を一つの歴史的証言と見るならば、こうした存在へ武士が転化したのは、徐々にではなく、むしろわずか数十年ほどの間の急激な変化であったということだ。
「文武二道」という二つの道を嗜むこと――これは、文化が欠如しているのではなく、文化が過剰になった、武士の「武」がもはや消滅しつつあるという状況を背景にして語られたのである。武蔵が「文武二道」を語るときの、そんな通常とは違うスタンスに注意されるべきである。
武蔵晩年は、すでにそういう時代であった。それゆえに武蔵の『五輪書』は、奥義秘伝書ではなく、あのような普遍的な兵法入門書として書かれたのである。
以下に示すのは、武蔵の「文武二道」の範例、すなわち武蔵が晩年遺した兵法流派について、及び、アーティスト武蔵の美術作品についての、それぞれ基本的な案内である。これを記して武蔵略伝の付録としておく。
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重文 黒田長政大水牛兜

武蔵画 布袋観闘鶏図
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武蔵といえば、二刀流。世間にはそんな固定観念があるが、それは正しくない。武蔵の教えをみれば、二刀流も剣術も、彼の兵法の一部にすぎない。いろいろ多様な道具を使うのが武蔵流である。
また、武蔵が二刀流を発明したという誤解もあるが、武蔵がその「十手の家」を相続した新免無二〔しんめん・むに〕の流儀には、すでに二刀流があり、後世にいたっても無二流は存続し、その二刀術が学ばれていた。また、二刀術そのものは他流にもあり、無二→武蔵の系統に限ったことではない。したがって、武蔵を二刀流始祖としたり、二刀流を武蔵の専売特許のようにみなすのは誤りである。
あるいは、もっと一般的な状況論では、鉄砲の時代になって白兵戦がなくなり、槍や太刀の意義が薄れた、というような事実誤認もある。たしかに鉄砲による死傷者は増えた。しかし、同じ飛道具の弓矢や投石より圧倒的に被害が多いというわけではなかった。鉄砲が戦争形態を変えたというのは、新兵器を過大評価する近代の神話である。
武蔵が『五輪書』に書いているように、鉄砲が有効なのは、対陣距離があるばあいに限る。鉄砲は前哨戦なのである。鉄砲の弾は竹製の楯で容易に防げた。しかも鉄砲の弾はすぐに尽きてしまう。大坂陣や島原陣のような後の合戦でも、やはり決戦となると白兵戦である。日本式では、騎馬武者も馬から下りて槍や太刀で戦う。それが実戦である。それが分からなければ、19世紀半ば幕末になって、新式の銃や大砲もあるのに、なぜ剣術が再び盛んになったか、それも理解できないだろう。
武蔵流兵法の教えは、型などお構いなしの有構無構で臨機応変、あくまでも実戦における戦闘法にある。ただし、ラディカルなものは、何ごとであれ、承継されることは稀である。武蔵以後は、いかにも武蔵流の形式化、凡庸化は避けられなかったようである。
今日一般に知られている「二天一流」は武蔵晩年の流派名。ただし、『五輪書』においてさえ、「二刀一流」と「二天一流」という名が混在しているから、武蔵生前には、さして確定された流派呼称でもなかったようである。
小倉の碑文によれば「二天居士」とあるから「二天」は居士号。「二天」と署名した長岡興長宛書状の例もあるから、武蔵は肥後時代以前からこの号を用いていたらしい。「二天」とは、陰陽二つの天体、太陽と月のことである。ただし、「二天一流」であれ「二刀一流」であれ、これは「二にして一」のいわば弁証法的運動を指す語法であって、いささか武蔵の哲学的な好みが顕われた流派名ではある。
しかし、「二天一流」の本場であるはずの肥後においてさえ、一般的には「武蔵流」と称していた。『武公伝』『二天記』という肥後系武蔵伝記を記した豊田氏三代の先祖附(家譜上申書)においてさえ、「武蔵流兵法」と記されているし、十八世紀半ばに設置された熊本の文武の学校・時習館創立当時の記録でも、師範役のリストに志方半兵衛・村上平内の名を登録しているが、これも流儀名は「武蔵流」なのである。したがって、現代のようにあまり「二天一流」という呼称を強調しすぎるのも、実は当時の実態に合わないのである。
もちろん、周知のごとく武蔵の流儀については、播磨や尾張の「円明流」の名が伝えられている。なかには、宮本武蔵守義輕、宮本武蔵守正勝など、後世武蔵に仮託された名もあるが、流派伝承のなかで、武蔵に関する訛伝が生じたものとみえる。十八世紀前期の『武芸小伝』には、武蔵が「日下開山神明宮本武蔵政名流」と号したある。その段階ですでに、かなりの伝説変形が生じていたのである。
武蔵余流は、尾張の「円明流」では、武蔵直弟子という竹村頼角や林資龍から八田知義を介して左右田邦俊に伝わったものが、以後門流展開を見せているし、また彦坂八兵衛から福富三郎右衛門や三枝新八以下に伝わった系統もある。ただし「円明流」が武蔵生前の名称か、となると、それは慥ではない。八田知義以前は、事蹟伝承が不明な点が多い。
その尾張でも円明流とは言わずに「武蔵流」と呼ぶ例がある。他にもたとえば、三河岡崎には「武蔵流」というものがあって、本多家家臣の石川主税が楠田圓石に伝えたものを国分九郎右衛門真恒が学び、本多家中で代々相伝され、明治に至って新宮彌次兵衛、三橋鑑一郎がこれを伝承した。
それも後世の伝書によるばかりのことで、武蔵本人が「円明流」「武蔵流」を名のったか否か、確証がない。肥前の鉄人流の伝説記事にも、宮本武蔵守正勝が巖流に勝ったあと、「武蔵流」を称したとある。あるいは、その「鉄人流」と伝承内容が近いものに、青木休心が内藤家臣の大井田織部に伝えた流儀があり、以後内藤家中で存続し、これも明治まで越後村上に存続した。これは「時中〔じちゅう〕流」という。
ともあれ、我々が閲覧した範囲でさえ、武蔵に関係づけられた諸流伝書はまことに多い。偽書とまでは云わぬとしても、その多くは後世の変形を蒙った文書内容である。それらの解析は今後の課題である。後学の諸君に期待するところである。
ただし、それらの諸流兵法伝書には「宮本武蔵守」とする例が少なくない。むろん、兵法者としての武蔵の名のりは「新免武蔵守玄信」であって、流祖名の武蔵の氏姓を「新免」ではなく「宮本」とするのは、何れも後世の誤伝である。これを指標として、史料を最初に取捨振分けることが可能である。「宮本武蔵」が巷間有名になって、兵法伝書でも「宮本」でなければ承知できなくなったのである。
さて、下に示すのは、武蔵晩年の肥後時代に発する兵法流派系統図である。したがって、武蔵壮年期の伝系――円明流と呼ばれる播磨や尾張の道統その他――は含まれない。武蔵から五巻の兵書(五輪書)を授与されたという寺尾孫之丞の筋目が正統となるべきであろうが、ご覧の通り、肥後では、寺尾求馬助〔もとめのすけ〕系統の流派数が多い。求馬助の息子たちに兵法師範が数人出て、十八世紀には肥後の求馬助系統が多数派生して隆盛であったことを示す。
ただし、肥後では武蔵流兵法が主流だったというのは、武蔵の有名ぶりに幻惑された錯覚による俗説である。また、求馬助の息子たちの時代に武蔵流兵法が隆盛になったとするのも、当時の事情を知らぬがための誤認である。求馬助の死後、肥後の柳生流が盛行したという状況もあって、元禄期をはさんで二十年以上も、武蔵流兵法は公的な師範役から疎外された。新免弁助が死ぬと、流派断絶消滅の危機もさえあり、冬の時代であった。これを盛り返したのは、求馬助の息子たちの次の世代であり、十八世紀半ば以後のことである。
かたや寺尾孫之丞の系統は、肥後で存続したようだが、求馬助系統のように顕著なものではなく、跡づけるほどの伝系はない。それに対して、寺尾孫之丞の初期門弟・柴任美矩〔しばとう・よしのり〕が、筑前黒田家中の吉田実連〔さねつら〕に相伝した系統があって、これが立花峯均〔みねひら〕や早川実寛を経由して筑前の二天流となって存続した。この伝系は、現存する兵法伝書の相伝証文で追跡確認できる。さらにこの系統から、立花峯均の孫弟子・丹羽信英を通じて、越後で興起し明治まで存続した二天流の道統がある。
そしてまた、柴任美矩は晩年住んだ播州で、姫路城主本多忠国に仕官したことがあり、龍野の多田円明流にも関与し、足跡を残したことを看過できないであろう。筑前の吉田実連や立花峯均への相伝は何れも明石でのことで、柴任の龍野円明流への関与と相前後するものであったことが興味深い。
改めていえば、世間には、武蔵は二刀流の剣術者で、二天一流を称した、などという俗説があるが、それは誤解と謂うべし。二天一流という流儀名は武蔵生前には確定されておらず、その後も一般には武蔵流であった。
また武蔵流兵法は二刀流剣術に限ったことではない。『五輪書』に述べるが如く、二刀は多敵を相手に一人で戦うときの戦術であり、通例は、戦場で片手で太刀を振るための鍛錬であって、そして長短いづれでも手元の道具で勝つ学びである。
また太刀にかぎらず、武蔵門弟の中にも、寺尾孫之丞に五尺木刀の長大な棒刀術あり、塩田浜之助に小具足・棒捕手術ありなどして、武蔵の兵法流儀は剣術のみにあらず。本来、武蔵流兵法は総合的な戦闘術である。ようするに、道場座敷でのゲームではなく、戦場での実戦を想定した武術なのである。
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○ 新免武蔵守玄信 ―┐
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├寺尾孫之丞信正┬浦上十兵衛 ┌多田源左衛門祐久―→多田円明流
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│ ├柴任三左衛門美矩┴吉田太郎右衛門実連┐筑前二天流
│ │ ┌――――――――┘
│ │ │立花系
│ ├山本源左衛門勝秀 ├立花専太夫峯均┬立花権右衛門勇勝 ┌立花平左衛門増昆
│ │ │ │ │
│ ├井上角兵衛正紹 │ ├立花弥兵衛増寿┬立花弥兵衛種貫┴立花弥兵衛種純→立花派
│ │ │ │ │
│ ├中山平右衛門正勝 │ └桐山作兵衛丹英└丹羽五兵衛信英―→越後二天流
│ │ │早川系 渡部六右衛門信行
│ ├槇嶋甚介 └早川瀬兵衛実寛―月成八郎左衛門実久┬月成彦之進実誠 赤見俊平有久他
│ │ │
│ └提次兵衛永衛―橋津彦兵衛正脩 └大塚作太夫重寧―大塚初平藤郷→大塚派
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└寺尾求馬助信行┬寺尾藤次玄高 志方半兵衛之経―志方半七之郷―新免弁之助玄直―志方弥左衛門之唯→寺尾派・山尾派
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├新免弁助信盛┼村上平内正雄┬村上平内正勝┬村上平内正則→村上派正勝系
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│ │ │ └長尾権五郎徒山―高田十兵衛→長尾派
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├寺尾加賀助 │ └村上八郎右衛門正之┬村上大右衛門正保―村上貞助→村上派正之系
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│ └寺尾助左衛門――太田左平次泉露― 野田一渓種信―野田三郎兵衛種勝→野田派
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├寺尾郷右衛門勝行―吉田如雪正弘―山東彦左衛門清秀―山東半兵衛清明―山東新十郎清武→山東派
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└道家平蔵宗成―豊田又四郎正剛
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武蔵は剣術のみにあらず。彼は兵法者(martial artist)というだけではなく、芸術家という意味でのアーティストであった。武蔵曰く、「先づ武士は、文武二道と云ふ二つの道を嗜むこと、最も肝要なり」(五輪書地之巻)。世にいう「文武両道」のモデルは、畢竟、この宮本武蔵である。
武蔵には書画工芸等の作品がある。とりわけ彼の絵画作品は江戸期以来評価が高かった。武蔵画は水墨画が主であるが、鵙・鵜・鴨・鳩など鳥類や、達磨や布袋といった禅画人物像を好んで描いたようである。
画風は、きびしい裂帛の気勢のなかにも、ほのぼのとした情感があり、また諧謔、ユーモアにも事欠かない、というぐあいで、なかなか一言にしては要約できない。そんな多様で幅も奥行きもある武蔵画は、今なお現代人の鑑賞眼を刺激してやまない。
ただし武蔵の画業について、彼が、海北友松〔かいほう・ゆうしょう〕や長谷川等伯〔とうはく〕から直接影響を受けたとするのは、19世紀前期の近世画論以来の説だが、厳密にいえば当を得たものではない。また戦前からしばしば語られてきたことだが、牧谿〔もっけい〕や梁楷〔りょうかい〕など中国画家への参照関係をあげつらい、つい減筆がどうのこうのと教科書的な解説を述べてしまうのも、水墨画の本質を知らないものの如くで、さして意味のない素人談義である。
現存する伝武蔵作の絵画群を総覧すれば、武蔵画の特徴といえるものがある。ひとつは、晩年の寛永末期の作品であっても、武蔵青年期の慶長文化の遺構をとどめていること。さらに、慶長期の前衛的な芸術思潮と手法を十分呑み込んだ上で、水墨画の根源を探るようにして中世の初期日本墨画の諸作品を参照し、いわば古典主義的な回帰を示していること。そして、こうした二つの局面を一つにした特徴によって、武蔵の絵画は、近世初期同時代の他のどの画家にも似ていない、唯一無比の画風を有すること。
かような所見は我々の武蔵画論の一端にすぎない。しかるに、今まで武蔵画について、まともな画論が出たことはなかった。剣禅一如の境地云々という半可通もさりながら、素人なのに上手い、いや、上手いけれどどこか素人臭い、あるいは逆に、上手すぎるから武蔵作ではなかろう、などという低レベルで武蔵画論は終始してきた。まさに嗤うべし。武蔵の「文武二道」は、現代風な素人玄人観念では間尺に合わない。そんな見当はずれや、あれやこれの誤認が横行してきた次第なので、武蔵画の研究は皆無と謂うべく、実はこれからの仕事である。
武蔵作品に「二天」印のあることから、かつて美術のジャンルでは、武蔵は「宮本二天」と呼ばれたりしたことがあった。ただし、この「二天」は画家号ではなく、居士号で、武蔵は晩年からこの号を用いていたらしい。武蔵流兵法では二天流、二天一流という流派名にも取り入れている。武蔵を「宮本二天」と呼んでみせる、そんな陳腐なわけ識り顔は今や少なくなったが、これはもう廃止したほうがよろしい。
現存する武蔵作と伝えられる作品(伝武蔵作品)は50点程度で、決して多くはない。晩年の肥後滞在期に武蔵の画業が活発化したとする説もあるが、そうとも限らない。武蔵は青年期から書画に手を染めていたふしがある。そうしてみると、全国に散佚した武蔵作品の数は相当数あったことになろう。言い換えれば、想定しうる武蔵作品の数からすれば、現存作品はあまりにも少ないのである。絵画もさることながら、書と工芸作品は、まず全滅のようである。惜しむべし。
かような次第なので、わずかに残った現存作品群から武蔵芸術全体を論じうるはずがない。それゆえ武蔵芸術論は、それなりの節度とそして勇気を要求されるのである。後学の諸君はこの点に重々留意されるべし。
同時にまた、武蔵作品が有名であるだけに、贋物も大量に生産されてきた。それゆえに、武蔵作品にはつねに真贋問題がからんでくる。現存作品にも武蔵作と断定しうるものは少なく、武蔵書画研究は今後の課題である。
現在武蔵作品として伝えられているものを、真贋不問で掲げれば、以下のようなものがある。 *下記の読み方が不明な人は、作品名を左クリック!
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