武蔵の実父は不明だが、彼の義父というべき者あり、十手の兵法者・新免無二〔しんめん・むに〕である(1)。
新免無二は、将軍・足利義昭(1537〜97)の命で、京都の兵法者・吉岡と試合し、勝ちをおさめたという。つまり、吉岡は代々、足利将軍の師範であり、「扶桑第一兵術者」(日本一の兵術者)の称号があった。足利義昭は、新免無二を召し出し、吉岡と兵術の勝負を決すことを命じた。勝負は三本勝負で、吉岡が一度勝ち、新免は二度勝った。このため、将軍は、新免無二に「日下無双兵法術者」(天下に二人といない兵法術者)の号を与えた、という伝説がある(1)。
日本一とされる兵法者・吉岡を破ったとすれば、武蔵の義父・新免無二は相当な兵法達人であったことになる。また実際に、無二流は後世まで残ってもいる。ただし無二の吉岡戦は、史実かどうか決め手はないし、伝説の色合いが濃い話である。だが、武蔵が死んだ直後にすでにこうした逸話が存在していたことは、認識されてよかろう。
武蔵養子の伊織が記した史料には、武蔵が後嗣なくして死んだ新免の家を相続したとある(2)。これによれば、新免無二には生前実子も養子もなかった。彼が死んでいったん彼の家は断絶したのだが、その後武蔵が彼の家を継承して再興した、という経緯がうかがえる。
したがって、新免無二は武蔵の義父であるが、養い親ではない。武蔵は新免無二の生前、養子になっていたのではない。むしろ、新免無二は天正年間に筑前秋月で死んだ(2)ということからすれば、彼は遅くとも武蔵が9歳になる以前には死んでいるわけで、武蔵は一度もこの義父に会っていない可能性がある。したがって、武蔵は少年の頃、新免無二から兵法を教えられたとするのは、まずありえないことである。
新免無二は、黒田家に加勢する与力(協力者)であったらしい。1586〜87年ころ黒田勢は九州へ行って戦ったから、このあたりが新免無二が播磨から九州へ移った時期であると思われる。そのころ、多くの播州人が新天地・豊前へ移った。
新免無二が、黒田官兵衛の弟・兵庫助利高(1554〜96)の与力だった、とする黒田家中の伝説もある(3)。ただし、そうだとすれば、それは黒田勢がまだ播磨に居たころからのことで、おそらく、新免無二はすでに播磨で、武蔵の親族と近い環境にいたであろう。「新免」を名のる者だからといって美作人とは限らない。無二は播州人の新免であろう(4)。
新免無二には後嗣がなかった。そこで、武蔵が成人したら、新免無二の家を継がせるとの約束が、大人たちの間でなされていたのであろう。しかし武蔵が成長する前に、無二は死んでしまった。後嗣のない無二の新免家はいったん絶えた。その家を嗣いだのが武蔵である(2)。
では、いつ武蔵は新免の家を相続したか。一家を相続できるのは、当時ふつうは成人後であり、その年齢は早くても16歳前後である。そうしておそらくその頃、所定の約束通り武蔵は新免無二の兵法家を継ぎ、氏は「新免」を名のるようになった(5)。
武蔵の『五輪書』によれば、16歳の時(1599年)、但馬国秋山という兵法者に勝ち、また、それより3年前(1596年)に、新当流の有馬喜兵衛を打破っている(6)。とすれば、少年武蔵は早くからそうした兵法の天才をあらわし、無二の兵法家(7)を継承する資質と資格が十分にあることを証明していたのである。
なお、この新免無二を、美作の「平田無二」と同一視する説があるが、これは根拠のない謬説である。九州筑前で死んだ新免無二と、美作で死んだ「平田無二」は明らかに別人である(8)。
新免無二は、宮本武蔵の「父」ということから有名になり、早々に伝説の人物になってしまったようである。しかも、「宮本」武蔵の父親なら「宮本」氏でなければならぬというわけで、「宮本無二之助」という奇怪な姓名が彼に与えられてしまった(9)。また一方で「宮本無二之助」「宮本無二斎」が発行した免許状まで出現するようになった(10)。
あるいは、この「宮本無二之助」を新免氏に訂正した「新免無二之介」という名も出るようになった。これは、肥後系の武蔵伝記の事例。小倉の碑文が記すように、新免無二の「無二」は号である。とすれば、これは武蔵が「二天」を号したというのと同じことで、「無二之介」という俗名はありえない。それは武蔵を「二天之介」と呼ぶのと同じ仕儀である。この点では、無二を「新免無二之介」とする肥後系武蔵伝記は、明らかに後世の伝説による踏み外しである。ともあれ、新免無二の名ほど、後世いじりまわされた名はないのである(11)。
(1) 武蔵養子の宮本伊織が1654年に建碑した、武蔵記念碑「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士碑」の碑文。通称「小倉碑文」。小倉市内の手向山公園(北九州市小倉北区赤坂)に現存。武蔵研究のプライマリーな史料。
(2) 泊神社棟札。武蔵養子の宮本伊織撰文による板書(1653年制作。兵庫県加古川市の泊神社に現存)。伊織はこの棟札では「余」という一人称で記している。小倉碑文と同じく武蔵研究のプライマリーな史料。
(3) 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』(立花峯均著 1727年)。本書の武蔵伝記は「兵法大祖武州玄信公伝来」というタイトル。著者の立花峯均(1671〜1745)は筑前福岡の黒田家家臣で、筑前二天流第5代。また、寧拙本『南方録』でも知られる茶人。
(4) 新免氏は美作国吉野郡の名族だが、新免無二の家は不明である。上述の『東作誌』をはじめ美作側史料の記事には、「新免無二」という名の人物は存在しない。ちなみに、当時の戦乱の中で美作の人々が播磨へ流れてきていたという状況がある。それゆえ、時期は不明だとしても、新免無二の家も播磨に流れてきた家である可能性がある。類似の事例は「黒田二十四騎」の菅六之助正利(1567〜1625)の家である。菅氏は新免氏以上の美作の顕氏だが、菅六之助の家は父祖の代に播磨に流れて、揖東郡越部に居ついた。菅六之助はそこで生まれた。無二の新免家も、これと同じく美作を退転して播磨へ流れてきた家であろう。新免氏の末裔は今でも播磨にある。菅六之助が「新免無二助」に剣術を学んだという伝説もある(菅氏世譜)が、それはともあれ、新免無二は、美作ではなく播磨の新免氏で、播磨西部の揖東郡あたりに居て、この菅六之助や武蔵の一族と近い環境にいたのであろう。
(5) 以後、兵法者としての武蔵の正式な名は「新免武蔵守藤原玄信」である。これに対し「宮本武蔵」は後の通称である。武蔵生前の同時代史料として、儒学者・林羅山(道春)による新免玄信像賛がある(林鵞峰他編校『林羅山文集』1662年に収録)。これには「剣客新免玄信」とあって、「宮本武蔵」という通称とは別の、兵法者としてのフォーマルな名称だと知れる。なお、「藤原玄信」とある藤原姓は、新免氏が藤原北家の徳大寺実孝(1293〜1322)を元祖とする家系だからである。これに対し赤松氏は村上源氏の筋目、ゆえに赤松系諸家は源姓を名のる。
(6) 『五輪書』地之巻。ただし、場所は記していない。小倉碑文は、有馬喜兵衛とは播磨で、秋山とは但馬で、と対戦場所を記す。いずれにしても、場所は播磨周辺との口碑があったのであろう。とすれば、かりに武蔵が児童期九州で育ったとしても、遅くとも13歳までには播磨に戻っていたのである。おそらく武蔵は、播磨になお所縁の者があったのであろう。なお、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』は、有馬喜兵衛との対戦を詳しく記す異例だが、これは明らかに筑前における後世の説話である。
(7) 小倉碑文に記す「十手の家」。無二の十手術は、両手に武器をもつ兵法で、武蔵の二刀流の原型とみなしうる。この小倉の碑文から、武蔵が二刀流を発明したように解釈する傾向があるが、無二流そのものは、すでに二刀流であったらしい。これは、武蔵伝記では『丹治峯均筆記』にも記すところである。つまり、「無二は十手の妙術を得て、その後、それを二刀に移した」とある。他方、尾張の聞書集『昔咄』(近松茂矩著 1738年)にも、福留三郎右衛門が「新免無二流の二刀」を学んで、その結果柳生流を捨てた話が出ている。したがって、武蔵が相続した新免無二の兵法家には、二刀術はすでにあった、と見たほうがよろしい。
(8) 新免無二は武蔵の「父」だが、武蔵が彼の家を相続したという関係の、義理の父である。これに対し、『東作誌』は、武蔵は平田無二の子とし、むろん義子だなどとは記さない。新免無二と平田無二の両者は、武蔵に関して根本的に通約不可能である。ところが、近年、武蔵が平田無二=新免無二の養子になって、播磨から美作へ行ったとする珍説が生じた。新免無二と平田無二を同一視し、播磨説と美作説を足して二で割るような杜撰な妄説である。養子だといって武蔵に播磨から押しかけられても、平田無二はとっくの昔に死んでいるし、そもそも武蔵は美作生れだとする美作説論者には迷惑千万な話なのである。
(9) 「宮本無二之助」の初出例は、筑前の海事文書『江海風帆草』(吉田重昌他編)。そこには、武蔵の父は「筑前国宮本無二之助」で、武蔵は筑前産だという珍説を記す。17世紀後期、元禄以前には、こんな伝説も生じていたのである。同じ筑前の武蔵伝記『丹治峯均筆記』(立花峯均著 1727年)は「宮本無二」とするが、これは明らかに『江海風帆草』にみられる筑前の伝説の影響を受けている。しかし、小倉の碑文には「父新免、無二と号す」とあり、あくまでも「無二」は号である。「無二之助」のような通り名・仮名の類いではない。「無二之助」は、宮本武蔵を宮本「武蔵之助」にしてしまう読本の傾向と同じ、巷間俗説による名である。武蔵の養子伊織が記した泊神社棟札(1653年)によれば、武蔵の代から「宮本」姓を名のるようになったという事実がある。それゆえ、新免無二が「宮本」を名のるわけがない。新免無二を「宮本」姓にした文書は、それを知らずに書かれた後世の作成物である。
(10) 当理流免許状。これには三種あって、いずれも発行年は慶長年間を記し、「宮本無二助」(生駒宝山寺本)、「宮本無二斎」(肥後安場家本)、「宮本无二介」(肥後朽木家本)という相互に統一性を欠く記名と「藤原一真」という共通名を有するもので、むろん手跡が異なる。とくに肥後の二点は後世の捏造物であろう。これら免許状の「宮本無二之助」の原型になったと想定しうる、鉄人実手流の青木鉄人系統の文書(円明実手流家譜并嗣系)にみえる「宮本無二之助一真」(1570〜1622)は、河内(現・大阪府)の人で、世代も異なり、新免無二とは明らかに別の人物である。したがって、この当理流免許状の発行者がかりに実在の人物だとしても、新免無二と同一視できる余地は、まったくない。
(11) 肥後系武蔵伝記の『武公伝』(橋津正脩他著 18世紀中期)、『二天記』(豊田景英著 1776年)。こちらの名は、「新免無二之介信綱」。この「信綱」という諱の出所あるいは典拠は不明。肥後では当理流の伝書なるものがすでに出ていたようで、筆者はそれによって武蔵の「父」を当理流の兵法者と誤認している。この「新免無二之介」は、あきらかに当理流免許状の「宮本無二之助」名を新免氏に修正した名である。またさらに後世の事例だが、宮本伊織子孫の小倉宮本家系譜(19世紀中期)には、なんと「新免無二之助一真」と記し、かの「宮本無二之助一真」をそのまま新免に修正した名がみえる。あるいは、近代の武蔵小説でよく出てくるのが「新免無二斎」。嗤うべし。後世続々と出てくるこうした異名の繁殖は、新免無二ご本人には迷惑なことであろう。
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小倉手向山武蔵記念碑

泊神社棟札

新免無二関係地図


秋月城址 福岡県甘木市 「天正の間、嗣無くして 筑前秋月城に卒す」

竹山城址 新免氏3代の居城 岡山県美作市

有馬喜兵衛 武稽百人一首


鉄人流實手捕

当理流免許状 奥田藤右衛門宛 慶長2年霜月吉日 宮本無二助藤原朝臣一真発行
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